【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』

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137 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:44:48.05 ID:lT49CYaR0

自身の胸に手を当てながら、琴葉は昴の目を見て言う。
大切なものを抱えるように優しくて、それでいて真っ直ぐにそれを見つめる琴葉の横顔に、このみは目が離せず、惹きつけられるようだった。

「……琴葉がオレたちのことを思って注意してくれてるのは、分かってたつもりだったけど……。」

ぽつりとそう溢した後、昴はぎゅっと目を瞑った。
それから心を決めるようにして目を見開いて、琴葉を見た。

「ゴメン、琴葉。……オレ分かったよ。」

「昴ちゃん……。」

琴葉は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
その表情は少しだけ緩んでいるように見え、
それは先ほどハム蔵を捕まえた時の、あの柔らかな笑顔を思い起こさせた。
138 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:45:46.62 ID:lT49CYaR0

そんな琴葉を見て、昴は何かに気がついたようだった。
昴は、ずい、とそのまま一歩近づいて、何か言う訳でもなく琴葉の顔をすぐそこで見つめていた。

「す、昴ちゃん……?」

数センチの身長差をも意識するほどの距離だった。
思いがけず顔をまじまじと見られた琴葉は、不思議な緊張で声が揺れているのを自覚しながら昴に呼びかけた。
対する昴は、どう答えるべきか少し逡巡したあとで口を開いた。
139 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:46:50.98 ID:lT49CYaR0

「……なんていうかさ、その……。ちょっと恥ずかしいけどさ。
琴葉はそうやって笑ってた方が、やっぱりかわいいよなー、って。」

「かっ、かわ……!」

全く予想していなかった昴の返答に、
琴葉の顔がまただんだんと赤く染まっていく。
顔の火照りを感じた琴葉は、思わず手で顔を覆ってしまいそうになる。
ただ、手を伸ばせばすぐ触れるほどの距離の昴に対してそれをするのは、気持ちを伝えてくれた昴との間に壁を作ってしまうように思えて、そこで琴葉の手が止まる。
140 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:48:56.35 ID:lT49CYaR0

「も、もう、昴ちゃん!」

琴葉はせめてもの抵抗として、もう知りません、と言った感じで、昴と逆の方向に顔を向けた。
そんな二人の様子を一歩離れた距離から暖かく見守っているこのみには、
昴は気がついていないようだったが、琴葉の揺れる長い髪の間から、赤くなった耳たぶがちらりと見える。
ぷいと顔をそむけたのも、きっと赤くなっているであろう顔色を見られたくなかったのかもしれない。
表情こそ直接は見えずとも、彼女の心中がこうして垣間見えるのがなんとも愛おしい。
この子は普段は気を張ってるけど、こうふとしたときに自分の気持ちが素直に外に出てくるのよね、とこのみは思う。
141 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:50:21.59 ID:lT49CYaR0

このみはそんな琴葉を見て、彼女がハム蔵を捕まえた瞬間のことを思い出していた。
あのときふと見せた彼女のやわらかな笑顔は、
混じり気がなく、繊細で澄み切った彼女自身の心を映し出したかのようで、それはある種の美しささえあった。

ときに「美しさ」はそれを見る者との間に壁をつくり、近寄り難くなっていく。
周囲にとって「自分たちとはかけ離れた存在だ」とされ、果てには偶像としてただの「人間」であることさえ剥奪される。
届くはずだった声も、きっと届かなくなってしまうだろう。
142 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/02/09(日) 16:52:38.25 ID:lT49CYaR0

しかし、彼女の「美しさ」はそうではないのだと、このみは知っていた。
まだ何色にも染まっていない澄み渡るような透明さは、いつの間に誰かの心を自然と惹きつけていて、愛おしささえ感じさせる。
そんな飾らないありのままの彼女が、このみには少し羨ましくもあった。
そして、このみもまた、彼女には笑っていてほしいなと感じていた。

昴が琴葉の顔を覗こうとするたびに、琴葉は悪戯っぽく他所の方を見て顔を合わせないようにする。
暖かい目でそんな二人を眺めているこのみに気が付いた昴が、戸惑った様子でこのみに尋ねた。

「このみ。オレ、そんな変なこと言ったのかな……。」

にわかに心配そうに昴からそう言われ、このみは少し驚いた。
何を言うべきか迷ったが、このみはまず一番に、打算や計算なしに何気無く相手に踏み込んでものを言えてしまう昴がなんだかずるいなあ、と思わされた。
このみは、ふふ、と少し笑って、呟くように答えた。

「……そういうところよね。きっと。」


143 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:50:02.83 ID:5B03mR0i0

それから暫くして、昴は765プロ囲碁サークルのグループに混じって、琴葉に囲碁のルールを教えてもらっていた。
このみも特段用事があった訳ではなかったので、椅子に座って碁盤を見つめる昴の後ろで何となく一緒に話を聞いていた。

すると、部屋の入り口の方から、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
このみ達が何事かと慌ててそちらを向くと、そこには恐れ慄いた様子で脚のふらつかせる亜美と真美がいた。
そして、その二人の視線の先に居たのは、扉を背にして腕を組んで仁王立ちする秋月律子であった。
律子は手で眼鏡のブリッジを上げながら不敵に笑って、一歩、二歩と亜美真美にゆっくりと近づいていく。
対する亜美真美は、律子から逃れんとばかりに、後退りしながらもきょろきょろと辺りを見回している。
144 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:50:55.75 ID:5B03mR0i0

このみは、またいつもの奴が始まったのね、といった感じで眺めていた。
すると、亜美と真美の先ほどまで泳いでいたはずの目線の動きが、あるところを見て止まった。
このみはすぐに二人の意図を理解して、軽く頭を抱えそうになった。
というのも、その二人は、このみの方をじっと見ていたのだ。
詰まるところ、目が合ってしまった、というのが一番近かっただろう。
このみがあっと思った瞬間には、もう二人は動き出していた。

「あっ、こら、待ちなさい!!」

「このみん、助けて〜!!」

律子が二人を逃すまいと手を伸ばすが、その手は空を切る。
そのまま亜美と真美の二人はこのみの方へと走ってきていた。

「ちょ、二人とも待って──。」
145 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:51:37.94 ID:5B03mR0i0

そのまま二人は勢いそのままに、両サイドからこのみのもとへ飛び込んでいく。
それはあっという間の出来事で、このみが避ける間さえもなかった。
結局、嫌な予感は見事に的中して、このみは二人に巻き込まれてしまったのであった。

可愛いアイドル二人から抱きつかれるという状況は、世の男性諸君ならば泣いて羨ましがることだろう。
ところが、このみの場合にはそれどころではなく、二人の突撃は圧倒的脅威になり得るのだ。
歳こそ一回りほど下とはいえ、このみからすれば十五センチ程も大きな相手が戯れで飛び込んでくるのである。
それが二人同時にやってくるのだから堪ったものではない。
146 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:54:26.20 ID:5B03mR0i0

ボロボロになりながらも、このみはなんとか無事に二人の突撃から生き残ることができた。
流石に注意の一つや二つしようとするが、
亜美と真美はそれより先にこのみの小さな背中へ回り込み、隠れるようにして身を屈めた。
このみが二人の目線の先を追うと、ちょうど正面からお叱りモードの律子がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきていた。

「ちょっと、二人とも……。今度は何をしたのよ。」

このみが背中に隠れる二人に尋ねると、律子に聞こえないくらいの声で亜美が答えた。

「このみんこのみん。亜美たち、今回は何もしてないよ。」

「……じゃあ、真美ちゃん?」

「真美も、何もしてないよ。」

真美も同じく、小声でそう答えた。
何もしてないのにこうはならないでしょう、とこのみはツッコミたくなるが、それは心の中に留めておくことにした。
147 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 21:58:00.57 ID:5B03mR0i0

「秋月さん、ナイスタイミングでした。」

律子に声を掛けたのは、部屋の少し奥の机で先程まで百合子たちの宿題をみていた瑞希だった。

「瑞希もありがとうね。なにせ急な案件だったものだから。」

少しずつ状況が分かりかけてきたこのみであったが、それでも念のため、何があったのかを瑞希に聞くことにした。
瑞希いわく、もともと律子が中学生組の宿題をみていたのだが、急用ができて少しの間離れなければならず、
近くにいた瑞希と紗代子に未来たちを任せたのだそう。
その時に、律子から「亜美と真美の二人は遊びまわってて宿題終わらせてないだろうから、
見つけたら首根っこ捕まえておいて」と言われていたのだという。
148 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:00:02.54 ID:5B03mR0i0

「なるほどね……。それで真美ちゃんたちが逃げようとしたところに、律子ちゃんがちょうど戻ってきたわけ。」

「はい、馬場さん。その通りです。」

それはこのみが想像していた内容そのもので、案の定、普段から繰り広げられているのと同じ流れだった。
ここまでくると、もはやいわゆる様式美と呼ばれるもの範疇なのかもしれない、とこのみは思う。

このみは、先ほどの亜美真美との会話をふと思い出した。
二人は「何もしてない」と言っていたはずだったけど……?
149 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:01:43.85 ID:5B03mR0i0

「……って、それは何もしてなかったから追っかけられてるんじゃないの!」

このみは、とうとう口をついてツッコんでしまう。
それを聞いた亜美と真美は途端に元気になって、このみを囃し立てる。

「おお、このみんのナイスなツッコミ頂きました!」

「うんうん、その調子だよ。このみん!」

それを見た律子は、半分呆れたような様子で、ため息をつきながら言う。

「まったく……。あんたたち夜に取材入ってたでしょ?今のうちに済ませといた方が楽なのよ。」

対して、このみの背中に隠れたままの二人はうぐ、と声を漏らした。

「そ、それはそうかもだけど……。」

「うう、助けてこのみ〜ん!」
150 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/07(土) 22:15:52.32 ID:5B03mR0i0

遊びたい盛りの中学生としては、宿題を後回しにしたくなるのはまあ当然だろう。
このみ自身も亜美真美と同じ歳のころはまだ、自分から進んで勉強する方ではなかったので、その気持ちも分かった。

「はあ、仕方ないわね。……いいわよ。このみお姉さんが人肌脱いであげるわ。」

「うう、このみん……!」

二人とも、地獄で仏を見たような顔をしていた。
成り行きではあったけれど、一緒に隠れんぼして遊んでた引け目も少しだけ感じていたこともあり、このみはそうすることにした。
とうとう本当に二人から手を合わせて拝まれてはじめたこのみは、そこで一回だけ、こほんと咳ばらいをした。

「そう、宿題の一つや二つ。このこのみお姉さんがばっちり教えたげる!」

「ええー!このみん、そうじゃないんだってば〜!」

控え室じゅうに二人の悲鳴が響き渡った。
151 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:24:31.67 ID:8BkDB5Im0

もうすっかり日は落ちてしまっていた。
日が沈んで辺りが暗くなる頃には、大勢いたアイドルたちも殆どが帰途についていて、また静かな劇場に戻っていた。

このみは、宿題を終えた亜美真美と別れたあと、事務室に戻ってきていた。
765プロの事務所の事務処理まわりの応援に行っていた青葉美咲は、夕方には帰ってきていたようだった。
劇場側でしかできない処理がいくつか残っているらしく、それだけ済ましておきたいとのことだった。
とはいえ、それほど時間のかかるものではないようで、このみは自分のことをすることにした。
152 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:26:08.91 ID:8BkDB5Im0

暫くして、このみが明日のスケジュールの確認をしていると、美咲は大きく伸びをした。
美咲のPCがシャットダウン中であるところを見るに、今ちょうど仕事が片付いたところだとすぐ分かった。

「美咲ちゃん。今日はお疲れさま。戸締りとか、後は私がやっとくわよ?」

「ありがとうございます。このみさんはまだ残っていくんですか?」

「そうね……。何となく、もう少しここに居ようかな、って。気にしないで。」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼しますね。」

お疲れさまでした!といつものように明るく言って、美咲は部屋を出ていく。
もしかしたら疲れて元気が無くなっちゃったりしてないかな、とこのみは思ったが、杞憂だったようでほっと安心した。
153 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:27:33.40 ID:8BkDB5Im0

ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、このみは辺りを見回した。
PCファンの回る音が普段より大きく感じられた。

本当は、特段何かする用事がある訳ではなかった。
ただ、何となくここを離れたくなかっただけだった。
部屋の電気を消して、鍵を閉めて。
ただそれだけのことが、このみにとっては言いようもなく切なく感じられて、それがきゅうと胸を締め付けた。
154 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:29:55.27 ID:8BkDB5Im0

このみは、机の奥側にあるブラインドを開けて、窓の外を覗いてみた。
そこからは、並木道に植えられた木々越しに、黒く染まる海が広がっているのが見えた。
静寂が覆う海と光が飛び交う街。
二つの世界を分かつ境界線であるかのように、岸沿いに街灯の明かりがずっと向こうまで伸びていた。
窓の端に添えた指先が、少し冷たかった。

このみの指が窓の桟に触れたとき、ざらっとした感覚があった。
よく見ると、そこに埃が少しだけ溜まり始めているように感じられた。
普段なら気にするほども無い程度だったので放っておこうとも考えたが、
どうにも気になってしまい、少しだけ掃除をする事にした。
155 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:33:34.50 ID:8BkDB5Im0

始めの窓を拭き終えたら、今度は隣の窓が気になって。
窓を全部拭き終えたついでに、机も別で拭いておこうかな、と。
そんな事をして、気がつけばそれなりに時間が経っていた。

「……これで大体は、終わったかしら。」

ふと時計を見ると、その針は20時に差し掛かろうとしていた。
このみは腰に手を当てながら、深く息を吐いた。
156 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:36:01.25 ID:8BkDB5Im0

最後に、目についたテレビの前のローテーブルも拭いておくことにした。
テーブルの上の、未整理のままになった書類やチラシ類を一旦移してから、このみは台拭きに手をかけた。
腰を下ろしてテーブルを端から拭いていたこのみだったが、そのとき、部屋の外から足音が微かに聞こえた気がした。

このみはそれが気のせいだと思わなかった。
思わず台拭きを持つ右手が止まった。
このみはテーブルから目を上げて、部屋の扉の方を向いた。
すると、磨りガラス越しに部屋の前の廊下の電気がぱっとついたのが分かり、それが確信へと変わった。

本当はもう必要なかったが、扉の外の様子に気がつかなかった振りをして、
このみはテーブルを拭く手をもう一度動かした。
足音が扉の前で止まり、ドアノブを回す音がした。
ゆっくりと扉が開く。

157 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/03/11(水) 01:36:50.74 ID:8BkDB5Im0

このみは、彼が此処に戻ってくることを知っていた。
このみは腰を下ろしたままで、扉を開けた彼を見上げていた。
そのとき、自然と二人は目があった。
スーツを着た男性は、優しい目をしていて、このみを見つめていた。

「このみさん。ただいま、です。」

子供みたいに笑って、彼はそう言った。

このみは何でもない返事を口にするのが、少しだけ不思議なように感じた。
ありふれた言葉ではあるけれど、言葉にするのが少しだけ照れくさくて、そして嬉しかった。
このみは立ち上がって、もう一度目線を合わせてから、答えた。

「──おかえりなさい、プロデューサー。」
158 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:26:26.21 ID:VqwG9xH+0

彼は、自身の机に持っていた鞄を置いて、少しだけネクタイを緩めた。

「プロデューサーはまだこの後残ってくの?」

台拭きを流しで洗い終えたこのみは、彼の方を見て聞く。

「いや、今日中に終わらせなきゃいけないものは、もう無いですね。」

彼は、クリアファイルに入った営業用の資料を、鞄から取り出しながら答えた。

「直帰でも良かったんですけど……。まあ、なんとなく、ですかね?」

部屋の奥にある書棚の戸を開け、彼は同じようなファイルが収められた段へ資料を入れた。

「ウフフ、そうなの。」
159 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:41:15.02 ID:VqwG9xH+0

このみは麦茶の入ったグラスを2つ用意して、ローテーブルに向かいながら彼にアイコンタクトをした。
彼の方も、すぐ行きますよ、といったように手で合図をした。
鞄を置いてから、彼は事務机が並んだスペースから抜け出して、このみの元へ向かった。

「プロデューサー、今日はありがとうね。無理言っちゃったとは思うけど……。」

このみは、そう言って彼にグラスを手渡した。
無理を言った、というのも、実はこのみは今日の分のスケジュールを、数日前に調整してもらっていたのだ。

最近の765プロライブ劇場のアイドルたちは、重ねてきた結果が少しずつ評価されてきたらしく、徐々に仕事が増えつつあった。
それはこのみも例外ではなく、テレビ番組の単発の仕事が入ったりすることも段々と多くなっていた。
160 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:41:49.25 ID:VqwG9xH+0

このみが件のオーディション資料を受け取ったのは、丁度一週間前のことだった。
それから、このみは仕事の合間の時間を縫うようにして、今回の役を理解するために資料を読み込んでいった。
普段のこのみであれば、それでも十二分に準備をしてオーディションに臨むことができただろう。
しかし、今回の役だけは、このままでは後から後悔するかもしれない、とこのみは思った。
それならば、出来る限りのことは試したいと思い、
どこか一日予定を空けられないか、とプロデューサーに声をかけたのだった。

「いえ、雑誌の取材が1つあっただけで、あとはレッスンだけでしたから。全然手間じゃなかったですよ。」

むしろ向こうの記者さんも、予定をずらした後の方がむしろ都合が良かったらしくて、と彼は続けて言う。
このみはそれを聞いて、ほっと息を吐いた。
161 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 00:43:30.84 ID:VqwG9xH+0

彼はこのみの向かいに腰掛けてから、グラスの中身を一口含んだ。
少しだけ間を開けて、表情を引き締めてから、このみに尋ねた。

「それで……なにか収穫はありましたか?」

このみの答えはもう決まっていたが、自分の中でそれらを今一度反芻していた。
改めて考えると、少し気恥ずかしさを感じるが、これが『あの子』と『私』なんだ、と今では胸を張って言える気がした。

「ええ、おかげさまで。ちょっと難しかったけど……。これでやっと、満足のいくものができそう、って感じかしら。」

「……それなら、よかったです。」

彼は胸を撫で下ろしたようで、その表情はまた穏やかなものに戻った。
162 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:05:17.73 ID:VqwG9xH+0

「あ、念のためオーディションのことについて確認なんですが……。」

彼はスーツの内側から手帳を取り出して、しおり紐の挟まれたページからぱらぱらと何枚かめくる。
目的のページを見つけたところで、彼は顔を上げた。

「本番が、2週間後の金曜日、ですね。選考はこの一回だけで、このオーディションに通過すれば、それで本番公演の出演が決まります。」

昨日までだったなら、オーディションやその先の話なんてとても意識できなかっただろう、とこのみは思う。
役とその方向性が具体的にイメージできたこともあり、このみは本番の舞台に立つ自分を想像した。

ドラマの撮影と違って、一度の失敗も許されない。
劇場の公演と違って、その舞台は私が知らない『劇場』なんだ。

全く新しい場所で、まっさらな自分で挑戦できることは、このみの心を強く惹きつけた。
『今の私で何処まで行けるんだろう』。『何ができるんだろう』。
このみ自身も意外に思ったが、そんな無邪気な好奇心にも似た気持ちを抱いていた。

一方で、このみの胸の中で、ささくれだって離れないものがあった。
このみは、それ自身が何であるかを、正確に言い表すことはまだできなかった。
ただ、それが手放してはいけないものだということだけはなんとなく分かっていた。
163 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:10:00.82 ID:VqwG9xH+0

「プロデューサー。その……。」

このみは、自分の中にある気持ちを言い表す言葉を探すようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「もし、私がそのオーディションに合格したとして……。そのときのスケジュールって、どんな感じになるのかしら。」

おそらく、このみ自身が引っかかっていたことは、それなのだ。
これだけは確かめておかなくてはならない、そんな気がした。

「そうですね……。公演時期は今年の冬で、公演の期間はまだ正式決定ではないですが、だいたい2週間くらいになるそうです。
本番の2ヶ月前くらいから少しずつ演技面での練習が入り始めて……。」

「おそらく、公演直前の1週間くらいは殆ど毎日が集中稽古になりますね。朝から晩まで、一日中出ずっぱり、と言った感じのものです。」

彼は手帳を広げながらそう答えた。
164 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:11:20.82 ID:VqwG9xH+0

「そう、なのね。」

自身の意識の中へ潜りながら、このみはそう返事した。
それは、暗闇の中手探りで失せ物を探すかのようだった。

「役に選ばれたら全体稽古の予定も正式に通知されるはずですが、やはり本番の2か月前くらいからだと思っていてください。」

彼はそう言った後、持っていた手帳をしまって、このみの方へと向き直した。
対するこのみは顔に手を当てたまま、漠然としたままの感情を一つ一つ切り分けて、その原因を探していた。
自分の気持ちに訊ねては、ああでもない、こうでもないと繰り返す。
彼の言葉から少しだけ間が空いて、ようやくこのみはいまの自身の心を説明するための、たった一つの結論を得た。
このみの口がゆっくりと開いた。

「もし、私がそのオーディションに合格したら……。公演期間を入れて、1ヶ月くらいかしら。ううん、それよりもっとかもしれないけど……。」
165 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:12:08.44 ID:VqwG9xH+0

このみは、彼が自身の声をいつだって受け止めてくれることを知っていた。
殆ど呟くような声だったが、それは未だに不安も迷いも抱えたままであることを物語っていた。
そしてこのみは一呼吸ほどの間の後、彼に尋ねた。

「そうなったら、当分の間アイドルはお休み……ってことよね。」

その問いの答えは、このみ自身も分かっていることだった。
しかし、このみにとってそれが何より大切なことであると、彼は知っていた。
だからこそ、彼はその言葉を伝えることを少しだけ躊躇った。

生まれた静寂の中で、二人は夜の空気の冷たさを感じた。
彼はその冷たさから逃れるように、右手を握りしめた。
それでも伝えなければならない、と。
彼はそっと口を開いた。

「……ええ、そうするつもりです。」
166 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:12:56.66 ID:VqwG9xH+0

このみはその言葉を聞いても、表情は変わらないままだった。
彼は手に持ったままのグラスに目を向け、続けて言う。

「もちろんギリギリまで並行してアイドルの仕事もする、ということが出来ないわけではないですが……。」

彼の手がわずかに揺れた。
手の中にあったグラスの中身は波を立て、溶けて一回り小さくなった氷がからんと音をたてた。
グラスの周りについた冷たい水の滴が、つうと表面を伝って、ひとつふたつと底の方へ流れていった。
彼はグラスから目線を切って、もう一度このみを見た。

「それでも、やっぱり俺は、このみさんに無茶はしてほしくないですから。」

その目は、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。
このみと彼は、もうそれなりには長い付き合いになっていた。
だから、本気でそう言ってくれているんだ、とこのみにははっきりと分かった。

「そうよね。……ありがとう、プロデューサー。」
167 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:13:28.76 ID:VqwG9xH+0

かつて、このみは彼が言うところの「無茶」をしたことがあった。
大変だとは分かっていたが、自分にとってそれができないとは思わなかったし、
最後まで責任を持って結論を出すことが、自立した大人としてあるべき姿なのだと思っていた。
実際、いまもその考えは変わっていない。
ただ、ときにそれが、知らない間に周りの誰かを心配させてしまうことがあるのだと、このみは知った。

もし大切な人が荷物を一人で抱え込んでいたのなら、
手を伸ばしてその人の力になりたい、頼ってほしい、このみは思うだろう。
辛そうな顔は見たくないし、笑っていてほしい。
このみが劇場の大切な仲間たちにそう思っているのと同じように、
頼ってほしいと思ってくれる大切な人がたくさんいる。
168 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:14:10.81 ID:VqwG9xH+0

だからこそこのみは、自身のいまの素直な気持ちを彼に伝えたかった。
それを届けることが、互いの願いだと知っているのだから。

「ねえ、プロデューサー。」

このみは彼の名を呼んだ。
普段より少しだけ、甘えるような声だった。

「その……。私ね、この劇場のことが、自分で思ってたよりもずっと大好きだったんだ、って。そう気づいたの。」
169 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:15:12.43 ID:VqwG9xH+0

胸に手を当てながら、このみは自分の中から出てきた気持ちをそのまま言葉にした。
それが自分の中でこんなにも育っていたなんてと、このみ自身も驚いていた。
このみは自身のグラスに目を移して、そっと左手で触れた。
思いを綴るたびにこのみの胸の中にまた言葉が浮き上がっていく。
胸がいっぱいになって、それでも溢れだす気持ちがそのまま言葉になって、このみ自身にも止まらなかった。

「プロデューサーに見つけてもらって、気が付けばアイドルになってて……。まさか、自分がアイドルになるだなんて、考えたこともなかったわ。」

左手の中のグラスに目を向けたまま、このみは思い出すようにして言った。
グラスの表面の結露の冷たさを指先で感じて、親指で拭った。
そして、このみはそっとグラスを置いてから、彼へと視線を向けた。
彼がそうしたように、ただまっすぐに瞳を見つめて。

「でも、アイドルになって良かったって思う。ずっとこのままみんなとアイドルしていたい、って思ってる。」
170 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:15:55.10 ID:VqwG9xH+0

互いが互いの眼を見ていた。
しかし、先に目線を切ったのはこのみだった。

「けど……。」

指先の濡れた左手に目を向けて、このみは押し黙った。
その静寂の中で、時計の秒針の音だけが聞こえていた。
少しの間のあと、ぽつりと溢すように、このみはその先の言葉を続けた。

「……多分気づいちゃったんだと思う。私も、アイドルじゃなくなる時が、いつか来るんだ、って。」
171 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:16:54.05 ID:VqwG9xH+0

その声は、微かに震えていた。
言葉にした途端に、それが決して遠い誰かの話でなく、紛れもなく現実の自分の話なのだと、このみは思い知らされた。

このみは彼の方を見た。
彼は、静かにこのみの話を聞いていた。
拳数個分ほど開いた膝の上で腕を抱えるようにして、その体勢のままほとんど身動きさえしなかった。
彼のその様子からは、繊細で、容易く揺れ動いてしまいそうなこのみの話を妨げないように、という彼の思いが見てとれた。

しかし、このみには分かっていた。
彼の抱えた手が、陰で握られていることも。
時折強く目を瞑っていることも。
決して声を漏らすまいと、ぎゅっと口を噤んでいることも。
172 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:18:11.64 ID:VqwG9xH+0

それを知っているからこそ、このみは先を続ける。

「きっと、それはまだ、ずっと先のことだけど……。」

そうであったとしても。

「……もし私が鶴の役に決まったら。私が『あの子』でいる間、私は『アイドル馬場このみ』でいられない。」

それはこのみにとって、決定的なものだった。
たとえそれが一時的なものであったとしても、この劇場を離れて、全く別の舞台で、全く別の世界を生きるのだ。
このみ自身、それが自分の人生において何を意味するのかは分からなかった。
ただ、今はまだ離れたくない、手放したくない、と。
それは、このみの一番深いところから出てきたものだった。

彼の顔は陰に隠れてしまっていて、このみはその表情を正確に窺い知ることはできなかった。
けれど、堰を切ったように溢れ出したこのみの感情はもう止まらなかった。
173 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:18:48.21 ID:VqwG9xH+0

このみの中で、走馬灯のように様々な景色が浮かんでは消えていった。
そして、最後に現れた劇場の定期公演の情景だけが、このみの胸の内から離れなかった。
幕が上がる瞬間。
下手から上手まで、いっぱいに広がった仲間たち。
溢れだす光と歓声。

長期間劇場から離れるということは、月に一度の定期公演にも参加できなくなることを意味する。
このみにもそれは分かっているつもりだった。
今までにも、他の仕事と重なって定期公演に出られなくなったときだって、何度もあった。
それは、今までと同じはずなのに。
174 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:19:33.28 ID:VqwG9xH+0

「私一人いなくなったって、何か問題が起きるわけじゃない。ううん、最近のみんな、すごく頑張ってるもの。だから……。」

幾重に広がる光たちの上で、劇場の仲間たちが舞い踊る。
願いは歌になって、ステージからファンのみんなへと飛び立って。
それはペンライトの光になって、ステージへと届けられる。

そんな夢のような世界を。
このみは、ただ遠くから見ていた。
手を伸ばしても届かないほど、遠く暗い場所から。

それでも、このみはある『色』を縋るように探した。
どんなに小さくても、どんなに微かな光であったとしても、と。
それこそが、『アイドル馬場このみ』の存在証明なのだから。
175 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/04/10(金) 01:20:47.77 ID:VqwG9xH+0

ステージは完璧だった。
たった一つ、その世界に、馬場このみがいないことを除いては。

そのまま手放せてしまったのなら、どれほど楽なのだろうか。

何も知らないままでいられたのなら、こんな胸の痛みに気づくこともなかったのに。

もしも。
あのステージから見える景色と、初めから出会っていなかったのなら──。
176 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:45:50.32 ID:9DhA16vx0

伸ばした手に、何かが触れた。
このみがはっとして意識を戻すと、そこは劇場の事務室だった。

左手の感覚は、思い違いではなかった。
このみが目線を上げて辿ると、その手は彼の両手でぎゅっと握られていた。
このみの小さな手は、すっかり覆われてしまっていた。
このみは驚いて、彼の顔を見た。
彼は、いろんな感情がない混ぜになったような、複雑な顔をしていた。
不安も迷いも抱えて、それでもじっとこのみの顔を見つめていた。
彼のその表情をみたとき、自分がどんなにひどい表情をしていたのか、このみは分かってしまった。
このみは、彼の手に力が入るのを、握られた手越しに感じた。
突然のことだったが、自分が大切にされているんだと、このみにははっきり分かった。
177 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:46:25.80 ID:9DhA16vx0

「このみさん。」

彼は、手を握ったままこのみを見つめて、一言、そう言った。
このみは、ただそれだけで、冷えきった左手が暖かくなるのを感じた。
少しの間が空いて、それからこのみは口を開いた。
ぽつりぽつりと、言葉を溢すように。

「……ステージにみんながいるのに。私一人だけが何処にもいないなんて、苦しくて。」

本当ならば、劇場のみんなが活躍していることを喜ぶべきなのに。
このみは、それを心から素直に受け止めることができそうになかった。
178 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:54:39.64 ID:9DhA16vx0

自分の居なくなった世界が、それまでと同じように、淀みなく回り続けるのが嫌だ。

それは嫉妬にも独占欲にも似た感情だった。
自身の中にこんな下卑た気持ちがあったのかと、このみは心底思わされた。

「……おかしいわよね、こんなの。子供のわがままみたいだって、自分でも思うもの……。」

分かっていても、もうどうにもならなかった。
これが何かを好きになってしまったことの代償ならば、世界は残酷だ。
どれほど身を焦がしても、それが届かなかったのなら、それは──。
179 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:56:54.25 ID:9DhA16vx0

もう一度だけ、手がぎゅっと強く握られた。
このみがそれに気がついて目を向けようとしたとき、また顔が下を向いてしまっていたのだと自覚した。
このみが顔を上げると、彼と目が合った。

「このみさんに、伝えたいことがあります。」

彼は、このみに気取られぬよう、震えそうな声を押し殺してそう言った。
芯の通った声だった。

束の間の静寂があった。
このみは、自身の鼓動が少しずつ早く、そして大きくなっていくのを感じていた。
それは、握られた左手越しに、彼に伝わってしまいそうなほどだった。
180 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:57:44.26 ID:9DhA16vx0

彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。
181 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:58:26.38 ID:9DhA16vx0
>>180 訂正

彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。

「……俺は、あなたのプロデューサーです。
 あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
 だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」

彼は真っ直ぐにそう言った。

「幸せ……?」

「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」
182 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 21:59:43.74 ID:9DhA16vx0

夢──。
子どもだった頃は、たくさん夢があった。
テレビを見て影響されて、その度に何々になりたい、だなんて。
そうやって、いつも母に言いに行ったりしていたらしい。
今はもう覚えていないけれど、やっぱり子どもらしくて、たわいのない夢だったのだと思う。
183 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:00:24.25 ID:9DhA16vx0

周りのみんなが大人になっていくように、私も大人になった。
普通の人生のなかで、ささやかな幸せを見つけて。
そうやって生きていくものだと思っていた。
だから、大人になった私は、きっとあの日まで夢を見てこなかったんだと思う。

『私みたいな大人が今からアイドルを目指すなんて、おかしいと思ってる?』

24歳という年齢は、決して若いとは言えない。
最年長、といえば聞こえは良かったけれど、
アイドルとして夢を見ていられる時間が少ないんだと、ずっと分かっていた。
だから、はじめの頃は焦ってばかりいたように今では思う。
上手くいかないことだらけで、戸惑うことも多かった。
それでも一つ一つ身につけて、必死に一歩ずつ前へと進んできた。
184 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:00:50.73 ID:9DhA16vx0

今振り返れば、アイドルになってから本当に色々なことがあった。
スパイのエージェントとして、迫りくる罠たちを、力を合わせて突破したこともあった。
「屋根裏の道化師」のときみたいに、演技で表現するような仕事も、最近は少しずつ増えてきた。

時には変な仕事もあるけれど、劇場に戻ればいつだって、なんてことのない、騒がしい日常がそこにある。
公演の日には、いつもと変わらない仲間たちと一緒に、大好きなこの場所でファンのみんなと過ごすことだってできる。
185 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:01:55.24 ID:9DhA16vx0

以前の自分では気づかなかったことが沢山あって、今の自分だから分かったことがある。

『私はひとりじゃない』。

思いを共にする仲間たちがいる。
背中を任せられる戦友がいる。
そして今の自分には、かけがえのない大切な人がいる。
それは、私の道をずっと近くで応援してくれた人たち。
186 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:02:46.13 ID:9DhA16vx0

不安を抱えたままこの世界に飛び込んで、たった一筋の光に出会えた日のことを今でも鮮明に覚えている。
輝いた舞台に立てるのならば、あの景色をもう一度見れるのならばと、どれだけ苦しくても諦めずにいられた。
少しずつでも進んでこられたのは、あの抱いた憧れが胸の中にあったからだった。

でも、今の私の中にあるのは、もうそれだけなんかじゃない。

あの日見た光の波のその向こう側には、私たちを応援してくれた人たちがいたんだ、って。
私に夢を見せてくれた人たちがそこにいるんだって、胸の中からいつだって勇気をくれる。

だから、私は──。
187 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:05:29.73 ID:9DhA16vx0

「──私に色んなものをくれた、大切な人たちに。
 あなたに出会えて良かった、って伝えたい。」

「私が、『アイドル』馬場このみとして最高に輝く姿を見てほしい。
 出会ったのが間違いなんかじゃないって、
 心から思ってもらえるような、そんな最高の私を──。」

言葉にしたのは、きっと初めてだった。
抱えたこの気持ちは、言葉で伝えるにはあまりに足りないから。
だから全部抱えて、届いてほしいと願っていた。
188 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:07:04.45 ID:9DhA16vx0

彼は、このみの手を握っていた両手を、そっと離した。
その表情は、先ほどよりもずっと落ち着いていた。

「……俺なんかよりも、このみさんの方が人生経験はずっと多いと思います。
 色々なものが見える分、不安も迷いも、余分に抱えてしまうかもしれません。」
189 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:07:47.53 ID:9DhA16vx0

彼の言葉を咀嚼しながら、このみは考えていた。
このみは経験から分かっていた。
自身のそういう性質、この『悪い癖』は、一生付き合っていかなければならないものだと。
ある程度は変わることはできても、それ自体を無くすことは出来ないだろう、と。
それでも──。

「俺は、『アイドル』はわがままでいいと思います。
 いろんな願いを叶えて、幸せになって。
 あなたの幸せを願って、応援してくれる大切な人たちが、いつだってたくさんあなたにはいます。」

──それでも、自分のそんな所さえも愛してくれる人がいるのなら。
自分の好きな所も、そうでない所も。
歩いてきた全てが『馬場このみ』の軌跡なのだと、胸を張って言えそうな気がした。
190 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:09:15.88 ID:9DhA16vx0

「だから、このみさんがアイドルを辞めるときは、
 きっとここじゃ叶えられない願いを見つけたときなんだと思います。
 でも、その願いもきっと、みんな応援してくれます。
 それは、大切な人の──あなたの夢だから。」

アイドルの先にある、夢。
このみは目を瞑って深呼吸して、想いを巡らした。
『アイドル』で願った夢を全部叶えた後の自分が、その先に何を見つけるのだろう?

しばらくして、このみは息を吐いてから目を開けた。

「……ダメね。私には、まだ想像だってできないみたい。」

そこまで言って、このみは笑った。
191 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:12:50.31 ID:9DhA16vx0

「──でも、いいの。」

アイドルを辞めた先を想像出来ないのは、
きっと『アイドル』として叶えたい夢が目の前にあるからなんだ、とこのみは思った。
それは、今の自分が『アイドル』であることの、確かな証拠だった。

「だって、今の私は『アイドル』だから。先のことは分からないけど……。
私は、大切な人たちと一緒に、大切な今を歩いていきたい。」

「このみさん……!」

このみは、眉間のあたりがきゅうと熱くなるのを感じた。
目をぎゅっと瞑ったり、瞬きをしたりして、それからそっと深呼吸をした。
192 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:13:55.06 ID:9DhA16vx0

息を吐いてから、このみはゆっくりと口を開いた。

「やっぱり、ファンのみんなに会えなくなっちゃう、っていうのは寂しいけど……。」

そこまで言って、このみは彼の顔を見た。
このみには、彼が自分のために胸を痛めてくれているのが伝わってきて、
そうやって心配をかけてくれるのが、何より嬉しかった。
193 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:14:26.48 ID:9DhA16vx0

だからこのみは、笑ってこう言った。

「プロデューサー。けど、心配しないでね。
 この演劇のお仕事は、私が自分でやると決めたことだから。
 今の私に必要なことなんだって、今ではそう思えるの。
 心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫よ。」

それを聞いて、彼は少し安心した様子を見せた。

「……俺はこのみさんのことを信じています。だから、俺はあなたが歩む道を応援します。
なのでこれは、『アイドル』馬場このみの、いちファンとしての意見なんですが……。」
194 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:15:39.55 ID:9DhA16vx0

彼は、少しだけ逡巡した様子だった。
深く息をしてから、彼はつぶやくように言った。

「……やっぱりファン側も、寂しいんです。このみさんと会えなくなるのは。」

このみは、彼のその言葉を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
つい先ほど自分で決めたことでさえ、揺らいでしまいそうな気がした。
この仕事に挑戦するということは、劇場から、大切な人たちのもとから離れるということなのだ。
選んだその選択に、本当に間違いはないのだろうか?
答えのない問いにこのみは苛まれそうになった。
このみは胸が詰まって、何も言葉が出てこなかった。
195 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:16:08.52 ID:9DhA16vx0

「……でも。」

張りつめそうになった空気のなか、彼はそう言った。
その声を聞いて、このみは顔を上げた。
彼はこのみの顔を見て、その言葉の先を続けた。

「でも、大丈夫です。……だって、このみさんは劇場のアイドルですから。
またこの場所で、あなたに会えるって、みんな信じてますから。」

思わず、このみは息が止まった。
たった一言。それだけで、不思議と胸のわだかまりが解けていくような気がした。

このみは、自分の中でたった一つだけ、足りなかったピースが埋まるような感覚があった。
それはきっと心の内で、ずっと欲しいと願っていた言葉だ。
196 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:16:35.16 ID:9DhA16vx0

このみはもう、彼のその言葉の先に何があるかを知っていた。
逸る気持ちに胸が高鳴ることを自覚しながら、このみは彼を見て、確かめるように呟いた。

「そ、それって……。」

彼はただ頷いて、言葉を続けた。

「確かに、このみさんがしばらくアイドル活動できなくなることで、
ファンの人たちには、寂しく感じさせてしまうかもしれません。
……それでも、またこの劇場の舞台であなたに会える日が来る、って分かっているから。
それだけできっと大丈夫です。」
197 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:17:44.90 ID:9DhA16vx0

「例え大切な人と会えない日が続いても、
 次会える日まであと何日だろう、って数えてみたり、
 どういう服を着ていこうかな、って考えてみたりするのも楽しくて。
 しばらく会えなかったとしても、その会えなかった日の分だけ、会えたときにほっとして嬉しくなる。
 ……『誰かを好きになる』って、きっとそういうことなんだと、俺は思います。」

胸の中にあった気持ちが線で繋がって、胸いっぱいに広がっていくのを、このみは感じていた。
198 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:18:21.38 ID:9DhA16vx0

このみには、あの心地良い歓声が聞こえてくるようだった。
気が付けば劇場のみんなと舞台の上に立っていて、大勢の観客たちの前で歌を歌っていた。
ふと前を見れば、色とりどりの光の向こう側に、特別な人たちがいた。
一人、また一人と、ステージからの光に照らされるようにして、大切な人たちの顔が見えた。
まるで出会う前から出会うことが決まっていたみたいな気がして、いつも伝えたい言葉の先にいてくれた。
そして、このみとの間──二人の間には、いつだって桃色の光があった。

このみが歌声とともに手を伸ばせば、その先に柔らかな笑顔が見えた。
それを見たこのみは、思わず自分の頬も緩んでいくのが分かった。
まるで桃色の光を伝って気持ちが互いに伝播していくみたいで、
ステージの上の自分からひとりひとりに、心の奥底で繋がったような感覚があった。
199 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:19:11.33 ID:9DhA16vx0

胸の中にずっとしまい込んでいたものがあった。
本当はそう信じていたかった。
でも、もし違ったら。そうでなかったのなら。
……傷つくのが怖くて、ずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。
でも、今ならきっと信じられる。
『私の大切な人たちも、きっと私と同じなんだ』と。

自分の進む道が、初めから決められている人なんていない。
私がそうだったように、みんな進む道に悩んだり迷ったりもする。
ときには先に何があるか分からないまま、進む道を決めなくてはならないことだってあった。
それでも、二つの道が交差するように、人と関わり合いながら、誰もが自分の道を歩いていく。
その中で。偶然素敵な場所に巡り合って、色々な人と共に過ごして──。
──そして、『誰かを好きになる』。
200 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:19:59.87 ID:9DhA16vx0

劇場のステージで、大切な人たちへ想いを届けようとしたはずなのに、いつだってそれよりもっと大きなものを貰っていた。
私は、自分の気持ちをいつも伝えられずにいて、受け取ってばかりだ、と。ずっと、そう思っていた。
だけど、今はもう分かる。
私がずっと伝えたかった想いは、きちんと私の大切な人たちに届いていたんだ。
私の大切な人たちが、こんなにも素敵なものを私にくれること。
それは、私がみんなに想いを届けたいと思うことと、きっと一緒で。
想いを寄せてくれる大切なひとに、自分の気持ちを届けたいという想いは、何も変わらないんだ。

気が付けば、このみの目元は雫で濡れていた。
堪えられずこのみが瞬きをしたとき、それは堰を切ったように頬を流れていった。
一粒、二粒と溢れた涙はやがて落ち、このみの手の甲を濡らした。

「ああ、もう。どうして……。」

このみは、左手の親指で目元を拭った。
いくら指でなぞっても涙は止まらなくて、溢れてくるばかりだった。
このみは目元を手で隠したままで、彼から見えないように、顔をそっと伏せた。

「……どうして、こんなに涙もろくなっちゃったのかしらね……。」
201 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:20:38.26 ID:9DhA16vx0

声を詰まらせながら、このみは自問するようにそう呟いた。
ただ、このみはその答えが何であるかを既に知っていた。
知っていたから、涙が溢れて止まらなかった。

「その、このみさん……っ。良かったら、これを……。」

このみは、伏せた頭越しに彼の声を聞いた。
自分の滲んだ視界にあてられたのか、このみにはその声は、どこかくぐもって聞こえた。
202 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:21:33.39 ID:9DhA16vx0

指で涙を拭いながら、このみはゆっくり顔を上げた。
差し出されたハンカチを受け取りながら、このみは声をもらした。

「……ごめんなさいね、プロデューサー。私……。」

そこまで言って、彼の顔を見たところで、このみの声が止まった。
彼の顔もまた、涙で濡れていた。
このみが見たときには、彼はもう顔中ぐしゃぐしゃになっていた。

「このみ、さん……。俺……。」

途中、ぐすぐすと鼻の音を鳴らしながら、彼は言う。
このみは、二人して泣いてる状況がなんだかおかしくて、つい頬がゆるんだ。
その頬に沿って、雫が一筋、弧を描いて流れていった。

「……もう。なんでプロデューサーが泣いてるのよ……。」

このみは、受け取ったハンカチを当て涙を拭いながら、笑ってそう言った。
203 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:22:27.11 ID:9DhA16vx0

「そ、それは……。」

彼は右手で、ぐしぐしと自分の涙を払った。
それから、彼は指先を頭に当てて小さく呼吸をした。
しばらくして、彼は震える声でゆっくりと言葉を続けた。

「……だって、あなたと……。
 もし、このみさんと出会えてなかったら……。
 こんなふうに誰かに自分の気持ちを伝えようって、思ったりしなかった、って。」

このみは、胸の奥がきゅうとなるのを感じて、目頭に熱が上っていくのがわかった。
思わずこのみは両手を顔に当てた。
溢れ出る涙はこのみの指先を濡らして、どんどん頬を伝い流れていく。
このみは、涙を拭くのさえ忘れてしまっていた。
ただ、胸の中の暖かさが、じんわりと体に広がっていくのを感じて、
そこから動くことができなかった。

彼は、溢れる感情に促されるように、前へと体を預けた。
脚に肘をついて体を支えるような体勢のままで、それでも零れ落ちた想いが顔を伝って流れていく。

「そう思ったら、なんだかもうっ……。」
204 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:23:18.24 ID:9DhA16vx0

ぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
シャツの袖口は、一つ二つと、どんどん濡れて色が変わっていく。
えぐえぐという声を漏らす彼に、このみの涙がまた頬を伝っていった。

「私より、プロデューサーの方が泣いてるじゃない……。私にハンカチ渡してる場合じゃ、ないわよ……っ。」

「で、でも……。それだとこのみさんが……。」
205 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:24:16.97 ID:9DhA16vx0

彼がいくら手で拭っても、涙は止まらなかった。
このみは、自分の手の中にあった彼のハンカチを見た。
しかし、そのハンカチはもうこのみの涙で濡れてしまっていた。
このみは、横に置いてあった自分の鞄に手を差し入れて、そこから一枚のタオル地のハンカチを取り出した。

「……はい、プロデューサー。私のを使って。」

「うう、すみません、このみさん……。」

彼は左手でハンカチを受け取って、そのまま涙を拭いた。
そんな彼の様子を見て、なんだか子どもみたい、とこのみは顔を綻ばせた。

静かな夜、二人の潤んだ声だけが部屋の中を包んでいた。
少し気恥ずかしくもあり、そして不思議と心地が良い、そんなひととき。
いつまでもこの時が続いたのなら──このみは湧き上がる気持ちを胸にひそめて、そっと微笑んだ。
206 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:24:56.73 ID:9DhA16vx0

それから、幾ばくかの時間が過ぎた。
彼は時折、深く息を吸ってみたり、目をぎゅっと瞑ったりしていた。
しばらくしてから、彼は顔を上げ、ゆっくりした調子で言った。

「すみません……たぶんもう、大丈夫です。」

「落ち着いた?」

「ええ、おかげさまで……。」

「まだ目が少し赤いわよ。」

「……それは、このみさんもですよ。」
207 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:25:22.73 ID:9DhA16vx0

二人が気が付けば、時計の針は21時を過ぎていた。
グラスの中の氷も、すっかり全部溶けてしまっていた。
あまり遅くなると、翌日の仕事にも響くかもしれないと、二人は帰り支度を始めることにした。
彼は台拭きを取ってきて、テーブルを拭き始めた。
このみは、テーブルの上に乗ったままのグラスを二つ持ち上げて、その間テーブルを拭く彼を何気なくじっと見ていた。
彼がテーブルを拭き終えたことを確認してから、彼女は二つのグラスを重ねて、片手に持ち替えた。

「これも、もう片付けちゃうわね。」

「ええ、助かります。」
208 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:26:20.70 ID:9DhA16vx0

二人分のグラスを持って、扉の横にある給湯スペースに向かった。
ところが、少しだけ歩いたところでこのみはそっと足を止めた。
少しの間が空いてから、その場で振り返って、このみは訊く。

「……ねえ、プロデューサー。」

このみは、グラスを後ろ手に抱えたままで、彼を見た。

「その……。もしも、私が役を貰えたとして……。
 それで、私がこの劇場にいない間に、私が演技に目覚めちゃったら、どうする?
 もうアイドルを辞めて、女優の道に進みたいって、思ったとしたら?」
209 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:28:22.19 ID:9DhA16vx0

本心を隠すようにイジワルっぽく笑って、このみはそう言った。
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
こめかみのあたりを指で掻いて、少しの間考えて。
それから、このみを優しく見つめて、答えた。

「今までも、演技の仕事は何回もありましたけど……。やっぱり、きっと素敵な女優さんになるんでしょうね。
 このみさんがそう願うのなら……。いつかきっと、大勢の人の胸の中にいつまでも残るような、そんなお芝居ができると俺は思っています。ただ……。」

彼はそこまで言ったところで、言葉を飲み込んだ。
どこか、その表情はもの悲しげにも見えた。
しかし次の瞬間には、彼の顔からその色は消えていた。
彼はもう一度このみの方を見て、言葉を続けた。

「……ただ、もしこのみさんが女優の道を進むことになっても。
 例えこの劇場から離れて、本格的に演技のお仕事ができる他の事務所へ移ることになったとしても……。
 ……この場所は、変わらず此処にありますから。
 だから、気が向いたときにいつでも遊びに来て、それでまたみんなと色んなお話をしましょう。」
210 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/05/08(金) 22:31:16.57 ID:9DhA16vx0

このみは、いつか来るかもしれない、そんな何年後かの未来を思い浮かべた。
今より歳を重ねた自分が、仮に女優の道を歩んでいたとして──あるいはそうでなかったとしても。
やっぱり、私はこの場所に来てしまうんだと思う。
そこには今より大きく、大人になった仲間たちが居て。
今と同じように、何でもない話をして、みんなと笑って過ごしてる。
そんな、素敵な未来を。

「うふふ、ありがとう。プロデューサー。」

この先何と出会い、アイドルの先に何を見つけるのか──。
このみは、まだその答えを知らない。
でも、一つだけ確かなことがある。

「でも、大丈夫よ。……だって今の私は『アイドル』だもの。叶えたいこと、まだまだ沢山あるんだから!」
211 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:17:28.19 ID:3DhfCsSR0

「着きましたよ、このみさん。」

彼は、ハンドブレーキをかけながら、助手席に座るこのみに声をかけた。

「ええ、ありがとう。プロデューサー。」

このみは、シートベルトを外して、持ってきていた小さな鞄を手に取った。
車を下りたこのみは、日差しを遮るように目の上に手を当てた。
雲が恋しくなるほどに空は晴れ晴れとしていた。
普段朝方はあまり調子がでないこのみだが、こうして陽の光の下にいると目の奥まですっと晴れていくような気がして、案外悪くない気分だった。
このみが腕時計を確認すると、針は午前9時ちょうどを指していた。
212 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:22:46.44 ID:3DhfCsSR0

二人は、オーディションが行われる会場近くのコインパーキングにいた。
彼が運転席側のドアノブに触れると、電子音と共に鍵が閉まる音がした。
それを確認して、二人は歩き出した。

「今さらだけど、別に送ってもらわなくても大丈夫だったのよ?」

「いえ、俺がしたくてしてることですから。あと、できれば監督に挨拶をしておきたいというのもありましたし。」

「挨拶?」

このみがそう聞くと、彼は少し答えにくそうな様子だった。

「ええと、今回はたまたま向こうから声をかけてもらえたんですけど、あんまりうちの事務所とコネクションがある訳じゃないんですよ。まあ、それが理由ですね。」

「なるほどね。……そういえば、前に言ってたわね。
スタッフさんの中に『屋根裏の道化師』を見てくれた人がいて、それで偶然声を掛けてもらった、って。」

「ええ。なので、他のアイドルも含めて、今後同じようにオーディションの話を貰えるかは分からなくて。
次回以降も声を掛けてもらえるように、事務所としても、さりげなく765プロをアピールしておきたいんですよ。」
213 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:23:26.15 ID:3DhfCsSR0

二人は車を止めたパーキングから通りへ出た。
そこには背の高いビルがいくつもと並んでいて、通りには車がひっきりなしに走っていた。
そのままこのみが彼についていくと、しばらく通り沿いを歩いたところで、灰色っぽい建物が見えてきた。
その建物こそが、今回の舞台の企画・制作会社の本社の入るビルであり、オーディションの会場なのだ。
まもなくビルのそばに二人は到着したが、間近で見てこのみは改めてその高さに圧倒された。

二人がエントランスに入ると、そこには各階に入っている企業や団体が書かれた案内板が貼られていた。
案内板によると、このビルの9階から11階、ちょうど3フロア分を使っているらしかった。
芸能業界だけでなく一般の企業も入っているビルなのだが、そのどれもが名の知れた企業だった。
214 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:24:43.30 ID:3DhfCsSR0

二人が9階で受付を済ませたあと、会場として指定されていた11階にエレベーターで向かった。
このみたちがエレベーターから降りると、ちょうど廊下の方からスーツ姿の男二人が話をしながらこちらに向かってきていた。
一人は50代ごろのやや落ち着いた老練そうな雰囲気のある男で、眼鏡をかけていた。
下顎から頬にかけて伸びる髭は綺麗に整えられていて、男の几帳面さが伺えた。
一方、もう一人は30代前半くらいの、背の高い男だった。
このみのプロデューサーも平均より背が高い方だが、その男は彼よりさらに大きく、185cmはあるだろうと感じた。
筋肉質でがっしりとした体格をしていて、ステレオタイプな体育教師のような雰囲気を持っていた。
スーツを着ることにそれほど慣れていないのか、首回りの窮屈さを気にするように、襟元に手をやっていた。

このみのプロデューサーも続いてその二人に気が付いたようだったが、それと同時に背の高い男の方もこのみ達に気が付いたらしかった。

「あれ……確かあなたは765プロの……。」

背の高い男は、このみのプロデューサーを見てそう言った。
このみのプロデューサーは、ご無沙汰しております、と返事をした。
215 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:25:20.21 ID:3DhfCsSR0

今までに面識こそなかったものの、このみはこの二人のことをよく知っている。
二人の名前は、今回の演劇のオーディション資料の中で、何度も見た。
この二人こそが、『鶴』の物語を手掛ける舞台監督と演出家だ。
髭を生やした男は舞台監督として、過去多くの舞台に関わって来た、いわば大ベテランだ。
特に、冷静な判断力と大胆な行動力とを併せ持っていると、スタッフや演者たちからは評判らしい。。
一方で、背の高い男は演出家としてはまだ若手ではあるものの、ここ数年で頭角を現してきたと評されているらしかった。
裏方の仕事の中でも、演出家は舞台の出来そのものを大きく左右する重要な役割を担っているが、
彼は特に求める演技にストイックで、一切妥協をしない性格であると、このみは聞いている。
二人はこの後始まるオーディションの審査員でもあった。
216 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:26:40.55 ID:3DhfCsSR0

演出家の男は、このみ達がオーディション参加者であると舞台監督の男に紹介した。
それに合わせるようにして、このみは自己紹介をした。

「765プロの馬場このみと申します。本日はよろしくお願いいたします。」

「馬場さん、こちらこそよろしくお願いします。」

このみが頭を下げてそう言うと、舞台監督の男もこのみと同じくらい頭を下げ丁寧に答えた。

「あちらの方に控え室を用意してますので、オーディションの時間までもうしばらくお待ちください。」

彼が手で指し示した部屋には、控室と書かれた紙が貼ってあった。
舞台監督の男はこのみのプロデューサーと名刺を交換して、その後演出家の男と階段で下の階へ降りていった。
217 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:27:21.29 ID:3DhfCsSR0

このみのプロデューサーは、交換した名刺をしまってからこのみの方を見た。
このみは、彼越しに控室に貼られた張り紙をじっと見ていた。

「……このみさん、緊張してますか?」

「してないわけじゃないわ。でも……丁度いい緊張、かしら。」

このみは笑って、そう言った。
今までずっとこのみの近くにいた彼には、その表情からこのみがオーディションに集中できていることが読み取れた。

「それじゃあ、俺は昼頃また迎えに来ます。応援してますからね。」

彼はおもむろに、このみに手のひらを向けるように手をかざした。

「ええ、プロデューサー。行ってくるわね。」

このみはそう言って、脚を動かした。
すれ違いざま、彼と目を合わせた後、このみは彼の手に自身の手のひらを打ち当てた。
いつもオーディション前にしている、おまじないだった。
乾いた音が辺りに響いた。
このみの手には、しばらくその感覚が残っていた。
218 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:28:25.01 ID:3DhfCsSR0

このみは、控え室の前までやってきた。
扉の前で立ち止まって、深く深呼吸してから扉に手をかけた。
部屋の中には、既に3人の女性がいた。
このみにとって、この部屋に集まった彼女達は、たった一つの役を競い合うライバルになるわけである。
3人はそれぞれ離れた場所の椅子に座っていて、各々が台本に目を通すなどして静かに集中している様子だった。
そのうち一人は、このみがテレビドラマでも見かけたことのある女優だった。

このみは他の3人と同じように、離れた場所に座り、台本を開いた。
物語の流れを追いながら、今まで演じた経験を思い出して、台詞ごとに引かれたメモ書きを一つ一つ読んでいた。
そのどれもが、自分が悩み時間をかけ考え、結論を出してきたもので、今のこのみ自身を励ましてくれるようだった。
219 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/06(土) 21:28:54.86 ID:3DhfCsSR0

このみが気づけば、数十分あったはずの待機時間も、既に経ってしまっていたらしかった。
扉をノックする音がして、直後部屋に入って来た女性スタッフが、参加者たちに準備が整った旨を伝えた。
このみは他の参加者たちと一緒に返事をして、手に持っていた台本を鞄の中にしまった。
台本を含め荷物は持ち込めないことになっている。
このみ達は荷物を置いたまま、部屋を出た。

スタッフの案内に付いていくように、このみ達は廊下を歩いていた。
このみは自分の心臓が音を立てるのが分かった。
悔いの残らないように──。
それだけを噛みしめて、このみはオーディション会場の扉を見据えた。
220 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/10(水) 22:49:20.52 ID:yzW+t2Mc0
>>119 >>120の間に抜けがありました。

「行ってしまいました……。」
221 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:02:36.48 ID:E/BVepxA0
>>210>>211の間に13レス分抜けがありました。
順番に投稿していきます。
222 :(1) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:03:07.99 ID:E/BVepxA0

それからの日々も、このみは仕事の合間を縫って、オーディション用の台本に目を通していた。
ある時は事務所の控室で、またある時は移動中の車内で。
掴んだ感覚を途切れさせることのないようにと、このみが台本に触れない日は無かった。

オーディション前日の夜、このみは劇場のレッスン室にいた。
演技を行う場面一つ一つを順番に確認していた。
223 :(2) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:03:35.63 ID:E/BVepxA0

ふう、と息を吐いて、このみは端に置いておいたペットボトルを拾い上げた。
喉を冷ますようにこのみが水を飲んでいると、扉の方から声がした。
このみが振り返ると、少しだけ開いた扉の間から、二人の顔がのぞいていた。

「姉さん、お疲れさま。頑張りすぎは体に毒よ。」

「お疲れ様です、このみさん。明日が本番って莉緒さんに聞いたから、応援に来ちゃいました。」

「あら、莉緒ちゃん。それに、春香ちゃんも。」

このみはペットボトルを近くの台に置いて、二人のそばへ駆け寄った。
春香は、手に小さな紙袋を持っていた。

「今日の仕事先で、お菓子をもらったんです。良かったら、一緒に食べませんか?」

「そうね……。ちょうど一段落着いたところだし、せっかくだから頂いちゃおうかしら。」
224 :(3) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:05.02 ID:E/BVepxA0

このみは持ってきていたタオルなどを小さな手提げ鞄に纏めてから、二人のもとへ戻って来た。
部屋を出た3人は、レッスン室のそばにあるミーティングスペースに来た。

「ここの椅子、ふかふかで好きなのよね〜。」

我先にと、莉緒が壁際にあった革張りの椅子に駆け寄って、腰掛けた。
それに続くように、このみは莉緒の向かいに、春香は莉緒の隣に腰を下ろした。

「確かにこの椅子、一つうちにも欲しいわね。お風呂上がりにこの椅子座ったら、絶対気持ちいいもの。」

「なんだかそれ、そのまま眠っちゃいそうですね……。」

春香が紙袋の中から箱を二つ取り出して、そのまま包装を剥がしていく。

「クッキーと、こっちはラスクです。このみさんも、莉緒さんも。気にしないで食べちゃってくださいね。」

「あら。じゃあ、早速、貰っちゃうわね。」
225 :(4) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:33.75 ID:E/BVepxA0

莉緒に続いて、このみもクッキーを手に取って、口に運んだ。
ココアのほんのりと甘い香りが広がって、疲れた体を癒してくれるような気がした。

「ん〜。美味しい!」

「本当ね。でも、ココアだけじゃなくて……何かしら?」

ココアの裏で、微かに香ってくる風味があった。
このみはその正体が何かを特定できずにいたが、春香がクッキーを食べたあとこう答えた。

「これは多分……メープルですね。普通のバタークッキーとかにはよく入れたりするんですけど、これは隠し味っぽく、ちょっとだけ入れてあるんだと思います。」

「なるほど……。さすが春香ちゃんね。」
226 :(5) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:04:59.96 ID:E/BVepxA0

莉緒がそう言うと、春香はちょっぴり照れた様子を見せた。
春香は話題を変えるように、このみに聞いた。

「このみさん。今このみさんがやっているのって、どんなお話なんですか?実は私、まだ聞いてなくって……。」

「鶴の恩返しがモチーフのお話なの。鶴が青年と出会って……、二人は恋をするの。」

「恋……ですか。」

「私は鶴の役なんだけど……。うーん、直接見てもらった方が伝わるかもしれないわね。」

そう言ってこのみは台本を取り出して、春香に手渡した。
春香は、題が書かれた表紙をまじまじと見つめた。
それから、一枚ずつページをめくって、文字を追っていった。
227 :(6) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:05:46.44 ID:E/BVepxA0

「最初の方は、本当に鶴の恩返しと同じなんですね。」

「ええ。青年の前では、本当の自分を隠して振る舞わないといけなくて。……扉の向こうで機を織るときしか、鶴は本当の姿になれないの。」

「難しい役なんですね……。」

呟くように、春香はそう零した。
春香の手の中にある台本は、幾つかのページに付箋が貼ってあるほか、紙の端の方もすっかりよれてしまっている。
このみがどれだけ役と向き合ってきたか、春香には台本を持つ手越しに伝わってきた。
莉緒は、それを横から静かに見ていた。

「……ねえ、このみ姉さん。明日は、上手くいきそう?」

このみは、すぐには答えられなかった。
228 :(7) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:06:24.62 ID:E/BVepxA0

「……正直、本当に通用するのかは分からないけど……。出来ることは全部やってきたつもりよ。」

このみは、今までの日々を思い返すように、そう言った。
はじめは役の気持ちを掴む事もままならなかった。
役に近づこうとするたびに、霧の中に隠れてしまって、伸ばした手が空を切るような、そんな感覚があった。

「……でも、この子と私、なんだか似てるかも、って思ったことがあったの。それで、気づいたの。この子も物語の世界で『生きている』んだ、って。」

きっとこの子は、幸せになりたくて……。でも、それだけじゃなくて、胸を張って前を向いていたいって思う、そんな子なんだ。
このみは、胸の中だけで、そう言葉を続けた。
まるで古くから知る友人だったような、そんな確信めいたものがあった。

「だから……。今はこの子のこと、もっと分かってあげられるようになれたのかな、って思ってる。」

「……なんだか、すごく素敵ですね。」

「フフ、ありがと、春香ちゃん。」
229 :(8) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:07:12.95 ID:E/BVepxA0

このみがふと莉緒の方を向くと、そこで莉緒と目が合った。
莉緒は、なにやらニヤニヤと微笑んでいた。

「な、なによ。莉緒ちゃん。」

「なーんか、その子が羨ましいな、って。……私、姉さんのこと心配してたのよ。今週ほとんど話できてなかったから……。」

「そ、それは仕事なんだから、仕方ないじゃない……。そういう時もあるわよ。……心配してくれてありがとうね、莉緒ちゃん。」

そんな二人のやり取りを見て、春香がくすりと笑う。

「なんだか私もまた、こういう本格的な舞台のお仕事やりたくなっちゃいました。」

「そういえば春香ちゃんも、結構前に舞台のお仕事をしてたことがあったわよね。確か、名前が……。」

「『春の嵐』ですか?」

「そうそう。確か、私がアイドルやる前だったけど、よくテレビでその名前を見かけたわよ。すっごく評判だったって。」
230 :(9) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:08:12.12 ID:E/BVepxA0

『春の嵐』。
春香がかつて主演を務めた舞台の名前だ。
この舞台は、その頃の春香が世間から注目を集めたきっかけの一つで、後のアイドルアワードの受賞にも繋がったとも言われている。
アイドル天海春香が持つ可能性を女優という新たな領域で示した、と当時評されていたのを、このみは覚えている。

「へえ、そうなの。じゃあ、今後のために春香ちゃんに教えてもらおうかしら。演技の極意、みたいなの。」

「あはは。莉緒さん、私なんて全然で、そんなのじゃないですよ。」

春香は、二人の前でぶんぶんと手を振って否定した。

「ほら、でも経験者じゃない。舞台に出て思ったこととか、何かあったりするんじゃないの?」
231 :(10) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:09:06.30 ID:E/BVepxA0

莉緒の言葉に、春香は、何かあったかな……といった様子で考え込んだ。
しかし、少し経ってから、何かを思い出したように、ゆっくり話し始めた。

「ええと、上手く言えないんですけど……。私が舞台に立ったとき、『演技って本当に人それぞれなんだ』って。……そう、感じたんです。」

静かに、春香はそう言った。
その言葉からは、春香自身の経験を感じさせる説得力があり、このみと莉緒は思わず息を飲んだ。

「あのとき美希も一緒だったんですけど、全然私と違ってて。……演技ってやっぱり難しいなあ、って思っちゃいました。」

「『演技は人それぞれ』……。うーん……。私はあんまり考えたこと、なかったかしら。」

「私は、少しだけ分かる気がする、かな。……正解なんてもしかしたら無いのかも、って。そういう事なのかしら。」

「えっ?姉さん、それって……どういうこと?」
232 :(11) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:09:46.98 ID:E/BVepxA0

莉緒は首を傾げながら、このみに聞く。
このみは一瞬言葉に詰まり、少しの間考えを纏めるような素振りを見せた。

「莉緒ちゃん、前に雪女の役をやった事があったでしょ?……私、鶴を演じるのに、最初の頃は莉緒ちゃんの雪女をイメージしながらやってたの。」

「えっ、そうだったの?」

「雰囲気が近い役だから、何か掴めるかも、と思ってたんだけど……。全然上手くいかなくて。それで、なんでだろう、って思ってたの。」

このみは、思い出すようにそう言った。
当時のこのみは、そんな自身の演技にどうしても納得がいかなかった。
今までも演技の仕事は何回もあったが、このみがこのような感覚を感じたのは初めてだった。
だから、その正体が何であるかを知るために、納得のいく演技ができるように、このみは今まで役に向き合い続けてきたのだった。

「……でも、今はなんとなくわかる気がする。上手く言えないんだけど……。私はこの子を、『今の私』で演じたい、って思ってる。」
233 :(12) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:10:33.56 ID:E/BVepxA0

このみは莉緒と春香を見つめて、そう言った。
その声は、まるで誓いを立てるかのように真っ直ぐで、芯が通っていた。

「莉緒ちゃんの雪女は、普段の莉緒ちゃんとは全然違う子だけど、すごく莉緒ちゃんらしくって。
……だから、私は私らしく、私のやり方でやるべきなんだなって。今はそう思ってるの。」

『私は私らしく』。
それがこのみの結論だった。
なにも、役に自分を重ねて演技をする、と言うわけではない。
これまで歩いてきた道のりを誇れるように、胸を張って前に進むために、自分だけの道を進んでいく。
そのために、今の自分の全てで、物語に生きる人間を演じよう。

憧れや理想が、途轍もなく眩しく見えることがある。
私にとってその眩しさは、焦がれるほど追い求めたものだった。
だから手を伸ばして、一歩ずつ歩いてきた。
けれど、その眩しさを求め追いかけても、きっとその先にあるのは『私じゃない』。
私が胸を張っていられるように、私は私だけの道を進もう。
その姿が、いつかきっと、誰かに伝わると信じているから。
234 :(13) ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 22:11:01.44 ID:E/BVepxA0

このみは、前を見た。
そこには変わらず、莉緒と春香がいて、いつもと同じ高さで目と目を交わした。
二人は何だか嬉しそうだった。

「ウフフ、姉さんのそういうところ、とっても素敵よ。ね、春香ちゃん」

「はい、それはもうっ。」

少しだけ開いた窓から、顔の熱を冷ますように風が差し込んだ。
潮のにおいが鼻をくすぐって、耳をすませば微かに波の音がした。
窓の向こうの景色は今日も変わらない。
海と星空はどこまでも澄んだ濃紺に染まっていて、遥か向こうで陸と融けるように交わっている。
海岸線に沿って伸びた街灯の明かりが、まるで星空と繋がっているように瞬いた。
235 :>>219の続きからです ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:52:05.51 ID:E/BVepxA0
***

あのオーディションまでの日々から何か月かが経ち、季節も移ろいでいた。
年は明け、1月も後半に差し掛かった頃で、劇場のまわりには乾いた寒風がぴゅうと音を立てて吹いていた。

このみは、着替えたばかりの衣装を揺らしながら、劇場の廊下を一人歩いていた。
見上げるほど大きな灰色の扉の前で立ち止まり、このみはそこで深呼吸をした。
厚く重い扉だったが、このみが耳を澄ますと、その奥からは心を刺激する心地の良い音色たちが確かに聞こえてきた。
このみは、どきどきと胸の奥が逸るのを感じながら、ゆっくりと扉を開けた。
236 : ◆Kg/mN/l4wC1M :2020/06/11(木) 23:52:31.56 ID:E/BVepxA0

扉を開けると、ピアノの音に支えられた、透き通った歌声たちがこのみの元に飛び込んできた。
舞台袖からは、まつりたちがステージ上に投げかけられた一筋のライトに照らされ、歌っているのが見えた。
 瞳の中のシリウス──貴音、まつり、美也、海美の4人が織りなす透明な世界には、
風吹く冬の夜の冷たさだけではなくて、心が融けだしていくような、そんな暖かな輝きがあった。
壁際に据え付けられたモニタには、客席後方から見たステージの様子が映し出されていた。
そこでは、会場を包み込むバラードに合わせてサイリウムの波がさざめいていた。

楽曲が終わると、会場中から拍手と歓声が溢れだした。
ステージが暗転して、それから辺りはまた静かになる。
観客たちの息をのむ音が聞こえてきそうだった。
しばらくして、次の楽曲の旋律が静かに始まって、波間はその色を変えた。
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