【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』

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88 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:48:06.16 ID:eH8hmcZZo

ところが、その時下を向いた目線の先、
舞台の床面に付けられた小さな印がこのみの目に映ったとき、このみの鼓動が確かに音を立てた。
それは、ステージ上で立ち位置を確認する為にT字に貼られた、なんの変哲も無いテープによる印でしかないはずだった。
裏腹に少しずつ早くなっていく鼓動は、緊張でも、焦りによるものでもないと、このみにははっきりと分かった。
89 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:48:34.41 ID:eH8hmcZZo

このみは、その鼓動に導かれるようにして、一歩、また一歩と、舞台上の段を登り、等間隔に並べられた印を辿っていった。
そして、ある一つの印の前でこのみの足が止まった。
先程より少し上手側の、一番後ろの列。

このみはこの印がなんであるかを知っている。
一つ一つの色は違っていても、形はみんな揃っている。
それは、劇場のアイドルの数と同じだけの印。
90 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:49:07.53 ID:eH8hmcZZo

このみは鳴り止まない鼓動を左手で感じながら、その印に自身の足を合わせた。
その場所は、何時でも背中を支えていてくれるような、不思議な心地良さがあった。
このみは目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
物音一つ聞こえないほどの静けさの中で、このみの身体には自身の呼吸音と鼓動だけが響いていた。
落ち着く様子のない高鳴る鼓動に、其処にある景色を早く見たいと突き動かされ、このみは目を開けた。
91 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:49:45.92 ID:eH8hmcZZo

刹那、音のなかったこの世界は、耳を貫き肌を震わるほどの音と歓声とが飛び交うステージへと姿を変えた。
焦がれるほどに眩しいステージライトに包まれて、このみも、劇場の仲間たちも、ステージに立っていた。
たった一瞬、瞬きほどの間にこのみが垣間見た景色は、劇場の仲間たち越しに見えた虹色の光たちだった。
熱気は渦を巻いて、また新たな熱になってステージから飛び出していく。
このみの目には、ステージからの光に照らされたペンライトの波間が、きらきらと光るのが見えた。
92 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:50:11.63 ID:eH8hmcZZo

気がつくと、世界は元の姿に戻っていた。
先ほどと変わらず、ステージライトは今は点いていないし、客席には誰もいない。
この舞台に立っているのはやはりこのみだけであった。
93 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:51:48.33 ID:eH8hmcZZo

しかし、そうであったとしても、見えた景色は本物だったと、このみは確信していた。
あのダンスも、あのライティングも、あの歓声も。
あの景色は、数えきれないほど歌い続けてきた、『Thank You!』の景色なんだ、と。

いつでも、何があっても、決まって公演の最後には出演者の全員でこの曲を歌ってきた。
私が初めてこの劇場のステージに立ったときもそうだった。
『ミックスナッツ』としてステージに立ったときも、武道館でライブをしたときだって、この曲とずっと一緒だった。
公演までの日々の中で、笑っていたときも、泣いてしまったときも、震えが止まらなくなったときだってあった。
だけど、公演当日になって舞台に上がったら、例え何があっても、いつもこの曲のこの景色にみんなで戻ってきたんだ。
あの日からここまで、重ねた日々の数だけ色んな事があったけれど、今までずっとみんなで歌い続けてきた曲。
94 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:52:24.42 ID:eH8hmcZZo

『ミリオンスターズ』の私も、『アイドル馬場このみ』の私も、始まりは虹色の景色からだった。
虹色から始まって、その中にあった『私の色』が、アイドル馬場このみの、暖かな桃色の景色なんだ。

「そっか……。」

この場所は、私が『私』であるための、かけがえのない場所だったんだ。
いつも変わらずそこにあって、帰ってきたときにみんながいてくれる、そんな大切な場所。
95 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:52:53.37 ID:eH8hmcZZo

このみは胸が熱くなるのを感じながら、誰もいない客席を見ていた。
物音一つさえない、息を飲むような静けさの中で、一階席も二階席も、一番前から後ろまでを見回した。

公演では、前の曲が終わって舞台が暗転した後、その歓声がまだ残るうちから次曲の歌い手は立ち位置にスタンバイする。
前の曲の余韻からまだ知らぬ次の曲への期待へと、まるでそのスタンバイが完了したタイミングを知っているかのように会場の意識が切り替わり、
そのとき劇場は緊張感を持った静けさに包まれる。
今のこの静けさは、そんな暗転した舞台の上でイヤモニからのカウントを待っている時のようだ、とこのみは感じた。
張り詰めた空気の中、それとは裏腹に高鳴る鼓動。
伝えたい言葉が胸に溢れてくる。
96 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:53:20.79 ID:eH8hmcZZo

『きっと、この場所なら大丈夫。』
このみは、もう一度両腕を胸に抱き寄せた。
折れそうになった数だけ出会えた『これまで』を。
何よりも愛おしい、かけがえのない『今』を。
97 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/26(土) 19:32:36.71 ID:ZIFRcwBno
>>53 >>56 >>58
×すばるん
○昴くん
98 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:32:31.20 ID:1EiPKTBf0

それから少しして、スポットライトを見上げていたこのみの耳に、
突然何かがぶつかった様な大きな物音が舞台袖の奥から聞こえてきた。
このみは咄嗟にその音のした方を向いたが、そこにいた人影を見つけて、
ようやくそれが出入口の扉が勢いよく開いた音だと気がついた。

「あー!このみん!!」

「ま、真美ちゃん!そ、それにみんなも……。」
99 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:33:05.58 ID:1EiPKTBf0

そこには、亜美、真美、昴、環の4人がいた。
慌ててこのみは時間を確認したが、もう既にあれから随分と時間が経ってしまっていた。
このみは、ああ、しまった、と頭を抱えた。
成り行きで始まったとはいえ、隠れんぼの鬼を任されていたはずなのだ。
ずっと待たせてしまった挙句に、探しにきてもらうなんて、
どちらが隠れんぼしてるのだか分からない。
100 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:34:27.82 ID:1EiPKTBf0

「え、えっと……。」

駆け寄ってくる4人に何を言うべきなのか分からず、このみは言葉が詰まってでてこなかった。
しかしそんなこのみの様子をよそにして、真美は大きな足音とともに舞台を駆け、このみの前に飛び込んできた。

「もう、このみん、どっか行っちゃったのかと思ったんだよ〜。」

なんでどうしてと当然問い詰められるものだろうと思っていたこのみにとって、その言葉は予想外のものだった。
一瞬だけ止まったこのみの思考はすぐに動き出したが、それでも聞き返すような簡単で短い言葉しか浮かんでこなかった。
ぐるぐると堂々巡りする思考の中で、このみは真美の肩越しに亜美たち3人がゆっくりとこちらに歩いて来ているのが見えた。
101 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:35:28.20 ID:1EiPKTBf0

「そうそう。亜美たち、メッチャ探したもんね。」

「全然探しに来てくれないから、たまき達心配だったんだぞ。」

「亜美ちゃん、環ちゃん……。」

4人の表情からは、気持ちが痛いほどに伝わってきた。
それは方便などではなくて、本当に心配してくれて、あちこちを探し回ってくれたのだろう。

「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」
102 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:38:34.93 ID:1EiPKTBf0

「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」

環と昴はこのみを静かに見つめていた。
亜美と真美はその様子を伺ってか、あるいは単に空気がむず痒くなりそうだったからか、
うむうむ、まったくだよ、と言ったような調子で相槌を打っていた。
103 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:40:15.53 ID:1EiPKTBf0

それから少し間が空いた後、昴は少し笑みを浮かべながらこう言った。

「でもまあ、このみのこと見つけられて本当に良かったよ。こんな所に居るんだもんなあ。」

このみ自身も、この場所に他の誰かが入ってくるなんて、まったく考えていなかった。
集中して周りに注意が向かなくなっていたということもあるが、
そもそも公演のないときには、普段誰も入らないような場所だった筈だ。
104 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:42:39.73 ID:1EiPKTBf0

「ねえねえ、このみん。ここが怪しい、って言ったの、昴くんなんだよ。」

「あら、そうなの?昴ちゃん、私がここにいるって、どうして分かったの?」

昴は、首を傾げて少しの間考えて、それからこう言った。

「んー……。やっぱり、なんとなく、かなあ。ただ、ここにいるんじゃないかー、って。そんな気がしたんだよ。」

それを聞いたこのみは、頬が緩んでしまいそうになるのを感じながら、昴たちの目を見ていた。
その表情、その視線に、昴は照れ隠しに頬を一度指でかいたが、その間もこのみをずっと見ていた。
このみは何を伝えるか少しだけ考えたが、出てきたものは一番自身の底から出てきた、飾らないありのままの言葉だった。

「昴ちゃん……。みんなも……。見つけてくれて、ありがとう。」
105 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:50:37.89 ID:1EiPKTBf0

このみたちは舞台袖から外へ出て、夕日が差し込む廊下を歩いていた。
ほんのりと赤く染まる景色に、このみは不思議と温かな懐かしさのようなものを感じていた。

「今度お詫びにじゃないけど、みんなで何か甘いもの食べに行きましょ。好きなもの、何でもいいわよ。」

「ええ、ホントに!?……このみん、太っ腹ですなぁ〜。」

「じゃあ、たまき、クレープ食べたい!」

「はいはい!亜美は駅前に新しくできたあそこがいい!でっかいパフェのとこ!」
106 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:56:52.84 ID:1EiPKTBf0

あっちのお店は、こっちのお店は、といった調子で、あっという間にスイーツの話で盛り上がっていった。
最終的に候補はいくらか絞れたがそこから先はなかなか決められず、結局じゃんけんで決めることになった。

「昴くん、亜美はグーだすかんね?」

「そう言って、違うの出すんだろ?もう何を言われても引っかからないからな。」

「それじゃあ……、たまきはパーにする!」

「亜美がグーで、たまきちがパー……。それなら真美は、チョキだすしかないっしょ!」

「いや、それあいこになるだけだから!」

次々に広がる平和なやり取りになんとも微笑ましさを感じていたこのみであったが、唐突に表れた的確な昴のツッコミに思わず吹き出してしまった。
そして、それにつられるようにして当の本人の昴たちもだんだん可笑しくなって、とうとう最後には5人で声を出して笑った。
107 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:59:21.49 ID:1EiPKTBf0

じゃんけんが終わった後も、賑やかさが落ち着くことはなかった。
むしろ今度の遊びの方針の話が始まった今が一番わいわいと盛り上がっているようにも思える。
このみはそんな4人の様子を見ながら、頬を緩ませ息を吐いた。
ふと絶えない騒がしさにどこかほっとして、胸が暖かくなるのを感じていた。

「隠れんぼ、次こそは絶対全員とっ捕まえたげるわよ。」

このままだと隠れんぼマスターの名が泣くってものよね。
昔を少しだけ思い出しながら、このみは笑って言った。
108 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 23:02:13.31 ID:1EiPKTBf0

「……このみんってさ、なんだかんだノリいいよね。」

「えっ?そ、そうかしら?」

真美の言った言葉にこのみは少しだけ驚いた。
言われてみれば、今回だって無茶振りに乗っかってしまった訳だし、
今までもこの双子に色々と振り回される度に、若干ヤケクソ気味に開き直ったりもしていたような気がする。
というか、大体いつもオモチャにされていたような……?
109 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 23:03:45.30 ID:1EiPKTBf0

「うんうん。亜美、このみんのそういうとこ好きだよ。だって、そっちの方が絶対楽しいもんね!」

「たまきも!このみといると、いつもたのしいぞ!」

……まあ、そうやって振り回されるのもたまにはいいかな。
このみは自分でも驚くほど素直に、心からそう思えた。

「ええ、私もよ。みんなといると毎日楽しいもの!」
110 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:12:10.81 ID:BkiYgAwQ0

それから他愛のない話をしながら、5人は控え室の前にきた。
特段誰かが用事があったわけでもなかっただろうが、気が付けば自然とこの場所へやってきていた。
扉についた磨りガラス越しに電気がついているらしく、誰かの話し声や笑い声も聞こえる。
何でもない話をしながらこのみたちは扉を開けた。

控え室と呼ばれているこの部屋は、文字通り公演時のアイドルたちの待機場所として使われている場所である。
そうでない普通の日でもこの場所は、仕事やレッスンの合間などにアイドルのみんなが何気なく集まったりできるような、
いわば「溜まり場」になっている。
そんな訳で、普段からアイドルたちの一番集まるような場所であるのだが、
いつにも増して今はどたばたとしていて騒がしい様子だった。
と、いうのも……。

「うぎゃー、ハム蔵、待ってってばー!」
111 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:12:55.66 ID:BkiYgAwQ0

このみたちが扉を開けた途端に聞こえてきたのは、我那覇響の声であった。
響がいま追いかけているのは、響といつも一緒に行動しているハムスター、ハム蔵である。
響にとっては相棒とも言えるなんとも不思議な存在なのだが、
今日はどうやら様子が違うらしくハム蔵は響の手から離れて、控え室の床を駆け回っている。
112 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:15:39.87 ID:BkiYgAwQ0

「──で、ここはこう……、って、な、なんや!?」

自身の足の間を駆け抜けていったハム蔵に驚いてよろけそうになったのは、横山奈緒。
千早、可奈、歌織とボーカルレッスンを受けた後、その振り返りと確認をしていたのだが、
突然のハム蔵の襲来に手に持っていた楽譜を落としそうになる。

「きゃっ!ハ、ハム蔵ちゃん……!」

「ああ、びっくりした……。」

奈緒に続いて、驚いてよろけそうになる歌織と可奈。
転ばずに済んで少し安堵する二人を尻目に、
ハム蔵はその足元を縫うようにしてあっという間に走り抜けていく。
113 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:16:37.08 ID:BkiYgAwQ0

扉が開いたのを見計らってか、ハム蔵はこのみたちが開けた扉に向かって真っ直ぐと向かってくる。
それに気がついたこのみは、そうはさせまいと扉を急いで閉め、
その一方で亜美たち四人は捕獲の臨戦態勢を取って待ち構えた。
脱出ルートが無くなった上に、流石に相手が悪いと判断したのか、
ハム蔵は四人の前で90度方向転換。
部屋の奥の方へと走っていく。

「ふっふっふ。さあさあ、ハム蔵くん、シンミョーにお縄につくのじゃ!」

「キミ達はホーイされている!」

亜美と真美は、何処かで聞いたことがありそうな台詞とともに、ハム蔵の後を追っていく。
待ってましたと言わんばかりにこの二人がどたばた騒ぎに首を突っ込んでいくのも、
劇場のアイドル達にとってはもはや慣れたことである。
環もその二人に乗っかるような形でハム蔵の後を追いかけていく。
114 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:22:41.85 ID:BkiYgAwQ0

「我那覇さん、ハム蔵と何があったの?」

千早がレッスン用のファイルを抱えたまま、響に聞いた。
昴とこのみは、とりあえず状況を把握するためにも千早とともに響に事情を聞くことにした。

「うん、それが……。さっきまでハム蔵とちょっと話してたんだけど、それで自分が言い過ぎちゃって……。」

「ん、そうだったんだな。……オレ、てっきりまたハム蔵のご飯つまみ食いしたのかと思ったよ。」

ハムスターのご飯をつまみ食い、というのはいささか不自然に聞こえるかもしれないが、何もおかしな話ではない。
というのも、響が飼っている動物たちはイヌやネコに始まり、
ウサギやヘビ、果てはワニに至るまで数多くいるが、
ハム蔵に限らず全ての動物たちのご飯を自分で作っている。
個々の動物たちの好き嫌いを把握しているのは当然で、加えて体調に合わせて食材やその切り方、
そして盛り付けや彩りまで細かく気を配っている。
それ故に、味見の延長線上としてつまみ食いが多々発生して、
動物たちが飛び出していってしまうことが何度かあったりもしたものだった。
115 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:23:15.89 ID:BkiYgAwQ0

「た、確かに前はそれもあったけど……。い、今は気を付けるようにしてるさ。」

「それにしても、こう部屋が大きいとどうにも手がつけられないわね……。どうやってハム蔵ちゃんを捕まえればいいのかしら……。」

このみは床を所狭しと駆け回るハム蔵の姿を目で追っていた。
765プロの事務所の方でも何回か似たことがあったが、それより今の方がもっと手がつけられなさそうだ、とこのみは感じていた。
ただ、心なしかこのみの目には、ハム蔵自身もこの広い部屋をどこか楽しんでいるようにも見えた。
今回もまた大変なことになりそうだとこのみは息を吐いたが、この逃走劇がどうなっていくのか密かに暖かく見守ることにした。
116 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:24:25.96 ID:BkiYgAwQ0

今もなおひた走るハム蔵の真正面では美也と恵美が机に向かって何やら真剣な表情で各々思考を繰り広げていた。
そして、その机の上の様子を伺うようにしてエレナ、琴葉、海美の三人が机の左右に立っていた。
そんな彼女たちの目線の先にあったのは、碁盤であった。
恵美が時間をかけてからそっと石を置き、対して美也は慣れた様子で返していく。
対局を見守る琴葉は無意識のうちに自身の顎に手を当てていて、美也と恵美の2人が打つ石の動向を見つめていた。
エレナも琴葉同様に落ち着いて対局の様子を伺っていたが、その一方で海美は時折首を傾げたり、あるいは体ごと傾げてうんうん唸っていた。
そもそも765プロ囲碁サークルとも言えるこの集まりは、もともとユニット『灼熱少女』の活動を切っ掛けに生まれたものだった。
美也と琴葉の一声で始まった集まりだが、『Cleasky』の活動以降エレナも美也が打つ囲碁に興味を持つようになり、今ではすっかり常連になっていた。
とはいえ、美也以外の5人はまだまだ始めたばかりで、美也との対局では置き碁が常であった。
117 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:25:16.70 ID:BkiYgAwQ0

「うみみん!そっち行ったよ!」

「……え?な、なに?なにが!?」

真美は、ハム蔵の行く先を塞ぐべく、五人の中で一番手前側にいた海美を呼びとめた。
それに対して海美は目の前の碁盤で繰り広げられる応酬に集中していたために、
それから数秒遅れてようやく自分が呼ばれたことに気がついた。
海美は声のした方向へ振り向いたのだが、そのときには既に目の前までハム蔵が走ってきていた。
118 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:26:14.72 ID:BkiYgAwQ0

てりゃ、という掛け声とともに海美は目の前を走るハム蔵を両手で捉えに行く。
ところが、海美自身咄嗟のことだったのでハム蔵を捕まえるには至らない。
迫りくる海美の手を避けるように、ハム蔵はその場で大きくジャンプ。
結果、海美の両手は空を切り、その上を飛び越えてハム蔵は更に走っていく。
119 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:27:08.78 ID:BkiYgAwQ0

「え?……って、ハム蔵ちゃん!?」

机を挟んだ海美の反対側にいた琴葉が、驚いて言う。
彼女にしては少し珍しく、一瞬どうすべきか分からずわたわたと慌てた様子だったが、
その後ハム蔵をいつでも捕まえられるようにすぐ手に持っていた手帳とペンを机の上に置いて身をかがめた。

そうこうしている間にも、海美を突破したハム蔵は美也の座る椅子の下を駆け抜けようとしていた。

「お〜、ハム蔵ちゃんですか〜。こっちですよ〜。」

対する美也は椅子に座ったまま体を屈めて、床を駆けるハム蔵を受けるように両手を組んだ状態で迎えにいった。
しかし、美也の手が床の高さまで到達した時は、既にハム蔵は美也の足元を駆け抜けた後だった。
120 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:31:54.60 ID:BkiYgAwQ0

そんな美也の言葉を尻目に、ハム蔵は机の陰から抜け出した。
しかし、そこでハム蔵は、準備を万全に整えて待ち構えていた田中琴葉と遭遇した。
琴葉はハム蔵のちょうど真正面で、膝を揃えてしゃがんでいる。
ハム蔵が左右どちらへ避けようにも、すぐに捕まえられるような、まさに絶妙な位置関係だった。
流石のハム蔵も、そのように構えられてはこれ以上迂闊に進めないと感じたようで、
急ブレーキをかけ、とうとうその場で脚を止めた。
その瞬間を見逃さず、琴葉はゆっくりと両手をハム蔵の方へ近づけていく。
ハム蔵はすぐさまその場でどうすべきかと辺りをきょろきょろと見回したが、結局そこから動くことができなかった。
121 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:32:36.30 ID:BkiYgAwQ0

張り詰めたような緊張が走る中、ついに琴葉は両の手のひらでハム蔵を捕らえることに成功した。
周囲からおお、と感嘆の声が上がる。
琴葉は、息を整えながら自身の手のひらに収まっているハム蔵を見た。
捕まえた瞬間は今ひとつ実感がわかなかったが、ハム蔵の肌触りや温もりを手のひらで感じて、
本当に捕まえられたんだ、とようやくほっと安堵した。

「よかった……。」
122 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:33:06.47 ID:BkiYgAwQ0

どたばたと騒がしい瞬間はこれでおしまい。
亜美真美や環は、もう終わっちゃったのか、なんてすこし残念そうな顔をしていた。
机に開いたままの教科書類そっちのけで、目の前の戦いに目を奪われていた百合子たち中学生組も、
また少しすれば宿題との格闘に戻っていくのだろう。
これでようやくまた静かで落ち着いた控え室に戻りそうだ、とこのみは思った。
123 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:35:30.69 ID:BkiYgAwQ0

涙の再会と言わんばかりの表情をした響に、しゃがんだままの琴葉がそっとハム蔵をのせた手を差し出す。

「はい、響ちゃん。二人とも仲良く、ね。」

「うう……。ハム蔵……。」

響がハム蔵を受け取るために両手を差し出したその時だった。
ハム蔵は、そこで生じた一瞬の隙を見逃さなかった。
いまこそがチャンスと言うかのように、ハム蔵が琴葉の手のひらの上から脱出を試みたのである。

「きゃっ!」

琴葉がそんな声を上げている間にハム蔵は琴葉の腕の上を肩まであっという間に走り抜け、
さらにそこから背中側を一気に駆け下りていく。

「あっ、こら、ハム蔵!」
124 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/12/13(金) 00:36:00.30 ID:BkiYgAwQ0

次の瞬間には、一度は捕まえられたはずのハム蔵が、先ほどのように床の上を自由に駆け回っていた。
琴葉はしりもちをついたまま、走り去っていくハム蔵をただ見ることしかできなかった。
ハム蔵は先生役として百合子たちの宿題を見ていた紗代子と瑞希の足元を縫うように走っていき、
宿題に向きかけていた百合子、杏奈、未来の3人の目は、またもやハム蔵の逃走劇にくぎ付けになる。
どたばた騒ぎの時間は、もう少しだけ続いていくらしい。
125 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/01/11(土) 14:30:56.20 ID:TaItlDyU0

あるときは物陰に隠れてみたり、そうでないときは大胆に部屋を横断してみたり。
そんなハム蔵の逃走劇が終わりを迎えたのは、それから五分ほどしてからだった。

流石に疲れたのか、ハム蔵は先ほどの空間から離れて衝立を挟んだ向こう側の区画にやってきた。
そこでは莉緒と桃子がソファーに座り一冊の雑誌を二人で見ていて、
その近くの椅子にはロコがスケッチブックを片手に腰かけていた。
もともとロコは二人の様子をスケッチするつもりだったのだが、
自身が描く絵に対し何かが足りないような気が拭えず、
鉛筆を動かす指を止めてぶつぶつとひとり言を呟いていた。
126 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/01/11(土) 14:43:18.57 ID:TaItlDyU0

莉緒たちは衝立の向こうの騒ぎからハム蔵が追われる身であることを知ってはいたが、
特段ハム蔵を捕まえようとする気はないようだ。
ハム蔵ちゃんも一緒に見る?といった調子でハム蔵に手を振ってみたり、手招きなんかをした。
それを見たハム蔵は莉緒が純粋な意図でそうしてるのだと察したのか、
特に気にすることなく莉緒たちが座るソファーへと上がった。
それからハム蔵は桃子のすぐ隣にやってきて、そこに置かれたクッションで仰向けで寝転がった。
127 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/01/11(土) 14:53:36.46 ID:TaItlDyU0

莉緒は再びファッション雑誌に目を戻して、夏に向けたトレンドの特集を追う。
白いカーディガンが目に留まり、桃子にこれなんてどうかしら、と声を掛けようと莉緒は桃子の方を向くが、
そこで、桃子がハム蔵の様子を興味ありげにちらちらと見ていたことに莉緒は気づく。
莉緒は微笑まし気に笑って、それから、ほら、チャンスよ、といった調子で桃子に促した。

「桃子ちゃん、ハム蔵ちゃんも触ってほしそうにしてるわよ?」

「り、莉緒さん。桃子は、別に……。」
128 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/01/11(土) 14:54:51.20 ID:TaItlDyU0

そんな返事をする桃子は、莉緒の言葉に押される形で、ハム蔵におずおずと人差し指を差し出した。
対するハム蔵は仰向けのまま桃子の指を受け入れた。
ふかふかクッションに包まれたハム蔵は、小さな手足で人差し指と遊んでみたり、
身体を預けてお腹を撫でさせたりとどこか心地よさそうにも見えた。
桃子の方もハム蔵の柔らかさに知らず知らず声が漏れていて、すっかり夢中になってしまっていた。

莉緒が桃子のそんな様子を横から優しく見ていると、突然が大きな音を立ててロコが椅子から立ち上がった。

「……コ、コレです!!!!!」
129 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/01/11(土) 14:55:32.58 ID:TaItlDyU0

「と、いう訳なのよ……。」

このみは、響たちハム蔵捜索チームとともに莉緒の元へやってきていた。
そこには、両手を器のようにして小さな手の上にハム蔵を乗せている桃子と、
桃子とハム蔵を描くべく、ものすごいスピードでスケッチブックに鉛筆を走らせているロコの姿があった。
ハム蔵は先ほどまで自分を探していた響たちを見つけたが、そこから動く様子がない。

「ロコが『ストップです!!』なんて言うものだから、ハム蔵ちゃんすっかり動けなくなっちゃったの。」

ハム蔵自身も、まさかこうなるとは思っていなかっただろう。
事態がどこへ繋がってどう結末を迎えるかは、当事者たちでさえ予想のつかないものである。
拍子抜けして力の抜けるのを感じながら、このみは身をもってそれを理解した。
130 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 15:55:56.25 ID:lT49CYaR0

ともあれ、ようやく控室に平穏な時間が戻ってきた。
先ほどまでハム蔵の捜索班だった大神環は、美也に誘われて囲碁の対局の観戦に加わっていた。
海美と並んで、しばしば二人してうんうんと唸ったりしていて、
そのたびに、美也たちが「ここは……」と考え方を説明していた。

「……それにしても。いつの間にか、こんなにみんな戻ってきてたのね。」
131 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 15:57:14.50 ID:lT49CYaR0

このみは部屋を見回してそう呟いた。
亜美たちを探しにこの部屋に来たときには、百合子や紗代子といった、
ちょうどいま宿題に奮闘しているグループしか部屋にいなかったはずである。
それがいまでは、騒がしさには絶え間がなく、部屋も前より狭くなったんじゃないかと感じるほどになっていた。
このみがためしに人数でも数えてみようかと思っていたところで、そこで隣に居た琴葉が答える。

「昼の仕事組はもう大体みんな帰ってきてるみたいです。
私も、少し前に戻ってきたばかりなんですよ。」

そう言ってから琴葉はこのみと同じようにまわりを見渡した。
132 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 15:59:24.01 ID:lT49CYaR0

「琴葉ちゃん。……そういえば、さっきは大丈夫だった?」

「さっき……?………あっ!」

琴葉は先ほどのことを思い出して、思わず赤面する。
ぺたんと尻もちをついていた琴葉の姿は、普段と違って新鮮でお人形さんのようにも見えたが、
本人はどうやら表情に現れるほど恥ずかしかったようだ。
顔が火照るのを感じたのか、両手で頬を隠すように押さえながら、琴葉は小さな声で言う。

「先程はお恥ずかしいところを……。うう。」
133 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:16:06.81 ID:lT49CYaR0


そんな琴葉の様子が可愛らしくて、このみはもっとつつきたくなってしまいそうになる。
そうこうしていると、そばにいた昴が頬を染める琴葉を見て、思い返すように言う。

「琴葉がそんなに恥ずかしがってるの、オレ、初めてみたかも。」

琴葉はそれを聞いて、はっと驚いた様子で、顔に手を当てたまま昴の方を見た。
隣で見ていたこのみは、琴葉自身、昴からそう言われるのは少し意外だったのかも、と感じた。
昴はそんな琴葉の様子に気付いてか気付かずか、そのまま言葉を続けた。
134 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:17:17.79 ID:lT49CYaR0


「琴葉っていつだってビシッとしてるからさ。
オレなんてさ、ヒラヒラした衣装を着る、ってなったときとか、
まだ恥ずかしくって顔に出ちゃうときがあるんだよな。」

昴は自身のステージや撮影のときを思い出しながら、そう言った。

「昴ちゃん……。」

「まあ単に、オレが琴葉によく怒られてるからってのもあるかもな。琴葉が本当に怒ると、すっごく怖いもんなあ……。」

「そ、それは昴ちゃんが部屋の中で野球してたりしたときだけでしょ!」

珍しく琴葉が少し声を張って昴に言う。
そんなやりとりを見ていたこのみは、やっぱりなんだかんだ二人は仲がいいなあと思う。
それがなんだかおかしくて、つい堪えきれず笑い声が出てしまう。
135 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:31:56.09 ID:lT49CYaR0


「このみさん?」

「ふ、ふふ。ごめんなさいね。なんだか面白くって。」

このみは一呼吸置いてから昴の方を向いた。

「昴ちゃん。琴葉ちゃんもね、怒ろうと思ってやってるんじゃなくて……。」
部屋の中だとたくさん物があって危ないでしょう?みんなに怪我とかをしてほしくないってだけなのよ。」
やっぱり誰かが怪我しちゃったりすると、私たちも悲しくなっちゃうもの。」
136 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:36:05.78 ID:lT49CYaR0

このみが琴葉の方を向くと、そこで二人は目が合った。
琴葉は、また少しだけ驚いた様子で、このみをじっと見ていた。

「そうよね、琴葉ちゃん。」

「は、はい。その……。」

琴葉は一度声を詰まらせたが、ゆっくりと言葉を続ける。

「……もしかしたらみんなからは、琴葉は厳しい、って思われてるのかもしれないけど……。
昴ちゃんも、このみさんも。劇場のみんなが楽しそうにしてるのをみると、私もなんだか嬉しくなるの。
だから、みんなに危ないことはしてほしくないな、って。そう思うの。」
137 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:44:48.05 ID:lT49CYaR0

自身の胸に手を当てながら、琴葉は昴の目を見て言う。
大切なものを抱えるように優しくて、それでいて真っ直ぐにそれを見つめる琴葉の横顔に、このみは目が離せず、惹きつけられるようだった。

「……琴葉がオレたちのことを思って注意してくれてるのは、分かってたつもりだったけど……。」

ぽつりとそう溢した後、昴はぎゅっと目を瞑った。
それから心を決めるようにして目を見開いて、琴葉を見た。

「ゴメン、琴葉。……オレ分かったよ。」

「昴ちゃん……。」

琴葉は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
その表情は少しだけ緩んでいるように見え、
それは先ほどハム蔵を捕まえた時の、あの柔らかな笑顔を思い起こさせた。
138 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:45:46.62 ID:lT49CYaR0

そんな琴葉を見て、昴は何かに気がついたようだった。
昴は、ずい、とそのまま一歩近づいて、何か言う訳でもなく琴葉の顔をすぐそこで見つめていた。

「す、昴ちゃん……?」

数センチの身長差をも意識するほどの距離だった。
思いがけず顔をまじまじと見られた琴葉は、不思議な緊張で声が揺れているのを自覚しながら昴に呼びかけた。
対する昴は、どう答えるべきか少し逡巡したあとで口を開いた。
139 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:46:50.98 ID:lT49CYaR0

「……なんていうかさ、その……。ちょっと恥ずかしいけどさ。
琴葉はそうやって笑ってた方が、やっぱりかわいいよなー、って。」

「かっ、かわ……!」

全く予想していなかった昴の返答に、
琴葉の顔がまただんだんと赤く染まっていく。
顔の火照りを感じた琴葉は、思わず手で顔を覆ってしまいそうになる。
ただ、手を伸ばせばすぐ触れるほどの距離の昴に対してそれをするのは、気持ちを伝えてくれた昴との間に壁を作ってしまうように思えて、そこで琴葉の手が止まる。
140 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:48:56.35 ID:lT49CYaR0

「も、もう、昴ちゃん!」

琴葉はせめてもの抵抗として、もう知りません、と言った感じで、昴と逆の方向に顔を向けた。
そんな二人の様子を一歩離れた距離から暖かく見守っているこのみには、
昴は気がついていないようだったが、琴葉の揺れる長い髪の間から、赤くなった耳たぶがちらりと見える。
ぷいと顔をそむけたのも、きっと赤くなっているであろう顔色を見られたくなかったのかもしれない。
表情こそ直接は見えずとも、彼女の心中がこうして垣間見えるのがなんとも愛おしい。
この子は普段は気を張ってるけど、こうふとしたときに自分の気持ちが素直に外に出てくるのよね、とこのみは思う。
141 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:50:21.59 ID:lT49CYaR0

このみはそんな琴葉を見て、彼女がハム蔵を捕まえた瞬間のことを思い出していた。
あのときふと見せた彼女のやわらかな笑顔は、
混じり気がなく、繊細で澄み切った彼女自身の心を映し出したかのようで、それはある種の美しささえあった。

ときに「美しさ」はそれを見る者との間に壁をつくり、近寄り難くなっていく。
周囲にとって「自分たちとはかけ離れた存在だ」とされ、果てには偶像としてただの「人間」であることさえ剥奪される。
届くはずだった声も、きっと届かなくなってしまうだろう。
142 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:52:38.25 ID:lT49CYaR0

しかし、彼女の「美しさ」はそうではないのだと、このみは知っていた。
まだ何色にも染まっていない澄み渡るような透明さは、いつの間に誰かの心を自然と惹きつけていて、愛おしささえ感じさせる。
そんな飾らないありのままの彼女が、このみには少し羨ましくもあった。
そして、このみもまた、彼女には笑っていてほしいなと感じていた。

昴が琴葉の顔を覗こうとするたびに、琴葉は悪戯っぽく他所の方を見て顔を合わせないようにする。
暖かい目でそんな二人を眺めているこのみに気が付いた昴が、戸惑った様子でこのみに尋ねた。

「このみ。オレ、そんな変なこと言ったのかな……。」

にわかに心配そうに昴からそう言われ、このみは少し驚いた。
何を言うべきか迷ったが、このみはまず一番に、打算や計算なしに何気無く相手に踏み込んでものを言えてしまう昴がなんだかずるいなあ、と思わされた。
このみは、ふふ、と少し笑って、呟くように答えた。

「……そういうところよね。きっと。」


143 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:50:02.83 ID:5B03mR0i0

それから暫くして、昴は765プロ囲碁サークルのグループに混じって、琴葉に囲碁のルールを教えてもらっていた。
このみも特段用事があった訳ではなかったので、椅子に座って碁盤を見つめる昴の後ろで何となく一緒に話を聞いていた。

すると、部屋の入り口の方から、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
このみ達が何事かと慌ててそちらを向くと、そこには恐れ慄いた様子で脚のふらつかせる亜美と真美がいた。
そして、その二人の視線の先に居たのは、扉を背にして腕を組んで仁王立ちする秋月律子であった。
律子は手で眼鏡のブリッジを上げながら不敵に笑って、一歩、二歩と亜美真美にゆっくりと近づいていく。
対する亜美真美は、律子から逃れんとばかりに、後退りしながらもきょろきょろと辺りを見回している。
144 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:50:55.75 ID:5B03mR0i0

このみは、またいつもの奴が始まったのね、といった感じで眺めていた。
すると、亜美と真美の先ほどまで泳いでいたはずの目線の動きが、あるところを見て止まった。
このみはすぐに二人の意図を理解して、軽く頭を抱えそうになった。
というのも、その二人は、このみの方をじっと見ていたのだ。
詰まるところ、目が合ってしまった、というのが一番近かっただろう。
このみがあっと思った瞬間には、もう二人は動き出していた。

「あっ、こら、待ちなさい!!」

「このみん、助けて〜!!」

律子が二人を逃すまいと手を伸ばすが、その手は空を切る。
そのまま亜美と真美の二人はこのみの方へと走ってきていた。

「ちょ、二人とも待って──。」
145 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:51:37.94 ID:5B03mR0i0

そのまま二人は勢いそのままに、両サイドからこのみのもとへ飛び込んでいく。
それはあっという間の出来事で、このみが避ける間さえもなかった。
結局、嫌な予感は見事に的中して、このみは二人に巻き込まれてしまったのであった。

可愛いアイドル二人から抱きつかれるという状況は、世の男性諸君ならば泣いて羨ましがることだろう。
ところが、このみの場合にはそれどころではなく、二人の突撃は圧倒的脅威になり得るのだ。
歳こそ一回りほど下とはいえ、このみからすれば十五センチ程も大きな相手が戯れで飛び込んでくるのである。
それが二人同時にやってくるのだから堪ったものではない。
146 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:54:26.20 ID:5B03mR0i0

ボロボロになりながらも、このみはなんとか無事に二人の突撃から生き残ることができた。
流石に注意の一つや二つしようとするが、
亜美と真美はそれより先にこのみの小さな背中へ回り込み、隠れるようにして身を屈めた。
このみが二人の目線の先を追うと、ちょうど正面からお叱りモードの律子がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきていた。

「ちょっと、二人とも……。今度は何をしたのよ。」

このみが背中に隠れる二人に尋ねると、律子に聞こえないくらいの声で亜美が答えた。

「このみんこのみん。亜美たち、今回は何もしてないよ。」

「……じゃあ、真美ちゃん?」

「真美も、何もしてないよ。」

真美も同じく、小声でそう答えた。
何もしてないのにこうはならないでしょう、とこのみはツッコミたくなるが、それは心の中に留めておくことにした。
147 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:58:00.57 ID:5B03mR0i0

「秋月さん、ナイスタイミングでした。」

律子に声を掛けたのは、部屋の少し奥の机で先程まで百合子たちの宿題をみていた瑞希だった。

「瑞希もありがとうね。なにせ急な案件だったものだから。」

少しずつ状況が分かりかけてきたこのみであったが、それでも念のため、何があったのかを瑞希に聞くことにした。
瑞希いわく、もともと律子が中学生組の宿題をみていたのだが、急用ができて少しの間離れなければならず、
近くにいた瑞希と紗代子に未来たちを任せたのだそう。
その時に、律子から「亜美と真美の二人は遊びまわってて宿題終わらせてないだろうから、
見つけたら首根っこ捕まえておいて」と言われていたのだという。
148 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:00:02.54 ID:5B03mR0i0

「なるほどね……。それで真美ちゃんたちが逃げようとしたところに、律子ちゃんがちょうど戻ってきたわけ。」

「はい、馬場さん。その通りです。」

それはこのみが想像していた内容そのもので、案の定、普段から繰り広げられているのと同じ流れだった。
ここまでくると、もはやいわゆる様式美と呼ばれるもの範疇なのかもしれない、とこのみは思う。

このみは、先ほどの亜美真美との会話をふと思い出した。
二人は「何もしてない」と言っていたはずだったけど……?
149 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:01:43.85 ID:5B03mR0i0

「……って、それは何もしてなかったから追っかけられてるんじゃないの!」

このみは、とうとう口をついてツッコんでしまう。
それを聞いた亜美と真美は途端に元気になって、このみを囃し立てる。

「おお、このみんのナイスなツッコミ頂きました!」

「うんうん、その調子だよ。このみん!」

それを見た律子は、半分呆れたような様子で、ため息をつきながら言う。

「まったく……。あんたたち夜に取材入ってたでしょ?今のうちに済ませといた方が楽なのよ。」

対して、このみの背中に隠れたままの二人はうぐ、と声を漏らした。

「そ、それはそうかもだけど……。」

「うう、助けてこのみ〜ん!」
150 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:15:52.32 ID:5B03mR0i0

遊びたい盛りの中学生としては、宿題を後回しにしたくなるのはまあ当然だろう。
このみ自身も亜美真美と同じ歳のころはまだ、自分から進んで勉強する方ではなかったので、その気持ちも分かった。

「はあ、仕方ないわね。……いいわよ。このみお姉さんが人肌脱いであげるわ。」

「うう、このみん……!」

二人とも、地獄で仏を見たような顔をしていた。
成り行きではあったけれど、一緒に隠れんぼして遊んでた引け目も少しだけ感じていたこともあり、このみはそうすることにした。
とうとう本当に二人から手を合わせて拝まれてはじめたこのみは、そこで一回だけ、こほんと咳ばらいをした。

「そう、宿題の一つや二つ。このこのみお姉さんがばっちり教えたげる!」

「ええー!このみん、そうじゃないんだってば〜!」

控え室じゅうに二人の悲鳴が響き渡った。
151 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:24:31.67 ID:8BkDB5Im0

もうすっかり日は落ちてしまっていた。
日が沈んで辺りが暗くなる頃には、大勢いたアイドルたちも殆どが帰途についていて、また静かな劇場に戻っていた。

このみは、宿題を終えた亜美真美と別れたあと、事務室に戻ってきていた。
765プロの事務所の事務処理まわりの応援に行っていた青葉美咲は、夕方には帰ってきていたようだった。
劇場側でしかできない処理がいくつか残っているらしく、それだけ済ましておきたいとのことだった。
とはいえ、それほど時間のかかるものではないようで、このみは自分のことをすることにした。
152 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:26:08.91 ID:8BkDB5Im0

暫くして、このみが明日のスケジュールの確認をしていると、美咲は大きく伸びをした。
美咲のPCがシャットダウン中であるところを見るに、今ちょうど仕事が片付いたところだとすぐ分かった。

「美咲ちゃん。今日はお疲れさま。戸締りとか、後は私がやっとくわよ?」

「ありがとうございます。このみさんはまだ残っていくんですか?」

「そうね……。何となく、もう少しここに居ようかな、って。気にしないで。」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼しますね。」

お疲れさまでした!といつものように明るく言って、美咲は部屋を出ていく。
もしかしたら疲れて元気が無くなっちゃったりしてないかな、とこのみは思ったが、杞憂だったようでほっと安心した。
153 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:27:33.40 ID:8BkDB5Im0

ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、このみは辺りを見回した。
PCファンの回る音が普段より大きく感じられた。

本当は、特段何かする用事がある訳ではなかった。
ただ、何となくここを離れたくなかっただけだった。
部屋の電気を消して、鍵を閉めて。
ただそれだけのことが、このみにとっては言いようもなく切なく感じられて、それがきゅうと胸を締め付けた。
154 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:29:55.27 ID:8BkDB5Im0

このみは、机の奥側にあるブラインドを開けて、窓の外を覗いてみた。
そこからは、並木道に植えられた木々越しに、黒く染まる海が広がっているのが見えた。
静寂が覆う海と光が飛び交う街。
二つの世界を分かつ境界線であるかのように、岸沿いに街灯の明かりがずっと向こうまで伸びていた。
窓の端に添えた指先が、少し冷たかった。

このみの指が窓の桟に触れたとき、ざらっとした感覚があった。
よく見ると、そこに埃が少しだけ溜まり始めているように感じられた。
普段なら気にするほども無い程度だったので放っておこうとも考えたが、
どうにも気になってしまい、少しだけ掃除をする事にした。
155 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:33:34.50 ID:8BkDB5Im0

始めの窓を拭き終えたら、今度は隣の窓が気になって。
窓を全部拭き終えたついでに、机も別で拭いておこうかな、と。
そんな事をして、気がつけばそれなりに時間が経っていた。

「……これで大体は、終わったかしら。」

ふと時計を見ると、その針は20時に差し掛かろうとしていた。
このみは腰に手を当てながら、深く息を吐いた。
156 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:36:01.25 ID:8BkDB5Im0

最後に、目についたテレビの前のローテーブルも拭いておくことにした。
テーブルの上の、未整理のままになった書類やチラシ類を一旦移してから、このみは台拭きに手をかけた。
腰を下ろしてテーブルを端から拭いていたこのみだったが、そのとき、部屋の外から足音が微かに聞こえた気がした。

このみはそれが気のせいだと思わなかった。
思わず台拭きを持つ右手が止まった。
このみはテーブルから目を上げて、部屋の扉の方を向いた。
すると、磨りガラス越しに部屋の前の廊下の電気がぱっとついたのが分かり、それが確信へと変わった。

本当はもう必要なかったが、扉の外の様子に気がつかなかった振りをして、
このみはテーブルを拭く手をもう一度動かした。
足音が扉の前で止まり、ドアノブを回す音がした。
ゆっくりと扉が開く。

157 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:36:50.74 ID:8BkDB5Im0

このみは、彼が此処に戻ってくることを知っていた。
このみは腰を下ろしたままで、扉を開けた彼を見上げていた。
そのとき、自然と二人は目があった。
スーツを着た男性は、優しい目をしていて、このみを見つめていた。

「このみさん。ただいま、です。」

子供みたいに笑って、彼はそう言った。

このみは何でもない返事を口にするのが、少しだけ不思議なように感じた。
ありふれた言葉ではあるけれど、言葉にするのが少しだけ照れくさくて、そして嬉しかった。
このみは立ち上がって、もう一度目線を合わせてから、答えた。

「──おかえりなさい、プロデューサー。」
158 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:26:26.21 ID:VqwG9xH+0

彼は、自身の机に持っていた鞄を置いて、少しだけネクタイを緩めた。

「プロデューサーはまだこの後残ってくの?」

台拭きを流しで洗い終えたこのみは、彼の方を見て聞く。

「いや、今日中に終わらせなきゃいけないものは、もう無いですね。」

彼は、クリアファイルに入った営業用の資料を、鞄から取り出しながら答えた。

「直帰でも良かったんですけど……。まあ、なんとなく、ですかね?」

部屋の奥にある書棚の戸を開け、彼は同じようなファイルが収められた段へ資料を入れた。

「ウフフ、そうなの。」
159 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:41:15.02 ID:VqwG9xH+0

このみは麦茶の入ったグラスを2つ用意して、ローテーブルに向かいながら彼にアイコンタクトをした。
彼の方も、すぐ行きますよ、といったように手で合図をした。
鞄を置いてから、彼は事務机が並んだスペースから抜け出して、このみの元へ向かった。

「プロデューサー、今日はありがとうね。無理言っちゃったとは思うけど……。」

このみは、そう言って彼にグラスを手渡した。
無理を言った、というのも、実はこのみは今日の分のスケジュールを、数日前に調整してもらっていたのだ。

最近の765プロライブ劇場のアイドルたちは、重ねてきた結果が少しずつ評価されてきたらしく、徐々に仕事が増えつつあった。
それはこのみも例外ではなく、テレビ番組の単発の仕事が入ったりすることも段々と多くなっていた。
160 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:41:49.25 ID:VqwG9xH+0

このみが件のオーディション資料を受け取ったのは、丁度一週間前のことだった。
それから、このみは仕事の合間の時間を縫うようにして、今回の役を理解するために資料を読み込んでいった。
普段のこのみであれば、それでも十二分に準備をしてオーディションに臨むことができただろう。
しかし、今回の役だけは、このままでは後から後悔するかもしれない、とこのみは思った。
それならば、出来る限りのことは試したいと思い、
どこか一日予定を空けられないか、とプロデューサーに声をかけたのだった。

「いえ、雑誌の取材が1つあっただけで、あとはレッスンだけでしたから。全然手間じゃなかったですよ。」

むしろ向こうの記者さんも、予定をずらした後の方がむしろ都合が良かったらしくて、と彼は続けて言う。
このみはそれを聞いて、ほっと息を吐いた。
161 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:43:30.84 ID:VqwG9xH+0

彼はこのみの向かいに腰掛けてから、グラスの中身を一口含んだ。
少しだけ間を開けて、表情を引き締めてから、このみに尋ねた。

「それで……なにか収穫はありましたか?」

このみの答えはもう決まっていたが、自分の中でそれらを今一度反芻していた。
改めて考えると、少し気恥ずかしさを感じるが、これが『あの子』と『私』なんだ、と今では胸を張って言える気がした。

「ええ、おかげさまで。ちょっと難しかったけど……。これでやっと、満足のいくものができそう、って感じかしら。」

「……それなら、よかったです。」

彼は胸を撫で下ろしたようで、その表情はまた穏やかなものに戻った。
162 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:05:17.73 ID:VqwG9xH+0

「あ、念のためオーディションのことについて確認なんですが……。」

彼はスーツの内側から手帳を取り出して、しおり紐の挟まれたページからぱらぱらと何枚かめくる。
目的のページを見つけたところで、彼は顔を上げた。

「本番が、2週間後の金曜日、ですね。選考はこの一回だけで、このオーディションに通過すれば、それで本番公演の出演が決まります。」

昨日までだったなら、オーディションやその先の話なんてとても意識できなかっただろう、とこのみは思う。
役とその方向性が具体的にイメージできたこともあり、このみは本番の舞台に立つ自分を想像した。

ドラマの撮影と違って、一度の失敗も許されない。
劇場の公演と違って、その舞台は私が知らない『劇場』なんだ。

全く新しい場所で、まっさらな自分で挑戦できることは、このみの心を強く惹きつけた。
『今の私で何処まで行けるんだろう』。『何ができるんだろう』。
このみ自身も意外に思ったが、そんな無邪気な好奇心にも似た気持ちを抱いていた。

一方で、このみの胸の中で、ささくれだって離れないものがあった。
このみは、それ自身が何であるかを、正確に言い表すことはまだできなかった。
ただ、それが手放してはいけないものだということだけはなんとなく分かっていた。
163 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:10:00.82 ID:VqwG9xH+0

「プロデューサー。その……。」

このみは、自分の中にある気持ちを言い表す言葉を探すようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「もし、私がそのオーディションに合格したとして……。そのときのスケジュールって、どんな感じになるのかしら。」

おそらく、このみ自身が引っかかっていたことは、それなのだ。
これだけは確かめておかなくてはならない、そんな気がした。

「そうですね……。公演時期は今年の冬で、公演の期間はまだ正式決定ではないですが、だいたい2週間くらいになるそうです。
本番の2ヶ月前くらいから少しずつ演技面での練習が入り始めて……。」

「おそらく、公演直前の1週間くらいは殆ど毎日が集中稽古になりますね。朝から晩まで、一日中出ずっぱり、と言った感じのものです。」

彼は手帳を広げながらそう答えた。
164 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:11:20.82 ID:VqwG9xH+0

「そう、なのね。」

自身の意識の中へ潜りながら、このみはそう返事した。
それは、暗闇の中手探りで失せ物を探すかのようだった。

「役に選ばれたら全体稽古の予定も正式に通知されるはずですが、やはり本番の2か月前くらいからだと思っていてください。」

彼はそう言った後、持っていた手帳をしまって、このみの方へと向き直した。
対するこのみは顔に手を当てたまま、漠然としたままの感情を一つ一つ切り分けて、その原因を探していた。
自分の気持ちに訊ねては、ああでもない、こうでもないと繰り返す。
彼の言葉から少しだけ間が空いて、ようやくこのみはいまの自身の心を説明するための、たった一つの結論を得た。
このみの口がゆっくりと開いた。

「もし、私がそのオーディションに合格したら……。公演期間を入れて、1ヶ月くらいかしら。ううん、それよりもっとかもしれないけど……。」
165 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:12:08.44 ID:VqwG9xH+0

このみは、彼が自身の声をいつだって受け止めてくれることを知っていた。
殆ど呟くような声だったが、それは未だに不安も迷いも抱えたままであることを物語っていた。
そしてこのみは一呼吸ほどの間の後、彼に尋ねた。

「そうなったら、当分の間アイドルはお休み……ってことよね。」

その問いの答えは、このみ自身も分かっていることだった。
しかし、このみにとってそれが何より大切なことであると、彼は知っていた。
だからこそ、彼はその言葉を伝えることを少しだけ躊躇った。

生まれた静寂の中で、二人は夜の空気の冷たさを感じた。
彼はその冷たさから逃れるように、右手を握りしめた。
それでも伝えなければならない、と。
彼はそっと口を開いた。

「……ええ、そうするつもりです。」
166 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:12:56.66 ID:VqwG9xH+0

このみはその言葉を聞いても、表情は変わらないままだった。
彼は手に持ったままのグラスに目を向け、続けて言う。

「もちろんギリギリまで並行してアイドルの仕事もする、ということが出来ないわけではないですが……。」

彼の手がわずかに揺れた。
手の中にあったグラスの中身は波を立て、溶けて一回り小さくなった氷がからんと音をたてた。
グラスの周りについた冷たい水の滴が、つうと表面を伝って、ひとつふたつと底の方へ流れていった。
彼はグラスから目線を切って、もう一度このみを見た。

「それでも、やっぱり俺は、このみさんに無茶はしてほしくないですから。」

その目は、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。
このみと彼は、もうそれなりには長い付き合いになっていた。
だから、本気でそう言ってくれているんだ、とこのみにははっきりと分かった。

「そうよね。……ありがとう、プロデューサー。」
167 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:13:28.76 ID:VqwG9xH+0

かつて、このみは彼が言うところの「無茶」をしたことがあった。
大変だとは分かっていたが、自分にとってそれができないとは思わなかったし、
最後まで責任を持って結論を出すことが、自立した大人としてあるべき姿なのだと思っていた。
実際、いまもその考えは変わっていない。
ただ、ときにそれが、知らない間に周りの誰かを心配させてしまうことがあるのだと、このみは知った。

もし大切な人が荷物を一人で抱え込んでいたのなら、
手を伸ばしてその人の力になりたい、頼ってほしい、このみは思うだろう。
辛そうな顔は見たくないし、笑っていてほしい。
このみが劇場の大切な仲間たちにそう思っているのと同じように、
頼ってほしいと思ってくれる大切な人がたくさんいる。
168 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:14:10.81 ID:VqwG9xH+0

だからこそこのみは、自身のいまの素直な気持ちを彼に伝えたかった。
それを届けることが、互いの願いだと知っているのだから。

「ねえ、プロデューサー。」

このみは彼の名を呼んだ。
普段より少しだけ、甘えるような声だった。

「その……。私ね、この劇場のことが、自分で思ってたよりもずっと大好きだったんだ、って。そう気づいたの。」
169 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:15:12.43 ID:VqwG9xH+0

胸に手を当てながら、このみは自分の中から出てきた気持ちをそのまま言葉にした。
それが自分の中でこんなにも育っていたなんてと、このみ自身も驚いていた。
このみは自身のグラスに目を移して、そっと左手で触れた。
思いを綴るたびにこのみの胸の中にまた言葉が浮き上がっていく。
胸がいっぱいになって、それでも溢れだす気持ちがそのまま言葉になって、このみ自身にも止まらなかった。

「プロデューサーに見つけてもらって、気が付けばアイドルになってて……。まさか、自分がアイドルになるだなんて、考えたこともなかったわ。」

左手の中のグラスに目を向けたまま、このみは思い出すようにして言った。
グラスの表面の結露の冷たさを指先で感じて、親指で拭った。
そして、このみはそっとグラスを置いてから、彼へと視線を向けた。
彼がそうしたように、ただまっすぐに瞳を見つめて。

「でも、アイドルになって良かったって思う。ずっとこのままみんなとアイドルしていたい、って思ってる。」
170 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:15:55.10 ID:VqwG9xH+0

互いが互いの眼を見ていた。
しかし、先に目線を切ったのはこのみだった。

「けど……。」

指先の濡れた左手に目を向けて、このみは押し黙った。
その静寂の中で、時計の秒針の音だけが聞こえていた。
少しの間のあと、ぽつりと溢すように、このみはその先の言葉を続けた。

「……多分気づいちゃったんだと思う。私も、アイドルじゃなくなる時が、いつか来るんだ、って。」
171 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:16:54.05 ID:VqwG9xH+0

その声は、微かに震えていた。
言葉にした途端に、それが決して遠い誰かの話でなく、紛れもなく現実の自分の話なのだと、このみは思い知らされた。

このみは彼の方を見た。
彼は、静かにこのみの話を聞いていた。
拳数個分ほど開いた膝の上で腕を抱えるようにして、その体勢のままほとんど身動きさえしなかった。
彼のその様子からは、繊細で、容易く揺れ動いてしまいそうなこのみの話を妨げないように、という彼の思いが見てとれた。

しかし、このみには分かっていた。
彼の抱えた手が、陰で握られていることも。
時折強く目を瞑っていることも。
決して声を漏らすまいと、ぎゅっと口を噤んでいることも。
172 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:18:11.64 ID:VqwG9xH+0

それを知っているからこそ、このみは先を続ける。

「きっと、それはまだ、ずっと先のことだけど……。」

そうであったとしても。

「……もし私が鶴の役に決まったら。私が『あの子』でいる間、私は『アイドル馬場このみ』でいられない。」

それはこのみにとって、決定的なものだった。
たとえそれが一時的なものであったとしても、この劇場を離れて、全く別の舞台で、全く別の世界を生きるのだ。
このみ自身、それが自分の人生において何を意味するのかは分からなかった。
ただ、今はまだ離れたくない、手放したくない、と。
それは、このみの一番深いところから出てきたものだった。

彼の顔は陰に隠れてしまっていて、このみはその表情を正確に窺い知ることはできなかった。
けれど、堰を切ったように溢れ出したこのみの感情はもう止まらなかった。
173 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:18:48.21 ID:VqwG9xH+0

このみの中で、走馬灯のように様々な景色が浮かんでは消えていった。
そして、最後に現れた劇場の定期公演の情景だけが、このみの胸の内から離れなかった。
幕が上がる瞬間。
下手から上手まで、いっぱいに広がった仲間たち。
溢れだす光と歓声。

長期間劇場から離れるということは、月に一度の定期公演にも参加できなくなることを意味する。
このみにもそれは分かっているつもりだった。
今までにも、他の仕事と重なって定期公演に出られなくなったときだって、何度もあった。
それは、今までと同じはずなのに。
174 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:19:33.28 ID:VqwG9xH+0

「私一人いなくなったって、何か問題が起きるわけじゃない。ううん、最近のみんな、すごく頑張ってるもの。だから……。」

幾重に広がる光たちの上で、劇場の仲間たちが舞い踊る。
願いは歌になって、ステージからファンのみんなへと飛び立って。
それはペンライトの光になって、ステージへと届けられる。

そんな夢のような世界を。
このみは、ただ遠くから見ていた。
手を伸ばしても届かないほど、遠く暗い場所から。

それでも、このみはある『色』を縋るように探した。
どんなに小さくても、どんなに微かな光であったとしても、と。
それこそが、『アイドル馬場このみ』の存在証明なのだから。
175 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:20:47.77 ID:VqwG9xH+0

ステージは完璧だった。
たった一つ、その世界に、馬場このみがいないことを除いては。

そのまま手放せてしまったのなら、どれほど楽なのだろうか。

何も知らないままでいられたのなら、こんな胸の痛みに気づくこともなかったのに。

もしも。
あのステージから見える景色と、初めから出会っていなかったのなら──。
176 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:45:50.32 ID:9DhA16vx0

伸ばした手に、何かが触れた。
このみがはっとして意識を戻すと、そこは劇場の事務室だった。

左手の感覚は、思い違いではなかった。
このみが目線を上げて辿ると、その手は彼の両手でぎゅっと握られていた。
このみの小さな手は、すっかり覆われてしまっていた。
このみは驚いて、彼の顔を見た。
彼は、いろんな感情がない混ぜになったような、複雑な顔をしていた。
不安も迷いも抱えて、それでもじっとこのみの顔を見つめていた。
彼のその表情をみたとき、自分がどんなにひどい表情をしていたのか、このみは分かってしまった。
このみは、彼の手に力が入るのを、握られた手越しに感じた。
突然のことだったが、自分が大切にされているんだと、このみにははっきり分かった。
177 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:46:25.80 ID:9DhA16vx0

「このみさん。」

彼は、手を握ったままこのみを見つめて、一言、そう言った。
このみは、ただそれだけで、冷えきった左手が暖かくなるのを感じた。
少しの間が空いて、それからこのみは口を開いた。
ぽつりぽつりと、言葉を溢すように。

「……ステージにみんながいるのに。私一人だけが何処にもいないなんて、苦しくて。」

本当ならば、劇場のみんなが活躍していることを喜ぶべきなのに。
このみは、それを心から素直に受け止めることができそうになかった。
178 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:54:39.64 ID:9DhA16vx0

自分の居なくなった世界が、それまでと同じように、淀みなく回り続けるのが嫌だ。

それは嫉妬にも独占欲にも似た感情だった。
自身の中にこんな下卑た気持ちがあったのかと、このみは心底思わされた。

「……おかしいわよね、こんなの。子供のわがままみたいだって、自分でも思うもの……。」

分かっていても、もうどうにもならなかった。
これが何かを好きになってしまったことの代償ならば、世界は残酷だ。
どれほど身を焦がしても、それが届かなかったのなら、それは──。
179 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:56:54.25 ID:9DhA16vx0

もう一度だけ、手がぎゅっと強く握られた。
このみがそれに気がついて目を向けようとしたとき、また顔が下を向いてしまっていたのだと自覚した。
このみが顔を上げると、彼と目が合った。

「このみさんに、伝えたいことがあります。」

彼は、このみに気取られぬよう、震えそうな声を押し殺してそう言った。
芯の通った声だった。

束の間の静寂があった。
このみは、自身の鼓動が少しずつ早く、そして大きくなっていくのを感じていた。
それは、握られた左手越しに、彼に伝わってしまいそうなほどだった。
180 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:57:44.26 ID:9DhA16vx0

彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。
181 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:58:26.38 ID:9DhA16vx0
>>180 訂正

彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」
182 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:59:43.74 ID:9DhA16vx0

夢──。
子どもだった頃は、たくさん夢があった。
テレビを見て影響されて、その度に何々になりたい、だなんて。
そうやって、いつも母に言いに行ったりしていたらしい。
今はもう覚えていないけれど、やっぱり子どもらしくて、たわいのない夢だったのだと思う。
183 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:00:24.25 ID:9DhA16vx0

周りのみんなが大人になっていくように、私も大人になった。
普通の人生のなかで、ささやかな幸せを見つけて。
そうやって生きていくものだと思っていた。
だから、大人になった私は、きっとあの日まで夢を見てこなかったんだと思う。

『私みたいな大人が今からアイドルを目指すなんて、おかしいと思ってる?』

24歳という年齢は、決して若いとは言えない。
最年長、といえば聞こえは良かったけれど、
アイドルとして夢を見ていられる時間が少ないんだと、ずっと分かっていた。
だから、はじめの頃は焦ってばかりいたように今では思う。
上手くいかないことだらけで、戸惑うことも多かった。
それでも一つ一つ身につけて、必死に一歩ずつ前へと進んできた。
184 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:00:50.73 ID:9DhA16vx0

今振り返れば、アイドルになってから本当に色々なことがあった。
スパイのエージェントとして、迫りくる罠たちを、力を合わせて突破したこともあった。
「屋根裏の道化師」のときみたいに、演技で表現するような仕事も、最近は少しずつ増えてきた。

時には変な仕事もあるけれど、劇場に戻ればいつだって、なんてことのない、騒がしい日常がそこにある。
公演の日には、いつもと変わらない仲間たちと一緒に、大好きなこの場所でファンのみんなと過ごすことだってできる。
185 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:01:55.24 ID:9DhA16vx0

以前の自分では気づかなかったことが沢山あって、今の自分だから分かったことがある。

『私はひとりじゃない』。

思いを共にする仲間たちがいる。
背中を任せられる戦友がいる。
そして今の自分には、かけがえのない大切な人がいる。
それは、私の道をずっと近くで応援してくれた人たち。
186 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:02:46.13 ID:9DhA16vx0

不安を抱えたままこの世界に飛び込んで、たった一筋の光に出会えた日のことを今でも鮮明に覚えている。
輝いた舞台に立てるのならば、あの景色をもう一度見れるのならばと、どれだけ苦しくても諦めずにいられた。
少しずつでも進んでこられたのは、あの抱いた憧れが胸の中にあったからだった。

でも、今の私の中にあるのは、もうそれだけなんかじゃない。

あの日見た光の波のその向こう側には、私たちを応援してくれた人たちがいたんだ、って。
私に夢を見せてくれた人たちがそこにいるんだって、胸の中からいつだって勇気をくれる。

だから、私は──。
187 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:05:29.73 ID:9DhA16vx0

「──私に色んなものをくれた、大切な人たちに。
 あなたに出会えて良かった、って伝えたい。」

「私が、『アイドル』馬場このみとして最高に輝く姿を見てほしい。
 出会ったのが間違いなんかじゃないって、
 心から思ってもらえるような、そんな最高の私を──。」

言葉にしたのは、きっと初めてだった。
抱えたこの気持ちは、言葉で伝えるにはあまりに足りないから。
だから全部抱えて、届いてほしいと願っていた。
188 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:07:04.45 ID:9DhA16vx0

彼は、このみの手を握っていた両手を、そっと離した。
その表情は、先ほどよりもずっと落ち着いていた。

「……俺なんかよりも、このみさんの方が人生経験はずっと多いと思います。
 色々なものが見える分、不安も迷いも、余分に抱えてしまうかもしれません。」
189 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:07:47.53 ID:9DhA16vx0

彼の言葉を咀嚼しながら、このみは考えていた。
このみは経験から分かっていた。
自身のそういう性質、この『悪い癖』は、一生付き合っていかなければならないものだと。
ある程度は変わることはできても、それ自体を無くすことは出来ないだろう、と。
それでも──。

「俺は、『アイドル』はわがままでいいと思います。
 いろんな願いを叶えて、幸せになって。
 あなたの幸せを願って、応援してくれる大切な人たちが、いつだってたくさんあなたにはいます。」

──それでも、自分のそんな所さえも愛してくれる人がいるのなら。
自分の好きな所も、そうでない所も。
歩いてきた全てが『馬場このみ』の軌跡なのだと、胸を張って言えそうな気がした。
190 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:09:15.88 ID:9DhA16vx0

「だから、このみさんがアイドルを辞めるときは、
 きっとここじゃ叶えられない願いを見つけたときなんだと思います。
 でも、その願いもきっと、みんな応援してくれます。
 それは、大切な人の──あなたの夢だから。」

アイドルの先にある、夢。
このみは目を瞑って深呼吸して、想いを巡らした。
『アイドル』で願った夢を全部叶えた後の自分が、その先に何を見つけるのだろう?

しばらくして、このみは息を吐いてから目を開けた。

「……ダメね。私には、まだ想像だってできないみたい。」

そこまで言って、このみは笑った。
191 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:12:50.31 ID:9DhA16vx0

「──でも、いいの。」

アイドルを辞めた先を想像出来ないのは、
きっと『アイドル』として叶えたい夢が目の前にあるからなんだ、とこのみは思った。
それは、今の自分が『アイドル』であることの、確かな証拠だった。

「だって、今の私は『アイドル』だから。先のことは分からないけど……。
私は、大切な人たちと一緒に、大切な今を歩いていきたい。」

「このみさん……!」

このみは、眉間のあたりがきゅうと熱くなるのを感じた。
目をぎゅっと瞑ったり、瞬きをしたりして、それからそっと深呼吸をした。
192 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:13:55.06 ID:9DhA16vx0

息を吐いてから、このみはゆっくりと口を開いた。

「やっぱり、ファンのみんなに会えなくなっちゃう、っていうのは寂しいけど……。」

そこまで言って、このみは彼の顔を見た。
このみには、彼が自分のために胸を痛めてくれているのが伝わってきて、
そうやって心配をかけてくれるのが、何より嬉しかった。
193 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:14:26.48 ID:9DhA16vx0

だからこのみは、笑ってこう言った。

「プロデューサー。けど、心配しないでね。
 この演劇のお仕事は、私が自分でやると決めたことだから。
 今の私に必要なことなんだって、今ではそう思えるの。
 心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫よ。」

それを聞いて、彼は少し安心した様子を見せた。

「……俺はこのみさんのことを信じています。だから、俺はあなたが歩む道を応援します。
なのでこれは、『アイドル』馬場このみの、いちファンとしての意見なんですが……。」
194 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:15:39.55 ID:9DhA16vx0

彼は、少しだけ逡巡した様子だった。
深く息をしてから、彼はつぶやくように言った。

「……やっぱりファン側も、寂しいんです。このみさんと会えなくなるのは。」

このみは、彼のその言葉を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
つい先ほど自分で決めたことでさえ、揺らいでしまいそうな気がした。
この仕事に挑戦するということは、劇場から、大切な人たちのもとから離れるということなのだ。
選んだその選択に、本当に間違いはないのだろうか?
答えのない問いにこのみは苛まれそうになった。
このみは胸が詰まって、何も言葉が出てこなかった。
195 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:16:08.52 ID:9DhA16vx0

「……でも。」

張りつめそうになった空気のなか、彼はそう言った。
その声を聞いて、このみは顔を上げた。
彼はこのみの顔を見て、その言葉の先を続けた。

「でも、大丈夫です。……だって、このみさんは劇場のアイドルですから。
またこの場所で、あなたに会えるって、みんな信じてますから。」

思わず、このみは息が止まった。
たった一言。それだけで、不思議と胸のわだかまりが解けていくような気がした。

このみは、自分の中でたった一つだけ、足りなかったピースが埋まるような感覚があった。
それはきっと心の内で、ずっと欲しいと願っていた言葉だ。
196 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:16:35.16 ID:9DhA16vx0

このみはもう、彼のその言葉の先に何があるかを知っていた。
逸る気持ちに胸が高鳴ることを自覚しながら、このみは彼を見て、確かめるように呟いた。

「そ、それって……。」

彼はただ頷いて、言葉を続けた。

「確かに、このみさんがしばらくアイドル活動できなくなることで、
ファンの人たちには、寂しく感じさせてしまうかもしれません。
……それでも、またこの劇場の舞台であなたに会える日が来る、って分かっているから。
それだけできっと大丈夫です。」
197 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:17:44.90 ID:9DhA16vx0

「例え大切な人と会えない日が続いても、
 次会える日まであと何日だろう、って数えてみたり、
 どういう服を着ていこうかな、って考えてみたりするのも楽しくて。
 しばらく会えなかったとしても、その会えなかった日の分だけ、会えたときにほっとして嬉しくなる。
 ……『誰かを好きになる』って、きっとそういうことなんだと、俺は思います。」

胸の中にあった気持ちが線で繋がって、胸いっぱいに広がっていくのを、このみは感じていた。
198 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:18:21.38 ID:9DhA16vx0

このみには、あの心地良い歓声が聞こえてくるようだった。
気が付けば劇場のみんなと舞台の上に立っていて、大勢の観客たちの前で歌を歌っていた。
ふと前を見れば、色とりどりの光の向こう側に、特別な人たちがいた。
一人、また一人と、ステージからの光に照らされるようにして、大切な人たちの顔が見えた。
まるで出会う前から出会うことが決まっていたみたいな気がして、いつも伝えたい言葉の先にいてくれた。
そして、このみとの間──二人の間には、いつだって桃色の光があった。

このみが歌声とともに手を伸ばせば、その先に柔らかな笑顔が見えた。
それを見たこのみは、思わず自分の頬も緩んでいくのが分かった。
まるで桃色の光を伝って気持ちが互いに伝播していくみたいで、
ステージの上の自分からひとりひとりに、心の奥底で繋がったような感覚があった。
199 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:19:11.33 ID:9DhA16vx0

胸の中にずっとしまい込んでいたものがあった。
本当はそう信じていたかった。
でも、もし違ったら。そうでなかったのなら。
……傷つくのが怖くて、ずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。
でも、今ならきっと信じられる。
『私の大切な人たちも、きっと私と同じなんだ』と。

自分の進む道が、初めから決められている人なんていない。
私がそうだったように、みんな進む道に悩んだり迷ったりもする。
ときには先に何があるか分からないまま、進む道を決めなくてはならないことだってあった。
それでも、二つの道が交差するように、人と関わり合いながら、誰もが自分の道を歩いていく。
その中で。偶然素敵な場所に巡り合って、色々な人と共に過ごして──。
──そして、『誰かを好きになる』。
200 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:19:59.87 ID:9DhA16vx0

劇場のステージで、大切な人たちへ想いを届けようとしたはずなのに、いつだってそれよりもっと大きなものを貰っていた。
私は、自分の気持ちをいつも伝えられずにいて、受け取ってばかりだ、と。ずっと、そう思っていた。
だけど、今はもう分かる。
私がずっと伝えたかった想いは、きちんと私の大切な人たちに届いていたんだ。
私の大切な人たちが、こんなにも素敵なものを私にくれること。
それは、私がみんなに想いを届けたいと思うことと、きっと一緒で。
想いを寄せてくれる大切なひとに、自分の気持ちを届けたいという想いは、何も変わらないんだ。

気が付けば、このみの目元は雫で濡れていた。
堪えられずこのみが瞬きをしたとき、それは堰を切ったように頬を流れていった。
一粒、二粒と溢れた涙はやがて落ち、このみの手の甲を濡らした。

「ああ、もう。どうして……。」

このみは、左手の親指で目元を拭った。
いくら指でなぞっても涙は止まらなくて、溢れてくるばかりだった。
このみは目元を手で隠したままで、彼から見えないように、顔をそっと伏せた。

「……どうして、こんなに涙もろくなっちゃったのかしらね……。」
201 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:20:38.26 ID:9DhA16vx0

声を詰まらせながら、このみは自問するようにそう呟いた。
ただ、このみはその答えが何であるかを既に知っていた。
知っていたから、涙が溢れて止まらなかった。

「その、このみさん……っ。良かったら、これを……。」

このみは、伏せた頭越しに彼の声を聞いた。
自分の滲んだ視界にあてられたのか、このみにはその声は、どこかくぐもって聞こえた。
202 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:21:33.39 ID:9DhA16vx0

指で涙を拭いながら、このみはゆっくり顔を上げた。
差し出されたハンカチを受け取りながら、このみは声をもらした。

「……ごめんなさいね、プロデューサー。私……。」

そこまで言って、彼の顔を見たところで、このみの声が止まった。
彼の顔もまた、涙で濡れていた。
このみが見たときには、彼はもう顔中ぐしゃぐしゃになっていた。

「このみ、さん……。俺……。」

途中、ぐすぐすと鼻の音を鳴らしながら、彼は言う。
このみは、二人して泣いてる状況がなんだかおかしくて、つい頬がゆるんだ。
その頬に沿って、雫が一筋、弧を描いて流れていった。

「……もう。なんでプロデューサーが泣いてるのよ……。」

このみは、受け取ったハンカチを当て涙を拭いながら、笑ってそう言った。
203 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:22:27.11 ID:9DhA16vx0

「そ、それは……。」

彼は右手で、ぐしぐしと自分の涙を払った。
それから、彼は指先を頭に当てて小さく呼吸をした。
しばらくして、彼は震える声でゆっくりと言葉を続けた。

「……だって、あなたと……。
 もし、このみさんと出会えてなかったら……。
 こんなふうに誰かに自分の気持ちを伝えようって、思ったりしなかった、って。」

このみは、胸の奥がきゅうとなるのを感じて、目頭に熱が上っていくのがわかった。
思わずこのみは両手を顔に当てた。
溢れ出る涙はこのみの指先を濡らして、どんどん頬を伝い流れていく。
このみは、涙を拭くのさえ忘れてしまっていた。
ただ、胸の中の暖かさが、じんわりと体に広がっていくのを感じて、
そこから動くことができなかった。

彼は、溢れる感情に促されるように、前へと体を預けた。
脚に肘をついて体を支えるような体勢のままで、それでも零れ落ちた想いが顔を伝って流れていく。

「そう思ったら、なんだかもうっ……。」
204 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:23:18.24 ID:9DhA16vx0

ぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
シャツの袖口は、一つ二つと、どんどん濡れて色が変わっていく。
えぐえぐという声を漏らす彼に、このみの涙がまた頬を伝っていった。

「私より、プロデューサーの方が泣いてるじゃない……。私にハンカチ渡してる場合じゃ、ないわよ……っ。」

「で、でも……。それだとこのみさんが……。」
205 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:24:16.97 ID:9DhA16vx0

彼がいくら手で拭っても、涙は止まらなかった。
このみは、自分の手の中にあった彼のハンカチを見た。
しかし、そのハンカチはもうこのみの涙で濡れてしまっていた。
このみは、横に置いてあった自分の鞄に手を差し入れて、そこから一枚のタオル地のハンカチを取り出した。

「……はい、プロデューサー。私のを使って。」

「うう、すみません、このみさん……。」

彼は左手でハンカチを受け取って、そのまま涙を拭いた。
そんな彼の様子を見て、なんだか子どもみたい、とこのみは顔を綻ばせた。

静かな夜、二人の潤んだ声だけが部屋の中を包んでいた。
少し気恥ずかしくもあり、そして不思議と心地が良い、そんなひととき。
いつまでもこの時が続いたのなら──このみは湧き上がる気持ちを胸にひそめて、そっと微笑んだ。
206 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:24:56.73 ID:9DhA16vx0

それから、幾ばくかの時間が過ぎた。
彼は時折、深く息を吸ってみたり、目をぎゅっと瞑ったりしていた。
しばらくしてから、彼は顔を上げ、ゆっくりした調子で言った。

「すみません……たぶんもう、大丈夫です。」

「落ち着いた?」

「ええ、おかげさまで……。」

「まだ目が少し赤いわよ。」

「……それは、このみさんもですよ。」
207 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:25:22.73 ID:9DhA16vx0

二人が気が付けば、時計の針は21時を過ぎていた。
グラスの中の氷も、すっかり全部溶けてしまっていた。
あまり遅くなると、翌日の仕事にも響くかもしれないと、二人は帰り支度を始めることにした。
彼は台拭きを取ってきて、テーブルを拭き始めた。
このみは、テーブルの上に乗ったままのグラスを二つ持ち上げて、その間テーブルを拭く彼を何気なくじっと見ていた。
彼がテーブルを拭き終えたことを確認してから、彼女は二つのグラスを重ねて、片手に持ち替えた。

「これも、もう片付けちゃうわね。」

「ええ、助かります。」
208 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:26:20.70 ID:9DhA16vx0

二人分のグラスを持って、扉の横にある給湯スペースに向かった。
ところが、少しだけ歩いたところでこのみはそっと足を止めた。
少しの間が空いてから、その場で振り返って、このみは訊く。

「……ねえ、プロデューサー。」

このみは、グラスを後ろ手に抱えたままで、彼を見た。

「その……。もしも、私が役を貰えたとして……。
 それで、私がこの劇場にいない間に、私が演技に目覚めちゃったら、どうする?
 もうアイドルを辞めて、女優の道に進みたいって、思ったとしたら?」
209 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:28:22.19 ID:9DhA16vx0

本心を隠すようにイジワルっぽく笑って、このみはそう言った。
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
こめかみのあたりを指で掻いて、少しの間考えて。
それから、このみを優しく見つめて、答えた。

「今までも、演技の仕事は何回もありましたけど……。やっぱり、きっと素敵な女優さんになるんでしょうね。
 このみさんがそう願うのなら……。いつかきっと、大勢の人の胸の中にいつまでも残るような、そんなお芝居ができると俺は思っています。ただ……。」

彼はそこまで言ったところで、言葉を飲み込んだ。
どこか、その表情はもの悲しげにも見えた。
しかし次の瞬間には、彼の顔からその色は消えていた。
彼はもう一度このみの方を見て、言葉を続けた。

「……ただ、もしこのみさんが女優の道を進むことになっても。
 例えこの劇場から離れて、本格的に演技のお仕事ができる他の事務所へ移ることになったとしても……。
 ……この場所は、変わらず此処にありますから。
 だから、気が向いたときにいつでも遊びに来て、それでまたみんなと色んなお話をしましょう。」
210 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:31:16.57 ID:9DhA16vx0

このみは、いつか来るかもしれない、そんな何年後かの未来を思い浮かべた。
今より歳を重ねた自分が、仮に女優の道を歩んでいたとして──あるいはそうでなかったとしても。
やっぱり、私はこの場所に来てしまうんだと思う。
そこには今より大きく、大人になった仲間たちが居て。
今と同じように、何でもない話をして、みんなと笑って過ごしてる。
そんな、素敵な未来を。

「うふふ、ありがとう。プロデューサー。」

この先何と出会い、アイドルの先に何を見つけるのか──。
このみは、まだその答えを知らない。
でも、一つだけ確かなことがある。

「でも、大丈夫よ。……だって今の私は『アイドル』だもの。叶えたいこと、まだまだ沢山あるんだから!」
211 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:17:28.19 ID:3DhfCsSR0

「着きましたよ、このみさん。」

彼は、ハンドブレーキをかけながら、助手席に座るこのみに声をかけた。

「ええ、ありがとう。プロデューサー。」

このみは、シートベルトを外して、持ってきていた小さな鞄を手に取った。
車を下りたこのみは、日差しを遮るように目の上に手を当てた。
雲が恋しくなるほどに空は晴れ晴れとしていた。
普段朝方はあまり調子がでないこのみだが、こうして陽の光の下にいると目の奥まですっと晴れていくような気がして、案外悪くない気分だった。
このみが腕時計を確認すると、針は午前9時ちょうどを指していた。
212 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:22:46.44 ID:3DhfCsSR0

二人は、オーディションが行われる会場近くのコインパーキングにいた。
彼が運転席側のドアノブに触れると、電子音と共に鍵が閉まる音がした。
それを確認して、二人は歩き出した。

「今さらだけど、別に送ってもらわなくても大丈夫だったのよ?」

「いえ、俺がしたくてしてることですから。あと、できれば監督に挨拶をしておきたいというのもありましたし。」

「挨拶?」

このみがそう聞くと、彼は少し答えにくそうな様子だった。

「ええと、今回はたまたま向こうから声をかけてもらえたんですけど、あんまりうちの事務所とコネクションがある訳じゃないんですよ。まあ、それが理由ですね。」

「なるほどね。……そういえば、前に言ってたわね。
スタッフさんの中に『屋根裏の道化師』を見てくれた人がいて、それで偶然声を掛けてもらった、って。」

「ええ。なので、他のアイドルも含めて、今後同じようにオーディションの話を貰えるかは分からなくて。
次回以降も声を掛けてもらえるように、事務所としても、さりげなく765プロをアピールしておきたいんですよ。」
213 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:23:26.15 ID:3DhfCsSR0

二人は車を止めたパーキングから通りへ出た。
そこには背の高いビルがいくつもと並んでいて、通りには車がひっきりなしに走っていた。
そのままこのみが彼についていくと、しばらく通り沿いを歩いたところで、灰色っぽい建物が見えてきた。
その建物こそが、今回の舞台の企画・制作会社の本社の入るビルであり、オーディションの会場なのだ。
まもなくビルのそばに二人は到着したが、間近で見てこのみは改めてその高さに圧倒された。

二人がエントランスに入ると、そこには各階に入っている企業や団体が書かれた案内板が貼られていた。
案内板によると、このビルの9階から11階、ちょうど3フロア分を使っているらしかった。
芸能業界だけでなく一般の企業も入っているビルなのだが、そのどれもが名の知れた企業だった。
214 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:24:43.30 ID:3DhfCsSR0

二人が9階で受付を済ませたあと、会場として指定されていた11階にエレベーターで向かった。
このみたちがエレベーターから降りると、ちょうど廊下の方からスーツ姿の男二人が話をしながらこちらに向かってきていた。
一人は50代ごろのやや落ち着いた老練そうな雰囲気のある男で、眼鏡をかけていた。
下顎から頬にかけて伸びる髭は綺麗に整えられていて、男の几帳面さが伺えた。
一方、もう一人は30代前半くらいの、背の高い男だった。
このみのプロデューサーも平均より背が高い方だが、その男は彼よりさらに大きく、185cmはあるだろうと感じた。
筋肉質でがっしりとした体格をしていて、ステレオタイプな体育教師のような雰囲気を持っていた。
スーツを着ることにそれほど慣れていないのか、首回りの窮屈さを気にするように、襟元に手をやっていた。

このみのプロデューサーも続いてその二人に気が付いたようだったが、それと同時に背の高い男の方もこのみ達に気が付いたらしかった。

「あれ……確かあなたは765プロの……。」

背の高い男は、このみのプロデューサーを見てそう言った。
このみのプロデューサーは、ご無沙汰しております、と返事をした。
215 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:25:20.21 ID:3DhfCsSR0

今までに面識こそなかったものの、このみはこの二人のことをよく知っている。
二人の名前は、今回の演劇のオーディション資料の中で、何度も見た。
この二人こそが、『鶴』の物語を手掛ける舞台監督と演出家だ。
髭を生やした男は舞台監督として、過去多くの舞台に関わって来た、いわば大ベテランだ。
特に、冷静な判断力と大胆な行動力とを併せ持っていると、スタッフや演者たちからは評判らしい。。
一方で、背の高い男は演出家としてはまだ若手ではあるものの、ここ数年で頭角を現してきたと評されているらしかった。
裏方の仕事の中でも、演出家は舞台の出来そのものを大きく左右する重要な役割を担っているが、
彼は特に求める演技にストイックで、一切妥協をしない性格であると、このみは聞いている。
二人はこの後始まるオーディションの審査員でもあった。
216 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:26:40.55 ID:3DhfCsSR0

演出家の男は、このみ達がオーディション参加者であると舞台監督の男に紹介した。
それに合わせるようにして、このみは自己紹介をした。

「765プロの馬場このみと申します。本日はよろしくお願いいたします。」

「馬場さん、こちらこそよろしくお願いします。」

このみが頭を下げてそう言うと、舞台監督の男もこのみと同じくらい頭を下げ丁寧に答えた。

「あちらの方に控え室を用意してますので、オーディションの時間までもうしばらくお待ちください。」

彼が手で指し示した部屋には、控室と書かれた紙が貼ってあった。
舞台監督の男はこのみのプロデューサーと名刺を交換して、その後演出家の男と階段で下の階へ降りていった。
217 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:27:21.29 ID:3DhfCsSR0

このみのプロデューサーは、交換した名刺をしまってからこのみの方を見た。
このみは、彼越しに控室に貼られた張り紙をじっと見ていた。

「……このみさん、緊張してますか?」

「してないわけじゃないわ。でも……丁度いい緊張、かしら。」

このみは笑って、そう言った。
今までずっとこのみの近くにいた彼には、その表情からこのみがオーディションに集中できていることが読み取れた。

「それじゃあ、俺は昼頃また迎えに来ます。応援してますからね。」

彼はおもむろに、このみに手のひらを向けるように手をかざした。

「ええ、プロデューサー。行ってくるわね。」

このみはそう言って、脚を動かした。
すれ違いざま、彼と目を合わせた後、このみは彼の手に自身の手のひらを打ち当てた。
いつもオーディション前にしている、おまじないだった。
乾いた音が辺りに響いた。
このみの手には、しばらくその感覚が残っていた。
218 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:28:25.01 ID:3DhfCsSR0

このみは、控え室の前までやってきた。
扉の前で立ち止まって、深く深呼吸してから扉に手をかけた。
部屋の中には、既に3人の女性がいた。
このみにとって、この部屋に集まった彼女達は、たった一つの役を競い合うライバルになるわけである。
3人はそれぞれ離れた場所の椅子に座っていて、各々が台本に目を通すなどして静かに集中している様子だった。
そのうち一人は、このみがテレビドラマでも見かけたことのある女優だった。

このみは他の3人と同じように、離れた場所に座り、台本を開いた。
物語の流れを追いながら、今まで演じた経験を思い出して、台詞ごとに引かれたメモ書きを一つ一つ読んでいた。
そのどれもが、自分が悩み時間をかけ考え、結論を出してきたもので、今のこのみ自身を励ましてくれるようだった。
219 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:28:54.86 ID:3DhfCsSR0

このみが気づけば、数十分あったはずの待機時間も、既に経ってしまっていたらしかった。
扉をノックする音がして、直後部屋に入って来た女性スタッフが、参加者たちに準備が整った旨を伝えた。
このみは他の参加者たちと一緒に返事をして、手に持っていた台本を鞄の中にしまった。
台本を含め荷物は持ち込めないことになっている。
このみ達は荷物を置いたまま、部屋を出た。

スタッフの案内に付いていくように、このみ達は廊下を歩いていた。
このみは自分の心臓が音を立てるのが分かった。
悔いの残らないように──。
それだけを噛みしめて、このみはオーディション会場の扉を見据えた。
220 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/10(水) 22:49:20.52 ID:yzW+t2Mc0
>>119 >>120の間に抜けがありました。

「行ってしまいました……。」
221 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:02:36.48 ID:E/BVepxA0
>>210>>211の間に13レス分抜けがありました。
順番に投稿していきます。
222 :(1) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:03:07.99 ID:E/BVepxA0

それからの日々も、このみは仕事の合間を縫って、オーディション用の台本に目を通していた。
ある時は事務所の控室で、またある時は移動中の車内で。
掴んだ感覚を途切れさせることのないようにと、このみが台本に触れない日は無かった。

オーディション前日の夜、このみは劇場のレッスン室にいた。
演技を行う場面一つ一つを順番に確認していた。
223 :(2) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:03:35.63 ID:E/BVepxA0

ふう、と息を吐いて、このみは端に置いておいたペットボトルを拾い上げた。
喉を冷ますようにこのみが水を飲んでいると、扉の方から声がした。
このみが振り返ると、少しだけ開いた扉の間から、二人の顔がのぞいていた。

「姉さん、お疲れさま。頑張りすぎは体に毒よ。」

「お疲れ様です、このみさん。明日が本番って莉緒さんに聞いたから、応援に来ちゃいました。」

「あら、莉緒ちゃん。それに、春香ちゃんも。」

このみはペットボトルを近くの台に置いて、二人のそばへ駆け寄った。
春香は、手に小さな紙袋を持っていた。

「今日の仕事先で、お菓子をもらったんです。良かったら、一緒に食べませんか?」

「そうね……。ちょうど一段落着いたところだし、せっかくだから頂いちゃおうかしら。」
224 :(3) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:05.02 ID:E/BVepxA0

このみは持ってきていたタオルなどを小さな手提げ鞄に纏めてから、二人のもとへ戻って来た。
部屋を出た3人は、レッスン室のそばにあるミーティングスペースに来た。

「ここの椅子、ふかふかで好きなのよね〜。」

我先にと、莉緒が壁際にあった革張りの椅子に駆け寄って、腰掛けた。
それに続くように、このみは莉緒の向かいに、春香は莉緒の隣に腰を下ろした。

「確かにこの椅子、一つうちにも欲しいわね。お風呂上がりにこの椅子座ったら、絶対気持ちいいもの。」

「なんだかそれ、そのまま眠っちゃいそうですね……。」

春香が紙袋の中から箱を二つ取り出して、そのまま包装を剥がしていく。

「クッキーと、こっちはラスクです。このみさんも、莉緒さんも。気にしないで食べちゃってくださいね。」

「あら。じゃあ、早速、貰っちゃうわね。」
225 :(4) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:33.75 ID:E/BVepxA0

莉緒に続いて、このみもクッキーを手に取って、口に運んだ。
ココアのほんのりと甘い香りが広がって、疲れた体を癒してくれるような気がした。

「ん〜。美味しい!」

「本当ね。でも、ココアだけじゃなくて……何かしら?」

ココアの裏で、微かに香ってくる風味があった。
このみはその正体が何かを特定できずにいたが、春香がクッキーを食べたあとこう答えた。

「これは多分……メープルですね。普通のバタークッキーとかにはよく入れたりするんですけど、これは隠し味っぽく、ちょっとだけ入れてあるんだと思います。」

「なるほど……。さすが春香ちゃんね。」
226 :(5) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:59.96 ID:E/BVepxA0

莉緒がそう言うと、春香はちょっぴり照れた様子を見せた。
春香は話題を変えるように、このみに聞いた。

「このみさん。今このみさんがやっているのって、どんなお話なんですか?実は私、まだ聞いてなくって……。」

「鶴の恩返しがモチーフのお話なの。鶴が青年と出会って……、二人は恋をするの。」

「恋……ですか。」

「私は鶴の役なんだけど……。うーん、直接見てもらった方が伝わるかもしれないわね。」

そう言ってこのみは台本を取り出して、春香に手渡した。
春香は、題が書かれた表紙をまじまじと見つめた。
それから、一枚ずつページをめくって、文字を追っていった。
227 :(6) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:05:46.44 ID:E/BVepxA0

「最初の方は、本当に鶴の恩返しと同じなんですね。」

「ええ。青年の前では、本当の自分を隠して振る舞わないといけなくて。……扉の向こうで機を織るときしか、鶴は本当の姿になれないの。」

「難しい役なんですね……。」

呟くように、春香はそう零した。
春香の手の中にある台本は、幾つかのページに付箋が貼ってあるほか、紙の端の方もすっかりよれてしまっている。
このみがどれだけ役と向き合ってきたか、春香には台本を持つ手越しに伝わってきた。
莉緒は、それを横から静かに見ていた。

「……ねえ、このみ姉さん。明日は、上手くいきそう?」

このみは、すぐには答えられなかった。
228 :(7) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:06:24.62 ID:E/BVepxA0

「……正直、本当に通用するのかは分からないけど……。出来ることは全部やってきたつもりよ。」

このみは、今までの日々を思い返すように、そう言った。
はじめは役の気持ちを掴む事もままならなかった。
役に近づこうとするたびに、霧の中に隠れてしまって、伸ばした手が空を切るような、そんな感覚があった。

「……でも、この子と私、なんだか似てるかも、って思ったことがあったの。それで、気づいたの。この子も物語の世界で『生きている』んだ、って。」

きっとこの子は、幸せになりたくて……。でも、それだけじゃなくて、胸を張って前を向いていたいって思う、そんな子なんだ。
このみは、胸の中だけで、そう言葉を続けた。
まるで古くから知る友人だったような、そんな確信めいたものがあった。

「だから……。今はこの子のこと、もっと分かってあげられるようになれたのかな、って思ってる。」

「……なんだか、すごく素敵ですね。」

「フフ、ありがと、春香ちゃん。」
229 :(8) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:07:12.95 ID:E/BVepxA0

このみがふと莉緒の方を向くと、そこで莉緒と目が合った。
莉緒は、なにやらニヤニヤと微笑んでいた。

「な、なによ。莉緒ちゃん。」

「なーんか、その子が羨ましいな、って。……私、姉さんのこと心配してたのよ。今週ほとんど話できてなかったから……。」

「そ、それは仕事なんだから、仕方ないじゃない……。そういう時もあるわよ。……心配してくれてありがとうね、莉緒ちゃん。」

そんな二人のやり取りを見て、春香がくすりと笑う。

「なんだか私もまた、こういう本格的な舞台のお仕事やりたくなっちゃいました。」

「そういえば春香ちゃんも、結構前に舞台のお仕事をしてたことがあったわよね。確か、名前が……。」

「『春の嵐』ですか?」

「そうそう。確か、私がアイドルやる前だったけど、よくテレビでその名前を見かけたわよ。すっごく評判だったって。」
230 :(9) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:08:12.12 ID:E/BVepxA0

『春の嵐』。
春香がかつて主演を務めた舞台の名前だ。
この舞台は、その頃の春香が世間から注目を集めたきっかけの一つで、後のアイドルアワードの受賞にも繋がったとも言われている。
アイドル天海春香が持つ可能性を女優という新たな領域で示した、と当時評されていたのを、このみは覚えている。

「へえ、そうなの。じゃあ、今後のために春香ちゃんに教えてもらおうかしら。演技の極意、みたいなの。」

「あはは。莉緒さん、私なんて全然で、そんなのじゃないですよ。」

春香は、二人の前でぶんぶんと手を振って否定した。

「ほら、でも経験者じゃない。舞台に出て思ったこととか、何かあったりするんじゃないの?」
231 :(10) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:09:06.30 ID:E/BVepxA0

莉緒の言葉に、春香は、何かあったかな……といった様子で考え込んだ。
しかし、少し経ってから、何かを思い出したように、ゆっくり話し始めた。

「ええと、上手く言えないんですけど……。私が舞台に立ったとき、『演技って本当に人それぞれなんだ』って。……そう、感じたんです。」

静かに、春香はそう言った。
その言葉からは、春香自身の経験を感じさせる説得力があり、このみと莉緒は思わず息を飲んだ。

「あのとき美希も一緒だったんですけど、全然私と違ってて。……演技ってやっぱり難しいなあ、って思っちゃいました。」

「『演技は人それぞれ』……。うーん……。私はあんまり考えたこと、なかったかしら。」

「私は、少しだけ分かる気がする、かな。……正解なんてもしかしたら無いのかも、って。そういう事なのかしら。」

「えっ?姉さん、それって……どういうこと?」
232 :(11) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:09:46.98 ID:E/BVepxA0

莉緒は首を傾げながら、このみに聞く。
このみは一瞬言葉に詰まり、少しの間考えを纏めるような素振りを見せた。

「莉緒ちゃん、前に雪女の役をやった事があったでしょ?……私、鶴を演じるのに、最初の頃は莉緒ちゃんの雪女をイメージしながらやってたの。」

「えっ、そうだったの?」

「雰囲気が近い役だから、何か掴めるかも、と思ってたんだけど……。全然上手くいかなくて。それで、なんでだろう、って思ってたの。」

このみは、思い出すようにそう言った。
当時のこのみは、そんな自身の演技にどうしても納得がいかなかった。
今までも演技の仕事は何回もあったが、このみがこのような感覚を感じたのは初めてだった。
だから、その正体が何であるかを知るために、納得のいく演技ができるように、このみは今まで役に向き合い続けてきたのだった。

「……でも、今はなんとなくわかる気がする。上手く言えないんだけど……。私はこの子を、『今の私』で演じたい、って思ってる。」
233 :(12) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:10:33.56 ID:E/BVepxA0

このみは莉緒と春香を見つめて、そう言った。
その声は、まるで誓いを立てるかのように真っ直ぐで、芯が通っていた。

「莉緒ちゃんの雪女は、普段の莉緒ちゃんとは全然違う子だけど、すごく莉緒ちゃんらしくって。
……だから、私は私らしく、私のやり方でやるべきなんだなって。今はそう思ってるの。」

『私は私らしく』。
それがこのみの結論だった。
なにも、役に自分を重ねて演技をする、と言うわけではない。
これまで歩いてきた道のりを誇れるように、胸を張って前に進むために、自分だけの道を進んでいく。
そのために、今の自分の全てで、物語に生きる人間を演じよう。

憧れや理想が、途轍もなく眩しく見えることがある。
私にとってその眩しさは、焦がれるほど追い求めたものだった。
だから手を伸ばして、一歩ずつ歩いてきた。
けれど、その眩しさを求め追いかけても、きっとその先にあるのは『私じゃない』。
私が胸を張っていられるように、私は私だけの道を進もう。
その姿が、いつかきっと、誰かに伝わると信じているから。
234 :(13) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:11:01.44 ID:E/BVepxA0

このみは、前を見た。
そこには変わらず、莉緒と春香がいて、いつもと同じ高さで目と目を交わした。
二人は何だか嬉しそうだった。

「ウフフ、姉さんのそういうところ、とっても素敵よ。ね、春香ちゃん」

「はい、それはもうっ。」

少しだけ開いた窓から、顔の熱を冷ますように風が差し込んだ。
潮のにおいが鼻をくすぐって、耳をすませば微かに波の音がした。
窓の向こうの景色は今日も変わらない。
海と星空はどこまでも澄んだ濃紺に染まっていて、遥か向こうで陸と融けるように交わっている。
海岸線に沿って伸びた街灯の明かりが、まるで星空と繋がっているように瞬いた。
235 :>>219の続きからです ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:52:05.51 ID:E/BVepxA0
***

あのオーディションまでの日々から何か月かが経ち、季節も移ろいでいた。
年は明け、1月も後半に差し掛かった頃で、劇場のまわりには乾いた寒風がぴゅうと音を立てて吹いていた。

このみは、着替えたばかりの衣装を揺らしながら、劇場の廊下を一人歩いていた。
見上げるほど大きな灰色の扉の前で立ち止まり、このみはそこで深呼吸をした。
厚く重い扉だったが、このみが耳を澄ますと、その奥からは心を刺激する心地の良い音色たちが確かに聞こえてきた。
このみは、どきどきと胸の奥が逸るのを感じながら、ゆっくりと扉を開けた。
236 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:52:31.56 ID:E/BVepxA0

扉を開けると、ピアノの音に支えられた、透き通った歌声たちがこのみの元に飛び込んできた。
舞台袖からは、まつりたちがステージ上に投げかけられた一筋のライトに照らされ、歌っているのが見えた。
 瞳の中のシリウス──貴音、まつり、美也、海美の4人が織りなす透明な世界には、
風吹く冬の夜の冷たさだけではなくて、心が融けだしていくような、そんな暖かな輝きがあった。
壁際に据え付けられたモニタには、客席後方から見たステージの様子が映し出されていた。
そこでは、会場を包み込むバラードに合わせてサイリウムの波がさざめいていた。

楽曲が終わると、会場中から拍手と歓声が溢れだした。
ステージが暗転して、それから辺りはまた静かになる。
観客たちの息をのむ音が聞こえてきそうだった。
しばらくして、次の楽曲の旋律が静かに始まって、波間はその色を変えた。
237 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:52:57.93 ID:E/BVepxA0

舞台袖は、劇場のアイドルたちや、公演を支えてくれるスタッフたちで一杯だった。
アイドルたちは、何人かで集まって自撮りしていたりする子たちもいれば、進行表をチェックしに来た子や、次の出番に向けてダンスのステップを確認している子もいて、様々だった。
このみがなんとなしに辺りを見回すと、スーツを着たプロデューサーと目が合った。

「あ、このみさん。衣装の着替え、もう終わったんですね。」

「ええ。もう大丈夫よ。」
238 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:53:24.17 ID:E/BVepxA0

このみの着ている衣装は、しんしんと野に降り積もる雪のような、まっさらな白を基調とした和服だった。
袖には白地に赤と黒の模様があつらわれていて、それは白い翼を携えて雪の上で佇む鶴を思わせた。
胸の帯には、椿の花が凛と咲いていた。
衣装の名前は、『鶴翼紅華衣』。
初日を2週間後に控える、『鶴』の舞台をイメージして作られた衣装だった。

馬場このみセンター公演。
この公演は、このみが主演を務める舞台と連携した、特別な公演だ。
このみはこの公演の後、3週間にわたって行われるこの舞台に向けた、最終稽古に入ることになっている。
このみ自身も事前に覚悟していたことであるが、この公演を境に、馬場このみのアイドル活動は一時的に休止されることが決まっている。
そういう意味で、この公演は、舞台女優馬場このみになるための──アイドル馬場このみ最後のライブでもあった。
239 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:53:50.54 ID:E/BVepxA0

この公演は、「最後の公演は、舞台の演劇とリンクさせるようなものにしたい」というこのみ自身の希望からだった。
しかし、公演が実現できたのは、舞台の制作側の好意によるところも大きかった。
舞台の脚本・演出との綿密な擦り合わせをした上で、舞台の制作チームの要求する水準を担保する、という条件の下で、ようやく公演の許可が下りたのであった。

公演はもう終盤に差し掛かっていた。
それでもこのみが衣装を着替えたのは、たった一曲のためだった。
公演の最後を飾る、このみのソロ曲。
それはこの公演の──このみが選んだ選択の集大成でもあった。
240 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:54:16.82 ID:E/BVepxA0

この衣装は、このみのアイドルとしてのステージを通して舞台の世界観を表現するために作られた、特別なものだ。
舞台本番の衣装とは異なるものの、舞台の制作チームからデザイン等の監修を受け、アイドル衣装として製作されている。
そのため、ダンスなどで身体を動かしても、動きが制限されることのないようになっていた。
このみは試しに軽く動いてみるが、特段どこか動きにくさを感じることもなく、むしろ心地よいくらいだった。

「プロデューサー、どうかしら。何か、変なところあったりしない?」

このみはそう言いながら、体をひねるようにして、彼に背中を見せた。
彼は、じいっとこのみの衣装を見て、それからうなづいた。

「……うん、ばっちりです。このみさんによく似合っていて、とても素敵ですよ。」

「ウフフ、ありがと。美咲ちゃんにも、舞台の美術さんにも、お礼を言わないとよね。こんなに素敵な衣装を作ってもらったんだもの。」
241 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:54:42.81 ID:E/BVepxA0

衣装をひらひらと揺らすように、このみは小さくステップを踏んだ。
その足取りはかろやかで、動くたびに羽が舞うようだった。

「調子の方も、なんだか良さそうですね。」

「ええ。今日は晴れ舞台だもの。なんだか、いつもより体が軽いみたいよ。」

「それならよかったです。緊張して身体が全然動かない、ってなってたら大変でしたからね。」

彼は冗談めかすように、大げさに言ってみせた。
そんな彼を見て、このみはふと、自分がアイドルを始めたばかりの頃のことを思い出した。
ステージの前はいつだって不安で、どうすればいいのか分からなることだって少なくなかった。
でも、そんな時だって、プロデューサーはずっと一緒に居てくれた。
だからこそ、彼と今こうしてその頃のことを笑い話に出来ることが、ちょっぴり嬉しかった。
嬉しくて──少しだけ、それが寂しくもあった。
だからたまに、その気持ちに、気づいてほしくなる。
242 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:55:25.87 ID:E/BVepxA0

「……でも、今だって緊張してない訳じゃないのよ?」

このみは、身長差をもどかしく感じながら、意味ありげに見えるよう、そう言って微笑んだ。

「そうなんですか?」

「ええ。どれだけ練習しても、絶対に上手くいく保証なんて無いもの。不安な気持ちが全く無い、なんて言えば、嘘になるわ。」

それを言葉にした途端、じわりと実感がにじり寄ってきた。
もしも上手くいかなかったら。もしも失敗してしまったら。
やっぱり、不安な気持ちを全部無くすことなんて、できないのかもしれない。

「……でもね、プロデューサー。」
243 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:55:52.15 ID:E/BVepxA0

このみは、幕の隙間からステージの様子をちらりと見た。
劇場の仲間たちが堂々と歌を歌う様子を見て、胸の奥が逸るように音を立てた。
胸に手を当てて、このみはゆっくりと息をした。

「今はそれだけじゃなくて、早くみんなに今の私を見てもらいたいって思ってる。
 胸がどきどきして……。ステージに上がるのが、楽しみで仕方ないのかも。」

そう言ってこのみは、にっと笑った。
その笑顔は、ステージの上でないのが勿体ないくらい、眩しい素敵な笑顔だった。

「このみさんは今日の主役です。だから目一杯、このみさんのステージを見届けてもらいましょうね。」

「ええ!」
244 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:17:27.70 ID:Bg3Eqo0s0

それから、二人は資料で本番のステージでの動きや立ち位置を確認していた。
二人が長い時間をかけて準備をしてきた、このみの大事なステージが、少しずつ近づいていた。

「もうそろそろ時間ね。……プロデューサー、行ってくるわね。」

次のこのみの直前待機の場所は、反対側の下手側だ。
大した距離はないものの、上手側の舞台袖を一旦出て、下手側の舞台袖に移動しなければならなかった。

「このみさん。」
彼はこのみの名を呼んだ。静かで、それでいて芯のある声だった。
このみの目を見つめて、彼は真っすぐに言う。

「このみさんが今日のこのソロのためにずっと努力してきたこと、俺は知ってます。……だから、大丈夫です。」

「……うん。ありがと、プロデューサー。」
245 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:17:56.44 ID:Bg3Eqo0s0

手を伸ばして自分の資料を持った後、彼に「また後でね」と目で合図した。
彼が静かに返事をするのを見てから、このみは先ほどの扉の方へ歩き出した。

「……あ、そうそう。」

このみは数歩だけ歩いたところで立ち止まった。
それから、このみは後ろに手を回したまま体全体で振り返って、彼を見た。
このみの衣装の、鶴の尾を模した飾り布が、ふわりと舞った。

「プロデューサー。私のステージ、ここからちゃんと見ててね。」

このみはそう言って、小さくはにかんだ。

「ええ。もちろんです。目を離したりしませんよ。」

「ウフフ。よろしくね。」

それから、このみは駆け出していく。
彼女が扉をくぐるまでずっと、彼はその後ろ姿を見守っていた。
246 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:18:37.43 ID:Bg3Eqo0s0


「プロデューサーさん。」

彼に声をかけたのは、徳川まつりだった。
まつりは先ほどステージを終えたばかりで、丁度彼のいる上手側の舞台袖に戻ってきていた。
水分補給をして休憩を取った後のようで、息もすっかり整っていた。

「さっきのこのみちゃん、とってもいい表情をしていたのです。」

まつりは彼のそばに来て、にこりと笑って言う。
彼は息を吐いて、ああ、そうだなと答えた。
それから少し間をおいて、彼はまつりに訊いた。

「もしかして、心配してくれてたのか?」

まつりは、彼の言葉に表情を変えなかった。

「ほ?このみちゃんは、とってもわんだほー!なステージを見せてくれるって、ずっとまつりは思ってたのです。
 ……心配なんて、してないのですよ?」

「……そっか、ありがとうな。」
247 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:19:06.45 ID:Bg3Eqo0s0

彼がそう言ったところで、ステージが暗転した。
『待ちぼうけのLacrima』のステージが終わり、薄暗がりの中、麗花、ジュリア、紗代子の3人が戻ってきた。
舞台袖からステージを見ていた琴葉が、今にも泣き出してしまいそうな顔で、3人を出迎えた。

「……みんなのステージ、凄かったよ。歌声が重なって、融けていくみたいで……。私、なんだか涙が……。」

言葉を紡ぐたびに、ひとつ、ふたつと、琴葉の目から涙が零れていった。
3人は琴葉の様子に驚いて言葉を詰まらせたが、すぐに紗代子が琴葉に駆け寄った。

「琴葉さん、大丈夫ですか?……あの、私、タオル貰ってきますね!」

「あっ、紗代子。気にしないで、自分で行けるから……。」

琴葉が言い終える前に、紗代子は小走りで行ってしまった。
ジュリアは困ったように声を漏らして、頭をかいた。

「ええと、その、なんだ。……とにかく、どこか座ろうぜ。すぐサヨは戻ってくるだろうからさ。」

すぐ横にあった休憩スペースには、5脚ほどパイプ椅子が並んでいた。
ジュリアは、ああ疲れた、と零しながら、そこにどかっと腰を下ろした。

「うん、……そうだね。ありがとう。」
248 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:19:32.54 ID:Bg3Eqo0s0

琴葉は、ジュリアの横にある椅子に向かおうとした。
しかし、その前に麗花に呼び止められた。

「ねえねえ、琴葉ちゃん。」

琴葉が麗花の声に振り向くと、すぐ目の前に、麗花が立っていた。

「……ぎゅーっ!」

「わっ、れ、麗花さん……?」

振り向いた途端に、麗花が琴葉に、ぎゅっと抱きついた。
249 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:19:58.41 ID:Bg3Eqo0s0

「れ、レイ……。いや、あのな……。」

「あれ、琴葉ちゃん。もしかして、イヤだった?」

「い、いえ。全然、そんな事はないです!……ただ、ちょっとびっくりしちゃいました。」

「それなら良かった♪もう一回、ぎゅーっ!」

そんな麗花の無垢な声は、ステージが終わった直後の今も変わらず、あたりによく響いた。
彼と話していたまつりも、麗花たち3人を見て、そっと微笑んだ。

「なんだか、向こうが賑やかなのです。」

「んん、あれは賑やかというか、なんというか……。」

彼はそう言って、こめかみを指で掻いた。
250 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:20:27.03 ID:Bg3Eqo0s0

このみの次のステージでは、演出の都合上、ハンドマイクではなく小さなピンマイクを用いることになっていた。
スタッフからピンマイクを着けてもらった後、このみは袖幕のすぐ裏側に来ていた。
舞台のすぐ脇に据え付けられたこの場所は、衝立と幕で他の区画と区切られていて、出番を直前に控えたアイドルの待機所として使われている。
舞台側の衝立には人が通れる程度の隙間が設けられていて、ここを通って舞台に出て行くことができるようになっている。

この場所は、ステージ本番に向け集中するのに丁度良い場所だった。
舞台袖は大勢のアイドルやスタッフが忙しなく行きかうが、この場所は程よく静かで落ち着いていた。
衝立の間から舞台上の様子を直接伺えることも、出番直前の気持ちを整えるのに都合が良かった。
251 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:20:56.42 ID:Bg3Eqo0s0

待機所の中は数メートル四方程度の広さしかなく、詰めるようにしてパイプ椅子3脚と長机1脚が置かれている。
机の上には、アクセサリなどを入れておくための収納棚と小さな鏡が設けられていて、その横には公演で使うハンドマイクを置くためのケースが置かれていた。
マイクケースの内側には、マイクの形を象るようにウレタンが敷き詰められていて、マイクが10本程度収納できるようになっている。
マイクは上手側の舞台袖で全て管理しているのだが、下手側で出番が連続する場合などのために、下手側にもこのようなマイクの仮置き場が設けられている。
公演の終盤であることもあって、今はケースが空になっている。
対して,その隣に置かれた収納棚の中には、非常に多くのアクセサリ類が所狭しと収められている。
もちろん、この棚に劇場が所有するアクセサリ全てが入っている、という訳ではない。
普段の定期公演でよく用いるものだけ分けて、このように可搬式の棚で保管しているのだが、
所属するアイドルが多いため、それでもかなりの数になってしまうのである。
252 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:21:23.28 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、持ち込んだ資料で自分のステージの段取りを確認した後、机の上にある棚をそっと開けた。
そして、たった一つ、ブレスレットを取り出して、それを左手の上に乗せた。
何の変哲もない透明なガラス玉がついた、シンプルなものだった。
決して高価なものではないし、むしろアイドルがステージで付けるアクセサリとしては、いささか粗末なものだった。
しかしこのみにとっては、アイドルを始めた頃からずっと大事な日に着けてきた、大切なブレスレットだった。

今ではじりじりと照り付けるステージライトにすっかり焼けてしまったらしく、留め具の色は少し白っぽく変わってしまっていた。
長く使ってきたからなのか、ガラス玉の部分も指で押すとぐらぐらと揺れて、ともすれば外れてしまいそうになる。
このみはいつも、このブレスレットから勇気をもらってきた。
初めてアイドルとしてステージに立った時も、765プロの代表の一人として劇場の外で何万人の前で歌った時も──。
253 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:23:24.76 ID:Bg3Eqo0s0

このみはしばらくブレスレットを眺めていた。
今日この日まで、本当にいろんなことがあった。
泣いたことも、笑ったことも。
──でも、その全部がいま、胸の中で宝石みたいにキラキラと光ってる。
そう思うと、胸の中のこの気持ちが愛おしくてたまらなかった。

イヤモニから、出番の1分前を知らせる声が聞こえてくる。
このみは、ブレスレットを戻そうとそっと棚を開けた。
しかし、ブレスレットを持つ手が、どうしても動かなかった。
手に取ったこの気持ちに蓋をして、また閉じ込めてしまうように思えて、胸の中がざわついた。
254 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:24:22.89 ID:Bg3Eqo0s0

もう少しの間だけでも触れていたかったが、差し迫る時間は待ってはくれない。
仕方ないと割り切って、もともと入っていた場所に戻そうと、このみは手を動かした。
けれど、その手を引きとめるみたいに、このみの胸の中で声がした。

『私のステージ、ここからちゃんと見ててね。』

聞こえてきたのは、少し前に自分が言ったばかりの言葉だった。
きっとあの言葉は、彼だけに伝えたかった言葉ではなかったのだ。
『私の道を、ずっと近くで応援してくれた人』。
それは、劇場の仲間たちや、ファンの子たち、そして……。

「そうよね、あなたも……。」

胸の前に引き寄せて、このみはブレスレットを見つめて、呟いた。
そっと微笑んで、マイクケースのクッションの上に、優しくそっと置いた。

「ここから、私のこと見ててくれる?」
255 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:26:16.51 ID:Bg3Eqo0s0

ケースの置かれた机のすぐ脇は、ステージへと出ていくための通路になっていて、そこから光溢れるステージへと袖幕の道が伸びていた。
光に導かれるように、このみは歩き出す。
5秒前のカウントが始まった。
このみは前を向いて、この道の上に立っていた。

ステージが暗転する直前──。
光に照らされたステージ越しに、上手の舞台袖の様子が見えた。
そこには、このみのプロデューサーが立っていた。
そしてその隣には、まつりや莉緒、春香たち──すぐには数えられないほどたくさんの劇場の仲間たちが居て、ステージ越しにこのみのことを見つめていた。
256 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:26:45.26 ID:Bg3Eqo0s0

先程まで舞台に立っていたばかりのアクアリウスの3人も、そこにはいた。
どういう訳か、麗花は体の前で琴葉を抱えている。
麗花は、後ろからひょっこり顔を出して、このみに手を振っていた。

一方で、麗花の腕の中にいる琴葉は、タオルを顔の前でぎゅっと抱いていた。
反対側で距離があることもあって、このみからは目元まではっきりとは見えなかったが、どうやら大丈夫そうだった。
琴葉は、顔を上げて、このみをじっと見ていた。

このみは、大勢の仲間たちが自分のステージを待ってくれていたなんて、想像だってしていなかった。
驚いて、思わずこのみはプロデューサーを見た。
それに気づいた彼は、ただ笑って、ぐっと親指を立てた。

「もうっ……。」

仲間たちが私のことを見守ってくれている。
それだけで、胸が暖かくなった。
257 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:27:14.52 ID:Bg3Eqo0s0

これから歌うのは、鶴の物語。
深く雪降る世界で、鶴が人間として青年と共に過ごした日々。
そして、最後に鶴が決めた、一つの選択。

大切な人との別れは誰だって寂しくて、辛くなってしまうもの。
……だけど、そんな寂しい気持ちも、不安な気持ちも、全部吹き飛ばしてしまうくらいに。
堂々と胸を張って、最高の私を届けよう。

それが、私の選んだ道だから。
それこそが『アイドル』馬場このみの夢だから。

舞い上がる歓声とともに、ステージの照明が一斉に暗転する。
このみは、舞台の上へと、歩き出した。

258 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:28:06.81 ID:Bg3Eqo0s0

びゅうびゅうと風が雪を叩きつける音が、響いていた。
白いピンスポットが暗転したステージの下手端に投げかけられて、このみを照らしだした。
このみの膝くらいの高さまでスモークが焚かれていて、舞台はまるで雪で埋め尽くされたように染まってしまっていた。
凍えてしまわぬようにと、このみはぎゅうと腕を抱えた。
身を小さくしながら、このみは一歩、一歩と歩いて行く。
足取りはどこかおぼつかず、深く降り積もった雪に足を取られているように見えた。
このみが脚を動かすたびに、小さく雪を踏みしめる音がした。

歩みを進めるごとに、足元に積もった雪の量は多くなっていくようだった。
中央近くまで歩いたところで、このみの膝ががくんと折れて、白いスモークが舞い上がった。
白い衣を身にまとったこのみは、スモークに隠れてしまいそうだった。
このみは膝をついたまま、雪の冷たさで赤くなった手をいたわるように、手のひらを重ねて白く染まる息を吹きかけた。
259 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:28:42.33 ID:Bg3Eqo0s0

そのとき、このみの目の前に薄桃色の光が照らし出された。
このみはその光を見てゆっくりと顔を上げた。
桃色の光はスモークで散乱して、まるでこのみの目の前に誰か立っているように見えた。

「あなたは──。」

このみは、震える手をゆっくりと伸ばした。
その指先が桃色の光に近づいていく。
このみがその光に触れたとき、ばつん、と音を立てて世界は暗転した。
辺りは静寂に包まれた。

260 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:29:49.22 ID:Bg3Eqo0s0

光が戻ったとき、このみは白い光に照らされてステージの中央に立っていた。
このみが目を開けると、その先にはこのみをじっと見つめる眼差しがあった。
ペンライトを胸の前で抱えて、祈り見守るような、そんな人たちをこのみは見た。

胸がどきどきと音を鳴らす。
あの時触れた気持ちも、あの日から抱えてきた想いも、これまで過ごしてきた日々も。
きっと全部、今日この日に繋がっていた。

背中越しに、熱を感じる。
劇場の仲間たちが、今も舞台袖から見ていてくれる。
暖かくて、眩しくて。
261 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:31:41.37 ID:Bg3Eqo0s0

目の前には、ファンのみんなが居てくれる。
ずっと近くに居てくれた大切な貴方へ、届けたい言葉があるの。
新しい場所へ向かう私を、安心して送り出してもらえるように。
貴方が見つけてくれた私が、最高のアイドルだったと、胸を張って言ってもらえるように。
出会えてよかったと、心から思ってもらえるように。
私は、今の私で、目一杯胸を張るから。
──だから、私の『晴れ舞台』を、見守っていてね。

耳元から、秒読みが聞こえる。

この歌は、アイドルになった私が初めて出会った歌だから。
貴方に届けたいと、初めて願った歌だから。
今の私の全部で、この歌を。

カウントに合わせて、このみは息を吸い込んだ。
262 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:32:44.83 ID:Bg3Eqo0s0

『love song のようにきらめき
 love song のようにときめき』

雪のように真っ白な、無垢の光の中でこのみは歌う。
鶴が青年に初めて出会ったときのように、大切な場所を照らし出してくれた、暖かな光だった。
この子が恋をした、眩しさも、胸の高鳴りも、全部を歌に乗せて──。

『想えば想うほど恋しいよ』

ロングトーンに合わせるように、小指を立てて、身体の前でゆっくりと掲げた。

このみの目の前には、桃色の景色が広がっていた。
このみの伸ばした指先に応えるみたいに、サイリウムの光たちも、真っ直ぐ上を向いていた。
その先に、みんなの顔が見えた。
みんなの声が聞こえてくる。
涙が出そうになって、そっと微笑んだ。
263 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:33:07.00 ID:Bg3Eqo0s0

この歌『dear...』は、大切な人とすれ違ってしまって、自分の気持ちを伝えられずにいる……切なくて、とても悲しい歌。
自分の気持ちに気が付かなかった頃と違って、もうこの気持ちに出逢ってしまったから。
貴方に気持ちを伝えて、叶わぬ恋だと突きつけられてしまうのが怖くて。
──伸ばした手が、相手に届かなかったのなら。
そんな事ばかり考えてしまって、この子は、大切な人に本当のことを言えなかった。

『きっと明日にはまた きっと笑っていられる』

だからそうやって、自分に言い聞かせて、強がっていた。
傷つくのが怖くて、本当の自分を隠して、自分じゃない誰かの気持ちで塗り固めて、自分の身を守ってた。
264 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:33:40.24 ID:Bg3Eqo0s0

『夢でもいい 叶えてよ』

でも、きっと本当は分かっていた。
このままの自分だと、大切な人が見つけてくれた自分を、誇りに思えない。
胸を張って、大好きな貴方に、思いを伝えられない、って。

悩んで、迷って、苦しくて……。
何が自分の気持ちか分からなくなることもあったよね。

でも、胸の奥底にあった、たった一つの言葉だけは、本当の自分の気持ちだった。
それは、ずっと変わらない、貴方へ届けたい想い。

『誰よりも好きみたい──。』
265 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:35:55.72 ID:Bg3Eqo0s0

このみの歌声だけを残して、すべての音が消えた。
舞台を彩る照明も、気づけばたった一つだけになっていた。
舞台の真上にある、スポットライトだけがこのみを照らしていた。

辺りに降り積もった雪に吸い込まれてしまったみたいに、静かだった。
誰もが、舞台上のこのみと自分の二人だけを残して、時間が止まったように感じた。

「……ねぇ、聞いてくれる?」

音のない世界の中で、このみは大切な人に語り掛けるように言った。
その瞳は微かに潤んでいて、慈しみと優しさに溢れていた。
このみは、両手を胸に当てた。

「あの雪の日──。あなたと最初に出逢った日のこと、私は今でも昨日のことみたいに覚えてる。」
266 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:38:08.46 ID:Bg3Eqo0s0

劇場の客席から、このみを見つめる目線が、いくつもあった。

20代後半くらいの、リストバンドを手首に一つだけ付けた、若い男がいた。
男はペンライトを胸の前で握ったままで、舞台に立つこのみをじっと見ていた。
高校生くらいの、眼鏡をかけた少年がいた。
少年は、ペンライトを小さく揺らしたままで、動けなかった。
このみと丁度同じ年代くらいの、首に小さな首飾りを付けた、女性がいた。
彼女は、鼻と口のあたりを手で押さえながら、赤く腫らした目を必死に開けて、前を見ていた。

年齢も性別も、様々だった。
それだけでなく、きっと彼らがそれまで過ごしてきた環境、日々だって、一人一人で全然違うだろう。
しかし彼らは、今こうしてこの場所に居た。
数えきれないものの中から、この小さな劇場を見つけて。
何十億人の中から、たった一人を見つけて。
──彼らは、舞台の上の、このみだけを見つめていた。
267 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:39:19.08 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、ゆっくりと目を閉じた。
胸に置いた手のひらを通じて、どきどきと鼓動が高鳴るのがわかった。
そして、このみはそっと目を開いて、前を見た。

「本当は私……。あの日からずっと、貴方に伝えたいことがあったの。」

サイリウムの光が、かすかに揺れた。

「私、貴方のことが──。」
268 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:39:46.77 ID:Bg3Eqo0s0

ある時、息を吸う音がした。
止まっていた時間が、もう一度動き出した。

『love song のようにきらめき
 love song のようにときめき』

心の中を吐露するように、静かで繊細なピアノの音に乗せてこのみは歌う。
このみが声を紡ぐたびに、少しずつ音と光は増えていった。
音はこのみの鼓動を乗せて、ステージから客席へと伝わっていく。
溢れた光は暖かくて、この空間を優しく包み込んでいくみたいだった。

『──想えば想うほど恋しいよ』

桃色の光たちの向こう側には、大切な人がいてくれる。
ねえ、貴方の声は届いていたんだよ。
このみは、そっと微笑んだ。
269 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:44:12.68 ID:Bg3Eqo0s0

これが、最後のサビ。
この暖かな世界も、もうすぐ終わってしまう。
……でも、大丈夫。
貴方にこの想いを伝えられたから。
だから今は、貴方が誇れる私で、目一杯この瞬間を大切な貴方と。

『love song 感じていたいの
 ずっと見つめていたいの』

『想えば想うほど恋しいよ』

暖かくて、優しい光の海が、目の前に広がっている。
ありがとう、私をここまで連れてきてくれて。
私は、大切な貴方が愛してくれた私で、これからも歩いていく。
……ねえ、貴方と出逢えたから、今の私は此処に居るんだよ。

『想えば想うほど愛しいよ──。』
270 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:44:44.93 ID:Bg3Eqo0s0

「──もう行かなくちゃ。本当の姿を知られてしまったら、私はもう此処には居られないの。」

暗がりの舞台の上で、たった一つのスポットライトに照らされて、このみは呟くように言った。
あの音と光の溢れた世界は、もうここにはなかった。
このみは目を瞑って、胸に手を当てた。
それから、手をぎゅっと握って、前を向いた。
このみの目の先には、大切な人たちが居た。

「でも。この気持ちを貴方に伝えられて……本当に良かった。」

その目は、優しかった。
愛しさも、寂しさも、切なさも……全部湛えて、その瞳は濡れていた。

「ずっと言えなくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとう。」
271 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:45:38.78 ID:Bg3Eqo0s0

吹いていた冷たい風は、もう止んでいた。
このみは上手側へ、ゆっくりと歩き出した。
白く染まった地面を歩くたびに、雪を踏む音が響いた。

いくつものスポットライトが舞台の上に投げかけられて、このみの進む先を照らしだした。
このみは、ただ前を向いて、足跡を残しながらその道の上を歩いていく。

このみがふと後ろを振りむくと、舞台の中央は桃色の光で溢れていた。
そして、その桃色の光から自分の足元まで、ずっと足跡が続いていた。
このみは、再び歩き出した。

翼を凍えさせるほど冷たかった風も、もう止んでいた。
このみは胸の前に手をやって、顔を上げて、一歩ずつ進んでいく。
272 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:46:11.92 ID:Bg3Eqo0s0

気が付けば、音が、声が聞こえていた。
割れそうなほど大きな、たくさんの声が、客席から聞こえてきた。
このみは、前を向いたままだった。
しかし、それが自分を見守ってくれた人たちの声だと、確かに分かった。

たくさんの声が溢れるなかで、舞台の照明がすべて落とされた。
それでも、客席から届く声は止まなかった。


照明の落ちた舞台の上で振り向いたまま、動けなかった。
このみには、名前を呼ぶ声が、確かに聞こえた。
あの子の名前を呼んでくれる声も、私の名前を呼んでくれる声も。
それが一番嬉しくて、頬に涙が伝うのが分かった。


273 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:46:43.90 ID:Bg3Eqo0s0

ステージの上に照明が一斉に灯るのを、このみは薄暗がりの舞台袖からただ見ていた。
そこには、このみ以外の、大勢の劇場のアイドルたちが立っていた。

このみのソロ──最終ブロックの最後の曲──を終え、この公演も終わりが近づいていた。
ステージ上ではMCが行われていて、このブロックで披露された曲を、順に振り返っていた。
ソロを終えたこのみは、MC組と入れ替わるように、上手側の舞台袖に戻っていた。

このみは、今は衣装スタッフと合流していて、衣装の下に取り付けたピンマイクと無線の送信機を取り外してもらっている。
今も先程のステージの余韻が残っていて、鼓動がずっと高まったままだった。
胸に手を当てゆっくり息をしながら、このみは仲間たちが立つステージを優しく見つめていた。
274 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:47:11.77 ID:Bg3Eqo0s0

スタッフからマイクの取り外しが終わった旨の報告を受けて、このみの意識は舞台袖に戻ってきた。
このみはお礼を言い、彼女と別れた。
その場でふと辺りを見回すと、このみのプロデューサーがすぐそばにいた。
顔を見れば、彼は敢えて声をかけないでいてくれたんだと、このみには分かった。

「このみさん。……お疲れ様でした。」

「プロデューサー。」

薄暗がりの舞台袖でも、彼の目元が赤くなっているのがわかった。
今の自分も、彼のように赤くなってしまっているかもしれない。
そう思ってこのみは、目をぎゅっと瞑って、瞬きをした。
275 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 00:48:05.57 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、ゆっくり目を開けた。
目の前の彼に、そっと訊いた。

「その……。私のステージ、どうだったかしら?」

その答えは、彼の表情を見れば明らかだった。
それでもこのみは、あえて言葉にして、彼に尋ねた。

彼はまた、今にも涙を流してしまいそうだった。

「いい、ステージでした。今日見た『dear...』の景色を、歓声を……このみさんの姿を。俺は、絶対に忘れません……っ。」

彼は言葉を詰まらせながら、声を潤ませて答えた。
このみは、そんな彼の返事に、目元に熱が上っていくのを感じた。
276 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:02:59.71 ID:Bg3Eqo0s0

「でも、まだ……。今日の公演は、終わってません。……そうですよね?」

彼は、言葉を飲み込んで、溢れる気持ちを抑えるようにして、そう続けた。
彼は涙を拭きながら、このみにあるものを差し出した。
それは、ハンドマイクだった。
イメージカラーである桃色のシールが小さく張られた、このみのハンドマイク。
このみは右手を伸ばして、そっと受け取った。
マイクを握って、このみは小さく笑った。

「……ええ、もちろんよ。仲間のみんなにも、ファンのみんなにも。みんなに、会いに行かなくちゃよね!」

このみはそこから、ステージを見た。
ぱあっと、視界が明るくなる。
ステージライトが眩しかった。
277 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:03:57.76 ID:Bg3Eqo0s0

「あれあれ?誰かひとり、足りませんなあ?」

「お。もう、準備もできてるみたいだな。じゃあ、せーので呼んでみようぜ!」

ステージから、声が聞こえてくる。

「真美ちゃん……。昴ちゃん……。」

真美の隣の亜美は、こちらに手まで振ってしまっている。
まったくもう、とこのみは思いつつも、亜美に手を振って返した。

このみは、プロデューサーを見た。
彼は、大きくうなづいた。
278 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:06:00.84 ID:Bg3Eqo0s0

「皆さん、準備はいいですよね?みんなでいきますよー!」

客席のみんなを指さして、未来が大きな声で言う。
歓声が上がって、サイリウムが揺れた。

「せーのっ!」

未来のかけ声に合わせて、客席がぱあっと明るく照らされた。
ステージから、客席から、このみの名前を呼ぶ大きな声が聞こえてきた。
声を届けてくれる一人一人の顔が、舞台袖にいたこのみにも、はっきりと見えた。
声に応えるように、薄暗がりの舞台袖から光あるステージの上へと、このみは飛び出していく。

「みんな、ありがとう!このみお姉さんよー!!」

客席のみんなから、歓声が上がる。
自分を待ってくれたみんなのもとへと、このみは駆けていく。
このみが袖を揺らして目一杯に手を振ると、それに合わせてサイリウムの一つ一つが大きく揺れた。
その景色は、このみが思い描いてたものよりも、ずっと綺麗で、ずっと暖かかった。
279 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:07:06.01 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、大勢の仲間たちとともににステージの真ん中に立っていた。
このみがちらりと後ろを見れば、そこにはまつりや莉緒が居て、二人と目が合った。
そして、両隣を見れば歩と星梨花たちが居て、ステージの上のアイドルたちみんなが、マイクを持つこのみを見つめていた。
このみは目の前の客席に居る人たちを見て、胸が音を鳴らすのを感じながら、それからそっと口を開いた。

「改めまして、私のソロ曲『dear...』を聞いていただきました。……どうだったかしら?」

客席から溢れたたくさんの音が集まって一つになって、歓声と拍手の音が劇場中に響いた。
目の前には桃色のサイリウムの波が、優しく揺れていた。
歓声はしばらく止まなかった。
このみの目の前に広がる光景が、『dear...』の最後に見た景色と重なって、このみは胸の奥が熱くなるのを感じた。
このみは胸に手を当てて、ゆっくり息をした。
少しの間のあと、このみは前を向いて、静かに話し始めた。
280 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:07:47.32 ID:Bg3Eqo0s0

「事前に知ってくれていた人もいるけれど、さっき聞いてもらった『dear...』の演出は、
 私が出演する舞台の物語を表現したものなの。
 凍える雪の中で『鶴』が青年と出会って、そして『鶴』が人間として過ごした日々……。
 それを、感じてもらえたのなら、本当にうれしいわ。」

客席にはライトが照らされていて、ステージの上からでも一人一人の顔がよく見えた。
このみが言葉を紡ぐたびに、客席のところどころでサイリウムの光が揺れるのが分かった。
281 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:08:25.33 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、自分の中の気持ちを切り替えるように、深く息を吸い込んだ。
息を吐いて、ゆっくり目を開けた。

「……私、この舞台のお話を貰ったとき、色々なことを考えたの。
 私にとって『アイドル』って何だろう、って。
 自分なりに悩んで、考えて……それで、この役を演じることを決めたの。」

このみは思い返すようにそう言った。
『自分を見つけてくれた大切なひとたちに、胸を張って前に進んでいく姿を見てほしい』。
それこそが、今のこのみが選んだ道だ。
このみにとって、『鶴』の舞台の仕事は、挑戦だった。
何もかもが手探りで、悩むことだって多かった。
それでも前を向いていられたのは、大切な人が居たからだった。
282 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:09:21.18 ID:Bg3Eqo0s0

「……私がしばらくの間アイドル活動をお休みすることは、もう、みんな聞いてるのよね。」

その問いには、客席の誰も答えられなかった。
最終ブロックが終わった今、これが最後のときなんだと、誰もが気づいていた。

「今回の公演は、アイドル馬場このみにとって大きな節目……そんな、特別な公演。
 だから、いろんなことを考えて、今こうしてこの場所に立っています。」

このみは、目の前の景色を見ながら、アイドルを始めたばかりの頃を思い返していた。
アイドル活動の中で、楽しい事や嬉しい事がたくさんあった。
そして、それ以上に、悲しかった事、悔しかった事、折れそうになった事もあった。
そんなとき勇気をくれたのは、『憧れ』だった。

でも、今の私の胸にあるのはもう、それだけじゃない。
アイドルになる以前も、アイドルになってからも……本当にたくさんのものと出逢ってきた。
今さっき歌った『dear...』もその一つ──アイドルになって初めて貰った、アイドル馬場このみの初めての曲。
その後『水中キャンディ』と出逢って、今の私には『To...』だってある。
それだけでなくて、初めてのライブの日の事も、武道館でライブした事も。
『屋根裏の道化師』も、『鶴』の舞台も……そして今のこの公演も。
出逢った全てが、今の私に繋がっている。
283 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:12:17.17 ID:Bg3Eqo0s0

『そんな私が今まで出逢ってきた全てを表現したい』
今回の公演は、それを胸に臨んだ公演だった。
だから、今この場所で伝えたい言葉はもう、決まっていた。
ずっと胸の中にひそめていた、一番大切な、かけがえのない出逢い。
それは──。

「私、この劇場が私にとって凄く大切な場所なんだって、気づいたの。
 こうして大切な仲間たちが、隣に居てくれて。
 そしていつだって、こうして大切なファンのみんなに会える。
 こんなに暖かくて、今までずっとみんなに勇気をもらってきたんだ、って。」

サイリウムの景色が力をくれたんじゃなかった。
その光の先に、応援してくれた人がいたから、今の自分がここに居るんだ。
このみは、明るく照らされた客席を抱いていた。
284 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:12:59.54 ID:Bg3Eqo0s0

「だから、今は……。」

このみは、目線が下がったのが、自分でも分かった。
このみの胸の中は、溢れる出逢いの愛しさと、それでも少しずつにじり寄ってくる別れの切なさとが、ない交ぜになったようだった。
その気持ちは、相手を大切に想っているからこそなんだと、このみは思った。

「正直、みんなと会えなくなる事が……、本当に、寂しい。」

客席の人々が、ざわついた。
その中で、このみは大切な人を探した。
若い男も、首飾りをつけた女性も、眼鏡をかけた少年も──。
彼らが、桃色の光を胸の前で抱えたままで、声を出せずにいるのを、このみはステージの上から見つけた。
その表情は、今にも泣き出してしまいそうだった。
そんな彼らを見て、丁度今の自分も彼らと同じような顔をしているんだと、このみは分かった。
285 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:13:31.17 ID:Bg3Eqo0s0

この気持ちを口にする事は、少しだけ怖かった。
今までだったら、きっとこんな言葉を言えなかった。
言葉にする事で、この先本当にずっと会えなくなってしまうような気がして、ずっと飲み込んでいたんだと思う。

「──だけど!」

だけど、もう大丈夫。
今の私は、本当に伝えたい言葉を声にする事ができるから。

「私はこの劇場の……765プロの、『アイドル』だから!」

このみは、劇場にいる全員に届くように、目一杯声を上げてそう誓った。
届けたい大切な人が、笑っていられるように。
大切な人に、自分のことを安心して送り出してもらえるように──このみは前を向いた。
286 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:13:59.56 ID:Bg3Eqo0s0

「今日よりもっとステキになった私で、いつだってこのステージに戻ってくる。」

桃色の光越しに、大切な人の顔が見える。
貴方の声は、私に届いてるよ。
これからもずっと、貴方と一緒に、歩いていくから。
胸を張って、貴方が誇れるそんな私でいるから。
だから──。

「……だから、私がまたこのステージの上に帰って来たときに……。『おかえりなさい』って、言ってくれる?」
287 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:14:45.17 ID:Bg3Eqo0s0

直後、劇場全体が揺れてしまいそうなほど、大きな歓声がこのみの耳に飛び込んできた。
桃色の光が大きく揺れて、ぱあっと目の前が明るくなった。

声が、届いた気がした。
この場所から見える景色は、何度見ても眩しくて、綺麗だった。
もしも離れたって、絶対にこの場所でまた逢えるって信じてる。
想うほどに愛しくて、この場所があるからこそ、いつだって自分がこの場所に戻ってこれるんだ、と心の底からそう思った。

「ありがとう、みんな! 今日よりステキな、最高の私を見せるから、また劇場で会いましょうね! 約束よ♪」

溢れる歓声の中で、このみはその小さな体で、目一杯大きく手を振った。
衣装の袖が揺れて、そのたびにサイリウムの波間が光った。
288 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:15:12.39 ID:Bg3Eqo0s0

また涙が零れそうになるのをこらえて、このみは笑ってみせた。
最後だからこそ、みんなで、笑って。
このみはステージの上で並び立つ、仲間たちを見た。
仲間たちと目が合って、準備はできているよと、みんなうなづいて返してくれた。

「みんなで楽しく! 最後の曲も、目一杯盛り上がりましょうね!」

このみの掛け声に合わせて、みんな一斉に声をそろえた。
劇場のアイドルたち全員で──そして、ファンのみんなも、一緒に!

『Brand New Theater!』

289 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:16:18.65 ID:Bg3Eqo0s0
***

公演を終えたアイドルたちはいま、劇場の控え室に集まっていた。
このみは一番前に立って、他のアイドルたちと向き合っていた。
今のこのみの手の中にはグラスがあって、その中には白い泡の立ったビールがなみなみと注がれていた。

「──みんながいてくれたから、こんなに素敵な公演に出来たと思ってるわ。本当にありがとう。」

このみはぐるっと部屋を見渡した。
いつもの控え室だけど、部屋いっぱいで、ぎゅうぎゅうになるくらいに、みんなが集まっている。
そんな不思議な状況を見て、さっきまでの公演は夢じゃないんだと、このみは改めて実感した。

「みんな、飲み物の準備はいいかしら? それじゃあ、かんぱーい!」

かんぱーい!というみんなの声とともに、沢山のグラスが重なる音が部屋中に響いた。
290 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:16:51.58 ID:Bg3Eqo0s0

机には簡単な食事や飲み物、菓子類が並んでいる。
定期公演の後の打ち上げは毎回恒例になっていて、今日も控え室にはこうして公演に参加した大勢のアイドルたちが集まっていた。
毎回のことではあるが、人数が人数だけに今日も控え室は満杯で、移動ですれ違うのも一苦労なほどだった。

やはり何と言っても、話題は公演のことが多かった。
特にこのみは今回センターを務めたこともあって、声をかけられっぱなしだった。

「このみちゃん、お疲れーっ! すっごく良かったよ!」

「馬場さん。センター公演、お疲れさまでした。とても素敵なステージでした。」

「海美ちゃんに、紬ちゃん。ウフフ、二人とも、ありがとう。」

落ち着いた様子の紬に対して、海美は公演のときの気持ちの高まりが今も残っていて、まだまだ元気が有り余っているようだった。
対照的な二人だが、二人ともこうして、素直な言葉で気持ちを伝えてくれる。
それが、このみにはちょっとだけ照れくさくて、嬉しかった。
291 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:17:54.26 ID:Bg3Eqo0s0

気が付けば三人の話は、『dear...』のステージの話になっていた。

「あの和服の衣装のこのみちゃん、すっごく綺麗だった! うう〜っ、私もああいう衣装、着てみたいなあ。」

海美が羨ましそうな声で、言った。

「あら、海美ちゃんならきっと似合うと思うわよ? 海美ちゃん、いつも姿勢が綺麗だもの。」

こうして立ち話をしていても、彼女の姿勢の良さがわかった。
一本の糸で天から吊られているみたいに、とよく言うが、彼女の立ち姿はまさしくその例えの通りだな、とこのみは思った。
舞台の稽古や、今日の『dear...』のときは、姿勢を意識してずっと気を張っていなければならず、本当に大変だった。
気を抜くと、すぐ猫背気味になってしまうこのみとしては、それが少し羨ましかった。
292 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:18:36.12 ID:Bg3Eqo0s0

「ええ。私もそう思います。和装の着姿の美しさは、姿勢の美しさから、とも言うくらいですから。」

「えへへ、そうかな? なんか、照れちゃうね。」

紬の言葉に、海美は頬を掻いた。
このみが思い返す限りでは、彼女がステージ衣装として和服のような落ち着いた雰囲気の衣装を着てるところは、今まで見たことがなかった。
普段の快活な彼女らしく、動きやすくて、ダンスが映えそうな衣装のイメージが強かった。
和服を着たら海美ちゃんもお人形さんみたくなっちゃうのかしら、なんてこのみは想像したりしたのだが……。

「ようし、それじゃあ、さっそくプロデューサーにお願いしてくる! このみちゃん、また後でね!」

このみが声をかける間もなく、海美はあっという間に飛んで行ってしまった。
それが少しおかしく感じて、このみはくすりと笑った。

「あら、海美ちゃん、もう行っちゃったわね……。」
293 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:19:10.60 ID:Bg3Eqo0s0

たくさんの人の波の向こうで、プロデューサーに話しかけている海美の姿が見えた。
身振り手振りを大きく使って説明している様子が微笑ましかった。
このみが紬の方に視線を戻すと、紬がじっと此方を見ていたらしく、目が合った。

「紬ちゃん?」

このみが声をかけると、ただ一言、紬が呟くように零した。

「……不思議です。」

このみは、その言葉の意味を考えたが、特段何か思い当たるようなものはなかった。
頭の上に疑問符を浮かべていると、紬が声を詰まらせながら、言う。

「いえ、その……。」

このみは紬の様子が、自分の気持ちを上手く言い表す言葉が見つからず、答えあぐねているように見えた。
294 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:19:37.26 ID:Bg3Eqo0s0

「大丈夫よ、紬ちゃん。」

このみがそう言うと、紬は少し驚いたようだった。
少しの間の後に紬は微笑んで、それからゆっくりと話し始めた。

「……今日の公演が始まる前は、馬場さんがどこか遠くに行ってしまうような、そんな気がしていました。
 ただ、今馬場さんのお顔を見たら……。なんだか、安心してしまって。」

このみは、胸の奥がきゅうとなるのが分かった。
顔に出てしまいそうになるのを抑えて、このみは答えた。

「ウフフ、そう思ってくれたなら、嬉しいわ。
 しばらくは劇場に来れなくなっちゃうけど……。また一緒に、ステージに立ちましょうね。」

「……はい。その日が来る事を、心待ちにしています。」

このみと紬は、互いに笑い合った。
少しだけくすぐったくて、なんだか心地よかった。
295 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:20:16.67 ID:Bg3Eqo0s0


二人で何でもない話をして、それからこのみは、紬と別れた。
このみが紙皿と箸を片手に歩いていると、後ろから、湿っぽく沈んだような声が聞こえてきた。

「このみ姉さん……。」

このみのことを、姉さん、と呼ぶのは、一人しかいない。
このみは息を吐いてから、自分を呼ぶ莉緒の方を振り向こうとした。
しかしそれより先に、自分の背中全体が包まれるような感覚があって、それからすぐ、腰まわりがぎゅっと締め付けられた。
このみの肩のそばに、何かが乗るような感覚があった。
このみの束ねた髪の上に、明るい茶色をした長い髪がぱらぱらと流れた。

「もう、莉緒ちゃん。急にどうしたの?」

後ろから莉緒に抱きしめられたまま、このみはそっと首だけ莉緒の方を向いて、そう言った。
返事はなかった。
髪に隠れて、莉緒の表情は見えなかった。
莉緒の腕にぎゅっと力が入ったのが、このみにはわかった。
296 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:20:43.45 ID:Bg3Eqo0s0

「莉緒ちゃん……。」

このみはどう声を掛けていいのか分からなかった。
このみが出来ることは、空いたままの手で、莉緒の手をそっと握ってあげる事くらいだった。
莉緒の指先は冷たかった。
思わずこのみは、莉緒の手をぎゅっと握った。
297 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:21:20.42 ID:Bg3Eqo0s0

あるとき、このみの手に、何か硬いものが触れた。
莉緒が手に何かを持っているのだと分かった。
それは表面が少し水で濡れていて、冷たかった。

このみはゆっくりと目線を下げて、莉緒の手の中にあるものを見た。
──それは、丁度いい塩梅に冷やされた、四合瓶の日本酒だった。

「……風花ちゃん、プロデューサーくん! このみ姉さん確保したわよ!」

「……え? ちょ、ちょっと、莉緒ちゃん!?」

気づけば、がっちりと腰を抑えられてしまっていた。
慌てて抜け出そうとこのみは抵抗を試みるが、小柄なこのみの体格ではなすすべもなかった。
ふと莉緒を見れば、顔がほんのりと紅潮していているのが分かった。
298 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:21:58.36 ID:Bg3Eqo0s0

ふと部屋を見渡せば、部屋の反対側の端のローテーブルに、風花とこのみのプロデューサーの二人が座っているのが見えた。
先ほどまで酒盛りが行われていたらしく、テーブルの上には缶のビールやらおつまみの乾きものやらが乱雑に並んでいた。
プロデューサーはアルコールは飲んでいないようだったが、風花は莉緒と同じように、既にお酒が大分入っているようだった。
風花は、このみの捕獲に成功した莉緒をたたえるように、ぱちぱちと手を叩いていた。

風花に助けを求めることを早々に諦めたこのみは、一縷の望みをかけて、その隣に座っているプロデューサーの方を見た。
すると、このみのプロデューサーは、このみと目が合ったことに気づいて、グラスを持つ手を止めた。
そして、彼はこのみに向かって、会場は此処ですよと言わんばかりに大きく手を振った。
それを見て、このみは思わず彼に、そうじゃないでしょ、とツッコみそうになる。
しかし、彼が手を振りながら、子どもみたいに楽しそうな笑顔を浮かべるので、このみはなんだか気抜けしてしまった。
このみは、もうこの運命から逃れられないのだなと悟って、そっと笑った。
結局、このみはその体勢のままで、莉緒にテーブルまで連行されたのだった。
299 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:22:25.23 ID:Bg3Eqo0s0

「風花ちゃーん、このみ姉さん捕まえてきたわよー。」

「わー。」

莉緒と風花の二人が、そんな締まりのないやり取りをする。
テーブルでは、このみが莉緒に連れられている間に、このみを出迎える準備が行われていたらしかった。
空いた缶やおつまみの袋が脇に固められていて、今は御猪口が3つだけテーブルの真ん中に並んでいる。
プロデューサーは、莉緒から日本酒を受け取って、ゆっくり御猪口に注いでいく。
そして、このみ、莉緒、風花の順で、御猪口を手渡した。
300 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:23:34.84 ID:Bg3Eqo0s0

「あら。もしかして、プロデューサーは飲まないの?」

「ええ、まあ。……だから、俺はこれで。」

彼は水の入ったコップを少しだけ持ち上げた。

「プロデューサーくん、だめよ。そんなんじゃ全然雰囲気がでないじゃない。」

「そう言われてもな……。」

そんな彼の返事をよそに、莉緒は傍にある棚から新しい御猪口を出してくる。
莉緒と風花の二人が、彼にあの手この手で御猪口を握らせようとするのを、このみは横で見ていた。
301 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:24:03.59 ID:Bg3Eqo0s0

今もそうであるが、公演の打ち上げのとき、彼は時々こうしてお酒を控えることがあった。
そして、そういう時に限ってこのみたちの誰かが酔い潰れたりして、結局プロデューサーに車で送ってもらうことになる、なんて事もよくあった。
このみは、彼がお酒を飲まないときは、自分達が安心をして、それで飲みすぎてしまうのだろうと思っていた。
けれど、二人の手の内をのらりくらりと躱し続ける彼を見て、このみはきっとそれだけじゃないのだと直感した。
彼は何も言わないけど、彼がこうしてお酒を飲もうとしないのはきっと、今日くらいは思いっきり羽目を外しても大丈夫、という彼なりの優しさなんだ、と。

その彼の気遣いが、このみはちょっぴり嬉しかった。
ただ、自分たち3人が御猪口で日本酒を飲みかわすのに、彼だけグラスで水を、というのは少し気が引けた。
どこか、彼を置いて行ってしまうような気がして、嫌だった。
とはいえ、これ以上無理に勧めることも、彼の好意を無下にしてしまう。
このみは、行き違う二つの気持ちの間で、どうすべきなのかと思いをめぐらした。
302 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:24:55.35 ID:Bg3Eqo0s0

ふと彼の方を向いたとき、ミネラルウォーターのペットボトルが目に入った。
それを見て、このみは閃いた。

「ねえ、莉緒ちゃん。その御猪口貸してくれる?」

「……? 姉さん、どうかしたの?」

莉緒はぴたりと手を止めた。
疑問符を浮かべながらも、莉緒はそのままこのみに御猪口を渡した。
このみは、彼を見た。
そして、このみはプロデューサーの手を取って、その手に御猪口を握らせた。

当のこのみがそうするとは、彼も露程にも思わなかったようだった。
彼は目を丸くしながら、なされるがままに御猪口を受け取ってしまった。

「このみさん……?」
303 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:25:31.04 ID:Bg3Eqo0s0

思わず、彼はそう言葉を漏らした。
彼は、今のこの状況を掴めないといったふうに、自分の手に握られた御猪口とこのみを、交互に見た。
それから風花が、このみさんからだったら受け取るんですね、と小さく零したところで、彼ははたと我に返った。
すっかり拗ねてしまった風花を彼がなだめすかしている間に、このみは目一杯ぴんと腕を伸ばして、テーブルの奥にあるミネラルウォーターを手に取った。
このみは小さく息を吐いてから、ペットボトルの蓋を開けながら彼に言った。

「ねえ、プロデューサー。これなら大丈夫。でしょ?」
304 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:26:13.10 ID:Bg3Eqo0s0

彼と風花は、そこで問答を止めて、二人一緒にこのみを見た。
彼は驚きながらも、ようやく合点がいったという様子だった。
このみは、彼の御猪口にミネラルウォーターを注いでいく。
例え水でも、こうして御猪口の中に注いでしまえば、日本酒とそれほど区別がつかない。
彼が手の中で御猪口を軽く揺らすのを見て、莉緒も風花も、おお、と声を漏らした。

「あっ。これなら、みんなで乾杯できますね。」

風花は、いつの間にか拗ねモードから戻ってきていたらしかった。

「このみさん。ありがとうございます。」

「あら、いいのよ。私もプロデューサーと一緒に、乾杯したかったもの。」
305 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:26:43.80 ID:Bg3Eqo0s0

これではれて、全員分の飲み物の準備ができた。
全員が自分の御猪口を持ったところで、莉緒がこのみたちをぐるっと見回した。
冗談めかして、こほん、と咳ばらいをするふりをしてから、莉緒は話し出した。

このみは思い返す。
公演のたびに、こうしてお酒で乾杯した。
明日から少しの間、劇場から離れてしまうけれど、それも私が選んだ道だ。

「──このみ姉さんのセンター公演の成功を祝して。そして、姉さんの舞台の成功を祈って……。」

こうして、背中を押してくれる人がいてくれるから、きっと私は踏み出せたんだ。
だから今日は、目一杯楽しもう。
これからもみんなと一緒に、私が進んでいくために!

「かんぱーい!」
306 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:27:09.99 ID:Bg3Eqo0s0

朝方の厳しかった冷え込みもいつしか緩やかになっていて、また一つ季節がめぐり始めた。
三月の半ばの、とある日曜日。
今日の日もまた、光と音が劇場中に響き渡っていた。
観客席に居る、多くの劇場のファンたちが、光り輝くアイドルたちのステージを目撃していた。

今日の定期公演は、少しずつ暖かくなってきたこの頃らしく、「花」がテーマになっている。
劇場という一つの場所に溢れるたくさんの声や光たちを浴びて、アイドル達は成長していく。
それぞれが自分だけの色の花を咲かせて、みんなで一つの大きな花束になって、様々な想いをのせて大切な人へ届けよう。
そんな意味が込められている。
307 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:27:40.07 ID:Bg3Eqo0s0

この日は、このみの復帰後初めての公演だった。
久々に腕を通したステージ衣装だったが、不思議と体に馴染んで、心が躍ったのがこのみ自身にもよくわかった。
『ピーチフルール』という名前の付いたこの衣装は、桃色が基調となったドレス調のステージ衣装だ。
このみがアイドル活動にようやく慣れてきたという頃に出逢った、初めての自分だけの衣装だった。
可愛らしい甘さだけではない、ちょっぴりビターな大人の乙女心を表すように、衣装の各所には臙脂色の地やリボンがアクセントとして差し込まれている。
右腕や左脚にはそれぞれ長めのリボンが巻かれていて、このみにはそれが衣装に包み込まれているみたいで、どこか心地がよかった。
衣装の後ろ側、腰のあたりにはひときわ大きなリボンが結ばれていて、それは大切な人へ贈るプレゼントを思わせるようだった。

この衣装なら、普段なら気恥ずかしくて言えない言葉でも、ステージを通してなら届けられそうに思えて、このみは気に入っていた。
今回の公演のテーマをこのみが聞いたとき、真っ先に思い浮かんだのが、この『ピーチフルール』だった。
308 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:28:26.94 ID:Bg3Eqo0s0

公演は、もう中盤に差し掛かっていた。
このみは、『永遠の花』のステージを終えて、風花と桃子の二人と共に舞台袖に戻ってきていた。
このみたち三人は、武道館公演の以後も、ユニット『ジェミニ』として時折この曲を歌ってきた。

この曲は、永遠の愛を花言葉に持つ桔梗の花にのせて、愛する恋人との別れと再会を綴った、恋の歌だ。
二人が遠く離れていても、お互いを想い信じあう気持ちが、ずっと変わらずそこにあった。
長い夜でさえ、愛を育てる──本当に素敵な詞だと感じて、このみは胸の奥の方が熱くなるのが分かった。
309 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:28:52.83 ID:Bg3Eqo0s0

すぐ後に別の曲を控えている風花と別れて、このみは桃子と二人で椅子に座った。
多くのステージライトに照らされ熱を持つステージの上とは対照的で、この辺りはひんやりとしていた。
ペットボトルの水を飲んで、そっと呼吸を整えた。
このみが深呼吸をする度に、目の中にステージから見えた景色が浮かんだ。
まるで白昼夢を見てるような、そんな夢のような世界だった。
けれど、ふと隣を見ればそこには、確かに同じステージを共有した仲間がいた。
このみと桃子は、二人して目を合わせた。
二人とも、考えていたことは同じらしかった。
ちかちかする視界の中で、たった数分前にあの光と音の溢れるステージの上に、一緒に立っていたんだと、このみは実感した。
しばらくの間、お互い言葉は交わさなかった。
同じステージに立った仲間が隣に居て、すぐ横で同じ眩しい景色を想起する──。
ステージを終えた後のこの瞬間も、このみは好きだった。
310 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:29:27.16 ID:Bg3Eqo0s0

このみが気づくと、あれほど鳴っていた胸の鼓動ももう収まっていた。
このみが桃子を見ると、やはり目が合って、それがおかしくて二人で笑った。

「桃子ちゃん。一緒に歌ってくれて、ありがとう。」

ひとしきり笑った後に、このみは桃子の顔を見てそう言った。
アイドルとして戻ってきて初めての公演で、またジェミニの三人でこの曲を歌えたことが、本当に嬉しかった。
それは、自分の中から、自然に出てきた言葉だった。
311 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:29:54.04 ID:Bg3Eqo0s0

このみの言葉を聞いて、桃子は照れくさそうにしながら、それを隠すみたいにタオルで頬の汗を拭いた。

「桃子も、このみさんと歌えて楽しかったよ。……これからもまた、沢山歌いたいな。」

このみは、目の前のモニタを見た。
そこには現在のステージの上の様子が写っていて、観客席には様々な色の光たちが揺れていた。

「それならきっと、大丈夫よ。これからも、何度だって、一緒に歌えるわよ。」

このみは、昔も今も変わらず、劇場のアイドルだ。
未来はどうなるか分からないけれど、きっと、これからも。
私が──私たちが、劇場のステージに立ち続ける限り、きっとこの光の波がそばにいてくれる。
それだけでもう、大丈夫だって信じられた。
312 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:30:28.22 ID:Bg3Eqo0s0

このみは、プロデューサーと共に、上手側の舞台袖に居た。
この場所からは、袖幕の向こう側に、ステージがよく見えた。
隣に居た彼が、このみの手を握って、そっとあるものを手渡した。
それは、一つのブローチだった。

このみの手の中で、銀色の花弁が重なり合うように咲いていた。
花の傍には、まるで枝に果実をつけたみたいに、小さな玉が一つ添えられている。
その玉は、袖幕の隙間から射し込むステージライトの光を浴びて、白く光っていた。
313 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:31:17.95 ID:Bg3Eqo0s0

手で陰を作ると、その玉はもとの色を取りもどした。
それは、何色にも染まっていない、どこまでも透明なガラス玉だった。
それから、このみはその何の変哲もないガラス玉にそっと指先で触れた。
指先の感覚は今までと変わらず同じままで、ただ愛おしかった。

このガラス玉は、このみがステージ衣装としてずっと昔から身につけていた、ブレスレットに付いていたものだ。

以前使っていたそのブレスレットは、装飾を固定する留め具の部分が内側で折れてしまっていたらしかった。
常にダンスで体を大きく動かすステージの上で、いつ装飾が外れてしまうか分からないアクセサリを着けるわけにはいかない。
詰まるところ、そのブレスレットとはもう、お別れだった。

このみは、先のセンター公演が終演した後、気づけばブレスレットを握って、駆けだしていた。
美咲とプロデューサーのもとへ、息を切らして走った。
手放してしまう事なんて、できなかった。

今このみが手にしているブローチは、そのブレスレットの装飾から、美咲が手作りしたものだった。
アクセサリのハンドメイドは不慣れだと美咲は言っていたが、実際に完成したものを見て本当に驚いたのを、このみは覚えている。
まるでずっと前から持っていたみたいに、手に良く馴染んだ。
314 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:31:45.42 ID:Bg3Eqo0s0
「このみさん。ブローチを着けてみてくれますか?」

ブローチは、衣装に穴が開いたりしないように、クリップで着けられるようになっている。
このみは左胸に手をやって、衣装の生地の境目にある隙間に、そっと留めた。

「どうかしら?」

このみは、腕を後ろに回して、そう言った。
彼はこのみをじいっと見た。
それから、彼は優しい目をして、そっと微笑んだ。

「やっぱり、このみさんは素敵ですね。……ほら、見てください。」

彼は、すぐ近くの机の上にあった鏡を示した。
どういう意味だろうとこのみは思いつつも、彼に促されて鏡を覗き込んだ。

そこには、胸を張った自分が映っていた。
左胸に着けたブローチが、まるで勲章みたいにきらりと光った。
叶えたい願いに向かって、ここまで一歩ずつでも前へと進んできた。
そんな自分が誇らしく思えた。
315 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:32:11.65 ID:Bg3Eqo0s0

次のこのみの出番が、近づいていた。
このみは、また後でね、と彼に手を振って、待機場所へと向かった。

待機場所は、下手側と同じように、衝立と幕で簡単に区切られていて、長机と椅子が所狭しと並んでいた。
机の上にあった鏡にブローチが映るのを見て、このみはそっと微笑んだ。

316 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:32:42.91 ID:Bg3Eqo0s0

辺りが暗転するとともに、このみはステージへと飛び出していった。
客席には、前の曲の余韻が残っていて、青いサイリウムの色が海みたいにきれいだった。

このみは、ステージの真ん中で足を止めた。
舞台の仕事でアイドル活動を休止する直前、鶴の姿で『dear...』を歌ったときから、
復帰後初めての公演で歌う曲はこの曲だと決めていた。
『dear...』と同じ、恋の歌。
大切な貴方へ、届けたい気持ちをのせて。

耳元から、秒読みが聞こえてきた。
鼓動が胸の奥で音を立てるのがわかった。
このみは、息を吸い込んだ。
317 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:33:22.69 ID:Bg3Eqo0s0

『ねぇ、甘えてみてもいい?
 この恋が本当だと伝えてみたいの』

たくさんの温かなステージライトが、このみを照らした。
サイリウムの色が段々と変わって、客席は鮮やかな桃色へと染まっていく。
詞を紡ぐたびに、桃色の光は優しく揺れた。

『優しく ギュッと抱きしめて──』

このみが前に手を伸ばすと、腕の先にサイリウムの景色があった。
そしてその向こう側には、このみのステージを見つめるファンたちの顔が見えた。
このみの指先と、桃色の光が重なった。
腕に巻いた赤いリボンが目に入って、まるでこのみの指先から届けたい相手まで、線が伸びて繋がったみたいだった。
このみはもう、ひとりでステージに立っているわけではなかった。

やっと見つけた私の新しい場所で、新しい歌を、大切な貴方に届けよう。
私が誇れる、大切な貴方に。貴方が誇れる、最高の私で──。
きっとこれが、『アイドル』馬場このみの──私の、恋焦がれた夢なんだ。
318 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:34:07.78 ID:Bg3Eqo0s0

初めて触れたあの日から、冬を超えて、季節はまた一つ巡っていく。
袖に降り積もった雪はいつしか融けて、その雫はやがて、温かなこの場所で、ひとつの蕾となった。
『いつの日か、花芽吹く春の日を、待っている』
──春の足音が、聞こえた気がした。
319 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/12(金) 01:49:16.35 ID:Bg3Eqo0s0
以上になります。

ここまで読んでくださった方の中には、このSSが「白き鶴の如く 馬場このみ」の物語だと気づいてくださった方もいるかもしれません。
作中では、カードが実装された2019年2月11日までの日々と、それから少し未来、2019年3月中旬が舞台となります。

このSSで描かれたさらに先、2019年6月には、彼女は「White Vows」と「Flyers!!!」を歌うことになります。
『鶴』の舞台にまつわる一連の物語は、それら二つの物語への架け橋になったのではと思います。
このSSが「白き鶴の如く 馬場このみ」の彼女を、そして「White Vows」などさらに前へと進んだ彼女を知っていただくきっかけになれば、幸いです。

2019年の誕生日SSのつもりだったはずが、勢いあまって2020年の誕生日SSになってしまいました。
改めまして、このみさん誕生日おめでとうございます。
胸を張って前に進んでいく、そんなあなたが大好きです。
320 : ◆NdBxVzEDf6 [sage]:2020/06/12(金) 02:35:39.47 ID:oyXVuVPy0
あのSSRのバックになる感じの話か。いいね
完結乙です

馬場このみ(24) Da/An
http://i.imgur.com/0EbF5yd.png
http://i.imgur.com/od0jmJz.png
http://i.imgur.com/tjMLGWy.png
http://i.imgur.com/4qlxiq4.png
http://i.imgur.com/kKyGK5J.jpg
http://i.imgur.com/aVmyUY2.jpg
http://i.imgur.com/OT60pMH.jpg
http://i.imgur.com/bFLSaQE.png

>>8
徳川まつり(19) Vi/Pr
http://i.imgur.com/jF2U9al.jpg
http://i.imgur.com/MmKj0xC.jpg

>>34
周防桃子(11) Vi/Fa
http://i.imgur.com/CooNiNb.png
http://i.imgur.com/l092RvK.png

>>51
双海亜美(13) Vi/An
http://i.imgur.com/zVrP53o.png
http://i.imgur.com/2Q6BK1H.png

双海真美(13) Vi/An
http://i.imgur.com/NKAw25d.png
http://i.imgur.com/rvAYWD3.jpg

大神環(12) Da/An
http://i.imgur.com/l1pgkgA.jpg
http://i.imgur.com/5fO8UEL.png

永吉昴(15) Da/Fa
http://i.imgur.com/bXEXM9Z.jpg
http://i.imgur.com/YfOTtPm.jpg

>>111
我那覇響(16) Da/Pr
http://i.imgur.com/kwEILUu.png
http://i.imgur.com/JtaQwbi.jpg

>>112
横山奈緒(17) Da/Pr
http://i.imgur.com/cbqH9l7.jpg
http://i.imgur.com/kdQ6Ovr.jpg

桜守歌織(23) An
http://i.imgur.com/ah2Judv.png
http://i.imgur.com/uY43y7B.png

矢吹可奈(14) Vo/Pr
http://i.imgur.com/vEwpftW.png
http://i.imgur.com/f9tzegn.png

>>114
如月千早(16) Vo/Fa
http://i.imgur.com/pKTzdjr.png
http://i.imgur.com/fRks4gt.png

>>117
高坂海美(16) Da/Pr
http://i.imgur.com/xnXzR1B.png
http://i.imgur.com/DgsdBXK.png

>>119
田中琴葉(18) Vo/Pr
http://i.imgur.com/a3D4Vhg.png
http://i.imgur.com/g3YeCOV.png

宮尾美也(17) Vi/An
http://i.imgur.com/jF3bceI.jpg
http://i.imgur.com/AfIU168.jpg

>>127
百瀬莉緒(23) Da/Fa
http://i.imgur.com/NsPPtF8.jpg
http://i.imgur.com/ecgYupL.png

>>128
ロコ(15) Vi/Fa
http://i.imgur.com/zbhE4XZ.png
http://i.imgur.com/6vr5piz.jpg
321 : ◆NdBxVzEDf6 [sage]:2020/06/12(金) 02:36:12.47 ID:oyXVuVPy0
>>147
秋月律子(19) Vi/Fa
http://i.imgur.com/Sa3GLml.jpg
http://i.imgur.com/UFGcgDL.jpg

真壁瑞希(17) Da/Fa
http://i.imgur.com/T5y34Mg.png
http://i.imgur.com/OvVaEMk.png

>>152
青羽美咲(20) Ex
http://i.imgur.com/N78dpoq.png

>>223
天海春香(17) Vo/Pr
http://i.imgur.com/QxZ8oYE.jpg
http://i.imgur.com/iWL3wyB.jpg

>>247
高山紗代子(17) Vo/Pr
http://i.imgur.com/WyJRN38.png
http://i.imgur.com/quFjcTm.png

ジュリア(16) Vo/Fa
http://i.imgur.com/AC10XEb.png
http://i.imgur.com/pTQNoec.png

>>248
北上麗花(20) Da/An
http://i.imgur.com/25q1hIF.png
http://i.imgur.com/tOz74dv.jpg

>>290
白石紬(17) Fa
http://i.imgur.com/6M8RxhB.png
http://i.imgur.com/i0nNBgL.png

>>299
豊川風花(22) Vi/An
http://i.imgur.com/zCaMwdo.jpg
http://i.imgur.com/ImKMsxU.png

>>93
『Thank You!』
http://www.youtube.com/watch?v=KaOo73W_GS8

>>236
『瞳の中のシリウス』
http://www.youtube.com/watch?v=gYqafFcSHkU

>>247
『待ちぼうけのLacrima』
https://youtu.be/A5PquQG5UA8?t=122

>>263
『dear...』
http://youtu.be/Vc8Nlerv5iE?t=68

>>282
『水中キャンディ』
http://youtu.be/sWU-PSuRAC8?t=86

『To...』
http://www.youtube.com/watch?v=7I0r3vY2F4Q

>>288
『Brand New Theater!』
http://www.youtube.com/watch?v=2ELtcG7sRCU

>>308
『永遠の花』
http://youtu.be/N_4k46Azyek?t=107

>>319
『White Vows』
http://youtu.be/Frh5-k6SvVI?t=214

『Flyers!!!』
http://www.youtube.com/watch?v=Frh5-k6SvVI
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