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渋谷凛「ゴースト レイト」
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1 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:33:03.95 ID:4if+2Hlr0
嫌な空気の夜だった。真綿で首を絞められているかのように呼吸がしにくかった。
空にはどんよりと重たい雲が浮かび、月も星も見えない。
現在私がいる場所が神社というのもあって、言いようのない気味の悪さが漂っていた。
唯一の光と言えば本殿の賽銭箱の上で、ちかちかと明滅している頼りない電灯のみで、それがいっそう私の気分を落ち込ませる。
胸の内に滞留しているもやもやとした不快な何かを乗せるように、はぁ、と息を吐いた。
「こういう日も、あるよ」
背後から、優しく温かい声が届く。「うん」と力なく返事をして見やれば、そこには柔らかな笑みを浮かべたスーツ姿の男、アイドルである私のプロデュースを担当してくれている彼、プロデューサーがいる。
「失敗は誰にでもあるし、普段は簡単にできることがどうしてか上手くいかない、なんて日もある」
「うん」
「だから気にするな、とは言わないけど」
彼は一歩を踏み出して、私の隣に並ぶ。
そうして「凛」と短く私の名前を口にして「ちょっと話そうか」と続けた。
私が肯定も否定も返さずにいると、彼はそれを肯定と受け取ったのか本殿の方へと歩き出して、石の階段に腰かける。
自身の隣の空間をぽんぽんとしているのを見るに、こっちにきて座れ、ということらしい。
素直に私はそれに従って、彼の隣に腰かける。
ややあって、彼が口を開いた。
「凛はさ、こういうこと考えたことある?」
「……?」
「もし、自分をプロデュースしているのが俺じゃなかったら……違う人だったら、って」
「ない、けど」
けど、プロデューサーが担当しているのが私じゃなかったら、ということなら、ある。
喉元まで出てきた言葉をぐっと飲みこんで、再び私は「ない」と繰り返した。
「俺はね、あるんだ。凛がもっと、才能も実力もコネクションもある人に担当されていたら、って」
「……」
「そうしたら、きっと凛はもっともっと早くに曲をもらっていただろうし、大きなライブも俺と一緒に活動するより一年は早くできたんじゃないか、とか。……そういうこと、何年か経った今でも未だに思う」
「…………そっか」
私が思っていたこととほぼ同じこと彼が言うものだから、びっくりしてしまう。が、同時に温かい気持ちにもなる。
なんだ、似た者同士だ。
「でも、こうも思うんだ」
「ん?」
「やっぱり凛をプロデュースするのは俺がいいな、って」
「……生放送で、失敗しちゃうアイドルでも?」
「もちろん」
少し照れくさそうに彼は口角を上げて「凛じゃなきゃ嫌だぜ」と平常とは異なる口調で、私の肩を小突いてくる。
それだけの単純なことなのに、気付けば私の気分は随分と軽くなっていて、魔法みたいだ、と思う。
すっかり晴れやかな気分になった私は、軽い冗談のつもりで「私は別に、プロデューサーじゃなくてもいいかな」とおどけて彼を小突き返した。
「えー」
わざとらしく悲しそうな顔を作って、プロデューサーは立ち上がり「さて、そろそろ宿に戻ろうか」と歩いて行く。
その後ろ姿を最後に、プロデューサーは、消息を絶った。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1593869583
2 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:33:43.91 ID:4if+2Hlr0
〇
翌朝、宿泊しているホテルのベッドで目を覚ました私がプロデューサーに電話をかけると、該当する番号は使われていない旨を示す電子的な声が返ってきた。
そんなはずはない。
昨日まで確かに繋がっていたのだから。
何か、通信障害でも起きているのだろう。
そう思って、私は手早く支度を済ませ、部屋を出る。
プロデューサーが宿泊している部屋のドアをノックすること、数回。
ようやく室内から物音が返って来て、がちゃりと鍵が開いた。
ほっと胸を撫でおろすのも束の間、期待に反して部屋から出てきたのは金色の髪をした、肌の白い小さな男の子だった。
「どうしたの?」
「…………」
何が何だかわからず、思考がフリーズしてしまう。
しばらくしたのちに現実を理解した私は、男の子に部屋を間違えてしまったと詫びて、その場を離れた。
3 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:34:41.89 ID:4if+2Hlr0
〇
どういう、ことだろうか。
額から嫌な汗が止めどなく溢れ出す。
そうだ、ホテルの人に訊いてみよう。
私が単に彼が宿泊している部屋の番号を間違えているのかもしれない。
縋るように部屋のサイドボードに備え付けられたフロント直通の電話の受話器を耳に押し当てる。
私は電話がフロントに繋がったことを確認するや否や、すぐさま「うちの事務所の人間って、私以外に泊まっていませんか。何号室かわかりますか」と訊ねた。
こういう、個人情報に関係することは通常であれば答えてくれないかもしれないが、私がアイドルであることはこのホテルの人には伝えているので、何とかなるだろう。
そんな、半分賭けのような形でのお願いであったが、どうやら聞き届けられたようで「確認いたします。少々お待ちくださいませ」と声が戻ってくる。
軽快な保留音が流れ始めたのを受け、私はふぅと長い長い深呼吸をした。
それから待つこと、一分少々。
再び電話は繋がってホテルの人が「大変お待たせいたしました」と言う。
「それで……えっと」
期待を込め、私は続きを促す。
『お調べ致しましたが、シンデレラプロダクションの方でご宿泊いただいているのは渋谷様のみでございます』
わけがわからなかった。
私は泣き出しそうになりながら電話を切り、荷物をまとめる。
チェックアウトを済ませてホテルを出ると、そのまますぐにタクシーに飛び乗った。
そうして、運転手さんに所属している芸能プロダクションの住所を告げたあとは、現実から逃げるように目を閉じるのだった。
4 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:35:27.54 ID:4if+2Hlr0
〇
片道二時間超の距離をタクシーに揺られ、私は事務所へと戻ってくる。玄関にいる警備員の人たちの挨拶に会釈で以て返し、廊下をずんずん進んでオフィス内に入る。
たくさんのデスクが並び、コピー機の音やキーボードを叩く音、電話の着信音、様々な音で賑わうオフィスを見渡す。
幾度となく勝手に居座り、くだらない話を繰り返した場所。私のプロデューサーのデスクのある場所には、あった場所には、違う社員さんがいた。
ここまで来て、私は思い至る。これはドッキリではないだろうか。
どこかで私のこの様子はモニタリングされていて、プロデューサーはそこでけたけたと笑っているのだ。
そう思うと、次第に腹が立って来る。プロデューサーのデスクへと向かい、そこに座っている男性に「あの」と声をかけた。
男性はびくりと跳び上がりこちらを見る。
「! お疲れ様です! 何か御用でしょうか」
何度か挨拶は交わしたことがあるが、あまり面識はない人だった。
「そこ、私のプロデューサーの席だったと思うんですけど」
「え? 渋谷さんの? プロデューサーさん?」
「何か、おかしいこと言ってますか」
「いえ、あの、渋谷さんはデビュー当初からおひとりで活動されているはずでは……」
「えっ?」
男性は本気で狼狽し恐縮しきってしまっているようで、これ以上の情報は望めなさそうだった。
仕方がないので、私は会話を打ち切り冗談であると伝え、その場を後にする。
そして、今度はさっき男性から得た情報の裏を取るために、私の所属する事務所の凄腕事務員であり、長年の付き合いでもある千川ちひろさんに同様の質問をしてみた。
結果は、まったく同じで、私を担当しているプロデューサーは過去から現在まで、一人もいないようだった。
さらには、私を担当していた彼と同じ名前の人物すら、存在しなかった。
5 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:38:08.90 ID:4if+2Hlr0
◆ 2
プロデューサーが消えて、二週間が経った。
依然としてわけがわからなかったけれども、アイドルとしてのお仕事はあったので、問題をそのままに今日まで私は過ごしてきてしまっていた。
わかっていることは、二つだけ。
あの神社での夜から、朝までの間にプロデューサーが消えたこと。
プロデューサーを知っているのはこの世界で私だけで、他の人々は彼が存在していたことすら覚えていないらしいこと。
あまりにも情報が足りなかった。
そもそも“存在しないことになってしまっている”だけに、探すのは不可能に思われた。
神隠し。そんな単語が脳裏を過る。
消えた場所が神社であるだけに、どうしてもそうとしか思えない。
超常の存在による現象であるならば、私にはどうすることもできない。
今はただ、彼の無事を祈るばかりだった。
そんな調子で過ごした二週間という時間は、私をやつれさせるのに十分で、私はすっかり疲弊しきっていた。
彼のことは、他の人々同じように私も忘れてしまうしか、ないのかもしれない。
なんていう、暗い考えが浮かんできた矢先、私の携帯電話がぶるぶると震える。
表示は公衆電話からのものであることを伝えていた。
おそるおそる私はそれを取り、携帯電話を耳に当てる。
「…………もしもし?」
『凛、だよな。わかるか。俺のこと』
「えっ…………プロデューサー?」
『聞こえてる……。俺の声、聞こえる、のか』
「うん。……うん。聞こえる。聞こえてるよ」
私を、渋谷凛をアイドルにした人で、アイドルである私をプロデュースしてくれていた、くれている人の声を間違えるはずがなかった。
『信じられないことが起こってる』
「誰も、プロデューサーのこと覚えてないよね」
『…………そうなのか』
「わかってること、教えて欲しいんだけど」
『ああ』
短く彼が声を発したあとで、追加でお金を入れなければ間もなく通話が終わってしまう旨の電子音が鳴る。
『すまん。凛、これ拾った小銭で電話かけてて、もう、お金がない』
「えっ、ちょっと、えっと……プロデューサー、いまどこ! 行くから!」
『たぶん、間に合わない』
「そんな遠くにいるってこと?」
『そうじゃなくて』
「いいから! 場所、教えて」
『……わかった。俺はいま、ゆ……』
一音を最後に、通話はぷつんと途切れてしまう。
場所について得られた直接的な情報はたったの一文字、ゆ。
これではどこにいるのか、わからない。
ようやく見えたかに思えた一筋の光明は、か細く今にも消えてしまいそうだ。
だが、諦めるわけにはいかない。これを逃したら次の機会は二度とやって来ない可能性だってある。
ぺち、と自分の頬を軽く叩き、頭を全力で回す。
まず、現在の私が行ける場所であると仮定する。そうでなかったのならば、それはもう考えても仕方がないからだ。
なおかつ、独力ではどうやってもこちらに来られない場所と考えるのが妥当だろう。
彼が言っていた、お金がないという情報から独力では私のもとへは来られないことが予想される。つまりは何かしらの交通手段を用いなければならない距離であり、そうすると自然に東京都内は候補から外れる。
ゆ、で始まる地名をインターネット検索し、出てきたものから町村などのマイナーな地名は除外する。
彼なら私にわかる形で伝えるはずだからだ。
やがて、一つの候補地が私の中で浮上する。
由比ヶ浜海岸。
なぜか不思議と、ここだと思った。
携帯電話と財布という最小限の荷物を持って、両親に気が付かれないように自宅を出る。
時刻は既に、日付が変わってしまう頃だった。
6 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:40:51.18 ID:4if+2Hlr0
〇
私が由比ヶ浜海岸へ到着したのは、深夜一時を過ぎた頃だった。
今日が金曜であることも相まって、なかなかタクシーが捕まらず、ようやく乗れたタクシーで行き先を告げると怪訝そうな顔をされた。
それもそうだ、とは思う。
こんな時間に、女一人で海だなんて。
見方次第ではよからぬことを考えているのでは、と思われてしまっても文句は言えない。
しかし、私は運転手さんに有無を言わせず「由比ヶ浜海岸に、お願いします」と押し通したのだった。
そうして到着した由比ヶ浜海岸は、想像していた静かな夜の浜辺とは違って、人影が多数あった。
薄ぼんやりと青白く、海が光っていた。
幻想的な光景が広がっていて、思わず息を飲む。
ああ、そうか。
これの見物客か、と得心したあとに、私は本来を目的を思い出して、首をぶんぶんと振った。
彼を探さなくては。
砂浜へと踏み出して、柔らかな感触を得ながら波打ち際を歩く。
見物客の多くは男女の組み合わせだった。
私もそうであったら、どれだけよかっただろうか。
なんて、くだらないことを考えながら歩いていると、遠くに一人でぽつんと座り込むシルエットが見えた。
直感的に私は、あれだと感じて、駆け出す。
その影のもとへと辿り着くと、期待通りの人物がそこにはいた。
「どうして」
「私、結構引きは強い方なんだ」
「…………会えて嬉しいよ」
「いろいろ、訊きたいことがありすぎて困るんだけど」
「ああ。凛は、俺が見えるんだな」
「……? どういう」
「どうも、俺は人には見えないらしいんだ」
「え」
「話しかけても反応がないし、俺が何かしらの接触を行っても相手はそれを感知することができない」
「本当なの?」
「ああ。この二週間、嫌というほど思い知った。なんならそこらにいるカップルに蹴りを入れてきて証明してもいい」
「物には、触れるんだね」
「正確には所有者がはっきりしていないものには、になるのかなぁ。触れないものには触れても触れたこと自体がなかったことになる」
「売り物とか、人の荷物とかはだめってこと?」
「らしい。あとは、毎晩出てくる場所はランダムっぽいこと、もわかってる」
「出てくる? えっと、プロデューサーが、ってこと?」
「そう。わけわかんないと思うけど、俺は夜になると出てこられるんだけど」
「うん」
「その出てくる場所は、まちまちなんだ。昨日はどこかの山奥だった」
寂しそうに言って「星が綺麗だったよ」と彼は自嘲じみた笑みを浮かべる。
「規則性は、ないの」
「ないな。行ったことない場所にも出たし、二日連続同じ場所だったこともあった」
「……そっか」
「おばけにでもなった気分だ」
「おばけ」
「そう。夜にだけ現れる、亡霊。夜の亡霊」
聞けば聞くほど意味がわからない。
だが、当事者である彼が語るのだ。嘘であるとも思えなかった。
「……あ。っていうか、お腹空いてない? 話聞いてる感じだと、二週間飲まず食わずなんじゃないの」
「それが、不思議なことに平気なんだ。このとおり、なんともない」
見れば、彼の顔はやつれてもいないどころか、最後に会ったあの夜から何一つ変わっていないようだった。
どういう仕組みなのか一切が不明だが、ひとまずは餓えや脱水症状などの心配がないことに私は安心する。
「俺はそんな感じで、自分の状況を把握するのと、この夜にだけ姿を現せる一連の出来事のルールを探るのに必死だったわけだけれど」
「うん」
「凛の方の現状もそろそろ教えて欲しい。事務所で俺はどういう扱いになってる?」
「それは……えっと……たぶん。いなかったことになってる、っていうのかな」
「忘れてる、じゃないのか」
「……うん。プロデューサーの席はなかったし、私の家にもなかったんだ」
「何が」
「……プロデューサーからもらった名刺」
「………………そうか」
7 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:41:37.84 ID:4if+2Hlr0
口元に手を当て、彼は考え込むようにしたあとで「なら、凛の現状は……?」とおそるおそる言う。
「私は、デビューから今までずっとマネージャーもプロデューサーもつけてないことになってたよ」
「じゃあ、アイドルとしての活動に直接的な影響は、ないのか」
「たぶん。とりあえず現状はなんともない、かな。私が知らない私のことを知ってる人がいたりして、話を合わせるのが大変なくらいで」
さらに考え込むようにして、プロデューサーは重々しく「なるほど」と呟いた。
「…………俺のことを覚えてる弊害、みたいなものかぁ」
「害なんて言わないでよ。私にとってプロデューサーはプロデューサーしかいないんだから」
「……ごめん」
二人の間に居心地の悪い沈黙が訪れる。
私の気持ちに反して、海は美しく青白い光を放っていて、なんとも皮肉だった。
そのような空気を振り払うべく、努めて明るく「とりあえず、帰ろうよ。家までのタクシー代くらい出してあげるからさ」と彼に笑顔を向ける。
しかし彼の表情は暗いままで「いや」と、立ち上がろうとしなかった。
「どうしたの」
「俺、日中の記憶がないんだ」
「え」
「夜になると意識が戻って、またしばらくすると電池切れみたいに記憶がなくなる」
「それで、気が付くと次の夜になってる、ってこと?」
「そう。具体的な活動できる時間はだいたい二時間くらいで、意識が戻る時刻は、日付が変わる前か後か、それくらい」
言われて、彼が電話をかけてきた時間を思い出す。日付が変わる前か後から、二時間くらい。
であれば、もう、彼は。
慌てて財布から小銭を取り出して、すべて彼に渡す。
「これは」
「また電話するのに必要でしょ」
「……ありがとう。絶対、電話する」
「悲観しちゃ、だめだよ。絶対、解決してあげるから」
「…………ああ」
「物は持ち越せるんだよね。次の夜に」
「たぶん。木片や石ころでしか試したことがないから、凛の所有物だった小銭にもこのルールが使えるかはわからないけど」
「きっと、大丈夫だと思う」
「根拠は」
「ないよ。でも、私の小銭なんだから、ご利益ありそうでしょ?」
ようやく彼は本来の笑顔を見せ「そう、だな」と言った。
「電話、待ってるから」
彼はぎゅっと手の中の小銭を握りしめ、頷く。
「……海、綺麗だね」
「ああ」
「なんで光ってるのかな」
「夜光虫、って言うんだ。海洋性のプランクトンで、すごく小さいんだけど」
詳しいね、と言いながら右隣に視線を向ける。
そこにはもう、彼はいない。
8 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:42:44.23 ID:4if+2Hlr0
◆ 3
カーテンを貫いて部屋へ射し込んでくる陽の光によって、私は現実に引き戻される。
上体をのっそりと起こし、大きく伸びをすると完全に頭が覚醒を果たし、状況やこれから行うべきことがぽつぽつと浮かんだ。
顔を洗って、朝ごはんを食べて、愛犬であるハナコの散歩。
すぐに家を出たら、私が出演するイベントに関する打ち合わせがあって、会食。
休憩なしに移動して撮影が二件、取材が一件。
合間の時間で、発注していた衣装のデザインを確認するのと、ライブの物販で発売する予定のグッズの納期調整の電話もしないとだ。
などと、ぐるぐる思考を回している頭に急ブレーキをかける。
待て。
浮かんだ仕事のいくつかは、私が本来やっていたものだろうか。
違う、はずだ。
それを担っていた誰かがいたはずだ。
目を閉じて、いたはずの誰かを必死で思い出す。
いつもスーツに身を包んでいて、私のことをからかってくるおばかな男の姿が脳裏に浮かぶ。
普段はおどけているようでいて、いざというときはすごく頼りになる、彼は。
「プロデューサー」
ぽつりと呟くと、私は全てを思い出し、昨日の夜に再開を果たせたこと記憶も鮮明に蘇ってきた。
「………………どうして、こんな大事なこと忘れかけてたんだろ」
背中を嫌な汗が伝う。
私の想像以上に事態は悪い方向へ進行していて、このままでは取り返しがつかなくなりそうだ、と思い知らされる。
でも、どうしたら。
ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。
弱音を吐きたくなるのをぐっとこらえ、唇を強めに噛む。
悲観するな、と彼に言ったのは、私だ。そんな私が悲観するわけにはいかない。
わからないことだらけでも、最善を尽くす以外の選択肢は私の中には、ない。
それに、プロデューサーは夜にしか行動ができないのだから、この問題は全ての時間を自由に動ける私にかかっている。
まずは一つ一つ、積み重ねていくしかない。長い道のりになりそうだが、覚悟はもう決まっていた。
9 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:43:35.77 ID:4if+2Hlr0
〇
その日のアイドルとしてのお仕事を終え、私がテレビ局を出たときには街にはすっかり夜の帳が降りていた。
関係者用出入り口前のロータリーに停まっているタクシーに乗り込んで、事務所に向かってもらう。
ちひろさんに頼んで、いくつか用意してもらったものを受け取りに行くためだった。
ちひろさんに頼んだものは二つ。携帯電話とそのポータブル充電器だ。これをプロデューサーに渡しておけば、いつでも連絡を取り合うことができる。
そんな矢先、私の携帯電話がぶるぶると震えた。ディスプレイに公衆電話からの着信であると表示されているのを見るや、すぐに私は電話を取る。
「……プロデューサー?」
『ああ。もらったお金は無事、持ち越せた』
ほっと胸を撫でおろす。
しかし、同時に別の疑問が沸いて出た。
「まだ、二十二時にもなってないけど……」
『そう。そうなんだよ。今日は早い。これまでもたまにあったんだけど』
「初めてではないんだ」
『うん。だから、特別異常ってわけではない。大丈夫だと思う。ただ、別の問題があって』
「別の問題?」
『今日は大須に出た』
「大須……名古屋?」
『そう。今日は諦めた方がよさそうだ』
「大須から名古屋駅って、歩ける距離だよね」
『たぶん……ちょっと遠いけど』
「それくらい我慢してよ。今から、行くから。名古屋駅の、ほら、あの金色の時計のところで二時間後に」
『間に合わなかったらどうするつもりなの』
「そのときはそのとき。いいから!」
彼に渡した小銭はまだまだ余裕があるとは言え、今日会えなければ次に会えるのがいつになるのかはわからない。
昨晩彼が言っていたように山奥に放り出されるときもあれば、離島や北海道などということもありえるのだ。
できるだけ節約して欲しくて、乱暴に電話を終了する。
作戦変更だ。
事務所に行くのはまた明日にして、タクシーの運転手さんには「やっぱり、東京駅でお願いします」と伝えた。
10 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:44:38.94 ID:4if+2Hlr0
〇
私が名古屋駅に到着したのは日付が変わってしまうぎりぎりの時刻だった。
この時間ともなると、さすがに人もあまりいないようで、構内を歩いている人々も終電に何とか間に合わせるためか、必死そうな表情の人が多い。
以前にロケで訪れたときは昼間で賑わっていたのもあって、雰囲気の違いように少し驚く。けれど、あまり時間を無駄にしてもいられない。
改札を出て、辺りを見渡す。右手に銀色の時計のモニュメントを認め、これと対になる金色の時計のモニュメントは反対方向であると瞬時に理解した私は、小走りでその方向へと進んだ。
やがて、私は大きな金色のモニュメント前にやってくる。
平常時であれば多くの人が待ち合わせの場所に利用するらしいここも、終電間際とあっては、そんな影もなく、ぽつりと一人のスーツ姿の男が佇んでいるのみだった。
「プロデューサー!」
「……申し訳ないな。いろいろと」
「気にすることないよ。プロデューサーの方が大変なんだから」
「…………思ったんだけど」
「何?」
「これ、遠距離恋愛みたいだな」
こんな、大変なときであるのに冗談を言うのはいかがなものか、と思わないでもなかったけれど、昨日のように気落ちしている彼よりは、こっちの彼の方がよっぽど良い。
元気が戻って良かった。
なんて、喜びの気持ちを込めて、私は思い切り彼の足を踏みつけてやった。
「いったぁ」
「そんなこと言ってる場合?」
「あはは。でも、また凛に会えて嬉しくて」
「……よかったね。私に会えて」
「ああ。ほんとに」
何故か彼は心底会えて嬉しいというような真剣な面持ちで言うのだった。
「それにしても名古屋、名古屋か」
「何度か一緒に来たよね」
「来た来た。でっかい水族館、一回だけ行ったよなぁ」
「あったね、そんなことも」
「隣の喫茶店で食ったパフェが大きくて大きくて」
「あれ、プロデューサーが頼んだんでしょ。私の曲に名前が似てる、とか言って」
「ネバーギブアップ、だっけ。あれはきつかった」
「しばらくパフェ、見たくなかったもんね」
「そうそう! ……話してたら、パフェ食いたくなってきたな」
「そういうもの?」
「そういうもの! ほら、立ち話もアレだし、ファミレスでも行こう」
誰にも視認されていない彼は、腕をぶんぶん振って、スキップしながら名古屋駅の構内を跳ねている。
やっぱりこの男は、おばけではなく、おばかだ。
11 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:45:45.01 ID:4if+2Hlr0
〇
さて、状況整理といこう。
プロデューサーはそう高らかに宣言して指を鳴らす。
私以外の誰にも認識されることがないのを良いことに、彼はファミリーレストランの最奥の席で、贅沢に椅子を二つ並べて、どっかりと座っていた。
「まず、今日はちょっとおかしい」
「うん。なんでそんなにハイテンションなの?」
「そういうおかしいじゃなくて……。いや、関係あると言えばあるんだけど」
「どういうこと?」
「消えないんだよ。もう“出て”からとっくに二時間は過ぎてる」
「普段は二時間くらいで消えちゃうんだっけ」
「ああ。思えば、昨日もちょっと長かったな。三時間は意識があった気がする」
「……もしかして」
「俺もそう考えた。俺は、誰かが認識してくれている間は消えずにいられる可能性がある」
言われて、昨晩の記憶を辿る。
彼が消えたのはどんなタイミングだったか。
それは、私が彼から目を離し、海を眺めていた時だったはずだ。
「そのとおりだったとしたら、このままずっと私がプロデューサーから目を離さなければ、プロデューサーは消えずにいられるってことになるよね」
「そうかもしれない。でも、それは根本的な解決にはなってない。し、現実的じゃない。凛は俺と違ってずっと起きていられないだろ」
「……その言い方だと、プロデューサーは寝ないみたいな言い方だけど」
「眠さ、感じないんだ。ふてくされて眠ろうとしたことがあるんだけど、眠れなかった」
「……そっか」
「さぁ。落ち込んでても仕方ないし、状況整理だ。まずは凛、何か変わったことはあった?」
「変わったこと……あ」
すぐに今朝のことが思い当った。
起きてすぐは、プロデューサーのことを忘れていたこと。
初めからプロデューサーがいないかのごとく、やるべき仕事についてすらすらと思考が組み立てられていったこと。
全てを包み隠さず彼に語ると、彼は「なるほど」と唸り、腕を組んで険しい顔になる。
「……となると、俺の考えてた説は微妙かもしれないな」
「説?」
「うん。俺という存在はもともと存在しなくて、凛が創り出したイマジナリーフレンドのようなものなのではないか、と思ってさ」
「……そんなわけ」
ないでしょ、と言いたいがそれを否定できるだけの情報を私は持ち合わせていなかった。
「ああ。そんな悲しそうな顔しないで。たぶん、この説はないよ」
「そうなの?」
「だって、俺のことを忘れていたわけでしょ。昨晩、由比ヶ浜に行った記憶ごとすっぽりと」
「うん」
「だから、凛に起きたのは、事務所の人……千川さんたちに起きている出来事とは別種のように思う」
「別、っていうと?」
「ほら、他の人たちの中では、これまでのアイドル渋谷凛の歴史の改変と、俺に関する記憶の消去だけが行われていたわけだろ」
「うん」
「でも、凛に起きたのは?」
「……もともとできなかったこともできるようになってる?」
「そう。プロデューサーとして俺がやっていた仕事の全部を凛がやるなんて、到底無理だと思うんだよ。それも活動の密度を維持したままなんて」
「……言われてみれば」
「つまり、何らかの不思議な力が、その帳尻を合わせている」
「……じゃあ」
「ああ。言い方は悪いけれど、凛の頭がおかしいわけじゃなくて、これはちゃんとした異常事態だ」
ちゃんとした異常事態、というのは変な表現だが、私はこの事実に安心した。
なぜなら彼が、私のプロデューサーが架空の存在でないと、わかったからだ。
「状況はわかってきた。なら、次は原因をつきとめる」
「どうやって?」
「さぁ」
「……ちょっと」
じろりと冷ややかな視線を浴びせてやると彼は、あははと笑う。「わかんないんだよ。いつ、俺がこうなったのか。何も覚えてない」
「どうしてそんな大事なこと言わなかったの」
「タイミングがなくて」
「……プロデューサーが消えたのは、二週間前」
「そうなんだ」
「そうなんだ、って」
「時間の感覚、もうないんだよな。二時間くらいしか存在できなくて、場所もランダムで、毎回“出た”ときに時刻や日付を確認できるわけじゃないし」
「“出た”夜を数えたりはしなかったの?」
「百を超えてからは、してないな」
「……え?」
12 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:47:29.95 ID:4if+2Hlr0
〇
聞けば、昨晩私と会ったあとから、こうして私と再び会うまでの間に、プロデューサーは途方もない数の夜に“出た”という。
そして、彼の言うところによれば、いずれの夜も過去の地点であったらしい。
「……過去の私には連絡したの」
「それが、できなかった」
「……どういうこと?」
「俺が出ると、その地点での俺がいる事実が消える、っていうのかな。誰にも認識されなくなったんだ」
「……誰にも、ってことは」
「そう。凛にも」
「……そっか」
二週間各地に放り出され彷徨った末に、ようやく自分を認識できる相手に出会えたというのに。
彼はその直後にまたしても、同様の苦しみを与えられていた、なんて。
この現象を引き起こしている存在に対して、ふつふつと怒りがわいてくる。
彼が何をしたというのだ。
「怖い顔、してるぞ」
「するでしょ。普通。自分に近しい人が酷い目に遭ってるんだから」
「怒るよりも、今は考えよう。明日までに俺はいくつの夜に飛ばされるかわからないし、今日できることは今日やっておきたい」
「……うん、そうだね」
「それに、明日も凛が俺を認識できるとは限らないからなぁ」
「思い出すよ。絶対。今日だって、思い出せたんだから」
「いや、楽観視しないほうがいいと思う。今日思い出せたのは、まだ俺が“出た”夜の数が少ないおかげだろうし」
「どういうこと?」
「さっき言ったけど、過去の凛は俺を認識できなくてさ」
「うん」
「こうしておばけになっちゃった時点より前ならアイドル渋谷凛に担当のプロデューサーがいたはずなのに、いないことになってるわけだ」
「うん」
「これ、さ。俺が行くことで、他でもない俺自身の手によって“その地点の俺”を消して回らされてるんだと思うんだよ」
「…………じゃあ。プロデューサーが過去にいけばいくほど」
「ああ。凛の中の俺の情報というか、記憶というか、そういうものが薄れていくんじゃあないかなぁ」
であるならば、次に私が起きた時に彼を覚えていられるかどうかは、わからない。
そういうことになる。
改めて事態の重大さを思い知らされ、胸が締め付けられた。
13 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:47:56.47 ID:4if+2Hlr0
「今日は、とりあえずプロデューサーにこれ渡そうと思って」
「ケータイ、と充電器? 凛のだろ、それ」
「うん。明日返してくれたらいいから。実は今日、もう一台契約してきて……受け取りに行く時間はなかったんだけど……そんなわけで私は大丈夫だから」
「でも、凛の新しく契約した方の番号を知らない」
「私が電話するよ。十五分に一回くらい」
「何から何まで……ごめん」
「謝らないでよ。プロデューサーは悪くないんだからさ」
「……ああ。ありがとう」
「さて、これでプロデューサーが公衆電話を探して歩くまでの時間は短縮できるようになったわけだけど」
「……そう、だな。根本的な解決にはなってない」
「分担制で、誰かがプロデューサーを認識し続ける、っていうのも」
「無理だろうなぁ。現状、それができるのは凛しかいないし」
「そうだね。しかも、限られた人間にしかプロデューサーが認識できないなら、意味ないから」
「…………やっぱり、原因をつきとめるしかないと思う」
唇を噛み、彼が言う。
私としてもそう思うが、その方法がない現状では、これ以上のことは何もできそうになかった。
彼を視界から外さないようにしながら、私は片手を口元に当てて考え込む。
プロデューサーが消えた原因はなんだろうか。予兆はなかっただろうか。
彼が消えた日のことを思い出す。
生放送で失敗した私を元気づけるために、プロデューサーが夜の散歩に誘ってくれて、宿の近くの神社に行って。
あ。
私ははっとして、目を見開いて、彼を見つめる。
どうしたの、と首をかしげてる彼に向かって、私は「神隠し」と言葉を投げた。
「神隠し?」
「うん。じゃないかな、って」
「…………あの、神社か」
「可能性は、あるよね。普通じゃ起こりえないことが起きてるんだから」
「……そうだなぁ。ただ、そうなってくると」
「打つ手がない?」
「ああ。神様相手だったら、もう諦めるほかないんじゃないか」
「……でも」
「凛が俺のためにいろいろとしてくれるのは、嬉しいよ。だけど、やっぱり今回ばかりは覚悟を決めた方が、凛のためだと思うから」
「……なんで」
なんで、そんな遺言のようなことを言うのだろう。
これでは、まるで。
「一回、行ってみようよ。あの神社にさ。今から」
「もう新幹線も動いてなければ、片道何時間かかるかすら定かじゃない」
「でも、タクシーなら」
「その間、凛は俺を視界から外せないんだよ」
「それくらい、どうってことないよ」
「また、日を改めよう」
「でもそうしたら、次の夜にはプロデューサーのこと、覚えてないかもしれないでしょ」
「凛、ほとんど寝てないだろ。倒れるよ」
「二日くらい、どうってことないよ」
「二日どころじゃないだろ。この二週間、アイドル活動に加えて俺のやっていた仕事もやっていたんだから」
「……そう、だけど。でも、緊急事態でしょ。人のこと気にしてる場合?」
「プロデューサーってのはそういう仕事なの。大丈夫、明日の夜もきっと会えるよ」
優しく温かい声が耳に届いたあとで、彼は席を立つ。
視界から外さないようにその姿を私は視線で必死に追いかけていると、やがて彼は私の目の前にやってきた。
「なに」
「おやすみ。しっかり休んで」
柔らかく、大きな手のひらで、私の両の目は塞がれる。
その感触が消える頃には、もうどこにも彼はいなかった。
14 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:48:29.53 ID:4if+2Hlr0
◆ 4
質素なビジネスホテルの一室で目を覚ました私は、ルームウェアから私服へと着替え、手早く身支度を済ませる。
そうしてホテルのモーニングを摂り、意気揚々とチェックアウトを果たしたのちに名古屋の街へと繰り出した。
昨日はここ、名古屋の地での番組ロケがあり、その収録が夜更けまで及んだことから東京へは戻らず宿泊していた。
その影響で、今日の午前中は予定が入っていない。久々に自由に使える時間に心を躍らせながら、地下へと降りて路線図を眺める。
さて、どこに行こうか。
どうせ行くならば、行ったことがない場所に行ってみたい。そう思って思案していると、一つの駅名に目がいく。
名古屋港。
路線図の左下のほうにぽつりとあるその駅については、少しばかり知っていた。
たしか、全国有数の大規模な水族館がある。
行ってみたい、と思った。
そして、気付けば私は改札を通っていて、目的の駅を目指している。
15 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:50:16.95 ID:4if+2Hlr0
〇
地下鉄を乗り継いで、目的である名古屋港駅に到着した私が地上に出ると、ふんわりと海の香りが迎えてくれた。
燦々と注ぐ太陽の光と大きい入道雲、夏真っ盛りの良い天気だ。
こんな日に歩く水族館はさぞ気持ちがいいだろう。館内の涼やかな空気を思い浮かべ、自然と口角が上がる。
右手を見れば、大きく『名古屋港水族館』の文字と矢印が出ていて、私はそれに従い敷地内を歩いて行った。
水族館までの順路でさえ既にわいわいと賑わいを見せ、私はその非日常感にいっそう胸を弾ませる。
道中に見えるフードコート内の様子や飲食店を軽く見渡しながら歩いていると、ふと私は一つのお店の前で足を止める。
猫のマークが印象的な喫茶店だった。
店先のガラスケースには食品サンプルがずらりと並んでいるのだが、中でもバケツほどはあろうかという器に、これでもかと盛られたパフェに目を奪われた。
これは、ちょっと。
すごいものではあるのだが、絶対に手は出せないな、と思って苦笑いがこみ上げる。
その隣の一回り小さいパフェでさえ、私には到底間食することは不可能には思われた。
最大のパフェよりも一回りほど小さいそれの名前は、ネバーギブアップ。
どこか私が初めてアイドルとして歌った楽曲の名前と似ていて、おかしかった。
その瞬間、私はめまいを覚える。
視界が白黒として、立ち眩みのような感覚に一時意識を奪われかけ、なんとか踏み止まった。
私は、ここに、来たことがある。
それどころか、これを食べたことがある。
もちろん、一人ではない。
私がこれを一人で注文するとは思えないからだ。
では、誰と。
必死に思い出そうとしても、もやがかかったように、該当の記憶だけが不鮮明なことに私は混乱する。
何故、何故、何故。
心の中で何度、何故と自分自身に問うても、答えは返って来ない。
友人だろうか。
試しに、周囲のアイドル仲間に訊いてみようと私は鞄から携帯電話を取り出そうとする。
そこで、私は自身が携帯電話を持っていないことに気付く。
落とした、わけではない。
そもそも私は携帯電話を持っていない。
持っていない、とは持って来ていない、ではなく、字のごとく私は携帯電話を所持していないのだ。
どうしてなのか。
それは、どうしてだろう。
またしても私は混乱する。
この時代に、携帯電話を持っていないなんてことがあるだろうか。
しかし、私は事実として携帯電話を持ったことがなかった。
違う。
違う。
違う。
私は昨晩、貸したのだ。
誰に。
プロデューサーに、だ。
思い出した途端に全ての記憶が戻り、これまでの私の行動と思考の不可解さに戦慄する。
ついさきほど摂った朝食が食道を駆け上るのをすんでのところで堰き止めて、深呼吸を繰り返すことで気持ちを落ち着かせた。
先程までの私はなんだったのか。
自分が自分でないようで気味が悪く、全身から汗が噴き出し、背筋が凍る。
私はいったい、何を相手にしているのだろう。
昨晩彼が言っていたように、とてつもなく強大で、人間には到底どうにもならないものによってプロデューサーは消されようとしているのかもしれない。
だが、ひとつ言えることがあった。
水族館はお預けだ。
16 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:50:51.14 ID:4if+2Hlr0
〇
記憶を取り戻した私はすぐさま、東京へと舞い戻り、昼食を摂ることも忘れ事務所を訪れた。
ちひろさんに頼んでいた携帯電話を受け取るためだ。
その際に、ちひろさんが「ついに持つ気になったのね」と冗談めかしながら携帯電話を渡してきたので、また私は背筋が凍る羽目になった。
いくらなんでも、気味が悪い。
ここまで大規模に、多くの人の記憶を改竄することができるなんて。
事務所を出て、大きくため息を吐く。
ひとまずは、無事に今日も彼のことを思い出せたことを喜ぶべきだろうが、安心もしていられない。
たった一晩でこの調子ならば、いよいよ明日には彼のことは、もう思い出せないかもしれない。
事態は悪い方へ向かっていくばかりで、焦りだけが募る。
17 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:51:21.36 ID:4if+2Hlr0
〇
その後も、状況が状況だけに仕事にも身が入らず、たくさんの人に迷惑をかけながら私はその日の仕事を終える。
既に日は落ちていたが、まだまだ彼が“出る”までには時間がありそうだった。
今日は彼と会う前に行くと決めた場所があった。
あの神社だ。
この一連の問題の始まりがあの神社にあるのならば、何か掴めるかもしれない。
何より、現時点では解決の糸口すらわからないのだから、できることはしておくべきだと思う。
そんな、藁にも縋るような思いで私はあの神社を目指すのだった。
18 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:52:16.48 ID:4if+2Hlr0
〇
二週間と二日前に訪れた、あの神社への再訪を果たした私は車を降りるや否やすぐに駆け出して、長い長い石の階段をひとつ飛ばしで登っていく。
道中、渋滞があったせいで時刻は二十一時を過ぎていた。
だが、その点に関しては案ずることはない。
今回は彼には携帯電話を渡しているのだ。これまでのルールからすれば、彼は誰かに認識されている限り消えないのであるから、ビデオ通話なりで彼を常に私が見ていれば、時間制限はあまり気にしなくて済む。
やはり、携帯電話を渡しておいて正解だった。
昨日の自分の判断を褒める。
境内には、前回同様私の他に人の気配はなく、しんみりとしていた。
空にはどんよりとした雲が浮かびあらゆる光を遮り、空気はじめっとしていて嫌な感じだ。
思えば、あの夜もこんな感じだった。
ちかちかと明滅を繰り返している灯りの下にある賽銭箱へ歩み寄り、鞄から財布を取り出して中身を全て入れる。
そうして私は手を合わせ、祈った。
神頼みはあまり好きではないし、しない主義だが、そうも言っていられない。
だから、全身全霊で「プロデューサーを返して」と念を送るのだった。
19 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:53:28.21 ID:4if+2Hlr0
〇
それから、どれくらいの時が経っただろうか。
自分でもどうしてそれだけの時間手を合わせ、無心で立っていたのかわからないほどの間、私は無心で立っていたようだった。
しかし、どうやらそれも空振りで終わったらしい。もう一度だけ「どうか、プロデューサーを返してください」と呟いて、合わせた両の手を解く。
すると「なんで?」と声が響いた。
「なんで? 君が言ったんだろう。彼はいらない、って」
ぺたり、と素足が石畳に着地した音が背後でして、私は慌てて振り返る。
そこには、金色の髪に透き通るほどに白い肌の少年が、喜怒哀楽どれとも判別がつかないような表情で立っていた。
「……プロデューサーの部屋に、いた」
「うん。そうだよ。辻褄を合わせるために、あの部屋に泊まってあげたんだ。あのホテルは百年は繁盛するだろうね」
くつくつと笑い声が響く。
けれども、少年の表情は何も変わっていないし、少年の口は動いていない。
「……言ってない、です。プロデューサーがいらない、なんて」
状況が、目の前の少年は超常の存在であると告げていた。
機嫌を損ねてしまったらその時点で、容易く命を摘まれてしまうような相手と対峙していることを脳よりも体が先に察知して冷たい汗が背中を伝う。
「そうかな? ああ、そうだったそうだった。でも、別に彼じゃなくてもいい、とは言っただろう」
「………………はい」
確かに、私はそう言った。
その覚えがある。
しかし、照れ隠しのつもりで、だ。
「ほら。だから、彼じゃなくしてあげた」
くつくつと薄気味の悪い笑い声が、四方八方から聞こえてくる。
何もかもを放棄して、涙を流してただ諦めてしまいたい。そんな気持ちを瀬戸際で押し止め「あれは、本心ではなくて」と必死に弁明する。
「だめじゃないか。本心でもないお願いをするなんて。我々からしたら、叶えて欲しいものだと思うのだから」
少年が「あーあ、彼もかわいそうだね」と私の隣を指で示す。
すると、どういうわけか隣にはプロデューサーがいた。
こつん、と革靴が石畳を鳴らす音が遅れて届く。
「……え? 凛?」
「プロデューサー……」
「あはは。感動の再会だ。よかったね」
変わらずどれとも判別のつかない表情で、少年が言う。
プロデューサーはといえば、まだ状況が呑み込めていないようできょろきょろと戸惑っていた。
20 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:55:05.43 ID:4if+2Hlr0
「……信じられないと思うけど、目の前の、この男の子が」
言いかけた私を制して、プロデューサーは前へと歩み出る。
そして、驚くべき行動に出た。
左足を軸として、彼の右足は綺麗に胸元へと折りたたまれ、直後に鮮やかな弧を描く。回し蹴り、というものだろうそれを放ったプロデューサーは迷いなく、少年の頭を蹴り抜いた。
「ちょっと!」
私の声が虚しく響く。
プロデューサーの右足は少年をすり抜けていて、勢い余ったのか彼は倒れ込んでいた。
「……何すんのさ。出してやったのに」
「今、言ったな。出してやった、と。やっぱりお前が犯人なんだろう」
「犯人? ばかを言うなよ人間。願いを叶えてあげたんだ」
初めて、少年の顔から表情が見て取れた。
けれど、当然それは良いものではない。
ここで終わり、かもしれないな、となんとなく思った。
呆気ない終わりではあるが、彼のことを放り出して終わるよりはましな終わりにも思え、どこか納得している私がいる。
「お前には、言いたいことが山ほどある」
依然として強硬な姿勢を崩さないプロデューサーは少年に向かって吠える。
これほどまでに激昂した彼を見るのは、長い付き合いの中で初めてのことだった。
「この際、俺が消える消えないはどうでもいい。だけど、俺が消えるにしても、この子に無理をさせる形で帳尻を合わすな」
プロデューサーは私を指で示して、少年を睨む。
少年の金色の髪が風に揺れ、少年が微笑を浮かべたように見えた。
「俺のやっていたことを凛に全部やらす形はやめろ、ってことだよ。それはどう考えても無茶だ」
「ふぅん。そういう考え方をするのか」
「お前が神だかなんだか知らんけどさ、相手が誰だろうと、俺はこの子がプロデューサーと呼んでくれる限りは、この子が十全にアイドル活動をできるようにするのが仕事なんだよ」
少年はへぇ、と鼻を鳴らし「じゃあお前は、自分が消えてもこの娘が満足な生活を送れるならそれでいい、と?」と彼を試すように言う。その問いにプロデューサーがどう返すかは、わかりきっていた。
「もちろん。それでいい」
予想どおり、一切の躊躇なくプロデューサーはそう宣言する。
そろそろ黙って聞いているのも限界だったため、私は慌てて両者の間に割って入った。
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんなことを頼むよりも他に頼むことがあるはずでしょ?」
訊ねる私に対し、彼はただ首を振って「そんな都合のいい相手ではないだろ」と笑う。「俺は、前回凛と別れてから、今までに凛と過ごした全ての日付を、さっきまで旅してきた」
え、と声に出てしまう。
ということは、彼の記憶は、もう私の中には、ないということになるのではないか。
「そうなんだよ。きれいさっぱり消したと思うのに。君がまたここに来るもんだから、正直びっくりした」
私がプロデューサーのことを思い出すことができたのは、目の前の少年にとってもイレギュラーであったらしい。
だが、こちらとしては、助かった。
私のためにここまで怒ってくれる存在を忘れてしまっては、彼に申し訳がなさすぎる。
「……ねぇ! えっと、神様?」
「あはは。気分のいい呼び名だ。何? 聞いてあげる」
「この人、プロデューサーを元に戻してもらう方法ってないですか?」
少年は両腕を組んで、うーんと唸る。
「もう君といた過去のそこの彼は、消してしまってね。悪いね」
淡々と事実を突きつけてくる少年は欠片も詫びる気持ちなど帯びていなさそうな声で、言う。
同時に悪意のようなものも帯びていないことがわかるので、それが真実だと否応なく理解させられた。
21 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:55:42.19 ID:4if+2Hlr0
だったら、どうしたら。
考えろ、考えろと自分に命じるように頭を回す。
そこで、私の中に一つの案が浮かんだ。
「……じゃあ、こういうのは、どうですか?」
「言ってごらん」
「私のアイドルとしての全部。活動してきた時間を全部、全部差し上げます」
少年は目をきらきらとさせ「ほう!」と身を乗り出し、鼻息を荒らげている。
「自分で言うのも変な話ですけど、アイドルとなってからの私の人生は結構価値のあるものだと思うので……これを全部なかったことにして、私と彼が出会う前の地点に戻してください」
「……その手は、実はあるんだなぁ、これが。なかなか鋭い。でも、こちらとしては人間の中での価値なんて興味なくてさ」
だめ、か。確かに、少年にとっては私のお願いを叶える義理はどこにもない。
渾身の策だと思ったものも、どうやら空振りに終わってしまいそうだった。
「まぁいっか。次は来ないでよ。鬱陶しいから」
少年は気だるげに、しっしっというような仕草で手を振る。
直後、私の視界は暗転する。
22 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:56:23.78 ID:4if+2Hlr0
「凛!」
ずしんと脳天に響くような母の声で以て覚醒を果たした私は布団を蹴り上げ、跳び起きる。
自室の壁にある時計を見やれば、時刻は七時半を回っていた。
まだ四月になって間もない時期であるというのに、パジャマは上下の区別なく寝汗でぐっしょりとしていた。
加えて、全身を疲労が漂っている。
何か、悪い夢でも見ていたのだろうか。
今となっては何も思い出せないが、思い出せなくてよかったとも思う。
怖い夢は覚えていない方がいい。
ともあれ、学校へ急がなくてはいけない。
高校に入学して早々遅刻は避けたいところだった。
ばたばたと階下へ降り、朝食を摂らずに出ることとハナコの散歩を代わって欲しい旨を伝え、母に詫びた。
パジャマを洗濯機へ突っ込んだのちに簡単に汗を流し、自室へ戻っては制服を身に着けて、タイムアタックのような勢いで準備を整える。あれこれと忘れものがあるかもしれないが、今は何よりも登校時間に間に合わせることが最優先だろう。
私は再びばたばたと階段を降り廊下を駆け抜けて、両親が営む花屋の店先のシャッターを半分だけ開けると、くぐるようにして自宅を出た。
23 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:58:40.29 ID:4if+2Hlr0
〇
最寄駅から電車に乗ること数駅。多くの路線が交差している大きな駅に辿り着いた私は、乗り換えのために一旦、地上へと出る。
そうして雑踏をすり抜けるように駆けていると、不意に背後から「あの!」と呼び止められた。
男の人の声だ。
振り返ればそこにはスーツに身を包んだ、二十代くらいの男性がいる。
何か落としてしまったのだろうか、と男性の顔から手元へと視線を移す。
その手の内には、どう見ても私の所持品ではないものが握られていた。
革製の長方形の何か。財布だろうか。
女子高生があのような無骨な財布を持つわけがないのだから、一目で私の落とし物ではないとわかりそうなものだけれど、と思いつつも男性の続く言葉を待つ。
すると私の予想に反して、男性は革製の長方形から一枚の紙を引き抜いて、両手で持つと、恭しく私に差し出した。
「端的に申し上げますと、一目惚れです! アイドルになっていただけませんか!」
時が止まったような心地がした。
だが、瞬時に私が返すべき言葉はわかった。
24 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 22:59:11.53 ID:4if+2Hlr0
「ふーん、アンタが私のプロデューサー?」
25 :
◆TOYOUsnVr.
[saga]:2020/07/04(土) 23:00:41.39 ID:4if+2Hlr0
終わりです。
ありがとうございました。
>>22
についてちょっとしたミスですが、ここで章が変わります。
まとめサイト様などは
>>2
の最初に「◆ 5」と挿入していただけると嬉しいです。
26 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/04(土) 23:16:11.04 ID:wuUWU7VH0
乙でした
途中で凛が見事にPを忘れている演出とかゾクゾクした
結局アレは何者だったんだろう。
27 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/04(土) 23:50:26.25 ID:fXU0VLrDO
乙
とりま、キャッツカフェは競馬場近くにもあるからね
28 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/08(水) 00:52:08.23 ID:G6EfH1TLo
乙ー
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