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【ミリマス】馬場このみ『衣手にふる』
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113 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:16:37.08 ID:BkiYgAwQ0
扉が開いたのを見計らってか、ハム蔵はこのみたちが開けた扉に向かって真っ直ぐと向かってくる。
それに気がついたこのみは、そうはさせまいと扉を急いで閉め、
その一方で亜美たち四人は捕獲の臨戦態勢を取って待ち構えた。
脱出ルートが無くなった上に、流石に相手が悪いと判断したのか、
ハム蔵は四人の前で90度方向転換。
部屋の奥の方へと走っていく。
「ふっふっふ。さあさあ、ハム蔵くん、シンミョーにお縄につくのじゃ!」
「キミ達はホーイされている!」
亜美と真美は、何処かで聞いたことがありそうな台詞とともに、ハム蔵の後を追っていく。
待ってましたと言わんばかりにこの二人がどたばた騒ぎに首を突っ込んでいくのも、
劇場のアイドル達にとってはもはや慣れたことである。
環もその二人に乗っかるような形でハム蔵の後を追いかけていく。
114 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:22:41.85 ID:BkiYgAwQ0
「我那覇さん、ハム蔵と何があったの?」
千早がレッスン用のファイルを抱えたまま、響に聞いた。
昴とこのみは、とりあえず状況を把握するためにも千早とともに響に事情を聞くことにした。
「うん、それが……。さっきまでハム蔵とちょっと話してたんだけど、それで自分が言い過ぎちゃって……。」
「ん、そうだったんだな。……オレ、てっきりまたハム蔵のご飯つまみ食いしたのかと思ったよ。」
ハムスターのご飯をつまみ食い、というのはいささか不自然に聞こえるかもしれないが、何もおかしな話ではない。
というのも、響が飼っている動物たちはイヌやネコに始まり、
ウサギやヘビ、果てはワニに至るまで数多くいるが、
ハム蔵に限らず全ての動物たちのご飯を自分で作っている。
個々の動物たちの好き嫌いを把握しているのは当然で、加えて体調に合わせて食材やその切り方、
そして盛り付けや彩りまで細かく気を配っている。
それ故に、味見の延長線上としてつまみ食いが多々発生して、
動物たちが飛び出していってしまうことが何度かあったりもしたものだった。
115 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:23:15.89 ID:BkiYgAwQ0
「た、確かに前はそれもあったけど……。い、今は気を付けるようにしてるさ。」
「それにしても、こう部屋が大きいとどうにも手がつけられないわね……。どうやってハム蔵ちゃんを捕まえればいいのかしら……。」
このみは床を所狭しと駆け回るハム蔵の姿を目で追っていた。
765プロの事務所の方でも何回か似たことがあったが、それより今の方がもっと手がつけられなさそうだ、とこのみは感じていた。
ただ、心なしかこのみの目には、ハム蔵自身もこの広い部屋をどこか楽しんでいるようにも見えた。
今回もまた大変なことになりそうだとこのみは息を吐いたが、この逃走劇がどうなっていくのか密かに暖かく見守ることにした。
116 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:24:25.96 ID:BkiYgAwQ0
今もなおひた走るハム蔵の真正面では美也と恵美が机に向かって何やら真剣な表情で各々思考を繰り広げていた。
そして、その机の上の様子を伺うようにしてエレナ、琴葉、海美の三人が机の左右に立っていた。
そんな彼女たちの目線の先にあったのは、碁盤であった。
恵美が時間をかけてからそっと石を置き、対して美也は慣れた様子で返していく。
対局を見守る琴葉は無意識のうちに自身の顎に手を当てていて、美也と恵美の2人が打つ石の動向を見つめていた。
エレナも琴葉同様に落ち着いて対局の様子を伺っていたが、その一方で海美は時折首を傾げたり、あるいは体ごと傾げてうんうん唸っていた。
そもそも765プロ囲碁サークルとも言えるこの集まりは、もともとユニット『灼熱少女』の活動を切っ掛けに生まれたものだった。
美也と琴葉の一声で始まった集まりだが、『Cleasky』の活動以降エレナも美也が打つ囲碁に興味を持つようになり、今ではすっかり常連になっていた。
とはいえ、美也以外の5人はまだまだ始めたばかりで、美也との対局では置き碁が常であった。
117 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:25:16.70 ID:BkiYgAwQ0
「うみみん!そっち行ったよ!」
「……え?な、なに?なにが!?」
真美は、ハム蔵の行く先を塞ぐべく、五人の中で一番手前側にいた海美を呼びとめた。
それに対して海美は目の前の碁盤で繰り広げられる応酬に集中していたために、
それから数秒遅れてようやく自分が呼ばれたことに気がついた。
海美は声のした方向へ振り向いたのだが、そのときには既に目の前までハム蔵が走ってきていた。
118 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:26:14.72 ID:BkiYgAwQ0
てりゃ、という掛け声とともに海美は目の前を走るハム蔵を両手で捉えに行く。
ところが、海美自身咄嗟のことだったのでハム蔵を捕まえるには至らない。
迫りくる海美の手を避けるように、ハム蔵はその場で大きくジャンプ。
結果、海美の両手は空を切り、その上を飛び越えてハム蔵は更に走っていく。
119 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:27:08.78 ID:BkiYgAwQ0
「え?……って、ハム蔵ちゃん!?」
机を挟んだ海美の反対側にいた琴葉が、驚いて言う。
彼女にしては少し珍しく、一瞬どうすべきか分からずわたわたと慌てた様子だったが、
その後ハム蔵をいつでも捕まえられるようにすぐ手に持っていた手帳とペンを机の上に置いて身をかがめた。
そうこうしている間にも、海美を突破したハム蔵は美也の座る椅子の下を駆け抜けようとしていた。
「お〜、ハム蔵ちゃんですか〜。こっちですよ〜。」
対する美也は椅子に座ったまま体を屈めて、床を駆けるハム蔵を受けるように両手を組んだ状態で迎えにいった。
しかし、美也の手が床の高さまで到達した時は、既にハム蔵は美也の足元を駆け抜けた後だった。
120 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:31:54.60 ID:BkiYgAwQ0
そんな美也の言葉を尻目に、ハム蔵は机の陰から抜け出した。
しかし、そこでハム蔵は、準備を万全に整えて待ち構えていた田中琴葉と遭遇した。
琴葉はハム蔵のちょうど真正面で、膝を揃えてしゃがんでいる。
ハム蔵が左右どちらへ避けようにも、すぐに捕まえられるような、まさに絶妙な位置関係だった。
流石のハム蔵も、そのように構えられてはこれ以上迂闊に進めないと感じたようで、
急ブレーキをかけ、とうとうその場で脚を止めた。
その瞬間を見逃さず、琴葉はゆっくりと両手をハム蔵の方へ近づけていく。
ハム蔵はすぐさまその場でどうすべきかと辺りをきょろきょろと見回したが、結局そこから動くことができなかった。
121 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:32:36.30 ID:BkiYgAwQ0
張り詰めたような緊張が走る中、ついに琴葉は両の手のひらでハム蔵を捕らえることに成功した。
周囲からおお、と感嘆の声が上がる。
琴葉は、息を整えながら自身の手のひらに収まっているハム蔵を見た。
捕まえた瞬間は今ひとつ実感がわかなかったが、ハム蔵の肌触りや温もりを手のひらで感じて、
本当に捕まえられたんだ、とようやくほっと安堵した。
「よかった……。」
122 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:33:06.47 ID:BkiYgAwQ0
どたばたと騒がしい瞬間はこれでおしまい。
亜美真美や環は、もう終わっちゃったのか、なんてすこし残念そうな顔をしていた。
机に開いたままの教科書類そっちのけで、目の前の戦いに目を奪われていた百合子たち中学生組も、
また少しすれば宿題との格闘に戻っていくのだろう。
これでようやくまた静かで落ち着いた控え室に戻りそうだ、とこのみは思った。
123 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:35:30.69 ID:BkiYgAwQ0
涙の再会と言わんばかりの表情をした響に、しゃがんだままの琴葉がそっとハム蔵をのせた手を差し出す。
「はい、響ちゃん。二人とも仲良く、ね。」
「うう……。ハム蔵……。」
響がハム蔵を受け取るために両手を差し出したその時だった。
ハム蔵は、そこで生じた一瞬の隙を見逃さなかった。
いまこそがチャンスと言うかのように、ハム蔵が琴葉の手のひらの上から脱出を試みたのである。
「きゃっ!」
琴葉がそんな声を上げている間にハム蔵は琴葉の腕の上を肩まであっという間に走り抜け、
さらにそこから背中側を一気に駆け下りていく。
「あっ、こら、ハム蔵!」
124 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2019/12/13(金) 00:36:00.30 ID:BkiYgAwQ0
次の瞬間には、一度は捕まえられたはずのハム蔵が、先ほどのように床の上を自由に駆け回っていた。
琴葉はしりもちをついたまま、走り去っていくハム蔵をただ見ることしかできなかった。
ハム蔵は先生役として百合子たちの宿題を見ていた紗代子と瑞希の足元を縫うように走っていき、
宿題に向きかけていた百合子、杏奈、未来の3人の目は、またもやハム蔵の逃走劇にくぎ付けになる。
どたばた騒ぎの時間は、もう少しだけ続いていくらしい。
125 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/01/11(土) 14:30:56.20 ID:TaItlDyU0
あるときは物陰に隠れてみたり、そうでないときは大胆に部屋を横断してみたり。
そんなハム蔵の逃走劇が終わりを迎えたのは、それから五分ほどしてからだった。
流石に疲れたのか、ハム蔵は先ほどの空間から離れて衝立を挟んだ向こう側の区画にやってきた。
そこでは莉緒と桃子がソファーに座り一冊の雑誌を二人で見ていて、
その近くの椅子にはロコがスケッチブックを片手に腰かけていた。
もともとロコは二人の様子をスケッチするつもりだったのだが、
自身が描く絵に対し何かが足りないような気が拭えず、
鉛筆を動かす指を止めてぶつぶつとひとり言を呟いていた。
126 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/01/11(土) 14:43:18.57 ID:TaItlDyU0
莉緒たちは衝立の向こうの騒ぎからハム蔵が追われる身であることを知ってはいたが、
特段ハム蔵を捕まえようとする気はないようだ。
ハム蔵ちゃんも一緒に見る?といった調子でハム蔵に手を振ってみたり、手招きなんかをした。
それを見たハム蔵は莉緒が純粋な意図でそうしてるのだと察したのか、
特に気にすることなく莉緒たちが座るソファーへと上がった。
それからハム蔵は桃子のすぐ隣にやってきて、そこに置かれたクッションで仰向けで寝転がった。
127 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/01/11(土) 14:53:36.46 ID:TaItlDyU0
莉緒は再びファッション雑誌に目を戻して、夏に向けたトレンドの特集を追う。
白いカーディガンが目に留まり、桃子にこれなんてどうかしら、と声を掛けようと莉緒は桃子の方を向くが、
そこで、桃子がハム蔵の様子を興味ありげにちらちらと見ていたことに莉緒は気づく。
莉緒は微笑まし気に笑って、それから、ほら、チャンスよ、といった調子で桃子に促した。
「桃子ちゃん、ハム蔵ちゃんも触ってほしそうにしてるわよ?」
「り、莉緒さん。桃子は、別に……。」
128 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/01/11(土) 14:54:51.20 ID:TaItlDyU0
そんな返事をする桃子は、莉緒の言葉に押される形で、ハム蔵におずおずと人差し指を差し出した。
対するハム蔵は仰向けのまま桃子の指を受け入れた。
ふかふかクッションに包まれたハム蔵は、小さな手足で人差し指と遊んでみたり、
身体を預けてお腹を撫でさせたりとどこか心地よさそうにも見えた。
桃子の方もハム蔵の柔らかさに知らず知らず声が漏れていて、すっかり夢中になってしまっていた。
莉緒が桃子のそんな様子を横から優しく見ていると、突然が大きな音を立ててロコが椅子から立ち上がった。
「……コ、コレです!!!!!」
129 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/01/11(土) 14:55:32.58 ID:TaItlDyU0
「と、いう訳なのよ……。」
このみは、響たちハム蔵捜索チームとともに莉緒の元へやってきていた。
そこには、両手を器のようにして小さな手の上にハム蔵を乗せている桃子と、
桃子とハム蔵を描くべく、ものすごいスピードでスケッチブックに鉛筆を走らせているロコの姿があった。
ハム蔵は先ほどまで自分を探していた響たちを見つけたが、そこから動く様子がない。
「ロコが『ストップです!!』なんて言うものだから、ハム蔵ちゃんすっかり動けなくなっちゃったの。」
ハム蔵自身も、まさかこうなるとは思っていなかっただろう。
事態がどこへ繋がってどう結末を迎えるかは、当事者たちでさえ予想のつかないものである。
拍子抜けして力の抜けるのを感じながら、このみは身をもってそれを理解した。
130 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 15:55:56.25 ID:lT49CYaR0
ともあれ、ようやく控室に平穏な時間が戻ってきた。
先ほどまでハム蔵の捜索班だった大神環は、美也に誘われて囲碁の対局の観戦に加わっていた。
海美と並んで、しばしば二人してうんうんと唸ったりしていて、
そのたびに、美也たちが「ここは……」と考え方を説明していた。
「……それにしても。いつの間にか、こんなにみんな戻ってきてたのね。」
131 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 15:57:14.50 ID:lT49CYaR0
このみは部屋を見回してそう呟いた。
亜美たちを探しにこの部屋に来たときには、百合子や紗代子といった、
ちょうどいま宿題に奮闘しているグループしか部屋にいなかったはずである。
それがいまでは、騒がしさには絶え間がなく、部屋も前より狭くなったんじゃないかと感じるほどになっていた。
このみがためしに人数でも数えてみようかと思っていたところで、そこで隣に居た琴葉が答える。
「昼の仕事組はもう大体みんな帰ってきてるみたいです。
私も、少し前に戻ってきたばかりなんですよ。」
そう言ってから琴葉はこのみと同じようにまわりを見渡した。
132 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 15:59:24.01 ID:lT49CYaR0
「琴葉ちゃん。……そういえば、さっきは大丈夫だった?」
「さっき……?………あっ!」
琴葉は先ほどのことを思い出して、思わず赤面する。
ぺたんと尻もちをついていた琴葉の姿は、普段と違って新鮮でお人形さんのようにも見えたが、
本人はどうやら表情に現れるほど恥ずかしかったようだ。
顔が火照るのを感じたのか、両手で頬を隠すように押さえながら、琴葉は小さな声で言う。
「先程はお恥ずかしいところを……。うう。」
133 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:16:06.81 ID:lT49CYaR0
そんな琴葉の様子が可愛らしくて、このみはもっとつつきたくなってしまいそうになる。
そうこうしていると、そばにいた昴が頬を染める琴葉を見て、思い返すように言う。
「琴葉がそんなに恥ずかしがってるの、オレ、初めてみたかも。」
琴葉はそれを聞いて、はっと驚いた様子で、顔に手を当てたまま昴の方を見た。
隣で見ていたこのみは、琴葉自身、昴からそう言われるのは少し意外だったのかも、と感じた。
昴はそんな琴葉の様子に気付いてか気付かずか、そのまま言葉を続けた。
134 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:17:17.79 ID:lT49CYaR0
「琴葉っていつだってビシッとしてるからさ。
オレなんてさ、ヒラヒラした衣装を着る、ってなったときとか、
まだ恥ずかしくって顔に出ちゃうときがあるんだよな。」
昴は自身のステージや撮影のときを思い出しながら、そう言った。
「昴ちゃん……。」
「まあ単に、オレが琴葉によく怒られてるからってのもあるかもな。琴葉が本当に怒ると、すっごく怖いもんなあ……。」
「そ、それは昴ちゃんが部屋の中で野球してたりしたときだけでしょ!」
珍しく琴葉が少し声を張って昴に言う。
そんなやりとりを見ていたこのみは、やっぱりなんだかんだ二人は仲がいいなあと思う。
それがなんだかおかしくて、つい堪えきれず笑い声が出てしまう。
135 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:31:56.09 ID:lT49CYaR0
「このみさん?」
「ふ、ふふ。ごめんなさいね。なんだか面白くって。」
このみは一呼吸置いてから昴の方を向いた。
「昴ちゃん。琴葉ちゃんもね、怒ろうと思ってやってるんじゃなくて……。」
部屋の中だとたくさん物があって危ないでしょう?みんなに怪我とかをしてほしくないってだけなのよ。」
やっぱり誰かが怪我しちゃったりすると、私たちも悲しくなっちゃうもの。」
136 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:36:05.78 ID:lT49CYaR0
このみが琴葉の方を向くと、そこで二人は目が合った。
琴葉は、また少しだけ驚いた様子で、このみをじっと見ていた。
「そうよね、琴葉ちゃん。」
「は、はい。その……。」
琴葉は一度声を詰まらせたが、ゆっくりと言葉を続ける。
「……もしかしたらみんなからは、琴葉は厳しい、って思われてるのかもしれないけど……。
昴ちゃんも、このみさんも。劇場のみんなが楽しそうにしてるのをみると、私もなんだか嬉しくなるの。
だから、みんなに危ないことはしてほしくないな、って。そう思うの。」
137 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:44:48.05 ID:lT49CYaR0
自身の胸に手を当てながら、琴葉は昴の目を見て言う。
大切なものを抱えるように優しくて、それでいて真っ直ぐにそれを見つめる琴葉の横顔に、このみは目が離せず、惹きつけられるようだった。
「……琴葉がオレたちのことを思って注意してくれてるのは、分かってたつもりだったけど……。」
ぽつりとそう溢した後、昴はぎゅっと目を瞑った。
それから心を決めるようにして目を見開いて、琴葉を見た。
「ゴメン、琴葉。……オレ分かったよ。」
「昴ちゃん……。」
琴葉は胸を撫で下ろすように息を吐いた。
その表情は少しだけ緩んでいるように見え、
それは先ほどハム蔵を捕まえた時の、あの柔らかな笑顔を思い起こさせた。
138 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:45:46.62 ID:lT49CYaR0
そんな琴葉を見て、昴は何かに気がついたようだった。
昴は、ずい、とそのまま一歩近づいて、何か言う訳でもなく琴葉の顔をすぐそこで見つめていた。
「す、昴ちゃん……?」
数センチの身長差をも意識するほどの距離だった。
思いがけず顔をまじまじと見られた琴葉は、不思議な緊張で声が揺れているのを自覚しながら昴に呼びかけた。
対する昴は、どう答えるべきか少し逡巡したあとで口を開いた。
139 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:46:50.98 ID:lT49CYaR0
「……なんていうかさ、その……。ちょっと恥ずかしいけどさ。
琴葉はそうやって笑ってた方が、やっぱりかわいいよなー、って。」
「かっ、かわ……!」
全く予想していなかった昴の返答に、
琴葉の顔がまただんだんと赤く染まっていく。
顔の火照りを感じた琴葉は、思わず手で顔を覆ってしまいそうになる。
ただ、手を伸ばせばすぐ触れるほどの距離の昴に対してそれをするのは、気持ちを伝えてくれた昴との間に壁を作ってしまうように思えて、そこで琴葉の手が止まる。
140 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:48:56.35 ID:lT49CYaR0
「も、もう、昴ちゃん!」
琴葉はせめてもの抵抗として、もう知りません、と言った感じで、昴と逆の方向に顔を向けた。
そんな二人の様子を一歩離れた距離から暖かく見守っているこのみには、
昴は気がついていないようだったが、琴葉の揺れる長い髪の間から、赤くなった耳たぶがちらりと見える。
ぷいと顔をそむけたのも、きっと赤くなっているであろう顔色を見られたくなかったのかもしれない。
表情こそ直接は見えずとも、彼女の心中がこうして垣間見えるのがなんとも愛おしい。
この子は普段は気を張ってるけど、こうふとしたときに自分の気持ちが素直に外に出てくるのよね、とこのみは思う。
141 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:50:21.59 ID:lT49CYaR0
このみはそんな琴葉を見て、彼女がハム蔵を捕まえた瞬間のことを思い出していた。
あのときふと見せた彼女のやわらかな笑顔は、
混じり気がなく、繊細で澄み切った彼女自身の心を映し出したかのようで、それはある種の美しささえあった。
ときに「美しさ」はそれを見る者との間に壁をつくり、近寄り難くなっていく。
周囲にとって「自分たちとはかけ離れた存在だ」とされ、果てには偶像としてただの「人間」であることさえ剥奪される。
届くはずだった声も、きっと届かなくなってしまうだろう。
142 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/02/09(日) 16:52:38.25 ID:lT49CYaR0
しかし、彼女の「美しさ」はそうではないのだと、このみは知っていた。
まだ何色にも染まっていない澄み渡るような透明さは、いつの間に誰かの心を自然と惹きつけていて、愛おしささえ感じさせる。
そんな飾らないありのままの彼女が、このみには少し羨ましくもあった。
そして、このみもまた、彼女には笑っていてほしいなと感じていた。
昴が琴葉の顔を覗こうとするたびに、琴葉は悪戯っぽく他所の方を見て顔を合わせないようにする。
暖かい目でそんな二人を眺めているこのみに気が付いた昴が、戸惑った様子でこのみに尋ねた。
「このみ。オレ、そんな変なこと言ったのかな……。」
にわかに心配そうに昴からそう言われ、このみは少し驚いた。
何を言うべきか迷ったが、このみはまず一番に、打算や計算なしに何気無く相手に踏み込んでものを言えてしまう昴がなんだかずるいなあ、と思わされた。
このみは、ふふ、と少し笑って、呟くように答えた。
「……そういうところよね。きっと。」
143 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 21:50:02.83 ID:5B03mR0i0
それから暫くして、昴は765プロ囲碁サークルのグループに混じって、琴葉に囲碁のルールを教えてもらっていた。
このみも特段用事があった訳ではなかったので、椅子に座って碁盤を見つめる昴の後ろで何となく一緒に話を聞いていた。
すると、部屋の入り口の方から、悲鳴にも似た声が聞こえてきた。
このみ達が何事かと慌ててそちらを向くと、そこには恐れ慄いた様子で脚のふらつかせる亜美と真美がいた。
そして、その二人の視線の先に居たのは、扉を背にして腕を組んで仁王立ちする秋月律子であった。
律子は手で眼鏡のブリッジを上げながら不敵に笑って、一歩、二歩と亜美真美にゆっくりと近づいていく。
対する亜美真美は、律子から逃れんとばかりに、後退りしながらもきょろきょろと辺りを見回している。
144 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 21:50:55.75 ID:5B03mR0i0
このみは、またいつもの奴が始まったのね、といった感じで眺めていた。
すると、亜美と真美の先ほどまで泳いでいたはずの目線の動きが、あるところを見て止まった。
このみはすぐに二人の意図を理解して、軽く頭を抱えそうになった。
というのも、その二人は、このみの方をじっと見ていたのだ。
詰まるところ、目が合ってしまった、というのが一番近かっただろう。
このみがあっと思った瞬間には、もう二人は動き出していた。
「あっ、こら、待ちなさい!!」
「このみん、助けて〜!!」
律子が二人を逃すまいと手を伸ばすが、その手は空を切る。
そのまま亜美と真美の二人はこのみの方へと走ってきていた。
「ちょ、二人とも待って──。」
145 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 21:51:37.94 ID:5B03mR0i0
そのまま二人は勢いそのままに、両サイドからこのみのもとへ飛び込んでいく。
それはあっという間の出来事で、このみが避ける間さえもなかった。
結局、嫌な予感は見事に的中して、このみは二人に巻き込まれてしまったのであった。
可愛いアイドル二人から抱きつかれるという状況は、世の男性諸君ならば泣いて羨ましがることだろう。
ところが、このみの場合にはそれどころではなく、二人の突撃は圧倒的脅威になり得るのだ。
歳こそ一回りほど下とはいえ、このみからすれば十五センチ程も大きな相手が戯れで飛び込んでくるのである。
それが二人同時にやってくるのだから堪ったものではない。
146 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 21:54:26.20 ID:5B03mR0i0
ボロボロになりながらも、このみはなんとか無事に二人の突撃から生き残ることができた。
流石に注意の一つや二つしようとするが、
亜美と真美はそれより先にこのみの小さな背中へ回り込み、隠れるようにして身を屈めた。
このみが二人の目線の先を追うと、ちょうど正面からお叱りモードの律子がこちらへ向かってゆっくりと歩いてきていた。
「ちょっと、二人とも……。今度は何をしたのよ。」
このみが背中に隠れる二人に尋ねると、律子に聞こえないくらいの声で亜美が答えた。
「このみんこのみん。亜美たち、今回は何もしてないよ。」
「……じゃあ、真美ちゃん?」
「真美も、何もしてないよ。」
真美も同じく、小声でそう答えた。
何もしてないのにこうはならないでしょう、とこのみはツッコミたくなるが、それは心の中に留めておくことにした。
147 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 21:58:00.57 ID:5B03mR0i0
「秋月さん、ナイスタイミングでした。」
律子に声を掛けたのは、部屋の少し奥の机で先程まで百合子たちの宿題をみていた瑞希だった。
「瑞希もありがとうね。なにせ急な案件だったものだから。」
少しずつ状況が分かりかけてきたこのみであったが、それでも念のため、何があったのかを瑞希に聞くことにした。
瑞希いわく、もともと律子が中学生組の宿題をみていたのだが、急用ができて少しの間離れなければならず、
近くにいた瑞希と紗代子に未来たちを任せたのだそう。
その時に、律子から「亜美と真美の二人は遊びまわってて宿題終わらせてないだろうから、
見つけたら首根っこ捕まえておいて」と言われていたのだという。
148 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 22:00:02.54 ID:5B03mR0i0
「なるほどね……。それで真美ちゃんたちが逃げようとしたところに、律子ちゃんがちょうど戻ってきたわけ。」
「はい、馬場さん。その通りです。」
それはこのみが想像していた内容そのもので、案の定、普段から繰り広げられているのと同じ流れだった。
ここまでくると、もはやいわゆる様式美と呼ばれるもの範疇なのかもしれない、とこのみは思う。
このみは、先ほどの亜美真美との会話をふと思い出した。
二人は「何もしてない」と言っていたはずだったけど……?
149 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 22:01:43.85 ID:5B03mR0i0
「……って、それは何もしてなかったから追っかけられてるんじゃないの!」
このみは、とうとう口をついてツッコんでしまう。
それを聞いた亜美と真美は途端に元気になって、このみを囃し立てる。
「おお、このみんのナイスなツッコミ頂きました!」
「うんうん、その調子だよ。このみん!」
それを見た律子は、半分呆れたような様子で、ため息をつきながら言う。
「まったく……。あんたたち夜に取材入ってたでしょ?今のうちに済ませといた方が楽なのよ。」
対して、このみの背中に隠れたままの二人はうぐ、と声を漏らした。
「そ、それはそうかもだけど……。」
「うう、助けてこのみ〜ん!」
150 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/07(土) 22:15:52.32 ID:5B03mR0i0
遊びたい盛りの中学生としては、宿題を後回しにしたくなるのはまあ当然だろう。
このみ自身も亜美真美と同じ歳のころはまだ、自分から進んで勉強する方ではなかったので、その気持ちも分かった。
「はあ、仕方ないわね。……いいわよ。このみお姉さんが人肌脱いであげるわ。」
「うう、このみん……!」
二人とも、地獄で仏を見たような顔をしていた。
成り行きではあったけれど、一緒に隠れんぼして遊んでた引け目も少しだけ感じていたこともあり、このみはそうすることにした。
とうとう本当に二人から手を合わせて拝まれてはじめたこのみは、そこで一回だけ、こほんと咳ばらいをした。
「そう、宿題の一つや二つ。このこのみお姉さんがばっちり教えたげる!」
「ええー!このみん、そうじゃないんだってば〜!」
控え室じゅうに二人の悲鳴が響き渡った。
151 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:24:31.67 ID:8BkDB5Im0
もうすっかり日は落ちてしまっていた。
日が沈んで辺りが暗くなる頃には、大勢いたアイドルたちも殆どが帰途についていて、また静かな劇場に戻っていた。
このみは、宿題を終えた亜美真美と別れたあと、事務室に戻ってきていた。
765プロの事務所の事務処理まわりの応援に行っていた青葉美咲は、夕方には帰ってきていたようだった。
劇場側でしかできない処理がいくつか残っているらしく、それだけ済ましておきたいとのことだった。
とはいえ、それほど時間のかかるものではないようで、このみは自分のことをすることにした。
152 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:26:08.91 ID:8BkDB5Im0
暫くして、このみが明日のスケジュールの確認をしていると、美咲は大きく伸びをした。
美咲のPCがシャットダウン中であるところを見るに、今ちょうど仕事が片付いたところだとすぐ分かった。
「美咲ちゃん。今日はお疲れさま。戸締りとか、後は私がやっとくわよ?」
「ありがとうございます。このみさんはまだ残っていくんですか?」
「そうね……。何となく、もう少しここに居ようかな、って。気にしないで。」
「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼しますね。」
お疲れさまでした!といつものように明るく言って、美咲は部屋を出ていく。
もしかしたら疲れて元気が無くなっちゃったりしてないかな、とこのみは思ったが、杞憂だったようでほっと安心した。
153 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:27:33.40 ID:8BkDB5Im0
ばたん、と扉が閉まる音を聞いて、このみは辺りを見回した。
PCファンの回る音が普段より大きく感じられた。
本当は、特段何かする用事がある訳ではなかった。
ただ、何となくここを離れたくなかっただけだった。
部屋の電気を消して、鍵を閉めて。
ただそれだけのことが、このみにとっては言いようもなく切なく感じられて、それがきゅうと胸を締め付けた。
154 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:29:55.27 ID:8BkDB5Im0
このみは、机の奥側にあるブラインドを開けて、窓の外を覗いてみた。
そこからは、並木道に植えられた木々越しに、黒く染まる海が広がっているのが見えた。
静寂が覆う海と光が飛び交う街。
二つの世界を分かつ境界線であるかのように、岸沿いに街灯の明かりがずっと向こうまで伸びていた。
窓の端に添えた指先が、少し冷たかった。
このみの指が窓の桟に触れたとき、ざらっとした感覚があった。
よく見ると、そこに埃が少しだけ溜まり始めているように感じられた。
普段なら気にするほども無い程度だったので放っておこうとも考えたが、
どうにも気になってしまい、少しだけ掃除をする事にした。
155 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:33:34.50 ID:8BkDB5Im0
始めの窓を拭き終えたら、今度は隣の窓が気になって。
窓を全部拭き終えたついでに、机も別で拭いておこうかな、と。
そんな事をして、気がつけばそれなりに時間が経っていた。
「……これで大体は、終わったかしら。」
ふと時計を見ると、その針は20時に差し掛かろうとしていた。
このみは腰に手を当てながら、深く息を吐いた。
156 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:36:01.25 ID:8BkDB5Im0
最後に、目についたテレビの前のローテーブルも拭いておくことにした。
テーブルの上の、未整理のままになった書類やチラシ類を一旦移してから、このみは台拭きに手をかけた。
腰を下ろしてテーブルを端から拭いていたこのみだったが、そのとき、部屋の外から足音が微かに聞こえた気がした。
このみはそれが気のせいだと思わなかった。
思わず台拭きを持つ右手が止まった。
このみはテーブルから目を上げて、部屋の扉の方を向いた。
すると、磨りガラス越しに部屋の前の廊下の電気がぱっとついたのが分かり、それが確信へと変わった。
本当はもう必要なかったが、扉の外の様子に気がつかなかった振りをして、
このみはテーブルを拭く手をもう一度動かした。
足音が扉の前で止まり、ドアノブを回す音がした。
ゆっくりと扉が開く。
157 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/03/11(水) 01:36:50.74 ID:8BkDB5Im0
このみは、彼が此処に戻ってくることを知っていた。
このみは腰を下ろしたままで、扉を開けた彼を見上げていた。
そのとき、自然と二人は目があった。
スーツを着た男性は、優しい目をしていて、このみを見つめていた。
「このみさん。ただいま、です。」
子供みたいに笑って、彼はそう言った。
このみは何でもない返事を口にするのが、少しだけ不思議なように感じた。
ありふれた言葉ではあるけれど、言葉にするのが少しだけ照れくさくて、そして嬉しかった。
このみは立ち上がって、もう一度目線を合わせてから、答えた。
「──おかえりなさい、プロデューサー。」
158 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 00:26:26.21 ID:VqwG9xH+0
彼は、自身の机に持っていた鞄を置いて、少しだけネクタイを緩めた。
「プロデューサーはまだこの後残ってくの?」
台拭きを流しで洗い終えたこのみは、彼の方を見て聞く。
「いや、今日中に終わらせなきゃいけないものは、もう無いですね。」
彼は、クリアファイルに入った営業用の資料を、鞄から取り出しながら答えた。
「直帰でも良かったんですけど……。まあ、なんとなく、ですかね?」
部屋の奥にある書棚の戸を開け、彼は同じようなファイルが収められた段へ資料を入れた。
「ウフフ、そうなの。」
159 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 00:41:15.02 ID:VqwG9xH+0
このみは麦茶の入ったグラスを2つ用意して、ローテーブルに向かいながら彼にアイコンタクトをした。
彼の方も、すぐ行きますよ、といったように手で合図をした。
鞄を置いてから、彼は事務机が並んだスペースから抜け出して、このみの元へ向かった。
「プロデューサー、今日はありがとうね。無理言っちゃったとは思うけど……。」
このみは、そう言って彼にグラスを手渡した。
無理を言った、というのも、実はこのみは今日の分のスケジュールを、数日前に調整してもらっていたのだ。
最近の765プロライブ劇場のアイドルたちは、重ねてきた結果が少しずつ評価されてきたらしく、徐々に仕事が増えつつあった。
それはこのみも例外ではなく、テレビ番組の単発の仕事が入ったりすることも段々と多くなっていた。
160 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 00:41:49.25 ID:VqwG9xH+0
このみが件のオーディション資料を受け取ったのは、丁度一週間前のことだった。
それから、このみは仕事の合間の時間を縫うようにして、今回の役を理解するために資料を読み込んでいった。
普段のこのみであれば、それでも十二分に準備をしてオーディションに臨むことができただろう。
しかし、今回の役だけは、このままでは後から後悔するかもしれない、とこのみは思った。
それならば、出来る限りのことは試したいと思い、
どこか一日予定を空けられないか、とプロデューサーに声をかけたのだった。
「いえ、雑誌の取材が1つあっただけで、あとはレッスンだけでしたから。全然手間じゃなかったですよ。」
むしろ向こうの記者さんも、予定をずらした後の方がむしろ都合が良かったらしくて、と彼は続けて言う。
このみはそれを聞いて、ほっと息を吐いた。
161 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 00:43:30.84 ID:VqwG9xH+0
彼はこのみの向かいに腰掛けてから、グラスの中身を一口含んだ。
少しだけ間を開けて、表情を引き締めてから、このみに尋ねた。
「それで……なにか収穫はありましたか?」
このみの答えはもう決まっていたが、自分の中でそれらを今一度反芻していた。
改めて考えると、少し気恥ずかしさを感じるが、これが『あの子』と『私』なんだ、と今では胸を張って言える気がした。
「ええ、おかげさまで。ちょっと難しかったけど……。これでやっと、満足のいくものができそう、って感じかしら。」
「……それなら、よかったです。」
彼は胸を撫で下ろしたようで、その表情はまた穏やかなものに戻った。
162 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:05:17.73 ID:VqwG9xH+0
「あ、念のためオーディションのことについて確認なんですが……。」
彼はスーツの内側から手帳を取り出して、しおり紐の挟まれたページからぱらぱらと何枚かめくる。
目的のページを見つけたところで、彼は顔を上げた。
「本番が、2週間後の金曜日、ですね。選考はこの一回だけで、このオーディションに通過すれば、それで本番公演の出演が決まります。」
昨日までだったなら、オーディションやその先の話なんてとても意識できなかっただろう、とこのみは思う。
役とその方向性が具体的にイメージできたこともあり、このみは本番の舞台に立つ自分を想像した。
ドラマの撮影と違って、一度の失敗も許されない。
劇場の公演と違って、その舞台は私が知らない『劇場』なんだ。
全く新しい場所で、まっさらな自分で挑戦できることは、このみの心を強く惹きつけた。
『今の私で何処まで行けるんだろう』。『何ができるんだろう』。
このみ自身も意外に思ったが、そんな無邪気な好奇心にも似た気持ちを抱いていた。
一方で、このみの胸の中で、ささくれだって離れないものがあった。
このみは、それ自身が何であるかを、正確に言い表すことはまだできなかった。
ただ、それが手放してはいけないものだということだけはなんとなく分かっていた。
163 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:10:00.82 ID:VqwG9xH+0
「プロデューサー。その……。」
このみは、自分の中にある気持ちを言い表す言葉を探すようにして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「もし、私がそのオーディションに合格したとして……。そのときのスケジュールって、どんな感じになるのかしら。」
おそらく、このみ自身が引っかかっていたことは、それなのだ。
これだけは確かめておかなくてはならない、そんな気がした。
「そうですね……。公演時期は今年の冬で、公演の期間はまだ正式決定ではないですが、だいたい2週間くらいになるそうです。
本番の2ヶ月前くらいから少しずつ演技面での練習が入り始めて……。」
「おそらく、公演直前の1週間くらいは殆ど毎日が集中稽古になりますね。朝から晩まで、一日中出ずっぱり、と言った感じのものです。」
彼は手帳を広げながらそう答えた。
164 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:11:20.82 ID:VqwG9xH+0
「そう、なのね。」
自身の意識の中へ潜りながら、このみはそう返事した。
それは、暗闇の中手探りで失せ物を探すかのようだった。
「役に選ばれたら全体稽古の予定も正式に通知されるはずですが、やはり本番の2か月前くらいからだと思っていてください。」
彼はそう言った後、持っていた手帳をしまって、このみの方へと向き直した。
対するこのみは顔に手を当てたまま、漠然としたままの感情を一つ一つ切り分けて、その原因を探していた。
自分の気持ちに訊ねては、ああでもない、こうでもないと繰り返す。
彼の言葉から少しだけ間が空いて、ようやくこのみはいまの自身の心を説明するための、たった一つの結論を得た。
このみの口がゆっくりと開いた。
「もし、私がそのオーディションに合格したら……。公演期間を入れて、1ヶ月くらいかしら。ううん、それよりもっとかもしれないけど……。」
165 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:12:08.44 ID:VqwG9xH+0
このみは、彼が自身の声をいつだって受け止めてくれることを知っていた。
殆ど呟くような声だったが、それは未だに不安も迷いも抱えたままであることを物語っていた。
そしてこのみは一呼吸ほどの間の後、彼に尋ねた。
「そうなったら、当分の間アイドルはお休み……ってことよね。」
その問いの答えは、このみ自身も分かっていることだった。
しかし、このみにとってそれが何より大切なことであると、彼は知っていた。
だからこそ、彼はその言葉を伝えることを少しだけ躊躇った。
生まれた静寂の中で、二人は夜の空気の冷たさを感じた。
彼はその冷たさから逃れるように、右手を握りしめた。
それでも伝えなければならない、と。
彼はそっと口を開いた。
「……ええ、そうするつもりです。」
166 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:12:56.66 ID:VqwG9xH+0
このみはその言葉を聞いても、表情は変わらないままだった。
彼は手に持ったままのグラスに目を向け、続けて言う。
「もちろんギリギリまで並行してアイドルの仕事もする、ということが出来ないわけではないですが……。」
彼の手がわずかに揺れた。
手の中にあったグラスの中身は波を立て、溶けて一回り小さくなった氷がからんと音をたてた。
グラスの周りについた冷たい水の滴が、つうと表面を伝って、ひとつふたつと底の方へ流れていった。
彼はグラスから目線を切って、もう一度このみを見た。
「それでも、やっぱり俺は、このみさんに無茶はしてほしくないですから。」
その目は、ただ真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。
このみと彼は、もうそれなりには長い付き合いになっていた。
だから、本気でそう言ってくれているんだ、とこのみにははっきりと分かった。
「そうよね。……ありがとう、プロデューサー。」
167 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:13:28.76 ID:VqwG9xH+0
かつて、このみは彼が言うところの「無茶」をしたことがあった。
大変だとは分かっていたが、自分にとってそれができないとは思わなかったし、
最後まで責任を持って結論を出すことが、自立した大人としてあるべき姿なのだと思っていた。
実際、いまもその考えは変わっていない。
ただ、ときにそれが、知らない間に周りの誰かを心配させてしまうことがあるのだと、このみは知った。
もし大切な人が荷物を一人で抱え込んでいたのなら、
手を伸ばしてその人の力になりたい、頼ってほしい、このみは思うだろう。
辛そうな顔は見たくないし、笑っていてほしい。
このみが劇場の大切な仲間たちにそう思っているのと同じように、
頼ってほしいと思ってくれる大切な人がたくさんいる。
168 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:14:10.81 ID:VqwG9xH+0
だからこそこのみは、自身のいまの素直な気持ちを彼に伝えたかった。
それを届けることが、互いの願いだと知っているのだから。
「ねえ、プロデューサー。」
このみは彼の名を呼んだ。
普段より少しだけ、甘えるような声だった。
「その……。私ね、この劇場のことが、自分で思ってたよりもずっと大好きだったんだ、って。そう気づいたの。」
169 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:15:12.43 ID:VqwG9xH+0
胸に手を当てながら、このみは自分の中から出てきた気持ちをそのまま言葉にした。
それが自分の中でこんなにも育っていたなんてと、このみ自身も驚いていた。
このみは自身のグラスに目を移して、そっと左手で触れた。
思いを綴るたびにこのみの胸の中にまた言葉が浮き上がっていく。
胸がいっぱいになって、それでも溢れだす気持ちがそのまま言葉になって、このみ自身にも止まらなかった。
「プロデューサーに見つけてもらって、気が付けばアイドルになってて……。まさか、自分がアイドルになるだなんて、考えたこともなかったわ。」
左手の中のグラスに目を向けたまま、このみは思い出すようにして言った。
グラスの表面の結露の冷たさを指先で感じて、親指で拭った。
そして、このみはそっとグラスを置いてから、彼へと視線を向けた。
彼がそうしたように、ただまっすぐに瞳を見つめて。
「でも、アイドルになって良かったって思う。ずっとこのままみんなとアイドルしていたい、って思ってる。」
170 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:15:55.10 ID:VqwG9xH+0
互いが互いの眼を見ていた。
しかし、先に目線を切ったのはこのみだった。
「けど……。」
指先の濡れた左手に目を向けて、このみは押し黙った。
その静寂の中で、時計の秒針の音だけが聞こえていた。
少しの間のあと、ぽつりと溢すように、このみはその先の言葉を続けた。
「……多分気づいちゃったんだと思う。私も、アイドルじゃなくなる時が、いつか来るんだ、って。」
171 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:16:54.05 ID:VqwG9xH+0
その声は、微かに震えていた。
言葉にした途端に、それが決して遠い誰かの話でなく、紛れもなく現実の自分の話なのだと、このみは思い知らされた。
このみは彼の方を見た。
彼は、静かにこのみの話を聞いていた。
拳数個分ほど開いた膝の上で腕を抱えるようにして、その体勢のままほとんど身動きさえしなかった。
彼のその様子からは、繊細で、容易く揺れ動いてしまいそうなこのみの話を妨げないように、という彼の思いが見てとれた。
しかし、このみには分かっていた。
彼の抱えた手が、陰で握られていることも。
時折強く目を瞑っていることも。
決して声を漏らすまいと、ぎゅっと口を噤んでいることも。
172 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:18:11.64 ID:VqwG9xH+0
それを知っているからこそ、このみは先を続ける。
「きっと、それはまだ、ずっと先のことだけど……。」
そうであったとしても。
「……もし私が鶴の役に決まったら。私が『あの子』でいる間、私は『アイドル馬場このみ』でいられない。」
それはこのみにとって、決定的なものだった。
たとえそれが一時的なものであったとしても、この劇場を離れて、全く別の舞台で、全く別の世界を生きるのだ。
このみ自身、それが自分の人生において何を意味するのかは分からなかった。
ただ、今はまだ離れたくない、手放したくない、と。
それは、このみの一番深いところから出てきたものだった。
彼の顔は陰に隠れてしまっていて、このみはその表情を正確に窺い知ることはできなかった。
けれど、堰を切ったように溢れ出したこのみの感情はもう止まらなかった。
173 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:18:48.21 ID:VqwG9xH+0
このみの中で、走馬灯のように様々な景色が浮かんでは消えていった。
そして、最後に現れた劇場の定期公演の情景だけが、このみの胸の内から離れなかった。
幕が上がる瞬間。
下手から上手まで、いっぱいに広がった仲間たち。
溢れだす光と歓声。
長期間劇場から離れるということは、月に一度の定期公演にも参加できなくなることを意味する。
このみにもそれは分かっているつもりだった。
今までにも、他の仕事と重なって定期公演に出られなくなったときだって、何度もあった。
それは、今までと同じはずなのに。
174 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:19:33.28 ID:VqwG9xH+0
「私一人いなくなったって、何か問題が起きるわけじゃない。ううん、最近のみんな、すごく頑張ってるもの。だから……。」
幾重に広がる光たちの上で、劇場の仲間たちが舞い踊る。
願いは歌になって、ステージからファンのみんなへと飛び立って。
それはペンライトの光になって、ステージへと届けられる。
そんな夢のような世界を。
このみは、ただ遠くから見ていた。
手を伸ばしても届かないほど、遠く暗い場所から。
それでも、このみはある『色』を縋るように探した。
どんなに小さくても、どんなに微かな光であったとしても、と。
それこそが、『アイドル馬場このみ』の存在証明なのだから。
175 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/04/10(金) 01:20:47.77 ID:VqwG9xH+0
ステージは完璧だった。
たった一つ、その世界に、馬場このみがいないことを除いては。
そのまま手放せてしまったのなら、どれほど楽なのだろうか。
何も知らないままでいられたのなら、こんな胸の痛みに気づくこともなかったのに。
もしも。
あのステージから見える景色と、初めから出会っていなかったのなら──。
176 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:45:50.32 ID:9DhA16vx0
伸ばした手に、何かが触れた。
このみがはっとして意識を戻すと、そこは劇場の事務室だった。
左手の感覚は、思い違いではなかった。
このみが目線を上げて辿ると、その手は彼の両手でぎゅっと握られていた。
このみの小さな手は、すっかり覆われてしまっていた。
このみは驚いて、彼の顔を見た。
彼は、いろんな感情がない混ぜになったような、複雑な顔をしていた。
不安も迷いも抱えて、それでもじっとこのみの顔を見つめていた。
彼のその表情をみたとき、自分がどんなにひどい表情をしていたのか、このみは分かってしまった。
このみは、彼の手に力が入るのを、握られた手越しに感じた。
突然のことだったが、自分が大切にされているんだと、このみにははっきり分かった。
177 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:46:25.80 ID:9DhA16vx0
「このみさん。」
彼は、手を握ったままこのみを見つめて、一言、そう言った。
このみは、ただそれだけで、冷えきった左手が暖かくなるのを感じた。
少しの間が空いて、それからこのみは口を開いた。
ぽつりぽつりと、言葉を溢すように。
「……ステージにみんながいるのに。私一人だけが何処にもいないなんて、苦しくて。」
本当ならば、劇場のみんなが活躍していることを喜ぶべきなのに。
このみは、それを心から素直に受け止めることができそうになかった。
178 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:54:39.64 ID:9DhA16vx0
自分の居なくなった世界が、それまでと同じように、淀みなく回り続けるのが嫌だ。
それは嫉妬にも独占欲にも似た感情だった。
自身の中にこんな下卑た気持ちがあったのかと、このみは心底思わされた。
「……おかしいわよね、こんなの。子供のわがままみたいだって、自分でも思うもの……。」
分かっていても、もうどうにもならなかった。
これが何かを好きになってしまったことの代償ならば、世界は残酷だ。
どれほど身を焦がしても、それが届かなかったのなら、それは──。
179 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:56:54.25 ID:9DhA16vx0
もう一度だけ、手がぎゅっと強く握られた。
このみがそれに気がついて目を向けようとしたとき、また顔が下を向いてしまっていたのだと自覚した。
このみが顔を上げると、彼と目が合った。
「このみさんに、伝えたいことがあります。」
彼は、このみに気取られぬよう、震えそうな声を押し殺してそう言った。
芯の通った声だった。
束の間の静寂があった。
このみは、自身の鼓動が少しずつ早く、そして大きくなっていくのを感じていた。
それは、握られた左手越しに、彼に伝わってしまいそうなほどだった。
180 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:57:44.26 ID:9DhA16vx0
彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。
「……俺は、あなたのプロデューサーです。
あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」
彼は真っ直ぐにそう言った。
「幸せ……?」
「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」
彼は真っ直ぐにそう言った。
181 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:58:26.38 ID:9DhA16vx0
>>180
訂正
彼は小さく深呼吸してから、このみの目をじっと見つめたままで、口を開いた。
「……俺は、あなたのプロデューサーです。
あなたをトップアイドルにすることが、俺の夢です。
だから、あなたには幸せになってもらわないといけないんです。」
彼は真っ直ぐにそう言った。
「幸せ……?」
「ええ。『あなたの幸せ』です。
いまのこのみさんがなりたい姿、出会いたいもの、大切にしたいもの……。
きっと、叶えたい夢があるはずです。」
182 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 21:59:43.74 ID:9DhA16vx0
夢──。
子どもだった頃は、たくさん夢があった。
テレビを見て影響されて、その度に何々になりたい、だなんて。
そうやって、いつも母に言いに行ったりしていたらしい。
今はもう覚えていないけれど、やっぱり子どもらしくて、たわいのない夢だったのだと思う。
183 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:00:24.25 ID:9DhA16vx0
周りのみんなが大人になっていくように、私も大人になった。
普通の人生のなかで、ささやかな幸せを見つけて。
そうやって生きていくものだと思っていた。
だから、大人になった私は、きっとあの日まで夢を見てこなかったんだと思う。
『私みたいな大人が今からアイドルを目指すなんて、おかしいと思ってる?』
24歳という年齢は、決して若いとは言えない。
最年長、といえば聞こえは良かったけれど、
アイドルとして夢を見ていられる時間が少ないんだと、ずっと分かっていた。
だから、はじめの頃は焦ってばかりいたように今では思う。
上手くいかないことだらけで、戸惑うことも多かった。
それでも一つ一つ身につけて、必死に一歩ずつ前へと進んできた。
184 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:00:50.73 ID:9DhA16vx0
今振り返れば、アイドルになってから本当に色々なことがあった。
スパイのエージェントとして、迫りくる罠たちを、力を合わせて突破したこともあった。
「屋根裏の道化師」のときみたいに、演技で表現するような仕事も、最近は少しずつ増えてきた。
時には変な仕事もあるけれど、劇場に戻ればいつだって、なんてことのない、騒がしい日常がそこにある。
公演の日には、いつもと変わらない仲間たちと一緒に、大好きなこの場所でファンのみんなと過ごすことだってできる。
185 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:01:55.24 ID:9DhA16vx0
以前の自分では気づかなかったことが沢山あって、今の自分だから分かったことがある。
『私はひとりじゃない』。
思いを共にする仲間たちがいる。
背中を任せられる戦友がいる。
そして今の自分には、かけがえのない大切な人がいる。
それは、私の道をずっと近くで応援してくれた人たち。
186 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:02:46.13 ID:9DhA16vx0
不安を抱えたままこの世界に飛び込んで、たった一筋の光に出会えた日のことを今でも鮮明に覚えている。
輝いた舞台に立てるのならば、あの景色をもう一度見れるのならばと、どれだけ苦しくても諦めずにいられた。
少しずつでも進んでこられたのは、あの抱いた憧れが胸の中にあったからだった。
でも、今の私の中にあるのは、もうそれだけなんかじゃない。
あの日見た光の波のその向こう側には、私たちを応援してくれた人たちがいたんだ、って。
私に夢を見せてくれた人たちがそこにいるんだって、胸の中からいつだって勇気をくれる。
だから、私は──。
187 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:05:29.73 ID:9DhA16vx0
「──私に色んなものをくれた、大切な人たちに。
あなたに出会えて良かった、って伝えたい。」
「私が、『アイドル』馬場このみとして最高に輝く姿を見てほしい。
出会ったのが間違いなんかじゃないって、
心から思ってもらえるような、そんな最高の私を──。」
言葉にしたのは、きっと初めてだった。
抱えたこの気持ちは、言葉で伝えるにはあまりに足りないから。
だから全部抱えて、届いてほしいと願っていた。
188 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:07:04.45 ID:9DhA16vx0
彼は、このみの手を握っていた両手を、そっと離した。
その表情は、先ほどよりもずっと落ち着いていた。
「……俺なんかよりも、このみさんの方が人生経験はずっと多いと思います。
色々なものが見える分、不安も迷いも、余分に抱えてしまうかもしれません。」
189 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:07:47.53 ID:9DhA16vx0
彼の言葉を咀嚼しながら、このみは考えていた。
このみは経験から分かっていた。
自身のそういう性質、この『悪い癖』は、一生付き合っていかなければならないものだと。
ある程度は変わることはできても、それ自体を無くすことは出来ないだろう、と。
それでも──。
「俺は、『アイドル』はわがままでいいと思います。
いろんな願いを叶えて、幸せになって。
あなたの幸せを願って、応援してくれる大切な人たちが、いつだってたくさんあなたにはいます。」
──それでも、自分のそんな所さえも愛してくれる人がいるのなら。
自分の好きな所も、そうでない所も。
歩いてきた全てが『馬場このみ』の軌跡なのだと、胸を張って言えそうな気がした。
190 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:09:15.88 ID:9DhA16vx0
「だから、このみさんがアイドルを辞めるときは、
きっとここじゃ叶えられない願いを見つけたときなんだと思います。
でも、その願いもきっと、みんな応援してくれます。
それは、大切な人の──あなたの夢だから。」
アイドルの先にある、夢。
このみは目を瞑って深呼吸して、想いを巡らした。
『アイドル』で願った夢を全部叶えた後の自分が、その先に何を見つけるのだろう?
しばらくして、このみは息を吐いてから目を開けた。
「……ダメね。私には、まだ想像だってできないみたい。」
そこまで言って、このみは笑った。
191 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:12:50.31 ID:9DhA16vx0
「──でも、いいの。」
アイドルを辞めた先を想像出来ないのは、
きっと『アイドル』として叶えたい夢が目の前にあるからなんだ、とこのみは思った。
それは、今の自分が『アイドル』であることの、確かな証拠だった。
「だって、今の私は『アイドル』だから。先のことは分からないけど……。
私は、大切な人たちと一緒に、大切な今を歩いていきたい。」
「このみさん……!」
このみは、眉間のあたりがきゅうと熱くなるのを感じた。
目をぎゅっと瞑ったり、瞬きをしたりして、それからそっと深呼吸をした。
192 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:13:55.06 ID:9DhA16vx0
息を吐いてから、このみはゆっくりと口を開いた。
「やっぱり、ファンのみんなに会えなくなっちゃう、っていうのは寂しいけど……。」
そこまで言って、このみは彼の顔を見た。
このみには、彼が自分のために胸を痛めてくれているのが伝わってきて、
そうやって心配をかけてくれるのが、何より嬉しかった。
193 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:14:26.48 ID:9DhA16vx0
だからこのみは、笑ってこう言った。
「プロデューサー。けど、心配しないでね。
この演劇のお仕事は、私が自分でやると決めたことだから。
今の私に必要なことなんだって、今ではそう思えるの。
心配してくれてありがとう。私はもう大丈夫よ。」
それを聞いて、彼は少し安心した様子を見せた。
「……俺はこのみさんのことを信じています。だから、俺はあなたが歩む道を応援します。
なのでこれは、『アイドル』馬場このみの、いちファンとしての意見なんですが……。」
194 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:15:39.55 ID:9DhA16vx0
彼は、少しだけ逡巡した様子だった。
深く息をしてから、彼はつぶやくように言った。
「……やっぱりファン側も、寂しいんです。このみさんと会えなくなるのは。」
このみは、彼のその言葉を聞いて、胸が締め付けられるようだった。
つい先ほど自分で決めたことでさえ、揺らいでしまいそうな気がした。
この仕事に挑戦するということは、劇場から、大切な人たちのもとから離れるということなのだ。
選んだその選択に、本当に間違いはないのだろうか?
答えのない問いにこのみは苛まれそうになった。
このみは胸が詰まって、何も言葉が出てこなかった。
195 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:16:08.52 ID:9DhA16vx0
「……でも。」
張りつめそうになった空気のなか、彼はそう言った。
その声を聞いて、このみは顔を上げた。
彼はこのみの顔を見て、その言葉の先を続けた。
「でも、大丈夫です。……だって、このみさんは劇場のアイドルですから。
またこの場所で、あなたに会えるって、みんな信じてますから。」
思わず、このみは息が止まった。
たった一言。それだけで、不思議と胸のわだかまりが解けていくような気がした。
このみは、自分の中でたった一つだけ、足りなかったピースが埋まるような感覚があった。
それはきっと心の内で、ずっと欲しいと願っていた言葉だ。
196 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:16:35.16 ID:9DhA16vx0
このみはもう、彼のその言葉の先に何があるかを知っていた。
逸る気持ちに胸が高鳴ることを自覚しながら、このみは彼を見て、確かめるように呟いた。
「そ、それって……。」
彼はただ頷いて、言葉を続けた。
「確かに、このみさんがしばらくアイドル活動できなくなることで、
ファンの人たちには、寂しく感じさせてしまうかもしれません。
……それでも、またこの劇場の舞台であなたに会える日が来る、って分かっているから。
それだけできっと大丈夫です。」
197 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:17:44.90 ID:9DhA16vx0
「例え大切な人と会えない日が続いても、
次会える日まであと何日だろう、って数えてみたり、
どういう服を着ていこうかな、って考えてみたりするのも楽しくて。
しばらく会えなかったとしても、その会えなかった日の分だけ、会えたときにほっとして嬉しくなる。
……『誰かを好きになる』って、きっとそういうことなんだと、俺は思います。」
胸の中にあった気持ちが線で繋がって、胸いっぱいに広がっていくのを、このみは感じていた。
198 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:18:21.38 ID:9DhA16vx0
このみには、あの心地良い歓声が聞こえてくるようだった。
気が付けば劇場のみんなと舞台の上に立っていて、大勢の観客たちの前で歌を歌っていた。
ふと前を見れば、色とりどりの光の向こう側に、特別な人たちがいた。
一人、また一人と、ステージからの光に照らされるようにして、大切な人たちの顔が見えた。
まるで出会う前から出会うことが決まっていたみたいな気がして、いつも伝えたい言葉の先にいてくれた。
そして、このみとの間──二人の間には、いつだって桃色の光があった。
このみが歌声とともに手を伸ばせば、その先に柔らかな笑顔が見えた。
それを見たこのみは、思わず自分の頬も緩んでいくのが分かった。
まるで桃色の光を伝って気持ちが互いに伝播していくみたいで、
ステージの上の自分からひとりひとりに、心の奥底で繋がったような感覚があった。
199 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:19:11.33 ID:9DhA16vx0
胸の中にずっとしまい込んでいたものがあった。
本当はそう信じていたかった。
でも、もし違ったら。そうでなかったのなら。
……傷つくのが怖くて、ずっと見て見ぬふりをしてきたのかもしれない。
でも、今ならきっと信じられる。
『私の大切な人たちも、きっと私と同じなんだ』と。
自分の進む道が、初めから決められている人なんていない。
私がそうだったように、みんな進む道に悩んだり迷ったりもする。
ときには先に何があるか分からないまま、進む道を決めなくてはならないことだってあった。
それでも、二つの道が交差するように、人と関わり合いながら、誰もが自分の道を歩いていく。
その中で。偶然素敵な場所に巡り合って、色々な人と共に過ごして──。
──そして、『誰かを好きになる』。
200 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:19:59.87 ID:9DhA16vx0
劇場のステージで、大切な人たちへ想いを届けようとしたはずなのに、いつだってそれよりもっと大きなものを貰っていた。
私は、自分の気持ちをいつも伝えられずにいて、受け取ってばかりだ、と。ずっと、そう思っていた。
だけど、今はもう分かる。
私がずっと伝えたかった想いは、きちんと私の大切な人たちに届いていたんだ。
私の大切な人たちが、こんなにも素敵なものを私にくれること。
それは、私がみんなに想いを届けたいと思うことと、きっと一緒で。
想いを寄せてくれる大切なひとに、自分の気持ちを届けたいという想いは、何も変わらないんだ。
気が付けば、このみの目元は雫で濡れていた。
堪えられずこのみが瞬きをしたとき、それは堰を切ったように頬を流れていった。
一粒、二粒と溢れた涙はやがて落ち、このみの手の甲を濡らした。
「ああ、もう。どうして……。」
このみは、左手の親指で目元を拭った。
いくら指でなぞっても涙は止まらなくて、溢れてくるばかりだった。
このみは目元を手で隠したままで、彼から見えないように、顔をそっと伏せた。
「……どうして、こんなに涙もろくなっちゃったのかしらね……。」
201 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:20:38.26 ID:9DhA16vx0
声を詰まらせながら、このみは自問するようにそう呟いた。
ただ、このみはその答えが何であるかを既に知っていた。
知っていたから、涙が溢れて止まらなかった。
「その、このみさん……っ。良かったら、これを……。」
このみは、伏せた頭越しに彼の声を聞いた。
自分の滲んだ視界にあてられたのか、このみにはその声は、どこかくぐもって聞こえた。
202 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:21:33.39 ID:9DhA16vx0
指で涙を拭いながら、このみはゆっくり顔を上げた。
差し出されたハンカチを受け取りながら、このみは声をもらした。
「……ごめんなさいね、プロデューサー。私……。」
そこまで言って、彼の顔を見たところで、このみの声が止まった。
彼の顔もまた、涙で濡れていた。
このみが見たときには、彼はもう顔中ぐしゃぐしゃになっていた。
「このみ、さん……。俺……。」
途中、ぐすぐすと鼻の音を鳴らしながら、彼は言う。
このみは、二人して泣いてる状況がなんだかおかしくて、つい頬がゆるんだ。
その頬に沿って、雫が一筋、弧を描いて流れていった。
「……もう。なんでプロデューサーが泣いてるのよ……。」
このみは、受け取ったハンカチを当て涙を拭いながら、笑ってそう言った。
203 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:22:27.11 ID:9DhA16vx0
「そ、それは……。」
彼は右手で、ぐしぐしと自分の涙を払った。
それから、彼は指先を頭に当てて小さく呼吸をした。
しばらくして、彼は震える声でゆっくりと言葉を続けた。
「……だって、あなたと……。
もし、このみさんと出会えてなかったら……。
こんなふうに誰かに自分の気持ちを伝えようって、思ったりしなかった、って。」
このみは、胸の奥がきゅうとなるのを感じて、目頭に熱が上っていくのがわかった。
思わずこのみは両手を顔に当てた。
溢れ出る涙はこのみの指先を濡らして、どんどん頬を伝い流れていく。
このみは、涙を拭くのさえ忘れてしまっていた。
ただ、胸の中の暖かさが、じんわりと体に広がっていくのを感じて、
そこから動くことができなかった。
彼は、溢れる感情に促されるように、前へと体を預けた。
脚に肘をついて体を支えるような体勢のままで、それでも零れ落ちた想いが顔を伝って流れていく。
「そう思ったら、なんだかもうっ……。」
204 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:23:18.24 ID:9DhA16vx0
ぽたり、ぽたりと雫が落ちた。
シャツの袖口は、一つ二つと、どんどん濡れて色が変わっていく。
えぐえぐという声を漏らす彼に、このみの涙がまた頬を伝っていった。
「私より、プロデューサーの方が泣いてるじゃない……。私にハンカチ渡してる場合じゃ、ないわよ……っ。」
「で、でも……。それだとこのみさんが……。」
205 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:24:16.97 ID:9DhA16vx0
彼がいくら手で拭っても、涙は止まらなかった。
このみは、自分の手の中にあった彼のハンカチを見た。
しかし、そのハンカチはもうこのみの涙で濡れてしまっていた。
このみは、横に置いてあった自分の鞄に手を差し入れて、そこから一枚のタオル地のハンカチを取り出した。
「……はい、プロデューサー。私のを使って。」
「うう、すみません、このみさん……。」
彼は左手でハンカチを受け取って、そのまま涙を拭いた。
そんな彼の様子を見て、なんだか子どもみたい、とこのみは顔を綻ばせた。
静かな夜、二人の潤んだ声だけが部屋の中を包んでいた。
少し気恥ずかしくもあり、そして不思議と心地が良い、そんなひととき。
いつまでもこの時が続いたのなら──このみは湧き上がる気持ちを胸にひそめて、そっと微笑んだ。
206 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:24:56.73 ID:9DhA16vx0
それから、幾ばくかの時間が過ぎた。
彼は時折、深く息を吸ってみたり、目をぎゅっと瞑ったりしていた。
しばらくしてから、彼は顔を上げ、ゆっくりした調子で言った。
「すみません……たぶんもう、大丈夫です。」
「落ち着いた?」
「ええ、おかげさまで……。」
「まだ目が少し赤いわよ。」
「……それは、このみさんもですよ。」
207 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:25:22.73 ID:9DhA16vx0
二人が気が付けば、時計の針は21時を過ぎていた。
グラスの中の氷も、すっかり全部溶けてしまっていた。
あまり遅くなると、翌日の仕事にも響くかもしれないと、二人は帰り支度を始めることにした。
彼は台拭きを取ってきて、テーブルを拭き始めた。
このみは、テーブルの上に乗ったままのグラスを二つ持ち上げて、その間テーブルを拭く彼を何気なくじっと見ていた。
彼がテーブルを拭き終えたことを確認してから、彼女は二つのグラスを重ねて、片手に持ち替えた。
「これも、もう片付けちゃうわね。」
「ええ、助かります。」
208 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:26:20.70 ID:9DhA16vx0
二人分のグラスを持って、扉の横にある給湯スペースに向かった。
ところが、少しだけ歩いたところでこのみはそっと足を止めた。
少しの間が空いてから、その場で振り返って、このみは訊く。
「……ねえ、プロデューサー。」
このみは、グラスを後ろ手に抱えたままで、彼を見た。
「その……。もしも、私が役を貰えたとして……。
それで、私がこの劇場にいない間に、私が演技に目覚めちゃったら、どうする?
もうアイドルを辞めて、女優の道に進みたいって、思ったとしたら?」
209 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:28:22.19 ID:9DhA16vx0
本心を隠すようにイジワルっぽく笑って、このみはそう言った。
その問いに、彼はすぐには答えなかった。
こめかみのあたりを指で掻いて、少しの間考えて。
それから、このみを優しく見つめて、答えた。
「今までも、演技の仕事は何回もありましたけど……。やっぱり、きっと素敵な女優さんになるんでしょうね。
このみさんがそう願うのなら……。いつかきっと、大勢の人の胸の中にいつまでも残るような、そんなお芝居ができると俺は思っています。ただ……。」
彼はそこまで言ったところで、言葉を飲み込んだ。
どこか、その表情はもの悲しげにも見えた。
しかし次の瞬間には、彼の顔からその色は消えていた。
彼はもう一度このみの方を見て、言葉を続けた。
「……ただ、もしこのみさんが女優の道を進むことになっても。
例えこの劇場から離れて、本格的に演技のお仕事ができる他の事務所へ移ることになったとしても……。
……この場所は、変わらず此処にありますから。
だから、気が向いたときにいつでも遊びに来て、それでまたみんなと色んなお話をしましょう。」
210 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/05/08(金) 22:31:16.57 ID:9DhA16vx0
このみは、いつか来るかもしれない、そんな何年後かの未来を思い浮かべた。
今より歳を重ねた自分が、仮に女優の道を歩んでいたとして──あるいはそうでなかったとしても。
やっぱり、私はこの場所に来てしまうんだと思う。
そこには今より大きく、大人になった仲間たちが居て。
今と同じように、何でもない話をして、みんなと笑って過ごしてる。
そんな、素敵な未来を。
「うふふ、ありがとう。プロデューサー。」
この先何と出会い、アイドルの先に何を見つけるのか──。
このみは、まだその答えを知らない。
でも、一つだけ確かなことがある。
「でも、大丈夫よ。……だって今の私は『アイドル』だもの。叶えたいこと、まだまだ沢山あるんだから!」
211 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/06/06(土) 21:17:28.19 ID:3DhfCsSR0
「着きましたよ、このみさん。」
彼は、ハンドブレーキをかけながら、助手席に座るこのみに声をかけた。
「ええ、ありがとう。プロデューサー。」
このみは、シートベルトを外して、持ってきていた小さな鞄を手に取った。
車を下りたこのみは、日差しを遮るように目の上に手を当てた。
雲が恋しくなるほどに空は晴れ晴れとしていた。
普段朝方はあまり調子がでないこのみだが、こうして陽の光の下にいると目の奥まですっと晴れていくような気がして、案外悪くない気分だった。
このみが腕時計を確認すると、針は午前9時ちょうどを指していた。
212 :
◆Kg/mN/l4wC1M
:2020/06/06(土) 21:22:46.44 ID:3DhfCsSR0
二人は、オーディションが行われる会場近くのコインパーキングにいた。
彼が運転席側のドアノブに触れると、電子音と共に鍵が閉まる音がした。
それを確認して、二人は歩き出した。
「今さらだけど、別に送ってもらわなくても大丈夫だったのよ?」
「いえ、俺がしたくてしてることですから。あと、できれば監督に挨拶をしておきたいというのもありましたし。」
「挨拶?」
このみがそう聞くと、彼は少し答えにくそうな様子だった。
「ええと、今回はたまたま向こうから声をかけてもらえたんですけど、あんまりうちの事務所とコネクションがある訳じゃないんですよ。まあ、それが理由ですね。」
「なるほどね。……そういえば、前に言ってたわね。
スタッフさんの中に『屋根裏の道化師』を見てくれた人がいて、それで偶然声を掛けてもらった、って。」
「ええ。なので、他のアイドルも含めて、今後同じようにオーディションの話を貰えるかは分からなくて。
次回以降も声を掛けてもらえるように、事務所としても、さりげなく765プロをアピールしておきたいんですよ。」
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