速水奏「文、奏でる」【モバマスSS】

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1 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:20:32.22 ID:u50g9+A20


 変な人、というのが彼女への最初の印象だった。

 だってそうじゃない?

 世の中じゃ誰もがスマホを見ているのに、彼女は本を読んでいたから。

 文庫本じゃなくて、分厚いハードカバーの本を。


 それでも、喫茶店や電車の中だったら、単なる読書家で済ませていたと思う。或いは、そういう場所で読んで、読書家ぶりたいだけの人。
 
 でも読んでいる場所が、エレベーターの中だったら?

 それも、本に夢中で、エレベーターが着いたことすら気づいてないとしたら?



 それが私――速水奏と鷺沢文香の始まり。

 初めて、事務所に来た日の事だった。




SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1638012031
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:25:32.25 ID:u50g9+A20


 アイドルになろうなんて思ったのは、小さな気まぐれだった。

 色々なことにうんざりして、色々なことが嫌になって、色々なことから逃げ出したあの日の夕方。
 

 そんな時にスカウトされて、受け入れて。きっと私は自棄になっていた。色々と。


 
 それから何日かして、事務所に向かったのは、学校の帰り道。

 学生服姿で潜るには、落ち着かないほど大きくて立派なビルだった。

 受付で名前を言って、もし私の名前が無ければ? 

 きっとあの人は人を騙すのが趣味の嫌な奴で、騙されたと気づいた私は少し赤面して帰るんだろうな。

 そうなっても、悪くない。

 泡沫の不安と夢は弾けて飛んで、素晴らしく下らない日常に戻るだけ。


 生憎、速水奏という私の名前はちゃんとあって、仮の通行証を渡された。

 立派な建物だけど、所々アイドルのポスターが貼られていた。エレベーターホールにも掲示エリアがあって、デビューしたばかりという知らないアイドルのポスターが並んでいる。


 見知らぬ少女達の親しげな笑みが、ここが芸能事務所なのだと改めて教えてくれた。



 まだ、これが現実なのか自信が沸かなかった。

 全ては白昼夢と言われても、私は納得しただろう。

 
 
 だから、エレベーターが開いて奥の隅でジッと本を読んでいた彼女のことも、一瞬現実かどうか分からなかった。



3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:27:38.70 ID:u50g9+A20
 

 彼女の見た目が、そんな考えに陥った一因であった。

 深海を思わせる黒く深い長い髪の毛に、南国の砂浜のように白い肌。

 際立ったコントラストは19世紀の絵画に描かれた人物のよう。


 なによりも読んでいたのはボロボロのハードカバー。

 その本は、一目見ただけでカビと古いインクの匂いを想像させた。


 都心の芸能事務所には似つかわしくないように思えて、正直、最初は幽霊かと思った。芸能事務所に幽霊が出るって、結構定番でしょ?

 でも、エレベーターの奥にある鏡には彼女の姿は反射していた。
 
 幻覚ではなく、ちゃんと実態はあるようだ。

 失礼なことを考えてしまったと、少し耳が熱くなった。


 でも、それならどうしてエレベーターから降りてこないのだろうか。


 道を開けるように脇に退いていた私は彼女が動くのを待ったが、そのうちにエレベーターが閉じだそうとして、私は慌てて入り口に手を置いた。


「降りないんですか?」

「……え?」


 少し間を置いてから、彼女は顔を上げた。そこでやっと、本に隠れていた彼女の顔を見た。

 蒼く、深い、星空色の瞳。

 一瞬、彼女はぼんやりと私を見ていたが、すぐに意味を理解したようだ。「あっ……!」と小さな悲鳴をあげると、エレベーターの表示を確かめてあたふたとしだした。


「えっと……あの……」


 なんだと言うのか。口をパクパクさせてから、結局なにも言わないで、おずおずとエレベーターを降りて行った。

 本当になんなのか。不思議に思いながら、私はエレベーターに乗り込んだ。

 閉じゆく扉をどうしてか彼女は困ったように見送った。


4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:29:54.28 ID:u50g9+A20


 変わった人だったけど、スタッフの人だろうか。

 それとも綺麗な人だったし、案外、私と同じようなアイドルにスカウトされた人か。


 その可能性を、私は振り払った。アイドルをするには……なんというか、ちょっと抜けすぎている。

 彼女が読んでいた本はなんだったのだろうか。もしいつか、事務所で再びすれ違うことがあれば、聞いてみても面白いかもしれない。そんな機会があればだけれど。


 私は指定された階でエレベーターを降りて……途方にくれてしまった。

 あまりにも大きなフロアで、どこに行けばいいか全然わからなかったから。

 受け付けの人は道順も教えてくれてたけど……私は少し緊張していた。行先は覚えていてもその道のりは頭から抜け落ちていた。

 廊下をちょっと覗き込む。長い廊下が延々と続いているように見えた。扉もいくつもあって、まるで別の学校に迷い込んだみたいだ。


 立ちつくしていても仕方がない。一つ一つ、名札を確認していくしかないか。


 そう思って歩き出そうとしたとき、ポンと気の抜けた音がホールに響いた。

 私とは別の人が、この階にやってきたようだ。こんな場所で立ち呆けしていたら、変な子に思われてしまう。私はともかく進もうと思ったけど、すぐに考え直した。


 気取らず、やってきた人に聞いた方が早いか。

 私は振り返って、開いたエレベーターに向き直った。




「あっ」


 と、声を漏らしたのはどっちだっただろう。


 エレベーターから降りてきたのは、先ほどの女性だった。



5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:31:55.24 ID:u50g9+A20


 今度は読んでいなかったのだろう。ギュッと胸の前で本を抱いた姿で彼女は私を見て立ち尽くしていた。


 先ほど、一階で見せた奇妙な挙動の理由に合点が言った。

 彼女は、一階に降りるためにエレベーターに乗っていたんじゃない。

 一階から、この階にやってくる為に、エレベーターに乗っていたのだ。

 多分、本を読むのに夢中になり過ぎていたのだろう、だから目的の階でエレベーターが止まってもそのまま読み続けて、そして再び、一階に戻ってきてしまったのだ。

 失態を隠す為にわざわざ一度降りてから、また改めてこの階のボタンを押したと。

 彼女の唯一の誤算は、私が同じ階で降りていたこと。


 呆然としていた彼女の顔が、段々と赤くなるのが分かって、私は思わず口元が緩んだ。

 そんな私の変化に、彼女は益々顔を赤くしていった。



「ねえ、第三会議室がどこか、分かるかしら?」

「第三会議室……ですか?」


 キョトンとした様子の彼女は、おずおずと頷いた。


「えっと、はい……」

「良かったら、教えてくれない? 来るのは初めてなの」

「それなら……案内します。丁度、私もそちらに向かう所だったので」



 それが文香――鷺沢文香との出会いだった。



6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:33:11.94 ID:u50g9+A20





 話の中で、文香は私より少し前にスカウトされてこの事務所にやってきたということが分かった。


 私を目的の場所まで案内してくれた文香は、そのままレッスンへと姿を消した。



7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:35:19.22 ID:u50g9+A20


 アイドルになったからと言って、すぐにあの煌びやかな世界に飛び出せる訳ではなかった。

 湖を優雅に泳ぐ白鳥のようでも、水面下では必死に足をばたつかせている。


 私は湖にまだ浮かんでもおらず、それどころか生まれてすらいない。卵だった。

 私と同じようなアイドルの卵は、事務所の中には沢山いた。

 そんなアイドルの卵の列に、私も加わった。彼女たちに交じって、私もレッスンをすることになった。


 そんな卵の中に、文香の姿を見つけることがあった。


 入った時期が一緒だったから、同じレッスンになることも多かった。

 別に、そんな子は文香だけではなかった。ただ、気づけばいつも文香の隣に私が居て、私の隣には文香が居た。

 他の子とそりが合わないとか、そういうわけじゃない。みんないい人だ。

 色々な年齢の人達が居て彼女たちはみんな、アイドルという一つの目標に向かって切磋琢磨し合う。

 そこには年齢も関係なくみんなが仲間であって、ライバル。



 そう言う関係は悪くないけれど……私には、少し眩しすぎた。

 同じ空間に居るのだけど、見えない枠があるようで。

 みんなと同じ舞台に立っているのに、私は時折、ただ観客席から見て居るだけの存在なんじゃないかと、感じられた。

 多分、文香も同じだったのだと思う。



 二人とも眩い舞台の上に立ちながら、薄暗い観客席から、舞台の上に目を向けていた。



8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:36:43.44 ID:u50g9+A20


 夕暮れ時。

 並び立つビルを彩るのは、刺々しいスポットライトやLEDの装飾された看板の数々。どれもこれも自己主張が強くて、統一感なんてまるでない凸凹な都会の風景。

 それらを一枚の絵にまとめ上げていたのは、薄暗い雲に雨の音色だった。

 窓枠で縁どられた景色。

 事務所内にいくつもある休憩スペースの一つから、その作品に目を向けていた。

 テーブルの上では、傍の自販機で買った微炭酸のペットボトル。半分程減った中身で、小さな泡が中央に渦巻く様に生まれては消えていった。


「雨、やみそうにありませんね」


 私の視線に釣られたのか、向かいの席では私と同じように文香が窓の外に目を向けていた。


「天気予報だと、夕方には止むって言ってたのにね」

「この調子では……」

「ほんと、そうね」



 その日も、レッスン終わりだった。



9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:38:08.83 ID:u50g9+A20
 二人っきりのダンスレッスン。基礎的な振り付けをひたすら繰り返すような日だった。

 運動には、多少の自信はあったけど、ダンスレッスンは想像以上にハードだった。
 
 疲れた体に、程よい炭酸の甘さと冷たさが良く沁みた。

 私と同じようなレッスンをこなした文香は憂いたような表情をしている。

 それは、体の疲れのせいだけじゃないのだろう。


「文香って、意外と体力あるよね」

「そうかもしれません。持久走などは、昔から苦手ではなかったので」

「持久走以外は?」


 目を伏せて、少し頬が赤くなった。

 文香は体力に関しては、もしかしたら私以上にあるかもしれない。ただ、純粋な運動神経は、別のようだ。


 ダンスレッスン中の文香は、整備されていない機械時計の踊り子だ。

 時間が来ると、メロディと共に踊りだすが、油の刺していないせいでぎくしゃくしていて、その上、音もなんだかずれている。

 踊るだけでも苦労して、体力も私よりはるかに消耗しているようだった。

 レッスン終わり、文香はいつも汗だくになっていた。


「ダンスは、体育では特に苦手でしたけど……もしかしたら、出来るかと思ったんですが」

「ファンタジーの主役みたいに、上手くは行かないみたいね」

「本当に」


 肩だけでため息をついた。文香にしても、予想以上に不出来なようだ。落ち込んだ様子の文香は、申し訳ないがちょっと可笑しかった。

 中学の頃苦手だったことが、いきなり得意になるとは思えないのだけど。



10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:40:25.46 ID:u50g9+A20


「千里の道も一歩から、でしょ」

「千里どころか、万里の道に感じます」

「あら、素敵じゃない。数千年後には世界遺産になれそう」

「からかわないでください……」


 目を伏せた文香も、ペットボトルに口をつける。私と同じ商品の味違い。


「悪かった、文香。拗ねないでよ」

「拗ねては……いません……」



 説得力の無い言葉だった。

 でも指摘をすればより恥ずかしがってしまうだろう。

 だからなにも言わなかったが、つい小さく笑ってしまった。それじゃあ、意味がない。


「もう……」


 益々顔を伏せた文香に、私はまた笑ってしまった。




「……すみません」


 唐突に文香が謝ってきて、私は目を丸くした。

「なにが?」

「今日のレッスン、付き合わせてしまって」

「別に、たまたま一緒だっただけでしょ?」

「たまたまなんて……今の奏さんと私では、ダンスのレベルが違いますから……私と同じレッスンを、奏さんが行う理由はありません」


 長い前髪の向こうで、蒼い瞳が揺れていた。

 その通りだ。本当ならば、今日のダンスレッスンは、文香一人で行う予定だった。その話をプロデューサーから聞いた時に、私も一緒にやると言ったのだ。

 私と文香は同期だし、誰か居た方が文香も心強いんじゃないかと思って。

 でも、そのことを黙っていたのはいらぬ気遣いだったか。


「気にしないで。レッスンに付き合うって言いだしたのは私からだから。でもそっか。素直に言っておけば良かったわ。私こそごめん」

「いえ、そんな。奏さんが謝る事なんて……ありません」


 あたふたと、文香は胸の前で小さく両手を振った。


「私の事を思ってくれたから、一緒にレッスンを受けてくれたんですよね」



「さあ、どうかしら」



 素直になろうと思ったのに、文香に見抜かれてるとなると、つい誤魔化してしまった。

 文香はそれ以上追及してこないで、白い肌に淡い笑みを浮かべただけたった。全て分かっているとでも言いたいかのように。


 じんわりと頬が熱くなって、火照りを和らげるように、ペットボトルに口をつけた。



11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:42:26.93 ID:u50g9+A20


「奏さんが羨ましいです。なんでもすぐに器用に出来て」

「……どうかしらね」

「えっ?」


 小さく首を傾げた文香。私は笑みを作った。


「文香だって、コツさえつかめばすぐに出来るようになるわよ」

「……それは、出来る人だからのセリフです」


 否定は出来なかった。少なくとも踊りという分野に置いては、私は文香より出来る人間だ。

 そう言う得意不得意の差は、人によってあるのは当然である。


 でも、文香が思っているほどには、文香が出来ない側の人間とは思えなかった。


「さっきもトレーナーさんが言ってたじゃない。文香は余計な力が入り過ぎてるって。もっとリラックスしてやってみなよ」


 動きが硬いのも、体が強張ってしまっているからだ。きっとそれは、ダンスというものに対する苦手意識からそうなっているんじゃないだろうか。

 もっとも、文香は納得していないようだけど。


「リラックスと、言われましても……」

「トレーナーさんも言ってたでしょ。クラゲのように脱力する」

「クラゲのように」



 むうっ、と文香の眉間に皺が寄った。

 これではクラゲというよりカメである。



12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:44:13.59 ID:u50g9+A20



「文香は、なんでもかんでも集中しすぎちゃうんじゃないかな」

「ダンスをするには集中する必要があると思いますけど……」

「そうだけど、そうね。集中というより、入り込んじゃうというか。踊りをしなきゃって、思い込み過ぎてるのかも」

「……よく、分かりません」

「私も」


 笑った私に文香はキョトンとした。

 我ながら、ずいぶんと抽象的なことを言っていると思う。でも、あながち間違いではないように思えた。



 私はエレベーターの中での、彼女の姿を思い出した。


「文香は本を読むときに、本を読もうって気合いを入れる?」

「なぜ、本を読むのに気合いを入れる理由が?」

「そういうこと、私がいいたいのは」

「はあ……?」

「文香は踊りをする時に、まず気合いを入れすぎちゃってるんだと思うの」

「あの、そもそも、本を読むのに気合いを入れる理由が分からないのですが」


 本当に理解できないかのように呟いた文香に、私は笑ってしまった。


「それは出来る人のセリフね」

「えっと……」


 上手く言い返せたつもりだったのだけど、まだ文香は理解できていないようだ。


 これこそまさに、出来る人間の態度だ。



 無自覚なのは、ちょっとズルイ。



13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:46:37.02 ID:u50g9+A20


「同じことなのよ。本当は、気合いを入れる必要はない。ただ読めばいいし、ただ踊ればいいの」


 私は席を立つと、少し離れたところでレッスンでやった初歩的なステップを踏んだ。なにも考えずに、鼻歌でも歌う様に。


「さあ、文香。次は貴方よ」

「え……ここでですか?」

「なに驚いてるの。アイドルになったら、もっと色んなところで歌や踊りをやるんだよ? 事務所の廊下でそんなんじゃ、どうするの」


「ほら」と、私は手を差し出した。まだいくらか逡巡していたけど、結局観念した。

 私が差し出した手を、文香は添えるように握り返してきた。手を引くと、文香も釣られるように立ち上がる。

 手を離すと、もしかしたらまた座るんじゃないのだろうか。そんな心配をしてしまうほど、おぼつかないように見えたけど、そんなことはなかった。

 ちゃんと自分の足で文香は立っていた。でも、まだ自信がなさそうで。なにかを訴えかけてくる彼女の瞳を無視して、私はトレーナーさんがやっていたように、手拍子でリズムを刻んだ。


「さあ、文香?」


 不満を浮かべながら、逃げ道がない事を悟ったのか。文香は今日レッスンしたダンスの基礎のステップを刻み始めた。

 縛っていない長い髪を揺らしながら、長いスカートをふらりと瞬かせ、白い肌は少々赤くなっていた。


 そうして刻んだリズムは――お世辞にも褒められたものではなかった。

 先ほど、レッスンルームで行ったのよりも酷かった。


 本人も自覚があるのだろう。ゆっくりとダンスは減速していくと、やがて立ち止まって、両手で顔を覆った。


「もう、苛めないでください」

「聞き訳が悪いわね。苛めてなんてないわよ」

「楽しそうに見えますけど……」


 指の合間から、文香が私を覗き込んできた。

 苛めている訳では当然ないが、楽しんでいない訳でもない。それはまた別問題。


14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:49:33.41 ID:u50g9+A20


 しかし、やっぱり動きが硬い。一番の問題は。

 私は顔を伏せたまま文香の両肩に手を置くと、ぐっと力を込めた。


「ひゃっ!?」

 驚いた文香は肩をすくめたが、そんな抵抗を無視して肩を揉み続けた。


「文香、だいぶ凝ってる。なんとなく予想してたけど。凝るよね、色々と」

「ちょっと……奏さん……?」

「それに、本を読み過ぎ。普段からもっと動いた方がいいわよ」

「ですから一体……痛っ!」

「あら、ごめんなさい」


 余りに硬すぎたせいで、強くやり過ぎてしまったようだ。私は力を弱めて、先ほどより優しく肩を揉む。


「奏さん……?」


 髪の向こうから、文香が私を見上げてきた。蒼い瞳が微かに潤んでいるようだった。


「リラックスよ、リラックス。腕をダラーンとさせて」


 私は揉むのを止めて、肩を緩めるように左右に揺らし始めた。


「えっと、あの」

「トレーナーさんが言ってたでしょ。クラゲになった気分で。クラゲって、どうやって泳いでいるか、文香は知らない?」


「泳ぐのではなく……海流に……身を任せているんです」

「そう言うこと」


 私の言いたいことを理解したようだ。ゆっくりと両手をだらりとたらすと、私の起こす振動を受け入れるようになった。


 それに合わせるように、肩からもこわばりが抜けていく。表情も、だんだんと穏やかになっていく。

 目を閉じて、まるでうたた寝でもしているかのようだった。

 そのまま、眠ってしまって私の胸にでも倒れこんでくるんじゃないのか。そんなことを考えてしまう程に。


 リラックスは出来たようだけど、ここから踊るとなると、すぐに強張った動きに戻りそうだ。



 ちょっとした考えが、私の脳裏に浮かんだ。



15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:52:21.36 ID:u50g9+A20


 気恥ずかしさも覚えるけど、これも文香のためか。


 気持ちを切り替えるために、胸の内で数字を数える。

 ワン、ツー。



 私は肩から腕を通って、文香の手を握った。

 その手を、ゆっくりと持ちあげる。


「えっと、あの?」


 困惑が浮かんだ表情で、文香は私を見上げてきた。


「大丈夫、私に合わせて。1,2,3、1,2,3……」


 私は口でリズムを刻む。

 そうして、ゆっくりと前に足を動かしだした。

 いわゆる社交ダンスだ。


「ちょっと、奏さん……!?」


 文香は予想外だったようで、目を見開く。


「体が硬くなってるよ、文香。さっき言ったでしょ」

「で、でも」

「怖がらないで、私にゆだねて」


 私の動きに引っ張られるだけだった文香だったけど、少しして観念した。

 肩に入っていた、力が抜けた。


 私も、動きやすくなった。まだ足元は覚束ないし、見られたものではない。


 それでも、体がから力が抜けて、文香は踊ることが出来ていた。


「1,2,3、1,2,3……」



 私は口で、リズムを刻み続ける。


 雨の都会の中、二人っきりのダンスルームは、中々に悪くなかった。



16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 20:55:09.38 ID:u50g9+A20


 私はゆっくりと踊る速度を落として、やがて止まる。

 文香から、手を離した。


「ほら、文香も綺麗に踊れるでしょ?」

「奏さんのリードがお上手だからです」

「嬉しいこと言ってくれるわね。私もチャレンジした甲斐、有ったみたい」

「……もしかして、奏さんもああいう踊りは初めてなんですか?」

「生憎、ミュージカルは見る専門だから。だから、観客がいなくて良かったわ、本当に」


 もし客観的に私達をみていたのなら、ミュージカル映画というより、滑稽なコメディだっただろう。それこそ、あまりの酷さに私の体が強張ってしまう位。でも幸いにして、私達の踊りは誰にも見られていない。


 見られていないなら、取り繕わなくて済むから、楽だ。


「どう、リラックスして踊れたでしょ?」

「ええ、なんとなくですけど……」

「それなら、もう一回やってみて」



 文香は戸惑いながら、私の手を握ろうとしてくる。

「社交ダンスはもうおしまい」

「あ……」


 カッと顔が赤くなった文香。クスクスと笑ってから、私はテーブルに座った。


 今度はあくまで、観客として。


「ほら、やってみて」

「……はい」


 胸に手を置きながら文香は小さく息をつく。まだ、少し緊張してる。

 注意しようと思ったけど、必要はなかった。文香はもう一度息をついた。深く、自分を落ち着かせるように。

 そうして、ステップを踏み出した。

 ステップは力が抜けていたが、やっぱり上手いとは言えない。力を抜いてやるからこそ、体の動かし方に戸惑っているのも分かった。



 それでも、今までより自然に踊れていた。



17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:00:35.61 ID:u50g9+A20


 私は拍手をしようとして、別の人に役目を取られた。

 背後からの拍手の音に、私は顔を向ける。

 パンツスーツ姿の女性。

 プロデューサーだった。


「お見事、やれば出来るじゃん文香」

「プ、プロデューサーさん……」


 文香は恥ずかしさがぶり返してきたのか、顔が真っ赤になった。

 私は体を捻らせて、背もたれに肘をついて伺う様に頭を屈めた。


「覗き見? 良い趣味とは言えないんじゃない、プロデューサー?」

「アタシはプロデューサーなんだから。見る権利はあるでしょ」

「どうかしら、優待券を持ってないなら、窓口でチケットを買って」

「モギリがいるようには見えないけど?」


 私が手を差し出す。キョトンとしたプロデューサーだったけど、短く笑った。


「今度からネットで予約しとく」


 うんざりした様子のプロデューサーに、私はにっこり笑顔を作った。

 プロデューサーは仕事以外の話をあまりしたがらない。興味が無い……というより、苦手という感じだ。

 そんなプロデューサーだから、私もついからかってしまう。


「冗談はもういい? これからのスケジュールについてなんだけど」

「ええ」


 そもそも私たちが残っていたのは、プロデューサーからその話があるからだ。メールなんかでも済みそうだけど、会って説明するのが彼女の主義。

 雑談は得意じゃないけど、それぞれの仕事に対しては親身に応じる。そう言う意味では古風な人だった。

 プロデューサーはまずは私に書類を渡して、次に文香に。



 でもプロデューサーは文香に渡すのを、少し躊躇した。


「あの、プロデューサーさん?」

「……いえ。ごめんなさい」


 謝りながら、改めて文香に渡す。


「どうかしましたか、プロデューサーさん」

「……一応、来月までの予定が書かれているけど……もしかしたら、少し変わるかも」

「それは……?」

「もうちょっと、色々早めてもいいかもってこと」

「えっ」


 文香は驚きに、前髪の奥の瞳が大きく膨らんでいた。

 私が指導した甲斐は、あったようだ。


18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:02:16.34 ID:u50g9+A20


 私はそんな二人を横目に、書類に目を通す。これからのスケジュールや予定が簡素にまとめられていた。

 基本的に『レッスン』の繰り返し。『ボイスレッスン』『ダンスレッスン』『ビジュアルレッスン』。

 変わり映えのしない言葉が続いていたけど、最後の項目に『打ち合わせ(未定)』という文字があって、私はドキリとした。


「プロデューサー、この打ち合わせって」

「え、ああ。デビューシングルの打ち合わせ」

「奏さんが、デビューですか?」


 パッと文香の表情が明るくなる。自分の事を知らされた時より喜んでいるみたいで、私にはおかしかった。


「んー、まあ」


 でもなんだか、プロデューサーは素気なかった。喜ばないのは、自分の立場を考えて敢えて感情を出さないようにしているのか。

 正直、つまらなかったけど、そのかわり、文香が喜んでくれたからプラスマイナスは0、と考えていいだろう。


「凄いです、奏さん」

「ありがとう。でも、文香もきっとすぐよ」

「いえ……私なんてまだまだで」

「それは文香次第だよ。今みたいにしっかり出来るなら、奏と同時期デビューだって夢じゃないかも」


プロデューサーは御世辞をいうタイプではない。素っ気ない口ぶりは、返って真実味が増していた。


「そんな……私が、デビューだなんて」

「あら、何の為にこの事務所に来てるのか忘れたの? アイドル候補生さん」

「それは……」

「奏の言うとおりだよ。アタシがスカウトしたんだから、胸を張って。貴方は立派な、アイドルの原石なんだから」


素っ気ない癖に、うちのプロデューサーは妙に自信がある人だった。



19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:06:22.57 ID:u50g9+A20




 文香と事務所を出た時には、周囲は夜が強くなっていた。

 ギラギラとした都会のネオンはいよいよ鋭くなって、綺麗を飛び越えてチープなCG加工のようだった。

 薄い雨は続いていて、二人で傘をさして夜の街を歩き出す。昼ごろよりも、気温が下がっている。


 少し、肌寒かった。


「ホントに、凄いです。奏さん」


 冷えた空気に暖かな文香の音がこぼれて、私の耳に届く。



 文香の声は、優しい木漏れ日のような響きがある。


「もう、デビューだなんて」

「そうかしら。アイドルとして売り出したい旬を考えたら、遅いぐらいじゃない?」

「そう言う話になると、奏さんより年上の私は……」


 そうだった。当たり前に隣にいてくれるから忘れがちだけど、文香の方が2つ年上だった。


「勘違いしないで。その人の年齢そのものは問題じゃなくて。その人が輝いて見える瞬間のこと。私はそれが、たまたま文香より早い時期に来ただけだから」

「それは奏さんが魅力的だからです」


 その言葉の裏には、小さなとげがあった。

 でもそれは、私に向けられたものではなく、文香自身へのとげだった。


「でも、作家でも色々な人がいるでしょ? 若くしてデビューした人や、逆に年老いてからデビューした人」


 私は自分の拙い知識で、それぞれの例を挙げてみる。


「彼らの書く作品には、優劣なんて存在する?」

「そんな訳がありません。どちらも素晴らしい作家です。確かに活躍した年代や方向性は違いますが……優劣なんてとても」


「そういうこと。ただ、しかるべき魅力が発見される瞬間は人によって違って、私は今で、文香も今。年齢は関係ないの。それで、たまたま私の方が先にデビューできるかもしれないってだけ」



20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:09:09.99 ID:u50g9+A20


「私と文香、どっちが魅力的とか、そういう問題を考える方が馬鹿らしくない?」


「そりゃあ人によって、好みに差はあるけど」と、私は軽く肩をすくめた。


「そう……かもしれません」


 口ではそう言うが、余り納得している感じではない。いまいち自信がないようで。

 仕方がない。

 私は笑みを作った。


「それに、貴方が魅力的だって言う私とこうやって一緒にアイドルのレッスンが出来ているってことは、貴方も魅力的ってことでしょ?」

「そんな……私なんて……」

「謙遜は文香の美徳だけど、もっと自信を持ってもいいと思うけど。文香が自分をその程度だなんて言うなら、私もその程度になっちゃう」

「そんなことありません。奏さんは」

「なら、文香もそんなことないわ。だって私は、文香は私と同じくらい魅力的だって思っているんだから」

 キザなセリフ。自分で口にしておいて内心苦笑してしまう。

 でも、文香にはそれ位言った方がきっと効果があるだろう。大きくなった文香の瞳孔が、私の考えを肯定してくれていた。



 すぐに答えてくれればいいのに、文香はうつむいたまま歩き出した。

 長い髪と薄い雨がカーテンとなって、文香の表情は伺えなかった。

 そのまま、無言で私たちは歩いていく。



 帰り道にありがちな、小さな沈黙。

 気まずさもあったけど、どうしてか私は心地も良かった。


 もし永遠にこの瞬間が続くのならば、私は喜んで雨の中を歩き続けるだろう。



 なんてね。



21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:10:55.22 ID:u50g9+A20


「そう……ですよね……」


 雨粒の向こうに響いた音色は余りにも静かで、街の喧騒に流されてつかみ損ねるところだった。


「皆さんが……私を信じてくれて……いるのですよね。それなら……私も信じてみるべき……なのかもしれません」


 とつとつと語った言葉は、前に進もうとしている人の言葉で。


 でも、まだどこか不安げで。



「ええ、そうよ」


 だから私は、肯定した。自分が思っていたより声が大きくなっていた。


「貴方ならできる、必ずね」

「そしたら……奏さんと一緒に……デビューも出来るんですかね」

「私と?」

「奏さんの……ご迷惑じゃなければ……ですけど」


 なにを言っているのか、迷惑になんて思うはずがないのに。



「ええ、もちろん。文香が頑張れば、きっとできるわ。私も……文香と一緒にデビュー出来たら、嬉しいもの」



 それは、心からの言葉だった。




22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:13:26.50 ID:u50g9+A20




 文香は、上手くなるのは万里の道だなんて言葉を使った。

 でもそれは大げさだった。

 いや、それどころか千里の道ですら、誇大広告になってしまう。


 文香はあの日から、確実になにかが変わったようだった。最初の1週間ほどは苦戦に苦戦を強いられていたのが傍目からも分かったが、どこかでコツをつかんだようだ。

 それからは、目を瞠るほど文香は上達していって、トレーナーさんやプロデューサーさんが驚く程。

 もちろん、文香だけではない。

 私だって、文香に負けない勢いで、上達を続けていった。



 そして。





 ひりひりと肌に刺さるような暑さの日だった。
 
 いつものように事務所に来て、エレベーターホールで待っていると、掲示エリアに貼られたポスターに気付いた。


 私のポスターだった。

 その三つ隣には、文香のポスターも。


 気づけば、私達はアイドルとしてデビューしていた。

 文香は努力が認められ、プロデューサーさんが公言していた通りにデビューが早まり、私と同時期となった。

 仕事も、ポツポツとだけど貰うようになっていた。

 ポスターの中の私は笑みを――カメラマンさんや、プロデューサーさんが妖艶だと評した笑みを――浮かべて、気取ったポーズをとっていた。




 そんな姿は悪くなくて、同時に何処か滑稽だった。




23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:33:57.00 ID:u50g9+A20
 

「あっ、カナデちゃんニーハオ〜」


 朗らかでなんだか間の抜けた声に顔を向けると、金髪の女性が小動物のような笑みを浮かべていた。


 フレちゃん――フレデリカだった。


「フレちゃん、その挨拶でいいの?」

「えー? 時代はワールドワイドだよー」

「じゃなくて。一応フランス人のハーフなんでしょ? その挨拶は中国じゃないかしら」

「そっかー、アイドルだもんねー。キャラって大事か」

「ええ、私達みたいに、デビューしたてだと特にね」


 フレちゃんは私や文香と同時期にデビューした子の一人だった。

 他にも友紀と仁奈ちゃんの計5人が同時期にデビューしていた。


「カナデちゃん、グーテンモーゲン!」

「それはドイツ」


 そういうマイペースで自由な所が、フレちゃんのキャラといえた。

 エレベーターがやってきて、フレちゃんと一緒に乗り込んだ。

 同時期にデビューしたことも有り、仕事で一緒になることも多かった。でも、今度の仕事はフレちゃんと一緒ではなかったと説明されていたけど。

 話を聞いたところ、フレちゃんはレッスンだった。


「聞いてよカナデちゃんー。この前司会の人にさー、喋ってなかったらもっと素敵とか言われちゃってさー。酷くない?」

「ええ、ホント。フレちゃんは喋ってこそなのに」

「さっすがカナデちゃん。フレちゃんの魅力分かってるー。お礼にハイ、飴ちゃんあげる」

「これ、チョコレートだけどね」

「細かいこと気にしなーい。口に入れて食べられるんだから、同じ同じ」

「その範囲だと、殆どの食べ物は同じになるわよ」

「ガムだけは別だからね。飲みこんじゃ駄目だよ、カナデちゃん」

「はいはい」



24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:35:29.61 ID:u50g9+A20


 クスクスと笑っていたフレちゃんは、目線を私の手元に向けた。


「カナデちゃん、それって?」

「ああ、借りてるの。文庫本」

「どれどれ……これは、ふむふむー……難しそうな本ですなあ」

「児童文学だけど、これ」


 読んだことがあるかは置いておいて、きっと誰もが一度は名前を耳にしたことがある古典的名作だった。


「あ、ホントだ。フレデリカも読んだことあるよー。素敵だよね、憧れたなー、この島に」

「へえ、フレちゃんが?」

「あ、カナデちゃんアタシのこと疑ったでしょー。こーみえてアタシ、文学少女だったんだから」

「ホント? 初耳ね。どんな本が好きだったの」

「やっぱりあれだよ。女の子が変身して戦う魔法少女の」

「アニメじゃない? それって」

「そうだよ?」


 確か、文学少女の話をしていたはずだけど。


「私、実はこの本読んだことなかったの。子供向けイメージも強いし、読む気もなかったんだけど」

「それなのにどーして読んでるの?」

「今のことを言ったら、文香に押し付けられたの」

「ああ、フミカちゃんにね」


 フレちゃんも、合点がいったようだ。




「流石、アタシと同じ文学少女だね」

「その設定、まだ続いてるんだ」



25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:37:58.64 ID:u50g9+A20


 部屋につくと、そこには噂の元文学少女である文香の姿があった。

 文香はいつものようにソファーで本に目を落としていた。



 それだけでなく、もう一人、正真正銘の少女も一緒に。


「あ、奏おねーちゃんとフレデリカおねーちゃん!」

 市原仁奈ちゃんだ。まだ小学生で、着ぐるみを着てなにかになりきるのが得意な子。

 以前、文香は私より年上であることに気が引けていたけど、仁奈ちゃんのことを考えれば私ですらかなりのお姉さんになってしまう。

 そんな仁奈ちゃんは、ソファーに横になりながら文香に膝枕されていた。


「あれれーどうしたのニナちゃん? お眠なの?」


 ぴょんと近づいたフレちゃんが、仁奈ちゃんの顔を覗き込む。


「ちげーです! 仁奈は猫の気持ちになってるんですよ!」

「ニナ猫ってこと?」

「そうですよ!」

「どうして猫になんかなってるの?」


 私の問いに答えたのは、文香だった。


「これです」


 と、文香は読んでいた本の表紙をこちらにみせてくる。


 タイトルは聞いたことがある程度。本よりも、その著者の名の方が誰もが知っているような歴史的な作家だ。その作者の中でも有名な著書といえば。




「吾輩は猫でごぜーます!」


「なるほど。だから仁奈ちゃんは猫になって、文香の膝に乗ってた訳ね。文香、本に夢中で仁奈ちゃんをおざなりにしたのかしら?」

「いえ、そんな……! 仁奈ちゃんが来て本を読むのをやめました。けど……話の流れで猫になられてしまったので。どうせならと私も本の続きに戻ったのです」

「あーわかる。猫といえば読書だよねー。猫飼ってないけど」


 相変わらず適当なことを言いながらフレちゃんがうなずいていた。悔しいが私も同意だ。猫と読書はよく似合う。文香ならなおさら。



 仁奈ちゃんをおざなりにしていたというわけでもなさそうだ。今だって無意識か、仁奈ちゃんの頭を文香は撫でていた。



26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:40:00.99 ID:u50g9+A20


「しかしあれだねー、奇跡みたいに同期のみんなが揃ってるねー。あとはユッキーだけなんだけどー……」


 同期のもう一人はユッキーこと姫川友紀。野球とお酒が好きな元気な人で、同期組では最年長の二十歳だった。


「そういって〜実は〜?」


 思わせぶりにフレちゃんが入り口に目を向けたが、当然、そう都合よくやってくることはなく。


「なんで来ないの? どーしてだよカナデちゃん!」

「友紀とは待ち合わせ、してないからね」

「あ、そっか」


 納得したように、ポンとフレちゃんは手を打った。


「ではユッキーの代わりに、ニナちゃん。ユッキーの気持ちしるぶぷれ〜?」



「なんで二、三塁からゲッツーなんだよ〜!?」


 かわいい猫だった仁奈ちゃんは、途端に猫の球団のファンに様変わりしていた。

 ぽんぽんと、文香の膝を叩きながら――もちろん、とても優しくだ――オンオンと泣いていた。

 そういえば、仁奈ちゃんは最近友紀の家に別の子と一緒に泊まったと言っていた。たぶん、その時の実際に目撃した光景なのだろう。本当に何をやってるのか。私は心の中で小さく息をついた。

友紀はとてもいい人だけど、ちょっと……だらしない、色々と。

 だけど不思議と、そういうところも許せてしまう。

 自然体でいるのが似合う人なのだ。私とは大違い。


 自然体といえば、文香も。


 最近、文香が事務所で他の子と話す姿をよく見かけるようになった。きっかけは一緒にデビューした同期のおかげ。今まで存在していた微妙な距離は、同期という言葉によって容易く縮まった。フレちゃんはそうだし、友紀や仁奈ちゃんも。

 一度破られた幕は、その穴を中心に広がっていき、その他の子との交流も広がっていっていた。

 そのお陰か、文香も前よりも周りに柔らかな表情を見せることが多くなった。


 そのことは、素直に嬉しかった。



27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:42:06.09 ID:u50g9+A20


「ほらほら、ユッキー……じゃなくてニナちゃん。そろそろレッスンだよー」

「もーそんな時間でやがるんですか?」

「そだよー。ほら、フミカちゃんからお離れになりなー。いつまでもニナちゃんが猫してると、フミカちゃんも猫になっちゃうよー」


 なんでそうなるの? 突飛なことを言われて、文香も目を丸くしていた。



「ね、猫に……??」

「なりやがるんですか、猫に?」



「……にゃー」


 手で耳を作るわけでもなく、文香はその場で小さく鳴いた。やってから、恥ずかしくなったらしい、だんだんと頬が赤くなっていった。


「猫おねーさんです!」

「忘れてください……今のは」


 本でブロックしながら顔をうつむけている。そんなに恥ずかしいならならなきゃいいのに。いや、まあやってくれてよかったけど。



「忘れないよねー、可愛かったもん、ねっ、奏ちゃん」

「ええそうね。とってもかわいかった」


「うぅ……」


 私たちがうなずきあうと、文香はますます顔を隠していった。



28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:45:21.53 ID:u50g9+A20



 口の中に広がった冷たい苦みに、私は眉間に皺を寄せたけど、何でもないようにカップを傾け続けた。

 向かいでは、同じコーヒーを文香が飲んでいたから。

 事務所の面した通りにある、喫茶店だった。


 古いビルの二階。表に出ている電光看板はすっかり色あせ、雑多な街にある寂れた景色の一つだった。
 
 無機質な灰色に染められたビルの階段を上がって、狭い通路を進んでいくと、外の看板と、同じ色合いの看板が出迎えてくれる。

 中に入ると、体を包み込むのは古めかしい喫茶店の雰囲気と、鮮烈なコーヒーの香り。

 落ち着いた大人の雰囲気の喫茶店だった。


 古めかしいけど、汚いわけではない。しっかりと掃除が行き届いている。

 物を大事に扱うからこそ、そこから発せられる店の年輪に、自然と姿勢は伸びた。使い込まれたテーブルに運ばれてきたアイスコーヒーも、店の歴史が刻まれているかのように、深く、苦い。


 でも、ここまで苦いなんて、ちょっと予想外だった。

 同じものを飲んでいるのに、文香はホッとした表情を浮かべている。

 文香は、この店が似合っていた。

 私はどうかな。みんなからは大人っぽいといわれるけど、このお店には、あっていないかも。そんなことを思った。

 事務所でプロデューサーから話を聞いた後、文香に誘われこの店にやってきていた。



「文香、ここにはよく来るの?」

「ええ……事務所に通いだしてから、何度かは」

「よくこんな場所を、見つけたわね」

「叔父さんから教えてもらったんです。こっちに来るときは、よく立ち寄ると」

「叔父さんって、古本屋を営んでる?」

「ええ」と、文香は小さくうなずいた。文香の叔父さんは古本屋をやっていて、文香が本を好きになるきっかけの一つだったらしい。よく手伝いをしにいっては、本を読みふけっていたのだという。アイドルとなった今でも、たまに店先に立つことがあるということだ。

 確かに、この店の雰囲気は、電子機器よりも本の方がとてもよく似合う。



29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:47:00.80 ID:u50g9+A20


「練習でうまくいかないことがあった日などは……すぐに帰りたくなかったので。よくここで本を読んでいました……」

「あら、そうだったんだ」


 そういえば、レッスン終わり、文香はたまに、ふらりと駅とは違う方向に向かうことがあったけど。その先は、この喫茶店だったようだ。


「私も誘ってくれればよかったのに」

「それは……すいません……」

「謝らなくてもいいから。一人で本を読む時間も大事だもんね」


 人間、一人になる時間は必要だ。きっと私や文香のような人にとっては、なおさら。


「でも、教えてもらったからには、私もここに来ちゃうけど、いいの?」

「奏さんがですか?」

「ええ。とっても素敵な場所なんだもの」

「それは、よかったです。奏さんにも、気に入ってもらえて」

 甘い笑みを文香は浮かべた。


 なるほど、そう来たか。そう返されれば私はお手上げだ。


「私こそ、素敵な場所を教えてくれてありがとう。嬉しいわ」



 改めて、私は言った。



30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:49:07.67 ID:u50g9+A20


「でも、ホントに嬉しいです」


 コーヒーを飲みながら、何でもない会話をしているときに文香が言った。


「私がここを気に入ったことが?」

「えっ? いえ、それもそうですけど……お仕事が」


 あの後フレちゃんと仁奈ちゃんの二人と別れた後、プロデューサーに呼ばれて向かうと、そこで二人だけの仕事について述べられた。深夜にやっているテレビ歌番組だ。

 それに、文香と出ることになった。


「奏さんと、同じ番組に出れるなんて」

「今までだって同じ番組に出ていたじゃない」


 同期の五人はよく一緒に番組に呼ばれることがあった。それ以外でも、帯のラジオ番組にある小さなコーナーの月間パーソナリティとして、五人で代わる代わる出たことも。


「そうですけど……やっぱり二人だけで呼ばれたのが……嬉しくて」


 呼ばれた深夜番組には、うちの会社のアイドルがよく出演させてもらっていた。まとめてアイドルデビューさせるなかで、一人か二人、毎回選ばれて呼んでもらっていた。

 深夜の落ち着いた雰囲気の番組だから、私たちがちょうどよかったのだろう。


「ああ、別に……ほかの人と一緒が嫌とかでないですよ……?」

「わかってる、それぐらい」


 さっきの事務所での光景を見て、そんなことを思うわけがない。


 私はワザとらしいため息をついた。


「まったく、あの文香があそこまで変わるなんてね」

「そう……ですか?」

「ええ、最初は他人になんて興味がないって位、本に集中していたのに」


 文香は頬が赤くなった。室内は冷房が効いて、涼しいというのに。



「それは……忘れてください」



31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:51:03.80 ID:u50g9+A20


「どうして。褒めてるんだよ、あのころからしたら、文香、すごく成長してる。まるで赤毛の女の子を見守る気分。あっという間に大人になってって」


 パッと、文香の表情が明るくなる。


「私のお貸しした本、読んでくれているのですか?」


「ええ、もう少し」


私はカバンから読みかけの本を取り出した。しおりが刺さっているのは、終わりの方。今日中には読み終わるだろう。


「どうでした、その本」

「予想外、というところかしら。こんなに読みやすくて、面白いなんて。この原作、出版はかなり前でしょ」

「今から百年以上前ですね……孤児で居場所がなかった少女が島にやってきて、その天真爛漫さをいかんなく発揮させて愛されて……最後には大人の女性になる。シリーズはたくさんありますが、第一作目で十分に彼女の魅力があふれ出しています」

「一作目が名作だからこそ、続くものだからね」


 映画でも、思い当たるものはいくつもある。どれほど派生や続編がでても、一番輝いているのは一作目であることは多い。


「文香の成長が早すぎるせいで、心臓発作で倒れてしまいそう」

「心臓発作になったのは……別の理由ですが……」

「そうだったわね」

「……でも、もし心臓発作をするとしても、それは私をだます嘘にしてください。巻き上げられるほどの……お金は持っていませんが……」


 その言葉に、今度は私がパッと表情が明るくなった。



「文香こそ、観たの。私がおすすめした映画」




32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:52:41.46 ID:u50g9+A20


 いつかの雨の日、二人でダンスを踊った後のことだった。


『奏さん……ミュージカル映画、お好きなんですか?』

『というより、映画全般が好き。言ってなかったっけ?』


 こくりと、文香は頷いた。


『もちろん、ミュージカルも大好きだけど』


 私は、とっさに思いついた映画のタイトルを述べた。


『それは……ずいぶん古い映画がお好きなのですね』


 口にしてから、しまった、と少し思ってしまった。述べたミュージカルは、本当に古い映画だった。ロミオとジュリエットを現代に置き換えた作品。

 恋愛映画は苦手だけど、ミュージカルになるとどうしてか自然とみることができた。

 でも、いつもだったらもっと新しい映画を挙げていたのに。きっと、文香が読んでいた、古いハードカバーのせいだ。


『映画はあまり詳しくないのですが……おすすめの映画などはありますか?』


 訪ねてきた文香に、私はいくつかの映画を挙げた。その中に、その映画はあった。

 ある詐欺師が、謝ってギャングの金を盗んでしまった結果、恩師を殺されてしまう。その復讐のために伝説的な詐欺師の元に向かい……というお話。



 これもかなり前の作品だ。

 好きな映画だけど、普通、おすすめを聞かれたらその映画を上げることはない。もっと最近の、観やすい映画を上げるようにしていた。



 でも、文香ならと思って、私はその映画の名前を挙げていた。



33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:54:18.14 ID:u50g9+A20


「とても……面白い物語でした。テンポが良くて、あの曲も素敵です」

「でしょ。モダンって言葉がぴったりな映画なの。主人公の二人も――この二人とも、名優でね――すごく素敵だし。どんな展開になるのか、初めて観たときはドキドキしちゃった」



「私もです。あの原作からあのような物語が生まれるなんて、驚きでした」


「文香、原作も読んだの?」

「はい。ソフトは古本屋をやってる叔父に借りたんです。仕事柄、映画関係にも多少詳しいので。それで、映画を借りるときに、一緒に原作の方も。映画を観た後に読んでみると面白いと」

「仕事柄って、古本屋と映画って繋がりなんてあるの?」

「古本屋には古い映画のパンフレットや、ソフトを取り扱っているところもありますから。もちろん、本人の趣味もあると思いますが」


 ソフトの方はともかく、パンフレットとは。それは盲点だった。あまり古本屋には縁はなかったけど、今度行ってみるのも面白いかもしれない。


「それで、原作を読んだ感想は?」

「原作といっても、その当時の詐欺の手口を説明している本なのですが……あの中で描かれていたトリックやキャラクターを、映画にするときはこうやって形にするんだと思うと、手腕には脱帽です」


 喜々とした様子で、文香は語った。



34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:55:29.32 ID:u50g9+A20


 原作の方は私も存在自体は知っていたが、手が出せてはいなかった。

「……よろしければ、お貸ししましょうか?」

「いいの?」

「はい……叔父に聞かなければ……いけませんが」

「貸してもらえるなら、そうね。ぜひ」


 実際、手が出せないでいた理由の一つは、古い本でちょっとプレミアがついていたから。

 手を出せないほどではないけど、高校生が無理して買うかと言われれば。それでも、貸してもらえるのならば、話は別だ。

 私は喜んで、文香の提案を受け入れた。



 喫茶店の入ったビルを出ると、むせかえるような都会が私たちを出迎えた。クラシックなお伽の世界から抜け出して、現実に戻ってきたわけだ。

 私たちは駅まで歩いて、そこでお別れだった。


「それでは……奏さん」

「ええ、また明日」


 そのまま改札に消えていく文香を見送っていたけど、私はちょっとしたことを思いついて、声を上げた。


「文香」


 人ごみの中、文香が私の方に振り返った。

 私は人差し指で、鼻の頭を軽く触った。

 文香も観たという映画の中で、仲間であることを知らせる合図だ。

 はっとした表情を作った文香は、同じように、人差し指で鼻を軽く触って見せて、笑みを浮かべた。


 私も、なんだかおかしくなって笑みを返した。



35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2021/11/27(土) 21:56:50.27 ID:u50g9+A20



 それから、その合図は私たちの秘密のあいさつになった。

 別れ際や、誰かと一緒にいるとき、なんとなく目が合った時に意味もなく。


 友紀に見つかって、その意味を問い詰められたけど、ちょっとしたサインというと妙に納得していた(野球にもそういうサインがあるとか、教えてもらった)。



 深い理由はない、ちょっとした戯れだった。





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