渋谷凛「愛は夢の中に」

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1 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:05:53.85 ID:qJtv+QXjo

――王子様はお姫様と幸せに暮らしましたとさ。

多くの童話はこのように締め括られる。

例えば、シンデレラ。最底辺から頂点へと至った奇跡の物語。
ただの灰かぶりが、母や姉のいじめに耐え、魔法使いの手を借り、最後には王子様と結ばれる。

シンデレラは思う。

私は幸せですと、魔法使いさんに伝えられたら。
魔法使いさんも、幸せでいてくれたら。



SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1595073953
2 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/18(土) 21:25:25.13 ID:qJtv+QXjo
・シンデレラガールズSSです
・いろいろ越境
・346? なにそれおいしいの?
・地の文
・たぶん長いよ

まったりお付き合いください
3 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:28:08.29 ID:qJtv+QXjo



・・・・・・・・・・・・


その年の冬は寒かった。

ヒートアイランドだの温暖化だのと騒ぎ立てた夏場が幻かと思えるほど、例年になく凍える年の暮れ。

街頭ビジョンひしめくスクランブル交差点の人いきれは、冷たい風に耐えるよう身体を丸めながら、みな、手許の携帯端末で配信を見ていた。

今日は大晦日、あと1時間もしないうちに年が変わる。

交差点を行き交う数千人の手許では、日本放送機構―NHK―の紅白歌合戦が映し出され、紅組が歌声を届けている。
4 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:29:19.23 ID:qJtv+QXjo
いま舞台に立っているのは、すらりとしたやや長身の女性だ。

婉美な群青のドレスと、黒く美しい長髪をまとい、ステージの眩いライトを、艶かしく反射させている。

緩急鋭いダンスと、その激しい動きをものともしないほど芯が強くはっきりと耳に届いてくる歌唱。

楽曲の盛り上がりとシンクロしてカメラが顔をズームアップすると、瑞々しく光る碧い瞳が、燃えるような視線を寄越す。

その眼差しは、レンズの存在など微塵も感じさせることなく、視聴者の網膜を直接射抜いた。

この年最も好調なレコードセールスを記録したオーラが、そこに漂っている。
5 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:30:10.40 ID:qJtv+QXjo

渋谷凛。

芸能事務所、CGプロダクションに所属する歌姫――正確に表わすなら、アイドル。

時には歌で。時には踊りで。時には話術で。時には容姿で。時には身体の造形で。

全身で、生まれ持った肉体そのもので、エンターテインメントを表現する存在。

紅白にはここ3年間連続で出場し、今年はついにトリひとつ前を任された、22歳の花盛り。

現在の日本の芸能シーンでその名を知らない国民はいない、まごうことなき“トップアイドル”である。
6 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:31:02.49 ID:qJtv+QXjo

その彼女のステージは、曲がフィナーレを迎え、ライトが光量を落としたところ。

カメラが切り替わり、NHKホール客席の熱狂振りを全国へと届けている。

無数の青いサイリウムが、凛の出番の終わりを名残惜しむように激しく揺れる。

このあと大トリが始まれば、じきに除夜の鐘中継へと移り、そして年明けだ。

打ち上げ会場で挨拶をこなして、少しだけ眠ったら、すぐに正月の特番行脚が始まることだろう。

トップアイドルは、息つく暇もない。
7 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:32:12.00 ID:qJtv+QXjo

・・・・・・

凛が両腕を拡げて客席の歓声に応えるさまを、ホールの舞台袖から見守る姿があった。

CGプロで彼女を担当するプロデューサー、P。

その者は、暗がりの中で目頭を押さえていた。

紅白のトリはいわば『名誉職』に近い。つまり最後から2番目に位置するのが、実質的な主役と云える。

ようやく、担当アイドルが、その地位を獲得するまでに至った。その感慨によって、不意にもこれまでの軌跡が走馬灯のように脳裏を掠めたのだ。
8 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:32:51.49 ID:qJtv+QXjo
彼女のデビューは、およそ6年前。
下積みまで含めれば、アイドルへの一歩を踏み出して7年弱になる。

最初は碌な営業すらままならなかったところから、2年目で芽が出て、3年目には頭角を現し、以後CGプロの屋台骨を支え続けている彼女。

事務所の設立と共に活動を開始した古株・渋谷凛は、CDリリースを足掛かりとして徐々に徐々に人気を獲得していった。

しかし当時を知る者は意外にも少数に留まる。
それも仕方のないことなのかも知れない。

CGプロ設立当初は、彼女の同期である十時愛梨や神崎蘭子といった面々の方が、その特色ある武器から、知名度を獲得するのが圧倒的に早かったからだ。

凛は、スタートダッシュの神様には選ばれなかった。
9 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:33:30.61 ID:qJtv+QXjo
「……どうしたの?」

Pの懐古は、ステージから引き揚げてきたその担当アイドル自身の声によって終了を告げた。彼女は怪訝な表情で覗き込んでいる。

「あー、この日のために連日書類と格闘してたからな。目がとても疲れたんだよ。視力が一気に落ちたかもしれん」

Pの弁解に凛は少しだけ心配そうな顔をしたが、そこは長年連れ添った間柄である、すぐに強がりを見破った。

それでも口に出さないのは彼女なりの思いやり。

「そっか。蒸しタオルでも用意しないとね」と相好を崩して踵を返す。

汗に湿り気を帯びた髪と、刺繍のあしらわれた妖艶な裾が、ふわりと舞った。
10 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:34:18.69 ID:qJtv+QXjo

・・・・・・

地下1階の大部屋へと入ると、むせ返るような濃密な女の匂いが充満していた。

歌合戦の出場者は総計すればかなりの数になる。
楽屋の少ないNHKホールでは、紅白のときは大部屋に間仕切りをして、大御所以外の楽屋としている。

演歌歌手からポップス、ダンサー、アイドルまで幅広い女性芸能人のそろい踏みはとても印象的な光景だ。

個室の楽屋を使えるアイドルは過去殆ど存在しない。
別格たる松田聖子や日高舞くらいなもので、如何にトップアイドルと云えど、凛には女性用の大部屋が割り当てられるのだ。

その大部屋の自らのブースへと歩み、タオルを取ろうとすると、凛に声を掛ける姿があった。

「闇に飲まれよ!(おつかれさまです!)」
11 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:35:05.33 ID:qJtv+QXjo
特徴的な挨拶は話者の名札代わりと云ってもよい。

大部屋の奥側から労う一言を掛けたのは、凛より1年早く覇者となった蘭子だった。

凛が顔を上げると、既に出番は終わっているのに豪奢な黒いドレスを纏ったスタイルで立っている。

「あ、蘭子。おつかれさま。まだ着替えてない……わけじゃないよね」

「フフフ……魔王の宴は収束し真なるアニマは眠りに就いた。今は飛翔―はばたき―易き仮初の器で欺くが如し」

蘭子は左手を顔に当てながら眼を閉じて笑った。

ステージ衣装かと思いきや、これが私服なのだ。
12 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:35:44.57 ID:qJtv+QXjo
ゴシックスタイルは、彼女の代名詞だった。

アイドルに最も重要なのは、わかりやすい外見上の特色。

愛梨なら豊満な肉体が、蘭子ならゴシックを土台とした独特の世界観が、衆目を得る大きな力だった。

世間へ浸透する為には、知名度が欠かせない。

蘭子が出世街道を登るのはあっという間だった。
13 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:36:58.32 ID:qJtv+QXjo
対して、普通の女の子に過ぎなかった凛は、ただひたすらにストイックな鍛錬と、地道なメディア露出によって開拓していくしかなかったわけだ。

一見無愛想な、感情があまり表に出ることなく読みづらいところも、取っ付きにくさがあったに違いない。

それらが、スロースターターになってしまった要因だろう。

中身がいくら良かったところで、それに気付いてもらうための取っ掛かりがないならば、中身が存在しないことと同義なのだから。

だから、例え今現在トップアイドルを謳歌しているとしても、キャリアがものをいう大部屋内の序列は愛梨や蘭子の方が上。

凛自身、そのことに不満はない。仮にあったとしたら顰蹙を買うどころでは済まないだろう。

200人に迫るアイドルたちが彼女の後塵を拝しているのだし、魑魅魍魎の跋扈する魔窟、芸能界に於いてここまで来ることができたのは奇蹟と云ってもよいのだ。
14 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:37:45.97 ID:qJtv+QXjo
多数の個性豊かなアイドルが所属しているCGプロの中で、特徴乏しい凛が常に人気の上位を維持するのは体力的にも精神的にも並大抵のことではない。

そのはずなのに、彼女は弱音も吐かず、Pの、そして世間の期待に応え続ける。

華奢な女の子の、一体どこにそんなパワーが蓄えられているのだろう。

“私って幸運だったよね、良い人たちに育ててもらえてさ。初めて会った時は、私のためにここまでしてくれるなんて思ってなかった”

――かつて凛が、担当プロデューサーであるPに対して述べた言葉である。
15 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:38:30.48 ID:qJtv+QXjo
「ム? 世界の光を集めし石に紅蓮の色彩……如何したか?」

蘭子が凛の目元を見上げて問うた。凛の瞳が、充血していた。

彼女もP同様、この7年の記憶が目の奥をよぎり、感慨が胸に湧き出たのだが――トップアイドルは、嘘と演技が巧かった。

「あー、最近あまり寝られてなかったからね。お正月が明けるまでの辛抱、かな」

小首を傾げた蘭子に、凛は苦笑を交えた表情で、心配しないでと答える。

どう誤摩化そうか思案を巡らせる中、タイミングよく蘭子の担当プロデューサーが迎えに来た。

帰途に就く蘭子と手を振って別れ、独り言つ。

「……蒸しタオル、二つ必要かなぁ」
16 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:39:17.86 ID:qJtv+QXjo

===

「おつかれさまでーす」

支度を終えた凛が、打ち上げ会場となっているNHKの食堂へと入る。

後ろからは、Pも一緒だ。

中では、年が明けたというのに、人々がひっきりなしに行き交い、挨拶に次ぐ挨拶。まるでゆっくりする暇―いとま―もない。

出番が後半だった凛が打ち上げへ顔を出す頃には、序盤に出ていた歌手は既に撤収が済んでいるような入れ替わりの激しさだった。

関係者まで含めれば総勢1000人を超えるのだ。このバタバタぶりは紅白打ち上げの恒例と云える。
17 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:40:11.59 ID:qJtv+QXjo
そんな中でも主役級というものは挨拶すべき人も多く、この日、白組の終盤を彩った男性アーティストたちは多くの人々と握手を重ねていた。

「あっ、渋谷凛さん、おつかれさまでした!」

大きな声でそう云ってこちらに歩み寄るは、凛の直前に白組で出場したトップアイドルバンド『SATURN』の面々。

961プロに次ぐ業界の巨人、ジョニーズに所属する男性アイドルで、いま最も勢いのあるグループだ。それはベテランアイドルユニット『TOCIO』をして唸らせる実力を持つ。

サイケデリックを標榜し、大宇宙にフィーチャーしたぶっ飛んだパフォーマンスや曲調からはイメージできないほど、挨拶は爽やかで正反対の常識人ぶりだった。

生み出されたモノと、それを生み出す者の性格は、必ずしも一致するものではないのだなとPは妙に感心する。
18 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:41:18.82 ID:qJtv+QXjo
凛は面食らった様子で、

「あっ、おつかれさまでした。あの、すごかったです。……埴輪のかぶり物でのパフォーマンスとか、リアルろくろ回しとか……」

やや腰が引けながらおずおずと手を差し出すと、リーダー格のギタリスト、TITANが優しく、それでいて力強く握手を返す。

「やりすぎてNHKの人に怒られるかと思っていましたが、僕らのあとに渋谷凛さんの圧倒的な歌声が上書きしてくれたので助かりました」

「エレクトログルーヴさんやDJ KAZMAさんから『やりやがったな!』ってLINE来てたけどね」

横からメンバー最年少のキーボーディストMIMASが茶々を出すが、

「オマージュだよオマージュ」

無邪気に笑う彼らにつられ、凛もはにかんで、お互いの健闘を讃え合う。
19 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:45:07.93 ID:qJtv+QXjo
凛が全員と握手を済ませたのち、Pが挨拶をすると、

「おおっ、お噂はかねがね。数多人気アイドルの仕掛け人とお会いできて光栄です」

TITANがPの手を両手で握りしめて礼をした。

「こちらこそ、SATURNのみなさんのお話はよく伺っています。ただ、こう言っては失礼かも知れませんが――みなさんとても好青年ばかりで少々驚きました」

「ははは、パフォーマンスがパフォーマンスですからね、普段はこうしていないと後ろ指を差されますので」

TITANが眉の尻を下げる。
20 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:45:48.65 ID:qJtv+QXjo
「SATURNさんのステージを間近で拝見して、そのレベルの高さに改めて感銘しましたよ。我が社の上田もファンを公言しております」

「うわぁ、上田しゃんにそう云って頂けるなんて光栄だなぁ!」

Pの言葉にMIMASは顔を綻ばせた。上田鈴帆は、幅広い人材が集うCGプロの中でもひときわ異彩を放つ着ぐるみアイドルである。

「演奏も極めて高度で精緻ですし、是非今後は音楽性の方面でもお付き合いできれば。ガールズバンドの構想も社内で挙がっておりますので」

メンバーの少し後ろに立つ、田嶋と名乗る彼らのマネージャに、懐から名刺を差し出して交換する。

打ち上げ会場は、すなわち営業会場でもあった。

周りを見渡せば、至る所で名刺のやりとりが交わされている。
21 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:46:42.69 ID:qJtv+QXjo

「失礼、CGプロの渋谷凛さんとお見受けします」

大人たちの『儀式』を見ていた凛が背後から声をかけられた。

Pと共に振り返ると、大層華やかな女の子たちを率いた、見るからに敏腕な男。

凛へ真っ直ぐな視線を向け、会釈をする。

「初めまして。姜坤赫―カン・シンヒョク―です。日本のトップアイドルにお目見得できて嬉しく思います」

後ろに並んだ面々も同じく一礼をする。
22 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:47:47.83 ID:qJtv+QXjo
彼女たちは海を越えて日本進出を果たした825―パリオ―エンターテインメントのアイドルグループ。

その極めてハイレベルな歌唱やダンスは、上陸するや否や日本の芸能シーンを瞬く間に射抜き、当年で紅白をつかみ取った、まさに黒船と云えた。

「お初にお目に掛かります、渋谷凛です。皆さんのことは弊社のイム・ユジンやリュ・ヘナたちからよく伺っております」

国際色豊かなCGプロは海外出身のアイドルも多数所属している。彼女らとの歓談で、出身国の芸能事情が話題に上る機会は少なくない。

「韓国トップアイドルRED QUEENを手掛けた姜プロデューサー肝煎りのプロジェクト――R.G.Pと直接お会いできて身が引き締まります」

凛は背筋を正して深くお辞儀をした。凛の両肩には日本アイドルシーンの全責が載っていると云ってよい。その自覚により半ば脊髄反射的に出た返礼の所作だった。
23 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:48:43.89 ID:qJtv+QXjo
「いえ、我々は日本ではまだまだ新参の挑戦者に過ぎません」

姜の隣に立つ825エンタの社長、沈民哲―シム・ミンチョル―が、抱きかかえた猫を撫でながら柔和に微笑んだ。

その年齢を重ねつつも少年のようなあどけない笑みは、決して流暢とは言い難い朝鮮訛りの日本語と相まって、より愛嬌を感じさせる。

沈の謙遜に姜も頷いた。

「その通りです。ここにいる一同、“蒼の歌姫”さんを目標にして進んでいければと思っているのです」

――凛の二つ名。彼女にとって勲章とも云えるこの呼ばれ方が、国外の実力者にも届いているのは嬉しい発見だった。

「では、またいづれ」

お互いに会釈し、再び相見えることを誓って、その場を後にする。
24 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:54:17.28 ID:qJtv+QXjo

「――やっぱり空気が違ったな」

渡り廊下を歩いていると、行き交う人の流れが途切れたタイミングで、Pが切り出した。

凛も視線を前に向けたまま、厳しい目つきで首肯する。

「……そうだね。日本を“獲りに”来てるってオーラを隠し切れてなかったよ」

「これは厳しい鎬―しのぎ―の削り合いになるな。825のプロデューサーは明らかに腕が立つ」

駐車場へ先導するPが肩を竦めて「頭痛の種が増えた」と独り言ち、社用車のドアを開けた。
25 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 21:58:46.86 ID:qJtv+QXjo
凛がするりと後部座席へ乗り、シートベルトを締める前に運転席へ身を乗り出す。

「辣腕なだけじゃなくて、すごくイケメンだったよね」

「ああ、やばいよな、男の俺からしても惚れそうだった」

Pの云うことは尤もだった。本人がアイドルとしてやっていけるのではないかと思えるほどに美男子だったのである。

名刺を差し出す時によっぽど「CGプロのアイドルになりませんか」と云おうか云うまいか迷ったほどだ。実に節操がない。

「私、あんなカッコいい人に誘われたら断れなさそう。825への移籍を考えちゃうかもね」

Pの、エンジンをかける手がぴくりと止る。
26 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:05:39.05 ID:qJtv+QXjo
姜をスカウトしようかと逡巡していた自らを棚に上げて、勘弁してくれ、と振り向くと、凛は意地の悪い笑みを浮かべていた。

「ふふっ冗談だよ。私と一緒に走ってくれるのは、プロデューサーだけ。そうでしょ?」

「わかってる。こんだけ長く一緒にやってきてんだ、お前の心だって少しくらいは読めるさ」

わざとらしい咳払いを添えると、凛は珍しく声を上げて笑った。

ひとしきり肩を揺すったのち、大きく息を吐く。

「……今年で出会ってから8年目に入るんだもんね。また1年、よろしくね」

「そうだな。こっちこそ、今年もよろしくな」

Pは静かに頷いた。二人の視線が、少しの間、交ざり合う。

「じゃあ、出すぞ。会社で少しだけ休もう。さあ、シートベルトつけて」

「ん」

凛が背もたれに体重を預け、Pは改めてエンジンを回す。
27 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:15:10.55 ID:qJtv+QXjo
後ろで留め具がカチッと鳴るのを待ってから、静かに、車は深夜の街へ滑り出した。

明治神宮への参拝客でこの時間からごった返す原宿駅前。

その人海を尻目に、表参道、南青山と抜けてゆく中、凛は特に何を話すでもなく窓の外を見やった。

2年半後の五輪を名目にスクラップ&ビルドが繰り返される街は、数日のスパンでも目まぐるしく表情を変えてゆく。

それは、無能な都知事によって開発が停滞してしまった1年の空白期間を少しでも取り戻すかの如き意思を持っているように感じられる。
28 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:15:57.65 ID:qJtv+QXjo
足場で覆われた工事現場。数週間前はあそこに何があっただろうか?

欠片も覚えていないのは、多忙ゆえか、あるいは他人に無関心すぎるのか。

それでもなお記憶の引き出しを漁ろうとしたところで、トンネルへ入ってしまった。

白色燈で規則正しく照らされるパワーウィンドウに、印象的な碧い瞳と整った顔、そして烏羽色の美しく長い髪が映った。

「ふぅ」と微かに息をつき、眼を閉じる。
29 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:17:13.00 ID:qJtv+QXjo
凛の記憶にあるのは、この7年弱、Pと二人三脚でがむしゃらに駆け抜けてきたことだけ。

さきほど姜坤赫と邂逅したことで、そしてPと軽口を投げ合ったことで、青春時代の自らの思い出が少しだけリフレインした。

これほど長く一緒にいれば、いまハンドルを握っている男に対して、思慕の念を覚えたことだって、なくはない。

感受性豊かな思春期に、常に最も近くで見守ってくれる異性がいたのだ。意識しない方がおかしいと云うもの。

しかし――アイドルとプロデューサー、その二者の間に在る壁は果てしなく高い。

刹那的な慕情の欲求に抗えなくなりそうになった時、いつだって決まって先回りして軟着陸へ誘導された。

ついに17歳のとき、バレンタインに乗じて出番後の楽屋で想いを漏らしてしまった時は、こっぴどく叱られもした。
30 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:17:45.79 ID:qJtv+QXjo
「お前が大事だからこそ俺はこうやって怒ってるんだ」

「私が大事なら、どうしてそうやって怒るの? ただ好きになっちゃったってだけだし、多少は喜んでくれたっていいのに」

「プロデューサー相手にそれを云うってどんだけ不味いことか判ってるのか。お前はアイドルなんだぞ?! 全国民の彼女でいなきゃならないんだ」

「そんなの判ってるよ! 別に付き合ってとか云ってるわけじゃないでしょ。想いを胸に秘めてるくらい別にいいじゃない!」

「駄目だ。一番近い男だからって俺に恋愛感情を抱くな。どんなに隠そうとしても普段の行動に無意識に出る。とにかく、その感情だけは絶対許さん。絶対にだ!」

――当時は分からず屋と反発もしたけれど、今なら自分のためだったのだとよく理解できる。

あの頃は青かった。
31 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/18(土) 22:18:23.88 ID:qJtv+QXjo
そのうち、アイドルであることに矜持を抱いてゆくのと比例して、自らの淡い気持ちもいつしか乗り越えた。

今の二人を表わすのに最適な言葉はたったの二文字で済む。

――戦友。

お互いが、お互いをリスペクトすること。これが、長く安定した関係を築く秘訣なのだと思う。

Pは、裏方で汗水を垂らす。凛は、表舞台で彼の世界観を余すところなく体現する。

後ろを心配する必要など全くない、背中を預け合えるコンビとして、芸能界を走ってきたのだ――

ここ数年の軌跡に思いを馳せながら、いつしか彼女は、ステージをこなした疲れと、信号待ちで停まる車の心地よい振動によって、静かな寝息を立てていた。

その口元は、心なしか綻んでいるように見えた。
32 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/18(土) 22:19:41.00 ID:qJtv+QXjo

今日はここで区切ります。定期的に細々と更新していこうと思います。

そういえば註釈忘れてました。
劇中は2018年の設定です。
なので、あかりんごちゃんやりあむちゃんはいない状態です。

そしてアイドルマスター.KRはアマプラで大絶賛配信中。ぜひ観てみてください。
33 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/18(土) 22:22:01.99 ID:qJtv+QXjo
渋谷凛
https://i.imgur.com/GTqQ7Pw.jpg

神崎蘭子
https://i.imgur.com/lEVGhYk.jpg

姜P
https://i.imgur.com/AzaF16M.jpg

R.G.P
https://i.imgur.com/S02h8zz.jpg

沈社長
https://i.imgur.com/onFLUVr.jpg

モバマス韓国組
https://i.imgur.com/Szo0OWR.jpg
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/19(日) 09:28:20.90 ID:6ht6G06ro
姜Pは萌えキャラだよね
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2020/07/19(日) 10:31:45.30 ID:JR6FWGHDO
韓国勢は扱いを間違えると荒れる元だけど大丈夫かな?
36 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:51:50.37 ID:bStRNLTRo



・・・・・・・・・・・・


六本木と麻布十番を結ぶ裏道には、桜並木がある。

麻布十番に所在するCGプロのアイドル達にとって、一つ隣の駅で降りて徒歩で向かえば通れる、身近な散歩道だ。

またすぐ近隣にテレビ旭が在るため、収録後にわざわざ歩いてここを経由し社屋へ戻る者もいると聞く。

3月の下旬に差し掛かったこの日、六本木ヒルズの裏手から伸びるその“さくら坂”は、白桃色のトンネルになっていた。

通る人々はきっと、桜の開花が例年よりかなり早い、とワイドショーで度々話題になったことを実感していることだろう。
37 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:52:30.22 ID:bStRNLTRo
「この分じゃ、入学式には間に合わなそうだね……」

誰に宛てたものでもない呟きが、凛の血色の良い唇から洩れた。

帽子に大きな眼鏡、地味な服装でカモフラージュしたトップアイドルが、並木の路地を一人で歩いている。

仕事に追われようとも、季節の花を楽しみたいと思う気持ちは常に抱いているつもりだ。花屋の娘、血は争えない。

その想いとは裏腹に、ここしばらくそんな時間など確保できない日々が続いていたが――

分単位のスケジュールが組まれている彼女にも、この日だけは朝の一瞬にチャンスがあった。

多忙な身に、一駅分歩くだけで済むこの道はありがたい存在だった。
豊かな感情を与えられる側に立つのは久しく味わっていなかったと、自らを翻ってみて気付く。

並木を抜ければ、社屋が面している道路にそのまま出る。

背後にある高校のグラウンドから聞こえてくる朝練のかけ声をBGMにしていれば、事務所はもうすぐだ。
38 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:54:05.44 ID:bStRNLTRo

「おはようございます」

建物3階、制作部のガラス扉をセキュリティカードで解錠して凛が入る。

CGプロはその規模ゆえ、社内は制作部、興行部、総務部などに分かれている。アイドルの面倒を看るのは制作部だ。

更には200人弱と云う所属アイドルの多さから、制作部は第一課―クール―から第二課―キュート―そして第三課―パッション―までに枝分かれしていた。

凛は第一課のアイドル第一号。

早朝にも拘わらず第一課のフロア内には人の気配がすでに多く、Pも出社を済ませているようだった。

「おうおはよう。――花見は楽しめたか?」

隅にあるコピー機と向き合っているPが顔だけこちらに向けると、凛の帽子や肩に舞い落ちた花弁を見て、今朝の出勤ルートを特定した。
39 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:55:05.60 ID:bStRNLTRo
彼の視線から自らにくっついている桜の残滓に気付いても、凛はそれを払おうとはしない。

「おかげさまで。綺麗だったよ」

笑いながらウォーターサーバーの冷水を一口呷って、近くのソファへ身体を預けようとパーティションを越える。

するとそこには先客がいた。

「あれ? ジュニ、ヘナ、ユジン。おはよう、早いね。それから遠藤さんも」

韓国でスカウトされ来日した3人。3年余りが経って、今や立派な日本のアイドルになっている彼女らが、凛の姿を認めて会釈した。

今でこそ海外出身のアイドルはCGプロにとって珍しくない。
しかし同じ方面の出でクールからキュート、パッションにまたがるのはこの韓国勢3人だけだ。
40 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:55:50.42 ID:bStRNLTRo
その隣、一人分の間を空けて、遠藤と呼ばれた壮年の男が坐っている。興行部のプロデューサーをしている人間だ。

このパターンは新企画だね、と思っていると、印刷を終えたPが紙束を持ってやってきた。

「ミーティングスペースも一応取ってあったんだけど、もう遠藤さんもここにいるしちょうどいいよな。このままやっちゃおう」

遠藤たちの対面のソファに腰を下ろして、なんの前置きもなしに話を進めだす。

凛は慣れたもので、「どれどれ、ちょうだい」と資料の催促をするだけだったが、ジュニたち3人はいきなり話を切り出されて多少まごついている。

そのさまを見て、凛は昔の自らの面影を重ねた。今でこそツーカーなれど、初期の頃はこうやってPによく振り回されたものだ。
41 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:56:53.36 ID:bStRNLTRo
受け取った書類の表紙には『メディア芸術祭親善交流について』とある。

題名だけならこれまで何度も見てきた企画書と大差ない。

重要なのは、一回り小さな文字で書かれた2行目だった。

『於:韓国坡州―パジュ―市』

数瞬考えてから、凛が顔を挙げて問う。

「これはつまり海外公演ってことだよね?」

「ご明察。坡州市はソウル近郊の街でな」

芸術や文化関係の施設が多く、今回はその中のヘイリ芸術村で文化交流があると云う。
42 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:57:50.17 ID:bStRNLTRo
「そうなんだ、日本じゃあまり見られないタイプの街だね。面白そう」

凛がわくわくした様子で頷くと、ソウル出身のユジンがあっけらかんに笑う。

「私としては坡州って板門店―パンムンジョム―とアウトレットモールの印象だけどね♪」

その言葉から軍事の街と文化の街という韓国特有の複雑な二面性が垣間見えた。

兎も角、その文化交流の中の一幕に、アイドルステージが設けられるということらしい。
43 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 22:58:29.69 ID:bStRNLTRo
「まあ、主旨はわかったよ。それで、いつ?」

凛がこぢんまりしたガラステーブルに置かれている卓上カレンダーを見遣りながら問うた。

「来月の半ば。4月15日だ」

「はぁっ?」

書類へ目を落としたまま答えるPに、凛は素っ頓狂な声を上げた。

無理もない。あまりにも唐突すぎるスケジュールだったからだ。
44 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:00:37.79 ID:bStRNLTRo
通常、海外での公演となれば半年以上、場合によっては1年ほど前から準備が始まるものだ。

なのに、今回の話はわずか3週間しかない。

もちろん、アイドルのスケジュールはPたちが調整するとは云え――

実際に現地でパフォーマンスをする本人にとっては、準備が不十分なまま放り出されたらたまったものではない。

しかもその1週間前、4月7日と8日には、なんと台北―タイペイ―でCGプロ初の海外公演が開催されるのだ。

2週間連続で週末は海外生活ということになる。
45 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:01:21.32 ID:bStRNLTRo
「だからだよ。どちらも隣国だし、どうせ海外へ飛ぶなら或る程度まとめてやってしまった方がやりやすい」

Pは悪びれる風でもなく笑った。

「坡州公演の規模はそこまで大きくない。台北でのステージの内容から一部を抜粋してアレンジを加えれば充分いけるだろ?」

それに、と付け加えて、書類をテーブルに置いてから対面の男を視た。

「俺も、そして遠藤さんも、この話を振られたのは昨日だ」

急に槍玉に挙がった当人は、その場のアイドル全員を見回して苦笑しながら肩を竦めた。

「なんでも、社長が先日呑みに行った席で韓国のイベントマネジメントを手掛けている方と意気投合したそうです。825エンタの沈社長ともお知り合いとのことで」

半ば思いつきの指示だったが、うまく調整すれば具合よくプランをまとめあげられる目算がついたと云う。
46 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:01:58.93 ID:bStRNLTRo
凛はやれやれと一息吐いた。

「んもう、わかったよ。これも私の役目ってことだね」

CGプロの切り込み隊長はいつだって凛だった。
何かしら初経験のことをする際には、必ず彼女に白羽の矢が立つのだ。

今回の凛のミッション――現地文化に造詣のあるユジンたち3人をサポートに据えて、韓国アイドルシーンへの斥候隊を組むこと。

「ジュニ、ヘナ、ユジン。やるからには全力だよ。私も頑張るから、よろしくね」

凛から力強い視線を浴びた3人は、緊張の面持ちで喉を鳴らして頷いた。

慌ただしい年度末・年度始めが、更に怱忙を極めそうだ。
47 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:03:58.56 ID:bStRNLTRo

・・・・・・

4月14日。この日の韓国は霧雨に濡れていた。

気流も不安定だったのか、厚い雲を突き破って着陸態勢へ臨む羽田発ソウル行きJAL91便の機内は、3次元全方向への振れ方がいつもよりだいぶ大きかった。

カクテルシェイカーの中の氷はこんな気分なのかもしれない。

午前11時前に金浦―キンポ―国際空港へ降り立った凛たちは、ベージュ寄りのアイボリーを基調とした配色の到着ロビーで大きく伸びをしている。

わずか2時間半足らずのフライトとはいえ、じっと席に坐っていては身体が固まってしまうというもの。

解し終えて一息吐きながら天を仰ぐと、照明の明るさに目が細まる。
48 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:04:57.28 ID:bStRNLTRo
1階であるせいかフロアは天井高が抑えられ、密に配置された蛍光灯が機械的な感触を与えている。

思ったよりも人がまばらであることも、その印象に拍車をかけた。

ソウル市内に位置する金浦国際空港は、名称に反して韓国国内線が大半を占める。今や国際線の主力は隣県の仁川―インチョン―国際空港が担っている。

その構図は羽田と成田、或いは伊丹と関空の関係にほぼ等しい。金浦に乗り入れる国際便は羽田、関西、北京、上海、台北の五都市だけ。

ゆえに金浦の国際線ターミナルはこぢんまりしていて、混雑度も高くないのだ。

多忙な身にとって、入国審査なり荷物受取なり、あまり待たされないのはありがたい。
49 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:06:05.28 ID:bStRNLTRo
「いやーソウルって近いもんだな」

声に振り向くと、ターンテーブルから遠征者全員の荷物を回収したPが、カートを押してやってきた。

「そうだね。先週の台湾よりだいぶ早かった気がするよ」

凛の実感は尤もなことだった。羽田からソウルは、国内線である沖縄便よりも距離が短い。

もっと云えば、東京から新大阪までの新幹線に乗っている時間とほぼ同じ。

あまりの気軽さに、ここが国外であることを忘れてしまいそうになるが、それでも読み慣れない文字の連なる案内板や広告が、韓国へ到着したのだと教えてくれている。

「台湾はさ、文字が意外と普通に読めるし意思疎通も何となくできたからよかったけど……韓国語はホント読めないね」

同じ漢字文化圏として台湾の繁体字はさほど理解に難くない。日本の旧字体の知識を持っていれば尚良し。
50 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:06:35.54 ID:bStRNLTRo
しかしハングルはそうはいかない。専門教育を受けていなければ、ただの記号の集合体だと脳は認識してしまう。

万が一にでも迷子になったら、自力で解決するのはかなり難しそうだ。

歩きながらやや不安そうにきょろきょろと方々を見回す凛に、ユジンが笑いかける。

「アハハ、離れないようにいつも一緒にいよ!」

「3人が頼もしいよ、本当に」

凛は安堵の息と共に偽らざる本音を述べた。

セキュリティエリアを抜けたところで現地コーディネーターとの合流はつつがなく進み、ターミナル前に迎えに来ていた黒いワゴン車へ乗り込む。

濡れた地面の水音を響かせて走り出すと、日本とは違う右側通行の道路は、とても違和感が大きかった。
51 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:07:58.91 ID:bStRNLTRo
===

漢江―ハンガン―に沿って30分も北上すれば、周囲はだいぶ郊外の様相を呈してくる。

自由路―チャユロ―と呼ばれる国道77号は片側4車線から5車線に亘る快走路で、心地よいほどに世界が後ろへと流れてゆく。

日本よりも国土が狭いはずの韓国でこれだけ潤沢な道路用地を確保できることに感心してしまう。

いや、確保せざるを得ないほどに車社会なのだと云うべきかもしれない。
52 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:09:09.15 ID:bStRNLTRo
同じ方面へ抜きつ抜かれつランデブーする車群を眺めていると、いつしか案内標識に『坡州』の文字が載るようになってきた。

隣に併記されている『平壌―ピョンヤン―』や『開城―ケソン―』という名が、ひどく遠いようで近いような、複雑な印象を与える。

この自由路は、名目上は北朝鮮へと繋がっている道路なのだ。

「もうそろそろ坡州に入るな。だいぶスムーズに来られたからどこかで時間調整をしようか」

景色をぼんやり眺めていた凛は、助手席に座るPの言葉で現実に戻された。

本日のゲネプロは夕方から。或る程度前もって現地入りしておくとしても、今はまだ早すぎた。

今頃は設営スタッフなどが慌ただしく行き交っているはずだから、早着して邪魔になるのは好ましくない。
53 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:10:13.73 ID:bStRNLTRo
車は自由路に別れを告げ、近代的かつ個性的な建築が並ぶ街へと滑り込んだ。

ここは坡州市の南西端、出版都市―ブックシティ―と云われる新市街。

出版社、印刷会社、流通企業などを集積し、出版事業の効率化を目指すために作られたエリアだ。

出来たばかりの計画都市なだけあって、街並は綺麗に整っている。
建物一つ一つがモダンなデザインをしているため、ともすればコピー&ペーストに近い雰囲気になりがちな新街区ならではの画一さは微塵も感じられない。

決してコンクリートジャングルというわけではなく、溢れる緑と調和した近代建築は、散歩をするだけでもその美しさに好奇心が満たされそうだ。
54 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:12:00.78 ID:bStRNLTRo
芸能業界同様、出版もまた流行の最先端に近い。

そんな業界が集積する街と云うものは、すなわちハイセンスなものに敏感。

至る所に本を読みながらくつろげるカフェがあり、低く垂れ込める雲を吹き飛ばすほどの明るさや熱量を持っているように思えた。

「へぇ、きれいなところだね。面白そう」

凛は読書に特段の造詣があるわけではないが、この場所のポテンシャルは理解できる。

神保町とはまた違うベクトルの専門都市に、ワクワクとした気持ちが湧いてきた。

「ね、プロデューサー、ユジンたちも、お散歩してみない?」

「いいね賛成♪ この隣にアウトレットモールもあるよ!」

ユジンが元気に頷いて、遠くを指差しながら破顔した。
55 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:13:03.15 ID:bStRNLTRo
さすがにモールへ寄っていたら時間調整どころかゲネプロへの遅刻が確定的だね、とつられて笑いながら練り歩く。

バス停のあるメインの通りから眺める街は淡い色やガラス張りの建物が多く、とてもソリッド。

濃色のものだって重い印象は受けないし、壁面が無装飾でも決して無機質一辺倒ではない。

一本路地に入ればそれらの密度は更に増し、それでいて緑の緩衝が適度にあるので、まるで街そのものが美術館か箱庭のように思えてくる。

なるほど、『人間性を回復するための都市』とのテーマは確かなようだ。

やっぱり散歩は小道に入ってこそだね、とおしゃべりをしながら歩いていると、こぢんまりとしたコンクリート打ちっぱなしの建物から出てくる人影があった。
56 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:14:33.13 ID:bStRNLTRo
「あら、イケメン!」

ヘナが小声に抑えつつ口元を綻ばす。

視線を追うと、細身にぴっちりした黒いスーツを纏い、横へ柔らかく流した茶髪の目立つ男が颯爽としている。

「えっ?」

思わず凛が大きな驚嘆の息を漏らした。まさかこんな場所でこんな大物と邂逅するとは露にも思っていなかったのだ。

誰あろう姜だった。

建物に反射してよく響く凛の声に気付いた姜もまた、一行の姿を認めて目を大きくする。
57 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:15:45.49 ID:bStRNLTRo
やや遅れてビルのガラス扉がもう一度開くと、R.G.Pメンバーのうち3人――
リーダー格のキム・ソリ、センターを務めるイ・スジ、ムードメーカーのユキカが黄色い声と共に出現した。

「えー! なんでこんなところに渋谷凛さんが!?」

日本在住経験のあるソリが、飛び上がりながら流暢な日本語で問うた。

「まさか姜プロデューサーがスカウトしてきたわけじゃ……ないか」

とユキカも笑う。
58 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:16:39.59 ID:bStRNLTRo
「実は明日、ヘイリ芸術村での親善交流に参加することとなりまして――」

偶然立ち寄ったのだと凛が説明すると、

「ああ、日本からいらっしゃるシークレットゲストとは貴女たちのことだったのですね」

合点のいったように姜が頷いた。

唯一日本語を理解できないスジは、ソリやユキカの通訳を経て、ワンテンポ遅れてともに頷く。

口ぶりから、凛はR.G.Pも出演―で―ることを察した。
59 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:17:31.10 ID:bStRNLTRo
なのに、こんなところで油を売っているとはどういうことなのだろうか。自らの散歩を棚に上げた疑問を持つ。

「ここは825の事務所兼スタジオなのですよ」

姜が背後を指差して相好を崩した。よく見れば、入口の上に控えめな「825」のロゴが掲げられている。

事務所が郊外に設けられているとは意外だったが、よくよく考えれば、出版と云う行為は芸能とも縁が深い。

ソウル市外とはいえここは首都圏内だし、坡州ブックシティに置くのも選択肢として充分にアリだ。

環境の良い街でレッスンできればモチベーションにもつながる。
60 : ◆SHIBURINzgLf [saga]:2020/07/19(日) 23:18:51.84 ID:bStRNLTRo
「羨ましいかも」と凛がつぶやくと、姜は「我が社はいつでも貴女をお待ちしています」と名刺を取り出して云う。

Pの目の前での堂々たるスカウトに皆が笑った。PもPで、

「CGプロも、いつでもお迎えのご用意ができています。R.G.Pだけでなく姜プロデューサー、あなたも我が社でアイドルになりませんか?
理由―わけ―あってプロデューサーからアイドルへ――大ヒット間違いなしですよ」

と誘うのだから、笑い声が更に大きくなる。

ひとしきりの会話の後、明日の健闘をお互い祈り合った。
61 : ◆SHIBURINzgLf [sage !蒼_res]:2020/07/19(日) 23:22:47.28 ID:bStRNLTRo

今日はここまで。

ちなみにパジュのブックシティは実際にアイマス.KRの事務所風景のロケが行なわれた場所です。
いつか聖地巡礼してみたいものです。
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