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【シャニマス】芹沢あさひ(17)「わたしも、変われてるっすか?」
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1 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:26:05.68 ID:zC+4wYex0
変わるものと変わらないものがある。
身長や髪の長さ、ストレイライトが集まる頻度。それに対して、事務所の場所、わたしがアイドルであること、プロデューサーさんの身長。どこに違いがあるんだろう。
空が高い。濃いくらいの水色に、宇宙船くらいありそうな入道雲が映えている。襟の中に籠る熱を逃がそうと、服を摘んでパタパタと仰ぐと、胸元には風が入ったけど、襟周りはちっとも涼しくならなかった。暑い。ミーン。蝉の声。
信号が変わって、アスファルトをスニーカーで蹴り上げると、ちょっと古くなったスニーカーはキツいような気がした。新しく大きいのを買った方がいいかもしれない。今やってる舞台が終わったら買いに行こうかな。
昔は靴や服なんて使えれば何でもいいと思ってたけど、最近は少しだけ選ぶようになってきた。たぶんあの2人の影響だ。最近会えてないけど。最後に会ったのはいつだろう。すぐに思い出せなくて、額に浮かんだ汗をぬぐったら、思考がバラバラになった。
ストレイライトって、解散したのかな。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1626348365
2 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:31:26.52 ID:zC+4wYex0
十で神童、十五で才子、二十過ぎればただの人。
誰に言われたわけでもないけど、誰かに言われたように、いつからか頭の中にこびりついている。
自分で、自分は他の人と違うということは理解していたけど、自分を神童や天才と思ったことはなかった。でも周りがそう扱っていると、次第に自分の中でもそういう気になってくる。
扱ってくれていたけど、どこかでそれは「芹沢あさひはまだ幼いから」という前提がついてくる。私は中学生だった。だからすごかった。
高校の制服は少し大きくて、スニーカーはキツい。1.6メートルの空間に存在する感覚は対照的で、わたしの身体はあべこべだった。
「おつかれ、あさひ」
事務所の扉を開けると、寒すぎるくらいの冷房が顔に吹き付けてきた。でも銀行とかの方が涼しい。健康的な温度設定だ。もっと冷えててもいい。襟の中が冷たくなって、想像よりも汗をかいていたことを知る。
「おつかれさまっす」
「稽古どうだった?」
「普通です」
プロデューサーさんは自分の席に座っていたので、あんまり近づかないようにしながらキッチンに向かった。冷蔵庫を開けてみる。
「プリン食べていいぞ」
「うーん」
喉が渇いた。プリンはなんだかコッテリしてる気がして、頷くだけ頷いてすぐ閉めた。後で醤油と混ぜよう。コップを取り出して冷凍庫から氷を掬い、水道水を入れる。
3 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:32:49.47 ID:zC+4wYex0
「お茶もあるよ?」
「水がいいっす」
パキ、パキ、と音を立ててヒビが入る氷を掌の中に感じながら、くるくる回して一気に飲み込んだ。喉が癒える。水道臭くて美味しくはない。お茶にすればよかった。
「おれもコーヒーおかわり」
「えっ」
いつの間にかプロデューサーさんもキッチンに来ていた。わたしは汗かいてるのに。首元を押さえて、しゃがみながらソファに飛び込んだ。ボフン。重力。
「元気だな」
「そうっすよー!」
返事をしようとするとやたら大きい声が出て、自分でびっくりした。
変な匂いしてないかな。寝転がったまま自分のシャツを嗅いでみる。制汗剤の匂い。大丈夫なはず。
「あさひもコーヒー飲む?」
「え〜?」
「いい香りがするやつなんだ」
やっぱりちょっと匂ったのかもしれない。眉間がぎゅっとなる。
4 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:34:26.98 ID:zC+4wYex0
「あさひはしばらく舞台の方がメインになるな」
「そっすね」
不機嫌な顔をしてしまっていたのか、プロデューサーさんはソファには座らず、自分の席に戻った。わたしは膝を抱えて、プロデューサーさんが淹れてくれたアイスコーヒーを眺める。
「本番までもう少しだな、台本は完璧?」
台本の暗記について不安に思うことはない。息を吸って、3つ数えて、頭の中でカチッと音がしたらもうセリフは口からこぼれてくる。
「大丈夫です」
プロデューサーさんは、昔は舞台の稽古にも顔を出してくれてたけど、最近はあんまり稽古場所には来なくなっていた。さみしいけど、たぶんわたしがそんな年齢じゃなくなったのが理由だと思う。中学生の練習を見守ってるのは普通だけど、高校生にもなって保護者が必要だとは思わない。いて欲しいけど。
5 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:36:28.33 ID:zC+4wYex0
プロデューサーさんが直接きてくれることは減ったけど、こうしてわたしが帰りに事務所に寄るとだいたいいるので、会う頻度が減ったわけではなかった。ストレイライトとは違う。
愛依ちゃんと冬優子ちゃんとは、2年くらい前から会う機会が減っていた。愛依ちゃんが20歳で、冬優子ちゃんが21歳の時。たしか、さみしいなと思ってしばらく経った頃、気が付けば、事務所のテレビでドラマを通して冬優子ちゃんをみることの方が多くなってた気がする。でもあれは冬優子ちゃんじゃない。ふゆちゃんだ。愛依ちゃんもだいたいそう。
あの頃から、2人と繋がりたくてSNSをよく見るようになった。今では意味もなく開いてしまうこともあるけど、きっかけはそこだった覚えがある。果穂ちゃんの投稿にいいねをつけて、スマホをソファに投げ出した。
「愛依ちゃんと冬優子ちゃん、元気すか?」
「ん? 最近会ってないのか」
「前回会ったの仮歌受け取った時っす」
「あー……2週間くらい前になるんだな」
別に避けられているとは思わない。わたしはむしろ一緒に遊びたい。でも2人は仕事があるし、わたしも当然仕事がある。だから仕方ない。変わるものがある。
プロデューサーさんがコーヒーを一口飲む。彼は少し潔癖の気があるのか、それとも職業柄、清潔であろうとしてあるのかわからないけど、何か手に付くとすぐに手を拭く仕草をする。グラスの水滴も例外ではなくて、コーヒーを飲むたびに、意外と細い手指をハンカチで拭いていた。
6 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:37:10.97 ID:zC+4wYex0
変わらないものもある。
プロデューサーさんは、ずっとわたしのこと見てるって約束してくれた。だからこうして事務所に来れば会えるし、稽古の様子も聞いてくれる。
ストレイライトはグループとしての仕事仲間だから会わなくなることもあるけど、プロデューサーさんは仕事の相棒だから、会わなくなることはない。ずっと一緒。
「プロデューサーさんは変わらないですもんね」
「?」
プロデューサーさんがコップを傾けて、自分のコーヒーを飲み干してしまった。休憩終わりの合図だ。またパソコンにこの人を取られてしまう。
「俺も変わるよ」
「え?」
コーヒーに手が伸びかけていた手が固まる。
「だってずっと同じだと、あさひをトップアイドルにできないだろ?」
「…………」
テーブルに置かれた自分のグラスを見る。まだ一口も飲んでいない。たっぷり氷が入ったグラスには、部屋の水分が集められて結露ができている。コースターに染み込む水は、汗のように見えた。
「あさひは将来、何のトップになるんだろうな」
プロデューサーさんはいつもみたいに先の話をして、ちょっとわたしの顔を見たあと、またパソコンの方を向いてしまった。
ずっと見ててくれるって言ったのに。
グラスの側面で、水滴が揺れている。重力。
7 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:38:02.31 ID:zC+4wYex0
変わってしまったものは元には戻らない。
例えば、切った髪は簡単には元の長さには戻らない。見慣れてないからかもしれないけど、わたしは髪が長い方が冬優子ちゃんらしいと思う。
「何よ、埃でもついてる?」
わたしの視線に気づいた冬優子ちゃんは、肩までしかない後ろ髪を押さえながらこちらを振り返った。ジャージから、制汗剤の香りがふわりと漂う。いい匂い。香水かもしれない。
「別に、何もついてないですよ」
「じゃあジロジロ見ないで」
髪を切った冬優子ちゃんと会うのは、これで3回目だった。ばっさりいったのは2ヶ月くらい前らしいけど、それからは全然会う機会がなかった。余程の用事がない限り、事務所に来てないのかもしれない。
「冬優子ちゃん」
「何」
「久しぶりっすね」
トレーナーさんがくるまでストレッチをしながら、二人しかいなくて広く感じるレッスン室で、わたしは冬優子ちゃんを味わっていた。
「あんた、また背伸びた?」
「わかんないです」
180度に足を開いて、つま先を天井に向けたまま身体を床に押し付ける。身体の柔らかさも自分の武器だと気づいたのは、割と最近だった。
8 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:39:15.93 ID:zC+4wYex0
冬優子ちゃんが前屈をしようとしていたから、背中を押そうと後ろに近づいて、やっぱりやめた。何事もなかったようにバーに手をついて、アキレス腱を伸ばす。
変わるものは外側だけではなかった。たぶん内側の、わたしも変わっているのだと思う。
冬優子ちゃんがわたしのことを好きじゃないことは、なんとなくわかっている。でもそれは別に嫌われているとかそういうことではなく、本来であればわたしは冬優子ちゃんに構ってもらえるタイプの人間ではない、という意味に近い。
ユニットメンバーだから構ってくれる。逆に、わたしもユニットが違ったら冬優子ちゃんとはあんまり話してなかったかもしれない。
そんなことを考えてアキレス腱を伸ばしていたから、わたしは、
「あんた、舞台の本番もうすぐなのよね」
「えっ」
冬優子ちゃんが、わたしの舞台のことを聞いてきたことが意外で、咄嗟の返事が出なかった。
9 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:40:02.74 ID:zC+4wYex0
「そ……そうっす! 再来週です!」
「再来週ね。空けとくわ」
冬優子ちゃんは鏡越しにわたしの顔を見ながらストレッチをしている。
「来てくれるんすか?」
「はぁ?」
気がついたら、鏡に映る自分の顔がにやけている。冬優子ちゃんは別に笑ってはいない。
「そりゃ、ユニットメンバーが出るんだから行くに決まってるじゃない」
「ユニットメンバー……」
冬優子ちゃんが来てくれることが思ってたよりも嬉しかったみたいで、わたしの顔は楽しそうに花を咲かせている。
「ただでさえ最近絡み少ないんだし、ツイスタでアピールもしときたいじゃない」
「それもそうっすね!」
「なに嬉しそうにしてんのよ」
「1番いい席用意してもらうっす!」
「端でいいわよ」
開脚をしている冬優子ちゃんの背中に飛びついて、抱きつきついでにぎゅーっと体重をかけた。冬優子ちゃんは「あだだっ」と悲鳴をあげたけど、怒られはしなかった。いい匂いがする。嬉しいな。
冬優子ちゃん、来てくれるんだ。それはもちろんわたしのためじゃなくて、SNSでのアピールのためってのもあると思うけど、それでも嬉しい。目的があって来てくれる方が理由がわかってスッキリする。
これから生きていく上で、自分が何をするべきか分かってるから、わたしに何かしてくれる。1番安心できる。
やっぱり冬優子ちゃんはすごい。
トレーナーさんがレッスン室に入ってくると、冬優子ちゃんはふゆちゃんになってしまった。寂しいと思うことはなかった。
10 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:40:57.64 ID:zC+4wYex0
カチ。
音が鳴ったら、レッスンは終わってた。
「お疲れ様、2人とも今言った課題を次のレッスンまでに完璧にしてきてね」
「はい、わかりましたぁ」
隣を見ると、汗だくのふゆちゃんがにこりと可愛く笑っていた。
「あさひちゃんは?」
「了解です」
トレーナーさんもすこしこめかみに汗を浮かべていて、部屋に入ってきた時は険しかった表情が少し疲れているような顔に見えた。
わたしも筋肉が痙攣する脚の疲れを感じて、レッスンが終わったのだと実感する。今日もがんばった。たぶん途中で逃げ出しそうになったけど、それはアイドルをする上でやっちゃダメなことだから、我慢した。
トレーナーさんが部屋を出て行くと、冬優子ちゃんは少しだけ自主練をしていて、わたしは後ろからそれを眺めたり、真似したり、身体が覚えているままに、さっきのレッスンでやったであろうステップの練習をした。なんとなく、まだ帰りたくない。流れる汗をそのままにしておくと、ターンした時に飛び散っていった。遠心力。
11 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:41:44.04 ID:zC+4wYex0
「冬優子ちゃん」
冬優子ちゃんが着替えに向かったので、わたしもそれに倣って着替えを済ませて、冬優子ちゃんに汗拭きシートをわけてもらって、制服に着替え直した。シャツを新しいのに変えたから気持ちいい。
「もう帰るんすか?」
わたしが事務所に向かおうとすると、冬優子ちゃんと道が分かれてしまって、駅の方に歩く綺麗な後ろ姿に手を振った。冬優子ちゃんは振り返らなかったけど、1回だけ手をあげてくれた。満足。
ジィー。油蝉。喉が渇いた。スニーカーはキツい。
街路樹の幹を眺めながら歩いていると、羽化しようと木を登っている蝉の幼虫を見つけた。ラッキー。
無事に羽化できるといいね。
12 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:42:36.78 ID:zC+4wYex0
事務所に戻ると、リビングには誰もいなかった。でも鍵はかかってないから誰かいるはずで、いろんな部屋を開けてみる。倉庫は埃っぽくて、最近は使われていない様子だった。空の抜け殻だ。
社長室を10回ノックしてみると、中から「芹沢か」と声が聞こえた。誰かいたことが嬉しくて、そうっす! と返事をしながら入ると、社長さんが飴をくれた。もう子供じゃないのに。でもよくみると黒あめだった。うーん。
「プロデューサーさん知りませんか?」
リビングのより少し高級そうな(実際はそんなに変わらないらしいけど)ソファに横たわって、飴を噛み砕きながら尋ねてみると、今日は定時で帰るように言っているからそろそろ戻ってくると思うぞ、と教えてくれた。
定時なんだ。珍しい。
13 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:44:26.29 ID:zC+4wYex0
プロデューサーさんは放っておくとずっと事務所にいたがるから、たまに社長さんが早く帰るように言っている。そういう時は大体次の日元気そうにしてるから、やっぱり社長さんはプロデューサーさんのことよく見てるんだと思う。
ソファの隙間に手を突っ込む。ひんやりして気持ちいい。
社長さんとわたしは何を喋るでもなく、万年筆が紙の上を滑る音に耳を澄ませていた。悪くはない。心地は良い。でも暇だ。
リビングに戻ろうと社長室の扉を開けると、帰り際に社長さんが向こうから話題を振ってきた。
「芹沢、」
ちょっと迷った風に声をかけてきて、あー、なんだ、と咳払いしている。
「なんですか?」
特に急いでなかったから、ドアノブをかちゃかちゃしながら続きを待つ。
「敬語が上手になったな」
「そうっすかね」
14 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:45:31.66 ID:zC+4wYex0
「敬語が上手になったな」
リビングでなんとなく社長さんの物真似をしてみたけど、全然似てなかった。あんなに低い声出ない。
1人のリビングはじっとしてると時計の針の音がよく響いてて、その奥に冷蔵庫の駆動音が混じっている。霧子ちゃんにはユキノシタさんの声も聞こえるらしいけど、わたしには植物の声は聞こえなかった。医学部に行けば聞こえるのかもしれない。ジィー。窓の外から油蝉。喉が渇いた。
「喉渇いた」
冷蔵庫を開けてみる。駆動音が大きくなる。ピッチャーのお茶がちょっとしか残ってない。レッスンの前はたくさんあったのに。たぶん最後に飲んだの透ちゃんだ。わたしが飲んだ後にこれだったら、次の人のために作っておきなさい、と冬優子ちゃんに言われてしまう。でも最後に言われたのはいつか覚えてない。
お茶はなかったけど、ペットボトルのコーヒーはあった。プロデューサーさんは基本的に自分で淹れてるけど、多分めんどくさい時はこれを飲むんだと思う。結構ストックがあるからこれ飲もう。
コップに注ぐ。コトコト音がする。冷たい飲み物を注いでるのに、音の響きは温かい。あべこべになる。もしかしたらコップに入った途端温かくなってるのかもしれない。そんなわけない。一口飲む。
「やっぱ冷たい」
15 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/15(木) 20:49:13.51 ID:zC+4wYex0
定時で帰る、と言っていた。19時。
戻ってくるのを待っていたら、もしかすると晩御飯一緒に食べれるかな、と期待して、ちょっと胸が躍った。でもまだ18時過ぎ。1時間はある。
何時に事務所に戻ってくるかはわからないけど、戻ってくる前にどこかで晩御飯を済ませてしまっているかもしれない。それに、よく考えると1人とも限らない。誰かを送るついでに、一緒に食べてるかも。
全員分の予定が書き込んであるホワイトボードを見てみると、透ちゃんの撮影がちょうど終わったくらいだった。あぁ。
「うーん」
プロデューサーさんと晩御飯を一緒に食べたい、以外に自分が今ここにいる理由がないことに気づいて、ちょっと恥ずかしくなる。誰に対して? わからない。
ホワイトボードに落書きをする。
プロデューサーさんが戻ってきたら、家まで送ってくれるかもしれない。でも別に1人でも帰れるしな。1人で帰ろうかな。待つのも変だし。あんまりお腹は空いていないし。
最後にプロデューサーさんと晩御飯を食べたのはいつだったっけ。もしかしたら、まだ衣替えする前かも。ちょっとさみしい。
事務所を出ながら、なんとなくチェインを開いて、冬優子ちゃんに「大人なお店連れていって欲しいです」と送ってみた。
すごい早さで既読がつく。まだ電車なのかな。返信はこない。
しばらく待っても返信はなかったから、スマホをポッケに突っ込んで「冬優子ちゃーん」と声に出してみた。何も起こらない。ユキノシタさんは返事をしてくれない。
本当はプロデューサーさんに向けた言葉であることが、見透かされているような気がした。
16 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/07/16(金) 00:57:10.21 ID:OVIdFqWwo
期待
17 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:36:13.36 ID:uWwhTOUj0
2
変わったものもある。
今思いつくもので挙げると、小宮果穂ちゃんとの関係は出会った頃と変わったと思う。
「プロデューサーさん遅いね」
「ですねぇ」
「収録間に合うのかな」
「まあ、緩い現場ですし」
果穂ちゃんが所属する放クラも、ストレイライトと同じで全盛期から数年経つと活動は緩やかになった。それにつれてユニットメンバーと顔を合わせる機会は減ってしまうけど、そうではないメンバーは会う頻度が変わらないから、逆によく会っているような感覚になる。
事務所の中でも歳が近い果穂ちゃんは、お互いそういう感覚だと思う。ちょっと仲良しになったと、ほぼ同年代で1番話しているのは果穂ちゃんだと、わたしは思っている。
実際、お行儀がいい第一印象だった果穂ちゃんが、今はわたしの前でスリッパを脱いでソファに横たわってる。わたしは直角になるように床に横たわってる。
「女と梅酒は待つほどうまいっていいますし」
「なにそれ」
「誰かが言ってた気がします」
「へぇ〜」
果穂ちゃんの脚の上にわたしの脚を乗せると、左脚が逃げ出して両脚を挟まれてしまった。お互い無言のまま、どちらの脚が上になるか三つ編みのように脚を乗せ合う。2人の靴下が片方ずつ脱げたところで、争いは終わった。
ちょっと笑いが漏れる。
18 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:37:03.36 ID:uWwhTOUj0
今日はかなり暑いけど、事務所のリビングはエアコンが効いていて、もし朝からこの場所にいたとしたら、きっと外が暑いことは知らないままだったかもしれない。
「果穂ちゃん、最近夏葉さんに会った?」
「あー、最近久しぶりに会いましたね」
果穂ちゃんは脚に力を入れたり抜いたりして、暇そうに寝そべっている。
「どうかしたんですか?」
「んー、昨日テレビつけたら見かけたから」
「あー」
事務所で会う頻度より、テレビや街頭広告で会う方が増えてきた人も多い。変わってしまうもの。最後に夏場さんに出会ったのはいつだろう。今の髪型のあの人を、わたしは対面で観た事がない。
「あさひさんって制汗剤使ってます?」
「そりゃ、まあ」
「やっぱ冬優……ふゆさんが選んでくれるんですか?」
「え?」
「……なんでもないです」
「そっか」
わたしが夏葉さんとなら会っているかな、と思ったように、果穂ちゃんからすると、わたしと冬優子ちゃんは会えているイメージがあるのかもしれない。
19 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:37:32.18 ID:uWwhTOUj0
手を伸ばすと、テレビの上にリモコンがあった。机の角度に対して水平になるように動かしていると、指がボタンに触れたようで、テレビが映像を流し始めた。
夏祭りの映像だ。見たことあるリポーターの人が、東京のはずれっぽい商店街の夏祭りを紹介している。
見たことあるのは、テレビで見たからなのか、仕事で一緒になったからなのか、よく覚えてない。
「夏祭りとか、行きたいですね」
「金魚掬いやりたいよね」
「たこ焼き食べたいです」
「屋台のって味濃いもんね」
「ね」
果穂ちゃんはソファの淵から頭を落とすようにして、逆さまにテレビを見ている。見辛くないのかな。
でもわたしも机の下から覗いてるから、画面の上半分は見えてない。見辛い。テロップで時間を確認しようとしたけど、下半分しか見えてないから確認できなかった。
20 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:41:52.45 ID:uWwhTOUj0
「もうすぐ浴衣の撮影があるんですよ」
「え、今日そうだっけ?」
「いえ、また来週のやつです。今日はスピンズの案件ですよ」
びっくりした。今日は特にそんな気分じゃなかったから、浴衣だったらスイッチを入れるのに時間がかかってしまっていたかもしれない。
「先のお仕事のことも考えてるんだね」
「週末は泊まりの撮影があるんですよ」
「いーなー!」
「凛世さんとロケです」
凛世ちゃん。凛世ちゃんも最近会っていない。もしかしたら、ここ1ヶ月の間で事務所で会った人の方が少ないかもしれない。透ちゃんはいつもいるイメージがあるけど。会いたくなったらだいたい屋上にいる。
「お土産楽しみにしてるね」
「河原の石とかでいいですか?」
はは、と笑って、それから2人とも黙ってテレビを眺めていた。眺めていただけだから、少なくともわたしの頭の中にはリポーターの人の言葉は入ってこなかった。
果穂ちゃんはバラエティにも出てるし、わたしと同じでモデルのお仕事もある。歌も歌ってるし、本人は自信がないみたいだけど、ドラマなんかにも出演してる。夏葉さんや結華ちゃんほどではないけど。
つまり、いろいろしてはいるけど、これから先、何をするかは決めていない様子だった。
何をするか決めてない人。冬優子ちゃんは何をするか決めててすごいって思うけど、果穂ちゃんは親近感が湧く。そりゃ、果穂ちゃんはまだ15歳だし、わたしだってまだ17歳。先のことなんて考えられない。
21 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:43:10.56 ID:uWwhTOUj0
「あさひさん、」
ちょっと言い淀んだイントネーションで、果穂ちゃんが話しかけてくる。テレビはもう飽きちゃったみたい。
「何?」
「あさひさんは、普通の人生、歩みたかったですか?」
テーブルの上のリモコンを探す。
果穂ちゃんも、最近はコロコロと話題を変えるようになった。出会ったばかりの頃は子供ぽいというか、理路整然としすぎてて話に飽きちゃうこともあったけど、最近ではそんな感じはしない。大人になったんだと思う。2歳しか離れていないのにそう感じるのは、何様だ、とも思う。
「普通の人生?」
「アイドルにならなかった、みたいな」
「あー」
リモコンがあったので、適当にボタンを押して消そうとする。チャンネルが変わった。間違えたみたい。
22 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/16(金) 17:43:37.54 ID:uWwhTOUj0
「アイドルやってないとしたら……みんなと会ってないってことだよね」
「まあ、そうですね」
「果穂ちゃんもだし、愛依ちゃんもだし、冬優子ちゃんも」
いろんな人が頭に浮かぶ。あの人も浮かぶ。ちょっと心臓が揺れる。
もう一度ボタンを押してみると、テレビの電源は落ちた。部屋が急に静かになる。
「プロデューサーさんと出会わない人生は、嫌だなぁ」
冷蔵庫の駆動音が大きくなる。
「そうですか……」
果穂ちゃんはトーンの低い声で返事をすると、膝を曲げながら横に寝返りを打った。
脚が絡まって、汗をかいていないふくらはぎがサラサラと擦れる。気持ちいい。
テーブルが邪魔で顔は見えなかったけど、たぶん、ちょっと元気がなさそうに見えた。何かあったのかな。
「辛いもの食べに行く?」
「……なぜ?」
「元気なさそうだから」
「そういうのって普通、甘いものじゃ?」
冬優子ちゃんとは違うらしい。ちょっと間が空いて、果穂ちゃんがくすくすと笑い始めたから、よくわからないけど、わたしも可笑しくてちょっと笑った。
23 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/07/16(金) 20:09:04.06 ID:nx2gSyyDO
この果穂はあっちのまんまだにゃ
24 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/17(土) 20:34:57.70 ID:ei2VQXTp0
2.5
カチ。髪型が変わっている。控室には果穂ちゃん以外にも同じくらいの歳の子達が何人もいて、わたしたちの撮影は終わった後のようだった。
果穂ちゃんは長机に置いてあるケータリングを口にしながら、他の子と談笑している。プロデューサーさんは、と思ったけど、今日の撮影は送迎だけしてくれて、中は別の案件の打ち合わせがあるとかでいないんだった。プロデューサーさんのお迎え待ち。
服は着替え終わった後で、スイッチが切れるのが脱いだあとでよかった、と思った。撮影で使う服の匂いはあんまり好きじゃない。生活感がないというか、工場の匂いがするというか。
たまに柔軟剤のいい香りがすることもあるけど、基本的にはあんまり好きではないので、着るときや脱ぐ時がちょっと嫌だった。
部屋の端にハンガーラッグがかけてあって、夏らしい明るめの色の服がお行儀よく並んでいる。
隣に座ってる子が何か話しかけてきてた気がするけど、頭の上の方で鳴っている鏡のヒーターの音の方が気になって、あんまり入ってこなかった。機械の駆動音は鮮明に聞こえてくるけど、隣に座ってる人の話は聞こえてこない。でも無視するのも良くないと思って、スイッチを入れた。
3、2、1、息を吸う。カチ。
25 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/17(土) 20:35:57.53 ID:ei2VQXTp0
「今日は現場に人多かったと思うけど……どうだった?」
「?」
帰りの車は、果穂ちゃんがあんまり喋らなかったから、心なしか静かだった。その果穂ちゃんもさっき家に吸い込まれていったから、今はわたしとプロデューサーさんしかいない。
「ほら、お喋りした、とか……その、気が散った、とかさ」
「あー」
助手席から身を乗り出して、エアコンの送風口に手を突っ込んでかちゃかちゃと弄る。右に曲がるときには右に向けて、まっすぐになったら正面に戻す。運転してる気分になる。楽しい。
「なんかうるさかったです」
横目でプロデューサーさんの顔を見ると、ハンドルを握ったままちょっと困ったように笑ってた。送風口に突っ込んだ指先が冷たくなって、感覚がなくなってくる。
「はは、そうか」
前の車に従って、車が静かにブレーキをかける。信号が赤だ。夏はこの時間でもまだ明るくて、信号の赤より夕焼けのオレンジの方が色味が強い。
26 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/17(土) 20:36:45.07 ID:ei2VQXTp0
「舞台の稽古では、他の人と話さないのか?」
舞台の稽古を思い出す。リノリウムが敷いてある広い部屋で、その日練習する場面ごとに違うメンバーで固まって、演技の話や役の話をしている。わたしはいつもと変わらず思ったことを言うだけだけど、舞台の稽古の時だけは、周りの人がわたしの話を聞いてる。面白そうに頷いてくれる。
「あの人たちは舞台の話しかしないから、楽かなって」
「なるほどな」
外の音に耳を澄ませてみても、エアコンの音が大きくて蝉の声が聞こえない。スイッチを連打してエアコンを止めると、プロデューサーさんが「寒いのか?」と尋ねてきたので、「暑いっす」と答えた。
「じゃああさひは、やっぱりそういうプロフェッショナル的な仕事が向いてるのかもな」
「プロフェッショナル?」
「あー、なんというか、専門的? というか」
「それはわたしの先のことの話っすか?」
「? まあ、そうなるな」
「そっすか」
そういうことを言われてもよくわからない。自分のことを分析されるのはあんまり好きじゃない。だいたいみんな的外れなことを得意げに言うし。
でも、プロデューサーさんがわたしの先のことを考えているのは嬉しくて、全然嫌な気持ちにならなかった。
27 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/17(土) 20:37:22.65 ID:ei2VQXTp0
車が前に動き出す。エアコンを付ける。プロデューサーさんが「ありがとう」と言う。なんで?
「そういえば、明日は愛依に会えるかもな」
「え! 本当っすか!」
「稽古が長引かなければ、だけど」
「やったー!」
嬉しくなって、シートベルトを伸ばしたり縮めたりする。摩擦で手のひらが熱くなる。
久しぶりだ。愛依ちゃんも仕事がかぶることが少なくて、あんまり会えていなかった。舞台のチケットの話も直接できてないし、渡すのは事務所に置いておくのでいいとしても、来て欲しい、ということは口で伝えたかった。愛依ちゃんは好きだから。
「あ、あさひあれ見て」
「ん?」
プロデューサーさんがフロントガラスから、空を覗き込んでいる。
「あの雲、龍に見えないか?」
「えー?」
窓を開けて、身を乗り出す。空はオレンジ色から藍色に染まりかけていて、雲の輪郭がぼやけ始めている。正面を向くと明るいけど、後ろを振り返ると夜が染み込んできていた。
「どこー……」
風を浴びながら色々探してみたけど、それっぽい雲は見つからない。一応ホンモノも探してみたけど、どこにもいなかった。
「わかんないですね」
「えー、見えるけどなぁ」
「ふーん」
28 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/17(土) 20:38:31.28 ID:ei2VQXTp0
空を見ていて気づかなかったけど、もう家の前まで来ていたらしい。
わたしとプロデューサーさんを乗せた車はゆっくり止まって、助手席の鍵が開く音がした。肋骨を持ち上げて心臓が跳ねる。痛い。
「じゃああさひ、また明日」
プロデューサーさんが優しい顔で、わたしの方を向く。右手はハンドルを握ったまま。
「…………」
今日は1人で晩御飯を食べる日だ。たしか、プロデューサーさんも今日はこれで帰る日。だったら、少しくらい一緒にご飯でも、
「少し上がっていきませんか、」
と声に出そうとして、いや、もしまだ残って仕事をしたいのだとしたら邪魔になるな、と考える。余計なことを考えてしまう。
こんなことまで頭が回るようになったのはいつからだろう。少なくとも昔はこうして誘って、冬優子ちゃんに怒られていた。
「あさひ?」
「……ん」
カバンを持ち上げて、シートベルトを外す。少しゆっくりとした動きで、半分脱いでいた靴を履きながら車を降りる。
「また明日っす」
「あぁ、お疲れ様」
助手席のドアを閉めようとすると、わたしの左手は反対方向に引っ張られてしまったけど、無理矢理力を込めてバタムと閉じた。
プロデューサーさんが手を振ってくれて、車が走りだす。わたしは手を振り返さなかったけど、なんとなく、車が見えなくなるまで、ナンバープレートの数字で17を作る計算を続けていた。
29 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/07/18(日) 20:15:44.09 ID:tOOq6fiR0
変わらないものがある。
冬優子ちゃんは髪を切ったけど、かわいいという事実までは変わらない。
「暑いね〜」
愛依ちゃんは髪を染めたけど、やっぱりくるくるしてる毛先はかっこいい。
「そっすね〜」
稽古の帰りに事務所に向かっていると、ちょうどレッスンが終わった愛依ちゃんとたまたま出会った。嘘。ほんとはちょっと探した。
顔を見るとすぐ分かったけど、髪の色が前と違ったから、思わず「え!」と声が出た。愛依ちゃんは「ドラマの撮影あるのよ」と、右手の甲で茶色に染まった毛先を持ち上げてくれた。かわいい。好きだ。
2人で、夏が熱した道を歩く。目玉焼きくらい絶対作れる。キツいスニーカーは歩き易くはないけど、足の裏が焼けてしまうことだけはしっかり防いでくれていた。十分。
愛依ちゃんの足元を見ると、おしゃれなヒールのサンダルを履いている。日光が当たって、装飾のきらきらが目を眩ませる。
「熱くないんすか?」
「熱いよ、めっちゃ熱い」
「なんで靴履かないんすか?」
「今このサンダル、マイブーム」
「あ、爪塗りました?」
「彼氏か」
愛依ちゃんに彼氏ができたらどうなるんだろう。レッスンの帰りに迎えに来られでもしたら、わたしとの時間がなくなってしまう。
いや、アイドルの練習場所に彼氏は来ないか。来たらすぐ見つかってしまいそう。プロデューサーさんも、外で長居しないように気を付けてるし。
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