【ミリマス】木下ひなた「潜移暗化」

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175 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:50:12.23 ID:V6x1Fopt0


あたしが書類をカバンに入れて
事務所を出ていく時もそのプロデューサーは、
パソコンの前で一人作業に集中しているようだった。

あたしとの打ち合わせは
タバコ休憩よりも大事なことではないようだ。

次のレッスンは1週間後、
そのあとは2週間も間が空く。

バイトもしないと家賃が払えないし、困ったなぁ。

176 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:51:14.47 ID:V6x1Fopt0

翌日。

そんなことを思いながら
レッスンが始まる前に、
あたしは動画と音声のファイルに名前を付けた。

パソコンを扱うのもだいぶ慣れてきた。
まだまだ難しいソフトが入れられないし、
ウイルスとかも怖いから
なるべくオフラインのまま使っている作業用の道具になっている。

それから、自宅でまずは音声で歌よりもまず踊りに取りかかった。
動画の再生と停止を繰り返し押しながら、一つずつ覚えていく。
この作業は楽しい。
黙々と身体に覚えていってもらう。

177 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:52:03.40 ID:V6x1Fopt0


パソコンをいじくり回す内に0.5倍速なるものを見つけ、
速度を変更することを覚えた。

これで何度も押していた再生停止ボタンは押さなくてよくなる。

ゆっくりの画面の動きとシンクロさせるように同じように動く。
10回20回繰り返し、等倍に戻し、また10回20回繰り返し踊る。

フローリングに汗の水溜まりの出来損ないみたいなのが出来ていた。
あたしはそれを踏んで滑って転びそうになる。

そして、ようやく自分が熱中して
やり過ぎていたことに気が付くのだった。
178 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:52:40.67 ID:V6x1Fopt0


時計を見るとバイトに行く時間になっていた。

あたしはシャワーをばーっと浴びて、
汗を流すとタオルで乱暴に水気を拭いた。
タオルは洗濯機に放り込んだ。

あたしは、そのまま荷物を一気にまとめて、家を飛び出す。

冬の風が顔にも目にも染みる。
走るなかで、頭の中で曲を流す。

街の街道をステージに見立てて、走り抜ける。
街灯はあたしを照らすスポットライトなんだ。

179 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:53:08.22 ID:V6x1Fopt0


駅まで猛ダッシュしたせいで、
電車内は今度は逆に暑くなっていた。

そのせいで少し汗をかいてしまった。
今から風邪なんて引かないようにしないと。

ドッグカフェに着くと、店長も桃山さんも
慌ただしく何かの準備していた。
なんだろう? お客さんのイベントかな?


「木下さん! 改めておめでとう〜」

180 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:53:54.89 ID:V6x1Fopt0


バックヤードでエプロンを付けているところに、
コンビニで買ったであろうチョコレートケーキを
桃山さんが運でくる。

ケーキの容器の蓋にはセロテープで
メッセージカードがくっついている。

店長の達筆な文字で
「アイドル木下ひなたの育った店!」と書かれている。

「アイドルの親友!桃山!」と店長の文字がデカいせいで
こっちは小さく書かれている。
この場所は、こんなにも温かいんだ。


「ちょっと、お化粧直してもいいですか」

「うん、ダイジョブ。今日はお客さんも居ないし」
181 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:54:39.33 ID:V6x1Fopt0
  

来た時にバタバタしていたのは、
あたしのためだったんだ。
別にいいのに……。

でも、全然嫌な気はしないや。
嬉しいって、こういう感じだったなぁ。そういえば。

お店でレジ打ちをしている時に、奥から2人の声が聞こえてくる。

182 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:55:50.86 ID:V6x1Fopt0


「大成功でしたね」

「うん。喜んでくれて良かったよ。
 それもこれも、エリカさんが提案してくれたおかげだね」

「え〜、そんなことないですよ〜」

チクリ。
あれ? なんだろう今の感情の動きは。
2人が仲良くしているから?
 いや、それはいつもの光景だよね。

でも、なんだか、いつもよりも二人が
イチャイチャというか……ベタベタしてる気がする。

あたしはなるべく考えないように、満面の笑みで接客対応をする。
足元に来る、一匹のチワワをこれでもかというくらいに撫で回し甘やかす。
183 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:56:21.72 ID:V6x1Fopt0


「ああ、木下さん。今日も暇だねえ」

バックヤードから出てきた店長が
コロコロ転がすタイプの
粘着カーペットクリーナーを両手に持って出てくる。

それをあたしは一つ受け取りながら言う。

「店長がそれ言ったらマズいと思いますよ」

「ははは、そうだねえ。そうだ。レッスンとかで忙しくなりそう?」
184 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:59:04.22 ID:V6x1Fopt0


あたしは「うーん」と言いながら、
毛だらけの店長の肩、背中をコロコロしだす。

店長の肩を掴んで回す。
店長はされるがままに正面を振り向き、
身体の前をコロコロされていく。

ひょろ長い店長は身体まで薄いから、
力強く押すとそのまま後ろによろけてしまう。


「なんだかレッスンの時間自体があまりないみたいで。
 だから逆に空いた時間はシフトは増やせそうです」

「へえ! そうなんだ。まあ、休憩中、
 裏で邪魔にならないように踊るとかなら全然いいから。
 僕もエリカちゃんもサポートするよ」

チクリ。
あ、そうか。「木下さん」と「エリカちゃん」なんだ。
このモヤモヤの正体はこれかぁ。
185 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 20:59:42.23 ID:V6x1Fopt0

確かにあたしは、
なんとなく桃山さんのことを最初に
桃山さんと呼んでいたせいで、
仲良くなってきてからもそれが抜け出せないんだ。

でも、別にこんな名前の呼び方で
モヤモヤする必要なんて無いのに。
なんでだろう。
186 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:01:20.07 ID:V6x1Fopt0

……。

いや、本当は気がついているんだ。
たぶん、あたしはこのひょろ長い
店長のことが好きなんだ。……たぶん。


惚れた腫れたの色恋沙汰なんて、
今まで経験したことなかったし、
ドラマで見ても、映画で見ても

「そっかぁ、素敵なお話だなぁ」

なんてことしか思わなかったのに。
いざ、自分に降りかかるとこんなにも辛いんだ。

187 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:02:48.00 ID:V6x1Fopt0


しかも、きっとあたしの方には振り向いてもらえない
──たぶん、店長は桃山さんの方が好き──
ということが分かっているのに。


自分でも嫌になる。
告白し、玉砕するでもないのに、
諦めようとも出来ずにいる。

あたしはただ、この思いを抱えたまま
ずるずる引きずって歩こうという覚悟を、既にしている。

188 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:03:26.17 ID:V6x1Fopt0


目の前から店長もお客さんも居なくなると、
小さく頭を振って雑念をかき消す。

どうして、好きになったのかなんて、
理由が特に思いつかないのがなんとも言えない。

でも、本当にいい人だからこそ、
嫌いになんてなりきることは出来ない。

まあ、人を好きになるって、
きっとそういうものなんだと思う。
というのは何となくだけど分かる。

いや、理由なんか要らないし、
理由なんて結局探しても無い、
って昔事務所で誰かが言っていたかも。

189 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:03:58.91 ID:V6x1Fopt0


ああ、いけない。
また考えてしまう。

あたしはまた少し頭を振る。

でも、結局この日は、
あまり仕事に集中が出来ないままだった。

大きなミスをしたり、
そういうのは無かったから良かったけど。

190 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:04:34.27 ID:V6x1Fopt0


モヤモヤを抱えたまま、
あたしは自主練とレッスンに挑むこととなった。


久しぶりに会う765プロシアターのメンバーもいれば、
あたしが知らないような女の子まで入り乱れる
大所帯のレッスンになっていた。

どれだけの女の子がステージに立つライブになるのだろう。

191 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:05:09.79 ID:V6x1Fopt0


そして、あたしはどれだけ期待されていた
女の子の穴埋めをしなければいけないのだろうか。

いや、たぶんその穴埋めのポジションには、
今の有力な子がそのポジションに付くんだろう。

それで、連鎖的に繰り上げされていって、
あたしは結局隅っこになる。

そんなのは分かっている。

192 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:05:45.69 ID:V6x1Fopt0


それでも、ステージに立つ、ということを、
このレッスンの休憩中に談笑している女の子たちの中の
誰よりも、大事に思っているのはあたしだと強く思う。

勿論、古くから知っているメンバー達は、
そういうまるで昔のあたしのような慢心を抱えている子は居ない。

193 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:06:28.12 ID:V6x1Fopt0


あたしは、あえて顔なじみの女の子たちとは
あまり話さないようにしていた。

空気を察したのか、レッスンを重ねていくごとに、
話しかけれる回数は減っていく。

そして、当然あたしのことを知らない、
あたしも知らない子には無駄に話しかけたりはしない。

振り付けの中で
隣の女の子と向かい合って手を合わせて、
みたいな振りがある時は、ちゃんと話をする。

話、と言うか、確認作業と言うべきだろうか。
事務的な内容だった。

194 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:07:07.57 ID:V6x1Fopt0


知っているメンバーには、横山奈緒も、エミリーも居た。


そして、ライブのセンターを飾るのは田中琴葉。
そのサイドには所恵美、島原エレナが両脇を固めている。


他にもレッスンに来ている、知っているメンバーはたくさん居る。
みんな、今度のライブに出る子たちだ。

195 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:09:09.05 ID:V6x1Fopt0


テレビでも見かける子達が多い中で、
特に田中琴葉は連日のドラマに
出演していたりもするし、大忙しなはず。

現に初回のレッスンは不在だった。


それなのに、初めてレッスンに顔を出して、
全体で合わせた時、
まるで最初のレッスンから居たかのような仕上がりだった。

いや、そんな生易しいものじゃなかった。

まるで、完成形をすでに知っているかのようだった。

196 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:10:14.80 ID:V6x1Fopt0


あたしはそれを端っこで見た時、
ただ、唇を噛むだけだった。

そして、
もし自分があの立場だったら出来ているだろうか、
という情けない妄想に蝕まれる。

まだ、
まだ足りないのだろうか。
遅れた分の負債もう支払い終わったと思っていた。

でも、まだ足りない。

足りないものはなんだ……。

197 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:11:14.58 ID:V6x1Fopt0


あたしは、寝る時間を削って、自主練に励んだ。


だけど、そうじゃなかった。
そういうことじゃなかった。



ある時、
田中琴葉と二人になる時があったので
思い切って聞いてみることにした。

それは5月だというのに、
一足早い梅雨の湿気と湿度で蒸し暑い、
最悪の雨の日だった。


どうして、田中琴葉にあって、自分に無い。
そんな誰も答えを教えてくれない
あるなしクイズを強いられていた。
気が滅入る。

198 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:12:34.55 ID:V6x1Fopt0


一人で強がっていても仕方ない。
情けなくても泥臭くても、頼れるものには頼って
自分の力になるものは何でも吸収しようと思っていた。

それに、面倒見のいい田中琴葉のことだから、
こういう質問をした時に、
無下にはできないことをあたしは知っている。

家から電車に乗って、
レッスンスタジオに向かう時に
降りたホームでばったりと出くわした時のこと。

一つ隣のドアから降りてきた田中琴葉とバッチリ目があった。

199 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:13:01.77 ID:V6x1Fopt0

帽子を目深に被って、マスクもしているのに、
目があった時、にっこりと微笑みながら小さく手を降ってきた。

あたしもそれに応えるように小さく手を降った。

「今日もレッスン頑張ろうね」

「うん。ありがとう。ドラマ、面白いね」

「あー、見てくれてるんだ。ありがとう」

「うん、すごく面白いと思う」

200 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:14:04.32 ID:V6x1Fopt0


演技の勉強も必要かと思って
たまたま見たドラマに、
途中からレギュラーとして追加されたのが田中琴葉だった。

内容的にはかなり強引な加入だったので、
テコ入れというか、事務所のゴリ押しというのが透けて見えた。

あたしは、田中琴葉の反応を見て、
なんだかまるで

「メインどころではない出演ドラマを褒めてくる嫌味な奴」

になっていないか心配になる。
201 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:14:48.03 ID:V6x1Fopt0


駅の階段を二人並んで降りていく。
階段の照明は私の側だけ、
チカチカと消えかかっている。

「レッスン、あんまり来れないのに、ダンスも歌も完璧ですごいね」

「本当? ありがとう」

まるで、嫌味のような
あたしの薄っぺらい褒め言葉に
ニコリと笑う田中琴葉に、
何故か自分が傷ついている。

もう少し言い方はなかったのか。馬鹿者め。
妄想の自分が、自分の頭をポカリと殴る。

202 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:15:32.70 ID:V6x1Fopt0


「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」


そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。

あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。

いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。

203 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:16:38.34 ID:V6x1Fopt0


「でも、ひなたちゃんも凄いよ。
今回は……その、久しぶりのライブだから端っこだけど、
本当に存在感がすごい。私も飲まれないように必死で」


そう言いながら、自傷気味に笑ってみせた。

あたしは心の中で
「端っこの癖にでしゃばるな」
という嫌味ではないことを神に祈る。

いや、たぶん違うよね。
なんか一生懸命言葉を選んでいたもの。

204 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:17:47.88 ID:V6x1Fopt0


「あたしも、琴葉ちゃんの表現力にずっと惹かれてて……。
 センターに立っていて、本当に輝いて見えるんだよね。
 どういう気持ちで、踊ったり歌ったりしてるの?」


改札を出ると、外は雨が降っていた。

田中琴葉は「うーん」と言いながらピンクの折りたたみ傘を取り出す。
あたしは、 手に持っていたビニール傘を差す。

雨が降るのは、気圧とか湿度の感じで、
朝の段階には何となく分かっていた。

205 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:18:24.52 ID:V6x1Fopt0


少し歩いたあと、田中琴葉は静かに言った。


「私ね、今度、引退するんだ」

「……」

あたしは何も返せなかった。

「そうなんだ」「どうして?」とも聞けずに、
次の田中琴葉の言葉を待つ。
206 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:19:04.56 ID:V6x1Fopt0


「これはまだ秘密なんだけれど、
 実はプロポーズをされていて……。
 それを受けようと思うの」


田中琴葉は、
昔シアターで一緒に居た頃は、
18歳で、それでも大人びた真面目な学級委員みたいな子だった。

あたしが今は19歳だから、
この子も、今は23歳……。
早い気はするけれど、そういうものなのだろうか。

プロポーズをされている。
つまり、付き合っている彼が居て、その彼にされたんだ。
それで、結婚をするからアイドルを引退。

207 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:19:46.48 ID:V6x1Fopt0


これが、あの真面目だった18歳の女の子が選んだ、
アイドルのゴールなんだろうか。

それとも、元から出会いのために始めたアイドルなのだろうか。
いや、それは彼女の性格を考えると無いか。

よっぽど、この人と結ばれたい、
と心惹かれる異性と出会って、
素敵な恋をしていたんだろう。


あたしは、この時、ザーザーと雨が降る中で、
雷に打たれたように合点がいく。

そうか。
やっと、分かった。

208 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:20:19.32 ID:V6x1Fopt0


のうのうと今まで生きていたあたしと、
この田中琴葉は違う。

色んなものを吸収して、
取り入れて、たくさんの経験を積んできたんだ。

親友2人に恵まれて、
ドラマみたいな素敵な恋をして、
たくさんの感情を動かしてきたんだ。


この人とあたしは、
人生経験の厚みがまるで違う……。

恋か……。
209 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:20:53.12 ID:V6x1Fopt0


夜景の素敵なレストランで食事はしたのだろうか。

深夜の高速道路をドライブしたのだろうか。

雨の日は一日中、家でDVDを見たりしたのだろうか。

どこでファーストキスを終えたのだろうか。

それはどんなシチュエーションだったのだろうか。



「ひなたちゃん?」

「……。……すごいね、おめでとう!」

210 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:21:59.77 ID:V6x1Fopt0


あたしは気がついたら足が止まっていた。

振り向いた田中琴葉に、
呼びかけられて、
誤魔化すように絞り出した
お祝いの言葉を発する。

下衆の勘繰りが伝わってないことを願う。


風が吹いて、雨が顔にかかる。
まるで、あたしの枯れた涙が
空から飛んできたみたいだ。



この日、あたしは、
死んだ魚のような目で、
レッスンに打ち込んだ。

211 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:23:16.98 ID:V6x1Fopt0


どうやったら追いつけるんだ、
こんな、アイドルの素質しかないバケモノに。

あたしがやっとの思いでスタート地点に戻ってこれたというのに。
それが今、ゴールを決めようとしている。

この、真面目すぎる委員長みたいなアイドルが選んだ、ゴールを。

そのゴールは、きっと正しくて、
きっと美しく、きっと素敵で、
誰もが羨む、最高のゴールラインなんだろうなぁ……。



そして、この日、
レッスンで上手く行かない箇所が積み重なり、
あたしは人生で初めて「ちくしょう」と声を荒げた。





212 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:24:13.22 ID:V6x1Fopt0



第5章 誰か助けて





田中琴葉のパフォーマンスの秘訣を知ってから、数ヶ月が過ぎた。
悶々とする日々が続く。

幕張で開催されるという、
あたしが久しぶりに出演するライブまで、あと一週間。


今日は7月4日。
あたしの20回目の誕生日だ。

213 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:26:32.84 ID:V6x1Fopt0


もう、すっかり夏になってしまった。
いくら田舎の出身だからって、エアコン無しじゃ
このコンクリートジャングルは生きていけない。

昼頃にバイト先のドッグカフェに入ると、
店長がレジのカウンターで、半目で船を漕いでいた。

店内には誰もお客さんは居なかった。
いいのだろうか、これで。
それにしても、寝顔、面白いな。

214 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:27:17.28 ID:V6x1Fopt0


あたしは何も考えずに、
すーっとスマホに手を伸ばし、
店長の顔をアップで写真に収める。

思わず「ふふ」と声が出てしまう。
バックヤードから桃山さんが出てくる。

「あ、見てみて」

あたしは桃山さんを呼び止め、今撮った写真を見せる。

桃山さんはそれを見ると「ぷっ」と吹き出すが、
目の前にいる店長を起こさないように、口を抑える。

それから桃山さんも同じようにスマホを構えて、写真を撮った。

あたしは桃山さんの横を抜け、
バックヤードでエプロンを付けようと支度をする。

215 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:28:05.44 ID:V6x1Fopt0


あ、そうだ。

あと一週間でライブだけど、
二人は来れるようになったのかな。

あたしは、一応二人に予定は聞いていた。

ただ……あたしは誰かを招待する、
とか招待席が用意できるようなアイドルじゃないので、
二人には自力でチケットを取ってもらうように頭を下げた。

216 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:28:37.39 ID:V6x1Fopt0

二人はあたしの事情は知っているので
「まあ、仕方ないよね」と納得して、

「取れるように頑張ってWEB先行申し込み頑張るよ!」

と言っていた。


「桃山さん、ライブの予定だけど」

「えっ!? 何!?」

あたしが、バックヤードから顔を出すと、バッと直立する桃山さん。
桃山さんは店長の顔を覗き込むようにしていたけど。

217 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:29:25.64 ID:V6x1Fopt0



今、何をしていたの……?



「あ、ライブ一週間後なんだけど、……どうだった?」

「あー、あー、うん。
 えっと、あ、そうだ。店長取れてたっけ……」



あたしは不自然に動揺する桃山さんのことを考えるのを
一旦保留にして、桃山さんが店長が起こすのを待つ。
218 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:29:55.95 ID:V6x1Fopt0


それから寝ぼけた調子の店長を、
二人で盛大に責め立てるのだった。

不用心だし、営業中にたるんでいるとか。


まあ、責め立てる、というか二人して

「何やってるんですか〜もう〜」

というような、からかう感じだった。

219 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:31:05.79 ID:V6x1Fopt0


「え? ライブ? ああ、そうだ。取れたんだよそれが」

「ええ!? 本当ですか!?」

「店長張り切っちゃって」

そっか。店長、頑張ってチケット取ってくれたんだ。
胸の奥が少し暖かくなる。

220 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:31:56.25 ID:V6x1Fopt0


でも、あたしは、その会話の中でもずっと、
さっきのは何だったのだろう。

本当は何をしていたのだろう。
そういうのが気になって仕方なかった。

そのあとは、
元々あった二人に対しての
モヤモヤした感情を引きずりながら、
仕事に没頭しようとするが、
まあ、元々そこまで人が出入りするような店ではないので、
暇な時は異常なくらい暇になる。

タイミング悪く、今日はそういう日だった。

221 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:32:29.67 ID:V6x1Fopt0


そう思う必要なんて何もないのに、
あたしは今日が暇であることがタイミングが悪いと思ってしまった。

暇であればあるほど、
余計なことを考えることが多い。

予約で来るお客さんも居れば
飛び込みで来るお客さんもいるけれど、
今日はそういう人たちは居ない。

ため息が出てしまう。
最近、また増えてきたなぁ。

222 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:33:17.07 ID:V6x1Fopt0


まあ、こんな猛暑の中に、
生きた動物と触れ合おうという奇特な人はそうそういない。

なんて言ったって生きている動物たちは
それなりに体温があるから、囲まれると暑い。

店内は冷房も効かせているけれど、
それでも暑いものは暑い。

それに動物たちは考えることが
分からない時がある。
特に小さくて若い子犬の時ほど。

223 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:34:08.99 ID:V6x1Fopt0


時間を持て余したあたしは
客が居ないのを良いことに、
子犬たちと戯れている。

わざと、店長と桃山さんから距離を置いている。

二人はそんなあたしのことなどつゆ知らず。
あたしが出るライブの楽曲の予習をしているようで
二人で鼻歌を歌ったり、コールを入れたり、覚えたりしている。

その姿は本当に自由だなぁ、
とも、仕事をしなよ、とも思う。

まあ、子犬たちと戯れている
あたしが言えることではないから黙っているけれど。

224 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:34:42.64 ID:V6x1Fopt0


店長はあたしの思いも知らず、
関係なく、あたしの方にも来る。


「この曲ってやるかなぁ?」

「答えられないですよ」

「やっぱり?」


その二言三言のやり取りのあとに、
店長は「だめだった〜」と戻っていく。

225 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:35:19.80 ID:V6x1Fopt0


桃山さんとどういうやり取りをしているのかは
分からないけれど、悪口じゃないのはなんとなく分かる。

二人がヘラヘラ笑い合って
冗談を言い合っている様子も、
別にあたしのことを馬鹿にしている笑い方ではない。

あたしはそういうのは、なんとなく気がつくようになっていた。
そして、たいていそういうのは当たっている。

なんというか、微笑ましい感じだった。

226 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:35:47.65 ID:V6x1Fopt0


あたしは、子犬と戯れるのをやめて、
バックヤードで振り付けの確認をする。

音楽はBluetoothのイヤホンを使っているから、
覗きに来る店長や桃山さんに
どの曲を踊っているのか分からないようにしている。

二人には最大限にライブを楽しんでもらいたいから、
こんなところでネタバレなんて無い方が良い。

227 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:36:25.98 ID:V6x1Fopt0


「木下さん、今度のライブはね、
 このあたりなんだけど、どんな感じに見えるかな?」


そう言いながら、
店長は幕張のイベントホールの座席表を見せてくる。

この辺だと、確かステージは逆側だから、
かなり遠くになりそうだなぁ。

大きなモニターはあるにしても、
実際はあたしは端っこだし、
メインどころではないので、
大きなモニターに映し出されることもとても少ないだろう。


「ここだと、……うーん」

228 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:37:26.19 ID:V6x1Fopt0


あたしは、遠いし、
見えづらいというのは分かった上で渋い反応をする。

店長はそれを聞くと「ちょっと遠そうだよね」と言う。
あたしもそれに対して「うん」と、
独り言のように呟く。


「店長は他のアーティストさんとかで
 ライブに行く時は望遠鏡とか持っていったりするんですか?」

「いや、しないね。あ、もしかして、
そういうの買っておいたほうがいいのかな?」

「もしかしたら、買っておいた方がいいかもしれないですよ。
 それに、結構見える位置だとしても
 買っておいて損はないと思いますよ」

229 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:38:04.85 ID:V6x1Fopt0


店長は「そっかぁ」と呟く。
そういうのは店長よりも
若い桃山さんの方が詳しいかもしれない。


「桃山さんに聞いてみたらどうですか?」

「そっか。あとで聞いてみるよ。
 今、ちょっと用事を頼んで、
 郵便局まで行ってきてもらってるんだ」

「そうですか」

と言い切ったあとに、
二人きりになってしまったことを知る。

そして、ぽっぽっと身体が熱くなっていくのが分かる。
230 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:38:49.24 ID:V6x1Fopt0



──あたしのこの気持ちを伝えるのは今なのだろうか。


ふと、急にそんなことを思ってしまった。

いい加減、このモヤモヤを晴らしたい。
でも、きっとフラれることは分かっている。

フラれたとしても、
このあとのあたしと店長の関係性とか、
気まずさとか、そういうのどうするんだろう。

色んなものを壊す覚悟で、
この思いを告白するのだろうか。

それは、あまりにもリスクがある。
231 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:39:19.37 ID:V6x1Fopt0


あたしは少なくとも、
この3人の関係性というのは好きでいる。

ただ、誤算があるとしたら、
あたし自身も店長のことを好きであるということ。


それに、そういう一人の女性としての恋を抱く前に、
あたしはアイドルとして売り出していかないといけないんだ。
少し時間が経ってしまったせいで忘れかけていたけれど。

232 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:40:07.54 ID:V6x1Fopt0


こんな生半可な覚悟じゃ、
他の真剣なアイドルにまた置いていかれてしまう。

恋は盲目だと言うけれど、
それが急に冷めてしまった。

まるで自分が何故ここに居るのかすら
分からないくらいに、
目が覚める感覚に襲われる。

アイドルの仕事だって、
恋愛禁止とは765プロは言わないまでにしても
「バレるなよ」という暗黙のルールが強いられているのは分かる。

何人かそれで消えていったというのを風の噂で聞いている。
233 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:40:47.06 ID:V6x1Fopt0


あたしはファンを裏切ることになるのだろうか。
人を好きになることが、
誰かを裏切ることになるのか。

じゃあ、あのプロポーズされて
浮かれポンチになった、
あの真面目だったアイドルはどうなんだ。

あたしはこんなにうじうじ悩んでいて、
恋愛だか何だか分からない
このやり場の無い感情の群れに
頭を抱えているのに。

そう思うと腸が煮えくり返るようだった。

234 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:41:22.60 ID:V6x1Fopt0


でも、こんなことを考えるのも、
全部この店長とかいう人間に
目が行ってしまうのが原因なんだろう。

だから、あたしは、
半ば嫌がらせのつもりで言ってやった。

店長に八つ当たりするような言い方で、
自分の尻も蹴飛ばす。


「店長、桃山さんのこと好きですよね」

235 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:42:01.85 ID:V6x1Fopt0


あたしはついに切り込んだ。

自らの腹を切り捌くというのは
こういう気分なのだろうか。

体の中の臓物が
あちこちにねじれる感覚がする。


「て、何を……いやいや。
 僕もう結構おじさんなんだよ」

「でも、見てたら分かりますよ」
236 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:43:01.79 ID:V6x1Fopt0


この店長の反応は”クロ”だった。
そう思った瞬間に、
誰かがあたしの頭上から
脳天目掛けてタライを落としたような気がした。

ガーンとぶつかって、
ぐわんぐわんと頭の中を響かせてシンとする。


「まあ、良い子だとは思うけれどね」

「あたし、次のライブが終わるタイミングで、
 ここ、辞めようと思います」

「えっ?」

237 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:43:33.14 ID:V6x1Fopt0


時間にしてほんの5秒くらいだろうけれど、
あたしにはこの一瞬の沈黙が、
世界の時間ごと止めたかのように感じた。

嗚呼、言ってしまった。

もう後悔し始めている。
告白したいことはそんなことではなかったけれど。

こんな辞めるなんて計画は
自分の中には全く無かったのに、
言ってしまった。
238 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:44:16.71 ID:V6x1Fopt0

「そうなのかい?
 もうそんなに忙しくなってきているの?」


店長は少し焦ったように言う。

辞めようと思う。というのは、
今この瞬間に決めた。

でも、あたしはここでの居心地の良いバイト生活を
気に入りすぎてしまった。

だから、あたしはこの場所に甘えるようになってしまっている。

239 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:44:59.32 ID:V6x1Fopt0


きっと、アイドルの方が駄目だった時、
ずるずるとこの居場所に引きずられるようになる。

だから、逃げ場所を断ち切るんだ。


「だから、あたしが居なくなっても……
 桃山さんのことよろしくお願いしますね」

「……うん。分かったよ」

240 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:45:28.31 ID:V6x1Fopt0


店長はいつもの、
ほわほわした雰囲気のままだが、
キリッとした目つきになり、言う。

あたしはその顔が
少し滑稽に見えて笑ってしまった。

店長は「どうして笑うんだい」と言うが、
すぐに一緒になって笑っていた。
241 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:46:14.08 ID:V6x1Fopt0
  
そこに桃山さんが戻ってくる。

あたしと店長は「え? なになに?」と聞かれても、
「何でもないよ」と答えるだけだった。

その仲間はずれ感に、
桃山さんが拗ねる前にあたしは自分がバイトを辞めるということを伝えた。

桃山さんは当然のように
「じゃあ、お別れ会しないとね!」
と、そう言った。
242 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:46:50.53 ID:V6x1Fopt0


その日の休憩時間に、
あたしのところにやってきた桃山さんがコソコソと言う。

半笑いの顔で聞いてくるので、
何をからかってくるのか、
と少しだけ身構えてしまう。


「ねえ、さっき、店長とほんとはどんな話してたの?」

「え? ああ、えっと、本当にあたしが辞めるんですって話だよ」

「そうなの? 木下さん、店長に告白でもしたのかと思った」

243 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:47:20.96 ID:V6x1Fopt0


あたしは、休憩時間のために
買っていたお水を吹き出しそうになる。


「げほげほっ、ち、しないよ。どうして!?」

「だって、好きでしょ?」


あれ、何か違和感がある。

でもその違和感には気が付かないフリをして、
あたしはオウム返しのように聞き返す。
244 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:50:08.75 ID:V6x1Fopt0


「桃山さんこそ、店長のこと好きでしょ?」

「え、あたし? 無い無い。
 人としては好きだけど、
 同い年だったらお友達って感じだと思うよ」


そう言いながら、ヘラヘラと否定するように手を振る。

あれ……。
何か色んな余計なことをしてしまったかもしれない。

どうしよう。

自分が勝手に抱えたショックを隠すのに、
あたしは絞り出すように必要のない嘘をついた。

245 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:50:43.69 ID:V6x1Fopt0


「そっか。あたしも……同じだよ。
 人としてすごく尊敬する。
 あんなに優しい大人もそう居ないもの」


あたしはまた自分で言った言葉が何かに跳ね返り、
自分に突き刺さる感覚を覚える。

桃山さんは「なにそれ」と笑ってみせた。
あたしの吐いた嘘を見透かしているようだった。

246 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:51:36.69 ID:V6x1Fopt0

「でも、寂しくなるなぁ……ずっと一緒だったもんね」

「うん、……そうだよね。
 あたし、桃山さんとは本当に……その」

「ん?」

「友達になれたなって思う」


言えた。

こんな気持ち、
本当は迷惑かもしれないということは分かっていた。
でも、確認したくて、言ってしまった。
247 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:10.40 ID:V6x1Fopt0


「うん、ありがとう!」


桃山さんは笑うだけで「私も」とは言ってくれなかった。


でも、もうこのバイトは辞めてしまうんだ。
どうでもいい。

きっと多くを求めすぎているんだと思う。
だから別にいいんだ。

別にいい、そう自分に言い聞かせる。

248 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:52:44.70 ID:V6x1Fopt0


桃山さんは休憩時間でもないのに、
近くにある椅子に座る。

そして、ため息まじりに言う。

「そっか……。私もやめよっかなぁ」

あたしは分かっているのに、聞いてしまった。


「辞める?」

「ここ」

このバイト先を、桃山さんも辞めると、そう言い出した。
249 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:53:32.80 ID:V6x1Fopt0


……。

続けた方が良いなんて、
死んでも言えなかった。
自分の方が先に辞めて行く癖に。


あたしはどうしようもなく、
「そっかぁ」と情けない声を出した。

苦し紛れに「帰ってきた時、
2人が居ないと寂しいよ」と言ってみた。

しかし、桃山さんはあたしの膝のあたりを
ペチンと柔く叩き、ピシャリと言った。

250 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:14.50 ID:V6x1Fopt0


「帰ってくるなんて言わない」

「……はいっ」

あたしは反射的に答えてしまう。
ここは、私と店長の愛の巣になるのだから、
帰ってくるなとか、そういうことを言ってるのかと一瞬だけ勘ぐる。

桃山さんはいつものニコニコした表情から一変して、
怒っていた。
251 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:54:48.17 ID:V6x1Fopt0


「木下さん、ここに戻ってきたり
 出来ないように辞めるんでしょう?」


ドキッとした。

違う。ギクリ、とした。
バレていたんだ。

この場所からも逃げようとしていることも
きっとバレているんだろうな。

そんなに顔に出やすいのかなぁ。
もっと演技の勉強をしないとダメかな。
252 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:55:20.17 ID:V6x1Fopt0


しかし、あたしが辞めて、
桃山さんが辞めてしまったら
このお店はどうなるんだろう。

別に他にもバイトの人は
居るから大丈夫だと思うけど、
特に良くシフト入れていた桃山さんが
辞めるというのが心配だ。

253 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:04.31 ID:V6x1Fopt0


でも、店長のことを顔覗き込んで何かしていたよね。
あれはなんだったんだろう。

ただの、勘違い……? 
それとも、桃山さんも自分の感情に
蓋をするように嘘を付いてる?

まあ……それは、この店に遊びに来れば分かることか。


「おーい、木下さーん、ちょっといいかなぁ?」

店内の方から店長の呼ぶ声がする。

254 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:56:35.22 ID:V6x1Fopt0

あたしは、桃山さんの方に
「あたし、頑張るよ」と言ってから、
そっちに向かう。
桃山さんは笑顔で頷くだけだった。



その日、帰り道、
夏の夜の下を一人歩いて帰る。


あと、数回のバイトが残っているけれど、
あの場所にあたしはもう帰らないんだ。

255 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:02.60 ID:V6x1Fopt0


これで良かった。

悔いもあるし、
もしかしたらあのまま店長に
自分の思いを打ち明けていれば
自体は大きく変わったのだろうか。

もし、あの時、
桃山さんが辞めると言うのを止めていたら、
何か変わっていたのか。

結構シフト入ってる桃山さんが辞めてしまったら、
お店はどうなるのだろうか。

お店がなくなる、
ということは無いとは思うけど、心配だ。

256 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:58:29.94 ID:V6x1Fopt0


でも、そんな心配はするけれど、
店長は結局、あたしのことなんて好きじゃなかった。

いや、きっとLIKEでは居てくれてる。
LOVEには決してならないだけということ。

これだけはハッキリと分かった。
やっとモヤモヤが晴れるのかな。

257 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:03.75 ID:V6x1Fopt0


そう考えた時に、
またあたしは気がついてしまう。

暗い夜道の街頭の灯りに照らされながら。
あたし、また一人ぼっちになるのか。

でも、今度のこれは
自分で選んだことだから良いんだ。

何度もそう自分に言い聞かせながら、
とぼとぼと家に向かって歩いていく。


「あ、……誕生日」

258 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 21:59:49.10 ID:V6x1Fopt0

今日一日のことを
振り返っていて思い出した。

バイトに行く時には、
もしかしたら桃山さんが
何かサプライズを用意しているかもしれない、
とか考えていた。

でも、別によく考えたら、
桃山さんはあたしの誕生日を知っていたのだろうか。

知らないとしたら、何も悪くないし、
知っていたとしても、
こんな祝って欲しい感じを丸出しにした
厚かましい人を祝いたくなんてないだろう。

259 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:23.72 ID:V6x1Fopt0

そうだ。あたし、もう20歳なんだ。
お酒だって買えるぞ。

自宅付近のコンビニに寄って、
スイーツのコーナーを見る。

空っぽの棚に、
ちょこんと一個だけ生クリームの乗ったプリンがあった。

あたしはそれを手に取り、
そして、お酒コーナーで
ほろ酔いのカルピスサワーをレジに持っていく。

260 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:00:58.77 ID:V6x1Fopt0


深夜のダルそうな若いお兄さんは
あたしのことをチラリと睨むように見ると、
無愛想に金額を伝えてくる。

あたしはさっと千円札を出し、払い終える。

化粧や髪型の研究とか重ねた成果は出ているのだろうか。
と疑わしくなるくらい、店員のお兄さんはあたしを見てくる。

商品を袋詰され、
受け取るとあたしは足早にコンビニを出る。
261 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:01:27.87 ID:V6x1Fopt0


そのまま、速歩きで自宅まで駆け込んだ。
真っ暗の部屋は蒸し暑く、
すぐにエアコンを付ける。
服を脱いで、シャワーを浴びる。


初めてお酒を買った。
それだけでウキウキだった。

262 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:06.24 ID:V6x1Fopt0


火照った身体で、
お待ちかねの初めてのお酒。
先にプリンを開ける。


そして、カルピスサワーを開ける。
プシッと炭酸の弾ける音がする。

ふわっと香る甘い香りを前に、
クラクラする。

263 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:02:43.68 ID:V6x1Fopt0


「いただきます」

カルピスサワーを一口。
……。

普通にペットボトルで売ってる
お酒じゃないものと味が変わらない。

と思うのも束の間、
身体がどんどん熱くなる。
264 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:12.50 ID:V6x1Fopt0

ほぅっ、と息を付くと、顔も熱いのが分かる。

それからあたしは、
プリンを一口食べた。甘い。

なんて甘いんだろう。
美味しいなぁ。

美味しいなぁ。

「あ、そうだった」

265 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:03:40.60 ID:V6x1Fopt0

プラスチックの小さなスプーンを
マイク代わりにする。
今日のことが思い出される。

「ハッピバースデートゥーユー」


店長はあたしのことなんて好きじゃなかった。
フラレずに済んだ。
良かったじゃないか。

266 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:09.60 ID:V6x1Fopt0


「ハッピバースデートゥーユー……」


もう店には戻れない。
あたしが自分でそうしたんだから。


「ハッピバースデーディア……あたし〜」

267 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:04:42.60 ID:V6x1Fopt0


店長のこと、好きだったんだなぁ……。

でも、この思いは叶うことはない。

まだ少しだけバイト出る日は残されているけど、
あたしは叶わない想いを抱いて、
叶わない恋をする店長を
応援する振りをしないといけないのか。

それはしんどいなぁ。

268 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:05:25.99 ID:V6x1Fopt0


「ハッピバースデー……トゥーユー……」

一人暮らしの小さな部屋に、
あたしの震える声が響く。

目の前にある液晶テレビは、
つけないから真っ黒で、
その画面が反射させてあたしを映し出す。


一人ぼっちで、
初めて買ったジュースみたいな
お酒でいい気分になっちゃって、
小さいプリン一個で幸せになっている。


269 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:06:01.63 ID:V6x1Fopt0

飛んだ大馬鹿野郎だ。
なんだこいつは。

たった一人で何をやってるんだ。

自分のせいだけど、
誰も悪くないけれど。
また、あたしは一人になる……。

270 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:04.40 ID:V6x1Fopt0


20歳になる最初の夜に、
あたしは耐えきれなくて涙を流した。
もう、心が折れそうだ。

辞めたい。

帰りたい。

そう言えればどんなに楽だろうか。

誰にそれを言えばいいのだろうか。

辞めてどうするのだろうか。

どこへ帰るのか。



涙が止まらない。
本当はもう要らないのに、
もったいないからもう一口、プリンを食べる。


271 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:07:44.96 ID:V6x1Fopt0


「甘……っ」


あたしは、プリンを一気に口の中に流し込む。
ほろ酔いをガッと掴んで
いっきに喉の奥に通す。


あたしは一人ぼっちの部屋で泣いた。
何が悲しくて泣いているのかなんて分からない。

膝を抱えても涙を流しても、
部屋に響くだけで、
何も起きなかった。




「誰か助けて……」


272 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:09.69 ID:V6x1Fopt0


第6章 もうアイドルは諦めようよ






「はい、オッケーです」


ついに明日に本番を控えるライブ。
入念な会場リハが行われていた。

この頃には、田中琴葉の引退ライブでもあることが判明し、
世間は大騒ぎになっていた。

273 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:09:53.32 ID:V6x1Fopt0

チケットの倍率は跳ね上がり、
転売の価格は高騰。

ネットのあちこちで憶測にすぎない議論が飛び交う。
それに乗っかる形でマスコミは
あらぬ噂を垂れ流し、
世間はまたもそれに奔走する。


しかし、そこは田中琴葉、
そういった出どころの不明な噂はすぐに消滅する。
真相はライブで実際に語られるだろう、
ということだけが、ファンたちの頼りの綱だった。

274 : ◆BAS9sRqc3g [sage saga]:2020/10/09(金) 22:10:50.49 ID:V6x1Fopt0


そして、その一方で出演するメンバーたちは、
彼女の最後のステージになるのだから、
間違いやミスは万死に値する! 
と言い出しかねない程の熱量があった。

現場はビリビリと緊張感が走る。
一つのミスも許されない。

誰もが好きだった彼女に華を持たせるんだ。
その全員の意気込みで、
圧倒的な苦しみを産み出しながら、
本番は迫ってくる。

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