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渋谷凛「愛は夢の中に」
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435 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:19:03.80 ID:TJeoIGflo
廊下を早足で駆けて、第一課のドアを邪魔だとばかりに押し放つ。
「プロデューサー、いる?」
しかし凛の声に反応するのは、第一課の別アイドルの担当しかいなかった。
「Pさんはさっきから席を外してるよ。アポが長引いてるのかもね。ちょっと色々と業務が回ってないみたいだよ」
凛は出端をくじかれて肩を落とした。
436 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:20:24.42 ID:TJeoIGflo
今のうちに云いたいこと云うべきことをまとめられる時間ができたと考えよう、そうポジティブに思い直して、ソファへと腰掛ける。
少し座っている間だけでPの席の内線は3度鳴り、ガチャリとドアの開く音がしてはトレーナーの青木明や興行部の遠藤がPの所在を尋ね、いないことが判ると困ったような顔を浮かべて去っていった。
相当色々なことが込み入ってそうだ。何か助力できることはないだろうか。
ただ座して待つだけなのも忍びない凛はそう思って、早速鳴った4度目の内線に出る。
「はい3階、代理で渋谷凛です」
『あれっ? えーとPさん不在ですか』
アイドルが内線に出たせいか一瞬驚いたような声音で、しかしすぐに業務に追われ驚きを思考から放逐したように質問を寄越してくる。
437 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:21:32.94 ID:TJeoIGflo
「はい、プロデューサーは別のアポの対応中らしいです」
『あー……、読買新聞さんから外線で校正結果の照会が突かれてんだけど、どうなってるのかな。流石に渋谷さんじゃ判らないよね』
電話口の向こうから困惑と苛立ちの雰囲気が感じられた。
「うーん、ごめんなさい、ちょっと……はい、伝えておきます。では」
日々の業務については何の補佐にもなれない現実を突きつけられ、凛は無力さを感じた。
438 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:22:44.42 ID:TJeoIGflo
受話器を置いて、はぁ、と嘆息すると、ふと、床に散らばる紙の束が目に入る。楽譜と思わしきものもあった。
「あれ、そういえば……」
ベキリやツクヨミの新曲をPが書きおろす企画が挙がったと云う話を耳にしたことがあった。結構前のことだ。
だが、手に取った譜面用紙は到底完成されているようには見えない。
めくってゆけば、『間に合わん』とだけ走り書きされ、太い朱で大きなバッテンが刻まれていた。
昨今のタスク量で手が追い付かず破談となったことが窺えた。
これまで凛の楽曲をいくつか手掛けてきたPのことだ、ツクヨミ向けともなればきっと腕が鳴ったことだろうに。
Pに無理を強いてきた物証がこうやって続々と顕れてくると、その度に凛の胸には棘が突き立てられる。
今や心は裁縫のピンクッションのようで、空き場所が見当たらない針の山だ。
439 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:23:56.66 ID:TJeoIGflo
頭を抱えて立ち上がると、サイドテーブルに血のこびりついた剃刀の刃が置かれていることに気づいた。
「これは……?」
髭を剃ろうとして誤って切った……とするならば刃が単体で置かれているのは妙だし、よもやPが自殺を企てたわけではあるまい。
よく見れば、刃の置かれている紙には宛名に『渋谷凛様』と書かれている。
もしや――
「この剃刀、私宛……?」
それだけではない。
傍に鎮座する大きな段ボールに入れられた大量の手紙や小包は、普段凛がPから定期的に渡されるファンレターの量とは明らかに差があった。
440 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:25:06.87 ID:TJeoIGflo
凛は、弾け飛ぶ勢いで段ボールを漁った。
慎重に、それでいて時間を無駄にしないよう手早く。
開封する度に、油田の如く溢れ出す悪意の暴風雨。
ソーシャルネットワークで罵詈雑言はよく目にしたし、或る程度の耐性は身についていると思ってきたが、ただの思い上がりだったようだ。
こうやって物理的な存在として訴えかけてくるのは堪えた。
441 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:25:54.53 ID:TJeoIGflo
手紙だけならまだよい。
画鋲だったり、引き裂かれた写真だったり、文字以外の実体で伝えられる憎悪がとても怖かった。
なまじ、これまでPたち裏方がフィルタリングをして堰き止めていたことで、端末の画面で見るだけの文字とはレベルが違う、直接触れる機会が皆無だった醜悪なものへは耐性が醸成されていないのも不幸だった。
Pは、こんな毒気にずっと中―あ―てられ、耐え、庇っていたのか。
こんなクズみたいな自分のことを、色々やらねばならない多量のタスクを放り投げてまで、戦友は守り続けていてくれたのか。
442 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:26:52.09 ID:TJeoIGflo
「バカみたい……」
自分は、本当に、バカみたいだ。
「一番近くで私のことを一番に想ってくれるヒトがいたのに、傷つけて、ずっと傷つけて――」
足の力が抜けた。
がくりと項垂―うなだ―れ、膝を突くと、OAフロアの床に、一つ、二つと濡れた染みが出来上がる。
443 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:28:23.02 ID:TJeoIGflo
凛の嗚咽をよそに、田嶋と胃の痛くなる長い協議を終えたPが、溜息を吐きながら戻ってきた。
その顔には見るからに疲労の色が滲んでいるが、同僚からの作業状況を照会する質問が方々から飛んでくる。
自らのところでボールが止まっていることを詫びてから、急いで処理しようと執務机へ歩を進めると、うずくまっている人影を視認した。
すぐにそれが渦中の人物だと直感すると、田嶋の早い来訪に慌てるあまり送付物を仕舞い忘れた痛恨のミスに気付く。
「り、凛!?」
どうした大丈夫か、と駆け寄って支えようと手を伸ばしたところで、凛は弱々しく息を吐く。
「ごめん……」
云いながら顔を上げた。滂沱の泪を流していた。
「ごめんね……」
気丈だったはずの凛が哀しい顔で詫び続けるのを見て、Pは、宝物をついに守り切れなかったのだと認識した。
444 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:29:48.57 ID:TJeoIGflo
「私……プロデューサーのような才能あるヒトをダメにしちゃった……」
赦しを乞う言葉を、壊れたレコードのように何度も何度も繰り返す中、剣呑な空気を感じ取ったPの同僚たちが、何ぞ問題が起きたのかとざわつきつつあるのを凛は感じた。
これ以上騒ぎを起こしてPを陥れてはならない。
「本当にごめんなさい」ともう一度付け加えてから、がくがくと震える両脚に喝を入れて、第一課を飛び出す。
誰の目にも触れないよう、廊下の端に設けられたベランダへの鍵を開けて駆け込む。
ここは緊急時の避難梯子が据えられた場所で、普段はまず人の来ない部分だ。手近で一人になれるのはここにおいて他にない。
445 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:30:28.61 ID:TJeoIGflo
どのように詫びればよいのか、もはや凛には判らなかった。
そもそも詫びたところで取り返しのつかないことに変わりはないし、アイドル活動で挽回しようとしても市場が赦してくれるかは未知数だ。
むしろ赦してもらうためには、Pはさらなる奔走を要求されるだろう。
結局どうやってもPの負担になる未来しかないのだ。
446 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/04(火) 23:31:01.26 ID:TJeoIGflo
PもPとて、何とか追わなければと思うのだが、凛のあれほどまでに自責する言葉や表情は、8年も一緒にいるのに初めてのことで、身体が動かなくなってしまった。
どのようにフォローするべきなのか、もはやPには判らなかった。
どんな言葉を投げても凛の負担にしかならないだろう。
かと云って語り掛けなければ、この不幸な現状維持が続くだけだ。
「一体、どうすれば……」
呆然と立ち尽くすPの後ろで、内線が鳴り止まない。
447 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/08/04(火) 23:33:35.23 ID:TJeoIGflo
今日はここまで
448 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/08/05(水) 04:56:16.02 ID:JCPLzoMDO
もしかしてラスト近い?
もちょっと続いて欲しいけど……ね
449 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/08/05(水) 22:47:30.36 ID:wbEqpjsSo
>>448
凛の誕生日に書き終わらせるつもりです
450 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:49:17.70 ID:wbEqpjsSo
・・・・・・
凛は、つかさからの電話で叩き起こされた。どんよりと雲が低く立ち込める朝だった。
「おはよう、ありがとうつかさ、助かった」
『え、なんのこと?』
開口一番の謎の感謝に、つかさは虚を突かれた。
「起こされたとき、厭な夢にうなされてたところだったから」
『……そうか』
451 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:50:06.25 ID:wbEqpjsSo
最近、夢見が滅法悪い。
ファンタジーな内容から現実味あるものまで幅は広いが、そのどれもが何らかの形で蝕まれる悪夢だった。
叫んで起きるか、寝汗をびっしょりかいて息を切らしながら起きるかのどちらかだ。
して、つかさは何の用事だろう。この日の凛の仕事は夜から。まだまだ時間があるはずだ。
『ああそうそう、そうだ、Pが今どこにいるか知らね? 会社に来てないんだよ』
いつも堂々と構えているつかさにしては珍しく、少し焦燥の声音が混じっていた。
452 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:51:25.96 ID:wbEqpjsSo
「プロデューサーが? まさか寝坊なんてする人じゃないでしょ、どこかへ直行直帰とかじゃなくて?」
『今日はアタシのトレーニング方針会議があるんだ。トレーナーさんと管理栄養士さんを交えてのヤツ。
電話は電波が届かない。今までこんなこと一度もなかったのに』
その実つかさは緊張しいではあるのだが、鋼のプロ根性でそれを表に出すことがほとんどない。
相棒への電話だからあまり取り繕わなくて済むと云うこともあろうが、彼女の気骨でも隠し切れないほど心を砕いていることが伝わってきた。
「……わかった。私は仕事までまだ時間あるから、調べてみる。つかさは、一旦プロデューサーなしで進められる?」
『あ、ああ。たぶんそこまで大きな舵取りの変更はないはずだから……』
了解、とお互いに頷き合って電話を切る。
453 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:52:28.74 ID:wbEqpjsSo
――プロデューサー……まさか、気に病んで自殺なんてしてないよね……。
凛は不穏な思考が浮かぶのを、「ううん、そんなわけない」と頭を激しく振って掻き消した。
「ちひろさんとか、会社関係で動ける人は全員動いているはず。私が思いつくことならもうみんな済ませてるよね……」
凛は、Pに関する独自のオンリーワンな情報網は持ち合わせていなかった。早速詰んだ。
「プロデューサーが行きそうな場所を虱潰しに調べるしか……」
凛は取るものも取り敢えず、自宅を飛び出す。
天候のせいで陰鬱な重さが支配する窓の外を見ながらマンションのエントランスを走り抜けると、前方から、大きなサングラスで目元を覆い、黒いスーツとオーラを纏って歩いてくる人物があった。
454 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:53:59.15 ID:wbEqpjsSo
===
Pはずっと潮騒を聞いていた。
聞いていた、と云う表現は語弊があるかもしれない。
P自身は耳に届く空気の振動を意識していないからだ。
人気のない、ごつごつした岩場から釣り糸を海へと垂らし、それでいてリールを巻く気が微塵もない体で、寄せては白い泡となって消えてゆく波をずっと網膜に映しているだけだった。
今、Pの頭の中を支配しているのはたった一つ。
凛の、泪に濡れた顔。
455 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:54:52.33 ID:wbEqpjsSo
どうやってもその顔を晴れさせる方策が思い浮かばず、前にも後ろにも進められず、気付いたらこんなところにいた。
今日はつかさ関係の業務があったはずだ。
また彼女に迷惑を掛けてしまった。合わせる顔がない。
こんなに不甲斐ない人間だったか。
こんなに情けない男だったか。
だがこの立場でどうしろと云うのだ。
Pの脳内をぐるぐるいつまでも遣る瀬無い思考が渦巻く。
456 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:56:03.15 ID:wbEqpjsSo
「――釣れるかい」
ふと、後ろから声を掛けられた。
こんな荒涼としたところに一体誰が――そう思いながら振り向くと、かつて見た人懐っこい顔は封印して、真面目な笑みを浮かべた沈が立っていた。
「……ふむ、どうやら釣る気はないようだ」
竿の状態を一瞥して云う。
「なら浮きも入れない方がいい。期待して集まる魚が気の毒だ」
そう忠告しながら、よいしょ、とPの傍の突き出た岩に腰掛けた。
457 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:57:02.53 ID:wbEqpjsSo
「沈社長、なぜあなたがここへ?」
「たまたま通り掛かっただけだよ。私は海が好きなんだ。そうしたら妙な雰囲気の人が一人ぽつんといるのでね。様子を見にきてみたらPプロデューサーだった。こんなこともあるもんだね」
私の放浪癖もあながち無駄ではないもんだ、と沈は相好を崩した。
「Pプロデューサー、やはりあなたは姜プロデューサーと似ているな」
「……え?」
「彼も失意の底にいるとき、こうやって釣る気もない竿を波打ち際で掲げていたよ」
「あの彼が?」
いつも見掛ける彼は泰然自若とし、強力なリーダーシップでR.G.Pを率い、悩みとは無縁そうな振る舞いをしているのに。
458 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:57:53.13 ID:wbEqpjsSo
Pの感想に沈は、825を超人集団だとでも思っているのかね、と声を出して笑った。
やや呼吸を落ち着けて、遠くの海原を眺める。
「渋谷さんの件ではだいぶ揺れているようだね。いや、激震と云えるか」
Pは何も答えなかった。
いや、答えられなかった。
今回の騒動に関して迂闊なことは何も喋れないからだ。
そう、社内でさえ口に出すのが憚られるくらいに。
459 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 22:58:47.69 ID:wbEqpjsSo
「大丈夫さ――」沈は海を見たまま優しく云った。
「日本芸能界の人間だと全員が利害関係者になってしまうだろう。一種、外様の私が最もニュートラルだ」
Pを向いて頷いた。
「……お恥ずかしい次第です」
Pは竿を仕舞おうと引き揚げながら、ようやく一言だけ返した。
460 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:00:36.32 ID:wbEqpjsSo
沈は大きく息を吸って空を見上げ、ふぅ、と吐く。
「姜プロデューサーを825へスカウトしたのもこんな天気の日だった」
そのまましばらく厚い雲の広がる白い天を仰ぎ続ける。
「……かつて姜プロデューサーは担当アイドルを死なせてしまったことがある」
沈の訥々とした語りに、Pは驚愕の目を見開いた。
あんな栄光を謳歌する姜にそのような過去があったと? 俄には信じられなかった。
461 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:02:37.29 ID:wbEqpjsSo
「スジの双子の妹さんでね。彼はそのせいで一旦芸能界から身を引いたんだ」
でも、と沈は目を閉じる。これまでの825の軌跡を反芻しているようだった。
「当時一般人だったスジと偶然出会ったことで、そしてR.G.Pと云う導くべき船ができたことで、彼は立ち直れた。ま、大部分は私が嗾―けしか―けたせいでもあるがね」
彼は幸運だったんだ、と目を細めてPに笑い掛けた。
462 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:03:18.34 ID:wbEqpjsSo
「Pさんの場合はもっと幸運だ。なぜなら、まだみんな生きているじゃないか。生きているなら幾らでもやり直せる機会がある」
「果たして自分にやり直せるか……凛を事実上殺してしまったようなものです」
Pは沈の目を見て、静かに息を吐いた。
少しだけ考える時間を取ってから、沈は「云い方を変えよう」と人差し指を立てる。
「生きていれば、人間誰しも幸福を目指すことができるんだ」
「幸福を……目指す……」
463 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:04:09.41 ID:wbEqpjsSo
「そう。では幸せとはなんだろう? 金持ちになること? 有名になること? いや、それらは本質ではない。幸福とは、精神の在り方なんだ」
沈は自らの胸板を軽く叩く。
「心次第だからこそ、生きてさえいれば、Pさんは渋谷さんと再び向き合って、幸福を追い求める手助けをすることができる」
それがプロデューサーの役目だよ、と沈は笑った。Pはその笑顔をじっと見る。
「生きてさえいれば、いま少しだけ立ち止まってしまったとしても、再び幸福を追い求めて歩き出すことができる……」
「そう、その通りだ」
464 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:05:12.38 ID:wbEqpjsSo
Pはシンデレラを輝かせるための魔法使いに思いを馳せた。
シンデレラの幸福を手助けする魔法使いは、他ならぬ自分たちプロデューサーだと云うことを忘れてやいまいか?
魔法使いが塞ぎ込んでいて、シンデレラに魔法をかけてやれると思うのか?
何をぼさっと立ち竦んでやがる。お前の足は飾りか? 担当アイドルを導くための担当プロデューサーだろうが、さっさと歩けこのヘッポコPめ。
Pは、自らの心の中に燻っていた凛への様々な想いが、コークスを炉に入れたような滾りを見せるのを感じた。
465 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:06:16.25 ID:wbEqpjsSo
「お、瞳に光が戻ったようだ」
一瞬の変化を沈は見逃さずに破顔した。
「沈社長、ありがとうございます。本気で凛と向き合ってこなかった自分を戒めて、やり直そうと思います。でも――」
Pがほんの少し逡巡するのを見て沈は小首を傾げた。
「……どうして825でもない他人の私にこのような救いの手を?」
ああそんなことか、と肩を揺らす。
「ライバルが元気じゃないと、お互いに成長できないものさ。寡占市場はいづれ腐る」
よいしょ、と沈は立った。潮風に上着をはためかせ、Pをじっと見る。
「日本市場のトップが元気ないのは、我々にとっても不幸だからね」
466 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/05(水) 23:06:54.14 ID:wbEqpjsSo
国内の芸能関係者ではこのような一種堂々とした開き直りは不可能だっただろう。
それでも、いまPに必要なのはそれによって齎される発破だった。
「さっき私は魚を気の毒だと云っただろう? それは担当アイドルに対しても同じなんだ」
期待をさせるだけさせて、放置するのは悲しいこと。
担当アイドルときちんと向き合う刻がきたよ。そう云って沈はPの後方を指差す。
示す方向を振り返ると、姜の隣に、凛がいた。
467 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/08/05(水) 23:07:37.79 ID:wbEqpjsSo
今日はここまで
468 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:27:31.67 ID:FbMZBPjoo
「――どうして私のところへ?」
姜が運転するプジョーの助手席で、凛はハンドルを握っている隣の男に、迎えにきた理由を問うた。
「魔法使いの首領―ドン―に仰せつかってね。城へ向かうシンデレラを乗せる馬車の馭者役をしているのさ」
シンデレラにフィーチャーすることの多いCGプロに合わせた表現をして、姜は使い走りの状況に若干「やれやれ」と云う空気を纏わせつつ笑った。
「私が家を出ようとしたまさにそのタイミングで来るなんて、まるで狙いすましたかのよう」
そもそも詳しい居住地はCGプロ内のごく一部と栗栖にしか知らせていなかったはずだが。
469 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:28:34.40 ID:FbMZBPjoo
「蛇の道は蛇、ってことだ」
姜はそう云ってはぐらかすように加速した。
このSUVは姜の愛車だそうで、本拠地である韓国でも同じ車種に乗っているらしい。
ドライブフィーリングは日本車ともドイツ車とも違い、フランス車に特有の、ふわっとしていながらしなやかなコシがとても新鮮だ。
「この車が、スジさんと熱愛スキャンダルが報じられた時のものなんですね。私を乗せてるとまたあらぬ誤解のネタになってしまうんじゃないですか」
470 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:30:56.41 ID:FbMZBPjoo
「……よく知ってるな」
姜は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
凛はこれまでR.G.Pの情報を収集してきた中で、熱愛報道のログに触れていた。
姜もまた、雨降りしきる夜に私用車の中でスジと並々ならぬ雰囲気を出していたと、激写スクープされたことがあったのだ。
「正確には、この車ではなく韓国での俺の愛車だが。ハンドルの位置が左右違う」
ウインカーを出しながら、右ハンドルには中々慣れないとぼやく。
「あのスキャンダルは、R.G.Pそして俺にとって試練だった」
姜にとってあまり話したくない記憶だろうに、一つ一つ言葉を選んで、ゆっくり語る。
説明によれば、実態は、スジの家族についての繊細な話をしていたに過ぎなかったらしいのだが、外から見ている人間に判ろうはずがない。
姜やR.G.Pもまた、自らの意志とは関係なしに火事が拡がってゆく経験があったのだ。
471 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:31:41.65 ID:FbMZBPjoo
「それもあって、渋谷さんの今の状況には同情を禁じ得ない部分があってね」
「私の場合は……自らの我儘が招いた結果ですし」
「人間なら仕方のないことさ。アイドルは機械じゃない」
感情もあれば生死もある、と姜は深い溜息を吐いた。
「……そのように“先輩”に云って頂けると、救われます」
「不祥事の先輩――ね」
複雑な感情を顔に出しつつ、違いない、と姜は笑った。
472 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:32:50.26 ID:FbMZBPjoo
凛は進行方向をまっすぐ見据える。
「確かに、アイドルは……私は機械ではありません。ですが、人間だからこそ責務があります。各方面に、そして何よりプロデューサーに大きな迷惑を掛けてしまいました」
凛の、芯のはっきりとした独白に、姜は静かに耳を傾けている。
「どうして自分はあのような行動を取ってしまったのか、今では自分で自分のことがわからないんです。悔やんでも悔やみきれません」
しばし会話が途切れる。エンジンやタイヤの生み出すロードノイズが車内を支配する中、姜はおもむろにハンドルを切った。
「その気持ちがあるだけで充分なんじゃないだろうか。少なくとも俺はそう思う」
473 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:34:05.31 ID:FbMZBPjoo
速度を落としたプジョーが、海浜公園の駐車場へと滑り込んでゆく。
先端まで走って、キッと軽い音を立てて止まった。
「舞踏会の会場へ到着ですよ、お姫様」
「……こんなところに?」
天候もさほど良くない上に時間帯の所為もあってか、人影が全くない。
アイドルがこの地を歩くと云う観点からは誰もいない方が歓迎すべき状況ではあるが、本当にPがいるのか、俄かには信じ難かった。
「社長からの連絡によれば、ここらしい」
姜が先に降りて、助手席側のドアを開けて云った。
「この先の岩場だそうだ。行こう」
474 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:34:55.40 ID:FbMZBPjoo
姜と連れ立って歩くと、海浜公園とは名ばかり、すぐに景色は岩場の荒涼としたものになった。
「懐かしい雰囲気がする場所だな……」
独り言が姜の口をついたので、凛は鸚鵡返しに問う。
「懐かしい?」
「自分が沈社長にスカウトされたのもこんな天気、こんな場所でのことだった」
「……プロデューサー職種の人間って、行動パターンが同じなんですかね」
凛の、冗談とも本気とも受け取れる言葉に、姜は肩を竦める。
475 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:36:20.67 ID:FbMZBPjoo
10分ほど歩いて、いよいよ波打ち際が近づいてくると、静かに海を見つめているPと沈の姿を岩陰に認めた。
向こうはまだこちらに気づいていない。
「姜プロデューサー、ありがとうございました」
凛は隣の姜を向いて、改めて礼を述べた。その顔は、天気と同じくだいぶ曇っている。
「ここまで連れてきてもらっておいてこう云うのもどうかと思うんですが」
ちらりとPや沈の方を横目に見遣って、視線を戻す。
「……私は本当にプロデューサーに会う資格があるんでしょうか」
476 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:36:57.04 ID:FbMZBPjoo
今時分の必要な連絡だけ姜からお願いできないか――凛はしゅんと気落ちした声音で云うが、姜は首を横に振った。
「それは俺の役目じゃない」
「……ですよね。甘えです。ごめんなさい」
「でも――」
凛が溜息を吐きそうになる一瞬前に姜が続けた。
「渋谷さんに今語るのが、沈社長から受けた俺の役目なんだろう」
軽く咳払いをして、一度息を大きく吸う。
477 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:37:51.18 ID:FbMZBPjoo
「迷惑を掛けたことを悔やんでいるとさっき渋谷さんは云ったが……
プロデューサーってのは、担当アイドルのためなら、どんなことでも幸せに感じられるものなんだ。俺だって、R.G.Pのみんなを迷惑だなんて思ったことはない」
担当アイドルを輝かせるため、担当アイドルを守るため、担当アイドルを癒すため――
担当アイドルを思ってする行動は、プロデューサー自身の歓びでもあるのだと。
「迷惑を掛けた過去は変えられない。だが、その過去の結果を受けて未来をどうするか。それはプロデューサーとアイドルが共に向き合うことで構築してゆけるものだ」
姜はそこまで云って、「第三者の視点ならこんなにも簡単に理解できるんだがな」と自らの過去に苦笑しているようだった。
478 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:38:23.35 ID:FbMZBPjoo
「姜プロデューサーも、袋小路に入ったことが?」
「ああ、色々な人に助けられて、俺は今ここにいる」
遠くの沈を向いて云った。沈の占めるウェイトが相当なものなのだと、その仕種だけで凛は理解した。
「今度は俺がその役目を果たす時と云うことか」
姜は自らの因果に「フッ」と笑う。
「さあ、馭者の出番はここまでだ。あとは渋谷さん自身の肩に掛かっている」
「最後に一つ、いいですか」
ん? と姜は凛を向いて首を傾げた。
479 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:39:17.25 ID:FbMZBPjoo
「……どうして、私――いや私たちにここまでしてくれるんです? ライバルのような関係なのに」
「ライバルだからこそだよ。日本のトップアイドルには元気でいてもらわないと我々も張り合いがないからな」
ニヤリと不敵に笑って姜は云った。
「ま、それはちょっと云い過ぎか。R.G.Pの成長のためにも、日本側のアイドル業界と切磋琢磨する必要があるのさ」
よろしく頼む、と姜が右手を差し出した。
凛はおずおずと、それでいてしっかり握り返す。
沈が立ち上がって、こちらを指差した。
480 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:40:27.23 ID:FbMZBPjoo
Pと凛が、お互いに手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った。沈と姜は離れたところで別途合流したようだ。
「プロデューサー、会社サボりはよくないよ」
「面目次第もない」
凛が、悪戯をした我が子を諫めるかの如し口調で云うので、Pはバツが悪そうに答えた。
「つかさは、今日の会議は自分だけで大丈夫だ、って云ってたから。ここへ来るまでの間にちひろさんにも連絡してある」
「何から何まで、すまん」
プロデューサー失格だ、とPは頭を下げた。
481 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:41:10.22 ID:FbMZBPjoo
凛が何も云わないので、不思議に思って視線を上げる。凛は、静かにかぶりを振っていた。
「ううん、私こそ、ごめんなさい。プロデューサーをこんな状態にしてしまったのは、私の所為だから」
「いや、この一連のことは全面的に俺が至らなかったのが悪い」
「違うって。私の我儘が全部引き起こしたことだよ」
「俺が」
「私が」
お互いに自らの責を主張して退かない。
482 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:41:42.68 ID:FbMZBPjoo
Pは、何かが無性に可笑しくて、矢庭に噴き出した。
「……まずは凛と俺と二人でつかさに謝ろうか」
「……そうだね。まずはそれが第一かも。他のことはその後、かな」
凛もバツが悪そうに両肩を上げた。
「すぐに戻ろう。積もる話は、車の中ででもできるから」
「うん、行こ」
二人、岩場を歩き出す。両者の胸はこれまでと違ってしっかり張っていた。
483 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:42:36.96 ID:FbMZBPjoo
引き潮に取り残された水たまりに嵌らないよう注意し合って、大股小股で進んだり、小さくジャンプしたり。
単純に車へ戻るだけの道のりが、二人には久しく味わっていなかったアトラクションのように思える。
「こんな些細なことが幸せだって、見えてなかったんだね、私」
凛は独り言ちた。
Pが「どうした?」と振り返って問うので、「失敗してから判ってくるものが多すぎるな、って」と凛は足元を見ながら答えた。
484 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:44:28.16 ID:FbMZBPjoo
楽しい時間は実際より圧倒的に短く感じてしまうもので、視線を上げれば、先ほど姜が停めた場所とはまた別の駐車場がもう目前だ。
「ねえプロデューサー、私たちはどこでボタンを掛け違っちゃったんだろう」
Pの車の助手席に乗って、シートベルトを締めた凛が問うた。
掛け違えた、と云う表現は正解でも不正解でもある。掛け違える前段階から既にズレが生じてしまっていたからだ。
凛は考え込んで、もう一言を添える。
「そもそも業務時間外に彼と直接的な交流を持ったのがいけなかったんだよね」
485 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:45:01.22 ID:FbMZBPjoo
乃木公園で個人的な関わりを持ち始めてしまったこと。
1回だけならまだしも、それが習慣化してしまったのがまずかった。
「それを云うなら、坡州での連絡先交換を俺が許可したのが始まりだよ。全てはそこからだ」
「あれはプロデューサーが私を信頼してくれた証でしょ? それを私が裏切りの形にしてしまったのは、やっぱり事実だし」
「うーん……早い時期から凛と彼はお互いに悪く思ってないんだろうな、と感じて微笑ましく見てたよ」
凛が「えっ?」と息を呑んだ驚きの声と、エンジンのイグニッションが被った。
486 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:46:29.94 ID:FbMZBPjoo
だいぶ昔の話を蒸し返してしまって少し気恥ずかしいが――とPが云いながら、駐車場から出すために車を後退させた。
「アイドルを始めたての頃だ。凛が俺に対して恋煩いみたいな状態になったことがあっただろ。その時は俺が断固阻止したけど」
「うん。あの頃の私も青かったよね。プロデューサーがあんなに怒ったところ初めて見たし、アイドルとしての自覚を持つきっかけでもあった」
「実は――あの出来事は俺にとって負い目でもあるんだ」
凛が目だけで問うてくる。感謝してるんだよ? とでも云いた気の視線だ。
487 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:47:25.36 ID:FbMZBPjoo
「確かにアイドルとしては正しいんだろうな。でも、そう云う類の感情を殺すのは、果たして人間として正しいことを俺はしたんだろうか、って」
「人間、として……?」
「ああ。ただでさえ、普通の人なら味わうであろう青春をお前は代償にした。
尊い犠牲の許で輝いている凛に対して、その上さらに人間らしさまで人身御供に捧げろと要求しているような気分だった」
――これでは、アンドロイドと何が違うのだ?
「だから、俺が取り上げてしまった人間の感情を、今回久しぶりに凛が取り戻したように見えて、凛と彼が接近してゆくのを止められなかったんだ」
ハンドルを操作しながら、Pは「うまく立ち回れなくて、すまない」と顎を引いた。
488 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:49:58.78 ID:FbMZBPjoo
「え、あー……プロデューサーはそう云う風に思ってたんだ……」
凛はPの心根に触れて、視線を自らの足許へ落とした。
「……ごめん」
ややあって、ようやく一言だけ。変装用のサングラスの下から、一筋の泪が伝った。
「プロデューサーときちんと話すでもなく、勝手に勘違いして、勝手に間違った方向へ進んじゃって、ごめんなさい」
489 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:50:39.05 ID:FbMZBPjoo
額に腕を当てて「あーもう……どうして独り突っ走っちゃうかな私」と天を仰いだ。
「でも、一つだけ云わせて。私は、プロデューサーに感情を殺されたとも、人生を捧げさせられたとも思ってないよ。アイドルとして生きてきたこの8年、私はとても楽しかった」
たしかに、凛は志願者ではなくスカウトで芸能界に入った人間だ。しかし。
「私は、アイドルが好きだからやってきたんだよ。義務感じゃないんだ。プロデューサーとの二人三脚が楽しかったの」
「凛……」
490 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:51:08.65 ID:FbMZBPjoo
Pが、長い長い息を吐く。
「――勝手に自滅してたんだな、お互いに」
「うん、そうだね……お互いに」
再び、今度は二人とも大きく嘆息した。
「すまなかった」
「私こそ、ごめん」
491 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/06(木) 23:51:45.16 ID:FbMZBPjoo
不器用な二人だった。
きちんと話せばすぐに分かり合えるはずのズレを、これほどまでに拗らせてしまうとは。
「……失態は行動でカバーしなきゃね」
凛は、決別するように泪をハンカチでしかと拭って云った。
「当座、どこから立て直しを図るのがいいのかな。やっぱりツクヨミ? それともソロの足場から、かな?」
「そうだな……様々な選択肢がある。社に戻ったらリカバリープランを早めに二人で練ろう」
突破すべき難題は、眼前に山積している。
492 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/08/06(木) 23:53:08.04 ID:FbMZBPjoo
今日はここまで
493 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:32:55.97 ID:DXxvvhP2o
・・・・・・
人間如きがいくら悩もうが、いくら悔やもうが、時間は待ってはくれない。
せいぜい神の造り給うた庭の中で走り回ることしかできないのだ。
摂理に抗うこと能わず。凛の、24度目の誕生日がきた。
せっかくの誕生日だと云うのに、仕事は容赦なく入れられている。
いや、むしろこれまでの失態を考えれば、こんな日でも仕事の予定が入っていることこそ感謝しなければならないのだろう。
それに、自らの仕出かしたことを思えば、今年は家族や近しい者で祝うのみに抑えるべきだとも云えた。
494 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:34:02.39 ID:DXxvvhP2o
この日は歌番組の収録だ。
復活の狼煙として先日リリースした曲を披露する場。
かつてのような、意地悪なバラエティではなく、純粋に歌姫として活躍できるステージになるはずである。
騒動以降、Pは凛に可能な限り付き添うようになった。
凛のプロデュースに注力するため、色々な身辺整理をした。
何人か受け持っているアイドルを、ユニットを組んでいるつかさを除いて他の手すきのプロデューサーへ移譲したり、こまごました事務処理はちひろに全部任せたりと、可能な限り身軽になろうと東奔西走した。
ツクヨミは、騒動の引責としてPと田嶋が共に退き、経験豊富な765のプロデューサーが新しく立つことになった。
Pは陰からサポートする役目に徹している。
各方面への“戦後処理”を進めたことで、Pは本来の存在意義である担当アイドルを見守る者へと回帰できたのだ。
495 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:35:35.22 ID:DXxvvhP2o
楽屋入りすると、化粧台の横にいくつか箱が置かれていた。先に楽屋に入っていたPが持ってきたらしい。
どれにも『お誕生日おめでとう』と書かれている、有志一同が贈ってくれたプレゼントだった。
中には古参のファンが単独で用意してくれたものもあった。
「うわ……嬉しい。誕生日のプレゼントをこんなに嬉しいと思ったのなんて、いつ以来かな」
包装を解いて中身を確認しながら、凛の顔が綻ぶ。
「ほんと、ありがたい存在だよな」
Pが頷いて、プロテインのシェーカーを寄越す。
「今日はまだ昼メシ食ってないんだろ? これだけでも飲んでおいた方がいい」
午前中は収録のための最終レッスンをこなしていたのだ。ドタバタしていて食べそびれてしまった凛をPはきちんと見ていた。
昼食を引き換えにはしたが、その甲斐あって、今日のステージでは最高の歌を披露できるはずだ。
496 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:36:07.38 ID:DXxvvhP2o
「ありがとう。お腹が減っていると、プロテインでも美味しいと感じられるよ」
あっという間に飲み干して凛は顔を綻ばせた。
プロテインの、どろりと喉を犯す感覚が、いつぞやのまぐわいを思い起こさせたが、意識の封をして押し込めた。
代わりに、時計を見遣って立ち上がる。
「そろそろだね。着替えるよ。新しいデザインのドレス、楽しみだな」
岩見沢が腕を鳴らした、健康的な露出を復活させた衣装のお披露目だ。
497 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:36:36.89 ID:DXxvvhP2o
ヘアスタイルは、服飾を活かすため一部を垂れ残してアップに結っている。
この戦闘服を纏えば、歌姫・渋谷凛は準備万端。
スモークの焚かれたステージ脇で出番を今かと待つ後ろ姿に、Pはかつて15歳だった凛の初舞台の様子を投影していた。
少女は、大人の女になった。
フレッシュな渋谷凛から、艶やかな渋谷凛になった。
さあこれから、どんな渋谷凛になってゆくのだろう。
498 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:38:05.67 ID:DXxvvhP2o
スタッフからのキューで、凛は舞台に出た。
曲が流れ始めて、凛は全身、四肢の指先まで最大の意識を注ぎ込む。
肺から発せられる熱気が音波となって弾け飛び、慣性の法則に真正面からぶつかり合う鋭い動作で舞った。
間奏では、アダルティでありつつもフレッシュで勢い豊かなダンスを披露する。きっとこのオンエアを見た視聴者は凛に釘付けになるはずだ。
499 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:38:39.90 ID:DXxvvhP2o
歌が2番へと突入し、凛はマイクを持ち直す。あえて強く、ぎゅっと握った。
……しっかり握ったはずなのに、皮膚感覚へのフィードバックがなぜか感じられないのが不思議だ。
心臓が、全身に酸素を届けようとポンプを最大稼働させる。
……袖で待機している頃から、心拍数が上がって、動悸が激しかったのは緊張のせいだろうか。
額や頬そして首筋を汗が伝い、ステージの照明を反射して煌めく。
……これら水の珠が熱く感じられないのは、露出が多めの衣装ゆえ身体が効率的に放熱できるからなのだろうか。
500 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:39:49.73 ID:DXxvvhP2o
――いつもより肌を色白に見せる方針だったか? 照明班に、白さを活かすよう色調を微調整させるか。
――唇まで寒色のメイクを徹底してるのは演出なんですかね。
スタジオの裏側で、番組ディレクターとリードカメラマンが小声で話し合っている。
クールな歌姫って云うより氷の歌姫って感じだね、とスタッフが形容した。
季節柄ゆえの演出だろうと皆が信じ込んでいる。
501 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:40:37.64 ID:DXxvvhP2o
「あれ……?」
凛は、視覚から入ってくる情報と、自らの三半規管が伝えてくる位置情報に齟齬があることを自覚した。
まっすぐ前を見据えて、きちんと歌っているはず。
なぜ、自分に光を浴びせている照明群が、目の前に見えるのだろう?
首筋から、全身の体温が根こそぎ奪われていく感覚に襲われる。
なぜ、スタジオ内の冷房を一気に強めたのだろう?
凛が脳内で問うのと、女性スタッフの悲鳴が響くのは同時だった。
502 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:41:33.14 ID:DXxvvhP2o
まるで石像を倒してしまったかの如く無機的な動きで、凛が地に散った。
「凛!」
Pがカメラなど眼中にない様相でステージへ駆け寄った。生放送ではないのが救いだった。
顔を覗き込むと、意識はあるが双眸の焦点はあまり定まっておらず、皮膚は白いを通り越して土気色に、唇は青紫へと変色している。
それでも自らの状態を知覚できていないのか、瞳にはたくさんの疑問符が浮かんでいるように見えた。
なんで自分は歌っているはずなのにプロデューサーがいるのか? と。
503 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:42:09.05 ID:DXxvvhP2o
額や首筋に手を当てると、恐ろしいまでに温度を感じない。
「貧血か」
長い髪をアップに結っていたのは、完全な偶然とは云え不幸中の幸いだった。
もしこうしていなければ、倒れた際の勢いで頭部を固い床に強打していたはずだ。
そうなったら素人は手出しできず、救急隊が担架を運んでくるまで手をこまぬいて見守ることしかできなかっただろう。
504 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:42:52.90 ID:DXxvvhP2o
Pが凛の耳元で「すまんが抱えるぞ」と断ってから、華奢な身体と冷たい地面との間に腕を滑り込ませた。
上体に力を入れれば、ふわりと難なく凛は持ち上がる。
羽根のように軽い体躯だった。
Pが立ち上がると、凛が持つマイクは地球の引力に逆らえず手指から零れ、ゴトンと落ちる音をスピーカーが増幅し、妙に響き渡らせる。
いわゆる“お姫様抱っこ”の格好だが、喜んだり茶化したりできる状況ではなかった。
再度凛の様子を覗き込めば、意識が徐々に消失しつつあり、されど口許だけは歌うために動き続けている。
それも楽屋へ戻りつく頃には止まってしまった。
505 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:44:07.73 ID:DXxvvhP2o
===
凛は純白の世界にいた。
何もかもが白くて、自分が今どのような状況に置かれているのか判らなかった。
白以外の光もなければ音もない。匂いも触覚もない。
今、自分は歩いているのか、走っているのか、いや、もしかしたら浮遊しているのかさえ判らなかった。
「落ち着いて、周りを見渡そう」
自らに云い聞かせるようにして目を凝らす。
506 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:53:44.23 ID:DXxvvhP2o
そのうちに、何か輪郭が不明瞭なものがぼうっと浮かび上がる。
レンズのピントを合わせるように徐々に凝縮してゆくと、それは凛だった。
少しだけ幼さの残る凛。
黒いシンプルなゴシック調ドレスは、今から思えば極低予算で頑張っていたと思い出す。
「デビューしたときの私、か……」
15歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。
507 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:54:12.03 ID:DXxvvhP2o
渋谷凛+
https://i.imgur.com/9laxFF0.jpg
508 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:54:48.89 ID:DXxvvhP2o
次に浮かんだのは、ベースを肩に掛ける凛だった。
「CDを出したときの私」
16歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。
続いて、ガラスの靴を手に持つ凛。
「シンデレラガールになったときの私」
18歳の凛は、また輪郭が崩れ、凛の身体へと重なるように近づいてきて消えた。
509 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:55:16.27 ID:DXxvvhP2o
[CDデビュー] 渋谷凛+
https://i.imgur.com/6KsgEzH.jpg
[アニバーサリープリンセス] 渋谷凛
https://i.imgur.com/GTqQ7Pw.jpg
510 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:56:01.63 ID:DXxvvhP2o
その後も、これまでの凛の軌跡が浮かんでは吸収され消えてゆく。
紅白出場の際の衣装を纏った22歳の凛までそれが繰り返された。
「23歳の私だと何が浮かぶんだろうね」
途中から、次は何が浮かび出てくるのか、ほんの少し楽しみになっていた凛の前に、再び何かが浮かび上がる。
――それは、凛ではなかった。
「栗栖……」
511 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:56:29.94 ID:DXxvvhP2o
未来は、過去を積み重ねてゆくと云うこと。
過去の連続が現在となり、そして未来へとつながってゆく。
未来の土台となるのは、過去である。
これまで浮かんでは消えていったもの、それは、自らの歩んできた軌跡であり、栗栖もまた、凛にとっての軌跡だった。
確かに、その辿ったレールが正しいものだったかどうかはわからない。
むしろ、決して正解ではなかったのだろう。
それでも、栗栖を好いた凛の感情は、その時こそは本物だったのだ。
512 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/07(金) 23:57:46.83 ID:DXxvvhP2o
「ごめんね、栗栖」
凛の贖いの言葉に、栗栖は柔らかく微笑んだ気がした。
これまでの凛同様に輪郭が崩れ、こちらへと重なるように近づいてきて消えゆく。
白い靄が晴れてゆく。世界に色が少しずつ戻ってくるように感じる。
――っかりしろ……りん……凛、凛、大丈夫か、凛
霞の向こうで、Pがこちらを見ている。
513 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:01:36.24 ID:YE7fR/gko
「う……ここ、は……? 私……いったい……」
急速に様々な感覚が戻ってくる。
目に入ってくるのは、楽屋の光景だった。
視界の端に、焦りの色を隠さずに覗き込むPの姿が映り込む。
「凛、目が覚めたか!」
よかった、と心の底からPは大きな息を吐いた。
514 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:02:29.41 ID:YE7fR/gko
身を起こすと、寒いような、暑いような、相反する感覚が全身から首筋へぞわぞわと上がってくる。
一度大きな身震いをして、自らの置かれた状況を見た。
「あれ、私……ステージに出てなかったっけ……」
記憶違いか、夢でも見ていたのか。
Pは首を横に振って、「ステージで倒れたんだよ。たぶん貧血だ」と、凛の額に手を当てて体温を診る。
「あー……ごめん……」
朧げに記憶が戻ってきた。
この背水の状況に於いて、なお失態を晒してしまったのかと、凛は肩を落とした。
515 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:04:13.45 ID:YE7fR/gko
「いいんだよ。リカバリーは俺に任せとけ。白湯を用意したから、とりあえず飲んでおくといい」
Pに渡されたカップを両手で持ち、ゆっくりと飲む。
食道を温めながら降りてゆく様子が、自身ではっきりわかった。
ありがとう、と静かに云って、何度か口をつけた。
「私……倒れている間、なんだか不思議な夢を見ていた気がする」
「不思議な夢?」
516 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:04:45.25 ID:YE7fR/gko
「私の、これまで歩んできた道を、良くも悪くも再確認させられるような……」
最後にプロデューサーが迎えに来てくれたんだ、と凛は弱々しく笑った。
「ごめんね、心配かけて。少し血圧を上げたら、もう一回撮り直せると思うから――」
頑張るよ、と言葉を続けようとしたところで、不意に何かが溢れ出す感覚がした。
517 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:05:42.93 ID:YE7fR/gko
喉元がキュッと絞まるような。
それでいて、鳩尾は中から押し上げる圧力を掛けてきた。
Pは、突如として表情を変えた凛の様子に、只事ではないと直感した。
「どうした、大丈夫か」
すぐさま腰を上げて問うが、凛に返答する余裕はない。
喉と口を手で押さえて首を微かに振るので、急いで抱きかかえて手洗いに運び込む。
518 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 00:06:47.37 ID:YE7fR/gko
すぐさま、凛がえずいた。
今しがた飲んだばかりの白湯ごと、胃の中身が逆流する。
「倒れた際に実は頭を打ってたのかも知れないな……凛、大丈夫か、頭は痛いのか?!」
背中を擦りながら問うPに、凛はかぶりを振って再度吐いた。
呼吸がままならない。空気を求めて喘ぐも、それを鳩尾の締め付けが上書きしてくる。
不快感を排出せむとする身体の硬直を、一瞬息を吸って得られる酸素だけで支えなければならない。
ただでさえ貧血で体力を削ったのに、1回1回が途方もなく長い時間に思えた。
やがて酸欠に敗北した凛の意識と身体は、力なく崩れ落ちた。
519 :
◆SHIBURINzgLf
[sage !蒼_res]:2020/08/08(土) 00:07:26.36 ID:YE7fR/gko
今日はここまで
520 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:25:04.55 ID:YE7fR/gko
・・・・・・
覚醒すると、凛の目にはクリーム色の天井が映った。
虫食いのような、皺の寄った和紙のような特徴あるトラバーチン模様の石膏ボードをしばらく見つめたままで、自らの置かれた状態を理解すべく記憶を引き出そうとする。
さっきまでステージに上がって歌っていたはず――いや、違う。その後ステージで倒れ、楽屋へ運ばれたのだった。
たしか、貧血と云われた気がする。だから、落ち着かせるために、体温を上げるために白湯を呑んだはずだ。
つまりここは楽屋か、と凛は訝しんだ。
521 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:26:08.10 ID:YE7fR/gko
その割には違和感がある。
メイクをするためのどぎつい明かりや大きな鏡が視界の中に全く入ってこないし、テレビ局スタッフの、指示をやり取りする大声の会話が聞こえてこない。
そもそも、自分は今ベッドに寝ている。
どうやらこの場所は、天井の雰囲気は似ているが楽屋ではないらしい。
目が覚めたら別の場所にいるとは、まるでこれはテレポーテーションやタイムリープをしたようではないか。
凛は目線と顔を動かして、ここがどこなのかを知ろうとした。
522 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:27:00.86 ID:YE7fR/gko
「あ」
すぐにその必要はないとわかった。左腕には点滴の管がつながれていて、Pがベッドの隣にいたからだ。搬送されたのだと理解した。
「プロデューサー……」
「……よかった、目が覚めたか」
Pは、凛が身じろぐ音と微かに問う声で、顔を挙げた。
「ここは……病院?」
「ああ。楽屋で再度倒れたから、救急車を呼んだんだ」
523 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:27:59.24 ID:YE7fR/gko
「えーと、つまり……私は今日、2回連続で倒れたんだね?」
体調のセルフマネジメントは基本中の基本だと云うのに。凛はベッドに沈む身体を更に沈めて嘆息した。
「……ごめん、大ごとにしちゃって」
「いいんだ。意識を失っている間に色々と精密検査をしてもらったよ」
凛自身は、一瞬だけ目を閉じて再度開けたら病室にいた、と云う感覚だった。しかし実際には長いこと電源が落ちていたらしい。
なるほど、皮膚をよく見れば、倒れている患者から無理矢理採血したのであろう痣が出来ていた。
524 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:30:01.29 ID:YE7fR/gko
「結果、身体に異常はないから安心していい」
あれほど体調が悪かった割には、幸いにも病気ではなかったらしい。
過労に負けないよう、栄養摂取にもう少し気を付けるべきだろうか。
どのように改善すべきか思考する中、Pが下を向いて黙りこくっているので、凛は訝しんだ。
じっと見つめても、何かを考え込むように顔を伏せている。
どうにも、異常なしと云う本来なら歓迎すべき話の内容と、様子の重苦しさが一致しなくて妙だ。
「……まだ続きがあるんじゃないの? その様子」
凛の問いに意を決したPは、軽く息を吐いた。
525 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:30:50.13 ID:YE7fR/gko
「検査をしてもらったからこそ、わかったこともあるんだ」
顔を挙げて凛を見る。その表情は硬かった。
「……妊娠。2箇月あたりだろう、って」
凛は、しばらく眼をぱちぱちと瞬かせた。
Pの言葉が、自分の状況と紐づけられなかったのだ。
「……え?」
526 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:31:37.98 ID:YE7fR/gko
まさか。
これ以上堕ちることはない、そう思っていたのに、まだまだ下はあったようだ。
収録中に倒れ、あまつさえそれが悪阻―つわり―のせいだったと?
「……そんな。いくら私がこれまで男女の機会がなかったと云っても、避妊の知識くらいはちゃんと持ってるし、しっかり実践したはずだよ。栗栖だってそこはきちんとしてた」
15歳でデビューして以来、アイドルになったからこそ、この身体を男と交わらせることはしてこなかった。
たとえ齢23になるまで生娘だった身でも、アイドルと云う、或る意味で肉体を異性向けの仕事道具とする以上、万一に備える意味でも性知識は適切に学んでいた。
527 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:32:20.96 ID:YE7fR/gko
栗栖とて、状況は同じ、充分に承知していたはずだ。まぐわう際には、毎度々々避妊具をしかと装着していた。
俄かには認められない事象を否定したくて、これまでの努力を必死で訴える。
だが、血液検査をした科学的なデータの裏付けがある。身籠っている事実を直視しなければならないのだ。
そのうち、凛はもはや何も二の句を継げなくなった。
看護師が終わった点滴を回収しにくるまで、病室に掲げられた秒針の音だけが響き続けた。
528 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:32:56.57 ID:YE7fR/gko
===
「いったい……いつ……どこで……」
凛はリビングで顔を覆っていた。
点滴が完了すれば、身体に異常のない凛が病院にいる道理などない。
Pに自宅まで送ってもらい、せめて落ち着こうと二人分の緑茶を淹れたところ。
テーブルの対面に座るPは、湯飲みを両手で包み込み、深い緑を見つめたままだ。
529 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:33:55.98 ID:YE7fR/gko
帰る道すがら、Pに連れ添ってもらって極秘裏に婦人科を受診すると、腹部超音波エコーの白黒画面に表示される胎嚢が、しっかり確認できた。
これで確定だ。
トップアイドル渋谷凛は、子を孕んだのだ。
「おめでとうございます。正常に育っています。7週ですね」と云う医師の言葉が、ずっと脳内をこだましている。
530 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:34:53.19 ID:YE7fR/gko
2ヶ月前は何をしていた? 栗栖との関係が終わりかけていた頃の話だ、精神の不調でセックスの頻度は確かに高かったが――
「……もしかして」
最も精神が狂っていた頃に、捨て鉢になってハーブをキメながら狂乱的な交接をした記憶がうっすらと浮かぶ。
あの時は口を犯されていた微かな覚えしかない。
しかし、最も深くキマっていたときにどのような行為をしたのだ? どんな求め方をしたのだ?
栗栖にも効いていたはずだから、避妊のことを考える余裕などなかったのではないか。
眼を見開いて表情を蒼白にした様子を見て、Pは凛に心当たりが浮かんだことを察した。
531 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:35:43.94 ID:YE7fR/gko
「私、さすがにもう、ツクヨミには……いられないね」
凛は俯いて、深く息を吐き出した。
Pが一瞬だけ逡巡してから、口を開く。
「……既に田嶋さんと話は済ませてある。八馬口さんの件もだいぶ落ち着いてきたし、遠家さんに替わってもらう方向で進んでる」
「そう……ありがとう」
532 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:36:51.01 ID:YE7fR/gko
凛は、慚愧や後悔、感謝など様々な想いを一言に載せて、震える手で茶を一口飲んだ。
呼吸も、手と同様に震えていた。
「……うっ」
茶すらも受け付けない胃がすぐさま反乱を起こし、たまらずトイレへ駆け込む。
Pが「大丈夫か、大丈夫か」と必死で背中を擦ってくれるのが申し訳なくて、惨めで、身の置き所がなかった。
533 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:37:41.65 ID:YE7fR/gko
嘔吐が落ち着くと、凛は、新しく芽吹かむとする存在を――自らの下腹部を見た。
「この……このせいで……」
視線を鋭くして、よろよろと壁に手をつきながら台所へ向かう。
かつて栗栖からもらった包丁を取り出して、力強く逆手に握り、手を振り上げた。
「おい、やめろ!」
凛の意図を理解したPが慌てて抑えつける。
534 :
◆SHIBURINzgLf
[saga]:2020/08/08(土) 22:38:36.92 ID:YE7fR/gko
「莫迦! 自分の腹に刃を突き立てる奴があるか!」
「この包丁なら切れ味いいから! 一回突き立てればすぐに済むから! 一回刺すだけなら私は死なないから!」
凛は錯乱して、掴まれた手を振り払おうと身を捩りながら叫んだ。
Pは無理矢理に刃物を毟り取って、部屋の反対側に投げ捨てる。鈍い光を反射しながら、ゆっくりと放物線を描いた。
凛は、がくりとうなだれて、床にへたり込んだ。
すぐに思い直したように顔を挙げ、「じゃあ、今すぐ中絶を――」とPの腰に縋りついて云う。さめざめと泪が溢れている。
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