481: ◆6yAIjHWMyQ[saga]
2019/07/07(日) 03:41:07.20 ID:ByD7gWb6O
墨に浸かったかのようなK紫色を呈することで、己を実存よりも矮小に演じている木材は、闇に沈む継ぎ目の空間と曖昧な明るさを見せる白太を淡く包み込んで、不規則かつ複雑な模様を描いている。
その模様に足先から沈み溶け込んでしまいそうになる幻想を、スリッパ越しに足裏へ伝わるフローリングの硬い感触がかき消す。
この波状に起こる感覚の変化は、毎日の生活に刺激を与えることになって、居住者を飽きさせないのでしょうね。
私の感覚と知識から判断すると、使われているのはその色味の美しさと耐衝撃性の大きさから料亭や旅館の床板、高級家具材にも用いられるウォルナットかしら。それともウッドデッキに採用される耐水性が大きいウリン?
窓に面していないために微かな反射陽光しか取り込まれず、初春の午前十時にしては暗い。そんな幽々たる廊下を縦一列で歩く私と二人の提督。
廊下の端へ等間隔に設置され消火器と文字の入った方錐形の行燈によって、歩行には支障のない程度の光量は確保されているけれど、夜になれば黒暗に迷うことになりそ、あっ、シーリングライト。心配して損しちゃったじゃない。
でも、そうだったわ。私が心配する事なんて、大抵すでにあなたが手を回していたものね。
第一艦隊の旗艦を任命された作戦の時にも感じ、秘書艦業務の時にはより肌身に感じたあなたの才幹。
蝶を箸でつかむほど正確な立案及び判断の速度、そして交渉術。特に兵站維持を目的とした交渉の場では、相手やそれを取り巻く環境を考慮する多面的視点を駆使していたように思う。
もし私があなたと同等のそれらを備えていたら、いらないと言わずに、艤装の不調の原因が分かるまでは秘書艦としてずっとおいてくれたのかしら。
ふぅっ、と思わずため息をついてしまう。駄目ね、私。捨てられたこと、いまだに引きずっているみたい。
かつて臍部に刻まれ、彫り師さんに消してもらった番号と記号のタトゥーが死腔になって壊疽が始まり、子宮を圧迫されるような生理痛とは違う鈍痛を生みだしている気さえする。
生理痛といえば、理想郷への扉を開けに向かった時に念のためにと多く持っていった1相性のLEP(低用量エストロゲン―プロゲスチン)製剤が少なくなってきているから、後で処方してもらわないといけないわね。私の場合、連続服用が上手くいけば月経が3〜4ヶ月に1回になるもの。
戦場では油断、慢心が己の命を喰らう。最前線なら尚更。体調不良を理由に出撃を代わってもらうことはできるが、緊要な作戦時にはそうはいかないこともある。
敵はこちらの事情を汲んで攻撃の手を緩めてはくれない。むしろ好機だと狙い、襲ってくる。だからこういう自己管理は大切なことよ。
……持ってきたLEP製剤、ある意味密輸品よね。
そうだ、受診を兼ねて先生の様子も見にいこうかしら。
この世界だと初診になって既往歴が分からないからスクリーニングが必要になり、半年に1回は凝固検査を受けなければいけないから、その時に先生と偶々会っても仕方ないこと。
なんて。牽強附会よね。あまりに脆く酷い理屈は笑えもせず、ただ己の知識の未熟さを表すだけだわ。
「ため息なんて、どうかしたの荒潮さん。何か悩み事でもあるのかい?」
そんなことを考えていると、右足を軸に反時計回りで鋭く振り返りながら、彼女は烏山提督越しに尋ねてきた。
左腕を伸ばした回転で袖が舞い、赤褐色の枯蔓模様がKの中で揺らめく。そのまま烏山提督に当たると思ったが、しかしその反転を分かっていたかのように、彼はすでに歩みを止めていた。
「雲林院、危ない。前みたいに足を滑らすぞ。」
「そうしたらまた抱きとめてくれるでしょ。これは信頼しているってことだから喜ぶべきだよ、烏山。それで?」
半ば諦め、半ば心配といった感じの小言を、女は揺らめいた枯蔓みたいに適当に流しつつ、黒曜石の瞳を私に向けてくる。次いで烏山提督が反転する。ため息が聞かれちゃってたみたいね。
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