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エミリーが忘れた日
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1 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:03:08.99 ID:9pdDfgPfo
第一報を受けたのはその日の午後6時のことだった。
リハーサル中、ステージで事故があったらしい。
──エミリー・スチュアートが足を滑らせ転んだと。
そのときの俺は別の営業でどうしても劇場から離れなければいけなかったので、その日の公演を他のスタッフや先輩アイドルたちに任せっきりにする予定だった。
そのせいか、事故は昼間に起こったものの現場は一時対応でてんやわんやしており、こちらへの報告が遅れたと、音無さんから謝罪を受けた。
大丈夫です、連絡ありがとうございます、と冷静に返事をしている間は「らしからん」程度にしか思っていなかった。
エミリーは基本的には落ち着き払った女の子だ。あまり無茶をしてケガをするような危ない場面を見かけたことがない。
捻挫や打撲だとしたら公演のスケジュールに影響するかもなと、そのくらいにしか考えていなかった。
だが能天気に捉えていたのも束の間、電話越しの音無さんから詳しく事情を知れば知るほど心に不安が渦巻き始める。
彼女は頭を打って病院に運ばれたのだ。
SSWiki :
http://ss.vip2ch.com/jmp/1560164588
2 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:05:07.97 ID:9pdDfgPfo
午後7時半にその病院へ駆けつけたとき、エミリーは診察室のベッドに座り込んでじっとしながら、医者の先生と看護師さんの会話を眺めていた。
いつものツインテールを解いたきらびやかな金髪を不揃いに横切る包帯が痛々しく映るも、当の彼女は心ここにあらずといった態度でただそこにいた。
医者の先生の話によると、エミリーは転んだ際に側頭部を強く打ち、そのまま数分間意識を失っていたとのことだ。
すぐさまこの病院へ連れてきて念のため一通りの検査を行ったものの、一応、脳に異常は見つからなかったらしい。
そこまで聞いてから俺はようやく胸を撫で下ろした。
「ただし、外的ショックによる健忘の兆候も見られます。よく話をされたほうが」
「健忘? それって記憶喪失ってことですか?」
「いえ、そこまでの大げさなことではありません。 まず、転んだ前後の記憶はないはずです。
これは頭を打てばよくあることなので仕方ないのですが……他にも、忘れたり思い出せなかったりすることがあるかもしれないということです」
「はぁ……」
ドラマや漫画でこういう状況を目にした事はあるものの、実際に当事者でないとはいえ、自分がその場に立つと全く実感も湧かないものである。
改めて目をやると、ベッドに座って黙ったままのエミリーはさきほどからずうっと口を固く結んで黙り込んだままこちらを見つめている。
よくみると両目にうっすらと涙も浮かべていた。
3 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:06:27.55 ID:9pdDfgPfo
「エミリー、すまなかった。 俺が劇場にいて監督できていれば防げたかもしれないのに……」
しゃがみ込んで彼女に目線を合わせ、ゆっくり話しかけていく。
彼女は俺の目を見つめながら、ブンブンと首を横に振った。
「先生がもう大丈夫だって。 ほら、今日の所は帰ろう」
手を差し出してみるも、彼女は頑なにそこを動こうとせず、ただただ首を振り続けていた。
「仕事のことは心配するな、大事を取ってしばらく休みにするから……エミリー?」
ここでようやく、さすがに様子がおかしいことに気がついた。
エミリーはひたすらに、こちらに何かを訴えるような目つきを変えなかった。
はっきりと、その奥に恐怖とかおびえじみた感情が映り込んでいる。
「あの……彼女、話せるんですか?」
「何ですって?」
先生が横から挟んだ言葉がすぐには理解できず──それを飲み込んで、まさか、と背筋が凍る。
「……エミリー? 何があったんだ? 教えてくれ! エミリー!?」
思わず細い両腕を掴み食ってかかると、彼女は体を強張らせうずくまる。しまった、と離れた瞬間、ようやくエミリーは絞り出すように声を発した。
ボロボロに弱りきった、掠れるような声で、俺の想像を絶する一言を。
4 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:08:04.11 ID:9pdDfgPfo
「I... I apologize for causing you concern, but... I... I...」
そのまま両手で顔を覆い静かに泣き出したその少女に、何と声をかければ良かったのか。
「……エミリー、どうしたんだ……?」
それに対する反応はなく、彼女はそのまま何十分も肩を震わせ続けていた。
結論から話すと、
エミリー・スチュアートは日本語を忘れてしまったのだ。
5 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:10:40.40 ID:9pdDfgPfo
──────
きっとエミリーは幼い頃から、劇場の誰もが思い及びすらしない血の滲むような努力を重ねてきたに違いない。
日本への憧れその一心で故郷を離れこの東洋の国へやってきた十三歳の女の子。
彼女は出会ったときからこの国の文化に人一倍詳しかったし、またその知識欲も並の日本人など相手にならないだろう。
カタカナすら一切話したがらないという、異常なまでの日本語へのこだわりがあったこともよく分かっている。
それはおそらくエミリーが憧れの大和撫子を目指すにあたっての最大のコンプレックスである、国籍という壁を少しでも打ち破るための手段。
彼女にとって、俺たちと同じ言葉を話すということは単なるコミュニケーションの道具なんかではなかったはずだ。
そんな、彼女が自身を大和撫子たらしめる最大の拠り所が失われてしまったとしたら――?
翌日、765プロの事務所にエミリーを連れてきた俺は社長室で経緯をできるだけ詳細に説明していった。
音無さんと青羽さん含め、三人にはすでに報告済みではあったがやはり改めて話さなければいけない。
場合によっては――彼女の今後すらも。
俺は話し合いの際、エミリー本人も同室にいさせた。
もちろん聞かせたくない話であったし、俺たちの会話が理解されないという状況を利用するようで自分でも吐き気のする選択だったが、
まだ彼女を一人放っておきたくはなかったから。
6 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:12:44.63 ID:9pdDfgPfo
「エミリー」
不安そうな面々に囲まれた彼女に一言だけそう呼びかけると、彼女はゆっくりこちらを見つめてくる。
「《この人たちは分かるか?》」
ごくごく簡単な英語で――辞書を引いてあらかじめ覚えてきただけのフレーズだが――問うと、エミリーは小さくこくんと頷いた。
「じゃあ俺が今言ってることは?」
事態を証明するためとはいえ、残酷な質問なのだろうなと胸が締まる。意味は通じていないだろうが、エミリーは何となく察したのか今度は首を横に振った。
「大変なことになってしまったね……」
高木社長はそれだけ吐き出して力尽きたかのように椅子にどっかりと座り込み、そのまま頭を抱え続けている。
音無さんは今にも泣き出してしまいそうな表情で、ひたすらにエミリーに目をやりながらかける言葉を探しているようだった。
青羽さんは事故の瞬間を目撃していたのもあって、電話でエミリーの容態を理解してもらうまで伝え続けるのが心苦しかった。
一晩経った今でこそ冷静を装って立ち尽くしているものの、真っ赤に泣き腫らした目がとても痛々しい。
「あれから何度か質問を繰り返してみた結果分かったのは……エミリーは今、日本語の読み書きと会話が全くできないということ。
ただそれ以外の記憶に影響はなく、自分が誰で、ここがどこで、俺たちが何者なのか――そういうことは全て覚えているようです」
「それは――不幸中の幸い、なのかね」
「社長……全然そんなこと、ないです……!」
音無さんが嗚咽混じりに訴えた。
「エミリーちゃんは、今まで当たり前のようにお喋りして、一緒に仕事してきた私たちが、
ある日突然訳も分からない言葉を話し始めたのと同じなんですよ……!?
おうちからここまで、いつも歩いている風景にある標識とか、看板とか……
『765ライブ劇場』の文字も……ファンからのお手紙も……全部、全部いっぺんに分からなくなっちゃったって事ですよ……!」
ようやくそこまで言い切ったあと音無さんはついに耐えきれなくなり、ハンカチで顔を覆っておろおろ声でむせびだした。
青羽さんもその音無さんの肩を抱きながら目にいっぱいの涙をためていた。
「分かっている、もちろん分かっているよ音無君……今のは失言だった。 すまない」
もちろん社長にも悪気などなかったろうし、こうやって気持ちが参ってしまっているのは誰しも同じだ。
言葉一つあげつらって責める気などこれっぽっちもない。
7 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:14:45.84 ID:9pdDfgPfo
「……差し当たっては、当分劇場でのエミリーの出演は全てキャンセル。
ユニット曲については、代替メンバーに入れ替えての続行か、人数を減らしたままの続行かの選択肢がありますが詳細は検討中です。
また再来週までに雑誌取材三件、ラジオ出演一件、テレビ出演二件のアポが入っていましたがこれも先方へ断りの連絡を入れておきます。
各メディアへの発表はどうしましょう」
それに心配したり悲しんでいられる時間もあまりない。
エミリー・スチュアートはまだまだトップへはほど遠いが、それでも活躍の場の増えてきた売り出し中の人材だ。
ここで手を誤ればそれこそアイドルとしての未来はない。酷に思われるかもしれないがあくまで事務的に、毅然とした対応をとらねば。
エミリー自身のケアはそれが済んでからだ。
「うむ……しばらくは体調不良による休養として時間を稼ごうか。
彼女が元に戻るのか、あるいはそれがいつになるのか――分からない限りは、長期の活動休止という方向も……あれ、君」
社長が俺の右腕を見つめていることに気づき振り返ると、エミリーは俺のスーツの袖を控えめに掴んで、またふるふると首を横に振っていた。
「……どうした?」
会話の神妙な様子から、きっと彼女は何の話をしているのか予想がついたのだろうか。
「I... don't want to quit」
俺でも聞き取れるような、ゆっくりとした英語で、小さくそう言った。
やめたくない――アイドルを、ということか?
「わかってる、けど……」
渋った反応しかできない俺に言い聞かせるように、だんだんと袖を掴む力が強くなっていく。
困り果てていると、不意に社長室の扉の裏側からノック音が響いた。
「プロデューサー、いる?」
水瀬伊織の声だった。
8 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:20:31.72 ID:9pdDfgPfo
その場にいる全員が静まりかえった隙に、伊織はさっさとドアを開けて部屋へ入ってきてしまった。
「……エミリーも、いたのね」
それに気づいたエミリーは伊織から隠れるように俺の背中へ回り込む。やはり他のアイドルに知られるのは、いっそう気が引けるのだろうかと察した。
「ねえ、エミリー?」
「Ah...I...」
思わず反応したエミリーがハッと口を塞いだ。伊織は一瞬だけ目を見開き、
「……半信半疑だったけど……どうやら、冗談でもなさそうね」
ゆっくりとこちらに近づき、俺の体越しに話しかけた。
「Emily, I know the situation. He told me last night...then show me yourself.」
流暢な英語。エミリーはおそるおそる顔を覗かせ、伊織を申し訳なさげに見つめた。
「It must have been very hard...Tell me anything I can do for you.」
とたんにエミリーは一瞬息を詰まらせ、それから堰を切ったようにわんわん泣き出した。
伊織は困ったような、痛ましそうな、憐れむようなそんな表情でただ黙ってエミリーを抱きしめてやった。
言葉が通じなくなってしまってから初めてまともにコミュニケーションがとれる仲間を見つけてようやく安心したのか、
肩に頭を預けて長い間大粒の涙を流し続け、最後には疲れて眠ってしまったエミリーをソファに寝かせてからも、伊織はずっとそばにいて頭を優しく撫で続けた。
9 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:22:13.88 ID:9pdDfgPfo
「ありがとう。お前がいなかったら……」
「礼なんか要らないわよ。 この子がどれだけ辛いか想像したら、いてもたってもいられなくなって……」
まあ、ユニットのリーダーとしてメンバーのために動くのは当然よ、と照れ隠しに伊織が言い放つ。
先ほどとは違う少しぶっきらぼうな物言いも、彼女の優しさの表れと取れる。今回ばかりは心から感謝するほかない。
「それで、どうするの?」
もう一度エミリーの髪をすっと撫でやってから、伊織が切り出した。
「これからの事。 まさか本国に帰すとかそんなこと……」
「しないよ。 エミリーは『やめたくない』って言ってた」
「アイドルを?」
「だと思う」
「そう……よかった」
エミリー自身の意思があるとしてもまだまだ問題点は山積みだ。
「ただ、今後活動するに当たってはいろいろ障害も出るだろうから……それをどう切り抜けるか……」
「どうすればいいのかしらね……劇場の皆、心配してるわ。 せめて気持ちだけでもエミリーに伝えて、元気を出してもらわないと……」
「それもだけど、外向きにどうするかが問題だ。 アイドルが日本語を話せなくなったなんて騒ぎ、いつまでも隠せはしないだろう」
そうね、としばらく考え込んで、伊織はまた少しの間眠っているエミリーを見つめた。
「……私がしばらく一緒にいてあげるわ」
「お前が?」
「今の状態に慣れるまで──もちろん慣れちゃうのも問題だけれど──ほら、何かあれば通訳くらいならできると思うから」
きっと私なんかが想像できないくらい辛いわよね、と、今度はエミリーに話しかけるように呟く。
伊織自身の仕事や都合もあるだろうし、正直言って色々な負担を強いるようなお願いはしたくなかったが。
「……頼んでもいいのか?」
「いいって言ってるでしょ」
こちらを見ることなくきっぱりと、少し湿り気を含んだ声で言い放ち、それっきり伊織は黙りきったままエミリーが目を覚ますのを隣で待ち続けた。
10 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:23:45.42 ID:9pdDfgPfo
*
さらに翌日、エミリーが劇場に帰ってきたと聞いて駆けつけたアイドルたちに、伊織と俺で事の顛末を丁寧に説明していく。
皆よほど心配していたようで、今日まで何も知らせていなかったぶん少し罪悪感もあった。
最初はエミリーが元気であるという知らせに喜んでいたものの、順番に話していくにつれみるみる表情が曇っていく。
どうやら全てが伝わったのかついにざわつきだした控え室を、「聞いて」と伊織が静めた。
「私からお願いなんだけれど……エミリーはいつも通りよ。 仕事にも早く戻りたいって言ってるし、何も変わらないの。
ただ、ちょっと今までの話し方を思い出せないままというか……つまり……その……」
どう説明すればいいのか、珍しく言葉を選んで詰まっている伊織に助け舟を出してやる。
「伊織が言いたいのは……あんまり心配とか、同情しているような態度で接するとエミリーがかえって気に病むから、
あくまでいつも通りでいてほしいっていう事だ。だよな?」
伊織も小さく頷いた。
「じゃあ、入ってきてもらうから。 落ち着いて迎え入れてやるんだぞ……伊織」
「ええ。 《エミリー、入ってきていいわよ》」
遠慮がちにドアノブを回し、室外で待たせていたエミリーがゆっくりと姿を見せる。
「「「エミリー!!」」」
やはりというか、アイドルたちは一斉に囲むように駆け寄った。
「もう大丈夫なの!?」
「ステージにはいつ復帰するの!?」
「ホントに英語しか話せないの?」
口々に迫る彼女らにエミリーが困惑の色を見せだしたころ、伊織がエミリーをかばって間に入り込む。
「……だから言ったでしょ。 エミリーに話があるなら私を通して」
呆れと怒りの両方を感じ取ったのか、今度は列になって一人ずつエミリーと会話をしていく流れと相成った。
11 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:25:36.28 ID:9pdDfgPfo
結果として、他のアイドルたちはエミリーが(今のところ)日本語を話せなくなっている、という事にそこまで悲観的な印象を抱かずに済んだ。
これは伊織がそばにいて、きちんとエミリーとのコミュニケーションを成立させる橋渡しをしてくれたからに他ならない。
皆最初はエミリーの英語に驚いていたものの、むしろ新鮮さすら覚えていたようだ。
事態が事態なだけに複雑な思いもあるが、ひとまずはこれでいい。
「《全く、こっちの苦労も知らずにね》」
「《皆さんに余計な心配はかけたくなかったので。 本当に助かりました》」
「《大したことじゃないわ》」
伊織とエミリーの会話は、自分にはついていけないもののその雰囲気は以前とすっかり変わらない様子だった。
「さて、ひとまずアイドル全員への報告は済んだけど……今日のリハはどうする?」
一安心こそすれ、次の課題は目前に迫っていることを改めて伊織に伝えた。
「どうするって?」
「“Sentimental Venus”は水曜公演の通常セトリに含まれてるだろ。 エミリーのパートをどうするかとか……」
「ん、そうね……」
チラとエミリーに目をやった。こちらが伊織と日本語で話していると、エミリーは途端に不安そうな顔になる。
きっと自分には聞かせられない深刻な話題だと思っているのだろうか。
「とりあえずエミリーに、『今日のリハーサルは見学してて』って言ってくれ」
「《──だそうよ》」
「...I understand.」
エミリーからは間を空けて一言だけ返ってきた。
少し浮かばないような口調にも取れたが、まだ頭を打ってほんの二日だ。彼女自身のことは焦らず様子を見つつ今後のことを考える必要がある。
「エミリー、分かってくれ」
「《私、振り付けはちゃんと覚えています》」
今度はきっぱりと主張するかのように。
「覚えてるかどうかの話じゃなく、まだケガから間もないのに無茶はさせたくないんだ」
「《──ですって》」
「…………」
「《エミリー、ゆっくり復帰していけばいいのよ》」
しばしの沈黙の後、エミリーはゆっくりと首を縦に振った。
12 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:27:47.47 ID:9pdDfgPfo
*
その日のユニットでのリハーサルは内容修正の確認と二、三度の通しでの演奏程度に留めることにした。
「じゃあ、エミリーのパートはしばらく伊織が代わりに歌ってくれ。 歌詞は大丈夫だよな?」
「全歌詞歌えるわよ、当たり前でしょ」
「OK。 それと、今日は試しで配置の変更もするから、全員スタートのポジションを確認しておこう」
百瀬莉緒と真壁瑞希にも指示を促し、いつもの目印から数歩ずつ左右へずれてもらう。
「でもプロデューサーくん、いいの?」
莉緒が心配そうに尋ねた。
「どうかしたか?」
「位置取りまで変更するってことは……そういうことでしょ?」
莉緒の言いたいことは容易に汲み取れる。後ろでじっとしているエミリーのことが頭をよぎった。
「……何度も言うが、これはあくまで『試し』でしかない。 これから先誰かが急な体調不良で公演を休んだりするかもしれないだろう?
そういう事も含めて、いろんな選択肢を用意しておくってだけだ」
「なら、いいんだけど」
「とにかく、今は自分たちのステージのことだけ考えてくれればいい」
自分自身にもそう言い聞かせてからスタッフへ合図を送り、曲をスタートさせた。
♪背伸びのVenus 7回目の チャンスにkiss つかまえて……♪
リハーサルながら伊織、莉緒、瑞希たち三人のコンディションは抜群といってよかった。
出だしからいつも以上に統制の取れた動き。
ゆったりと広がるような振り付けからリズミカルなそれへの変調、また時折挟む女の子らしい細かなポージングにおける指先の角度一つ一つ──
ほぼ完璧に揃っている。これが本番でないのが惜しいほどに。
ただ歌はというと……どこか物足りなかった。
もちろん彼女ら自体には何の問題もない。三人とも喉の調子までバッチリだ。よく出ている。
ただ四人斉唱の映えるこの曲のサビは、エミリーの儚げなあの歌声なしではどこかキャッチーさに欠ける……といったところか。
13 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:29:55.03 ID:9pdDfgPfo
「──どうかな?」
「同感です」
隣にいた秋月律子に尋ねると、真剣なまなざしをステージに向けたまますっぱりと返された。
リハーサル前、エミリーのことも気になるから同行させてほしい、と頼まれたのでこうして一緒になって見てもらっている次第だ。
律子は過去プロデューサーとして活動していた経験もあるので、こういうときに意見をもらえるのは非常に頼りになる。
エミリーのパートを肩代わりした結果一番Aメロを全て伊織が歌っていることについては、
「悪くないですけど、おかげで息がちょっと続いてないかな。 肺活量とスタミナには少々難有りですからね、あの子は……」
サビ直前のロングトーンが切れるのが伊織だけ一瞬早かった、と俺には気づけなかった指摘もくれた。
そのことに感心していると「プロデューサー殿もまだまだですね」と茶化されてしまったが。
二番も終わり、間奏に入ったタイミングで後ろを振り返る。
ポツンと置き去りのパイプ椅子に捕まって観念したような表情を貼り付け、エミリーはただ黙りこくって伊織たちの歌を聴いているだけ。
あまり物寂しそうにしていたので声をかけてやりたかったが、何と声をかけていいのか──文字通りの意味で──分からなかったので、やめてしまった。
♪ウンメイならSo sweet きっと本物 迎えにいこう……♪
軽快なアウトロが止まり、一回目の通しリハが終わった。三人をこちらへ呼び寄せる。
「律子に見られながらリハやるなんて、随分懐かしいわね」
伊織がほんの少し乱れた呼吸を整えながらクスリと笑った。
「二人の反応を見てて、なんとなく分かったわ。 今ひとつって顔してたもの」
「すまないな。 別にお前たちに不満は何もなかったんだけど」
「そうね。 私も、エミリーちゃん抜きじゃ“なんか違う”って思ってたし」
莉緒も考えは同じのようだ。瑞希もそれに合わせてコクコクと頷いていた。
14 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:30:41.28 ID:9pdDfgPfo
「お客さんにも聞いてみましょうか?」
ヒョイヒョイ、と莉緒がエミリーを手招きし、
「《やっぱり、エミリーがいないといい歌にならないんですって》」
やってきた彼女に伊織が説明してみせる。
「…………」
「……エミリー?」
「Sorry...」
エミリーは拳をきゅっと握り、無理やりな小さい笑顔を何とかこちらへ見せたかと思えば、
「《曲も振り付けも頭にあるんです。 なのに、本当は歌えるはずの歌詞の意味が分からなくて……なんだか、自分の歌じゃないみたいです》」
それだけ言って下を向いてしまった。
その彼女にかけられるような気の利いた言葉を、誰も見つけられない。
「……ごめんなさいね。 無責任かもしれないけど……きっといつか戻るわよ。 私は信じてるから」
悔しさを噛み潰して空元気を少し混ぜ、律子が呟いた。
伊織が何も言わなかったからか、エミリーからの反応はなかった。
15 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:32:44.78 ID:9pdDfgPfo
*
その後別ユニットも集合させ、今度は“Eternal Harmony”のリハーサルに同行させる。
「プロデューサー、エミリーはその……本当にステージに復帰できるんでしょうか」
先ほどの様子を律子から伺ったらしく、開始前に如月千早が心配そうに尋ねてきた。
「そういう判断材料を探すことも含めて今日は見学なんだ。 今のところ……打開策というか、どうすればいいかまだ分からないんだけど」
「……そうですか」
くっ、と歯がゆそうに目を逸らす千早。エミリーのいるほうに目をやると、ジュリアや風花が伊織の通訳を借りてお喋りをしていた。
ああいう瞬間だけは、エミリーもふと楽しそうな表情を浮かべるものなのだが。
「ごめんな」
「いえ、プロデューサーのせいでは……私にも、何かできることがあればと思ったんですが……こちらこそ、無力ですみません」
「頼むから気にしないでくれ。 劇場は公演を続けるんだから、少なくとも他のアイドルにはいつも通りにやっていってもらいたいんだ」
自分でもドライな対応なのだろうな、と心が痛む。
けれどもエミリーのことばかり気にかけて全体の士気を落としてしまうのは一番あってはならない。
あくまでプロデューサーとして、やるべきことをやる。
「……じゃあ、みんな集合!」
パンパン、と手を叩いてメンバーをこちらに来させる。リハーサルは先ほどと同じく、エミリーを抜いた陣形での通し演奏。
──結果は似たようなものだった。この曲も、エミリーは歌詞が出てこないと言うのみでただ俯いていた。
他の四人の雰囲気にも暗雲が立ち込める。
16 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:34:51.89 ID:9pdDfgPfo
プロデューサーとして、と己に豪語したくせ、その日の最後のユニットリハは自主練に変更した。
“Princess Be Ambitious!!”でもきっと同じ具合になることが分かりきっていたから。
やはりエミリーにこれ以上心の負担を感じさせたくはない。
俺はどっちつかずの頼りない指導者だ。
“だってあなたはプリンセス”の公演に関しては、やむなく休止の決定を下した。
徳川まつりとのデュエット曲。いくらなんでも二人いるうちの片方だけで歌わせるのは流石に不自然だ。
「残念ですが、まつりは我慢するのです」
「《ごめんなさい。 私もこの曲、本当は大好きなのに》」
「エミリーちゃんは何も気にすることはないのです。 姫はまたエミリーちゃんと二人で歌える日を楽しみに待つのです」
申し訳なさそうに何度も『ごめんなさい』を繰り返すエミリーの頬を、まつりがそっと撫でた。
「エミリーちゃんにそんな辛そうな顔は似合わないのです。 ほら、笑って。 ね?」
そのまま反対の人差し指で自分の口角をなぞり、「にっこり」を描いてみせる。
エミリーは後ろめたさを少しの間だけ忘れ、遠慮がちにふわりと笑った。
伊織も「ありがとう」と一言だけ添えてエミリーを連れその場を去っていく。
俺はその一部始終を離れて見ていた。
一人取り残されたまつりがさっきまでの優しい表情を途端にしかめて、「こんなのってないよ……」と沈んだ声を吐き出していた瞬間も。
決して甘く見積もったつもりはなかった。
けれどもエミリー・スチュアートを欠いて765ライブ劇場に空いてしまった穴は、俺が懸念した以上に大きいのかもしれない。
17 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:37:05.39 ID:9pdDfgPfo
──────
【お客様各位 メンバーの出演中止に関するお知らせ
いつも765プロダクション、及び当劇場へのご支援まことにありがとうございます。
当事務所所属、エミリー・スチュアートの体調不良により以下の定日公演ならびに特別公演への出演が中止となりましたことをお知らせいたします……】
「……こんなもんかな」
その日の夜、事務所に戻った俺は劇場へ貼り出すお知らせ文の作成のために一人でパソコンと睨めっこしていた。
それほど凝った文章でもないし、最終的に紙っぺら一枚の簡単な文書になるのでそこまで苦労せずに書き上げてしまいそうだ。
明日の朝一番で劇場のエントランスと敷地前の掲示板、あと何処だったか……
そう、イベント告知パネルも一枚借りて貼っておくんだった。少し頭が回らなくなってきたことをようやく実感する。
気がつけば夜の九時をとうに回っていた。
最後の一文を打ち込み、ファイルの保存を済ませて一息ついたところで一気に倦怠感が押し寄せてきた。
そういえば今日は昼飯も抜きで、ろくな休憩を取っていなかった。
営業にも行っていないし、大した仕事はこなしていないというのに。
別段忙しいわけではなかったが、精神的な疲労が分かりやすく思考を蝕んでいた。
あとは印刷だけして、社長にメールで帰宅の報告をして、それを持ち帰るだけで今日の仕事は終わり。
終わりなのは分かっているのだが、
「ダメだ、ちょっと休憩するか……」
目先の眠気にどうしても勝てず、携帯のアラームを三十分後に設定し、机に突っ伏した。
18 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:38:47.00 ID:9pdDfgPfo
*
「──起きて……プロデューサー。 起きて」
控えめに体をゆすられ、ようやく意識が戻ってきた。
みっともなく垂らしたよだれを反射的に袖でふき取ってしまうと、真上から「ちょっと、汚い!」と小言を浴びせられる。
「……伊織……?」
両目の焦点が定まらないものの、声はきちんと認識した。
「小鳥がここにいるって教えてくれたの。 きっとまだ残業してるってね」
ようやく声の主を見上げる。ほぼ同時に、「ん」と無理やり押し付けられて良く分からないままに“それ”を受け取った。
「んぅ……何でここに……?」
「話があるからに決まってるじゃないの。 なのにアンタが呑気に寝て…………いえ、何でもないわ」
伊織は隣の椅子に座って、スーツの肩に付いた埃を手で取ってくれているらしかった。
「とにかく、シャキッとして。 エミリーのことで来たのよ」
「うん、それは……なんとなく分かる」
背筋をググと伸ばし、両手で顔をパシンと何度か叩いてようやく朦朧状態から脱する。
「あのね、あれからエミリーと話をしたんだけど──」
一瞬だけ言葉を止め、パソコンの画面を横目で軽く覗いて、伊織はまた視線をこちらに戻した。
「──日本語の歌詞が分からなくなってるのは仕方ないとして、歌詞の“解釈”は覚えてるかどうか訊いたの」
「へぇ……何て言ってた?」
「英語で説明してもらったわ。 大体合ってた。 もっとも、深い意味の理解とかじゃなくて直訳程度の内容だけど」
「……つまり?」
今度は、分からないの?と言った顔つき。
「エミリーほどにもなると頭の中まで全部日本語で考えてるのかと思ったんだけど、それなら話が早いかも、ってことよ。
ほら、よくあるじゃない──台詞や内容をほとんど覚えた洋画なんかを原語で観れば、勉強になるとか」
理解がギリギリ追いつくか追いつかないかの俺を気に留めず話を続け、
「あれと同じよ。 どういう事を歌ってるかはじめからわかってる歌詞なら、覚えなおしやすいでしょ」
「……うん、確かに、そうかも」
「日常会話はそれから順番に覚えていってもらうの」
それがいいわ、と最後に独り言で返事をする。
19 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:40:58.49 ID:9pdDfgPfo
「ん、待った……つまり日本語を教えなおすってことか? エミリーに?」
「そうよ」
「……伊織が?」
少し待って、見えるか見えないかで伊織が小さく頷いた。
「だって、また思い出す保証がないんじゃ、あのままほっとくわけにも行かないじゃない。
現に周りと直接会話が出来ないんだから、エミリーにとってはまだまだ相当なストレスのはずよ」
もちろん、それはいち早く解決したいが。
「まずは歌える状態でステージに復帰するのを最優先に考える。
最終的には私がいなくてももう一度皆とコミュニケーションが取れるように……まあ、元の堪能な日本語まで戻せる自信はないけど……」
「いや、さすがにそこまで伊織にやってもらうわけには」
「765プロで他にできる人がいるって言うの? まさか第三者に頼んで、この状況が外に漏れでもしたら大変でしょ?」
反論するも、事実を突きつけられて押し黙ってしまう。
「私は平気。 スーパーアイドル伊織ちゃんよ、日本語講師との兼任なんて余裕でこなして見せる」
だから気にしないでいい、ときっぱり断ってから伊織は話を続けた。
「勝手な憶測だけど──本当に何も知らない外国人に日本語を教えようってワケじゃないわ。
元々喋れた人間に思い出してもらうってだけ。 だからそんなに困難なことじゃないと思う……のだけど、楽観視しすぎかしら」
俺には専門的なことは何もわからないし、はっきり言って都合の良い想像に過ぎないのかもしれないが、
伊織の予想が外れていたとしてそんな途方もない可能性まで今は考えたくないというのが本音だった。
20 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:42:08.47 ID:9pdDfgPfo
「明日、もう一度先生のところへ言ってエミリーの状況について相談しに行こうと思ってたんだ。 伊織の見解も含めて質問してみるよ」
「そう。お願いするわ……私も一緒に行っちゃダメかしら?」
「お前は朝から外の仕事があるだろ」
「……そうだったわね」
最近の伊織には珍しく、露骨に不満そうな表情。
「どんな話をしたかはちゃんと教えてやるから」
「ええ」
送って行こうかという提案は、「有難いけど、新堂が車で待ってるから」と退けられた。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
丁寧に扉が閉められる。
薄暗い事務所が再び静寂に包まれてしばらくした後、ようやく自分が右手に持っている伊織からの差し入れを思い出した。
果汁100パーセントのオレンジジュース。しょっちゅう飲んでいるのを見かけるほど伊織がお気に入りにしているブランドの商品だ。
経緯が経緯なのもあるかも知れないが、それでも伊織がああやってあからさまにエミリーを人一倍気にかけるのをほんの少し意外に感じながら、
俺はそのジュースをいっぺんに飲み干した。
21 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:44:27.45 ID:9pdDfgPfo
*
翌朝劇場へ立ち寄って貼り紙を終え、数日前にエミリーを診てもらった医者を訪ねた。
「私も、あれから色々と考えていたんです」
近況をできるだけ細かく報告すると、先生は何かを考え込みながらエミリーのカルテらしきものを引っ張り出して眺めはじめた。
「健忘──いわゆる“記憶喪失”というのは正直なところ、我々にもまだ分からない事が多いんです。
しかし通常患者さんがショックで何かを思い出せないときには、よく“記憶の紐付け”を利用します」
「“紐付け”?」
「エピソード記憶、意味記憶、手続き記憶。 こういった記憶の分類について聞いたことがあるかも知れませんね」
先生がカルテを置いてこちらへ向きなおした。
「モノを覚えて知識として身につくのは“意味記憶”です──今回のように日本語の知識を忘れたとなればこれに当たるでしょうね──
大体の場合このときに『どんな場所で、何をしながら覚えた』というエピソード記憶が付随してくるものです。
それが特殊なエピソードであればあるほど、付随する記憶が強まります。
こうなると思い出せなくなった記憶でも、強烈に残ったエピソード記憶から手繰り寄せるようにまた思い出すことができるものです」
「はぁ……」
思わずぼんやりした返事を返してしまう。
「エピソード記憶だけでなく、手続き記憶との紐付けもありますよ。
学校の勉強などでは漢字や単語の書き取りを何度もしたりするでしょう?
あれは手で覚えた書き順や綴りを、意味記憶と紐付けて思い出せるようにする工夫です」
なるほど、そう言われると合点がいく。
「経験あります、それ」
「ですからスチュアートさんの場合、 歌の歌詞の日本語を思い出すのは比較的容易かと。
踊りながら歌うのであれば、振り付けという手続き記憶が紐づいているはずです。
あとは、練習のときのエピソード記憶……きっかけは多いんじゃないでしょうか。 効果的だと思いますよ」
22 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:45:50.57 ID:9pdDfgPfo
日常会話の学習についてはどうか、という質問には、
「それは、彼女がどのようにして日本語を勉強してきたかによりますから、何とも」
といったような答えだった。
「根気良く日本語を教え続ければ、あるときふっと全て思い出すかもしれません。
確実なことなど何も言えませんが……とにかく、きっかけをできるだけ多く与えることです」
そうすればきっと──。先生の言うとおりであれば、どうやら一筋縄では行かぬにしても、少し希望も見えてきたかもしれない。
「わかりました。 ありがとうございます」
「また何かあったら遠慮なく相談にいらしてください。 できればスチュアートさんの具合も診ておきたいので」
「はい」
一礼をして診察室を出ようとしたとき、ふと思いついたように先生にもう一つだけ質問してみた。
「ちなみに、先生」
何の気なしの、ついでの疑問。
「意味記憶と結びついたエピソード記憶とやらがあったとして──そのエピソード記憶ごと、忘れてしまったときは?」
「ふむ──そうなると厄介かもしれませんね」
先生は悩ましげに答えを選んでいるようだった。
「手繰り寄せる紐がなくなってしまう訳ですから、思い出すのはより困難になると思います。
そのエピソード記憶を思い出すための、さらに強烈なきっかけが必要かもしれません」
「なるほど……」
改めて挨拶を済ませ、病院を後にした。
23 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:47:11.68 ID:9pdDfgPfo
劇場に戻る前にもう一度事務所へ立ち寄らねば。昨日伊織と話した件で、高木社長にお願いしたいことがあるのだ。
エミリーにはとりあえず今週いっぱい休みを与えて自宅待機とさせ、
以降の出勤については日本で一緒に暮らしている彼女の父親と電話で連絡を取り合うこととなっている。
一旦ゆっくり休んでほしいと伝えはしたが、本当の所は少々時間稼ぎをしたかった。
あれから一晩考え、そして先生の話も総合すると、やはり伊織の案が一番いいのかもしれない。
何もせずにただエミリーが覚えていたはずの言葉の壁に戸惑い焦り悲しむところを見るのは正直言って辛い。
何かしてやれることがあるとすれば、元に戻る手助けをするべきだ。思い出す手助けを。
あのエミリーに──下手をすれば自分よりも漢字に強かったあのエミリーに、
日本語を教えてやるなどと言ってしまうのはいささか針につつかれる気分だが、
これ以上伊織にばかり頼ってもいられないし、ここは大人として、またネイティブとして、一肌脱ごうと決意を固めた。
そろそろ午前の営業が終わった頃合だな、と携帯を取り出す。
「もしもし、伊織か? お疲れ様──」
何かを勉強するときには必要なもの。そのアテを探っていたときになんとなく思いついたことがある。
運がよければ、きっとエミリーにとって大いに助けになるものがまだ残っているかも知れない。
「昨日のことで、一つ提案があるんだ」
24 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:49:34.03 ID:9pdDfgPfo
*
ちょうど週の明けた数日後、765プロの事務所宛に巨大な段ボール箱が届いた。
男の俺ですら一人で抱えきれるか分からない。まさかこんなサイズで届くとは。
その上、相当気合を入れて踏ん張らないと持ち上がらないほどずっしりと重く、下手をすれば底すら抜けてしまいそうだ。
ズルズルと廊下から押したり引きずったりして、やっとの思いで中へ運び込んだ。
「何なんですか、これ……!?」
音無さんもギョッとしてその大きな箱を見ている。
「社長からエミリーのお父様とご実家にお願いして、こちらに届けてもらいました」
国際速達とは大したものだ。ものの4、5日でこんな大荷物がロンドンから東京まで簡単に届くのだから。
さてそれでは、と件の二人をここに呼んでやることにした。
「い、意外と早く届いたのね」
伊織も最初にこの箱を目にしたときは思わずたじろいでいた。
「《あの、これは何ですか?》」
「まあ、プレゼント……っていうと違うな。 でもエミリーの為に取り寄せたんだ」
「《私に?》」
事情が飲み込めない様子のエミリーの手をとり、伊織が箱の前に導いてやる。
「《開けてみて》」
エミリーが慎重に梱包を解いて蓋を開き、緩衝材代わりのスチロールくずを避けながら中身を探っていくと、
25 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:50:55.46 ID:9pdDfgPfo
「Wow...!」
何冊、否何十冊とも数えられる大小さまざまな本。
背表紙付きの分厚いハードカバー本──タイトルに“English‐Japanese Dictionary”と読める──や、
文法の解説書、イラスト付きの単語帳、会話集、そして数十冊の大部分は手書きのノートだった。
どれもこれもページの端がボロと擦り切れていたり、インクの汚れが広がっていたりと相当古びて見えるが、
保存状態が悪かったからではなく、おそらく相当使い込んでいたのであろう。
その全てに、おびただしいと言って差し支えない量の付箋が上から横から所狭しと貼り付けられている。
その付箋一つ一つにも、メモらしき小さな英文字の羅列がびっしりと埋め込まれていた。
「つまり……これって」
音無さんは目を丸くして箱の中身を覗いていた。
「エミリーが向こうで使っていた、日本語の教材だそうです。 あるものを全部送ってきてもらいました」
「こんなにたくさんですか……!?」
「……俺もさすがにびっくりです」
エミリーは思いがけず旧友に出くわしたときのような驚きと歓喜に似たそれを、一冊一冊取り出すたびに表情へ滲ませていく。
しばらくそうやって過ごしているのを眺めていると、ふと我に帰ったように尋ねてきた。
「《どうしてこれが……?》」
「《プロデューサーの提案なの》」
伊織が目配せをしてくる。
26 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:52:54.66 ID:9pdDfgPfo
「そうだよ。 これなら、頑張って日本語を勉強していた昔の思い出とリンクして、言葉そのものも思い出しやすくなるんじゃないかと思ってな」
「?」
「つまりだな……エミリー。 俺たちと一緒に、もう一度、日本語の勉強をしてみないかってことなんだ」
伊織が俺の言ったことを伝えると、ほんの少しだけエミリーの表情が曇ったように映った。
「エミリー……大変なのは十分分かってるつもりだし、やってみてお前がキツいと思ったり辛かったりするなら強制はしない。
ただ、『辞めたくない』って言ってくれたよな。 だから、俺はお前がもう一度ステージに立てるようにしなきゃならない。
元に……いつものエミリーに戻ってほしいんだ」
「…………」
「医者の先生も言っていたけど、エミリーは日本語が分からなくなったわけじゃない。
思い出せないだけなんだ。 これは思い出すためのきっかけを作るためにやるんだ」
エミリーは申し訳なさそうに眉をひそめ、目を閉じて首を横に一回振った。
「《……私、こうなってからずっと皆さんに迷惑をかけてばかりで……》」
「《迷惑だなんて思わないで》」
伊織がぴしゃりと返す。
「《私たち皆エミリーが元に戻るのを待ってるし、そのために何だってするわよ。
一番辛いのはアンタなのよ、そのことを負担に感じる必要なんてないもの》」
「but...」
「《きっと765プロの他の誰かがこうやって大変な目に遭えば、アンタも同じように力を貸すでしょう?》」
「…………」
「《だからエミリーは自分の気持ちだけ考えればいいの。 わかった?》」
「《……ありがとうございます》」
エミリーはいっそう下を向いて絞り出すようにそう言ってから、今度はゆっくり顔を上げて伊織を見つめた。
「《私も、また皆さんと以前のようにお話がしたいです。
またステージに立ちたいです……頑張って、思い出したい……です》」
伊織は嬉しそうにエミリーの肩をポンと叩いてにひひ、と笑ってみせた。
「ほら、そうこなくちゃ」
27 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:54:56.34 ID:9pdDfgPfo
軽い話し合いだけ済ませた結果、明日からエミリーはしばらく劇場ではなくこちらの事務所のほうに通って、
時間を決めてこの教材たちを使って“復習”していくことになった。
伊織も通常の仕事の合間を縫って、できるだけこちらに顔を出してエミリーに付き合う気マンマンといったところだ。
「プロデューサーさん、本当に準備がいいですね。 エミリーちゃんのために……」
届いた本たちを一緒に眺めながらしばし楽しげに会話を続けている二人を見ていると、横から音無さんが声をかけてきた。
「いやいや、そんなことは」
「いえ、流石だと思います。 それに、伊織ちゃんも……
エミリーちゃんだけじゃなく、他のアイドルの子達ともお話をして、できるだけ皆が変に心配しないようにすっごく気を遣ってるって」
「それは……自分でも少し驚きです。 確かに伊織っていざとなればそういう優しいところがよく出てくるんですけど」
何となくそういう単純な思いやりとは別の、エミリーへの特別な思いがあるのかもしれない。
伊織は家のこともあって外国人との交流も多そうだし、こうやって日本にやってきて頑張っているのを人よりも応援したくなる、とか。
──ちょっと“ガラ”じゃないな、と思ってしまったのを、少しだけ反省する。
「ところでエミリーちゃんのお父様は、何て仰ってたんですか?」
「──今回のことを提案したときは、ちょっと複雑そうでした」
音無さんの質問に、一気に現実へ引き戻される。
そう、この一件には常に新たな問題が付いて回ってきているのだ。
エミリーが本当に元に戻るか否か、とはまた別の問題が。
俺は社長と共にエミリーの父親と話し合いをしたときのことを音無さんに簡潔に伝えていった。
我々が彼女に日本語を教え直します、などという提案にあまりいい顔はされなかったことから順番に。
28 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:56:04.02 ID:9pdDfgPfo
「もともとお父様は、エミリーを一旦故郷へ帰すつもりだったらしいので。 エミリー本人にはまだ伝えてないようですが」
「……そうなんですか」
「まあ、それも仕方のないことです。 きっと誰よりもエミリーのことを心配しているでしょうし、
向こうに住んでる他のご家族もこのことを知ればそりゃ帰って来てもらいたいに決まってます」
あくまで、日本に残ってアイドルを続けてほしいというのはプロダクション側の利己的な要求に他ならない。
エミリー自身の意思はともかく、ご家族にとってはそうとしか映らない。当然のことだ。
「だから社長と一緒に説得して、なんとか期限付きで了承してもらいました」
「期限?」
「そのときまでにエミリーの状態が元に戻らなければ、彼女には一度帰国して本格的に活動を休止してもらうことになりました。
ただ……そうなれば、復帰はまず絶望的かと」
「そんな……」
「絶対に、絶対に何とかしてみせます」
自分自身へ言い聞かせるようにそれだけ返事をした。
「ちなみに、期限ってどのくらいなんですか?」
「それが──」
最後の問いに、ゆっくりと深くため息をついてから答えた。
それっきり音無さんは何も言わず、ただ真横で同じように伊織とエミリーの仲睦まじい光景を眺めているだけだった。
俺もそれ以上話を続ける気になれなかったので、そのまま考えるのを止め、黙って二人を見ていた。
二週間──あまりにも短いこの期間で何も出来なければ、エミリーはイギリスへ帰ってしまう。
29 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 20:58:14.27 ID:9pdDfgPfo
──────
以前一度だけ、エミリーに尋ねてみたことがある。
「どうして貴音や真、伊織にだけは『さま』付けで呼ぶんだ?」
「それは──」
彼女は西洋人らしい真っ白な肌を少しだけ紅に染め、ゆっくりと、けれどもはっきりと答えてくれた。
「かのお三方が、私が目指すべき大和撫子の中でも……とくに、今の私には到底手に入れられない、尊敬すべき点があると思うからです」
「尊敬すべき点?」
「あ、いえ、もちろん劇場の皆さんそれぞれに素敵な方たちですよ。
いろいろな方から、大和撫子の何たるかを教えていただいてばかりです……紬さんや、雪歩さんなど」
少しだけもじもじと体をくねらせながら、エミリーは続ける。
「……けれど、たとえば貴音さまは他の誰にもない“麗しさ”があります。
独特な雰囲気を纏い、夜月を眺め……はぁ、とっても素敵です……」
貴音に関しては前々から憧れを露にしていたので今更驚くことでもない。
いつの間にかうっとりしている目の前で手をブンブンと振ってやると、しばらくして彼女はようやく我に返りコホン、と咳払いをした。
「真さまは、“強さ”をお持ちです」
「強さ……って真のは物理的な、だろう」
「そうかも知れませんが……あのように空手を嗜んで尚、女性としての奥ゆかしさを忘れない……
私にとって、新しい大和撫子の形を示して下さったんです」
「もはや何でもありなんだな……じゃあ、伊織は?」
申し訳あらねど少々の呆れを含んだまま最後に問う。
「伊織さまは“気高さ”、そして“優しさ”です」
「気高さ……たしかにプライドは人一倍高いかも知れないけど。
しかし優しさ、ねぇ……エミリーから伊織に対してそういう評価が出るなんて驚きだよ」
「確かに、仕掛け人さまに対しては少々強く当たられるのだな、とは思いますが」
クスクスと笑うのに合わせ、丁寧に梳かれた黄金のツインテールがふわりと香りを運んだ。
30 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:00:54.74 ID:9pdDfgPfo
「伊織さまは、私に本当に良くして下さっています。
時には厳しいご指導もありますが、それもとてもありがたいんです。
きっと、日本という異国で努力を続けるためにはもっとたくましくいるように、というお心の顕れなのだと信じています」
「そうか。 伊織のこと尊敬してるんだな」
「はい。 私の憧れの方、その一人です……もちろん、“仕掛け人さま”も」
「……俺は少なくとも“撫子”ではないぞ」
この流れで不意にそのように言われるとなんだか照れくさい。
ごまかすような返事をしながら頬をポリポリと掻いていると、ふとエミリーが事務所の窓際を仰ぐ。
いつの間にか傾いた日差しがデスクを黄色く照らしていた。
歩み寄って窓を開けてみると涼しげな風が入り込み、夕暮れ時の室内を少しずつ冷やしていく。
しばしその心地よさを楽しんでから俺は自分のデスクへ戻り、革の破けた椅子にギシリと座り込んだ。
エミリーは今度の公演──彼女にとって初めてのセンター公演だ──で披露するソロ曲の譜面をカバンから取り出し、
それを眺めてぶつぶつ言いながらじっとしている。
「その曲、気に入った?」
「はい」
エミリーは照れくさそうに笑った。
「歌詞にある言葉ひとつひとつの響きが、まるで俳句のように聴く人へその情景を思い浮かばせ……
そこにゆったりと穏やかな音色が重なる。 まさしく私の憧れた、“和”の心を描く歌です。
こんな素敵な曲を頂けて、私は幸せです……」
「……そう言ってくれると嬉しいよ」
俺はそれ以上話しかけるのをやめ、彼女の集中を切らしてやらないように静かにキーボードを叩いていった。
どうもエミリーとの二人きりの空間は時間を忘れてしまう、そんな不思議な効き目でもあるような気がした。
31 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:03:47.33 ID:9pdDfgPfo
*
いつの間にか傾いた日差しがデスクを黄色く照らしていた。
今日は朝方に劇場へ顔を出した後、昼間からは事務所に移って仕事をしている。
しばらくエミリーのことにかかりっきりで少々溜まってしまっていた事務仕事を片付けている中、思い出したように時計を見上げた。
気づけば定時を──もっともそんなものは有って無いような職だが──もうすぐ迎えようという頃合だ。
そのままソファのほうに視線を移すと、エミリーは先ほどから長いこと集中を切らさないまま“ひらがな”の書き取りに勤しんでるままだった。
真横でぴたりとついてそれを見守っていた伊織が、「へぇ……」とちいさく声を上げたかと思えば、
今度はこちらへ向かってこっそり耳打ちしてきた。
「ものすごく覚えが早いわ。 全部一回で書けるようになってる」
俺は以前医者の先生から聞いたことを思い出した。
先生のいう事は概ね正しかったという事なのかもしれない。
エミリーの体はちゃんと今までどおり読み書きも会話も全部覚えていて、きっかけ一つで思い出せるようになるというあの話を。
「その前は会話の練習もしてみたの。 基本的な挨拶とかね……それも、一度教えたらちゃんと覚えてくれたもの」
「それはすごいな。 ……エミリー」
黙々と新しいノート相手ににらめっこを続けているエミリーに、軽く声をかけてやった。だが返事はない。
「…………エミリー?」
「What?」
もう一度呼ぶと今度はようやく気づいたのか、打つように体を起こしてこちらへ顔を向けた。
「すごい集中力だな……」
「《邪魔しちゃってごめんなさいね》」
「《いえ、平気です》」
エミリーはようやくペンを置き、グッと背筋を伸ばして事務所をキョロキョロ見回している。
「Wow, it's already this time?」
そのエミリーを黙ったまま見つめる伊織の表情には、どこかにひっかかりを感じているような、すっきりしない色が浮かんでいる。
32 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:05:59.37 ID:9pdDfgPfo
「どうかしたのか?」
「……何でもない」
「ならいいけど。 それにしてもエミリー、なんだか嬉しそうだな」
「?」
それをさして気にせず、今度は向こう側に声をかけた。エミリーは俺の姿を一瞬目に留め、続く言葉を待つように伊織をちらりと見る。
「《あんたがあんまり楽しそうにしてるから、不思議みたいよ。 プロデューサーは》」
「Hmm... How should I say?」
話を理解したエミリーは軽くはにかんで、黄ばんだ「ひらがな教材」を持ち上げ、懐かしむように表紙を眺めた。
「《自分でも何となく分かるんです。 小さいころこうやってずっと勉強していたなって》」
「へぇ……」
「《それに、いくらかなら日本語、思い出せそうな気がします》」
「そうなのか?」
「...ワタシノ、ナマエハ Emily Stewart...デス」
思わず小さく拍手をすると、エミリーは照れくさそうに頭を掻きながら控えめに笑う。
伊織も珍しく素直ににこやかな表情でエミリーを誉めてみせた。
それにしても、いつ見たってロンドンから届いたこの教材の山には圧倒される。
立ち上がって中を覗いてみると、いっぱいに詰め込まれた本の数々は一冊引き出すのも苦労しそうなほどだ。
33 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:08:52.21 ID:9pdDfgPfo
そして本の詰まった箱はそれ以外にもうひとつ──こちらはエミリーの父親から直接預かったものだ。
「エミリー、こっちのダンボールの中身見てもいいか?」
「……あんまりジロジロ見るものでもないんじゃない? プライベートなアイテムでしょ」
「んー、そうか……」
伊織にそう言われ、少しためらう。
俺としてはこれだけの努力の証を積み重ねてきたエミリーへの素直な賞賛として、
あるいは彼女がどうやって純日本人顔負けの言語力を身につけたのか、単純な好奇心の表れでしかないのだが。
ただ、エミリー本人からは「《少し恥ずかしいですが、大丈夫ですよ》」と許可をもらったので、ほんの少しだけ見させてもらうことにした。
そのまま彼女はノートをめくり、新たなページをシャープペンシルで次々と埋めていく。
こちらは日本に来るときにエミリーが一緒に持ってきたものとのことで、
より難しそうな語学の参考書が数冊と、日本語に訳された小説(中身を読み流してみると【シャーロック・ホームズ】だった)など……
ごくごく最近まで、あるいは今も、エミリーが愛読しているものなのだろうか。
そうやっていろいろ探しているうち、ふとその片隅に小さな筒が差し込まれているのを見つけた。
美術の授業で使うような、絵をしまうための筒だ。
「これは……?」
蓋をスポンと開き、中に入っていた厚手の画用紙を取り出してみる。
34 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:10:17.75 ID:9pdDfgPfo
「この絵……」
クレヨンか何かで描かれたその絵の中で、二人の女の子が仲良く手を繋いで笑っていた。
一人は今と変わらないブロンドのツインテール。誰かはすぐに分かる。
「小さいころのエミリーが描いたのかな?」
「それ、箱に入ってたの?」
エミリーよりも早く、伊織が反応を示した。
「そう、小さい子らしい可愛い絵だよな。 なぁ伊織?」
「……そうね」
「もう一人は誰だろう? まるで──」
隣に描かれていた女の子は黒髪で、眉にうっすらかかる長さのパッツリと切られた前髪が印象的だ。
「日本人形みたいだな。 ……『Yorichan』、って書いてある」
そして画用紙の片隅には、日本語で書かれたメッセージ。
隣の女の子が日本人だったとしたら、その子が書いたものかもしれない。
35 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:10:55.27 ID:9pdDfgPfo
「それこそ勝手に見ていいの?」
伊織がこちらも見ず突き返すように言った。大きく画用紙を広げて見ていた俺に、エミリーも気がついたようだ。
「あぁ、ごめんエミリー。 つい……」
「……?」
「これ、エミリーが描いた絵だろ? いつ頃のなんだ?」
エミリーはその絵に視線を飛ばしながらしばらく考えていたが、最後には首を傾げた。
「Hmm... I can't remember.」
「覚えてない?」
「本人も忘れたほど昔の話ってことよ。 ほら、勉強と関係ないものはしまう!」
「そっか。 それにしてもよく描けてるな……昔の友達だったのかな」
「知らない」
渋々その絵を筒へ戻した。
エミリーは何でもなかったようにそのまま勉強を続け、伊織もまた隣に座って彼女を見守っている。
それ以上気にしても仕方なかったので、俺は今度こそ自分の仕事へ戻った。
36 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:12:36.05 ID:9pdDfgPfo
*
窓の外が暗くなったころ、父親と一緒に帰宅するエミリーを見送った後の事務所には俺と伊織だけが残った。
もうしばらくが経過して、今度は伊織も自分の用事を終わらせ、電話で迎えの連絡を入れているようだ。
「初日からあんなに熱心にやって、大変だったろうに」
「でも、すっごく楽しそうに勉強してたわよ。 それにね……」
伊織は荷物をまとめながら、今日のエミリーのノートを見せてくれた。
新品のノートの四分の三ほどをすでに埋め尽くして、書き取り練習の筆跡でページが真っ黒になるほどの使いよう。
「たった一日でひらがなは何も見ずに書けるようになったし、何よりビックリしたのは……あの子、まだやっていない簡単な漢字すらいくつか使ってみせたわ」
「本当か?」
「まるで思い出したかのようにね」
意外、というにもまだエミリーを取り巻く今の状況に関して理解は到底追いついていないものの、明らかに光が見えたような気がする。
「すごい……やっぱり、きっかけ一つでここまで思い出せるものなんだな。 これなら本当にすぐ、元のエミリーに戻ってくれそうだ」
「……そうね」
ただ、昼間もほんの少しだけ覗かせていた晴れない表情を、伊織はまた浮かべていた。
「どうかしたか?」
「何でもないの。 でも……なんかちょっと違和感なのよね」
「何が?」
少し考えて、言葉を選ぶように伊織が続ける。
37 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 21:13:45.18 ID:9pdDfgPfo
「こう言っちゃなんだけど……私、あの子はもっとショックを受けると思ってた」
「ショックって……日本語を忘れちゃったことに対してか? もちろん悲しそうにしてたぞ」
「それはそうなんだけど……いえ、決していつまでも落ち込んでいてほしいわけじゃないのよ。 ただ……妙に立ち直りというか、割り切りが早いというか」
何となく言いたいことは分かる。
俺自身も最初は、この一件が彼女のアイデンティティに関わる重大な記憶喪失だと疑わなかった。
もしも俺がエミリーなら、もっと長い間ショックで塞ぎこんでしまうような気がした。
だが今のエミリーは失った日本語を新しく覚えるという、
ある意味での屈辱をあまりに異常にすんなりと受け入れてしまっている、しかもたった数日で。
本当ならもう少し拒否反応を示しても良さそうなものだ。
そう考えれば不自然と言えなくもない──そんな気は確かにしてくる。
「とはいえ事態が事態だけにな……なにが当たり前なのか、さっぱり分からない」
伊織はそのまま黙っていた。
「だけど今日の具合を見るかぎり……エミリーだって希望を感じているんじゃないかな?
少なくとも俺だって最初のころよりは楽観的に受け止めてるよ。 この調子ならいずれ立ち直れるって」
「どうなのかしらね……考えすぎならいいんだけど」
伊織の迎えが来るまで、しばらく無言の時間が続く。
何にせよ、今できることといえばこのままエミリーを手伝い続けることだけだ。
38 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:19:23.99 ID:9pdDfgPfo
*
別の日、エミリーを最初に診てもらった病院で改めて脳の検査をしてもらったが、やはり目立った異常はないらしい。
現状報告もかねて挨拶へ向かうと、先生は「いい傾向のようですね」と安心した様子だった。
「できるだけ元の生活と同じ環境におけば回復は早くなるかも」というアドバイスを受けた。
“学習”の経過を鑑みるに、今のエミリーならば外部からの刺激を少しずつ増やしても良さそうという判断だ。
エミリー自身からも希望があったので、その足で二人揃って劇場へ向かう。
まだ伊織抜きでろくに会話は出来ないが、運転の合間に覗いてみた助手席のエミリーの表情からはどこか安らかさがうかがえる。
驚かないことの方が少ない日々。だがいい方向に向かっている実感を持てればいくらか救いもあるというものだ。
閉め切った車内で少し暑そうにしていたようなので窓を開け風を入れてやると、
ツインテールがはしゃぐように舞い、エミリーは気持ち良さそうに目を閉じる。
「アリガトウ、ゴザイマス」
一息ついた後、エミリーは俺に向かって言った。こちらが驚いていると今度は恥ずかしげに笑っている。
「上手だよ」と返してみると、もう一際明るい笑顔が咲いた。
劇場公演はすっかり青羽さんやその他のスタッフに任せっきりにしてしまっていた。
毎日立ち寄りこそするが、滞在時間があまりに短いためしばらく顔を合わせていないアイドルも多い。
社長からの指示でしばらくはエミリーの面倒に専念するよう言われていたものの、上手くやっているだろうかやはり心配になる。
おそらく誰もが大なり小なりエミリーのことを気にかけてくれていると思うし、それ自体はありがたいことだ。
だがみんなにはこういうときだからこそ仕事に専念してもらいたい。
必要以上に不安を持たせないようにという意味も合わせて、今日はサプライズでエミリーとの交流を楽しんでもらうことにする。
伊織は別の仕事で今日一日は一緒にいられないものの、もう一人頼りになりそうなアイドルがいる。
アメリカでのダンス留学経験のある舞浜歩だ。
事前に連絡を取っておいたところ、威勢よく「任せて!」とのことだったのでここは素直に甘えることにした。
劇場前に着くと、歩はすでに玄関前で待ち構えていた。
39 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:20:45.36 ID:9pdDfgPfo
「プロデューサー、久しぶり!」
「だな。 今日はよろしく」
「《エミリーも、よく来てくれたな》」
「《お久しぶりです》」
エミリーはそれだけ言ってしばらく経った後、思い出したようにペコリとお辞儀をした。
三人で中へ入り、控え室まで向かっている途中で歩が話し始める。
「いきなり来るって言うからみんなビックリしちゃってさ……けど、ちょっとエミリーに見せたいものがあるんだ」
「そうなのか?」
「育とか星梨花とか、まあ年少組の面々に頼まれてさ。 で、アタシがサポート役になって練習してたってワケ」
「練習? 何を?」
何の話かよく分からないまま、ついに控え室へ辿り着く。
ここで待ってて、と俺たちをドアの前に留めて歩はそれ越しに叫んだ。
「みんなー、お客さんだぞ!」
はーい、と複数による返事。一体何の騒ぎだろうか。
エミリーを先に、とのことなので譲ってドアを開けさせる。
「要するに何してたかって言うと──」
エミリーが控え室に入った途端、
「「「《おかえりなさい、エミリーちゃん!!》」」」
中谷育、箱崎星梨花、大神環、そして木下ひなたの四人が待ち構えていた。
揃えた彼女らの元気のよい掛け声が廊下まで響き渡る。
40 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:21:55.96 ID:9pdDfgPfo
咄嗟にたじろいだもののだんだんと理解の追いついてきたエミリーは、振り返って歩を見た。
「──ま、ズバリ“765プロ英会話教室”ってとこかな」
「なるほど。 そんなことをやってたのか」
「《エミリーばっかり苦労させるのも悪いと思って》」
「《みなさん……》」
エミリーはまた複雑そうにポロリとこぼした。
誕生日メッセージなどに使われるいつものホワイトボードには、“授業”の痕跡がびっしりと残っている。
「プロデューサーさん、歩さんってとってもすごいんです! 私たちに英会話を教えるの、本当にお上手でした!」
「あのね、おやぶん! みんなで勉強して、エミリーとお話できるようにがんばってるんだ! えらい? えらい!?」
「私も、英語初めて習ったけどすっごく楽しいよ!」
俺には嬉しそうにそう伝えてくれるものの、星梨花も環も育も、エミリー本人が現れて今更ながら少し緊張しているようだ。
ひなたが一歩踏み出して、いよいよエミリーに話しかけた。
「エミリーちゃん」
エミリーは黙って待っている。
「えーっと、ありゃ、なんちゅうんだっけかなぁ……エミリーちゃん、ハウ・アー・ユー・ドゥーイン? ……う〜ん、やっぱし難しいべさ」
ひなたの舌足らずな英語はなんというか、幼い子供の覚えたてのようで微笑ましい。
エミリーは周りに迷惑がかかることを一番嫌がっていたし──当然誰も迷惑だなどと思っていないが──
みんなの気遣いが、本人にはもしかしたら純粋に喜べないことなのかもしれない。
ただ言葉だけではないものがきちんと伝わったようで、エミリーは不安そうなひなたにニッコリ笑いかけてみせた。
「I'm fine. Thank you.」
聞き取れるようにゆっくり、はっきり、簡単な言葉で返事をしていく。
41 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:23:46.66 ID:9pdDfgPfo
「たまきわかった! 今、『元気です』って言ったぞ! あと、『ありがと』って!」
「おぉ〜……歩さん、エミリーちゃんと、言葉通じたよぉ。 こりゃうれしいねぇ」
「いいぞーひなた、頑張って練習したかいがあったな」
林檎みたく真っ赤に頬を染めるひなたの頭を歩が撫でる。
他の二人も「《私たちにできることがあったら何でも言ってね》」だとか、「《また一緒にステージに立ちたいぞ!》」だとか、
そんな励ましの言葉をエミリーにかけていった。
「実はエミリーもな、頑張って日本語の勉強してるんだ。 《何か言ってやってくれないか》」
背中をポンと押してやると、大勢に見られて少し恥ずかしさも混じらせつつ、エミリーはたどたどしく言葉を繋いでいく。
「アリガトウ、わたし、ガンバッテ、またにほんごオボエマス」
拍手が沸き起こった。
「ただ、みんなが英会話を覚えてエミリーと話してくれるのはとってもいいことだから、これからも続けていってくれ」
本当ならばエミリーが日本語に触れる機会を増やそうと連れてきたつもりだったが、少なくとも年少組はこれでいいのかもしれない。
前向きにエミリーと接してくれている温かさを素直に受け止めて、一つの支えにしてくれればいいが。
42 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:24:18.81 ID:9pdDfgPfo
「じゃあ、これからもエミリーとおしゃべりするために、英語の勉強がんばるぞ〜! エイエイオー!」
「エイエイオー!」
「エイ、エイ、オー!」
環の元気のよい掛け声に、育たちも合わせる。
「エイ、エイヨー! ……?」
「違うぞ〜エミリー。 エイエイオー」
「エイエ……ヨー?」
我々には馴染みある掛け声を、エミリーは何だか上手く言えないようだった。
「『ヨ』じゃなくて『イオ』だよ、エミリー」
「エイエーヨ?」
「あはは、こりゃ日本語の発音はもっぺん練習し直さないとな」
しょうがないなとばかりに歩が笑った。そういえばエミリーは以前からどこか舌足らずな部分があったことを思い出す。
英会話教室を去った後も、エミリーを見つけたそれぞれのアイドルたちは喜んで彼女と触れ合った。
歩の付き添いは非常にありがたい。その日一日、エミリーもいつも通りの居心地の良さを感じてくれていたようだ。
その夜、伊織にもそのことを報告すると満足そうにしていた。
43 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:25:11.33 ID:9pdDfgPfo
*
事務所での勉強会を始めてから一週間が経った。
エミリーは相変わらず着々と教材との格闘に勤しみ、ひらがな・カタカナと小学一年生が習う程度の漢字までを読み書きできるようになった。
会話においては、基本的な挨拶や簡単な受け答えなら伊織が不在でも俺と日本語でやり取りを続けられる。
医者の先生も彼女の驚異的な学習スピードに驚きを隠せていないようだったし、俺も伊織も一旦はこの途中経過を喜んでいた。
帰りを待っている劇場のみんなにもようやく前向きな報告ができると。
次に考えるべきはステージへの復帰の段取りだった。
俺は彼女の具合を見て常々、劇場でのレッスンに合流させられる最速のタイミングを見計らっていた。
順調とはいえ、約束の期限まではたったの七日しかない。
そしてここまでの進歩から、スケジュール調整と復帰に関する告知内容を考案していく段階に入るべきことを確信した。
決められたその日までにご家族が納得のいく状況までエミリーが元に戻ってくれることを、俺も楽観的に期待していたのだ。
44 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:25:53.44 ID:9pdDfgPfo
だが学習の効果はそこでピタリと止まった。
翌日を境に、そこから何日待てども勉強の成果が一切出なくなってしまった。
次の日も、また次の日も、今まで使えていた難しい言葉の一つも思い出すどころか、
その日にノートに書き込んだことすら、夜には満足に思い出せなくなってしまう。
そのまま俺たちは更に三日間を無駄にした。
ここまでノンストップで続けてきただけに、さすがに疲れが見え始めたのかと最初は思ったがどうもそれだけではないようだ。
エミリー自身の意欲が失せているような気がした。
机に座っていても頻繁に集中が切れ、知識を受け付けてくれない頭を両手で抱えてうなだれる仕草を増やしていく。
苛立ちの様子すら見せるエミリーを伊織が戸惑いながら慰める。
見かねた俺は作業を止めさせ、気分転換に二人で外の空気を吸って来い、と乱暴に言いつけた。
「《……ごめんなさい》」と呟いて、エミリーは伊織に連れられ事務所を後にする。
きつい物言いになってしまったことを一人になってから悔やんでも遅い。
俺も伊織も──そしてエミリー自身も少しずつ、しかし明らかに焦りが思考を支配していた。
上手くいっていたはずなのに。何処で何を間違えた?
まだエミリーの状態が万全とは到底言えないまま、それでもくすんだ希望に縋らなければならない。
心苦しいが、明日からのレッスンは予定通り受けてもらう。
それがきっかけで彼女の思い出せることが増えるのを願うしかない。
45 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:28:21.72 ID:9pdDfgPfo
──────
エミリーは四歳のとき、初めて日本語を知った。
当然ながら最初は自分の意思ではなく、ご両親の日本好きが高じてわが娘にも、というお決まりの流れだったようだ。
日本語と同時に習い始めた日本舞踊も、着物の帯は苦しいし正座は足が痺れるしで幼いエミリーは大層苦手に感じていたらしい。
「いずれ好きになってくれる」ことを両親から期待され、彼女はとりあえず我慢して二年間日本語と日本舞踊に触れ続けた。
おかげで六歳のエミリーはひらがな・カタカナ・そして初歩の漢字の読み書きまで習得し、
日本語会話も簡単なコミュニケーションだけなら一人で取れるようになったのだ。
ただ、彼女自身の好みまではご両親の期待通りには行かなかったわけで。
もしかすると、いずれ二つの習い事は大きくなったいつかの日にすっかり辞めてしまっていたかもしれない。
そのまま大した興味も抱かずに自然と日本の文化から離れ、
今頃は何事もなく母国で過ごしていた──そんな可能性もあったかもしれない。
それを変えたのが、六歳になったエミリーが出会った初めての日本人の女の子。
たまたま親の都合でイギリスを訪ねていたその子はまるで日本人形のような、慎ましやかで雅な出で立ち。
額のあたりでまっすぐに切り落とした、美しく特徴的な黒髪。
まさしく「立てば芍薬、座れば牡丹」をその身で表していたという。
46 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:29:31.59 ID:9pdDfgPfo
彼女と知り合い、触れ合って、すっかり仲良くなったエミリーは瞬く間にその子の魅力にとり付かれた。
そしてその子が帰国する日になり、別れ際、エミリーは泣きじゃくりながらわずかに覚えた片言の日本語でお礼を述べると、その子はこう返したという。
「いつか立派な大和撫子になって、日本に来なさい」
──そうすればまた会ってあげるわ。
エミリーは、そこから人が変わったように自分の意思で猛勉強を重ねるようになった。
日本舞踊の稽古にも本腰を入れ、より深く日本の文化を知るようになり、
今の自他共に認める大の日本好き、エミリー・スチュアートへと成長した。
そして十三歳になり、父親の仕事についてくる形でついにこの国へやってきたのだ。
自分を少しでも本物の大和撫子に近づけるために──
エミリーの父親から話された内容は、まとめるとそのようなものだった。
「……やっぱり努力家だったんだな、エミリー」
「当たり前でしょ。 みんな普通に喋ってるから凄さが分からなくなってるのよ」
伊織が呆れるように言った。
「逆の立場で考えてみなさいよ、アンタが十三のときにイギリスで外国人に囲まれて仕事なんてできた?
おまけにシェイクスピアみたいな英語で喋るのよ」
「──想像もできない」
47 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:32:07.88 ID:9pdDfgPfo
俺はふと、以前見かけた幼いエミリーの描いた絵のことを思い出した。
エミリーの父親が持ってきてくれた箱の中にあった、黒髪の女の子が一緒に描かれた絵だ。
巨大なダンボールへ近づき、黒い丸筒をまた取り出して、中身をもう一度見てみる。
エミリーはその子と並んで笑っているようだった。
「“Yorichan”……“よりちゃん”」
「……またその絵?」
「これってさ──お父様の話にあった日本人の女の子じゃないか?」
「──どうかしら」
伊織は無愛想にそれだけ返した。
「あんたが聞いたお父様の話が本当で、その絵のパッツンが大事なお友達だっていうなら、
エミリーだってその子のことはちゃんと覚えてるもんじゃないの?
こないだはあの子、忘れたって言ってたじゃない」
「うーん……なんか気になるんだ」
「何がよ」
そうこうしているうちに、エミリーが事務所へやってきた。
今日は合流初日。
もちろん皆と完全に同じメニューをこなしてもらおうとはハナから考えていないが、
今のエミリーがどこまでできるのか、これからどうするのかを考える指標を見定めるのが目的だ。
当然、上手くいきそうならそのままステージ復帰を本気で考えても良さそうだが、ここ最近の彼女の状態からしてどうなるかまだ全く分からない。
「プロデューサー……イオリ、さん。 オハヨうゴザいマス」
「おはよう、エミリー。 うまく言えてるよ」
「《ありがとうございます》」
48 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:33:35.11 ID:9pdDfgPfo
それにここ最近のエミリーに元気がないのがやはり少し気になる。
小さくお礼を言う彼女に、改めて質問してみた。
「あのさ、この絵を描いたときのこと、覚えてないんだよな?」
「《……そうなんです》」
「本当に何も思い出せない?」
「《……ごめんなさい》」
しばらく考えていたが、エミリーはやはり首を横に振った。
「いや、ならいいんだ……レッスン、頑張ろうな」
「《はい、準備できてます》」
「表に車停めてるから、先に乗っててくれないか」
エミリーが頷いて事務所を出るのを待っていたかのように、伊織が尋ねてくる。
「さっきからどうしてそんなにそれが気になるのよ?」
「エミリーが言葉以外に何か思い出せないことがあるとしたら、それはこないだ頭を打ったせいかもしれないだろ」
「でも、子供の頃の落書きなんて何もなくても忘れるわよ」
「ただの落書きならな」
伊織はなんとなく、俺の言いたいことに気がついたようだった。
「エミリーのあの絵はお父様から預かった箱に入ってた……つまりエミリーがずっと身近に置いてたものだ。
あれだけ日本に関するいろんな本やノートを実家に残しておいたなか、わざわざ選んでこっちに持ってきたってことだぞ? 子供の頃の落書きを」
「……そうね」
「それは今でも大事な思い出だからじゃないのか?
それなのにエミリーのあの反応。 うっかり忘れてたとかじゃない……見ても何も思い出せないなんていくらなんでも不自然だよな?」
「……確かに」
何かがおかしい。しばらく待たせておいたエミリーと一緒に車で劇場へ向かう間も、気になって頭から離れなかった。
──やはりエミリーは、子供の頃の思い出を忘れてしまっているんじゃないだろうか?
49 :
◆AsngP.wJbI
[saga]:2019/06/10(月) 22:34:51.57 ID:9pdDfgPfo
*
エミリーは以前言っていたとおり、曲の振り付けは体できっちり覚えていた。
二週間程度のブランクがあったものの体調は万全と見え、今まで通りに他のメンバーと肩を並べ、一曲通してのダンスをやりきろうとしている。
否、実際のところ今まで通りとはいかなかった……つまり、エミリーは歌ってはいない。
俺が「歌わなくてもいい」と言った。エミリーがみんなの前でまだまだ片言の、つたない発音の日本語で歌うことをとても嫌がったからというのもある。
伊織の予想通り、確かにエミリーは──あくまで言葉の羅列として──日本語の歌詞を思い出すことはできたし、
その意味も大まかには覚えているようだった。
一応、エミリーがステージで歌うことはおそらく可能だ。
思うに今の彼女が日本語として歌詞を飲み込めているとはいささか考えがたく、
例えて言うなら──英語で何と言っているか理解はしていないが、耳コピで洋楽を歌えるようになっている状態──
あれに近いのかも知れない。歌詞を日本人と遜色なく自然に歌うだけなら、ボーカルレッスンでそこを重点的に練習し直せば大丈夫だろうと考えていた。
ただエミリー本人が──あからさまではないにせよ──だんだんと復帰に関して後ろ向きな態度を取り始めているような気もしてくる。
彼女が具体的にそれらしいことを示唆したわけではないし、仮にそれが本当だったとして、
頭を打った次の日「アイドルを辞めたくない」と言ってみせたあの時からどういう心境の変化があったのか、そこまでは分からない。
アップテンポな曲は必然的に歌詞の難易度も上がるため、一旦避けることにした。
もっとゆっくりと歌える曲──例えばソロ曲の「はなしらべ」だ。あれならエミリー自身も思い入れのある歌だしちょうどいいだろう。
それにユニット曲だとエミリーが周りの足を引っ張ることばかり気にして余計にストレスを感じることも危惧した。
律子や青羽さん、そしてユニットの他のメンバーにも提案して、まずはその一曲のみを集中してレッスンする。他の曲についてはその後考えよう。
また希望が一歩遠のく音がしたが、その不安はこの場では隠しておくことにする。
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