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もしもし、そこの加蓮さん。
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267 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:21:53.94 ID:7gnP6kF90
「はー……ばっかみたい」
目元に浮かんだ涙を拭い、加蓮が嘆息します。
「散々私に偉そうな事言っといて……お節介が雑過ぎ」
「え、俺そんな偉そうな事言ったっけ……?」
「Pさんの事じゃないよ」
「……じゃあ、誰?」
「さぁ。誰なんだろうね?」
思い出したように加蓮がまた笑います。
疑問符を浮かべっぱなしの彼は背後を振り返りましたが、
同じように五つの疑問符が浮かんでいるだけでした。
「ね、Pさん」
加蓮がよく見えるように右脚を伸ばしました。
震えはほとんど治まって、白い肌に血管が透けていました。
「こういうの好き?」
268 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:24:27.41 ID:7gnP6kF90
「本題」
「はいはい……あんまり大丈夫じゃないんだ。
痺れも痛みもないけど、結構ムリさせちゃってる。
後半戦十回やったら、一回か二回は途中ですっ転んじゃうと思う」
あんなに言いたくなかった言葉が、驚くほど素直に滑り出しました。
出ていってしまった言葉の恐ろしさも、送り出した言葉の頼もしさも、
加蓮はもう知っていました。
また一つ新たな武器を手に入れて、今日これからだって彼女は戦うのです。
「……それは、賭けだな」
「でも私、分の悪い賭けってキライだからさ。ちょっとお願い、聞いてほしいの」
「任せろ。得意だ」
「魔法使いだから――でしょ? 全く、何回言うんだか」
勝手に代弁されて、勝手に呆れられて、彼はひどく嬉しそうに笑います。
「それと……」
「アタシ達も――でしょ? 加蓮の考える事くらい、みーんなお見通しなんだからね★」
美嘉の言葉に、奏が、卯月が、奈緒が、凛が、頷きます。
物語の主人公達は、それはそれは頼もしい笑みを浮かべてみせました。
269 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:28:50.58 ID:7gnP6kF90
◇ ◇ ◆
『お待たせー。それじゃあ吹っ飛ばすから、掴まっててね?』
挑発は短く、激しく。
加蓮がそれだけで口上を打ち切って、頂点の一つになりました。
三人の呼吸音が、そのまま開幕の合図です。
270 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/10(日) 22:29:26.19 ID:7gnP6kF90
『Trinity Field』
http://www.youtube.com/watch?v=kV_XgNUdULA
271 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:32:23.88 ID:7gnP6kF90
『光る螺旋を描いて行く――眩しい空へ飛び立った想いが…』
遠慮は要らない。
加蓮が凛と奈緒へそう告げると、二人は不思議そうに首を傾げました。
しないけど、と口を揃えて答えた彼女達は、まさしく加蓮が並び立つのに相応しい頂点でした。
『溢れ出す…”Mind”――』
三つの頂点、トライアドプリムス。
ユニット名を噛み締めながら、
加蓮はあんなに大事に撫でていたリミッターを遥か彼方へ投げ飛ばしました。
このトリオの持ち味は激しいボーカルとダンス。
腐心していた魅せ方すらついでに投げ捨てて、加蓮は馬鹿になってやりました。
272 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:36:35.24 ID:7gnP6kF90
『もっと』
『もっと』
『もっと』
『――燃えたい!』
余分なものなんて、全部構わず燃やしてしまえ!
このおっぱいだって割とあるんだから、ちょっとくらい燃やしたっていいでしょ。
奈緒の髪も燃やしちゃって、さっぱりショートヘアを拝むのもいいな。
そうだ、ついでに凛の身長も燃やしちゃおうっと!
脳内麻薬がだくだくと分泌されているのが分かりました。
支離滅裂の塊みたいな思考がファン達にバレないよう、
持てる力を全てパフォーマンスに注ぎます。
明らかなオーバーペースですが、
後の事は後の加蓮ちゃんがきっと何とかしてくれるだろうと、
加蓮は半ば思考を放棄していました。
273 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:39:47.80 ID:7gnP6kF90
◇ ◇ ◆
「はぁ……はぁっ……は……っ」
十一曲目。
美嘉とのデュエットを唄い上げ、加蓮は荒い息を繰り返します。
マイクが拾う温度と、肩で息をする姿に、観客達が静かにざわめき出しました。
汗でぬめるのも構わずに、美嘉がそっと彼女の肩へ手を置いて。
じんわりと広がる熱に引っ張られるみたいに、
ゆっくり、ゆっくりと、俯いていた視線を上げます。
ファンが居ました。
『次、ラスト……新曲』
半ば予期していただろうとは言えど、それでも会場はどよめきます。
もつれそうになる舌で何とか言葉を吐き出しました。
274 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:44:32.87 ID:7gnP6kF90
美嘉に今度は背を撫でられて、
絶え絶えだった呼吸のリズムが少しずつ取り戻されていきます。
細く長く息を吐いて、加蓮は背筋をぴんと伸ばしました。
『最後に……最後に、新曲、唄うよ!』
どよめきは、歓声に。
『でも、その前に一つ……お願いが、あるんだ』
隣へ視線を送りました。
カリスマギャルがバチリと音の出そうなウィンクを返してくれて、加蓮は笑ってしまいます。
信頼を失うのは一番恐ろしい事だと思っていました。
仲間の信頼を、
プロデューサーの信頼を、
それからもちろん、ファン達の信頼を。
これから送り出す一言は、
これまでに積み上げてきた北条加蓮のイメージを粉々に砕いてしまうのかもしれません。
それでも加蓮は、分の悪い賭けだとは思っていませんでした。
『実は結構、疲れちゃってさ……休憩しても……いい、かな?』
275 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:49:12.05 ID:7gnP6kF90
会場は静まり返って。
再びざわめき始めるまでの数十秒間を、
加蓮はマイクが壊れるほど強く握り締めながら待ちました。
――もちろん!
後部中央に居たファンの誰かが、力の限り叫びました。
それから少し間を置いて、彼ら彼女らが次々に声を張り上げます。
――休んでー!
――明日でもいいよー!
――明日は仕事ぉーっ!
――俺もー!
――めちゃくちゃ休憩してー!
――待ってるからーっ!
そのうち、重なり合った声はほとんど聞き取れなくなってしまいます。
滝のように汗を流しながら、それでも彼女は三千の声にじっと耳を澄ませました。
276 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:52:40.96 ID:7gnP6kF90
がたっ、かたん。
背後で幾つもの音が聞こえました。
袖から出てきた奈緒が、凛が、卯月が、奏が椅子を持ち寄って、
美嘉と加蓮にも勧めてくれています。
『ありがとう』
椅子に体重を預け、加蓮が再び細く吐息を流しました。
ステージの中央に六人が身を寄せて、これから秘密の演奏会でも開きそうな雰囲気です。
『……ライブってさ。たっ……くさんの人に支えられて出来てるんだよね』
『うん。私達以外にも、事務所の人、スポンサーさん。
メイクさんに衣装さん。会場を運営してる会社さんに、設営スタッフさんに……
それからもちろん、集まってくれたみんなも』
言葉を継ぐように、凛が会場を見渡しました。
277 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:53:31.62 ID:7gnP6kF90
『こうやって終演時刻を延ばしちゃうと、
きっとみんな困っちゃうと思うんだ。
お金だって掛かるし、スタッフさんも帰り辛いだろうし』
『ひょっとしたら、
交通機関の都合で本当に帰れない人も居るかもね。みんな、大丈夫かしら?』
奏がファン達に問い掛けます。
――明日の仕事、仮病使うから大丈夫ー!
誰かがそう叫んで、どっと笑いが零れました。
278 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:56:52.27 ID:7gnP6kF90
『ふふっ……大丈夫じゃないわね、ソレ』
束の間の笑いが収まると、再び会場が静まり返ります。
『……んー……待たせちゃうお詫びに、ちょっと、私の話でもしよっか』
『……いいのか?』
ステージ上である事も忘れ、奈緒がそっと訊ねました。
『うん。みんなはどう? 聞いてくれる?』
返ってきた言葉はてんでバラバラでした。
それでも不思議と、何となく肯定してくれるのが分かってしまいます。
ちょっと感傷的過ぎるかなと、加蓮は頬の汗を拭いました。
話し出す前に、ついと足先を確かめました。
ふわり膨らんだ裾の向こうで見え隠れする両足には、
確かに立派な靴が填め込まれています。
279 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 22:59:08.75 ID:7gnP6kF90
『実は私ね、昔はけっこう身体が弱かったんだ。
確か一回だけラジオで喋った覚えがあるから、中には知ってる人も居るのかな』
『知ってる方はかなりのファンですね』
『ふふ。確かに……それで、何回も入退院を繰り返してね。
持ち込んだ携帯テレビでアイドル達を見るのが、数ある日課の一つだったんだよ』
今はもう、彼女達の名を思い出せません。
『あ。だからさ……薄荷。アレ唄うの、けっこうフクザツだったんだよ?
事務所の人もみんなも死にそう、死にそうって言うんだもん』
『だってなぁ……なぁ?』
『ね』
頷き合う凛と奈緒。
加蓮が口を尖らせると、二人は両手を挙げておどけました。
280 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:02:23.98 ID:7gnP6kF90
『そんな感じで、けっこう人生諦め入ってたんだよね、私って。
体調は少しずつ良くなってったけど、ボーっと生きて、ポテトとかアイスばっか食べてた』
『……アタシが見る限り、加蓮今でもそればっか食べてない?』
『シツレイな。ちゃんとバーガーとコーラも頼むよ』
『そこ?』
『まぁいいや。えっと……何の話だったっけ?』
『アイドル』
『そうだそうだ。んーと、
色々あってスカウトされて……私はアイドルになりました。めでたしめでたし』
『……え、えぇ〜っ? 急にそんな、大雑把に?』
慌てる卯月に、会場が含み笑いを零します。
『や、なんか、よく考えたら恥ずかしくない? 昔の自分の思い出話とか』
『言い出したの加蓮だろうが』
奈緒が呆れたように苦笑しました。
281 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:06:45.34 ID:7gnP6kF90
『やっぱ、アレだね。台本無いとグダるね』
『加蓮。MCに台本は無い事になってるのよ』
『おっと、そうだった』
凛が頬を掻きながら訊ねます。
『それで? 後は何を話すの?』
『んー、じゃあ、もう三つ』
『うん』
『一つ。今の私は、すっごい健康』
人差し指を、まっすぐに伸ばします。
『二つ。私の目標は、忘れられないアイドルになる事』
ゆっくりと椅子から立ち上がり、つま先の感触を確かめます。
『三つ――もう、バッチリ。ありがとね、みんな』
282 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:10:34.38 ID:7gnP6kF90
得意気な笑みを浮かべ、ステージを振り返りました。
五人は加蓮の視線に頷くと、椅子を抱えて袖へと戻って行きます。
最後の美嘉がキスを投げ残して見えなくなると、加蓮は再び客席へ向き直ります。
海は凪いでいました。
波も風も息を潜めて、加蓮の事をじっと見つめています。
加蓮の次の言葉を、今か今かと待ち侘びています。
でも、もう、加蓮が伝えるべき言葉はほとんど残されていないのです。
足取りもしっかり、気分も爽快。
散々待たせてしまったファン達に向けて、加蓮は必要な言葉だけを紡ぎました。
『北条加蓮』
きっと――忘れられないアイドルになります。
『Frozen Tears』
283 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/10(日) 23:11:56.71 ID:7gnP6kF90
『Frozen Tears』
http://www.youtube.com/watch?v=gBFgHLC-9S4
284 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:14:34.59 ID:7gnP6kF90
揺れ動くようなイントロが弾けました。
合わせるように加蓮の身体もふわふわと揺れて、次々と緑の光が灯ってゆきます。
本当は、冬まで取っておく筈の曲でした。
けれど彼女自慢のワガママが、とうとう彼の首を縦に振らせてしまったのです。
『きらきら輝く、この世界はまるで――何度もめくった、お伽話みたい』
古今東西の書物とにらめっこした日々は、彼女にとって楽しい記憶の一つです。
きっかけこそ勘違いと頑固さの組み合わせでしたが、
物語の後に続く未来、学術書に収まりきらなかった一頁。
無限に広がる余白に想像の翼を羽ばたかせて、
加蓮は知識と力を少しずつ蓄えていきました。
285 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:17:09.80 ID:7gnP6kF90
『憧れをつかむのなら、思い切りが”らしい”でしょ?』
最初の一歩を踏み出してから、彼女の『らしさ』はだんだん薄まっていきました。
大の苦手だった運動はジョギングを日課に出来る程になり、
暇さえあれば読み耽っていた本も、近頃は表紙をめくる暇さえ無いくらいで。
モノクロームの日々を過ごしていた自分が、
しっちゃかめっちゃかに色付いていく日々を、悪くないとさえ感じるなんて。
『ひとりきりじゃない――だから、かりそめの時間でいい』
奈緒にお小言を言われて、
凛に呆れ気味に笑われて、
美嘉に気安く絡まれて、
卯月にたびたびツッコまれて、
奏に上手くからかわれて。
何者でもなかった自分、傍観者でいいと気取っていた自分が。
主人公達の眩しさに当てられて、
ヒロインどころか、主人公になりたいと願うようになるなんて。
286 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:19:21.33 ID:7gnP6kF90
『明日を想いながら、指先まで綺麗に――』
客席に向け、掌を伸ばします。
そして息を呑みました。
あの日、パステルクリームの壁紙に、あれほど映えていた筈の宝物。
大切な大切な今日も指先を彩ってくれる、ラメ入りのミントグリーン。
伸ばした指先は、眩しく煌めく緑の海に、すっかり溶け込んでしまいました。
287 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:21:04.04 ID:7gnP6kF90
揺れるようなメロディだけが流れて、加蓮はまだ何も言えずにいます。
思わず歌詞を飛ばしてしまった未熟さと、過ぎ去ってしまった日々の遠さを、
彼女はどこまでも美しい笑顔と言葉で埋め合わせてみせました。
『…ありがとう』
288 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:25:03.55 ID:7gnP6kF90
【\】プロローグ
「ひゅむぅ」
加蓮の一日はよく分からない何かを呟きつつもぞもぞする事から始まります。
いえ。きっかけはほんの些細な出来心だったのです。
お泊り会の度に卯月が繰り出してくる、踏み潰されたアルパカみたいな謎の寝言。
それが毎度あんまりにも加蓮のツボを抑えてきたもので、
いつからか面白がって真似するようになってしまいました。
習慣というのは恐ろしいもの。
今では卯月が泊まっていようがいまいが関係無く出てくるようになってしまいました。
加蓮と卯月のお泊り会にウキウキ顔で参加した奈緒が、
朝日が昇るなり謎の譫言を繰り返し始める二人に挟まれ、
半泣きになりながら凛に連絡したのは未だ記憶に新しい事件です。
冤罪ですと、その際に卯月は繰り返し、繰り返し主張していました。
289 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:29:48.25 ID:7gnP6kF90
「は……ふっ……」
軽くストレッチをこなしたら、トレーニングウェアに着替えて近所をジョギング。
現在のルートは第五まで開拓されており、
加蓮は毎回ストップウォッチでタイムを計っています。
少しずつ縮まっていくタイムを見てガッツポーズを決めるのは、
加蓮の大切な日課の一つです。
「おはよー」
「おはよう。今日は?」
「更新ならず」
「残念。さ、食べちゃいなさいな」
「はーい」
軽くシャワーを浴びたら朝ご飯です。
父がまだ居れば三人で、もう出かけて行った後なら母と二人で朝食を囲みます。
ちなみにお泊りした誰かがここに加わると、
二人は人が変わったみたいに大はしゃぎして、特に父は遅刻寸前まで粘ります。
美嘉の家にお泊りした際も似たような感じだったので、
もしかしたら親というのはそういう生き物なのかもしれないと、
加蓮は密かに考察していました。
290 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:34:06.71 ID:7gnP6kF90
「納豆要る?」
「んー……午後だけど、お仕事あるからいーや」
「あぁ……そうだったわね」
中学生くらいまでは抜きがちだった朝食も、
今では食べないとお昼まで保たないくらいです。
昨晩の残り物やベーコンエッグなど、メニューはごくごくシンプルですが、
加蓮はしっかりゆっくりお腹へ収めます。
最近は納豆がマイブームでしたが、
今日は大事な仕事があるため、泣く泣くキャンセルするしかありませんでした。
「いつ頃出るの?」
「十時過ぎくらい。お昼はいいや」
「はいはい」
「そういえば奈緒がさ、はいは一回だって言ってたよ」
「はい」
「うーん素直」
291 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:41:11.48 ID:7gnP6kF90
そろそろ出なければ一限に間に合わなくなる時間でしたが、
そもそも今日は講義自体がありません。
部屋に戻った加蓮は最近買い替えたばかりの机に座ります。
ノートと教科書を広げ、通学用の鞄から図書館で借りてきた本を取り出しました。
加蓮は試験よりもレポートを好む学生でした。
時間のごく限られたペーパーテストとは違い、その気になれば幾らだって悩めますし、
何より知識を結び付けていく過程で新たな発見に出会ったりするのを、
彼女は楽しむ事が出来るのでした。
小一時間も進めるとおおよそのアウトラインが見えてきました。
凝り固まっていた身体を小さな伸びで解すと、
とうっ、と小さく叫んでベッドへのダイブを敢行します。
しばらくそのまま動かなくなったと思えば、二分後にようやくの再起動。
枕の下に手を突っ込み、古びた文庫本を引っ張り出します。
星新一著、『ようこそ地球さん』。
ふと読み直したくなって、今週に入ってから少しずつ栞を進めている一冊です。
三編も読むとちょうどいい時間でした。
窓を開けて春の陽気を確かめると、薄手のカーディガンを選んで羽織ります。
上機嫌そうに鼻歌を口ずさみながら、
加蓮は目をつぶったって辿り着ける事務所へと向かいました。
292 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:45:10.30 ID:7gnP6kF90
◇ ◇ ◆
「おはよ。しんどそう」
「おはようしんどい」
「文を区切るのもしんどいんだ」
「うん」
「今日のミニライブ、大丈夫?」
「まかせろ」
「Pさんそっちは植木鉢だよ」
事務所に顔を出すと、彼はちょっと傾きながら仕事をしているところでした。
角度がだいぶ甘いので、どうやらまだ余裕はあるようです。
293 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:48:32.77 ID:7gnP6kF90
「後は機材だの運んで先生方と設営するだけ」
「お疲れ様。ご褒美あげよっか?」
「何をくれるんだ?」
「何が欲しいの?」
「俺が決めるのか」
「今日はえっちなのは控え目にね」
「なぁ、その言い方だと俺が普段からそういうのをねだっていや違います。
はい。ないです。ちひろさん。ないです」
傾きながら謝りつつタイピングする姿は、なかなかどうして器用でした。
294 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:51:10.16 ID:7gnP6kF90
「忙しい?」
「うん」
「ふぅん。じゃあ送迎いいや。お昼がてら先に行ってる」
「悪いな」
「テキトーにブラついてるから、二人連れて合流してね」
「ああ」
ひらひらと片手を振るだけで見送りを済まされるのはやや不満ですが、
彼の多忙は自分の為だと、彼女はいつだって知っています。
名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、
褒めてもらえなかった下ろし立てのカーディガンを翻して、
加蓮は事務所を後にするのでした。
295 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:53:06.62 ID:7gnP6kF90
◇ ◇ ◆
加蓮の言う『良い日』には幾つかの判断基準があります。
暑過ぎない。
寒過ぎない。
彼が付き添ってくれる。
映画が面白かった。
ポテトが全サイズ百五十円。などなど。
今日は暑過ぎなくて、お昼を食べに行ったらポテトも全サイズ百五十円でした。
機嫌を良くした彼女は先ほどよりも気合の入った鼻歌と共に歩いてゆきます。
そして、今回のライブ会場にやって来ました。
「……変わってないなぁ」
四角く白い、大きな建物。
感覚的には半年ぶり。
物理的にはほとんど五年ぶりに目にする、かつての彼女のお城でした。
296 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:53:44.72 ID:7gnP6kF90
本日の午後に講堂で開かれる予定のミニライブは、
加蓮たっての希望で実現したものです。
宣伝と言えば院内の掲示板に貼られた簡素なチラシぐらいではありましたが、
加蓮に美嘉に卯月にと、
取ろうとすればなかなかの額が動きそうなメンバーが揃っています。
もちろんロハですが。
「ちょっち早かったかなー」
腕時計を確認すると、待ち合わせの約束まではまだ時間がありました。
前庭に揺れる木陰の下にベンチを見つけ、加蓮はのんびりと腰を落ち着けます。
葉擦れの音が眠気を誘うような、気持ちの良い春の午後でした。
目を閉じて、彼女はしばらく風の音色を楽しみました。
背中の半ばまで伸ばした髪が気ままに揺れます。
ふと、彼女が何かを思い出したように目を開けます。
すぐ隣に向けて、柔らかく微笑みかけました。
「ありがと」
ただのひとり言か、それとも詩的に風へ語り掛けたのか。
彼女はそう礼を述べると、また心地良さそうに目を細めながら前を向きます。
応える者のない言葉は、ただ風に乗って溶けてゆくだけでした。
297 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:55:09.62 ID:7gnP6kF90
でも、どういたしまして。
298 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:57:13.56 ID:7gnP6kF90
「――あ! 加蓮ちゃーんっ!」
駐車場の方から、卯月が手を振ってやって来ました。
その後ろには傾いたまま機材を肩から提げたプロデューサーが続いて、
見かねたらしき隣の美嘉が小さなケースを一つ持ってあげているようです。
「えへへ。探しちゃいました」
「あー、まぁ、広いからねこの病院」
「割とまだしんどい」
「まだしんどいんだ……」
「うん」
卯月と加蓮がもう一つずつケースを持ってあげると、
彼の背はだいぶまっすぐになってきました。
賑やかに雑談を交わしながら、四人は病院の入口へと向かいます。
299 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:58:15.71 ID:7gnP6kF90
……。
300 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/10(日) 23:59:07.09 ID:7gnP6kF90
…………。
301 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/11(月) 00:00:06.42 ID:f5+pGcIp0
もしもし、そこの加蓮さん。
302 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[saga]:2020/05/11(月) 00:01:10.67 ID:f5+pGcIp0
「あれ? 加蓮、そのカーデ新しいやつじゃん。似合ってる★」
「へぇ。よく気付くな、城ヶ崎さん」
「もうっ! ダメですよ、ちゃんと気付いてあげないと〜!」
「ご、ごめんなさい」
「Pさん、それじゃモテないよ」
「あの、島村さんくらいとまでは言わないからさ、もうちょい優しく怒って――」
仲間達と肩を並べ、加蓮はまっすぐ前を向いて歩いてゆきます。
四人の姿が自動ドアの向こうへ吸い込まれて、
後はただ、気持ちの良い風が春の陽気をどこかへ運んでいくだけでした。
303 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[nagasaki]:2020/05/11(月) 00:02:13.96 ID:f5+pGcIp0
めでたし、めでたし。
主人公達に幸あれ!
304 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/11(月) 00:04:11.96 ID:f5+pGcIp0
・作中で言及されている通り、本作は星バーーーローー著『天使考』をベースとしています
・境遇から察するに、加蓮ちゃん恐らくは本好きだよね、っていうお話です
・第9回シンデレラガール総選挙、大好評開催中。北条加蓮ちゃんへのご投票をよろしくお願いします
http://blog-imgs-141.fc2.com/g/a/r/garretlibrary/20200511-01.jpg
最後に、かぐら様(Twitter:@nekobasami)の素敵なイラストをどうぞ
305 :
>>304 訂正
[sage saga バーロー]:2020/05/11(月) 00:07:19.16 ID:f5+pGcIp0
・作中で言及されている通り、本作は星新一著『天使考』をベースとしています
・境遇から察するに、加蓮ちゃん恐らくは本好きだよね、っていうお話です
・第9回シンデレラガール総選挙、大好評開催中。北条加蓮ちゃんへのご投票をよろしくお願いします
http://blog-imgs-141.fc2.com/g/a/r/garretlibrary/20200511-01.jpg
最後に、かぐら様(Twitter:@nekobasami)の素敵なイラストをどうぞ
306 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/11(月) 16:10:52.21 ID:AYMY2k4H0
おっつおっつ
307 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/08(月) 13:18:14.76 ID:Fij9ZzQXo
素敵なお話をありがとう
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