【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』

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8 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:48:03.76 ID:aN661FRYo
「はいほー!なのです。」

事務室のドアが開く音がしたと思えば、直後に特徴的な声が聞こえてきた。
談話スペースの奥側に座るこのみにはパーテーションが死角となり直接見ることはできないのだが、声の主が誰であるかは特段迷うこともなかった。

「まつりちゃんね、おはよう。」
9 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:48:52.99 ID:aN661FRYo
このみは当人を確認するために腰を浮かし背中を伸ばした。
……のだが、思いのほか死角が大きいようだった。
ローテーブルに軽く手をつくようにして前のめりになり、それでも姿が確認できなかったため、さらにもう少しもう少しと。
体重を前に移すたび存外つらい体勢となっていく。

ふくらはぎから嫌な音が聞こえてくる前に、その場から数歩動いて死角から脱出したほうが建設的だと判断したのだが、
自身の身体を無理なく定位置に戻す方法がすぐに思い当たらず、結局その不思議な体勢のまま声の主と目が合うことになってしまった。

「このみちゃん。……えっと。それはエクササイズか何か、なのです?」

このみは何事もなかったかのようにソファーに座り直したかったのだが、その前に至極全うな疑問が飛んできたので諦めてしばらくの間弁明をした。
10 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:50:59.36 ID:aN661FRYo
まつりは撮影の仕事を終え、劇場へ今しがた戻ってきたとのことだった。
小脇に抱えた小さな荷物を置き、慣れた手つきで自分の飲み物を準備して談話スペースに戻ってきた。

先ほどのこともあり、まつりが戻ってきたころにはこのみの集中は完全に途切れ、反動でローテーブルに突っ伏すような状態になっていた。

「その体勢は、レディとしてどうなのです?」

「レディにも色々あるのよ……。色々と……。」

11 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:52:25.59 ID:aN661FRYo
このみは、はぁ……、とため息とも返事ともつかない微妙な声を上げつつ、
ちょうど目の前の位置にあった件の資料の束を、まるで紙の感触を確かめるようにそっと指先で転がした。

「『鶴の恩返し』って、悲しいお話よね……。」

このみはテーブルに体を預けたまま、そう声を漏らした。
彼女の目は相変わらず資料に向けられたままであったが、どこか別の場所を見ているようにもみえた。

「ほ?どうしたのです?」

そのこのみの様子を見かねて、まつりはそう尋ねた。
12 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:53:25.23 ID:aN661FRYo
「ええ、実はね……。」

このみはそう言って身体を起こした。
まつりといえば765プロでも演技に定評のあるうちのひとりだ。
自身のプロフィールにも特技として記載するほどであるし、「屋根裏の道化師」でも共演している。
このみの言葉は口をついて出たというのが本当のところだが、実際相談する相手としても申し分ないだろう。


静かに降りゆく冷たい雪の中で、青年が白い息を吐き指を赤く腫らして、それでも助けてくれたこと。
鶴が青年の家を訪れたとき、初対面である「娘」も温かく迎えてくれたこと。
たった戸一枚分の距離でさえ、遠く離れているように感じてしまっていたこと。
そして、娘が青年に最後に伝えたことも。
自身でも一つ一つ咀嚼しながら、このみは劇中の物語をつぶさに伝えた。
13 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/16(日) 20:55:48.73 ID:aN661FRYo
物語を深く知れば知るほどに、このみはやりきれない切なさを感じてしまっていた。
娘にとって、自身が秘密を抱えたままでいること、そして大事な人に自身の本当の姿を知ってもらえないということは、なにより辛いことだったのだろう。
この選択が正しかったのかなんて、鶴自身もわかっていないのかもしれない。
別れを選んだ鶴は、雪の積もった山の奥で、人知れず涙を流すのだろうか。
それでも辛い選択をしたのは、きっとそれを選ぶほかなかったのだろう。

「お互いに思いあっていても、離れなきゃいけないなんて……。でも、仕方ないことなのよね……。」

グラスの中の氷が、からんと音を立て、結露の粒が下へ流れていった。
14 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:27:18.49 ID:+aWMwZWyo
少しだけ間が空いて、それからまつりはゆっくりと口を開いた。

「……鶴さんはまじめで、人のことを大切にできて、それでちょっぴり臆病さんなんだって、姫は思うのです。」

「姫だったら。その大切な人と逃げちゃうのです。雪が降る道をふたり、えすけーぷ!なのです。」

まつりは、真っ直ぐにそう答えた。
普段のふわふわとしたまつりと変わらない口調だが、その目には芯の強さのようなものが垣間見えた。
15 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:28:04.75 ID:+aWMwZWyo
一方のこのみは、その言葉を受け入れるまでに幾らかの時間を要していた。
確かに、まつりの言う通りである。
もしも娘が竹から生まれていたのなら、青年と離れたくなかったとしても、迎えに来た月の都の使いには従わざるを得なかっただろう。
しかし、娘はそうではないのだ。
たとえ鶴の世界へ戻れなくなったとしても、眩しいヒトの世界で生きる道もあるかもしれない。
しかし───。
16 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:29:33.56 ID:+aWMwZWyo
「で、でも。それだと、迷惑になっちゃわないかしら……。」

このみはまるで自身のことのように思考を思い巡らせ、そう尋ねた。

娘にとって青年は、運命的な出会いを忘れられずに、もう一度手を伸ばした相手である。
一方で、青年にとって自身は、吹雪の夜で道に迷ったために訪れた娘でしかない。
想いを隠し布を織る娘にとって、その差は何よりも重くのしかかった。
だからこそ娘は想いを隠し布を織るのに、また負担を掛けてしまうことにならないだろうか?
17 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:30:34.14 ID:+aWMwZWyo
まつりは自分のグラスの縁を指でそっと撫でながら、静かに口を開いた。

「きっと、大丈夫なのです。」

「好きなひとがひとりで悩んでいたら、力になりたい、と思うものなのですよ。」

あっ……、とこのみの声が漏れた。
本当は、娘は青年からの好意には薄々気がついていたのだ。
ただ、抱えた秘密ゆえ、気づかぬうちに自分から遠ざけてしまっていたのだ。
もし「受け止めてほしい」と、言えたのなら…………。
18 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:32:25.37 ID:+aWMwZWyo
娘が最後に打ち明けるまで、結局青年は部屋の戸を開けて秘密を覗くことはしなかった。
青年も、彼女の抱えた秘密を大事にしたかった。

「私が青年だったなら……。」

「一人で抱えてほしくない。頼ってほしい。やっぱりそう思うと思う。けど……。」

娘が自分に言えない隠し事をしていたから、きっと青年も言えなかったんだろう。
結局二人とも、相手に余計な荷物、負担をかけさせたくなかっただけなのだ。

「二人とも、似た者同士、だったのかもね……。」
19 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/06/23(日) 22:33:36.48 ID:+aWMwZWyo
それからしばらくの間、このみは物語を読み返した。
二人の出会いも、二人のすれ違いも、そして二人の別れも。

今ならば、以前より娘に近づけるように感じられた。

「ありがとう、まつりちゃん。少しずつこの子のことが分かってきた気がするの。」

「姫は、ただ思ったことを言ってみただけなのです。このみちゃんの演技、とっても楽しみにしてるのですよ?」
20 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/07(日) 23:08:11.10 ID:2s7Ltdwho
***

午後2時を回った頃、このみはレッスン室にいた。
主にダンスレッスンで使われたりする部屋だが、それに限らず空いている時には多目的に使えるようになっている。
部屋の窓に面したある壁面には、板張りの床から白い天井まで、部屋の全体が映るほど大きな鏡が据え付けられている。
ただし、このみ一人で使うには少々持て余すだろう。
このみは端にいくつか寄せられていたキャスター式の鏡を持ち出し、台本を片手にその鏡の前に立っていた。
21 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/07(日) 23:09:06.00 ID:2s7Ltdwho

『もう行かなくちゃ。……本当の姿を知られてしまったら、私はもう此処には居られないの……。』

『ずっと言えなくて、ごめんなさい。……今まで、ありがとう。』

外へと続く引き戸を開けた娘が、青年に背を向けたまま言葉を紡ぐ場面。
降りしきる雪と鋭く差す冷たい風に冷えてしまわぬようにと、身体の前で腕を抱えたまま、娘は雪の上へと歩いていく──。

普段なら十分上出来だと自分に言えそうなのに、今はまだどこか大事なものが抜けているような気がしてならなかった。
幾度も試してみるものの、結局自身が満足する結果には辿り着けなかった。
22 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/07(日) 23:10:14.30 ID:2s7Ltdwho
二人の関係性については理解が進んだが、当初引っかかっていた部分が解消されたわけではないのだ。
あともう少しで掴めるかもしれない、という感覚はあるのだが、一向にその先が見えてこなかった。

「……こういうときは、原点に立ち返って考えろ、よね。」

これはこのみが前職に就いていた頃に特に身についた思考法のひとつで、環境が変わってもしばしばこの考え方に助けられてきた。
何しろ単調で代わり映えのしない事務処理を行っていると、どうしても計算が合わないような箇所が出てくることもあった。
もちろんそれより前の段階のどこかで間違いをしているのが原因なのだが、それを膨大な情報量から探し出すのは相当骨が折れるものだ。
焦って闇雲に問題の箇所を探してもたいていいい結果はでない上、たとえそれが特定できたとしても間違いを減らすこと自体には繋がらない。
そんなときはまず落ち着いて、そもそも「始めに何をしたかったのか」を頭の中で整理してから事を始める、というアプローチが非常に有用であった。

「……私は、……。」

上手く言葉が出てこなかった。
わかっているつもりではあった。しかしそれを言葉の形にできるかは別なのだ。
23 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/07(日) 23:14:10.33 ID:2s7Ltdwho
であるならばさらに前へとさかのぼる必要があるだろうとこのみは考え、開いていた資料を閉じて少しずつ因果の糸をたどっていく。
そして最後に行きついた場所はあの「屋根裏の道化師」の「シンシア」であった。
仕事の幅という意味だけでなく、このみ自身の経験としても大きく変化があった作品だと言えるだろう。
あの時は、どういう風に役と向き合っていただろうか?

思えば、この「娘」の話も「屋根裏の道化師」がきっかけで声を掛けてもらったんだった。
自身の本業はアイドルであり、演技を専門とするような女優には単純な技術や表現力では遠く及ばない。
ならきっと他に理由があるはずだ。
「娘」の役は、「シンシア」と特段共通点があるわけではない、ようには思うけれど……。
24 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 05:55:00.61 ID:6Cl8Fzkmo
事務室の中でも目を引くほど大きなガラス戸のついた書棚には、劇場のアイドル一人一人の営業用の資料をはじめとして、劇場内外の活動を納めた書類や写真、映像資料などが納められている。
劇場ができたばかりの時はまだ殆どものが納められていなかったが、劇場のアイドルたちが活躍して少しずつ棚が埋まっていくたびに、頻繁に部屋に出入りするこのみとして、嬉しく感じていた。

このみはそんな書棚から慣れた手つきで、棚の最下段にあったケースを取り出した。
ケースは透明で、ディスクの表面は真っ白で、黒の油性ペンでタイトルだけが記されていた。
25 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 05:55:43.47 ID:6Cl8Fzkmo
青羽美咲もプロデューサーも戻ってくるのは16時以降になると聞いていたため、特段気がねすることはないだろう。
事務室内にはテレビを見るためのスペースもあり、そこでみることにした。
ここはアイドルが番組に出演するたびにソファが埋まるほどの盛況となったりもする。
まあ、アイドルだけで52人もいるのだから、溢れてしまうのも仕方のないことではあるのだが。
このみはテレビ台をあけ、再生機兼レコーダーの電源を入れた。
26 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 05:56:39.74 ID:6Cl8Fzkmo

「えっと、イジェクトは……っと。」

実のところこのみがこの再生機を使うのは初めてなのだ。
と言っても、このみがこの手の機器に疎いというわけではない。
元々使っていたものが前々から怪しい挙動をしていたのだが、つい先日とうとう完全に動かなくなってしまったのだった。
仕事上映像ディスクが読めないというのは大問題だ、ということで新しくやってきたのがいまの再生機というわけである。
27 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 05:59:37.35 ID:6Cl8Fzkmo
実は高木社長が「撮りためていたアイドル諸君の録画が……。」と数日間嘆いていたが、実は日頃からバックアップを欠かさなかった小鳥や美咲、律子たちのおかげで事なきを得ていたり。
あるいは、自前で劇場を持てたといってもやはり765プロは765プロということで、財政面的な兼ね合いから、
棚の目立たないところに置かれているゲーム機の再生機能でしばらく代用する手もあるという話が出て765プロゲーム部のアイドル達とひと悶着あったとかなかったとか。
28 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 06:00:03.38 ID:6Cl8Fzkmo

少しだけ手間取りながら、このみは再生の準備を終えた。
再生ボタンを押しそうになるが、少しだけ踏みとどまって目的を確認する。

シンシアを演じたとき、どういう気持ちで演じていたのだったか?
そして、この役を経た馬場このみの演技として、何を求められているのか?

このみは、自身の心の中で繰り返した。
言葉にするとなにやら改まった心持ちで、これから見る物語もまるで初めてみるもののような気がした。
このみは不思議な緊張を感じながら、リモコンのボタンを押した。
29 :抜けがありました ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/07/15(月) 06:00:47.34 ID:6Cl8Fzkmo
>>23>>24の間

一般にはまだ未発売だが、特典部分の事務所チェック用のサンプルが以前届いていたはずだ。
このまま考えていても、何か大きなものが得られるとは考えにくい。
このみは「屋根裏の道化師」の映像を見返すことを決め、事務室へと戻ることにした。
30 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/03(土) 01:33:56.89 ID:GHTuQabuo
由緒ある劇場で、ある作品が発端となり起こった凄惨な殺人事件。
そして、事件により浮き上がる、登場人物たちの息遣い。
「屋根裏の道化師」は、とりわけ繊細な表現を要求される作品であった。

『コレット!良かった……。大丈夫だった?……ひどいこと言われたりしなかったわよね?』

『大丈夫です、シンシアさん。お気遣いありがとうございます。でも、すみません。少し、気分が……。』

『……無理もないわ。あんなことがあった上に、犯人だって疑われたんだもの……。』

物語の幕開けとなった殺人事件の関与を疑われた、劇場の新人女優コレットが取り調べから戻ってきた場面。
この場面含め、シンシアは比較的他の女優たちよりもコレットを気にかけることが多かったはずだ。
複雑で入り乱れた人間関係の中には劇中で明かされていない過去も多くあり、それらを経た登場人物たちの微妙な感情の機微を演じることの難しさは相当のものだった。
31 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/03(土) 01:34:42.75 ID:GHTuQabuo
一方で、このみは当時を振り返って、それほど演技に悩んだりすることはなかったように感じた。
今の「娘」役ほど役の理解に時間を充てていたわけではなかった、というのはあるが、
その時間分だけ、共演する他の子の様子をみていたように思う。

役に対する向き合い方・関わり合いはその子それぞれで、
比較的ドライに出来てしまう子もいれば、側から見てすこし心配になる程に深く深く自身を落とし込む子もいた。
演技に関してはそれほど経験がある訳ではないために、それらが望ましい関わり合い方なのかは分からなかった。
ただ、少しでもみんなの力になりたいと思った。
全体練習の時間はもちろん、それは他の仕事であったり、あるいはアイドルとしてのレッスンでも。
できることは多くはなかったけれど、それでも出来る限りいろいろな事をしてきたと思う。
32 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/03(土) 01:37:57.95 ID:GHTuQabuo
このみは当時の自分を分析して、気が付いたことがある。
「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置入り込めていたのかもしれない」、と。

きっとそれはコレットとモニカの関係性から刺激を受け、「演技」における関係性が深化した田中琴葉と周防桃子がそうであったように。
それがこのみが演じたシンシアにおいて思いがけず比重の大きい要素になったのかもしれない。

それからこのみは画面越しに繰り広げられる登場人物たちの心模様に想いを馳せた。
その中にはこのみ自身が演じた当時には気付かなかったような発見もあり、ある種の新鮮さをも感じていた。
33 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/03(土) 01:38:34.75 ID:GHTuQabuo
>>32
×「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置入り込めていたのかもしれない」、と。
○「自身が意識しないところで、自然と元大女優の立ち位置に入り込めていたのかもしれない」、と。
34 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:50:02.87 ID:An8umD0so

しばらく経った頃、ドアが開く音がして、このみはそこで意識を物語から離した。

「お兄ちゃんちょっと……って、あれ。」

事務室へ姿を見せたのは周防桃子だった。
プロデューサーどころか青羽美咲まで出払っているのは珍しく、
ましてや現在進行形で自分の出演作品が流れているのだ。それは面食らったことだろう。
このみはリモコンで映像を止めながら答えた。
35 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:51:15.27 ID:An8umD0so
「桃子ちゃん。プロデューサーならいま外に出てるわよ。4時は過ぎるって聞いてるけど……。」

「うーん、そっか……。」

このみは桃子が手帳を小脇に抱えているのを見つけた。
黒の落ち着いたフォーマルなデザインだが、桃子自身のものだ。

「スケジュールの確認か何かだった?」

「うん、そうだよ。まあ急ぎじゃないし、また後ででいいかな。それより……。」
36 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:51:56.84 ID:An8umD0so
桃子はテレビに映るコレット達の姿に目を向けた。

「『屋根裏の道化師』?」

「ええ。そうだ、桃子ちゃん。時間があったら、一緒に見ない?」

「えっと……。」

桃子はしばらくどうしようか考えた様子であった。
その視界の端には劇場の女優達が相対したまま止まっているテレビと、
普段そうであるように種々の物が雑然と置かれたローテーブルが映っていた。

「……うん。じゃあ、そうしようかな。」
37 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:52:23.72 ID:An8umD0so

んしょ、と可愛らしい声とともに桃子はソファーに腰掛けた。

「巻き戻そっか?」

「いいよ。ストーリーもなにも、全部知ってるんだもん。このみさんもそうでしょ?」

このみは桃子の右隣に座りながら何の気なしに尋ねたが、
その桃子の返答に、このみははっとさせられた。

桃子はそんなこのみをよそにテーブルの上のリモコンを手に取り、このみに差し出した。
このみは、桃子の見る体制が整ったという合図を受け取り、再生ボタンを押した。
38 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:53:03.55 ID:An8umD0so
このみは桃子の言葉を聞いて、改めていま自分がこうしているのが不思議だな、と感じていた。
学生時代の頃からドラマなどの映像作品を見ることはしばしばあったが、まさか自分が出演する側になるとは思ってもみなかった。
それどころか、見知った仲とはいえその共演者とこうしてその作品を見返しているというのは、人生何があるかわからないものだ。
当時の自分であれば色紙とペンを持ってサインを頼むような状況だろうな、と。

このみが隣に目をやり、真剣な表情で画面を見つめる桃子を見るたびに、そうした感覚を実感した。

二人とも静かに鑑賞していたが、時折いくらか言葉を交わした。
それは制作側だからこそ知っている裏設定的な部分のことであったり、撮影当時の思い出話、公開までの期間の話、演技の技術的な話など様々だった。
演じることに長く身を置いてきた桃子の話は、その中でもこのみにとって参考になる部分が多かった。
39 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:53:47.28 ID:An8umD0so

幾度もみた映画であったが、映画の最後、その凄惨な幕引きは、二人をその場から動けなくさせるには十分すぎた。

「演じること」。
劇場の女優たちはただひたすらにそれを追い求め、それぞれが持つ矜持に従い生きている。
コレットも、マドリーンも。そして、モニカも。
彼女らを形作ってきたひとつひとつが今の彼女たちを動かしている。

改めて見返すたびにこのみは不安に飲まれそうになる。
「シンシア」がそうであったのかは、自分では皆目見当がつかない。

タイトル画面へ遷移して再び音が帰ってきたところで、このみは答えのない問いを遠くへ追いやり、代わりに小さく息を吐いた。

「……ねえ、桃子ちゃん。すこしいいかしら……?」
40 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:55:46.38 ID:An8umD0so
「鶴の恩返し、かあ。」

桃子はこのみから資料の束を受け取り、何枚かに目を通しながら呟いた。

「ええ。鶴……、娘の役はどうか、ってお話をもらっててね。」

「上手く言えないんだけど、役がまだつかめてなくて。」

桃子の手があるページで止まった。
書きこみは台本のどのページにも見られたが、そのページは他のそれと明らかに様子が異なっていた。
台詞部分には何か所も線が引かれ、それら一つ一つに矢印が伸びていた。
しかし、その矢印の根本にあるはずの文──当人による注釈がないのだ。
41 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:56:20.91 ID:An8umD0so
「最後のところで、青年との別れがあるの。離れたくないのに、それは許されなくて。」

「初めから人間の姿をして会っていなければ、こんな悲しい思いをしなくてよかったのかな、って。」

大切な人と別れたくない。
いつか来ると知っていた別れでも、実際にその時が来れば胸が張り裂けそうになるだろう。

例えば姿を隠して家の前に何か物を置いていくとか、あるいは鶴のまま恩を返す方法だって。
いくらでもやりようはあったはずなのだ。
それなのに──。
42 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:56:46.99 ID:An8umD0so
「……。桃子は、……あんまりそういう風に考えたこと、なかったかな。」

「でも。やっぱり、役を掴めるまで、何回でもやるしかないと思う。」

桃子は自身の経験を踏まえたうえでそう答えた。
喜びも、怒りも、そして哀しみの演技も。
ずっと昔から、様々な舞台を経た今でも、変わらず桃子はそうしてきた。
43 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:58:39.49 ID:An8umD0so

このみはしばらくその言葉を反芻したのち口を開いた。

「……うん、そうよね。ありがとう、やってみる。」

そう言って、このみは立ち上がろうとした。
……のだが、そのときその左手に柔らかく暖かなものが触れた。

「……桃子ちゃん?」
44 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 20:59:42.36 ID:An8umD0so
このみは、握られた左手を見て、それを辿るようにして桃子と顔を合わせた。
このみの目を見据えていたその目は、寂しさのようなものを含んでいるようだった。
桃子はそれからすぐ目線を逸らした。

「その……。」

少しの間口ごもっていた桃子だったが、意を決したように前を向いた。

「その、桃子、応援するからね。」

「えっ……?」
45 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 21:01:15.46 ID:An8umD0so
思わぬ言葉に、このみは驚きを隠せなかった。
どう返すべきか言葉に詰まったこのみを察してか、あるいはそうではないのか、
桃子はこのみの目をまっすぐに見て続けた。

「『屋根裏の道化師』のとき、このみさんを見て、負けてられないな、って思ったの。」


桃子はシンシアの、なんでもない場面のある台詞を思い返していた。
『もし復帰するとしたら?もちろん──負けなくてよ?』
その言葉とは裏腹に、その目の奥底からは今もなお衰えることのない鋭さが垣間見えた。
シンシアの語られることのない過去、元「大女優」たる所以の──。
46 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 21:02:00.69 ID:An8umD0so
「あの子は……。モニカは、『いまの桃子だから』演じられたと思ってる。」

「シンシアさんも、きっとそうなんだ、って。あのとき見てて思った。」

「桃子ちゃん……。」

「だから……。『このみさん』だからできる『娘』が。きっとあると思うの。」

「子役」から「アイドル」になって、桃子は色々なものを知った。
楽しいことも、悔しいことも、本気で叱られたことだってあった。
桃子自身も言葉にできないような変化であったが、それらが自身の演技に大きな影響を与えていることに、あるとき桃子は気がついた。
自身の過去、経験、そのひとつひとつが、いまの周防桃子に繋がっているんだ、と。
そう胸を張って言える日がいつか来るような、桃子はそんな予感めいたものを今では感じていた。
47 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/15(木) 21:02:34.88 ID:An8umD0so
桃子は自身の両の手が、このみの手を包んでいることに気づいた。
自身の顔が少しずつ熱くなっていくのを感じて、あわてて手を離した。

「な、なんか恥ずかしくなってきちゃった……。と、とにかく。桃子はこのみさんとは違うから……。」

このみは、緩んでしまいそうになる頬と抑えられないほどに胸に込み上げる気持ちを感じて、
溢れるものをそのまま、言葉に詰め込んだ。

「ええ。……ありがとう、桃子ちゃん。」

「……うん。」
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/08/16(金) 18:44:13.68 ID:/J9ed0xSo
ええやん
49 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/31(土) 00:29:43.70 ID:BiyDrPqgo
***

桃子と別れたこのみは、例の書類の束を持って、レッスン室へ向かっていた。
とはいえ、昼のような調子で張り詰め過ぎるようなことをするつもりはもうなかった。
役作りに充てられる時間はまだ十分あるし、視野が狭まっている状態ではいいものは当然できない。
そして何よりも、大切なものに気づけたのだから。

「『私だからできるあの子』、か。」

シンシア役のときは言葉にして考えられていた訳ではなかったが、それは確かにそこにあった。
今はまだ分からないけれど、『あの子』のそれも、きっと今の自分の中にきちんとあるものなんだ、と今ではこのみは自然にそう思えた。
50 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/31(土) 00:31:42.16 ID:BiyDrPqgo
レッスン室までの途中、窓越しに廊下に落とされた新緑の木々の影を見て、このみは太陽が傾き始めていることを知った。
木々の葉が海風で揺れる音に気がつき、しばらくの間このみは目を閉じて、それが心地よく耳を撫でるのを感じていた。
……のであったが、それも束の間だった。
なにやら聞こえてきた騒がしい声と、がらがらと何かが倒れるような物音に、その小さな音色はすぐさま掻き消されてしまった。
それらを少し聞いただけでも、曲がり角の向こう側の惨状が目に浮かんでくるようだった。

「双海真美選手、振りかぶって第1投目を──」

……それは有難いことに、実況まで付いていた。
51 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/31(土) 00:33:08.69 ID:BiyDrPqgo

このみは息を吐いたあと、角を曲がりながら、いつものように何度目か分からない言葉を言う。

「こーら、そこのわんぱく娘たち!」

「わっ!」

廊下の先にいたのは765プロわんぱくシスターズこと双海亜美、真美、大神環、永吉昴の4人だった。
真っ直ぐ伸びた長い廊下で繰り広げられていたのはお手製ボウリング。
バレーボールを転がして、ボウリングのピンに見立てた500mlのペットボトルを倒すのだが、
本来のボウリングとはかけ離れた圧倒的なコンディションの悪さに起因する特有のゲーム性と戦略がある……らしい。
この4人──主に亜美真美の2人であるが──の手にかかれば、なんの変哲も無い廊下と段ボール箱が、
実況席のついた全長18.29mのボウリングレーンに大変身してしまうのだ。
52 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/31(土) 00:34:31.52 ID:BiyDrPqgo

真美が今まさに投じたバレーボールは、4番と10番ピンだけを綺麗に残して、
向こう側で待機していた昴の手の中に吸い込まれていった。

「よっ、と。あ、このみもやらない?結構盛り上がるんだぜ、これ。」

「やりませんっ。」

「えーっ、すっごく楽しいぞ、このボウリング。」

「確かに楽しそうではあるわね……。って、そういう話じゃなくてね……。」

「なんだ、このみんか……。……セーフ。」

「いや、アウトよ、アウト!」

「おーっと、双海真美選手!スプリットを出してしまった!」

「ああ、もう。亜美ちゃんも実況ストップ!」

一度ペースに飲まれたら、もう収集が付かなくなりそうだった。
このみは早々に話を切り上げて、本題に入ることにした。
53 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/08/31(土) 00:36:07.66 ID:BiyDrPqgo

「……別に、やるなーって話じゃなくてね。ただ廊下は人が通って危ないから、やるなら別の場所でやりましょ、ってこと。」

「このみん。別の場所って……。例えば、どこ?」

「中だと……。大道具部屋の横の使ってない部屋とか、かしら?あそこなら多少だったら騒いでも大丈夫だし……。って、前もそこでやってたじゃない。」

「えー。真美たちはもっと思い切り投げたいんだよ〜。」

話を聞いた限り、どうやら今までの小さな規模のボウリングでは我慢できなくなってしまったらしい。
そんなときに、どうぞ思い切りやって下さいと言わんばかりに真っ直ぐ伸びた廊下を見つけて今に至る、と。

「亜美、真美。仕方ないって。続きはあっちの部屋でやろうぜ。」

「すばるん……。」

「さ、取り敢えずみんなで片付けちゃいましょう。」

ぱんぱんと手を鳴らしながら、このみはそう呼びかけた。
54 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:41:35.32 ID:VqG4l+2oo
片付ける、と言ってもペットボトルとボールだけで、そんなに物が散らかっているわけでもない。

「あら、環ちゃん。一回で全部持ってきてくれたの。」

「くふふ、これくらいへっちゃらだぞ!」

先ほどまで亜美が実況席として使っていた段ボール箱をひっくり返して、その中にペットボトルとボールを流し込む。
小走りで環が両手でペットボトルを全部抱えて持ってきたおかげで、ものの10秒で片付けは終了した。
55 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:42:28.20 ID:VqG4l+2oo

「遊ぶなら、あまり騒がしくしないで、危なくないようにね。」

「むむ……騒がしくなくて……。」

「危なくもない……。」

亜美と真美は元の小規模ボウリングに戻るのは気が進まないようだった。
少しの間二人はそうしてあれやこれやと思考を巡らしていたが、とうとう何か思いついた様子で、二人して顔を見合わせた。
56 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:43:04.79 ID:VqG4l+2oo

「ど、どうしたの、二人とも……。」

「……このみん君。真美たちは気づいてしまったのだよ……。たった一つの真実に……!」

「んっふっふ〜。すばるん、たまきち。ということで、ちょっと耳貸して?」

昴と環にごしょごしょと耳打ちを始めた亜美と真美。
うん、うん、と相槌を打つ昴と環の様子から、このみはその内容が気になって仕方がないのだが、
双子の表情からして、なにやら良からぬことを考えているのはすぐにわかった。
聞き耳を立てても仕方がないので、いったい何が始まるのやら、とこのみはしばらくその様子を傍観していた。
57 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:44:57.65 ID:VqG4l+2oo
作戦会議が終わったところで、たくらみ顔をした真美がこのみのもとへぴょんぴょんと飛んできた。

「……このみん、ちょっと目をつむって?」

「目を?別にいいけど……。」

このみは何が起きるか警戒しながら、言われたとおりにゆっくりと目を閉じた。
視界を封じたせいか、このみの耳には双子の声を抑えた笑い声がよく聞こえてきたが、
上手く乗せられていることが出来ているらしいと思うことにした。
58 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:46:14.58 ID:VqG4l+2oo


「手はこうして、こうだぞ!」

手の大きさからも、自身の手をつかんだのは環だとすぐにわかった。
そのままこのみの腕は上へともちあげられ、自身の顔を覆う位置に誘導された。

「それにしても、亜美も真美も、好きだよなあ。」

「すばるん、まだしゃべっちゃダメだかんね?」
59 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:46:46.03 ID:VqG4l+2oo

自分の見ていない間にいったい何をしでかすつもりなのだろう。
例えばあれやこれだろうか、と想像していたこのみであったが、続く亜美からの指示は意外なものだった。

「そこから、数を数えてくの。いーち、にーい、さーん、って!」

どうも既視感のようなものは感じているのだが、このみはそれがなんであるかがすぐには思い当たらない。
問の答えは浮かばないまま、とりあえずその通りに読み上げていった。

「いーち、にーい、さーん、しい、……」
60 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:47:12.67 ID:VqG4l+2oo

このみがカウントを始めたところで、4人分の足音が左右へ遠ざかっていくのが聞こえてきた。
遠ざかっていく、というよりは小走りで、それも逃げているような……?
そこでようやくこのみは疑問の答えを見つけた。

「って、みんな、ちょっと!」

このみは自身の手のひらから顔を起こして、あわてて目を開けた。

「ああっ、このみん。かくれんぼなんだから、ちゃんと数えないとダメだかんね!」

「たまきたち、ちゃんと探しに来てね!」

「このみ、3分だからなー!」

「なんで私が巻き込まれてるのよ!……っていうか、廊下は走らないっ!」
61 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:48:15.47 ID:VqG4l+2oo

……いつの間にやらこのみはかくれんぼの鬼になっていたらしい。
遊びに付き合う、と言った覚えはなかったのだが、
このみのツッコミには目もくれずに、全員すぐ見えなくなってしまった。
この場合の言葉は、ちょっと待って、という意味であり、
早歩きで逃げるのならオーケーという意味ではないということをきちんと後で伝えなければならない。
置き去りにされたままの段ボール箱の隣で、一人このみはそう誓うのだった。


62 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:48:50.00 ID:VqG4l+2oo

曲がりなりにも鬼に任命されてしまった以上、何も聞かなかったことにはできないだろう。
壁に目を伏せていたこのみは、きちんと心の中で3分数えてから、体を起こしゆっくりと目を開けた。
実は4人とも忍び足で戻ってきていて、自身を驚かせるためにスタンバイしていたりするかもしれない、
と思ったこのみは少しばかり心の準備をしていたのだが、空振りだったようだ。
つまりは、純粋にかくれんぼをしよう、という事なのだろう。
63 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:51:54.39 ID:VqG4l+2oo

「……ふ、ふふふ。かつてかくれんぼマスターと名を馳せた私に勝負をしかけるなんて、いい度胸ね……。」

野山を駆け回る、というほどではないが、周囲の同年代がそうであったように、小さい頃のこのみは活発に遊ぶ方であった。
走ることは嫌いではなかったが、今と同じで運動神経が特段秀でてたりしているわけではなかったこのみは、
どちらかといえば鬼ごっこよりも隠れんぼをして遊んだものだった。

この子だったらこの辺りに隠れていそうだな、なんてことはよく分かったし、昔から隠れてる子を見つけるのは得意だった。
隠れる側になっても、全然鬼から見つけてもらえずに、最後に自分から出てくるなんてこともしばしばあった。
64 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:52:20.68 ID:VqG4l+2oo

このみは、そんな昔のことを思い出しつつ、持ち主を失った段ボール箱を先に倉庫へと運んでいた。
階段の横にある劇場の倉庫には、ステージの大道具や各種音響機材、ケーブル類をはじめとして、
過去の公演のグッズやポスター類、また劇場の控室等の消耗品など、あらゆるものが収められている。
衣装やアクセサリ以外のものは大体なんでもここにある、と言ってしまえばその混沌ぶりがわかるだろうか。
挙句の果てにその倉庫が未踏のジャングルに繋がっている、なんて噂話もあったりしたものだ。

このみも、どこかできちんと整理しなくては、とは思っているのだが、
ステージ機材があるだけに勝手にあれこれ始めるわけにもいかないのだ。
結局のところ、整理する機会を得られないまま今の状態に至る、というわけである。
65 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/09/15(日) 22:52:46.90 ID:VqG4l+2oo

このみは倉庫の扉を開けたが、案の定いつもと変わらずごちゃっとした印象を受けた。
あまり奥に置いておくと何処にあるか分からなくなりそうだったので、
入ってすぐ近くの床の端に段ボール箱を置いておくことにした。

倉庫をでたところで、このみは腕を目いっぱい前へ伸ばして、息を吐きながら背中を伸ばした。
くぅ、と声が漏れそうになるが、周りに誰もいないことを確認していたので、特に意識して抑えたりはしなかった。

──さて、自主レッスンに戻らなくちゃいけないし、さっさと全員をとっ捕まえて、少し懲らしめてあげなくちゃ。
『準備運動』を終えたこのみは笑みを浮かべながら、少々大人の本気というものを出すことを決めたのだった。
66 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/08(火) 01:37:39.55 ID:fNCrqDvgo

……のであるが。

「……ぜんっぜん居ないわね……。」

3分で全員見つけるくらいのつもりでいたが、誰も見つからないままかれこれ数十分はたってしまっただろうか。
十余年の歳月がこのみのかくれんぼマスターとしての感覚を鈍らせてしまったのかもしれない。
数百年以上もの間常に研ぎ澄ませ続けられてきた将棋や囲碁のような世界でも、
新しい手法が常に考えられ続けており、それは時に過去のそれを凌駕することもある。
このみが「子どもの遊び」から離れている間にも、そのかくれんぼ技術が過去の遺物になっていたとしたら──。

「……なんて、ね。」

いや、案外亜美ちゃんや真美ちゃんならあり得なくもないのかも、とこのみは恐怖するが、その頬はどこか緩んでいた。
ともあれ、最近の子どものパワーを改めて実感している間に、このみは目ぼしい箇所は粗方探し終えてしまった。
ここまで見つからないと、かくれんぼというよりもむしろ捜索をしているような気さえ感じていた。
この調子が続くなら、手に抱えたままの資料を一旦鞄に置いてきた方が賢明だろう、と判断したこのみは、一旦事務室へ引き返す事にした。
67 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/08(火) 01:38:18.97 ID:fNCrqDvgo

しかしその道中の、ある扉の前でこのみの足が止まった。
他のそれと明らかに異なり、その観音開きの扉は無骨で金属的な灰色をしていて、
全て扉を開ければ小さなトラックくらいなら入ってしまいそうなほどの大きさがある。

「まさか、この中……じゃないわよね……?」

このみの前にあるのは、劇場のステージの舞台袖につながる扉である。
扉が特別大きいのも、大道具や機材の出入りがスムーズに行えるように、という理由からである。
劇場の定期公演が始まる以前は、鍵がかかっていることがほとんどだったが、
頻繁に公演が行われるようになった頃から、アイドルやスタッフたちの出入りの回数も多くなり、それゆえに鍵はかけないようになっていた。
68 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/08(火) 01:39:44.03 ID:fNCrqDvgo

舞台袖は普段薄暗くて、人が隠れられるほどのものがたくさんある。
たしかに隠れるとしたら絶好の場所ではあるのだろう。
万が一隠れている子がいたら、その時はきっちり言ってあげないと。
少なくとも確認だけは一応しておかないといけないだろう。

公演の時は当然出入りすることはあるが、普段過ごす上でこの扉を開けることはまずなかった。
それゆえ、このみはどこか自身の身が引き締まるのを感じていた。
扉のドアノブに触れた時、その金属の冷たさに思わずこのみの手が止まったが、
ノブを握り直し、体重を掛けながらゆっくりとその重たい扉を開けた。
69 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:12:39.47 ID:eH8hmcZZo

ステージ上手側の舞台袖は、ステージセットの搬入が行われる関係もあって、大道具が数多く置かれていた。
このみは、誰か陰に隠れてたりはしないか、と大道具を一つ一つ見て回ることにした。

劇場では、以前の公演のステージセットの一部を、新しい公演で使うことがしばしばある。
これは、劇場が定期公演という形を取る以上、毎回全部新しくステージセットを作ったりすることが難しい、という事情によるものである。
とはいえ、同じステージセットでも、照明の当て方や組み合わせ次第でがらりと印象が変わったりするものである。
このみは、これまで一緒にステージに立ってきたそんなセットたちに、不思議な愛着を感じていた。
一つ一つを見るたびに、あれはこの時の、これはあの時の、と今までのステージが思い起こされるようだった。
70 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:13:57.94 ID:eH8hmcZZo

結局、上手側にも、下手側にも、舞台袖に誰かが隠れているようなことはなかった。
このみは息を撫で下ろしたが、それならば本当に何処に隠れているんだろう、と謎が深まるばかりだった。
やはり一旦出直して一から探し直そうと、もとの扉へ向かったこのみであったが、
もう一度辺りを見回して、そこであるものに目が止まった。

それは、ステージライトであった。
劇場の舞台とそこに立つアイドルを照らすべく、直上に据え付けられたステージライトたちを、このみは見上げていた。
アイドルとして舞台に立つ以上、じりじりと身を焼くほどの光を背中で受けることはあっても、
明かりのついてない状態の照明をまじまじと見ることは存外少ないものであった。

「なんだか、あの時を思い出すわね……。」
71 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:15:36.08 ID:eH8hmcZZo

ずっと以前にもこうしてステージライトを見上げたことがあった。
765プロへとやってきて、本当にすぐの頃。

アイドルをやっていける自信がなくて、いっそ断ってしまおうかと考えたこともあった。
でも劇場の公演を舞台袖から見学させてもらった時に感じた、あの言いようもない眩しさは、今でも鮮明に心に焼き付いている。
虹色の光が溢れるステージに背中を押されて、あの舞台からの景色を夢みたんだ。

不安なのは変わらなかったけれど、いつか、一面の桃色の光に包まれた、暖かな景色を。
その公演が終わって、誰もいない舞台の上で、ステージライトを見上げていた。
そして、そこでたった一つの大きな決心をした。
それが今のこのみの始まりだった。
72 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:16:33.20 ID:eH8hmcZZo

それから、まるで走馬灯のようにいままでの出来事が思い起こされていった。
このみは左手に添えようとした右手が、持っていた資料の束にあたり、かさりと音を立てるのを聞いた。
73 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:17:32.92 ID:eH8hmcZZo

私が初めて公演のステージで歌うことが決まったとき、実のところ怖さの方が大きかった。
夢や憧れだけで願いは叶わないなんてことは、昔からよく知っているつもりだったし、
この世界へと飛び込んだ選択が正しかったのかなんて、いくら考えても分かりそうになかった。
ただ、一度後ろを振り向いてしまったら、何かに肩を掴まれて、そのまま引き摺り込まれてしまいそうな気がした。
振り向いてしまいそうになるたびに自分に言い聞かせて、
こうでなくちゃ、ああしなきゃ、って必死に前だけを向いていた。
折れそうになるたびにあの時の景色がちらついて、頑張らなきゃって思ったんだ。
74 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:18:06.05 ID:eH8hmcZZo

当の公演の直前も、そうだった。
足は震えていたし、声も上擦っていた。
他のアイドルやスタッフ、プロデューサーと話をしたりしてようやく落ち着くことができたけれど、
心の底に張り付いた不安まではどうしても拭いきれなかった。
そうこうしているうちに開演の時間が来て、それからすぐ自分の曲目になって、
考える間もなくスタンバイ位置から飛び出した。
75 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:19:46.32 ID:eH8hmcZZo

このみは薄明るく照らされた舞台の上を、ゆっくりと半歩だけ足を動かした。
静けさの中で、小さな足音が響いた。
76 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:22:00.07 ID:eH8hmcZZo

踏み出した先の世界は、ひたすらに熱かった。
仰け反りそうになる程にじりじりと身を焦がすスポットライト。
体温が上がっていくのを感じて、だんだんと頭が回らなくなっていった。
77 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:25:08.67 ID:eH8hmcZZo

ステージが終わっても、自分がきちんと出来ていたかはよく覚えていなかった。
ただ、どれだけ熱に浮かされても、その時見えた景色だけは消えなかった。
はじめての『自分だけの景色』。
白飛びした視界から見えた光は、鮮やかなほどカラフルで、まるで虹の橋を見ているようだった。
『私の色』はまだ誰も知らないけれど、それでも思い思いの色の光を振ってくれたことが何より嬉しかった。
78 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:30:52.86 ID:eH8hmcZZo

舞台袖へ戻ってきたときには、汗は滝みたいに顔を流れていて、これ以上動けないほど息が上がってしまっていた。
それでも、マイクを胸に抱き寄せたまま、離すことができなかった。
まぶたの裏に焼き付いて消えないあの景色は、私の知らなかった、心の奥底にあった夢に触れてしまったのだ。
ペンライトの光の一つ一つに、あなたはあなたのままでいいんだよ、と励まされたような気がした。
気がつけばまぶたの裏の光はこれほどかというほどに滲んでいて、もう顔だってぐしゃぐしゃになってしまっていただろう。
こんな気持ちで流す涙なんて、初めてだった。
メイクはすっかり崩れて落ちてしまって、それでも溜まっていたものが全て流れていくまで、涙が止まらなかった。
79 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:38:33.57 ID:eH8hmcZZo

あの後アイドルのみんなにも、プロデューサーにも心配されちゃって大変だったわね、とその時の記憶を思い出していた。
そして同時に、自身が自然と気恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになった表情になってしまっていることを感じていた。
ところが、わずかな照明に照らされたがらんとした客席たちが見えたとき、ずき、と胸の奥が痛んだ。
この痛みは何なのだろう、とあちこち辺りを見回してみたが、
見えたステージセットや舞台、照明も、どれもその原因ではなさそうだった。
そうであるならば、やはりずっと気にかけていた『あの子』のことなのだろう。
80 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:39:03.90 ID:eH8hmcZZo

扉を開ける前から微かに感じていた予感も、そうであると告げていた。
このみは息を呑み、左手に持っていた資料の束を見つめ、ゆっくりとめくっていった。

あの子もまた、自分の住む世界とは違う世界に出会ってしまったんだった。
……もしも。もしあの子が私で、私があの子だったら。私はどうしていたのかな。
81 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:39:31.13 ID:eH8hmcZZo

『あの子は、深い雪が降り積もる山の奥深くで暮らしてた。もともと人間と出会うことさえなかったはずだった。』

それでも、あの時舞台裏から見た景色が暖かくて、背中を押されて。私はアイドルの世界へ飛び込んだのよね。

『迷い、雪の中で動けなくなっていたところを、あの子は助けられて。出会ったんだ。』
82 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:40:20.34 ID:eH8hmcZZo

初めて舞台に立ったときはまだ、お客さんたちは誰も新人の私のことを知らなくて。

『本当の姿を隠して、言えない言葉を抱えて押し掛けたあの子を、それでも青年は受け入れてくれた。』

だから、何度も何度も、私の気持ちを伝えたくて。届いてほしくて。

『明くる日も娘は青年の一番近くで、出来る限りの事を尽くした。』

いつからか私のことを覚えて、応援してくれて、それが暖かくて……。

『そして、青年と過ごすうちに、あの子は人間に恋をした。』
83 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:40:47.31 ID:eH8hmcZZo

このみは手に持っていた資料を、ぎゅっと、胸に抱き寄せた。

「……この子は、私、なんだ……。」

溢れ出しそうになる涙を堪えながら、自分だけが聞こえる声でそう呟いた。
84 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:41:59.68 ID:eH8hmcZZo

気づいてほしいけど、見つけてもらえているかなんて分からなくて。
誰かに届かないことは、消えてしまうよりも辛いことだ。
もしそうであるならば、例えもう会えなくなってしまうとしても、本当の自分を知ってほしい。見てほしい。
2度と会えなくなってしまったとしても、繋がりが消えてしまう訳ではないのだから。そう、信じたいから。


何よりも愛しくて、大切にしたくて、でもその気持ちを伝えられなくて。
どうしたらいいのかわからなくなって、それで心配をかけてしまうこと、何度もあったもの。
色々なものを抱えてしまいそうになるたびに、大丈夫だよ、って、大切な人に助けられて。
何回でも、何回でも。
85 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:42:35.94 ID:eH8hmcZZo

資料が濡れてしまわないようにと、このみは目尻を指で拭った。
このみがしばらくしてゆっくりと目を開けた時には、その瞳は真っ直ぐ前を向いていた。

あの時出会わなければ、誰かを好きになる、こんな気持ちを貰うこともなかったんだ。
この子が青年の家に押しかけたのも、自分の想いを伝えたかったからなんだ。
あの人と初めから会っていなかったならこんなに悲しい思いをしないで済んだのに、だなんて、そんなこと思ったりするはずがない。
だって。だってこの子は──。

胸の前に抱えたものを、このみはぎゅっと抱きしめた。
手放してしまわないように強く、そして消えてしまわぬように何よりも優しく。
86 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:46:57.45 ID:eH8hmcZZo

「……私は、この子の願いを叶えてあげられるのかな。」

このみは、ひとり舞台の上でぽつりと呟いた。
しばらくの間腕の中に抱いた資料の表紙を見ていたこのみであったが、それからゆっくりと目の前の客席を見た。
気がつけば薄暗がりにはすっかり目が慣れてしまっていたらしく、いまは一番奥の客席まで見えるようであった。
一階席はずっと奥まで座席が設けられているし、二階席だって何列あるのかすぐ数えられないほどある。
実際のライブでは、その座席の数だけの大勢のお客さんが劇場に足を運んで歌やダンスを見に来てくれる、ということだ。
劇場の公演は1公演あたり数時間であるが、その中でこのみがステージに立っている時間はそれよりもずっと短い。
ましてや、自身の想いを乗せて伝える『大切な歌』は高々5分程度の時間しかない。
「その中で、そんなことが本当に私にできるのか?」
「もしも曲が終わり照明が落とされたとき、『ただ、それだけで終わってしまったら』?」
87 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:47:27.26 ID:eH8hmcZZo

目の前の誰もいない客席たちは、残酷なほどに静まり返っていた。
このみの抱えた腕はいつの間にか震えていて、触れる手のひらは自然と腕を抱き寄せていた。
気が付けばこのみは図らずも目線を切っていて、自身のその縮こまる腕に目を向けてしまっていた。
はたと我に返った時には、その不甲斐なさに溜息さえ出てしまいそうだった。
88 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:48:06.16 ID:eH8hmcZZo

ところが、その時下を向いた目線の先、
舞台の床面に付けられた小さな印がこのみの目に映ったとき、このみの鼓動が確かに音を立てた。
それは、ステージ上で立ち位置を確認する為にT字に貼られた、なんの変哲も無いテープによる印でしかないはずだった。
裏腹に少しずつ早くなっていく鼓動は、緊張でも、焦りによるものでもないと、このみにははっきりと分かった。
89 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:48:34.41 ID:eH8hmcZZo

このみは、その鼓動に導かれるようにして、一歩、また一歩と、舞台上の段を登り、等間隔に並べられた印を辿っていった。
そして、ある一つの印の前でこのみの足が止まった。
先程より少し上手側の、一番後ろの列。

このみはこの印がなんであるかを知っている。
一つ一つの色は違っていても、形はみんな揃っている。
それは、劇場のアイドルの数と同じだけの印。
90 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:49:07.53 ID:eH8hmcZZo

このみは鳴り止まない鼓動を左手で感じながら、その印に自身の足を合わせた。
その場所は、何時でも背中を支えていてくれるような、不思議な心地良さがあった。
このみは目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
物音一つ聞こえないほどの静けさの中で、このみの身体には自身の呼吸音と鼓動だけが響いていた。
落ち着く様子のない高鳴る鼓動に、其処にある景色を早く見たいと突き動かされ、このみは目を開けた。
91 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:49:45.92 ID:eH8hmcZZo

刹那、音のなかったこの世界は、耳を貫き肌を震わるほどの音と歓声とが飛び交うステージへと姿を変えた。
焦がれるほどに眩しいステージライトに包まれて、このみも、劇場の仲間たちも、ステージに立っていた。
たった一瞬、瞬きほどの間にこのみが垣間見た景色は、劇場の仲間たち越しに見えた虹色の光たちだった。
熱気は渦を巻いて、また新たな熱になってステージから飛び出していく。
このみの目には、ステージからの光に照らされたペンライトの波間が、きらきらと光るのが見えた。
92 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:50:11.63 ID:eH8hmcZZo

気がつくと、世界は元の姿に戻っていた。
先ほどと変わらず、ステージライトは今は点いていないし、客席には誰もいない。
この舞台に立っているのはやはりこのみだけであった。
93 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:51:48.33 ID:eH8hmcZZo

しかし、そうであったとしても、見えた景色は本物だったと、このみは確信していた。
あのダンスも、あのライティングも、あの歓声も。
あの景色は、数えきれないほど歌い続けてきた、『Thank You!』の景色なんだ、と。

いつでも、何があっても、決まって公演の最後には出演者の全員でこの曲を歌ってきた。
私が初めてこの劇場のステージに立ったときもそうだった。
『ミックスナッツ』としてステージに立ったときも、武道館でライブをしたときだって、この曲とずっと一緒だった。
公演までの日々の中で、笑っていたときも、泣いてしまったときも、震えが止まらなくなったときだってあった。
だけど、公演当日になって舞台に上がったら、例え何があっても、いつもこの曲のこの景色にみんなで戻ってきたんだ。
あの日からここまで、重ねた日々の数だけ色んな事があったけれど、今までずっとみんなで歌い続けてきた曲。
94 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:52:24.42 ID:eH8hmcZZo

『ミリオンスターズ』の私も、『アイドル馬場このみ』の私も、始まりは虹色の景色からだった。
虹色から始まって、その中にあった『私の色』が、アイドル馬場このみの、暖かな桃色の景色なんだ。

「そっか……。」

この場所は、私が『私』であるための、かけがえのない場所だったんだ。
いつも変わらずそこにあって、帰ってきたときにみんながいてくれる、そんな大切な場所。
95 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:52:53.37 ID:eH8hmcZZo

このみは胸が熱くなるのを感じながら、誰もいない客席を見ていた。
物音一つさえない、息を飲むような静けさの中で、一階席も二階席も、一番前から後ろまでを見回した。

公演では、前の曲が終わって舞台が暗転した後、その歓声がまだ残るうちから次曲の歌い手は立ち位置にスタンバイする。
前の曲の余韻からまだ知らぬ次の曲への期待へと、まるでそのスタンバイが完了したタイミングを知っているかのように会場の意識が切り替わり、
そのとき劇場は緊張感を持った静けさに包まれる。
今のこの静けさは、そんな暗転した舞台の上でイヤモニからのカウントを待っている時のようだ、とこのみは感じた。
張り詰めた空気の中、それとは裏腹に高鳴る鼓動。
伝えたい言葉が胸に溢れてくる。
96 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/17(木) 11:53:20.79 ID:eH8hmcZZo

『きっと、この場所なら大丈夫。』
このみは、もう一度両腕を胸に抱き寄せた。
折れそうになった数だけ出会えた『これまで』を。
何よりも愛おしい、かけがえのない『今』を。
97 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/10/26(土) 19:32:36.71 ID:ZIFRcwBno
>>53 >>56 >>58
×すばるん
○昴くん
98 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:32:31.20 ID:1EiPKTBf0

それから少しして、スポットライトを見上げていたこのみの耳に、
突然何かがぶつかった様な大きな物音が舞台袖の奥から聞こえてきた。
このみは咄嗟にその音のした方を向いたが、そこにいた人影を見つけて、
ようやくそれが出入口の扉が勢いよく開いた音だと気がついた。

「あー!このみん!!」

「ま、真美ちゃん!そ、それにみんなも……。」
99 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:33:05.58 ID:1EiPKTBf0

そこには、亜美、真美、昴、環の4人がいた。
慌ててこのみは時間を確認したが、もう既にあれから随分と時間が経ってしまっていた。
このみは、ああ、しまった、と頭を抱えた。
成り行きで始まったとはいえ、隠れんぼの鬼を任されていたはずなのだ。
ずっと待たせてしまった挙句に、探しにきてもらうなんて、
どちらが隠れんぼしてるのだか分からない。
100 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:34:27.82 ID:1EiPKTBf0

「え、えっと……。」

駆け寄ってくる4人に何を言うべきなのか分からず、このみは言葉が詰まってでてこなかった。
しかしそんなこのみの様子をよそにして、真美は大きな足音とともに舞台を駆け、このみの前に飛び込んできた。

「もう、このみん、どっか行っちゃったのかと思ったんだよ〜。」

なんでどうしてと当然問い詰められるものだろうと思っていたこのみにとって、その言葉は予想外のものだった。
一瞬だけ止まったこのみの思考はすぐに動き出したが、それでも聞き返すような簡単で短い言葉しか浮かんでこなかった。
ぐるぐると堂々巡りする思考の中で、このみは真美の肩越しに亜美たち3人がゆっくりとこちらに歩いて来ているのが見えた。
101 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:35:28.20 ID:1EiPKTBf0

「そうそう。亜美たち、メッチャ探したもんね。」

「全然探しに来てくれないから、たまき達心配だったんだぞ。」

「亜美ちゃん、環ちゃん……。」

4人の表情からは、気持ちが痛いほどに伝わってきた。
それは方便などではなくて、本当に心配してくれて、あちこちを探し回ってくれたのだろう。

「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」
102 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:38:34.93 ID:1EiPKTBf0

「……ごめんなさい、心配かけちゃって。」

環と昴はこのみを静かに見つめていた。
亜美と真美はその様子を伺ってか、あるいは単に空気がむず痒くなりそうだったからか、
うむうむ、まったくだよ、と言ったような調子で相槌を打っていた。
103 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:40:15.53 ID:1EiPKTBf0

それから少し間が空いた後、昴は少し笑みを浮かべながらこう言った。

「でもまあ、このみのこと見つけられて本当に良かったよ。こんな所に居るんだもんなあ。」

このみ自身も、この場所に他の誰かが入ってくるなんて、まったく考えていなかった。
集中して周りに注意が向かなくなっていたということもあるが、
そもそも公演のないときには、普段誰も入らないような場所だった筈だ。
104 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:42:39.73 ID:1EiPKTBf0

「ねえねえ、このみん。ここが怪しい、って言ったの、昴くんなんだよ。」

「あら、そうなの?昴ちゃん、私がここにいるって、どうして分かったの?」

昴は、首を傾げて少しの間考えて、それからこう言った。

「んー……。やっぱり、なんとなく、かなあ。ただ、ここにいるんじゃないかー、って。そんな気がしたんだよ。」

それを聞いたこのみは、頬が緩んでしまいそうになるのを感じながら、昴たちの目を見ていた。
その表情、その視線に、昴は照れ隠しに頬を一度指でかいたが、その間もこのみをずっと見ていた。
このみは何を伝えるか少しだけ考えたが、出てきたものは一番自身の底から出てきた、飾らないありのままの言葉だった。

「昴ちゃん……。みんなも……。見つけてくれて、ありがとう。」
105 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:50:37.89 ID:1EiPKTBf0

このみたちは舞台袖から外へ出て、夕日が差し込む廊下を歩いていた。
ほんのりと赤く染まる景色に、このみは不思議と温かな懐かしさのようなものを感じていた。

「今度お詫びにじゃないけど、みんなで何か甘いもの食べに行きましょ。好きなもの、何でもいいわよ。」

「ええ、ホントに!?……このみん、太っ腹ですなぁ〜。」

「じゃあ、たまき、クレープ食べたい!」

「はいはい!亜美は駅前に新しくできたあそこがいい!でっかいパフェのとこ!」
106 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:56:52.84 ID:1EiPKTBf0

あっちのお店は、こっちのお店は、といった調子で、あっという間にスイーツの話で盛り上がっていった。
最終的に候補はいくらか絞れたがそこから先はなかなか決められず、結局じゃんけんで決めることになった。

「昴くん、亜美はグーだすかんね?」

「そう言って、違うの出すんだろ?もう何を言われても引っかからないからな。」

「それじゃあ……、たまきはパーにする!」

「亜美がグーで、たまきちがパー……。それなら真美は、チョキだすしかないっしょ!」

「いや、それあいこになるだけだから!」

次々に広がる平和なやり取りになんとも微笑ましさを感じていたこのみであったが、唐突に表れた的確な昴のツッコミに思わず吹き出してしまった。
そして、それにつられるようにして当の本人の昴たちもだんだん可笑しくなって、とうとう最後には5人で声を出して笑った。
107 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2019/11/17(日) 22:59:21.49 ID:1EiPKTBf0

じゃんけんが終わった後も、賑やかさが落ち着くことはなかった。
むしろ今度の遊びの方針の話が始まった今が一番わいわいと盛り上がっているようにも思える。
このみはそんな4人の様子を見ながら、頬を緩ませ息を吐いた。
ふと絶えない騒がしさにどこかほっとして、胸が暖かくなるのを感じていた。

「隠れんぼ、次こそは絶対全員とっ捕まえたげるわよ。」

このままだと隠れんぼマスターの名が泣くってものよね。
昔を少しだけ思い出しながら、このみは笑って言った。
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