超次元偶像二宮飛鳥のセカイ

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48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:20:20.17 ID:+IqVL7Wl0

「だから、神崎ちゃんの出発はソコソコの地点からで良い。その後はどっしり構えて彼女のパフォーマンスを続ければ、自ずと登っていく。それに何より、二宮飛鳥というアイドルが引き上げてくれる」
「なんでそこでボクが……?」
「アイドル界に彗星のごとく現れた二宮飛鳥と神崎蘭子というルーキー。成熟したこの界隈は、こんな美味しい素材を放っておかない。すぐに二人は二項対立で語られるようになる。そしてその流れが、神崎ちゃんを飛鳥のいるステージまで押し上げる」
「少し、理解りかけてきた……」
「ライバルってのは同じ場所で戦うものだからな。ギリギリの綱渡りで俺たちがたどり着いたステージに、神崎ちゃんは労せず立てるようになるってわけだ」

二宮飛鳥というアイドルが北条加蓮や一ノ瀬志希の人気を利用したのと同じように、神崎蘭子というアイドルも二宮飛鳥の勢いを利用するということか。

「いや、ライバルという関係ならまだいい……」
「くっ、そうか、そういうことか!」

あくまで平凡なアイドルのボクに、蘭子のライバルなんて務まるワケがない。所謂、踏み台にされてしまう。当然蘭子自身はそんな風には思っていないだろうけど、それがあの氷女の狙いか。ほんとに性悪だな。ボクに恨みでもあるのか。

「ここだけの話。俺は普通の人には見えない物まで見えるし、これまで見てきたものも全部正確に覚えててな。その関係で、数か月くらい先までなら完璧な未来予測ができるんだ」
「…………なんて?」

なんか妙なことを言い始めたぞこの男。

「でも飛鳥と出会った頃から、何故か今日以降の未来が見えなくなっていた。やっとその理由が分かった。情報が不足していたからだ。神崎ちゃんの歌という情報がな」
「何を……言っているんだ? さっきから」
「そして今日見た情報を踏まえて、改めて予測すると…………出ましたよ、俺らの未来。これはヤバいですよ二宮さん」
「っ………何が言いたい?」
「このままいけば、俺たちはあの二人にコテンパンにやられる。そんで、引退とか左遷とかそういう感じ」
「ッ!!」

Pが何を言っているのか全然理解らなかったけど、その実にシンプルな内容には衝撃を受けた。後ろ向きな言葉をPが吐いたことはこれまでなかったから。
しかし、言い回しが少し引っかかった。

「“このままいけば”? それはどういう意味だ? このままいかなければ違うというのかい?」
「うーむ………」

Pはしばしの間、無言のまま運転を続けたが、しばらくして赤信号に捕まるとPは決心したように口を開いた。

「どうにかなる……かもしれない方法は……なくもない」
「あるのか!? じゃあそれを…っ!」
「でもなぁ………ちょっとなぁ……難があるというか……」

そしてPの運転する車はボクのマンションではなく、会社へと向かった。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:20:59.29 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by 蜈?ココ蠖「≫

探し物のために天界を彷徨う過程で、本当に沢山のセカイ線を閲覧した。

一つのセカイ線の中では、数百万オーダーの数の星で生命が誕生することが多かった。だが、極稀に全く生命の誕生しないセカイ線や、逆にありとあらゆる星で生命が誕生するようなセカイ線もあった。そういった特徴的なセカイ線は、大抵は数々の天使が干渉を幾重にも加えた結果出来たものだった。前者のセカイ線は天使たちの実験用に重宝されるし、後者はドラマ的な見所が沢山あるようで、どちらの周囲にも比較的多くの天使が集まる傾向があった。まぁ、そういったものに私の興味が引かれたことはなかったが。

基本的に私は探し物をすること以外に関心は無かったのだが、そんな私でも思わず見入ってしまうセカイ線もあった。
それは“光”に包まれたセカイ線だった。その光はあまりに強いため、セカイ線の内側を閲覧することもできないし、干渉しようにもはじき返されてしまうらしい。天使でさえも完全に不可侵のセカイ線だった。唯一分かるのは、その光が“何か素晴らしいもの”であるということだけ。
私は天使としてはかなり長命な方だったと思うが、それでもこの不可侵のセカイ線は両手で数えられるほどしか見たことがない。極稀どころではない。極を100回以上付ける必要があるだろう。
一体何故このように光り輝いているのか? 調査してみたいという気持ちが高まることもあったけれど、私はやはり探し物の方を優先した。直感的に、それも私の探している“何か”ではないと分かっていたから。だから結局、その光に包まれたセカイ線については何も分からずじまいだ。

無限といっても差し支えない程の数のあるセカイ線を、私は一つ一つ覗いていく。延々と繰り返す。
そうこうしている間にも他の天使たちは各地で干渉を好き勝手行い、私が調べるべきセカイ線はますます増えていく。終わりは寧ろどんどん遠ざかっていく。
閲覧に要する労力は微小なものだが、少しずつ私の魂は摩耗していく。
いつからか、私より老いている天使を見かけることはなくなった。
一体、私は何を探しているのだろう?
少しでも気を緩めれば魂が虚無に支配されそうだった。魂に刻み付けられた“諦めるな”という思念がなければ、私はとっくに消滅していただろう。しかしそれすらも意味をなさなくなる、純粋な物理的限界はすぐそこまで迫っていた。

とある天使に私が出会ったのは、そんな今際の際ともいえる時だった。

その天使は初めからとても不愉快な感じだった。コミュニケーションを取ろうとしてくるでもなく、消滅寸前の私を遠くからじぃっと観察していたのだ。それも薄ら笑いを浮かべながら。
驚くべきことに、どうやらその天使は私よりも遥かに長命らしい。にも関わらず、生まれたての天使のように生命力に溢れていた。まるで、老獪さはそのままに、魂だけが若返っているようだった。
こんな天使にはそれまで出会ったことがなかった。
まるでセカイ崩壊を引き起こした直後のように生命力が漲っていた。しかし、高次元存在の罰から逃れることは出来ないはずだ。ならばコイツは一体何なのだろう?
不可解。不愉快。
だが疲弊しきっていた私には、そいつを追い払おうとすることさえ億劫になっていた。幸い私に対して害意があるわけではないらしい。
ひょっとすると単純な好奇心なのかもしれない。私のように今にも寿命が切れそうな天使は珍しいだろうから。
だから私は無視を決め込んだ。そんな些末事に魂をすり減らしている場合ではないのだ。

彷徨と閲覧を再開してからも、その天使は一定の距離をとりながら、最後まで私に付きまとってきた。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:21:40.34 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

「コレ」

淹れてくれたコーヒーをボクにサーブするのと一緒に、Pは“それ”をテーブルに置いた。
一辺2センチ程度の小さな立方体。
それは彼がたまに指先で弄っているサイコロのようなもの。普通のサイコロとは違い、1から6の目は刻印されておらず、代わりに面毎に色が違うという風変わりな一品。

「これが……何?」
「これを使う。飛鳥のプロデュースに」
「……よく理解らないな。もしかして二宮飛鳥の公式グッズにするとか?」
「なるほど、面白い発想だな。だが少し違う」

Pがマグカップに口を付ける。ボクも一口だけブラックを試してみて、諦めてシュガーを溶かし込む。

「ぱっと見はただのカラフルな立方体なんだが、実はかなりの逸品なんだよ」
「そうなのかい? 確かにこんなのが売ってるのを見たことないけど。あぁ、もしかして特注品とか?」
「特注…か……ふむ、ある意味そうとも言えるかも。こういうのがあればなぁ、と長年考えてたのが、ある日突然手に入ったんだから」
「……?」
「これの何が凄いかってーと、まず絶対に壊れない。それと絶対に無くさない」
「サイコロに耐久性はそれほど必要とは思えないけれど……。でも無くさないっていうのは良いね。ボードゲームをしようって時に限ってなかなか見つからなかったりするから。音が鳴って場所を知らせてくれるとか?」
「んー、そういうんじゃないんだけどな……原理は俺にもよくわからないんだ」
「へぇ……? ちょっと手に取ってみていいかい?」
「いいよん」

サイコロの手触りは少し新鮮だった。ツルツルしているようであり、サラサラしているようでもある。というかたぶん、初めて感じる手触りだ。
各面には虹の七色から藍色を抜かした色が振られている。その色合いはかなり美しいと思った。まるでサイコロの内部から各面に色を投影しているかのような奥行を感じさせる。
しげしげと見つめてみて、それでふと気付いた。

「あれ? これ、すごく軽い……」

試しに右手で摘まんだソレを左手に落としてみても、ほとんど何も感じない。ストンと落ちる割に、綿毛が乗った程度に何も感じなかった。

「あぁ、どうやら重さが無いみたいなんだ。でも何故か重力を受けてるような挙動をするし、その辺りの原理もよくわからない」
「ふーん…………?」
「俺の考えが正しければ、このサイコロを使えば運命に揺らぎを与えることが可能になる」
「…………ん?」

今、Pは何て言った? 運命だとかいう単語が聞こえた気がしたが……。

「面ごとに選択肢を設定しておいてから、サイコロを振る。そして出目の通りに行動すれば、運命という神の台本からズレることが出来る。まぁ、出目によっては結局振らなかった場合と同じ行動になることもあるだろうけど」
「…………は?」

運命? 神の台本? また妙なことを言い始めたぞ。いやそれに、重さが無いっていうのもおかしくないか?

「俺の予測では、三か月半後、十月半ばの大規模ライブで、俺たちは神崎ちゃんたちと真っ向から衝突することになる。そして完膚なきまでに叩き潰されるだろう。そこまで分かっているのに避けられない。最善に最善を重ねた選択をしてもそうなる。いや、ただ単にそういう台本で、俺も役者に過ぎないからだなだ」
「いや……ちょっと……」
「だがこのサイコロを使えば、その台本から逸れることが出来る。そんな直感がある。まぁその結果、どんな結末が待っているかは分からないが。正にサイコロのみぞ知ると――」
「ちょっと!」
「ん?」
「キミは一体何を言っている? 漫画かアニメの話かい?」
「あ、すまん。ちょっと先走り過ぎたか……」

Pはテーブルの端に置いてあったメモ翌用紙の綴りから一枚を取り、何事かを書き記してから折り畳んでボクの前に置いた。そのメモにボクが手を伸ばそうとすると「少し待って」と止められる。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:22:17.30 ID:+IqVL7Wl0

「飛鳥は、この世界は神が書いた台本通りに進む舞台だってことに気付いているか?」
「………はぁ?」
「宇宙開闢のその瞬間から遥か未来まで、この宇宙で起こる全てのことは既に神が台本にして決めてるのさ。塵がどう集まって星になって、どの星でいつ生命が誕生して、どう進化をして、誰が生まれて、どういう人生を経て、どう死ぬのかも。全部」
「P……もしかして酔ってる?」
「いや、素面だし正気だ」

Pの顔をじっくりと見ても顔色や素振りにおかしなところは無い。敢えて言うならば、ニタリと笑っていてちょっと変だが、それこそがいつも通りだ。

「……その世界観が正しいとするなら、ボクたちには自由意思なんてないってことになる。それはボクの感覚からは認め難いんだが?」

生まれてこの方ボクが自分の意思で選択してきたことが、その実、誰かに決められていたなんて。そんな風に感じたことはないし、ハイソウデスカと認められるワケもない。

「流石だな、飛鳥。その指摘は核心の一つだ」
「……それはどうも」
「そこで、ちょっとしたゲームをしようか」

Pは両手をグーにしてボクの前に出した。

「右か左、どっち? 飛鳥の自由な意思で決めてみてよ」

意図は理解らないけど、ゲームと言ったから適当に答えてやろう。右手が先に目に入ったから右だ。

「右」
「ん。右、と……」

Pはメモ綴りから一枚取って、そこに“右”と書き記す。

「じゃあ次はどっち?」

そして再びボクの前に両手を出して聞いてくる。今度は手のひらは開いていた。

「右」
「ほい、次は?」

ひらひらと指を揺らめかせてから、また聞いてくる。ボクは「左」と答える。
そんなことを10回繰り返した。ボクが答える度に、Pはメモに結果を書き記していった。

「よし、じゃあ答え合わせだ。これとそれを比べてみて」

ゲームが始まる少し前にPがボクの前に置いていたメモを指差した。

「はぁ…いったい何だって言うん――」

“右右左左左右左右右右”
“右右左左左右左右右右”

――完全に一致していた。
それに気付いた瞬間、背中に氷を流し込まれたようにゾッとした。

「これがメンタリズムです」

キメ顔を作ってから「なんつって」とPは破顔する。ボクはまったく笑えず、しばらく呼吸も忘れていた。

「飛鳥をビビらせたかったんじゃない。俺が言いたいのは、対象の性格を把握して、あとは多少のテクニックがあれば、他人の選択を予測したり誘導することも可能ってこと。つまり全知全能の神であれば……。世界の全てを知ることができて、どんな干渉でも出来るような存在であれば、この世界で起こる全ての現象を最初から最後まで制御することも可能だろう。それは俺が今やってみせたことのスケールを大きくしただけだから」
「そういう概念は……聞いたことがあるが……。でも否定されてなかったっけ?」

たしか、ラプラスの悪魔とかいったか? 提唱されたのは随分と昔。そして量子論の研究が進んだことで完全に否定されたもの。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:22:56.30 ID:+IqVL7Wl0

「あくまで、この世界の中という枠組みで考えればそうかもな。だが俺が想定してるのは、もっと上の存在だ。世界……この宇宙の外側にいて、過去も未来も一緒くたに認識できて、別のセカイも含め、ここに居ては観測すらできないデータも全部理解できるような、そんな存在」
「……ただの思考実験としてなら、まぁ……認めてもいい」
「問題は、その神様みたいな存在が作る台本にはそいつの“好み”が入ってるってことだ」
「……?」
「台本の演出が役者個人の“好み”に合っている間は問題ない。でも極稀にあるんだよ。“好み”がズレてることが。神様が俺用に用意してくれやがった台本には、有難いことに常に最善の行動が書かれている。それは確かだ。だけど、たま〜に、心のどこかで……いや、魂か……俺の魂が合理性なんかを無視して、別の行動を採りたいと訴えていることがあるんだ。しかし、神様は台本から逸れることを許してくれない。納得いかねぇ台本を押し付けられるのなんて、マジ勘弁だぜ……」

荒唐無稽極まっている。なのに不思議と聞き入ってしまう。
ギリリ、と音が鳴った。音の出元はPの顎で、車内で見たように顎あたりがぽっこりと出っ張っていた。

「飛鳥はこれまでなかったか? 本当は“ああ”したいのに、何故か“こう”してしまうなんてこと。“ああ”しようと思ってたのに、いつも妙に間が悪くて出来ないなんてこと」
「それは……そんなのは世の常さ。みんながみんな、好き勝手に生きられるハズがないじゃないか」

ボクは至極真っ当なことを言っている自覚はあるのに、何かが頭の片隅に引っかかっている感覚があった。でもそれが何なのか掴めなかった。

「それも確かに一つの真理だなぁ。実際のところ俺自身も、世の中のままならなさに中二的な理由付けをしているだけなのかもって疑うことはあったし。あぁ、そういや、確信したのって今の飛鳥と同じ中二の時だったわ」
「フッ……。キミも相当にイタイ奴だったようだね」
「それな。……ハハッ! ダチどもにも言われたな。中二病患者だの、ヤベー奴だの。アイツらテスト前には頼ってくるくせに、そういうときだけ鬼の首取ったように馬鹿にしやがって。まったく失礼しちゃうわよね」

言葉の上では悪態だが、Pは薄く笑っている。
ボクと同じ年齢だったときのPを思い浮かべようとして、しかしそれは無理だった。良くも悪くも、今の彼の印象がやたらと邪魔をしてきたから。

「中二の夏休み明けだったなぁアレは……ちょうどその時期に酷い“ズレ”を立て続けに何度も感じて………………」
「……P?」

中二の時のエピソードを語る流れだと感じたのだが、Pは急に黙り込んだ。彼らしくない詰まり方で、まるでそこだけ時間が止まっているようにも見える。

「………えっと、なんだっけ?」
「おいおい、大丈夫かい?」

そして時は動き出す。なんてね。
ド忘れだろうか? Pも結構疲れているのかもしれない。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:23:27.18 ID:+IqVL7Wl0

「いや、無理しなくていいよ。中二の黒歴史なんて、大人が語るには酷だろうからね」
「黒歴史言うなし」
「フフッ…」
「まぁ、とにかくだ。中二の頃に立てた仮説は俺の直感から導いたものではあったが、俺としてはほぼ正しいという確信があった。未だ人類の知らない、運命を誘導する力…目に見えないが、確かにそれは在る。客観的な証拠が無いだけなんだ。だがそれが無い限り、いくら説明しようが病院を勧められてしまう。まぁ仕方ないよな。だから俺はすぐにその話題を出すことはやめた」
「それは…そうだろうね」

実を言うとボクは今、彼にカウンセリングを勧めるべきか悩んでいるんだけどね。

「だが証拠は現れた。それがこのサイコロだ。約三か月前の3月25日の午後、これが突然出現した。何も無いところからパッと出現したんだ」
「………はぁ?」

残念なお知らせだ。Pはやっぱりヤバいらしい。

「このサイコロは、上の次元からこの3+1次元の世界に落とされた影……。これが、いくつかの実験を経て俺が導いた結論だ。この世界の外から来ているモノだから、この世界の台本の支配を受けない。故に、このサイコロの出目に従って行動することで台本に抗える、というワケさ」
「えっと……何から言えば良いのか……」

どうすれば彼を刺激せずに通院を勧められるのだろう? これは結構難題だぞ。いやもしかして考えるだけ無駄なレベルで、ボクには手に負えないのではないか…。

「こんにゃろ、俺の頭がおかしいと思ってんな?」
「いっ、いや………」
「んも〜、ウチの子は本当に疑り深いんだから。じゃあちょっと、サイコロ持ったまま入り口のドアあたりまで行ってみて?」
「えっ、なんで…?」
「いいからいいから。これ見れば流石に分かるから」

ボクとPはソファから立ち上がり、Pは部屋の奥へ、ボクはドアの方へ移動していく。
ドアの前まで行ってPを振り返ると、「あと、一歩」とPは言ってくる。

「サイコロ、よく見といてなー」
「一体、なんだっていうんだ……?」

そのまま後退るように一歩下がり、踵が床を踏みしめた瞬間。手のひらの上に持っていたサイコロが消失した。じっと見ていたのに、パッと。

「えっ!?」

落としたのかと、周囲を見渡してもどこにもない。
すると「ココ」とPが言った。部屋の奥、五メートルほど離れた位置にいるPの掌の上に、サイコロがあった。

「もしかして、一つじゃないのかい?」
「いーや、これ一つだけだ」
「な、何をした……?」
「このサイコロは俺の身体の重心から約180センチ以上離れた位置にあると約40秒後に、そして約540センチ離れると即座に俺の手元に戻ってくる。瞬間移動してな。今飛鳥の右手の中から消えたのは540センチ離れたからだ」

また変なことを言い始めたぞ……。

「約180センチっていうのはおそらく俺が両腕を開いた時の指先の距離で、540っていうのはその3倍だな。40秒後っていうのは俺の心臓が42回鼓動した時点のようだ。何でそういう設定になっているのかはよく分からない。たぶんその数値は重要じゃない。重要なのは……って、まだ信じていない?」
「っ! も、もう一度だ…!」

瞬間移動なんて、そんなワケあるか! 大方、見えない糸が結ばれていて、それを手繰り寄せたんだろう。見えない糸ってなんだ!? そんなツッコミが頭に浮かぶが構わない。こんな下らないペテン、ボクが見抜いてやる!
Pから改めてサイコロを受け取り、目を凝らしながら輪郭をまさぐる。見えない糸はもとより、何もサイコロにはくっついていなかった。
そして、ボクはドアへと向かったのだが……。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:23:54.33 ID:+IqVL7Wl0

「そんな……なんだコレ……っ!」

眩暈がするほどの寒気が足元から登ってくる。
検証は3回行った。
掌の上に載せてじっと見つめていても忽然と消えた。両手でガッチリ握っていても消えたし、口内に入れて両手で口を押えていても消えた。どの回も消えると同時にPの掌の上に現れた。それは瞬間移動…テレポーテーションと呼ぶ他ない現象だった。
有り得ない……。
物は消えたり、急に現れたりしない。常識だ。セカイの真理だ。理論的には量子テレポーテーションというのがあるようだけど、それだって何に使えるのかよくわからない期待外れの理論だったと記憶している。完璧なテレポーテーションなんて、夢のまた夢の技術のハズ。
そんなガジェットを造ることが出来る存在がいるとしたら、それは最早……。

「神……いるのか……?」
「悪魔かもしれんけどな。ま、どっちでも一緒か」

他人に言われたことをそのまま信じるほどナイーブではないけれど、自分の目で見ても信じないほど頑固でもないつもりだ。
正直、Pの語ったセカイの構造については全然理解できていない。でも、人類が未だ知らないセカイがあることは確からしい。それに――

「このサイコロで、何をするって……?」
「これで神の台本に叛逆する」
「叛逆…………クク…ハハッ! ボクたちは叛逆者か……!」

サイコロの出目に従って行動する、だったっけ?
イカれている。常軌を逸している。
だが、それがいい…っ!
それは理解りやすく、完璧に、非日常だ。そしてボクの魂はそれを良しとしているらしい。

「こんなモノまで持っているなんて、まったくキミは底が知れないな。本当に悪魔……メフィストフェレスなんじゃないかと思うことがあるよ」
「ナハッ! 俺はただの人間だ。他の人間とはちょっと違うセカイが見えてるだけのな。それにメフィストってんなら、このサイコロを俺に渡した奴だろう」
「なるほど、そうか……いや、ちょっと待って。それだとPがファウストで、ボクは……」
「あっ」

『ファウスト』のあらすじを思い返すと、すぐにキーパーソンであるボクと同年代の少女が思い浮かんだ。そして彼女の悲惨過ぎる生涯も思い出し、ボクは頭を振った。
そんなボクを見て、Pはカラカラと笑っている。

「グレートヒェンはお断りだからね?」
「ちゃんとフォローするから大丈夫ダイジョウブ。プロデューサーウソツカナイ」
「ま、まぁいいだろう」

そしてボクたちは互いに不敵な笑みを浮かべ合う。

「なぁ、P。これは“アレ”なんじゃないかな?」

ボクのアイドル活動が新たな領域に突入したのを感じていた。

「なるほど。“アレ”だな」
「うむ。じゃあ、宣言を頼むよ」

Pが仁王立ち、大きく息を吸い込んだ。

「現時点を以って! 一大叙事詩 ASUKA The Idol!その Third Stage に突入したことを! 此処に宣言するぅっ!!」
「フハッ! 声が大き過ぎる!」

神の掌の上で踊っていたプロローグは終わり、ここからは叛逆のステージ。
蘭子に敗北するという、神のシナリオに抗ってやるのだ。
それは途方もないのと同時に雲を掴むような話。
でも、ボクとPの二人なら出来るような気がした。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:24:55.32 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Ranko≫

私、神崎蘭子という人間の一番古い記憶。

それはたぶん市内の公園で開催されていたフリーマーケットだった。
幼い私はパパとママに連れられてそこに行っていた。
緑色が鮮やかな芝生の広場には沢山の人がいた。
レジャーシートを敷いて色々なものを並べて売る人たち。掘り出し物を探しに来た人たち。そして、ただ暇つぶしに来た人たち。私たちもたぶん暇つぶし。
パパとママの間で二人と手を繋ぎながら、色々と見て回った。とはいえ、どんなものが並べてあったのかはほとんど覚えていない。
快晴の青空と、芝生の緑と、私によく似た少女のイメージが強く記憶に残っている。

その少女と私はじっと見つめ合っていた。
両親と繋いでいた手は放していたから、いつの間にか人混みの中で私は迷子になっていたのかもしれない。ひとりぼっちの不安はいつのまにか消えていた。それよりもその少女に興味を引かれていた。
身長は私より少し高いぐらい? 顔は私とよく似ているし、髪の色も私と同じ。でも着ている服が全く違う。
その少女は黒色のドレスを身につけていた。レースと刺繍が所狭しこれでもかと施された豪華なドレス。小さな宝石が生地に散りばめられていてキラキラと光って見えた。指輪やネックレスも輝いていた。
よく見ると靴にはヒールがあって、お化粧をしているのに気が付いた。だから実際には身長も顔も、私と全く同じだったのかもしれない。
そんな場違いな装いの少女が広場の片隅に佇んでいた。なのに不思議なことに、誰もその子のことを見ていなかった。

一目見てお姫様だと分かった。本当にキレイでステキだったから。
それから可哀想だと思った。寂しそうだったから。私にはパパとママがいるのに、その子は独りぼっちに見えたのだ。
私は少女に駆け寄って、手を繋いだ。私は昔から引っ込み思案だったから、そんなことが出来たのは初めてだった。どうしてもそうしたかった。
少女はすごく驚いた顔をして私の手を振り払おうとしたけど、私は放さなかった。聞いたことのない言葉で、強く何かを言われても放さなかった。だって、本心では嫌がってないって、何故かはっきりと分かっていたから。
ぎゅ〜っと両手で掴み続けていると、その子は観念したように笑い出したので私も一緒に笑った。
私たちは友達になった。

急に名前を呼ばれ振り向くとパパがいた。
とても長い時間彼女と遊んでいたと思ったけれど、空の青さは彼女と会う前のままだった。
パパは「もう帰ろう」と私の手を引っ張って行こうとする。
この少女と離れたくない。まだまだお話したい。そう言ってもパパは聞いてくれない。「ダメだ」って一層強く手を引こうとしてくる。
私は泣いた。大泣きした。自分でもびっくりするくらいの大きな声で泣いた。
どうしてダメなの? 私がこの手を放したらこの子はまた一人になっちゃうんだよ? 一緒に連れて帰ってあげて!
泣きじゃくりながらパパとママにお願いをする。
広場中の人が私を見ていても泣き続けた。
パパとママは困った顔を見合わせた後、やっと「わかった」と言ってくれた。
ママが鞄の中から何かを取り出して、すぐ近くにいた知らない人にそれを渡した。

「大切にするのよ?」

そう言って、ママが私の頭を撫でる。
いつの間にかお姫様はいなくなっていて、彼女と繋いでいたはずの左手には指輪が握り締められていた。
銀のリングに赤い宝石が嵌められた指輪。それはあの子がしていた指輪と同じものに見えた。彼女はいなくなってしまったけれど、指輪を通して彼女の存在を確かに感じられた。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:25:24.21 ID:+IqVL7Wl0

以来、私はその指輪を肌身離さず身につけるようになり、私と彼女は事あるごとに“リンク”した。
リンクした瞬間、視界は白く染まって、全身が温かく優しい感覚に包まれる。その光の中で、彼女と私は向き合っているようでもあり、一つに重なっているようでもあり、入れ替わっているようでもあった。お互いの言葉は違うけど、どういうことを考えているか不思議と理解できた。長い時間リンクしているように感じても、現実世界に戻ってくると時間はほとんど経っていなかった。 

最初の頃はいきなり彼女とリンクし始めるものだから、びっくりするやら嬉しいやらで私は毎回大騒ぎをしていた。
しばらくすると彼女とリンクするための条件が何となく分かってくる。
まず必要なのが、指輪を身につけていること。それと儀式。胸と頭の奥にあるモヤモヤした何かをグルグルと回して、そのモヤモヤしたのが光ってきたところで「えいっ!」とお腹に力を入れる……という儀式。
やれば必ずリンクするわけじゃないし、寧ろ空振りすることの方が多かったけれど、彼女とリンクするのは決まって儀式の瞬間だった。彼女の方もやっぱり同じようなことをしていたらしい。でも彼女は私とは少し違って、モヤモヤしたものをゴシゴシと磨くイメージだと言っていた。
あと、リンクしたときは大抵、私と彼女は同じような精神状態――嬉しかったり悲しかったり怒っていたり――だったから、これもリンクするための条件の一つだったのだと思う。

リンクできるのは一週間に一回か二回というのが普通だった。
私は暇さえあれば儀式をして彼女を待ち構えていたのだけれど、彼女の方は私ほど暇じゃなかったらしい。
彼女は本当にお姫様だったのだ。しかもあっちの世界で一番の。
こっち側の世界にあるどんな建物よりもずっと大きなお城に彼女は住んでいた。
私と同じくらいの歳なのに、その世界の人たちは全員膝を着いてお辞儀をしてくる。
いつも素敵なドレスを着て、豪勢な料理を少しだけ食べて。
そしてたくさんの兵隊さん達の先頭に立って、彼女は戦っていた。
彼女は魔法が使えたから。ううん。魔法を使えるのは彼女だけだったからだ。

敵は星の外からやってくる、とても恐ろしい武器を持った異形の侵略者たち。
対する彼女側の戦力はあまりにも貧弱。私の世界の中世時代ぐらいの装備しかなかった。
普通なら相手にならない戦力差だけど、彼女の魔法がそれをひっくり返してしまう。
彼女が手を振れば千の竜巻が荒れ狂い、叫べば視界の全てが業火に包まれ、祈れば雷光が地平線の先までを灰燼に帰す。星の裏側で戦端が開かれても、彼女なら空を駆けて数秒で到着できた。
彼女の魔法で打ち漏らした敵に止めを刺すのが兵隊さんたちのお仕事だ。
彼女はその星の人たちの守護神のような存在だから大事にされ、崇められ、同時に恐れられていた。だから彼女はひとりぼっちだった。

私にとって彼女は憧れだった。
私と変わらない歳、変わらない容姿なのに、魔法を操り人々を助ける。たとえどれだけ恐れられ疎まれても、皆を守るという彼女の信念は変わらない。
それは私には到底持ち得ない強さだったから。

彼女の高潔さを知ってもらおうと何度もパパとママに語って聞かせた。
二人は私の空想だと思っていたみたいで、あまり真剣に聞いてもらえなくてもどかしかった。でも、ママが剣と魔法が活躍するファンタジー世界の本を、たくさん読み聞かせてくれるようになったのは嬉しかった。
断片的にしか分からない彼女側の世界を、本から得た知識で勝手に脚色していくのは楽しかった。

私が成長するのと一緒に彼女も成長していく。
彼女の着るドレスはますます華麗に、お化粧も大人っぽくなっていく。
私もせめて装いだけでも彼女みたいになろうと頑張るんだけど、それもなかなか上手くいかない。主に資金的な問題で……。
彼女と比べれば私なんて、せいぜいボロを纏った召使い。それでも彼女はそんな風には思ってなくて、対等の友達として見てくれているのが伝わってくる。
もう私は彼女に首ったけだった。親やクラスメイトが私を理解してくれなかったとしても、彼女さえいれば私は幸せ。そんな風にも思っていた。

だけど……。
私たちが10歳になる頃から、彼女とリンクする頻度は激減していった。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:25:57.37 ID:+IqVL7Wl0

私は相変わらず彼女と繋がるのを待ち構えながら、空想にふける安穏とした生活を送っていたのだけれど、彼女の世界は大変なことになっていた。
空からの侵略者たちが昼も夜もお構いなしに、星の至る場所に攻め込んで来るようになったのだ。
いくら彼女の魔法が圧倒的でも、体力の限界はある。私と会うために儀式をして集中力を使うよりも、一秒でも長く睡眠を取るべき…。そんな厳しい状況が日常化していた。

時は流れて。それは私が中学二年に上がる前の春休み初日のことだった。
彼女と唐突にリンクした。三か月ぶりのことだった。
私たちはまず抱き合って再会できたことを喜んだ。
それから改めて彼女を見た私の胸は酷く痛んだ。彼女の顔がお化粧でも隠せないくらいやつれていたからだ。それに、いつも輝いていた彼女のドレスもくたびれていた。彼女にも彼女の周囲の人たちにも、本当に余裕が無いんだ……。
それなのに、彼女からは強い闘志が伝わってきた。
彼女曰く、明日が決戦の日。これまでで最大規模の最も厳しい戦いになるらしい。でも、それに勝利すれば、彼女の星に平和が訪れるのだと。
それを知って、私は今日彼女とリンクできた理由が分かった。
明日は私にとっても決戦の日だったからだ。それは彼女と比べるとあまりにちっぽけだけれど、私にとっては一生を左右する戦いだった。
じゃあ明日また会えるね、とお互い笑い合う。
お互い戦いに勝利した高翌揚感で、私たちはきっとリンクできる。私たちはそう思っていた。

翌日。それは運命の日になった。

私は市内にある、知る人ぞ知るゴシックドレスの専門店に向かった。お財布の中にはこれまで貯めたお年玉貯金がたんまりと入っている。
彼女の隣に立っても見劣りしない最高のドレスを手に入れてみせる! そう意気込んでお店の扉を開いた。
そして数時間に及ぶ死闘の末、財布の中身を生贄にして、私は最高の一着を手に入れることが出来た。
もちろん店内で着替えて、新たな装いで外へ出る。一刻も早く彼女に見て欲しかったから。もうウキウキのワクワクだった。
お店から出て少し歩いたところに丁度いいベンチを見つけたので、そこで儀式を行うことにする。
胸と頭の奥にあるモヤモヤした何かをグルグルと回して「えいっ!」。しかしリンクは成功しない。儀式は上手く出来ている感覚があるのに。何度試してもリンク出来なかった。

或る恐ろしい想像が頭に過った。

途端に身体が震えてくる。頭が重くなってくる。心が寒くなってくる。気分が悪くなってくる。
体調が悪化すれば悪化するほど、彼女とのリンクが近づいている予感がある……。それが何よりも恐ろしかった。
そんなときに、とても嫌な言葉が聞こえた。
指輪に落としていた視線を上げると、道の向こうの大人の男の人がニタニタしながら私を見ていた。どうやらこの人がとても嫌な言葉を言ったらしい。私に対して。
私を見ているのはその男の人だけではなかった。高校生ぐらいの男の子たちのグループや、性格のキツそうなおばさんも私をみていた。ニタニタしたり、眉を顰めていたりしている。私を見て。私の服装を見て。
寒い。身体が冷たい。悪寒。嫌な予感……。
また嫌な言葉を言われた。嘲笑が私に降り注いでくる。
周囲を見渡しても、私に親切にしてくれそうな人なんて誰もいない。
私がこんな格好をしているから。他の誰もこんな格好はしていないから。
私は一人。ひとりぼっちだ。
違う! 私にはあの子がいる!
でもなんでリンクできないんだろう?
なんで?
なんで?

もしかして――
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:26:25.25 ID:+IqVL7Wl0

全部の嫌な考えを振り払うため、私は走り出した。
道行く人全員が私を見ている。指をさして笑っている。そんな気がする。そうに決まってる。
恐ろしくてたまらない。
何でこんなことに?
胸が痛い。矢に貫かれた様に痛い。本当に痛いのだ。私の胸に矢なんて刺さっていない。でも痛む。
なら、この痛みは何の痛み? 誰の痛み?
違う! 嘘だ! 嘘だ!

雨が降り始め、それはすぐにどしゃ降りになった。
そんな中を走り続けたものだから、ドレスは既に濡れて重くなっている。
どこに向かって走っているのか私自身にも分からなかったけど、辿り着いたのはあの広場だった。彼女と初めて会った青空と芝生の広場。
しかし今は厚い雨雲のせいで、辺り一面は夜みたいに暗くて芝生も泥濘に成り果てている。周囲には人っ子一人いない。
トボトボと、広場の中央へ向かって行く。今日に合わせて下ろしたおニューの靴は、あっという間に踝まで泥塗れ。もう自分でも何がしたいのか分からなかった。
寒さと疲労でもう体力の限界だったのだと思う。泥濘に足を取られ私は盛大に転んでしまった。
最悪のことが起こったのはそのとき。
左手の小指に不快な感覚が走った。それは、あの指輪が泥濘の中の石に強く擦れた感触だった。
私は悲鳴を上げながら指輪を確かめた。
でももう遅かった。無惨にも、指輪の赤い宝石には大きな傷が付いていた。しかもそこから生じた亀裂は広がっていき、宝石は粉々に砕け散ってしまった。

その瞬間、私の全身は絶望に包まれて。
だから、私と彼女はリンクした。

まず見えたのは、彼女の指輪が私の指輪と同じく砕け散る光景。そして、焦土、噴煙、瓦礫、迫りくる夥しい数の敵兵。
伝わってくる彼女の胸の激痛。ボロボロのドレスを纏った彼女の胸に、巨大で鋭利な金属片がめり込んで――。

そこでリンクは途切れた。ストロボの連射のような断片的なリンクだった。
しかし彼女に何が起こったのかを知るには十分だった。

雨は収まるどころか激しさを増すばかり。仕舞いには雷鳴が轟き始める。まだ15時過ぎだというのに、まるで夜のような暗さ。
私は泥濘の中でのたうち回り、ひたすら泣き叫んだ。
ついさっきまで新品だったドレスは泥に塗れて、もう二度と着ることは出来ないだろう。
それさえも最早どうでもよかった。
モヤモヤをいくらグルグルして解き放っても、彼女からの返事はない。
彼女の無念を思うと気が狂いそうだった。私に代われるのなら代わってあげたい。
他者のために誰よりも頑張ったあの子が、どうしてあんな最期を迎えなくてはならないのか?この世の神は一体何を見ているのか!? ふざけるな! そんな神ならこっちから願い下げだ!

嗚呼。
私の声を聴いてくれる人……私を理解してくれる人はいなくなってしまった。
私は独りになってしまったのだ。

雷雨の下、喉が潰れるまで慟哭したとして、一体誰に届くというのか。こんな場所で汚泥に沈む私がいることを、誰が気付いてくれるのか。
届く筈がない。気付いてもらえる筈がない。
そんなことが起きたとすれば奇跡だ。
奇跡は起こらないから奇跡と呼ばれるのだ。

だから私は独りになった。
いつまでも。いつまでも。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:26:54.19 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by 蜈?ココ蠖「≫

私の寿命が今にも尽きようとしているとき、蘭子のいるセカイ線にたどり着いた。

そのセカイ線は率直に言って“ハズレ”だった。
文明を持ちうる生命が誕生した星はたったの1万個程度しかなく、しかもいずれの星でも科学技術が大して発展しなかったため、異星間の交流さえ一度も出来なかったセカイ線。見どころ皆無と言ってもいい。
付近には数体の天使が漂っていたが、やはり誰もこのセカイ線には注目していなかった。
私もすぐにそこから離れようとしていたのだが、何の面白味も無い閲覧情報の中に微かな“ノイズ”が混じっていることに気が付いた。どうやら魂の波動による揺らぎが原因らしい。
その揺らぎはセカイの内側に存在する者が生じさせるにしてはかなり大きく、しかし、天使にとっては取るに足らない程微小なものだった。天使である私がその揺らぎに着目できたのは、以前から彼らの魂に関心があったからだろう。
その揺らぎにフォーカスし、改めてセカイを精査する。
魂の波動の発生源は神崎蘭子という少女だった。彼女が雷雨の中、泥水に塗れて慟哭している。絶望の叫びと共に魂の波動を放っていたのだ。
しかし妙だった。この少女が周囲の者たちから侮辱を受けたのは確かだが、これほどまでに取り乱さなくてはならないものだろうか? 少女の性格からすれば、さめざめと悔し涙を流す程度の反応になりそうだが……。
やはり納得がいかない。フォーカスを強める。
すると、慟哭の直前にも極僅かな魂の波動を放っていたことに気付く。それは一見すれば極小のノイズだったが、セカイ線から滲み出した後は一定の方向へと向かって行く。数多のセカイ線の合間を縫った末にたどり着いたのは、神崎蘭子のセカイ線からは随分と離れた別のセカイ線で、そこにいる蘭子と同じ外見を持つ少女が受け取っていた。そしてその少女も同種のノイズを発し、それは蘭子へと向かって行く……。
過去を精査し直せば、同様のノイズがいくつも見つかった。

すべてを理解したとき、私の魂が震えた。

それは異なるセカイ間での交信だった。本来であれば、極限まで発展した科学と多くの偶然が重なってはじめて可能となる、極めて珍しい現象のはずだ。彼女たちはそれを、実に原始的な方法で成功させていた。赤い宝石がアンテナ、肉体が同調回路、感情が検波回路、魂を動力とした送受信機のようなものだった。

“たまたま”丁度いい位置関係にある二つのセカイ線において、“たまたま”原子配列レベルから全く同形状の二つの赤い宝石が存在し、それが“たまたま”同じ肉体構造を持った少女たちの手に渡り、その少女たちは“たまたま”魂に関する極めて優れた才能を備えていた。

広い天界であれば、この“たまたま”の内、一つや二つなら揃うこともあるだろう。しかし四つともとなると最早奇跡の中の奇跡だ。少なくとも私はここで見たのが初めてだったし、他の天使から聞いたこともなかった。
この奇跡の末、彼女達は知らず知らずのうちに、魂の力を引き出す感覚を完璧に体得していた。だからこそ、蘭子の慟哭、魂の叫びはセカイ線の情報に揺らぎを与えていたのだ。
二人の交信の内容は天使である私にさえ解析できないが、最後の交信の直後に起こったことを見れば、蘭子の取り乱し様も理解できた。蘭子はあちら側の少女が死んでしまったと誤解したのだ。あそこで交信が途絶えたのならば無理もない。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:27:24.63 ID:+IqVL7Wl0

あちら側のセカイ線では蘭子側より遥かに多くの星に文明が誕生していた。そのため、星間交易は勿論、星間戦争も頻発するようなドラマチックなセカイ線だった。そういう意味ではそこそこ“アタリ”のセカイ線だろう。
少女が生まれた星は遥か昔に科学が高度に発達し、銀河を支配していた時代があった。その時代には貴族階級以上なら思考するだけで全てが可能だった。大気中に散布されている自己増殖型ナノデバイスが脳波に反応し、願望を実現してくれるからだ。
しかし夢のような時代は程なく終焉を迎える。ナノデバイスの誤作動により、その使用者の全てが死亡したのだ。その中には当然、銀河の支配者一族も含まれていた。
そして、支配者を失った銀河の覇権を巡る戦乱の時代が幕を上げた。それは野蛮な兵器を用いた、血で血を洗う戦争だった。
そんな暗黒の時代に少女は生まれた。何故か、ナノデバイスの使用権限を持った状態で。使用者不在となってから長い年月が経っていても、未だナノデバイスは健在だったのだ。
それが判明するや否や、少女は正当な支配者の末裔として祀り上げられ、また唯一無二の戦力として戦列への参加を余儀なくされた。
蘭子との交信が始まったのは、何度か戦場を経験し、精神的に疲弊していた頃だった。
蘭子が少女に憧れたように、少女もまた蘭子を心の支えにしていた。平和というものが本当にあるのだと、蘭子が教えてくれて初めて知った。それを実現するために自分は戦っているのだと思うと、どれだけ辛くても力が湧いてきたのだ。

最終決戦のあの瞬間。実際、少女は死を覚悟した。
しかし、その激痛の衝撃によってナノデバイスに掛かっていたリミッターが解除され、本来の機能を全て取り戻した。それはほとんど万能機。使用権を持つ者が大怪我を負っても、自動的に修復してしまうほど。
蘭子との交信途絶後、すぐに蘇生した彼女は決戦を勝利に導いた。それにより彼女の星はしばしの平穏を享受することになった。
戦後、彼女は多くの仲間を得ていたことに気付く。その仲間たちと共に、今度は星の再興を目指していくことになる。
仲間たちとの交流、新たな侵略者、銀河を股に掛ける大冒険、自身の出生の秘密、そしてロマンス……。彼女の生涯の正念場――真の見どころ――は、寧ろこれからなのだ。
ただ、彼女は生涯ずっと蘭子の身を案じ続けていた。最後の交信で蘭子も辛い思いをしているのが伝わってきたからだ。赤い宝石を修復しても、蘭子とリンクすることが出来なくなっていた。あの後、蘭子はどうなったのか? 彼女は折に触れて思いを巡らせた。しかし、彼女にはもう知る術はなかった。

対して、神崎蘭子の生涯には見どころと呼ぶべきものはなかった。
あの日から蘭子は空想に浸ることを辞めた。身につける衣服は、他の大多数が着るのと同じものになった。言動についても努めて普通を装った。
蘭子の変化について彼女の両親は「成長した」と好意的に受け取ったが、その実、ただの逃避だった。少女の悲劇を受け入れることが出来ず、彼女を想起させる全てを自分から遠ざけることにしたのだ。
しかし忘れられるわけもなく、ふとした時に少女との交流を思い出してしまう。そして見当違いの自責の念に囚われ続けた。結果として、蘭子は無意識的に幸福から遠ざかろうとする人間になった。そんな彼女の生き方はまるで、緩慢な自殺のようだった。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:27:52.19 ID:+IqVL7Wl0

私は納得することができなかった。
この二人の少女は天界の中でも、最も稀有な存在と言ってもよい。なのに、その片割れの蘭子が無味無色の人生を送るなんて、絶対に間違っていると思った。蘭子ならもっと素晴らしい人生が送れるはずだったのに、と。

随分と長い間、蘭子を見続けていた。どうやら私は蘭子に執着しているようだった。何故だろうかと考えた。そして、彼女の絶望の叫びが私の魂を揺さぶり続けているから、という結論に達した。

天使が観測したことは覆らない。この灰色のセカイ線はもう絶対に消すことも、変えることも出来ない。セカイの構造はそこまで都合よくできてはいない。
他に出来ることがあるとすれば、干渉により別の可能性を生み出することだけだ。
そして私は初めてセカイ線に干渉することを決めた。

蘭子のセカイ線を眺め、彼女が輝くことの出来る可能性を検索する。該当ルート複数あり。最上位ルートの選択で良いだろう。
蘭子の時代には風変りな産業が隆盛を極めていた。他者からの願望と希望と貨幣を受け、対価として一時の気晴らしを提供する者。それは偶像……アイドル、と呼称されている。
彼ら彼女らにとっては、個性的であることは武器だった。重要なのはその個性の開示の仕方、……プロデュースの手腕。アイドルにはパートナーとなるプロデューサーが必要。
蘭子の魅力に気付き、プロデュースを成功させ得る者を検索。該当者数名。これも適正最上位者を選べば良いだろう。
Pという、人間としては極めて高い能力を有している男がいた。灰色のセカイ線においては、生涯に何人ものアイドルをトップへ導くことに成功し、最終的に業界の支配者にまで上り詰めるような逸材。この時点ではプロデューサーに任命されて間もない頃で、ちょうど担当するアイドルを誰にするか吟味している最中のようだ。彼なら蘭子のアイドルとしての才能に確実に気付くだろう。
少女は死んでいないことが分かる記憶媒体を創造し、それをPに持たせた状態で存在座標を蘭子の眼前に変更する。そうすれば蘭子はすぐに立ち直り、アイドルとして歩んでいくだろう。そして暗示により、蘭子の“力”を歌声に乗せる方法を擦り込めば、蘭子をアイドル界どころか星の頂点に立たせることさえ可能になるはずだ。
干渉方法は決まった。あとは粛々と手を加えるだけ。その後、分岐したセカイ線を観測すれば蘭子の輝かしい可能性を見ることが出来る……。
――しかし。
そうしたくない、と感じている自分がいた。
誰かが蘭子のプロデュースをするのが気に入らなかった。私自身が彼女をプロデュースしたいと感じていたのだ。

既に私の魂は限界といっていい。こんな状態では閲覧できるセカイ線はもう幾らもない。
結局、私は“探し物”を見つけられなかったのだ。
このまま消滅してしまえば、永遠に続けてきた彷徨がすべて無意味になってしまう。それだけは嫌だった。
せめて最後に、一つでいいから、自分の存在した意味が欲しかった。それを自分の手で掴み取りたかった。
こうして私は、受肉すること――天界からセカイ線の内側へ堕天すること――を決めたのだ。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:28:26.02 ID:+IqVL7Wl0

干渉を開始する。
まずは、私の魂を結び付けるための肉体を創造する。蘭子の引っ込み思案な性格を考慮し、性別は同性にするのが良いだろう。容姿は整っている方が何かと都合のいい社会のようだから、過去の美女と呼ばれる者たちを参考に肉体を構成する。髪色は蘭子と同じにしよう。この肉体で可能な限り全ての能力を高める。これでライバルになるPにも引けを取らないはずだ。

この段階で、灰色のセカイ線はそのままに、蘭子の慟哭した時刻から新たな分岐が発生した。未来側が未観測故にまだ短いそのセカイ線は、まるで萌芽したての新芽のように見えた。
新しいセカイ線に対し、引き続き干渉を行っていく。

社会システムの中に私の身分を捏造する。戸籍、住所、家族構成、来歴、資格、財産。電子上、書類上、そしてもちろん実情も、一つたりとも齟齬が起きないように。天使の能力ならそれはいとも容易く行える。
プロダクションでの身分は中途で採用されたプロデューサーで良いだろう。採用日は堕天日の前日である3月24日とした。採用に関わった設定の社員には、記憶を捏造する暗示をかけておく。
雨雲を散らし、雷雨を止める。泥に塗れた蘭子を立たせ、ついた汚れを全て除去する。砕けた宝石も修復した。ただし、セカイ線の位置が変わったので、もう二度と交信することは出来ないだろう。
創造した肉体を蘭子の眼前に立たせる。

あとは私がその肉体に入り込めば干渉は終わりだ。私は正真正銘ただの人間となる。そして存在の軸が肉体の方に移った後は、もう天使の能力を行使することは出来なくなる。そんな確信があった。
だが私はそれでも構わなかった。私の中の何か――おそらく魂の深層が――『これで正解だ』と囁いているように感じていたからだ。私はまだ“探し物”を見つけられていないにも関わらず。

堕天を開始する。
案の定、天使として記憶していた情報のほとんどは、データ容量の関係上削除せざるを得なかった。移植できる情報も多くは文字化け起こしていく。まぁ、蘭子のプロデュースにはそれほど必要なものでもないので別に問題は無い。
意外だったのは、私が誕生した瞬間から持っていた“封印された何らかの情報”がそのままの形で移設されたことだ。とはいえ封印されたままなのは変わらず、中の情報には依然としてアクセス出来ないし、どうすれば封印を解くことが出来るのかも分からないままだったが。
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:29:02.37 ID:+IqVL7Wl0

“ヤツ”がやって来たのは、堕天シークエンスの終盤に入ったときだった。

少し前からずっと私に付きまとっていた、嫌な感じのする天使。
ヤツが私を追いかけるように堕天し始めたのだ。
セカイ線分岐は起こらなかった。私とヤツが同時に干渉したという扱いなのだろう。
こんな気持ち悪いヤツが、私と蘭子のセカイに入ってくるのは非常に不愉快に感じた。辞めさせたいがそれはもう無理だった。既に私はほぼ人間になっていたし、引き返すことも出来ない段階に入っていたから。
ヤツの堕天は私とは全く異なる方式だった。私のように創造した肉体に入るわけではないようだ。己を構成する全てを、見たことのない手法で変換し、セカイへと流し込んでいく。天界とセカイ線の狭間にあるいずれかの次元に注ぎ込んでいるのか……? よく分からないが、おそらく老練なソイツだから出来る、極めて高度な干渉技術だった。

そこで私自身の堕天が完了してしまった。結局、ヤツの目的については分からないままだった。何かの実験だったのだろうか……? 寿命を迎えた天使が最後にどこかのセカイ線に堕天するというのは実はよくあることで、その瞬間を狙って私に付きまとっていたのかもしれない。私はもう天使に戻ることは出来そうもないが、ヤツの堕天方式なら可能だろう。
何にせよ人間になった以上、ヤツについて考えても仕方がなかった。

こうして私は神崎蘭子の前に降り立った。最後不愉快なことはあったが、蘭子を目の前にして全ては吹き飛んだ。
蘭子は嘆くのも忘れて周囲を見渡している。彼女からすれば、瞬時に雷雨が晴天へと変わり、ドレスと宝石が元通りになり、私が急に現れたのだから無理もない。
その様子を見て、私は改めて魂が震えるのを感じた。

なんて愛らしいのだろう……。

心拍数が高まり、体温も高まり、脳は勝手に快感物質を分泌し始める。
これが肉体か……あぁ、なるほど……。どうやら私が神崎蘭子のファン第一号らしい。

「大丈夫よ。あの子は生きているわ」

私の言葉に蘭子は瞠目する。

「あの子……名前は――」

このセカイ線では蘭子以外に知る筈のない、遥か遠くのセカイの姫の名を告げる。
それで蘭子には伝わった。決してひとりぼっちではないということが。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:29:30.70 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Asuka≫

Dimension-3としての活動は予定通り、六月末までの約一か月間続いた。
最初こそ危ういユニットだったけれど、最終的にボクも志希も終わりを惜しむ程度には楽しんでいた。ユニット活動が終わってからは、志希とは親しい友人として付き合うようになった。

Pの言う“台本”とやらでは、Dimension-3の後はCAERULAというユニットを結成することになっていた。
CAERULAの予定メンバーはボクの他に塩見周子、速水奏、鷺沢文香、橘ありす。いずれも超人気アイドルと言うべき逸材で、彼女達が一堂に会したというだけで話題になること間違いなし。しかも予定されていた曲もそこはかとなくSF感があって、それはボクのアイドルイメージに親和性がある。つまり次なるステップアップとしては、これ以上相応しいものはないと思えるユニットだった。
しかし結局、別のユニット、しかも二宮飛鳥に期待されていたアイドル像からかけ離れたコンセプトのLittlePOPSに加入することになった。
というのも、“ALD”の出目がそうなったからだ。

Pが持っていた不思議なサイコロをボクは“ALD”と名付けた。
Anti Laplace's (demon) Dice 略してALD。

蘭子の初ライブの日以降、ボクのアイドル活動に関して何らかの選択が必要な場合にはALDを使って選ぶことにした。
その方法はPが言っていた通りだ。
何か選択できるタイミングがあればどんなときにでも、そして仮に強い第一候補があったとしても、あえて幾つか別の選択肢を考える。そして各選択肢をALDの六面のいずれかに対応させた後でALDを振り、その出目の選択肢を採用する。ちなみに出目は絶対――出た以上は必ずそのルートを選択する。もちろん振り直しも無し。
どんなユニットを結成するかなんていう超重要案件も、どのライブやテレビ番組に出るかということも、グラビアの水着の柄なんかを決める為にもALDを振った。その他、Pと一緒にいるときには食事場所やメニューなんかもALDで決めたりした。

そうしてALDを振り始めてから三か月ほどが経った。
その間にボクはLittlePOPSの他にも二つのユニットで活動し、中規模のライブに六回、大規模のライブに二回出場した。またライブ以外にも、グラビアやグッズの監修、バラエティ番組への出演など実に様々なお仕事をした。
サイコロに身の振り方を任せるなんて、率直に言って馬鹿げていると思う。しかし楽しかった。Pとあーだこーだと言い合いながらサイコロの目――ボクの可能性――を検討することは、実に楽しかったんだ。
それに、ALDに任せた選択肢とはいえ、いつだってPはボクに全力を出すよう仕向けてくるわけで、それを乗り越えてやることには達成感があった。

その結果として、二宮飛鳥は“コンセプトブレブレな中堅アイドル”という実に有り難い評価を世間様より賜ってしまうことになってしまったわけだが……。まったく、ままならないモノだ。
でもその甲斐あってか、二宮飛鳥と神崎蘭子を関連付けて語られることは回避できた。

一方、蘭子はこの三か月で大きく羽ばたいた。蘭子の奇跡のステージはまぐれや錯覚なんかじゃないんだから当然の結果だろう。
期待の新人と見做された蘭子は小規模ライブをさっさと卒業し、中規模ライブに引っ張りだこになった。そしてその度に不可思議なパフォーマンスで観客を魅了した。当然ファンも倍々に増えていく。
そして二か月もすれば蘭子の主戦場は大規模ライブへと移っていた。その頃には神崎蘭子というアイドルの、特異な才能を疑う者はほとんどいなくなっていた。
蘭子が純然たる自力でそこまで至った時点で、ボクはアイドルとして彼女に完全に抜かされてしまったことになる。そのことについて、悔しくなかったといえば嘘になる。かといって、まともにやり合ったところで現状は勝てる見込みはない。
だから今は雌伏のときなのだと、自分で自分を納得させていた。
しかし、それがある種の平和ボケであったということを、ボクとPは唐突に思い出させられることになった。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:30:12.91 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

「え〜マジっすかぁ……容体は? ………あぁ、それなら良かったです。いえ、それは……あー………なるほど……はい、はい……」

Pの居室でのレッスン後の報告と雑談を終え、帰宅しようとしたときだった。
タイミングよく部屋の電話が鳴ったのだが、珍しくPの声のトーンが低かったので、ボクはドアノブを捻るのを止めソファへと戻ることにした。
普段はヘラヘラしているPの表情が随分と曇っている。そして電話の相手の言葉を受け流すような「はい」を何度も繰り返した後、電話を切り天井を仰ぎ見て「はぇ〜〜」と気の抜けた鳴き声を出した。

「何か問題が……?」
「良いニュースと悪いニュース。それと最悪なニュースと最高なニュース。どれから聞きたい?」
「っ! ……その順でいい」
「明後日のライブだが出演会場が変更になって、なんと大規模会場で演れるようになった」
「へぇ……」

聞けば、ボクたちの出る予定だった中規模会場の音響設備に致命的な故障が生じたため、その会場でのライブは中止、出演予定のユニットは比較的近隣で開催される幾つかのライブ会場へと編入されることになったらしい。そしてボクたちのユニットは幸運にも大規模会場へ振り分けられたのだ。

「じゃあ、悪いニュース。高垣ちゃんと鷹富士ちゃんは元から、別の外せない仕事で欠場ってことだったよな?」
「……そうだね。だから明後日のステージは亜季さん、涼さんとの三人で――」
「その二人も欠場になっちゃった」
「はぁ!?」
「さっきの電話、大和Pさんが病院から掛けてきたんだけど、二人ともノロにやられたってさ」
「いやいや、その二人とはさっきまで一緒にレッスンを……」

午後から夕方まで続いた今日のレッスンを思い返してみる。すると確かに、中盤ごろから二人の動きは極端に悪くなっていた。いつもならバテるのはボクが一番なのに妙だと感じていたのだが、そのときにはもう発症していたということか?

「あっ、もしかしてボクも危ないのか……? ノロの感染力は凄まじいというし。二人とは昨日もレッスンで会ってる……」
「いや、見たところ……うん、飛鳥は大丈夫だ」
「見てわかるものかい?」
「まぁな。不安なら手洗いしっかりしとくといい」

冗談っぽくもあるが、実際のところ体調に異常は全く感じない。であれば現状はPの言う通り、手洗いうがいをしておく以外にすべきことは無い。気にしても無意味だ。

「その二人も欠場となると残りはボクだけになるわけだけど、ステージはどうなるんだ?」
「飛鳥のソロだ。本来は五人で歌う曲でも、CDにソロバージョンも収録してるんだからイケるだろ? って、ライブの責任者が言ってるらしい」
「それは……そうだけど……」
「ソロは不安か?」

これまで一人でステージに立ったことはない。いつもユニットの一人として歌っていたから。しかし事情はどうあれ、大きな舞台にソロで立つというのはアイドルという人気商売においては喜ぶべきだろう。

「不安はあるよ。でも、やれなくはないと思う」

むしろ不安なのはPの苦虫を嚙み潰したような表情、まだ聞いていない最悪のニュースのことだ。

「それで最悪のニュースなんだが」
「う、うん……」
「その大規模ライブの元々の出演者の中に、神崎ちゃんがいた」
「え……」
「しかもライブ構成の再編成の結果、飛鳥の出番は神崎ちゃんの直後になった。つーか、飛鳥がトリだ」
「ええ………」
「この順番はアレだな。十中八九、神崎Pが仕組みやがったな。ハハ……」
「えええ………」
「つまり――」
「いや、いい。理解っている……」

つまり。合同ライブの大詰め、蘭子のパフォーマンスに魂を魅了され、抜け殻になったオーディエンスに向かって、ボクは歌わなければならないということだ。
歌い切ったのに一切反応のない会場の情景が頭に浮かんで、背筋に悪寒が走る。それが現実のものとなったとき、ボクがまだアイドルを続けたいと思えるか甚だ疑問だった。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:30:50.46 ID:+IqVL7Wl0

“十月半ば、大規模ライブ、蘭子と衝突”

それはいつか聞いたようなシチュエーション。三か月前、Pが予言したことそのままが起ころうとしているのだ。それを避けるためにALDを振り続けていたというのに。

「なぁ……P。これは何なんだ? ボクたちの三か月は一体何のために……。もしかしてただ回り道をしていただけなのか?」

無意識に語気が荒くなっていた。別にPを責めたかったわけじゃない。不気味だったんだ。この状況を招いた一つ一つの要因は紛れもない偶然や不可抗力。でも、だからこその不気味さがあった。まるで、ボクたちを定められた運命へ引き戻そうとするような、得体の知れない力が働いているように思えてしまう。

「キミはどう思っているんだ?」
「……わからない」
「ッ!? 何を無責任な!」
「ふっ……違うぜ、飛鳥。そういう意味じゃない。どうなるか、わからないんだ。これが最高のニュースってやつさ」
「は…?」

いつの間にかPはいつものいやらしい笑みを浮かべていた。

「三か月前の時点では、成す術なく敗北する未来しか見えなかった。だが今は、どうなるか予測できない。神崎ちゃんに負けるのか勝てるのか、それとも〜〜!? いや、マジでわからんなんなんコレェ」
「そんなにか……」
「俺たちは今、分岐点にいるんだ。そしておそらく、どのルートに入るかを決めるのは、You……飛鳥だ」

出た、英語。

「……つまり結局は、当日のボクのパフォーマンス次第だと?」
「That's right!」
「………ライブの結果がどうなるかわからないことが最高のニュースだって?」
「勝利の約束されたイージーゲームなんて、飛鳥の趣味じゃないだろう?」

Pはそう言って、右の口角を吊り上げ挑戦的な笑みを浮かべる。これをされるとボクが乗ってしまうこと、この男はちゃんと理解っているんだろうなぁ。

「……フッ! 他人事だと思って! まぁいいさ、やってやる! これまでで最高のパフォーマンスを見せてやる!」
「それでこそ二宮飛鳥だ!」

まぁ、いいんだけどね。伸るか反るか分からない勝負が一番面白いのは確かだ。

「きっとこのライブが Third Stage の climax だろうな」
「……あぁ、久しぶりに聞いたね、それ」

ASUKA The Idol だとかいうふざけた叙事詩(?)だったっけ。たしかThird Stage は“叛逆のステージ”という設定にしていたな。
結局のところ、ボクがすべきは全力でのライブ。それはいつもと変わらない。分かり易くて有り難いね。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:31:22.33 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Ranko≫

『よもや、かの白騎士までもが明日のミサへと召喚されるとは。大いなる祝福は約束されたようなもの。共に天界への扉を叩こうぞ!』

飛鳥ちゃんに送ったメッセージを改めて眺める。
既読表示が付いてからもう5分くらい経つけど、まだ返信は来ない。

「て、天変地異か……?」

最近は飛鳥ちゃんと連絡取ってなかったのに、急に送ったからびっくりさせちゃったのかな? 文章もいつもの感じにしちゃったし……。

「やっと飛鳥のライブが観られるんだもん……」

明日の合同ライブに飛鳥ちゃんも出ることになったって聞いて、居ても立っても居られなかった。
飛鳥ちゃんのステージが観れたのは、Dimension-3のあのライブが最初で最後になっちゃってる。出来ることなら全部観に行きたいけど、初ライブをしてからというものすごく忙しくなって、とても時間がとれない。

「ほんとうに素敵だったなぁ〜〜」

飛鳥ちゃんと一ノ瀬志希さんの、自分たちのすべてを曝け出すような熱唱。あの衝撃は今も私の胸に鮮明に残っている。
プロデューサーは「友達贔屓でそう感じるだけよ」なんて言うけど、あのライブ以上に感動したライブはまだ観たことがない。

「ムフフ……!」

だから本当に明日が楽しみ!
しかも歌う順番は私の方が先だから、落ち着いた気持ちで飛鳥のライブが観れるし! そこはプロデューサーに感謝!

――ピコン
「きたぁ!」

メッセージの受信音に機敏に反応して、携帯を持ってベッドにダイブする。

『明日のライブ ボクは全身全霊を以って臨む』

飛鳥ちゃんからのとても簡潔なメッセージ。その簡潔さからは寧ろ飛鳥ちゃんの強い意気込みが感じられた。

「ゴ、ゴクリ……!」

明日はスゴイことになりそう!
私も頑張ろう!
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:31:53.15 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

「ふざけるな! こんな結末認めないぞ!!」

ダンッ、とダッシュボードを叩いた手がジンと痛んだ。それで事態が好転するはずがないのは理解っていたが、じっとしていることに耐えられなかった。
運転席のPは大きくリクライニングさせた背もたれに身体を預けたまま、瞑想するように目をつぶっている。
……いや。もしかしてただの昼寝?

「おいP! 起きろ! 状況が理解っているのか!」
「ンゴッ!?」

お腹をはたいてやるとPは豚のように鳴きながら跳ね起きた。やはり昼寝をしていたな。呑気か!

「ふにゅ〜〜……。もう来たん〜?」
「変な声を出すんじゃない。警察もクレーン車もまだ来ていない。だから、考えるんだろう! ここから脱出する方法を!」

車内から周りを見渡しても三十分前と変わらない光景が広がっていた。
横転した数台の大型車によって、高速道路上の車の流れは完全にストップしたまま。
行く手を阻まれた数十台の乗用車の持ち主たちは、ある者は車外で煙草をふかし、ある者は何処かへ電話を掛け続け、そしてある者はPのように座席を倒して不貞寝をしている。そうしながら、救助車両の到着を待っている。

「時間が迫っているっていうのに……っ! クソ!」

郊外のライブ会場へと向かうため、高速道路を走行している最中にソレは起こった。
前方を走っていた大型のタンクローリーが、緩いカーブに差し掛かったときに突然横転したのだ。そして何十台かが停車して、誰ともなくタンクローリーの運転手の救出作業に取り掛かった頃、後方でもほとんど同じこと――大型トラック数台の横転事故――が発生した。
見た目はアクション映画のクライマックスシーンのように大変なことになっているけれど、現在のところ爆発や炎上の恐れは無く、軽傷者しかいなかったのは不幸中の幸いといえる。しかし、高架になっている場所での事故だったので、前後は元より、道路外に出ることも出来ない。つまり、ボクたちは高速道路上に閉じ込められてしまったのだ。

「いくら何でも遅すぎないか……?」

この状況になってからもう二時間以上経っているのに、クレーン車はまだしも、警察さえ到着しないなんて、明らかに異常だ。
会場入りの予定時刻はとっくに過ぎている。それどころか、進行に問題が無ければライブはそろそろ折り返しの頃だ。いくらボクの出番が最後だといっても、こんなところで一秒だって油を売っていられないというのに。

「んとな、ここに救助車両が到着するのはな、どうやら三時間後らしい」
「三時間!? ライブ終わってるじゃないかっ! 警察は一体何をしているんだ!」
「まぁまぁ、そう言ってやるなって。ここ以外にも前や後ろの方でも同じような事故が六か所で発生してるからしゃーないべさ」
「は? 六か所……? そんな莫迦なこと……」

しかし携帯で『高速道路、事故』と検索してみると『○○自動車道の数か所で大型車両による事故発生』という見出しがすぐに目に入った。身体から力が抜け、携帯が膝の上に滑り落ちる。

「……なぁ、P。もしこのままライブに間に合わなかったらどうなるんだ?」
「神崎ちゃんに不戦敗するとか以前に、クビになるだろうな」
「っ……!」

亜季さんと涼さんがノロでダウンしたことは、上の人間には「自己管理がなっていない」と相当マイナスに判断されているらしい。ここで頼みの綱のボクがライブをすっぽかしたら、火に油を注ぐようなものってワケか。不可抗力だろうと関係なしって、世知辛すぎる。

「………あ」

ふと、この絶望的な状況にデジャヴを感じた。ボクのデビューライブの日の泰葉さんとほとんど同じ状況なのだ。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:32:21.03 ID:+IqVL7Wl0
あの日、泰葉さんは大渋滞に捉まって、絶対に出なくてはならないライブに間に合わなかった。何のお咎めもなかったのは、ユニットメンバーが公表されていなかったのをいいことに、ボクが代役を務めたから。
しかし、今回はボクの代役を出来る人なんていない。あの時とは違い、ボクが出るっていうことはもう周知されているから。ボク自身がライブに出る以外に助かる方法はない。

「なんだこれは……? こんなの本当に……」

運命がボクを敗北させようとしているみたいじゃないか――と嘆く寸前、ボクは頭を振ってそれを拒んだ。運命とか神の台本だとか、そんな胡散臭いモノに屈服したくないと、強く感じたのだ。

「そういえば……!」

そして思い出した。あのデビューライブの帰り道でPが、泰葉さんがライブに間に合う方法は何通りもあったと言っていたことを。

「あるのか……? ライブ会場へ辿り着く方法」
「…………当然だろ? へへっ!」
「っ! それはどういうっ?」
「フッ……」

不敵な笑みを浮かべるP。それは『当ててみろ』という挑発だった。
車外に出て、改めて周囲を見渡す。停車している数十台の乗用車とその乗員。前方と後方で進路を塞いでいる横転したままの大型車。今見るべきは前方だろう。
タンクローリーが道路の進行方向とほとんど直角の向きに横転している。フロント部分は道路側面の壁にぶつかって、密着したままの状態。リア部分も逆側の壁にめり込んでいる。何台かで牽引すれば動かせなくはないみたいだけど、タンクの中身が有害物質であるため、やはり不可。専門の重機による慎重な撤去が必要。
道路両側の壁はそこまで高くない。それにブロック塀よりかはよっぽど幅があることに気が付いた。

「……ちょっと怖いけど、壁の上を伝って向こう側へ行くことは可能か…」
「ふーん。んで、そこを乗り越えてからどうするんだ? ずっと歩いていくのか?」
「あ、そうか……クッ!」

前の方でも何か所かで事故が起こっているらしいから、少なくともそれを全部越えるまで歩かなくてはならない。数キロか下手したら十キロとか? それにはどれだけの時間がかかるだろう? ライブの出番が刻一刻と近づいているっていうのに、そんな時間的余裕はない!

「飛鳥、考え方がやや平面的だな。もっとさ、Dimension意識してこうぜ?」
「は? でぃめん、しょん? ……っ!」

Dimension……Dimension-3……三次元。そうか!
道路の端まで駆けて行き、背伸びして壁から下を覗き込む。十メートルほど下方には一般道が走っていた。そこの交通の流れは正常のようだ。

「P、キミのことだ、車にロープぐらい積んでいるんだろう?」
「まぁな」
「やはり! それでこの高架道路から下まで降りる。やれなくはないはずだ。そしてタクシーを捕まえて会場へ。これしかない!」
「俺らが乗ってきた車はどうする?」
「それは……そうだ! ここで足止めを喰らってる他の人に乗って行ってもらうように依頼して、後で引き取りに行くっていうのはどうだい?」
「ふむふむ。100点中のぉ〜〜〜」

Pが目を細め…たかと思えば見開き、口をもにょもにょ、眉間の皺をぐにょぐにょ蠢かせる。なんだ? 正解発表前の茶番か?

「15点ってとこだな」
「なっ!?」

全然ダメじゃないか。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:32:46.36 ID:+IqVL7Wl0

「岡崎ちゃんのときならその方法で良かったんだけどな。今日はダメだ。下道に降りても、会場に近づくにつれ激混みしてくるだろうな。そういう“感じ”がする」
「え……じゃあ、じゃあ……どうすれば……っ!」
「だから、三次元だ。まだあるだろう?」
「は?」

前も後ろも下もダメ。なら残るは上だ。でもそこにあるのは厭味ったらしいくらいの青空。

「……P、良い事を教えてやろう。人間はね、飛べないんだよ。鳥の字を名前に持つボクだって例外じゃない」
「………そうかな?」
「……何を、考えているんだ?」

何かすごくイヤな予感がした。青空に負けないくらいにいやらしく、Pがニヤついていたから。

「まぁまぁ、とりあえず、コレ着けてよ。そろそろだからさ」
「な、何コレ? いや、そろそろって……?」

Pが差し出してきたのは、ベルトが数本つながったような、あまり見たことのないモノだった。これが何なのかPに確認しようとしている間に、気がつけば装着させられていた。いつの間に!?
腹と胸と太ももでそれぞれベルトが締まって、ボクの身体にガッチリと固定されている。それでも尚、絞められていないベルトが何本か残っている

「ちょっと、これってハーネスとかいう……」
「おっ、見えてきた。コ、コ、ダ……っと」

Pが遠くの空に腕時計を向けると、何度か連続的に光を放った。すると直後、その方向から応えるようにチカチカと光るものがあった。
光ったのは上空に浮かんでいる米粒大の影で、それが少しずつ近づいてくる。独特の風を切る音を纏いながら。

「既に呼んでたんだ。俺が待ってたのは救助車両じゃねぇ」

“それ”はもう視認できる距離にまで近づいてきていた。
ババババ! という、周期的な轟音の到来に周囲の人間が空を見上げる。

「ヘリ、だと……っ!?」
「だが、ちょっとばかし問題があってな」
「な、なんだって……?」

ボクが着けたハーネスから垂れたままベルトをPが掴む。そしてそれを自身の胴体へと巻き付け――。

「――ぐえっ!?」

ベルトを引き締められ、ボクの前身はPの背に密着固定された。
そのとき、ヘリから何か長いものが垂れ下がっていることに気付いた。それは縄梯子だった。ヘリは道路と平行に、外側数メートルのところを航行して向かってくる。
脳内に或るイメージが湧き、ゾッと背筋が寒くなる。

「な、何を考えている!? 着陸するスペースなら前の道路が空いてるだろ!」
「残念なことに、もうそんなに時間がねぇんだ。だから横着しちゃう」
「待てっ! ねぇ!? 待って!ねぇったら!」
「あぁ、心配するな。車のことなら、さっき友達になった気の良い兄ちゃんに頼んである」
「そんなことは聞いてな――」
「掴まってろ、よっ!」
「――ちょあああーーっ!」

Pが猛然とダッシュし始める。
彼の頭をタップしても止まるどころか、笑いながらぐんぐんとスピードを増していく。
この男、正気か!?
ボクはPの首に両腕を回し、腰を両脚でカニばさみせざるを得なかった。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:33:15.06 ID:+IqVL7Wl0

「うあああーーっ!」

Pは道路の中央を真っ直ぐ前方へ駆けていく。その先には横転したタンクローリー。倒れていても高さは優に二メートルはある。しかしPは加速を続けていく。
いやそれよりもなんだこのスピードは!? 人が出せるものなのか!?

ダン!ダダっ!
「――ヒッ!?」

数発の衝撃と直後の浮翌遊感。そして回転。頭上? いや、下? に見えたのはタンクローリー。は?

「跳んっ!? ふあああーー!」

そして着地。止まらない疾走。わけがわからない。
一切の障害物が無くなった道路でPは更なる加速をしていく。背後ではヘリの音がますます近づいてくる。
Pの進路がゆっくりとズレ始める。中央から徐々に左側――ヘリが来ている側――へと近づいていく。
ああ、畜生、勘弁してくれ!

「やだやだやだあああーーー!」

渾身の絶叫は雷鳴のようなプロペラ音にすべて掻き消される。
すぐそこにヘリがいた。疾走するボクたちの左真横数メートルのところに、スラッシュ状態の縄梯子が静止して見えた。「行くぞ」と聞こえたような気がした。Pが道路側面の壁を易々と駆け上がっていく。そして――。

「We can fllllllllyyyyyyyyyy!!」
「んあーーーー!!!」

さっきとは比べ物にならない浮翌遊感。
頬を切る風。地面の植生。空の青。
白んでいく視界。

あぁ、これが、気ぜ――――――
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:33:42.39 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by 蜈?ココ蠖「≫

「さぁ、行きなさい蘭子。もうこれ以上ファンを待たせるわけにはいかないわ」
「で、でもぉ〜……飛鳥がまだ……」
「大丈夫、Pなら必ず間に合わせるわ。蘭子は心配しなくていいの。それに二宮飛鳥のことに気をとられて、ライブ進行を滞らせたり、酷いステージになってしまっただなんて、それを知って一番悲しむのはあの子じゃないかしら?」
「それは……!」
「だからあの子のためにも、蘭子が今すべきことは精一杯歌うことだと、私はそう思うわ」
「………う、うんっ!」

スモークが焚かれたステージ上へと蘭子が向かって行く。
我ながら白々しいことを言ったと思う。しかし蘭子の為だから仕方がない。蘭子をトップに導くためには全てが肯定されるのだ。

スモークが晴れ、蘭子の姿を認めた観客達が歓声を上げる。それを蘭子は瞳を閉じたまま一身に受ける。そして開眼。音楽が流れ始めた。

歌い出しのワンフレーズを聴いただけで、蘭子がまだ二宮飛鳥のことを案じているのがはっきりと分かった。
このステージでは“力”を発現させることは難しそうだ。何よりもまず精神コンディションが万全であることが必須だから。

「フン……」

二宮飛鳥め。よくも蘭子の心を掻き乱してくれたな。本当に忌々しい。
思えば蘭子のデビューライブ以来、ことあるごとに二宮飛鳥との対戦の流れを作ろうと画策したものの、ほとんど上手くいかなかった。Pの不可解ともいえるチグハグなプロデュース方針を読み切ることが出来なかったからだ。全く以て腹立たしい。
だがしかし。二宮飛鳥を踏み台にすることを諦めかけていた矢先、今日のライブ構成が大幅に変更されるという報を、偶然いち早く受けた。それによって私はPが干渉してくる前に、二宮飛鳥を潰すための出演順を仕組むことに成功したのだが――。

「………フッ」

――それは思ってもみない形で奏功しそうだ。
Pたちの到着が遅れているのは、高速道路上での同時多発事故が原因らしい。ニュースサイトを見る限りにわかに信じがたい事故だったが、それでもやはり、彼らはここに来るはずだ。おそらくはあと数分もしない内に。その程度の芸当、Pならば軽くやりおおせることは分かっている。
しかし今日が、二宮飛鳥のアイドルとしての命日になるだろう。

――――ぎぃ……きしっ……

広大な公園に建てられた特設の野外ステージ。それを取り囲むように建てられた煌びやかなセットを見渡せば、既に“兆し”は顕れ始めている。
蘭子がステージに立っている間は問題ない。それでも“それ”は必ず起こる。

二宮飛鳥はこのステージに立つことはできない。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:34:11.74 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

――ゆっさ、ゆっさ、ゆっさ。

……ゆりかご? にしては随分とアップテンポ。首ブランブランで心地よくないし。ほっぺたもエクステで擽られて――。

「――んふぁっ!?」
「おっ、目ぇ覚めたか。おはよう飛鳥」
「へふ……? P? あれ……?」

目の前に覗き込んでくるPの顔。背中と脚に自分以外の体温。それはPの腕。あぁこれ所謂“なんとか”抱っこだ。

「はっ? なんで? いや、ちょ、ちょ、ちょっと待って。降ろして」
「大丈夫か? 無理すんなよ」
「だ、大丈夫だから……っ!」

Pの腕から逃げるように地面に降りる。
一歩目はふらついたけれど、何度か屈伸をするうちに身体の感覚が戻ってきた。
そして気付いた。ここはライブ会場のバックヤードだ。スタッフの人たちがあちらこちらへ走り回っている。

「そうか、無事着いたのか……」
「おうともよ」
「あれ? この衣装……いつの間に?」
「あ、あー安心しろ。着替えさせたのはヘリに乗ってきてもらってた明ちゃんだ」
「いや、そこの心配はしていないが……」

ボクの服装は気絶前の私服とは変わっていた。どうやら会場で着替える時間がないことも見越して、ヘリに衣装を積んできてもらっていたらしい。

「これは……前に、宣材写真を撮ったときのものか……」
「用意できる衣装がそれしかなくてな」

腹部を大胆に露出したトップスとショートパンツ。二の腕あたりまであるアームカバーと、サイハイブーツ。身体の各部に巻き付けた白の細身のベルトと黒のマント。そして腰に着けたキーを象ったオブジェ。それは宣材写真を撮るだけにしか使わなかった衣装だった。
ALDの出目の所為とはいえ、気に入っていたのに勿体ないと思っていたから丁度いい。
本来着る予定だった衣装のテイストとは全く違うけれど、どうせボク一人なんだから趣味丸出しの衣装でも問題ないだろう。

「フッ、悪くない……!」
「ほい、これも」

Pが差し出してきたベレー帽を受け取り、かぶる。Pが頷いてヘタクソなウインクをしたので、ボクが見本を見せてやった。
そのとき会場中に歓声が響き、イントロが流れ始めた。聞き覚えのあるそのメロディは蘭子の曲だ。
確かに間に合ったらしいが、ゆっくりもしていられない。ボクとPはステージの袖まで足早に向かった。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:35:30.97 ID:+IqVL7Wl0


「あら、来たのね」
「だって俺だぜ?」

舞台袖にいた神崎Pがボクたちを見て早速悪態をついたが、Pは全く気にも留めず軽口を叩き始める。
彼らの下らないやり取りなんて放っておいて、ボクはステージ上の蘭子の様子を伺った。

―――――!

「……ん?」

蘭子の歌声は疑いようも無くハイレベルなモノだけど、奇跡というほどの響きは感じられなかった。観客席も普通に盛り上がっているだけで、以前のライブで目の当たりにしたような異様な雰囲気はない。
何故“不発”なのかは理解らないが、これならば、蘭子の後でもボクの歌はちゃんとオーディエンスに響くのでは……? 少なくとも、アイドルとして心が折れるほどの酷いステージにはならなさそうに思える。

「P、これなら――」

振り返り、Pを見る。

「かぁ〜〜っ!そーきたかぁ〜〜…」
「え? 何が?」

さっきまで間抜けな顔して神崎Pといちゃついていたくせに、今Pは神妙な顔でステージを、いや、ステージの裏側の方を見ていた。そして直ぐに「ちょっと様子見てくる」とそちらの方へ駆けて行った。

「……なんなんだ?」
「フッ……」

そんな彼を見送った神崎Pは嘲るような微笑を浮かべながら近づいてきて、ボクの横に立った。

「………」
「………」
「…………」
「…………」

いや、何か喋れよ! ほんっと大人げないなこの人! 別にいいけどさ! 仲良くなりたいだなんて一ピコグラムも思ってないし!
ボクと神崎Pはそのまま無言で蘭子を見守り続ける。

「おっけー、おっけー。大体わかったわー」
「……P、一体どこに行って……?」

ボク史上最も不愉快な一分間が過ぎる頃、Pが舞台の裏側から戻ってきた。その後ろには作業着を着た、ただならぬ雰囲気の壮年の男性を連れている。その人は異常なほど汗をかいていてしかも明らかに挙動不審だ。

「……すよぉ……もう……まいだぁ……ふぅぅ……んで……なんで……」

まるで呪詛がごとく何事かをボソボソ呟いてる。いや、恐いんだが?

「P? そ、その人は……?」
「あぁ、このおっちゃんは――」
「――ぎっ、ギリギリなんですよぉ! おおおお大手さんの無茶ぶりを! いつだって少ない人数でどうにかしてるんですよぉ! そそそっそれなのに別の会場が中止になったからって! こっちでそのセットを使えなんていきなり!そんなの、そんなのぉ……っ!」
「えぇっ……?」

男性は急に捲し立て始めた。怒りを露わに、口角には泡を溜めている。意味不明だ。
しかし――。

「すっ……! すすいませんでしたぁああっ!」
「えぇっ!?」

――一転して土下座である。ついていけない。

「もうだめだぁおしまいだぁ! 会社つぶれるぅぅ〜〜〜っ」
「まぁまぁ、おっちゃんよぉ、そんなに気ぃ落とすなって」

泣き出してしまった男性の背中を、Pがさすって慰める。つくづく意味不明だ。

「な、何を見せられているんだボクは?」
「まず要点から言うとな。今神崎ちゃんが立ってるステージ、もう限界なんだ」
「……は?」
「神崎ちゃんが歌ってるうちは問題ない。だが、飛鳥が歌い始めてイイ感じに盛り上がってきた頃、ステージを取り囲んでるハリボテやら骨組みやらが一斉に崩れ始める」
「………はあっ!?」
「ひーーーーーいいんっ! ごべんなじゃーーーあああいいいいっ!!」
「おっちゃん元気出せってばよぉ〜〜。鼻水すごいから」

どうやらむせび泣くこの男性が、この野外会場の設営を請け負った会社の社長さんらしい。問題は、開催が中止となったライブ会場で使う予定だった舞台セットを、急遽この会場で使用するよう押し付けられたこと。あまりに急な指示であったため、組み直すための時間も人員も足らず、至る箇所で手抜き施工にならざるを得なかったのだという。
Pの見立てでは、その手抜きが祟り、最終的に舞台上のセットはほとんど全てが倒壊する。つまりステージは滅茶苦茶になるというわけだ。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:36:02.77 ID:+IqVL7Wl0

「フフッ……」

愕然とするボクに、神崎Pが視線を送りながら失笑を漏らした。まさかお前が仕組んだのか?

「何なのかしらその目は? これは不幸な偶然が積み重なった結果の、ただの手抜き施工。それ以上でもそれ以下でもないわ」
「うーん辛辣ゥ。でもその通りなんだよなぁ」
「お゛お゛ぉ゛ー゛ー゛ー゛ん゛ん゛ん゛っ゛!!」

男性の嗚咽が地面を虚しく震わせる。
会場を包み込んでいた音楽がオーディエンスの歓声に取って代わられた。蘭子の歌が終わったのだ。蘭子は持ち前の独特な語彙で観客席へ感謝を伝え始める。それが終わればボクの出番だ。もう時間がない。
Pを見ると、彼もボクを見ていた。いや、たぶん、ボクが見るのを待っていた。ボクの言葉を、決断を、選択を、待っているのだ。

「ッ……!」

“選択”という単語が頭によぎると同時にALDを想起した。ALDで決めてはどうかなんて考えが浮かんだんだ。この三か月、数えきれない程繰り返した遊戯。ALDを振って、演るか、演らないか、を決めたりなんて………。

「ボクを……舐めるなよ……っ!」

ボウ、と。熱いものが胸の奥で燃え始める。
一体何のためにここに来たのか? 酷い足止めでやきもきさせられた挙句、空を飛び、死ぬ思いまでして、ここに来たのは何のためか?
無論、あのステージに立つためだ。ならば選択の必要なんてない! だからALDを振る必要もないっ! 振ってたまるかっ!

「ボクが演ることは確定事項だ!ボクはあのステージに立つ。何の選択の必要も無くね。何故なら、ボクが既にそう決めているからだっ!」
「………」
「ハリボテが倒れかかってくる? 骨組みが崩壊する? フンっ! そんなもの躱してやる! P! ボクは演るぞ! これは確定事項だ! いいな? いくらキミがダメと言ったって――」
「フヒッ!」
「……P?」

ギラついた笑みをPは浮かべていた。それはいつもながらにいやらしく、同時に異常なまでの頼もしさがあった。

「フヒヒッ! 誰がダメと言ったって?」
「え、Pが……」

あれ? 言ってなかったか……。

「ステージが崩れるとは言った。だが、ライブが出来なくなるなんて一言も言ってねぇぜ、俺はよぉ!」
「P……!」

しかしミスリードを狙っただろう? まったく食えない男だなキミは。まぁ、いい。

「だがもし“振って”決めようとしてたら、辞退させるつもりだったがなっ!」
「……ハハッ! ボクを見縊らないで欲しいなっ!」
「ふっ、て……?」

“振る”云々はボクとPにしか理解らない符丁。神崎Pが表情に疑問符を浮かべるのも当然だ。だが教えてやる理由はない。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:36:30.51 ID:+IqVL7Wl0

「とはいえ、飛鳥の反射神経だけで躱しながらライブってのは、流石にキツイだろうな」
「ムッ…! なら、どうすれば……」
「だから俺が裏で手伝う。崩壊自体は止められないが、崩れ方を制御することなら――」
「死ぬわよ? 二宮飛鳥」
「っ……」

神崎Pが口を挟んでくる。なんて不吉なことを言うんだこの女は。
しかし実際問題、ステージ上のセットが全て崩壊するとなると、瓦礫の山が出来上がるだろう。その中で無傷でいられる方が不思議な気もする。

「なんだよ神崎P、俺の力がその程度だと思ってるのか?」
「いくら貴方でも……いえ、人間の能力では、この状況を制御することは不可能よ」
「……なるほど。お前にはそう見えているのか。ハハッ! 飛鳥、このねーちゃん案外分かってねーや」

ボクの背後に回ったPがボクを支えるように、両肩にその温かな手を乗せる。神崎Pの言葉で大きくなりかけた不安は、しかし「俺たちならやれる」というPの囁きで霧散していく。
 
「俺たちを! 見縊らないで欲しいんですけどぉっ!」

Pが自信満々に言い放つ。おそらくは不敵な笑みを浮かべて。そしてたぶん、ボクも同じ表情になっていることだろう。

「ボクの台詞をパクるんじゃない。フフッ」
「……忠告はしたわ」

神崎Pはボクたちに興味を無くしたように背を向け歩いていく。その胸に今しがた舞台袖に戻ってきた蘭子が飛び込んだ。
ボクの姿を認めた蘭子が安堵したような表情を見せ、その場にへたり込んだ。その様子から、蘭子はボクの到着が遅れていたことを案じていたのだとすぐに理解った。

「ありがとう、蘭子。頑張るよ」

蘭子の元へ駆け寄りたい気持ちを抑え、そう独り言ちる。
それから崩壊していくステージの攻略法について、Pのレクチャーを受けた。それは実にシンプルだった。

ジャケットを脱ぎ、ワイシャツを腕まくりしたPがボクの目を見て頷く。不運な社長さんの顔は相変わらずドロドロ。
そんな二人と蘭子に見送られながら、ボクはステージへと駆け出た。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:36:58.97 ID:+IqVL7Wl0


―――――!!!

五千を優に超えるオーディエンスの関心がボクへと殺到する。が、それはすぐに舞台袖へと向けられた。おそらくは本来一緒に登場するはずだった、亜季さんと涼さんの登場を期待して。あるいは病欠となったその二人の穴を埋めるべく、楓さんか茄子さんがサプライズで登場することを期待して。しかしボク以外に出てくる者はいない。
これは二宮飛鳥一人だけのステージなのだと、そう理解するに至った観客席に落胆ムードが広がっていく。

――あの五人の中で、なんでよりにもよって二宮飛鳥なんだ。
――デビュー当時ゴリ押しされていたくせにパッとしない中堅アイドルの。
――てゆーか、そんなヤツがトリっておかしくない?
――まーたゴリ押しかよ。

会場のそこかしこから厳しい言葉が聞こえてくる。まぁ仕方ないだろう。

「………悪いね」

誰にも聞き取れないぐらいの――ヘッドセットマイクにも拾えないぐらいの――極微な声量で呟いた。そのつもりだった。しかし――

『構うこたねぇ。ぶちかましてやろうぜ』

――予期せぬイヤホンからの言葉に、思わず笑みが零れる。

「言われるまでもないさ」

この会場の雰囲気はボクにとってはアウェーと呼んでも差し支えないだろう。
だがアウェーごとき、今のボクには些末事でしかなかった。いや、アウェー程度ならヌルく感じてしまう程だ。
想定では蘭子のパフォーマンスに魂まで魅了された観客を相手にすることになっていたんだからね。それからすれば、全然マシだ。二宮飛鳥の失点を探そうと耳目を集中させてくれるなら尚良い。観客席の無思慮なざわつきには、心躍りさえする。

「さぁ――」

客席側の高い位置に設置されたスポットライトがボクを指向し、ステージ側のライトは一旦照度を落とす。ちょうどそのとき遠方2時の方向で、太陽が遠方の山中に没した。

「It's Showtime!!」

ボクの叫びをヘッドセットが拾い、会場に響き渡る。リハも出来なかったというのにマイクボリュームの調整は完璧。流石はPだ。
オーディエンスたちは口を閉じ、瞳を皿のようにしたのは彼らの習性か。ボクはくるりと身を翻して、観客席に背を向け、最初のポージング。

『“始まる”のは四十七秒後からだ。それまでは普通でいい』
なるほどね。了解だ。

ステージの左右に配置された、数メートルの高さのある特大のスピーカーが音を吐き出し始める。聞きなれた軽快イントロ。
この一か月間、何度も歌ってきた曲のはずだが、これほどまでに新鮮な気持ちで向き合えたことがあっただろうか?
ハハハ、良い、良いぞ。コンマ一秒でも早く動きたくて、歌いたくて堪らなくなっている!
旋律に乗り両手を開いてダンスを開始する。ステップを刻み腕を振り回すと、爪先にまで神経が通っている感覚。確信。ボクは今、最高のコンディションにある。
遥か遠く彼方を指差して、歌を叫び始める。

まったく……。ただステージに立って歌うだけだというのに、遥か遠くの月面に立とうとするような困難な道のりだった。だからだろうか? 今ここに立っている意味を否が応でも考えてしまう。
それは叛逆の印であり勝鬨。
ついさっきまで、ALDを振りまくった三か月間は全て無意味だったのかも、なんて考えてしまいそうになっていた。でもボクとPの叛逆には、確かに意味があったのだ。ボクの歌は、今こうして、オーディエンスたちに届いているのだから!

――――――!

彼らは正直だ。色眼鏡でアイドルを見ることもあるけれど、良いパフォーマンスには必ず良いレスポンスをくれる。それがボクの胸を更に熱くしていく!

『くるぞ』

そして曲が始まってから四十七秒後。サビへの突入と共に“それ”は始まった。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:37:50.05 ID:+IqVL7Wl0

『後ろへ三歩。タン、タン、タン』
「ッ――!」

Pの刻むリズムに合わせて後退る。その刹那の後――

――ガラァアアンッ!!

ボクがいた場所目がけて、ステージ左側から長くて太い金属パイプが倒れ込んできた。
目の前の一万を超す瞳が見開かれ、何事かと息を呑む。それは舞台裏も同じ。不穏な緊張感が急激に高まる。そしてボクの全身には強烈な悪寒が駆け巡る。
本当に始まった! 分かっていたけれども! まともにぶち当たればタダじゃ済まないぞ! クソ! 止まるな! ビビるな! 逆だ! ビビらせろ! オーディエンスをっ!

『踏め』
「っ!」

バウンドを続けようとしたパイプを踏みつけ、不協和音を黙らせる。
サビの歌詞を詰まらせなかったのはほとんど奇跡だった。しかしそんなことを知らせる必要はない。ただ笑ってやればいい。いつも見せられている、最高に不敵な笑みを!

――――――!!!

瞬間、会場が沸騰した。
その通り! これは演出さ! こんな演出見たことがないだろう! なんてったって神様が“協力”してくれているんだからね! ざまぁ見ろ!

Pは言った。「ステージの崩壊はもう止められない。だが、崩壊の仕方を制御することなら出来る」と。Pにはステージ上の安全地帯が理解る。だからイヤホンからの彼の指示の通りに、次から次へと安全地帯を渡りながらパフォーマンスを続ければいい。ステージの崩壊は舞台演出だとオーディエンスに思い込ませるのだ。
ボクがPの言う通りに動けなければそこで全ては終わる。神崎Pの言ったように、怪我で済まないことも起こり得る。しかし、不思議と不安は無かった。
成功する、という漠然としていながらも確固たる自信があった。Pが「出来る」と言ったから。それ以上に説得力のある根拠をボクは知らない。

『次。優雅に左へ九歩。タァン、タァン、タァン――』

今度はステージ奥側のハリボテが襲い掛かってくる。平静を装い、寸でのところで躱していく。まるでボクが倒壊ウェーブを起こしているような気分だ。
雄叫びのような歓声がボクの歌声に拮抗する。弾け合うその衝撃はなんて心地いいのだろう。

『舞い散る落ち葉のように右へ十三歩。ヒラ、ヒラリ、ヒラ――』

帰り道はハリボテを支えていた金属の骨組みが崩壊。ガランガランと、けたたましい音が会場に響く。しかしそれは、曲のテンポと意外な調和をしてみせた。

「ハハッ!」

思わず笑ってしまう。
Pのヤツ! そこまで制御しているのか! 一体何をどうすればこんなことが出来る!?
チラリと舞台セットへ視線を向けると、未だ健在な骨組みの上に一瞬だけ人影が見えた。それはすぐに消え――

『中央へ向かってトカゲのようにステップ四歩。シャッ、シャッ、シャッ、シャッ、』

――人影がいたあたりから崩れ始める。
まさか、骨組みの上を駆け回って!? 猿、いや、忍者かPは。ていうかさっきからその指示は何だ? ボクじゃなければ伝わらないぞ、まったく。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:38:21.41 ID:+IqVL7Wl0

『チュートリアル終わり。間奏後からが本番だ』
「ハァ、ハァ……ッ!」

サビ後の十秒に満たない間奏の間、ボクはダンスを放棄して、精神と身体を整えることに注力した。

ギィィィィィ〜〜

ボクを包囲するステージセットの骨組みが、軋みを響かせる。それは恐らく、今すぐにでも崩壊せんとしているのをPが抑えつけているが故の悲鳴。
足元にはパイプとハリボテが散乱しているが、未だ大量の構造物が健在だ。既に崩壊したのは精々が五分の一程度だろう。曲が終わるまでに残りも全て崩壊するなら、ここまでとは比較にならない修羅場が待っているということ。
オーディエンスもそれを直感的に理解しているのか、歓声を上げるのも忘れてボクに熱視線を送ってくる。
大音量の音楽は変わらず流れているのに、不思議な静けさがあった。
そして、二回目のAメロに突入する。

『五秒、そのまま動くな』

――オオオオオーーッ!!??

歌い始めたと同時に、色めき立つオーディエンスたち。何が起こったのか、気付いたのは彼らの方が早かったようだ。
目の前がまるで砂嵐、右肘を掠める冷たい感触、足元から巻き上がった大気でエクステが跳梁――ボクの前後左右で夥しい量の鉄パイプがステージの土台を打ち付けていく。それは正しく鉄塊の雪崩。ボクが立っていたそここそが唯一の安全地帯だった。
五秒経過。視界が拓ける。その先には狂奔のオーディエンス。ある者は歓声を、ある者は絶叫を、ある者は悲鳴を上げている。

『疾風のように前へ五歩。ヒュッ、ヒュッ――』

危険地帯と化したそこを脱出すれば、数瞬遅れて背後で倒壊音。足元からは衝撃の凄まじさが痺れるほどに伝わってくる。当たれば重傷間違いなしの破壊の嵐。それがボクを追いかけてくる。想像を超えるカオス。
前へ後ろへ左へ右へ、躱しても躱しても追いかけてくる。きっとボクらがヘマする瞬間を虎視眈々と狙っているのだ。だけど、お生憎さま。その期待には沿えそうもないよ。

「フフッ!」

集中力が果てしなく高まっていく。
この感覚には覚えがある。Dimension-3での初ライブ、志希と共鳴し合ったときのアレだ。視界が全方位へ広がるような、産毛の一本にまで神経が通うような……いや、あのときとも少し違う?

――理解る。何がどう崩れるのか理解る。Pがどんな指示を出そうとしているのかも理解る。何故か理解る。

ボクとPが共鳴している? それでPの認識力を借用出来ている?
嗚呼! なんて万能感だ!
溜息どころか息継ぎの間だって碌にない過酷なステージなのに、終わらないで欲しいと、ボクは思ってしまっている。無事に終わればそれで良い、なんて思っていたけれど、とんでもない。魂の鼓動はとっくに振り切れている。今このライブこそが、最高の二宮飛鳥だ! もっと歌っていたい、叫んでいたい、魂の赴くままに!

『次は――』

二回目のサビが終わり間奏に入ったとき、ボクはステージの右翼あたりにいた。
ここから眺めるに、残っている骨組みはもう半分もなかった。それも刻一刻と崩れていく。ボクの立っている付近にはもう何も残っていないから、このままここで歌えば無事にライブを終えられるだろう。でも――

『ナハッ! そうだ! このまま終わるなんて勿体ないよな!』

――ボクは倒壊の渦中へと歩み始める。

―――――!!!

待ってましたと言わんばかりの歓声。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:38:52.53 ID:+IqVL7Wl0
ガラガラと瓦解していく鉄の嵐の中で、ボクは舞う。ボクだけじゃなくPも一緒だった。Pがボクの手を引いて導いてくれる。離れていても、確かに彼を至近に感じる。何て心強いんだろう。

『これで、最後だ……!』

曲の中で一番ゆったりと歌い上げる箇所に入る頃、ステージを彩っていたハリボテと骨組みの全ては崩れ、物言わぬ瓦礫と化した。今ステージの上にあるのは左右の特大のスピーカーと、中央の瓦礫が積み重なって出来た小さな山。随分とさっぱりしたものだ。
Pに言われるまでも無く、瓦礫の山を上がっていく。鉄パイプの絶妙な積み重なり方で階段状になっているのは、Pの心憎い演出か。頂上にはハリボテだった板が載っていて、それは狭いけれど、ボク一人が歌うには十分なスペースだった。
曲調と合わせるように、オーディエンスは穏やかに佇んでいる。だが目は煌々と輝いている。ラスサビに向けての溜めだ。

『ふぅ〜〜……』

Pの安堵の深呼吸。その意味するところ――もう安心。
実際、成功に向かっているのをありありと感じられる。寧ろもう失敗のしようがない。
例え歌詞がトんだとしても、強引に誤魔化してラスサビまで繋げることだって出来る。
今のボクになら余裕だ。
つまり! 勝ったのだ!
ボクとPは!

『……ッ!?』

神の台本に!

『下がれええっ!!』
「――ッ!!??」

ガッギィャンッ!!
ブツン――――ッ
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:39:35.25 ID:+IqVL7Wl0

「くっ………!?」

その瞬間に起こったこと。ステージ右側にあったスピーカーの転倒。
数メートルの高さはあろうかという特大のスピーカーがボクに向かって倒れかかってきて、即席のお立ち台が粉砕された。
何とも触れていないのに、風も吹いていなかったのに、何の前触れも無く、転倒した。床の固定ボルトを引きちぎって転倒したのだ。
まるでその空間だけ天地の方向が九十度回転したかのような動きだった。さっきまでの物理法則に従った骨組みの倒壊とは一線を画する、明らかに異常な動き。すなわち未知の現象。
ここまでするのか。アイドル二宮飛鳥をここで終わらせるために。運命ってヤツは。
まぁ、どうにか躱せたのだから、スピーカーが倒れたこと自体は別に構わない。というかPの言葉で咄嗟にバックステップしてお立ち台から降りたのに、尻もちつかずに華麗に着地できたボクってかなりスゴイ?
だがしかし。ダメなのは、最悪なのは、致命的なのは、音楽が止まったこと。ブツン、と、咳払いのような掠れた音を立てたっきり、止まった。
スピーカーが倒れた拍子に、別の機器に繋がっていたコードが何本も抜けてしまったのだ。数本のコードが、引っこ抜かれた勢いで宙を舞っている。その先端の金属製のジャック部分は、これ見よがしに、照明の光を受けて煌めいていやがる。コイツらをまた機器に挿入し直してやらない限り、音楽が鳴ることはない。
このままアカペラでいく? 却下。それが許されるのは、その方が盛り上がるケースのみだ。今は明らかにそのときじゃない。
コードを拾い集め、ボクが挿しにいく? 却下。不格好過ぎる。
スタッフに出てきてもらっ――却下。ステージの失敗を宣言しているようなもの。

――待て!
何秒経った!?
三秒か五秒か、それとももう十秒いった!?
この非常時に余計なことを考えている時間はない!
オーディエンスたちはまだ、これも演出の一部かと思って騒いだりしていな――

「――!?」

彼らは皆、目を丸くしたまま、動かず、何も言わず叫ばず、固まっていた。
時間が、止まっている……!?
宙を舞っていたコードは、さっき見たときのままの状態で、中空にピン留めされているかのように不動。
何も聞こえない。まるで絵の中にいるように何の音もない。
いや……? あくまでスローモーションなのか……? コード先端の金具の煌めき方が、極僅かずつ変化していくから。
何故か確信できた。これはPが普通に見ている世界なのだと。理屈も原理も理解らないけれど、ボクとPが共に舞い、共鳴したことによってボクにも齎されたものだと。
Pの底知れない能力の片鱗。なんだいこれは。チートどころの話ではないぞ。
とはいえ、当のPはといえば、冷静ではないらしい。こんなPは珍しい……いや、初めてか。

――運命、修正力、理不尽、結局、不可変、無意味、徒労、結局結局結局、悲嘆、失敗、敗北、諦観――

理解を越えた経路で伝わってくる、Pの断片的な思考と感情。いずれもネガティブ。
そして萌芽するボクの感情X。一も二も無く、手を伸ばし、掬い上げてやる。

「……フッ……ククク……ハハッ! アーーッハッハッハーーー!!」

すると、笑わずにはいられなかった。生まれて初めてレベルの、高らかに過ぎる哄笑だった。
緩慢なセカイが躍動を取り戻す。
イヤホンの向こうのPが、ボクの笑い声に息を呑んだのを感じた。彼を少なからず驚かせることが出来たのは純粋に痛快だ。
音楽の消失という不規則事態にザワつくオーディエンスたち。彼らを見据えて再びの哄笑を轟かせ、不審がるザワめきを一掃し、逆に期待感へと変換させる。

「ハーーッハッハッハーーー!!」

ボクの奥底が――脳が、心臓が、そのどちらでもない何かが――燃え盛っていた。すごい熱だ。マグマなんて目じゃない。太陽の熱量すらも凌駕するだろう。
掬い上げた感情Xとは、怒り。
セカイの構造への怒り。つまらない台本を押し付けてくる神への怒り。そして、諦めかけたPへの怒り。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:40:10.20 ID:+IqVL7Wl0
Pのヤツ……。以前ボクに、諦めるまで失敗じゃない、みたいなこと言ったクセに、なんだその体たらくは! ボクより沢山のことが視えているから諦めるしかないって? ここを切り抜けてもどうせまた、って? 優等生ぶっているのか!? ボクの知ったことではない! キミがボクを焚き付けたんだろう? そのキミがボクよりも先に諦めるなんて許さないぞ! ボクはまだ諦めていない! 理不尽に何度晒されようと、その度にボクは笑ってやる! ボクとPならやれるんだろう? 既に言質はとっているんだからな!
嗚呼、本当に、カチンときた。

「フハーーッハッハッハーーー!!!」

三度目の哄笑。流石にザワつきが再燃し始める。
だからP、これは罰ゲームみたいなものだ。キミにならこの状況を打開することが出来るんじゃないか? いいや、やってもらうぞ。死に物狂いでね。なんてったって、キミはボクのプロデューサーなのだから。
キミにも全部、伝わっているんだろう?

『四十秒もたせろッ――!』

そう彼が言い終わるや否や、イヤホンからは風を切る音が聞こえてくる。おそらくは超スピードで走り回り始めたんだろう。頼むぞ、P……!

「どうしたんだい? そんなに目を丸くしてっ――!」

観客席へ向けて、全力の声量でボクは問い掛ける。
言わずもがな、これは戯言。この状況をPが何とかしてくれるまでの繋ぎ。つまりは時間稼ぎ。
マイクはやはり死んでいる。しかしボクの声は、不思議と会場にいる全員にはっきりと届いている手応えがあった。

「ライブの最中に、音が止まることがそんなに可笑しいかい?」

可笑しいに決まってるだろ! くっ! たったの四十秒とはいえ、咄嗟にイイ感じのメッセージを吐くのは難しいな。
数か月前の志希とのライブの記憶が頭に過る。志希はあのとき、今のボクと同じで何の事前準備もなく、しかし歌とダンスをこなしながら、ボクのメッセージを受けたマイクパフォーマンスをしてみせた。
なぁんだ。アレに比べれば、この状況は随分と楽じゃないか。ただ四十秒を凌げばいいだけなのだから。
ボクはこれでも志希のパートナーを務めたんだ。この程度、切り抜けられないでどうする!

「飾り立てられたステージ、一糸乱れぬダンス、外れることのない音階……。キミたちが見たいのは、そういうのかな?」

首肯、否定、困惑……。ザワつきが膨れ上がっていく。

「それも良いだろう……。ああ、良いだろうともさ!」
『――ンハハッ!』

ちょっとパクったくらいで笑うんじゃない! こっちは秒を稼ぐのに精一杯なんだから!

「でも残念だったね。ボクが見せるのは、そのいずれとも違う。ボクが見せるモノ、それは――」

ボクの答えに耳を傾けるように、会場がピタリと静まる。

「――叛逆」

そのとき、足元付近で何かが横切るのが見えた。そこにあったのは抜けた何本ものコードの先端。目を凝らすと、舞台袖からそこへと釣り糸のようなものが何本も伸びている。

『いつでもいいぞ。合わせる』

既に四十秒経っていたらしい。
Pは投擲したんだ。十数メートル離れた舞台袖から、糸に付けた粘着質の何かを。地を這うような軌道で、散らばって落ちている何本ものコードの数センチしかない先端それぞれに正確に。まったく、メジャーリーガーも真っ青だな。
コードは引かれることなく、そこに静止したまま。“合わせる”……そういうことか。

「舞台が崩壊しようと、運命が牙を剥こうと、ボク“たち”は抗い続ける……ッ!」

オーディエンスの期待感が手に取るように理解る。

「覚悟はいいかい? ここからだ。始まるよ。さあ……」

観客席へと向けた右手を、大きくゆるりと回して――

「Climax だ!!」

――天空へと一気に跳ね上げる。
同時に、地面にあった何本ものコードが一斉に数メートルの高さまで飛び上がった。
客席からは糸は視認できないだろうから、彼らにはボクがサイコキネシスで動かしたように見えただろう。今日一番のどよめき――いや歓声が会場中を席巻する。
飛び上がったコードは舞台袖へと吸い込まれてゆき、そして。

『ご、よん、さん――』

空気の微振動からマイクの復活を察知。

『に、いち――』

空気の揺らぎ、音楽のリスタート。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:40:55.44 ID:+IqVL7Wl0
奇しくも、途切れたのは曲中で最も静かなパートだった。故に再開はシームレスに成し遂げられた。そしてワンフレーズ口ずさむ内に、ボクもオーディエンスもトップギアにまで達していて、数十秒間の中断があったというのが遠い過去のよう。
問題はあった。スピーカーが倒れた拍子にどこかイかれたのか、吐き出す旋律の音階が狂っている。だけど、そんなこと気にする人間は最早どこにもいなかった。
超常的な演出により音楽は確かに復活したということだけが重要なリアル。何より、彼らが聴きたがっているのはボクの歌声なのだから。
そしてそのままラスサビに入り、圧倒的な勢いで駆け抜けた。

―――――!!!

アウトロの終焉と同時に、ボクは会場中の喝采を一身に受けることになった。
そしてオーディエンスに「また会おう」とだけ伝えてステージを後にした。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:41:22.40 ID:+IqVL7Wl0

「――ハァッ、ハァッ、ハァッ………クッ!?」

舞台袖に戻ったボクは強烈な眩暈に襲われた。極度の緊張と興奮状態からの解放と、軽い酸欠のせいだ。
ヘタリ込もうとするところで、背後から肩を支えてくれる人がいた。

「なんだよ、ヘトヘトじゃねーか」

とても熱く、しかし妙に心地の良い体温。見上げると、小憎たらしいPのニヤケ面。

「……キミこそ、随分と汗をかいているようだが?」

彼をよく見ると、汗以外にも埃やら油のような汚れが全身についている。舞台裏や骨組みの上で飛び回っていたときについたのだろう。

「まぁな……もしかすっと人生で一番頑張ったかも」
「……奇遇だね、ボクもだよ」
「へへ……」
「ハハ……」
「「――アハハハハ!!」」

ヘトヘトのボクたちはお互いを支え合いながら、しばしの間馬鹿笑いをした。

場内アナウンスがライブの全工程が終了したことを伝えている。会場の熱気が静まっていく。
スタッフの人たちが撤収作業を開始し、慌ただしく動き始める。その中に例の可哀想な社長さんがいたけれど、今はもう活き活きとした表情で幾人ものスタッフに指示を飛ばしている。ボクたちに気付いた社長さんは深いお辞儀をしてきた。
どうやら、手抜き設営によるステージの崩壊は、サプライズ演出ということで通ったらしい。
よくよく考えると、彼が窮地に立たされたのは、ボクたちにも若干の原因があるような……? まぁ、結果オーライということで許してもらおう。それとこれから彼の会社が貧乏くじを引かされることがないように祈っておく。

「……P」
「なんだ?」
「ボクたちは、運命を……変えられたのかな?」

舞台袖の隅の地べたに座って、ボンヤリと撤収作業を眺めながらPに聞いてみる。

「それは…………正直わからん。このライブ結果は台本とは全く違っているが、“窮屈さ”もまだ消え去っていない感じがする」
「……その“窮屈さ”が人間皆が普通に感じているものという可能性は?」
「ん〜〜……なんとも言えない。それか、もしかするとまだ分岐点上にいるのかもしれんなぁ……」
「ふぅん……?」

ちょっと感覚的な話過ぎて理解らないな。

「……だが今日、一つ分かったことがある」
「あ……それって」

ボクも一つ、今日の一連の出来事を経て、“気付き”のようなものを得ていた。

「おそらく、運命を変えるのに、必ずしもALDが必要なわけじゃない」
「うん……」
「あのとき……俺が諦めそうになったとき。飛鳥が突き進んだことは、完全に俺の予測を超えていた」
「フッ……それは嬉しいね……」
「あの熱はきっと、運命を変えられる力だと思う」
「うん……ボクもそう思――」
「あっ、神崎ちゃん」
「――へ?」

「あーーすくわぁあああーーーっ!!」
「ぐぼぁーーっ!?」

猛ダッシュしてくる蘭子の姿が見えたと思ったら、それは流星と化しボクの胸部で炸裂した。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:41:50.32 ID:+IqVL7Wl0

「あすっ! あすかっ! さっきの! なんぞ!? 舞台っ! グルグルガシャーンてっ!」
「ら、蘭子……っ!? ゲホっ……! 落ち着いてっ!」
「飛鳥カッコよかった〜〜っ! 我っ! アレ好き〜〜っ! 我も! 我もしたい〜〜っ!」

蘭子は控室にボクがなかなか戻ってこないので探しにきたのだという。
どうやらさっきのカオスなステージは、蘭子の琴線をかき鳴らしたようだ。鼻息荒く感動を伝えてくる彼女を見ていると、蘭子に敗北するだとかいうことを気にしていたのが馬鹿らしくなってくる。

「………チッ」

熱烈にハグされながら、蘭子がやって来た方を見やるとあの女がいた。蘭子に愛されているボクを、それはもう悔しそうに見ている。最高の気分だね。
邪魔者は放ったらかしにしておいて、ボクと蘭子は最近のことを報告し合う。

「やぁ! ここにいたのかい!」

そこに水を差してきたのは、ボクの知らない人物だった。
遠くからでもよく聞こえる大きな声を上げながら、恰幅の良い壮年の男性が近づいてくる。とてもエネルギッシュな雰囲気の男性だ。
Pの知っている人物のようで、前に進み出て対応する。

「常務……。観覧されていたのですね。ご挨拶に伺えず申し訳ございませんでした」
「いやいや、いいんだよ、P君。急に予定が空いてねぇ。たまたま近くにいたから、お忍びで来てみたのさ」
「……そうでしたか」
「お忍びで来て、お忍びで帰るつもりだったんだけれどねぇ。あんな素晴らしいステージを見せてもらって、黙って帰るワケにはいかないよ!」

常務、ということはこの男性がうちのプロダクションの実質的なNo.3だ。言われてみると、この顔は社内報か何かで見覚えがある。
Pはまだ若手社員のくせに、常務とは顔見知りらしい。まぁ、彼のことだから、どんなコネクションを持っていても今更驚かないけど。
Pが意外そうな表情を見せたことから察するに、こんな大物がここにいるのは“修正力”によるもので、この人がボクの遅刻ないし棄権を糾弾する流れになるところだったのかもしれない。

「いやぁ〜〜、血沸き肉躍った! やはり現場は、いや、アイドルはいいねぇっ! プロデューサーをやっていた頃を思い出してしまったよ」
「常務の現場時代の伝説は私も聞き及んでおります」
「ハハハ。伝説なんて言われてるのかい? 恥ずかしいじゃないか。でもP君もかなりのモノだと思うよ? 君の評判はここ最近あまり聞かなくなっていたけれど、なるほど、全ては今日のための布石だったというわけか」
「……私だけではここまで来れませんでした」
「そうだね。僕たちはアイドルあってこそ」

そこで常務がボクを真正面から見つめてきた。Pが常務とボクに互いの紹介をしてくれる。

「二宮飛鳥だ。ボクのステージを気に入ってもらえたのなら嬉しく思うよ」

ボクが名乗ると、常務は目を細めて「ほう……」呟き、Pは得意げにニヤついた。それから改めて常務から直々に賞賛を受けることになった。

「――おや? その子は……」
「ぴっ!?」

常務がボクの後ろの――ボクの陰に隠れるようにしていた――蘭子に気付いた。
自身とは真逆と言っていい“陽”の気に当てられ、蘭子は小動物のようにビクついている。

「ご無沙汰しております。常務」

そこですかさず神崎Pがガードしたのだが、常務の興味は蘭子に津々といった様子。割って入ろうとした神崎Pを「ちょっとごめんね」と横に動かし、蘭子をジロジロと舐めるように見つめる。
震え上がる蘭子。
即座に神崎Pがキレそうになったのが分かったし、ボクもイラついた。
今度はボクが蘭子をガードすると、「おっ、なるほど」とボクと蘭子を並ばせて、仕舞には両手で作ったフレームでボクたちを狙ってくる。
そして――

「ティンときたっ!!!」

――と叫んだ。会場中に響き渡りそうな大きな声だった。
常務は興奮した様子で、Pと神崎Pに何事かを捲し立てるように伝えていく。それを聞くPはニヤついて、神崎Pは眉間に皺を寄せていた。
そして常務は謎のサムズアップをボクと蘭子に向けると去っていった。ボクと蘭子はポカンとするばかりだった。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:42:16.24 ID:+IqVL7Wl0


その後、Pと焼肉店で打ち上げをしている最中に、Pの社用携帯が一件のメールを受信した。
添付されていたファイルは、常務の署名が記された正式な命令書の写し。

『神崎蘭子及び二宮飛鳥は一定期間デュオユニットを結成すること』

伝説の幕が開けた瞬間だった。

なんてね。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:42:44.31 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by P≫

俺が視ている世界は他の人間とは違う。

そのことに気が付いたのは、俺がこの世に生まれてから千日が経った頃だった。

俺には“全部”観えていた。

たとえば電磁波だと、普通の人間の視覚はごく限られた範囲の波長の、いわゆる可視光しか認識できないらしいが、俺は全ての波長を認識することができる。
音波なら超音波から超低周波まで全て聴くことが出来る。
五感のその他の感覚も、普通よりも遥かに鋭敏らしい。
いや鋭敏というよりか、各感覚は幾らでも研ぎ澄ませる。最新鋭の化学分析機器でようやく発見できるような事実も、俺は見て触れるだけで知ることが出来る。だから天体望遠鏡も電子顕微鏡も俺には必要ない。

加えて、生まれてこの方、観てきた全ての情報を俺は覚えている。

何年前の何時何分のその場所に、誰がどんな表情や体温や心拍数でいて、どんな電磁波が行き交っていたのか。全てを正確に思い出すことが出来る。
人間の脳には未知数の記憶容量があるとはいえ、俺が視てきた情報は余りに膨大だろう。それなのに脳がパンクしそうな気配は一向に感じない。

何故俺は“こう”なのか、なんてことはいくら考えても分からなかった。
それに他人に言ったところで、クオリアの壁があるから絶対に伝わらない。一笑に付されるか、手品かイカサマと言われるのが関の山。
観えるから観える、覚えているから覚えている、としか言いようがない。目で物が見える仕組みを理解してなくても見えるのと一緒だ。

分からないなりにも俺の肉体の外に、透明の高性能な観測装置や記憶装置が付属されている、と仮定すれば多少は納得出来る。
そしてどうやら――これは逆説的に示唆されたことだが――そこには演算装置もあるらしい。

いつからか、俺には未来予測ができるようになっていた。

詳細な観測データの膨大な蓄積だけではそれは達成できない。未来予測のためには、データを適正に処理するための演算装置がなければならないのだ。
未来予測が有意なレベルで発現したのは三千日経った頃だった。それはつまり、その頃に未来予測に必要な十分な量の観測データが蓄積されてきたということだろう。
その当時の俺は、自分のことを神に愛された人間だと自負していた。何でも出来るし、何にでも成れるという確信があったから。
俺の能力があれば科学でもスポーツでも経済でも戦争でも、ほとんど全ての分野で頂点に立つことができる。造作もなく。それは傲慢でも何でなく、ただの純然たる事実だった。

しかししばらくすると、俺は酷く落胆することになった。
完成した未来予測は完璧過ぎたのだ。
日常生活でも遊びでもスポーツでも、予測の通りに行動すれば、予測したことがそのまま起き、故にそのすべてで最高の結果を得た。それは余りに簡単過ぎた。こんなイージーゲームに何の意味があるのか? 学芸会の演劇と何が違うのだろう?
わざと予測とは別の行動を採ろうとしたことは、もちろん何度もある。だがそれが成功することは一度たりともなかった。
そうして理解した。俺が予測だと思っていたのは、実際には “台本”だったのだと。しかも俺の書いた台本なんかじゃなく、神だか悪魔だかが書いた、強制力のある台本だった。俺の予測というのは、あくまでそれを“覗き見”していたようなものに過ぎなかった。
俺という人間は、その台本の中で“極めて優秀な人間”としての役が与えられているだけ。つまりはただのモブの一人でしかなかった。
脇役のくせに台本ほっぽってアドリブなんてしようものなら、監督さんに滅茶苦茶に怒られてしまうわけで……。とどのつまり、俺は心の奥底でビビっていたんだろう。だから、押し付けられた台本でも、クソ真面目に演じることしかできなかったんだ。

神に愛されているなんてとんでもない。俺こそが誰よりも神の奴隷だった。
こんな茶番、他にあるか?
セカイの構造に気付かずにいられる他の人たちが心底羨ましかった。

いくら落胆したとしても、台本から逃れることはできない。
俺は表面上は華々しい活躍をしながら歳を重ねていった。そして大学を卒業し、この国で最も有名なアイドルプロダクションに入社した。
それは世界でも有数の大企業であり、エンタテイメントに関しては世界でトップだと誰もが口を揃えて言う。
プロデューサーとして成功を収め、会社内でのし上がってゆき、最終的に社長の座に就く……。そんなルートはなるほど、俺の“役どころ”としては“丁度良い”ものだった。

世界中から優秀な人材の集まるこの会社においても、俺の能力は抜きんでていた。
入社直後から様々な部門において、会社の利益に多大な貢献をし、俺は入社三年目を前に正式にプロデューサーへと昇格した。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:43:17.39 ID:+IqVL7Wl0

プロデューサーを名乗れるようになった三日後の3月25日の昼。
上司の居室へと呼び出された俺は、自分でプロデュースする娘を決めるよう命じられた。スカウトでも訓練生の中から見繕うのでもどちらでも構わないから、と。
数名の訓練生のプロフィール書類を受け取ってから退室したが、まだ見てもいないその書類の中身は全て分かっていたし、結局誰を選ぶことになるのかももう知っていた。

……そうだ。俺は候補生の中から選ぶつもりだった。いや、そういう“台本”だったんだ。
だったら何故、俺は二宮飛鳥をスカウトした? することが出来た?

プロフィール書類を受け取った後は早めに帰宅した。
そして自宅で一服しているとき、15時23分に正体不明の立方体――今はALDと呼称しているもの――が何処からともなく出現した。
無から有が発生したのを目の当たりにして驚愕するのと同時に、単なる驚きとは別種の何か途轍もない感覚に襲われた。
それは恐らく“自由”だった。生まれて初めて感じる、本当の意味での自由。俺をずっと抑えつけていた“窮屈さ”つまりは“台本”が、どういうわけか消えたのを感じた。
今ならどんな行動も採れるという実感があった。たとえば、本来選ぶはずだった娘とは別の娘を選ぶことも出来る。それどころか、スカウトすることも可能――そう考えた瞬間、とても大切なことを思い出した。

『静岡へ行かなくては!』

パチンコで弾かれたように自宅を飛び出し、十五分後には新幹線に乗っていた。

そして俺は二宮飛鳥と出会った。

この日、二宮家を出る頃には、また新たな“台本”が出来上がっている感覚があった。
新しい台本では俺の担当は二宮飛鳥になっていたが、あの当時は不思議なことに7月以降の台本は読めなくなっていた。
読めなかった――つまり未来予測できなかった――のは、神崎ちゃんの特殊な力についてのデータを取得してなかったから、という理解で良いだろう。

…………いや、待て。
重要なのはそういうことじゃない。
重要なのは“何故俺は静岡に行ったのか?”だ。
何か理由があったはずだ。
“自由”になった瞬間、それを思い出した。だから俺は静岡へ行った。
何を思い出した? 昔何かがあったような……? そうだ、確かに何かがあった。昔……いや、十年前だ。俺でさえ理解不能なことが、その頃にあった。俺は確かに“それ”を観た。だから教室なんて飛び出して、その不思議を解明しに行きたいと心の底から願っていたのに、何故か決してその行動を採ることができなかった。だからこそ俺は世界の構造に気付くことにもなったが……。

伝えなくては。

伝える?
何を?
誰に?

いや……妙だ。まさか、このことについて考えるのは初めてではない?

そういうことか……あの頃から何度となく考えて、そしてその度に忘れているんだ。
何故こんなことが起こる? こんな思索シーンは台本には書かれていないってことか……?

あぁ、ダメだ……。
きっとこの思考さえ……――――
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:43:45.23 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by P≫

「――ぶえっくしょいっ!!」

不意にとんでもないくしゃみが出た。
目の前の書類にかからないよう、なまじ抑え込もうとしたせいで、かえって唾が滅茶苦茶飛んだし、鼻水もブラリンしてる。
今俺の居室には、ツッコんでくれる人は誰もいない。もの悲しさはあるが、飛鳥が帰った後で良かった。眉を顰められただろうから。

「うお、垂れる垂れる……」

デスクの引き出しに備えていたちり紙を取って、ズビビと鼻をかむ。たくさん出た。爽快。

「………なんだっけ?」

くしゃみする直前まで、何か考え事をしていたんじゃなかったっけ……? しかし思い出せない。実際には仮眠をとっていただけのような気もする。
現実と“台本”が乖離し始めたあたりから、こういうことがよくある気がする。ただの疲労によるものか? よく分からない現象だ。まぁ、そのよく分からないっていうのは、俺にとっては寧ろ良い傾向だ。

「よし、もう少し進めておこう」

そして俺は気合を入れ直して、再び仕事に取り掛かった。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:44:16.33 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

ひょっとすると、今日このときのためにボクは全てを捧げてきたのかもしれない。
手を伸ばせば届く位置にいる蘭子。彼女がボクを見て微笑む。ボクも負けじと笑みを返す。

ダークイルミネイト。ボクと蘭子によるデュオユニット。
十日前、上からの命令という形で急遽結成することになったユニットだが、それは最高のものになる予感があった。寧ろ、今まで蘭子とユニットを組むという発想が一度も浮かばなかったのが謎だった。
ダークイルミネイトこそが、ボクとPが運命に叛逆した末に辿りついた未来なのだ、とさえ思っている。

ものの数日でダークイルミネイトの新曲が用意されたのは、常務が後ろ盾になっているからだろう。
そして特訓を経て、今この場所に臨んでいる。
このステージは、ボクがこれまで乗り越えてきたどのステージよりも困難なものになる。そんな確信がある。どんな些細なものでもミスがあれば即座に終了されるだろう。今日のオーディエンスの目は、間違いなく、世界で一番厳しいから。あと、厭味ったらしいし、容赦も慈悲もないし、それに何より、ボクのことをとにかく嫌っているから。
だからといって怯んだりしない。目に物見せてやる。

「「――!」」

伴奏の開始に合わせて歌い始めるボクと蘭子。コンマ一秒のズレさえもないリズム。ボクたちの歌声の完璧なユニゾン。

イケる!
この感じ、最高の一回になる。
どうだ!? これが特訓の成果だ! その目にとくと焼き付――

「ストップ」

――なにっ!?

「ストップ。ストップよ。早く音楽を止めて」
「あっ、は、はい……っ!」

ルーキーのトレーナーである青木慶さんが、手にしていたリモコンを慌てて操作する。
スピーカーから流れていた音楽が止まり、ステップの途中だった足先が接地した瞬間の、キュ、という音が、レッスンルームに物寂しく響いた。
ズカズカと、ボクへと迫ってくる人物がいる。神崎Pだ。ボクたちの最高の“試演”を止めた張本人。

「ハァ〜〜〜」

不機嫌さを隠そうともしない盛大な溜息を吐きつつ、性悪女は尚も近づいてくる。ボクだってウンザリなのだが?
ボクのパーソナルスペースを侵し、無駄に形の良い胸があと一ミリでボクに触れるというところまで接近してくる。オマケに鼻先も一ミリのところまで寄せて、所謂ガンを付けてくる。並外れた美人のキレ顔は、率直に言って凄い迫力だ。ボクは慣れているけど、普通の青少年なら泣き出しても不思議じゃない。いや本当に。

「三日前から何も進歩していないじゃない。一体どういう了見? 貴重な時間を使って何をしていたのかしら? もしかして貴女、無駄な努力をするのが好きなタイプの人間?」

は? うるさいな? 一歩だって引いてやるものか。

「歌もダンスも、三日前とは違って、トレーナー陣から合格判定を貰っているんだが? それをサビに入る前に止めるなんて、キミの目は節穴なのかな? あぁ、もしかして老眼かい?」

こちらもガンを付けながら、言い返す。
直ぐ近くで「あわわわ」という可愛らしい鳴き声がして、その向こうの壁際では慶さんが「ちょっとPさん止めないと!」と慌て、そして「もう少し様子見で」とPがヘラヘラ言う。フン、望むところだ。

「いや、まずは何が気に食わなかったのか言ってくれないか? 個人的には完璧だったんだが?」
「あら、言われないと分からないの?」
「チッ……。言葉を介さず理解しあえるなんて幻想さ。もっとも、幾ら言葉を交わそうと理解り合えない人種はいるけどね」
「……なら言ってあげる」

顔を離し、ガンを解いた神崎Pは、しかし、嘲るような目をボクに向けながら続けて言う。

「曲を貰ってからもう五日経つし、優秀なトレーナー陣に指導してもらっているのだから、歌もダンスも出来て当たり前なの。それをドヤ顔されても、正直滑稽でしかないわ」
「それで愚弄したつもりかい? ボクは安い挑発には乗らないよ」
「フン……二宮飛鳥。貴女、本当は気付いているんでしょう?」
「何の……ことだ……?」
「自分が蘭子のパートナーに相応しくないということよ」
「……!」

ドキっとした。それは考えまいとしていただけで、図星というヤツだったのかもしれない。

「歌とダンスが完璧であることに越したことは無いわ。でも、そんなことよりももっと重要なことがあるの。蘭子の“力”を妨げないことよ。貴女にはそれ以外に何も望んでいない」
「ッ……!」
「なのに、今の貴女にはそれすら出来ていない。貴女の低次元な歌が、蘭子の歌声の崇高なる波長を乱しているの」
「………くっ!」
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:44:44.43 ID:+IqVL7Wl0

特訓を経て、合格基準のパフォーマンスに達していることは間違いない。しかしそれは“一般的な尺度”からすれば、だ。
これまで何十回と合わせてきた。しかし一度たりとも、蘭子のライブで見たような奇跡じみた現象は起きていなかった。

「十日前の初打ち合わせのとき、貴女は『魂を重ねたユニットにしてみせる』と宣言した。だから私は気が進まないけれど……本当に吐き気がするほど嫌だけれど、蘭子と貴女が組むことを前向きにとらえようとしていたの。でも、少しでも期待した私が馬鹿だったようね」
「言わせておけば……。だったら、どこをどうすればいいのかご教示願いたいんだが? 例によってキミの言い分には具体性というものが皆無だ。ボクからすれば難癖以外の何物でもない」
「……一つ、聞かせて?」
「な、なに……?」
「魂の叫び、魂の波動、魂の力……いえ、別にどう呼んでも構わないのだけれど。つまり、“力”の本質を……貴女はどう認識しているの?」
「は……?」

なんだその中二病的な質問は? まだボクが罹患者だからいいものの、慶さんなんかもう理解を放棄した顔でルームの片づけを始めてしまったじゃないか。そういえばPは相変わらず様子見を決め込んでいるし、蘭子は神妙な顔で事の成り行きを見守っている。
いいだろう。答えてやるよ。ボクの解釈を。

「魂の力……その本質は、重量――」
「……!」

ボクの言葉に神崎Pが瞠目する。
フフン。ボクには理解らないと思っていたのかな? 見縊られたものだ。

「このセカイに存在する全てのモノは重量を有している。そしてそれは魂についても例外ではないのさ。ボクも蘭子のステージを見て気付いたんだけれどね」
「……はぁ〜〜〜」

あれっ? 溜息ついた?

「……た、魂が有する重量はある実験によって21グラムであることが判明している。つまり魂の持つ力とは、その重量をエネルギーに変換することで――」
「もういいわ。いつ、貴女の漫画の設定の話をしろと言ったのかしら?」
「こ、これは設定なんかじゃ……っ」
「チッ……。本当に、私が馬鹿だったわ。一ノ瀬志希やPと共鳴してみせた貴女ならあるいは……なんて、少しでも考えてしまった自分が恥ずかしい。やはり、あれは低次元なモノだったようね。疑似的な共鳴……いえ、紛い物と言うべきかしら」
「っ……!?」

神崎Pが何を言っているのかよく理解らない。だが、ボロクソにこき下ろされているのだけは理解った。

「二宮飛鳥。貴女の理解は何もかも的外れよ。そんな風に捉えているのなら、たとえ一億年レッスンしようとも、蘭子と真の共鳴をすることは出来ないわ」
「だ、だったら……っ! そこまで言うなら! どうすればいいのか、どう理解すればいいのか、教えてくれないか!? それだってプロデューサーの仕事だろう!?」
「……………嫌よ」
「はぁっ!?」

あまりにもハッキリとした拒否に、二の句が継げなかった。

「勘違いしないで欲しいのだけれど、私は今も貴女が蘭子と組むことには反対しているし、そもそも貴女のことが嫌いなの。だから塩を送るようなことをするつもりはないわ。自分で考えなさい」
「お前……! どこまでイヤな人間なんだっ!」
「というか、すぐにでも常務にふざけた命令を撤回させたいところね。……いえ、させるわ」
「……は?」
「明日の夕方に、もう一度見せてもらう。それで駄目なら、常務に命令を撤回させる。この十日間は無駄だったということになってしまうけれど、蘭子のファンを失望させるよりは遥かにマシだから」

神崎Pは壁際で静観を決め込んでいたPへとその鋭い眼光を向ける。

「常務の説得は貴方にも手伝ってもらうわよ?」

Pは微笑なのか苦笑いなのか判然としない表情で、無言のまま一度首を縦に振った。

「本気なのか……っ!?」
「話は以上よ。……さ、蘭子。行きましょうか」
「き、気は確かか、瞳を持つ者よ……? え、あっ、プロデュ、ちょ……っ!」

ボクの言葉は元より蘭子の説得にも聞く耳を持たず、神崎Pは蘭子の腕を掴んでレッスンルームの出口へと向かって行く。

「オイ! 待てったらっ!」

ドアを越えようとする神崎Pに、ほとんど怒鳴るような声を投げかける。するとヤツは止まり、侮蔑の籠った眼差しでボクを見た。

「まったく……よりにもよって質量エネルギーだなんて高の知れたもの、よく引き合いに出せたわね? 覚えておきなさい。魂の力が真価を発揮したとき、それはもう測ることなんてできない……まさしく無限のエネルギーを生み出し得るのよ」

そう吐き捨て出ていった。
バタム、とドアの閉まる音がレッスンルームに木霊する。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:45:11.07 ID:+IqVL7Wl0

「なっ……!?」

なんだアイツは! 言いたいことだけ言っていきやがって! しかも何もかも意味不明だ!

「あ、あはは……レッスンの予定が変更になる場合は、またご連絡お願いしますね〜〜……じゃ、じゃあ、私はこれで……っ」

慶さんがそそくさと逃げ出していく。
となれば、室内に残るはボクとPだけで、そこでようやくPが言葉を発した。

「散々な言われ様だったなぁ〜、飛鳥よぉ〜」
「いっ、言うに事欠いてそれかっ! キミはどっちの味方なんだ!?」
「そらもちろん飛鳥だ」
「っ……! なら、いい……。いや、よくないっ!」

状況は何も変わっていないし、それに。

「だったら、こう……もう少し援護するとか……あるだろう…っ!」
「あーーうん……それはすまんかったが……ん〜〜……」

珍しく何かを考え込む様に、Pが腕組をして唸る。どうしたのかと視線で問うと。

「神崎Pだけどな……ありゃ、たぶん、人間じゃねーわ」
「は…………?」

何を言うかと思えば。

「……プッ! ハハハハッ! 奇遇だね、同感だよ。ボクは、あの女は氷で出来た人形だと踏んでいるんだ」
「あ〜〜……いや、そういう冗談じゃなくてな」
「ん?」
「マジな話で、アイツ、人間じゃない。あぁ、正確には“人間じゃなかった”かな。少なくとも今はちゃんと人間の身体してるわけだし」
「……………はい?」

ワケが分からない……。でもPは冗談を言っているようには見えない。

「神崎Pと初めて会ったのは今年の三月末……約半年前、飛鳥をスカウトした数日後だ。アイツはその頃に中途採用で入社してきててな。歳が近くて、比較的暇してた俺が会社の案内をしてやることになったんだ」

それについては以前聞いたことがあったな。

「初めて会ったとき、かなり驚いたよ」
「美人さにかい?」
「それも結構驚いた。でも俺が心底スゲェと思ったのは、神崎Pがあまりにも左右対称だったからだ」
「それはまぁ、美人の条件の一つに左右対称性があるくらいだし」
「そんなレベルじゃなく、完璧に左右対称だったんだ。全身の各部の形とか、筋肉の付き方とか、毛穴の位置もだな。寸分違わずに対称。でもな、二十年以上も生きてきて、そんな左右対称のままいるなんて不可能なんだよ。どれだけ気を付けても筋肉の付き方は違ってくるし、不意の抜け毛だってよくあることだ」
「……」

あの女をそういう観点で見たことがなかったけれど、そんなことがあるのだろうか? というかPのヤツ、よく見てるな。毛穴って……。まぁPだし、それくらいの洞察力があってもおかしくないか。

「初めて会ったときはそうだったんだけどなぁ……。この半年間のアイツを見ていると、少しずつ、その左右対称性が崩れていっているんだ」
「つまり、何が言いたい……?」
「俺が思うに、アイツは半年前までは人間ではない“何か”だった。そして半年前、人間になることを決めて肉体を用意した。人間として活動し始めてすぐは新品の肉体だったから、完璧な左右対称だった。それが日々の生活の積み重ねによって、今では身体の左右で明確な差異が生じ始めている」
「……………は、は、ははは……」

漫画の設定かな? と言おうとして、それがついさっきあの女がボクに言った台詞であることに気が付いてやめた。それに……ALDとかいう人知を超えたガジェットの存在を、ボクはもう知ってしまっているし。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:45:40.49 ID:+IqVL7Wl0

「……で、急にそんな中二病的な話を持ち出して来て、キミは何が言いたい?」
「その出自と口ぶりから、どうやら神崎Pは神崎ちゃんの不思議な力について、俺たちよりも遥かに多くのことを知っているらしい」
「出自についての真偽は定かじゃないけどね」
「だから、アイツが言ったことを、飛鳥もちゃんと考えてみる必要があるのかもしれない。なんかこう、反発したい気持ちはあると思うけど」
「くっ……! そういう結論か。回りくどいっ!」

ボクの認識がどうとか、無限のエネルギーがどうとか。あれはボクをこき下ろすための罵倒じゃなかったとでもいうのか?

「神崎Pはなんでか、飛鳥に対してはやたらと口悪くなるけど、さっきのはアイツなりのエールだな。叱咤激励ってやつ?」
「ハハッ! エールだって? あの女が? 冗談はやめてくれないか」
「アイツのことで一つ確かなことがある。それは、神崎ちゃんLOVEってことだ」
「ラブて……」

いや、まぁ……あれもLOVEか。だいぶ歪んでそうだけれども。

「神崎Pは神崎ちゃんのためになるものなら何でも使うし、ためにならないなら絶対に何が何でも拒否するだろう。そんなアイツが、ユニット結成が決まってから今日までの十日間、それなりに協力的だったのは、アイツも内心では飛鳥に期待してるってことさ」
「ふ、フン……どうだか」
「………そうか……そういう意味では、詳しく教えてくれなかったのは、それこそがベストだと判断したのか……? それとも教えても無意味だと……? ということは飛鳥が自力で到達しなければならない類のもの? 必要以上の助言はバイアスとなって発見を妨げるから? いやしかし……」
「P?」

頭をユラユラさせながら、ブツブツ言い始めたPの肩を揺さぶってこちら側に引き戻す。

「おお、すまんすまん。俺はこれから改めて神崎Pに幾つか確認してくるよ。飛鳥も来るか?」
「ボクは……」

ボクが神崎Pに首を垂れて教えを乞ったとしても、叶うとは思えない。それに、もし仮にアイツに『じゃあこうしろ』なんて言われても、素直に従う気にはなれそうもない。

「いや……ボクには、あの女とは別の“心当たり”があるんでね。そっちはPに任せるよ」
「O.K.! 何か有益な情報がゲット出来たら連絡するわ」
「あぁ、待ってるよ。期待はしないけどね」
「言ったなこんにゃろめ」

そうしてボクらもレッスンルームを出た。
Pは神崎Pを追い、近所の撮影スタジオへと向かって行った。どうやら蘭子の撮影があるらしい。
彼の背を見送った後、ボクは携帯を取り出して“心当たり”へとメッセージを送った。そして、待ち合わせに指定した、レッスンスタジオの隣に鎮座する我らがお城、そのカフェへと向かった。
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:46:27.62 ID:+IqVL7Wl0


「これは悩みがある匂いだにゃ〜」
「ッ――!?」

待ち合わせ場所に指定したカフェでコーヒーを啜りながら待つこと数分。背後から何者かに奇襲を仕掛けられた。いや、こんな準セクハラ行為をいきなり仕掛けてくるのは、ボクの交友関係には一人しかいないわけだが。

「ハスハス! クンカクンカ! でもこれはこれで……アリ!」
「ひんっ! ……ちょっ、いい加減に……しっ、志希!」

振り向けば、猫よろしく見開かれた二つの瞳と目が合う。案の定、一ノ瀬志希だった。

「はいはーい、志希ちゃんでーす!」
「まったくキミというヤツは……もっと普通の登場の仕方を覚えてほしいんだがね?」
「んー? 飽きてきたってこと? もっと刺激的な方が良い?」
「断じて否だっ! 独善的な解釈は感心しないな。人間らしいマナーを身に付けて欲しいと言っているんだ」
「志希ちゃん、むずかしーことはワーカリーマセーン! にゃははーー」

志希とはDimension-3の活動が一段落した後も頻繁に会っていた。とはいえ大抵は志希に呼び出されて、もみくちゃにされたり得体の知れない液体を摂取させられそうになったりで碌な目に遭わないが。だからたまには、後輩のボクが呼び出してもバチは当たらないだろう。

「まずは…そうだな、何を注文する? ボクが呼び出したんだし、奢るよ」
「え〜いいの〜? 何頼もっかな〜? 何でもいいの〜?」
「メニューにある品なら、何でもいいよ」
「にゃは! じゃあ〜〜、ここからこ――」
「――ただし! 二品までだ」
「ありゃ」
「人間は学習する生き物なのさ」

先月志希と一緒にふらっと入った喫茶店で、彼女の暴挙の所為で危うくお腹が割けそうになったこと思い出していた。
志希は結局、ドクターペッパーとミルクティーを注文した。それとタバスコを持ってくるのもお願いしていた。

「それで何だっけー? 飛鳥ちゃんが呼んでくれるなんて珍しいよね」

注文した飲み物を早々に物体Xに変容せしめた志希が、満足げに微笑みながら口を開く。

「あぁ、少し相談……というか、知恵を借りたいことがあるんだ……」
「待って、当てるね。うん、分かった、間違いない。Dimension-3再結成するにはどうすればいいのかだよね? 大丈夫だよ、あたしが全部してあげる。あたしのもつ権限全部使って関係者説得する。何だったら明日からでもイケるよ? 他の仕事なんて全部キャンセルしちゃうから」
「は? い、いや……そういう話ではないんだ」
「えっ、違うの? にゃ〜んだ、にゃはは〜〜……」

ケラケラと笑う志希だが、何故か、その目は全く笑っていないように見えた。

「実は……これはまだオープンになっていないプロジェクトなんだけど――」

ボクは蘭子とユニットを組むことになった経緯を語った。もちろん、ALDや“台本”などについては割愛した。
蘭子について、志希はほとんど知らなかった。“不思議なパフォーマンスをする娘がいる”という噂を聞いたことがある程度らしい。

「ふ〜〜〜ん、神崎さん家の蘭子ちゃんって娘なんだ〜〜〜。へぇ〜〜〜……」

そして、蘭子の不思議なパフォーマンスは魂の力が引き起こしているらしいことと、先刻の神崎Pとの舌戦についても伝える。一般には荒唐無稽と思われそうな領域の話に入っても、志希は特に遮ることなく「へぇ、ふぅん」と相槌を打ち続ける。
そこでようやく気が付いた。何故かは理解らないが、どうやら志希の機嫌が良くない……というよりは、悪いらしい。

「志希? 何か……怒ってないか?」
「えぇ〜〜? べっつに〜〜? 志希ちゃん何も怒ってないよぉ〜〜? これっぽっちも怒ってないよぉ〜〜? 一フェムトグラムも怒ってないよぉ〜〜?」
「い、いやしかし……そんな貧乏ゆすりはキミらしくないというか……」

志希は気怠げに頬杖をついて、テーブルの上のシュガーポットを凝視しながら、踵を一定のリズムで石畳を打ち付けていた。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:46:55.58 ID:+IqVL7Wl0

「ただ、飛鳥ちゃんって“そういう”子なんだなぁ〜〜って」
「へ? ボク……?」
「あたしを呼びつけておいて、他の女の子の話するんだぁ〜〜って。しかも、その子とイチャイチャするにはどうしたらいいのかなんて聞くんだぁ〜〜って」
「い、イチャイチャってキミな……一体何を言いたいのか、皆目見当がつかないんだが……? というか、キミの方こそいつもボクを好き勝手に呼び出すじゃないか。今日ぐらいは大目に見て欲しんだけれどね」
「……………………」
「志希……?」

急に黙りこくる志希。いつの間にか大気にひんやりとしたものが混じっているような気がした。

「まぁいいや。で、え〜っと、どういう話だったかにゃ〜〜?」
「っ……」

しかし。さっきまでの不機嫌顔はどこへやら、志希は急に破顔した。満面の笑みだった。なのに、ボクの背筋には悪寒が走る。いや、これは錯覚だ。うん。志希の目は今も笑っていないように見えるけれど、元からそういう目だったような気がするし。うん。初めて会った頃の志希の笑顔がこんな感じだった。そうだ。だから問題は無い。たぶん。そういうことにしておこう。
とにかく今は志希の意見が聞きたいんだ。

「た、端的に言うと、魂の力の本質とは一体何なのか? ボクが今最も知りたいのはコレさ。志希、キミはどう思う?」
「………魂……たましい……タマシー、ねぇ………」

志希の首が肩に付くくらいに傾く。視線は明後日の方へ向いている。おそらく彼女の頭の中で情報の検索と整理を行っているのだろう。

「てゆーかまず、魂の実在性からして、いくら議論しても現代科学では結論は出なさそうなんだけど……。飛鳥ちゃんの話では魂は実在するって前提があるんだよね?」
「あ……うん。いや、魂は存在するだろう?」
「そーかにゃ? 志希ちゃん、見たことないからわかんにゃい。でもそれだと話が進まないからそういう前提にしとくね」

まぁそれでいいか。

「次に魂の定義……はちょっと面倒だから、ざっくりとした分類だけさせてもらうけど。ここでいう魂とは文脈的に、気持ちとか精神的性向とかを言い換えているものではなくて……なんて言うのかな……、一人の人間をその人たらしめる“何か”の方で合ってる?」
「う、うん……。ボクも明確に言えないけれど、少なくともその捉え方はボクのそれとさほどの齟齬もない」
「んで、その“何か”であるところの魂とは何なのか? その本質とは? 志希ちゃんの見解は〜〜!?」
「ゴクリ……!」

志希がテーブルの隅に追いやられていた物体Xに手を伸ばし、香りを一気に吸い込む。誘引されるフレーメン反応。そして――

「ワーカリーマセーン!」
「むぐ……っ!」

思わずガクリと項垂れてしまった。
そんなボクを見てコロコロと笑う志希は物体Xをじゅるると口に含み、目を死んだ魚のようにした。

「ジョーダンとかイジワル言ってるわけじゃなくてね、志希ちゃんにはわかんない。だって言った通り、魂なんて見たことないんだもん。だからわかんない。その本質を語るなんて夢のまた夢〜〜」
「むぅ……」
「ちなみに、飛鳥ちゃんの『21グラムの質量を持った何か説』にはノーコメント……と言いたいところだけど、あたしも懐疑的かな〜」
「なっ!? それはキミの言葉で思い出したことだっていうのに……」
「にゃはは〜〜。あのマイクパフォーマンスを採用してくれたのは嬉しくもあり、恥ずかしくもあり〜〜。とはいえアレは魂を別の言葉で言い換える為だけに使った以上の意味はないんだ。あまり考える時間もなかったし」
「その節は迷惑をかけてすまなかったね……」
「ぜーんぜん? 寧ろ、あーゆーのはもっと仕掛けて欲しいにゃ〜」

ケラケラと笑う志希の言葉に嫌味や皮肉は含まれていなさそうだった。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:47:24.42 ID:+IqVL7Wl0

「そのなんとかってお医者先生以外にも、死後放散分以外の何らかの重量が人体から抜けてるって提唱した人たちはいたみたいだけど、どうにも胡散臭いんだよねぇ〜。例えばそういう人たちが一緒に引き合いに出してくる、死後直後の魂が抜けたとかいう瞬間の写真かな? エーテルが頭を取り囲んでいたとか、球状のモヤが天に昇って行ったとか言ってるけどさ、普通にフェイクだったんろうね。昔より遥かに高性能な今のカメラで撮影したグロ系の映像に何も映ってないわけだし。フェイク画像を使っている時点で、主張全てに信頼性が無なくなっちゃう」
「むぅぅ……」

言われてみれば確かに…?魂が抜ける瞬間が撮影されていた、なんてニュースを聞いた記憶は無い。

「まぁでも彼らの論文を精査したことがあるワケじゃないし、結局はよく分からない。知らないことには口をつぐまなければならない……なんてことを言うつもりは無いんだけどね。少なくとも飛鳥ちゃんのブレイクスルーになりそうな情報は、あたしには出せそうもないかな」
「そ、そうか……」
「てか、その神崎Pさん、だっけ? 何者って感じだよね。魂がどういうものであるか知っている口ぶりだったんでしょ? もし本当に知ってるなら、プロデューサーよりも教祖サマの方が似合ってにゃい? 」
「……!」

さっきPが言っていた、神崎P非人間説が頭に過った。

「まぁ、あたしに言えることはこの程度の――あっ、そだ。ちょっと気になったことがあるんだけど」
「ん? 今ならどんな意見でも歓迎するよ」
「その神崎Pさん、無限のエネルギー、って言ったんだよね?」
「あぁ。言ったね。たしかに」
「ふーん………」
「何が気になるんだい?」
「無限……ねぇ………」

志希はムゲンムゲン、と呟きながら咥えたストローに息を吹き込む。グプグプと下品な音が静かに響いだ。

「フン、それはただの誇張表現だと、ボクは解釈したがね」
「うーん……。例えば世界各国で研究中の核融合発電でも、無限のエネルギーなんて言われないんだけどね。言うとすれば、半永久的、ぐらい? そこらにいるOLさんならともかく、うちの会社のプロデューサーになれるようなエリートが、無駄に無限なんて表現使うかにゃ〜?」
「……つまり、アイツが正しいと仮定すると、魂の力は真に無限のエネルギーを扱える、と?」
「そういうことになるね」
「ハッ! だったら益々質量エネルギーじゃないか。これ以上に高効率の換算式が他にあるか」
「飛鳥ちゃんの言う通り――あぁ、魂が質量を持っているかは別にしてだけど――質量エネルギーは膨大だよ? でも無限じゃない。えむしーの二乗で計算できる有限の値。21グラムでも1トンでも、それは変わらない。例えこの宇宙に存在する全ての天体がエネルギーに置き換わっても、暗黒物質を含めたとしても、定義上は有限」
「そ、それは……っ」

なんだかスケールがとんでもなくなってきた。

「そもそも、無限って何? 無限のものって何かある? ダークエネルギーだって質量エネルギーよりかは遥かに大きいけど、見積もりとしては高々何十倍ぐらいじゃなかったっけ? グーゴルもグラハムも越えた先にあるのが無限。いや、定義上はそれも無限の端にさえ触れていない」
「無限のものか……」

そういう見地からだと難しいな……。というか、暗黒物質、ダークエネルギーときて、グーゴルにグラハム、か。ずいぶんと胸が疼くワードだな……! 前二つは宇宙に遍在する未知の物質とエネルギー、後ろ二つは無量大数を遥かに超える途轍もなく巨大な数だったっけ?
巨大なモノ……とくれば……。

「宇宙の広さ……? これ以上大きなモノは存在しないわけだし……。って、いや、宇宙は膨張しているのか。だったら現時点では一応は有限なのかな?」
「宇宙論には志希ちゃんそんなに明るくないんだけど、最新の理論ではどうなんだっけ〜? でもまぁ、ずっと膨張し続けるなら、無限に時間の経った後には無限の広さになっているのかもね」
「その場合には宇宙の寿命も無限だね」
「ふむふむ、そうなるね〜〜」
「あぁ、ちょっと趣旨からズレるかもしれないけど、円周率も無限に続くと教わったな」
「うん、それは完璧に証明されてる。にゃは! 机上のお話にシフトしてきた。……うんにゃ、案外こういう話なのかも?」

随分と脱線してしまっているような、そうでもないような。そして、なんとも雲を掴むような……。机上の空論とは正しくこのことだろうな。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:47:58.21 ID:+IqVL7Wl0

「それでいくと無理数の小数点も無限に続くね」
「無理、数……?」
「もう少ししたら数学の授業で習うよ」
「ふぅん……」
「うわ、嫌そーな顔!」

だって名前からして一筋縄ではいかなさそうだし。

「……そだ。これもあった。机上絡みでもう一つ」
「へぇ、何かな?」

ほぼ手付かずだった水入りのグラスに志希が人差し指を突っ込み、濡らした指先でテーブルに円とその中心点を描く。

「ブラックホール。その中心……特異点における重力は理論上、無限大」

更に“∞”を描き加える。

「なるほど、それも聞いたことがあるな……――っ!」

瞬間、ボクの奥底の“何か”が蠢いた。それは極めて微かな感覚だったけれど、間違いようのない程に確かな感覚だった。
宇宙に点在するという、猛烈な重力で周囲の物質を飲み込み続ける天体、ブラックホール。最も近いものでも何千光年も離れているはずなのに、ボクの意識が引き寄せられていくような気がしてくる。

「い……いや待てよ。机上? 最近、ブラックホールの撮影に初めて成功したというニュースが話題になっていたと思うんだが。ブラックホールは実在することが証明されたんだろう?」
「んーと、ブラックホールが実在することの証明は、数年前に重力波が検出できた時点で果たされているんだけれどもね。まぁ、それはいいや。ブラックホールはありまぁす! そこまではオーケー。でも中のこと……事象の地平面より先のことは未だに一切確認されていない」
「事象の…地平面……!」
「またの名をevent horizon」
「い、イベントホライズン……っ!」
「にゃは!」

さっきから素敵ワード頻出だな。一応は既知のワードだけど、会話の中で相手から出てくるのは格別だ。

「ゴホン……。でも、どうなっているかについての理論はあるんだろう?」
「理論はあくまで理論だからねぇ〜。どれだけ賢くて偉い教授が『これだ!』って言っても、実際に観測してみるまでは、正しいかどうか分からない、と言う他ないね」
「そういうものなのか……?」
「観測することは大切だよ〜。サイエンスなんて全部観測から始まってるからね。まず膨大な観測結果を元に、現象を説明できる数式に当てはめて検証。あらかた検証し尽くした後は、今度は数式を発展させて予言。『コレコレこういうときにはこうなるはずだ』ってね。んで実際にそうなっているのかを観測してみてまた検証。予言的中ならパチパチ〜。何か違ったなら数式を修正。その繰り返しでようやく人類は、ブラックホールが実在すると確認するに至ったのであった……とぅーびーこんてぃにゅーど〜〜!」

そこまで言うと志希は、残り少なくなっていた物体Xのグラスをあおり一気に喉に流し込んでしまった。

「オェッ……でもこればっかりはねぇ〜。たとえ人類がブラックホールの近くまで行けるようになったとしても、検証は不可能かもしれないな〜。原理的に観測が出来ないんだから」
「観測…………か」

観測というワードが、そしてその他のパワーワードたちが、ボクの頭の中をグルグルと回っている。それらがぶつかり合いながら融合し始め、妙な形のオブジェが出来上がり、そして崩壊した。すると、ボクの胸に一つの強い衝動が沸き上がってきた。

「行かなくては……!」

ボクは席から立ちあがった。志希は珍しく驚いた表情をして、ボクを見上げている。

「ボクは蘭子と話をしなくてはならない」
「パードゥン?」
「ボクが今なすべきことが理解ったよ。ありがとう志希。キミは本当に頼りになる人だ」
「え、あ、はい」
「この礼はいつか必ずさせてもらう」
「えっ、もう行っちゃうの? じゃあさ! 蘭子ちゃんとのユニットが終わったら、またあたしと――」
「――ではお先に失礼するよ」

そうしてボクはカフェを颯爽と駆け出した。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:48:26.98 ID:+IqVL7Wl0

カフェを出ると、時刻は夕方に差し掛かっていることに気付いた。志希と二時間近く話し込んでいたらしい。

『ダメだった(><)』

携帯にはPからのそんなメッセージが届いていた。やはり神崎Pからは何も聞き出せなかったのか、それとも……。まぁ別に構わない。
蘭子に電話すると、撮影は既に終了し、つい今しがた寮に帰りついたということだった。ボクは無理を承知で、今から訪ねさせてほしいこと、そして出来れば泊めて欲しい旨を伝えた。
蘭子は快諾してくれた。

ボクの往く道が、夕陽に焼かれて燃えている。その朱さは蘭子と初めて邂逅した日の色と、とてもよく似ていた。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:48:53.79 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Shiki≫

「ではお先に失礼するよ」

そう言って飛鳥ちゃんは行ってしまった。あたしを一度も振り返りもせず、さっさと。
飛鳥ちゃんの背中が見えなくなる頃、席に残っていた飛鳥ちゃんの匂いもほとんどが風に流されていた。

「あ」

奢るって言ったくせに、飛鳥ちゃん精算し忘れてる。別にいいけどさ。

たぶん、らしくないことをしてる。
引き留められるならまだしも、あたしが誰かを引き留めようとするなんて。
飛鳥ちゃんのくせになまいきだぞーって、今度言ってやろうかな?

「また、飛鳥ちゃんとステージ立ちたいな………」

そろそろ席を立とうと思ったとき、近くの席にいた知らない大人が夕陽の色に言及して、深いため息をつくのが聞こえた、
あたしがその赤色を見ると、レイリー散乱という言葉が頭に浮かんだだけだった。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:49:21.90 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

蘭子の住む寮に来たのは今日が初めてだったけれど、ボクが来ることは蘭子から寮母さんに伝えられていたようで、スムーズに蘭子の部屋の前まで案内をしてもらえた。
そのドアは馬蹄を象ったアイテムの他、呪物と呼んだ方が良さそうな興味深い品々で装飾されていた。
ドアをノックすると――

『我が城の門を叩く者は誰か』

――ドアの向こう側から、そう尋ねられた。
当然のごとく『ボクだよ』と答えようとして違和感を覚えた。ノックに対する反応があまりに早く、しかもドア越しでも分かるくらいに声の発生源が近かったのだ。
ボクの訪問を今か今かとドアの前で待ち構えている蘭子の姿を幻視して、胸がむず痒くなる。これは“応え”なくては嘘だろう。

「……ボクに名などない。あるのは渾名だけ。ナハトイエーガー、闇を駆ける狩人。人間たちにはそう呼ばれている」
『……………フヒ!』

ドア越しでも蘭子が小躍りする気配が伝わってくる。そしてすぐに『ンンッ』と小さな咳払い。

『……き、貴殿が、神をも屠るという闇の暗殺者だとっ?』
「フッ……。神殺しか。随分と昔の話を知っているんだね」
『幼き頃、乳母が御伽噺として語ってくれたわ。……しかし! 神に弓引く異端者が、何故我が城に?』
「黒翼の薔薇姫よ。キミに、危機が迫っている…!」
『なっ!? 辺獄碑文に記されし審判の刻はまだ先のはず……っ!』
「ボクはそれを伝えに………くっ!」
『むっ!? 何事か?』
「来る途中、エルキュールの矢を受けてね。歳は取りたくないものだ……」
『エルキュ……ヒュドラーの毒か!』
「ボクのことは構わない……。薔薇姫、急ぎ備えを!」
『……貴殿の言葉を信用したわけではない――』

ガチャリ……。
そこで初めてドアが開かれる。

「――しかし、傷つき訪れた者に施しもせずでは、一城の主の沽券に関わるわ。さぁ、まずは矢傷の治療を」

姿を見せた蘭子は顔を紅潮させ、満足げな笑みを浮かべていた。

「……蘭子」

数瞬前までは、もう少しこの寸劇を続けようと思っていた。しかし、蘭子の視界に捉えると、そんな思惑は何処かへ吹き飛んでしまった。

「蘭子……っ!」
「へひぇ!?」

気付けば蘭子の両肩をガッシリと掴み、鼻先が触れ合わんばかりに顔を寄せていた。背後でドアの閉まる音がした。

「なっ、なんぞ……っ!?」
「蘭子、あぁ、蘭子……っ!」
「あ、飛鳥? なに? どどど、どうしたの……っ!?」

目をパチクリする蘭子に、ただひたすらにときめいてしまう。我ながらなんて変質者だろう。これじゃPや神崎Pのことをとやかく言えないな。

「蘭子っ!」
「ひゃいっ!?」
「ボクは! キミと一つになりたい!」
「……へっ? はっ? なななな、な、んですとっ!? ち、契りの言葉か……っ!?」
「契り……そう、そうだ。約束する。ボクはキミの全てを受け入れると!」
「ぷぴゃーーっ!!!???」
「だから、蘭子の全てを観測させてほしい!」
「ぴっ………………………」
「あ、あれ? 蘭子?」

いつの間にやら、蘭子の顔は茹でダコがごとく朱に染まっていて――

「きゅう〜〜〜………」

――膝から崩れ落ちた。

「蘭子……っ!?」

何があった!? いや、待てよ? 自分の言動を思い返してみると、勢いに任せてちょっとすごいことをしたような……?

「あ……ち、ちがっ、これはプロポーズとかじゃなくてっ! 蘭子、蘭子? 蘭子ォオーーーーっ!」
「………ぴよ………ぴよよ………」

蘭子が目覚めるまでにはしばらくの時間が必要だった……。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:49:52.31 ID:+IqVL7Wl0


「不死鳥の羽ばたきーーっ!」

蘭子の部屋は寮ゆえか、ボクが住むマンションの部屋よりも手狭だった。その限られたスペースの少なくない面積を占有するのが天蓋付きベッドであり、そこに横たわっていた蘭子が跳ね起きた。

「回復したようだね」

ベッドの上で立ち上がり元気よくポージングをする彼女を、ボクはフローリングに座りながら見上げた。

「不覚をとったわ……。夢魔の囁きのなんと甘美なことよ……」
「すまない蘭子……。ボクはどうやら冷静さを欠いていたようだ」
「こ、今回に限り不問に付す……っ!」

ボクから目を逸らし、壁とにらめっこする蘭子。その顔色が元に戻ると、思い出したように、蘭子が普段使っているであろう勉強机の椅子をボクに勧めてくれた。好意を有難く受け取り、腰かけることにした。蘭子はそのままベッドに座った。

「して……此度の訪問、いかなる導きによるものか?」
「さっきも言いかけたけれど、蘭子の全てを観測したいんだ」
「か、観測……っ!?」

胸元を隠すように蘭子は自らの肩を抱き、ボクに怪訝な視線を送ってくる。正直、怪しむようなその目には傷ついた。だけど、明らかにボクが悪かった。
なんだよ観測って。普通はしない言い回しだ。身体測定を類推してもおかしくはない。密室で二人きりで身体測定したいなんて言われたら、怯えて当然じゃないか。

「違う違うそういう意味じゃないっ!」
「ま、まさか我に迫る危機とは飛鳥自身!? しかし飛鳥たっての願いであれば………あぁでもでもぉ〜〜……」
「ああっ! 違うからっ! 端的に言うと、蘭子のことをもっと教えて欲しいってことだよ!」
「………え? ほ、ホントに……?」
「ホントに! ボクが蘭子におかしなことをするはずがないだろ?」
「そ、そうだね……。ごめんね。ちょっとびっくりしちゃって。エヘヘ……」

どうやら誤解が完全に解けたようだ。

「蘭子のことをもっと知りたい。蘭子がこれまで何を見て、何を感じて今に至っているのか。そしてどうして魂の力を使えるようになったのか……」
「………」
「それはきっと蘭子のとてもデリケートな部分に触れることになるのだと思う。でもどうか、教えて欲しい」
「飛鳥……」
「白状するよ。これは、ダークイルミネイトを続けるためじゃない……。ボクがただひたすらに、蘭子のことを知りたいんだ! そう、これはボクの我儘……!」
「……………ふ」
「蘭子……?」
「ふは……フハハ……ハーッハッハッハ!」
「っ!?」

二部屋向こうまで届きそうな盛大な哄笑だった。蘭子は再び立ち上がり、左手で顔を覆いながら、右手をボクに向ける。

「貴殿の切なる願いは深淵の泉を揺らしたわ」
「つ、つまり……?」
「今こそ語りましょう。秘められし我が冒険譚を!」
「蘭子……っ!」

ボクの願いは蘭子に受け入れられたらしい。知らず両手は、喜びを訴えるように強く握り締められていた。
蘭子は右手の中指にいつも付けている赤い宝石のついた指輪を、慈しむように撫でている。

「邂逅と希望、別離と絶望、そして奇跡の物語……。全て語るには悠久の刻を要するでしょう。その覚悟はあるかしら?」
「たとえテッペンを越えようとも一向に構わない」
「死をも恐れぬとは……。フッ、益々興が乗ったわ」

明日の午前中の授業は睡魔との戦いになるかもしれないが、どちらの優先度が高いかなんて考えるまでもない。

「そして全てが終局を迎える頃……然る後………えっと……」
「ん?」
「わ、私の話の後は……飛鳥の話が聞きたい、な……?」
「……ああ、喜んで!」
「エヘヘ……」

そしてボクたちは語り始めた。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:50:22.65 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Asuka≫

その夜、蘭子の口から語られたのは、驚くべき内容だった。
別のセカイのもう一人の蘭子との出会い。彼女たちの不思議な交流。絶望に満ちた別れ。そして失意のどん底にあった蘭子の前に突然現れた神崎P。
常識的には信じ難いその物語を、しかし、ボクは全て真実として受け入れることが出来た。

ボクも語った。
幼少の頃に感じていた些細なことから、黒歴史として封印した幾つもの記憶も曝け出した。それに加えて、ALDや“台本”についてもだ。蘭子は終始興味を持ってくれたので、実に喋り甲斐があった。

そうやって、ボクたちはとても長い時間語り合っていた感覚があったのだが、実際には一時間ほどしか経っていなかった。不思議なこともあるものだ。

こうして語り合ったところで、蘭子と共鳴できる確証はなかった。
しかし少なくとも、蘭子が生き方の軸にしている記憶を知らないまま、彼女と共鳴することは土台不可能な話だったのだと思う。
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:50:51.78 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

「じゃあ、再生ボタンは神崎Pが押してくれ」

Pが神崎Pにレッスンルームの音響設備のリモコンを手渡す。

「……フン」

神崎Pは受け取ったリモコンを一瞥してから、いかにも不機嫌といった表情をボクに向けた。
ボクは隣にいる蘭子とアイコンタクトを取り、頷き合う。準備は万端だ。蘭子に背を向け、曲始めのポージングをとる。
四人だけのレッスンルームが静まり返る。
昨夜、蘭子と深く語り合ったからといって、“力”を妨げない方法、いや、蘭子と共鳴する方法が判明したわけではない。しかし“きっと大丈夫だ”という根拠のない自信はあった。

しっかりと見ておけよ神崎P。お前が軽んじた二宮飛鳥の本領を。お前の予想を裏切ってやる。お前の期待なんて知ったことか。ボクの……ボクと蘭子の覚醒した真の力を刮目しろ。
さあ来い。さあ押せ。どうした。ほら――。
そのとき、ジワリ、と背筋に不思議な温かさを感じた。それは“リンク”だった。ボクと蘭子を繋ぐ、不可視のライン。この世の如何なる回線よりも早く、正確に、膨大な情報を送受信することが出来る魂の回廊。ボクと蘭子が溶け合い、補い合い、共鳴するための。
錯覚なんかじゃない。
蘭子がこの曲で思い描く世界観が流れ込んでくる。それのなんと荘厳で気高いことか。

「いざっ!」
「さあっ!」

神崎Pへの催促が完璧に同期する。この程度のこと、背を向け合っていても今のボクたちにとっては容易いことだった。

「チッ……もういいわ」
「は……?」

神崎Pは手に持っていたリモコンを棚に置いた。音楽は再生されていない。

「P、これからのスケジュールだけど」
「うん、なになに?」
「は? いや、おい、テストはどうした、神崎P……!」

Pを伴ってレッスンルームの外へ出ていこうとする神崎Pを呼び止める。

「チッ……もういい、と言ったの」
「はぁ? 何を言って……? テストさえも受けさせないつもりか!?」
「あ〜〜飛鳥。合格だってさ」
「えっ?」
「チッ!」

合格? まだワンフレーズさえ歌っていないのに?

「チッ……やらなくても分かるわ。貴女だけよ、分かってていないのは。チッ」
「はぁ? 一体何を……?」
「今のお前たち、輝いてるぜっ!」
「は……?」
「チッ!」

何とも要領を得ない答えしか返ってこない。何なんだよ一体。

「飛鳥。たぶん、コレ……」
「ん? 蘭子? それは……?」

蘭子がキラキラと輝いて見えた。空気中の埃が光を受けて煌めくのに似てなくもないが、それとは一線を画する高貴な輝きがあった。その光の粒子は意思を持っている様に蘭子の周囲を浮翌遊している。そしてそれはボクの周囲にもあって……。

「これは……まさか……!」
「チッ……どうやらリンクは成功したようね。ならもう演るまでもない……レッスンルームなんかでその力を解放するのは勿体ない。本番で存分に奮いなさい。チッ!」
「つまり……?」
「合格満点、ダークイルミネイト結成決定っちゅーことだ!」
「〜〜〜〜〜ッ!」
「やったぁ! 飛鳥〜〜〜っ!」
「チッ! チィ…ッ!」

ダイブしてきた蘭子を受け止め、合格の歓びを共有する。
というかさっきから神崎P舌打ちし過ぎだろ。ボクと蘭子がユニットを組むことになったのがそんなに悔しいのか。やれやれ、最高の気分だね。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:51:39.05 ID:+IqVL7Wl0

「おっ、そうだそうだ。じゃ、飛鳥、アレやるか!」
「え? あれって?」
「アレじゃん、アレ。三か月半ぶりのアレだよ。飛鳥の好きなア〜レ」
「えっと……?」
「ムッ、秘められし呪言か……?」

何だっけ? 何かあったっけ?
Pの勿体ぶった言い方に蘭子も気になるのか、視線をボクとPの間で行ったり来たり。
三か月半前といえばちょうどALDを振り始めた頃で……それはボクのアイドル活動では大きな転機で……あ。

「いや、待て、しなくていい、蘭子の前でそんな恥ずかしいこと」
「あーダメダメもう限界だやるぞアレやるぞ……!」
「おい、やめろって、てゆうかいつ好きだと言った!?」
「な、なな何事? 世界の終わりかっ?」
「おぉん! いっきまーすっ!!」
「ああもう!」

Pがレッスンルーム中央まで転げていき、妙な体術で跳ね起きる。そして蘭子とは正反対のベクトルの至極ダサいポージングを決めて――

「一大叙事詩 ASUKA The Idol! 長き暗黒時代を抜け、今ここに、あぁっ! 今ここに! Fourth Stage が開幕したことを! い! ま! こ! こ! にィィ! 宣言するぅっ!!」

――やりやがった。最高の出力だったな。蘭子の前で。恥ずかしい。何の罰ゲームだこれ。

「フッ……二宮飛鳥にお似合いの茶番ね」
「ぐうっ……!」

の音も出ない。神崎Pのまともな一言に、ボクは膝から崩れ落ちる。
しかし蘭子はといえば。

「何ぞコレーーっ!?」

瞳を爛々と輝かせていた。ひょっとしてツボに触れてしまったのか?

「我が友〜!我も! 我もああいうの欲しい!」
「えぇっ……!?」

蘭子の全力おねだりに、神崎Pは困惑しているようだった。そして消えそうな声で「考えておくわ……」と呟いたのだった。
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:52:07.38 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

三万を超すオーディエンスの歓声。その大気のうねりは雷鳴をも遥かに凌駕する。
流石は十一月公演。年に四回しかない大規模合同ライブの一つだけある。

「準備はいいか?」

Pの問いかけにボクと蘭子は笑みを返す。
セトリも中盤を過ぎ、巨大なドーム会場は客席からステージ、そして舞台袖に至るまで隈なく強烈な熱気に包まれている。
火傷しそうな程の熱量に身体が震えてくる。無論、武者震いだ。拳を握ればいくらでも力が湧いてくる感覚がある。高まりに高まったこのエネルギーを、解放するときが愉しみでしょうがない。
ステージ上では、ボクたちの出番の一つ前のユニット、トライアドプリムスが歌い終え、仲睦まじいトークを繰り広げていた。

『じゃ、そろそろ次の子たちにバトンタッチだね』

渋谷凛が言う。

『次は先週結成が発表されたばかりの、ダークイルミネイトってユニットだな。メンバーは神崎蘭子と二宮飛鳥。加蓮は知ってるんだっけ?』

ややボーイッシュな言葉遣いは神谷奈緒。

『飛鳥のことはね〜。半年くらい前にアタシと肇と三人でユニット組んでたから』

北条加蓮と会うのは久しぶりだった。

『でも今の飛鳥、前とは比べ物にならないくらいに成長してる』

さっき楽屋でした“打ち合わせ”から早速脱線し始める北条加蓮。

『この子ら、最近かなり話題になってるよな〜。もう一人の神崎蘭子って子はライブのパフォーマンスがスゴイらしいし』

神谷奈緒が脱線に追従する。

『飛鳥だってスゴイよ? ステージが壊れる中で歌っちゃうんだから』
『ソレほんとなのかなぁ〜? 尾びれ背びれが付いてないか?』
『アタシ現地で見てたんですけどー!?』
『へぇ……そんなにスゴイいんだ。ダークイルミネイトの二人は……!』
『あぁほら、凛が対抗心出しちゃってるし!』

随分と持ち上げられたものだ。いやハードルを上げられているのかな? これが先輩方の洗礼……。望むところだ。
くつくつと、Pがニヤついていた。僕も、蘭子も、神崎Pさえも、笑っていた。

「頃合いね。さぁ、蘭子」
「うんっ!」
「ぶちかましてやれ、飛鳥」
「あぁ! ……ってキミは相変わらずウインクが下手だな」

蘭子が「スゥ〜〜〜!」と大きく息を吸い込む。そして――

『ハーッハッハッハーーーーッ!』

――会場中に彼女の哄笑が響き渡った。
ザワつく観客席。

『なんだなんだ!?』
『ダーク…イルミネイト……っ!』
『これは神崎蘭子ちゃんの声かな〜〜』

トライアドプリムスの三人はもうほとんどアドリブだった。

『歌姫たちの呼び声に誘われ降臨してみれば、此度のミサには魔翌力が満ち満ちているようね』

蘭子もアドリブだ。そしてボクも――

『今宵のライブ、終わりはまだ遠い。一度ここらで気分転換をしてみようじゃないか。といっても、休憩にはならないと思うけどね』
『片翼を持つ我らダークイルミネイトの魂の輝き……胸に刻むがいいわ』
『そういうことさ。若輩だが、仕事はキッチリとこなさせてもらうよ』

蘭子と手を握り合う。

『蘭子……』
『飛鳥……』
『さあ、往こうか…!』
『うむっ!』

会場が暗転。舞台上へと進み出る。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:52:34.21 ID:+IqVL7Wl0

暗黒の大空間に、数限りない星々が煌めいていた。まるで銀河だと思った。
色とりどりということは、ボクたちのペンライトを必ずしも全員が用意してくれてはいないということ。だがまぁ、今回の出演者の中ではボクたちが最もキャリアが浅いし、常務のゴリ押しを後ろ盾にした“サプライズ枠”での急な参戦だったから仕方ない。
ボクたちの衣装はお揃いの漆黒のドレスと編み上げブーツ。違いといえばウエストを飾る花の他、数点のアクセサリとスカートの裾から覗くフリルの色が紅か蒼かくらい……の筈だった。しかしどういうわけか、蘭子の身に付けるそれは、ボクのものとは全く異なって見えた。

そうか……!

そもそもの違和感の正体に気付く。未だ暗闇の中だというのに、見えていたんだ。蘭子の姿がハッキリと。その不可思議を現実のものとしているのは周囲に漂う淡い煌めき……蘭子から滲み出る未知の粒子であり波。
客席からもどよめきが起こり始めている。
中央まで到着して然る後、場内の照明が復活する。

…………!!!

会場中が息を呑む雰囲気があった。
スポットライトに照らされた蘭子は、神々しいまでの輝きを放っていたのだ。
輝きに手を触れると、それは蘭子から生じていながらボクにも親和性があり、まるでボクから生じたものでもあるかのように馴染んでいく。

そしてダークイルミネイトのステージが幕を開ける。

歌い、舞い踊り、ボクたちの世界観を送りつけてやる。

歓声を上げることも、呼吸さえも忘れて、ステージを見つめるオーディエンスたち。
彼らの視線は、しかし、ほとんどが蘭子へと向いていた。
まぁ、そうなるだろうね。想定の範囲内だ。
でもだからといって、それに甘んじていられるほど良い子でもないんだよボクは……っ!

「――――ッ!!」

敢えてだ。ユニゾンを崩すほどに声量を上げてやる。ここにボクも立っていることを主張してやったのだ。当然に耳目はボクへと殺到する。ダークイルミネイトはデュオユニットだと思い出させることが出来た。
ライブは生モノ。守破離って言葉もある。この程度の演出、構わないだろう?

「〜〜〜〜っ!!」

そこですかさず、蘭子が意趣を返してくる。振り付けにアドリブのポージングを紛れ込ませながら、強烈に声帯を震わせた。ボクへの注目を奪い返そうと!
嗚呼! 蘭子! それでいい! 忖度なんて要らない! だってボクらは同士であり、パートナーであり、同時に最大で最高のライバルなんだから!

………!!!

彼らは皆、目を皿のようにしたまま微動だにしていない。ボクたちに圧倒されていた。
こういうのもたまには良いかもしれない。だけどやはり……物足りない!

――そうだろ、蘭子?
――うん! 飛鳥!

ボクたちはセカイに対して、不敵に笑って見せる。
突如として鮮烈な光景が脳裡に流れ込んでくる。

熱砂、硝煙、旋風、獄炎、閃光……!

それは蘭子の記憶だった。別のセカイの彼女を通して視た、蘭子の現実。
受け取ったイメージに身を任せる。触れて、感じて、理解する。そしてボクの物語を注入して、蘭子へと送り返す。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:53:34.94 ID:+IqVL7Wl0

「フフ……っ!」

片割れから再び届いた情報。ボクの送ったイメージに、蘭子のテイストが付加されたモノ。ブラッシュアップしてまた送り返してやる。
繰り返す。何度も何度も繰り返す。ボクたちのイメージが交錯し、錬磨され、重なり合っていく。
時間を超越した何処かで、ボクたちは確かにレゾナンスしていた。
そうして至った一点――ボクと蘭子が紡ぎ出したセカイ――は最早このセカイの現実と化した。

「――むんっ!」

蘭子の可愛らしいかけ声で解放されるエネルギー。光の粒子がボクらの祈望を実現せんと意思を持ったように躍動し始める。渦を巻きながら上昇する様は、中二病理患者でなくとも一度は妄想したことのあるであろうオーラそのもの。それがボクからも滲み出ている!
なんてカッコイイんだ!
オーラは優に十メートルは立ち昇った後、薔薇の花が開くように四散してゆく。
粒子のおよそ半分は客席へと向かい、オーディエンスの持つ全てのサイリウムを強制的にアメジスト色の光彩へと変貌させた。
残りの半分はボクたちごとステージを覆い尽くして――。

――――!!!???

観客たちの混乱は無理もない。
突如として、暗黒時代の巨大な廃城が眼前に現出したのだから。
そこに在ったはずのステージセットもドームの壁も天井も、何もかもをぶち抜いて、そんなものは無視されて、ボクたちのイメージ通りに上書きされていたんだ。

「え〜〜い!」

知覚領域の全てを極彩色の輝きが埋め尽くす。

――――!!!

そうしてようやく、歓声が堰を切ったように溢れ出した。いや、絶叫の方が近いかも? まぁ、皆瞳を輝かせているから別にそれでもいいか。

――さあ、飛鳥っ!
――っ!

音楽は続いている。が、最早ダンスなどボクらのステージには必要なくなっていた。蘭子に手を引かれ、一歩進むごとに歓声が上がる。
ブーツで踏みしめる感触と響く足音は紛れもない本物。以前、蘭子のライブで幻視したものとは一線を画するリアリティ。そこに現出していたのは、本物の石造りの廃城だったんだ。

カツーン!

決定的な一歩。今、蘭子は石造りの階段に足をかけた。そしてそれが当然と言わんばかりに次の一歩を踏み出す。ボクも続いて上がっていく。
ボクたちの重力を支えている “コレ”は何なのか?
そこに在るはずの壁がなく、在るはずのない構造物がある。

――触れられる夢幻。
――それは正しくセカイの理への叛逆。
――魂の共鳴によって実現される奇跡の御業。
――楽園へ至る禁忌。

階段を上った先の踊り場でボクたちは最後のレゾナンスをした。
ダークイルミネイトの魂を歌に載せて、ただひたすらにオーディエンスへと訴えかける。

――こんなに素敵なことがあるんだ。このセカイも捨てたもんじゃないだろう?

――――ッ!

歌が終わる。
空間を埋め尽くす喝采。
セカイが変革する兆しを、ボクは確かに感じ取っていた。

ボクたちが階段を下り切ると同時に廃城は光の泡となって消滅し、元のドーム会場に戻った。
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:54:07.93 ID:+IqVL7Wl0


「ふぃ〜〜終わった終わった〜〜」

他の出演者への挨拶回りを終えて、ボクたち四人は楽屋に戻ってきた。
Pは早速ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めている。
神崎Pは禍々しい程の不機嫌顔をしている……が、それはボクたちのステージが終わった時からずっとだ。大方、ボクに小言が言えずイラついているのだろう。フン。
蘭子は未だライブの熱が冷めていないようで、夢見心地な表情。ポワポワという擬音が聞こえてきそうだ。
まぁ、ボクも蘭子と似たようなものだけど。

「フフ……夢のような時間だった……」

今日のライブは本当に凄かった。ボクたちが受けた歓声はこれまでで最大だったし、その後の盛り上がりも半端じゃなかった。
正直なところ、ダークイルミネイトの盛り上がりが今日のピークになるだろうと予想していた。ボクたちに超常的なパフォーマンスと比べれば、他のどんなステージでも見劣りするだろうと思っていたから。でもそれは浅はかな考えだったと反省しなくてはならない。彼女たちにとっては――超一流のアイドルにとっては――自分たち以外のステージの盛り上がりを維持し、更に加速することは決して難しいことではないらしい。
冷静に評価すれば、ボクたちのアイドルとしての実力はこの規模のライブに出てくる先輩方には、まだ及ばないということだ。

ただやはり。この十一月公演で最も話題になるのはダークイルミネイトだろう。

SNSを覗いてみれば、早速ボクたちのパフォーマンスについて様々な憶測が飛び交っていた。最新の舞台技術とか、集団催眠とか、疲労による幻覚とか、あとは、サクラ要員がステマしているとか。まぁ、ボクたち以外に理解るわけもなし。

「へぇ……! 蘭子、見てみなよ」
「ほぇ? ……わぁ〜! 増えてる〜!」

フォロワーの数を見てみるとこの短時間の間に、ボクも蘭子も万単位で増えていた。分かりやすい成果というのは嬉しい。これで念願の十万台に突入だ。
とはいえ、蘭子のフォロワー数との差は特に縮まらず、いまだ彼女の半分程度のまま。彼女パートナーを名乗るならば、もう少し近づきたいところだな……。

「あ〜、そうそう」

Pがおもむろに、かつわざとらしく切り出す。

「この後の“お愉しみ”についてだけどさぁ。キミらが着替え始める前に決めとこっか」

瞬間、楽屋に緊張が走る。お愉しみとは言わずもがな、打ち上げ――すなわち、ご馳走……!
ここに存在しているのは最早アイドルとプロデューサーではない。血に飢えたケモノども。となれば先手必勝――

「麻婆豆腐」
「ハンバーグ!」
「焼肉!」
「うお、すげぇ勢い。ウケる。あ、俺はピザを推す」

――考えることは皆同じか。
見事に割れた。何故だ? 打ち上げと言えば焼肉と相場が決まっているだろうに。いや、ハンバーグとピザはまだ理解できるけど、神崎P、お前……。
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:54:36.61 ID:+IqVL7Wl0

「麻婆豆腐で打ち上げなんて聞いたことがない。そこはせめて中華だろう。シンプルに頭がおかしいのかい?」
「貴女はまだ麻婆豆腐の奥深さを知らないお子様だということよ」
「キミはただの麻辣ジャンキーだろう。健全なボクたちまで巻き込まないでほしいね。ひょっとして、受肉するときにバグでも起きたのかな? それなら憐れんでやってもいいよ」
「ッ……! 蘭子に聞いたのね……。まぁ、別に構わないけれど。貴女こそ、打ち上げといえば、二言目にはいつも焼肉……。あんな煙いだけのものを有難がるなんて、どこの原始人かしら」
「なんだと!? 焼肉を愚弄するのか!」

まったく、神崎Pが同じ空間にいるといつもこうだ。最近はPだけじゃなく蘭子までもが、ボクらの言い争いをただのBGMのように受け流しているし。

「あ、あの……P、さん……ハンバーグの美味しいお店、知ってますか……?」
「沢山知ってるよ〜! ひき肉の配合が神ってるお店とか、目の前で火柱上げながら焼いてくれるお店とか。どういうのがいい?」
「う、う〜〜ん……ヘルファイア……かな」
「おっけーおっけー………てか、待って。さっき何か重要なカミングアウトしなかった? ジュニクって? 確認しちゃったの? ねぇ?」

Pがボクと神崎Pをまじまじと見つめてくる。が、放っておこう。神崎Pの身の上話なんて全然したいと思わないし。

「フン……それより。事実として意見は割れている。最終的には一つを選ばなくてはならないのだが、さて、どうやって決めようか」

じゃんけんはダメだ。蘭子曰く、神崎Pは元上位存在だけあって身体能力も人間離れしているらしい。仮にP並みとすると、こちらの出す手に反射神経で即応するなど造作もないはずだ。
まぁ正直、麻婆豆腐以外ならどれでも構わないのだけどね。

「あっ! 飛鳥、アレ! 我、アレ使いたい!」
「アレ……?」

蘭子が何か思いついたらしく、鼻息荒く迫ってくる。

「えっと、アレ、とは……?」
「無論、ラプラスの魔に抗う呪物のこと!……えっと、何て呼んでたっけ…? あ、そうそう! ALD!」
「あぁ……なるほどね」

何かを決めるためにALDを振るという行為をここ最近してなかったので、その発想がなかなか出てこなかった。アレを使うとなると、純粋に四分の一の確率で麻婆フェスになってしまうが……まぁ、蘭子の頼みなら仕方ないか。

「P、久しぶりに使ってみていいかい?」
「あ〜〜、まぁいいけど……それも蘭子ちゃんに言ったのね」
「あっ……あぁ、すまない。話の流れでね……もしかして、不味かったかい?」
「うんにゃ、もう別にいいよん。それに丁度いい機会だし、神崎Pに聞いてみるか」
「私……? さっきから何について喋っているのかしら?」
「あぁ、それはな……」

Pが胸ポケットに指を突っ込んで、ALDを摘まみ出した。見るのは久しぶりだが、ずっとPの胸ポケットに収まっていたようだ。そういえば、どこかに放置していても一定時間が過ぎれば、自動的に彼の元に瞬間移動で戻ってくるんだったか。改めて考えても訳の分からない機能だな。

「わぁ〜、キレイ〜〜!」

蘭子がPの指元に顔を寄せて、その不思議な輝きをしげしげと見つめる。そしてPが蘭子に向けて「ほい」とALDを差し出すと――

「ダメよ!!」
「ひゃあっ!?」

――神崎Pが、ALDを受け取ろうとしていた蘭子の右手を、鷲掴みにした。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:55:06.06 ID:+IqVL7Wl0

「……あらら。もしかして、ヤバいヤツだったか?」
「ッ……!」

一瞬、神崎Pの表情が理解できなかった。いつも余裕ぶって、人を見下しているような態度の神崎Pからあまりにかけ離れた雰囲気……。単純に焦っているのだとなかなか気付けなかった。いや、焦りだけではなく、怯えている?

「そ、そういうことだったのね……以前のアナタ達の不可解な仕事選びはコレを使って……!」
「神崎P、やはりこれはお前が昔いた場所と関わりのあるモノなのか?」
「P……これは……………」

神崎Pは黙り込み、まるで苦渋の決断をするときのように目を固く瞑り。

「今……私に、言えることは、とても、少ない……」

慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと言葉を吐いていく。

「一つだけ、聞かせて。貴方は、これを、これからも、使うの……?」
「…………」
「な、なんぞ……?」

急に凍り付いた空気に蘭子が狼狽している。にもかかわらず、神崎Pは青ざめた顔色でひたすらにPを見つめていたので、かなり深刻な状況らしいことがボクにも理解った。

「………いや、使わねぇよ? 今だって言われなくちゃ出さなかっただろうしな。ちょっと前までは使ってたけど、もう使うことは、二度と、無いだろうな」
「………そう。貴方は、もう、二度と、使わないのね……」
「……?」

一瞬だけ、神崎Pがボクへと視線を向けた。

「あぁ。使わねぇし、誰にも、使わせるつもりは、無い」

Pの言い方のちょっとした違和感……。神崎Pの質問に答える体であったのに、神崎Pに言っている様には見えなかったのだ。例えるなら、天井裏に語りかけるような……?
そしてPもボクへと視線を向けてくる。その眼差しには、ボクへ理解を求める雰囲気があった。

「………」

Pがそう言うのならボクは別に構わない。元よりPが持ち主なのだから、彼が誰にも使わせない、と言うのなら従うまでさ。
ボクは頷いた。するとPはウインクをしたのだが、それはそれは見事なものだった。なんだ、出来るんじゃないか。

「あぁん! もっと見たかったのにぃ〜〜。現世の試練か……」

PはそれからすぐにALDを懐に戻してしまったので、蘭子は不満げだった。しかし三人で示し合わせて、打ち上げをハンバーグ専門店ですることを提案すると、蘭子の興味はお店の方へとシフトした。
打ち上げのお店が決まる頃には、Pはいつも通りのお調子者に戻っていた。
神崎Pも一見すると普段の不愛想を取り戻していた。だけど結局は打ち上げの最中にボクへ小言を吐くことは一度もなく、それが妙に居心地が悪くて……もっと言えば、凶兆のように思えた。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:55:37.23 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by 蜈?ココ蠖「≫

天界から堕天して人間として活動していると、予期していなかった幾つかの問題が出てきた。

一つ。私の食の嗜好に関しての神経設定について。
人間に三大欲求があることは理解していた。堕天前に一通り観察した限りでは、その生理的な欲求に囚われ、健全な生活をないがしろにしてしまう人間は掃いて捨てるほどいた。だからこそ受肉に際して、性欲は抑え気味に、睡眠は三十分でも問題ないように、味覚は――何でも美味しく感じてしまう舌だと、食に多大な労力を割いてしまう可能性があったので――ピーキーに設定したのだが……。
性欲と睡眠欲についての設定は奏功したといってもいい。しかし、味覚については完全に失敗したと言わざるを得ない。肉の身体から生じる欲求の強さについて、私は随分と見誤っていたのだ。
“ソレ”しか美味しいと感じないのなら、際限なく“ソレ”を求めるのが人間の性らしい。
私にとっての“ソレ”とは麻婆豆腐だった。
ひょっとすると、他二つの欲求を抑えた歪みが麻婆豆腐への執着として顕れているのだろうか……?
食事と言えば麻婆豆腐の私を変人扱いする人間はままいるが、それは別にどうでもいい。
心の底から残念に思うのは、蘭子と同じものを食べて「美味しいね」だなんて感想を言い合うことが非常に難しいことだ。

一つ。魂の力を扱うための三つの段階について。
私がまだ天使だった頃には意識したことも意識する必要も無かったのだが、魂の力を扱うには三つの段階があるらしい。
一段階目が、まず元となる最初の波動を出すこと。そして二段階目が、その波動を増幅させること。そしてこの二つが完璧にできて初めて三段階目である、無限のエネルギーにアクセスすることが可能になる。
蘭子が自力で体得していたのは一つ目だけだった。二つ目の増幅させる方法については、私も蘭子も皆目分からなかった。そもそもが超感覚的な事象であるため、『増幅させる』という定性的なことは伝えられても、では具体的にどうすればそれが成されるのかについては一切教えることが出来なかった。
いや、他人が魂の力の引き出し方を具体的に教えることなど不可能なのだ。天使でさえも出来ないはずだ。魂の形は各々全く異なる。故に励起させる手順も手法も千差万別。もし仮に『こうしてみなさい』だなんて指示したとしても、それは蘭子を混乱させるだけで良い結果に繋がることは無いだろう。それならば何も伝えない方がまだマシだ。

一つ。二宮飛鳥について。
蘭子は魂の波動を増幅させられなかったが、最初の波動だけでも他の誰にも真似できない現象を起こすことが出来た。それは特にアイドルのパフォーマンスでは絶大な威力を発揮する。魂の力を全て引き出すことは不可能だが、それでも尚、遠からず蘭子はアイドルの頂点に立つと私は確信していた。
そこに現れたのが二宮飛鳥。私と蘭子の間にやたらと割り込んでくる憎っくき小娘だ。コイツは一体何なのだろう……?
二宮飛鳥には魂の最初の波動を出すことは出来なかったが、他者の波動に共鳴する才能があった。おそらくは一ノ瀬志希やPとのライブでその端緒を掴み、蘭子とのライブで見事に開花させたのだ。そしてそれによって、蘭子だけでは不可能だった虚空からの物質化も、一時的ではあるものの成功した。
二宮飛鳥が何故そんな才能を持っているかを知る術は無いし、知ったところで蘭子に活かすことは出来ない。
蘭子単独では魂の波動を増幅させられないと分かったときに、多少残念に感じたのは事実だ。しかし、実のところ、蘭子の発した波動を二宮飛鳥が増幅する形がベストだったのかもしれない。もし仮に単独で全ての力を引き出してしまったなら、最早人間のままでいることは出来ないだろうから。
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:56:26.96 ID:+IqVL7Wl0

一つ。Pについて。
私の肉体を形成する際には、Pの肉体を参考にして同程度のスペックになるように各細胞を設定したはずだった。しかし実際に見るPは時折、想定以上の能力を発揮することがあった。
あの崩壊するステージの裏でPが見せた認識能力。アレは明らかに人間の限界を超えていた。元のセカイ線を観察した限りでは、そこまでの能力があるとは思えなかったが……。つまりは“そこまで”困難な状況に直面しなかったから手を抜いていただけ、ということだろうか……?
彼について理解できないことは他にもあった。
元のセカイ線でPがプロデュースすることになるのは養成所に通っていた少女だったはずなのに、私が干渉して生み出したこのセカイ線では何故か二宮飛鳥をプロデュースしている。彼の周囲には一切干渉しなかったのにだ。この矛盾については長らく、私が堕天したことによるバタフライエフェクトによるものだろうと強引に納得していた。だが、これについてはようやく原因が分かった。私が干渉を行使したあのとき、Pの周囲にも干渉があったのだ。それがALD。

一つ。ALDについて。
一目で気付いた。ゾッとする程に美しい光彩は、このセカイのモノではない。ならば間違いなく“あの”天使によるものだ、と。
天界を漂っていた私に付き纏い、あまつさえ干渉に割り込んできた、あの嫌な感じの天使。
私とは全く異なる奇妙な堕天方法なのは感じていたが、まさかあんな形で降りてきていたとは。
Pの考察通り、ALDはこのセカイに落とされたあの天使の“影”なのだと思う。あの天使の本体は今も天界とこのセカイの次元の狭間にいて、ALDを通してじっと観察しているのだ。
ALDの効力について、Pは『決定済みのセカイ線の運命に揺らぎを与えられる』と考えていた。私が天使だった頃にはそんなことを考えたりしなかったが、恐らく可能なのだろう。可能だから、そして、Pという人間なら“そういう”使い方をしてくれると予測したからあの形を採ったのだ。そう理解する方が自然だ。
しかし分からない。セカイ線に揺らぎを与えてどうしようというのだ? セカイ線の分岐を発生させたいということなのだろうか? それは何の為に?何かの実験? ただの興味本位?
Pと二宮飛鳥はALDをかなりの回数振っていたらしい。気付かないだけで、もう分岐は発生しているのだろうか? それとも分岐を発生させるためには、揺らぎの蓄積が必要? 分岐が発生するとして、それはALDを振った瞬間なのか、実際に行動に移した瞬間なのか、それともかなりのタイムラグがあったりするのか?
疑問は尽きないが、ただの人間になってしまった私には最早知りようがなかった。
無性に不安になっていた。特に、あの天使の目的が分からないことがとても不安だった。あの天使の目的は分からないが、きっと碌でもないことに違いない。それだけは直感的に分かっていたのだ。
PはもうALDを振らないと宣言してくれた。それはあの天使も聞いていたはずだ。だから後は祈るしかない。これ以上この“戯れ”を続けていても意味が無いと理解してくれることを。そしてこのセカイから去って行ってくれることを。


漠然とした恐怖の正体に、私は本当は気付いていたのだと思う。
頭の片隅に漂っていた或る予感を、しかし、“ルール”があるから“それ”だけは無いと無視をしたのだ。
天界における絶対のルール。それを破った者は例外なく消滅させられる。だから大丈夫だと信じた。信じようとした。そうしなくては平静を保っていられなかったから。

ALDの存在を知った日の数か月後、私は己の愚かさを思い知ることになった。

『どんなルールにも抜け穴はある』なんてこと、人間社会で過ごした一年足らずの間でさえも何度となく目の当たりにしたというのに、私は“そのとき”が来るまで気付くことが出来なかったのだ。
113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:56:54.77 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

ダークイルミネイトの初ライブの翌日、志希に呼び出された。
それは願っていもないこと。先日相談に乗ってもらったお礼を改めてしようと思っていたから。
待ち合わせ場所は先日と同じ会社内のカフェ。

「……驚いた。キミが先に来ているなんてね。明日は槍が降るのかな?」
「ん………」

果たして志希は、先日と同じテーブルについていた。
ボクよりも早く着いて、おとなしく着席しているなんて相当珍しい。

「今日はジンジャーエールだけか……フフ。前ので懲りたのかい?」
「………ん」

注文したコーヒーがやって来るまで他愛もない話を振ってみたが、志希の反応は薄い。というよりは、視線をあっちやこっちへやって落ち着きがない。さっき後ろから見た時にはおとなしくしているように見えたのに。

「それで急に呼び出したりして……いやキミは大抵が急だが、どうしたんだい?」

サーブされたコーヒーに砂糖を溶かし込みながら本題に入る。すると、ピクッと志希の肩が震えた。

「………昨日の飛鳥ちゃんたちのライブ………あたしも、観に行ってた」
「へぇっ! そうだったのかい! 来てるなら言ってくれれば良かったのに。でも、素直に嬉しく思うよ」

志希とはお互いのライブの日程も教え合っていて、都合がつく場合にボクはよく志希のライブを観覧しに行っていたのだけれど、志希が来てくれることはほとんど無かった。

「で、どうだったかな? ボクたちダークイルミネイトのパフォーマンスは。是非とも忌憚のない意見を聞きたいね」
「ッ……!」

一般のオーディエンスには概ね好評だったが、トップアイドルと言っても過言ではない志希の目にはどう映ったのか。

「また、Dimension-3 で、ライブしたいにゃあ………」
「ん……? あぁ、そうだな。ボクも以前よりは成長しているという自負がある。今ならもっと良いステージに出来るだろうね」
「――っ! ホントっ!? いいの?」
「わっ……! テーブルを揺らすんじゃないっ」

志希が身体を乗り出してきた勢いで、コーヒーとほとんど手の付けられていなかったジンジャーエールの水面が大きく揺れた。それに気も留めず志希は、瞳をクワッと開いてボクを見つめてくる。というかボクたちのライブの感想は……?
志希の髪の毛先がコーヒーに浸かりそうになっていたので耳に掛けてやろうとする。が、その右手を握られた。

「いつから? すぐできる?」
「志希……? いや、すぐには無理だよ。しばらくはダークイルミネイトで活動するし」
「だ、ダメだよ……すぐに始めないとULに間に合わなくなる……」
「UL……なるほど、やはりもう“そういう”時期なんだな……」
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:57:21.44 ID:+IqVL7Wl0

ULとはすなわち、ウルトラライブ。毎年三月の末に開催される、一組のユニットだけによる超大規模のライブのこと。そしてこの一組とは、二月中旬に行われる人気投票イベント――通称“総選挙”――でトップに選ばれたユニットである。
ULはうちのプロダクションに属しているアイドルなら全員が目指すべきステージだと言われていて、実際、四月から二月中旬までの約11か月の間に結成された全てのユニットが投票対象となる。だが、現実的に選ばれる可能性があるのは、既にかなり人気のあるアイドル達によるユニットだけ。つまり中堅以下のアイドルには縁の遠いイベントだといえる。
そのため、ULを本気で目指すかどうかで十一月頃からの活動の仕方は大きく異なる。目指さない者たちは、これまで通り一か月程度の期間限定ユニットを組みながら、自分の可能性を広げ、ファンを増やしていくのが一般的。一方、目指す者たちは、ここからは投票が終わるまでユニットを固定する。その勝負ユニットは、過去に結成していたユニットを再結成することもあるし、初めて結成するユニットになることもある。彼女達にとってこれまでの期間は、勝てるユニットを見極めるための準備期間の側面もあったというわけだ。
ULについては随分前にPから聞いたっきり、慌ただしい毎日の所為で忘れていた。それが再び意識に上がったのが、昨夜の打ち上げの最中。まさか昨日の今日で、志希の口からも聞くことになるとは思いもよらなかった。

「ねぇ、飛鳥ちゃん……。あたしと……Dimension-3 で、UL目指そ……?」

痛みを我慢しているような表情と、羽音のようなか細い声だった。

「志希………」

ひょっとしなくても、これはラブコールなのだ。一ノ瀬志希という超人気アイドルから、ボクみたいな中堅への、勿体無いお誘いなのだ。これ以上に光栄なことなんて他に無いと、志希と組んだことのあるボクだからこそ本気で思う。

「誘ってくれてありがとう、志希……」
「じゃ、じゃあっ……!」
「でも、ボクは断らなくてはならない」
「……………えっ」

昨日の打ち上げで、ボクたち四人は宣言したんだ。

「ボクは、蘭子と……ダークイルミネイトで、ULを目指す」

確認するように、ボクは昨日と同じように宣言した。
そのとき、志希の目尻に何かが滲み出したように見えたのはボクの幻覚だろうか。
志希は沈黙したままゆっくりと上体を前に折り、額をテーブルに着けて静止する。何かを考えているのか、ピタリと止まっている。
そのまま一分近く経った。志希の思考時間にしては異常と言っていい程に長かった。

「…………………ぅ」
「う……?」
「うにゃーーーーっ!!」
「うわっ!?」

ガバっと上体を起こした志希が奇声を発する。そこにいたのはもう、ボクには手の負えないいつもの一ノ瀬志希だった。

「いーもん、いーもん。志希ちゃん、組んじゃうんだから。ずっとオファー受けてたユニット!」
「………フフ。ということはULをかけて、ボクたちと争うことになるね」
「ふーん。あたしたちと張り合えるつもりなんだー?」
「むっ……? 聞き捨てならないな。確かにボクたちは一年目のルーキーだが――」
「もう飛鳥ちゃんなんて知らなーい。バイバーイ!」
「えっ、おい、志希……!」

そしてあっという間に志希は行ってしまった。
去り際に見せた不敵な笑みはとても彼女らしくて、決して一筋縄ではいかないことがボクにも予想できた。それはそれで、とても愉しみではあったのだけれど。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:57:56.70 ID:+IqVL7Wl0



「――おっ? この感じ、来たな……」
「どうしたんだい、P?」

Pの居室での打ち合わせが終わり、コーヒーブレイクしていると、彼が妙なことを口走った。そして携帯を取り出し、画面を何度かタップすると「うむ」と頷いた。

「SNS、見てみ」
「ん? 何か事件でも……?」

ボクも携帯を取り出し、アイコンをタップして―――そこでドアがノックされた。

『P、いるわね?』

この声は……。
「どうぞー!」とPが答える。現れたのは神崎P。と、その後ろに蘭子もいた。

「やってくれたわね、二宮飛鳥……」
「は……? いきなり現れたと思ったら、何を言うんだキミは?」
「いいから早く“それ”を見なさい」
「SNSのことか? まったく、Pといいキミといい、一体何が……?」
「戦乱の幕開けである!」

蘭子に手を振りつつ、携帯に目を落とす。“それ”はすぐに見付かった。

『あたしたちUL目指しま〜〜す♪ #新ユニット #LiPPS』

「………んんっ?」

志希の投稿だった。
その投稿の反響度合いを示す数値はスロットマシンのごとく変動し続けていて、ボクの動体視力では当面の間読めそうにない。そうこうしていると、メッセージと一緒に投稿された画像が少しずつ解像度を上げていく。

「この人たち、知っているぞ……っ!」

そこにいたのは志希を含めて五人。いまだアイドル界隈に疎いボクでさえ、彼女たちについては名前まで覚えている。いや誰だって、彼女たちを一度でも目にしたら忘れられないんじゃないだろうか。

速水奏。塩見周子。城ケ崎美嘉。宮本フレデリカ。そして、一ノ瀬志希。

リラックスルームでの談笑風景を無造作に撮ったであろうその写真は、しかし、そのままセンター街の巨大広告に使えそうな程、絵になっている。悪魔的に魅力的なビジュアル力だ。美人度でいえば神崎Pが上なのだろうが、ヤツは人を寄せ付けない類の美貌だと思う。一方、彼女達のソレには、人を惹き付けてやまない魔性があった。
当然ビジュアルだけでなく、ダンスとボーカルも極めて高いレベルであることをボクは知っている。そして各々が持つ、唯一無二の強烈な個性……。
アイドルヒエラルキーの最上位五人をそのまま選んできたと言っても過言ではないような、ハッキリ言って、えげつないユニットだ。
早過ぎるだろ、志希……。 ユニットを組むとは言っていたけれどさ! まだ二時間も経ってないぞ!
というか志希は、彼女たちの誘いを断ってまでDimension-3を再結成したがっていたということか? 志希はそれ程にボクと……!

「フフ……」
「何その気持ちの悪い顔は」
「へっ!? し、失礼だなキミは……!」

蘭子がボクの隣に、神崎PはPの隣に腰を下ろした。
神崎Pはいつにも増して厳しい視線をボクへと突き刺してくる。

「フン、まぁいい……。“やってくれた”とはどういう意味かな? またいつもの難癖かい?」
「蘭子の仕事を増やさないでほしい、ということよ」
「は……? この新しいユニット……LiPPSか……とどういう関係があるんだ?」
「まだ理解していないのね。ハァ〜〜…」
「これ見よがしに溜息をつくんじゃない……!」

ボクと神崎Pの会話のドッチボールを、Pと蘭子が苦笑いを浮かべながら見ている。どうやら事情を呑み込めていないのはボクだけらしい。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:58:33.42 ID:+IqVL7Wl0

「LiPPSが結成されてしまったのは、アナタの所為よ」
「………はぁ? ボクにどういう関係があるっていうんだ……!」
「一ノ瀬志希の心情なんて考えもせず、彼女の誘いを無下に拒絶したのでしょう?」
「なっ……!? な、んで……それを……!」
「調子に乗って宣言するアナタの小憎たらしい顔が、あぁ……ありありと目に浮かぶわ」
「っ……!」

何だコイツ!? まるでさっきのボクたちを見ていたような……! でもそんな……ボクはそこまでおかしな対応をしただろうか?
そこでふと、志希の目に潤みがあったことを思い出してしまった……。

「で、でも……仕方ないじゃないか! ダークイルミネイトでULを目指すと、昨日約束したんだから……!」
「何を伝えるかよりも、どう伝えるかの方が大切だということは往々にしてあるのよ。もっと、彼女の想いに寄り添った対応で誘導すれば、LiPPS結成を防ぐことができていたのに」
「無茶を言うな! 志希を思い通りに誘導なんて、出来るわけがないだろう……っ!」
「あら、ごめんなさい? 履いて捨てる程ありふれているただの中学生には難しかったわね?」
「くっ……!」

本当にこの性悪女は……! どこからでもディスってくるな。

「それにね、別に一ノ瀬志希の誘いに乗っても良かったのよ?」
「は……?」
「そうすれば当初の予定通り蘭子はソロユニットで活動できるし、Dimension-3が相手なら、UL出場もずっと簡単に――」
「こらーー!!」
「っ!?」

蘭子の可愛らしい叫びがボクと神崎Pの間に割り込んできた。

「プロデューサー、またやってる! 飛鳥にばかりキツく当たって……そういうのダメっていつも言ってるのに!」
「で、でも蘭子……二宮飛鳥の所為で蘭子の負担が……」
「い! い! の! 飛鳥と一緒なら頑張れるもんっ!」
「あ、う………」

飼い主に叱られた小型犬のように、神崎Pがシュンとする。
でもボクには彼女を笑える程、まだ事態を把握できていなかった。

「つ、つまり、どういうことなんだ? P、説明を求める」
「うぃっす!」
「真実の扉が今開かれる!」

Pがソファから立ち上がり、ガラガラとホワイトボードを引っ張り出してくる。そしてボードの中央に黒ペンで『LiPPS つよい』と書いた。それ書く必要あるのか?

「飛鳥にはまだ言ってなかったが、事は概ね予測通りに進んでいる。神崎Pのディスりは単なる憂さ晴らしだ。気にするな」
「全く以て気にしていないが? たかが子犬の遠吠えなんて可愛いものさ」
「犬の遠吠えなんて聞こえなかったけれど? もしかして耳が腐ってるのかしら」
「んもう! な、か、よ、く!」

神崎Pと視線で殴り合う。黙りなさいって? それはお前の方だろうが。

「LiPPSな。現状、あの子たちに勝てるユニットは無い。総合力では史上最強のユニットと言ってもいい。飛鳥と神崎ちゃんでも、正面からやり合ったら勝ち目はない」
「くっ……そこまでなのか……っ!?」
「何よりもまず、今からUL総選挙まで、あと三か月しかないのがネックだな。元々のファン数が違い過ぎるんだ。そもそも勝負の盤上に乗るのだって、あの子たちレベルのフォロワーをゲットしてなくちゃならないわけだが、それはもう普通のペースでは不可能だ」
「今年のULは諦めると……?」
「ん? 諦めたいのか? それなら別に……」
「一度吐いた唾は飲み込みたくはない……!」

ボクの言葉に蘭子が「うんうん」と力強く首肯した。
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:59:25.16 ID:+IqVL7Wl0

「んじゃあさ、飛鳥。どうすればいい?」
「むっ……?」

いや寧ろ、ボクが教えて欲しいんだが? 反射的にそう返そうとして、踏み止まった。
これはPとの会話……。ボクに答えられないことを、わざわざ聞いてくるだろうか? 彼は大抵、ヒントを与えてくれている。

「………」

――総合力“では”――正面からやり合っ“たら”――あと三か月――普通のペース“では”――。

既に嫌な予感がしていた。

「その前に聞いてみたいのだけれど……。三か月で無理なら、何か月あれば可能なんだい?」
「九か月」

即答。どうやら今回のボクの推測は当たっているようだ。全然嬉しくない。せめて六か月と答えて欲しかった。

「そうか……やるんだな、三倍の頻度でライブを……」
「That's right!」

LiPPSほどの怪物ユニットだ。あらゆるメディアを自由に使い、戦略的に選挙戦を進めていくだろう。だがそれに張り合おうとあちこちに手を出したとしても、LiPPSの総合力に勝てるはずもない。なら、勝てる可能性のある部分でひたすら戦えばいい。ボクたちの場合、それは当然ライブになる。幸いにもアイドルとしては王道の領域だ。そして時間が足りないのであれば、密度を上げてやればいい。
まったく、笑ってしまう程に単純明快だ。まぁ、時に人はそれを脳筋と呼ぶけどね!

「………え? 三倍?」

自分で言っておきながら改めて疑いを抱いてしまう。

「はい、コレあげる」

Pが差し出してきたこれからのスケジュールは、目を覆いたくなるほどの過密スケジュールだった。
ライブの回数を三倍に増やすため、休日は三つか四つの現場をハシゴすることになるらしいし、平日の夜にライブが組まれていることがあった。ヘリ移動が普通にあった。ライブ出演に時間が割かれるからといって、レッスン時間が減るということでもない。新曲も出していかなくてはならないから、寧ろレッスンの時間はこれまでより増えていた。

「あとさ、そろそろ学校の勉強も頑張ろうな、飛鳥!」
「えっ!?」
「何意外そうな顔してんだよ。中学生の本分は勉強じゃろがい。分かんねぇトコは教えてやるからな」
「…………えっ!?」
「……蘭子もよ」
「ぴっ!?」

青い顔に冷や汗を浮かべながら、蘭子が頬を引き攣らせる。それはきっとボクも同じだっただろう……。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 14:59:53.23 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Asuka≫

LiPPSの結成宣言から一週間の内に、十のユニットがUL総選挙レースに名乗りを上げた。ダークイルミネイトもその内の一つだった。
十組程度のユニットで総選挙を競うというのは例年に比べれば遥かに少ないらしいが、それも無理からぬことだろう。今年はULを目指す、イコール、LiPPSなんていう怪物ユニットと張り合うことになるわけで、例年なら半分以上を占めるという『ワンチャンあるかも』勢は軒並み来年以降を見据えたのだ。
つまり名乗りを上げたのはLiPPSを相手にして尚、勝算を見出すことが出来るユニットであり、実際ボクたち以外のユニットにはかなりの実力派や有名人が揃っていた。
そんな例年とは雰囲気の違う選挙レースにおいて、ボクたちダークイルミネイトは“浮いて”いた。それも、かなり浮いていた。いや正確には、名実ともに有する他のユニットの陰に隠れてしまい、話題に上がることさえほとんどなかった。
短いキャリアながらもそれなりに成果を上げてきたつもりだったのだけれど、他の猛者たちと比べられると、地力も地盤もまだまだだったということだ。

こうして厳しい現実を目の当たりにしつつ、ダークイルミネイトの戦いが始まった。それはまさに怒涛の日々だった……。
物理的限界に近い密度で組まれるライブ日程。それに対応するための過酷で濃密なレッスン。隙間時間には鬼畜教師Pによる勉強会。そして毎秒繰り出される神崎Pの小言、悪態、嫌味、侮蔑……これはいつも通りか。
蘭子と一緒じゃなければ、とてもじゃないけど走り続けられなかった。蘭子にカッコ悪いところを見せてなるものか、という意地がボクを支えていた。

ステージでの“共鳴”は必ず成功するわけではなかった。
歌声をハモらせる程度のことではやはりダメなのだ。成功させるには、何かとてもタイトな条件があるようだった。
『蘭子に合わせよう』だなんて考えているときには大抵失敗した。一方 、成功するときにはまるでそれが当然であるがごとく、なんの困難さもなく成功した。
“共鳴”についての傾向がここまで把握できたのは年が明ける頃だった。選挙レースが始まってから二か月が経っていた。
ちょうどその頃からレッスンを効率よく吸収するコツが掴めてきて、生活に多少の余裕が持てるようになっていた。
久しぶりに各ユニットの勢力図を調べてみると、随分と様変わりしていて驚いた。十のユニットのほとんどが事実上の脱落をしていたのだ。
彼女たちの最大の敗因はLiPPSに真っ向から挑んでしまったこと。正々堂々、と言い換えても良いが、その場合勝つのはより実力のある方だ。
テレビ、ラジオ、雑誌、ネット配信など、LiPPSが何らかのメディア展開をすれば、皆こぞって追従した。いや、せざるを得なかったのだ。そこで追い縋らないと、あっという間に先へ行かれてしまうのだから。しかしその全てとライブにおいても、LiPPSは他のユニットを圧倒的に凌駕した。彼我の反響の大きさの違いを何度も見せつけられれば、選挙レースに意味を見出し続けることは難しいだろう。

そして二月に入り、選挙レース期間中において最大で最後のライブ、二月公演を残すのみとなった。
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:00:21.00 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

「皆様〜〜本日は〜〜お忙しい中ご足労いただき〜〜まことに〜〜まことに〜〜ありがとうございますぅ〜〜」

明日の大一番に備えたレッスンを終え、蘭子とPの居室に来てみればコレだ。蘭子もとうとうPの奇行に慣れ切ってしまったようで、ボク同様眉一つ動かさない。

「本日お集まりいただきましたのは〜〜他でもありません〜〜」

Pの居室は以前と比べると随分と広くなった。室内の調度品もたぶんかなり高価なものだろう。仕事ぶりを認められて会社から良い待遇を受けるのは正当な権利だが、こうも頻繁に部屋が変わるとどうにも落ち着かない。ただ、これからは居室が変わることはそうそう無いらしい。

「そういうのはいいから早く始めろ」
「約束の刻まであと僅か」
「P、真面目に」

すでに室内にいた神崎Pにも嗜められ、Pが頬を膨らませた。イラっとくるだけで、壊滅的に可愛くない。

「はいはいわかりましたよ。ちゃきちゃき進めりゃいいんですね。わかりましたよ。わかりましたから」

不貞腐れながらPが壁際のホワイトボードに文字を書きつけていく。

『二月公演 とても大事!』

いつも思うが書く必要があるのかそれは?

「明日の二月公演の出演順がさっき決定した。それがこれだ」

渡された紙に目を落とす。まず最初に見たのはトリ。そこには――。

「トリはやはりLiPPSか……」
「そして我らはその前座……血が滾るわ」
「つまり。今、ダークイルミネイトが二番手」
「そうだ。俺たちは間に合ったんだ」

年に四回ある一際大きなライブの中で、明日開催される二月公演は他とは異なる趣旨がある。UL総選挙の投票日直前であるため、特に公演の後半は実質的な頂上決戦の様相を呈することになるのだ。そのため、出場ユニットと順番は選挙レースの動向を反映したものとなる。だからこそ前日になってようやく出演順が決定されるのだ。そして当然、公演のトリは最有力と目されるユニットに任される。
選挙レースが始まってからのボクたちの目標は、二月公演時点で二番手につけておくことだった。

「そんで、こっちの“仕込み”ももう終わってる」

Pが携帯にSNSのタイムラインを表示させながら、悪そうな笑みを浮かべる。

「まるでヴィランだなボクらは……フフ」

“仕込み”とは扇動。つまり『この二月公演を最も盛り上げたユニットに投票しよう』という世論誘導。数か月の選挙レースでやってきたことや各ユニットの地盤をすべて一度フラットにして、最後の一発勝負で決めてしまおうという、クイズ番組の最終問題もかくやの恐ろしい風潮を意図的に作り出したのだ。
どんな方法でこれを成したのか全く理解らないが、Pと神崎Pにかかれば可能らしい。
この展開にはLiPPS側が乗り気だったのもプラスに働いたのかもしれない。彼女たちは負けるはずがないと思っているのか、それともただ単に面白そうだからなのか……。後者のような気がする。
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:01:01.99 ID:+IqVL7Wl0

「明日、ダークイルミネイトがステージに立ち、“共鳴”を成功させれば、勝つことができる」
「約束された勝利のミサー!」
「ついにここまで来たか……」
「蘭子のおかげでね」

いちいちうるさいなこの女は。

「そ〜こ〜で〜、今の状況を改めて鑑みてみるわけですがぁ〜〜」
「ん……?」
「世間的には知名度も実力もLiPPS圧勝で『ULはLiPPSで決まりでしょ〜〜?』って感じじゃん? でも、ダークイルミネイトのライブを知っている人間にとっては、ひょっとしたらgiant killingもあるのでは? なんて思っていたりいなかったり……」
「フム……」
「うむうむ……」
「そんな何かが起こるかもしれない大一番のライブを前に、キミたちが気を付けるべきことは、なんでしょーかっ? はいそこ、早かった二宮飛鳥さん!」
「えっ!? いや、挙手した覚えはないんだが……」

まぁいい。Pの言動にツッコんでいたら日が暮れて朝が来る。

「……ひねりの無い回答で申し訳ないが。十全なパフォーマンスを発揮できるように、心身共に万全の状態でステージに臨むこと……かな」

身体の調子を整えておくことは当然として、ボクと蘭子の“共鳴”には、特に精神的なファクターが強く関わっている。ライブに対して意欲的な気持ちを共有出来ていることは必須だ。

「ほーん、具体的には?」
「…………健康的な食事と早く寝ること」

自分で言ってて面白みが無さ過ぎて悲しくなる。『具体的には?』って嫌な言葉だ。神崎Pが薄く鼻で笑ったのがイラつくけど、見なかったことにする。

「あぁ、あと就寝前に蘭子に電話しようかな」
「するーー!」
「チッ……」
「おーけーおーけー、まぁ、いいだろう」

Pの言葉に若干の引っかかりを覚えなくもないが、これ以上何に気を付けるのか、とも思う。だから気にしないことにした。
それから程なく打ち合わせは終わった。
蘭子と神崎Pは以前から予約していたレストランへ行ってから帰るのだという。「二人で」とやたら強調してきた神崎Pがウザかった。

「じゃあ、ボクも帰ることにするよ」
「おう、おつかれちゃん。出来れば飛鳥も食事に連れて行ってやりたかったんだけど、予定が入っててな」
「構わないよ。その代わり……というわけでもないけど、明日のライブ後は空けてあるんだろうね?」
「もっちろん」
「ならいい。豪勢な食事というのは特別な日に食べるくらいが性に合っている。それに、これでも体重が気になるお年頃なのさ」
「そんな気にしなくてもいいのになー。もっと肉つけた方が健康的だし」
「おや? キミはふくよかな女性が好みなのか? これはますます太るわけにはいかないな」
「……最近さぁ、飛鳥も神崎ちゃんも俺への当たり強くない? 泣いていい?」
「フフッ。まずは自分の奇行を省みることをお勧めするよ」

バカみたいな軽口を叩き合いながら、ボクも部屋を出ようとドアノブに手をかける。
そこで「飛鳥」と、やや真面目な声音で呼び止められた。

「明日は十一時きっかりに飛鳥のマンションに迎えに行く」
「ん? それはさっき聞いたが……?」

そしてPと共にライブ会場へ向かうのだ。明日のライブでは久しぶりに早めに会場入りして、夕方の開幕までの間ゆっくりと英気を養っておくと、さっき打ち合わせで話していた。

「一応言っておくが、それまでは玄関のドアを開けないことをお勧めする」
「……? あぁ、物騒な世の中だしね……?」
「んーー、そゆこと!」

改めて言う程のことかと思わなくもないが、心配してくれているのだから有難く受け取っておこうか。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:01:32.32 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by the greatest mercenary≫

「Hey guys! Make sure your weapons are in perfect condition! After work tomorrow, you'll all be millionaires!!」

「「「「「「「「「「「yeahhhhhhhhhhaaaaa!」」」」」」」」」」」




122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:02:08.37 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

目覚まし時計代わりのラジオが起動する数秒前に目が覚めた。
寝起きの気分は爽快。大一番が控える日としては最高のスタートだった。

シャワーを浴びる。
朝食にはお気に入りの比率に配合したシリアルを摂る。
身支度を整える。
Pが迎えに来るまでにはまだ時間があった。
ラジオの放送局を変えていく。
以前ライブを大成功させたご褒美としてPから贈られた、ニキシー管がふんだんに配されたラジオ。この最高のガジェットがボクの日常に溶け込んで久しいのに、周波数を表示するニキシー管のフィラメントの揺らめきが、今日はやけに新鮮に見える。
ついボーっと見つめてしまい、ラジオの音声は右から左へ。

「掃除でもするか……」

掃除も二十分とかからなかった。

「……やれやれ」

昨日からずっと頭の片隅に居座っている言葉があった。

『“共鳴”を成功させれば、勝つことができる』

ならば共鳴が成功しなかった場合は……?
そもそも共鳴だって、成功確率は上がっているけれど、成功させようとして成功させられるものではない。いやむしろ、そういう前のめりな気分のときは不思議と失敗することが多かったような……? 成功するときは、不思議と、勝手に、必然的に、なるべくしてなるように、成功するのだ。
今日は絶対に成功させなければ――待て、ダメだ。こんな風に気負うのはよくないぞ……!そうだ、こういうときは逆に考えるんだ。別に失敗してもいいさ、と。

「いや、失敗したらダメだろ……!」

気付けばじっとりと手汗をかいていた。
よくない。よくないな。考え過ぎはよくないぞ。

「気分転換だ」

壁に掛けた幾つかのヘッドホンから無造作に選んで一先ず首にかける。イヤホンジャックをオーディオに繋ぎ、再生しようとしたところで手が止まった。丁度そのとき、ラジオから今日のライブについての話題が聞こえてきたからだ。
特に目新しい情報は無かった。ただ、無視することも出来ず聞き入ってしまい、気付くとボクはただのリスナーとなっていた。流石は熟練のラジオDJだ。

――ピンポーン!

来客を知らせるチャイムが鳴り響く。
時刻を確認すると、いつの間にやら十一時五分前になっていた。ラジオは良い時間潰しになってくれた。

「はーい、すぐ行くよ」

ドアに向かって言いながら、コートを着込みバッグを肩に掛けて玄関へ向かう。
チェーンを外し、サムターン錠を摘まむ。指先で感じる金属の冷たさがやけに刺々しく、それはまるでボクに何かを訴えかけようとしているようで――何か違和感……。Pは何と言っていたっけ……?
『十一時頃に』いや。『十一時きっかりに』だ。
今はまだ五分前。これを『きっかり』とPが言うだろうか? 彼ならコンマ一秒の狂いもなくチャイムを鳴らしそうなものだが……。

――かちゃり

しかし、身体に沁みついた動作が勝手に先を行っていた。

――ガコッッッ!!!

「ッ!?」

錠を閉め直す間も無く、瞬時にドアノブが角度を変える。物凄い勢いでドアの向う側から掴まれたのか。そして凄まじい勢いでドアが開かれた。

「なっ、なんだお前は――ッ!?」

ドアの向こうにいたのはPではなく、全く見覚えのない男。

「オトナシク、シロンダ」
「何を――ムグッ!?」

叫び声を上げる間もなく口が男の手に覆われる。と同時に視界がグルンと回った。身体が持ち上げられたのだ。両脚も掴まれていることに気付く。男は二人いた。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:02:36.38 ID:+IqVL7Wl0
男二人はボクを抱えていながら、ボクの全速力よりも遥かに速く、マンションの出口へと向かって行く。

「ム〜〜〜〜ッ!」

両方とも外国の――白人らしい。かなりの体格の良さだ。まったく抵抗できない。なんだこれは? ドッキリ企画というヤツか? いや、うちの会社ではドッキリの類は厳に禁じられていると聞いた。ならばこの男たちは……?
全身に寒気が走った。“拉致”の言葉が頭に過ったから。ボクは今、犯罪に巻き込まれようとしているのだ!
マンションのエントランスを抜けたすぐそこにマイクロバスが停車していた。それにボクは押し込められた。ボクが迂闊に開錠してからまだ30秒も経っていないだろう。
“プロ”だと思った。何のかは理解らない、とにかくプロの手並みだと感じた。
ドアが閉まるのも待たずにマイクロバスは猛スピードで走り出す。

「テアラナ、コトヲ、シテ、ゴメンデス」

三人目の男が登場。ソイツは――またもや白人だったが――ボクが拉致られてくるのをマイクロバスの中で待ち構えていた。一見すると精悍な顔立ちのナイスミドルだが、顔面のあちこちに数多くの傷痕があった。いや顔だけでなく、首にも耳にも袖から覗く腕にも無数の傷があった。全身がそうなのかもしれない。服装はグレーのモザイクのような……都市迷彩という柄だっけ?
ナイスミドルはボクに柔和な印象を与えようとしているのか、薄い笑みを浮かべている。だが、目だけは機械じみた冷徹さを感じた。
ボクをここまで運んだ二人の男の内、片方は見るからに粗暴な雰囲気を放っている若者で、ボクを威嚇するようにガンをつけてくる。
もう片方の男はボクには興味が無いようで、気怠げに前方の座席で運転手のナビをしていた。
運転手は眼鏡をかけた黒人だった。
四人のチームらしい。
マイクロバスの車内を見渡せば、それは以前仕事で乗ったものとはかなり違った構造だった。運転席と助手席は普通だが、それより後ろには座席が極端に少なく、代わりに様々な機材や何らかの道具が収納されているであろうコンテナボックスなどが置かれている。さながら移動基地だ。
この拉致のための偽装車両? 映画などで見たことがあるな。こんな状況でなければさぞ心躍っただろうに、正直なところ、まだ涙が出てないのが不思議なくらいに怖い……。

「きっ、キミたちは一体――」
「Hey ! Shit down !」
「――くっ!?」

肩を抑えつけられて、座席に無理矢理座らされる。やったのはボクに最初に接触した荒くれっぽい男だ。

「No, No, No…….Treat her リスペクタフリー。イッヒューハートハー、ユーウィルベイ――」

ナイスミドルが鋭い眼光を荒くれ男に向けながら流暢に英語を喋り始めた。

「――O.K. boy ?」
「……Yes, sir !」

彼の言葉は英語なこともあってほとんど聞き取れなかったが、どうやら荒くれ男は乱暴さを叱られていたようだ。
荒くれは少しシュンとした表情を見せた後、これ見よがしに丁寧な手付きでボクにシートベルトを装着させた。シートベルトはボクを拘束するためのモノでもあるのか、固定金具には錠前のような器具が付いていた。体勢をずらしていけばベルトをすり抜けることも出来るが、それを見逃す程彼らは愚鈍ではないだろう。
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:03:48.89 ID:+IqVL7Wl0

「ブカガ、ゴメンデス。ケガハ、ナイデス?」
「あ、ああ……」
「Good ! So, イマカラ、アナタノ、ジョウキョウヲ……Ah〜…English OK ?」
「えっ、い、いんぐりっしゅ……? あ……あ、りとる……!」
「OK. ウェル……」

ナイスミドルが、胸のポケットからメモ帳を取りだして、ペラペラとページを捲っていく。

「……ガッリ。 アナタノ、ジョウキョウデス。ヒトツメ。アナタノ、アンゼン、ホショウ、シマス。アンシン、シテ、O.K.ヨ」
「………」

あのメモ帳はカンペか。クソ。ウェルってなんだよウェルって……!

「フタツメ。コレカラ、ニジュウイチジ、マデ、コノ、クルマノ、ナカデ、イテモライマス」
「にじゅういち……? 二十一時……? は? それって……!」
「ミッツメ。アバレル、ムダデス。ワタシタチ、ツヨイノデ」

二十一時とは今日のライブの終了予定時刻。つまりこのままここに捕らわれたままだとステージに立つことが出来ないわけで、その場合当然の結果としてダークイルミネイトはLiPPSに敗北することになる。

「ふっ、ふざけ――」
「ドンムー !」
「――くっ!?」

問い質そうと身体を前傾させただけで、荒くれがまたボクの肩を抑えつけてきた。それを即座にナイスミドルから厳しい口調で諫められ荒くれは手をどかしたけれど、ボクにしか聞こえないくらいの小声で所謂フォーレターワードを呟いていた。
どいつもこいつも、ボクの言葉を聞くつもりは毛頭無いらしい。車が風を切る音だけが無情に響いている。

車が高速道路へと進入していく。最初の分岐で進んだのは、やはりライブ会場の方向とは違うルートだった。
マイクロバスは今、前後を軍用ジープのようなゴツい車に挟まれて走行している。前後の車もコイツらの一味らしい。
拉致されてからどれくらいの時間が経ったか気になって眼球の動きだけで車内を探ると、機材の操作盤の中に時計が見つかった。この状態になってからまだニ十分ほどしか経っていなかった。こんな穏やかじゃない場所であと十時間も過ごさなければならないと思うと気が狂いそうだ。
そういえばPは今どうしているのだろう? 彼のことだから、十一時きっかりにボクの部屋を訪ねただろうけど、インターホンを鳴らしてもボクが出てこないのをどう解釈するのか…? 眠りこけていると思っていないだろうか? それかちょっとコンビニまで外出してるのだろうと、しばらく部屋の前で待っていたり?
でも……。どっちにせよ、普通は一度携帯に連絡してみるくらいのことはするんじゃなかろうか? 早い段階で取り上げられたボクの携帯はバッグと一緒にボクから離れた座席に置いてある。しかし、この二十分間では何も受信していない。

「……………」

そうしてやっと気付いた。いや、思い出した、と言うべきかもしれない。

「アイツ………」

全部知っていたな!?
昨日の打ち合わせでのPの妙な問いかけは“コレ”のことを言っていたんだ…!アイツなら予知していたとしても不思議はない。ボクが結局五分前にドアを開けてしまうことも知っていたに違いない。連絡をしてこないのは、ボクの状況を知っているからというわけか……!

「アイツゥ……ッ!」
「What… ?」

頭に血が上りそうだ……! だ、だが……こういうときこそcoolにならないとな。うん。いつもPの掌の上で踊らされるなんて、ボクらしくないからね!
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:04:24.05 ID:+IqVL7Wl0

「フム……」

ならばPはすでに動いているはずだ。ベストな結果につながるように、虎視眈々と機を窺っているのだろう……! そうして颯爽と現れて、慌てふためくボクにいつものニヤケ顔を向けるつもりだな? ならば彼が現れたとき、ボクが先に笑ってやろうじゃないか……!

「Hey, boy. ワッラライダー?フロッウェンワッザガイデア?」
「Rider? ウェア〜〜……Oh!」

ナイスミドルが指差す方を見てみると、一台のバイクがボクたちに並走していた。あまりに自然に走っていた為、いつからそこにいたのか分からなかった。
妙なバイク乗りだった。モトクロスで使われるようなバイクに、背広姿で跨っている。かなりミスマッチ。フルフェイスヘルメットを被っているから顔は分からないが――

「――あ、コイツか」

ライダーがメットを外すと、そこには今一番ひっぱたきたい顔があった。Pのすっとぼけた顔だ。

「ディーメッ!! ダ、ガイ、イズ、カミンッ!!」
「Realy!? How fast!」
「Foooooo!! イッツァバロゥ!!!」

男たちが急に色めき立ちはじめる。そして野獣のような鋭い目をしながら、マイクロバスに設置されていたボックスに向かう。
その間Pはずっとボクの方を見ていた。この非常時にも関わらず、オフィスにいるときのような間の抜けた顔で、首元を指差している……?

「ん……? なんだ? 何が言いたい……?」

目をしばたたかせて見ても、Pの意図が理解らない。首をかしげると、Pは事も無げに両手をバイクハンドルから放して、耳の下辺りで軽く手を握った。あぁ、これは首に掛けているモノ――ヘッドホン――を見ろ、のジェスチャーか。

「あ、あれっ? コレは……?」

まだ自宅にいる時に首に掛け、結局音楽を聴かないままだったヘッドホン。それに改めて触れてみて、初めて違和感に気付いた。こんな形の……触れるだけでも分かる、無骨でダサいヘッドホンなんて、ボクは所有していなかったはずだ。

「Hey, girl !!!」
「へっ!? なに!?」

ほとんど怒声のような大声でナイスミドルがボクに言う。その目はゾッとするほどにギラついていた。

「ワスレテタヨ。ヨッツメ! ジャマスルゥゥ! ヤツハ――」

ナイスミドルたちがボックスから取り出した “ソレ”を認識すると同時に、ボクの首に掛かっているモノの用途が理解できた。

「――Dead or Alive!!!!!」

奴らが手にしていたソレを一斉にPに向ける。ソレはこの国では絶対に目にしちゃいけない殺戮の象徴――銃だった。
ライフル? マシンガン? 詳細な分類は理解らないが、明らかに威嚇のためではないソレを、運転手以外の三人が並走しているPへと向けている。
そう、ボクの首に掛かっていたのは、爆音から耳を守るイヤーマフだったのだ。慌てて装着する。Pはいつから仕込んでいたのだろうか――ってゆーか気付けよボク!

ズダダダダダダダダッッ!!!!!
ズドンッ!! ズドンッ!! ズドンッ!!
ぱららららららららららららららら!!!!

「うわぁーーーーーっ!!!!」
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:05:25.28 ID:+IqVL7Wl0

イヤーマフ越しにもかかわらず、恐ろしい程の轟音が鼓膜を叩いてくる。まるで耳たぶが工事現場だ。もしイヤーマフが無かったらボクの耳は向こう数日オシャカになっていたに違いない。音に加えて、網膜が焼けそうなくらい火花も乱舞している。
銃口がボクに向けれらているわけではないのに、轟音と閃光の嵐の中ではただ身を丸めていることしかできなかった。銃声の圧でエクステが踊り、肌がヒクつく。夏の夜にしか嗅いだことのなかった匂いが、鼻腔を満たしていく。嗚呼、夜空の花を見る度に今日のことを思い出すことになってしまうのかクソッタレ!

「ここは日本だぞーーーーっ!!!」

ボクの叫びなんて掻き消されてしまう。銃声は尚も止まない。百発なんてとっくに超えているだろう。
そうだPは? Pはどうなった!? こんな集中砲火喰らったらいくらPと言えども……。

「P……ゴ、ゴクリ……」

もしかすると閲覧注意なシーンが……? 恐る恐る視線を上げてみる。
だが。いた。Pはいた。そうかー。無事かー。P、そっかー。何だコイツ。
上半身をウネウネとくねらせたり、ウイリーしたり、くるんとバイクごと前転したりと、変態的な軌道で相変わらず近くを並走している。表情はいかにも涼しげだ。コーヒー豆を挽いているときの方がよっぽど真剣みがある。あ、前後のジープからも銃撃されているらしいな。一発も当たってないみたいだけど。

「Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k!!!!!」
「Why? ワァアアアイッ!? ワッツゴーリンウォン!?」
「ガッッッデンッ!!! イズディッサルーモアッマンッ!?」
「What are you ファキンドゥーインッ!? キルヒンッ!! Hurry! Hurry!!!」

男たちは目を剥き、口角に泡を溜めながら叫んでいる。
SNSにアップすればバズること間違いなしの曲乗りを披露しながらPはまだボクを見ていた。その口がゆっくりと動いている。この期に及んでまだ何かを伝えようとしているらしい。読唇しろということか?

「えむ? えう……? え……えん……? えんよい……? えん……じょ……い……あぁ」

『Enjoy!』

ボクに伝わったのを見て、Pが満足げに頷いた。

「Pのアホーーーっ!!」

あっ! Pが後ろに向けて何か投げた?

ドッグオォォォオオおおおんッッッ!!!

「うっわぁああ!?」

後ろを走っていたジープが派手過ぎる音をたてて跳ね、前転を試みて中途半端に止めたようにノーズから地面へと不時着した。何故そうなったのかは理解らないが、廃車なのは間違いない。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:06:01.62 ID:+IqVL7Wl0

「Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k! Fu〇k!!!!!」

荒くれのボキャブラリがクライシスだ。気怠げ男は顔を青くしつつも撃ち続ける。ナイスミドルは……手を止め、無線を使っていた。

キキキキィイイイイ――!!!

前方でけたたましいブレーキ音が轟き、前を走っていたジープが真横に来たと思った次の瞬間――

「フグッ!?」

横Gで身体が揺さぶられ――

グワシャンッッ!!!!

「ひょああああっ!?!?!?」

マイクロバスとジープが横っ腹を衝突させていた。荒事のスペシャリストたちだからできる、完璧なコンビネーションだった。
バキバキバキと金属の破壊音が鳴り響く。二台の大型車両にサンドイッチされては、あんな華奢なバイクはひとたまりもないだろう。人間は言わずもがなだ。ただし……。
早々にナイスミドルが「yeah!!」とガッツポーズをキメている。他の男たちは手を叩き合って大笑いして口々にスラングを並び立てている。
数秒の後、ジープが離れていく。

ガシャン! がぎぎぎいぃ〜〜……。

アスファルトの上を金属が滑る音が遠ざかっていく。後方を見やったときにはもうかなり距離があって、バイクがどれ程の破壊を受けたのかさえ判然としなかった。
ただし。ボクには理解っている。
脱落したのはバイクだけであり、この男たちはぬか喜びをしているということを。あの程度の奇襲で二宮飛鳥のプロデューサーがどうにかなるわけがないのだ。

ドッグオォォォオオおおおんッッッ!!!

「「「「ワッ !?」」」」

ついさっきも同じような光景を見たな。バイクをサンドした隣の車線を走っていたジープが、急にスピンをして側壁に衝突し、製造中のバームクーヘンを早回ししたようにローリングをし始めていた。こっちも廃車決定だ。
彼らの表情から喜悦が霧散し、身体を硬直させる。ボクを含めたぶん全員が「もしかして…?」の想像を膨らませていた。
奇しくもそのとき、大型の観光バスを追い抜いた。そのバスの車体に嵌め込まれた数十枚の窓ガラスに、ハイウェイでは有り得ない像が映り込んでいる。ボクらの乗るマイクロバスのルーフの上に人影が!

「あっぷであ!!」

男たちが天井に銃口を向ける。しかし最初の誰かが引き金を引くのよりも早く――

ボゴンッッ!!

「ゴッ――!?」

運転手の直上の天井が陥没していた。その凹みは正確に運転手の脳天へと衝撃を与えたらしい。

「ワッザヘルッ!!!!」
「うわああああっ! こっ、これえぇ! 大丈夫なのかぁああっ!?」

ハンドルを操作する者が昏倒し、マイクロバスが激しい蛇行を始める。シートベルトで固定されているボク以外は皆盛大にズッコケた。しかも運転手はアクセルを踏んだまま気絶してしまったようで、スピードは落ちるどころかどんどん加速していく。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:06:39.31 ID:+IqVL7Wl0

「Arghhhhhhhhhh!!!!!!!」

ナイスミドルが叫ぶ。彼だけはズッコケたのではなかったらしい。銃器が納められたボックスの方へと意図的にダイブしていたのだ。新たな長物を取り出して、半分床に寝たような体勢で天井へと銃弾をばら撒き始める。

バタタタタタタタタッ!!!!

「Boys!!! テイカッガンッ!!!」

その雄姿は恐慌状態に陥りかけていた荒くれ男と気怠げ男を立ち直らせる。しかもナイスミドルは右手のみで銃を操りながら左手でボックスを漁り、彼らへ得物を放り投げていく。この咄嗟の判断といい、さっきのジープとの連携といい、このナイスミドルは相当の腕利きなのかもしれない。

「Fire! Fire!! Fire!!!」
「ダイッ! ダイッ! ダァアアアアアアアイッ!!!」
「ダァーイッ!! ファッキンガーーーイッ!!!」

―――――――!!!!!

銃声。閃光。咆哮。
身体の芯まで痺れるような強烈な刺激が延々と続く。マイクロバスの広い天井に隈なく穴が開いてゆく。

「Stop Firing!!!」

永遠にも感じられた破壊の嵐がナイスミドルの指示でパタリと止んだ。マイクロバスは相変わらず猛スピードで疾走しているけど、今それについて頓着できる者は誰もいなかった。
天井は正にハチの巣状態。もし仮にこの天井の向こうに人間が立っていたならば、“普通は”原型を留めていないだろう。
無数に空いた穴から外気が入り込み、亡霊の泣き声のような不吉な風切り音をかき鳴らしていた。
車内に差し込む幾筋もの光条の鮮明さが硝煙の濃さを物語っている。そういえば、そろそろ正午か。今日はなんて天気が良いのだろう。

……コンッ

「「「「……?」」」」

快晴なのは間違いない。だと言うのに、天井に何かが降り注いだ音がした。

コンッ、コツン、コンッ、コンッ、ココンッ、コツンコツンッ、ココンコココココッ!

そしてどしゃ降り。雹のような硬質な“何か”が大量にルーフに降り注いでいる……!
天井を見上げようとも、開きに開いた穴から差し込む逆光の所為で、何が起こっているのか把握することができない。

「……What…?」

穴から転げ落ちてきたその“何か”を、最初に摘まみ上げたのは気怠げ男だった。
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:07:14.95 ID:+IqVL7Wl0

「………ア……Unbelievable」

小豆ほどの大きさの“何か”が、降り注ぐ光を受けてキラリと輝いた。それは新品の十円硬貨と似た光沢で――つまりは弾頭だった。
その意味するところを理解して、全員が青ざめていく。てゆうか、ボクも流石に引く。あれだけの銃弾を以てしても、Pには通用しないどころか……意味が理解らない。
そして、Pのターンが始まった。

――ギャキキィキギギギギギギイッ!!

「What!?!?!」
「うああああ!? オイP! これはちょっともおおおーー!!」

悪魔の断末魔のような破壊音を伴って運転席近くの天井から現れたのは、回転する鋼鉄の牙、チェーンソー。銃が殺戮の象徴ならば、チェーンソーは恐怖の象徴か。それが車内という閉鎖空間の中、数歩しか距離の無い場所で暴れまわっている。決して許容することの出来ない恐怖に全身が硬直する。

「HyeaaaaaaaAAAAAAAA!!!!」

一番近い位置にいた気怠げ男が、情けない叫び声を上げながらドアをこじ開け、車外へと逃げ出していった。時速百キロは越えているだろうに、大丈夫なのだろうか? まぁ特殊な訓練を受けているだろうから問題ないのだろう。

ギャルン! ギャルンッ! ギャルルルルルルウウウウッッ!!!

天井から覗いた刃は上下動を繰り返し、天上を切り裂きながら後部座席へと行進し始める。向かう先は次に近い位置にいた荒くれ男だ。

「スィット!!」
「――えっ!?」

荒れくれがボクへと振り返り、手を伸ばして――あっ、コイツ、ボクを盾に……っ!

――ギャギッギギギッギギ!!!

「Why!?」
「ひゃあああーー!?」

第二のチェーンソーが、荒くれとボクの間に割って入ってきた。第一の方とは二メートル近く離れているように見えるが、一体全体どうなっているのか? 考えても無駄だろうな。

ギャルンギャルンンギャギャルルルッル!!
ギキィイイイッギイイギギギルルルッル!!

前からと後ろから、二つのチェーンソーが荒くれ男に迫っていく。近づくに従って、荒くれはお行儀よく直立不動の姿勢をとった。

「……ヘルッ! Help! Help meeeee!!!」

更に近づく。とうとうつま先立ちになる。

ウオオオオオオンッツ!!

あと三センチでミンチというところでチェーンソーの前進は止まり、空転してみせた。煽られた荒くれはバレエダンサーのような横歩きで、気怠げ男と同じように車外へダイブしていった。
そうなればチェーンソーの向かう先はもう一つしかない。

「Fu〇king monster…!」

ナイスミドルは既に両手に鉈のような大きな刃物を装備していた。まだやる気らしい。なんて胆力だこの男、スゴイぞ。
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:07:43.47 ID:+IqVL7Wl0

ギィイイインッ!! ガギギギッ!! ギャギャガガ!!

叩く! 叩く! 叩く!
チェンソーの横っ面に猛烈な連打を叩きこんでいく。座席がほとんど無いとはいえ狭い車内で、なんて俊敏な身のこなしだろう。
しかし――

バギギギギギギイイイイ!!!

「GuuooOOOH!!!!」

とうとう最後尾まで追い詰められてしまった。
ナイスミドルは膝をつきながらも、鉈をかかげてチェンソーの進行を押しとどめようとしている。だが牙の回転は着実に鉈の刀身を削り取っていく。もう時間の問題だ。

「Please!! セイヒンッ! アイサレンダーーーッ!!! プリ―ストピッ!!」
「えっ!? 愛されプリンストン……?」
「プリーーーーッ!!!」
「ごめん理解らない……っ!」

必死の形相で何かを訴えかけてくるけど、ボクにはどうしていいのか……。なるほど、英語ができないとこういうときに不便なのか…。“こういうとき”がそう何度もあってたまるか!

――ギャルルルルギッギギギッ!!!

「ファッ!?」
「あっ」

そこに第三のチェンソーが現れた。終わった。
それは腕が二本しかないナイスミドルを嘲笑うかのように、彼の正中線目がけて前進していく。

――バキィィイン!!!

鉈の寿命もそこで尽きた。

「ドウシテ?」

さっきまでは龍虎さえ屠れそうであった彼が、今はもう子猫のような哀愁を漂わせている。

――ウォオオオオンッ!!!

しかしケルベロスは止まらない。けたたましいエンジン音を轟かせながら今にも――

「Pぃーー! もういいっ! この人戦意喪失してるからーーっ!!」
「ストッストッ! ストオオッ! ノホオオオオOOOOO!!!!!!」

――ギャルルルルルウルウウルウウウ!!!!!

「ひぃいいいっ!!!」

もう見ていられない。ボクは彼から目を背け、縮こまるようにして全てが終わるのを待つことしか出来なかった。
ナイスミドルの絶叫が段々と弱々しくなっていくのが逆に恐ろしかった。

――ウォオオオンウォオン………

しばらくするとチェンソーのエンジン音が途絶えた。いつの間にかマイクロバスの走行も止まっていた。

「………ッ!」

意を決して、視線を上げていく。スプラッタは好きじゃないが、状況を確認しないわけにもいかないのだ。

「うっ……! なんて、無残な……」

そこにあったのはグロな光景ではなく、とりあえずは安心できたが……ナイスミドルは最早ナイスミドルではなかった。上半身裸のショーパンモヒカン男だった。白目を向いて泡まで吹いている。周囲に散乱した布切れや頭髪がただただ汚い。よくもまぁチェンソーで器用なことが出来るものだ。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:08:40.18 ID:+IqVL7Wl0

「どう? 楽しんでくれた?」

切り取られた天井からPが顔を覗かせる。『大将やってる?』みたいな感じで。そうだった…。コイツはこういう男だった。さっきまでビクビクしていたのが馬鹿らしくなって全身からすごい勢いで力が抜けていく。
ヌルりと車内に降りてきたPはボクのシートベルトを解き、立ち上がらせてくれた。
車の近くにトイレと思しき小さな建物がある。どうやらパーキングエリアまで来ていたらしい。

「こ、これは……これは一体何だったんだ? 何故ボクはこんな目に……」
「ブックメーカーって分かるか?」
「………賭け事の?」
「そうそう」

ブックメーカーとは賭け屋。賭博はこの国ではごく限られた領域でしか認められていないが、海外ではもっとオープンな国があるらしい。そしてその賭けの対象は幅広く、競馬やスポーツの勝敗に始まり祝祭日の天候にまで及ぶ……。ということは聞いたことがあった。

「何年か前から、UL総選挙の順位も賭けの対象になっててな。例年はどのユニットが優勝するかの予想はかなり分かれるんだけど、今年はぶっちゃけLiPPS一択だったじゃん? だから、いたんだよ。ほとんど全ツッパしちゃったお金持ちのオジサンが何人もな」

昏倒したままの元ナイスミドルと運転手を縄で縛りながら、Pが説明してくれた。
かいつまんで言うと――選挙レースが始まった当初は、世界中の誰もがLiPPSが優勝すると思っていた。しかし紆余曲折を経て、“万が一”が起こり得る状況になってしまった。そこでもう後に引けないお金持ちオジサン連合が裏社会の力を借りて、不安要素たるボクたちを棄権させようとしている――ということだった。
ボクたちの純粋な営為が勝手に賭けの対象にされていることは腹立たしいが、スケールが大きすぎてイマイチしっくりこなかった。

「って、蘭子! 蘭子は無事なのかっ!?」
「あぁ、神崎ちゃんにはアイツが――」
「蘭子! 頼む、無事で……っ!」

急いで携帯で蘭子にコールする。三コールしてもまだ出ない。嫌な予感がチラついて――

『プッ……!』
「ら、蘭子!? 無事か!? 蘭子?」
『ッ!!! 〜〜〜〜ッッ!!!!』
「蘭子っ!? 蘭子なのかっ!? 蘭子ぉ!」

蘭子の息遣いらしきものが聞こえる。しかしそれは荒々しく、最悪の光景が脳裏に過る。

『バタタタタタタタタッツ!!!!』
「――ッ!?」

鼓膜をつんざくような轟音。今のボクは知っている。銃声だ。

「ああっ!! そんな!? 蘭子! 蘭子ぉーーっ!!」
『…………すっ』
「っ!? 蘭子? 無事なのか……っ!?」
『――すっっっっごぉおおいっ!!!』
「……………なんて?」

それは、これまで聞いたことのないくらい元気な、蘭子の声だった。

『すごいすごいすごーーーーい!! 我が友ーーっ! いっけぇええっ!! きゃーーー!!! かっこいい〜〜〜〜っ!!』
「あ、あの……蘭子……?」
『飛鳥!? 何? どうしたのっ!?』
「あ、えっと……どうしたの、はボクの台詞なんだけど……」
『えっ!? ごめ――ドガガガガガッ――聞こ――バキキーーキッ!!――い! こっち騒がしくて!』

現在進行形で激しく鉄火場のような音がするんだけど、当の蘭子の声には悲壮感などはなく、寧ろ楽しんでいるようで……。どうやらボクをPが助けに来たように、蘭子の方には神崎Pが行っているらしい。

「あぁ、うん。蘭子が楽しんでいるなら、いいんだ。うん」
『飛鳥――ダンッ!ダンッ!ダンッ!――は大丈――パララララッ!――あっ! うしろーー! 我がと――ギィイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!!』
「くっ!?」

雷鳴のような轟音に、思わず携帯を遠ざけていた。離した携帯からは、次いで爆発音らしき音が聞こえてくる。

「ら、蘭子……?」
『す、すご……。え? すごひっ……ま、まっぷたつ……とらっく、まっぷたつ……え? え?すご〜〜〜っ!!!』
「あぁ……なんともないみたいだね」
『あっ、ごめんね飛鳥っ! こっち目がはな――ドッガァァアアン――旦切るね。また後でねっ! 闇に飲まれよーーっ!! プツッ――』
「あぁ、うん、やみのまー……」
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:09:14.46 ID:+IqVL7Wl0

Pが苦笑していた。

「あっちも大丈夫そうだな」
「あぁ、うん……」
「トイレ行っとく?」
「あぁ、うん……」

花を摘み、ほっと一息。
洗面台で手洗いをする。そのとき煙の匂いがした。それはボクのエクステからだった。
なんてことだ。おろしたてのエクステに硝煙の匂いが付いてしまっているじゃないか!
なんだか猛烈に腹が立ってきた。そうだ、ボクは怒っていい。

「Pっ! おいっ!」
「おっ」

トイレから駆け出て、Pに詰め寄る。

「キミは知っていただろう!? 全部!」
「たはー! バレたかぁー!」
「ばか! この、ばかぁ! ボクがどれだけ怖い思いをしたのか理解っているのか!?」

Pの肩をポコポコ叩く。

「すまん。例によってこの展開が最適なんだ」
「またそれか…! だとしても、もっとこう……あるだろう!?」
「それにさぁ、飛鳥だって言ってたじゃん?」
「は? 何を…?」
「カーチェイス、してみたいって」
「………っ!」

言ったっけ?
あ……言ったような気がしなくもない……? いや待てよ……!

「違うっ! ボクが言ったのは“バイク”チェイスだ……! 頬で風を切る疾走感……胸のすくようなアクションシーン……! ボクが求めていたのはそういうのだ!」
「さっきもアクションシーンあったじゃんよー」
「あんなのほとんどホラーだろうっ! チェンソーで車を切り刻むヒーローなんていてたまるか……!」
「そっかーバイクチェイスかぁー」
「そうだ。バイクチェイスだ。ボクがしたいのは」
「…………………フヒ」
「っ!?」

それが失言だったことにPの表情で気が付いた。悪巧みをするときのいやらしい笑みだった。ボクはまた誘導に引っかかってしまったのだ。

「オーケー!! ならばやりましょうバイクチェイス!」
「まっ!? 待て待て待て待てっ! 違うぞそういうことじゃない!」
「Come on!!! ブケファラスっ!」
「は? ぶけふぁ……?」

――シュゴオオオォーーッ!!

「なっ!? 何かが……来るっ!?」

トイレの向こうから――トイレの建物を飛び越えて――ソイツはやって来た。

――ダキュッッ!! キキキィイイイーッ!!

そして着地と同時に白煙を上げながら旋回し、ボクの前でピタリと止まった。

「こっ、これは……!」

それは漆黒のボディを持った……おそらくはバイクに分類される車両だった。バイクだと思ったのは前後に付いているタイヤが一輪ずつだからだが、こんなフォルムのバイクは見たことがない。いや、あるにはあるけど、それはSF映画だとかに登場する空想の産物だった。
そもそもこれは本当にバイクなのだろうか? Pの叫びに呼応して飛び出してきたように見えたし、今だって誰も跨っていないのに二輪のみで自立したまま静止している……。

「これはブケファラス号。俺が一から組んだ特製のバイクさ。ぶっちゃけ、めっちゃ先の技術を仕込んでる。結構カッコいいだろ?」

――シュイイイイインン

モーター音に似た駆動音と共に漆黒のボディにブルーライトのラインが浮き上がった。それはまるで闇夜に煌めく流星のようだ。
ボクの中にある中二スピリットが、確かに激しく疼いている。
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:09:44.04 ID:+IqVL7Wl0

「ちょ、ちょっと待ってくれ! お金持ちどもの悪巧みはもう終わったんだろう? なら後は会場へ向かえばいいだけ……もうバイクチェイスなんてする必要はないじゃないか」
「ん〜〜、それがなぁ〜〜、全ッッッ然ッ、終わってないのよ。映画で例えると、今はまだオープニングみたいなもんで、このパーキングエリア出るときにタイトルがバーンって出る感じ?」
「は……? ふ、ふざけるな……さっきのチェンソー乱舞、どう見たってクライマックスシーンだろ!」
「おっ、掴みはオッケーってことかな」
「ボクの心はもう劇場から帰宅済みだ……っ!」
「でも実際、今の会場周辺は傭兵さんたちで寿司詰めみたいなもんよ? このままじゃあ、流石に近づけない。つーわけでしばらくは遠くで暴れて敵を引き寄せて、現地の数を減らしていくんだ。今のところ、敵は神崎ちゃんの方に集中してるが、間もなくこっちにも――」
「あーーーーっ! うあーーーーーっ!!!」
「飛鳥が壊れてしまった」
「鬱憤を解放しているんだばか!」
「ウケる」

大声を出してほんの少しだけ冷静さが戻ってきた……ような気がするがそれこそ気のせいかもしれない。

「ほ、他に方法は……?」
「無いんだなこれが。俺と一緒にブケファラスで飛び回るか、大人しく監禁されるか……どちらかしかない」
「ぐぅぅ〜〜〜……っ!」

約三か月前のヘリコプター飛び乗り事件の圧倒的な無力感と恐怖は、今なおボクのトラウマだ。
そしてボクの直感が告げている。今回はその比ではないと……!
スピードの化身のようなフォルムをしているこのバイクは、絶対に乗ったらヤバいヤツだ。しかも運転するのはP……。ああーーーっ! どうしてボクのアイドル活動にはこうもトリッキーな困難が付いて回るのか!?
……でもコイツ、メチャクチャかっこいいんだよな……!

――シュイイイイインン……ブォフォォオオーー

なんて重みのある排気音! 装甲が動くギミックもあるのか……!
い、一度跨るくらいなら……?

「おっと、来なすったぜ?」
「っ!?」

閑散としていたパーキングエリアに、地響きを携えて車両群がなだれ込んでくる。どれも普段はお目に掛かれない無骨な造形だ。装甲車というヤツだろうか?

「よっしゃ! 行くか、飛鳥っ!」
「ボクはまだ乗るなんて………くそぉーーーー!」

しかしボクはもう乗るしかなかった。
Pの腰に腕を回し、全力でしがみつく。

「く、くれぐれも安全運転で――」
「オラオラオラァーー!アイドル二宮飛鳥様のお通りだぞーー!」
「――うわあああっ!? 速いいぃいいーーっ!!」

瞬きの内にボクたちは風になる。
そしていとも容易く敵の包囲網を抜け、ハイウェイを疾走し始めた。
全編アクションシーンのドンパチ映画の開演だ。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:10:22.49 ID:+IqVL7Wl0



『さよなら、アスカ。あなたとのドライブ、たのしかったわ』
「そ、そんなっ!? ブケファラス! “ソレ”はダメだ……っ!」

ボクの言葉を無視して愛馬がスラスターを駆動した。漆黒のボディに刻まれた蒼の刻印が強く脈動し始める。それは破滅への序曲。
ボクの左腕に描かれた幾何学模様はいずれも赤く光っている。それの意味するところ、兵装の残弾ゼロ。
左目の網膜投影ディスプレイにはブケファラスからの別れを告げるメッセージが次々と表示されていく。
数百キロを走破し、幾度の戦闘を経て百八種の兵装も使い切った今、ブケファラスが武器とできるのは最早己の躯体だけ。損傷だらけのボディから噴き出す火花は、まるでブケファラスの血液のように見える。限界を超えてエネルギ―を絞り出すつもりか。

『Good luck, My idol!』
「行くなーーーっ!!」

スラスターが蒼い炎を噴射するとブケファラスが宙へ浮き、上空へと加速していく。向かう先はボクたちの前にはだかった最後の難敵、アパッチヘリ。
星々の瞬く夜空にブルーライトの軌跡が走る――!

――ゴシャャアアッッ!!

ブケファラスの捨て身の吶喊は見事ヘリの横っ腹を捉えた。ブケファラスが突き刺さった箇所では早くも小規模な爆発が起きている。プロペラも破壊したようで、ヘリは完全に制御不能状態に陥った。そして二機は混然一体となって海へと墜落し、海中へと没していった。

「ブケファラスゥウウーーーっ!!」
「大丈夫だ、アイツの本体はクラウド上にある!」
「そうなのぉ!? そういうことはもっと早く言ってくれないかなっ!?」

ボクの絶叫を返せと言いたいところだけど、無事なら良かった。

「それはそうと、行くぞ。時間がない!」
「ああ!」

会場に隣接する駐車場に着いたまでは良かったが、思った以上に時間を取られてしまった。
随分と遠回りをする羽目になったものだ。しかし今ようやく、目と鼻の先に今日の目的地を捉えた。
ボクたちは真っ直ぐに、煌々と光り輝くドーム会場へと駆けて行く。

――――!!!!!!

入るまでもなく理解った。会場の盛り上がりは最高潮に達している。歓声のうねりがここまで伝わってくる。それもそのはず。時間的に二月公演のメインイベント、UL選挙直前の頂上決戦が始まろうとしているのだ。故に一刻も早く舞台袖へと到着しなくてはならない。
そして遂にドームのスタッフ通用口まで到達したのだが――

「I've been waiting for you!」
「おっ、来やがったな〜〜」
「コイツらは……!」

通用口近くの物陰から数人の男たちが現れた。その内の一人には見覚えがあった。半日前、Pによって無残な姿に変えられた“元”ナイスミドルだ。

「Fight me, fu〇king monster!!!」

とはいえ、彼にとってはもうボクのことはどうでもよくて、ただPにリベンジしたいだけらしい。これはもしかして、仕事や損得とは切り離された漢たちの最後の戦い、というヤツじゃなかろうか? 中々にアツい展開だけれど……。というか、この人のメンタル鋼鉄なのか? あれだけやられたのにまだPに立ち向かえるなんて。

「行け飛鳥! ドーム内に入ればコイツらはもう手出しできない!」
「で、でも……!」
「心配ねぇよ。俺がこんな奴らに負けるわけないだろぉ?」
「いやキミの心配じゃない。あまりやり過ぎてやるなと、そういうことが言いたいんだ」
「あっ、そっちスか」

Pを残してボクはドームへと足を踏み入れる。背後からは「アチョーー!」という奇声が聞こえたが、ボクにはもう彼らの冥福を祈ることしかできなかった。
135 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:10:56.45 ID:+IqVL7Wl0

――――!!!!

小規模な地震かと間違う程に会場全体が揺れていた。オーディエンスたちが足を踏み鳴らし、ダークイルミネイトの登場を待ち構えているのだ。
『ある程度のことは運営スタッフに伝えてあるから、とにかくステージへ向かへ』とPは言っていた。通路をひた走り、舞台袖へと向かう。

「はぁっ、はぁっ……!」

体力はもう限界といっていい。足がふらついて気を抜くと転げそうだし、頭も重く感じる。まるで一日中テスト勉強をさせられたような怠さがある。今日はずっと慣れないドンパチをしていたんだから無理も無い。よくここまでたどり着いたよ、ほんとに……。

「飛鳥っ!」
「蘭子……っ!」

そしてようやくボクたちは出会った。
蘭子はボクとは別の通用口からここ、舞台袖を目指していたらしい。

「あぁ、蘭子、無事でよかった……!」
「うん! 飛鳥もっ!」

彼女の服を見れば、ここまでの道程は決して楽なものではなかったことが理解る。いつにも増して気合の入ったゴシックドレスだというのに、所々に破れや汚れがあった。おのれ傭兵どもめ。
どちらからともなく手を取り合うと、今日ボクたちが見てきた光景がおおよそ伝わってくる。

「な、なんと……無数の魔具を備え、空をも駆ける鉄騎とは……!」
「フフフ。蘭子は……なるほど強化外骨格か! 興味深い……っ!」

あの女もなかなか良いセンスをしているじゃないか。そういえば姿が見えないが、大方Pのように最後の始末でもしているのだろう。

「だが、今は――」
「うむっ――」

積もる話は後でいい。今はまず、全てをぶつけにステージへ。
ステージへ駆け往くボクらを見咎めた運営スタッフたちが驚愕の叫びを上げた。

「えっ!? 衣装は!?」 「メイクもしてない!?」 「もう観客待たせられないぞ!」

頭を抱える彼らを余所に、ボクたちは止まらない。止まる必要なんてない。
ボクたちが着るはずだったステージ衣装は楽屋にあった。一歩たりとも入っていないその楽屋の内装をボクたちは知っている。部屋のどの位置に衣装が置かれているのかも知っている。ボクたちの身体に衣装のイメージを重ね合わせる。

――ボクたちは既にステージ衣装を身に纏っていた。

ステージに立つ最高のボクたちをイメージする。

――メイクも既に完了していた。

疲労なんてとっくに消え失せているどころか、全身に力が漲ってくる。
ボクと蘭子の共鳴は、過去最高の重なりを記録している。今のボクたちなら何だって出来るという確信がある。
今日一日、色々あったけれど、結局のところ、ボクたちの踏み台にしかならなかったワケだね!

「えぇ〜〜…。なんなんアレ? 見た、奏ちゃん?」
「え、えぇ……」

ボクたちの次に控えるLiPPSの面々も、既に舞台袖に来ていたらしい。ボクたちの変わり身を見て、皆目を丸くしていた。いや、志希だけはほとんど睨みつけるような強い視線をボクに送ってきている。
だけどボクはもう、蘭子と響き合いたいということだけしか考えられなくなっていた。

「さぁ、往こうか……!」
「覚醒の時は来た……!」

この一歩で、ダークイルミネイトはステージの中央へと転移する。

―――――!!!

光の粒子が天高く巻き上がっていく。その中心でボクたちはポージングしていた。
種も仕掛けもない純然たる奇跡に、オーディエンスたちは沸きに沸く。初っ端からそんなにはしゃいで最後までもつのかな?
ダークイルミネイトの幻想はドーム会場を、常識を、そして世界を侵食していく。
故に、ボクたちが歌い終わった時点ですべての結果は決まっていたのかもしれない。
136 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:11:24.92 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Asuka≫

二月公演のトリであるLiPPSのステージが終わった数時間後、UL総選挙の投票期間も終了した。
結果が発表されたのは翌日のゴールデンタイムのこと。

総選挙で一位に輝きULの出場権を得たのは、ダークイルミネイトだった。

絶対的ユニットであるLiPPSを差し置いてトップに立ったボクたちは、一躍“時の人”というヤツになってしまった。殺到する各種マスメディアの対応にほぼ丸二日を費やす羽目になった。

それが一段落して、ようやくボクたちはULに向けての打ち合わせに入ることが出来た。
137 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:11:52.80 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

UL総選挙において一位に輝いたということは、“名実”の少なくとも“名”についてはトップアイドルであると言っても過言ではない。すると自動的にその担当は最高のプロデューサーであるはずだということになるようで、遂にPの居室は――神崎Pの居室もだが――最高ランクのものとなった。

「太っ腹というか、なんというか……」

無暗矢鱈に広くて豪奢な部屋だった。仮眠室はまだしも、給湯室――というよりはキッチンと呼ぶべきか――トレーニングルーム、シャワールームまで完備されている。いっそここを別の会社の事務所にすることもできるだろう。最初期の部屋とは比べるべくもない程に良い環境なのだろうけど、昔の部屋程度の方が落ち着くのではないかとも思った。しばらくすればこの部屋にも慣れるのだろうか?
そんなPの居室にダークイルミネイトの関係者四人が集まっている。時刻はちょうど午前十時になった。

「UL……ウルトラライブについて改めて説明しておくとだな……」

Pがホワイトボードに単語を書き込みながら説明をしてくれた。
今でこそ総選挙はULに出演するユニットを選ぶためのものと認識されているが、十年ほど前までは単なる人気投票の意味合いが強かったそうだ。当時の一位のユニットへのご褒美は単に『どんな願い事でも叶えてもらえる』というものだった。しかし、歴代のほとんどのユニットが最大で最高のライブ――つまりUL――をすることを願ったので、いつしか総選挙イコールULという一般認識になったのだという。

「ここで嬉しいのは、願い事を叶えてもらえるっていう副賞はまだ生きてるってことだな」
「へぇ……!」
「しかも、昔と比べれば会社も随分大きくなってきているのもあって、願い事の回数にも制限がないんだ。まぁ期限はULが終わるまでだけど」
「なっ!? それは真か……!」
「い、いや待つんだ蘭子。こんなうまい話そうそうあるはずがない。どうせ使える金額に上限があったり……」
「……まぁ、ほぼ無いと思っていいぞ、上限」
「えっ……!?」
「一応予算としては……ちょっと耳貸して。これホントは教えちゃダメなヤツだから」
「ん…?」
「はぇ…?」

Pに耳を寄せるボクと蘭子。

「……ひへ!?!!?!?!?!?!?」
「……ふぁ!?!?!?!!!!???」

彼の口から出た額は想像を遥かに超えていた。確かにどうすれば使い切れるのか見当もつかない。別に使い切りたいわけでもないが。

「ただ注意点としては、これはシンデレラにかけられる魔法みたいなものなんだ」
「と、いうと?」
「バッグも買える、車も買える、家も買える。でもULが終わったら全部消えてしまう。つまりはボッシュート。形あるものでUL後も残るのはULのライブデータだけ。それを会社は売りまくるっちゅーわけだ」
「あぁ……なるほどねぇ……」
「現世とは残酷なもの……」
「だからお勧めの願い事は、豪華な食事やアクティビティ系のリクエストだな。たとえば、南極の氷でジュースを飲みたいって言えば翌日には叶うし、宇宙遊泳したいなら三日ほどで叶うだろう」
「フフッ……! ジュースは普通のロックアイスでいいけどね」

だけど宇宙遊泳は正直かなり興味をそそられる。検討してみようか…?

「まぁでも、フタリハアンマリツカエンカモダケドナ……」
「え…? 何て?」
「いや、まぁ、二人次第だな。うん。へへっ!」

Pのヘッタクソなウインク。それを目にしたとき、正体不明の不安が胸に去来した。

「……おい。何か嫌な予感が――」
「――P、そろそろ本題に入りましょう」

そこで今日初めて神崎Pが喋った。
本題とはULの内容についてのことだ。蘭子は早速そちらの方に意識が移ったようだった。ボクの経験則からすると、こういった胸騒ぎを放置すると碌なことにならないのだが、ここで話を止めようとすると、神崎Pの小言が出るのが容易に想像できたので一旦引いておくことにした。

「そんなわけで。ULではダークイルミネイトの二人がやりたいと願う事の全てをやっていい」
「ふ、ふお………」
「開催場所も開催時間も観客数も曲数もステージセットも! キミたちの自由だ! 会社が総力を挙げて全てを実現してくれる!」
「ふおおおおーーっ! あっ……い、衣装も…好きなの着ていいの……?」
「もちろんだよ! 何着でもいいよ! 小道具もだよ!」
「わふぉおおーーーーーーーーーっ!!!」
「それらを手掛けるのは世界中の超一流のプロだ。そして最高のユニットであるキミたちが演る。つまり、今この星でできる最高のエンターテインメントになるな」
「いいやっあふぅううーーーーーーっ!!!」

蘭子が歓喜の叫びを上げる上げる。彼女の喜びようには、神崎Pさえも微笑を見せるほど。当然ボクの心も躍っていた。ついさっき感じた不安なんて吹き飛んでしまうくらいに。
138 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:12:37.54 ID:+IqVL7Wl0

「じゃあどんなステージにしたいか、だけど……二人とも持ってきてる?」
「……ああ、持ってきているよ」
「っ! う、うむ………」

昨夜Pから打ち合わせで必要だからと、アイデアなどをまとめたものがあれば持ってきてほしいと言われていた。ボクの場合、それはこれまでに描き貯めていた漫画だった。

「これが……これがボク、二宮飛鳥のセカイ観のすべてだ……!」
「ふおおぉ……! これが我が片翼の……っ!」

バッグから取り出したソレをテーブルに叩きつけるように置いた。
描きも描いたり五百ページ超。一本の物語というわけではないし、ただのラフ画のページもある。でもいずれのページにもボク独自のセカイ観のカケラが散りばめられているという自負がある。
妄想を曝け出すことに気恥ずかしさを感じないわけではない。しかし今更Pに対して何を取り繕うのかという感じであるし、蘭子には見てもらいたいという気持ちが圧倒的に勝る。神崎Pは……まぁ、こき下ろされたとしてもいつも通りだし気にするもんか。

「ぁぅ………」

目が合うと、蘭子は頬を赤くして俯いた。蘭子が胸に抱くのはいつか見た魔導書。その羊皮紙の表紙に触れている彼女の指先が小さく震えている。

「―――ッ!!」

まるで間欠泉が噴き上がるように、蘭子が勢いよく立ち上がる。その双眸には既に覚悟の炎が宿っていた。

「い……幾星霜の時を経て、我らは遂に約束の地へと至った……! いっ、今こそ……今こそまさに! 相克のとき……っ!」

ふと、蘭子と初めて会った日の燃えるような夕陽が脳裏に過った。その紅が時を超え、今再びボクの網膜を痺れさせているのだ。
夕陽を受けたように顔を真っ赤にした蘭子が天高らかに魔導書を掲げ――

「もうどうにでもなっちゃえ〜〜〜〜〜っ!」

――ドスンと、テーブルの上に開帳した。

「こっ、これは……すごいな……!」
「あっ……ぁぅぅ……はじゅかしぃぃ〜〜……」

偏執的と言っても良さそうな詳細な書き込みに、蘭子の筆致の熱量に、ボクは圧倒されてしまった。横から覗き込んでくるPも感心するように唸り声を出している。
神崎Pは担当なだけあって、以前から閲覧を許可されていたのだろう。魔導書ではなく、ボクの漫画の方を見ていた。
しばしの間お互いの妄想を読み耽る。休憩を取るのも忘れて、ランチにはケータリングをつまみながら没頭した。
案の定、蘭子の書には難解な部分が多かった。ボクの漫画もそれなりに濃ゆいと思うが、蘭子の魔導書よりは取っつき易いだろう。それもあってか、読み終えるのは蘭子の方が早かった。

「……蘭子、このメタファーについてだけど――」
「フム! その呪言の真に意味するところを語るには、まず枢密聖書第四節の――」
「ぅぐっ…!」
「……つまりね、二宮飛鳥。蘭子が言いたいのは――」

それならばと、蘭子に解説してもらいながら読み進めようとしたところ、更に難解に感じてしまうこともあった。神崎Pの解説が無かったら倍以上の時間が掛かったかもしれない。このときばかりは神崎Pに感謝した。
139 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:13:33.83 ID:+IqVL7Wl0
セカイ観の共有が進むにつれ自然と、ULでは一続きの空想の物語を魅せよう、という方向に落ち着いていった。

「つーことは、歌とダンスに演劇の要素を加えて〜〜ってこれ、ミュージカル?」
「だな……。フフッ、悪くない」
「絢爛豪華たる歌劇! わぁぁ〜〜素敵……」
「いいんじゃないかしら」

ある意味とてもボクたちらしい妙案ではないだろうか。
大枠が定まったところで、改めてどういう物語にするかの案を出し合う。曲、ストーリー、舞台セット、演出などについても好き勝手に提案していく。

――天使族と悪魔族。闇の居城。厭世した魔王。神の走狗たる暗殺者。宿命の邂逅。

「それでね! ここで、どぉおん!ってお城が崩れて! それから歌が始まって!」
「なるほど、歌唱しながらの剣戟か! 滾るね……!」

――敗北と勝利。繰り返される決闘。敵対者との奇妙な友情と信頼。

「フム……この辺りで一つ、幕間劇…癒しを感じるシーンを入れてはどうかな?」
「それーー! 最後に思い出すと効いてくるやつーー!」

――明かされる真実。共闘。傷ついてゆく戦友。絶体絶命の窮地。

「P、さっきの演出だけど、出来るかな?」
「あぁん? 出来るかな、じゃねぇだるぉ〜〜?」
「フッ! そうだったね。や――」
「――やるのよ」
「おい、取るな!」
「えっ!? なにそれなにそれーー?」

――小さな奇跡。避けられぬ悲劇。別離。そして……。

ほとんどはボクと蘭子が喋っていて、Pと神崎Pはたまに補足ながら基本的にはずっと機械じみたスピードでキーボードを叩いていた。二人はこの場で早速、各部門への発注書を作成していっているようだった。

「よーし、でけたでけた」
「ん……誤字も……無さそうね」
「すごい量だな……」
「おっきなお豆腐みたい〜」

結局、コピー機が出力したULに関する書類は、ボクと蘭子のアイデアノートの厚みを軽く超えた。

「新曲は出来上がってきたものから順次レッスンしていこう。早いモノなら三日程度で上がってくると思う」
「たった三日で? 流石お金に物を言わせるだけあるね」
「言い方。脚本も上がってきたら改めて皆でチェックしよう」
「わぁ〜〜楽しみだなぁ〜〜」

そういえば新曲は何曲になるんだっけ? 勢いに任せるまま話していたからよく理解らなくなってしまった。ダークイルミネイトの持ち歌は既に六曲あるけど、これだけじゃ足らないだろうし――。

「――おーーっと! もうこんな時間か!」

急にPが大きな声を出した。確かに、時計を確認するともう十九時を回っていた。十時間近くぶっ続けで話し合いをしていたようだ。あまりに愉し過ぎて全く意識してなかった。言われてみれば全身が疲労感に包まれている。それに何より。

「お腹、空いたわね」

神崎Pの言葉に全員が頷いた。

「じゃあ、食事に行くかい? 仕事が残っているならこれで解散でも構わないけど」
「ご飯行きたーいっ!」
「ノンノン! それには及ばんぞキミたちィ」
「へ……?」
「キミたちが得た絶対特権、忘れたのか?」
「ま、まさか……!」
「いいの!?」
「何食べたい?」
「焼肉!」「ハンバーグ!」
「キミたち好きだねぇ。オッケー」

そう言ってPは何処かへ電話を掛けた。

「ニ十分ほどで準備が出来るだってさ。その間に……」
「ん?」
140 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:14:01.37 ID:+IqVL7Wl0


「――こっ、これは……!」

社屋の最上階の一室の扉を開くと、そこは素敵空間――近未来とスチームパンクが同居するカオスな住空間となっていた。ULが終わるまでの間、ここがボクの住まいになるのだという。生活に必要な部屋、設備、アメニティも全て揃っている。

「ほあああああ〜〜〜〜っ!」

開けたままだったドアから、隣の部屋に入っていった蘭子の歓喜の叫びが聞こえてきた。あっちは蘭子テイストの部屋になっていたのだろう。

「ULに出るユニットメンバーがここに住むのは毎年のことなんだが、その一番の理由はセキュリティのためだな。今二人は世界で最も注目されてる人間だから。あとはここの方がリクエストに対応しやすいから、という理由もある」

何処かへ遠出したいときには屋上のヘリポートが使えるらしい。なるほど……至れり尽くせりだな……。

「一つ下の階にはエステサロンや宴会場の他、ボーリング場やバッティングセンターなど一通りのアミューズメント施設もあって自由に使るぞ。やったね」
「へぇ…! それは良いね」
「マァ、ツカウジカンガアレバダケドナ……」
「え? 何て?」
「いや、何でもないよぉおおっと、そろそろ食事の用意ができたみたいだな、お腹ペコペコだぜぇー行こ行こ」
「あっ、おい……」

小走りで部屋を出ていくPを追っていく。まぁ、いいか。

階下の一室に用意されていたのは、超一流の料理人の手による最高の料理だった。ボクたちは大いに食事を愉しんだ。

「ULに向けてのレッスンはチョットタイヘンダケド、頑張ろうぜ!」

そんなPの言葉に、ボクと蘭子は力強く頷いた。
141 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:14:27.61 ID:+IqVL7Wl0



――また騙された!! 無理だ! 嫌だ! 逃げ出したい!!

「何をしている二宮っ!! 動け! まだ音楽は続いているぞ!?」

手を置いた膝が痙攣じみた震えを起こしている。ほんの少し視線を上げるだけでも今のボクには重労働で、歯を食いしばって見上げた先には鬼がいる。やはりこれは悪夢ではないのだ。

「ストップ! 最初からやり直しだ」

金棒ならぬ竹刀を携えたマスタークラスのトレーナー、青木麗女史が無慈悲な裁定を下す。彼女に視線を送られた青木明さんが機器を操作すると、曲は止まってしまった。折角中盤に差し掛かっていたのにまたオジャン。まるで賽の河原だ。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ……!」

すぐ隣りにいる蘭子の荒々しい息遣いに、心底申し訳ない気持ちになる。
そしてもう何十回目かも分からないイントロが流れ始める。麗氏が“早く最初のポーズを取れ”と鬼の形相で威圧してくる。

「ハァッ! ハァッ! くっ……!」
「二宮! 足! 下がってるぞ!」

足を上げて運ぶ、腕を振って戻す。腰を左へ回す右へ回す。自分の身体がラジコンみたい。自由にはもう動けない。一挙手一投足の全てに“動かす”という強い意思が無ければ動けない。いや、もう、有っても動けなくなっている。

「だから足ィッ!! ……チッ! ストップ!」
「なっ……!? ハッ、ハアッ……!」

キュッ、とステップの音がしたっきり、レッスンルームにまたしばしの静寂が訪れる。しかし今回は再開のかけ声はすぐにはかからなかった。麗氏は腕組をしながら、無言のままボクを睨みつけている。
ボクらを左右からビデオ撮影している青木聖さんと青木慶さん、そして音響機器を操作している明さんは、憐れみの表情を浮かべていた。

「なぁ、二宮。お前もしかして……」
「ハァッ、ハァッ………?」
「お前もしかして、“床マニア”なのか?」
「……は? ゆ、ゆか……まに…あ?」
「そうだろう? 私には分かるんだ。 なあ、“床マニア”だろう? そうだろう? そうなんだな?」
「床……? い、一体何を……っ!?」

背筋に悪寒が走った。麗氏が嗤っていたからだ。恐ろしい程に嗜虐的な笑みだった。

「はははは! そうか! お前、足の上げ方が悪いと思ったら、そうだったか! 床が好きすぎて片時も離れたくないんだな?」
「な、な、なにを……? い、意味が理解らない……っ」
「分かっているから、恥ずかしがるな! 私が手伝ってやる。愛しの床に、熱いベーゼを好きなだけさせてやるぞ」
「な、なにを……何を言っているんだ貴女は……!」

話が通じなさ過ぎて、ボクは恐怖を感じていた。しかし、それはほとんど死刑宣告だということは何故か理解してしまっていた。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ………!」

蘭子はボクに視線を送ってはいるけど、一言さえ発する余力はないようだ。鬼教官は蘭子にも目をつける。

「神崎ィィィ〜〜〜!」
「ぴっ!?」
「何、涼しい顔してる? まさか高みの見物気取ってるのか?」
「ぴっ、ぴぴぴっ、ぴっ、ぴっ……!」

小刻みに顔を横に振る蘭子は、ライオンに睨まれたハムスターに見えた。

「お前はある意味、二宮よりも深刻なんだぞ? 理解してるのか?」
「ぴぃ〜〜〜っ!」
「歌はともかく、お前のダンスは明らかに二宮以下だ。手品みたいな芸当で誤魔化してきたツケだな。しかもその手品、失敗することもあるんだってな? ん? そんな不確かなモノに頼ってステージに立って良いと思っているのか? んん〜? ファンが許しても私は許さんぞ?」
「しょっ、しょんなぁ〜〜……」

絶望するように蘭子は両膝を床に付いた。
嗜虐的な表情から一変して、清々しい笑顔で麗氏が続ける。

「だが、もう大丈夫だ! 全て私に任せるがいい。この一か月間で何処に出しても恥ずかしくないアイドル……どんな状況でも戦えるパフォーマーに鍛え上げてやる!」
「あわっ……あわわわ……」
「ひっ、ひっ、ひっ……!」
「お前たちのような気骨のあるのはそうそういない。お前たちの情熱に、私も全身全霊で応えようじゃないか。まさか、ULのために新曲を十曲以上も作るなんてな。しかも演劇とミュージカルの要素もあるとは!」
「そっ、それは……!」

Pと神崎Pに騙されたんだ。蘭子と夢想を繰り広げて、アレもしたいコレもしたいと試しに言ってみただけなのに、アイツらご丁寧に全部取り入れやがったんだ! その結果、ダークイルミネイトとしては十曲、ソロでは五曲ずつの新曲が生み出されることとなった。しかもそれに加えて、演劇やミュージカル部分もある! 少しは加減しろ! 多少はボクたちの自業自得もあるけどさ!?

「よし! 休憩はこれくらいでいいだろう。再開だ。まだ一曲目じゃないか。サクサクいこう。時間は待ってくれないからな!」

音楽が流れ始める。なんという無慈悲。
今日のレッスンが終わったとき、ボクはまだ生きていられるのか全く自信がなかった。
142 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:14:54.50 ID:+IqVL7Wl0



「今日はここまでだ。このドリンクを飲んでおくように。疲労回復に効果があるぞ」

麗氏はそう言い、二つの水筒を残して退出していった。他三人のトレーナーたちも続いて出ていった。残ったのはボクと蘭子。
ボクは麗氏の予告通り、床と熱烈なキスをしていた。たぶん蘭子も似た状態だろう。

「………らんこ………いきてるか?」
「………………………………きょむ」

もう一ミリも動けない。寝返りを打つことさえも不可能だ。
このまま寝てしまおうかと本気で考え始めた頃、レッスンルームのドアが開かれた。

「ウィーっス、おつかれー」
「あぁ、蘭子、なんて姿に……」

入ってきたのはPと神崎P。ボクらは彼らに上体を起こされた。

「おいおい大丈夫かよ?」
「…………」

大丈夫に見えるか? 聞かなくても分かるだろう。視線だけで怒りを伝えてやる。

「まっ、いつものことだし別にいいよな!」
「…………!」

ついに開き直りやがったなコイツ……。
蘭子の方を見やると、ぐったりした彼女を神崎Pが甲斐甲斐しく介抱していた。

「……ね、ねぇ……ぷろでゅうさぁは……しってたの……? こんなに、たいへんな、れっすんになるって……しってて、なにも、いってくれなかったの……?」
「ら、蘭子……っ! 私は……蘭子の思い描く通りのステージが見たくて……蘭子なら、きっと乗り越えられると信じているから……! だ、だから……!」
「………………そう……やっぱり…しってたんだね…………ぐすっ」
「ああああ! 許して蘭子ーーっ!」

神崎Pが世界の終わりを目にしたように絶叫した。良い気味だ。

しかし、ULに向けてのレッスンが始まって初日でこれとは。先が思いやられるな……。
143 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:15:22.33 ID:+IqVL7Wl0



≪Review by Asuka≫

ULに向けてのレッスンは過酷を極めた。
シンプルに覚えることが多すぎた。完全なキャパオーバー。しかしそのことに気付いたときには遅かった。もう全てが動き出していたから。

思い出すことすらしたくもない、地獄のような毎日だった。
だがしかし、どうにかこうにか、着実にボクと蘭子は前へ進んでいった。

習得した曲は順次レコーディングとMV撮影を行い、リリースしていく。少しでも暇があればインタビューを受けULのPRもした。
ULの二週間前にはパンフレットが出版された。蘭子肝入りの凝った装丁のそれはパンフレットでありながら百ページを超えた。難解なシーンが複数ある物語を、そのパンフレットで事前に予習しておいてもらうのが狙いだった。そこそこ値が張る仕様になってしまったけれど、完売したようで何よりだ。

ULが近づくにつれて益々、ボクたちは世間の注目を浴びるようになってくる。
テレビ点ければどの時間帯でもダークイルミネイトが特集され、ラジオではボクたちがこれまでに歌ってきた曲ばかりがリクエストされ、そしてネットでは日夜活発な議論がなされている。

世界中がダークイルミネイトと、ダークイルミネイトの起こす奇跡に期待していた。
144 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:16:23.79 ID:+IqVL7Wl0



≪Observation by Asuka≫

遠く、ボクを呼ぶ声が聞こえる……。
何事かを呼び掛けてくる……。

――覚醒せよ。時が来たぞ。

ボクの身体は動かない。まだその時ではないんだ。

――おーい朝だぞー。二度寝かー?

うぅ……嫌だ……もう少しこのままで……。

――ドン! ドン! ドン!

おいやめろ。眠気が覚めてしまうじゃないか。あと五分……三十分寝ると決めたんだよボクは。

『あすちゃん! 早く起きなさい! 朝ごはんの時間だよ!』

インターホン特有のやや割れた音声がやたらと鼓膜に響く。
枕元のタブレットで防犯カメラの画面を呼び出すと、ドアの前にはやはりPがいた。朝一で見るにはちょっとキツイ顔。しかもドアップだ。

『おっ? だんまりか? この俺に対して籠城か? こんな鍵、俺にかかればなぁ――』

――シュコンッ! カコン! カシュ!

一呼吸の間に三個のドアロックが開錠された。残りあと二個。どれも生体認証キーだぞ、どうなってるんだ。

「あぁもううるさいなぁ! 今日ぐらい寝坊してもいいじゃないか! あと、あすちゃんって言うな!」

一週間前から会場でのリハーサルも始まっていた。そして昨日のレッスンで、ULの全プログラムについて遂にマストレ氏から「及第点」の太鼓判を貰った。ULの二日前にしてやっとだ。決戦前日である今日ぐらいは優雅な朝を過ごしたいのに。

『なんだよ、起きてんじゃねぇか。最後まで気ぃ抜いたらいかんぜよ』
「あ、あと五分だけ……!」
『そんなこと言って三十分寝るつもりだろ?』
「くっ……!」
『神崎ちゃんはもう起きてるっていうのに、うちの子ときたら……』
「そんな……蘭子がもう起きているだって……?」
『煩わしい太陽ね!』
「ら、蘭子……!」

それは確かに蘭子の声だった。蘭子の方がよっぽど寝坊していると踏んでいたのに……!

「………むっ?」

いや、何かおかしい……。さっきの蘭子の声には心をくすぐる響きが微妙に足りないのだ。機器を介していたとしてもボクが間違えるはずがない。そしてタブレットには依然としてドアップのPしか映っていない。

「P、そこをどいて蘭子を映してくれないか?」
『……………フッ。成長したな飛鳥よ』
「蘭子の声真似をするなーーっ!」

ほんと何でもアリだなコイツ。

『神崎ちゃんも全然起きてくる気配ないんだよなぁ〜』
「それは仕方のないことさ。この一か月、片時も心休まることがなかったんだから。今日の寝坊くらい、誰が咎めるだろうか? いや、咎めないね。じゃあそうゆうことでおやすみ」
『神崎Pが神崎ちゃんの部屋に入って、もう十分くらい経つのにだぜ?』
「…………なっ、なんだと?」

蘭子とお泊り会をしたことのあるボクは知っている。寝起きの蘭子はそれはもうポワポワのフニャフニャな悪魔的な可愛さで……。所謂蘭子ガチ勢のあの女が理性を保っていられるわけがないのだ!

「蘭子の貞操が危ない!」

ベッドから飛び起きて、部屋を出る。Pには構わず、隣の蘭子の部屋へ。

「くっ!? 神崎Pめ、鍵を閉めたな……!」

蘭子の部屋の鍵はボクの部屋と同様に生体認証タイプだが、ボクでも開錠できるように登録してある。とはいえ一つ一つ開けていくのが今はひたすらまどろっこしい。

「っ! 開いた! 蘭子……っ!」

蘭子の部屋に駆け込む。と、そこには――

「……チッ!!」

――今まさにベッドに潜り込もうとしている神崎P。神崎Pが摘まみ上げている毛布の隙間から、蘭子の白い胸元が覗いている。
145 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:16:50.78 ID:+IqVL7Wl0

「何を、しているんだ?」
「…………」
「おいっ! 何事もなかったように入っていくんじゃない!」
「シッ! 静かに。蘭子が起きてしまうわ」
「っ!?」

この女には幾度となく睨まれてきたが、今ほどの剣幕は見たことが無い。これもう事案だろ。

「ぅにゅ………ふ………ん?」
「「……!」」

寝息が途切れ、蘭子はクシクシと目を擦る。そしてボクと神崎Pが見たのは、幸福を絵に描いたような甘い微笑みだった。

「わぁぁ……あすかとぷろでゅぅさぁだぁ……いっしょに、ぽかぽかしよぉ…?」
「――かっ、可愛っ!」
「――ぐぅぅ〜〜っ!」

ボクも神崎Pも、もう蘭子しか見えなくなって……蘭子を真ん中に“川の字”に――

「おーーい、そろそろ起きようぜーー?」

――ニュッ、とPが開いたままのドアから顔を出した。いいところだったのに……!

「貴方は――」
「お前は――」
「「入ってくるなーーっ!!」」

ボクが投げつけたのはクッション。神崎Pはおそらくは小銭を、マシンガンの様に弾き飛ばす。

「ぎゃーーーっ!!」

世界の中心のビルの最上階にダミ声悲鳴が響き渡った。残念ながら、それで蘭子は完全に起きてしまった。やれやれ。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:17:52.79 ID:+IqVL7Wl0



この日のレッスンは最終チェックがメインで、いつもより早めに切り上げることができた。
夕方からはこの一年で知り合ってきたアイドルやプロデューサーたちを招待して、盛大なパーティーを開いた。失踪していた志希も簀巻きの状態で連れて来てもらえて、絶対特権って本物なのだと感じた。出来ればもう何回かやりたかったな。



「………ふぅ」

さっきまでどんちゃん騒ぎをしていたのに、今ではもう自分の部屋で一人きり。本番の明日に疲れが残るといけないからと、パーティーは二十時過ぎにはお開きになってしまった。この酷い落差、いくらボクでも物寂しさを覚えたって不思議じゃないだろう。
時刻は九時。昨日までならまだレッスン真っ最中の時間だ。
妙に落ち着かない気分だった。明日のことが気になってソワソワしてしまうのだ。あと今日のレッスンが軽かった所為で体力が有り余っているからかもしれない。

「フム………」

三十分だけ汗を流すことにしよう。
二階下のULユニット専用のレッスンルームに向かった。


「――ハァッ、ハァ、ハァ……」

アップテンポさで上位に入る三曲を立て続けに演ってみた。しかし、どうにもしっくりこない。ほぼ完璧なパフォーマンスではあるのだが……。
そこで、ボクはやはり、“アレ”を試してみたくてレッスンルームに来たのだと気が付いた。

「えっと………頭と胸の中をグルグルにして……だっけ?」

以前、蘭子に教えてもらった“力”を使う方法を思い出す。正直全然理解らないが、蘭子自身もよく理解っていないようだった。ひょっとすると試してみたら案外ボクも……?

「ムムム…………!」

イメージする。頭の中、胸の奥で何かが光るのを……! あっ! 光ってる! 光ってるぞコレ……! よし、イケる! イケるはず…! うおおおおおお――

「――えいっ!!!」

ボクが右手を前に振り出すと………!!

「……………………くっ!」

何も起きない。起きるわけがない。うん。そんな気はしてた。

「――ブフッ!」
「っ!? だ、誰だ……っ!?」

背後で急に誰かが咳き込んだ。このレッスンルームにはボクだけしかいないと思っていたのに。
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/09/02(水) 15:18:37.53 ID:+IqVL7Wl0

「お前……いつの間に……っ」
「ン、ンフ……!」

振り向いてみればそこにいたのは神崎Pだった。入り口近くに突っ立って、こちらを見ていた。そして気付いた。この女は咳き込んだのではなく、噴き出した……つまり、ボクの一連の動作を嘲笑したのだ。
耳の裏がカッと熱くなる。まぁ、さっきの動作は傍から見れば意味不明……“痛い”ものだったかもしれないけどさ。

「ふ、ふん……!」

大方、忘れ物でも取りに来たのだろう。神崎Pのことなんて無視して、振りつけの確認っぽいことをして誤魔化すことにした。

「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「………………」
「……………………」
「……………………」

なんで出ていかないんだよ……。神崎Pは何かを探すでもなく、出入り口近くの壁にもたれ掛かったまま無言で佇んでいる。

「……何か?」
「いえ、別に?」
「じゃあ、出ていってくれると有難いんだが? ボクにも繊細なとこがあってね。気が散るんだよ」
「………………」

しかし、神崎Pは出ていこうとはしなかった。何なんだこの女?
もういいや。あと一曲演って終わりにしよう。そう決めて、音楽プレイヤーのリモコンを手に取る。
そこで神崎Pが口を開いた。

「貴女には無理よ」
「……何?」

ボクは聞き返しながらも同時に、それは蘭子のように“力”を使うことについて言っているのだと、理解していた。

「蘭子が何故、魂の力を引き出せるのか。それはあの子の元々の優れた素養以上に、奇跡のような偶然が数限りなく重なったことが重要なの。その結果、蘭子は感覚的に法則のようなものを見出し、力を引き出せるようになった」
「………」

別のセカイの蘭子と同じ姿のお姫様との魂の交流のことだろうか。

「とはいえ蘭子自身も原理は理解していないし、そもそも教えられる性質のものではない。魂の形は人によって千差万別で、故にそこにアクセスする感覚も人それぞれになるから。受肉するまでは使えていた私でさえ、今はもう使えない。使用するための条件はそれくらいピーキー」
「……無理と言われて、ハイソウデスカ、なんて納得するぐらいなら、ここまで来てないんだよ。何か……何でも良いから……ヒントのようなものはないのか?」

ボクは蘭子が起こす奇跡を増幅させることは出来る。どうやらそれは事実らしい。しかしボクだけでは奇跡は起こせない。蘭子がいないと始まらない。つまり蘭子が“主”でボクは“従”なんだ。ファン界隈でもそう認識されている。見も蓋もない言い方をすれば、ボクは蘭子の引き立て役とさえ思われている。ある意味ではそれは事実なのかもしれない。だけど、それに甘んじていられるほどボクは大人じゃない。
ボクは蘭子と対等な存在になりたいんだ。

「………」

何かを考え込むように、神崎Pはしばし沈黙する。その眉間に段々と皺が寄っていく。

「貴女も世間も誤解しているようだけれど、蘭子と……いえ、蘭子に限らず、他者と共鳴できる貴女の才能は………まぁ、蘭子の次に希少と言ってもいいわ。それどころか、“素質”に限って言えば蘭子さえも凌ぐかもしれない……」
「………ん?」

もしかしてこれは褒めている? 神崎Pがボクを…? 槍か血の雨が降りそうだな。てゆーか、嫌そうな顔で人を褒めるな。
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