55: ◆PL.V193blo[sage]
2018/04/20(金) 20:59:40.46 ID:NMaauvKO0
「あん人は、優しいお人ですから。きっとたんまりの幸せをくれる嫁御が出来ます。わっちなんかにかかずらわせて、要らぬ不幸を背負わせるわけには参りません」
それは鯉風太夫ではなく、楓というひとりの少女の言葉なのだろう。
「ですから、わっちは、身請けはされません。あん人にも。年季が明けるまで勤め上げて、あん人の幸せになった姿さ見届けられたら、それだけ瞼に写して、身が朽ちるまで生きてゆきます」
その笑顔が、あんまりきれいなものだったから。
瑞樹天神は言葉を失ってしまった。
「優しいあの人には、刀は似合わねえから。お天道様にぽかぽか照らされながら、お百姓をするのがええ。」
隣にはきれいなお嫁はんがいらっしゃって、あん人に良く似たお子らが遊んどる。
それさ一目、見届けられたら、わっちはそれでええ。
「……なんして」
理不尽や、そう思った。
瑞樹天神は、そう思わずにはおれなかった。
「なんして、そんな理不尽なことを言うの。かえちゃん、アンタ、今まで良いことなんてひとつもなかったでしょう。
もっと自分勝手になってええの。わがまま言ってもええの。なんでわざわざ苦しい方に行こうとするの。そんなん、理不尽よ」
鯉風太夫がどんな苦労をしてきたのか、瑞樹天神は六つか七つの頃から知っている。どんな厳しい目にあっても理不尽な目にあっても、彼女は決して泣いたり嘆いたりしなかった。
人生は不平等だと、彼女たちは骨の髄まで叩き込まれている。他人から与えられるものなど、彼女たちには何もなかった。
この苦界に、夢も希望もなにひとつないという事を、彼女たちはそれこそいやになるほど思い知らされていたのだ。。
それでも、世の中が正負の法則で出来ているというのなら、ひとつくらい、幸せの種があったっていい筈だろう。
誰にでも幸せになる権利がある、なんてお題目が嘘っぱちだったとしても、少なくともこの娘にはその権利があるはずだ。
それを目の前の明るい未来から背を向けて、知れ切った不幸に向かおうとするこの娘の行いは、天神には耐え難い理不尽に思えた。
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