【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」

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245 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:50:43.69 ID:V6x1Fopt0


「そっか。あたしも……同じだよ。
 人としてすごく尊敬する。
 あんなに優しい大人もそう居ないもの」


あたしはまた自分で言った言葉が何かに跳ね返り、
自分に突き刺さる感覚を覚える。

桃山さんは「なにそれ」と笑ってみせた。
あたしの吐いた嘘を見透かしているようだった。

246 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:51:36.69 ID:V6x1Fopt0

「でも、寂しくなるなぁ……ずっと一緒だったもんね」

「うん、……そうだよね。
 あたし、桃山さんとは本当に……その」

「ん?」

「友達になれたなって思う」


言えた。

こんな気持ち、
本当は迷惑かもしれないということは分かっていた。
でも、確認したくて、言ってしまった。
247 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:10.40 ID:V6x1Fopt0


「うん、ありがとう!」


桃山さんは笑うだけで「私も」とは言ってくれなかった。


でも、もうこのバイトは辞めてしまうんだ。
どうでもいい。

きっと多くを求めすぎているんだと思う。
だから別にいいんだ。

別にいい、そう自分に言い聞かせる。

248 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:44.70 ID:V6x1Fopt0


桃山さんは休憩時間でもないのに、
近くにある椅子に座る。

そして、ため息まじりに言う。

「そっか……。私もやめよっかなぁ」

あたしは分かっているのに、聞いてしまった。


「辞める?」

「ここ」

このバイト先を、桃山さんも辞めると、そう言い出した。
249 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:53:32.80 ID:V6x1Fopt0


……。

続けた方が良いなんて、
死んでも言えなかった。
自分の方が先に辞めて行く癖に。


あたしはどうしようもなく、
「そっかぁ」と情けない声を出した。

苦し紛れに「帰ってきた時、
2人が居ないと寂しいよ」と言ってみた。

しかし、桃山さんはあたしの膝のあたりを
ペチンと柔く叩き、ピシャリと言った。

250 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:14.50 ID:V6x1Fopt0


「帰ってくるなんて言わない」

「……はいっ」

あたしは反射的に答えてしまう。
ここは、私と店長の愛の巣になるのだから、
帰ってくるなとか、そういうことを言ってるのかと一瞬だけ勘ぐる。

桃山さんはいつものニコニコした表情から一変して、
怒っていた。
251 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:48.17 ID:V6x1Fopt0


「木下さん、ここに戻ってきたり
 出来ないように辞めるんでしょう?」


ドキッとした。

違う。ギクリ、とした。
バレていたんだ。

この場所からも逃げようとしていることも
きっとバレているんだろうな。

そんなに顔に出やすいのかなぁ。
もっと演技の勉強をしないとダメかな。
252 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:55:20.17 ID:V6x1Fopt0


しかし、あたしが辞めて、
桃山さんが辞めてしまったら
このお店はどうなるんだろう。

別に他にもバイトの人は
居るから大丈夫だと思うけど、
特に良くシフト入れていた桃山さんが
辞めるというのが心配だ。

253 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:04.31 ID:V6x1Fopt0


でも、店長のことを顔覗き込んで何かしていたよね。
あれはなんだったんだろう。

ただの、勘違い……? 
それとも、桃山さんも自分の感情に
蓋をするように嘘を付いてる?

まあ……それは、この店に遊びに来れば分かることか。


「おーい、木下さーん、ちょっといいかなぁ?」

店内の方から店長の呼ぶ声がする。

254 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:35.22 ID:V6x1Fopt0

あたしは、桃山さんの方に
「あたし、頑張るよ」と言ってから、
そっちに向かう。
桃山さんは笑顔で頷くだけだった。



その日、帰り道、
夏の夜の下を一人歩いて帰る。


あと、数回のバイトが残っているけれど、
あの場所にあたしはもう帰らないんだ。

255 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:02.60 ID:V6x1Fopt0


これで良かった。

悔いもあるし、
もしかしたらあのまま店長に
自分の思いを打ち明けていれば
自体は大きく変わったのだろうか。

もし、あの時、
桃山さんが辞めると言うのを止めていたら、
何か変わっていたのか。

結構シフト入ってる桃山さんが辞めてしまったら、
お店はどうなるのだろうか。

お店がなくなる、
ということは無いとは思うけど、心配だ。

256 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:29.94 ID:V6x1Fopt0


でも、そんな心配はするけれど、
店長は結局、あたしのことなんて好きじゃなかった。

いや、きっとLIKEでは居てくれてる。
LOVEには決してならないだけということ。

これだけはハッキリと分かった。
やっとモヤモヤが晴れるのかな。

257 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:03.75 ID:V6x1Fopt0


そう考えた時に、
またあたしは気がついてしまう。

暗い夜道の街頭の灯りに照らされながら。
あたし、また一人ぼっちになるのか。

でも、今度のこれは
自分で選んだことだから良いんだ。

何度もそう自分に言い聞かせながら、
とぼとぼと家に向かって歩いていく。


「あ、……誕生日」

258 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:49.10 ID:V6x1Fopt0

今日一日のことを
振り返っていて思い出した。

バイトに行く時には、
もしかしたら桃山さんが
何かサプライズを用意しているかもしれない、
とか考えていた。

でも、別によく考えたら、
桃山さんはあたしの誕生日を知っていたのだろうか。

知らないとしたら、何も悪くないし、
知っていたとしても、
こんな祝って欲しい感じを丸出しにした
厚かましい人を祝いたくなんてないだろう。

259 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:23.72 ID:V6x1Fopt0

そうだ。あたし、もう20歳なんだ。
お酒だって買えるぞ。

自宅付近のコンビニに寄って、
スイーツのコーナーを見る。

空っぽの棚に、
ちょこんと一個だけ生クリームの乗ったプリンがあった。

あたしはそれを手に取り、
そして、お酒コーナーで
ほろ酔いのカルピスサワーをレジに持っていく。

260 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:58.77 ID:V6x1Fopt0


深夜のダルそうな若いお兄さんは
あたしのことをチラリと睨むように見ると、
無愛想に金額を伝えてくる。

あたしはさっと千円札を出し、払い終える。

化粧や髪型の研究とか重ねた成果は出ているのだろうか。
と疑わしくなるくらい、店員のお兄さんはあたしを見てくる。

商品を袋詰され、
受け取るとあたしは足早にコンビニを出る。
261 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:01:27.87 ID:V6x1Fopt0


そのまま、速歩きで自宅まで駆け込んだ。
真っ暗の部屋は蒸し暑く、
すぐにエアコンを付ける。
服を脱いで、シャワーを浴びる。


初めてお酒を買った。
それだけでウキウキだった。

262 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:06.24 ID:V6x1Fopt0


火照った身体で、
お待ちかねの初めてのお酒。
先にプリンを開ける。


そして、カルピスサワーを開ける。
プシッと炭酸の弾ける音がする。

ふわっと香る甘い香りを前に、
クラクラする。

263 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:43.68 ID:V6x1Fopt0


「いただきます」

カルピスサワーを一口。
……。

普通にペットボトルで売ってる
お酒じゃないものと味が変わらない。

と思うのも束の間、
身体がどんどん熱くなる。
264 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:12.50 ID:V6x1Fopt0

ほぅっ、と息を付くと、顔も熱いのが分かる。

それからあたしは、
プリンを一口食べた。甘い。

なんて甘いんだろう。
美味しいなぁ。

美味しいなぁ。

「あ、そうだった」

265 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:40.60 ID:V6x1Fopt0

プラスチックの小さなスプーンを
マイク代わりにする。
今日のことが思い出される。

「ハッピバースデートゥーユー」


店長はあたしのことなんて好きじゃなかった。
フラレずに済んだ。
良かったじゃないか。

266 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:09.60 ID:V6x1Fopt0


「ハッピバースデートゥーユー……」


もう店には戻れない。
あたしが自分でそうしたんだから。


「ハッピバースデーディア……あたし〜」

267 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:42.60 ID:V6x1Fopt0


店長のこと、好きだったんだなぁ……。

でも、この思いは叶うことはない。

まだ少しだけバイト出る日は残されているけど、
あたしは叶わない想いを抱いて、
叶わない恋をする店長を
応援する振りをしないといけないのか。

それはしんどいなぁ。

268 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:05:25.99 ID:V6x1Fopt0


「ハッピバースデー……トゥーユー……」

一人暮らしの小さな部屋に、
あたしの震える声が響く。

目の前にある液晶テレビは、
つけないから真っ黒で、
その画面が反射させてあたしを映し出す。


一人ぼっちで、
初めて買ったジュースみたいな
お酒でいい気分になっちゃって、
小さいプリン一個で幸せになっている。


269 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:06:01.63 ID:V6x1Fopt0

飛んだ大馬鹿野郎だ。
なんだこいつは。

たった一人で何をやってるんだ。

自分のせいだけど、
誰も悪くないけれど。
また、あたしは一人になる……。

270 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:04.40 ID:V6x1Fopt0


20歳になる最初の夜に、
あたしは耐えきれなくて涙を流した。
もう、心が折れそうだ。

辞めたい。

帰りたい。

そう言えればどんなに楽だろうか。

誰にそれを言えばいいのだろうか。

辞めてどうするのだろうか。

どこへ帰るのか。



涙が止まらない。
本当はもう要らないのに、
もったいないからもう一口、プリンを食べる。


271 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:44.96 ID:V6x1Fopt0


「甘……っ」


あたしは、プリンを一気に口の中に流し込む。
ほろ酔いをガッと掴んで
いっきに喉の奥に通す。


あたしは一人ぼっちの部屋で泣いた。
何が悲しくて泣いているのかなんて分からない。

膝を抱えても涙を流しても、
部屋に響くだけで、
何も起きなかった。




「誰か助けて……」


272 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:09.69 ID:V6x1Fopt0


第6章 もうアイドルは諦めようよ






「はい、オッケーです」


ついに明日に本番を控えるライブ。
入念な会場リハが行われていた。

この頃には、田中琴葉の引退ライブでもあることが判明し、
世間は大騒ぎになっていた。

273 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:53.32 ID:V6x1Fopt0

チケットの倍率は跳ね上がり、
転売の価格は高騰。

ネットのあちこちで憶測にすぎない議論が飛び交う。
それに乗っかる形でマスコミは
あらぬ噂を垂れ流し、
世間はまたもそれに奔走する。


しかし、そこは田中琴葉、
そういった出どころの不明な噂はすぐに消滅する。
真相はライブで実際に語られるだろう、
ということだけが、ファンたちの頼りの綱だった。

274 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:10:50.49 ID:V6x1Fopt0


そして、その一方で出演するメンバーたちは、
彼女の最後のステージになるのだから、
間違いやミスは万死に値する! 
と言い出しかねない程の熱量があった。

現場はビリビリと緊張感が走る。
一つのミスも許されない。

誰もが好きだった彼女に華を持たせるんだ。
その全員の意気込みで、
圧倒的な苦しみを産み出しながら、
本番は迫ってくる。

275 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:11:31.02 ID:V6x1Fopt0


これまで、心が何度も折れながら、
喰らいついていったあたしは
その熱量にやられることなく済んでいる。

だけど、あたしよりも若い女の子達は、
前々からいる765プロのアイドル達の
熱意について行けずに弱音を吐く姿が見えてきている。


「ほら、立って。大丈夫だから」


そう若い子に話しかけるのは所恵美だった。

276 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:12:10.14 ID:V6x1Fopt0


親友の田中琴葉がメインとなるライブで
最も気合が入っていたアイドルの一人である。

優しく声をかけているように見えるけれど、
彼女の本質はそこではない。

自信を亡くしたり、
戦意を失いかけた女の子たちを一人で呼び出し、
個別に話をする。

そうやって話しかけられた女の子たちは戻って来ると、
全員が洗脳されたかのようにキビキビ動き出す。

277 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:12:54.02 ID:V6x1Fopt0


キビキビ動き出すところにやって来るのが
もう一人の親友である島原エレナだった。

緊張に圧迫される女の子たちを
ほぐしに行くのが彼女の役目であり、
飴と鞭が上手いこと完成するのである。

それが洗脳を加速させるのだが……。


本当に洗脳しているのか、
それとも脅しているのか。
一体どんな話をされたのかはあたしは知らない。

何にせよ、この会場リハが行われる頃には
「鬼の副長」と噂される程だった。
誰もが彼女の顔色を伺う。

278 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:13:25.79 ID:V6x1Fopt0


当然あたしはそんなことしない。

何故ならこのライブは、
あたしにとって復帰の最大のチャンスであり、
田中琴葉の引退ライブだとかいう
どうでもいいこととは関係がない。


「ひなたはやっぱりすごいね」


あたしは帰り支度をしようと楽屋に戻ろうとしていた時、
鬼の副長こと所恵美に会場の廊下で話しかけられる。

ギクリとする。
今すぐここから逃げ出したいくらいだ。
279 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:14:10.97 ID:V6x1Fopt0


元々彼女とは、ノリが違うというか、
彼女のテンションには
どうにもついて行けないところがある。

学校内のクラスカーストで言っても、
あたしと所恵美のポジションは明確に差があると言える。

しかし、すごいね、
の意味が分からず素直に聞くことにした。

280 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:15:19.40 ID:V6x1Fopt0


「なにが?」

あたしは「しまった」と思う。

何せ、話しかけないで欲しいという感情が
語気にまるまる乗ってしまうような強い言い方になってしまった。

これではまるで喧嘩腰に見えるだろう。

しかし、所恵美はそんなことはどうでも良さそうに、
ただあたしの質問に答える。

あたしのような格下の喧嘩は
買わないと言わんばかりの余裕だった。

281 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:16:13.10 ID:V6x1Fopt0


「やっぱり昔から知ってるメンバーって
 どこか根っこが違うっていうか。
 ひなたも同じように凄い根っこがあるっていうか。

 あんまり上手く言えないけれど、
 ひなたには自信を持って、ステージを任せられるよ」

「……そっか」


あたしはそれだけ言うと、
その場から逃げるようにして去ろうとした。
282 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:16:50.22 ID:V6x1Fopt0


ステージを任せられる? 

あたしはその言葉を鼻で笑う前に立ち去らないと。
端っこしか空いていなかったのに、良く言うよ。

まあ、最も、そんなステージの立ち位置なんてものは
所恵美が決めているという訳ではないというのは分かっているが。

283 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:17:32.30 ID:V6x1Fopt0


それ以上、あたしは所恵美と
話をすることなんて何も無いと思った。

それともこのタイミングで
そんな風に話しかけてきたのは、
あるいは逆のことを意味しているのだろうか。



明日は大事なライブなのだから、失敗するなよ。
昔からアイドルやってるんだもんね。
そうそう失敗なんかしないでしょ?


284 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:18:03.68 ID:V6x1Fopt0


そういう心根が聞こえて来る気がして、耐えられない。

あたしは所恵美に背を向けて歩こうと振り返ると、
目の前にはプロデューサーが居た。

まるであたしの行く道を塞ぐように立っている。


「……お疲れさまです」

「ああ、お疲れ」

285 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:18:36.14 ID:V6x1Fopt0


今度は苛立ちや、
負の感情が乗らないように制御できた。

と思ったが、プロデューサーはあたしのカバンを持っていた。

無言でそのカバンを渡されたあたしは、
まず財布の中身をチェックした。
別に何も減ってはいなかった。

286 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:19:21.80 ID:V6x1Fopt0



「電話が鳴ってたっぽいんだが。ずっと。
 何度も鳴ってたから緊急じゃないのか?」

「電話……?」

あたしは、カバンの中にあるスマホを探し出す。



あれ、どこにやったんだろう。おかしいな。
こうやって急いで取り出そうとする時ほど、
スマホは出てこなくなるの、なんなんだろう。
287 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:20:03.29 ID:V6x1Fopt0


「明日はライブ本番なのに大丈夫なのか」


緊張感漂う現場の空気に押されたのか、
苛立った声色を見せるプロデューサーは、
横でカバンをひっくり返す勢いで漁るあたしの背後からカバンを覗いてくる。

それを所恵美が首根っこ掴んで

「こらこら、女子のカバンを覗かないの」

と辞めさせている。

その後も腕組みをした指先は
トントンと腕を落ち着き無く叩いている。

288 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:21:27.17 ID:V6x1Fopt0

そうこうしている間に、
3人が立ち往生している廊下に着信音が響く。

あたしはその音と、
スマホが出すヴァイブレーションの振動で、
すぐにカバンの脇のポケットに入れたことを思い出し、
スマホを取り出す。

画面には「お母さん」と書かれていた。
背筋が凍るような嫌な予感がする。

289 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:22:30.12 ID:V6x1Fopt0


お婆ちゃん娘だったあたしは、
お母さんとは殆ど連絡を取ったりしない。

本当に緊急の時にしか、連絡を寄越さない。


その緊急具合は例えば、──家族に何かがあった時。


前は、どうだったっけ。
何があったかは忘れたけれど、
祖父母に任せっきりの母親が
あたしのことを呼び出す、
というだけでただ事ではないのだけは分かる。
290 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:23:05.16 ID:V6x1Fopt0


あたしは、所恵美とプロデューサーに
背を向けて電話に出る。

「もしもし……?」

「あ、やっと出た! ちょっと、今大丈夫?」

291 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:24:00.67 ID:V6x1Fopt0


母の声は、どこか焦っている様子で、
やっぱり何か緊急のことがあったんじゃないかと思う。

あたしは「うん」と言いながら、
チラリと背後の二人の方を見る。

二人共、心配そうに、……は見ていない。


その目は、どちらかというと

「何かトラブル?」

「これ以上トラブルは起こさないでくれよ」

「明日が本番なんだぞ?」

という目だった。

292 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:24:52.23 ID:V6x1Fopt0

二人の様子を伺うあたしを見て、
プロデューサーは口をへの字にひん曲げながら
「ふん……」とため息にも似たイライラが見える鼻息を漏らす。

その二人から目を逸らす時、
電話の向こう側の母は言った。






「お爺ちゃん、倒れたの。
 お医者さんが言うには、もう長くないって」


「……」





293 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:25:23.72 ID:V6x1Fopt0



あたしは声が出なかった。
思考が追いつかない。
目の前が真っ白になっていく。

あたしが爺ちゃんと婆ちゃんの家に居た頃は
それほど前ではないはずなのに。

あの頃はすごく元気にやっていたと思っていたけど。

それが、もう長くない……?

294 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:25:59.67 ID:V6x1Fopt0


何かの冗談ならそう言ってほしい。
今のあたしにはそんな冗談を受け止めるほど、
広い心を持っていない。

しかし、長くないと言われても、
……ふと背後の視線に気がつく。

トラブルを嫌うプロデューサーの
厄介そうな視線が痛い。

あたしは鬱陶しがるように、
少し強い口調で言う。

295 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:26:28.43 ID:V6x1Fopt0


「な、んで……今それを言うの……?」

「あんたがいつまで経っても電話も出ないし、
 連絡をよこさないからでしょう!?」


母の怒気が強い言い方に、
思わずスマホから耳を離してします。

恐る恐る耳に戻し、母に聞く。

296 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:27:10.48 ID:V6x1Fopt0


「爺ちゃんは、どうなるの」

「だから、長くないんだってば。
 ねえ、帰ってこれない?」

「あたし! 今すぐには帰れないよ!?」


話の通じない母にイライラする。

あたしは嫌な予感がしたので、
先手を打って、話を遮るようにして言う。

297 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:28:02.61 ID:V6x1Fopt0


「あたし、明日は大事なライブなの!
 これを逃したらあたしはもう、戻ってこれない!」


どうか。
どうか言わないで欲しい。


「何言ってんの!?
 お爺ちゃん死んじゃうかもしれないんだよ!?
 あんた最後に会えるかもしれない
 っていうチャンスがあるのに、どうするの!?

 アイドルのこと、また頑張ってるのは知ってるけれど、
 また頑張り直せばいいじゃない!?」


そんなことは分かっている。
だから言わないで欲しかった。
298 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:28:47.95 ID:V6x1Fopt0


心配事やキレたり感情が爆発すると
おっかないくらいヒステリーを起こす母の癖は変わっておらず、
矢継ぎ早に何か言ってくる。

話の聞かない母にイラつくあたしは、
スマホを地面に叩きつけないよう必死だった。


「聞いてるの? ねえ!
 お爺ちゃんにはもう一生会えないかもしれないんだよ!?」

「聞いてるよ……」

299 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:29:19.04 ID:V6x1Fopt0


爺ちゃんには感謝してる。

でも、……だってあたしは
爺ちゃんのために頑張ってきたのに。

死んじゃえば、
この頑張りを認めてくれる人は誰が残っているの!?

300 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:29:49.16 ID:V6x1Fopt0


でも、爺ちゃんは言ってた。
また、テレビで見たいって。

そのために、このライブは絶対に欠かせない。

何よりも、背後にいるプロデューサーとの間には、
ドタキャンでの重く苦しい思い出がある。


絶対に、絶対にここで帰る理由にはいかない。


301 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:30:33.00 ID:V6x1Fopt0


「お母さん、爺ちゃんに電話繋いでよ」

「は!? 意識もないのに、 どうやって……。
 今、集中治療室に入ってるからそんなこと出来ない」


そんなに重症なのか……。
それならそうと早く言って欲しい。

電話も出れない、せめて受話器越しにでも
声をかけられたりでも出来れば良かったのに。


母は言う。

「あんた帰っておいでよ」

302 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:31:19.17 ID:V6x1Fopt0


その言葉はさっきとは全く違い、
とても優しい言い方をしていたのに、
あたしの胸に突き刺さる。

ズキズキと胸が痛む。
頭も痛い。
吐き気さえしてきた。


「もう、アイドルだって良いじゃない」


何が良いものか。
ここまでやっと戻ってこれたんだ。

今更そんな母親面して、
心配なんてしないで欲しい。
そんな風に言わないで。

303 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:32:36.70 ID:V6x1Fopt0


どれだけの思いでやってきたか。
どれだけ苦しんできたのか。

その間もあなたは何もしなかった。
してくれるなんて思わなかったから
あたしも助けは求めなかった。

「もう、その……。アイドルも辞めて帰っておいでよ」



「やめてよっ!!」



会場廊下に響くあたしの声に、機材を運ぶスタッフさんや、
待ちかねて談笑を始めたプロデューサーと所恵美をも振り返らせた。

でももうそんなの関係ない。


304 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:33:08.33 ID:V6x1Fopt0


もう……。

もうたくさんだ。

もううんざりなんだ。


どいつもこいつも、
あたしの邪魔ばかりする。


何がいけないの。
どうして、こんなに障害ばかりあるの。


305 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:34:08.38 ID:V6x1Fopt0


「あんたは充分やったのは知ってるよ。
 でも結果が出てないじゃないか。
 ね? もうアイドルは諦めようよ……?」 


「そんな風に言わないで。
 あたし、帰れないよ。帰らないから。

 爺ちゃんと約束したんだ。
 また、あたしがテレビに出ているところが見たいって。
 そのために、必要なんだよ。

 爺ちゃんには会えないけど、
 あたしは、あたしのやるべきことをやる」


306 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:34:39.55 ID:V6x1Fopt0


「やるべきことって、
 あんたがやるべきことは帰ってきて、
 お爺ちゃんを励ましてあげることでしょう!?

 あんなにひなたこと好きだったのに、
 あんたも好きだったじゃない。お爺ちゃんのこと」


「そうだよ。だから、帰れないんだよ。
 このままじゃ。ごめんね、お母さん」


307 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:35:44.03 ID:V6x1Fopt0


母親はまだ何か言っていたが、
それを無視してあたしは

「久しぶりに声が聞けて、元気そうで良かった」

とそれだけ言い、電話を切った。


ふー、と大きく深呼吸をする。
背後から2人が近づいて来るのが分かる。

308 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:36:29.75 ID:V6x1Fopt0


黙って振り返ると、所恵美は
心配そうな顔をしてこちらを見ている。

対してプロデューサーは
面倒そうな顔で、
「トラブルは御免だ」という顔で
こっちを見下ろしている。


「ひなた、大丈夫?
 何かあったの? お母さん?」

「うん……。大丈夫」

309 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:37:27.28 ID:V6x1Fopt0


あたしはそれ以上は答えなかった。
しかし、プロデューサーはゆっくりと口を開く。


「何があったかは分からないけど、
 そんな不安定な調子でライブに出られても困るからな。
 明日はベストコンディションで行けるんだよな?」


うるさい。
ぐちゃぐちゃの感情が爆発しそうだ。

310 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:38:13.48 ID:V6x1Fopt0


もう少し言い方は無いのだろうか。
空気を読めとか、そういうことじゃない。

ただの心配をするという言葉一つ投げかけることができないのか。

どうしてたったそれだけのことが出来ないのか。

どうして、あたしにはしてくれないのだろうか。

どうしてそれを隣の所恵美は
何も聞いてないような顔で
突っ立っていられるのだろうか。

311 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:38:53.67 ID:V6x1Fopt0


これも神様があたしに与えた試練だって言うのだろうか。
冗談じゃない。もうたくさんだ。


「顔色も悪いし、今からキャンセルするなら、間に合わせるぞ」


うるさい黙れ。
所恵美の前で仕事のできる風を装ったって無駄だ。
何が間に合わせるだ。

顔に面倒ごとを起こすなって
イライラしているのが出ているじゃないか。

312 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:39:54.78 ID:V6x1Fopt0


「まあ、幸いひなたは端だし、
 欠けてもギリギリなんとか……」



「出るよ!  うるさいんだよ、さっきから! 出るよ!」



嗚呼、もう抑えられない。
もう我慢できない。耐えられない。

自分の中で巨大な何かが決壊したのが分かる。
こんなもの八つ当たりにすぎない。

そんなことは分かってる。
でも、もう駄目なんだ。

313 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:40:40.08 ID:V6x1Fopt0


所恵美も、プロデューサーも目を丸くしている。
あたしは自分の顔が真っ赤になるのが分かる。

2人はキョトンとした顔で、
何怒ってるんだろうみたいな顔をする。
その顔が余計にあたしをイライラさせた。




「キャンセルなんてしない!

 あたしはステージに立つ!

 全部、全部やるから!! もう構わないで!」





「ひなた……!」

あたしは、所恵美の声も無視して、その場を去った。

314 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:41:26.59 ID:V6x1Fopt0


ぐるぐると定まらない感情が巡る。
……爺ちゃんがただ心配だ。

あんなことを言ってしまって、
そのあとのプロデューサーの対応が心配だ。

あたしはまた
「急にキレる、使いづらい危ないアイドル」
という新しいレッテルが貼られるのだろうか。

315 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:42:04.79 ID:V6x1Fopt0


久しぶりに話をした所恵美は
あたしのことをどう思うのだろうか。

変わってしまった……、と思うだろう。
それも悪い方に変わってしまったと。

母はどう思ったのだろうか。
愛娘から突き放される感覚はどうだったのだろうか。

316 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:42:33.84 ID:V6x1Fopt0


会場を忙しなく動くスタッフ達の目も気にしないで、
あたしは会場の廊下を早足で歩く。

色んな人があたしの様子を見て、振り返る。

また電話がかかってきた。
母親からだ。
あたしは電話には出ない。

317 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:43:21.50 ID:V6x1Fopt0


ここから……あたしはもう一度、
やり直すんだ。もう一度……。

こんなところで立ち止まる訳にはいかない。

ライブに出演して、しっかりやっている所を
もう一度お客さんやファンの方、スタッフの方、
関係各所にも見てもらって。

もう大丈夫なんだと思ってもらって、
もう一度テレビでも使ってもらうんだ。

318 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:44:49.15 ID:V6x1Fopt0


最初はラジオからでもいい。
でももう明日のライブで
あたしがちゃんと出来るというところ披露しないと、
次のチャンスはいつになるのか分からない。


こんなところで、こんな
爺ちゃんが死んでしまうかもしれないことで、
立ち止まる訳には……。

あたしは最低だ。


319 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:45:41.94 ID:V6x1Fopt0

分かっている。
でも、ここしか無いんだ。
次は無いんだ。

廊下の向こう側から
出演者のアイドル達が
群れをなしてこっちの方に
歩いてくるのが遠目にでも分かる。

あたしはそれを避けるため、
用のないトイレに逃げ込む。

みんなが過ぎ去るのを待つ。
何もしないのは誰かが入ってきた時に
怪しまれるので、綺麗な手を洗っていた。

320 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:46:45.59 ID:V6x1Fopt0

何度も石鹸をつけては流す。
泡立てて、爪の間も指の間も洗う。

まるで、誰かを殺した返り血を落とす、殺人犯のようだ。

今だったら、誰を殺してしまいたいだろうか。
あの子か、あの人か、それともあの子か。

いいや、違う。

あたしだ。

鏡に映るあたしと目が合う。


「……なんて顔してんだろう」


321 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:47:36.03 ID:V6x1Fopt0


もう一度ステージに立って……。

あたしは、もう一度……。

もう……。




「もう、いいか……」




ポキン。


あたしの中で、
何かが折れる音がハッキリと聞こえた。


「……は、ははは……。あははは……」



鏡に映るあたしは、
泣いていた。




322 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:48:21.43 ID:V6x1Fopt0


あたしが20歳の時に開催された、
田中琴葉が引退を宣言したライブ。


あたしは、ステージに立ち、
自分のやるべきことをやった。
ミスは無かった。……はず。

あのライブはどちらにしろ、
主役は田中琴葉なのだから、
目立ったところで、
結局会場のヴィジョンに映し出されるのは
田中琴葉だと決まっている。


だから、脇役に徹して会場を彩る背景の一つとなった。

323 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:49:14.29 ID:V6x1Fopt0


涙に惜しむファン、出演メンバー、
そして感謝の言葉を述べる主役。

あたしはそれを端で見ていた。

泣く振りをすれば良かったのかもしれない。
みんなが拍手をしている中で
あたしは棒立ちすることしか出来なかった。

それとも、このモヤモヤを爆発させて、
ライブを無茶苦茶にしてやれば良かったかもしれない。


生憎、その後に賠償問題にまで
発展する可能性があることを
考えることが出来たあたしは、行動に移せないでいた。
324 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:50:37.62 ID:V6x1Fopt0


ライブは無事に成功した。
そう言っていいと思う。

集合写真に写ったあたしは、
死んだような目で写真に写り込んでいた。

のちにSNSにあげられた写真を見て、
自分の小さな姿に、「別に写らなくても良かったなぁ」と思った。

325 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:51:08.11 ID:V6x1Fopt0

ライブ終わり、スマホを見ると、
電話の着信が48件。
ショートメッセージが9件。
留守番履歴が8件。

これらがいっきに現れて、
重苦しい気分のあたしを更にどん底に落とす。

スマホを開いているのも嫌になる。

326 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:51:55.84 ID:V6x1Fopt0


その後、家に帰る途中で、
またかかってきた電話に出る。


夏の夜空の下で、
あたしは、この世に存在する
ありとあらゆる罵詈雑言を受けた。





でも、笑えてきた。



可笑しくて仕方なかった。



夜道を、電話片手ににやにやしながら歩く。

327 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:52:42.65 ID:V6x1Fopt0



電話が終わる頃合いに、
自宅にたどり着いた。

真っ暗な自宅に帰ると、
我に返り、なんてバチ当たりなんだ、と泣いた。


「通夜には来い」と言われ、
その後日、仕方なく行ったが、
やっぱりそこでも色んなことを言われた。


説教の最中に、何度この場を逃げ出そうか。
この空気を壊してやろうか。

そういうことばかり考えながら、下を向いていた。

そして、やっぱりあたしは、
行動には移せないでいた。



328 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:53:20.08 ID:V6x1Fopt0



──半年後、木下ひなた20歳の冬。





「ひなた、これ、爺ちゃんのなんだけどね。ひなたにって」

「これ? ええ……婆ちゃん、
 これ爺ちゃんのカメラじゃない?」

「たくさんあって。
 でも誰も使い方、分かんないんだよね」

329 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:54:02.19 ID:V6x1Fopt0


爺ちゃんと婆ちゃんの家に来たのは、
夏のライブから半年後だった。

すっかり雪景色となった北海道の大地で、
お墓参りに行った帰りだった。


婆ちゃんは元気にあたしのことを迎え入れてくれた。

「またここにしばらく住んでもいいんだよ」

なんて婆ちゃんは言ったけれど、
あたしはそれを断った。

330 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:54:42.31 ID:V6x1Fopt0


婆ちゃんが部屋の奥から引っ張り出してきた、
爺ちゃんのカメラを弄っていくが、
何せ説明書も無いので、どうやって扱うのかが分からない。

スマホで型番を調べて、
説明書のPDFをダウンロードするけれど、
説明書があまりにもページ数が多くて
どこから見たらいいかすら、分からない。

まずは、ボタンが何なのか知ることから始めるか。
カメラの付属品がゴロゴロ出てくる。

331 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:55:22.26 ID:V6x1Fopt0


交換用のレンズ。三脚。シャッターの遠隔のボタン。
レンズフィルター。ケーブル各種。

婆ちゃんはあたしに言った。


「爺ちゃんね、そのカメラはひなたに
 受け継ごうと思ってたんだよ。そう言ってた」

「……」

あたしは何も言えなかった。

「そうなんだ」とも言えずにいた。
婆ちゃんは優しい口調で言った。

332 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:56:23.15 ID:V6x1Fopt0


「もらってあげてくれないかな?
 爺ちゃんね、ひなたは、東京に行って、アイドルになって、
 いろんなきれいなものを見るんだろうから、
 立派なカメラが必要だろう。って、そう言ってたよ。
 いつか俺が教えてやるんだって」

「……そっか。うん、婆ちゃんがいいなら、あたしが貰うよ」


婆ちゃんはそんなあたしを見て言った。


「あ、もしかして犬の写真とか撮るのかい?」

「え? ああ、ドッグカフェの?」

333 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:57:04.66 ID:V6x1Fopt0


犬の写真……というので
一瞬なんのことか分からなかったけれど、
親族に犬を飼っている人は誰もいない。

お隣の家には飼い犬がいることはいるけれど、
畑があるせいで何キロも先にある。

だからすぐに自分が働いていたドッグカフェのことだと分かった。
でも、あたしは淡々と婆ちゃんに同じ説明をした。
もう何度かした説明を。


「ううん。あそこはもう辞めちゃったんだ」

334 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:57:51.96 ID:V6x1Fopt0


婆ちゃんの家に行く前、
一週間くらい前だったが、
ふらっと立ち寄ったことがある。

あたしが辞めて、
たったの半年だったが、
あたしはその事実を言う。


「それに今はもう、あそこ閉店しちゃったし」

「そっか。お昼用意するからちょと待っててね」

「ううん、いいよ。ちょっと……コレ、練習したら帰るからさ」

335 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:58:25.79 ID:V6x1Fopt0


あたしはそれから
一旦、写真を実際に撮ってみることにした。

なんてことない、
テーブルに置いてた婆ちゃんの湯呑を撮影する。
バシッという派手はシャッター音。

カメラの液晶には撮影したものが
すぐに確認出来るように映し出されるが、
画面に出てきたのは白っちゃけた湯呑だった。

336 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:58:59.00 ID:V6x1Fopt0


あたしはそれを削除する。
色々いじって撮影する。
確認して削除。

5回くらい撮影を繰り返したところで、
結局オートモードを発見して撮影した。

うん、綺麗に湯呑が撮れた。
分からない内はこれでいいじゃないか。

綺麗に湯呑が撮れたからなんだって言うんだ。

337 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:59:42.54 ID:V6x1Fopt0


あたしは、さっき見つけた三脚を引っ張り出して、組み立てる。

カメラをセットして、レンズを覗いて、位置を確認する。
その場所に入るようにカメラの前に移動する。

タイマーにセットし忘れたのを思い出し、
カメラの方に戻ってきてセットし直す。

今度は、上手く作動したようで、
急ぎ足で、カメラの前に移動する。


338 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:00:11.11 ID:V6x1Fopt0


情けない、だらけたピースサインをちょっとしてみる。
バシッという派手なシャッター音が響く。

カメラの方に戻り出来栄えを見てみると、
そこに写っていたのは、
やっぱり情けない半目の20歳にもなる女だった。

339 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:01:01.85 ID:V6x1Fopt0


あたしは今度は、
三脚をそのまま持ち出して、外に出る。
外はどんよりとした分厚い雲が空を覆っている。


雪が積もった畑の前まで来て、三脚を立てる。

多少良くなった手際で、
もう一度タイマーをセットし、
駆け足でレンズの前へ走る。

ポーズを決めるも、なんか違和感を覚え、
結局さっきと同じダサいピースサインを一人でする。

シャッター音がかすかに聞こえ、カメラに戻っていく。

340 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:01:46.63 ID:V6x1Fopt0


真っ白な背景に、あたしが写っていた。

誰も居ない、一人ぼっちの集合写真のような、
画面の中途半端なところにあたしは立って居た。

あのライブ終わりに撮った集合写真も、
同じような顔をしていた。

今は確かに誰もいなくて楽しくもないから、
別にこんな顔をしていても仕方ないと思うけれど。

寒い中、もう一度カメラの設定方法をスマホで調べてみる。
あーでもないこーでもない、
と一人でやっている内に、
スマホの画面に水滴が落ちた。

341 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:02:19.78 ID:V6x1Fopt0


……。

一滴、また一滴。
これは涙ではない。
それに水でもない。

雪だ。

もたもたしているうちに
降ってきてしまったのか。


342 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:03:04.89 ID:V6x1Fopt0

もう一度タイマーをあわせる。

雪が舞い散る中、あたしはまた駆け足でカメラの前に行く。
段々と雪の結晶も大きくなっていくのが分かる。

手のひらを空に向けて見る。

手に、雪が落ちては消えていく。


「……はは」

343 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:03:46.45 ID:V6x1Fopt0


あの時、どう言い返せば、
あたしはショッピングモールでの
お仕事が出来ていたのだろうか。

あのプロデューサーが
名前を書き出していたその順番とバツ印と丸の意味、
あれはなんだったんだろうか。

あの時、何も問題なく
オーディション番組に出演するには
どうしたら良かったのだろう。


色んな後悔が、色んな感情がまた押し寄せてくる。


344 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 23:04:34.34 ID:V6x1Fopt0



「……ははは」



「……あはは」



「あはははははは……!」



遠くにぼんやり佇む、一眼レフカメラから、
バシッというシャッター音がかすかに聞こえた気がした。




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