他の閲覧方法【
専用ブラウザ
ガラケー版リーダー
スマホ版リーダー
BBS2ch
DAT
】
↓
VIP Service
SS速報VIP
更新
検索
全部
最新50
SS「半透明な恋をした」
Check
Tweet
1 :
◆jkwYf2kqc.
:2022/12/25(日) 22:50:48.56 ID:+0YS1G0z0
人は誰しも、思い出を抱えて生きている。
一分一秒と命を燃やし続ける限り、側頭葉には続々と長期記憶が蓄積される。その際受け取った印象が鮮烈であればあるほど、記憶は顕在意識として深く刻み込まれる。
思い出の在庫というものは、各個人によって多い少ないの差はあれども、長い道のりを征く中で一方的に増え続けていくことになる。
思い出の抱え方は人それぞれだ。
地にめり込むほどに思い出を引き摺り回す人もいれば、スノーボードみたく軽々と思い出を乗り回す人もいる。そこには正解も不正解もない。正義に明確な答えがないことと同じなのだろう。
『われわれが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。』
近世に名を上げた作家の一人であるジャン・パウルは、ある著書にこのような言葉を残した。
それはある側面では正しいことだし、もう一方の側面では酷く間違ったことだ、と僕は強く思う。
確かに、僕達は不意に立ち止まって、生き抜く中で必死にかき集めた思い出に浸り、ひと時の慰めを得ることはある。それはまさしく、誰にも干渉されず、また好きなだけ
引き籠っていられる素敵な憩いの場であると言えよう。その意味で思い出が楽園であることに疑いはないし、人が生きる上で、最後の絶対的な拠り所として思い出が君臨することにも異論はない。
だが別方向から眺めてみると、こうも考えられはしないだろうか。
もし、楽園の中に毒林檎が混ざっていたら?と。
楽園に長居すれば、人は必ず腹を空かせてしまう。これ幸いとよく熟れた林檎をもぎ取り、大きな口で瑞々しいそれを齧る。その瞬間、楽園で味わうはずのない苦痛の味が舌先に広がり、
辛抱堪らず顔を歪めてしまう。こんなものは食えたものじゃないと吐き出さずにはいられない。だがそれでは腹の虫は収まらない。そいつを宥めるために仕方なく、僕らはそこを発って食料を探しに行くことになる。
畢竟、他でもない自らが己を追いやる羽目になるのだ。
他の誰かに邪魔されることはないが、楽園であったはずの空間から逃げ出すのは自分自身である。それでも楽園で過ごした束の間の安楽は忘れられない。痛い目を見ると解ったうえで、僕らはまたそこに戻ってきてしまう。
要するに、思い出というものは酷く不合理な両面的存在だということだ。
もちろん、その霧の如く不確かで掴みようのないものをどのように捉えるかはその人次第だ。あくまでも僕はこう考えると言うだけの話だ。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1671976247
2 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 22:58:23.65 ID:+0YS1G0z0
この世界に生を授かって二十年と少し、僕も多くの例に漏れず、山のように思い出を連れ歩いていた。ふと足を止め、振り返りその一つ一つを眺めてみる。
しかし、その大部分は一度も思い起こされることのなかった記憶たちだ。彼らは最早脳の検索が上手く行かないほどに重く埃を被っていた。
そんな腐るほどある灰被りの思い出の中に、一つ、宝石のようにきれいに磨き上げられた思い出が目に映る。改めて手に取ってみると、それは異様なほどに光り輝いていた。ともすれば限界以上に丁寧に磨き上げたせいか、もう元の輪郭が捉えられないようにも見えた。
しかしそれは、この思い出だけが何度となく楽園として機能したゆるぎない間接証拠とも言える。結局のところ、記憶に難色を示す僕もまた、所詮は立派な思い出廃人の一人だった。その果てに待ち受ける結末は必ずこの胸奥を切り裂くことになる。だのに性懲りもなく刹那的な快楽に身を浸してしまう。僕はそういう人間なのだ。
少し、集中力が切れてしまっただろうか。ジャン・パウル作 『目に見えぬ会話』の一節を読み終えると、僕は何気なく窓枠の向こうへ目をやった。
真昼の衛星都市は右から左へと早々に流れていく。僕は何を見るでもなく、茫然とその街並みを眺めていた。列車は単調な律動で上下に揺れている。揺動に合わせて、風鈴が軽やかに音を響かせる。
その穏やかなメトロノームが、自然な流れで僕を遠くの日々へ運びゆく。先程拾い上げた思い出が忘れられず、僕はまた輝きの中を覗き込もうとするのだ。
楽園の誘惑に抗えないことは重々承知していた。大人しく手元の古い書物を閉ざすと、僕は回送列車みたいに頭を空っぽにして、かつての回想に身を投じた。
今から僕が逃げ込む一生の楽園は、十一歳から十二歳までの約一年間だ。
始まりは、湿っぽい夏のある日だった。
3 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:04:46.67 ID:+0YS1G0z0
♦♦♦
名も知れぬ雑草を踏みしめ、左手でひび割れた樹皮を力強く掴む。片脚で力いっぱい踏ん張り、やっとのことで急勾配を登り切る。大きく息を吐き出す。それからすぐ空気を吸い込み、足りない酸素を補う。額から零れる汗が目に入らぬよう袖で拭った。
苦労して登り詰めた上り坂の先には、しかし特別な景色が広がっているわけではない。これまでと変わらない雑多な緑が生え広がっているだけであった。それでも、労力を掛けた分だけ見える世界は美しく見える。眼前に広がる光景を独り占めしようとするも、視界の端には先客が一人、僕の姿を認めていた。
一足早くゴールに到達した褐色の少年に向けて、僕は牽制するように軽く睨みを利かせた。
「今日も俺の勝ちだな」自慢げな面持ちで彼は言った。
「…うるさいな、日向」「たったの三秒差じゃないか。そんなので僕に勝った気でいるのか」僕は言い訳がましく言葉を返した。
日向、と呼ばれた色黒の少年は、僕が幼少期から仲良くやって来ている友達の一人だった。僕よりも頭一つ分背が高くて、肩幅も大きい。子供ながら体格に優れた奴だった。勉強はてんで駄目だったが、そんなものは当時の僕らに必要とされているものではなかった。
「なんだよ、負け惜しみか?」僕の意図を読み取ったらしい日向は、今度は憎たらしい笑顔で言った。
図星を突かれた僕も僕で、何か言ってやらないと気が済まなくなる。だが口を動かそうとした直前になって、今度は隣から二つ分の声が聞こえてきた。
「こっちからしたら、二人共充分速いんだけどな」「明日はお前が勝つんじゃねーの?」
遅れて到着した二人が、息を切らしながらそう言ってくれる。その言葉に一旦の納得を覚えた僕は、くだらない口論を切り上げることにした。この四人の面子で障害物競走の真似事をするのが、最近僕らの間で流行っている遊びだった。
草木は四方八方無秩序に生い茂り、厚い緑に遮られた陽光は不規則な形で大地を照らしている。樹木は蟻たちの移動路になっていて、蝉は至る所から音波攻撃を仕掛けていた。一度この状況を体験すれば、街に戻った時には音の失われた世界に突入したかに思えてしまうものだ。
4 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:10:06.38 ID:+0YS1G0z0
「じゃ、そろそろ戻ろうぜ」
飽きるほどの緑と土色の世界を眺め終えると、日向が肩を回しながら言った。僕ら三人もそれに同調し、今度は木々を足場として活用しながら急傾斜を下っていった。
来たときは汚れ一つなかった衣類は土で台無しになって、或いは枝に引っ掛けて破れてしまったりと、帰る頃には大目玉な状態と化していた。でもそれはいつものことだから、母さんも何も言わずにいてくれるだろう。
噂に聞くと、都会の子供たちは公園やテーマパークなんて場所でよく遊ぶらしい。一方、時代に取り残されつつある山間部の田舎町に生まれた子供にとって、男女隔たりのない一番の遊び場は山だった。
山には川があって、花が咲いて、木の実が落ちて、生き物が溢れている。その大自然の一つ一つが天然の遊び道具で、性別問わずあらゆる子供たちを魅了しているのだ。かくいう僕も同様に、山の虜になっている少年だったというわけだ。
平坦な地形の場所まで戻って来ると、そのまま真っ直ぐ進めば森の出口はすぐそこだった。森と田舎の境目で三人と解散すると、僕は家に帰ることなく、皆に悟られないよう気配を消してもう一度森の方へと向かった。
動機は至って単純だ。次の山登り対決で一等賞を取る為の特訓をしてやろうと思ったわけだ。いつも日向にはあと一歩及ばないのだから、明日こそはあいつを負かしてやりたかったのだ。
5 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:14:44.16 ID:+0YS1G0z0
そんな子供らしい対抗心を燃やしながら、早く移動することだけを念頭に僕は奥へ奥へと森を突き進んでいった。毎日のように入り浸っている森林なのだから、多少の土地勘は持っている、などと過信したのが間違いだった。
もう練習は充分か、と思って後ろを振り返ると、そこはどうにも見覚えのない場所だった。右へ左へと首を振っても、何か記憶に残っている目印が見える訳でもない。目に映るのは、足元に草木が茂り、疎らに雑木が立ち並んでいる光景だけであった。おろおろと変わり映えのない周囲を見回しているうちに、段々とどちらが北で東なのかも分からなくなり始める。そうして方向感覚が失われ、辿って来た道のりさえあやふやになったところで、ようやく背筋には一滴の冷や汗が流れ落ちた。
──山で迷子になったのだ。
幼いながらもそれを認識するには充分過ぎる要素が揃っていた。こうなってくると、山地という場所の持つ意味合いが一転する。身体を伝う嫌な汗と同じように、心の淵からじわじわと何か畏れのような感情が浮かび上がってくる。
右へ行こうか左へ行こうか。その場で立ち往生している間にも日は傾き、緑の地面の上で小さな影法師が縦に伸びていった。迷っても仕方がない、と適当に一歩足を進めた時には、見上げる木々の隙間から薄い橙の色が伺えた。
もう日没までに時間がないと思った。山は上空が林冠で覆われているせいで日照時間が短くなりがちで、実際外はまだ夕方初めであることに、当時の僕が気が付けるはずもなかった。
一人で山を下りるとなると、途端に途方もない孤独感が襲い来る。誰かが傍に居てくれると心地良く感じる森林は、打って変わって凍てつくような空気を醸し出していた。身体中を外側からも内側からも押さえつけられている気分で、日向の鼻につくような笑顔も今は恋しかった。
6 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:17:03.91 ID:+0YS1G0z0
心細い時に限って、蝉しぐれはやけにうるさく聞こえる。しかしその鳴き声は僕を勇気づけることはなく、寧ろ僕こそが世界の異物であると言わんばかりに、彼らは執拗に人間を責め立てていた。
その爆音が心身の圧迫に拍車をかけた。森の出口を目指す足取りは急激に速まる。心臓は大きく乱れ打ち、呼吸が浅くなっていく。しかしいつまで経っても木々の終わりが見える様子もない。言い表せない恐怖に心が屈し、喉から堪え切れない悲鳴が飛び出す寸前のことだった。
そこは、一際大きな古木の聳え立っている場所だった。いつもならその偉大な姿を見上げる余裕があったろうが、僕は無視してそこを通り抜けようとした。
ちょうど大樹から三歩ほど進んだところで、背後から何か物音が聞こえた。
音の大きさからして、小動物や虫が飛び出したわけではなかった。明らかに大自然の規則から外れた音色を、己の聴覚が鋭く捉えたのだ。
たったそれだけのことで蒸れた体温が一つ分下がり、僕の身体は金縛りにあったように強張った。足が杭に打ち付けられたように動かない。その間にも動悸は尋常じゃない速度で激しさを増していく。是が非でもこの場から逃げ出すべく、頭の中では緊急サイレンの唸り声が響き渡った。
とうとう過度に力の伝わった両足が震え、身体は一目散に前へと飛び出そうとした。だが相反するように、背後の謎を確かめるべく頭はそちらに振り返ろうとした。結果、僕は左脚を前に踏み出したまま顔を背後に向けるという、なんとも中途半端な体勢で音の正体を突き止めようとした。
眼球が捉えたのは、全身が黒に染まり切った細長い人型の『何か』だった。
7 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:20:42.38 ID:+0YS1G0z0
思考は遠くへ放り投げられた。僕は愕然としたままに地面に映ったそれを凝視していた。
数秒その状態が続くと、ゆっくりと黒のシルエットがこちらに向かって動き出した。思い出したように顔を上向け、しかし僕はまた固まった。認識した光景が、にわかに信じ難いものだったから。
そこに居たのは、僕と歳が変わらないであろう少女であった。
ベージュっぽくもあり白っぽくもあり、いわゆるアイボリーカラーの薄っぺらいワンピースをその少女は身に付けていた。サンダルか草履か、日焼けを知らないように真っ白な肌は素足にまで露出している。肩に掛かるか掛からないかの長さの黒髪は日差しを飲み込むかの如く光沢のある艶やかさを誇っており、つぶらな瞳は大きく丸々としていて、僕は思わず吸い込まれるように両目を見つめてしまった。まるで彼女が世界の中心であるかと言わんばかりだった。
少女の影が細長く見えたのは、橙色に輝く斜陽のせいばかりではない。背は僕と同じかそれより低いぐらいだが、その柔らかなラインを描く体つきには女性特有の華奢さが秘められていた。その整った小顔にしろ流れる睫毛にしろ、彼女はまさしく、黄金比の体現者であった。
いま目の前にいる彼女は、一言で言い表すのならば、可憐な少女であった。
しかし同時に、僕は彼女にある種の違和感を覚えていた。それはまるで地底で星空を眺めるように、薄暗い路地裏で深窓の令嬢と出会うように、この少女には山という空間がまるで似合っていなかったからだ。
色素が抜け落ちたみたいに透き通った肌をしている清純な少女は、とてもじゃないが森林に入り浸り山を駆け回るような人間には思えなかった。場違いで奇妙で、何処か歯車が一つ分ズレているようで、しかしその全てが彼女のために存在しているような、言わば必然的なシンクロニシティがその場に演出されていた。
8 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:25:25.56 ID:+0YS1G0z0
たっぷり数秒の間、僕は黙りこくって少女に視線を送り続けていたわけだが、対して少女もまた、ただでさえ丸っこい目をより一層丸めてこちらを眺め続けていた。
先に沈黙を破ったのは少女の方であった。ほんのりと桃色に染まった薄い唇が柔らかい動きを見せた。
「どうして君は、こんな場所に居るの?」
周囲にひしめくアブラゼミの鳴き声が、力んだ弓で演奏される擦弦楽器であるとするのならば、こちらは微風に揺られた風鈴の奏でる淡い響きであったとでも言えばよいのだろうか。細く、柔らかく、小さな声量であったが、その声には雑音にかき消されない芯のある張りが感じられた。
それが単なる音の調べである以上に、少女から発せられた言葉であったということを認識するまでにやや間を必要とした。ようやく脳髄に彼女の言葉を反響させた頃に、僕は反射的に答えていた。
「なんでって、山で遊んでたからだよ」
僕は涼しい顔でうそぶいた。山で迷った、などと正直に答えるのは恥ずかしかったのだ。そんなことは知らずに、僕の答えを聞いた少女はその言葉を咀嚼するように瞳を閉ざし、次いで目を細めた。
「そっかぁ。君にとってこの場所は遊び場なんだ」
9 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:28:44.41 ID:+0YS1G0z0
「そっちだって、その口だろ?」と今度は僕が何気なく問い掛けた。
「んー、どうだろうね?」少女はのらりくらりと質問をかわした。彼女は人差し指を立てながら続けざまに言った。
「ね、このあたりから山を下りる近道、君は知ってたりする?」
「いや、知らないな」
今一番欲している情報の手がかりをつかんだ僕は、しかしそれを悟られないよう努めて冷静に言い返した。だがどういう訳だろう。僕が彼女から視線を逸らしているうちに、辺りには鈴を転がすような笑声が木霊した。
「じゃあ、折角だし教えてあげる」「このまま真っすぐ進んで行ったら、森の切れ目が見えてくるはずだよ」くすくすと上品な笑い声を抑えた彼女はあちらに手を向けた。
彼女が指差す方角を忘れぬよう目に焼き付け、「ありがとう。助かった」と僕は短く言葉を返した。少女は間を置くことなく「どーいたしまして」と上機嫌に言った。
脱出経路を確保した今、僕はとにかく山を下りることしか考えていなかった。これ以上得も言われぬ不安感に苛まれるのはごめんだった。電柱でも軽トラでもなんでもいいから、何か人の軌跡を見て些細な安堵を得たかった。
10 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:32:18.03 ID:+0YS1G0z0
助言を皮切りに、僕は彼女に背を向けた。そして草地を一歩踏み出したその時だった。
「あっ」
後方六メートルあたりから、先程の良く澄んだ声が響いた。後ろ髪を引かれるように振り返ると、少女は恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「えっと、君は山でよく遊ぶんだよね?」
僕がその言葉にすぐ首肯すると、「じゃあ、明日もこの場所に来てくれるの?」と彼女は興味深そうにまた尋ねた。
しかし、今度は二つ返事とはいかなかった。闇雲に山を駆け巡った挙句辿り着いたこの場所に、明日もやって来れるのかと問われると、無責任な約束は出来なかった。
「どうかな。それは分からないけど…」
それ故、僕は曖昧な返事をした。途端、少女の表情が僅かに曇ったのを僕は見逃さなかった。なるほど、彼女は山で一緒に遊んでくれる友達がいないのか。だからこんなところに一人でいるんだ。と勝手に納得した僕は「そっちも来るのか?」と試しに尋ね返した。
少女は気恥ずかしそうな笑みを浮かべた。「うん、そんな感じ。だから良かったら、明日も会えないかなー、って」
頬を掻く彼女を眺め、同情心六割、恩返し二割と善意一割、そして残りの一割を合算した結果、僕は浅いため息を吐き出した。
「分かった、約束するよ」
11 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:36:23.11 ID:+0YS1G0z0
了承を受けた少女は、太陽が雲の切れ目から覗いたみたいに表情を輝かせた。その単純な様子を前に、僕は思わず相好を崩していた。緊迫していた神経が僅かに緩み、残りの道中を恐れる微かな気持ちは何処かへ吹き飛んでしまった。「本当!?楽しみにしてるね!じゃ、また明日!」彼女は僕に向けて無邪気に手を振る。同じように手を振り返し、僕は彼女の指差した先を歩いた。
緩やかな山道を下っていくと、やがて森の端が伺えた。その先には懐かしい灰色のアスファルトが垣間見え、それを目にした瞬間、我慢ならなかった僕は飛ぶようにように出口に駆けて行った。
茂った植物を身体ごと突き抜けると、なだらかなカーブの坂道が僕を待ち受けていた。車体で何度も擦られたガードレールは傷だらけになっており、くすんだカーブミラーが西日を反射していた。
やっとのことで人間様がのさばる世界に戻って来たのだ。見慣れた人工物を拝むや否や、身体は一気に脱力した。思わずその場で膝をつきそうになったが、僕はそれを堪えてゆっくりと坂道を下り始めた。
折角山から抜け出せたのに、そこはまた見知らぬ土地だった、などと言うことは起きまい。そのまま道に沿って慣れ親しんだ農道を通り抜けると、僕はまもなく帰路へと着いた。
12 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:41:46.49 ID:+0YS1G0z0
暗く閉ざした瞼の向こうで、眩い朝日が差し込んでいる気がした。眠っているとも起きているともつかない、不明瞭ないつもの寝覚めだ。身体に先立って意識だけが覚醒の手順を辿り始める。身体がそれに追いつくように何度か寝返りを繰り返した。ようやく神経系が起床を把握したところで、僕はゆっくりと寝床で目覚めた。
薄い掛布団を払い除け、蒸れた両足で藺草を踏む。窓に向かって身体をほぐしながら、ぼうっと外の世界の様子を確かめる。
照りつける白い太陽、眼下に広がる青い畑、遠い蝉の声。今日も今日とて、世界は青空に覆われている。
それらを形式的に認識すると、僕は目を擦りながら洗面所に向かった。ぬるい水で顔を濡らし、程よい爽やかさを感じる。床鳴りが激しい階段を降りると、風に運ばれた香ばしさが胃袋を刺激した。
「おはよう。ちゃっちゃと食べちゃって」
匂いに惹かれて居間に辿り着くと、こちらに気が付いた母さんが僕に挨拶を投げ掛けた。もう化粧は完璧に済ませているようで、今は朝の準備に追われているようだ。
一方急ぐ必要のない僕は同じような言葉を返し、食卓にて合掌。天気予報を横目に朝食を食べ進めていくと、徐々に頭が糖分を取り込んでいった。
13 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:46:00.27 ID:+0YS1G0z0
ふと昨日のことを思い出した。というのは、今日はあの少女と遊ぶ約束を交わしたことだ。と同時に、その約束に一つの重大な欠点を発見する。僕は彼女と待ち合わせる時間を決め忘れていたのだ。
一見なんともなさそうに思えることだが、これは深刻な問題だ。いつもの面子で集まるのならば身内での不文律が通用する一方で、昨日であったばかりの少女とはそうもいくまい。メモに残すなどの成文律が必要とまでは言わないが、何かしらの口約束はしておくべきだったろう。幸い集合場所は判明しているが、遊ぶ時間が分からなければ、それだけですれ違いの生じる恐れがあるのだ。
とは言ったものの、では昨日と同じ時間に向かったとして、あれでは日暮れ前で遊ぶ時間が皆無であることは簡単に想像のつくことだ。となると、朝ご飯を食べたらすぐに向かうべきだろうか?いや普通に考えて、お昼頃からなのだろうか?
「食欲ないの?」
形式的な確認の声掛けが、僕を思考の海から釣り上げた。どうやらすっかり箸が止まっていたらしい。時間のない母さんに急かされ、僕は慌てて汁ものを飲み干した。
14 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:50:36.68 ID:+0YS1G0z0
連日晴天が続いており、お天道さまは今日も遮蔽物のない田圃道をこれでもかと照らし出している。数歩足を進めるごとに、路肩の小さな茂みから蛙が飛び退いた。干乾びないよう水田に逃げ込んだ彼らは、残念ながらそこに安息を見出すことはできない。白鷺にとって格好の獲物になることだろう。
あれから少し経った今、僕は昨日辿った細い農道をたどたどしく逆行していた。当然その理由は、彼女との約束を守る為だった。
色々と考えた結果、お昼過ぎというのが一番無難ではないかという結論に落ち着いた。もちろん、遊ぶ時間を示し合わせることを忘れた以上、彼女との約束をなかったことにしてしまうという選択肢もあるにはあった。日向達との遊びであれば、そうする可能性も大いにあり得ただろう。
だが、昨日の独りぼっちな少女の様子を見た身としては、そういう訳にもいかなかった。ようやく一緒に遊べる人が見つかったというのに、期待のその人にまで無視されるなんてことがあれば、いくらなんでもあの少女が可哀想ではないか。誰かを傷付けると解っている上でその行動を選べるほどに、僕は温かくない人間ではないのだ。
15 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:54:12.14 ID:+0YS1G0z0
森の入り口に辿り着いた頃には、シャツはびっしりと汗を吸っていた。太陽熱を直に受ける頭は暑くて敵わない。帽子でも持ってこれば良かった、と思いつつも僕は木陰の多い山に忍び込んだ。
自然のさざめきに包まれながら、妙に覚え易かった山道を登っていく。案外迷うことなく突き進んでいくと、目印の大樹が伺えた。昨日の見間違えだったというわけではないらしい。それは周囲の木々と比べても一段と背が高く、両手を広げても到底抱えられないような太さの幹を持った巨木だった。
しかし、そこに肝心の少女の姿は見えなかった。場所を間違えたとは思えないし、大方彼女は来なかったという結果なのだろう。少しも残念でなかったと言えば噓になるが、その事実に特段何を思うこともなく、僕は踵を返そうとした。
「あっ、来てくれたんだ」
何処からともなく澄んだ声が聞こえてきたかと思ったら、大樹の裏から小さな影が飛び出した。昨日と同じ白いワンピースを身に着けた彼女は手振りを交えながら挨拶すると、昨日と変わらない様子でこちらに笑い掛けてくれた。彼女も今し方来たところなのか、或いは過剰な灼熱から逃れるために古木の日陰で休んでいたのかもしれない。
16 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/25(日) 23:58:56.40 ID:+0YS1G0z0
「こっちだよ」と手招きされた僕は、彼女と同じように木陰の恩恵に預かった。少女は僕のすぐ隣で幹に背を預け、当たり障りのない会話を切り出した。
「随分早かったね〜」
「…まぁ、遊ぶ時間がなくなったらあれだしさ」
その旧友に喋り掛けるような軽い調子を前に、僕は少々言葉に詰まってしまった。目の焦点をあちらこちらに動かしながら、頭を掻いて言葉を返す羽目になった。
何も自慢できるようなことではないが、僕には特別仲の良い女の子はいない。普段行動を共にしている日向達が女子の大グループと対立しているものだから、当然のように僕も彼女らと親身にする機会がないのだ。
だから客観的なことを言えるわけではないし、これは僕の気にし過ぎなのかもしれない。しかしそれを加味しても彼女は物理的にも精神的にも距離が近いと言うか、だがまぁ、一緒に遊ぶ約束をした手前もう友達みたいなものなのかもしれない。
適当な所でそれを割り切った、若しくは自己解決したことにした僕は、そこからは目の前の彼女が日向達であるように振舞った。
「そんじゃ、今から何して遊ぶんだ?」
第一声とは打って変わって、僕が少女の目を見てハキハキと問い掛けた。対して彼女は入れ替わるように視線を下向け、「ん〜…ん〜…」と悩ましそうな唸り声を上げた。それを十数秒続けた後になって、彼女はようやくこちらに目を向けた。
17 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:02:46.17 ID:R2psYaIn0
「君はいつも、何して遊んでるの?」
もしかしたら、彼女もこういう場所で男の子と遊ぶのは初めてなのかもしれないな。質問返しをされた僕は少女に一種の共感を得つつも、何気ない日々の記憶を辿った。
「僕、か。そうだな…僕は普段、虫を捕まえに行ったり、何気なく山の中を巡ったり…後は、最近だと山登りの勝負とか──」
「それ!それにしようよ!」
日向達との下らない時間を言葉にしていると、突如として彼女が大きな声をあげた。僕はびっくりして口を閉ざした。僅かな沈黙が訪れると、少女はそれがさも不思議でならなそうに首を傾げた。
「虫取り?」
恐らく、少女はこちらの言葉を待っている。それに気が付いた僕がそう訊ねると、彼女は小さく首を横に振った。女子は虫が苦手な子も多い。そんな固定観念に僕は落ち着いた。
「…山巡り?」
二度目の問い掛けに対して、彼女はまたも首を横に振った。十中八九で彼女がここで頷き、これから適当に散策することになるだろうと思っていた僕は当てが外れたことに驚いた。
「……山登り対決?」
「うん!競争しよーよ!」
よもや有り得ないだろうと思っていた第三の選択肢を、僕は半信半疑でゆっくりと訊ねた。彼女は清々しいまでの笑顔で首肯した。
まず己の耳を疑った。次いで言語を解釈した脳内を隈なく検査した。そのどちらもに異常が無いことを確かめた上で、最後に少女へと疑心を向けた。疑念の視線をぶつけられた彼女は、何故だか申し訳なさそうな表情を作った。
「…えっと、もしかして、嫌だったりする?」
「いや、嫌な訳じゃない。ただ…その、勝負にならないんじゃないかなー、って」
僕が歯切れの悪い様子で言葉を返すと、少女は心外そうに頬を膨らませた。
遊びの方針を打ち立てた僕らは、適当な斜面を探すために集合地点を出発した。彼女はこの辺りについて詳しいようで、すぐに手ごろな登り坂を見つけ出せた。実際には無いのだろうが四十五度ぐらいありそうな急斜面では、木々がそれに逆らうよう真っすぐ天へと伸びていた。
18 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:07:07.19 ID:R2psYaIn0
「じゃあ、ここのてっぺんまで先に着いた方が勝ちだからね?まぁ、私は負けないだろうけど」
実力を下に見られたのが余程腹立たしかったのだろう。さっきから少々ご機嫌斜めな彼女は隠すことなくこちらに敵視をぶつけ、威勢よく言った。
その言葉に軽く頷き返すと、僕はすぐに勝負のコースへと視線を移した。あの木々を支えにして、そこの岩を取っ掛かりにしようか。といった具合にレースを勝ち抜くためのルートを模索し終えた僕は、準備完了の意を示した。少女も作戦を練り終えたのか、ゴールに視線を固定させながら大きく言った。
「よーいどん!」
せめてカウントダウンぐらい取ってくれ。心の中でそんな悪態をつきながらも、僕はゴール目掛けて勢いよく駆け出した。目星を付けておいた岩を蹴り上げ、左手で太い枝を掴む。似たような動きを何度か続けたところで、目標地点までは後どれくらいだろうか、と僕は視線を上向けた。
今度は自分の目を疑った。何せ、ついさっきまで隣に居たはずの彼女が既に二歩も三歩も僕の先を行っていたのだから。余りの驚愕に足はそれ以上動かず、僕は彼女の動きに釘付けとなった。
一体、あのか細い身体の何処にそんな力が隠されていたのだろうか。彼女は流れるように木々を掴み、平地を走るのと変わらない調子で斜面をトップスピードで駆け続けていた。
圧巻であった。もしや彼女の背中には翅が生えているのかと錯覚するぐらいに、その動きはこの上なく洗礼されていた。その華麗なる舞踊に目を奪われている内に、彼女は瞬く間にゴールへと辿り着いてしまった。
井の中の蛙大海を知らず。当時の僕がそんな言葉を知っている訳もなかったが、知識ではなく実体験としてそれを思い知ることになった。田圃で王者を気取っていた蛙が、大空からやって来た鳥たちに悠々と喰われてしまったみたいだった。
彼女と比べると随分遅れてゴールに到着した僕は、その急こう配に息絶え絶えだった。一方彼女はと言えば息を切らした様子もない。一から十まで彼女の独壇場であったことを痛感し、天狗の鼻をへし折られた僕は何も言えなかった。対する彼女は勝ち誇った笑顔で、こちらに勝利のvサインを見せつけてくれた。
19 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:11:21.91 ID:R2psYaIn0
如何にもわざとらしい様子で煽り文句を頂戴されたわけだが、こうにまでも完膚なきまで打ちのめされては、いつものように負け惜しみをすることさえ憚れた。嫌味のない素直な拍手を送ってやると、彼女は満足そうに頷いてくれた。
山登りで急上昇した心拍数を整えている間、僕はいつもの如く呆然と周囲を俯瞰した。草が伸びて木々が生え渡り、それを蔦植物が覆い隠している。林冠で遮られた太陽光がまばらに差し込み、幾つもの透明なカーテンを作り出している。耳を澄ませば小鳥の羽ばたく音色が反復していて、そのどれもがいつもと変わらない森中であった。
だけど、いつもと一点違っていることがある。普段は聞こえないはずの柔らかな声が、すぐ隣から僕の耳奥を擽るのだ。
「ね。君はさ、この植物が何か分かる?」
透き通った音色と共に、彼女はすぐ足元を指差した。そちらに視線を向けるも、そこに何か目ぼしい草木が見えることはなかった。僕が目配せで疑問を呈示すると、彼女は身を屈めてその植物に触れた。
「ほら、よく見てよ。君も見覚えあるんじゃない?」
20 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:14:19.93 ID:R2psYaIn0
彼女が優しく撫でた植物は、大きな丸い葉が特徴的な、だがどこにでもありそうな背の低い野草であった。それも凛々しく一本咲き誇っている特別なものという訳でもなく、向こうの方にまで群生しているもののうちの一つだ。
再び少女へと視線を向けてみると、彼女は今にもため息を吐き出しそうな表情を作った。「蕗だよ、蕗。ほら、蕗の薹とか聞いたことない?」
ようやく聞き覚えのある名前を耳にした僕は、謎の植物の正体に得心した。「あぁ、フキノトウだったのか。でも、全然見た目が違うんだな」
確かに、フキノトウは頻繁に食卓に並んでいる気がするが、目の前の野草は僕の見知った姿とは似ても似つかなかったわけだ。こちらの疑問の本質を見抜いたのか、彼女は意気揚々とその口を動かした。
「だって、蕗の薹は春の野草だからね。蕗は今みたいな暑い時期に採れるんだよ?あっ、蕗の薹って言うのは、蕾の部分を食べるんだけどさ、蕗は葉っぱの部分も食べられるから、言ってしまえばこの子は二度美味しい山菜で──」
それからも少女は間欠泉のように止めどなく蕗の魅力を語り続けた。僕は適当な相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けていた。それはいつまでも聞いていられそうな語り口だったけれど、ある時、「あっ」と彼女は小さな声をあげた。
21 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:16:39.24 ID:R2psYaIn0
僕と少女の目と目が合う。途端に饒舌であった彼女の口先は固く結ばれ、やがて茹蛸みたいに顔を一色に染めあげた。その分かりやすい様子に僕が笑い声を洩らすと、彼女はしどろもどろに取り乱した。
「ご、ごめんね。わたし、ちょっと夢中になっちゃって…退屈だったよね」少女は取り返しのつかない失態を犯したように目を伏せ、つっかえながらそう言った。
「そんなことない。聞いていて面白かったし、為になった」そんな卑屈が過ぎるとも取れる彼女の言動に、僕は反射的に返事をしていた。
「…ほんと?」彼女は逸らしていた視線を上向け、慎重に訊ねた。「あぁ、嘘じゃない。もっと聞きたいぐらいだ」僕が何の迷いもなくそう答えると、彼女はほっと笑みを零した。
それ以降、登った急斜面を下って元の集合場所に戻るまでに、彼女は森のあちこちを指差しては次から次へとその手の豆知識を披露してくれた。そのあれやこれやについて、僕は子守唄を聞くように拝聴し続けた。
大樹の傍まで戻って来ると、今度の彼女は年季の入った樹木の枝先を指し示した。そこでは、樹皮の茶色に混じって青い蝉が鳴き声を響かせていた。
22 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:19:14.87 ID:R2psYaIn0
「この鳴き声はどの蝉だと思う?」
そいつは蝉の中でも一際高い音を奏で、消え入るような締め括り方をする。そして鳴き始めるのは、大体空が赤く染まり出した時だ。そこまで判断材料が揃っていれば、間違うことなど有り得なかった。
「ひぐらしだろ?」
「おー、正解。意外だったなぁ」
「虫のことには自信があるんだ」
彼女は心底驚いたような表情で、大袈裟に胸を張る僕を眺めていた。もしかせずとも、僕は今日初めて自信満々になれたんじゃないだろうか。山のことに関しては知識でもフィジカルでも敵わなかったけど、昆虫についてまでそういう訳にはいかないぞ、と僕は意気込んでいたというのに、彼女はにやりとした笑みを浮かべて忘れず言ってくれるのだ。
「植物に関してはてんで駄目だったけどね〜」
「そっちが物知りすぎるんだよ」
流れるように言葉を返し、僕らは示し合わせたみたいに小さな笑い声を洩らした。僕は他人事のように、彼女とのやり取りにもだいぶ慣れてきたことを実感した。
これなら大丈夫そうだ、と彼女に対する過度な気遣いを止めたところで、不意に気が付いた。今日一日、何かが欠けているような気がしてならなかったが、ようやくその謎が解けたのだ。
23 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:21:32.60 ID:R2psYaIn0
一度それを意識し始めると、縫い針に糸の通らないようなもどかしさが身体中を撫でた。時間的にもそろそろお別れだろうし、タイミング的にもここしかないのではないだろうか。あとになって訊ねたりしたら、それこそおかしいのではないだろうか。だがなんにせよ、早く訊ねておかなければ。
不思議な強迫観念に駆られた僕が「なぁ」と会話の切り出すと、彼女はこちらに目を向けてくれた。一日一緒に遊んだ上で、今更こんなことを聞くのも奇妙な話だとは思ったが、僕はこう言ったのだ。
「あのさ…君の名前って、なんなんだ?」
思い返せば、僕は彼女の名前を知らないまま今日一日を共に過ごしたわけだ。適当な代名詞で会話を成立させていたが、これからもそれを続けるわけにはいかないだろう。何か理由があるわけではなかったが、僕は僅かに手汗を滲ませ、割れ物に触れるような慎重さで彼女の名を訊ねた。
すると名無しの少女は、ほんの少しばかり身を強張らせた。それはよくよく考えてみると不自然ではあったが、通常であれば気にも止めないような間の置き方とも言えた。だから当時の僕はそれを気にすることはなかったのだと思う。彼女の一足遅れた沈黙は僅か一瞬のことで、すぐに無邪気な笑顔が戻ってきた。
24 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:24:06.10 ID:R2psYaIn0
「んー、なんだと思う?当ててみてよ」
「え?」
唐突な無茶ぶりに、僕は思わず頓狂な声をあげた。現実的に考えて、なんのヒントもなしに名前を正確に言い当てるなんてことは不可能だと思えた。
「冗談だろう?」と僕が苦笑いを浮かべるも、彼女は微笑んだままこちらの答えを待つのみだった。そこから、彼女が自発的に名乗り出るつもりは微塵もないことが良く伺えた。無理だ無理だとは思いつつも、最終的には、僕は彼女の名前を推測することに決めた。
数分か数秒か、彼女とのささやかな交友期間を振り返ると、頭の中には驚くほど流暢に答えが浮かび上がっていた。導き出した言葉は一切つっかえることなく喉奥を通り抜け、だが言葉と化す前にもう一度吟味の機会を得るべく、一旦腹の中に納まった。
反復するように脳内でその名前を呟き、それを目の前の彼女に重ね合わせる。その行為を繰り返せば繰り返すほど、やっぱり彼女にはこの名前が似合うと思えたし、何より一度思い浮かんでしまえば、もうそうであるとしか考えられなかった。大袈裟に言ってしまえば、良く晴れた夜空には必ず星々が煌めくように、その名前こそが世界の理であると、彼女のあるべき姿を証明するに違いないと、僕は疑いなく信じられたのだ。
気づかぬうちに、口の端から彼女の名前が零れ落ちていた。
25 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:27:04.76 ID:R2psYaIn0
「…鈴音…」
その独りごちるような小さな呟きは、蝉しぐれに掻き消されてしまっただろうか。伏し目を上げて少女の方を見やると、彼女は瞳を閉ざし、胸に両手を当てていた。そして口元を緩く綻ばせ、やがてゆっくりと瞼を開いた。
「鈴音…うん、良い名前だね。じゃあ、今日から私は鈴音だよ」
答えの当否には全く触れることなく、彼女は良く分からないことを宣った。一日中振り回され続けている僕は、また振り落とされないよう必死に空間にしがみ付きながら彼女に言葉を返した。
「今日から?」僕の疑問を受け取った彼女は大きく頷きながら言った。
「そそ。せっかく君がくれた名前なんだから──って、もう君じゃ駄目だよね。ほら、君も名前教えてよ」彼女は催促するように僕の目を見据えた。偽名でも使おうか、なんてことが一瞬脳裏に過ったが、結局僕は彼女の要望通りに自らの名を告げた。
26 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:29:06.04 ID:R2psYaIn0
「…千風…だ」
まるで記憶喪失者のように、僕は覚束ない調子で名乗りを上げていた。何故かはわからないが、これまで何度となく自己紹介を繰り返してきたはずなのに、この時ばかりは妙に自分の名前に自信を持てなかったのだ。
不安そうな僕に気が付いたのか否か、「君も良い名前なんだね」と彼女は優しく言葉を返してくれた。その時、僕は不思議と心が温かくなったのを覚えている。その柔らかな声は、往々にしてある心にもないお世辞ではなく、彼女が心から僕の名前を褒めてくれているような気にさせてくれたのだ。
「千風くん、千風くん」と彼女が発音の抑揚を確かめるように数度僕の名前を繰り返している間、僕は先程の言葉の意味について吟味していた。彼女に名前を呟かれる度に背中がこそばゆくて上手く頭が回らなかったが、恐らく、彼女の言い草からして本当の名前はまた別にあるのだろう。要するに、彼女はあだ名みたいなものとして「鈴音」という名前を受け入れただろうと、僕はそんな結論に至った。
だが何はともあれ、この時初めて少女は鈴音になって、僕は千風になったのだ。
27 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:34:46.33 ID:R2psYaIn0
「そろそろ良い時間かなぁ」
彼女は不意と呟き、徐に顔を上向けた。その先に僕もまたゆっくりと視線を移した。木々の隙間から伺えるはずであった青色は、いつの間にか塗装屋の手に掛かっていたらしい。知らぬ間に見事なまでの赤黄色へと塗り替えられていた。その中で一匹黒いカラスが、一日の終わりを告げて回るように空を旋回していた。
一日の初めと終わりを直接繋ぎ合わせたみたいに、今日という日は瞬く間に過ぎ去っていった。もう日照時間が終わってしまうのが名残惜しいぐらいだった。
日が沈むと言うことは、当然僕らにもお別れの時間がやって来るわけだ。まだまだ遊び足りなそうに空を眺める鈴音を見ていると、夕陽をもう一度東側に引っ張ってやりたくなった。何か言葉で示し合わせたわけではないが、僕らはお別れの準備をしていた。大樹を境に僕は向こうへ、そして彼女はあちらへと足を向けた。
「それじゃあ、またね、千風くん」
「ああ、またな、鈴音」
28 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/26(月) 00:39:35.85 ID:R2psYaIn0
そうして確かめるようにお互いの名前を呼び合うと、やがて僕らは離れ離れになった。緩やかな下り坂を辿り、森の切れ目に辿り着いたところで、僕は突発的に二つのことに気が付いた。
気づいたことの一つ目は、また詳細な待ち合わせをし忘れたことだった。しまったと森の方に首を向けたが、僕がもう一度山に向かうことはなかった。なるようになると思ったのだ。実際、今日の僕らは問題なかったわけだから。
そしてもう一つは、僕は彼女の名前を知りたくなったその時から、『また』が確実に訪れるものだと無条件に信じていたことだった。何気なく発見した事実に疑問を提唱してみるも、山のことを知り尽くした鈴音に感心した。だからまた一緒に遊んでみたくなった、程度のことしか思い浮かばなかった。いや実際、当時は本当にそうとしか思っていなかったのだと思う。
とは言え、その時の僕にはそんなことに目を向けるだけの余力はなかった。今はただ彼女の名を忘れぬよう、あぜ道の先に見える大きな斜陽を目指しながら、何度も何度も脳内で君の名を唱え続けていたのだから。
このようにして僕らの一日目は終わりを迎え、続く日々が幕を開けた。
29 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 19:47:14.95 ID:ik+D4jwf0
♦♦♦
それからというもの、陽が頂点に昇り世界が明るく照らし出されると、僕らは毎日のように山中で落ち合った。
鈴音は生ける辞書のように新鮮な知識を溜め込んでいて、度々飛び出してくる智恵はそのどれもが刺激的だった。昨日よりも今日、今日よりも明日と、僕は鈴音から生の情報を味わうと、日を追うごとに彼女と遊ぶことが楽しみになっていった。自室の窓際にてるてる坊主を垂らして、明日も晴れますようにと健気にお祈りするぐらいだった。
だからこそ、瞼の裏を刺激する目覚めの日差しが弱く、加えて一定間隔で屋根を激しく叩く音が聞こえてきた時には酷く気分が落ち込んだ。先ほどほぼ毎日と言ったのは、例えば雨の日なんかは流石に山には入れないからだ。
これが小雨程度であれば、遊び時間の午後までに止む可能性もあり得るだろう。だが傘が押しつぶされそうな程の土砂降りとなると、それも無理な話だった。
その日の雨模様は、まるで遥か天空から何者かにバケツをひっくり返されているかのように勢いに凄味があった。アスファルトの上は曇天を映し出す鏡みたいに雨水で覆われており、歩く度に道路に跳ねた雨粒が足首を襲った。靴下が雨水にやられるのが先か、それとも僕が屋内に逃げ込めるのが先か、なんて馬鹿らしいことを考えているうちに、僕は目的地まで辿り着いた。
30 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 19:57:52.30 ID:ik+D4jwf0
そこでは平屋式の建物が僕を待ち構えていた。横幅は一軒家のニ、三倍以上は裕にあるだろう。何枚もの窓が敷き詰められているのが特徴的で、それは自然採光を意識した結果なのだと思う。もっとも、今日はその目論見も全く機能していないのだが。
重い引き戸を潜り抜けると、館内は薄暗い電灯で照らし出されていた。子供にとってはちょっとした大空間であるその場には、かび臭いのような、それでいて落ち着く香りが漂っている。
豪雨で一層湿っぽかった空気は、空調設備によって快適に保たれていた。辺りを見渡すと利用客がちらほらと伺える。僕も同じように慣れた調子で縦列に並ぶ幾つもの本棚を通り抜けていった。
奥まで行って左に曲がると、そこにお目当ての本棚があった。うちの一つである分厚いその本を両手で抱えると、一目散に休憩スペースへ向かう。こちらはまだ誰も居ないようで、僕は気兼ねなく椅子を一つ占領し、大きな冊子を途中から捲り始めた。空気の流れる音と本を捲る音だけが周囲を湛えていた。もし静けさに音があるとすれば、この空間のことを意味するのだと僕は思う。
31 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 20:04:53.70 ID:ik+D4jwf0
かなり集中していたらしい。知識を詰め込む作業に限界を感じて、僕は一度本から目を逸らした。凝り固まった筋肉を解すように、大きく伸びをして前方を向いた。
そこで気が付いた。僕の前の席に一人の女性が腰掛けていることに。
年は二十代辺りだろうか。その黒縁眼鏡をかけた女性は、肩甲骨まで長く伸びた髪をダークブラウンに染めており、黒いエプロンの上に首から「斎藤」と刻まれたネームプレートを垂らしていた。
周りを見ても、相変わらず休憩スペースは閑散としている。そんな中この人は、何故わざわざ僕の目の前に腰掛けたのだろうか。と自意識過剰とも言える不思議さを覚えるのは、ある意味当然のことだった。
何せ彼女の目的は読書ではないらしく、その証拠に手元には本の一冊もない。彼女は僕の持ってきた本へと視線を移し、次いで僕の顔をまじまじと眺めた。
32 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 20:11:00.24 ID:ik+D4jwf0
「少年、最近よく図書館に来てるね」
よもや話し掛けられるとは思っていなかった。少し低めの声がこちらに飛んできて、僕は大きく瞬きをした。それを目配せだと思ったのか、彼女は続けて唇を動かした。
「溜め込んだ宿題に追われて、自由研究の題材でも探しに来たの?」
そんなことはない。宿題には計画的に取り組んで、今や全ての課題が終わっているのだ。彼女の言葉を否定するように僕は首を横に振った。僕の答えを聞いたお姉さんは、如何にも怪訝そうな表情を作った。
「だったらどうして?そんなに日に焼けた少年は座って本を読むよりも、外で元気に駆けまわる方が似合ってると思うんだけど」
「そりゃそうですよ。でも、こんな土砂降りの中で駆け回るなんて蛙ぐらいですから」
彼女の問い掛けに対して、僕は窓を濡らす雨粒を眺めながらようやく言葉で応えた。
堅苦しい丁寧語を使うのが嫌だったわけではない。高学年となった今、目上の人には敬語を使うことが習慣化していた。だから発声するのを躊躇った理由は、ひとえにここが図書館という沈黙空間であるから他ならない。
しかしお姉さんはそんなことお構いなしに、「確かに、人間様にとっては大雨は嫌なものよね」と感心したように頷いた。
33 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 20:13:49.55 ID:ik+D4jwf0
「ここ、私語厳禁なんじゃないんですか?」
そろそろ手元の本に集中し直したかった。だから僕は痛いところを突いてやったわけだ。
図書館がお喋りをする場所ではないことは周知の事実なのだから、これを機にお姉さんも押し黙ざるを得なかった。という未来を予想していたのだが、現実には彼女はすました顔で言い返してきた。
「あたしはここの司書さんだよ。だから別にいいの」
卑怯な手を使われた気分だった。ネームプレートを誇示するように見せつけてくる彼女に軽い睨みを利かせてみるも、向こうは素知らぬ顔で話をやめようとはしない。「それよりも」と話題を転換してくる。
「少年みたいな子がよく図書館に来るなんてさ、やっぱりちょっと疑問なのよね」
「はぁ」
先程から固定観念が強過ぎはしないだろうか。僕はため息交じりの相槌を打った。
まぁ確かに、彼女の言い分には一理ある。以前の僕が図書館に寄り付くような人間じゃなかったことだけは間違いない。やはり僕みたいな褐色少年が姿勢正しく本を読んでいる姿など、場違いという言葉がこれ以上になく似合ってしまうのだろう。
お姉さんは僕の読みかけていた本の端を指で叩きながら言葉を続けた。
34 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 20:17:03.23 ID:ik+D4jwf0
「毎度毎度その植物図鑑読んでるみたいだし…あれかな?女の子にお花をプレゼントしようとしてるのかな?」
「違います」
脊髄反射であるかのように僕はその言葉を一刀両断した。お姉さんは何とも言えない笑顔を浮かべながら、「ほぉ〜」と良く分からない感嘆を表した。
僕が図書館を訪れ、植物図鑑を読み漁っている理由。また、そもそも僕が図書館に足を運ぶようになった訳。この二つが不可分である事には疑いがなく、その全てに鈴音の存在が関連付けられていることにも異議はない。
平たく言えば、鈴音があんまり山に詳しいものだから、僕は少しでも彼女の知識に追いつきたいと思ったが故なのだ。与えられるだけではなく、偶には鈴音に知見を誇ってみたかった。そして願わくば僕がいつもそうするように、僕は彼女に感心されてみたかった。そんな小さな競争心と羨望を望む感情こそが、僕を似合わない場所へと導いているものの正体であった。
お姉さんがにんまり表情を浮かべている間、僕はそんな風に自らの行動を再確認していた。彼女はようやく表情を戻すと、徐に席から立ち上がった。何処かへ移動する素振りを見せると、手招きで僕を誘導する。それに大人しく着いて行くと、お姉さんは書架から一冊の本を抜き取った。
35 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 20:20:41.17 ID:ik+D4jwf0
「図鑑は借りられないけどさ、こういう本だったら貸し出しもしてるんだよ?」
彼女が差し出した書物を、僕は受け取り数ページ眺めた。さしずめ、それは植物に関する情報が詰まった簡易版辞典のようなものであった。お姉さんの紹介してくれた書物は僕に多大な衝撃をもたらしていた。
目から鱗が落ちた。図鑑以外にも各種植物の詳細が記載されている書物があることなど、僕は今日まで知る由もなかったのだ。本を借りることなく図書館で図鑑を読み耽っていたのは、図鑑が貸し出し対象から外れていたせいだ。この本を借りることができれば、毎朝家から図書館までを歩く手間が省けることになる。夏の怠い暑さに加え、移動手段に乏しかった当時の僕にとっては、その一冊が画期的な発明と同一視されていた。
僕がこの手の本を大変お気に召したことに気が付いたのだろう。お姉さんは続けて似たような書籍を数冊紹介してくれた。僕は彼女に促されるままに受付カウンターに向かい、貸し出しの手続きを済ませてもらった。
初対面で浮上したお姉さんを鬱陶しく思う気持ちは、既に何処かへ拡散していた。心のほくほくした僕が純粋な気持ちでお礼を述べると、彼女はふと目的を思い出したように言った。
「いやいや、女の子にお近づきになろうとしている少年を見過ごすことなんてねぇー。とてもあたしには出来ないかな?」
その性懲りもない様子に一転して呆れを抱いた僕は、その言葉を無視して出口へと進んだ。それなのに「少年、頑張ってね!」とお姉さんは威勢の良い声を背中に飛ばしてきた。
何を勘違いしているのだろうか。僕は浅く息を吐き出し、図書館を後にした。
36 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:02:50.52 ID:ik+D4jwf0
♦♦♦
扉を押し開け外へ繰り出すと、蒸し暑い世界が妙に明るく輝いていることに気が付いた。何気なく光の差す方へ眼をやると、厚い雲の隙間から太陽が姿を見せていた。
どうやらバケツの水はすっからかんになってしまったようだ。てっきり午後も降雨に見舞われると思っていた僕は、空っぽなはずの貯金箱から一枚の硬貨を見つけたみたいに、予想外の雨上がりに喜びを隠せなかった。
雨が止めば山に向かえる。あそこに行けば鈴音が待っている。また彼女から色々を教えてもらえる。
箇条書きのように嬉しいことばかりが脳裏に列挙され、その時が待ち遠しくなった僕は居ても経ってもいられなくなった。
当時の僕の心模様の起伏は、その日の急な天気と似たようなものだったのだろう。秒読みで逸る心に身体が置いていかれないよう、僕はアスファルトに反射する家々の屋根を勢いよく踏みつけながら自宅へと急行した。借りてきた本を玄関前に放置する。居間にいるであろう母さんに向けて「行ってきます」を叫んでから、僕はその足で外に飛び出した。
何度か道を曲がりくねり、水位の上がった田んぼを両脇にあぜ道を駆け抜けた。そのままの勢いで森に突入し、そこからは感覚で山道を辿る。少しばかり斜面を登ると、相も変わらぬ巨大な威容を目が捉えた。
すっかり僕らのシンボルツリーになってしまったその樹木に近寄ろうとすると、やっぱり小さな姿が飛び出してくれる。君の姿を捉えた僕は思わず頬を緩ませた。彼女は変わらない笑顔で僕を迎えてくれた。
37 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:11:54.87 ID:ik+D4jwf0
「晴れて良かったね〜」と鈴音は空の遠くを眺めながら言った。僕も軽く頷き、彼女の傍へ向かう。そこからはここ一、二週間の流れだ。
まずは直射日光を避けるために大樹の陰に隠れ、僕も鈴音も他愛もない話に花を咲かせた。とは言ったが、基本的には僕が話題を振りかけ、鈴音が相槌を打つという形だ。たとえば、今朝の大雨が凄かったとか、青かった稲が黄金に輝き始めてたとか、そんな世間話だ。
だがその合間合間に、地上に降る雨は実は三十分も前の雨粒なんだとか、浮塵子と呼ばれる小虫が稲を食い荒らしてしまうのだとか、鈴音は話の中で付け加えるように説明してくれるのだ。そこには凡そ僕と同じ年代とは思えないような彼女の博識が見え隠れしているから、僕にとってそれは雑談以上の意味を有していた。
満足いくまで話に花を咲かせると、僕らは徐に立ち上がった。
「千風くん。今日はさ、山の中を色々見て回ろーよ!」
鈴音はそう告げると、大樹の裏へと弾む足取りで向かって行った。この辺は彼女の庭であることをこれまでの日々の中でよく知っていた僕は、導かれるようにその後を追った。
地表にまで露出した大きな根に躓かないよう気を付けながら、僕らは大樹から少しばかり離れていく。今までにこちらの方面へ向かったことがなく、奥に進むほど緑の層は厚くなった。森の創り出す独特な昼間の暗がりの中では、地面と木々の茶色がよく映えていた。森はさながら樹海みたいな深さであったが、そこに陰気な雰囲気は感じられなかった。それどころか却って心が穏やかになるような極相林だとさえ感じた。
38 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:15:33.82 ID:ik+D4jwf0
そこからもう数メートル歩みを進めれば、周囲にはいつもの巨木に負けず劣らずの樹木が幾つも横に大きく倒れていた。まるで行く手を阻んでいるような倒木を、鈴音はいともたやすく飛び越えてしまう。あとに続く僕は苔むした樹皮に手を掛け、なんとかそこを乗り越えた。
あれほど大きな樹木たちが役目を終えたからなのだろう。転倒した木々の越えたその向こう側には、輪っかみたいにポッカリと穴の開いた広場が生成されていた。いわゆるギャップと呼ばれる空間だ。
大空に浮かぶ太陽がちょうどその輪の真ん中に入っていて、溢れんばかりの白日がその場に注ぎ込まれていた。辺りを囲む森の薄暗さも相俟って、そこに形成された円柱状の光の障壁は見事なまでのものだった。
その中心には、背丈が一・五メートル程度の若木が一本、凛々しく輝いていた。何か理由があった訳ではないが、先へ先へと移動する素振りを見せていた鈴音の後を追うことを忘れ、僕は立ち止まりその若木を長らく見つめていた。それに気が付いた君はこちらに振り返った。
39 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:18:04.36 ID:ik+D4jwf0
「そんなに気になるの?」
「あぁ、綺麗だなって思ってさ」
思ったままの言葉を返すと、君は何度か瞬きをしてから呑気に答えた。
「まだまだ成長途中だからね。いずれはこの山の主になるんだよ〜」
「それは楽しみだ」
いつかこの小さな木があの大樹を上回るのだと思うと、なんだか大きな自然の循環を感じ取れた気がした。若木を囲む光のベールにゆっくり近づくと、僕は弾かれることなく温かな光に包まれた。本当にこの山の主になれるのかどうかは置いておいて、頑張れよ、という意味を込めて若木を優しく一撫でしてやった。それを見た彼女はくすぐったそうに笑っていた。
「そう言えばあの若木、どんな樹種だったんだ?」あれから少し歩いた先で、僕は不意にそう訊ねた。「内緒だよ〜。千風くんが当ててみたらいいんじゃないかな?」前方を歩く鈴音は足を止めることなく、お得意ののらりくらりとした濁し方で流してしまった。
彼女に言われた通りに脳内検索を掛けてみるも、まだまだ知識の薄い僕では全く見当がつかなかった。そういう訳で、今日も鈴音が要所要所で立ち止まっては自然の素晴らしさを伝えてくれて、僕もまたこれまでと変わらず、彼女の詠う終わりのない叡知を聴講していた。
そうしてあれやこれやとしていると、あっという間に夕暮れが訪れてしまった。鈴音と過ごしている時間は本当に一瞬のように思える。冗談抜きの話で、何者かが時計の針を回していたりはしないだろうか。
40 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:21:55.05 ID:ik+D4jwf0
「早くしないと日が暮れちゃうよ」
「あぁ、ごめんごめん」
足音が途絶えたことに気が付いたのだろう。後ろを振り返った彼女は、動きを止めていた僕をそう急かした。日没後に山地に取り残されるなんて事態はご遠慮願いたい。沈む太陽の速度に負けないよう、僕らはいつもの場所へと足を進めていった。その最中、今度は鈴音が立ち止まった。
再びこちらを向いた彼女は、黙って僕を手招きした。僕が隣にまでやって来ると、彼女は小さな指を茂みへと向けた。
「今日最後の問題だよ。あの花が何か分かるかな?」
鈴音の指差した方向には、茂みに隠れて黄色い花が数輪咲き誇っていた。葉っぱの形は大葉のようで、中心にあるイガグリみたいな黄緑色の球体は五つの花弁に囲まれている。
本来であれば、その程度の情報量では到底その植物を特定できるわけがなかった。だが幸いかな。僕はその姿を見たその時から、花の正体にある程度の見当が付いていた。たまたま今日読んでいた図鑑の右下の方に、これとそっくりの写真が貼られていたからだ。万が一にも間違う気がしなかった僕は、間を置くことなく言ってやった。
「ダイコンソウだろ?」
41 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:24:29.53 ID:ik+D4jwf0
多分僕は、この上なく得意満面答えたのだと思う。だってそうだろう?これまで鈴音には数々の知識を授けてもらって、対して僕は彼女に何を教えてやれたというのか。これは日々の努力が実ったというよりは運の力が勝ったようなものだが、それでもようやく彼女の領域に片脚踏み込めた気がして、僕は鼻を高くしていたのだ。
誇らしげな僕を暫く見つめていた鈴音は、とうとう耐えられないといった様子で大きく吹き出した。それにやや遅れて、僕は今の自分がどれほどに幼稚であるかを思い知った。顔面が大火事になった。彼女はその様子を見てまたお腹を抱えていた。あんまり馬鹿にされて僕が拗ねてしまう前に、鈴音は笑い声を抑え、気を取り直したように言った。
「正解だよ、これは大根草。この時期になったら綺麗な花を咲かせてくれるんだ」彼女は大根草の青い葉をそっと撫でると、今度は優し気な笑顔でこちらに向き直った。
「大根草の花言葉はね、将来有望なんだよ。今の千風くんにピッタリなんじゃない?」
鈴音がにこにことこちらを見やった時、「なんのことだよ」と僕は白を切ろうとした。「大根草に気が付くなんて…千風くん。さては私に隠れて色々勉強してるんでしょ〜?」やはり彼女は僕の嘘をすぐに見破った。
42 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:27:08.01 ID:ik+D4jwf0
「…まぁね」
誤魔化し切れなくなった僕は、左下に視点を置きながら渋々それを認めることにした。それを肯定してしまうことで、彼女にちっぽけな対抗心を燃やしているとか、本当は少し認めてもらいたいと思ってるとか、そういった色んな感情が透けてしまうことが堪らなく恥ずかしかった。
すると鈴音はなんの前触れもなく、真正面から一歩こちらに身体を寄せてきた。ふわりと甘い香りが鼻を擽る。至近距離で見るその宇宙のように深い黒をした瞳に吸い込まれているうちに、僕の頭にはそっと温かい感触が乗せられた。
「えらいえらい。これからもしっかり勉強するんだよ〜」
彼女は目を細めながら、少し背伸びをして僕の髪をわしゃわしゃと優しく撫でていた。
一瞬の硬直、そして退避。自身の身に起こった事象を把握するや否や、僕は条件反射的に後退りしていた。心臓が異常なほどに締め付けられていることに気が付く。身体中からは尋常ではない量の汗が流れ落ちていた。
こんなにも恐ろしい思いをしたのは初めてだった。あれ以上その場に長居しては、身体中が何かに呑み込まれてしまうような気さえしたのだ。
僕が後ろに下がったことで、鈴音の手は僕が居た場所に取り残された。余韻のように動いている手のひらが、寂しそうに宙を彷徨っていた。
43 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 22:29:06.37 ID:ik+D4jwf0
「何するんだよ」親以外の誰かに頭を撫でられるなど、僕の予想だにするところではなかった。未知が故に動揺を隠せないまま僕は目を泳がせた。
「なにって、ちゃんと頑張ったんだからご褒美だよ?」視界の端でしっかりと捉えられている鈴音はあくまでも平常運転で、まるで小動物を愛でるかのような調子でそう言ってのけた。
「別に、そういうのはいいから」脳内を襲った混乱状態も徐々に落ち着いてきたところで、僕は早口で伝えておいた。
「そう?じゃあやめとこーかな」君は僕の気持ちが余り分かっていないようだった。
「そろそろ行こっか」と彼女は何気なく前方を向き直る。その横顔には小さな笑みが浮かんでいたが、僕は頭上に残った君の手のひらの妙なもどかしさにばかり気を取られてしまって、そんなことには全く気が付けなかった。
やがて元の場所に辿り着くと、僕らは手を振り「またね」を交わした。そうして君との一日が終わって、僕は夕陽を見失わないうちに山を出るのだ。
いま思い返せば、「また」が具体的にいつを指すのかなんて、僕らはたったの一度しか約束を交わさなかった。
雨なき日中にあの大樹の傍で。その不文律が既に僕らの間で完成しているのだと、僕はそう信じてやまなかったのだろう。出会った時からそうであったからこそ、僕らには以心伝心に似た何かがあるのではないだろうかと、そんな風にさえ思っていたのかもしれない。
だが結果から言えば、当然の如くそんなわけがなかった。以心伝心であるのならば、僕は鈴音のことはなんでも分かっていられたはずなのだから。訪れる結末を捻じ曲げることは出来ずとも、その過程をより良いものに出来ただろうから。
44 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2022/12/27(火) 22:38:01.90 ID:NWK+yZjS0
導入の記憶のくだりは中々面白かった
ただ気取った文章と、繰り返される似たような文章は目が滑る
少年時代の描写は少年の一人称にそぐわない語彙で違和感を覚えるが
磨き上げられ原型を失った記憶だからだと自己保管
あるいは、物語の根幹に関わるのかもしれないけど
45 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 23:03:59.67 ID:ik+D4jwf0
♦♦♦
毎朝目覚まし時計を設定していると、人は段々とその騒がしい音に拒絶感を覚えるようになる。そのせいなのか、いつからか不協和音が鳴り響く前にふと目を覚ますようになる人は多い。そう言う僕も、ここ数年はそんな調子の毎日が続いている。
僕はそれが、正確な体内時計によってもたらされる良い現象だとばかり思っていた。しかし、実際はその真逆であることを知ったのはごく最近だ。なんでもそれは過緊張と呼ばれるストレスの一種らしく、放っておくとまず精神が、そして次第に肉体が不健康になるらしい。過緊張に陥らないようにするには、睡眠前のリラックスが重要なのだとか。まるで流し見た記事の受け売りだが、気を付けるに越したことはないだろう。
最も、当時の僕に目覚まし機能を使う必要はなかった。仮に寝坊したとしても母さんが叩き起こしてくれるし、あの鬱陶しい雑音以外にも寝覚めに繋がるものが多数あったのだ。
喉奥に感じた干ばつと、肌を覆う湿った熱気。それが自然の目覚ましとなって、意識が覚醒する。眠気の抜けない身体に鞭打って瞼をこじ開けると、まずは窓枠の中に浮かぶお日様を目視した。
天気良好であることを確認すると、早速朝の支度に取り掛かる。生温い水で顔を洗い、朝ご飯を食べて寝間着から着替える。そこまで終わると、残りの準備を慌ただしく済ませて玄関を開けた。
46 :
◆jkwYf2kqc.
[sage saga]:2022/12/27(火) 23:13:00.77 ID:ik+D4jwf0
そのまま僕は外の世界を歩き回り始めた訳だが、向かう先はいつもの場所ではなかった。数十メートルほどの等間隔で、家々の白い瓦塀と小さな雑木林が繰り返される。ときおり、刈り取られた雑草の積み上げられた空き地を通り抜けたりもした。
漬物石が入っているのかと思うぐらいにずっしりとした鞄を背負い、古いアスファルト上をひたすら歩き続ける。被る黄色い帽子に汗が滲み始めたところで、この町で一番の建造物に出くわした。
縦横何メートルという具体的な大きさを図ったことはないが、その気になればこの街の住民のほとんどがここに収まるのではないだろうか。雨風に晒され、白というよりは灰色と化した外壁は三階部分まで続いており、のっぺりとした屋根は青銅色をしている。左のだだっ広い砂地へ目をやれば、そこには申し訳程度の遊具が点在していた。
改めて正面に向き直ると、門の前では教師が数人、活力のある挨拶を飛ばしていた。キャッチボールを受け取った児童たちは元気よく挨拶を返している。僕もまたその中に紛れ込んで校門を潜り、下駄箱で靴を履き替えると、真っすぐ自らの教室に向かった。要するに、僕は学校に来たわけだ。
299.09 KB
Speed:0.3
[ Aramaki★
クオリティの高いサービスを貴方に
VIPService!]
↑
VIP Service
SS速報VIP
更新
専用ブラウザ
検索
全部
前100
次100
最新50
続きを読む
名前:
E-mail
(省略可)
:
書き込み後にスレをトップに移動しません
特殊変換を無効
本文を赤くします
本文を蒼くします
本文をピンクにします
本文を緑にします
本文を紫にします
256ビットSSL暗号化送信っぽいです
最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!
(http://fsmから始まる
ひらめアップローダ
からの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)
スポンサードリンク
Check
Tweet
荒巻@中の人 ★
VIP(Powered By VIP Service)
read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By
http://www.toshinari.net/
@Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)