エミリーが忘れた日

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1 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:03:08.99 ID:9pdDfgPfo
 
第一報を受けたのはその日の午後6時のことだった。

リハーサル中、ステージで事故があったらしい。
──エミリー・スチュアートが足を滑らせ転んだと。

そのときの俺は別の営業でどうしても劇場から離れなければいけなかったので、その日の公演を他のスタッフや先輩アイドルたちに任せっきりにする予定だった。
そのせいか、事故は昼間に起こったものの現場は一時対応でてんやわんやしており、こちらへの報告が遅れたと、音無さんから謝罪を受けた。
大丈夫です、連絡ありがとうございます、と冷静に返事をしている間は「らしからん」程度にしか思っていなかった。
エミリーは基本的には落ち着き払った女の子だ。あまり無茶をしてケガをするような危ない場面を見かけたことがない。
捻挫や打撲だとしたら公演のスケジュールに影響するかもなと、そのくらいにしか考えていなかった。

だが能天気に捉えていたのも束の間、電話越しの音無さんから詳しく事情を知れば知るほど心に不安が渦巻き始める。

彼女は頭を打って病院に運ばれたのだ。


SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1560164588
2 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:05:07.97 ID:9pdDfgPfo
 
午後7時半にその病院へ駆けつけたとき、エミリーは診察室のベッドに座り込んでじっとしながら、医者の先生と看護師さんの会話を眺めていた。
いつものツインテールを解いたきらびやかな金髪を不揃いに横切る包帯が痛々しく映るも、当の彼女は心ここにあらずといった態度でただそこにいた。
医者の先生の話によると、エミリーは転んだ際に側頭部を強く打ち、そのまま数分間意識を失っていたとのことだ。
すぐさまこの病院へ連れてきて念のため一通りの検査を行ったものの、一応、脳に異常は見つからなかったらしい。
そこまで聞いてから俺はようやく胸を撫で下ろした。

「ただし、外的ショックによる健忘の兆候も見られます。よく話をされたほうが」
「健忘? それって記憶喪失ってことですか?」
「いえ、そこまでの大げさなことではありません。 まず、転んだ前後の記憶はないはずです。 
 これは頭を打てばよくあることなので仕方ないのですが……他にも、忘れたり思い出せなかったりすることがあるかもしれないということです」
「はぁ……」

ドラマや漫画でこういう状況を目にした事はあるものの、実際に当事者でないとはいえ、自分がその場に立つと全く実感も湧かないものである。
改めて目をやると、ベッドに座って黙ったままのエミリーはさきほどからずうっと口を固く結んで黙り込んだままこちらを見つめている。
よくみると両目にうっすらと涙も浮かべていた。
3 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:06:27.55 ID:9pdDfgPfo
 
「エミリー、すまなかった。 俺が劇場にいて監督できていれば防げたかもしれないのに……」

しゃがみ込んで彼女に目線を合わせ、ゆっくり話しかけていく。
彼女は俺の目を見つめながら、ブンブンと首を横に振った。

「先生がもう大丈夫だって。 ほら、今日の所は帰ろう」

手を差し出してみるも、彼女は頑なにそこを動こうとせず、ただただ首を振り続けていた。

「仕事のことは心配するな、大事を取ってしばらく休みにするから……エミリー?」

ここでようやく、さすがに様子がおかしいことに気がついた。
エミリーはひたすらに、こちらに何かを訴えるような目つきを変えなかった。
はっきりと、その奥に恐怖とかおびえじみた感情が映り込んでいる。

「あの……彼女、話せるんですか?」
「何ですって?」

先生が横から挟んだ言葉がすぐには理解できず──それを飲み込んで、まさか、と背筋が凍る。

「……エミリー? 何があったんだ? 教えてくれ! エミリー!?」

思わず細い両腕を掴み食ってかかると、彼女は体を強張らせうずくまる。しまった、と離れた瞬間、ようやくエミリーは絞り出すように声を発した。
ボロボロに弱りきった、掠れるような声で、俺の想像を絶する一言を。
4 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:08:04.11 ID:9pdDfgPfo
 



「I... I apologize for causing you concern, but... I... I...」

そのまま両手で顔を覆い静かに泣き出したその少女に、何と声をかければ良かったのか。

「……エミリー、どうしたんだ……?」

それに対する反応はなく、彼女はそのまま何十分も肩を震わせ続けていた。




結論から話すと、
エミリー・スチュアートは日本語を忘れてしまったのだ。
5 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:10:40.40 ID:9pdDfgPfo
 
──────

きっとエミリーは幼い頃から、劇場の誰もが思い及びすらしない血の滲むような努力を重ねてきたに違いない。

日本への憧れその一心で故郷を離れこの東洋の国へやってきた十三歳の女の子。
彼女は出会ったときからこの国の文化に人一倍詳しかったし、またその知識欲も並の日本人など相手にならないだろう。
カタカナすら一切話したがらないという、異常なまでの日本語へのこだわりがあったこともよく分かっている。
それはおそらくエミリーが憧れの大和撫子を目指すにあたっての最大のコンプレックスである、国籍という壁を少しでも打ち破るための手段。
彼女にとって、俺たちと同じ言葉を話すということは単なるコミュニケーションの道具なんかではなかったはずだ。

そんな、彼女が自身を大和撫子たらしめる最大の拠り所が失われてしまったとしたら――?

翌日、765プロの事務所にエミリーを連れてきた俺は社長室で経緯をできるだけ詳細に説明していった。
音無さんと青羽さん含め、三人にはすでに報告済みではあったがやはり改めて話さなければいけない。
場合によっては――彼女の今後すらも。
俺は話し合いの際、エミリー本人も同室にいさせた。
もちろん聞かせたくない話であったし、俺たちの会話が理解されないという状況を利用するようで自分でも吐き気のする選択だったが、
まだ彼女を一人放っておきたくはなかったから。
6 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:12:44.63 ID:9pdDfgPfo
 
「エミリー」

不安そうな面々に囲まれた彼女に一言だけそう呼びかけると、彼女はゆっくりこちらを見つめてくる。

「《この人たちは分かるか?》」

ごくごく簡単な英語で――辞書を引いてあらかじめ覚えてきただけのフレーズだが――問うと、エミリーは小さくこくんと頷いた。

「じゃあ俺が今言ってることは?」

事態を証明するためとはいえ、残酷な質問なのだろうなと胸が締まる。意味は通じていないだろうが、エミリーは何となく察したのか今度は首を横に振った。

「大変なことになってしまったね……」

高木社長はそれだけ吐き出して力尽きたかのように椅子にどっかりと座り込み、そのまま頭を抱え続けている。
音無さんは今にも泣き出してしまいそうな表情で、ひたすらにエミリーに目をやりながらかける言葉を探しているようだった。
青羽さんは事故の瞬間を目撃していたのもあって、電話でエミリーの容態を理解してもらうまで伝え続けるのが心苦しかった。
一晩経った今でこそ冷静を装って立ち尽くしているものの、真っ赤に泣き腫らした目がとても痛々しい。

「あれから何度か質問を繰り返してみた結果分かったのは……エミリーは今、日本語の読み書きと会話が全くできないということ。
 ただそれ以外の記憶に影響はなく、自分が誰で、ここがどこで、俺たちが何者なのか――そういうことは全て覚えているようです」
「それは――不幸中の幸い、なのかね」
「社長……全然そんなこと、ないです……!」

音無さんが嗚咽混じりに訴えた。

「エミリーちゃんは、今まで当たり前のようにお喋りして、一緒に仕事してきた私たちが、
 ある日突然訳も分からない言葉を話し始めたのと同じなんですよ……!?
 おうちからここまで、いつも歩いている風景にある標識とか、看板とか……
 『765ライブ劇場』の文字も……ファンからのお手紙も……全部、全部いっぺんに分からなくなっちゃったって事ですよ……!」

ようやくそこまで言い切ったあと音無さんはついに耐えきれなくなり、ハンカチで顔を覆っておろおろ声でむせびだした。
青羽さんもその音無さんの肩を抱きながら目にいっぱいの涙をためていた。

「分かっている、もちろん分かっているよ音無君……今のは失言だった。 すまない」

もちろん社長にも悪気などなかったろうし、こうやって気持ちが参ってしまっているのは誰しも同じだ。
言葉一つあげつらって責める気などこれっぽっちもない。
7 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:14:45.84 ID:9pdDfgPfo
 
「……差し当たっては、当分劇場でのエミリーの出演は全てキャンセル。
 ユニット曲については、代替メンバーに入れ替えての続行か、人数を減らしたままの続行かの選択肢がありますが詳細は検討中です。
 また再来週までに雑誌取材三件、ラジオ出演一件、テレビ出演二件のアポが入っていましたがこれも先方へ断りの連絡を入れておきます。
 各メディアへの発表はどうしましょう」

それに心配したり悲しんでいられる時間もあまりない。
エミリー・スチュアートはまだまだトップへはほど遠いが、それでも活躍の場の増えてきた売り出し中の人材だ。
ここで手を誤ればそれこそアイドルとしての未来はない。酷に思われるかもしれないがあくまで事務的に、毅然とした対応をとらねば。
エミリー自身のケアはそれが済んでからだ。

「うむ……しばらくは体調不良による休養として時間を稼ごうか。
 彼女が元に戻るのか、あるいはそれがいつになるのか――分からない限りは、長期の活動休止という方向も……あれ、君」

社長が俺の右腕を見つめていることに気づき振り返ると、エミリーは俺のスーツの袖を控えめに掴んで、またふるふると首を横に振っていた。

「……どうした?」

会話の神妙な様子から、きっと彼女は何の話をしているのか予想がついたのだろうか。

「I... don't want to quit」

俺でも聞き取れるような、ゆっくりとした英語で、小さくそう言った。
やめたくない――アイドルを、ということか?

「わかってる、けど……」

渋った反応しかできない俺に言い聞かせるように、だんだんと袖を掴む力が強くなっていく。
困り果てていると、不意に社長室の扉の裏側からノック音が響いた。

「プロデューサー、いる?」

水瀬伊織の声だった。
8 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:20:31.72 ID:9pdDfgPfo
 
その場にいる全員が静まりかえった隙に、伊織はさっさとドアを開けて部屋へ入ってきてしまった。

「……エミリーも、いたのね」

それに気づいたエミリーは伊織から隠れるように俺の背中へ回り込む。やはり他のアイドルに知られるのは、いっそう気が引けるのだろうかと察した。

「ねえ、エミリー?」
「Ah...I...」

思わず反応したエミリーがハッと口を塞いだ。伊織は一瞬だけ目を見開き、

「……半信半疑だったけど……どうやら、冗談でもなさそうね」

ゆっくりとこちらに近づき、俺の体越しに話しかけた。

「Emily, I know the situation. He told me last night...then show me yourself.」

流暢な英語。エミリーはおそるおそる顔を覗かせ、伊織を申し訳なさげに見つめた。

「It must have been very hard...Tell me anything I can do for you.」

とたんにエミリーは一瞬息を詰まらせ、それから堰を切ったようにわんわん泣き出した。
伊織は困ったような、痛ましそうな、憐れむようなそんな表情でただ黙ってエミリーを抱きしめてやった。

言葉が通じなくなってしまってから初めてまともにコミュニケーションがとれる仲間を見つけてようやく安心したのか、
肩に頭を預けて長い間大粒の涙を流し続け、最後には疲れて眠ってしまったエミリーをソファに寝かせてからも、伊織はずっとそばにいて頭を優しく撫で続けた。
9 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:22:13.88 ID:9pdDfgPfo
 
「ありがとう。お前がいなかったら……」
「礼なんか要らないわよ。 この子がどれだけ辛いか想像したら、いてもたってもいられなくなって……」

まあ、ユニットのリーダーとしてメンバーのために動くのは当然よ、と照れ隠しに伊織が言い放つ。
先ほどとは違う少しぶっきらぼうな物言いも、彼女の優しさの表れと取れる。今回ばかりは心から感謝するほかない。

「それで、どうするの?」

もう一度エミリーの髪をすっと撫でやってから、伊織が切り出した。

「これからの事。 まさか本国に帰すとかそんなこと……」
「しないよ。 エミリーは『やめたくない』って言ってた」
「アイドルを?」
「だと思う」
「そう……よかった」

エミリー自身の意思があるとしてもまだまだ問題点は山積みだ。

「ただ、今後活動するに当たってはいろいろ障害も出るだろうから……それをどう切り抜けるか……」
「どうすればいいのかしらね……劇場の皆、心配してるわ。 せめて気持ちだけでもエミリーに伝えて、元気を出してもらわないと……」
「それもだけど、外向きにどうするかが問題だ。 アイドルが日本語を話せなくなったなんて騒ぎ、いつまでも隠せはしないだろう」

そうね、としばらく考え込んで、伊織はまた少しの間眠っているエミリーを見つめた。

「……私がしばらく一緒にいてあげるわ」
「お前が?」
「今の状態に慣れるまで──もちろん慣れちゃうのも問題だけれど──ほら、何かあれば通訳くらいならできると思うから」

きっと私なんかが想像できないくらい辛いわよね、と、今度はエミリーに話しかけるように呟く。
伊織自身の仕事や都合もあるだろうし、正直言って色々な負担を強いるようなお願いはしたくなかったが。

「……頼んでもいいのか?」
「いいって言ってるでしょ」

こちらを見ることなくきっぱりと、少し湿り気を含んだ声で言い放ち、それっきり伊織は黙りきったままエミリーが目を覚ますのを隣で待ち続けた。
10 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:23:45.42 ID:9pdDfgPfo
 


さらに翌日、エミリーが劇場に帰ってきたと聞いて駆けつけたアイドルたちに、伊織と俺で事の顛末を丁寧に説明していく。
皆よほど心配していたようで、今日まで何も知らせていなかったぶん少し罪悪感もあった。
最初はエミリーが元気であるという知らせに喜んでいたものの、順番に話していくにつれみるみる表情が曇っていく。

どうやら全てが伝わったのかついにざわつきだした控え室を、「聞いて」と伊織が静めた。

「私からお願いなんだけれど……エミリーはいつも通りよ。 仕事にも早く戻りたいって言ってるし、何も変わらないの。
 ただ、ちょっと今までの話し方を思い出せないままというか……つまり……その……」

どう説明すればいいのか、珍しく言葉を選んで詰まっている伊織に助け舟を出してやる。

「伊織が言いたいのは……あんまり心配とか、同情しているような態度で接するとエミリーがかえって気に病むから、
 あくまでいつも通りでいてほしいっていう事だ。だよな?」

伊織も小さく頷いた。

「じゃあ、入ってきてもらうから。 落ち着いて迎え入れてやるんだぞ……伊織」
「ええ。 《エミリー、入ってきていいわよ》」

遠慮がちにドアノブを回し、室外で待たせていたエミリーがゆっくりと姿を見せる。

「「「エミリー!!」」」

やはりというか、アイドルたちは一斉に囲むように駆け寄った。

「もう大丈夫なの!?」
「ステージにはいつ復帰するの!?」
「ホントに英語しか話せないの?」

口々に迫る彼女らにエミリーが困惑の色を見せだしたころ、伊織がエミリーをかばって間に入り込む。

「……だから言ったでしょ。 エミリーに話があるなら私を通して」

呆れと怒りの両方を感じ取ったのか、今度は列になって一人ずつエミリーと会話をしていく流れと相成った。
11 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:25:36.28 ID:9pdDfgPfo
 
結果として、他のアイドルたちはエミリーが(今のところ)日本語を話せなくなっている、という事にそこまで悲観的な印象を抱かずに済んだ。
これは伊織がそばにいて、きちんとエミリーとのコミュニケーションを成立させる橋渡しをしてくれたからに他ならない。
皆最初はエミリーの英語に驚いていたものの、むしろ新鮮さすら覚えていたようだ。
事態が事態なだけに複雑な思いもあるが、ひとまずはこれでいい。

「《全く、こっちの苦労も知らずにね》」
「《皆さんに余計な心配はかけたくなかったので。 本当に助かりました》」
「《大したことじゃないわ》」

伊織とエミリーの会話は、自分にはついていけないもののその雰囲気は以前とすっかり変わらない様子だった。

「さて、ひとまずアイドル全員への報告は済んだけど……今日のリハはどうする?」

一安心こそすれ、次の課題は目前に迫っていることを改めて伊織に伝えた。

「どうするって?」
「“Sentimental Venus”は水曜公演の通常セトリに含まれてるだろ。 エミリーのパートをどうするかとか……」
「ん、そうね……」

チラとエミリーに目をやった。こちらが伊織と日本語で話していると、エミリーは途端に不安そうな顔になる。
きっと自分には聞かせられない深刻な話題だと思っているのだろうか。

「とりあえずエミリーに、『今日のリハーサルは見学してて』って言ってくれ」
「《──だそうよ》」
「...I understand.」

エミリーからは間を空けて一言だけ返ってきた。
少し浮かばないような口調にも取れたが、まだ頭を打ってほんの二日だ。彼女自身のことは焦らず様子を見つつ今後のことを考える必要がある。

「エミリー、分かってくれ」
「《私、振り付けはちゃんと覚えています》」
今度はきっぱりと主張するかのように。
「覚えてるかどうかの話じゃなく、まだケガから間もないのに無茶はさせたくないんだ」
「《──ですって》」
「…………」
「《エミリー、ゆっくり復帰していけばいいのよ》」

しばしの沈黙の後、エミリーはゆっくりと首を縦に振った。
12 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:27:47.47 ID:9pdDfgPfo
 


その日のユニットでのリハーサルは内容修正の確認と二、三度の通しでの演奏程度に留めることにした。

「じゃあ、エミリーのパートはしばらく伊織が代わりに歌ってくれ。 歌詞は大丈夫だよな?」
「全歌詞歌えるわよ、当たり前でしょ」
「OK。 それと、今日は試しで配置の変更もするから、全員スタートのポジションを確認しておこう」

百瀬莉緒と真壁瑞希にも指示を促し、いつもの目印から数歩ずつ左右へずれてもらう。

「でもプロデューサーくん、いいの?」

莉緒が心配そうに尋ねた。

「どうかしたか?」
「位置取りまで変更するってことは……そういうことでしょ?」

莉緒の言いたいことは容易に汲み取れる。後ろでじっとしているエミリーのことが頭をよぎった。

「……何度も言うが、これはあくまで『試し』でしかない。 これから先誰かが急な体調不良で公演を休んだりするかもしれないだろう?
 そういう事も含めて、いろんな選択肢を用意しておくってだけだ」
「なら、いいんだけど」
「とにかく、今は自分たちのステージのことだけ考えてくれればいい」

自分自身にもそう言い聞かせてからスタッフへ合図を送り、曲をスタートさせた。

♪背伸びのVenus 7回目の チャンスにkiss つかまえて……♪

リハーサルながら伊織、莉緒、瑞希たち三人のコンディションは抜群といってよかった。
出だしからいつも以上に統制の取れた動き。
ゆったりと広がるような振り付けからリズミカルなそれへの変調、また時折挟む女の子らしい細かなポージングにおける指先の角度一つ一つ──
ほぼ完璧に揃っている。これが本番でないのが惜しいほどに。

ただ歌はというと……どこか物足りなかった。
もちろん彼女ら自体には何の問題もない。三人とも喉の調子までバッチリだ。よく出ている。
ただ四人斉唱の映えるこの曲のサビは、エミリーの儚げなあの歌声なしではどこかキャッチーさに欠ける……といったところか。
13 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:29:55.03 ID:9pdDfgPfo
 
「──どうかな?」
「同感です」

隣にいた秋月律子に尋ねると、真剣なまなざしをステージに向けたまますっぱりと返された。
リハーサル前、エミリーのことも気になるから同行させてほしい、と頼まれたのでこうして一緒になって見てもらっている次第だ。
律子は過去プロデューサーとして活動していた経験もあるので、こういうときに意見をもらえるのは非常に頼りになる。

エミリーのパートを肩代わりした結果一番Aメロを全て伊織が歌っていることについては、

「悪くないですけど、おかげで息がちょっと続いてないかな。 肺活量とスタミナには少々難有りですからね、あの子は……」

サビ直前のロングトーンが切れるのが伊織だけ一瞬早かった、と俺には気づけなかった指摘もくれた。
そのことに感心していると「プロデューサー殿もまだまだですね」と茶化されてしまったが。

二番も終わり、間奏に入ったタイミングで後ろを振り返る。
ポツンと置き去りのパイプ椅子に捕まって観念したような表情を貼り付け、エミリーはただ黙りこくって伊織たちの歌を聴いているだけ。
あまり物寂しそうにしていたので声をかけてやりたかったが、何と声をかけていいのか──文字通りの意味で──分からなかったので、やめてしまった。

♪ウンメイならSo sweet きっと本物 迎えにいこう……♪

軽快なアウトロが止まり、一回目の通しリハが終わった。三人をこちらへ呼び寄せる。

「律子に見られながらリハやるなんて、随分懐かしいわね」

伊織がほんの少し乱れた呼吸を整えながらクスリと笑った。

「二人の反応を見てて、なんとなく分かったわ。 今ひとつって顔してたもの」
「すまないな。 別にお前たちに不満は何もなかったんだけど」
「そうね。 私も、エミリーちゃん抜きじゃ“なんか違う”って思ってたし」

莉緒も考えは同じのようだ。瑞希もそれに合わせてコクコクと頷いていた。
14 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:30:41.28 ID:9pdDfgPfo
 
「お客さんにも聞いてみましょうか?」

ヒョイヒョイ、と莉緒がエミリーを手招きし、

「《やっぱり、エミリーがいないといい歌にならないんですって》」

やってきた彼女に伊織が説明してみせる。

「…………」
「……エミリー?」
「Sorry...」

エミリーは拳をきゅっと握り、無理やりな小さい笑顔を何とかこちらへ見せたかと思えば、

「《曲も振り付けも頭にあるんです。 なのに、本当は歌えるはずの歌詞の意味が分からなくて……なんだか、自分の歌じゃないみたいです》」

それだけ言って下を向いてしまった。
その彼女にかけられるような気の利いた言葉を、誰も見つけられない。

「……ごめんなさいね。 無責任かもしれないけど……きっといつか戻るわよ。 私は信じてるから」

悔しさを噛み潰して空元気を少し混ぜ、律子が呟いた。
伊織が何も言わなかったからか、エミリーからの反応はなかった。
15 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:32:44.78 ID:9pdDfgPfo
 


その後別ユニットも集合させ、今度は“Eternal Harmony”のリハーサルに同行させる。

「プロデューサー、エミリーはその……本当にステージに復帰できるんでしょうか」

先ほどの様子を律子から伺ったらしく、開始前に如月千早が心配そうに尋ねてきた。

「そういう判断材料を探すことも含めて今日は見学なんだ。 今のところ……打開策というか、どうすればいいかまだ分からないんだけど」
「……そうですか」

くっ、と歯がゆそうに目を逸らす千早。エミリーのいるほうに目をやると、ジュリアや風花が伊織の通訳を借りてお喋りをしていた。
ああいう瞬間だけは、エミリーもふと楽しそうな表情を浮かべるものなのだが。

「ごめんな」
「いえ、プロデューサーのせいでは……私にも、何かできることがあればと思ったんですが……こちらこそ、無力ですみません」
「頼むから気にしないでくれ。 劇場は公演を続けるんだから、少なくとも他のアイドルにはいつも通りにやっていってもらいたいんだ」

自分でもドライな対応なのだろうな、と心が痛む。
けれどもエミリーのことばかり気にかけて全体の士気を落としてしまうのは一番あってはならない。
あくまでプロデューサーとして、やるべきことをやる。

「……じゃあ、みんな集合!」

パンパン、と手を叩いてメンバーをこちらに来させる。リハーサルは先ほどと同じく、エミリーを抜いた陣形での通し演奏。

──結果は似たようなものだった。この曲も、エミリーは歌詞が出てこないと言うのみでただ俯いていた。
他の四人の雰囲気にも暗雲が立ち込める。
16 : ◆AsngP.wJbI [saga]:2019/06/10(月) 20:34:51.89 ID:9pdDfgPfo
 
プロデューサーとして、と己に豪語したくせ、その日の最後のユニットリハは自主練に変更した。
“Princess Be Ambitious!!”でもきっと同じ具合になることが分かりきっていたから。
やはりエミリーにこれ以上心の負担を感じさせたくはない。
俺はどっちつかずの頼りない指導者だ。

“だってあなたはプリンセス”の公演に関しては、やむなく休止の決定を下した。
徳川まつりとのデュエット曲。いくらなんでも二人いるうちの片方だけで歌わせるのは流石に不自然だ。

「残念ですが、まつりは我慢するのです」
「《ごめんなさい。 私もこの曲、本当は大好きなのに》」
「エミリーちゃんは何も気にすることはないのです。 姫はまたエミリーちゃんと二人で歌える日を楽しみに待つのです」

申し訳なさそうに何度も『ごめんなさい』を繰り返すエミリーの頬を、まつりがそっと撫でた。

「エミリーちゃんにそんな辛そうな顔は似合わないのです。 ほら、笑って。 ね?」

そのまま反対の人差し指で自分の口角をなぞり、「にっこり」を描いてみせる。
エミリーは後ろめたさを少しの間だけ忘れ、遠慮がちにふわりと笑った。
伊織も「ありがとう」と一言だけ添えてエミリーを連れその場を去っていく。

俺はその一部始終を離れて見ていた。
一人取り残されたまつりがさっきまでの優しい表情を途端にしかめて、「こんなのってないよ……」と沈んだ声を吐き出していた瞬間も。


決して甘く見積もったつもりはなかった。
けれどもエミリー・スチュアートを欠いて765ライブ劇場に空いてしまった穴は、俺が懸念した以上に大きいのかもしれない。
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