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195 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:25:16.47 ID:ivjS9/IdO
田向「一週間前のあの日、キャプテンが七瀬川先輩に泥をかけてから、先輩は学校に来なくなりました」
田向「俺、なんだかそれがすっごく嫌で……」
男「ちょっと待って。よく分からない。そもそもなんで君も凪が泥をかけられたことを知ってるの?」
田向「そうっすね……俺、”その瞬間”を見てましたから」
男「見てた?」
田向「はい。キャプテンが泥をかけるのを、見てました」
瞬間、怒りのボルテージが一気に上がる。
男「どういうことだぁ? じゃあなんで止めなかったんだよ!」
男「お前もあれか? 凪へのいじめに加担したのか!?」
196 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:29:41.39 ID:ivjS9/IdO
田向「だから違うんです! 聞いてください!」
男「言っとくけどな、俺は凪をいじめた奴を絶対に許さねえぞ?」
男「場合によっちゃ、お前も今ここでぶん殴ってやってもいいんだぞ!」
田向「落ち着いてください! お願いします! 本当に違うんですって!」
頭に血が上ってしまい、俺が田向君の腕を掴んだので、彼は必死に弁解をする。
田向「だからそもそも、泥をかけたっていうのも、全部キャプテンの意思じゃないんすよ」
男「はぁ……?」
田向「本当なんす。本当に……キャプテンにも事情が……」
197 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:31:04.32 ID:ivjS9/IdO
そこまで聞いて、俺も冷静さを取り戻した。
つい、目の前の少年が凪のいじめに加担した一人かもしれないと思ったら、
後先を考えずに頭に血が上ってしまった。
俺は「ごめん」と伝え、彼に話を続けさせた。
田向「先輩がいじめられてるのは……知ってるんですよね?」
俺「ああ、聞いてるよ」
田向「なら、話が早いですね」
田向君はそう呟くと、ごくりと一つ唾を飲み、話しを続けた。
田向「七瀬川先輩が、同級生の女子から理不尽ないじめを受けてることは……」
田向「なんというか、野球部の中でも周知の事実だったんすよ」
男「そっか……やっぱりある程度、知れ渡ってることだったんだ」
田向「そうっすね。七瀬川先輩なんて校内でも目立つ人だったんで」
田向「そんな人がいじめに遭ってるんですから、みんな分かってて知らないフリをしてたと思います」
198 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:35:19.20 ID:ivjS9/IdO
男「そんな状態なのに、どうしても誰も助けてやらないんだよ」
不満たっぷりにそう言うと、田向君は「いやぁ……」と首を傾げた。
田向「自分の身を挺してまで助けようなんて人、そうそういないっすよ」
田向「リアルに考えてください。そんないじめに関わって、何か得があると思います?」
田向「あるとしたら、自分の今後の学校生活が今より悪くなることだと思うんすけど」
男「お前……」
俺は「ふざけんなよ」と言おうとして、やめた――。
仮に、俺が今中学生だったとして、目の前にいじめられている凪がいて……。
俺は自分のすべてを犠牲にしてまで凪を救えただろうか?
その”刃”が明日には自分に向かうかもしれない中、
すべてを捨てて凪を守っただろうか?
199 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:36:49.18 ID:ivjS9/IdO
多分、無理だ。いや、絶対に無理だ。
そんなこと、怖くてできるワケがない。
無責任なことは――言うべきじゃない。
男「まあ……そりゃそうか……」
田向「それに、七瀬川先輩のいじめの中心にいるのは”広瀬”っていう三年の女子なんすけど」
田向「これが本当に厄介で、学校の中心みたいなヤツなんすよね。敵に回したらヤバいっていうか……」
田向「親も地元の建設会社の社長で、先生らも手を焼いてるような生徒なんすよ」
男「はぁぁ……なるほどね。そういう事情もあったのか」
そりゃ、他の生徒からしたら極力関わりたくないのは当然だろう。
中学生はまだ子どもとはいえ、”ある程度の分別”くらいはつくようになっている。
どちらの味方についてどう動けばいいのか……みんな分かっているんだろうな。
200 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:38:35.54 ID:ivjS9/IdO
男「でもだからってさぁ……そんなの、凪がかわいそうだよな……」
田向「分かります。きっと、みんなそう思ってるはずなんすよ」
男「……田向君も?」
田向「はい。……当たり前じゃないっすか」
彼はここに来てから一番真剣な顔で、俺の方を見た。
その表情から、どこかただならぬ”決意”のようなものを感じた。
田向「俺だって、後輩っすけど……七瀬川先輩には本当にお世話になりました」
田向「だからいつも苦しんでる先輩を見るのは……本当に……つらかったっすよ」
201 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:40:27.67 ID:ivjS9/IdO
瞬間、俺はこんな事を訊いていた。
当然、今するような質問ではないと分かりつつも、訊かずにいられなかった。
男「田向君は、凪のことが好きなのか?」
田向「はい?」
男「……すごく凪のことを知ってるみたいだからさ、なんとなく」
田向「ち、違います。俺には他に、好きな人がいるんで……」
男「そっか、それならごめん」
田向君は「そういうんじゃないっすから」と恥ずかしそうに目を伏せた。
見た目はゴツいけれど、こういうところに中学生らしさがあって可愛いなと思った。
田向「七瀬川先輩は……どちらかというと憧れですね。目標みたいな人です」
男「なるほどね。なんとなく、分かる気がするよ」
田向「それに――七瀬川先輩のことを好きだったのは、キャプテンですから」
男「え……?」
202 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:43:39.24 ID:ivjS9/IdO
男「ちょっと待ってよ。凪のことが好きなのに、泥をかけたのか? まったく意味が分からないんだけど」
田向「そうっすね……これで、話が戻せますね」
そう言うと、田向君は「こっからがめっちゃ大事なことなんです」と大きく深呼吸をした。
心の準備が必要なのか、目を瞑って何度も首を振る。
男「大丈夫、ゆっくりでいいよ。それに、きっとここなら誰にも聞かれない」
一応、細心の注意を払って辺りを見回す。
人影一つなく、周辺には寂しげな小道が一本と、桃畑が広がるばかりだった。
時折風が吹いて、青々と茂った桃畑をカサカサと鳴らした。
203 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:48:32.11 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、七瀬川先輩をいじめていた広瀬と、ある”契約”をしたんです」
男「契約……?」
田向「キャプテンはずっと、広瀬になんとかしていじめをやめさせようとしてました」
田向「でも……相手が相手ですから。キャプテンが何を言おうとも、ただでやめるわけがないんす」
田向「それでキャプテンは……広瀬に持ちかけられたんですよ」
『七瀬川凪を野球部から追い出したら、いじめをやめてやる』
田向「って……」
男「なんだよ……それ……」
204 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:50:34.09 ID:ivjS9/IdO
田向君は、苦虫を噛み潰したような顔で、話を続ける。
田向「本当に、卑怯なやつらっすよ……」
田向「広瀬は、七瀬川先輩が野球部を”心の拠り所”にしているのを知ってたんすよ」
田向「実際、部活の時の七瀬川先輩は本当に楽しそうでしたし、僕らもそれを見ていて嬉しかったです」
田向「広瀬は、七瀬川先輩に野球部がある限り、決して先輩が折れないと分かってたんです」
田向「だからこそ、自分たちがいじめるよりも、”それ”を奪うことの方が――」
田向「七瀬川先輩にとって一番つらいって、気付いたんでしょうね」
田向君の話を聞いて、呆然とする。
その広瀬とかいう女、一体どれだけ狡猾なんだ……。
205 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:57:56.17 ID:ivjS9/IdO
田向「それに、キャプテンが七瀬川先輩のことを好きだってことも見透かされてたんですよね」
田向「”もういじめはしない”なんて交換条件を出されたら……」
田向「キャプテンが、それを拒否するはずなんてなかったんです」
男「なるほど……」
キャプテンは体よく利用されていた、ということか。
その選択を迫られた時の彼の気持ちは……一体どんなものだったろう。
……苦しかっただろうな。
田向「その話をキャプテンからされた時……俺もなんて言ったらいいか分からなかったっす」
田向「だってこれ……正解なんてあります? 俺には全然、分かんなかったっす」
206 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 18:59:21.93 ID:ivjS9/IdO
田向「キャプテンは、俺だけにこの話をして……『協力してほしい』とお願いしてきたんです」
田向「当日は、二人で校庭の土をバケツに入れて水を貯めて、泥を作って準備しました」
田向「キャプテンは……これで七瀬川先輩をいじめから救えるって信じていました」
田向「……俺は思いましたけどね」
田向「こんなことをしても、広瀬がいじめをやめる保証なんてないし」
田向「なにより七瀬川先輩の気持ちはどうなるのか……って」
田向君は「はぁーあ」と分かりやすいため息をつき、話を続けた。
207 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:00:25.69 ID:ivjS9/IdO
田向「決行場所は、体育館裏のテニスコートの横でした」
田向「広瀬はテニス部なんで、”その瞬間”がちゃんと奴にも見えるように場所を選んだんですよね」
田向「俺が見ていたのも、ちゃんと”証人”がいた方がいいって言うんで……」
田向「とにかくキャプテンは必死でした」
田向「その”一撃”で絶対に七瀬川先輩を救うんだっていう――決意がありました」
田向「そしてキャプテンは、バケツ一杯の泥を……七瀬川先輩に思い切りかけました」
『もう二度と野球部に顔を出すな!』
田向「っていう言葉と一緒に……」
208 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:02:34.41 ID:ivjS9/IdO
俺は気付いたら、両手で頭を抱えていた。
なんというかもう、自分の理解の許容量を越えていたのだ。
田向「七瀬川先輩は、涙目になって……」
『……嘘でしょ?』
田向「と言っていました。けど、キャプテンが何も答えなかったんで……」
田向「そのまま、走っていなくなっちゃいました」
田向君は、またしても「はあぁ……」と大きなため息をひとつ吐く。
209 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:03:35.89 ID:ivjS9/IdO
田向「その場面は広瀬にもバッチリ見られてて……」
田向「テニスコートの方から『やるじゃん!』とゲラゲラ笑い声を上げてましたね」
田向「……あんまり、思い出したくはないっす」
俺は田向君の背中を何度か叩いた。なだめるような意味合いもあったと思う。
きっと彼も、沢山の苦悩と向き合ってきたんだ。
田向「そのあと、キャプテンは何度も何度も訊ねてきました」
『あれで良かったよな? 俺、間違ってなかったよな?』
『七瀬川は……大丈夫だよな?』
田向「不安だったんでしょうね。どうしようもないくらいに」
田向「正直……気の毒でした」
210 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:04:40.04 ID:ivjS9/IdO
田向「これで七瀬川先輩へのいじめがなくなると思っていたら……」
田向「先輩は、次の日から学校に来なくなりました」
田向「今までどんなことがあっても、絶対に学校には来ていた先輩が、突然来なくなったんです」
田向「そりゃどんなバカな奴でも分かりますよね?」
田向「七瀬川先輩の心を折ったのは、他の誰でもなく”自分たち”だったんだって……」
遠くで、原付が走り抜ける音が虚しくこだました。
風は吹かない。じめっとして野暮ったい空気が、身体にまとわりつく。
211 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:05:27.52 ID:ivjS9/IdO
田向「こんな話あります? 先輩を救おうとしていたのに、ドン底に突き落としたんですよ?」
田向「七瀬川先輩がいなくなって、俺たちはやっと気づきました」
田向「取り返しのつかないことをしたんだって……」
そして田向君は、ちいさく「クソ」とこぼした。
田向「俺と二人きりになった部室で……キャプテンは大泣きしてました」
田向「ずっとずっと……男のくせに、みっともないくらい泣くんすよ」
田向「バカっすよね。そんなことしたって、七瀬川先輩は戻ってこないのに、本当に……」
そう言って俯いた彼に、俺はかける言葉が見当たらなかった。
ただ黙って、静かに耳を傾けることしかできなかった。
212 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:07:05.77 ID:ivjS9/IdO
田向「それからキャプテンは嘘みたいに覇気がなくなっちゃって……」
田向「本当にひどいもんですよ。もう野球どころじゃないっす」
田向「声は出ないわ、足は動かないわ、極めつきにはコミュニケーションもまともに取れないんすよ」
田向「もう、罪悪感でいっぱいなんでしょうね」
田向「七瀬川先輩もいなくなって、キャプテンもおかしくなって、野球部はめちゃくちゃで……」
田向「もう大会とか、そういうレベルじゃないんですよ」
田向「だから俺、いても立ってもいられなくなって……」
田向「ここに来ちゃったんです」
213 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:09:19.69 ID:ivjS9/IdO
男「……なるほどね。そういうことだったのか……」
田向「はい。なんだか、色々複雑ですいません」
田向「俺もなんて説明したらいいか分からなくて……長くなっちゃいました」
男「いやいや。丁寧に教えてくれて、ありがとう」
俺は思っていた。
”想定していたよりも、事態は深刻じゃない。”
特に、そのキャプテン。
彼に「悪意はなかった」という事実は、光明であった。
むしろ、キャプテンは味方だ。凪にとって、とても大切な学校での味方。
あるいは、そのキャプテンこそが、凪を今の状態から助け出す”キーマン”になるだろう。
そして、この田向君。
彼も間違いなく、本当にいい後輩だ。
これなら、凪は。
すべてが上手くいけば、凪はまた――。
214 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:10:43.37 ID:ivjS9/IdO
田向「ただ、結局……こんな風に俺が来た所で、七瀬川先輩に伝わらないと意味がないっすよね……」
田向「どうしたらいいのか、分からないっす」
男「一番いいのは……そのキャプテンが、直接謝りに来ることだと思うよ」
田向「やっぱり、そうですかね」
男「間違いない。やった本人が事情を直接説明するのが、一番いい」
田向「でも……」
男「キャプテンはとてもそんな精神状態じゃないんだろ?」
田向「……っすね。無理だと思います」
俺は「うーん……」と考え込んだあと、とある”アイデア”を思いついた。
アイデアといっても、非常にシンプルなものだったけど。
215 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:14:03.76 ID:ivjS9/IdO
男「なあ、田向君。俺に考えがあるんだけど、いいかな?」
田向「はい。……なんすか」
男「明日の部活の時間、キャプテンを強引に連れ出そうぜ。俺たち二人でさ」
田向「連れ出す……っすか?」
男「きっと、田向君一人だと難しいだろ? そこを、俺が勢いで加勢する」
男「多少強引にでもキャプテンを引っ張り出してきて、凪に会わせるんだ」
田向「できますかね……? そんなこと……」
男「できるできないじゃないんだよ。……やるんだ」
田向君は、目を見開いて俺の方を見た。
216 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:15:01.85 ID:ivjS9/IdO
田向「でも、そうは言っても……」
男「大丈夫、任せな。実は俺、南中野球部のOBなんだ」
田向「そうだったんすか!?」
男「だから部活への潜入には多少強引でも”理由付け”ができる」
男「万が一先生にバレて難癖つけられたら……」
田向「つけられたら?」
男「めっちゃ逃げる」
田向「……了解っす」
217 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:16:58.67 ID:ivjS9/IdO
男「よーし! そうと決まれば明日の15時30分、南中の正門前に集合だ」
田向「分かりました」
男「いいか? このことは暮れ暮れも内密にな」
男「ちょっとでも誰かに怪しまれたら、全部パーだ」
田向「うっす」
男「大丈夫、俺も入念に”準備”をしていくよ。田向くんは、いつも通りで頼む」
田向「分かりました。キャプテン……絶対に連れ出しましょう」
男「おう、その意気だぜ」
凪、きっと大丈夫だ。
君のまわりには、こんなにも君を想ってくれている奴らがいる。
もうすぐだから。待っててくれよ。
218 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:20:26.33 ID:ivjS9/IdO
そして次の日。
”南中潜入作戦”決行の当日、俺は中学の正門から20mほど離れた場所に自転車を止め、様子を見ていた。
正門に田向君が来ていないか、遠目から確かめていたのだ。
彼がいなければ、到底中に入ることなどできないし、ただの不審者だ。
なので、その位置から熱心に正門付近を監視していたが、
遠巻きに校内を覗く俺の姿は、すでに不審者そのものだっただろう……。
空は今にも泣き出しそうなほどの曇天模様だった。
分厚いグレーの粘土で何重にも固めたような、どんよりとした重たい空だった。
しばらくして、正門にきょろきょろしながら田向君が現れた。
俺はそれを確認し、すぐに駆け寄った。
219 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:22:46.46 ID:ivjS9/IdO
男「やあ、大丈夫そ?」
田向「どうすかね。まあ分かんないすけど、堂々と入ってく方がいいんじゃないすか」
男「そうだね。変にビクビクするより、自信満々に歩いていった方がいいだろうね」
田向「んじゃ、行きますか」
学校に潜入するということ。
それは、いかにその世界に違和感なくなじむか、ということだ。
そのために俺はアンダーアーマーを着込み、上下を夏用のジャージで揃え、それらしいボードを小脇に抱えた。
いかにも”野球部のOBが指導に来た”感を演出することに徹したのだ。
もとより、俺は潜入して何かをやらかすわけでもなく、
実際に卒業生で野球部のOBなのだから、バレたところでさして問題にはならないだろう。
ただ、万が一変な騒ぎでも起きようものなら、全てが灰燼に帰してしまう。
今日、俺と田向君は――凪を救う第一歩となる、大事な”作戦”を決行しているんだ。
220 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:24:47.54 ID:ivjS9/IdO
前庭の、職員室の目の前を”まともに”通り抜け、二人して校庭へと向かう。
さすがに職員室の真横を通るのはどうかと思ったが、この大胆さが逆に周りからの不審感を緩和させる気もした。
前庭の花壇は記憶のままの光景で、百日草の花が咲き乱れ、風に揺れていた。
保健室前の水道も当時のままで、「ああ、ここでよく傷口を洗ったな」なんて記憶が思い起こされ、
胸がむず痒くなるような、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
目に映るすべてのものにノスタルジーのフイルターがかかり、
本当にただ”久々に母校を訪れたOB”となってしまった。
校庭には、すでに野球部・サッカー部・ハンドボール部が展開しており、
バックネット周りでは練習着を来た野球部員がアップを始めていた。
途中、すれ違ったハンド部の男子に「ちわっす!」と挨拶をされ、思わずにやけてしまった。
田向「完全にOBか指導者だと思われてますね」
男「だなぁ……」
講じた策がしっかりとハマり、田向君と二人でくすくすと笑ってしまった。
221 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/26(日) 19:26:39.81 ID:ivjS9/IdO
バックネット付近まで来ると、田向君はキョロキョロと辺りを見回す。
十数人ほどの野球少年がストレッチしたり腿上げをしたり、それぞれの準備に励んでいる。
中にはもう気ままにキャッチボールをしている子たちもいる。
一見普通の部活の様子にも見えるが、確かにどこか締まっていない、覇気のない空気が漂っている気がした。
男「キャプテン、いないの?」
田向「あれぇ……いないすね。いつも割と早めに出てくるんですが……」
そんな会話をしていると、一人の三年生と思しき部員が近づいてきた。
三年「おい田向ぃ、なんでまだ着替えてないんだよ?」
田向「あ、すいません。ちょっと色々あったもんで」
その三年生は、ヘラヘラと笑って「んだよぉ」と田向君に絡んでいる。
ただ、ふざけているという様子でもなく、きっとこれがこの子のニュートラルなのだろう。
222 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:50:30.05 ID:DNcSflKQo
三年「で、その人は誰?」
田向「え? ああ、ええと……」
田向君、思ったより機転が利かないタイプらしい。
すかさず俺は自ら名乗りを上げる。
男「俺はOBの者です。ちょっと今日は軽く様子を見に来ただけなんで。すぐ帰るから気にしないで」
するとその三年の子は「あーそうなんすね……」と気まずそうに答えた。
三年「なあ田向、キャプテンも七瀬もいねえからさ、全然まとまんねえよ」
三年「なんか俺もサボっちゃおうかな」
そう言うと彼は、「ひひひ」と肩を震わせて笑った。
田向「あれ、キャプテンはまだ来てないんですか……?」
三年「来てんだけどさぁ。なんか部室で考え込んでたんだよな」
この時、多分俺だけじゃなく田向君も「チャンスだ」と思っただろう。
もしも部室に一人で残っているなら、今が絶好のチャンスだ。
223 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:51:18.52 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、すいません。今日俺とキャプテンは部活休むんで」
田向「先生が来たら、そう伝えておいてください」
三年「え、ちょ、どういうこと!?」
彼はとても動揺していたが、田向君は構わず「部室です!」と言って小走りで駆け出した。
後ろから「え、なになに? なにかあんの〜?」と呼び止める声が聞こえたが、
田向君は「あの人ならほっといて大丈夫です」と無視を決め込んだ。
二人で、校庭の隅にある部室小屋へと走る。
224 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:53:27.41 ID:DNcSflKQo
部室小屋の一番左。「野球部」と書かれた薄汚れた緑色の扉は、当時と何も変わっていない。
田向君が勢いよくその戸を開けると、中にはパイプ椅子に座ってうなだれている一人の男子がいた。
埃っぽくて薄暗い室内だったので、一層悲壮感が際立っていた。
田向「キャプテン……」
その声に反応し、”キャプテン”と呼ばれた彼はゆっくりと顔を上げこちらを見る。
表情は虚ろではあったが、すっきりとした顔立ちのイケメンだった。
キャプテン「ん……なんだ。タムか」
田向「なんだ、じゃないっすよ。もう部活も始まってるのに、着替えもしないで何してんすか」
キャプテン「んあ……まあ、何もしてないけど。ってか、お前も来るの遅かったじゃん」
田向「それは……俺も色々あるんすよ」
キャプテン「まあ、いいけどさ……」
225 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 03:54:37.46 ID:yRBFXDGmO
すごい。見入ってる。
226 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:55:48.05 ID:DNcSflKQo
キャプテンはぼんやりとしたその瞳で、俺のことも見た。
キャプテン「え……。んん?」
そう呟くと、目を細めてまじまじと俺を眺めた。
キャプテンの髪の毛はボサボサで、目の周りは少し腫れているようにも見えた。
男「あ、俺は……野球部のOBです。よろしく」
キャプテン「ああ……OBの方? はじめまして」
そしてキャプテンは「ん?」と幾ばくか考えたあと、再び俺を見た。
キャプテン「すんません。OBの方がなんの用で?」
男「今日はちょっと見学に来ただけで……いや」
言いかけて、やめた。
もう、さっさと”本題”を伝えてしまおうと思った。
227 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:56:55.29 ID:DNcSflKQo
男「君が、この野球部のキャプテンなんだろ?」
キャプテン「え? ああ、はい。そうですけど……」
男「凪に泥をかけたのは君だな?」
その言葉を受けて――キャプテンは勢いよく立ち上がった。
座っていたパイプ椅子が「ガシャン」と音を立てて倒れた。
キャプテン「な、なんすか? なんでそんなこと知ってるんですか?」
そして彼は田向君の方を見て……「タムか?」と言った。
田向君は黙ってゆっくりと頷く。
男「事情は大体田向君から聞いてる。凪のことも、君がやったことも」
キャプテン「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。凪って……そもそも貴方は誰なんですか?」
228 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 03:58:42.24 ID:DNcSflKQo
男「自己紹介が遅くなってごめん。俺は、凪の家の塾で働いてる、塾講師の男です」
周章狼狽するキャプテンに向かって、俺は丁寧に説明をする。
男「凪は俺の教え子で……学校のことやいじめのことも、全部教えてくれた」
男「凪が君に泥をかけられたってことも……本人から聞いたよ」
すると、キャプテンは「えええ……」と苦い顔をし、膝に手をついた。
無理もない。
突然現れた見ず知らずの男にこんな事を言われたら、どうしたらいいか分からないだろう。
キャプテン「じゃあ、なんすか? その報復? 俺を懲らしめに来た……とかですか?」
男「いや、違う」
キャプテン「じゃあ何の用で……?」
229 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:00:15.48 ID:DNcSflKQo
男「一緒に凪を助けに行こう」
そう言った時――少しだけ時が止まった気がした。
目の前にいたキャプテンは目を見開いて呆然とし、外からは吹奏楽部の気の抜けたチューバの音が聞こえた。
そして、「カキィン」という気持ちのいい金属音が響いた時――。
辛気臭い空気の部室内に、小窓からふわりとそよ風が舞い込んだ。
キャプテン「は? どういうことですか?」
俺は、隣にいた田向君の肩を叩く。
男「聞いたんだよ、田向君にね。君があの日やったことは――”本意”じゃなかったって」
キャプテン「え……。タム、その人にどこまで話した……?」
田向君は「全部です」とはっきりとした口調で、淡々と答えた。
キャプテンはため息まじりに「あー……」と漏らす。
230 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:03:34.10 ID:DNcSflKQo
男「君は、凪が学校に来なくなったことに罪悪感を覚えてるんだろ?」
男「他でもない、自分のせいなんじゃないかって、思ってるんだろ?」
男「……違うか?」
するとキャプテンは唇を噛み、眉間にシワを刻んで俺を睨みつけた。
キャプテン「だったらなんすか?」
キャプテン「俺はあの子を傷つけたんです。もう何も戻ってこない」
男「そんなことはない。まだ間に合うし、必ず凪は戻ってくる」
キャプテン「……何が言いたいんですか?」
男「だから、そのためには君の力が必要なんだよ」
男「君が少し勇気を出して謝れば、変えられるんだよ。――分かるだろ?」
231 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:04:41.04 ID:DNcSflKQo
キャプテン「分からねえよ!!」
今までローテンションで話していたキャプテンが、突然大声を上げた。
その豹変ぶりはなかなかのもので、
歯を食いしばり、敵意剥き出しで俺を睨んでいた。
キャプテン「もう何も戻ってきやしないし、何も変わらねえんすよ!」
キャプテン「大体、アンタなんなんだ? 突然現れて偉そうなこと言って……」
キャプテン「アンタ、何がしたいんだ?」
俺は深く息を吸い……彼の質問に答える。
その言葉には、一寸の迷いも、陰りもない。
男「凪を、助けたいんだよ」
232 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:09:14.46 ID:DNcSflKQo
キャプテン「は……?」
男「だから、凪を助けたいんだよ。そのためなら、俺はなんだってするつもりなんだ」
男「大恥かいても、誰かに罵倒されても、痛くても苦しくても……」
男「死んでもいい」
男「俺はな、そのくらい凪を助けたいんだよ。それだけだ」
俺の言葉を聞いて、キャプテンは「はっはは」と渇いた笑いをこぼす。
キャプテン「アンタ……ただの七瀬川の塾講師だろ? 何言ってんだ?」
キャプテン「それにアンタいくつだよ。女子中学生相手に、本気か?」
男「確かに俺は25で……凪は15だ。でも、そんなことはまったく関係ない」
男「俺は、凪に命を救われたんだから」
233 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:11:23.46 ID:DNcSflKQo
キャプテンは、首を傾げて俺に鋭い視線を向ける。
田向くんも、驚いた様子で俺を見ていた。
キャプテン「命を救われたァ……?」
男「そうだよ。俺は……自殺しようとしてたんだ」
男「根図橋で飛び降りようとしていた時……凪に止められて、助かった」
男「もし凪がいなければ、俺は今頃……死んでたろうな」
キャプテン「はぁ……?」
キャプテンは、口を開けたまま固まっている。
突然目の前で自殺未遂の告白なんかされたら、誰だってそうなるだろう。
男「言ってしまえば俺なんか、この世界で死を選ぶことしかできなかったクズだ」
男「だから、君らには何一つ偉そうなことは言えない。言うつもりもない」
男「でも、絶対に、凪だけは助けるんだ」
男「なんなら――今はそのために生きてると言ってもいい」
234 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:16:21.17 ID:DNcSflKQo
カキィン。
また一つ、校庭から大きな金属音。
キャプテン「……本気、なんすね」
男「……ああ、本気だよ。それに、キャプテン。君なら分かるはずだろ?」
男「凪を助けたい気持ちがさ」
キャプテン「そ、それは……」
男「君も、凪を助けたいその一心で、泥をかけたんだろ?」
男「たとえ自分が悪者になって、凪にずっと嫌われることになっても……」
男「すべてを捨てる覚悟のうえで――凪に泥をかけた」
男「……ちがうかい?」
235 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:17:49.18 ID:DNcSflKQo
キャプテンは下を向いて押し黙った。
彼の右手は、ぎゅっと真っ白な夏服ワイシャツを掴んでいる。
男「はっきり言って、とても苦しい選択だったと思う」
男「でも、君は勇気を出して凪を助けようとしたんだ」
男「だからこそ、その勇気を無駄にしちゃダメだ。今からでも、謝りに行けば間に合うかもしれない」
そう言った時だった――。
小窓から湿った風がふわりと入り込んだかと思うと、
サアアと音を立てて雨が降り始めた。
田向「うわあ、最悪っすね」
田向くんは戸口から外を見て呟く。
男「なにが?」
236 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:07.89 ID:DNcSflKQo
田向「この感じ、通り雨じゃないっすよ」
田向「そうなると、外練は終わりで……じきにこの部室にみんなも、先生も来ます」
男「は? マジ?」
部員のみんなが部活に集中している時ならいざ知らず、
一旦部室に全員戻ってくるとなると、流石にそれはまずい。
さらに、いずれ顧問の先生も来るとなると……いよいよごまかしは利かない。
もうここには長居できない。
なんとかしてキャプテンを連れ出さなくては。
237 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:22:50.28 ID:DNcSflKQo
男「なあキャプテン、聞いてたか?」
男「今すぐ、凪のところへ一緒に行こう」
男「そこで、今までの事を包み隠さず話して、謝るんだ」
キャプテン「…………」
男「それができるのは、君しかいないんだよ! 分かるだろ?」
男「俺にも、田向君にもできないんだ。なあ、頼むよ……」
男「君じゃなきゃ……ダメなんだ」
238 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:23:57.86 ID:DNcSflKQo
キャプテン「俺には……無理ですよ」
男「はあ? まだそんなこと言って……」
キャプテン「今更、七瀬川に合わせる顔がありません」
男「じゃあ、ずっと凪が塞ぎ込んだままでいいって言うのか?」
キャプテン「そういうワケじゃないですけど……」
部室の外が、段々と賑やかになってくる。
雨で外練の中断を余儀なくされた連中が、徐々に部室まわりに集まってきてるんだ。
キャプテン「俺が行って謝ったところで、七瀬川が戻ってくるなんて保証もないですし」
キャプテン「だから俺なんか、何もしない方が――」
男「あのなあ!!」
239 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:27:55.86 ID:DNcSflKQo
俺は思い切り怒鳴っていた。
もう残された時間がわずかで焦っていたのもあるし、
キャプテンの煮え切らない態度が気に食わなかったのもある。
そして何より――キャプテンの”独り善がり”な考えが許せなかった。
男「じゃあ、凪は誰のせいでこうなったと思ってる?」
男「どんな理由であれ、最後にお前が泥をかけたからだろ!」
男「それをなんだ? なんでお前がそんなにぐじぐじしてるんだ?」
男「ふざけんなよ。凪はな、もっともっと苦しんでんだよ!」
キャプテン「う……」
240 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:30:17.35 ID:DNcSflKQo
田向「まずいっすよ。もうすぐみんな戻ってきます」
後ろで外を見張っていた田向君が声をかけてきた。
タイムリミットか。
男「キャプテン。お前、凪が好きなんだろ?」
キャプテン「え、は? な、なんで……」
男「別に今はそんな事どうだっていい。なあ、好きなんだろ?」
キャプテン「そ、それは……」
男「好きなら。凪が好きなら! 今、ここはやるべき時なんだよ!」
男「……信じてるからな」
田向「男さん、行きましょう! もうまずいっす!」
241 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:33:41.87 ID:DNcSflKQo
田向君に促され、部室から出る。
去り際――最後に一つだけ付け足した。
男「このあと、万力公園の芝生広場で待ってるからな! 必ず来い!」
そしてそのまま、一目散に駆け出した。
部室の外にはすでにサッカー部や野球部の少年たちが大勢溜まっていた。
先生らしき人影も見えた。
その人だかりの間隙を縫うように、夢中で走り抜けていく。
田向「危なかったっすね。野球部の顧問も普通にいましたよ」
男「マジ? 本当に間一髪だったか」
田向「ですね。まあ今はとにかく走りましょう」
俺たちは雨の中――正門を目指してひた走った。
242 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:36:06.11 ID:DNcSflKQo
雨は止むどころか、次第に勢いを増していき――あっという間に土砂降りになっていた。
俺と田向君は、そんな強雨の中で思い切り自転車を漕いでいた。
田向「このあと、どうするんですか!?」
雨音にかき消されないよう、隣をゆく田向君が大声で訊いてくる。
男「凪の家に行く!」
田向「家? 行ってどうするんですか?」
すっかり水浸しになった小道を、バランスを崩さないように走っていく。
桃畑に挟まれた未舗装の農道は、油断すればたちまち車輪を持っていかれる。
決して転ぶことのないように、しっかりとハンドルを握りペダルを踏む。
243 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:40:42.65 ID:DNcSflKQo
男「凪を家から連れ出す!」
田向「連れ出す? そんなことできるんですか?」
男「キャッチボールだ!」
田向「え?」
男「田向君、グラブは持ってきてるか?」
田向「持ってますけど!」
男「上等だ。俺を信じて付いてきてくれ!」
田向君は一瞬訝しげな顔をしたが――すぐに頷き、「はい」とだけ言った。
あとは、キャプテンを信じるだけだ……。
彼ならきっと、来てくれる。
244 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 04:40:56.21 ID:mUqUIp1RO
ほんとに情景が映像になって浮かんでくる。
映画一本見てるみたいな気分、、
245 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:42:46.69 ID:DNcSflKQo
駅前の踏切を突っ切り、そのままあの根図橋を走り抜ける。
雨足は依然として激しいままだ。
すでに俺も田向君も全身びしょ濡れだった。
しかしそんなことは一切意に介さず、俺たちは自転車を漕ぎ続けた。
はやく、はやく。今すぐに、あの家へ――。
何がそこまで俺たちを駆り立てていたのだろう。
キャプテンの煮え切らない態度?
凪を助けたい一心?
自分にも何かできるかもしれないという……期待?
分からないけれど、きっと……その全部だったんだろう。
246 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:46:43.90 ID:DNcSflKQo
凪の家の前に辿り着くやいなや、俺はすぐにインターホンを鳴らしていた。
少しでも間ができると、余計なことを色々と考えてしまいそうな気がしたからだ。
田向君は神妙な面持ちで、すぐ後ろで見守っている。
婆ちゃん「はい」
インターホンに出たのは、凪のお婆ちゃんだった。
恐らくだが、陽子先生は塾で事務仕事をしているんだろう。
男「あの、男です。凪を呼んでもらいたいんですが」
婆ちゃん「あら、男くん。凪ねぇ……でも、あの子は……」
そうお婆ちゃんが言いかけた時、俺は咄嗟に口にしていた。
247 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:48:15.61 ID:DNcSflKQo
男「キャッチボールです」
婆ちゃん「え? ……なに?」
男「俺がキャッチボールしようって言ってるって。そう伝えてください」
婆ちゃん「……分かったよ。ちっと待っててね」
振り向くと、後ろで田向くんがぽかんとした表情で俺を見ていた。
田向「この土砂降りの中でキャッチボールなんて……そんなんで出てきてくれます?」
男「それは分からない。出てこなきゃ快晴の日でも出てこないだろうし、雨は大して関係ないさ」
田向「そうっすかねぇ……」
男「とにかく今は、バカみたいに信じるしかねえんだ」
248 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:51:17.91 ID:DNcSflKQo
すると、インターホンからあの声が聞こえた。
凪「……どうしたの」
まぎれもなく、凪であった。
窓際の風鈴のようにか細くて、それでいて澄んだ声。
もう、随分久しぶりに聞いたような、そんな気さえした。
男「凪! 久しぶり。すごく心配だったよ……」
凪「……ごめんね。今までずっと閉じこもってて……」
凪「男さんは何も悪くないのに、心配かけちゃったよね」
男「いいんだよそんなことは。こうやって話せて嬉しいよ、俺は」
今まで、こうして話すことすらできなかったので、
インターホン越しとはいえ、凪の声が聞けたことが本当に嬉しかった。
249 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:53:33.22 ID:DNcSflKQo
凪「でも、こんな雨の日にキャッチボールなんて……どういうこと?」
男「いきなりでびっくりするかもだけど、とても大事なことなんだ」
凪「だいじなこと……?」
男「ああ、そうなんだ」
目の前の真っ黒なインターホンに向かって、凪の顔を想像する。
今、どんな表情をしているだろうか。
やっぱり落ち込んで、俯いているんだろうか。
部屋でひとり、泣くこともあったんだろうか。
いつ戻れるかも分からない学校のことを思い、苦しんでいたんだろうか。
なら俺は、そのすべてを変えたい。
凪に笑ってほしいし、もう一度学校へ行って野球をしてほしい。
そう、だから――俺はここに来た。田向くんとキャプテンをけしかけて。
250 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 04:55:47.47 ID:DNcSflKQo
男「俺と一緒に、これから万力公園に行ってキャッチボールをしよう。……お願いだから」
凪「で、でも……」
「でも」と言う凪の声色は、決して明るいものではない。
凪「キャッチボールなら、また天気の良い日にしない?」
確かに。
こんな悪天のなかでわざわざキャッチボールなんてする必要は全くない。
普通ならば日を改めるべきだし、凪の言っていることはもっともだった。
でも、それじゃだめなんだよ。
男「でも……」
そう言いかけた時だった、後ろから田向くんがぐいっと俺の肩を引っ張った。
251 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:03:28.20 ID:DNcSflKQo
田向「七瀬川先輩、行きましょう!」
その声を聞き、インターホン越しの凪は「え!」と驚いたようだった。
田向「待っている人がいるんです。だから一緒に行きましょう」
凪「ちょ、ちょっと待って……誰? もしかして、田向……?」
田向「はい、そうです。田向です」
凪「うそでしょ……」
凪「なんでなんで? どうして男さんと田向が一緒にいるの?」
田向「それは……」
男「正直、話すと長くなるんだ。だからとにかく、今は一緒に来てほしい」
凪「でも……」
男「俺のこと……信じてほしいんだ」
252 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:39:52.17 ID:DNcSflKQo
しばらく凪からの返事はなかった。
雨がアスファルトを打ちつける音だけが、虚しく響く。
こんな突然の作戦、やっぱりダメだったか?
そう、諦めかけたときだった。
凪「わかったよ。男さんの言うことなら、信じる」
男「ほんとうに……?」
凪「本当だよ。だって、男さんを信じられなかったらさ」
凪「もうこの世界で、何も信じられなくなっちゃう気がするから」
男「凪……」
凪「それに、そこに田向もいるんでしょ。ただごとじゃないって、私にも分かるよ」
田向「先輩……」
253 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 05:56:01.10 ID:DNcSflKQo
また、凪に会える。
ずっと閉じこもっていた家の中から、出てきてくれる。
そう思うと、祭り囃子の太鼓みたいに、心臓が激しく波打った。
なんで?
その感情が一体どんなものなのか、自分でもよく分からなかった。
凪「それにしてもさぁ」
男「……ん?」
凪「こんな土砂降りの日にキャッチボールなんて、ほんとどうかしてる」
男「それは……ごめん」
凪「まあ、いいよ。濡れてもいい服に着替えたら行くからさ。待っててね」
そう言ったあと、ほんの少しだけ――「ふふ」と笑った声が聞こえた。
254 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:04:30.43 ID:DNcSflKQo
田向「先輩、本当に出てきてくれますかね……?」
雨に打たれ続け、額にいくつもの水滴を垂らしながら、田向くんが訊いてきた。
その表情には、いまだに不安が色濃く残っていた。
男「ああ言ってくれたんだし、必ず出てくるよ」
田向「でもこんな誘い、よく考えたらめちゃくちゃですよ」
俺は田向くんの肩をぽんと叩いた。
男「凪が言ったことを守る子だってこと、田向くんだって分かってるはずだろ?」
田向「それは……ハイ。間違いないっす」
男「なら待とう。あの子は出てくる」
255 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:17:15.46 ID:DNcSflKQo
しばらく雨に打たれながら待っていると、5分もしないうちに凪が出てきた。
凪「……ひさしぶり」
学校の体育着にパーカーを羽織った凪が、玄関先に立ち、はにかむ。
凪「ふたりとも、もうビショビショじゃん。なにやってんだか……」
なぜだか胸がいっぱいになり「お、おお」みたいな反応しかできない俺を尻目に、
田向くんが後ろから元気な声を出す。
田向「先輩! 久しぶりですッ!」
凪はわずかに微笑むと「久しぶりだね」と噛みしめるように言った。
凪「田向。ごめんね……心配かけたよね」
田向「いや、そんなこと全然ないっすよ……」
凪に向かって語りかける田向くんの瞳は、きらきらと光っているように見えた。
それは先輩への憧憬の念なのか、あるいは……。
256 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 06:19:35.54 ID:DNcSflKQo
男「凪、グラブは持った?」
凪「持った」
男「万力公園に行くよ。自転車はあるよね?」
凪「うん。裏から取ってくる」
凪はもはや、「どうして?」と訊くことはなかった。
俺と田向くんを信用して、これから「何か」があると分かりつつ――
付いてきてくれることを、決めたんだ。
少しだけ小雨になった空を見上げると、
相変わらず履き潰した上履きみたいな、淀んだ灰色をしていた。
凪は家の裏から自転車を引いて歩きながら「もうめっちゃ濡れちゃったよ」と笑っていた。
257 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 06:50:40.02 ID:mUqUIp1RO
これ、割とレベチのSSだよね
毎日更新してくれて本当にありがたい
青春っていいなぁ…
258 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/27(月) 07:10:18.38 ID:G0JHhHMEO
キャプテン、来るのか…?
259 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:35:35.94 ID:DNcSflKQo
俺が先陣を切って走り出し、雨水の溜まった農道を自転車で勢いよく滑っていく。
時折、桃の木の枝が視界を掠めていった。
通り過ぎる3ナンバーの乗用車は、凄まじい勢いで水しぶきを上げていく。
後ろに続く凪がどんな顔をしているかは分からなかった。
何度か振り返ろうかと思ったけれど、なぜだかそれが……できなかった。
気づくと視界の端に、「万力林」と呼ばれる雑木林が見えてきた。
凪の家から万力公園は決して遠くないが、
夢中で走っているうちにあっという間に着いた気がした。
260 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:38:03.63 ID:DNcSflKQo
万力公園は、かつて武田信玄が防水林として植えた赤松が発祥となっている――
という、由緒正しい公園である。
市が管理する大きな都市公園であり、いつもは学生や家族連れで賑わっているのだが、
今日はこんな天気ということもあってか、
入り口の売店にも、駐車場にも、まったく人はいなかった。
まるで世界の終わりのような公園内を走り抜けて芝生広場にたどり着くと、
その中心に”だれか”がいた。
しとしとと雨が降りしきり、すっかり水浸しになった誰もいない芝生の真ん中に、
ポツンと一人――あの少年が佇んでいた。
261 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:42:17.05 ID:DNcSflKQo
田向「あ!」
その人影に気付いた田向くんが、自転車を転がすように置き去りにして駆け出した。
男「ちょっと――」
田向くんを追おうとしたものの、すぐにやめた。
後ろにいた凪が、唇を噛んで辛そうな顔をしていたからだ。
凪も、あの少年が誰なのか……気付いたんだろう。
俺は優しく「大丈夫だよ。いこう」と声をかけた。
俺と凪は自転車を降り、田向くんと”彼”のもとへ――ゆっくりと近づいた。
262 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:46:20.59 ID:DNcSflKQo
キャプテン「……七瀬川」
雨のなかずっと立ち尽くしていたのか、濡れ鼠のようになった彼はぼそりと言った。
気のせいかもしれないが、その瞳は少しだけ赤らんでいるようにも見えた。
凪「どうしてここにいるの……?」
キャプテン「呼ばれたんだよ」
凪「え……?」
凪は困ったように俺の方を見る。
男「キャプテンを呼び出したのは俺と田向くんだ」
男「……キャッチボールをするためにね」
キャプテン「は? キャッチボール?」
263 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:55:12.56 ID:DNcSflKQo
男「キャプテン、グラブは持ってる?」
キャプテン「持ってきてないですよ」
男「ま、そうだと思った」
俺は田向君に向かってグラブを渡すようにジェスチャーする。
田向君は背負っていたエナメルバッグの中から黒いザナックスのグラブを取り出し、
そのままキャプテンに投げ渡した。
男「凪、グラブを出して」
そう伝えると凪は小さく頷き、バッグから鮮やかな赤茶色のグラブを取り出した。
凪はミズノのグラブなんだな……とかそんなことを考えていると、
目の前にいるキャプテンが大声を出した。
キャプテン「七瀬川、投げてこいよ!」
264 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 21:57:15.75 ID:DNcSflKQo
きっと、なにか吹っ切れたのだろう。
さっきの学校での姿とは打って変わり、やる気に満ちた彼を見て、少しだけ嬉しくなってしまう。
さあ、ここからは……手出し無用だ。
凪とキャプテンの大好きな――その”白球”にすべてを託すとしよう。
キャッチボールをしていれば、自ずと心は通い合うはずだ。
凪「…………」
凪はその場で、握った白球を見つめたまま動かなかった。
キャプテンが何度か「投げてこい!」と声をかけても反応しない。
田向君が「先輩、いいんですよ! 思い切り投げて!」と言うと、
凪は顔を上げてキャプテンを数秒見つめた。
そして軽くステップを踏み、キャプテンに向かってボールを投げた。
雨を切り一直線に伸びた球は、勢いよくキャプテンのグラブに収まった。
265 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:06:52.37 ID:DNcSflKQo
さすがだ。良い球を投げる。
そんなことを思っていると、キャプテンも負けじとこれまた良い球を投げ返した。
そしてしばらく無言で、ボールの往復が始まった。
キャッチボールを見ればどのくらいの技量か分かる……なんて言うことがあるけど、
この二人が普段からどれだけ野球を愛し、真摯に向き合ってきたかが伝わってくるようだった。
俺はふと、横で見ていた田向君に訊ねてみた。
男「凪もキャプテンも上手いね。キャプテンはどこを守ってるの?」
田向「キャプテンは、ショートですね」
男「なるほど……」
きっと彼は、技術的にも精神的にも、チームの柱なんだろうな。
266 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:13:24.72 ID:DNcSflKQo
二人が何度ボールのやり取りをした頃だろうか――
数回だった気もするし、数十回だった気もする。
ふと、キャプテンが口を開いた。
「七瀬川。俺、ずっと言いたかったことがあるんだ」
白球が、凪の胸元のグラブに収まる。
「……なあに?」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。
「その、なんというか……」
白球が、すこし逸れて凪のグラブに収まる。
「大丈夫だよ。ちゃんと聞くから」
白球が、キャプテンの胸元のグラブに収まる。
「……泥かけて、ごめんな」
白球が、ワンバウンドして凪の後方へ抜けていった。
267 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:15:14.57 ID:DNcSflKQo
田向「俺、取りに行きます!」
すぐさま、田向くんがボールに向かって走っていった。
凪とキャプテンは、見つめ合ったまま固まっている。
キャプテン「ずっと伝えたくて、でも言えなくてさ……」
キャプテン「今更こんなこと言っても遅いかもしれないけど……」
キャプテン「ごめんなさい」
キャプテンはそう言うと、深々と頭を下げた。
凪「……どうして」
キャプテン「え……?」
凪「謝るなら、どうして私にあんなことしたの?」
キャプテン「そ、それは……」
268 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/27(月) 22:55:45.05 ID:DNcSflKQo
凪「分からないよ」
凪「そんな風に言われたって、私、全然分かんない……」
ずっと降り続けていた雨はいつの間にかやんでいたが、
空は相変わらず、重々しい鈍色のままであった。
ボールを拾い、戻ってきていた田向君が口を開く。
田向「先輩、それには理由があるんです」」
凪「理由……?」
田向「そうです。キャプテンは自分の意思じゃなくて……」
キャプテン「タム、いいよ。俺が自分で説明する」
言いかけた田向君を制し、キャプテンは意を決したように「うし」と言ったあと、
凪の方を真っ直ぐに見つめた。
269 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:29:56.92 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺があの日泥をかけたのは……広瀬と約束してたからだ」
凪「広瀬さんと……?」
キャプテン「七瀬川を野球部から追い出したら、いじめをすぐにやめるって言うから……」
キャプテン「俺は……いじめをやめさせるために」
凪「ちょっと待って! 全然分かんないよ。どういうことなの……?」
田向「広瀬はキャプテンに、七瀬川先輩を野球部から追い出したらいじめをやめると……持ちかけたんです」
凪「なにそれ? それで、私を辞めさせるために泥をかけたってこと?」
田向「そのとおりです」
凪は目を見開き、震える声で「うそでしょ……」と漏らした。
270 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:45:29.59 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「俺は、いじめられてる七瀬川を見てるのが本当につらかったんだ」
キャプテン「毎日毎日苦しそうで、なのに一人で戦ってて……」
キャプテン「どうにかしてやりたいって思ってた。でも何もできない自分がいて……」
キャプテン「それが、本当に嫌だった」
凪は表情を崩すことなく、口を真一文字に結んでキャプテンの言葉に耳を傾けている。
キャプテン「広瀬の言う通りにすれば、七瀬川を救えるかもって思ったら……」
キャプテン「俺、後先考えずにあんなことしちまってた」
キャプテン「それが七瀬川のためになるんだって信じ込んでた」
キャプテン「でもさ。俺、間違ってたんだよな」
次第に、凪の肩が小刻みに震え出した。
近寄ろうとしたが、田向君が黙って近づいたので、俺はそのまま見守ることにした。
271 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:47:51.44 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川からしたら、野球を奪われることの方がずっとずっとつらかったんだよ」
キャプテン「俺、ずっとお前を救った気でいてさ……」
キャプテン「一週間以上学校に来なくなってから、やっと気付いんだよ」
キャプテン「俺は、取り返しのつかないことをしたんだって……」
キャプテンがそこまで言い終えると、しばらく沈黙が広がった。
どれくらいの沈黙だっただろう。
一瞬の気もしたし、永遠のような気もした。
とにかく、ぴたりと世界の空気が止まったかと思うと、それが勢いよく破裂したんだ。
凪「当たり前だろ!?」
これまでに一度も聞いたことのないような、凪の渾身の叫びであった。
俺だけじゃない、田向君もキャプテンも唖然とし、その場を動けなかった。
272 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 00:56:51.31 ID:rYOC6gBvo
凪「当たり前じゃん。そんなこと……」
凪「今まで一緒に頑張ってきた仲間だろ……? チームメイトだろ……?」
凪「ずっと一緒に、楽しく野球やってきたじゃんかぁ……」
ぼろぼろと大粒の涙を流し、凪は「ひっぐ」と嗚咽を漏らす。
凪「みんなで夏の大会に向けて、頑張っててさ」
凪「キャプテンはショート、田向はキャッチャー。誰ひとり欠けちゃいけない仲間でしょ?」
凪「私は……野球も、野球部のみんなも、大好きだったんだよ?」
凪「それがなくなったら――いじめより、もっとつらいよ……」
きっと答えなんて、最初からシンプルなものだったんだろう。
要は”それ”を見ようとするか否かというだけで、
キャプテンも田向くんも……最初から分かっていたのかもしれない。
それでも彼らを包んでいた暗雲はそれほどに分厚く――
一時の気の迷いであっても、”縋らずにはいられなかった”のだろう。
それこそ、それが”悪魔の囁き”であったとしても……。
273 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:00:37.74 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「七瀬川。俺は……お前と一緒に、また野球がやりたい」
キャプテン「野球部に……戻ってきてほしい」
凪「うう…………」
とめどなく溢れる涙を、少し大きなパーカーの裾で何度も拭う凪。
しかしそれでも追いつかず、一粒、二粒と、雫が落ちていく。
キャプテン「勝手なこと言ってるのは分かってる」
キャプテン「一方的に出てけって言っておいて、今更戻ってきてくれなんて、虫が良すぎる」
キャプテン「でもな、七瀬川。俺は……俺は………」
凪「なんだよぉ……?」
涙まみれの紅潮した顔で、凪はキャプテンをじっと見つめる。
274 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:03:44.10 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「お、俺は、お前を………」
キャプテン「お前を…………」
二の句は継がれない。
キャプテンは歯ぎしりし、苦しそうに呼吸を整えた。
その様子を見て、俺は――
『頑張れ』
自然と、そんなことを思っていた。
なぜだかは分からない。
この少年が、かつての自分と重なって見えたのか、あるいは――。
275 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:05:30.27 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「次に学校でいじめられたら、俺がお前を守ってやる」
凪「えぇ……?」
キャプテン「もう、何かに頼ったり、他人に任せたりしない」
キャプテン「もしまた七瀬川がいじめられたら、俺が絶対に……守ってやる」
キャプテンは、透き通るほど混じりけのない瞳で凪を見つめる。
そしてまた、しばらくの沈黙が訪れた。
広場を吹き抜ける湿った風が頬を撫で、むわっとした草の匂いが鼻腔をつく。
足元には、松葉色の芝生に混じって、シロツメクサの白い花が顔を出していた。
この中に四葉のクローバーは……あるんだろうか?
276 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:06:34.21 ID:rYOC6gBvo
凪「それ、ほんと……?」
凪はこぼれる涙を右手でぬぐいつつ、言った。
潤んだ瞳には、微かに光が宿っていた。
キャプテン「本当だよ。何があっても、どんな時でも……七瀬川の盾になる」
キャプテン「俺は……心に決めたんだ」
キャプテンがそう言った時だった。
凪「ぅううああ……」
凪はまた派手に泣き出し、座り込んでしまった。
これには俺も心配が勝ち、すぐに近づいて話しかけていた。
277 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:08:32.28 ID:rYOC6gBvo
男「凪、大丈夫……?」
そう問いかけると、凪は口元を押さえてこくりと頷いた。
凪「う、うれしいよぉ……」
凪「今までずっと心細かったから……すごくうれしいよぉ……」
キャプテン「七瀬川……」
凪「じゃあ私、戻ってもいいの? 学校に行っていいの?」
凪「もう一度みんなと……野球、していいの?」
すると、キャプテンは今にも泣き出しそうな微笑みを浮かべて……。
「もちろんだ」と嬉しそうに言った。
278 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:14:14.85 ID:rYOC6gBvo
「わあああぁぁ………」
凪が、声を上げて大泣きする。
”喜びの慟哭”は辺り一面に響き渡り、湿っていた萌葱色の芝生を震わせた。
田向「先輩、俺も同じ気持ちです」
田向「俺も七瀬川先輩の味方ですし、戻ってきたらなんでも力になりますよ」
田向「また一緒に、みんなで野球……やりましょう」
凪「あ、ありがとう……」
凪「ありがとう―――!!」
そしてまた、「ああああ……」と泣きじゃくる凪。
濁っていた雨模様の空気が、一気にはじけて霧散していくような、
そんな晴れ晴れしい錯覚を覚えた。
279 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:22:59.59 ID:rYOC6gBvo
凪「私、また学校へ行く。……みんなと野球がしたい」
凪「だって私は……もう”ひとりじゃない”もんね?」
凪は顔を上げると、笑った。
塾の前に咲いていた、あの鮮やかな桃の花のように。
根図橋から見た、あの煌めく笛吹川の夕暮れのように。
この世界に落ちる影すべてを、一つ残さず消し去るほどの、眩しい笑顔だった。
俺は、そんな”馬鹿げた”想像をするほどに……。
凪のその笑顔が心と瞳に焼き付いて……離れなかったんだ。
たぶん、一生忘れることはないだろう。
凪……よかったね。
だから言ったろ?
君は必ず……また楽しく仕方ない”当たり前の日常”に戻れるってさ。
280 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:24:39.00 ID:rYOC6gBvo
ふと空を見上げると、分厚い雲の切れ目から一筋の光が差し込み、きらきらと光っていた。
「あ、晴れた」
俺がそうこぼすと、全員が同時に空を見上げた。
それがなんだかおかしくて、ついみんなで笑ってしまった。
凪の笑顔が太陽を連れてきた……。
そんなことを言ったら、笑われてしまうんだろうか?
いや、でも。
きっとそうだよね。
凪の未来は、あの雲の向こうに広がってる。
……そんな気がした。
281 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:28:11.31 ID:rYOC6gBvo
その日の夜、まだ授業開始までしばらく時間のある頃。
凪は久しぶりに塾へと顔を出した。
男「よく来たね」
少しだけ赤面し、恥ずかしそうに振る舞う凪を見て、胸が一杯になった。
凪の日常が、少しずつだけど戻り始めている。
陽子先生は入り口に立っていた凪を思い切り抱きしめると、
「えらい」とだけ言って、何度も凪の頭を撫でた。
凪「お母さん、ごめんね。私……ずっと……」
陽子「いいんだよ。私の方こそ、何もしてあげられなくてごめんね」
凪「んーん、ちがうの。本当は私も、もっともっとお母さんに色々言うべきだったの」
凪「ずっと一人で閉じこもって、心配かけて……」
凪「だから、ごめん……」
282 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:28:29.48 ID:cOVSjomCO
ぼろぼろ泣いてる
283 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:35:08.43 ID:Z14JCHlcO
凪ちゃん…!
よかった…ほんとによかったよ…
284 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:36:59.56 ID:rYOC6gBvo
それだけ言うと、凪はまたぽろぽろと涙をこぼした。
本当に、君は泣き虫な子だよ。
俺と会ってから、一体何回泣いた?
そんなことを思いながら――二人のやり取りを眺めていた俺も、
いつの間にか泣いてしまっていた。
嬉しかった。
本当に、心の底から、ただただ嬉しかった。
俺は、この親子が幸せそうにしている姿が――きっと何よりも好きだった。
どうか、こんな時間がいつまでも続きますように。
俺は溢れた涙を隠すように右手で拭って――”凪専用”の数学のテキストを開いた。
285 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:43:17.29 ID:rYOC6gBvo
久々の授業は概ね問題なく、凪もブランクがあったとはいえ熱心に授業を聞いてくれた。
「遅れた分は、ちゃんと取り返すよ」
「野球もそうだけど、ビハインドからの巻き返しが一番燃えるからね」
凪は楽しげにそう語った。
今の状況をそんな風に捉えられるくらい、凪は前向きになれてきている。
良かった……と思う一方で、
凪は元来こういう子だったんだろうな、とも思った。
芯があって、したたかで真っ直ぐな子なんだ。
だからこそ、色んなものをずっと一人で抱えてきてしまった。
運命というのは……ときに残酷だ。
286 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 01:45:04.81 ID:Z14JCHlcO
俺もキャプテンみたいな男になりてえな…
287 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:49:04.13 ID:rYOC6gBvo
塾舎で事務作業をしている陽子先生を残し、一足先に帰ろうとすると、
家の玄関先にいた凪に呼び止められた。
凪「ねえ、ちょっと時間ない……?」
男「どうしたの?」
凪「ちょっと、お話があって」
男「お話?」
凪は透明な傘を広げると、「歩きながら話そ?」と水を向けた。
頷いて承諾すると、俺たちは小さな歩幅で歩き出した。
真っ黒な空には、綺麗な三日月がぽっかりと浮かんでいた。
夕方のあの荒天が、まるで嘘のように思えた。
288 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:50:40.73 ID:rYOC6gBvo
凪は俺の引いている自転車を見て、「ごめんね、歩かせて」と言った。
男「いや、いいよ。大して変わらないし」
凪「……それでも」
男「大丈夫だよ。気にしないで」
凪はきまり悪そうに傘をくるくると回すと、しばらく押し黙った。
言いたいことがあるのに言い出せない、そんな気配を悟ったので、
こちらから助け舟を出してあげることにした。
男「それで、お話って?」
凪はこちらを見たかと思うと、「うーん……」とすぐに俯いてしまった。
289 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 01:52:46.41 ID:rYOC6gBvo
男「どうしたの? らしくないね」
男「大丈夫だよ。なんでも言ってみなよ」
凪「あのね……」
凪「今日はありがとう」
男「なんだ、そんなこと? 全然いいって」
そう答えると、凪は大げさにかぶりを振って「そんなことなんかじゃないよ!」と言った。
凪「だって、田向とキャプテンが来てくれたのは、男さんのおかげだよ?」
凪「そりゃ、あの二人にもいっぱいありがとうって気持ちはある。でもね……」
凪「私は一人じゃなかったんだって、こんなに味方がいるんだって気づかせてくれたのは」
凪「男さんが……いたからだよ」
290 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:01:00.83 ID:rYOC6gBvo
男「……そっか」
男「そんな風に思ってくれてるなら、俺もうれしいよ」
そう言うと、凪は満足したのか、嬉しそうににこりと笑ってくれた。
凪「男さんには、本当に何度ありがとうって言っても足りないくらい」
凪「……けど」
凪「最後にひとつだけ、わがまま聞いてほしい」
男「わがまま?」
凪「あのね……明日、一緒に部活に来てくれない?」
男「部活に? 俺が……?」
291 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:03:11.69 ID:rYOC6gBvo
凪「私ね。最初は部活だけ行こうと思うの」
凪「それで大丈夫そうだったら、学校の授業にも行こうと思ってて……」
男「いいと思うよ。無理なく馴らしていくのが一番だもんね」
凪「うん。それでね……やっぱり最初は怖いから。一人は嫌なの……」
男「それで、俺が……?」
凪「うん、男さんと一緒がいい」
凪はじっと俺のことを見つめた。
その吸い込まれそうなほど円かな瞳には、俺はどんな風に映っているのだろう?
ちょっと前まで、本気で死のうとしていた社会の出来損ないの俺が、
今この子の目には、どう見えているのだろう。
292 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:06:17.50 ID:rYOC6gBvo
そういえば前に、凪と約束をしていた。
あの星が落ちそうな夜、根図橋の上で、”二人だけ”の約束をした。
『今度部活に行く時は、俺も一緒に行く』
なら今こそ、その約束を果たす時だ。
男「分かった。それで凪が少しでも楽になるなら……どこへだって付いて行くよ」
凪「ほんと?」
男「ああ、もちろん。明日は塾も休みだし、それに……前にそう”約束”したじゃない」
凪「ふふ。そうだったねぇ――」
凪は笑った。
凪が笑うと、俺の心の中はたちまち美しい”花いかだ”でいっぱいになる。
今まで何にも感動せず、ただ世の中に対する失望だけを重ね、
もはや波打つことすらなかった俺の”心の水面”は、
凪という子が笑うだけで、鮮やかな花びらでいっぱいになってしまう。
293 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:11:19.34 ID:rYOC6gBvo
確信する。
俺はやっぱり、この子が笑っているのが好きだ。
そのためだったら、なんだってしよう。なんにだってなろう。
できることなら、この子から笑顔を奪うすべてのモノを……消し去りたい。
凪「先生には、私から説明するし」
凪「キャプテンと田向も話を合わせてくれるから、大丈夫だと思う」
男「そっか……それなら全然大丈夫そうだね」
凪「それに今日、田向と一緒に行ったんだもんね?」
男「うん、大体の部員には顔を見られたと思うし、なんなら俺、ノックくらいするぜ」
凪「あは。それはいいかもね!」
凪は楽しそうに笑う。
その無邪気な笑顔が……きっとたくさんの人に好かれてるんだ。
間違いない。君は素敵だよ。
294 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:14:39.36 ID:rYOC6gBvo
とにかく、明日は凪と一緒に”部活”だ。
凪が元気になり、こんな日が訪れて……本当に良かったと思う。
俺がずっと願っていたこと。
凪が元気になり、また元通りの楽しい生活を送っていくこと。
凪「わあ、明日楽しみだなぁ」
こんな風に、楽しそうに笑ってくれる凪が目の前にいることが、小さな奇跡のように思えた。
文字通り、”塗炭の苦しみ”を味わっていた凪が……
折れずにここまで戻ってきて、笑ってくれている。
あの日。
俺、死ななくて良かった。
だって、俺がいなくちゃ……俺がいなくちゃ。
凪は戻ってこれなかったかもしれない。
295 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 02:19:53.71 ID:rYOC6gBvo
次の日。
雲一つない快晴のなか、俺は凪と二人で学校に向かった。
凪は徒歩通学なので、家から一緒に歩いて行こうと思っていた。
しかし、凪が気を遣って「それは申し訳ない」と言うので、
南中の近くにあるローソンに集合した。
久しぶりに制服を着ている凪を見て俺は、
「よかった、泥は綺麗に落ちたんだね」
と間抜けな感想を漏らしてしまった。
凪は「もうすっかり真っ白だよ」と目を細め、「どう?」とくるりと回ってみせた。
純白のセーラーと濃紺のスカートがふわりと風に舞って、
六月末の西日が、レンズ越しのゴーストのようにキラキラと散っていった。
「綺麗だね」
そう言ってみたけど、それは一体どんな意味だったんだろうか。
296 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 06:34:39.63 ID:d4+cypjgO
万力公園、笛吹川…
調べてみるとどこなのか大体わかる
いいところなんだろうね、行ってみたい
297 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 18:17:59.15 ID:fQL138QRO
映像になって浮かび上がる文章に圧倒される
岩井俊二の映画を彷彿とさせるような光の表現と、少女への執着
少し歪んでそうで怖いのだが、不思議と惹きつけられる魅力がある
偶然こんなSSに出会えて嬉しい
298 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/28(火) 21:56:45.03 ID:g59zBXv1O
いい話だねこれ……
凪が本当にかわいい
299 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 22:51:34.09 ID:rYOC6gBvo
学校に着くと、授業が終わった直後なのか、やけに賑やかだった。
校庭と校舎に挟まれた前庭には、これから部活に行くであろう、
部活カバンを背負った運動部と思しき生徒が無数に往来している。
こんな晴天でビニール傘をさしている凪はやはり目立つのか、
通り過ぎる生徒たちはじろじろと凪に視線を向けた。
中には、「あれって七瀬川先輩じゃない?」「戻ってきたんだね」
と興奮した様子で会話をする生徒もいた。
田向君が言っていたように、やはり凪は校内でもよく知られている存在なのだろう。
300 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 22:56:17.57 ID:rYOC6gBvo
昨日と同様、校庭ではすでにサッカー部やハンドボール部が準備をしていた。
一番奥のバックネット付近には、野球部員の姿も見える。
男「やってるね」
凪「そうだね……」
凪の表情が強張ったので、俺は背中を軽く叩いた。
きょとんとしてこちらを見た凪に、俺は優しく声をかける。
男「大丈夫。今日はただ”野球を楽しむ”日だよ」
凪「うん……」
男「なにも心配ないよ。みんな温かく迎えてくれるさ。それに……」
男「俺もいるから」
凪はしばらく校庭を眺めると、さしていたビニール傘を勢いよく畳み、
「行ってくるよ!」と部室へ着替えに向かった。
301 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:08:45.73 ID:rYOC6gBvo
勢いよく駆け出して行ったので、思わず笑ってしまう。
あれだけ元気なら、きっと大丈夫だ。
凪がソフト部の部室で着替えているあいだ、
俺は先に野球部の根城である、バックネット付近へ向かうことにした。
すでに何人もの部員が思い思いに準備をしていたが、
その中にキャプテンと田向君もいた。
キャプテンが俺に向かって「こんにちはー!」と元気よく挨拶をすると、
他の部員も次々に「こんにちは」と声を上げた。
昨日とは打って変わって、今日はちゃんと”OB”をやっている気分だ。
302 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:32:45.63 ID:rYOC6gBvo
田向「男さん、来たんですね」
ジョギングをしていた田向君が近づいて話しかけてきた。
男「おう、凪を連れてきたよ」
田向「やっぱり七瀬川先輩も一緒だったんですね」
男「うん。今は部室で着替えてるみたい」
男「それと、俺のことなら気にしないでいいよ、あくまで凪の付添みたいな感じだからさ」
田向「分かりました」
そんな風に話していると、キャプテンが会話に混ざってきた。
キャプテン「そうはいかないですよ」
男「……え、なんで?」
キャプテン「そりゃ、一応……みんなからしたら何でいるのって感じですし」
キャプテン「七瀬川が来たら一度集合して、ちゃんと全員に説明します。いいですよね?」
303 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:36:11.50 ID:rYOC6gBvo
俺は思わず苦笑いしてしまい、「そっかそっか、わかったよ」と了承した
田向君はこっそりと「キャプテンは、そういうのしっかりしたい人なんすよね」と俺に耳打ちした。
なんだか可笑しくて、田向君と二人してくすくすと笑ってしまったが、
チームにはそういう人が必要だし、それが彼のキャプテンたる所以なんだろうと思った。
しばらくすると、小脇にグローブを抱えた凪がやって来た。
野球の練習着姿は初めて見たが、凛々しくて、よく似合っていた。
頭にかぶった白の野球帽も、すごくさまになっていてカッコいい。
ああ、凪は本当に野球部で、ピッチャーなんだなぁと、
当たり前のことに妙に納得してしまった。
304 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:40:10.32 ID:rYOC6gBvo
その存在に気づくと、野球部はたちまち色めき立ち、
そこかしこから「七瀬川先輩だ!」「来たんだ!」と歓声のようなざわめきが起こった。
少し離れたほかの部――サッカー部やハンドボール部の生徒もそれに気づき……
こちらを指差してざわついているようだった。
”凪は校内でも目立つ存在”――それは田向君からも聞いていた事実だが、
まさか凪がひとたびグラウンドに現れるだけで、ここまで空気が変わるなんて。
仮に一週間ぶりに学校に現れたから……だとしても、
ここまで注目を浴びるのはすごいなと思った。
その理由が、純粋に凪がいい子だからなのか、
はたまた”いじめられている悲劇のヒロイン”だからなのか――
あまり考えたくはないな、と思った。
305 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:49:17.15 ID:rYOC6gBvo
あっという間に、沢山の仲間が凪のもとに集まる。
同級生・後輩を問わず、その表情は一様に明るい。
対照的に、その中心で申し訳無さそうにはにかむ凪がおかしかった。
やっぱりみんな、凪が帰ってくるのを心待ちにしていたんだ。
だってすごく、楽しそうだもの。
でもさ、そりゃそうだよ。
こんなに素敵な子なんだ。
好かれこそすれど、嫌われたり仲間外れになるワケがない。
そんなこと、絶対にありえないんだよ。
色々と強引な部分もあったけど、田向君とキャプテンの力を借りて、
もう一度凪を学校に連れてきて本当に良かったと思った。
306 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/28(火) 23:54:35.81 ID:rYOC6gBvo
キャプテン「よっしゃ! 集合!!」
隣にいたキャプテンがそう叫ぶと、部員たちは高揚した様子で、
「集合っす!」と復唱し、勢いよく駆け寄ってきた。
目の前に並んだあどけない顔の少年たちは、どこか活気に満ちていた。
ひと目見て、昨日とは全然違うと分かった。
それもこれも、キャプテンがやる気を取り戻し、凪が戻ってきたからだろう。
単純明快なことだけど、じつに分かりやすいなぁと感心した。
キャプテン「えーと。まず、気になってる人もいるかもだけど」
キャプテン「今日は、OBの男さんが来てて、軽く練習を見てくれるから」
キャプテンが「何か言って」という視線を俺に向けたので、すかさず挨拶する。
307 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:08:30.32 ID:XR2bVOTMo
男「えーと、OBの男です」
男「俺がここにいたのは……もう10年くらい前になるかな」
男「今は……そこにいる、七瀬川さんの塾で先生をやってまして」
男「今日はその繋がりで来たって感じです。よろしく」
そう言うと、部員たちは一瞬ざわつき、凪もきょろきょろと周りを見たあと、
恥ずかしそうに俯いてしまった。
「そういうワケなんで、みんな頼むなー」
キャプテンがそう水を向けると、部員たちは声を揃えて「おす!」と元気に返事をした。
いいなあ、この感じ。なんだか本当に懐かしい。
みんな、瞳が輝いていて素敵だ。
なんて、そんな……"25歳"らしい感想を持ってしまう。
308 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:34:55.04 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「せっかくだし、あとで男さんにノックとかもやってもらおう」
キャプテン「いいっすよね?」
キャプテンがちらりと横目でこちらを見る。
なんだかすっかり”男”の瞳だなと思った。
別に変な意味ではなく、昨日の一件があって完全に意識が改まったのか――
とても頼りがいのある、覚悟を決めた顔つきになっていた。
男「ああ、全然構わないよ。けど、今日は先生は来ないの?」
キャプテン「今日は職員会議なんで来ないっす」
男「そうか――」
先生が来ないなら、それは好都合かなと思った。
今の顧問は当然俺の時とは違う人だし、
一から事情を説明するのも億劫と言えば億劫だったから。
309 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:39:35.18 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「それで、最後にひとつ」
キャプテン「七瀬川が戻ってきたから、みんなよろしくな」
一同「おっす!!」
全員、嬉しそうに大きな返事をする。
その様子を見ていると、
やはり凪がチームでどれほどに不可欠な存在だったかということが伝わってきた。
そしてそのさなかにいる凪も――嬉しそうに笑っていた。
本当に無垢で、無邪気な……"15歳"の笑顔だった。
キャプテン「よし、じゃあジョグいくぞー! 並べ!」
十数人の野球部員たちは、キャプテンと凪を先頭にして駆けていく。
笑顔混じりの掛け声が、校庭全体に響いた。
310 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:44:54.61 ID:XR2bVOTMo
澄み渡った天色の空には少しずつ黄金色が混ざってきて、夕刻の訪れを感じる。
キャッチボールをして駆け回る部員たちの影も段々と伸びてきて、
相変わらずここのグラウンドは西日が眩しいな、と思った。
いわゆる田舎の中学校なので、周りにはいくつかの民家がある以外、何もない。
この大きな空も、太陽の光も、透き通る風も、すべて独り占めだ。
そうそう今思い出した、このグラウンドでするキャッチボールは、最高に気持ちよかったんだ。
そんな遠い日の記憶が、古ぼけたスライド写真のように心の中をよぎった。
凪は、田向君を相手にして熱心にキャッチボールをしていた。
もうすっかり元通りだね、良かったな――。
なんて思った時だった。
311 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:52:20.78 ID:XR2bVOTMo
校庭の向こう側から、なにやら女子生徒の一団が近づいてくる。
運動部なのは間違いないが、何人かはサンバイザーを着けているので、
もしかしたら女子テニス部だろうか……?
先頭を歩く女子はやけに険しい表情をしているが……。
すると、近くにいた男子がぽろっとこぼした。
「あっ。やばいあれ、広瀬先輩じゃん……」
広瀬?
あいつが? あの?
”すべての元凶”か……?
312 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 00:59:56.31 ID:XR2bVOTMo
広瀬率いるその一団は一塁線の上で止まったかと思うと、「おい!」と大声を出した。
広瀬「なんで七瀬川が部活にいんだよ? 話が違うんだけど!?」
前後関係などまったくお構いなしに、一方的に喚き散らす広瀬。
それまで和やかにキャッチボールをしていた野球部が、一瞬にしてピリついた空気になる。
(お、おいどうすんだよ……)
(なんだよアイツ……)
そんなささめきがどこからともなく聞こえてくる。
凪の方を見ると、しゃがみこんでうずくまっており、田向君がそばについていた。
キャプテンは……だめだ。固まったまま、動く気配がない。
もういいよ、ヤケだ。
どうせ俺は”部外者”で――失うものは何もないからな。
そう覚悟を決めて、一塁線へと踏み出した。
313 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:06:33.52 ID:XR2bVOTMo
男「ちょっと君、今は部活中なんだけど。なんの用?」
広瀬「はあ? 誰アンタ?」
男「俺は野球部のOBです。今日は指導に来てるんで」
広瀬「ふーん、まあなんでもいいんだけどさ」
その表情は悪辣そのもので、他人を小馬鹿にする気持ちが滲み出ていた。
広瀬「ってかさぁ、早く中村呼んでくんね?」
男「中村ぁ……?」
広瀬「キャプテンだよ、キャプテン」
男「ああ、キャプテンね……」
広瀬「つかなんで知らねーんだよ。本当にOBなん?」
そして広瀬は、癇に障る笑い声を上げた。
何が可笑しくて笑ってんだ? お前。
314 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:09:37.55 ID:XR2bVOTMo
広瀬「つーか早く呼んでよ。おせえよ」
男「あ、ああ………」
この女が……! 凪をずっと……!!
目の前にいるこいつがすべての元凶かと思うと、はらわたが煮えくり返り、
おびただしいほどのどす黒い感情が湧き上がってきた。
本当に、怒りで今にも挙措を失いそうだった。
こいつがずっと、凪を苦しめてきた。笑顔を奪ってきた。
もういいや。俺が今、この手で殴り倒してやる。
いや、いっそのこと――ぶっ殺してやろうか?
315 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:12:42.64 ID:XR2bVOTMo
そんな、究極の魔が差したときだった――
後ろから、キャプテンが駆け寄ってきた。
キャプテン「おい広瀬、なんでこんな所に来てんだよ」
その声で我に返り、自分がとんでもなく物騒なことを考えていたことに気付いた。
危なかった。本当に。
たとえ殺しはしなくても、あのままなら……間違いなく殴ってはいた。
後先なんて考えず、その”無駄に”整った顔面に――
一発ぶち込んでいたのは、間違いなかっただろう。
316 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:19:52.52 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「部活にまで来るなよ。今日は先生がいないからって」
広瀬「は? うるさいんだけど? ってかお前がいけないんじゃん」
キャプテン「……何が?」
広瀬はしゃがみこんでいる凪を指差し「あれだろ?」と唾棄するように言った。
広瀬「なんで七瀬川さんが部活に来てるのかな? 話が違うよね?」
キャプテン「それは……」
広瀬「何か言うことある? んん?」
キャプテン「ッ…………」
317 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:36:57.74 ID:XR2bVOTMo
キャプテンが言葉を詰まらせたので、すかさず割って入る。
男「それはな……」
広瀬「やめてください!」
突然、広瀬が甲高い声を上げた。
その”奇声”は校庭じゅうに響き渡り……
遠くのサッカー部やソフト部の子たちも、こちらに視線を向けていた。
広瀬「お前は部外者じゃん? 関係あんの? 先生でもないくせに」
男「な………」
広瀬「なんだか知らないけど、どうせ七瀬川の肩持つんだろ?」
男「当たり前だろ、君なんか……」
すると、広瀬はにやりと不敵な微笑を浮かべた。
広瀬「あのさぁ……今私がここで叫んで、先生を呼んでさ」
広瀬「お前を一発で”不審者”に仕立て上げることもできるんだよ?」
318 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:40:13.08 ID:XR2bVOTMo
背筋が凍る。
この女は……一体何を言ってるんだ?
一応俺はこいつよりも十歳も年上で……こいつからしたら”大人”のはずだ。
なのに、その大人相手に全くビビることもなく、
食ってかかるようにこんな”恐ろしい”ことを言えるなんて……。
こいつは、本当に普通の中学生ではない。
さすがに面食らってしまい、何も言えずにいると、キャプテンが口を開いた。
キャプテン「お前……いい加減にしろよな」
広瀬「あ? ……なんて?」
319 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 01:45:34.12 ID:hCwvRfRkO
最悪だなこの女…
でもこういうカーストてっぺん女っているよな〜
320 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 01:54:55.80 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「いい加減にしろって、言ってんだよ」
広瀬「え? 嘘でしょ? 中村君、それって私に言ってるの?」
キャプテン「他に誰がいんだよ。お前に言ってるんだよ」
広瀬「え、マジー? こいつ、私に言ってるらしいよ」
そう言うと、広瀬は取り巻きの女子たちとゲラゲラ笑い始めた。
無駄に見た目が良い分、その醜悪さがより目立つような気がした。
広瀬「いい加減にすんのはお前じゃん」
キャプテン「……なにがだ」
広瀬「約束守ってないのはそっちだろ? いけないんだ、人のことばっかり悪く言ってさ」
キャプテン「あんな約束は、もうナシだ」
広瀬「……はあ?」
321 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:01:35.72 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「あんな一方的でクソみたいな取引は、もうナシだって言ってんだ」
キャプテン「……分かったら帰れ」
広瀬「はぁ〜〜〜〜?」
広瀬は大げさに首を震わせてそう言うと、キャプテンに勢いよく近寄った。
広瀬「何言ってんのお前? 何がナシだよ?」
広瀬「そんな決定権はお前にはないんだよ」
広瀬は、キャプテンの肩を思い切り押して威圧する。
かなりの体格差があるというのに、広瀬はそんなこと全くもってお構いなしだ。
広瀬「ねえねえ、大好きな七瀬川さんがどうなってもいいの?」
広瀬「好きで好きでたまらない七瀬川さんがさ〜!」
そう吐き捨てると、広瀬はキャプテンの前でにやりと、
それはそれはいやらしい笑みを浮かべた。
322 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:03:20.88 ID:XR2bVOTMo
正直もう、俺だって頭が真っ白だった。
ふさぎ込む凪、動けない田向君、脅しをかけられている俺、
そして、目の前で”ボコボコにされている”キャプテン。
八方塞がりだって思ったよ。
俺たちは、この広瀬というたった一人の存在に……どうすることもできないのかって。
――でも、その時だった。
323 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:06:54.75 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は七瀬川が好きだよ!!!!」
キャプテンの全身全霊の雄叫びが、まるで稲妻かのごとく、
校庭に、いや、校舎にまで響いてビリビリと反響した。
予想外の返しにさすがの広瀬も当惑したのか、何も言えずに立ち尽くしている。
うずくまっていた凪も顔を上げ、涙目でキャプテンの方を見ていた。
その大声に気づき、「なんだ?」「告白?」と色めきだった他の運動部の連中が、
次第に野球部の周辺に集まり始める。
キャプテン「ああ、大好きだよ。お前の言うようにな、本当に好きだ」
キャプテン「だからこそ、もうこれ以上お前の言う通りにはしないし」
キャプテン「俺は……七瀬川を守るんだ」
324 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 02:11:52.85 ID:hCwvRfRkO
うおおおおおおキャプテン!!!
お前男だよ!!!
325 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 02:16:38.69 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺は……そう決めたんだ。だから絶対に退かない」
広瀬「はあ……? お前、何言ってんだよ……」
キャプテン「だから、七瀬川を守るって、そう言ってんだよ!」
広瀬「き、きもいんだけど……なにわけ分かんないこと言ってんの……?」
キャプテン「単純だろ? お前が七瀬川をいじめるなら、俺がそうさせないんだよ!」
広瀬とキャプテンが話しているこの間にも、
色恋沙汰だと勘違いした生徒たちが、群れを成してどんどん集まってくる。
「中村が告白したって?」
「野球部でなんか起きてるらしいから急げ!」
職員会議で、各部に先生の監視がないことも拍車をかけていた。
気づけば、校庭にいたサッカー部やハンド部、陸上部やソフト部だけでなく、
外練をしていたであろう男バスや吹奏楽部の子たちまで集まってきており、
「え、なになに?」「なにが起きてんだ?」と、随分賑やかになっていた。
一連の広瀬とキャプテンのやり取りが引き金となって、
普通ならあり得ないくらいの人だかりが、野球部の周りに形成されていた。
326 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 06:24:49.32 ID:mAi/zi33O
タイトルが気になって試しに読んでみたら夢中になってた
凪ちゃんほんまにええ子やで…
>>6
の絵もなんつーかラノベじゃなくて文芸っぽい絵ですげーいい
327 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 15:39:31.42 ID:aYmqoDnJO
確かにSSっていうか文芸だね
というか映画に近い
毎日追ってるけど本当に読むのが楽しいよ
途中から野球部の後輩とキャプテンが出てきて群像劇っぽくなってきたのも面白い
328 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 16:04:19.27 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
329 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 16:05:10.63 ID:SITGL4eOO
俺の中学にもこういう暴君みたいな女がいた
何人もの女子のメンタル壊して不登校に追いやってたわ。
そんでそういうやつに限ってそれなりに美人だったりするんよな…
330 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:38:43.37 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「俺はもう……絶対にお前の言いなりにはならない!」
キャプテン「もうお前の好き勝手はさせない!!」
キャプテンが、そう高らかに”宣言”をすると……。
周りの人だかりにいたサッカー部の男子がそれに乗じた。
「そうだぞ! 広瀬はやりすぎなんだよ!」
これが口火となり……。
ただの野次馬だった烏合の衆は、徐々に一体感を得ていく。
「ずっと思ってたけど広瀬はおかしいよ」
「確かに、ちょっと考え直しな〜」
「そうそう、もう見過ごせないよねー」
331 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:43:35.69 ID:XR2bVOTMo
広瀬「ちょ、ちょっと待ってよみんな!」
広瀬「悪いのは中村! 約束を破ったコイツが悪いんだよ!?」
広瀬は、すぐさま声色を変え、さも媚びるように周りの人間へとアピールを始める。
なんて小賢しいヤツなんだ。
こうやって、今までもずっと上手いこと世を渡ってきたんだろう。
キャプテン「約束ってなんだぁ!?」
またしてもキャプテンが怒声を上げる。
完全に腹が括れたのか、その瞳が広瀬からぶれることはない。
キャプテン「”七瀬川を野球部から追い出したらいじめをやめる”っていうクソみたいな取引のことだろ?」
キャプテン「あれのなにが……約束だ?」
集った生徒たちに流布するような形でキャプテンが言い捨てると、周囲からは、
「なにそれ……」「ひっでぇ〜」といった声が上がった。
332 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:46:28.47 ID:XR2bVOTMo
広瀬はすぐに「いやいや、違うんだよ? コイツが勝手に言ってるだけだよ?」と
猫撫で声を出すが、もはやそのメッキは”剥がれかけ”だ。
キャプテン「お前なぁ………」
キャプテン「もういい加減、七瀬川をいじめるのはやめろ!!!!」
キャプテンのその”咆哮”は、天高く突き抜け……
やがて全校生徒を巻き込んだ”胎動”となる。
「そうだよ! いつまでも七瀬川さんをいじめんなよ!」
「凪ちゃんが可哀想だよ、いい加減やめろ!」
「ってかさ、これからはみんなも見て見ぬフリやめね?」
そんな声が、野球部と広瀬を囲んでいた生徒たちの群れから……次々と飛んでくる。
広瀬「なにこれ……? どうなってんだよ……」
キャプテン「おい、広瀬。誓えよ。今日限りで七瀬川をいじめるのは辞めるって」
広瀬「は、はあ〜? ってか私、そんなの知らないんだけどぉ……?」
キャプテン「誓えよこのクソ野郎!!」
333 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 17:51:37.80 ID:XR2bVOTMo
「そうだ、誓え!」
群衆の、どこからともなく上がる声。
広瀬「は? な、なに……?」
「もう今日で終わりにしろ!」
「お前のやってることはみんな知ってるんだよ」
「ここでやめるって誓えよ!」
「中村! 俺たちはお前と七瀬川さんの味方だぞ!」
キャプテン「み、みんな……」
嘘だろ?
俺は、馬鹿みたいに口を開けたまま辺りを見回していた。
334 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:20:18.39 ID:XR2bVOTMo
すごい人数だ。学年も性別も関係ない。
部活着の生徒もいれば、制服の生徒もいる。
かと思えば、一見ちょっとやんちゃそうな男子や、折り目正しい地味めな生徒までもが、
一様に応援の声を上げているではないか。
「中村! お前最高だよ!」
「みんながずっと思っていることを言ってくれたぞぉ!」
「七瀬川さんを放っておくのは今日でやめようぜ!?」
「広瀬、いじめはやめろ!」
男「な、なんだこれ……?」
キャプテン「ありえない、っすよね……」
男「まるで、全校生徒がここに集結してるみたいな……そんな熱量だぞ?」
335 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:22:29.93 ID:XR2bVOTMo
奇跡のようだった。
あの凶悪な広瀬に臆することなく、勇気を振り絞って立ち向かったキャプテンの勇気が……
奇跡を呼んだ。
これまで、誰もが”学校一の厄介事”と捉えて、関わることを拒絶してきた広瀬の醜行。
関わったら最後、その標的が明日には自分に向けられるかもしれない。
そんな風にして、ずっとずっと見て見ぬフリをされ、放置されてきた凪へのいじめが……。
今、一気にその”膿み”を出し切ろうとしている。
この瞬間、ここに集まった生徒たちによって、
学校中を巻き込んだ変化の”胎動”が起きているんだ。
そして俺とキャプテンは……それを目の当たりにしている。
336 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:32:54.50 ID:XR2bVOTMo
その時であった。
俺とキャプテンの後方から――あの声が。
凪「広瀬さん」
田向君に支えられ、うずくまっていたはずの凪が、
俺とキャプテンの真後ろに立っていた。
広瀬「七瀬川、さん……」
周囲からはどよめきとともに、これまでで一番大きな歓声が起こる。
「七瀬川先輩!」
「学校来てたんだ……!」
「うっそ、久しぶりに見た!」
337 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:37:09.64 ID:XR2bVOTMo
凪の瞳はひどく充血し涙が滲んでおり、その小さな両肩は小刻みに震えていた。
男「凪―――」
大丈夫か、と言おうとして、やめる。
彼女は自分の意思で立ち上がり、自分の意思で立ち向かうことを決めたんだ。
ならば今は、それを見届けるべきだ。
凪「ひとつだけ、言わせてほしい」
広瀬「な、なによ……?」
凪「もう私は負けない」
広瀬「は、はあ……?」
凪「今日ここで、いじめをやめるって誓わなかったとしても」
凪「今後も、アナタが私をいじめたとしても――」
凪「私はもう、絶対に負けないから」
338 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:40:20.63 ID:XR2bVOTMo
キャプテン「七瀬川……」
凪「だから逃げも隠れもしないし、私は堂々と学校に戻る」
広瀬「なに言ってんのお前……」
凪「だって私は――」
そう言うと凪は、辺りを見回す。
随分人の増えた生徒たちの群衆。
野球部のチームメイト。
田向君。
キャプテン。
そして、俺……。
凪「もう一人じゃないから」
339 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:44:17.73 ID:XR2bVOTMo
そしてどこからともなくこんな声。
「よく言った――!!」
周囲から、まるで瀑声のような歓声と喝采が起こる。
こうなるともう、集団心理による気持ちの昂揚を止めるすべはない。
「七瀬川さ――ん!」
「私達も味方だよ!」
「みんな分かってるからな――!」
広瀬はもはや為す術もなく、ただただ狼狽してきょろきょろするだけである。
その様子は、まるで出来の悪い傀儡みたいで、じつに滑稽だった。
凪は真剣な眼差しで広瀬を見つめ続けている。
そんな盛り上がりの最高潮に達した瞬間、魔法の解ける合図が。
340 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:46:13.93 ID:XR2bVOTMo
「お前ら何やってんだ――!!」
「今は部活の時間だろ!!」
数名の男性教師が、校庭に向かって走ってきていた。
なんという魔性の勘か、広瀬はどの生徒よりも早く走って逃げ出していた。
「やべえ! 先生来たぞ!」
「みんな散れ――!」
途端に、集まって群れを成していた生徒たちが四方八方に散っていくが、
その表情は皆、不思議と”とても楽しそう”であった。
逃げていく生徒は全員、大声で笑いながら溌剌と校庭を駆けていく。
恐らく逃げる必要のない野球部員までもが、なぜか走り出した。
341 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:47:57.43 ID:XR2bVOTMo
田向「キャプテン! こっちです!」
キャプテン「よっしゃ! みんな走って逃げろ――!」
そして、宛てもなく走り出す。
――全員、とびきりの”いたずら”な笑顔で。
凪「男さんも!」
前方を行く凪が、俺に向かって手招きをする。
俺も……?
凪「走ろう!」
西日の逆光となり、その凪の顔はよく見えなかったが……。
きっと、笑っていたんだろうね。
342 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:52:50.31 ID:XR2bVOTMo
これは祝祭だ。
集まっていた沢山の生徒たちが、訳も分からず、
大声で笑いながら教師たちから逃げ、駆け回っている。
暗い表情をしている者は、誰一人としていない。
全員が、”凪の門出”を祝いながら、走っていた。
これは、全校生徒を巻き込んだ――凪への祝祭なんだ。
俺はそんなことを思い……。
嬉しくて嬉しくて仕方なくて、こぼれそうな涙をぐっとこらえ、
先を走る凪を――笑って追いかけた。
これ以上ないくらいの、全力疾走で。
343 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:54:20.93 ID:XR2bVOTMo
そんな”夢”みたいな出来事のあと……。
凪は――再び学校に通い始めた。
最初の数日はとても怖かったものの、
あれから広瀬のいじめは鳴りを潜め、学校で関わる機会は激減したという。
毎回毎回、笑顔で塾を訪れ、楽しそうに学校での出来事を語る凪は……
心の底から幸せそうだった。
ずっとずっと求めていた”日常”を過ごせているんだなぁと伝わってきて……
本当に嬉しかった。
344 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 18:56:52.27 ID:XR2bVOTMo
凪が――この素敵な子が、”あるべき場所”に戻れたことは、
俺にとっても本当に大切なことで……
自分の命に代えてでも叶えたいと思っていた悲願だ。
ずっとずっと、この世界はクソだと思ってきた。
でも、捨てたもんじゃないかもしれない。
凪が笑える世界なら。あの日みたいに西日が綺麗に輝く世界なら。
この世界は、最高かもしれない。
345 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:01:22.21 ID:XR2bVOTMo
それから、日々は穏やかに過ぎていき――
あっという間に、凪たちは最後の夏の大会を迎えた。
凪の中学は順調に勝ち進み、無事に地区大会の決勝へと駒を進めた。
そして明日は、ついにその大一番であった。
小学生の授業が終わった19時頃。
帰ろうとすると、薄闇のなかで素振りをする凪と鉢合わせた。
男「やる気だね」
凪「……男さん」
男「明日は決勝だもんね」
凪「うん。だから……なんかじっとしてられなくて」
そう語る汗ばんだ凪の横顔は、真剣そのものだ。
思わず笑みがこぼれる。
俺にも、そんな時があったな。
346 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 19:01:55.13 ID:VuX74jkoO
話は全然違うけど映画の「桐島」みたいな雰囲気あるよな
特に他の生徒巻き込んで笑って走るシーンなんてそれっぽい
347 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:04:34.57 ID:XR2bVOTMo
男「気持ち分かるよ。でもあんまり無理して、どこか痛めないようにね」
凪「うん、ありがとう」
俺はしばらく……熱心にバットを振るう凪を見ていた。
その姿を見ていると、懐かしいような、ちょっと切ないような、
なんとも言えない気持ちが込み上げてきた。
この子にとっては、明日の決勝戦がすべてで……
それ以外には何もなく、ただそれだけを見ている。
なんて純粋なんだろう。
いつもは近く感じる凪が、なんだか少しだけ――遠くにいるような、そんな気がした。
俺と凪は、本来なら住む世界がまるで違う。
今はなんの偶然か、こんな子と親しくなり、こうして話しているが、
それは元の俺であったら……到底考えられないことだ。
348 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:07:38.66 ID:XR2bVOTMo
凪「あのね」
出し抜けに、凪が口を開いた。
物思いに耽っていた俺は意表を突かれて「へ?」などと間抜けな声を出してしまう。
凪「……きいてる?」
男「う、うん。……なに?」
凪は「今、ぼーっとしてたね」と微笑むと、話を続ける。
その何気ない笑顔ですら、不思議と俺の胸を温かくさせる。
凪「すごくいいニュースがあるんだ」
男「え、なんだろう。……教えてくれる?」
凪はまた目を細めてにこりと笑うと「いいよ――」と楽しそうに小首を傾げた。
349 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:10:23.54 ID:XR2bVOTMo
不思議と、凪の一挙手一投足を目で追っている自分がいた。
笑うとわずかにシワが寄る、その目尻をずっと見ていた。
少しだけ胸が弾んでいるのも、もはや無視できることではない。
ずっと考えないようにしていたけれど、俺は――。
凪「明日の決勝、お父さん応援に来れるんだって」
男「え、本当に……!?」
正体不明のもやもやとした思考がどこかに吹っ飛んでしまうほど、
それは素晴らしいニュースだった。
凪「ずっと入院してたでしょ? 最近は合うお薬が見つかってね」
凪「すごく安定してるんだって――それで、外出許可が取れたみたい」
男「わあ、それは良かったねぇ……」
350 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:12:10.82 ID:XR2bVOTMo
凪「私ね、絶対に勝ちたい。……優勝したい」
凪「それで、お父さんとの約束――叶えるんだ」
一生懸命に、熱をこめて語る凪の顔は、とても凛々しい。
南中の前庭に咲いていた真っ赤な百日草のように、気持ちを燃やしている。
凪「もしも優勝できたらさ……お父さん、少しは笑ってくれるかな?」
男「……もちろんさ」
凪「そうだよね……きっと喜んで、笑ってくれるよね」
凪はバットを構えると、勢いよくフルスイングした。
凪「もう、ぜんぶ覚えてないんだ」
凪「私のことも、私と一緒に野球をした日々も、ぜんぶ」
凪「それでも、最後にさ……笑ってほしいな」
351 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:14:20.36 ID:XR2bVOTMo
男「最後?」
凪「うん、さすがにね。高校に行ったら野球はやめちゃうし」
凪「お父さんの外出許可が降りてるのも、明日だけだからさ」
男「ああ、そうか……」
凪はこちらを見ると、少し目を伏せたあとに笑顔を作る。
その瞳の中に、隠しきれない切なさが映り込んでいたのは、俺の気のせいだろうか。
凪「だから私にとって、明日はすごく大事な日なんだ」
凪「たとえ勝っても負けても……二度と来ない日」
凪「お父さんと”一緒に”野球ができる、最後の日だから……」
352 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:17:21.87 ID:XR2bVOTMo
そう言って、凪が全力で振るったバットは……鋭い風切り音を立てて闇を切り裂いた。
男「お、今のはきっとホームランだ」
凪「ふふ。スタンドまで運んだ?」
男「うん。看板に直撃かな?」
凪は「やったぁ」と無邪気に笑ったかと思うと、俺の顔をじっと見た。
そしてしばらく、何も言わずに黙っていた。
男「い、今のスイングは腰が入ってたからね。だから、すごくよかったんだと思う」
なんだか照れくさくなってしまい、問わず語りを始めてしまう。
アドバイスできるほどの大した野球経験も技術もないのに。
凪「……男さん」
男「な……なに?」
353 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:20:55.98 ID:XR2bVOTMo
凪「いつもいつも、本当にありがとう」
男「……急にどうしたの?」
凪「んーん。なんかね、ふと思ったんだ」
凪は「ねえ」と上目遣いで俺を見た。
ほんの少しの秋波と寂寥をはらんだ……そんな瞳だった。
凪「明日は……男さんも応援に来てくれるよね?」
男「行くよ。……必ずね」
凪「……そっか。楽しみにしてるね」
そして凪は、とびきりの笑顔を見せてくれた。
それはきっと、この世界のすべてだった。
354 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 19:21:42.79 ID:JxJzTXTgO
凪ちゃん可愛すぎて草
355 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:24:56.48 ID:XR2bVOTMo
次の日。
凪の試合を見に行くため、俺は再び南中に向かっていた。
決勝戦の会場は、奇しくも我が母校であり、凪の通う――南中であった。
運命の日は、神様がわざわざ融通を利かせてくれたかのような見事な晴天で、
遠くの山際では、真っ白な入道雲がのびのびと手を広げており、
青空とのコントラストがじつに綺麗だった。
猛る真夏の太陽が、海抜300メートルの町を隅から隅まで白飛びさせ、
すれ違う人たちの顔も、車も、何もかもを溶かしていく。
十字路のカーブミラー、風に揺れる桃畑の木立ち、
見るものすべてがプリズムのようにキラキラと光を散らす午前9時。
俺は陽の当たる坂道を、ボロのママチャリで走っていた。
身体をすり抜けていく熱風が、これから始まる大一番を予感させた。
356 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:27:58.56 ID:XR2bVOTMo
四方から降り注ぐ蝉しぐれの合唱をくぐり抜け南中にたどり着くと、
凪のチームも相手校も、すでにキャッチボールをしていた。
「やってるな」
そんな独り言を漏らし、急いで前庭を駆け抜けグラウンドへと向かう。
凪たちのベンチは1塁側で、その周辺にはすでに父兄と思しき人達が大勢来ていた。
当然見知った顔などはなく、陽子先生と剛先生は……まだいないようだった。
最近買ったばかりのアレット・ブランの腕時計に目をやる。
時刻は9時20分。試合開始は9時30分のはずだから、
さすがにそろそろ来ていないとまずいが……。
357 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:31:56.69 ID:XR2bVOTMo
グラウンドでは、真っ白なユニフォームを纏った選手たちが、
元気に声を出して駆け回っている。
夏の炎天下なんてなんのその、彼らは運命の一戦に向けて気合十分といったところだ。
その中に凪もいた。
あの赤茶色のグラブを身に着け、誰よりも大きな声を出しているが、
時折、少しだけ不安げな表情でこちら側を見ては、またプレーに戻る、
ということを繰り返していた。
どうにも散漫で、意識ここにあらずといった様子であった。
恐らくだが、まだ陽子先生と剛先生が来ていないことを気にしているんだろう。
凪は昨日、お父さんが応援に来てくれることをあれだけ楽しみにしていた。
まだ姿が見えないことが、不安で仕方ないんだ。
358 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 19:33:47.61 ID:7dElc2/YO
>>355
ここの描写エグすぎる
一気に脳内が真夏にワープしたわ
359 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:36:16.50 ID:XR2bVOTMo
陽子先生と剛先生、間に合うといいけれど――
そんなことを思ったが、その願いも虚しく、
試合開始時刻になっても結局二人が現れることはなかった。
審判が両校の選手を呼び寄せ、整列と号令が終わり、
そのまま試合は始まってしまった。
剛先生、何かトラブルでも起きてしまったんだろうか。
まさか、突然病状が悪化して来れなくなってしまったとか?
そんな最悪の自体を想像し、心臓がヒュンと跳ねる。
いや、まだ決まったわけじゃない。
とにかく今は……。
とにかく今は、気を取り直して凪の応援だ。
凪にとっての大事な大事な――大一番が始まるんだから。
360 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:38:55.87 ID:XR2bVOTMo
1回のオモテ。
凪がマウンドへ登る。
「凪ちゃーん! 頑張ってー!」
「頼むぞー!」
父兄から、そんな明るい声援が飛ぶ。
凪はダイナミックに振りかぶると、オーバースローで思い切りボールを投げた。
次の瞬間には『バチィン!』とキャッチャーミットが快音を鳴らし、
ベンチから「ナイスボール!」という掛け声が沸き起こった。
真剣な投球は初めて見たが、凪の球はとても速く鋭かった。
客観的に見たとしても、とても良いピッチャーだ。
大したもんだな……。
正直、今の俺にはまったく打てる自信がなかった。
361 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:42:53.63 ID:XR2bVOTMo
凪の立ち上がりは絶好調であり、1回のオモテを三者凡退で抑えると、
続く2回、3回、4回も見事に0点で抑えてみせた。
しかし、相手の投手も意地を見せ、凪のチームも4回まで無得点となった。
試合は次第に、”投手戦”の様相を呈し始めた。
凪と、相手のピッチャー。
どちらが先に折れるか、気持ちと気持ちのぶつかり合いであった。
凪は鬼気迫るピッチングで5回のオモテを抑えたあと、
ふと、俺の元へと駆け寄ってきた。
362 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:45:19.99 ID:XR2bVOTMo
さすがに疲れたのか、汗だくになって肩で息をしている。
男「凪、すごいね! ナイスピッチング!」
そう言って俺は、手を叩いて凪を鼓舞した。
凪「ありがとう。とりあえずここまでは、いい感じ――」
凪はふう、と息を吐くとスクイズボトルを一口、ゴクリと飲んだ。
男「いやいや、本当にすごくてビックリしたよ俺。凪、大エースじゃんか」
凪「そんなことないよ」
恥ずかしそうに笑ったその顔に、いくつもの汗がきらきらと輝いた。
凪「ねえ、男さん。お母さんからは……何も連絡ないの?」
363 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:48:03.34 ID:XR2bVOTMo
手元のスマホを確認する。
しかし、特に何の連絡も入っていなかった。
ここに着いてから何度か電話もしていたが、やはり音沙汰はなしであった。
男「そうだね……連絡はない」
凪「そっか……」
凪の顔が分かりやすく曇ったのを見て、思わず肩を叩いてしまう。
男「凪、大丈夫だよ。必ず二人は来るから」
男「今はとにかく、試合に集中! ……な?」
凪「……うん」
凪はそのままベンチに戻っていったが……
その顔が晴れることはなかった。
364 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 19:53:21.67 ID:XR2bVOTMo
凪にとっては、お父さんとお母さんの応援こそが原動力で、
特にお父さんとの約束は……あの子のすべてだ。
今までも、そのためにずっと頑張ってきたといってもいい、
凪が思い描いてきた「夢」だ。
昨晩、お父さんが応援に来ることを喜んでいた凪の笑顔が……脳内を掠めた。
俺はもう一度、陽子先生に電話をかけてみる。
5回、10回……いくらコールを待ってみても、出る気配はない。
どうしてだ。どうして出てくれない。
陽子先生。剛先生……。
お願いだから、来てください。
大切な娘さんが……グラウンドで待ってます。
365 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 20:56:10.96 ID:XR2bVOTMo
俺はスマホをポケットにしまい、ベンチに座る凪を見る。
平静を装っているものの、その姿からは寂しさが滲み出ていた。
叶わないのだろうか?
……ここまできて。
凪の、大切で、純粋な夢。
神様……頼むよ、お願いだからさ……。
俺は気づくと、両手を合わせて空に願っていた。
青い空には白い綿雲が広がるばかりで……
俺の願いなんて今にも風に飛ばされてしまいそうだった。
366 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 20:59:40.21 ID:XR2bVOTMo
続く6回のオモテ、凪たちの守備だ。
試合は相変わらず0対0という膠着状態だったが、
ここに来て、凪が突然調子を崩し始めた。
1球目を外すと、2球目3球目もストライクゾーンを捉えることはできず、
結局先頭打者をフォアボールにしてしまった。
何かがおかしいと察したキャッチャーの田向君が、
すかさずマウンドの凪のもとへと駆け寄る。
キャプテンを始めとした、内野の面々も心配そうに凪のもとへ集まる。
……凪。ここは大事な局面だよ。
なんとかここを抑えて笑顔でお父さんを迎えよう。
頑張れ――。
367 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:03:35.70 ID:XR2bVOTMo
しかし、凪の調子が戻ることはなく、後続のバッターにもヒットを許してしまい、
あっという間にノーアウト2塁3塁というピンチを迎えてしまった。
次にヒットが出れば1点、あるいは2点を失ってしまうという……大ピンチだ。
中学野球は7回までなので、終盤の6回に2点を失うのは非常に苦しい展開だった。
しかも、ここで迎える相手のバッターは2番打者。
ここから強打者が続く。
キャッチャーの田向君が立ち上がって、大声を出す。
田向「先輩! 大丈夫っす! 思い切って投げましょう!」
間髪を入れずにキャプテンも声を上げる。
キャプテン「打たせていいからな! 俺たちが死ぬ気で守る!」
凪はそれらの鼓舞に対して、苦しそうな表情で頷いた。
368 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:07:00.19 ID:XR2bVOTMo
凪、大丈夫だよ。
君のまわりには頼もしい仲間がいる。
信じて投げれば、大丈夫だから――。
夏の午前中の真っ白な光が、グラウンドを灼いている。
凪は眉根を寄せ、何度も額の汗を拭った。
そして3塁側を見たあと、セットポジションから全力投球した。
カキィン。
気持ちいいまでの金属音が鳴り響き、思い切り左中間に弾き返される。
センターが打球を追うものの、長打になった。
その間に3塁ランナーがホームに帰り、2塁ランナーも……生還する。
一気に2点……取られてしまった。
369 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:10:03.56 ID:XR2bVOTMo
値千金のタイムリーを打った相手のバッターは、
2塁で嬉しそうにガッツポーズを見せている。
相手チームのベンチは、お祭り騒ぎの状態だ。
打たれてしまった。
これまで、ずっと無失点で踏ん張っていた凪が……ここで瓦解してしまった。
凪はマウンド上でとてもつらそうに歯を食いしばっている。
先ほどまで元気だった田向君やキャプテンも俯き、黙ってしまった。
ベンチの生徒までもが呆然として言葉を失っていたので、
俺は慌てて手を叩き、盛り上げに徹する。
男「なに黙ってんだよ! こっからだろ! 声出せ声出せッ!!」
370 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:14:09.46 ID:XR2bVOTMo
そう大声を出したものの、凪たちにはまるで届かない。
グラウンドには、完全に”やばい”空気が漂っていた。
まずい。分かる。
このままだと、次も……絶対に打たれてしまう。
そんな嫌な予感の中迎えた、3番バッター。
カキィン。
一球見送った二球目をあっさり打たれ、綺麗にセンター前に運ばれる。
立て続けにヒットを浴び、またしてもノーアウト1塁3塁の大ピンチだ。
371 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 21:14:51.03 ID:K7FCxF6VO
がんばれ………
372 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:16:08.14 ID:XR2bVOTMo
チーム全体に、暗く重い空気が流れる。
もしこのまま点差が広がり続ければ、試合が終わってしまう。
内野陣は再び凪のもとに集合し、話し込んでいる。
なんとしても。
なんとしても、3失点目だけは避けなければ――。
そう思った時だった。
校庭の端から、一人の女性が車椅子を押して歩いてくる。
それは紛れもなく……。
男「陽子先生! こっち! こっちです!」
俺は大声で叫んで手を振った。
陽子先生と、剛先生が来たのだ――。
373 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:17:46.12 ID:XR2bVOTMo
男「陽子先生! よかったです、無事に来れて……」
陽子「ごめんね、ちょっと手続きに時間かかっちゃって……」
男「いえいえ。本当に、来れただけで良かったです」
陽子先生は「ふう」と息をついたあと、ハンカチで汗を拭いながら訊いてくる。
陽子「それで……今はどんな感じなの?」
男「今は、6回のオモテで……凪たちは2点差で負けています」
陽子「あらぁ……そうなんだねぇ」
男「でも大丈夫です。だってまだ試合は終わってないですから」
陽子「そうだねぇ。なんとか、勝ってもらいたいね」
374 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:20:50.08 ID:XR2bVOTMo
ふと、車椅子に座る剛先生を見る。
ビニール傘をさし、穏やかな瞳でグラウンドを見つめるその表情は……
”あの時”とは打って変わって、かつての剛先生そのものだった。
男「剛先生……?」
俺は思わず声に出してしまう。
剛先生はこちらに気づくと、にこりと柔和な笑顔を浮かべ、
「この雨の中なのに、皆さんよくやりますね」と穏やかに語った。
もちろん今日は見事なまでの晴天で、
雨が降っているのは――”剛先生の世界”での話だ。
剛「ちなみにこれは、なんの試合なんですか?」
やはり覚えていない。
俺のことも、きっと凪のことも、何もかも覚えていない。
けれど、その語り口も、穏やかな表情も、優しい笑顔も、
すべてがかつての剛先生だった。
375 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:23:00.10 ID:XR2bVOTMo
陽子「いい薬が見つかってね。最近はすっかり落ち着いた調子なの」
陽子先生は剛先生に「これはね、凪の試合なんだよ」と優しく語りかける。
しかしながら剛先生は、「なぎ……?」とやはり理解できていないようだ。
陽子「野球の試合だってことは、なんとか分かってるみたいなんだよね」
男「そうなんですね……」
ともあれ、かつての剛先生が戻ってきたみたいで、嬉しかった。
色んなことを忘れてしまっても、剛先生が剛先生であるなら、
それは本当に良かったと思えた。
俺はグラウンドの凪の方を見ると……叫んでいた。
咄嗟のことだったので、なぜそうしたのかは、よく覚えていない。
男「凪!! お父さんが来たぞ――!!」
376 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:25:48.20 ID:XR2bVOTMo
マウンド上で仲間に囲まれていた凪は、こちらを振り向くと、
言葉にできないほどの鮮やかな笑顔を見せた――。
遠く離れていてもはっきりと分かるほどの、夏の向日葵のような、
それはそれは眩しい笑顔だった。
空気が変わった……。
一瞬でそんな”予感”を感じ取った。
377 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:29:00.59 ID:XR2bVOTMo
それからの凪は、先ほどまでの重々しいムードが嘘みたいな快投を見せた。
まず、ノーアウト1塁3塁で迎えた4番バッターを三振で切り落とし、
さらに1アウトで迎えた5番バッターもセカンドフライに抑え込んだ。
きわめつきには、最後の6番バッターを目が覚めるほどの三球三振で抑え込んだ。
これにはチームメイトも、ベンチも、大いに沸いた。
グラウンド上のナインに、再び明るい活気が戻ってくる。
男「凪! いいぞ!!」
父兄に混じって応援する俺も、思わず右手を掲げてガッツポーズをしてしまった。
378 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:30:49.47 ID:XR2bVOTMo
続く6回のウラでは、キャプテンが意地を見せてタイムリーを放ち、
1対2の1点差にまで追いついた。
一度は完全な諦めムードに陥っていたチームが……
再び闘志を取り戻していた。
もう、誰ひとりとして下を向いている者はいなかった。
そして訪れる最終回。7回のオモテ。
凪のチームは何度かランナーを出す苦しい展開を迎えつつも、
凪の渾身のピッチングと、チームメイトの全力の守備によって、
なんとか無失点で抑えることに成功した。
379 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:34:13.31 ID:XR2bVOTMo
そうして迎えた、7回のウラ。
泣いても笑っても、最後の攻撃。
1点、あわよくば2点が欲しい凪のチームは、
なんとかノーアウトの状態でランナーを出したい……。
しかし、先頭打者と二番目の打者が立て続けに凡打に倒れ、
あっという間に2アウトという、あとのない状態になってしまった。
この緊迫した場面で打順が来たのは……5番バッターの田向君であった。
彼が出塁できれば……次のバッターは凪だ。
田向君は打席に入る直前、ネクストバッターズサークルにいる凪に向かって叫んだ。
田向「死んでも先輩に繋ぎます!!」
380 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:36:20.79 ID:XR2bVOTMo
その呼びかけに、凪がどう答えたのかは分からない。
田向君はにこやかに笑ったかと思うと、そのまま打席に入った。
初球であった。
こんな場面、普通なら萎縮してしまって初球なんかには手が出ないのだが……
田向君はそれを逆手にとって、甘めに入った初球を気持ちよく打ち返した。
右中間を割る、綺麗な2塁打だった。
地鳴りのような歓声が1塁側ベンチに沸き起こる。
長打を放った田向君は、2塁で両手を上げ「っしゃあああ!」と吼えている。
最終回、2アウト2塁。
このとんでもなくプレッシャーのかかる場面で打順が回ってきたのが……
他でもない、凪だった。
381 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:37:40.07 ID:XR2bVOTMo
一打同点のチャンス。
ここでヒットを打つことができれば、試合はまだ終わらない。
男「凪、がんばれ―――!!!」
瞬間、俺は持てる限りの力を込めて叫んでいた。
喉が潰れるほどの、後先なんて一切考えていない全力の叫び。
すると、ベンチや他の父兄からも次々と凪を応援する声が上がった。
そこにいる全員が凪を見つめ、同じように凪にエールを送っていた。
どうにかして打ってほしい。
お父さんの見ている前で……”約束”を果たしてほしい。
382 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:40:51.68 ID:XR2bVOTMo
「ふう」と軽く息を吐くと、こわばった顔つきで打席に立つ凪。
相手の捕手も、「よっしゃ落ち着いていこう!」と声を上げた。
一球目。
外にわずかにはずれ、ボール。
二球目。
インコースのストレートを見逃し、ストライク。
三球目。
外角の見せ球に手が出てしまい、空振り。
2ストライク。追い込まれてしまった。
凪は一度打席を外れ、深呼吸をしてリズムを整える。
グラウンドにいる全員が息を呑み、祈るような思いで凪を見つめている。
その時であった――”奇跡”が起きたのだ。
383 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 21:48:20.51 ID:XR2bVOTMo
剛「凪! ビビらないで打て――!!」
もう、凪のことは覚えていないはずの剛先生が、そう叫んだのだ。
先ほどまでさしていたはずの傘も、いつの間にか畳んでいる。
剛「凪なら打てる! いけ!」
それに気付いた凪はひどく驚いたようだが、すぐに落ち着くと、
にこりと笑って大きく頷き、再びバッターボックスに立った。
バットを構え、相手投手を見つめる凪の横顔には……
もう寸分の迷いも、ためらいもない。
フルスイングで打ち返した大飛球は青空に吸い込まれ――
センターの遥か後方まで飛んでいき、見えなくなった。
相手チームの外野は必死でボールを追いかける。
しかし、それは文句のない最高のホームランだった。
384 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:04:39.54 ID:XR2bVOTMo
劇的なサヨナラ勝ち。
凪の放ったホームランにより、凪のチームは大逆転勝利を収めた。
1塁側ベンチが、歓喜の渦に包まれる。
ホームベースに戻ってきた凪は、狂喜する仲間たちに囲まれ、
笑いながら涙をこぼしていた。
最高の瞬間だ。
今までやってきたことが報われ、叶ったんだ……。
385 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 22:05:42.15 ID:fCnhREpWO
泣いた
臨場感えぐいて…
386 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:08:33.49 ID:XR2bVOTMo
男「凪……よかったなぁ……本当に……」
喜んでいる凪たちを見ていると胸がいっぱいになり、視界が涙で滲んできた。
人前で泣くまいと、歯を食いしばってどうにか堪える。
隣では、陽子先生がハンカチで目元を押さえて泣いており、
剛先生は「凪、よくやった!」と快活な笑顔を見せていた。
剛先生は本当に……凪の記憶が戻ったのか?
たとえ一時的なものだったとしても、もしそうなら……正真正銘の”奇跡”だ。
387 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:10:21.43 ID:XR2bVOTMo
試合後の挨拶が終わって、凪が勢いよく剛先生のもとへと駆け寄ってくる。
凪「お、お父さん、私が分かるの?」
剛「ああ、当たり前だ! 凪、よく打ったな。最高だったよ!」
凪「お父さぁん……」
凪はぼろぼろと涙をこぼし、剛先生に抱きついた。
剛「なんだなんだ、どうしたんだ凪」
剛先生は照れくさいのか、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべる。
凪「お父さん、ずっとずっと話したかったよぉ……」
凪「嬉しい、すごく嬉しい――」
388 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:11:49.57 ID:XR2bVOTMo
凪「お父さん、あのね。私、約束叶えたよ。地区大会で優勝した」
剛「ここで見てたよ。すごくいい試合だった」
凪「ほんと?」
剛先生は「ああ」と頷くと、歯を見せて楽しそうに笑った。
真っ白な陽射しを反射したその笑顔は、とても眩しく、輝いて見えた。
剛「お父さんは、凪がこんなに立派に成長してくれて……本当に嬉しいよ」
凪「お、お父さぁん……」
凪は「わああ」と声を上げ、大泣きした。
凪「お父さん、お父さん……!!」
剛先生は「どうしたの?」と戸惑っているようだったが、
どこか幸せそうな、とても優しい表情をしていた。
389 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:13:43.83 ID:XR2bVOTMo
凪「ねえお父さん」
剛「ん?」
凪「一つだけ、訊かせてほしいことがあるの」
剛「いいよ。なんだい?」
凪は鼻をすすってから「ふふ」と笑ったあと、”あの質問”をした。
凪「お父さんは、雨が好きなの?」
すると、剛先生は少しだけ間を置いてから、嬉しそうに笑って答える。
剛「ああ、大好きだよ。どうしてか分かるかい?」
凪「んーん、分からない。……どうして?」
390 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:15:39.22 ID:XR2bVOTMo
剛「もうずっと前のことだけどね……凪が生まれた日が、雨だったんだ」
凪「そうなの?」
剛「うん、そうなんだ」
そう語る剛先生の優しい目元からは、凪への愛情が溢れていて……
大切で大切でたまらない娘を愛おしそうに語る”父”の顔をしていた。
剛「だからね、雨を見ていると……凪が生まれてきてくれたあの日のことを思い出して」
剛「とても幸せな気持ちになるんだよ」
剛先生はまた笑う。凪とそっくりな、その明朗な笑顔で。
391 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:16:38.68 ID:XR2bVOTMo
凪「そ、そうだったんだね……」
凪は「うえぇ」とまたしても大泣きし、剛先生に抱きついた。
そして何度も「ありがとう、ありがとう」とうわ言のように繰り返した。
剛先生がずっと雨を見ていたのは……。
そこに凪の思い出があったから――なのだろうか。
だとしたら。
剛先生は、彼にしか見えないその世界のなかで、ずっと幸せな気持ちだったのかもしれない。
そうだったらいいのにな……と思った。
392 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:18:16.33 ID:XR2bVOTMo
ふと、晴れた空の白い綿雲から、ぽつぽつと雨が降り出した。
きらきらと輝く無数の雨滴が、乾き切った白砂のグラウンドに舞い落ち、跡をつける。
「雨?」
「珍しいね、晴れてるのに降ってきた」
「傘、あったかな」
珍しい現象に、周囲にいた人々がざわつく。
393 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:22:40.76 ID:XR2bVOTMo
すると、どこからともなくこんな声がした。
「あ、狐の嫁入りだね。晴れてるけど傘をささないと」
それはまさしく、晴れ空に傘。
見上げると、青空の中に大きな虹がかかっていた。
凪と剛先生は透明なビニール傘を広げ、その中でふたり、いつまでも笑っていた。
晴れ空の傘のなかで――。
https://i.imgur.com/cMkLFfX.jpg
394 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/29(水) 22:26:11.30 ID:XR2bVOTMo
SS「晴れ空に傘」はこれでおわりです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
他にも色々書いていますので、ぜひTwitterのフォローをお願いします。
富澤 南
https://twitter.com/Tomizawa_2ch
395 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 22:27:28.43 ID:9ArhlGDmO
うおおおおお最高だった!!!
ここ数日間毎日追ってたけど、本当に素敵な時間でした。
ありがとうございます。。
396 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 22:35:12.68 ID:CCmyC3bVO
最後涙ぐんだわ
本当に美しくてイノセンス溢れるストーリー。
こんな世界もあるんだって信じてみたくなる
こんな場末に書くレベルちゃうで、もっと世に出すべきだと思う、、
397 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 23:34:04.35 ID:X0DNIXywO
最初に晴れてるのにビニール傘をさす子が出てきて、ただの出落ちネタかと思ってた
最後まで読んだらそれが本当に綺麗に繋がってて感動した
傘をさす理由も、父親が雨を見ていた理由も、すべてが綺麗につながってた
398 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 23:39:57.46 ID:pk/TLcxbO
ゲーセンの人か。年末に良い作品をどうもです!
399 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 23:41:07.47 ID:zPJHTwkqO
>>394
おつ
本当にいい話だったよ!
1つ聞いていい?これって舞台は山梨?
400 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/29(水) 23:53:45.25 ID:eXv1T/37O
誰かが書いてたけど本当に青春映画を一本見た気分、大満足
夏や町の情景描写がほーんとうに大好きだった
全編を通してすべてがキラキラしてた
ありがとう
401 :
◆WiJOfOqXmc
[sage saga]:2021/12/30(木) 00:06:09.88 ID:2Yp7qE5Uo
>>399
そのとおりです。
レスで気づいている方もいらっしゃいましたが、
笛吹川も、万力公園も、橋も、すべて実在する場所です。
このお話を読んで、少しでも山梨のことを知ってもらったり、
「山梨に行ってみたいな」と感じてもらえたらいいなと思って書きました。
もしこれを読んでくれた方で気になった人がいましたら、ぜひ。。
402 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/30(木) 00:07:22.95 ID:u+KYQcQnO
あー、富澤さんだったのか!納得。
あなたの描く夏と青春、本当に好きです。
403 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/30(木) 00:21:47.62 ID:v2Ucn5tRO
>>6
>>393
このイラストも本当に好きだった。
個人的にはイメージしてたより大人っぽかったけど、硬派で好きだ
404 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/30(木) 02:02:01.25 ID:k1H8jPf5O
富澤さんってゲーセンで出会った〜の人か!
スレに立ち会えて嬉しい
挿絵まであって本当に凝ったssでした
405 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/30(木) 04:26:05.53 ID:AVnKBBl7O
山梨に行ってみたくなった、桃畑が見たくなった。
この春と夏は、行ってみます。
406 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/12/30(木) 14:09:38.31 ID:2QMAXf8pO
完結してた。
なんだかクソみたいな毎日でも頑張ろうって思えました…
とても面白かったです!
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