晴れ空に傘

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295 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 02:19:53.71 ID:rYOC6gBvo
次の日。
雲一つない快晴のなか、俺は凪と二人で学校に向かった。

凪は徒歩通学なので、家から一緒に歩いて行こうと思っていた。
しかし、凪が気を遣って「それは申し訳ない」と言うので、
南中の近くにあるローソンに集合した。

久しぶりに制服を着ている凪を見て俺は、
「よかった、泥は綺麗に落ちたんだね」
と間抜けな感想を漏らしてしまった。

凪は「もうすっかり真っ白だよ」と目を細め、「どう?」とくるりと回ってみせた。
純白のセーラーと濃紺のスカートがふわりと風に舞って、
六月末の西日が、レンズ越しのゴーストのようにキラキラと散っていった。

「綺麗だね」

そう言ってみたけど、それは一体どんな意味だったんだろうか。
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 06:34:39.63 ID:d4+cypjgO
万力公園、笛吹川…
調べてみるとどこなのか大体わかる
いいところなんだろうね、行ってみたい
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 18:17:59.15 ID:fQL138QRO
映像になって浮かび上がる文章に圧倒される
岩井俊二の映画を彷彿とさせるような光の表現と、少女への執着
少し歪んでそうで怖いのだが、不思議と惹きつけられる魅力がある
偶然こんなSSに出会えて嬉しい
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/28(火) 21:56:45.03 ID:g59zBXv1O
いい話だねこれ……
凪が本当にかわいい
299 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 22:51:34.09 ID:rYOC6gBvo
学校に着くと、授業が終わった直後なのか、やけに賑やかだった。

校庭と校舎に挟まれた前庭には、これから部活に行くであろう、
部活カバンを背負った運動部と思しき生徒が無数に往来している。

こんな晴天でビニール傘をさしている凪はやはり目立つのか、
通り過ぎる生徒たちはじろじろと凪に視線を向けた。

中には、「あれって七瀬川先輩じゃない?」「戻ってきたんだね」
と興奮した様子で会話をする生徒もいた。

田向君が言っていたように、やはり凪は校内でもよく知られている存在なのだろう。
300 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 22:56:17.57 ID:rYOC6gBvo
昨日と同様、校庭ではすでにサッカー部やハンドボール部が準備をしていた。
一番奥のバックネット付近には、野球部員の姿も見える。

男「やってるね」
凪「そうだね……」

凪の表情が強張ったので、俺は背中を軽く叩いた。
きょとんとしてこちらを見た凪に、俺は優しく声をかける。

男「大丈夫。今日はただ”野球を楽しむ”日だよ」
凪「うん……」

男「なにも心配ないよ。みんな温かく迎えてくれるさ。それに……」
男「俺もいるから」

凪はしばらく校庭を眺めると、さしていたビニール傘を勢いよく畳み、
「行ってくるよ!」と部室へ着替えに向かった。
301 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:08:45.73 ID:rYOC6gBvo
勢いよく駆け出して行ったので、思わず笑ってしまう。
あれだけ元気なら、きっと大丈夫だ。

凪がソフト部の部室で着替えているあいだ、
俺は先に野球部の根城である、バックネット付近へ向かうことにした。

すでに何人もの部員が思い思いに準備をしていたが、
その中にキャプテンと田向君もいた。

キャプテンが俺に向かって「こんにちはー!」と元気よく挨拶をすると、
他の部員も次々に「こんにちは」と声を上げた。

昨日とは打って変わって、今日はちゃんと”OB”をやっている気分だ。
302 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:32:45.63 ID:rYOC6gBvo
田向「男さん、来たんですね」
ジョギングをしていた田向君が近づいて話しかけてきた。

男「おう、凪を連れてきたよ」
田向「やっぱり七瀬川先輩も一緒だったんですね」
男「うん。今は部室で着替えてるみたい」

男「それと、俺のことなら気にしないでいいよ、あくまで凪の付添みたいな感じだからさ」
田向「分かりました」

そんな風に話していると、キャプテンが会話に混ざってきた。

キャプテン「そうはいかないですよ」
男「……え、なんで?」
キャプテン「そりゃ、一応……みんなからしたら何でいるのって感じですし」

キャプテン「七瀬川が来たら一度集合して、ちゃんと全員に説明します。いいですよね?」
303 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:36:11.50 ID:rYOC6gBvo
俺は思わず苦笑いしてしまい、「そっかそっか、わかったよ」と了承した

田向君はこっそりと「キャプテンは、そういうのしっかりしたい人なんすよね」と俺に耳打ちした。
なんだか可笑しくて、田向君と二人してくすくすと笑ってしまったが、
チームにはそういう人が必要だし、それが彼のキャプテンたる所以なんだろうと思った。

しばらくすると、小脇にグローブを抱えた凪がやって来た。
野球の練習着姿は初めて見たが、凛々しくて、よく似合っていた。
頭にかぶった白の野球帽も、すごくさまになっていてカッコいい。

ああ、凪は本当に野球部で、ピッチャーなんだなぁと、
当たり前のことに妙に納得してしまった。
304 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:40:10.32 ID:rYOC6gBvo
その存在に気づくと、野球部はたちまち色めき立ち、
そこかしこから「七瀬川先輩だ!」「来たんだ!」と歓声のようなざわめきが起こった。

少し離れたほかの部――サッカー部やハンドボール部の生徒もそれに気づき……
こちらを指差してざわついているようだった。

”凪は校内でも目立つ存在”――それは田向君からも聞いていた事実だが、
まさか凪がひとたびグラウンドに現れるだけで、ここまで空気が変わるなんて。

仮に一週間ぶりに学校に現れたから……だとしても、
ここまで注目を浴びるのはすごいなと思った。

その理由が、純粋に凪がいい子だからなのか、
はたまた”いじめられている悲劇のヒロイン”だからなのか――
あまり考えたくはないな、と思った。
305 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:49:17.15 ID:rYOC6gBvo
あっという間に、沢山の仲間が凪のもとに集まる。
同級生・後輩を問わず、その表情は一様に明るい。

対照的に、その中心で申し訳無さそうにはにかむ凪がおかしかった。

やっぱりみんな、凪が帰ってくるのを心待ちにしていたんだ。
だってすごく、楽しそうだもの。

でもさ、そりゃそうだよ。
こんなに素敵な子なんだ。

好かれこそすれど、嫌われたり仲間外れになるワケがない。
そんなこと、絶対にありえないんだよ。

色々と強引な部分もあったけど、田向君とキャプテンの力を借りて、
もう一度凪を学校に連れてきて本当に良かったと思った。
306 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/28(火) 23:54:35.81 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「よっしゃ! 集合!!」

隣にいたキャプテンがそう叫ぶと、部員たちは高揚した様子で、
「集合っす!」と復唱し、勢いよく駆け寄ってきた。

目の前に並んだあどけない顔の少年たちは、どこか活気に満ちていた。
ひと目見て、昨日とは全然違うと分かった。

それもこれも、キャプテンがやる気を取り戻し、凪が戻ってきたからだろう。
単純明快なことだけど、じつに分かりやすいなぁと感心した。

キャプテン「えーと。まず、気になってる人もいるかもだけど」
キャプテン「今日は、OBの男さんが来てて、軽く練習を見てくれるから」

キャプテンが「何か言って」という視線を俺に向けたので、すかさず挨拶する。
307 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:08:30.32 ID:XR2bVOTMo
男「えーと、OBの男です」
男「俺がここにいたのは……もう10年くらい前になるかな」
男「今は……そこにいる、七瀬川さんの塾で先生をやってまして」

男「今日はその繋がりで来たって感じです。よろしく」

そう言うと、部員たちは一瞬ざわつき、凪もきょろきょろと周りを見たあと、
恥ずかしそうに俯いてしまった。

「そういうワケなんで、みんな頼むなー」
キャプテンがそう水を向けると、部員たちは声を揃えて「おす!」と元気に返事をした。

いいなあ、この感じ。なんだか本当に懐かしい。
みんな、瞳が輝いていて素敵だ。

なんて、そんな……"25歳"らしい感想を持ってしまう。
308 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:34:55.04 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「せっかくだし、あとで男さんにノックとかもやってもらおう」
キャプテン「いいっすよね?」

キャプテンがちらりと横目でこちらを見る。
なんだかすっかり”男”の瞳だなと思った。

別に変な意味ではなく、昨日の一件があって完全に意識が改まったのか――
とても頼りがいのある、覚悟を決めた顔つきになっていた。

男「ああ、全然構わないよ。けど、今日は先生は来ないの?」
キャプテン「今日は職員会議なんで来ないっす」
男「そうか――」

先生が来ないなら、それは好都合かなと思った。
今の顧問は当然俺の時とは違う人だし、
一から事情を説明するのも億劫と言えば億劫だったから。
309 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:39:35.18 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「それで、最後にひとつ」
キャプテン「七瀬川が戻ってきたから、みんなよろしくな」

一同「おっす!!」

全員、嬉しそうに大きな返事をする。
その様子を見ていると、
やはり凪がチームでどれほどに不可欠な存在だったかということが伝わってきた。

そしてそのさなかにいる凪も――嬉しそうに笑っていた。
本当に無垢で、無邪気な……"15歳"の笑顔だった。

キャプテン「よし、じゃあジョグいくぞー! 並べ!」

十数人の野球部員たちは、キャプテンと凪を先頭にして駆けていく。
笑顔混じりの掛け声が、校庭全体に響いた。
310 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:44:54.61 ID:XR2bVOTMo
澄み渡った天色の空には少しずつ黄金色が混ざってきて、夕刻の訪れを感じる。
キャッチボールをして駆け回る部員たちの影も段々と伸びてきて、
相変わらずここのグラウンドは西日が眩しいな、と思った。

いわゆる田舎の中学校なので、周りにはいくつかの民家がある以外、何もない。
この大きな空も、太陽の光も、透き通る風も、すべて独り占めだ。
そうそう今思い出した、このグラウンドでするキャッチボールは、最高に気持ちよかったんだ。

そんな遠い日の記憶が、古ぼけたスライド写真のように心の中をよぎった。

凪は、田向君を相手にして熱心にキャッチボールをしていた。
もうすっかり元通りだね、良かったな――。
なんて思った時だった。
311 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:52:20.78 ID:XR2bVOTMo
校庭の向こう側から、なにやら女子生徒の一団が近づいてくる。
運動部なのは間違いないが、何人かはサンバイザーを着けているので、
もしかしたら女子テニス部だろうか……?

先頭を歩く女子はやけに険しい表情をしているが……。

すると、近くにいた男子がぽろっとこぼした。
「あっ。やばいあれ、広瀬先輩じゃん……」

広瀬?
あいつが? あの?
”すべての元凶”か……?
312 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 00:59:56.31 ID:XR2bVOTMo
広瀬率いるその一団は一塁線の上で止まったかと思うと、「おい!」と大声を出した。

広瀬「なんで七瀬川が部活にいんだよ? 話が違うんだけど!?」

前後関係などまったくお構いなしに、一方的に喚き散らす広瀬。
それまで和やかにキャッチボールをしていた野球部が、一瞬にしてピリついた空気になる。

(お、おいどうすんだよ……)
(なんだよアイツ……)

そんなささめきがどこからともなく聞こえてくる。
凪の方を見ると、しゃがみこんでうずくまっており、田向君がそばについていた。

キャプテンは……だめだ。固まったまま、動く気配がない。

もういいよ、ヤケだ。
どうせ俺は”部外者”で――失うものは何もないからな。
そう覚悟を決めて、一塁線へと踏み出した。
313 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:06:33.52 ID:XR2bVOTMo
男「ちょっと君、今は部活中なんだけど。なんの用?」
広瀬「はあ? 誰アンタ?」
男「俺は野球部のOBです。今日は指導に来てるんで」
広瀬「ふーん、まあなんでもいいんだけどさ」

その表情は悪辣そのもので、他人を小馬鹿にする気持ちが滲み出ていた。

広瀬「ってかさぁ、早く中村呼んでくんね?」
男「中村ぁ……?」
広瀬「キャプテンだよ、キャプテン」
男「ああ、キャプテンね……」

広瀬「つかなんで知らねーんだよ。本当にOBなん?」

そして広瀬は、癇に障る笑い声を上げた。
何が可笑しくて笑ってんだ? お前。
314 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:09:37.55 ID:XR2bVOTMo
広瀬「つーか早く呼んでよ。おせえよ」
男「あ、ああ………」

この女が……! 凪をずっと……!!

目の前にいるこいつがすべての元凶かと思うと、はらわたが煮えくり返り、
おびただしいほどのどす黒い感情が湧き上がってきた。
本当に、怒りで今にも挙措を失いそうだった。

こいつがずっと、凪を苦しめてきた。笑顔を奪ってきた。

もういいや。俺が今、この手で殴り倒してやる。

いや、いっそのこと――ぶっ殺してやろうか?
315 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:12:42.64 ID:XR2bVOTMo
そんな、究極の魔が差したときだった――
後ろから、キャプテンが駆け寄ってきた。

キャプテン「おい広瀬、なんでこんな所に来てんだよ」

その声で我に返り、自分がとんでもなく物騒なことを考えていたことに気付いた。
危なかった。本当に。

たとえ殺しはしなくても、あのままなら……間違いなく殴ってはいた。
後先なんて考えず、その”無駄に”整った顔面に――
一発ぶち込んでいたのは、間違いなかっただろう。
316 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:19:52.52 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「部活にまで来るなよ。今日は先生がいないからって」
広瀬「は? うるさいんだけど? ってかお前がいけないんじゃん」
キャプテン「……何が?」

広瀬はしゃがみこんでいる凪を指差し「あれだろ?」と唾棄するように言った。

広瀬「なんで七瀬川さんが部活に来てるのかな? 話が違うよね?」

キャプテン「それは……」
広瀬「何か言うことある? んん?」

キャプテン「ッ…………」
317 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:36:57.74 ID:XR2bVOTMo
キャプテンが言葉を詰まらせたので、すかさず割って入る。

男「それはな……」
広瀬「やめてください!」

突然、広瀬が甲高い声を上げた。
その”奇声”は校庭じゅうに響き渡り……
遠くのサッカー部やソフト部の子たちも、こちらに視線を向けていた。

広瀬「お前は部外者じゃん? 関係あんの? 先生でもないくせに」
男「な………」
広瀬「なんだか知らないけど、どうせ七瀬川の肩持つんだろ?」
男「当たり前だろ、君なんか……」

すると、広瀬はにやりと不敵な微笑を浮かべた。

広瀬「あのさぁ……今私がここで叫んで、先生を呼んでさ」
広瀬「お前を一発で”不審者”に仕立て上げることもできるんだよ?」
318 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:40:13.08 ID:XR2bVOTMo
背筋が凍る。
この女は……一体何を言ってるんだ?

一応俺はこいつよりも十歳も年上で……こいつからしたら”大人”のはずだ。
なのに、その大人相手に全くビビることもなく、
食ってかかるようにこんな”恐ろしい”ことを言えるなんて……。

こいつは、本当に普通の中学生ではない。

さすがに面食らってしまい、何も言えずにいると、キャプテンが口を開いた。

キャプテン「お前……いい加減にしろよな」
広瀬「あ? ……なんて?」
319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 01:45:34.12 ID:hCwvRfRkO
最悪だなこの女…
でもこういうカーストてっぺん女っているよな〜
320 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 01:54:55.80 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「いい加減にしろって、言ってんだよ」
広瀬「え? 嘘でしょ? 中村君、それって私に言ってるの?」

キャプテン「他に誰がいんだよ。お前に言ってるんだよ」
広瀬「え、マジー? こいつ、私に言ってるらしいよ」

そう言うと、広瀬は取り巻きの女子たちとゲラゲラ笑い始めた。
無駄に見た目が良い分、その醜悪さがより目立つような気がした。

広瀬「いい加減にすんのはお前じゃん」
キャプテン「……なにがだ」
広瀬「約束守ってないのはそっちだろ? いけないんだ、人のことばっかり悪く言ってさ」

キャプテン「あんな約束は、もうナシだ」
広瀬「……はあ?」
321 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 02:01:35.72 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「あんな一方的でクソみたいな取引は、もうナシだって言ってんだ」
キャプテン「……分かったら帰れ」

広瀬「はぁ〜〜〜〜?」

広瀬は大げさに首を震わせてそう言うと、キャプテンに勢いよく近寄った。

広瀬「何言ってんのお前? 何がナシだよ?」
広瀬「そんな決定権はお前にはないんだよ」

広瀬は、キャプテンの肩を思い切り押して威圧する。
かなりの体格差があるというのに、広瀬はそんなこと全くもってお構いなしだ。

広瀬「ねえねえ、大好きな七瀬川さんがどうなってもいいの?」
広瀬「好きで好きでたまらない七瀬川さんがさ〜!」

そう吐き捨てると、広瀬はキャプテンの前でにやりと、
それはそれはいやらしい笑みを浮かべた。
322 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 02:03:20.88 ID:XR2bVOTMo
正直もう、俺だって頭が真っ白だった。

ふさぎ込む凪、動けない田向君、脅しをかけられている俺、
そして、目の前で”ボコボコにされている”キャプテン。

八方塞がりだって思ったよ。
俺たちは、この広瀬というたった一人の存在に……どうすることもできないのかって。

――でも、その時だった。
323 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 02:06:54.75 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は七瀬川が好きだよ!!!!」

キャプテンの全身全霊の雄叫びが、まるで稲妻かのごとく、
校庭に、いや、校舎にまで響いてビリビリと反響した。

予想外の返しにさすがの広瀬も当惑したのか、何も言えずに立ち尽くしている。
うずくまっていた凪も顔を上げ、涙目でキャプテンの方を見ていた。

その大声に気づき、「なんだ?」「告白?」と色めきだった他の運動部の連中が、
次第に野球部の周辺に集まり始める。

キャプテン「ああ、大好きだよ。お前の言うようにな、本当に好きだ」
キャプテン「だからこそ、もうこれ以上お前の言う通りにはしないし」
キャプテン「俺は……七瀬川を守るんだ」
324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 02:11:52.85 ID:hCwvRfRkO
うおおおおおおキャプテン!!!
お前男だよ!!!
325 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 02:16:38.69 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は……そう決めたんだ。だから絶対に退かない」
広瀬「はあ……? お前、何言ってんだよ……」
キャプテン「だから、七瀬川を守るって、そう言ってんだよ!」

広瀬「き、きもいんだけど……なにわけ分かんないこと言ってんの……?」
キャプテン「単純だろ? お前が七瀬川をいじめるなら、俺がそうさせないんだよ!」

広瀬とキャプテンが話しているこの間にも、
色恋沙汰だと勘違いした生徒たちが、群れを成してどんどん集まってくる。

「中村が告白したって?」
「野球部でなんか起きてるらしいから急げ!」

職員会議で、各部に先生の監視がないことも拍車をかけていた。

気づけば、校庭にいたサッカー部やハンド部、陸上部やソフト部だけでなく、
外練をしていたであろう男バスや吹奏楽部の子たちまで集まってきており、
「え、なになに?」「なにが起きてんだ?」と、随分賑やかになっていた。

一連の広瀬とキャプテンのやり取りが引き金となって、
普通ならあり得ないくらいの人だかりが、野球部の周りに形成されていた。
326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 06:24:49.32 ID:mAi/zi33O
タイトルが気になって試しに読んでみたら夢中になってた
凪ちゃんほんまにええ子やで…
>>6の絵もなんつーかラノベじゃなくて文芸っぽい絵ですげーいい
327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 15:39:31.42 ID:aYmqoDnJO
確かにSSっていうか文芸だね
というか映画に近い
毎日追ってるけど本当に読むのが楽しいよ
途中から野球部の後輩とキャプテンが出てきて群像劇っぽくなってきたのも面白い
328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 16:04:19.27 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 16:05:10.63 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
330 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 17:38:43.37 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺はもう……絶対にお前の言いなりにはならない!」
キャプテン「もうお前の好き勝手はさせない!!」

キャプテンが、そう高らかに”宣言”をすると……。
周りの人だかりにいたサッカー部の男子がそれに乗じた。

「そうだぞ! 広瀬はやりすぎなんだよ!」

これが口火となり……。
ただの野次馬だった烏合の衆は、徐々に一体感を得ていく。

「ずっと思ってたけど広瀬はおかしいよ」
「確かに、ちょっと考え直しな〜」
「そうそう、もう見過ごせないよねー」
331 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 17:43:35.69 ID:XR2bVOTMo
広瀬「ちょ、ちょっと待ってよみんな!」
広瀬「悪いのは中村! 約束を破ったコイツが悪いんだよ!?」

広瀬は、すぐさま声色を変え、さも媚びるように周りの人間へとアピールを始める。
なんて小賢しいヤツなんだ。
こうやって、今までもずっと上手いこと世を渡ってきたんだろう。

キャプテン「約束ってなんだぁ!?」

またしてもキャプテンが怒声を上げる。
完全に腹が括れたのか、その瞳が広瀬からぶれることはない。

キャプテン「”七瀬川を野球部から追い出したらいじめをやめる”っていうクソみたいな取引のことだろ?」
キャプテン「あれのなにが……約束だ?」

集った生徒たちに流布するような形でキャプテンが言い捨てると、周囲からは、
「なにそれ……」「ひっでぇ〜」といった声が上がった。
332 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 17:46:28.47 ID:XR2bVOTMo
広瀬はすぐに「いやいや、違うんだよ? コイツが勝手に言ってるだけだよ?」と
猫撫で声を出すが、もはやそのメッキは”剥がれかけ”だ。

キャプテン「お前なぁ………」
キャプテン「もういい加減、七瀬川をいじめるのはやめろ!!!!」

キャプテンのその”咆哮”は、天高く突き抜け……
やがて全校生徒を巻き込んだ”胎動”となる。

「そうだよ! いつまでも七瀬川さんをいじめんなよ!」
「凪ちゃんが可哀想だよ、いい加減やめろ!」
「ってかさ、これからはみんなも見て見ぬフリやめね?」

そんな声が、野球部と広瀬を囲んでいた生徒たちの群れから……次々と飛んでくる。

広瀬「なにこれ……? どうなってんだよ……」
キャプテン「おい、広瀬。誓えよ。今日限りで七瀬川をいじめるのは辞めるって」

広瀬「は、はあ〜? ってか私、そんなの知らないんだけどぉ……?」
キャプテン「誓えよこのクソ野郎!!」
333 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 17:51:37.80 ID:XR2bVOTMo
「そうだ、誓え!」
群衆の、どこからともなく上がる声。

広瀬「は? な、なに……?」

「もう今日で終わりにしろ!」
「お前のやってることはみんな知ってるんだよ」
「ここでやめるって誓えよ!」
「中村! 俺たちはお前と七瀬川さんの味方だぞ!」

キャプテン「み、みんな……」

嘘だろ?
俺は、馬鹿みたいに口を開けたまま辺りを見回していた。
334 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:20:18.39 ID:XR2bVOTMo
すごい人数だ。学年も性別も関係ない。
部活着の生徒もいれば、制服の生徒もいる。
かと思えば、一見ちょっとやんちゃそうな男子や、折り目正しい地味めな生徒までもが、
一様に応援の声を上げているではないか。

「中村! お前最高だよ!」
「みんながずっと思っていることを言ってくれたぞぉ!」
「七瀬川さんを放っておくのは今日でやめようぜ!?」
「広瀬、いじめはやめろ!」

男「な、なんだこれ……?」
キャプテン「ありえない、っすよね……」

男「まるで、全校生徒がここに集結してるみたいな……そんな熱量だぞ?」
335 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:22:29.93 ID:XR2bVOTMo
奇跡のようだった。

あの凶悪な広瀬に臆することなく、勇気を振り絞って立ち向かったキャプテンの勇気が……
奇跡を呼んだ。

これまで、誰もが”学校一の厄介事”と捉えて、関わることを拒絶してきた広瀬の醜行。
関わったら最後、その標的が明日には自分に向けられるかもしれない。

そんな風にして、ずっとずっと見て見ぬフリをされ、放置されてきた凪へのいじめが……。
今、一気にその”膿み”を出し切ろうとしている。

この瞬間、ここに集まった生徒たちによって、
学校中を巻き込んだ変化の”胎動”が起きているんだ。

そして俺とキャプテンは……それを目の当たりにしている。
336 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:32:54.50 ID:XR2bVOTMo
その時であった。
俺とキャプテンの後方から――あの声が。

凪「広瀬さん」

田向君に支えられ、うずくまっていたはずの凪が、
俺とキャプテンの真後ろに立っていた。

広瀬「七瀬川、さん……」

周囲からはどよめきとともに、これまでで一番大きな歓声が起こる。

「七瀬川先輩!」
「学校来てたんだ……!」
「うっそ、久しぶりに見た!」
337 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:37:09.64 ID:XR2bVOTMo
凪の瞳はひどく充血し涙が滲んでおり、その小さな両肩は小刻みに震えていた。

男「凪―――」

大丈夫か、と言おうとして、やめる。
彼女は自分の意思で立ち上がり、自分の意思で立ち向かうことを決めたんだ。
ならば今は、それを見届けるべきだ。

凪「ひとつだけ、言わせてほしい」
広瀬「な、なによ……?」

凪「もう私は負けない」

広瀬「は、はあ……?」

凪「今日ここで、いじめをやめるって誓わなかったとしても」
凪「今後も、アナタが私をいじめたとしても――」
凪「私はもう、絶対に負けないから」
338 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:40:20.63 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「七瀬川……」

凪「だから逃げも隠れもしないし、私は堂々と学校に戻る」
広瀬「なに言ってんのお前……」

凪「だって私は――」

そう言うと凪は、辺りを見回す。

随分人の増えた生徒たちの群衆。
野球部のチームメイト。
田向君。
キャプテン。
そして、俺……。

凪「もう一人じゃないから」
339 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:44:17.73 ID:XR2bVOTMo
そしてどこからともなくこんな声。

「よく言った――!!」

周囲から、まるで瀑声のような歓声と喝采が起こる。
こうなるともう、集団心理による気持ちの昂揚を止めるすべはない。

「七瀬川さ――ん!」
「私達も味方だよ!」
「みんな分かってるからな――!」

広瀬はもはや為す術もなく、ただただ狼狽してきょろきょろするだけである。
その様子は、まるで出来の悪い傀儡みたいで、じつに滑稽だった。

凪は真剣な眼差しで広瀬を見つめ続けている。

そんな盛り上がりの最高潮に達した瞬間、魔法の解ける合図が。
340 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:46:13.93 ID:XR2bVOTMo
「お前ら何やってんだ――!!」
「今は部活の時間だろ!!」

数名の男性教師が、校庭に向かって走ってきていた。
なんという魔性の勘か、広瀬はどの生徒よりも早く走って逃げ出していた。

「やべえ! 先生来たぞ!」
「みんな散れ――!」

途端に、集まって群れを成していた生徒たちが四方八方に散っていくが、
その表情は皆、不思議と”とても楽しそう”であった。

逃げていく生徒は全員、大声で笑いながら溌剌と校庭を駆けていく。

恐らく逃げる必要のない野球部員までもが、なぜか走り出した。
341 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:47:57.43 ID:XR2bVOTMo
田向「キャプテン! こっちです!」
キャプテン「よっしゃ! みんな走って逃げろ――!」

そして、宛てもなく走り出す。
――全員、とびきりの”いたずら”な笑顔で。

凪「男さんも!」

前方を行く凪が、俺に向かって手招きをする。
俺も……?

凪「走ろう!」

西日の逆光となり、その凪の顔はよく見えなかったが……。
きっと、笑っていたんだろうね。
342 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:52:50.31 ID:XR2bVOTMo
これは祝祭だ。

集まっていた沢山の生徒たちが、訳も分からず、
大声で笑いながら教師たちから逃げ、駆け回っている。

暗い表情をしている者は、誰一人としていない。

全員が、”凪の門出”を祝いながら、走っていた。

これは、全校生徒を巻き込んだ――凪への祝祭なんだ。
俺はそんなことを思い……。

嬉しくて嬉しくて仕方なくて、こぼれそうな涙をぐっとこらえ、
先を走る凪を――笑って追いかけた。

これ以上ないくらいの、全力疾走で。
343 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:54:20.93 ID:XR2bVOTMo
そんな”夢”みたいな出来事のあと……。

凪は――再び学校に通い始めた。

最初の数日はとても怖かったものの、
あれから広瀬のいじめは鳴りを潜め、学校で関わる機会は激減したという。

毎回毎回、笑顔で塾を訪れ、楽しそうに学校での出来事を語る凪は……
心の底から幸せそうだった。

ずっとずっと求めていた”日常”を過ごせているんだなぁと伝わってきて……
本当に嬉しかった。
344 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 18:56:52.27 ID:XR2bVOTMo
凪が――この素敵な子が、”あるべき場所”に戻れたことは、
俺にとっても本当に大切なことで……
自分の命に代えてでも叶えたいと思っていた悲願だ。

ずっとずっと、この世界はクソだと思ってきた。

でも、捨てたもんじゃないかもしれない。
凪が笑える世界なら。あの日みたいに西日が綺麗に輝く世界なら。

この世界は、最高かもしれない。
345 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:01:22.21 ID:XR2bVOTMo
それから、日々は穏やかに過ぎていき――
あっという間に、凪たちは最後の夏の大会を迎えた。

凪の中学は順調に勝ち進み、無事に地区大会の決勝へと駒を進めた。
そして明日は、ついにその大一番であった。

小学生の授業が終わった19時頃。
帰ろうとすると、薄闇のなかで素振りをする凪と鉢合わせた。

男「やる気だね」
凪「……男さん」

男「明日は決勝だもんね」
凪「うん。だから……なんかじっとしてられなくて」

そう語る汗ばんだ凪の横顔は、真剣そのものだ。
思わず笑みがこぼれる。
俺にも、そんな時があったな。
346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 19:01:55.13 ID:VuX74jkoO
話は全然違うけど映画の「桐島」みたいな雰囲気あるよな
特に他の生徒巻き込んで笑って走るシーンなんてそれっぽい
347 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:04:34.57 ID:XR2bVOTMo
男「気持ち分かるよ。でもあんまり無理して、どこか痛めないようにね」
凪「うん、ありがとう」

俺はしばらく……熱心にバットを振るう凪を見ていた。
その姿を見ていると、懐かしいような、ちょっと切ないような、
なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。

この子にとっては、明日の決勝戦がすべてで……
それ以外には何もなく、ただそれだけを見ている。

なんて純粋なんだろう。

いつもは近く感じる凪が、なんだか少しだけ――遠くにいるような、そんな気がした。

俺と凪は、本来なら住む世界がまるで違う。
今はなんの偶然か、こんな子と親しくなり、こうして話しているが、
それは元の俺であったら……到底考えられないことだ。
348 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:07:38.66 ID:XR2bVOTMo
凪「あのね」

出し抜けに、凪が口を開いた。
物思いに耽っていた俺は意表を突かれて「へ?」などと間抜けな声を出してしまう。

凪「……きいてる?」
男「う、うん。……なに?」

凪は「今、ぼーっとしてたね」と微笑むと、話を続ける。
その何気ない笑顔ですら、不思議と俺の胸を温かくさせる。

凪「すごくいいニュースがあるんだ」
男「え、なんだろう。……教えてくれる?」

凪はまた目を細めてにこりと笑うと「いいよ――」と楽しそうに小首を傾げた。
349 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:10:23.54 ID:XR2bVOTMo
不思議と、凪の一挙手一投足を目で追っている自分がいた。
笑うとわずかにシワが寄る、その目尻をずっと見ていた。
少しだけ胸が弾んでいるのも、もはや無視できることではない。

ずっと考えないようにしていたけれど、俺は――。

凪「明日の決勝、お父さん応援に来れるんだって」
男「え、本当に……!?」

正体不明のもやもやとした思考がどこかに吹っ飛んでしまうほど、
それは素晴らしいニュースだった。

凪「ずっと入院してたでしょ? 最近は合うお薬が見つかってね」
凪「すごく安定してるんだって――それで、外出許可が取れたみたい」

男「わあ、それは良かったねぇ……」
350 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:12:10.82 ID:XR2bVOTMo
凪「私ね、絶対に勝ちたい。……優勝したい」
凪「それで、お父さんとの約束――叶えるんだ」

一生懸命に、熱をこめて語る凪の顔は、とても凛々しい。
南中の前庭に咲いていた真っ赤な百日草のように、気持ちを燃やしている。

凪「もしも優勝できたらさ……お父さん、少しは笑ってくれるかな?」
男「……もちろんさ」

凪「そうだよね……きっと喜んで、笑ってくれるよね」

凪はバットを構えると、勢いよくフルスイングした。

凪「もう、ぜんぶ覚えてないんだ」
凪「私のことも、私と一緒に野球をした日々も、ぜんぶ」
凪「それでも、最後にさ……笑ってほしいな」
351 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:14:20.36 ID:XR2bVOTMo
男「最後?」

凪「うん、さすがにね。高校に行ったら野球はやめちゃうし」
凪「お父さんの外出許可が降りてるのも、明日だけだからさ」

男「ああ、そうか……」

凪はこちらを見ると、少し目を伏せたあとに笑顔を作る。
その瞳の中に、隠しきれない切なさが映り込んでいたのは、俺の気のせいだろうか。

凪「だから私にとって、明日はすごく大事な日なんだ」
凪「たとえ勝っても負けても……二度と来ない日」

凪「お父さんと”一緒に”野球ができる、最後の日だから……」
352 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:17:21.87 ID:XR2bVOTMo
そう言って、凪が全力で振るったバットは……鋭い風切り音を立てて闇を切り裂いた。

男「お、今のはきっとホームランだ」

凪「ふふ。スタンドまで運んだ?」
男「うん。看板に直撃かな?」

凪は「やったぁ」と無邪気に笑ったかと思うと、俺の顔をじっと見た。
そしてしばらく、何も言わずに黙っていた。

男「い、今のスイングは腰が入ってたからね。だから、すごくよかったんだと思う」

なんだか照れくさくなってしまい、問わず語りを始めてしまう。
アドバイスできるほどの大した野球経験も技術もないのに。

凪「……男さん」
男「な……なに?」
353 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:20:55.98 ID:XR2bVOTMo
凪「いつもいつも、本当にありがとう」
男「……急にどうしたの?」

凪「んーん。なんかね、ふと思ったんだ」

凪は「ねえ」と上目遣いで俺を見た。
ほんの少しの秋波と寂寥をはらんだ……そんな瞳だった。

凪「明日は……男さんも応援に来てくれるよね?」

男「行くよ。……必ずね」

凪「……そっか。楽しみにしてるね」

そして凪は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
それはきっと、この世界のすべてだった。
354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 19:21:42.79 ID:JxJzTXTgO
凪ちゃん可愛すぎて草
355 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:24:56.48 ID:XR2bVOTMo
次の日。
凪の試合を見に行くため、俺は再び南中に向かっていた。
決勝戦の会場は、奇しくも我が母校であり、凪の通う――南中であった。

運命の日は、神様がわざわざ融通を利かせてくれたかのような見事な晴天で、
遠くの山際では、真っ白な入道雲がのびのびと手を広げており、
青空とのコントラストがじつに綺麗だった。

猛る真夏の太陽が、海抜300メートルの町を隅から隅まで白飛びさせ、
すれ違う人たちの顔も、車も、何もかもを溶かしていく。

十字路のカーブミラー、風に揺れる桃畑の木立ち、
見るものすべてがプリズムのようにキラキラと光を散らす午前9時。

俺は陽の当たる坂道を、ボロのママチャリで走っていた。

身体をすり抜けていく熱風が、これから始まる大一番を予感させた。
356 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:27:58.56 ID:XR2bVOTMo
四方から降り注ぐ蝉しぐれの合唱をくぐり抜け南中にたどり着くと、
凪のチームも相手校も、すでにキャッチボールをしていた。

「やってるな」

そんな独り言を漏らし、急いで前庭を駆け抜けグラウンドへと向かう。

凪たちのベンチは1塁側で、その周辺にはすでに父兄と思しき人達が大勢来ていた。
当然見知った顔などはなく、陽子先生と剛先生は……まだいないようだった。

最近買ったばかりのアレット・ブランの腕時計に目をやる。
時刻は9時20分。試合開始は9時30分のはずだから、
さすがにそろそろ来ていないとまずいが……。
357 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:31:56.69 ID:XR2bVOTMo
グラウンドでは、真っ白なユニフォームを纏った選手たちが、
元気に声を出して駆け回っている。
夏の炎天下なんてなんのその、彼らは運命の一戦に向けて気合十分といったところだ。

その中に凪もいた。
あの赤茶色のグラブを身に着け、誰よりも大きな声を出しているが、
時折、少しだけ不安げな表情でこちら側を見ては、またプレーに戻る、
ということを繰り返していた。

どうにも散漫で、意識ここにあらずといった様子であった。

恐らくだが、まだ陽子先生と剛先生が来ていないことを気にしているんだろう。

凪は昨日、お父さんが応援に来てくれることをあれだけ楽しみにしていた。
まだ姿が見えないことが、不安で仕方ないんだ。
358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 19:33:47.61 ID:7dElc2/YO
>>355
ここの描写エグすぎる
一気に脳内が真夏にワープしたわ
359 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:36:16.50 ID:XR2bVOTMo
陽子先生と剛先生、間に合うといいけれど――

そんなことを思ったが、その願いも虚しく、
試合開始時刻になっても結局二人が現れることはなかった。

審判が両校の選手を呼び寄せ、整列と号令が終わり、
そのまま試合は始まってしまった。

剛先生、何かトラブルでも起きてしまったんだろうか。
まさか、突然病状が悪化して来れなくなってしまったとか?
そんな最悪の自体を想像し、心臓がヒュンと跳ねる。

いや、まだ決まったわけじゃない。
とにかく今は……。

とにかく今は、気を取り直して凪の応援だ。
凪にとっての大事な大事な――大一番が始まるんだから。
360 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:38:55.87 ID:XR2bVOTMo
1回のオモテ。
凪がマウンドへ登る。

「凪ちゃーん! 頑張ってー!」
「頼むぞー!」
父兄から、そんな明るい声援が飛ぶ。

凪はダイナミックに振りかぶると、オーバースローで思い切りボールを投げた。
次の瞬間には『バチィン!』とキャッチャーミットが快音を鳴らし、
ベンチから「ナイスボール!」という掛け声が沸き起こった。

真剣な投球は初めて見たが、凪の球はとても速く鋭かった。
客観的に見たとしても、とても良いピッチャーだ。

大したもんだな……。

正直、今の俺にはまったく打てる自信がなかった。
361 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:42:53.63 ID:XR2bVOTMo
凪の立ち上がりは絶好調であり、1回のオモテを三者凡退で抑えると、
続く2回、3回、4回も見事に0点で抑えてみせた。

しかし、相手の投手も意地を見せ、凪のチームも4回まで無得点となった。

試合は次第に、”投手戦”の様相を呈し始めた。

凪と、相手のピッチャー。
どちらが先に折れるか、気持ちと気持ちのぶつかり合いであった。

凪は鬼気迫るピッチングで5回のオモテを抑えたあと、
ふと、俺の元へと駆け寄ってきた。
362 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:45:19.99 ID:XR2bVOTMo
さすがに疲れたのか、汗だくになって肩で息をしている。

男「凪、すごいね! ナイスピッチング!」

そう言って俺は、手を叩いて凪を鼓舞した。

凪「ありがとう。とりあえずここまでは、いい感じ――」
凪はふう、と息を吐くとスクイズボトルを一口、ゴクリと飲んだ。

男「いやいや、本当にすごくてビックリしたよ俺。凪、大エースじゃんか」
凪「そんなことないよ」

恥ずかしそうに笑ったその顔に、いくつもの汗がきらきらと輝いた。

凪「ねえ、男さん。お母さんからは……何も連絡ないの?」
363 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:48:03.34 ID:XR2bVOTMo
手元のスマホを確認する。
しかし、特に何の連絡も入っていなかった。

ここに着いてから何度か電話もしていたが、やはり音沙汰はなしであった。

男「そうだね……連絡はない」
凪「そっか……」

凪の顔が分かりやすく曇ったのを見て、思わず肩を叩いてしまう。

男「凪、大丈夫だよ。必ず二人は来るから」
男「今はとにかく、試合に集中! ……な?」

凪「……うん」

凪はそのままベンチに戻っていったが……
その顔が晴れることはなかった。
364 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 19:53:21.67 ID:XR2bVOTMo
凪にとっては、お父さんとお母さんの応援こそが原動力で、
特にお父さんとの約束は……あの子のすべてだ。

今までも、そのためにずっと頑張ってきたといってもいい、
凪が思い描いてきた「夢」だ。

昨晩、お父さんが応援に来ることを喜んでいた凪の笑顔が……脳内を掠めた。

俺はもう一度、陽子先生に電話をかけてみる。
5回、10回……いくらコールを待ってみても、出る気配はない。

どうしてだ。どうして出てくれない。
陽子先生。剛先生……。

お願いだから、来てください。
大切な娘さんが……グラウンドで待ってます。
365 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 20:56:10.96 ID:XR2bVOTMo
俺はスマホをポケットにしまい、ベンチに座る凪を見る。
平静を装っているものの、その姿からは寂しさが滲み出ていた。

叶わないのだろうか?
……ここまできて。
凪の、大切で、純粋な夢。

神様……頼むよ、お願いだからさ……。

俺は気づくと、両手を合わせて空に願っていた。
青い空には白い綿雲が広がるばかりで……
俺の願いなんて今にも風に飛ばされてしまいそうだった。
366 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 20:59:40.21 ID:XR2bVOTMo
続く6回のオモテ、凪たちの守備だ。

試合は相変わらず0対0という膠着状態だったが、
ここに来て、凪が突然調子を崩し始めた。

1球目を外すと、2球目3球目もストライクゾーンを捉えることはできず、
結局先頭打者をフォアボールにしてしまった。

何かがおかしいと察したキャッチャーの田向君が、
すかさずマウンドの凪のもとへと駆け寄る。
キャプテンを始めとした、内野の面々も心配そうに凪のもとへ集まる。

……凪。ここは大事な局面だよ。
なんとかここを抑えて笑顔でお父さんを迎えよう。

頑張れ――。
367 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:03:35.70 ID:XR2bVOTMo
しかし、凪の調子が戻ることはなく、後続のバッターにもヒットを許してしまい、
あっという間にノーアウト2塁3塁というピンチを迎えてしまった。

次にヒットが出れば1点、あるいは2点を失ってしまうという……大ピンチだ。
中学野球は7回までなので、終盤の6回に2点を失うのは非常に苦しい展開だった。

しかも、ここで迎える相手のバッターは2番打者。
ここから強打者が続く。

キャッチャーの田向君が立ち上がって、大声を出す。

田向「先輩! 大丈夫っす! 思い切って投げましょう!」

間髪を入れずにキャプテンも声を上げる。

キャプテン「打たせていいからな! 俺たちが死ぬ気で守る!」

凪はそれらの鼓舞に対して、苦しそうな表情で頷いた。
368 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:07:00.19 ID:XR2bVOTMo
凪、大丈夫だよ。
君のまわりには頼もしい仲間がいる。
信じて投げれば、大丈夫だから――。

夏の午前中の真っ白な光が、グラウンドを灼いている。
凪は眉根を寄せ、何度も額の汗を拭った。

そして3塁側を見たあと、セットポジションから全力投球した。

カキィン。

気持ちいいまでの金属音が鳴り響き、思い切り左中間に弾き返される。
センターが打球を追うものの、長打になった。

その間に3塁ランナーがホームに帰り、2塁ランナーも……生還する。
一気に2点……取られてしまった。
369 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:10:03.56 ID:XR2bVOTMo
値千金のタイムリーを打った相手のバッターは、
2塁で嬉しそうにガッツポーズを見せている。

相手チームのベンチは、お祭り騒ぎの状態だ。

打たれてしまった。

これまで、ずっと無失点で踏ん張っていた凪が……ここで瓦解してしまった。

凪はマウンド上でとてもつらそうに歯を食いしばっている。
先ほどまで元気だった田向君やキャプテンも俯き、黙ってしまった。

ベンチの生徒までもが呆然として言葉を失っていたので、
俺は慌てて手を叩き、盛り上げに徹する。

男「なに黙ってんだよ! こっからだろ! 声出せ声出せッ!!」
370 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:14:09.46 ID:XR2bVOTMo
そう大声を出したものの、凪たちにはまるで届かない。

グラウンドには、完全に”やばい”空気が漂っていた。
まずい。分かる。
このままだと、次も……絶対に打たれてしまう。

そんな嫌な予感の中迎えた、3番バッター。

カキィン。

一球見送った二球目をあっさり打たれ、綺麗にセンター前に運ばれる。
立て続けにヒットを浴び、またしてもノーアウト1塁3塁の大ピンチだ。
371 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 21:14:51.03 ID:K7FCxF6VO
がんばれ………
372 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:16:08.14 ID:XR2bVOTMo
チーム全体に、暗く重い空気が流れる。
もしこのまま点差が広がり続ければ、試合が終わってしまう。

内野陣は再び凪のもとに集合し、話し込んでいる。

なんとしても。
なんとしても、3失点目だけは避けなければ――。

そう思った時だった。
校庭の端から、一人の女性が車椅子を押して歩いてくる。

それは紛れもなく……。

男「陽子先生! こっち! こっちです!」

俺は大声で叫んで手を振った。
陽子先生と、剛先生が来たのだ――。
373 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:17:46.12 ID:XR2bVOTMo
男「陽子先生! よかったです、無事に来れて……」
陽子「ごめんね、ちょっと手続きに時間かかっちゃって……」
男「いえいえ。本当に、来れただけで良かったです」

陽子先生は「ふう」と息をついたあと、ハンカチで汗を拭いながら訊いてくる。

陽子「それで……今はどんな感じなの?」
男「今は、6回のオモテで……凪たちは2点差で負けています」
陽子「あらぁ……そうなんだねぇ」
男「でも大丈夫です。だってまだ試合は終わってないですから」

陽子「そうだねぇ。なんとか、勝ってもらいたいね」
374 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:20:50.08 ID:XR2bVOTMo
ふと、車椅子に座る剛先生を見る。
ビニール傘をさし、穏やかな瞳でグラウンドを見つめるその表情は……
”あの時”とは打って変わって、かつての剛先生そのものだった。

男「剛先生……?」

俺は思わず声に出してしまう。
剛先生はこちらに気づくと、にこりと柔和な笑顔を浮かべ、
「この雨の中なのに、皆さんよくやりますね」と穏やかに語った。

もちろん今日は見事なまでの晴天で、
雨が降っているのは――”剛先生の世界”での話だ。

剛「ちなみにこれは、なんの試合なんですか?」
やはり覚えていない。
俺のことも、きっと凪のことも、何もかも覚えていない。

けれど、その語り口も、穏やかな表情も、優しい笑顔も、
すべてがかつての剛先生だった。
375 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:23:00.10 ID:XR2bVOTMo
陽子「いい薬が見つかってね。最近はすっかり落ち着いた調子なの」

陽子先生は剛先生に「これはね、凪の試合なんだよ」と優しく語りかける。
しかしながら剛先生は、「なぎ……?」とやはり理解できていないようだ。

陽子「野球の試合だってことは、なんとか分かってるみたいなんだよね」
男「そうなんですね……」

ともあれ、かつての剛先生が戻ってきたみたいで、嬉しかった。
色んなことを忘れてしまっても、剛先生が剛先生であるなら、
それは本当に良かったと思えた。

俺はグラウンドの凪の方を見ると……叫んでいた。
咄嗟のことだったので、なぜそうしたのかは、よく覚えていない。

男「凪!! お父さんが来たぞ――!!」
376 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:25:48.20 ID:XR2bVOTMo
マウンド上で仲間に囲まれていた凪は、こちらを振り向くと、
言葉にできないほどの鮮やかな笑顔を見せた――。

遠く離れていてもはっきりと分かるほどの、夏の向日葵のような、
それはそれは眩しい笑顔だった。

空気が変わった……。
一瞬でそんな”予感”を感じ取った。
377 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:29:00.59 ID:XR2bVOTMo
それからの凪は、先ほどまでの重々しいムードが嘘みたいな快投を見せた。

まず、ノーアウト1塁3塁で迎えた4番バッターを三振で切り落とし、
さらに1アウトで迎えた5番バッターもセカンドフライに抑え込んだ。
きわめつきには、最後の6番バッターを目が覚めるほどの三球三振で抑え込んだ。

これにはチームメイトも、ベンチも、大いに沸いた。
グラウンド上のナインに、再び明るい活気が戻ってくる。

男「凪! いいぞ!!」

父兄に混じって応援する俺も、思わず右手を掲げてガッツポーズをしてしまった。
378 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:30:49.47 ID:XR2bVOTMo
続く6回のウラでは、キャプテンが意地を見せてタイムリーを放ち、
1対2の1点差にまで追いついた。

一度は完全な諦めムードに陥っていたチームが……
再び闘志を取り戻していた。

もう、誰ひとりとして下を向いている者はいなかった。

そして訪れる最終回。7回のオモテ。

凪のチームは何度かランナーを出す苦しい展開を迎えつつも、
凪の渾身のピッチングと、チームメイトの全力の守備によって、
なんとか無失点で抑えることに成功した。
379 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:34:13.31 ID:XR2bVOTMo
そうして迎えた、7回のウラ。
泣いても笑っても、最後の攻撃。

1点、あわよくば2点が欲しい凪のチームは、
なんとかノーアウトの状態でランナーを出したい……。

しかし、先頭打者と二番目の打者が立て続けに凡打に倒れ、
あっという間に2アウトという、あとのない状態になってしまった。

この緊迫した場面で打順が来たのは……5番バッターの田向君であった。
彼が出塁できれば……次のバッターは凪だ。

田向君は打席に入る直前、ネクストバッターズサークルにいる凪に向かって叫んだ。

田向「死んでも先輩に繋ぎます!!」
380 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:36:20.79 ID:XR2bVOTMo
その呼びかけに、凪がどう答えたのかは分からない。
田向君はにこやかに笑ったかと思うと、そのまま打席に入った。

初球であった。
こんな場面、普通なら萎縮してしまって初球なんかには手が出ないのだが……
田向君はそれを逆手にとって、甘めに入った初球を気持ちよく打ち返した。

右中間を割る、綺麗な2塁打だった。

地鳴りのような歓声が1塁側ベンチに沸き起こる。
長打を放った田向君は、2塁で両手を上げ「っしゃあああ!」と吼えている。

最終回、2アウト2塁。
このとんでもなくプレッシャーのかかる場面で打順が回ってきたのが……
他でもない、凪だった。
381 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:37:40.07 ID:XR2bVOTMo
一打同点のチャンス。
ここでヒットを打つことができれば、試合はまだ終わらない。

男「凪、がんばれ―――!!!」

瞬間、俺は持てる限りの力を込めて叫んでいた。
喉が潰れるほどの、後先なんて一切考えていない全力の叫び。

すると、ベンチや他の父兄からも次々と凪を応援する声が上がった。
そこにいる全員が凪を見つめ、同じように凪にエールを送っていた。

どうにかして打ってほしい。
お父さんの見ている前で……”約束”を果たしてほしい。
382 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:40:51.68 ID:XR2bVOTMo
「ふう」と軽く息を吐くと、こわばった顔つきで打席に立つ凪。
相手の捕手も、「よっしゃ落ち着いていこう!」と声を上げた。

一球目。
外にわずかにはずれ、ボール。

二球目。
インコースのストレートを見逃し、ストライク。

三球目。
外角の見せ球に手が出てしまい、空振り。

2ストライク。追い込まれてしまった。
凪は一度打席を外れ、深呼吸をしてリズムを整える。

グラウンドにいる全員が息を呑み、祈るような思いで凪を見つめている。

その時であった――”奇跡”が起きたのだ。
383 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 21:48:20.51 ID:XR2bVOTMo
剛「凪! ビビらないで打て――!!」

もう、凪のことは覚えていないはずの剛先生が、そう叫んだのだ。
先ほどまでさしていたはずの傘も、いつの間にか畳んでいる。

剛「凪なら打てる! いけ!」

それに気付いた凪はひどく驚いたようだが、すぐに落ち着くと、
にこりと笑って大きく頷き、再びバッターボックスに立った。

バットを構え、相手投手を見つめる凪の横顔には……
もう寸分の迷いも、ためらいもない。

フルスイングで打ち返した大飛球は青空に吸い込まれ――
センターの遥か後方まで飛んでいき、見えなくなった。

相手チームの外野は必死でボールを追いかける。
しかし、それは文句のない最高のホームランだった。
384 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:04:39.54 ID:XR2bVOTMo
劇的なサヨナラ勝ち。
凪の放ったホームランにより、凪のチームは大逆転勝利を収めた。

1塁側ベンチが、歓喜の渦に包まれる。

ホームベースに戻ってきた凪は、狂喜する仲間たちに囲まれ、
笑いながら涙をこぼしていた。

最高の瞬間だ。
今までやってきたことが報われ、叶ったんだ……。
385 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2021/12/29(水) 22:05:42.15 ID:fCnhREpWO
泣いた


臨場感えぐいて…
386 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:08:33.49 ID:XR2bVOTMo
男「凪……よかったなぁ……本当に……」

喜んでいる凪たちを見ていると胸がいっぱいになり、視界が涙で滲んできた。
人前で泣くまいと、歯を食いしばってどうにか堪える。

隣では、陽子先生がハンカチで目元を押さえて泣いており、
剛先生は「凪、よくやった!」と快活な笑顔を見せていた。

剛先生は本当に……凪の記憶が戻ったのか?
たとえ一時的なものだったとしても、もしそうなら……正真正銘の”奇跡”だ。
387 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:10:21.43 ID:XR2bVOTMo
試合後の挨拶が終わって、凪が勢いよく剛先生のもとへと駆け寄ってくる。

凪「お、お父さん、私が分かるの?」
剛「ああ、当たり前だ! 凪、よく打ったな。最高だったよ!」
凪「お父さぁん……」

凪はぼろぼろと涙をこぼし、剛先生に抱きついた。

剛「なんだなんだ、どうしたんだ凪」

剛先生は照れくさいのか、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。

凪「お父さん、ずっとずっと話したかったよぉ……」
凪「嬉しい、すごく嬉しい――」
388 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:11:49.57 ID:XR2bVOTMo
凪「お父さん、あのね。私、約束叶えたよ。地区大会で優勝した」
剛「ここで見てたよ。すごくいい試合だった」
凪「ほんと?」

剛先生は「ああ」と頷くと、歯を見せて楽しそうに笑った。
真っ白な陽射しを反射したその笑顔は、とても眩しく、輝いて見えた。

剛「お父さんは、凪がこんなに立派に成長してくれて……本当に嬉しいよ」
凪「お、お父さぁん……」

凪は「わああ」と声を上げ、大泣きした。

凪「お父さん、お父さん……!!」

剛先生は「どうしたの?」と戸惑っているようだったが、
どこか幸せそうな、とても優しい表情をしていた。
389 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:13:43.83 ID:XR2bVOTMo
凪「ねえお父さん」
剛「ん?」
凪「一つだけ、訊かせてほしいことがあるの」
剛「いいよ。なんだい?」

凪は鼻をすすってから「ふふ」と笑ったあと、”あの質問”をした。

凪「お父さんは、雨が好きなの?」

すると、剛先生は少しだけ間を置いてから、嬉しそうに笑って答える。

剛「ああ、大好きだよ。どうしてか分かるかい?」
凪「んーん、分からない。……どうして?」
390 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:15:39.22 ID:XR2bVOTMo
剛「もうずっと前のことだけどね……凪が生まれた日が、雨だったんだ」
凪「そうなの?」
剛「うん、そうなんだ」

そう語る剛先生の優しい目元からは、凪への愛情が溢れていて……
大切で大切でたまらない娘を愛おしそうに語る”父”の顔をしていた。

剛「だからね、雨を見ていると……凪が生まれてきてくれたあの日のことを思い出して」
剛「とても幸せな気持ちになるんだよ」

剛先生はまた笑う。凪とそっくりな、その明朗な笑顔で。
391 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:16:38.68 ID:XR2bVOTMo
凪「そ、そうだったんだね……」

凪は「うえぇ」とまたしても大泣きし、剛先生に抱きついた。
そして何度も「ありがとう、ありがとう」とうわ言のように繰り返した。

剛先生がずっと雨を見ていたのは……。
そこに凪の思い出があったから――なのだろうか。

だとしたら。
剛先生は、彼にしか見えないその世界のなかで、ずっと幸せな気持ちだったのかもしれない。

そうだったらいいのにな……と思った。
392 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:18:16.33 ID:XR2bVOTMo
ふと、晴れた空の白い綿雲から、ぽつぽつと雨が降り出した。
きらきらと輝く無数の雨滴が、乾き切った白砂のグラウンドに舞い落ち、跡をつける。

「雨?」
「珍しいね、晴れてるのに降ってきた」
「傘、あったかな」

珍しい現象に、周囲にいた人々がざわつく。
393 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:22:40.76 ID:XR2bVOTMo
すると、どこからともなくこんな声がした。

「あ、狐の嫁入りだね。晴れてるけど傘をささないと」

それはまさしく、晴れ空に傘。
見上げると、青空の中に大きな虹がかかっていた。

凪と剛先生は透明なビニール傘を広げ、その中でふたり、いつまでも笑っていた。
晴れ空の傘のなかで――。

https://i.imgur.com/cMkLFfX.jpg
394 : ◆WiJOfOqXmc [sage saga]:2021/12/29(水) 22:26:11.30 ID:XR2bVOTMo
SS「晴れ空に傘」はこれでおわりです。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。

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富澤 南
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