渋谷凛「春の訪れ、こねて作った薄いもの」

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1 : ◆TOYOUsnVr. [saga]:2020/03/16(月) 23:46:14.63 ID:IE5PJN5R0
寒さには、いろいろ種類がある。

タクシーを降りて、雲の裏側から薄ぼんやりと照らしている月を見て、私はそんなことを思う。

エアコンの効きすぎた部屋で感じる寒さと真冬の野外で感じる寒さが別種であるように、ここ最近は寒さの質感が変わった。

ような気がする。

ひと月かそこら前までは、どこか無機質で鋭利な印象を持っていた空気が、少し丸みを帯びてきている。
春が近いのだろう。
事実として、日中に見た木蓮は立派な花を青空に映えさせていた。

移ろう季節に想いを馳せつつ歩き、数分としないうちに自宅の前へと到着した。
両親が営んでいる花屋は当然もう閉まっていて、シャッターが下りている。

そういえば、明日は競りの日だったっけ。

魚で有名な競りは、細かな様式は異なれども生花にもあって、朝早くに行われる。
そのため両親は競りの前日は、いつもよりも早くに就寝してしまうのだった。

鞄から鍵を取り出して、自宅のシャッターを解錠する。
時間が時間であるため、あまり大きな音は立てないよう控えめに、そしてゆっくりと上げる。
半分だけ上げたシャッターをくぐるようにして、自宅へと入り再びそれを下ろし、施錠した。

一歩自宅に入って深呼吸をすれば、花屋の店内にある色とりどりの花たちが織り成す香りが鼻を通って、肺いっぱいに満ちる。

帰ってきたなぁ。

なんていう、お仕事終わりのちょっとの達成感に浸りながら玄関を抜けて、洗面所へ。

手を洗って、自室へと向かった。

自室の床に備え付けられた犬用のベッドの上には、茶色のもこもこが鎮座していて、一瞬私の方を見やり、すぐにまた寝入った。
コートをハンガーに掛けるよりも荷物を置くよりも、何をするよりも先に、私はその茶色のもこもこのもとへ向かい、しゃがむ。

「ただいま。ハナコ」

もちろん、返事はない。
そうしてハナコの頭を何度か撫でて、そのあとでようやく私はあれこれと自身のことに取り掛かるのだった。


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2 : ◆TOYOUsnVr. [saga]:2020/03/16(月) 23:48:23.87 ID:IE5PJN5R0



一日を終えるための準備の一切を終わらせた私は、自室のベッドへ腰かけ、ぼうっとする。

壁に掛かっている時計を見やれば、長針と短針が縦に一本線を引いていた。

もうこんな時間か、とぼそりと呟いて、立ち上がる。
そこではたとあることを思い出した。

撮影のお仕事終わりで立ち寄った事務所で、謎の小さな紙袋を渡されていたのだった。

あれ、なんだったんだろう。

疲れていたこともあって、詳細を聞かないまま事務員の方から受け取ってそのままにしていた。
その事務員さんが言うには、私のプロデューサーから渡すよう言付かったらしいのだけれど、そのプロデューサーからはあいにく何も聞いていない。

鞄を開けて、例の紙袋を取り出して机上へ置く。
よく見れば、洒落た紙袋で、中身についても丁寧なラッピングが施されていた。

そのラッピングを破ってしまわないように綺麗に剥がしていくと、どうやら内容物は手作りのお菓子らしかった。

あ、これ。

この段になって、やっと気が付いた。
慌てて携帯電話の画面を点灯させる。
そこには、でかでかと三月十四日の文字が表示されていた。

やってしまった。

はぁ、と小さくため息を吐いて、お菓子が収められている小箱を胸に抱きかかえる形で、ベッドへと倒れ込んだ。

すぐに何か確認して、そしてお礼のメッセージなり、電話なり、できたのに。
こんな時間では迷惑となってしまう。

どうにもならないことではあるが、やはり後悔してしまう。

二度目となるため息を吐いて、上体を起こし、箱を開けた。
箱の中にはこれまた丁寧にたくさんのクッキーが並んでいて、ひとつひとつ別の凝ったアイシングで彩られていた。

形だけでも十種類以上、それもひとつひとつアイシングを施すとなれば、それなりにお菓子を作ってきた私でさえ、かなり手間である。
努力が一目でわかった。
それだけに、今日中にお礼を言えなかったことがいっそう悔やまれた。

しかし、いつまでもくよくよしていては仕方がない。
気持ちを切り替え、私は箱から一番オーソドックスなまんまるのクッキーをつまむ。
小さくひとくちかじれば、口の中に優しい甘さが広がった。
しつこさが残らない。
贔屓目なしで、かなりの出来栄えだった。

「おいし……」

胸の内に留めたつもりが漏れ出てしまった声は、紛れもない本心からのもので、次いで手の中の半分になった残りのクッキーを口へと放り込んだ。
3 : ◆TOYOUsnVr. [saga]:2020/03/16(月) 23:49:44.00 ID:IE5PJN5R0



二枚目のクッキーに手を付ける気になれぬまま、しばしの放心をした私は、意を決してベッドから立ち上がる。
こんな心持ちで食べては、せっかく作ってくれたプロデューサーに申し訳がないからだ。

そうと決まれば、テンションを無理やりにでもあげるために小箱を片手に階下のキッチンへとおりる。

水を火にかけ、戸棚からティーポットと紅茶の茶葉が入った缶を出す。
お湯が沸くまでの間には、食器棚から持ってきたお洒落なお皿をダイニングテーブルへと置き、その上へプロデューサーお手製クッキーを並べていった。


写真映えするように、クッキーを丁寧に並べ終えた頃にちょうどお湯が沸いて、それをティーポットへと移し、紅茶を淹れた。

本当はティーポットをあたためたり、蒸らしたりといった工程を踏む方がおいしいお茶になるのだけれど、今はそれよりも形を早く整えることを優先したかったので、割愛する。

ティーポットに入れたお湯が鮮やかな色に染まったのを見て、カップへと注ぎダイニングテーブルへと運ぶ。

紅茶とクッキーを並べて、写真を撮る。
誰に送るわけでもなければ、どこかへ投稿するわけでもない。
ただの自己満足の記録ではあるけれど、良い具合だ。

ああ、でも。
一人には送っても問題ないか。

そう思って、メッセージアプリを開き、その相手に『ありがとう。おいしかったよ』と添えて、先程の写真を送信した。
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