【ミリオン】紗代子の欲しかったもの

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1 :伊丹 [age]:2020/02/08(土) 19:57:18.25 ID:2EYiqEug0



チッチッチッチッチッ……


私が左手首に巻いている腕時計から鳴る、駆動音。


毎日つけている日記を書き終わって、一息ついた頃合い。
脇のケージでは、ハリネズミのハリ子が気持ちよさそうに寝ている。

しんと静まった夜の私室では、普段は聞こえないこんな音も、妙に主張して聞こえるもの。


家の中で腕時計を着けるなんて、なんだかおかしいけれど。


私は腕時計を外して手にとり、それを撫でる。



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2 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 19:58:04.73 ID:2EYiqEug0


私の手には大きすぎる、男物の無骨なカタチ。
金属ケースは、ひんやりとした感触と、ズシリとした重さがある。


彼がいつもするみたいに、
左耳に時計を当てて、その音に耳を澄ます。


チッチッチッチッチッ……


さっきよりもよく聞こえる、規則正しい駆動音。



これは、彼のくれた腕時計。



私、高山紗代子の大切なもの。


3 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 19:58:41.87 ID:2EYiqEug0





「おはようございます!プロデューサー!」


私は週に何度かやる、早朝のランニングを終えて事務所へ入る。
ソファに座っている、彼…プロデューサーへ挨拶する。


「おはよう紗代子!朝から精が出るな」

「はい!体力はあればあるだけ良いですから!」

彼は満足そうに頷き、手元のモノへまた顔を向ける。


知っている。
彼の日課だ。
私は、彼の様子をジッと見つめる。


4 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 19:59:23.36 ID:2EYiqEug0


彼は、真剣な顔で腕時計と向き合っている。
ソファ前の机に置いた携帯電話をハンズフリーにして、何かを聞いている。



プッ……プッ……プッ……プーーー!

ゴゼン8ジ35フン 40ビョウヲーーー



時報を聞くと、素早く時計のリューズを操作し、
パチッとリューズを戻す。

「よしっ」

決まっている言葉。
そして、なぜか時計を手に持ち、左耳へ近づけ、
その音を聞く。

「……うん。いいな!」

これもお決まりのセリフ。
一連の動作が終わると、すこし得意げな顔をする。
こんなところも、いつも全部おんなじだ。

5 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:01:15.13 ID:2EYiqEug0


でも、脇で私がずっと見ていたことに気がつき、
彼は少し照れたように頬をポリポリとかく。
多分、私が笑っていたからだろう。



「日課の時刻合わせ、お疲れさまです!」

「はは、ありがとう!」


彼は毎朝、劇場へ1番に出勤してくる。
朝出勤すると、いつもこうして腕時計の時刻合わせをする。
最近、朝早く劇場に来るようになった私が知った、彼の習慣。



「……そんなに毎日時刻がズレるものなんですか?」

ふと気になって聞いてみる。
私も腕時計を持っているけれど、一週間後に見てもそう時刻はズレていない。

「そうだな。俺のは機械式だからなぁ」


キカイ式…?腕時計にも種類があるのだろうけど、違いがわからずに首を捻る。
そんな様子を見た彼はクスリと笑い説明してくれる。


6 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:02:06.48 ID:2EYiqEug0



腕時計の駆動方式は大まかに機械式とクォーツ式に分けられる。
機械式はゼンマイで駆動し、クォーツ式は電池で駆動する。

かつては機械式が主流だったが、今は安価・コンパクト・精度がいいクォーツ式が一般的だと語る。


「なるほど…!ではPが機械式をあえて使うにはなにか理由があるんですね?」

「いや、ないかな。
正直手間もかかるし、放っておいたら止まってしまうし。
仕事で使うには適している方じゃないだろうなぁ」


え?と私は声を出してしまう。



機械式は日差(いち日でズレる秒数)で10秒〜20秒ほどで、
クォーツ式は月差(ひと月でズレる秒数)で数秒ほど。


クォーツ式の電池は2年ほど保つけど、
機械式はゼンマイの動力が切れたら止まってしまうため、保って2日という。


機械式時計は正確な時間を知るための道具としての役割を終え、今は趣向品として細々と世に出ているーーー。

そう語る彼は、手の中にある時計へ目線を落とす。


7 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:03:30.72 ID:2EYiqEug0



「これは、この仕事を始めてから買ったものなんだ。
スーツを着て仕事をするから、それに合うような時計も買わないとってよく調べもせずに買ってな…」


知らずに買った機械式時計はどんどん時間がズレていく。
せっかく買ったんだし、と毎朝こうして時刻を合わせるようになっていったんだと語る彼。


「最初は面倒で仕方なかったんだけどな。
でも今は、逆にやらないと気持ち悪くなっちゃったな。
仕事のスイッチを入れるのに丁度いい儀式…ってところかな?」

スイッチ……!
それなら、私にも心当たりがある。

「あ、それならわかる気がします。
私も、アイドル衣装に着替えて、メガネを外すと、やるぞ〜って気になります!」

「普通はメガネを着けてスイッチを入れると思うけどなぁ」

「そっか……フフっ!そうかもしれませんね!」


なんだかおかしくて私が笑うと、彼も釣られて笑顔を見せる。

朝、
私達以外誰もいない、2人きりの事務所で彼と笑いあう。




明日も、ちょっと早く来てみようかな?



8 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:05:03.69 ID:2EYiqEug0








失敗してしまった。


衛星放送のアイドル番組の企画、
『アイドル知識番付!早押しクイズトーナメント!!予選編』で、
他事務所のアイドルチームと大差のポイントでリードしていたのに、
肝心の場面で私が回答を間違えてしまい、その後は流れを取り戻せず予選敗退……。


決勝への出場権を逃してしまったのだった。



同じチームの琴葉さんも百合子も、私のせいで、
頭からタライが落ちてきたり、冷却噴射ガスを掛けられたりしたのに、気にしないでって言ってくれた。



でも、私がそれ以上に悔しいのが……。


9 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:06:17.31 ID:2EYiqEug0



琴葉さんと百合子は電車で帰っていった。
私もあとに続こうとしたら、彼に止められる。
少し乗っていけ、と言われるがままアイドル衣装を積んだ事務所のクルマに乗せられる。




……よほどひどい顔をしていたんだろうか。
そんな顔を彼へ見せないよう、私は助手席の窓へ顔を向け、外を眺める。
今は、それしかできない。



「紗代子…あんまり気にするな。
それにな、こういうアイドル番組は罰ゲームをもらったほうが美味しいんだぞ!
番組Pの受けも良かったし!」


運転しながら、私に気遣って声をかけてくれる彼。
それが引き金となって、私も口を開く。


「……でも、P!
決勝大会は、深夜だけど地上波での放送で!
”あの子“ が、見てくれるかもしれなかったチャンスだったのに!私……っ!」



「…うん、知ってるよ。今日のために紗代子がみんなと雑学の勉強会をしていたこともな」



10 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:07:29.20 ID:2EYiqEug0



分かっていた。自信もあった。努力もした。
でも、ダメだった。
足りなかった。
届かなかった。



普段から、私が仲間に言っている言葉たち。

『辛いなんて口にするから辛くなっちゃうんです!』
『途中で諦めたら意味ないんだから最後までやり抜こう!』
『向いてないって言われると、やってやろうって気になるんです!』

私は、ファンの人からよく熱血アイドルだ、と言われる。
でもこういう強い言葉を吐くのは、本心もあるけれど、
本当は無い自信をあるように自分に言い聞かせるだけの、ただの強がりで、自己暗示に近い。


言葉で隠していただけで、
これが、私の本当の実力だったのかな…。



早く、寝てしまいたい。
寝てしまえば、きっといつもの前向きな私に戻れるはずだから。
それが、私の特技だから。



すれ違うクルマのヘッドライトの明かりが、今日はやけに眩しく見えて、私は頭を下へ向けてしまう。


クルマは、赤信号で停まる。



11 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:09:04.02 ID:2EYiqEug0



下を向いている私の頭に、ポン、と何かが乗せられる。
え、と顔を上げるとそれは、彼の左手だった。



「そんなに落ち込むな。また、仕事とってくるから!」



そう、大きな手でくしゃくしゃと私の頭を撫でるーーー
というより、揉む、といったほうが近い。
まるで転んで泣く子供を慰めるような、そんなつよさで。


そういえば、アクアリウスの公演の後、彼に優しく撫でられて理由はわからないけど、涙が出てしまった。


あのときとは違う、無神経な左手。
でも今は私の心も一緒にくしゃくしゃにほぐしてくれるようで、不思議と心地よくて。
彼が手を動かすたびに腕時計の金属のバンドが、カチャカチャと鳴る。



12 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:10:37.08 ID:2EYiqEug0



「ほら、こういうとき、アイドルの誰かが言ってたかな?
『次はトップを目指しましょうね!』
ってな!」



そうイタズラにはにかんで見せる、彼。
誰だろう…と一瞬考えたけど、そんな言葉を使う人は、劇場にそんなにはいない。



知らず、強ばっていた顔から力が抜けて、口元が緩む。



彼は私のそんな顔を見て、うん。と力強く頷く。
横目で信号を確認して、私の頭から手を離しハンドルを握る。



あ、と名残惜しさを感じて、
さっきまで私に触れていた左手を見つめる。



ハンドルを握り、小刻みに動く左手。
その手首には、彼の愛用の腕時計が巻かれている。
たぶん今日の朝も、いつもの調子で時間を合わせたんだろうな、とぼんやり考える。


街灯の光を受けて腕時計のケースが鈍く光るのを、私はしばらく眺め続けた。



13 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:11:44.94 ID:2EYiqEug0






「よし」

朝、彼がいつもの調子で時計の時刻合わせをしている。
時計を左手に持ってきて、その音に耳を澄ます。

「うん、いいな!」

お決まりのセリフを言って彼は日課を終わらせる。
しかしその後で私の視線に気がつき、また照れたように頬をかく。


「……なぁ紗代子」

「はい♪ なんでしょうP!」

「飽きないか?」


「…あ、ご迷惑でしたか?」

「いや、そんなことはないんだけどさ。
 なんだかいつも見られてるから。……面白いか?」




彼の日課の時刻合わせのとき。
私は彼の様子を少し離れたところから、両手で頬杖をついて眺めていることが多い。


「そう……ですね。
私の時計はクォーツ式なので、Pの腕時計は新鮮に見えます!」


本当は時計ではなく、彼の横顔を見ているなんて言えなくて。
つい思ってもいないことを言ってしまう。


14 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:13:31.29 ID:2EYiqEug0



「ははーん、なるほどな!
もし腕時計に興味があるなら、機械式の音を聞いてみるか?」


そう言ってPは手招きする。
彼の座るソファーの隣に私を座らせて、私の手に腕時計をカチャリ、と手渡す。



私には、ズシリとくる重さ。ケースやバンドも含めてシルバーの金属製。
黒地の文字盤で、時針で3時にあたる所には日と曜日が表示されていて、
秒針がなめらかな動きで回っている。


バンドもケースも、ところどころ傷がついていて、使い込まれた腕時計。
悪く言えば、くたびれている腕時計。



「耳に当てて音を聞いてごらん」



私は言われるがままに耳に当てて意識を集中する。
……微かだけど、聞こえる。




チッチッチッチッチッ……





規則正しい、機械の駆動する音。
私のクォーツ式の時計でも、かすかに音はしたけれど、これはハッキリと聞き取れる。
私はこれを聞いて、思ったことを素直にこぼす。


15 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:15:39.31 ID:2EYiqEug0



「……ふふっ、なんだか、ドラマや映画に出てくる爆弾の起爆時間の音みたいですね!」


「ははは!間違いなくその音が元だろうけどな。
時計の裏側をみてごらん」



見ると、裏側はスケルトンになっていて、中の構造が見えるようになってる。
絶えず丸い部品がギュルギュルと回っていて、無数の歯車や部品がみっちり詰め込まれている。
それらの部品が、どんな機構でどんな役割をするのかわからないけど、
ものすごく精巧な機械ということはなんとなくわかる。


「このギュッと詰まった中身とか、
この音とか、ズシッとくる重さが機械式のいいところでな。
このシリーズも今度日本で復刻される予定でーーー」


と少し熱っぽく機械式時計を語るP。
私はそれの全部を理解することはできなかったけど、
いつになく楽しそうに話す彼を見ているうち、笑みが溢れる。



「フフっ…!なんだかP、マニアさんみたいですね?」

「……あ、ゴメン。こんな話、つまらないよな?」



喋りすぎた、と感じたのかしょんぼりするP。


16 :伊丹 [sage]:2020/02/08(土) 20:17:10.01 ID:2EYiqEug0



「…いえ!そんなことないです!
ーーーただ…」


私は手の中にある腕時計をそっとなでる。



「Pは、この時計がお好きなんですね!」


そう私が言うと、彼はまた頬をかく。

「……まぁ、もともと形が気に入って買ったものだからなぁ。
俺と色々な瞬間に立ち会った相棒、ってところかな」



「……なら、私達が初めて会ったとき……
39プロジェクトの、私のオーディションをしたときも着けてたんですか?」


「そうなるかな。
それこそずっと前、765プロが立ち上がった、春香たちが新人のときからだな」


「へー……そう、なんですね…」




そういう話を聞いてから、手の中にある時計をまじまじと見つめる。


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