渋谷凛「愛は夢の中に」

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236 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:52:59.79 ID:ZxKlcvjDo
きょろきょろと見回すうちに、凛の肩越しに気になるものがあったようで「おっ」と独り言つ声が漏れる。

おばちゃんが聞き逃さなかった。

「あなた、これ気になりますか。よくわかりましたね、一本目にこれを見定めるなんて」

柔和に笑って、「どれでも好きに弾いていいですよ」と云うので、近くにいた凛が代わりに取った。

「あ、Eシリアルだこれ」

「マジかよ!?」

ネックの製造番号を見て呟くと、即座に栗栖が叫んだ。
237 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:54:02.80 ID:ZxKlcvjDo
「そう、フェンダージャパン、86年のフジゲン製です」

音の鳴りや本体の品質が高く、またコストパフォーマンスが優れていることから、中古市場で常に人気の高いシリーズだ。

試奏すると艶やかで伸びのある気持ちの良い音がした。それでいて破格に安い。

「あちらにはマツモクのもありますよ。そのEシリアルよりは少し高価ですけど、出音もいいです。
とはいえこの年代の日本製は本当によく出来ているので、どちらを選んでも幸せになれるわね」

フジゲンもマツモクも共に松本近郊のギター製造メーカーだ。正確に云えば、マツモクは今はもうない。
238 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:55:10.82 ID:ZxKlcvjDo
栗栖が2本目にマツモク製を試し弾きしながら頷く。「やべえわ、イイ音鳴るし何より弾きやすい」と感嘆の息を吐く。

「そうでしょう。その時代のものはネックが特に素晴らしくて。中でもマツモクのは最高級と云われていたものよ。いい木が使われています」

栗栖から「鳴らしてみる?」と渡されたので、凛は専門外ながらも絃を弾いてみた。

調律方法はギターもベースも同じだから、全く音を出せないわけではない。

「うわ。なんかすごく馴染む気がする。新しい楽器を持った時の違和感が全然ない」

凛は驚いた。自らのコンコードを演奏した時とほぼ変わらないフィーリングで指を運ぶことが可能だったのだ。
239 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:55:49.94 ID:ZxKlcvjDo
「それはきっと凛ちゃんの使っているアトランシアと源流が同じだからでしょうね。
あそこはマツモクの職人が独立して作った工房ですから。あのベースは本当にいいものですよ」

歴戦の猛者でさえも絶賛する楽器を、当時の何もわからない小娘だった自分に譲ったPの行動が、改めて型破りであることを凛は感じた。

これで凛がコンコードを活用する生活になっていなかったらどうしたのだろうか。

それともそんな可能性を微塵も考えず、ベーシストとして大成すると確信していたのだろうか。

「あなたは幸せ者ね、限界まで末永く使い倒しなさいな」とおばちゃんが優しい目をして商売っ気なく笑った。
240 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:56:49.53 ID:ZxKlcvjDo

「――勢いって怖いなぁ」

30分ほどのち、凛と栗栖は近くの公園のブランコにそれぞれ座っていた。

住宅街の裏道にひっそり佇む、典型的な地元の遊び場。

すぐ隣には線路が走っているが、間に木々が茂っているので列車の通過はあまり気にならない。

栗栖の右肩には、例のマツモクのギターが背負われ、「やあ」と語り掛けてくるかのようだった。

結局、試奏結果に惚れ込んだ栗栖が、その場で購入を決断し現金一括で自らのものとしたのだ。
241 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:57:44.68 ID:ZxKlcvjDo
「いいんじゃない? 清水の舞台から飛び降りるのって大事だと思うよ」

「だよな。これ、次のレコーディングから早速使おう」

とんでもない掘り出し物をゲットできた、と栗栖は顔を綻ばせた。まるで少年のようだった。

「ギターってさ、演奏家にとっての相棒じゃん? 共に歩む存在と云うかさ。
奏者である俺が上手く弾けなければいい音は出ないし、ギター自身の調子が悪くてもそう。
人馬一体にならなければ最高の結果をファンに届けられない」

値段の多寡ではなく、造りの真贋とそれによる相性の最大化こそが、特に動き回りながら演奏するアイドルバンドには欠かせないと云う。

「コイツをさっき弾いた刻、電気が走った。ギターを始めてから初めての感覚だったよ」

俺もまだまだだな、と栗栖は天を仰いだ。
242 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:58:26.53 ID:ZxKlcvjDo
凛には理解がやや難しかった。既に現在のコンコードが身体の一部みたいになっており、そう云う経験がないからだ。

返す返すも恵まれていたと凛は思った。

デビューシングルのジャケットデザインが楽器をフィーチャーするものでなかったなら、Pからベースを貰わなかったなら、そのベースが身体に合わなかったなら、今の自分はここにいない。

「ギターを始めたきっかけって何かあるの? こないだ、剣道をやってた、って云ってたでしょ。運動部の人ってあまりバンド活動する時間がなさそうなイメージがあるけど」

凛が問うと、栗栖はしばらく何も答えず、足のつま先だけでブランコを前後させた。錆びた鉄鎖が、動き始めに毎度キィキィと鳴る。
243 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/30(木) 23:59:35.98 ID:ZxKlcvjDo
凛は先日の犬の話題の時のやり取りを思い出して、訊き方をしくじったと思った。

「御免、云いにくいならいいんだ」

「いや、どう説明したもんかと考えてただけさ」

謝罪の言葉に栗栖はすぐ反応して、フォローの言葉を入れる。

もうしばらくその状態が続いて、やおら大きく漕ぎ始めた。ブランコ全体が軋んだ。

「きっかけだけで云えば、最初は単なる反抗に過ぎなかったんだと思う。稽古サボってね」
244 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:01:20.88 ID:/6nApN/no
何でもかんでも反権力が格好良いと錯覚する餓鬼な年頃さ――天を仰ぎながら、重力に任せ揺られ続けて云った。

「でも、いざ触ってみるとこれが面白いんだよな。それまで見てきた世界とは何もかもが違ったんだ」

和武道、和芸道が身近だったからこそ、西洋楽器のもたらす衝撃が大きかった。

「親父やお袋から口煩く云われていたのが厭になって、閉塞的な将来像しか描けない武道芸道じゃなくて、ギターに未来を視たわけだ。
ギターに出会うまでは、俺はただの空っぽの人形だったのさ」

「空っぽの人形……」

凛は、まるで自分のことのようだと思った。
245 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:02:57.49 ID:/6nApN/no
好きなこともやりたいこともない、空虚だった中学時代。

高校に入って何かが変わるかと期待したのに、結局いつまでも似たような延長線上に時間が流れ続ける人生。

粋がってピアスを空けたところで、圧倒的なパワーで時間は何事もなく押し流してゆく。凛はあまりにも無力だった。

栗栖が言いなりの人形、凛が無味乾燥な人形と云う僅かな差異があるにせよ、どちらも心が空っぽなのは同じだ。

そんな諦めを抱いていた折、凛はスカウトされて、アイドルと云う熱い世界を知ってしまった。

栗栖はギターのおかげで仲間ができ、アイドルバンドとして民衆に夢を与える存在になれた。
246 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:03:40.22 ID:/6nApN/no
漕いでいたブランコを足でザッと止めて、栗栖が凛へ顔を向ける。その双眸は輝いていた。

「ギターが、俺に新しいフロンティアを見せてくれたんだ」

トップアイドルと云う頂点で邂逅した二人は、ともにシンデレラだった。

「……私たち、境遇は違っても、根っこは同じだね」

凛は、膝の上に座るハナコを撫でながら、自らのスカウトの経緯を掻い摘んだ。

世の中を諦め、空っぽの人形だった15歳の凛が、アイドルの世界を知って、駆け上がってここにいることを。
247 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:04:42.46 ID:/6nApN/no
栗栖は、凛は選ばれしアイドルだと思っていたらしく驚きを以て迎えた。

「そんなに苦労人だったのか……てっきりトップアイドルになるべくしてなったんだとばかり」

「とんでもない。そう云うのは蘭子とかのことを指すんだよ。私は、ただの灰被りが魔法使いに助けてもらってきただけ」

凛は妙に可笑しくなって、肩を揺らした。

凛の微かな笑い声に混じって、傍の生活道路から、下校途中であろう小学校低学年のはしゃぎ声が流れてきた。

間もなく時間切れ、公園を本来の主の手に戻す時が来たようだ。

栗栖が一息吐いてから、すっと腰を上げた。

ブランコから発せられた金属の擦れる音が、このジプシーとの別れを寂しがっているように聞こえた。

「名残惜しいけど、そろそろ行こうか。また渋谷さんの苦労話を聞かせて欲しいな」
248 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:05:14.99 ID:/6nApN/no
「――凛」

「え?」

「周りの目を考えなくていい刻は、凛って呼んで。苗字にさん付けで呼ばれるの、落ち着かないから」

ハナコを膝から地面に降ろして、リードを手に立ち上がり、澄ました笑みで云った。

栗栖が2度頷くのを見てから、「さ、ハナコ、行こう」と促して帰路に就く。

あと1時間もすれば、元の慌ただしいスケジュールに戻る。

この魔法が解けなければいいのに、と凛は郷愁を覚えた。
249 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:06:41.98 ID:/6nApN/no

・・・・・・

夜の乃木公園でのおしゃべりは、乃木坂スタジオでの合同レッスンの開催有無に関わらずされるようになった。

CGプロから2キロ弱、テレビ旭やブーブーエスからなら1キロほどしか距離がなく、収録後など何かの用事のついでにすぐ立ち寄れるのだ。

無論、栗栖もトップアイドルとして多忙だから、双方のタイミングが合うことは中々ないのだが、だからこそ逆に、タイミングが合えば積極的に集い合った。

とは云え長居もおいそれとできないし、話すことと云ったら世間話くらいなもので、やれギターが早速馴染んできただの、美味しいお店を発掘しただの、それこそ高校生の下校時の語らいのような内容だった。
250 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:07:42.09 ID:/6nApN/no
それでも凛にとってはとても新鮮な感覚だった。

思春期に差し掛かって以降、お喋りの相手は事務所の同性ばかり。

このように歳の近い異性との談笑は、夜でありながらカシオペアの『ASAYAKE』がBGMに合致するような初めての経験だった。

強いて挙げればPは比較的歳の近い異性でこそあれ、感覚的には戦友だから甘酸っぱくはない。

凛は、アイドルの渋谷凛としてではなく、初めて、ただの女として異性に接したと云えよう。

凛には、一般的な青春の記憶が存在しない。

彼女自身、アイドルをしてきたことに誇りを持っているし、一般人を羨むと云うわけではないが、喪われた青春を追体験しているのだと思った。
251 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:08:54.76 ID:/6nApN/no

「そうだ、これ、凛に」

ハナコとの散歩から2週間ほどが経った夜、栗栖がギターのソフトケースのポケットから小さな茶色の紙袋を寄越した。

「こないだハナコの散歩を体験させてくれたお礼」

「え、そんないいのに。お礼されるほどじゃないよ」

「いいから。それだけの経験をさせて貰ったんだ。受け取ってくれ。じゃないと俺の気が済まなくてさ」

家の環境から犬を飼うことへの憧れを叶えられなかった栗栖にとって、ハナコとのひと時は値千金だったのだと、恐縮する凛の手を取り袋を握らせた。

「……ありがと。開けても?」

「もちろん」と栗栖は両手で促す。
252 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:10:08.36 ID:/6nApN/no
乾いた紙の音を引き連れて、月長石―ムーンストーン―をあしらったアクセサリが掌へ姿を現した。

ゴールドの細いチェーンが巻かれていて、長さ的にブレスレットのようだった。

人差し指にぶら下げると、石の内部から青白色の仄かな光沢が放出されているような印象を受けた。

「うわ、綺麗。これは……ムーンストーンかな」

凛は左手首に早速据えて掲げる。大きさはぴったりだった。

「ご名答。ツクヨミと掛けてみたんだ」

「ふふっ、洒落っ気あるね、栗栖は」

表や裏からぐるりと360度眺めて、美しさに嘆息する。

普段自分では買わないようなデザインのアクセサリだったので、表現の幅が拡がったのも嬉しい効果だった。

凛はそのまま、しばらくじっと石の柔らかな光を眺め続ける。
253 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:11:22.73 ID:/6nApN/no
会話なく、どれほどの時間が経っただろうか。「ねえ」と石から目を離さずに栗栖へ問い掛ける。

そしてゆっくり振り向いて、静かに息を吸った。

「――これを選んだの、ツクヨミと掛けたことだけが理由なの?」

「……それを面と向かって訊くかなあ」

栗栖の、頬を掻きながらの返答は、凛の持つ思考が肯定されたことを意味していた。
254 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:12:14.72 ID:/6nApN/no
月長石の石言葉、その代弁内容は『恋の予感』或いは『純粋な恋』。

別名を恋の石と呼称されるこの宝石を贈ると云う行為の真意はそこに在る。

凛は、胸の奥が暖かいような擽―くすぐ―ったいような甘さを覚えた。

ああ、たった一人に求めて貰うことってこんなに気持ちいいんだ。

この快美な感覚は、生まれて初めて知る味だった。
255 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:13:00.60 ID:/6nApN/no
いっそ誘―いざな―いに身を任せて揺蕩―たゆた―いたい衝動に駆られたが、すんでの所で押し止め、安堵の一息を吐いた。

「……だけど、栗栖も私もアイドルだからね、どうしようか」

恋愛など御法度である。云うまでもない。

それでも、この胸の高鳴りは無理矢理圧し潰して閉じ込めておくのは到底難しいのも事実だった。

「もちろん、答えは今すぐ出す必要はないと思う。俺は、今夜のところはこの意思表示ができただけで充分さ」

晴れ晴れとした栗栖の言葉に、凛は何も云わずに微笑んで、ゆっくりと頷いた。


===
256 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:13:31.08 ID:/6nApN/no




Hey You
https://www.youtube.com/watch?v=2MOvuBFF4_Q



257 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:14:00.81 ID:/6nApN/no
――懐かしのスキャットマン特集、続いては95年12月リリースのナンバー、『Hey You』これは特に国外に於いて人気の高い曲で、スキャットマン・ジョンが過去の彼自身に向けて歌ったものとされ……

珍しく第一課の執務フロアにFMラジオが流れている。

パソコン内ジュークボックスに気分と合うアルバムが見当たらない時の、Pの代替手段だった。

凛はスピーカーが歌う楽曲に合わせて即興でベースを沿わせた。

楽譜を見るだけでは血肉にできないアドリブ力を鍛えるのに効果的なトレーニング法だ。

自らの音楽プレーヤーに入っている曲では、脳味噌が憶えてしまっているので効果がさほど期待できない。

どんなトラックがオンエアされるかわからないFM番組は、この練習手法にうってつけだった。
258 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:15:37.84 ID:/6nApN/no
「やるじゃん。巧いもんだね」

つかさがニヤリと口角を上げて凛の演奏を見つめた。隣ではジュニがダンサブルなビートに合わせて身体が小さく揺れている。

Pチームのアイドルが第一課スペースに寄り集まっていた。
とは云え全員に招集が掛けられたわけではなく、たまたまレッスン前の谷間の時間が重なったのである。

意外にもテクノやダンスミュージックはスラップベースと相性が良い。

左手と右手が各々有機的に舞い、その複合が紡ぎ出す太い音のリズムが、つかさとジュニの――そして何より凛自身の聴覚神経を興奮させていた。
259 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:17:17.07 ID:/6nApN/no
――メイク・アバウト・フェイス メイク・ア・ターナラウンド メイク・ア・ユータンナウ
――パララ ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……

サビを越えて、特徴的なスキャットがオーバーラップする。意味のない言葉の羅列なのに、すっと耳に入ってくるのはまるで魔法のようだった。

「つかさの云う通りだな、凛は随分と上達したもんだ――」

曲の前半が一段落したタイミングで、Pが自らの机から移動して、よっこいせと凛の向かいに腰を下ろす。

「プロのベーシストからも一目置かれる存在にまでなったもんな、そのコンコードも喜んでるよ」

凛は手許の指板を見ながら弾いていた視線をPに向けて、「プロデューサー、作業に詰まってサボり?」と笑った。

「小休憩だよ小休憩。稟議書地獄は精神が疲れて仕方ない」

凛の即興リサイタルで回復をするのだとPはソファに手足を放り投げた。
260 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:22:06.13 ID:/6nApN/no
今『Hey You』は最も盛り上がる長い間奏の特別スキャットシーンに差し掛かっている。

凛はノリを上げて、ハイポジションで速弾きを繰り出した。

わざとキメ顔もするものだから、つかさが手を叩いて笑う。

「おーおーこりゃブラーバっしょ」

イタリア語の発音で称賛を投げ掛けると、ふと高速で左へ右へと反復する左手首に、青白色の石をあしらった見慣れないブレスレットが巻かれていることに気付いた。

「お、いいね。それ、ムーンストーンか」
261 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:22:46.75 ID:/6nApN/no
「うん、綺麗で可愛いでしょ? お守りを兼ねてね」

「普段の凛からはちょっと違ったイメージの意匠だな。新開拓、グッドだね。一流は常にフロンティアスピリッツを持たねーとな」

つかさが腕を組んで「うんうん」と頷く。そのまま腕時計を見て、ゆっくり席を立った。

「よし、そろそろアタシらは行くわ。ダンスレッスンだし、早めに準備しとかないとな。行こう、ジュニ」

「わかった。凛、またね」

今日の課題は何だったっけ? ジャイブだよ、足技多いから楽しみ。うわーマジか、あれ絶対ヒールで靴擦れ起こすんだよな……。

ドアの向こうへ二人の会話が消えてゆく。
262 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:23:45.41 ID:/6nApN/no
『Hey You』も間もなく曲が終わろうとしていた。

フェードアウトしてゆくアウトロは、スマトラ産のコーヒーの余韻を思わせる、ほろ苦さと清涼な喉越しだった。
それはまるで砂漠に降る小雨のようでもあった。

――Make about face, make a turn around, make a U-Turn now.

――ピッパッパロッピッパッパッパロッ ピッパッパロッピッパッパッパロッ……
――ヒア・イティズ…… ヒア・イッティズ…… ヘイ ヘイユー……
263 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:24:26.14 ID:/6nApN/no
この後の凛はボイストレーニングだ。

凛はベースをケースに仕舞って、ちらりと目に入るブレスレットを撫でた。

「じゃ、私も行ってくる」

そう声を掛けると、Pは相変わらず手足を脱力させながら「おう、行っといで」とコクリと顎を引いた。

短いリサイタル休憩では回復しきれなかったのか、僅かに寂寥たる表情で「俺も稟議書やっつけるかぁ」と独り言つ。

この日のレッスンでは、最も歳が近いトレーナーの青木慶からも、新しいブレスレットを褒められた。
264 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:27:05.25 ID:/6nApN/no

Pは手帖に挟んだ写真を眺めていた。

100平方センチあまりのカンバスの中で、人が二人、微笑んでいる。

手に持つそれは丁寧に扱われており、経年の割には綺麗な状態を維持してはいるものの、全体がくたびれたり縁に皺が生じてしまうのは避けられない。

それでもなお、額に飾るのではなく、いつでも胸ポケットに入れておきたかった。

見るからに着慣れていないと判るスーツ姿の自分の横に立っているのは、長身痩躯で、碧い眼と腰上まで伸びる黒い髪、感情は読みにくいが整った面立ちを持つ、今より僅かに幼さを感じる少女。

初めて出会い、初めて担当し、初めてデビューさせ、初めてCDを出した、Pにとっても会社にとっても初めてづくしのアイドルだった。
265 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:27:54.23 ID:/6nApN/no
その少女が、これまたCGプロのアイドルとして初めて、心の底に眠っていた“オンナ”を認識し始めている。

あのブレスレットは凛が自分で買ったものではないと、Pは察していた。

凛はああ見えてだいぶ趣味が保守的だから、自分から進んで買うタイプのアクセサリには見えなかった。

何より、手首へちらちらと視線を送る所作や、撫でた際の無意識下の表情が、満更でもない相手からの贈り物であることを雄弁に物語っている。

さて、どうしたものか。

無論、アイドルとして色恋沙汰は回避して欲しいものだが――

しかし人として当然持ち得るその感情を没収してよいのだろうか。
266 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 00:28:46.13 ID:/6nApN/no
ただでさえ一生に一度しかない10代の多感な年頃をアイドル活動で埋め尽くし、人並みの青春を謳歌する機会を奪い取ったと云うのに。

彼女は、芸能界の仕事は好きだと云っていたし、その生き様に誇りを持っているとも云っていた。

それでも、だからといって世の中を充分に知らぬ年端の少女の人生を代償とし、アイドルの輝きへと引き換えた負い目は消えないのだ。

プロデューサーと云う人間に刻まれた業。死んだらきっと地獄へ墜ちるのだろうと思う。

凛の希望は叶えてやりたい。

それこそが、渋谷凛担当プロデューサーとしてのけじめのつけ方だとPは考えていた。
267 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/31(金) 00:29:29.49 ID:/6nApN/no

今日はここまで
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/31(金) 06:01:50.10 ID:Ix2DjEmDO
たんおつ



パパラッチの出番はそろそろかな?

つか、何故J型ハークを?よく見るの?(こちらは岐阜基地と小牧基地が近いです)
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/31(金) 22:06:57.94 ID:/6nApN/no
>>268
首都圏で、米軍基地があって、C-130Jがいるところ→ つまり横田近辺がこのシーンの舞台ってわけです。
270 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:08:39.07 ID:/6nApN/no

・・・・・・

例年になく多い台風は、災害の中心地に選ばれると云う不運に見舞われさえしなければ、空をモップ掛けして去ってゆく掃除機なのだろう。

台風一過の東京は雲一つない快晴で、嵐の運んできた南風で気温は高いものの、湿度は低く過ごしやすい。

東日本に襲来した24号は各地の気象記録を塗り替えて、俊足で駆け抜けていった。

東京への到達は深夜で生活時間帯からは外れたが、昨夜は早いうちから公共交通の計画運休が実施され、泊りがけのロケが中止に追い込まれてしまった。

ゆえに丸一日たっぷりと棚から牡丹餅の休日である。

それでいて天気が良いのだから、ご機嫌麗しきこと甚だしいのは当然。

電車のドアが開けば、金属に遮られていた視界の拡がりと共に世界が輝いて見えるのだ。
271 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:10:35.84 ID:/6nApN/no


「――え? 日帰りでツーリング?」

『そう、今日明日の収録がバラシになっちゃってさ、もし凛の時間があるならどうかなと思って。この分なら今夜中に天気回復しそうだし』

栗栖の声は、電波状態がやや悪いのか、少しくぐもって聞こえた。会話の向こう側から、風に揺らされた電線の鳴く音がしばしば聞こえてくる。

曰く、栗栖の方は東海方面での地方ロケがあったそうで、移動日程などを考慮すると根幹のリスケとなったらしい。

テレビをちらり見遣ると今まさに台風は愛知と岐阜にかけて我が物顔で闊歩している最中のようで、名古屋発の中継では大規模停電の情報などが洪水の如く流れてくる。
272 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:11:16.74 ID:/6nApN/no
リスケは賢明の――と云うよりは当然の判断だ。

幸いか、夜が明けるまでには東北太平洋側へ抜け去る予測で、中継から天気予報へと画面が切り替わると、明日の天気は晴れマークがずらりと並んでいる。

「ちょうど私も泊りのロケがなくなったんだ。明日は久しぶりに何も予定の入らない日だよ」

凛の返答に『俺とほとんど同じ状況だな』と栗栖の声音が弾んだ。

「でも私、バイクなんて乗ったことないよ、もちろん免許だって。さっぱりわからないことだらけなんだけど……」
273 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:11:56.04 ID:/6nApN/no
『そこは心配ないさ、タンデムだから凛は自転車と同じ感覚で大丈夫。丈夫な生地のロングパンツと、ヒールじゃなくてスニーカー系の靴を履いておいてくれればそれだけでいい』

何より、と軽く咳払いをする。

『ライダーの格好をしていれば二人で出歩いてもよもやアイドルと思われないし、走ってる最中なんて凝視されることもない。お忍びには最適なのさ』

「あぁ、なるほど。そうだね、ヘルメットも被るしね」

凛は自らがバイクに乗っているところを空想して頷いた。

二人で遊園地だとか温泉地などでは万一気付かれたときに到底言い訳できないだろう? と栗栖が茶化して云うので、凛は「たしかに」と相槌の苦笑をした。

どうやら、二人そろってのオフにできそうだ。

「うん、うん……わかった、じゃあ10時に――」
274 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:13:22.32 ID:/6nApN/no


昨夜の会話を反芻すると、何故だか顔が綻んでしまう。

誤魔化しがてら、やや高くなった空を見上げて、集合場所に指定した駅舎前へ出る。

しんと停まっていた都営バスが、セルモーターの始動するソプラノに続いて重いエンジン音を歌いだした。

横目に歩く凛の背中にわずかな衝撃があり、何事かと振り向こうとすれば「失礼」と会釈を寄越しつつ閉まりかけた折り戸へサラリーマンが駆け込み、箱の中に消えていった。
275 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:14:10.08 ID:/6nApN/no
エンジンの中で大きなビー玉でも転げ回っているのかと思えるほどゴロゴロ唸らせて走り去るそれを見遣り、ぶつかった相手がまさかアイドルだなんて想像だにしていないんだろうな、と柱に軽く寄り掛かる。

芸能人をやっていると認識が薄くなるきらいがあるが、世間の人は、自分が思っているほど他人など気に掛けていないのだ。

たとえそれが有名人であろうとも、変装をしていればただの有象無象と同じ。

その事実に、若干悔しい負けん気の思いもありつつ、どこか少しほっと安堵する気持ちもあって、凛は少しずれた白いハンチング帽の位置を手慰みにいじった。
276 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:14:58.95 ID:/6nApN/no
ふと、駅前ロータリーに赤く鮮やかな二輪車が滑り込んでくるのが見えた。

サーキットで見かけるような、先端から中心部にかけて外殻で覆った造りの、シャープなシルエット。

凛の方を向いて片手を挙げるので、間違いなく待ち合わせの相手だ。

小走りで近寄ると、サイドスタンドを出して停め、ゆっくりと降りてくる。

体重から解放された車体が揺れ、VFRと書かれた銀色のエンブレムが太陽を反射して綺麗に光った。
277 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:15:57.20 ID:/6nApN/no
栗栖がフルフェイスヘルメットの目元のシールドを上へ開ける。

「おはよう。ごめん、待ったか?」

「ううん、私も今ちょうど来たところだから」

使い古された定型句のやり取り。爆発すればいい。

凛は栗栖の足先から頭までまじまじと眺めた。

ライディングブーツやグローブ、ジャケット、そして何よりヘルメットという全身装備のせいで、栗栖だとは一見して判別できない。
278 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:17:15.65 ID:/6nApN/no
「なんか、バイク乗る人ってみんな似た特殊な恰好だよね」

「車と違って生身を外に曝すわけだからね。
丈夫な長袖長ズボンは基本だし、身を守る装備をきちんと着ける真面目なライダーはどうしても見た目が似通ってくるもんさ」

「私……昨夜云われたパンツと靴以外は全然その辺を考えない服で来てるんだけど」

「それは問題ない。凛用の装備は俺が持ってきた。糠に漬けても抜かりないのが知多栗栖ってことよ」

ベキリの相棒の名口癖だよな――と云いながらバッグをごそごそ漁り、「はいこれ」とジャケットやグローブ、ヘルメットなどを寄越してくる。

肘当てに膝当て、髪の毛を纏めるヘアゴムまで用意がある。
279 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:18:03.81 ID:/6nApN/no
伊達眼鏡や帽子を外し、代わりに頭部をすっぽり覆うヘルメットをかぶれば、中にはインカムがあって無線でスムーズに会話できる状態になっていた。

「準備良すぎなんだけど……これ、絶対に色々な女をバイクの後ろに乗せ慣れてるでしょ」

「云い掛かりだ! 凛を乗せたいなと思って準備したに決まってるだろう」

栗栖の必死の弁解に凛はジト目で応える。どう説明したものかあたふたするのをしばらく見て、「ふふっ、冗談だよ」と肩を揺らした。

説明の真偽のほどは果たして本人のみぞ知るところだが、仮にたとえ方便であったとしても、自らのために準備したと伝えられれば嬉しくなるのが女心と云うものだ。

ああ、この人は自分の時間を私のために使ってくれたんだ、と。
280 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:19:01.05 ID:/6nApN/no
バイクのバックミラーを覗き込むと、そこにはすっかりライダー装備となった凛が映り込む。

栗栖と並べば、中身はまるで誰だかわからない、ただのペアツアラーだった。

「ホントこれ、お忍びには持ってこいだね。私が渋谷凛だなんて誰も思わないよ」

腕を組んで満足そうに頷く。

「ところで、今日はどこへ行くの? なんかとても速そうなバイクだけど」

赤い車体を撫でながら凛が問うた。
281 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:19:57.40 ID:/6nApN/no
「今日は山も海も堪能できるところへ行こうかと思ってる。
コイツは見た目レーシーだけど実は二人で乗りやすいツアラーなんだ。サーキットだけじゃなくて色々なところへ行ける」

白バイにもよく使われてるから街中で見かける機会も多いと思う、と栗栖は付け加えた。

「ふぅん、山も海もなんて贅沢な欲張りコースだね。詳しい内容は聞かないでおくよ、楽しみにしてる」

任せとけ、と云って栗栖がVFRに跨った。

続いて凛が片側のタンデムステップに足を掛け、栗栖にレクチャーを受けつつするりと後席へ滑り乗る。

後ろに座る心得のいろはを教わってから、「よし、じゃあ行こうか」と云う栗栖に頷く。

頭の重心が高くなっているせいで、凛のヘルメットが勢い余って栗栖の背中を殴りつけた。

エンジンイグニッションの咆哮と二人の大きな笑いが混じり合い、それらを取り残すようなスムーズさでロータリーをするする抜け出てゆく。
282 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:21:26.17 ID:/6nApN/no
そこには新しい世界が拡がっていた。

眼、耳、鼻、肌――凛の感覚器すべてにダイレクトな信号が送られてくる。

路の真ん中を一人で自在に飛んでいるような視点は、まるで自分が世界の支配者になったかの如き自由さを覚え――

身体を擦るほどの圧力を持つ風には、普段意識しない空気の威力と、排気ガスと云う人類の匂いを実感する。

車速に応じて変化するエンジンの音と振動は、じきに風切り音へとオーバーラップしてゆく。

太古より馬に乗って移動してきた我々人類の遺伝子に刻まれた歓喜の脳内麻薬が、ドバドバと凛の全身を沸騰させている。
283 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:22:01.37 ID:/6nApN/no
しばらく交通量の多い街道を走ると、VFRは「第三京浜」と書かれたインターチェンジへの進入路へ機体を振った。

一気に幅員の拡大した道路と、それまでの比ではない速さで瞬く間に後方へ過ぎ去ってゆく景色は、これまでの人生で全く未知の経験だった。

緑色の標識に書かれた地名が、順々に馴染みのないものへと変化してゆく。

これまで自動車から何度となく見ているはずのそれらが、箱の中から外に出ただけでこれほどまでに別物へと変わるのか。

「栗栖……すごいね、これ」

凛はため息を吐きながら、惚れ惚れとした声音で呟いた。
284 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:23:39.56 ID:/6nApN/no
「バイクは単なる移動手段なだけじゃなくて、乗ることそのものが楽しみだし、目的なんだよな」

インカムのややノイジーな無線越しの会話も車では味わえない。

凛を包むすべての環境が楽しみを演出していた。

やがてインターチェンジを降りると山中を抜ける坂の多い道となる。

田舎の懐かしい空気を感じる風景を軽快に流す頃には、凛はすっかり後席での体重移動を身に着けていた。

「やっぱアイドルやってるとバランス感覚が磨かれてるんだな」

栗栖が妙に感心して云う。

二人とも身体が資本ゆえ、万一のことを考えると無茶な走り方はできないが、それでも軽快なスロットルワークは操る者も同乗する者も楽しさを最大限に示す。
285 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:29:11.16 ID:/6nApN/no
じきに目先の道路が上りから下り勾配へ切り替わるクレストに差し掛かった。

進むに従い、路面のアスファルトの向こうから、波面が顔を出す。

「あ、海!」

凛が風切り音に負けない強さで叫んだ。

つい先ほどまでトンネルとか斜面とか、緑に包まれた山の中を走っている光景だったのに、目の前に遙かなる大洋が見えるのだ。

「山も海も、って云ってたのはこれだったんだね」

「ご名答。ここからは海沿いを流すよ」

後席の反応に栗栖は満足気だ。スロットルを吹かして、改めてエンジンが艶めかしく啼く。
286 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:30:21.86 ID:/6nApN/no
「Hey Siri, LMFAOのパーティロックアンセムをかけて」

凛は微かな潮の香りを鼻腔に感じながら、寄せては返す波を横目に見ながら、スマートフォンの音声コントロールを起動させた。

操縦する栗栖の代わりに、高揚するツーリングに相応しいBGMを見繕う臨時DJだ。

「おいおいおい俺をスピード違反させる気だな?」

パーティロックアンセムはEDMの代表的ナンバーと云える、鋭いビートの効いた縦ノリで楽しく昂れるトラックだ。

凛の選曲に栗栖が突っ込むので、「捕まっちゃダメだからね」と笑って云った。

ドリルの如く刺激的な電子音の激流が二人を包み込む。
287 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:30:56.87 ID:/6nApN/no




Party Rock Anthem
https://www.youtube.com/watch?v=KQ6zr6kCPj8



288 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:34:35.84 ID:/6nApN/no

――今夜パーティやっちゃうぜ Party rock is in the house tonight
――みんなでトベるぜ Everybody just have a good time
――お前らをキメさせてやるからよ And we gon' make you lose your mind
――みんなでイケるぜ Everybody just have a good time
――待ってるからよ、さあいくぜ! We just wanna see ya... Shake that!
289 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:35:09.78 ID:/6nApN/no
リズムに沿ってバイクが左右にスラロームする。

「ちょっと、振りすぎでしょ、落ちたらどうするの」

そう抗議しつつ、凛の声もはしゃいでいた。

「そうだな、じゃあノるのは横じゃなくて縦にしよう」と首を縦にシェイクする。

一定周期でバイクのフロントフォークが伸び縮みして、凛も追従すると変化量が増大した。

もし機械が話せるなら、凛の代わりにサスペンションから不服申立の声が挙がるだろう。

もちろん性能の良さには折り紙つきだから、乗っている本人たちにしてみれば揺れまくっていることはあまりわからないはずだ。
290 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:37:20.56 ID:/6nApN/no
VFRは、急峻な地形が海に没していく僅かな隙間を縫って敷設された道を進む。

三浦半島は海底が隆起して出来上がった陸地ゆえ、平坦な場所はあまりない。

海岸を走っていても、少し内陸へ入れば山中の様相を呈する。目まぐるしく景色が変わるツーリングルートだ。

しばらく続いた浜辺の景色はいつの間にか鳴りを潜め、斜面が険しさを増すのと比例して市街の空気からのどかな田舎へと変わりつつある。

そうこうしているうちに、エレクトロファンクとハウスを融合させた、重厚なリズムを纏った曲に切り替わった。
291 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:38:06.03 ID:/6nApN/no




Lay Me Down
https://www.youtube.com/watch?v=ISiGtxsN5d0



292 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:39:14.45 ID:/6nApN/no
「お次のナンバーは早世してしまったご存知アヴィーチーのレイ・ミー・ダウン。
これは彼が躍進するきっかけとなったウェイク・ミー・アップと対になるフレーズでありながら、両曲ともに苦悩を描き歌ったものとして――」

凛がラジオで鍛えたMCテクでDJを気取る。

どこか懐かしくも新しく、どこか硬質でありながら柔らかさも兼ね備え、どこか物悲しくもテンションを上げずにはいられない、EDMの真骨頂が海沿いの景色と実にマッチする。

――暗闇に寝そべって Lay me down in darkness 君の見ているものを教えてくれよ Tell me what you see
――愛は心の拠り所なんだ Love is where the heart is
――あなたしか要らないって囁いてくれ Show me I'm the one, tell me I'm the one that you need

耳を撫でる曲を聴きながら大きな橋を渡れば、渡り鳥が羽休めをする場所はもうすぐだ。
293 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:44:45.01 ID:/6nApN/no

===

目の前を、打ち寄せる波が白く解けて飛散し、鼻先を撫でる。

三浦半島の最先端、海が地層を浸食して出来上がった巨大な横穴の前に二人はいた。

近傍の駐車場から15分ほど歩く道のりは、潮風の影響で高く伸びられない植生の木々をくぐったり、或いは急に視界が開けて大海原が辺り一面を占めたりと、退屈しないハイキングだった。

穴の側には「馬の背洞門」と書かれた立て札が掲げられている。台風直後の平日だからか、周囲に他の人影はない。

「不思議だね、削ると云うより……くり抜くように開いてる」

内壁をぐるりと見回して凛が云った。「まったくだ」と栗栖も頷く。
294 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:45:38.28 ID:/6nApN/no
「大正の頃までは、ここを船で通れたらしいな。関東大震災で地面が持ち上がったんだってさ」

これ絶対に当時は大人気のクルーズコースだったよなあ、と今では実現できないことへの若干の羨望を込めて笑う。

「栗栖はよくこんな場所知ってたね」

地方ロケなどでそれなりに全国行脚してきた凛は、それでも尚まだまだ知らない場所がたくさんあるのだと改めて実感する。

「まあツーリングスポットとしてバイク乗りの間では結構メジャーだからね、俺も受け売りばかりだよ」

自らの手柄とせず、素直に認める姿勢に凛は好感を持った。
295 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:46:22.90 ID:/6nApN/no
「私は、そう云ったメジャースポットすらよく知らない状態だからね。これからも色々と教えてくれる? 連れてってくれれば尚良しだね」

「もちろんさ。これからも二人で色んなところに行きたいと思ってる」

凛はリアクションをせず、高く砕ける遠くの波を静かに見遣った。

栗栖も同じ方向を眺め、しばしゆったりと無言の時間が過ぎる。

強弱と緩急をつける潮騒、海鳥の鳴き声、南風が梢を揺らす音。

そう云えば最近意識することが少なかったかもしれない。世界はこんなにも音に満ち溢れていたことを。
296 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:47:43.28 ID:/6nApN/no
「――もし凛がOKなら、の話だけど」

無言の時間を終わらせてしまうのが少し勿体ないと思うような声音で、栗栖が遠慮がちに口を開く。

「波が長い時間をかけてこの自然を作り出したように、俺も凛の心を少しずつでも開けようとしていいかな」

「ふふっ、その許可を乞う必要はないんじゃない?」

2回肩を揺らしてから、凛は風に揺れる髪を右手で掻き上げて栗栖の方を向いた。

「栗栖はもう、私にたくさんの新しい世界を教えてくれてる。私も、もっと知りたいと思うようになってしまってる」
297 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:48:17.28 ID:/6nApN/no
視線を交わらせながら、慎重に一語一語を選んで続ける。

「正直ね、私はこの感情の正体を薄々解ってはいるんだ。
でも認めちゃダメだって、一度認めたらきっと歯止めが利かなくなるって、そう思って敢えて有耶無耶にしてる」

思春期に芸能界へ飛び込んでから、P以外に初めて身近な、そして馬の合う異性が現れた。

恋愛らしい恋愛をしてこなかった彼女にとって、この心地よい暖かさは、あたかもヘロインの如き誘惑に等しいはずだ。

トップアイドルとしてのプロ意識が辛うじて制止しているだけだから、一度そのタガを外してしまったら、決壊するのは自明。

「どうしよう、栗栖。私、どうしたらいい?」

「凛……」
298 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:48:56.89 ID:/6nApN/no
感情の処し方がわからず困惑した表情を浮かべる凛の頬に、栗栖は手を添えた。

顔と顔がゆっくり距離を縮める。

たっぷり10秒ほど時間をかけて、もう、いいかな……と云う脳の白旗に抗えず、凛は瞼を閉じた。

互いの息遣いがはっきりわかるほどに近づく。

凛は、背徳のあまり地球の重力がぐちゃぐちゃになったような、空きっ腹にブランデーを流し込んだような酩酊感を覚え、受け容れる準備を整えた。
299 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:50:41.75 ID:/6nApN/no
その瞬間、栗栖の胸ポケットから大きな着信音が響く。

鼓膜を突き刺すそれに、たまらず二人とも目を見開いて仰け反った。

お互いを見てから、こほん、と栗栖が咳払いをして電話を取り、「はいはいはい、なんか用すか、田嶋さんじゃなかったら電波切るとこでしたよ」と律儀に苦情を申し立てた。

凛は自らの胸に手を当てて、大きく一息を吐く。

「危なかった……」

鼓動の早さのせいですぐ酸素が足りなくなるので、深い呼吸が続く。

田嶋の発話ボタンを押すのがあと2秒遅かったら、きっと口づけを交わしていた。

キスなんてしてはならないと判っているのに、内心どこかでそれを望んでいる――一体どうしたのだ、私の心は。

着信音さまさまだ、とほっと安堵して胸を撫で下ろす。
300 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:51:55.67 ID:/6nApN/no
ところどころ漏れ聞こえてくる会話から、急遽仕事の呼び出しが掛かったようだ。

自分の心の状態も鑑みれば、今日のところはお開きにするのがよいだろう。

全身から力が抜けてしまった上に、冷や汗を強い潮風が拭うので堪らず「くしゅん!」とくしゃみをした。

会話している栗栖の様子を窺うと、だいぶ急いで戻る必要がありそうな印象を受ける。すぐ動けるように、凛は先行して身支度を整えた。

「……ごめん、田嶋さんからの連絡で、急にアポが入っちまったみたいだ。心惜しいけど、今日はもう帰ろうか」

「うん、様子を見てるとそんな感じがしてた。
もしなんだったら、私は三崎口の駅から電車で帰るよ。その方が栗栖も早く戻れるでしょ。私のことは気にしなくていいから」

凛の提案に栗栖は「すまない、恩に着る」と手を合わせ、また埋め合わせをする約束をして、二人は海に別れを告げた。
301 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:52:50.65 ID:/6nApN/no

・・・・・・

三崎口を出た快特列車が、モーターとインバーターの唸りを伴って爆走している。路地裏の超特急と云う異名に違わぬ飛ばし方だ。

先ほど駅で化粧直しをしてからホームに停まっている車輛へ乗り込んでみたら、路線の末端地帯にも拘わらずほぼ席が埋まっている混雑度だった。

ここから都内まで比較的長く乗ることを考えて、銀座や日本橋辺りに用事がありそうな、淑やかな老婦人の隣へと静かに腰を下ろしてある。

横を窺うと、その人は走行の振動に誘われ、眠りの国へと旅立っていた。
302 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:53:55.88 ID:/6nApN/no
ちらりと外を眺めても、車窓は住宅街の中をぐねぐねと抜ける一般的な都市近郊のもので、バイクからの景色とはまるで違う。

しかも快特と云う割には末端地帯は各駅に停車するので、その度に多くの乗客が乗り込んでくる。

凛はそれまでの夢心地から一気に現実世界へと引き戻されたように思えた。

寝てしまおうかとも思ったが、電車が思い切りスピードを出し急加減速をするせいでとてつもない爆音と揺れに見舞われ続けていて、到底眠れる状態ではない。

隣のご婦人は物凄い胆力をしているものだと凛は舌を巻いた。
303 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:54:47.23 ID:/6nApN/no
ものの15分もすれば立ち客がだいぶ溢れ、すぐそばにはサラリーマンやママ友であろう人たちが立ってスマホをいじったりおしゃべりに興じたりしている。

気づかれないようにと帽子を目深に被り、隣人と同様に身体を小さくして目を瞑った。

視界の情報がシャットアウトされ、途端に先ほど触れられた頬の感触が甦る。

バイクで走っている間はずっと風が当たっていたはずなのに、栗栖の手は熱かった。男の人はみな体温が高いのだろうか。

手足の先の冷えと日々格闘している自分には羨ましい限りだと、心の中で嘆息する。
304 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:55:41.00 ID:/6nApN/no
あの暖かさが頬から流し込まれた時、身体が動かなくなった。

離されないよう包帯でぐるぐる巻きにしていたいほど心地よくて、何も考えられなくなった。

今にしてみれば、あの温もりは悪魔的だったとさえ思える。

電話での中断がなければ、もう戻ってこられないところまで拉致されていたに違いない。

けれど……悪魔でもいい。蕩けさせてほしい。あの電話が怨めしい。

いやいや、自分はアイドルで、向こうもアイドルだ。色恋沙汰なんて赦される身ではない。もう一人の凛が脳内で諫める。

そんなことは判っているのだ。だからこそ未遂で終わってほっとしたのだ。

見くびらないで、と凛は頭の中で自分に吐き捨てた。
305 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:56:12.83 ID:/6nApN/no
ただ――もし次回同じことが起きれば、アイドルの矜持だけで我慢できるかどうかは……正直に云って自信がない。

「ううん、違う……」

自信がないどころの話ではない。まず以て抗えないだろう。

甘い毒が全身に染み渡っていくのを、快感と共に享受することしか、きっと。

どうすればよいのだろう。

乃木公園で同様の自問をした際とは明らかに悩みの度合いが深くなっている。

いつしか電車は地下鉄に直通し、目を瞑らなくても周りは黒の世界と化していた。
306 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:58:08.22 ID:/6nApN/no

大門駅で乗り換えて、麻布十番に戻ってきたのは15時を過ぎた頃だった。

三浦半島にいた時よりも明らかに汚れて重い空気を掻き分け、凛は喘ぐようにCGプロのエントランスを抜ける。

「あれっ? 凛。どうしたん、今日はオフじゃねえの」

やや遠くで聞き慣れた声がしたので振り返ると、つかさが凛を認めて寄ってきた。

「アタシは旭から帰ってきたところでさ」と笑うが、どうにも様子の芳しくない相棒の様子に気づく。

「……ひとまず第一課戻るか!」

ニヤリとした笑みを維持しつつ凛の肩を寄せて歩き出す。

しかし手の力は表情とはちぐはぐにとても柔らかかった。
307 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 22:59:22.57 ID:/6nApN/no
「――で? 何か悩みか?」

エレベーターの扉が閉まるまで待ってから、操作盤の方を向いたままつかさが問うた。

笑みを剥がしたシリアスな顔が、鏡面のように磨かれたパネルへと映る。

「うん、まぁ……そこまで大層なものじゃないけどね」

「嘘が下手。もうちょっと捻れよ、見るからに重大インシデントの顔してる」

「えー……本当に?」

「マジもマジ、大マジよ」

凛はそれ以上答えられず、エレベーターを降りると廊下には二人の足音だけが響く。

ユニットの相棒には伝えた方がよいのか、ユニットの相棒だからこそ不確実な相談事はしない方が好ましいのか。
308 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:00:40.76 ID:/6nApN/no
延々と答えを出せずに進んでいると、先を歩くつかさが「これからアイツとミーティングの予定だったけど」と前置きをして、第一課のドアの前で振り向いた。

「この時間、譲るよ。アイツにはドキュメントをSlackで送るようにだけ言伝を頼むわ」

「え?」

「相談、しに来たんだろ?」

Pのデスクの方向を指差してウインクを投げてくる。

「もし気分転換になるなら、アタシはこれからダンスの自主トレすっから、終わったら来ていいよ?」

「うん、ありがと。そうだね、もしかしたら後で顔を出すかも」

互いに軽く手を挙げて別れる。凛は、意を決してドアを開けた。
309 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:01:51.83 ID:/6nApN/no
タイミングよく人が出払っている静けさの中で、OAフロアの上を歩く微かな足音が、凛自身の耳には奇妙なほど大きく聞こえる気がした。

「あれっ? 凛。どうした、今日は久しぶりの完全オフだったのに」

Pが凛に気づいて、つかさと同じように疑問を寄越してきた。

担当プロデューサーとアイドル同士、長く一緒にいると似てくるのかもしれない。

「うん。ちょっと相談したいことがあって」

「天下の凛がそんなこと云ってくるなんて珍しいな」

相好を崩すPにつかさから託された伝言をこなしつつ、周りを見て、改めて誰もいないことを確認する。

何気ない行動でも、人払いが必要な内容であることをPは察知した。

おそらく、CGプロ始まって以来の、極めて難しい舵取りが必要になる未来を凛は予告するのだろう、と。
310 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:02:37.35 ID:/6nApN/no
凛は隣のデスクから事務椅子をごろごろと転がしてPの前に据え、「どんな風に云えばいいのか難しいんだけどさ」と腰を下ろした。

一旦眼を瞑って、息を吐く。

「ちょっと自分の手に余ることがあって」

瞼を上げると、Pの視線が強くしっかりと凛の虹彩を射抜いていた。

静かに次の言葉を待っている。変に二の句を促したり、或いは不要な相槌を打ったりしないところが、凛は好きだった。
311 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:04:14.84 ID:/6nApN/no
「……知多栗栖さんのこと」

ようやく一言を絞り出して、再度逡巡する。

「本気で……好きになり始めちゃってる。自惚れでなければ――多分、向こうも」

一句ずつ、ゆっくりと、打ち明けた。

双方無言の刻が過ぎてゆくがPの視線は変わらない。

きっと怒られるのだろう。

そう思って凛は眼を少し伏せた。
312 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:05:20.43 ID:/6nApN/no
「……知ってるよ」

何か云わなければ、と凛が紡ごうとしたところで、先に口を開いたのはPだった。

「え?」

「知ってるよ」

まさかの返答だった。驚きに目を見開いて視線を上げると、寂しそうな笑顔でもう一度「知ってる」と静かに云う。

色々と事情を聴取するでもないただの一言。

凛は、Pが全てを知っていたのだと、最初から最後までお見通しだったのだと悟った。
313 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:16.78 ID:/6nApN/no
――プロデューサーは全部知っていて、その上で私を放っておいたんだ。

ただ箱庭の中で生かされているだけだった。

以前、私が目の前のこの異性に淡い思いを抱いた時分には、アイドルが大事だ、全国民の彼女でいろって激怒しながら阻止したくせに。

なるほど、つまり当事者でさえなければ、プロデューサーから見た私はその程度の存在なのか。
314 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:06:53.42 ID:/6nApN/no
凛は、自らの心にピシッと小さく、しかし鋭い音で割れ目が入った音を自覚した。

無性に哀しくなって、そして腹が立ってきた。

「……やっぱり何でもない。御免、忘れて」

凛は目を閉じてやおら強く云い放ち、会話を打ち切って席を立った。
315 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/31(金) 23:07:40.44 ID:/6nApN/no
会社を出て、身を炙る憤りに任せながらスマートフォンの画面を叩くように文字を打ち込む。

――終わったら連絡して。

相手は、自らを必要としてくれる彼。

いつもと様子の違うメッセージに、栗栖は何かを感じ取ったのだろう。休憩の合間にすぐ折り返しを掛けてきた。

『もしもし、凛? どうした?』

やや心配そうに訊ねてくる声に、凛はすっと息を大きく吸う。

「栗栖。全部、私の全部をあげる。だから私を満たして」
316 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/31(金) 23:08:56.92 ID:/6nApN/no

今日はここまで
317 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:37:22.88 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

眼下で白や赤の光の列が連なって、それぞれが一本の糸のようになっている。

遠くへ向かう方の車線は、テールランプの流れがまるで血液みたいだと思った。

地上21階のこの部屋は、窓側の壁一面が足元から天井までガラス張りで、カーテン以外に遮るものがなにもない。

さりとてこれほどの高さともなれば怖さは逆に感じなかった。

人間が最も恐怖する高さは10〜20メートルあたりなのだそうで、地上80メートルのここなら、感想は「高いなあ」で済む。

夜の暗い時間帯なら猶のことだ。
318 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:38:12.16 ID:BuAwdmqeo
外からの人工光で、窓際にシルエットが浮かぶ。

女性的な曲線のプロポーションがはっきりとした魅力を纏っている。

凝視しなくとも、放たれる艶めかしさは圧倒的で、シルクのように滑らかなこそばゆさを与えるのだった。

ぼうっと夜景を眺める凛の肩に、そっと手が添えられた。

左横に立つ人物を見遣ると、一緒に眼下へ視線を送っている。
319 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:39:28.81 ID:BuAwdmqeo
「不思議だね」

凛がつと呟くと、「ん?」と云う目線で続きを問うてきた。もう一度外を眺める。

「直接は見えないけど、今こうやって私の視界に入るエリアだけでも100万を下らない数の人間がいるんだよ」

地上を照らしている明かりの許には、それぞれの人の営みが広がっているはずだ。

もっと視点の標高を上げて日本なら1億2000万、更には世界全体では75億。

「そんなおびただしい数の人類から見れば、私一人程度なんて、どれほど矮小な存在だろう」
320 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:40:18.30 ID:BuAwdmqeo
隣の肩に頭を預け、がっしりした腰に腕を回しながら、凛は自嘲のような息を大きく吐いた。

上目遣いで顔を覗き込む。向こうも凛の顔を見下ろす。

「こんなちっぽけな私を求めてくれるのは、栗栖だけだよ」

凛はカーテンを右手で閉じて、その流れで栗栖と正対し、両腕を肩に回す。

「広い世界を見るのは終わり。今は貴方と私、二人だけの場所。田嶋さんの電話で途切れた続き、して」

「いいんだな?」

栗栖が凛の目を覗き込んで、最後の確認とばかりに尋ねた。

「うん……いいよ」

頷くと、栗栖がそっと、凛の後頭部に手を添えた。それを合図に、凛は目を閉じる。
321 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:42:42.12 ID:BuAwdmqeo
ここは方舟。海辺の時のような環境音は何も聞こえない。

聞こえるのはそれぞれの息遣いだけ。

ゆっくりと、柔らかい唇が触れ合う。ついばむように、軽く、優しく。

数度感触を確かめたのち、強く押し付け合った。

一糸纏わぬ凛の背中を栗栖の掌が撫でる。

肩甲骨に沿って指を這わせると、くすぐったい快感がじわり滲み出て、凛は微かに身をよじった。口づけをしたまま、悩ましい息声が漏れ出る。

その緩んだ瞬間を栗栖は逃さなかった。

舌が唇を掻き分け侵入し、不意のことに凛は身体を固くする。

意思を持った別の生物のように口内を蹂躙されるうち、凛もやられっ放しで済ませるものかと、舌を動かして反撃に出た。
322 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:12.58 ID:BuAwdmqeo
柔らかいような、硬いような。弾力で押し返してくるような、抱擁で吸収するような。

絡みつく舌同士の相反する感触が連続的に変化し、そのどれもが脳へダイレクトに快感物質を注ぎ込み続ける。

酸素を求める息継ぎと、艶めかしく湿った水音だけが漆黒の世界に響く。

やがて空気の薄さに耐えられなくなって唇を離す。凛の瞳は潤んでいる。

「キスって、こんなに気持ちいいんだね……」

少し放心した風の蕩けた表情で、初めての口づけの、大人の味を反芻して凛は云った。
323 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:43:44.87 ID:BuAwdmqeo
立ったまま、どちらからともなく抱擁を重ねる。幻ではない、実体がここにあるのだと確かめるために、強く。

「凛。君が欲しい」

「うん、私も。抱いて――栗栖」

お互いの耳元で囁き合い、凛はのりの利いたシーツにゆっくりと坐らせられる。

白い布とそれに生じる皺が、赤みの強い彼女の柔肌と婀娜たるコントラストを描いた。
324 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:44:41.53 ID:BuAwdmqeo
栗栖が全身を愛おしそうにじっくり視るので、凛は胸部を隠して顔を逸らした。

「少し、恥ずかしい」

「隠さなくていい。綺麗だ」

女の象徴を秘匿せむと組まれた腕をゆっくり解きほぐし、汗ばみながらも摩擦なく滑る肌を掌が撫でると、甘美な刺激に凛は身体を反応させた。

「私……初めてだから、優しくして……」

いよいよ散らすのだと現実味が強く膨れ上がるにつれ、羞恥心から栗栖に背を向けた。

頭部だけ少し見返らせて、か細い声と横目の視線で乞う。
325 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:45:38.29 ID:BuAwdmqeo
15歳からアイドル一筋だった身にとり、女の一番大切なものを誰にも許すことなくこの歳まで維持してきたのは、一種の勲章だった。

しかし、それも今宵終わりを迎える。

栗栖に触られた部分が熱が帯びるのを、凛はマジックのようだと思った。

身体の中から熱くさせられ、蜜が自らの意思とは無関係に溢れ出てくるのは、神秘としか思えないのだ。

何らかの魔法を掛けられてこのようになっているのだと。

欲しい。この人が欲しい。

いつしか凛は、遺伝子に刻まれた未知の欲求を抱いていることに気づいた。

覆い被さる男を濡れた瞳で見つめると、呼びかけに応じた先端が、ゆっくり一つに溶け合ってゆく。
326 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:46:20.87 ID:BuAwdmqeo
凛は、悦びに打ち震えた。

その嬌声は高く、通りのよい張りと弾力に満ちていた。

声自身が、凛の柔肌と同じ肉感を持っていて、繋がり合った部分と共に快楽物質をお互いの脳へ注ぎ込む。

男の情動を燃え上がらせるその呪文が栗栖を衝き動かし、巡り巡って凛自身を狂わせる。

喘ぐのを抑えむと思えど、快感を求める本能が理性を拒絶するのだ。

唇を重ね、塞いでも、艶やかな声は漏れ出ることを止められない。

頂戴、もっと。欲しい、満たして欲しいの。

昂ぶりのスパイラル。お互いが上へ上へと昇り詰める。

二人は、二人だけの雲の上で何度も躍ねた。

たとえ一度達しようとも、果つる底なき熱が再び双方を焦がし合っては、へとへとに痙攣すらできなくなるまで休みなくずっと続いた。
327 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:47:39.24 ID:BuAwdmqeo

===

カーテンの隙間から差し込む赤い陽光で、凛は微睡から現世に引き戻された。

半目のままゆっくり瞬くことしばし、寝返りを打って手を伸ばす。身体が、泥の中で溺れているかのように重い。

呻きながら、隣に臥している体躯を撫でて、存在を確かめた。

昨夜の交いが露と消える幻ではなかったことを確かめたかった。
328 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:04.35 ID:BuAwdmqeo
陽光に照らされて、栗栖の栗色の髪が綺麗に染まっている。

幼少期に地毛のこの明るい色のせいでいじめられたから自らの髪があまり好きではないと、彼自身はかつて云ったことがあったが、傍で見る身からすれば美しくて好きだと思った。

「ん……起きなきゃ……」

今の状況が間違いなく現実であり夢ではないことを理解した凛は、うつ伏せの体勢から緩やかに身を起こした。

「痛ったた……」

最中はずっと脚を開け拡げたり四つん這いになったりしていたせいか、下肢の付け根や膝の皿が鈍痛を訴える。
329 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:49:51.86 ID:BuAwdmqeo
下腹にはまだ異物が中に入ったままのような錯覚があるし、全身の肌は汗と体液が中途半端に乾き始めてベタベタした。

髪に触れると酷く絡まっていて、念入りなメンテナンスを要しそうだった。

一晩乱れただけでこうも容易く傷むのかと、初めてづくしの経験に新鮮な感覚を抱いた。

足を軽く引き摺って窓際へ寄り、カーテンを少し引く。

太陽は地平線から顔を出したばかりで、直視しても眩しさは然程でもない。

おどろおどろしいまでに血の色で朝焼けた空は、まるで自分の心を見透かし、映しているようだと思った。
330 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:51:40.10 ID:BuAwdmqeo
意識の靄を取り去ろうと、バスルームへ入る。

鏡の中に佇む自分は、鎖骨や鳩尾、臀部に至るまで紅紫の痣が多数点在し、これらキスマークを見て改めてこの身が女になったことを実感した。

軽く目を瞑ると、つい数時間前までよがっていた自らの声が脳内に響き、腹の奥が疼いた。しばらくこの感覚は身体から抜けそうにない。

アルコールなど比較にならないほどに人を酔わせる劇薬。体内にLSDの工場が作られたようだ。

目を開けて床を見れば、今もまた、大腿から下が糸を引く洪水に塗れている。
331 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:18.22 ID:BuAwdmqeo
『もう戻れないね』

何処―いずこ―からか声が聞こえた気がした。

慌てて顔を上げると、鏡の中に自分とよく似た裸の少女がいた。

自分が映っているのではなかった。

否、これは自分だ。15歳の凛が、23歳の凛を眺めているのだ。

身長や体型はほぼ変わらない。顔立ちだけが、仄かに幼さを感じさせる。
332 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:52:55.07 ID:BuAwdmqeo
だが――その表情からは何を伝えたいのかは読み取れない。

褒めるでも誹るでもなかった。ただただ、淡々と一言だけ発したのだ。

「……そう、かもね。時間の針は戻せない。私は、もうそっちの私には戻れない」

独り言ち、かぶりを振って熱いシャワーの栓を捻った。

頭頂から手先足先へ向かって無垢な湯が流れてゆく。

蒸気が室内を満たし、鏡の中の少女は白闇へ埋もれ、やがて見えなくなった。

栗栖のマンションから第一女子寮へと戻る電車は、奇妙なほど空いていた。
333 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:11.33 ID:BuAwdmqeo

・・・・・・

身体を許したとて、凛も栗栖もお互いに売れっ子だ。オフが重なるタイミングはそう都合よく頻繁には巡ってこない。

それでも、何とか予定を合わせて逢瀬を重ねたし、それが叶わなければツクヨミのレッスンがあった帰りに乃木公園で打ち合わせと云う体の邂逅で心を慰めた。

次第に凛は、乃木公園でも「口づけをして欲しい」と唇を差し出すようになった。

その都度、栗栖は困ったように笑って、丸めた台本で凛の頭をポンと叩く。むう、と凛がむくれるまでが1セットだった。
334 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:55:38.64 ID:BuAwdmqeo
「ったく、ここでするわけにいかんでしょ」

「まあ、それは……判ってはいるけどさ。欲しいものは欲しいんだから仕方ないじゃない」

トップアイドルたる美しい女に「欲しい」とストレートで云われて嬉しくない男はいまいが、全てに於いて立場と云う人類の概念が恨めしい。

凛は自分自身で支離滅裂かつ重い面倒なことを云っているのは認識していた。

それでも、大脳新皮質とは別領域の、遺伝子に刻まれた“雌”が理性を押し退けるのだから困ったものだ。
335 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/08/01(土) 23:56:42.07 ID:BuAwdmqeo
無論、新皮質が活性化して理性が優勢となれば、元々理知的な彼女ゆえ自己嫌悪に陥る。

ついにPへ談判し、ツクヨミとのスムーズな連携と云う名目で第一女子寮を離れ、天王洲は京浜運河を臨むタワーマンションに居を移した。

Pは「わかった」とだけ頷いて、意外にも話を切り出した半月後には全て完了してしまう早さで処理が済んだ。

総務部への稟議なども必要だったろうに、と凛は驚いたが、元々寮へずっと入っていたのは防犯上の理由が大勢を占めていたので、街中のアパートと云うわけでもなくセキュリティのしっかりしたビルなら、さほど問題にはならなかった。

選定にあたっては、隣駅で交通至便となる文科放送やフジツボテレビからの、千川ちひろを通じた黒い便宜があったとも噂されるものの、真偽のほどは定かではない。
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