217:何事もなき夏の出来事(お題:ラムネ)8/8[sage]
2016/07/03(日) 22:19:21.04 ID:vx65kHWzo
ビニルの向こうから人影がやってくるのが見えた。黄色い雨ガッパを着ているその影が、ビニルシートを開け
て中に入った。下ごしらえか何かをしていたおじさんは顔を上げて「いらっしゃい?」と言った。
その人物がカッパのフードを脱いだ時、僕は声を上げた。
「お母さん!」
髪の毛を頬にはりつけた顔で、母は目を見開いた。
「あっ、ハヤトみっけ」
店員はそれを見て、わけを察して下ごしらえに戻った。
+
降ってきたのと同じように、雨が止んだもの唐突だった。視界を覆い尽くしていた雨は幕を引くようにあっと
いうまに消え去った。あとには水たまりと、湿った空気と、申し訳程度の星空だけがもたらされた。
雨が降っていたのはちょっとの間だけで、すぐに祭りは再開された。
「お兄ちゃん、顔青ざめてたよ、かわいそうに。責任感じちゃってるの」
「おいてかれたの、僕の方だよ」
僕と母は帰路についていた。祭りの中心を離れ、静かな住宅地を歩いている。どこかの家の庭から、虫たちが
慎ましく鳴いているのが聞こえる。祭りの囃子は、既に遠いものになっている。
僕が迷子になった後(僕はそういう風に言われるのを遺憾に思う)、兄はすぐ家に帰って、母に電話したらし
い。母は予め、何かあった時の連絡先を兄に教えていたのだ。
それから母はできるだけ早く切り上げて、帰って来たという。兄は電話した後、僕と同様に探し回っていたら
しい。それから搜索に加わった母が、先に僕を見つけたということだ。これらのことは思い返せば、ほんの一時
間とか、一時間半くらいのことにすぎない。なんだか随分長い出来事のように思えるので、不思議だった。
家に帰って兄とようやく再会を果たすと、怒るでもなく喜ぶでもなく、鼻から息を吐いて、眉を寄せた変な顔
をした。それはおそらく、僕と同じ表情だったに違いない。今日はいろいろあったけど、これは何事でもない出
来事なのだ。
+
祭りから家に帰るとさっさと風呂に入って寝てしまったその翌日、僕は前日のことを絵日記に描いてしまおう
と思った。しかしよくよく考えると、やっぱり何か起きたようで、何も起きていない。書くことは山岸のこと
か、神輿のことか、雨のことか、思案しながら絵日記帳を開くと、既に絵を描く欄の真ん中に、丸々とした緑色
のカナブンの絵が描かれていた。
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