【バンドリ】さあやとサアヤの話

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2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:33:32.33 ID:YWfCY9A20

 1


 気が付くと彼女は電車の長椅子に座っていた。

 ガタンゴトンと、車両がレールのつなぎ目を超える音。それ以外に音はしない。窓の外からは眩いばかりの白い光が射しこんできていた。そのせいで外の風景は見えない。

 視線を左右に巡らせる。車内には彼女の他に人の姿がない。

 ガタンゴトン。

 幾度目かのその音を耳にしながら、彼女は考える。はて、どうして私は電車に乗っているんだろうか。

 学校へ行くため? いや、学校へは電車は使わない。

 じゃあどこかへ出かけるため? いや、そんな用事があっただろうか。

 そもそも、自分はいつ、どうやってこの電車に乗ったのか。それをまるで覚えていない。

 人のいない車両。まるでこの車内だけで世界が切り取られてしまったかのような空間。

 ふと、彼女は自分の対面の長椅子に人影が現れたことに気付く。

 窓からは変わらず白い光が射している。対面の人物も逆光になっているから、その姿は見えづらかった。

 眩い光に負けないように、目を凝らしてみる。あちらもそうしているのだろうか、逆光の黒い影がやや前かがみになっていた。

 ――もう少し、もう少しで見えそう。

 そう思ったところで、フッと白い光の中にその人物の姿がくっきりと浮かんだ。彼女はそれに驚いた。

 電車の長椅子。その対面には、まるで鏡を見ているかのように、自分の驚いた姿があった。

 え、なにこれ。

 思わず口から呟きが漏れたところで、彼女の視界はブラックアウトした。
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:34:41.43 ID:YWfCY9A20

 2


「う、ん……」

 ベッドの枕元でけたたましいアラームの音が鳴っている。それに意識が段々とはっきりしてくるのを山吹沙綾は感じていた。

 目を瞑ったまま、枕元の音源に手を伸ばす。スマートフォンの感触が手にあった。手探りで端末のサイドボタンを探し、それを押し込んだ。アラーム音は止み、部屋の中には静寂が訪れる。

「んー……今日ってなんか予定あったっけ……」

 まだ目を開かないまま呟く。

 今日は日曜日。ポピパのみんなと遊びに行ったのは二学期が始まってから間もないことで、もう九月も終わる今週の休日は特に何も予定がなかったはずだ。そういえば昨日遅くまで香澄とメッセージのやり取りをしてたなぁ、その時に何か約束でもしたのかも。

 そう思い、沙綾は目を開く。薄ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になっていく。

「えっ……?」

 そして部屋の景色がはっきりと見えるようになったところで、彼女の口から驚いたような呟きが漏れた。

 ガバッ、とベッドから身を起こす。そして室内を見回す。そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:35:23.39 ID:YWfCY9A20

「えっ!?」

 基本的な部屋の間取りは同じだけど、置いた覚えのないものがやたらと目に付く。

 それはアコースティックギターだったり、壁に貼られたロックバンドのポスターだったり、ベッドの枕元に置かれた三つの時計だったり……とにかく、自分の部屋とは似ているけれど、確実に自分の部屋ではない場所で沙綾は眠っていたのだった。

「…………」

 言葉が出ない。私はどうして知らない部屋にいるんだろう、眠っている間に何があったんだろう、そういえば変な夢を見たような気がする……と、関係のないことに思考が逸れ始めた時、

 ――ピピピ!

「わっ!?」

 手に持ったままだったスマートフォンが震え、何かの通知音を流す。よく見れば、その手にしている物も自分が持っている物と違うものだった。

 その画面にメッセージアプリの通知が表示されていた。

「……見ていいのかな、これ」

 明らかに自分の物ではないスマートフォン。だけど、いくら室内を見回してもその持ち主となる人物は沙綾以外見当たらない。状況がてんで分からないけれど……多分見てもいいんだろう。

 そう思ってアプリを開く。グループトーク……『ポピパ』。メッセージの送り主は……戸山香澄。見慣れた名前に少し安堵して、ちょっと落ち着いた。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:35:49.33 ID:YWfCY9A20

 自分が置かれている状況が全然飲み込めないけれど、とりあえずこのスマートフォンの持ち主の名前を調べよう。もしかしたら昨日、知らないうちにポピパかチスパの誰かの家に泊まるような流れになっていたのかもしれない……いや、冷静に考えるとここはほぼ見覚えがあるようでまったく無い部屋なんだけど、それはひとまず置いておこう。

 一つ息を吐いて、沙綾はアプリのプロフィールを開く。そして混乱した。画面には『山吹沙綾』という名前が表示されたからだった。

 沙綾はしばらく放心した。脳裏には次から次へと取り留めのない思考が浮かぶ。沙綾。うん、私は山吹沙綾。当たり前のことだ。じゃあこの部屋も沙綾のものであってスマートフォンも沙綾のものだから、つまり、そう、これは大掛かりなドッキリをポピパのみんなが仕掛けたのかな? あはは、みんな悪戯好きだなぁ……。

(いや、そんなことを考えてる場合じゃないでしょ)

 とにかく落ち着かなければならない。

 何がどうなっているかは分からないけれど、このスマートフォンが『山吹沙綾』のものだというのははっきりした。そしてこの部屋も『山吹沙綾』のものであるだろうことも分かった。よし、ここまで分かれば……うん……うん。

「つまりどういうことなの……?」

 やっぱり沙綾は何も分からなかった。

6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:36:26.84 ID:YWfCY9A20


 それから十分ほどあーでもないこーでもないと頭を悩ませて、最終的に沙綾が行きついたのは、誰かに電話をしてみよう、ということだった。

 幸い自分の……多分、自分のスマートフォンにはポピパのみんなの連絡先があった。チスパや他のバンドの人のは見当たらないけれど、とにかくポピパの連絡先さえあればどうにでもなるだろう。きっと。

「こういう時に頼れるのは……」

 消去法で考えてみよう。

 まず、おたえ。申し訳ないけど、こういう時にはまったく頼りにならない気がする。「起きたら知らない部屋に……? お泊りしたの? 私も行きたかったなぁ」なんて言われて話が噛み合わないだろう。

 次、りみりん。多分、私以上にテンパっちゃうと思う。もしかしたらアワアワするりみりんの声を聞けばそれで冷静になれるかもしれないけど、りみりんに変な心配をかけるのはちょっと申し訳ない。

 次、香澄。……真剣に話は聞いてくれそうだけど、なんだろう。解決に持っていけるビジョンが浮かばない。「よく分かんないけど、とりあえずさーやの家に行くね!」って言われそう。いやいや、起きたら自分の部屋じゃなかったから私は困惑しているわけで……。

 最後、有咲。

「……有咲だね」

 口では色々言うけど友達想いだし、こういう時も……香澄とおたえの天然な言葉じゃなきゃ、きっとすぐに信用して親身になってくれるだろう。何かいい助言を貰えるかもしれない。

 沙綾は一つ頷いて、有咲の連絡先を探す。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:37:14.79 ID:YWfCY9A20

「有咲……えーっと、市ヶ谷……あったあった」

 連絡先に市ヶ谷有咲の名前を見つけ、沙綾は発信ボタンをタップする。そしてスマートフォンを耳に当てる。呼び出し音が一回、ニ回、三回……そこで電話がつながる。

『はいはーい。おはよー、沙綾』

「あ、朝からごめんね?」

『ううん、別に。かすみんが早く来るって言ってたしね、あたしも早めに起きてたし』

「……?」

 電話越しの声は確かに有咲のものだった。けれど、なんだろう。拭えない違和感があった。

 かすみん、という呼び方。それが指す人物はきっと香澄のこと……だと思う。あの有咲がそんなあだ名で香澄のことを呼ぶだろうか。というか、いつもよりも随分と落ち着いた調子の声のような気もするし……。

『どうかしたの、沙綾?』

「あ、う、ううん、なんでも……」逸れかけた思考が有咲の声で軌道修正される。そうだ、今はそれよりも自分のことだ。「……いや、なんでもってことはないんだけどさ」

『え、何かあったの? 大丈夫? 家のこと?』

「え? いや、違……わないこともないけど、違うかなぁ?」

『……なによそれ。はぁ、まったく……ボケナスはりみだけで十分よ。おたえとかすみんも普段はアレだし、せめて沙綾だけはシャンとしてて欲しいわ』

「……うーん?」

 その言葉に違和感が拭いきれなくなってしまった。香澄とおたえに対してならともかく、りみに対して有咲が「ボケナス」などと言うことがあるだろうか。……あのテストの一件からりみに対してずっと優しくなった有咲が、こともあろうか「ボケナス」呼ばわりなんて……。
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:38:03.20 ID:YWfCY9A20

『それで、どうしたのよ? 沙綾も時間、早くなったり遅くなったりするの?』

「……あー」

 電話越しの声を聞いて、沙綾は考える。拭えない違和感もあるけれど、とにかく有咲は有咲であって、ポピパのみんなの名前を口にしていた。なら、自分が今頼れる人物はこの有咲だけだろう。

 そう思って、口を開く。

「あの、さ。今からちょっと変なこと言うけど、信じてくれる?」

『……まぁ、よほど突拍子のないことじゃなきゃ信じるわよ?』

「そっか。じゃあ言うね?」これ、よほど突拍子のないことになるだろうなぁ……と思いながら、沙綾は続きの言葉を口にした。「なんていうか、起きたらまったく見知らぬ場所にいたんだけど、どうしたらいいと思う?」

『…………』

「…………」

『……はぁっ?』

 だよね、そういう反応になるよね。沙綾はそう思いつつ、言葉を続ける。

「その、本当なんだよ? 部屋の間取りは同じなんだけど、やたらと部屋に見慣れないものがあるっていうか、なんていうか……」

『もしかして寝ボケてる?』

「いや……ちゃんと起きてる……多分」

『あんたの家族構成は?』

「え? なんで今さら?」
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:38:52.56 ID:YWfCY9A20

『いーからさっさと吐きなさい』

「……そりゃ、父さんと母さん、それに私と純と紗南だけど」

『オッケー、重症だわあんた。ちょっとその場に留まってなさい。今、自分の家よね?』

「えっ、あ、えーっと、多分?」

『ん。絶対その場を動かないこと。いいね。かすみんたちにはあたしから言っとくから、沙綾はその場で待機!』

「あ、うん」

『所要時間は……まぁそんなかかんないかな。ちゃんと大人しくしてるのよ。それじゃ』

 という言葉のあと、ブツッ、という音がスマートフォンから響く。

「……切れちゃった。大人しくしてろって言われたし……まぁ、今このワケ分かんない状況で部屋から出るのも怖いし……有咲が来るの待ってるしかないかぁ」

 でも、有咲の声を聞いたら少し落ち着いたな。沙綾はそう思い、見慣れないベッドに再び寝転がるのだった。

10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:39:50.33 ID:YWfCY9A20


 それから約二十分後のことだった。コンコン、という部屋の扉がノックされる慎ましい音を聞き、ぼんやりと物思いに耽っていた沙綾はベッドから身を起こす。

「えっと、どうぞ?」

 多分ここは自分の部屋なんだろうけど、まだイマイチ確証がもてなかった。曖昧な返事を扉にすると、すぐにガチャリとそれが開かれる。そして、

「さ、沙綾ちゃん、大丈夫!?」

「え?」

 パッと部屋に飛び込んできたのは、見覚えのない女の子だった。

 歳は沙綾と同じくらいだろうか。少し茶色がかった髪の毛は肩甲骨の辺りまで伸ばされていて、頭のてっぺんと耳との間くらいで、ネコミミのようにこんもりと丸く盛られていた。

 まるで香澄の髪型みたいだな、なんて思っていると、続いてもう一人の人間が部屋に入ってくる。

「あーもう、そんなに慌てなくても多分大丈夫よ。どうせ寝ぼけてるだけでしょ」

 やれやれ、と今にもため息を吐きそうな表情のその人物も、沙綾と同じくらいの歳の女の子だった。綺麗な金色の髪をツインテールで括っていて、前髪は眉毛の上あたりで切り揃えられている。肌の色も白くて綺麗だ。

「ど、どこか調子悪い……? 熱とかない? 大丈夫?」

「え、えっと……?」

 香澄に似た髪型をした女の子は、愁眉をあつめた顔で沙綾に詰め寄る。それに沙綾が困惑したような態度で返すと、いよいよ泣き出してしまいそうに顔が歪んでいく。

「はいはい、心配なのは分かるけど詰め寄んないの。ごめんね、騒がしいのを連れてきちゃって。本当はあたし一人で来るつもりだったんだけど途中にバッタリかすみんと出くわしちゃってさ」

 そんな女の子の首根っこを捕まえて、今度は有咲に少し似た女の子が沙綾の前に躍り出た。それにもやっぱり沙綾は首を傾げるしかなかった。
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:40:26.05 ID:YWfCY9A20

「んで、沙綾」

「あ、はい」

「…………」

「…………」

 淡い緑に近い色をした双眸が沙綾を射抜く。沙綾は『そういえば私、パジャマ姿だったな』なんて今さらのように自分の身なりが気になりだす。

「……沙綾よね?」

「えっと、うん。私は山吹沙綾だけど」

 せめて髪の毛くらい括ろうか、と思ったところで、金髪ツインテールからそんな言葉を投げかけられ、沙綾は曖昧に頷く。

「ふぅん……」それを見て金髪ツインテールっ子は少し何かを考えるような顔をした後、再び口を開いた。「質問。あなたの家のパン屋さんの名前は?」

「え?」

「いいから答えて」

「あ、えっと、やまぶきベーカリー?」

 何を当たり前のことを聞いているんだ、と思いつつ沙綾が答えを返すと、どうしてか香澄に似た女の子がくしゃりと更に泣きそうな顔になった。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:41:29.81 ID:YWfCY9A20

「兄弟の名前は?」

「……弟が純で、その下の妹が紗南」

 それに首を傾げながら、沙綾は質問に答える。

「通ってる学校の名前は? 全日制? 夜間?」

「花咲川女子学園で、全日制だけど」

「……あなたが所属してるバンドは? 何を担当してる?」

「Poppin'Party、ドラム担当」

「りみはあんたのことをなんて呼んでる?」

「りみりん? 普通に沙綾ちゃんだけど」

「……おたえは?」

「沙綾」

「…………」

「……あの」

「最後。かすみんがあんたと出会ったきっかけは?」

「え?」

「かすみんよ、戸山香澄。ほら、そこにいるでしょ」

 言われて金髪ツインテールの指さした方を見ると、もう涙が今にも零れてしまいそうなほど瞳に溜まったネコミミ――いや、確かアレは香澄曰く星だったな――の少女がいた。

「香澄と私がって……入学式の日に、偶然ぶつかっちゃったのがきっかけだけど……」

「っ……!」

「え!?」

 そう言い終わるが早いか否か、とうとうネコミミ少女の瞳からポロリと涙が落ちた。それに沙綾は戸惑う。何かこの子を傷付けることを言ってしまっただろうか、どうしよう、謝った方がいいのかな、でも何を謝れば……。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:42:04.57 ID:YWfCY9A20

「それで、あんたさ」

 戸惑う沙綾、涙を流すネコミミ少女。その二人と対照的に、金髪ツインテールは何も変わらない調子で言葉を続ける。

「今日、起きてから鏡とか見た?」

「か、鏡? 見てないけど」

「そう。じゃあこれ。あたしの手鏡、ちょっと覗き込んでみて」

「え、でも……」

「いーから」

「……分かったよ」

 傍で涙を流す少女を放っておくのは心苦しい。けれど、金髪ツインテールからの強い言葉に不承不承、沙綾は差し出された手鏡を覗き込む。そして驚いた。

「……誰これ」

 手鏡に映っていたのは、淡い亜麻色に近い髪の毛をした、どことなく山吹沙綾に似たような、見たことのない顔だった。
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:42:38.34 ID:YWfCY9A20

「……はぁー……なんとなく分かった」

「え、何が……?」

「沙綾がどうなったのかが。ほんと、ジョーシキで考えたら有り得ないことだけど」

「え、本当?」

「ええ」

「そうなの? えーっと……」

「有咲。市ヶ谷有咲」

「あ、やっぱり有咲なんだ……。じゃあ、こっちの子が……香澄」

「さぁやちゃぁぁん……えぐっ、ぐす……」

「なんでかすみんはそんな泣いてんのよ」

「だってぇ……沙綾ちゃんがぁ……」

「大丈夫よ、あんたが考えてるだろう笑える悲劇は多分ないわよ」

「ほんと……?」

「ええ。別に病気になったり頭パッパラパーになったりした訳じゃないわ。ほら、昨日みんなで話してたでしょ?」

「昨日の話?」と、沙綾とトヤマカスミの声が被る。

「そう。そっちのサアヤは知らないだろうけど、たらればの話。もしも生まれ変われるならみんなはどうしたい? って」

「うん……話した」
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:43:36.53 ID:YWfCY9A20

「そんで、多分、だけど」

「うん」と、再び沙綾とカスミの声が被る。

「どうしてそうなってるとか、なんでこうなったとか、そんなのは分かんないけど……今ここにいる山吹沙綾は、きっとそんな『たられば』の世界の沙綾なんじゃない?」

「……はぁ?」

「……えっと?」

 いまいちピンと来なかった沙綾は首を傾げた。床にへたり込んでいたカスミも同じように首を傾げる。

「だから……えぇっと、並行世界……パラレルワールドって分かる?」

「SF映画とかであるような?」

「そう、それ」

「え、えっと……?」

「かすみんは分かってないみたいね……。簡単に言うと、ここではない別の世界のことよ」

「う、うん……?」

 その言葉を聞いたカスミは、曖昧な声を出しながらなんとなく、という風に頷いた。本当に香澄なのかな、この子……と沙綾が思う横で、アリサは大仰なため息を吐き出す。

「絶対分かってないわね……。それじゃあこう! このただっぴろい宇宙のどっかに地球と似た星があって、そこにはあたしたちに似てるけど、全然まったく違うあたしたちがいるかもってこと!」

「……なんとなく分かった……と思う」
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:44:48.91 ID:YWfCY9A20

「ん。そんで、この沙綾の中にいるのはその世界の沙綾なんじゃない? ってことよ」

「…………」

「…………」

 アリサからの言葉を受けて、沙綾とカスミはしばらく黙り込み、それからしばらくして、「ええ!?」という驚きの声を同時に上げた。

「えーっと、つまり私は何らかの原因で違うポピパのみんながいる世界に来ちゃったってこと……? でもどうして……」

「さ、沙綾ちゃんは!? わたしたちの知ってる沙綾ちゃんは無事なの!?」

「あたしが聞きたいわよ、両方とも。とりあえず落ち着きなさい、かすみん」

 独り言のように呟いた沙綾と詰め寄ってきたカスミに対して、アリサは呆れたような口調でそう返す。

「それで……サアヤ」

「あ、うん、なに?」

「……意外と落ち着いてるわね、あんた」

「うーん、落ち着いてるっていうか……未だに私自身、そのパラレルワールド? っていうのに実感がないっていうか……」

「そう。まぁ取り乱して暴れたりって方が厄介だしその方がいいわ」コホン、とアリサは一つ咳ばらいをする。「それで、これはあたしの勝手な推測なんだけど」

「うん」

「多分、こっちの沙綾とあっちのサアヤ……つまり、あんたね。この二人が入れ替わっちゃったんじゃない?」
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:45:51.39 ID:YWfCY9A20

「え、どうして!?」と、驚いたような声を出したのはカスミだった。

「たらればの話なんてしたせいでそれが本当になっちゃった……とか? まぁ憶測よ、憶測。こういう映画やドラマのストーリーなんてそういうもんだし。なんか心当たりとかない、サアヤ?」

 アリサの言葉を聞いて、沙綾は考える。昨日していたことはお店の手伝いと、それから夜遅くまで香澄とメッセージのやり取りをしていたこと。あとは……

「夢……」

「ん?」

「そういえば、変な夢……見たなって」

「どんな夢?」

「えーっと、なんだろう……人が全然乗ってない電車に乗ってて、それでいつの間にか対面に人が座ってて……よく見るとそれが自分自身で、鏡を見てるみたいにびっくりした顔でお互いを見合ってた……って夢?」

「……変な夢、だね……」

「うん……」
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:46:29.54 ID:YWfCY9A20

「まー夢なんてそんなもんでしょ。でも、それが何らかの形で関係してるなら、本当に入れ替わってそうね」

「そうかなぁ……?」

 と首を傾げたカスミにアリサは向き直り、ピッと人差し指を立てる。

「そうよ、かすみん。いーい? まず、ここにいるサアヤはその夢で自分の姿を見たのよね?」

「うん、そうだね」

「ということは、もうその時には入れ替わってたのよ。だからあんたは自分の姿が目の前にあって、そんでこっちの世界の沙綾も同じく、対面に自分の姿を見て驚いた……ってワケ」

「あー……それなら辻褄が合う、かも?」

「フツーに考えたらありえない空想だけどね。でも、サアヤが嘘をついてるようには見えないし、多分そんな風になってるんじゃない?」

「なるほど……大丈夫かなぁ、入れ替わっちゃったもう一人の私」

 顎に指を付け、まるで他人事のように呟く沙綾。それを見たアリサは大きなため息を吐き出した。

「あんた、ホント余裕綽々ね。自分の状況分かってるの? 元に戻れる保証も何もないのよ?」

「ううん、分かってないと思う。未だに全然実感ないし、本当に他人事みたいに思えるし。けど、焦ってもどうしようもないのかなぁって思ってさ」

「そ。そりゃ賢明なことで」
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:47:10.10 ID:YWfCY9A20

「こんなに落ち着いてられるのもアリサちゃんのおかげだよ。ありがとね、親身になって話を聞いてくれて」

「……別に。沙綾に……あんたじゃないわよ? あたしたちが知ってる沙綾の方だからね? ……えっと、つまり、そう、沙綾に何かあったんじゃかすみんもみんなも悲しむからね。それだけなんだから」

「…………」

「なによ、そんなじっと見つめてきて」

「あ、ごめん。やっぱりどこの世界の有咲も有咲なのかなぁって思って」

「はぁ?」

 アリサは少し肩を怒らせ、沙綾をねめつける。その姿に『やっぱり有咲っぽいなぁ』とますます沙綾は感じて思わず頬が綻ぶ。アリサは面白くなさそうな顔をして、ツインテールを靡かせながらそっぽを向いた。……ほんと有咲っぽいなぁ、この子。

「えっと……その、サアヤちゃん?」

 そんな2人のやり取りを黙って眺めていたカスミがおずおずと声を出す。

「うん、なに……えーっと、カスミちゃん?」

「あの、その……」

「…………」

 返事をすると、カスミはおっかなびっくりという様子で視線をあちらこちらに彷徨わせ、何か言葉を探しているようだった。沙綾はそれを黙ったまま見守る。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:47:43.77 ID:YWfCY9A20

「そ、その……あのね?」

「うん」

「あの……サアヤちゃんはこれからどうするの……?」

「これから……あーそっか、こっちの世界の私になっちゃってるんだもんね」

「う、うん……」

「うーん、学校とかサボっちゃったら元に戻った時に苦労するだろうし……しばらくはこっちの私がしてたように生活するしかない、かなぁ」

「……その、平気? 沙綾ちゃん、お店の手伝いに弟たちの送り迎え、定時制の学校に通って、ポピパの練習とかもしてるけど……」

「多分平気……だけど、ちょっとお願いしてもいいかな?」

「え、な、なにを?」

「こっちの私がやってることは大体私もやってるんだけどさ、どの時間にどのことをやってたとか、そういうの。分かる範囲でいいから教えてくれないかな?」

「う、うん、それくらいなら……!」

「ありがと、カスミちゃん」

「ううん、これも沙綾ちゃんと……えっと、サアヤちゃんの為だから、頑張って教えるね?」

 そう言って、カスミは優しく微笑む。……カスミちゃんは香澄と随分違うんだなぁ、きっとこれ以上のギャップはないでしょう、なんて沙綾はぼんやりと考えた。

21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:48:22.77 ID:YWfCY9A20


 なんて、つい一時間前に考えたことを、アリサの蔵に連れてこられた沙綾はあっけなく打ち砕かれた。

「ほうほうほう。つまり変わり身のジュツ、ということだな。サスガ獅子メタル殿。やることが一味違う。うちのニンジュツ・カワリックマよりも高度なジュツだ」

「え、あの、えっと……沙綾センパイがサアヤセンパイってことは……え、じゃあつまり見知らぬ人と同義ってことっすか……?」

「…………」

 目の前で興味深そうな顔をして沙綾の顔を覗き込む人物。ピンクの髪留めで小さくサイドポニーを作った、何故か裸足で何故か忍者みたいに両手で印を結ぶ背の小さな女の子。

 それとどうしてか怯えるように沙綾から距離を取り、カスミの背に隠れるようにビクビクしている、手足がスラリとしていて長い髪が綺麗な女の子。

「え、本当にりみりんとおたえ……?」

 前者が牛込りみで、後者が花園たえ……と説明された沙綾はそう呟くことしかできなかった。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:49:26.63 ID:YWfCY9A20

「だからそう言ったじゃない。そっちの裸足の貧乏エセニンジャがりみで、かすみんの背中に隠れてるコミュ障がおたえ」

「クラベン系女子が人を指してコミュ障などど言うとはコッケイであるな。ぷ、ぷ」

「うっさい。ほら、おたえもいい加減、かすみんを隠れ蓑にしない」

「む、む、無理っす! いきなりそんな、沙綾センパイの中身が入れ変わっちゃったって……自分、不器用なんで!」

「あ、あの、たえちゃん……そんなにギュって掴まれると洋服に皺が……」

「ああっ! ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 アリサに真っ向から向かって憎まれ口を叩くリミ。カスミの背中から一向に出てくる気配がなく、謝ってばかりのタエ。

「……ええ?」

 困惑した声を上げながら、はっきりと沙綾は実感した。ここは自分の知っている世界ではないんだ、と。今さら感じたそれにやや焦りが募る。

「サアヤちゃん、大丈夫……? 顔色がちょっと……」

「あ、う、ううん、大丈夫だよ」

「……やっと実感が出てきたのかしらね」

「まぁ……うん、そんな感じ?」

 やれやれ、と言った様子でアリサは肩をすくめる。しかしその表情にはどこか安心したような色が含まれていた。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:51:09.71 ID:YWfCY9A20

「どうしたベンケー殿。いつにも増して変な顔になっているぞ」

「どういう意味よそれ」

「そのままの意味である」

「そ、う、で、す、かっ。それは悪かったわねっ」リミに対してわざとらしい口調でそう言ってから、アリサは沙綾に向き直る。「その、あたしが安心したのはね、あんたがどこかおかしくなってたりしないかちょっと心配だったから。別に変な意味はないわよ」

「あ、うん……」

「あっ、でも心配って言ったってあんたの為だけの心配じゃないからね? もしもおかしくなっててあたしたちに危害を加えようとしたりしたら、っていう心配もあったんだから」

「……これがツンデレってやつっすね」

「何か言った?」

 まくし立てる様に言い訳がましいことを放ったアリサに、タエがぽつりと言葉を漏らす。そしてキッと金髪ツインテールに睨まれたタエは、さらにカスミの背に縮こまって隠れてしまった。その様子に、沙綾は少し強張っていた身体から力が抜けた。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:51:48.01 ID:YWfCY9A20

「ベンケー殿のツンデレニズムはさておき、要するに、獅子メタル殿は獅子メタル殿として獅子メタル殿の生活を送るということだな」

「えっと……ややこしいけど、そういうことなのかな?」

「ふむ……」カスミの同意を得て、リミは少し思案顔になってから再び口を開く。「実はな、獅子メタル殿……あいや、ここは何か別の名前で呼んだ方がいいかもしらん。獅子メタル殿はあちらの世界での趣味はなんだったのだ?」

「趣味……ヘアアクセ集め、カラオケ、野球観戦、かなぁ?」

 リミに――目の前の女の子をりみりんだと思うのに非常に大きな抵抗があるのだが、それは置いておいて――尋ねられ、沙綾はそう答える。

「ほうほう。野球がお好きと。結構。では当然贔屓球団は関西の球団ということに……」

「え、いや、別にどこが好きとかはない、かなぁ。弟が好きで、その付き添いでテレビ見たり球場に行くってことが多いし……強いて言うならウチから一番近い神宮の球団かな」

「なんでやねん! はーもうアカンわ。いつになったら大阪の球団のファンは増えるねん」

「……大阪の方なんだ」

「当たり前や。関西人がみんな甲子園球場に憧れ抱くと思うとったら大間違いや。本拠地かてなぁ、『いつ見てもガラガラやー』なんて心無い人が言いよるけどなぁ、縦縞の試合やなくとも年に三、四回くらいは……あとはオールスターでもやれば満員になんねん! 立地もええし!」

「…………」

 先ほどの古風な喋り方と一転、隠すことのない早口の関西弁を浴びせられて、ますます沙綾の中のりみりんとリミの印象が離れていく。凄まじいばかりのギャップに眩暈さえしそうだった。
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:52:44.43 ID:YWfCY9A20

「……あんた、何の話してんのよ」

「む、すまぬ。つい」アリサに呆れ半分のツッコミを入れられ、リミは元の口調に戻る。「ヘアアクセ集めが趣味……ポニーテールにシュシュ……ではシュシュ殿だな」

「あ、うん」

「それでシュシュ殿。……何の話やっけ?」

「それは私が聞きたいかなぁ……」

「え、えっと、サアヤちゃんは沙綾ちゃんとして生活をするって話だったんじゃないかな……」

 とカスミから遠慮がちな声を送られて、リミはポンと一つ手を打つ。

「そうだそうだ。流石師匠、頼りになる」

「そ、そう? えへへ」

「それで、シュシュ殿」

「う、うん」

「何を隠そう獅子メタル殿はな、毎回うちの為にヤマブキパンのパンを持ってきてくれていたのだ」

「……そうなの?」と、沙綾はリミではなくアリサに尋ねる。

「待て。どうしてうちではなくベンケー殿に聞く」

「持ってきてくれることはあるけど毎回じゃないわよ。あとりみだけの為でもないわね」

「うん、分かった。それじゃあ、たまに持ってくるね?」

「……ならばよし!」

 対応にやや文句ありげなリミだったが、沙綾の言葉を聞いて満足そうに頷く。……なんだろう、この子。おたえとモカを足して二乗したくらい変わった子だ。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:53:39.72 ID:YWfCY9A20

「あ、あの……」

 リミに対してそんな印象を抱いていると、まだカスミの背に隠れたままのタエがおずおずと沙綾に声をかけた。

「どうしたの、えっと、タエ……ちゃん?」

 この子もおたえと絶対に印象が重ならないな、と思いつつ、驚かせないように意識して優しい声で言葉を返す。

「は、はい。その、サアヤセンパイさんって、バンドはやっていたんですよね?」

「うん。今はポピパで、あとは昔にチスパってバンドでドラムやってるよ」

「……そこも沙綾ちゃんと一緒なんだ」

「っすね」

「それがどうかした?」

「あ、いえ、自分たちもバンドやってますから……その、曲とかってどうなんすか? やっぱり自分たちとは全然違う曲ばっかりやってるんすかね……?」

「……そうね。そこもちょっと考えないとね」タエの言葉を受けて、アリサが頷く。「えーっと、スコアは……あった。はい、サアヤ。私たちがやってるオリジナル曲だけど、見覚えはある?」

 手渡されたスコアのタイトルに目を通す。『Yes!BanG_Dream!』、『STAR BEAT! 〜ホシノコドウ〜』(そのタイトルの上に『小心者のテーマ』という文字が二重線で消されていた)、『ティアドロップス』、『トゥインクル・スターダスト』、『ぽっぴん’しゃっふる』、『夏空 SUN!SUN!SEVEN!』、『走り始めたばかりのキミに』……
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:54:29.83 ID:YWfCY9A20

「……うん、『トゥインクル・スターダスト』以外はポピパで叩いた曲だね」

「え……わたしの最初の歌……」とどこかショックを受けた風なカスミを横目に、タエが安心したようにホッと息を吐き出す。

「それならよかったっす。実は来月辺りにライブをしようって話になってて……まだ先のことで色々未定なんすけど、練習が出来ないと不安で……あっ、いやっ、すいません! サアヤセンパイさんはそんな場合じゃないですよね!? ごめんなさい、軽はずみなこと言ってスミマセン!」

「う、ううん、大丈夫だよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 見ているこちらが恐縮するくらいに縮こまって謝るタエを前に、沙綾はぼんやりと『麻弥さんを弱気にしたみたいな子だなぁ』なんて思った。

「あとはかすみんが今新曲を作ってて……って、まぁライブのことは今はどうでもいいわね。とにかく、サアヤ」

「うん」

「いつ戻れるか……いや、そもそも本当に戻れるかなんて分かんないけど、とにかくこっちの沙綾のことをあたしたちが知ってる範囲で教えるわね」

「分かった。よろしくお願いします」

 本当に戻れるか分かんないけど。その言葉が少しだけ心に引っかかるけれど、今そんなことを気にしていても仕方がないだろう。

 もしかしたら今日眠って明日目覚めれば元の世界に戻っているかもしれないし、明日じゃなくたってふとした時に戻れるのかもしれない。今はそう考えていた方がいい。

 自分の知っているPoppin'Partyの面々とは幾分か(約二名はとても大きく)違った女の子たちから話を聞きつつ、沙綾はそんなことを考えるのだった。

28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:56:03.10 ID:YWfCY9A20


「朝はパンの仕込み、それから三つ子の弟を幼稚園に送って、ウチの手伝い……」

 この世界の山吹沙綾のことを教えてもらった夜。沙綾は自室でスマートフォンのToDoリストを眺めながら、自分ではない自分の一日の予定を確認していた。

 大体のやることはいつもの自分とさほど変わらない。けれど、大きく変わっている状況はあった。

 店番なんて一切出来ない幼い三つ子の弟。定時制の花咲川高校に通うこと。そしてなにより……

(母さん、いないんだ……)

 この世界のPoppin'Partyのみんなに聞いた話の中で、一番衝撃が大きかったのがそのことだった。

 さらに、Poppin'Partyの前のバンド――カスミちゃんたちは名前を知らないみたいだけど、私で言うチスパにあたるバンドだろう――で参加したコンクール。その決勝戦の時に、父が倒れて、サアヤはドラムを叩けなかった。

「…………」

 その時の彼女の心情を慮ると、深い悲しさと寂しさが心に影を落とす。

 既に母を病気で亡くしている。弟たちは店の手伝いどころか電話すら出来ないほど幼い。ライブだって地元のお祭りなんかじゃなくて、コンクールの決勝戦。そこで、家の唯一の柱である父親が倒れた。
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:56:31.46 ID:YWfCY9A20

「私なんかと比べ物になんないなぁ……」

 沙綾もサアヤと似たような境遇を経て、香澄たちに出会って、そして夢を分け合った。だけどそれは似ているだけで、境遇の重さから言えばサアヤの足元にも及ばないだろう。

 もしも私がまったく同じ状況になったら、と考えて、涙が零れそうだからすぐに止めた。

 病弱なのに台所に立って家事をやって、辛くてもそれを隠していつも優しく笑う母親。その存在を失うというだけで立ち直れるか分からないほどの傷を負うだろう。

 いつも明るくて優しいPoppin'Partyの親友たち。彼女たちがいればその傷にも耐えられて、乗り越えられるかもしれない。けど、一人だけ定時制に通うのであれば、心の拠り所になるその温かさに触れられるのは限られた時間だけになる。

 そんな中で、幼い弟たちの面倒を見て、無理が祟ってまたいつ倒れるとも分からない父親にお店を任せて、バンド活動をする。
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:57:00.34 ID:YWfCY9A20

「私には無理かも……」

 その決断に至るまでの詳しい経緯を沙綾は知らないけれど、もし自分がまったく同じ立場になったらバンド活動に精を出すことなんて出来そうにもない。この世界の山吹沙綾はきっとものすごく強い女の子なんだろう。

(でも、今は私がその“山吹沙綾”なんだから)

 突飛もない出来事だけど、家族も、香澄も有咲もりみりんもおたえも、何もかもが違う世界に来てしまったことは確かな現実だ。いつになるのか分からないけど、そもそもアリサの言う通り戻れるのかどうかなんて保証は一切ないけれど、いつか自分よりずっと強いであろうサアヤがこの世界に戻った時の為だ。泣きごとばかりを言って自分ではない自分に迷惑をかけるわけにはいかない。気合を入れなくちゃ。

「ちゃんとやることを覚えておかないと……」

 そう思い呟きながら、それでもそれがただの虚勢だと沙綾は自覚していた。

31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:57:43.85 ID:YWfCY9A20


 いくら願っていても明けない夜はない。見慣れない自室の奇妙な居心地の悪さに寝苦しい思いをしながらも、太陽は東の空から昇ってくる。

 昨日と同じようにスマートフォンのアラームに起こされた沙綾は、部屋の中を見回して、やっぱり自分が違う世界にいるんだということを否応なく突き付けられた。

「……はぁ」

 今日は、昨日のような変な夢は見なかった。もしかしたらその夢を見れていたら元の世界で目覚められただろうか。そんな栓のない思考がぐるりと頭を一巡りしたところで、ため息を吐き出す。

 アリサの言葉の通り、どうしてそうなってるかも分からない、フツーに考えたら有り得ない空想。けど、こうして見慣れない部屋でヤマブキサアヤになっている山吹沙綾がいるのは紛れもない現実だ。

 二十四時間前の私は割と呑気に事の次第を受け止めていた。だけどサアヤの境遇を聞いて、こうしてサアヤとして何ともない一日を過ごすんだ、と思うと心に重いものがのしかかってくる。

「……頑張らなくちゃ」

 それでも逃げるわけにはいかない。沙綾は深呼吸をして、空元気を身体中に巡らせる。

 まずやることは父さんとパンの仕込み。それから三つ子の弟たちを起こして、幼稚園へ送っていく。

「よしっ」

 やまぶきベーカリーではなくヤマブキパン。純と紗南ではなく陸くん、海くん、空くん。いや、弟にくん付けはおかしいか。

 夕飯や簡単な店の手伝いの時など、昨日はややぎこちない対応をして父さんに心配されたけど、今日はそんなことがないようにしなくちゃ。そう思って、沙綾は洗面所へ身支度をしに向かった。

32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:58:33.88 ID:YWfCY9A20


 見慣れない店で慣れたことをやって、見慣れない弟たちを見慣れない道を通って幼稚園へ送迎して、少し父親と違った父親にやたらと気遣われているうちに学校へ向かう時間になった。

 沙綾は慣れないブレザーに袖を通し、カスミたちに教えてもらった花咲川高校の自分の教室を目指して歩を進める。

 アリサの蔵への行き帰り、弟たちの送り迎えくらいでしか外の景色を見ていないけれど、花咲川の街並みはどれも自分が知っているものと微妙に違っていた。

 商店街で言えばやまぶきベーカリーの真向かいにあった羽沢珈琲店は床屋になっていて、はす向かいの北沢精肉店は八百屋さんに。花咲川女子学園への通学路に沿っていた花咲川はやや離れた場所に流れている。

 教えてもらった学校の住所を慣れないスマートフォンのマップアプリに打ち込んで、辺りをキョロキョロと見回しながら歩く。

 季節は秋の中頃。肌を撫でる風はめっきり冷たくなった。キンモクセイの香りもだんだん遠のいてきた。

 それらに郷愁的な気持ちが煽られる。元の世界でも似たような気持ちにはなっただろうけど、今この状況で感じるノスタルジーには無視できない不安や焦りの色が滲んでいるような気がした。どちらかというとホームシックと言うべきだろうか。

 不意に吹いた強めの横風にポニーテールが靡く。その髪を束ねているのも、あまり自分が付けない淡い緑をした水玉模様のリボンだった。
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 10:59:34.78 ID:YWfCY9A20

「……ここが花咲川高校」

 迷子のような気持ちで学校へたどり着く。そこもやっぱり自分が見慣れたものとは幾分か違うところだった。

 校庭で部活動に勤しむ生徒、または中庭に設けられたベンチでお喋りに花を咲かせる生徒たちを横目に、沙綾は昇降口へ向かう。そしてローファーから上履きに履き替えて、自分のであり、カスミとアリサとリミのであるという教室へたどり着く。窓際の最後尾。そこが昼間はカスミの席で、定時制のサアヤの座席だと聞いていた。

 そこへ鞄を置き、席に座る。それから改めて教室の中を見回す。

 人はまばらだった。定時制の授業は十七時半から開始で、今はその十五分前。この教室の席は三分の一ほどしか埋まっていない。流石にもう少しすれば人も増えそうだけど、この教室の空席が全て埋まることはなさそうだった。

 流石にカスミたちも定時制の授業がどんなものかは知らないみたいで、ただ授業が夕方に始まって、二十一時くらいに終わることだけを教えられた。……ということは、つまり。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:00:14.99 ID:YWfCY9A20

(ひとりぼっちなんだ……)

 言い方が悪いかもしれないけれど、そういうことだろう。人も少なくシンとした教室では、話し声も何もしない。窓の外の部活動に勤しむ生徒たちの声だけがやたらと大きく響いてくる。

 沙綾だけが誰にも話しかけられないという訳ではなく、教室のクラスメートたちは誰に話しかけるということもなかった。

 それもそうだろう。教室には高校生というには少し年齢の高そうな人もいた。何か訳を抱えているのか、ただずっとうつむいたまま席に座る人もいた。

 定時制の高校というものがどんなものなのか沙綾は見たことがないけれど、仕事をしていたり理由があって昼間に学校に来れない人が多いというのは分かっていた。和気あいあいとしている方が珍しいのかもしれない。

 そう思うからこそ、沙綾はサアヤに対する同情の念がどんどん強くなってしまう。

 秋の太陽はどんどん駆け足になっていく。今日の夕陽ももう稜線の彼方に沈みいこうかとしていた。

 斜陽どころか夜の帳が降りかけた街。普段とはまったく違う顔をした学校。頼りない蛍光灯の光に照らされる廊下。シンと静まり返った教室。そのどれを取ってみても、ただ寂しさを煽り立てるだけのものだ。

 この場所で、サアヤはひとりぼっちで授業を受けているんだ。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:00:53.82 ID:YWfCY9A20

「はぁ」

 本当に異世界に迷い込んでしまったんだ、という重たい現実が頭の中を埋めて、うなだれた拍子にため息がこぼれ落ちた。そこで自分の机に何かが書いてあるのに気付く。

 机上に置いた鞄を床に下ろして、まじまじとそれを見つめる。


 ――沙綾ちゃん、その、頑張ってね!


 何度か書き直したんだろうか。シャープペンシルで書かれたその文字の下にも、何か薄っすらと消えかけた文字の欠片が見て取れた。きっとカスミちゃんが書いたものなんだろう。

「……やっぱり香澄はどの世界でも香澄なんだな」

 私の知っている香澄は、いつでも明るくまっすぐで、見ているだけで元気を貰えるとても優しい女の子だ。この世界のカスミちゃんとはちょっと似てないかな、と思ったけど、そんなことはなかった。カスミちゃんも香澄と一緒で、こんな寂しい気持ちをやんわりと埋めてくれる。優しさを分け与えてくれる。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:01:38.90 ID:YWfCY9A20

 カスミちゃんとサアヤの出会いは、この机に書いたメッセージのやり取りだと聞いた。なら、きっとサアヤも私と同じように、優しいカスミちゃんのメッセージに大きく助けられたことだろう。

 姿は見えなくてもひとりぼっちじゃない。時間差はあるけど話し合える友達がいる。

 それだけで随分と心が軽くなった。


 ありがと。頑張るね。


 鞄の中からシャープペンシルを取り出して、カスミからのエールにお礼を返す。気付いたら授業開始の時間になっていた。教室の扉を開けて、先生が室内に入ってくる。

 やっぱり空席は半分も埋まっていなかった。その隙間を吹き抜ける寂しい風に身を切られそうだ。でも、カスミからのメッセージを見ればすぐに元気を貰える。

(サアヤに笑われないように、私も頑張らなくっちゃね)

 先の見えない空想じみた現実。この先どうなるかなんて誰にも分からないけど、とにかく今は目の前の出来ることをやっていこう。

 少しだけ明るくなった気持ちで、沙綾は黒板へと目を向けた。

37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:02:20.39 ID:YWfCY9A20

 3


「つまりそれは入れ替わりってことだな」

 と、自分の突拍子もない事情を真面目に聞いてくれた女の子は呟く。

「い、入れ替わり……?」

「ああ。ほんと、なんでそんなことになってんのか知んねーけど」

 ため息を吐きつつ、明るい髪色をしたツインテールの女の子――イチガヤアリサはぼやくように言う。

 ……山吹沙綾が奇妙な夢を見て目覚めると、そこは知らない部屋だった。スマートフォンも知らないものだし、大好きな“3”が部屋のどこにも見当たらないことに非常に困惑した。

 ただスマートフォンの中にはPoppin'Partyのみんなの名前が入っていたことに安堵して、こういう時に一番頼りになりそうな有咲に電話をしたのが一時間前のことだった。

 事情を話すと、最初は訝しがっていた有咲もすぐに親身になってくれて、すぐに沙綾の部屋まで駆けつけてくれた。ただ、沙綾の知っている有咲とはちょっと違ったアリサだったのには非常に驚いたけど。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:02:57.81 ID:YWfCY9A20

「えっと……じゃあつまり、私は違う世界の山吹沙綾になっちゃった、ってこと?」

「そういうこと」

「……どうして?」

「だから知らねーって。沙綾がこんな性質の悪い冗談言う訳ないし、考えられるのがそんな有り得ないことだけなんだって」

 とアリサは吐き捨てるように言う。自分の知っている有咲とはちょっと違っているけれど、でもなんだかんだ困ってる人を放っておけない優しい子なんだというのはちょっとの会話の中でも理解できた。きっとその態度も照れ隠しのようなものなんだろう。

「はー……そっかぁ……」

 そう思いつつ、沙綾は天井を仰ぐ。見知らぬ部屋で、見知らぬ姿になった友人がいて、鏡を見れば見知らぬ女の子が映る。この夢のような現実をどう受け止めればいいのか分からなかった。

「…………」

「あれ、アリサ……ちゃん、どうかした?」

 と、天井から視界を戻すと、何か迷うような顔で自分を見つめるアリサの姿が目に映った。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:03:29.52 ID:YWfCY9A20

「あーいや……その、サアヤ?」

「うん」

「あのな……とりあえず、これからどうするんだ?」

「どうする……うーん、戻り方が分からない以上、とりあえずこっちのサアヤちゃんとして生活するしかない……のかなぁ」

「……まぁ、やっぱそうなるよな」それからまた少し迷うような素振りをしてから、アリサは再び口を開く。「その、なんだ。困ったことがあれば何でも言ってくれ」

「え?」

「ほら、いきなりこんな有り得ない状況になって、色々と困るだろ? こういう時、香澄とおたえはあんま頼りになんねーだろうし、りみはりみでアタフタしちゃうだろうし……」

 ややそっぽを向きながら言われた言葉。それに沙綾は少し笑ってしまう。

「な、なんで笑うんだよ」

「あー、ごめん。なんていうか、アリサちゃんって可愛いなって」

「はぁ!? なんだよそれっ! ったく、どうしてどの沙綾も私に可愛いだとかなんだとか言うんだよ……」

「ふ、ふふ……」

 さらに顔を赤くしてブツブツと呟く姿に、とうとう沙綾は吹き出してしまう。そして昨日、有咲の蔵で話したたらればの話を思い出す。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:04:33.54 ID:YWfCY9A20

 たられば。もしも生まれ変われるならどうなりたいか。その話の中で、有咲が悩める香澄のために、心を鬼にして突き放したことを聞いた。

 どの世界でも有咲ちゃんは有咲ちゃんなんだ。口では色々言うけど、なんだかんだで友達想いの優しい女の子。

 見知らぬ世界の中で、見知らぬ女の子の中に見知ったものを見出せた。きっとたえちゃんもりみちゃんも、そして誰より優しい香澄ちゃんも、その面影があるはずだ。

「あーもう笑うな! とにかく、困ったことがあったらすぐ言えよな!」

「うん、頼りにするね」

「……本当にか?」

「え?」

「沙綾のことだからな……どうせどこへ行ったって自分を二の次にする性格だろうし」

「……あー」

 その言葉に思い当たる節が少しあって、沙綾は何とも言えない気持ちになる。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:05:00.43 ID:YWfCY9A20

 あれは七月のことだから、大体三ヵ月くらい前か。香澄ちゃんたちの初めてのライブを見て、バンドリカレーパンを作ったすぐあと。お父さんから「“お前”をもっと大切にしてほしい」と言われたこと。

 そして七夕の風に撫ぜられて香澄ちゃんと出会って、本当の本当に『友達』となった時。眩いばかりに夢を追いかける彼女に憧れて、とうとう私自身の夢も撃ち抜かれたこと。

 その二つを考えれば、確かにアリサの言うことはもっともだ。少しくらいの面倒ごとであれば自分の力だけでどうにかしようとするだろう。それを見透かされていることに嬉しいような、ちょっと悔しいような気持ちだ。

「まぁ、とにかく、今日が日曜で良かったよ」沙綾の反応を見て、アリサは『やっぱりか』と言いたげな表情になって言葉を続ける。「こっちの沙綾のことを教えるからさ、えーっと……そう、とりあえずウチの蔵に行こう」

「うん。ごめんね、アリサちゃん」

「いいって」

 ややぶっきらぼうに言って、アリサはフイと顔を背ける。分かりやすい照れ隠しにやっぱり沙綾はちょっと可笑しい気分になるのだった。

42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:05:54.80 ID:YWfCY9A20


 異世界は異世界。自分が知っている世界に似ていても、それは似ているだけであって完全に別物なんだ。

 アリサに導かれた蔵で、階段を上るのではなく下って行った見慣れない部屋で、この世界のPoppin'Partyのみんなと顔を合わせてからまた自室に帰ってきた沙綾は、ベッドに腰かけながら殊更強くそのことを実感していた。

 まず、カスミちゃん。

 私の知っている香澄ちゃんは、とっても優しくて、でも自分に自信がなくてちょっと引っ込み思案で、だけどギターを持てばキラキラした笑顔をしてステージで輝く素敵な女の子。

 だけど今日出会ったカスミちゃんは常時ランダムスターを装備しているような明るくて元気な女の子だった。でも私のことをすごく心配してくれる優しいところは変わっていなかった。

 次にリミちゃん。

 私の知っているりみちゃんは……いや、なんだろう。知ってるって言うほどあの子の強烈なキャラクターを理解できている気がしないんだけど、とにかく不思議で掴みどころがなくて、でもウチのパンを美味しいって言ってくれる可愛い女の子。

 しかし今日出会ったリミちゃんは、思わず連れて帰りたくなるような、ギターを持ってない香澄ちゃんを少し彷彿とさせる引っ込み思案な女の子だった。すごく可愛かった。

 それからタエちゃん。

 私の知っているたえちゃんは、後輩気質というか舎弟気質というか、何故かいつも語尾に『っす』とつけて私もセンパイ呼びするギターが上手で綺麗な女の子。

 けれども今日出会ったタエちゃんは、天然を煮詰めた感じの、ある意味りみちゃんよりも掴みどころがない、すっごく綺麗な女の子だった。話が全然噛み合わなかった。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:06:20.77 ID:YWfCY9A20

「…………」

 そして……と、家族構成のことについてうっかり考えてしまい、沙綾は瞳に涙が滲んできて、部屋の天井を見上げる。

 三つ子の男の子じゃなく、弟と妹が一人ずつ。もうそこまで手がかからなくて、むしろお店の手伝いまでしてくれる良い子たち。

 お父さんは変わらず私の知っているお父さんの面影を持って、その面影よりも幾分か優し気な雰囲気をしている。

 それで、その、最後に……。

「っ、うっ……」

 と、母のことを胸中に浮かべたところで、沙綾は堪えきれずに嗚咽と共に涙を落とした。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:06:50.48 ID:YWfCY9A20

 ……もう二度と会えないはずだった。もうずっと、記憶の中でしか優しい笑みも温かさも声も感じることが出来なくて、その思い出も薄れていってしまうだけのはずだった。

 だけど、何度頬をつねっても、目をこすっても、優しい記憶の中と変わらない姿の母がここにはあった。

 アリサの蔵で家族のことを教えてもらった沙綾だが、流石に出で立ちや雰囲気は全く別のものだろうと思っていた。事実、弟の純と妹の紗南は、似ているところが多少あれど陸、海、空とは別人であった。

 なのに、先ほどばったりと台所で出くわした母は沙綾の記憶の中の姿そのままで、だからこそ沙綾は涙を堪えるのに必死だった。

 毎日顔を合わせる娘がいきなり泣き出したら、母にいらない心配をかけるだろう。

 そう思って、母と死別したあの日からずっと培ってきた気丈な振る舞いでその場を切り抜けて、逃げるように自室へと駆け込んだ。

 それで、気を紛らわせるためにこの世界のポピパのことを考えていた……んだけど。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:07:28.15 ID:YWfCY9A20

「うう……っ、うああ……」

 一度考えてしまうと止まらなかった。もう二度と話すことも触れることも甘えることも出来ないと思っていた、母親の存在が手を伸ばせばすぐに届く場所にある。

 その事実に抱いた感情が嬉しさなのかなんなのか、沙綾には分からなかった。だけど、ただただ胸中に生まれた色の分からないその気持ちが涙を生み出し続ける。

 悲しい思い出と優しい思い出が交互に蘇って、それにまた心が揺さぶられる。嗚咽が漏れる。

 沙綾は手近にあった枕を手にして、それを抱きかかえるようにして顔を埋めて、どうにかその情けない泣き声をかき消そうとする。

 そうしてどれほど経ったろうか。

 色褪せた母との思い出が脳裏を三周くらいしたところで、ようやく荒く波打った感情の海も凪いでくれた。沙綾は一度深呼吸をして、強く抱きしめていた枕から顔を離す。

「……うわー」

 そしてぐしょぐしょに濡れてしまった無残な枕を見て、口から何とも言えない呟きが漏れた。こんなに泣いたのはいつ振りだろう、と考えて、割と最近だったことを思い出す。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:07:55.05 ID:YWfCY9A20

「はぁ……」

 意外と泣き虫な自分へ向けて呆れたようにため息を吐き出す。けれど、泣いたら泣いたで沙綾はなんだかスッキリとしていた。

 たらればの話。そんな世界にどうしてか迷い込んで、大切な友達に似た友達がいて、失ってしまった大事な存在がすぐ触れられる場所にある。

 それに考えなければいけないことは多々あるけれど、いずれどうにかなるだろう。そんな楽観的な思考さえ浮かんでくる。

(今の私に出来ることは……この世界の私のために、しっかりすることだけ……だもんね)

 そうだ。考えていたって仕方ない。私じゃない山吹沙綾がこの世界に帰って来た時のために、やるべきことをしっかりやらなければ。

 お母さんに会うたび会うたび泣きそうになってたら、いずれ元に戻った時にこっちの沙綾が苦労するだろうし、頑張らなくちゃ……と意気込んで、その思考に何故だかとても寂しい気持ちになった沙綾は少し首を傾げるのだった。

47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:08:33.64 ID:YWfCY9A20


 翌朝。

 いつもよりもやや遅い時間に起床した沙綾は身支度を整え、迎えに来てくれると言っていたアリサを待ってから家を出た。

 慣れないワンピースの制服に、あまり自分が買わない色のリボンで纏めたポニーテール。それがまだ東の空の低い場所にある太陽に照らされて、背の高い影を作る。

 午前八時前の見慣れた街にどこか似ている街並みは、沙綾にとって新鮮な印象を与えてきた。

 まるで上京したての子供のように辺りをキョロキョロうかがっていたせいか、たびたび隣を歩いて学校まで案内してくれるアリサに「転ぶなよー」とやる気のなさそうな注意をされつつ、この世界の山吹沙綾が通うという花咲川女子学園までたどり着く。

「……と、まぁ大体花咲川に沿って歩いて行けばこうやって学校に着くから」

「うん、分かった。案内してくれてありがとね、アリサちゃん」

「ん……」

 と、お礼を言われたアリサがどことなく居心地悪そうに目を逸らす。

「えっと、どうかした?」

「あーいや……なんかサアヤから『ちゃん』付けで呼ばれると変な気分って言うか……」

「……照れくさい?」

「だっ、誰もそうとは言ってねーだろっ」

「そっかー。ごめんね、アリサちゃん」

 そんな様子に沙綾は微笑ましい気持ちになって、思わず頬が緩む。

「あーもう、だから……」

 何か反論しかけたアリサだったが、小さく首を振ってそれを諦めたようだった。
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:09:44.89 ID:YWfCY9A20

「あ、おはよう、有咲ちゃんと……サアヤちゃん?」

 反応が一々可愛いなぁ、と沙綾が思っていると、後ろから控えめな声がかけられる。振り向けば、小さな背丈で少しだけ俯き加減なリミの姿があった。

「おはよー、りみ」

「おはよう、リミちゃん」

「う、うん……」

 リミは挨拶を返すと、チラリと沙綾に視線をやって、それがバッチリ合ってしまうとまた慌てたように地面に視線を落とした。

 昨日のアリサの蔵の時点で引っ込み思案な女の子だとは感じていた。きっと学校にいる時のクラベン系女子な有咲ちゃんってこんな風なんだろうな、とぼんやり沙綾は考える。

「私は違うクラスだから、あとはりみに案内してもらってくれな」

「そうなの?」

「そーだよ。香澄たちはみんな同じクラスで、私だけ違うクラス」

 アリサはどことなく面白くなさそうな顔でそう言う。本当は同じクラスが良かったんだ、と頭の片隅で考えながら、沙綾は自分の知っているPoppin'Partyのみんなのことを思い出す。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:10:13.76 ID:YWfCY9A20

 確か、香澄ちゃんと有咲ちゃんとりみちゃんは同じクラスで、加えて席も三人並んでいたと聞いていた。たえちゃんだけは違うクラスで、毎朝『今生さらば』みたいな別れの寸劇をするのをやめてくれ、と有咲ちゃんが一昨日に言っていたのも覚えている。

 その有咲ちゃんがこっちの世界だと違うクラスで逆の立場になっていることに、なんだか数奇な巡り合わせみたいなものを感じてしまう。もしも生まれ変われたら、なんてタワゴトを話し合った時に言っていたことが実現しているのが何とも皮肉というか、なんというか。

「じゃあ、その、私が案内するね……?」

 そんな思考の海に埋没していた意識が遠慮がちな小さな声で現実に戻ってくる。

「うん。お願いします、リミちゃん」

「は、はい、頑張りますっ……」

「……なんでそんなに緊張してるの?」

「え、えっと、その……」

 沙綾が尋ねると、リミは視線を逸らし、もじもじとしながら黙ってしまう。……昨日から薄々思っていたけど、やっぱり人見知りなんだろうか。香澄ちゃんみたいでかわいい。

「そんな深く考えないで、沙綾に接する感じでいいだろ。ほら、私も隣のクラスだし、そこまでは一緒だから」

「う、うん……ごめんね、サアヤちゃん」

「謝られることなんてされてないよ。こっちこそ面倒ごとに付き合わせてごめんね?」

「ううん……」

 チラリと上目遣いを送ってきて、またすぐに視線をそらしてしまう。そんなリミに庇護欲じみたものをくすぐられつつ、沙綾たちは教室を目指すのだった。

50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:11:06.15 ID:YWfCY9A20


 沙綾にとって、明るい教室で授業を受けるのは懐かしさと新鮮さが入り混じった体験だった。

 太陽の柔らかい光が差し込み、空席がある方が珍しい賑やかな教室。中学校まではこういう空間で自分も授業を受けていたことを、十年来の旧友に顔を合わせた心境で沙綾は思い出していた。

 常にキマッてる明るいカスミがいて、掴みどころがないタエがトンチンカンな受け答えをしたり、引っ込み思案なリミが緊張したような声で教科書を読んだり……。

 十六歳の人間であれば当たり前に享受できる日常。元の世界ではかなり無理をしなければもう手に掴めないと思っていた賑やかさ。それがなんとも眩しかった。

 ただこの明るい世界での授業にもいくつか問題があって、特に顕著だったのは授業内容だ。

 定時制と全日制では授業の数が違う。一日四コマしか授業がない定時に比べ、全日制の授業は一日六コマ。その分だけ授業内容は進んでいて、沙綾がまだ習っていないことが多くあった。

 授業中の暇な時に、丁寧な字で書かれたこっちの世界の沙綾のノートを見ていたけど、その内容はなかなか頭には入ってこない。

 これは苦労しそうだな、とため息混じりの苦笑を浮かべたところで、四時間目の授業が終わるチャイムの音が響いた。

 沙綾はカスミに手を引かれて、隣のクラスのアリサと合流して中庭へ向かう。

 秋の心地いい陽気。どこまでも晴れ渡った青空。生徒たちで賑わう中庭。その真っただ中で、ポッピンパーティーのみんなと食べるお昼ご飯。

 ただそれだけのことだった。

 世界中のどこにでもあるような何の変哲もない、高校生のお昼休みの一幕。

 だけどそれは沙綾にとってやっぱりどんなものにも勝る輝きを持っていて、胸の中に温かいものが広がっていく。

 それだけならよかったのだが、どうしてか同時に寂しさも感じてしまっていた。

 昨日の夜に感じたものと同質の寂寥。「これは一体何だろう?」と沙綾が考えているうちに昼休みも過ぎて、午後の授業も終わり、放課後になっていた。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:11:37.96 ID:YWfCY9A20

「学校どうだった、サーヤ?」

 そしてこの世界のPoppin'Partyのみんなと共に歩く帰り道で、沙綾はカスミにそう尋ねられた。

「どう……うーん、なんていうか新鮮だな、って感じ?」

「新鮮?」と沙綾の言葉を聞いたタエが首を傾げる。

「うん。私、元の世界だと定時制に通ってるんだ。だから明るい教室で授業受けたり、みんなとご飯食べたりっていうのがちょっと新鮮」

「夜に学校……ちょっと楽しそう」

「あはは、そんなにいいものじゃないよ。定時に通うのは私だけで……ひとりぼっちだし」

「そうなんだ。それはちょっと嫌だな。サアヤは大変だね」

「まぁ、ちょっと寂しくなる時もあるけど……もう慣れちゃったから平気だよ」

「…………」

 そうなんでもないように言った沙綾は、カスミとアリサとリミが何か意味深な視線を送ってきていることに気付く。
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:12:17.01 ID:YWfCY9A20

「あれ? 三人とも、どうかしたの?」

「いや、なんつーか……」

 アリサはちらりとリミへ視線を送る。

「うん……」

 それを受けたリミは遠慮がちに頷いて、

「……サーヤ! これから遊びに行こう!!」

 最後にカスミが抱き着かんばかりの勢いで沙綾の肩を掴み、そんな言葉をくれるのだった。

「え、え? どうしたの、そんな急に」

「だってだって、なんか嫌なんだもん!」

「何が?」

「サーヤがね、なんでもない顔で『寂しいけど平気』って言うの!」

「…………」

「だから一緒に寄り道しよっ!」
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:12:47.36 ID:YWfCY9A20

 あまりにもまっすぐな言葉が沙綾の胸に刺さる。それに返す言葉を失っていると、カスミは沙綾の手をギュッと握った。

「ちょ、ちょっと、カスミちゃん」

「あ、ごめん。痛かった?」

「ううん、そんなことはないけど……」

「じゃあ行こうよ!」

「えっと……」

「諦めろ、サアヤ」と、少し呆れ顔のアリサがポンと沙綾の肩に手を置く。「こうなったら香澄は止まんねーから」

「そ、そうなの?」

「うん……香澄ちゃん、とっても優しいから」

 リミも柔らかい微笑みを浮かべ、アリサの言葉に頷いていた。

「私、はぐみのとこのコロッケが食べたいな」

「いいね、おたえ! それじゃあまず、はぐん家だね! さぁ行こう、サーヤ!」

 タエと言葉を交わしたカスミに、沙綾は強く手を引かれる。

(……やっぱりカスミちゃんは香澄ちゃんなんだな)

 こちらの都合はお構いなしの、強引ともとれる優しさ。それに夢を撃ち抜かれた日のことを思い出し、沙綾は手を引かれるままに歩きだした。

54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:13:59.69 ID:YWfCY9A20

 4


 沙綾がその文字に気付いたのは、入れ替わってから一週間ほど過ぎたある日だった。

 相変わらずシンと冷えた空気が漂う定時制の教室。いつもの通りだな、と言えるくらいに慣れ始めてきたその空間の中で、沙綾はいつものように自分の席に着いた。

「……うん?」

 すると、机の真ん中に少し大きくメッセージが書かれているのが目に付く。


 ――ねえ、聞こえる?

 
 カスミちゃんからのメッセージかな、と思いながら沙綾がそれをまじまじ見つめるけど、可愛さの中に芯の強さを感じる文字は、どうにも彼女の文字には見えなかった。

 誰かの悪戯かな。もしかしたらリミちゃんやアリサちゃんが書いたのかもしれない。

 そう思ったから、沙綾は何も深く考えることなく、その隣に返事を書いた。


 うん、聞こえるよ。


 そこで先生が教室に入ってきたから、沙綾はそれきりその文字は気にせず、机の上に教科書を広げた。

55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:15:20.37 ID:YWfCY9A20



 沙綾がその異変に気付いたのは、入れ替わってから一週間ほど過ぎたある日だった。

 明るい学校にも、賑やかな教室にも、やまぶきベーカリーという響きにも慣れはじめたころ。花咲川に沿って歩き、学校までやってきて、だんだん顔を覚え始めたクラスメートと簡単な挨拶を交わして自分の席につく。それから机の上に目をやると、そこには何か文字が書き込まれていた。

 今は香澄ちゃんと同じ机を共有してるわけじゃないのに、誰かが悪戯でもしたのかな。

「……え?」

 しかしその落書きをジッと見つめると、それがとても見慣れた文字であることにすぐ気が付いた。

 猫が尻尾を丸めたような、少し丸っこい可愛い文字。それは、あの寂しい教室で何度も何度もやり取りをした、他でもない香澄の文字だった。

 もしかして、と沙綾の頭にはひとつの可能性が思い浮かぶ。

 フツーに考えたら有り得ないことだけど、ジョーシキではまったく通用しないことだけど、そんなことを言ったら今自分が置かれている状況の方がよっぽど非常識で作り物めいている。

 だから彼女は『困ったことがあったらすぐに相談してね』という見慣れた親友の文字の隣に、自分たちの始まりになった文字を書き込んだ。


 ねえ、聞こえる?

56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:15:57.71 ID:YWfCY9A20

 次の日の朝、沙綾はいつもよりも三十分早起きをして、慌ただしい足取りで学校に向かった。

 可能性としては限りなく低いし、もしかしなくても誰かが何の気もなしに書いたものかもしれない。でも、それにもしも返事が来ているのなら。

 昇降口で上履きに履き替えて、急く足をどうにか落ち着けながら、早歩きで教室にたどり着く。そしてこれまたバタバタとした足取りで、自分の机の上をバッと覗き込んだ。


 ――うん、聞こえるよ。


 昨日書いたメッセージ。その隣には、見慣れない几帳面な字が並んでいた。

 やっぱり、と沙綾は震えた息を吐き出す。それから急いでペンを取り出した。

 これもまったくの偶然で、昨日の放課後に誰かが書き込んだ悪戯かもしれない。それでも妙な確信があった。どうしてそう思えるのか、と聞かれれば、初めて香澄と沙綾がやり取りしたメッセージと同じだから。

 ペン先を机につける。何から書こうか。何を書けばいいだろうか。焦る思考が空回りしそうだったから、一度深呼吸をした。

 それから沙綾は、几帳面な字の隣にメッセージを書き始めた。

57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:16:39.34 ID:YWfCY9A20



 ――初めまして、どうぞよろしく……なんて言ってる場合じゃないか。見えてるんだよね? この字は香澄ちゃんのじゃないから、多分、もうひとりの私。もし全然違う人だったらごめんね。でも、私の考えてることが合ってるなら、あなたは入れ替わっちゃったもうひとりの山吹沙綾のはず。

 見えてるなら、合ってるなら、返事をください。


 机の上のメッセージに、なんとはなしに返事を書いた翌日だった。

 斜陽の校舎に登校して、人もまばらな廊下を歩き、さびしい教室の自分の席に向かうと、そんなメッセージが書き記されていた。

 沙綾は最初こそ悪戯か何かだと思った。

 けれど、自分が知ってるポピパのみんなと一緒で、こっちの世界のポピパのみんなもそんな趣味の悪い悪戯をするような女の子ではないことはもう十分に分かっていた。だから彼女たちの仕業ではないだろう。

 じゃあ、沙綾とポピパのメンバー以外に、この非現実的な入れ替わりを知っている人物って誰だろう。考えてみれば、すぐに当事者しかいないという答えにたどり着く。

 だから沙綾も、そのメッセージに応える。

58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:17:26.23 ID:YWfCY9A20



 ――うん、見えてる。それと、きっと合ってると思う。

 こっちの世界の私は、実家のパン屋がヤマブキパンで、三つ子の弟くんたちがいる。そっちの世界の私は、実家のパン屋がやまぶきベーカリーで、弟の純と妹の紗南がいる。


 やっぱりそうだったんだ。よかった……って言っていいのか分かんないけど、よかった。

 どうなってるのかは不明だけど、でも、どうしてか私とあなたの机は繋がってるみたいだね。香澄ちゃんとこうやってやり取りをしてた時みたいに。


 ――だね。こうやって尋ねるものおかしいけど、そっちで何か困ったことはない? あっ、こっちはこっちのポピパのみんなに助けてもらって、なんとかやってる。だから安心してね。


 ありがと。こっちも大丈夫だよ。こっちの香澄ちゃんたちがよくしてくれて……あ、でもごめんなさい。勉強だけはちょっと……定時制だから、やってる範囲が全然違くてさ。


 ――そんなことは気にしないで平気だよ。陸くん、海くん、空くんは元気だよ。元気いっぱいすぎて、ちょっと困るくらい。純と紗南はどう? ぐずったり、ワガママ言って迷惑かけてない?


 ウチの三つ子が迷惑かけちゃってて……ごめんね? 純くんと紗南ちゃんは大丈夫。すごくいい子だよ。お姉ちゃんの様子が変だって分かってるみたいで、さりげなく気を遣ってくれてる。ふたりとも元気にしてるよ。


 ――ううん、あれくらいの子なら、やんちゃで元気な方が可愛いし安心するよ。変な気を遣わせてごめんね。

 そっか、純と紗南が迷惑をかけてないならよかった。

59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:18:32.73 ID:YWfCY9A20

 一日一文のやり取り。昼間にメッセージを書けば、どういう理屈かは分からないけど、時空を超えたもうひとりの沙綾にそれが届き、返信がくる。

 その文通のおかげで、沙綾はもうひとりの自分もなんとかやっていることを知れた。入れ替わってしまった、なんていう信じがたい現実も自分の中で確かな輪郭を持った。

 それはそれでいいことだけど、それでもまだ目の前にはひとつの問題がどっしりと腰を据えている。


 どうやったら戻れるんだろうね?


 ――うーん……それは本当にどうすればいいのか分かんないや。とにかく、しばらくはこうしているしかないみたいだね。


 机の上に書かれたあちらの沙綾からのメッセージ。問題の解決に繋がりそうな糸口はまったく見つからない。だというのにどうしてか、沙綾はホッとしたというか、奇妙な安心を覚えてしまっていた。

 その気持ちの正体も掴めなくて、彼女はどこか落ち着かない気分になるのだった。

60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:19:13.97 ID:YWfCY9A20

 ◆

 あちらの世界の沙綾とやり取りが出来ることが分かってから過ごす、初めての日曜日。

 ヤマブキパンは俺に任せろ。お前はほら、あれだ、セイシュンしてこい! ……なんて妙に張り切った父親の言葉に送られて、沙綾はアリサの家を目指して歩いていた。

 今日の空にはいわし雲が泳いでいて、そよぐ風にも少し冷たさが感じられるようになってきた。十月ももう終わりに差し掛かっていて、気付けばこの世界の沙綾と入れ替わってからもうひと月が経とうとしている。

 その間に得た、この嘘みたいな現実を解決するための手がかりはゼロに等しい。

 それでもいつか絶対に戻れるはずだ、と胸中で呟いて、沙綾は歩を進める。

61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:19:48.56 ID:YWfCY9A20


「え、そ、それ本当なの!?」

 たどり着いたアリサの蔵。そこにPoppin'Partyの全員が集まり、各々が思い思いの場所に腰を下ろしてから、沙綾はこの一週間、こちらの世界の沙綾と机を通して連絡が取れていることを打ち明けた。

 それに一番に反応したのはカスミで、瞳をぱちくり瞬かせながら沙綾に詰め寄った。沙綾はちょっとびっくりしてのけぞる。

「はいはい、落ち着きなさいよ、あんたは」その首根っこをアリサが掴み、沙綾から距離を取らせる。

「あ、ご、ごめんね、サアヤちゃん」

「ううん。心配なのは分かるから平気だよ」

「う、うん……」

 カスミは照れくさそうに俯き、少し身体をよじらせる。突飛な反応をしてしまったことが恥ずかしいんだろうな、と思うと、そこまで心配されているこっちの沙綾が少しだけ羨ましくなる沙綾だった。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:20:38.34 ID:YWfCY9A20

「それで、シュシュ殿」

「あ、今日のパンはこれだよ。クリームデニッシュ」

「うちが言いたいのはそうではない、と言いたいところだけどそれはそれでシュシュ殿に失礼だろうからパンを貰うのはやぶさかではない。べ、別に期待してたわけじゃナインダカラネ!」

 はむ、と差し出されたデニッシュにかぶりついたリミを沙綾はどこか慈愛のこもった温かな目で見つめる。ここ最近、不器用に懐いてくる動物を餌付けしてる気分だった。

「それで?」とアリサに話の続きを促されて、「あ、うん」と沙綾は腹ペコのノラネコみたいなリミから視線を外す。

「机の上にね、メッセージがあったんだ。『ねえ、聞こえる?』って。みんなの中の誰かが書いたのかなって思って、『うん、聞こえるよ』って返したら、次の日に『もうひとりの山吹沙綾だよね』って返事が来て……」

 そうして交わしたメッセージの内容をアリサたちに伝える。どうしてかカスミは最初の『ねえ、聞こえる?』という言葉だけで泣きそうになっていて、話を聞くうちにどんどん涙が溜まっていくのが印象的だった。

「沙綾ちゃん……無事なんだね。よかったぁ」

 そしてここ一週間のやり取りを聞き終えたカスミは安堵の呟きとともに涙を一滴こぼす。
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:21:24.06 ID:YWfCY9A20

「よかったはよかったけど、あんまりよくないわね」

 それとは対照的に、アリサは憂鬱そうなため息を吐き出した。

「え! どうして?」

「本当にふたりが入れ替わってて、あっちでも沙綾が無事にやってるっていうのは確かによかったわよ。けど、解決の糸口はなーんも見つかってないのよ?」

「そうなんだよね……」と、アリサの言葉に頷く沙綾。

「まぁ、机を通してやり取りができるって分かったのはいいことに違いないけどね。……ていうか、それならかすみん」

「なに?」

「気付かなかったの? サアヤの机にメッセージが書き込まれてたってことは、かすみんの机にも同じものが書かれてたはずでしょう?」

「うーんと……」尋ねられたカスミはこめかみの辺りを両手で押さえて目をつむる。あ、ちょっと香澄っぽい、と沙綾は思った。「……書いてなかった、はず」

「ふーん……?」

 アリサはその答えを聞いて、顎に手を当てて考える。それからすぐに「おかしいわね」と呟いた。それからデニッシュを頬張っているリミ、相変わらずカスミの背に隠れて息を潜めているタエに目をやり、最後に沙綾に向き合った。

「嘘ついてるわけ……は、ないわよねぇ」

「うん……辻褄が合わないけど、嘘は言ってないよ」

「わたしも沙綾ちゃんの字なら見慣れてるから……見逃すことはないと思う」
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:22:02.10 ID:YWfCY9A20

「うーん」と三人は唸り、首を傾げる。それに対して、「あ、あの……」とタエが遠慮がちに手を上げた。

「どうしたのよ?」

「もしかして、っすけど……自分たちの放課後……つまり、サアヤセンパイの定時になる時だけ机と机が繋がるとか、そういう感じじゃないっすかね……?」

 カスミの背から恐る恐る顔を出して発言するタエ。それに沙綾とアリサは頷く。

「まぁそうとしか考えられないわよね」

「うん。どうなってるんだろうね、本当に……」

「す、すみません、自分の発言でなんか余計に頭をこんがらがせちゃって……すみませんすみません……」

 ぶんぶん頭を下げ始めたタエを「だ、大丈夫だよ」とカスミがなだめる。「そうだよ、大丈夫だよ」と沙綾も意識して優しい声を作ってなだめる。アリサはタエの反応に慣れているからか、さして気にした様子もなく、一応フォローのつもりで呟く。

「とにかく、沙綾と連絡を取れる手段があるっていうのは間違いなくいいことよね」

「う、うん! 沙綾ちゃんが無事だってキチンと分かったし! たえちゃんのおかげだね!」とカスミが続く。

「そうだね。何かあれば、時間はかかるけど意思疎通が出来るし、いつ書けばいいのかも分かったし」と沙綾も続く。

「はむはむはむ……」とリミはまだデニッシュを食べている。

「きょ、恐縮っす……」とフォローされたタエはますますカスミの背中で小さくなった。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:23:51.97 ID:YWfCY9A20

「それじゃあ、わたしがメッセージを書いても沙綾ちゃんに届けられるかな?」

「多分、ね。詳しい時間は分からないけど、放課後、定時の生徒が来るギリギリに書けば届くはずよ」

「それならわたし、沙綾ちゃんにメッセージ書く!」

 キュッと握りこぶしを作って、カスミは力強く立ち上がる。それに釣られて背中に隠れていたタエも立ち上がった。

「……まぁ、そうね。かすみんからのなら沙綾も喜ぶでしょうし、いいんじゃない?」

「うん! 頑張る!」

「……シュシュ殿」

「あ、おかわりあるよ」

「そうおいそれと、うちはパンになんて負けない!」

「今度はアップルデニッシュだよ」

「しかしそう出されてしまってはもったいないのもまたジジツ。頂こう……はぁ、ビミ〜♪」

 握りこぶしを作って使命感に燃えるカスミ、それを呆れたように見つめるアリサ、まだまだ沙綾に慣れないタエ、パンを美味しそうに頬張るリミ。

 そんなポッピンパーティーの面々を見て、なんだか色々と慣れてきたなぁ、なんて沙綾は思った。

66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:24:44.62 ID:YWfCY9A20


 その翌日、沙綾はいつものように定時制の教室へ足を運び、自分の席に腰を下ろす。そして、すぐに机の上に書かれたメッセージが目に付いた。

「……わー、すごいなぁ」

 間違いなくカスミの字だった。それ自体は別にいいんだけど、ただちょっと問題というか、気がかりなのは……

「机の左……三分の一が埋まってる……」

 窓際側の三分の一にこれでもかというほどメッセージが書き込まれていると、嫌でもそれが気になって集中力が削がれるというかなんというか。

 けどこれはカスミがこっちの世界の沙綾に宛てた大事なメッセージだ。努めてそれを気にせず、先生に見つかって何かをお小言を貰われないように、その上に教科書を広げた。

67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:25:53.45 ID:YWfCY9A20



 週末の空は生憎の曇天だった。

 分厚い雲が天をのっぺりと覆い、雨の気配こそないものの、太陽の光を深く閉ざした空は昼下がりだというのにどこか薄暗い。

「はぁ……」

 沙綾は自室の窓から曇り空を眺め、ため息をこぼした。胸の内には眼前の風景にもよく似た暗雲が垂れこめていて、この重たい吐息と一緒に少しくらい出て行ってくれないか、と思ったけどそんなことはまるで起きなかった。

「……はぁ」

 もう一度ため息を吐き出す。そして思うのは、机の上のメッセージのこと。

 入れ替わってしまったもうひとりの自分と連絡が取り合える。それは喜ばしいことであるし、この事態の解決の糸口になってくれるかもしれない。加えて自分ではない山吹沙綾が無事に山吹沙綾をやっているということも嬉しいこと……のはず。

 だけど、沙綾はカスミたちにこのことを打ち明けていなかった。

 どうしてそうしたのか、と聞かれれば、沙綾も首を傾げてしまう。こんなバカげたことを言ったって信じてもらえないと思っているのか、どうなのか。

 自分の本心が全然分からないけれど、それでも自身の胸中に募る気持ちの名前は罪悪感とか後ろめたさなどと呼ばれるものなのは分かる。

 その気持ちを晴らす方法も分かる。こちらの世界のカスミたちにもすぐに伝えればいい。あなたたちの知っている沙綾ちゃんは無事だよ、連絡を取り合うことが出来るんだよ、と。

 けれど、どうしてかそれが出来ない。

「なんでなんだろ……」

 あんなに優しくしてくれる彼女たちのことをまだ信用していないのか。それとも……それとも、なんだろう?

 何度も何度も繰り返した思考は、また同じ袋小路に入り込む。どうすればいいのか沙綾は分からなくなって、また重たいため息を吐き出した。

68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:26:41.18 ID:YWfCY9A20


 休みが終わると、空模様は打って変わって晴々としていた。

 色々な意味で憂鬱な月曜日を越えた火曜の朝。昨日と同じく麗らかで控えめな秋の陽光が降り注ぐ通学路を、沙綾は俯きがちに歩いて学校へ向かう。

 見慣れてきた商店街はまだ朝もやの中で眠っているみたいで、シンと静まり返っていた。スマートフォンの時計を見ればまだ七時ちょっと過ぎ。このまま歩いていけば、始業のチャイムが鳴る一時間前に学校に着いてしまう。

 沙綾がこれだけ早く学校へ向かうのには理由があった。それは入れ替わってしまったもうひとりの自分からのメッセージを確認するため、というもの。

 けれど、それにしたって……と沙綾は考える。

 別にいつ確認したっていいはずなんだ、机のメッセージは。人の机の上の落書きが気に障ったとか目に付いたとかで、誰かがそれを消すわけなんてない。ましてや、読んでる途中に消されることなんてない。それなのに人目を避けるように、朝早くのがらんどうの教室に向かうのは……。

 また入り込んでしまった袋小路。頭を振って、意識して早足に歩く。そんな風に、悶々とした悩みを踏み潰すような足取りでいると、思ったよりも早く学校に着いてしまった。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:27:33.81 ID:YWfCY9A20

 早朝の学校もまだ眠っているみたいだ。人気のない校門を通り抜け、昇降口に入って自分の教室を目指す。

 朝の光は眩いばかりだけど、それが余計に影の濃さを引き立たせる。こんな朝早くから電灯が灯っているわけないから、廊下の陽の当らない場所には闇が淀んでいた。

 それを知らんぷりして教室にたどり着くと、沙綾は足音を殺して、そっと自分の席に向かう。

 誰もいない教室で、何も悪いことはしていないはずなのに、それでも自分の背中を追いかけてくる後ろめたさは一体何だろう。

 気にしないようにして、自分の席に腰かける。それから机の上に目を落とした。

「あれ……これって……」

 そしてすぐに気付く。これは、この字は……そう、香澄ちゃんのものだ。

 食い入るように、机の左三分の一を埋めんとする文字に目を通す。

70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:28:52.32 ID:YWfCY9A20


 ――沙綾ちゃん、だよね? 見えてたら嬉しいな。ううん、見えてるよね。絶対に見えてるハズだよね。


 春のある日から始まった、机上の文通。時を超えてやり取りを交わしていた日々が沙綾の脳裏に蘇る。その思い出を噛みしめるように、彼女はメッセージを追っていく。


 ――こっちの沙綾ちゃんから「大丈夫」って聞いたけど、大丈夫? ちゃんとごはん食べてる? 何か大変なこととかない? もし何かあったら遠慮せずに言ってね! わたしたちに出来ることがあればなんでも頑張るよ!


 書いてある内容は、そんな風に沙綾を心の底から心配しているものだった。読み進めていくと、今読んだものと同じような言葉が何個も並んでいたり、ところどころに誤字脱字が見られる。

 それだけ熱心に書いてくれたんだな、と思うと、沙綾は少しだけ胸が温かくなった。


 ――沙綾ちゃんたちがちゃんと元通りに戻れる方法、わたしは全然役に立てないかもしれないけど、みんなで一生懸命考えるから! 無事に戻れたらライブだね! 頑張ろ!


 しかし、最後の方の激励のメッセージが、また沙綾の心に暗い影を落としてしまう。
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:29:31.47 ID:YWfCY9A20

 大切な親友からのメッセージ。嬉しいはずなのに、頼もしいはずなのに……どうして、こんなにも寂しい気持ちが胸の中に生まれるんだろうか。

 けれど、それを悟られないようにしなくちゃ、と沙綾は思う。それから香澄への返事を書こうと、足元に置いたバッグからペンを取り出して、机にペン先を当てる。

 何を書こう。何を書けば……香澄ちゃんは心配しないだろう。

 そしてそんなことを考えると、まるで机の上にくっついてしまったかのように、ペンは動かなくなった。

 そうしているうちにクラスメイトたちがどんどん登校してきて、教室が賑やかになっていく。

 気付けばリミの姿が近くにあり、「おはよう、サアヤちゃん」という控えめな挨拶を聞いて、「うん、おはよ」と沙綾は机の上にバッグを置きながら挨拶を返した。

72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:30:00.86 ID:YWfCY9A20



 ――心配してくれてありがとう。こっちも大丈夫。元気だよ。


 入れ替わってしまった沙綾からの返事は、そんな短いものだった。

 そのことを、定時制の授業が始まる前の校門で、沙綾のことを待っていたカスミから聞かされた。

「沙綾ちゃん……大丈夫って言ってくれたのは安心なんだけど……」

 あとに続いた言葉は歯切れが悪くすっきりしないもので、カスミは何かの違和感というか、気持ちのズレというか、そんな類のものを感じていそうだった。

 そのカスミとひとつふたつと言葉を交わしてから別れを告げて教室に入った沙綾は、自分の机の上のメッセージを眺める。

73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:31:17.86 ID:YWfCY9A20


 ――心配してくれてありがとう。こっちも大丈夫。元気だよ。


 机の左側を覆うメッセージのあとに、ポツンと記された言葉。ああ、確かにこれは心配になるな、と沙綾も思う。

 席に座って、自分ならどうだろうか、と考える。

 もしも私が香澄にこれだけ心配されたら、当然嬉しい。感謝もするし、安心もする。少なくともたった一言で返事を終わらせることはない。

 だけど、もしもの話だけど、何か悩みを抱えているとしたら……それも自分ひとりで解決しなければいけないような、後ろめたい使命感に急かされるような悩みを抱えていたとしたら、どうだろう。

「……絶対、こういう返事をするよね」

 自分の悩みなんていうつまらないものは、人に知られないように、誰にも心配や迷惑をかけないように、ひとりでどうにかしようとする。

 山吹沙綾のそういうところは、沙綾自身が一番よく分かっていた。何でもかんでもひとりで背負いこんで香澄に本気で怒られた文化祭の日とか、ポピパがバラバラになりかけて、何が正しいのか分からなくて自分の気持ちは引っ込めた日のこととか、その他にも日常の小さなことを考えれば枚挙に暇がない。

 もしかしなくても、きっともうひとりの沙綾は何か悩みを抱えているのだろう。それは分かるけど、悩みの正体は分からなかった。

(何か少しでも、悩みが分かるような言葉をくれればいいんだけど……)

 自分のことは棚に上げて、そう思いながら、沙綾はもうひとりの自分宛てのメッセージを考えた。

74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:32:12.17 ID:YWfCY9A20

 5


 沙綾は悩み続けていた。

 机のメッセージをカスミたちに話せないでいる。香澄からの心配のメッセージにもそっけない返事をしてしまった。そんな行動をしてしまっている自分の本心が分からない。

 どうしてこんなことをしてしまうんだろうか。暇さえあればその思考が頭に浮かび、沙綾の眉間に皺がよる。どれだけ考えても考えても、迷い込んでしまった複雑な迷路から抜け出せない。

 そんな沙綾をいつも心配してくれるのがカスミだった。

「サーヤ、大丈夫? なんだか暗い顔してるよ?」

 休み時間でも、お昼休みでも、下校中でも、アリサの蔵にいる時も、そうやって声をかけてくれる。何か不安があるなら、悩みがあるなら、一緒に考えさせてと気にかけてくれる。

 だけどその心配が余計に心のどこかに刺さって、沙綾は居たたまれない気持ちになっていた。

「……ううん、大丈夫。慣れないことが多いから、少し疲れてるのかも」

 毎度毎度そんな言葉を返しているけど、それが半分嘘だというのは伝わってしまっているのかもしれない。そう思うと、ますます彼女の心に差す影の色が濃くなる。ため息も頻度が増して、眉間の皺も深くなる。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:32:44.43 ID:YWfCY9A20

 それでもこちらの世界の沙綾としての日常は続いていくし、机のメッセージも続いていた。


 ――りみちゃんって、なんていうか動物みたいだよね。


 あー、確かに。パンあげた時とかすごい動物っぽい。


 そんな他愛のないメッセージには、沙綾も何も考えずに返事を書ける。だけど、


 ――こっちでも色々とさ、どうやったら戻れるっていうのは考えてるけど……やっぱり何も思い浮かばないんだ。そっちはどう?


 という、問題の解決に向かうための言葉には、沙綾はいつも迷ってしまう。

 このメッセージに何を返せばいいんだろう。カスミちゃんたちにはあなたのことを黙っているのに、私は何もやっていないのに、どんな言葉を書けばいいんだろう。

 胸の内でいろんな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分のことが分からなくなっていく。

 ……いっそのこと、何も書かないでいようか。

 ふと頭に持ち上がった思考に、どこか気持ちが楽になった。心が軽くなったような気がした。

 だから沙綾は、その日は何もメッセージを書かずにいようと思った。

76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:33:34.30 ID:YWfCY9A20



「今日も来ない……か」

 相変わらず頼りない蛍光灯の明かりに照らされた教室で、沙綾はぽそりと呟いた。

 机の上に目をやれば、そこには一週間前に自分が書いた文字が並んでいる。今日も、その隣に返事はやって来ていない。あちらの沙綾との連絡は、先週から途絶えたままだった。

 そのことをPoppin'Partyのみんなに伝えると、最初こそ「そういう日もある」というようなことを全員が言っていた。だけど返事がやって来ない日々が重なると、不安の色をだんだん顔に滲ませていった。

 唯一の連絡手段である机上のやり取り。入れ替わってしまった沙綾との繋がり。それがなくなってしまったのではないか、と思っているのだろう。

(でも……そういうわけじゃなさそうなんだよね)

 自分が書いたメッセージの隣。そこには何かを書こうとしたのか、ペンを机に押し当てたような跡が見受けられた。だから繋がり自体はまだあるんだと沙綾は思っていた。

 ではどうして未だに返信が来ないのか、と聞かれれば、それはきっと沙綾自身の問題のせいだ。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:34:26.64 ID:YWfCY9A20

「何か悩んでるんだと思うんだ」

 この前の日曜日、いつものようにアリサの蔵に集まったみんなに、沙綾はそう言った。

「どうして分かるのよ?」

「ちょっと前の私がそうだったから」

 怪訝そうなアリサに、苦笑いを浮かべながら返事をしたことを脳裏に呼び起こす。

「沙綾ちゃん、何に悩んでるのかな……」

「ごめん、それはちょっと……分からないんだ」

 目を伏せて、心の底から心配そうな小さい声で呟いたカスミに、申し訳ない気持ちで言葉を返したことも思い出す。

 入れ替わったもうひとりの自分が何を悩んでいるのか。メッセージが途絶えてから考えていたけど、まだ分からない。

 はぁ、と沙綾は小さく息を吐き出して、窓の外へ視線を移す。夜空は重たい鉛のような雲で覆われていた。

(私がこっちの沙綾だったら……どうだろうなぁ)

 そうしていると教師が教室に入ってきて、授業が始まる。現代文の教科書をパラパラとめくって指定されたページを開き、沙綾自身が書いたメッセージの上に置いた。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:34:59.52 ID:YWfCY9A20

 それから教師の声は聞き流しつつ、沙綾はぼんやりと思索に耽る。

 もしもの話、私がこちらの世界の沙綾だったら。前にも考えたことだ。

 私と同じで、こっちの沙綾は昔にポピパと別のバンドを組んでいた。けれど、トラブルが重なって、それも解散した。そして自分よりも家族を、実家の仕事のことを優先するようになった。そうしているうちにカスミちゃんたちと出会い、詳しい経緯は知らないけれど、またバンドをするようになった。

 私ならどうだろう。香澄たちと出会って、ポピパに入ったばかりの私なら。

 暗い校舎。ひとりの教室。他界した母。

 明るい校舎。にぎやかな教室。いつも優しく笑っている母。

 一度倒れたことがある、お店をひとりで切り盛りする父。まだ幼稚園に通う幼い弟たち。

 いつもしっかりしていて、家族をまとめてくれる父。幼いながら、お店の手伝いをしてくれる弟と妹。

 改めて考えてみると、やっぱり境遇の重たさが段違いだ。私がこっちの沙綾の境遇だったら……

「……戻りたくなくなる、かもね」

 呟いた言葉に込められた感情は、同情とか憐憫とかと呼ばれるもの。沙綾自身が元々いた世界だから、という贔屓目はあるかもしれないけれど、こちらかあちらかを選べ、なんて言われたら、沙綾はきっとあちらを選ぶだろう。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:36:01.28 ID:YWfCY9A20

 もしも私が同じ立場になってそう思ったら、眩しさと温かさ、それと大きな罪悪感に板挟みになってしまうだろう。多分だけど、入れ替わった沙綾も、程度の大小はあれどそう思ってしまって苦しんでいるんだ。

 これはまったくの憶測でしかないけれど、私も彼女も山吹沙綾だ。だから、きっと同じなんだ。

 メッセージが途絶えたのもそのせい。寒暖差の激しい感情に板挟みにされて、身動きが出来なくなって、どうしたらいいのか分からなくなったんだ。そして、「もしも入れ替わったら」なんていうおかしな現実から目を逸らした。

 そうすれば気持ちは少しだけ楽になる。……だけど、時間が過ぎるほど、影は知らない間に大きくなっていて、また彼女の心を襲うだろう。

 もしかしたら見当違いの失礼なことを考えているのかもしれない。けど、私ならそうなるから、きっとあちらの沙綾も同じようなことを考えるはずだ。

 私に何か出来ることはないだろうか。何かしてあげられることはないだろうか。どうしたら、どうすれば……。

 先ほどとは違うことに頭を悩ませる沙綾の耳を、現代文の教師の声がすり抜けていく。

 銀河鉄道が走る夜。ジョバンニとカムパネルラ。蠍の火の話。

 声から逃れるように窓の外へ視線を移す。夜空には変わらず暗雲が垂れ込めていて、北極星を見つけることは出来なかった。

80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:37:40.54 ID:YWfCY9A20

 6


 沙綾の頭の中は、日を追うごとにどろどろとした重たいものに侵食されていた。

 メッセージのやり取りをしなくなった。それは一時的に、身体の内側で中途半端に混ざったマーブル模様の感情を意識から外してくれた。

 けれど、その行動は、ついぞカスミたちに沙綾のことを隠し通したということに他ならなかった。

 私は今、自分のことを気にかけてくれる人たちを騙している。そして、入れ替わってしまって、それでも私として頑張ってくれているもうひとりの山吹沙綾のことを裏切り、果てには大切な親友さえも謀っているんだ。

 その事実が影になり、日に日に確かな輪郭を持って、沙綾の胸の中にふんぞり返る。

 お前は今、自分を心配してくれている人たちを騙しているんだ。自分として頑張ってくれている赤の他人を裏切り、苦労を押し付けているんだ。

 大切で特別な友達だと思っている人物にすら自分の本心を告げられず、戻る手立てを考えようともしていないんだ。

 淀んだ黒い影が内から心を殴りつける。耳を塞いだって、目を閉じたって逃げられない。その声は、その影は、何をしていたって消えることはなかった。

 明るい校舎。賑やかな教室。それと正反対な心が余計に浮き彫りにされる。
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:38:19.38 ID:YWfCY9A20

 学校では顔をしかめて俯くことが多くなった沙綾。そんな彼女の姿を見て、Poppin'Partyのみんなはいつも心配する声をかけた。

「大丈夫、サーヤ?」

「サアヤちゃん、なんだか辛そうだよ……? もし具合が悪いなら保健室に行く?」

「……サアヤ、暗い顔してる。お肉食べる? 美味しいものを食べればきっと元気が出るよ」

「あー……なんだ、ほら。何か心配なことがあるならいつだって言ってくれていいんだからな?」

 混じりっ気のない善意だった。入れ替わっただとかなんとかだとか、そういうことを抜きにした気遣いの言葉だった。

 だからこそ、それらが沙綾の心に深く突き刺さる。自身の中の影が嘲笑を浮かべ、より増長した姿になる。

 沙綾はどうしたらいいのか分からなかった。心を苛む優しさに、どう反応すればいいのかが分からなかった。

 やがて彼女はそれらにさえ耳を塞ぐようになった。

「大丈夫だよ。平気だよ」と呪文のように繰り返し、「家の手伝いがあるからさ、ごめんね」と足早に家路を辿る。

 ただ逃げているだけだということは沙綾にも分かっていた。だけど、そうする以外にどうしたらいいのか、彼女は答えを持ち合わせていなかった。
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:38:46.26 ID:YWfCY9A20

「サーヤ……」

 その背中を、カスミはいつも歯痒い思いで見送っていた。どうしたら沙綾は元気を出してくれるのか……考えても分からないから、とにかくたくさん声をかけようと思っていたけど、そうする度に彼女は無理な笑顔を浮かべる。

 自分がよく知る沙綾のように「私にも考えさせて!」と怒れば何か変わるだろうか。でも、さーやはさーやで、サーヤはサーヤだから……どうしたらいいんだろう。

 日の暮れた教室で、沙綾が出て行った扉から、彼女の机に目を移す。こういう時はいつも沙綾がアドバイスをくれたりしたけど、今は頼ることが出来ない。

 どうすればいいのかな、さーや。

 そう思いながら、カスミは沙綾の机に歩み寄っていった。

83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:39:52.85 ID:YWfCY9A20


 やまぶきベーカリーの仕事は、パンを陳列して、レジに立ってお客さんの相手をして……と、ヤマブキパンでのものと変わりなかった。むしろ、パンはほとんど父親が焼くし、小さな弟と妹も手伝ってくれるから、あちらにいた時よりもやることは少ない。

 ただ、沙綾にとって問題があるのは常連客の相手だった。

 商店街のおじさんやおばさんたちは、みんな沙綾に親し気に声をかけていく。「今日も綺麗だねぇ」なんてからかわれたり、「いつも頑張ってるねぇ」なんていう労いの言葉になら笑いながら応対できるけど、「バンドは順調かい?」だとか「香澄ちゃんたちは元気かい?」なんて聞かれてしまうと、どうにもぎこちない対応になってしまう。

「沙綾〜、なんだか元気なさげだねぇ?」

 今日も今日とて、常連らしいお客さんに話しかけられる。のんびりと間延びした口調が特徴的な、沙綾と同い年くらいのマイペースそうな可愛い女の子だった。

「あー、うん……ちょっと調子が悪くて」

 なんて答えたものか、と少しだけ考えてから、半分本当のことを返す。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:40:39.15 ID:YWfCY9A20

「無理しちゃダメだよ〜。あたしみたいに授業中も眠るくらいじゃないとー」

「……そう、だね」

 おふざけ半分の言葉。それにもなんて返せばいいか分からなかったから、中途半端な相づちを返してしまう。

「…………」そんな沙綾の顔をマジマジ見つめてから、「今日のおすすめはなにかなぁ」と女の子は何でもないように言う。

「今日はブラックバ――」

 それに少し助かったな、という気持ちで、口から出かかったのはヤマブキパン特有の名称。父が作り、名付けたブラックバード・メロンパン。優しい旋律に酵母が震える、とかなんとか。

「ぶらっくば?」

「う、ううん、なんでもないよ。えぇと、メロンパンだね」

「そっかぁ。じゃあメロンパン買ってこ〜」

 女の子は踊るようなふわりふわりとした足取りでメロンパンへ向かい、手にしたトレーにひょいと乗せる。それから店内をぐるっと時計回りに一周して、思い思いに他のパンもトレーへ乗せて沙綾の立つレジに戻ってきた。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:41:19.49 ID:YWfCY9A20

「おねがいしま〜す」

「はい、承ります」

 畏まった言葉を聞いて、少女は少しだけ首を傾げた。だけどすぐにポケットからお財布を取り出し、そして沙綾が合計の価格を言うより早く、お会計ぴったりの小銭をキャッシュトレイに入れた。

「えぇと、丁度で」この子は相当の常連さんなんだな、と思いながら、沙綾はパンを袋詰めして彼女に手渡した。

「ん、どもども。それじゃあ沙綾、お大事に〜」

「あ、うん……ありがと」

「んー。そんじゃね〜」

 間延びした声を残して、少女はやまぶきベーカリーを出て行く。その背中を見送って、沙綾は小さくため息をこぼした。また気を遣われたんだな、と思うと、名も知らない少女に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 ……あの子が本当に心配している山吹沙綾は私じゃない。ごめんなさい。余計な心配をさせてごめんなさい。

 それと一緒に、自身の内からふつふつと後ろ暗い感情が沸き起こるも自覚した。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:42:12.01 ID:YWfCY9A20

 ここで働いている間なら、入れ替わったこととか、心配してくれるみんなのこととか、そういうことを頭の隅に放って置けたのに。身体を動かしているだけで、何も考えずにいられたのに。なのに、また私は心配されて、こうも打ちのめされる。自分の影が大きくなって、どんどんその暗闇に飲み込まれていく。ああ、なんて嫌な人間なんだろう、私は。

 頭の中にどうしようもなく重たいものが渦巻く。それが大きな声で喚き散らして暴れまわるから、頭痛と眩暈がしてきた。胸の中にはどろりとした、嫌な熱を持つ塊が引っ付いて離れない。身体中が熱いのに、寒気がしてやけに喉が渇く。

 耐え切れなくなったから、目頭に右手を当てて、レジカウンターに左手をついてうなだれた。

 耳鳴りがする。頭の中をガンガンと叩かれる。胸の内を焼き尽くすような熱が這いまわる。

「おねえちゃんっ!?」

 少し舌ったらずな声が聞こえて、沙綾は顔だけをそちらに動かす。明滅を繰り返す視界には、驚いたような顔をして、それから慌てて駆け寄ってくる女の子の顔。

「だ、大丈夫!?」

「だい……じょう、ぶ」

 紗南ちゃん、だっけな……と他人事のように曖昧な思考を浮かべながら、うわ言のように返事をする。それを聞いて、紗南はくしゃりと泣きそうな顔になった。

「お、おかあさーんっ!」

 バタバタバタ……慌ただしい足音が遠ざかっていく。それが目の奥に響いて、沙綾は瞳を閉じた。

87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:43:42.26 ID:YWfCY9A20


 気が付くと、沙綾は自室のベッドで横になっていた。薄ぼんやりとした視界に茜色の陽光が見えて、それから傍らに視界を移すと、ベッドサイドに椅子を持ってきて、そこに腰かける母親がいた。

「38.5℃だって。完全に風邪引いてるわね」

 目が合うと、優しい笑みが綻ぶ。沙綾はそれに何も言えなかった。

「まったく……普段は私の心配ばっかりするのに、自分が倒れてたら説得力がなくなるわよ」

「…………」

 まだまだ思考は散らばったままで、自分がどうしてベッドに横になっているのか、母が柔らかい言葉をかけてくれるのか、理解が出来なかった……けど。

「沙綾、大丈夫?」

「……うん」

 ただ、その声が心に優しく響いてきて、沙綾は素直に頷いた。
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:44:35.52 ID:YWfCY9A20

「そう、よかった。もう、倒れるまで黙ってるなんて……誰に似たのかしらね」

「……たぶん、おかあさん」

「あら、そうかしら?」

 とぼけたような返事をして、それからくすくすと笑う。それがただ心地いい。

「お店の方は大丈夫だからね。お父さんがいるし、純と紗南も手伝ってるから」

「…………」

 その言葉にまた申し訳なさとか後ろめたさとかが生まれて、そういうものが心の水面に波紋を広げる。

「沙綾が気に病むことじゃないのよ」

 だけど、穏やかな声がそれをすぐに鎮めた。

「最近、ちょっとはわがままを言ってくれるようになったけど……やっぱり無理をしちゃうのね」

「…………」

「沙綾はまだ子供なんだから、もっと素直になっていいのに」

「…………」

「いつもありがとね」

「……ううん」

 緩く首を振る。その拍子に頭の内側がズキズキと痛んで、ようやく一番最初に言われた言葉の内容を理解した。

 そうだ。頭が痛くて、身体が熱くて、どうしようもなく気分が悪くて……どうやら私は熱を出して倒れたみたいだ。朦朧とした意識の中、お母さんに肩を貸してもらって、フラフラとこの部屋まで歩いたような記憶があった。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:45:12.66 ID:YWfCY9A20

「明日はお休みね。学校には私から連絡しておくから」

「うん……」

「ゆっくり休みなさい。早く治さないと、香澄ちゃんたちが心配するわよ」

「…………」それにはなんて返そうか迷ってから、「うん」ともう一度小さく頷く。

「食欲はある?」

「……少し」

「そう、よかった。それじゃあお母さん、お粥作ってくるわね。ちゃんと大人しく寝てるのよ。飲み物は枕元にあるから、喉が渇いたら飲みなさい」

 そう言って立ち上がる。それに何かを言わなきゃいけない気がして、沙綾は口を開きいて、「あ……」と乾いた喉から少し掠れた声を発する。

「うん? どうしたの?」

 優しい目が沙綾を見つめる。それに胸が詰まって、色々な言葉がぐるぐると胸中で巡り巡る。

「……ごめん」

 だけど口から出たのは、そんな謝罪だけだった。

「いいのよ、気にしないで」

「……でも、ごめん」

「もう、心配性っていうかなんていうか……本当に誰に似たのかしらね」

 少し呆れたような笑みを浮かべてから、くるりと背を向ける。そして遠ざかる母親の姿。

 熱に浮かされた頭では地に足のついた思考が出来ないから、自分が今何を考えて、何を思っているのかがきちんと把握できない。だけど、どうしてもこれだけは言わなくちゃいけない気がしたから、もう一度だけ沙綾は「ごめんなさい」と小さく呟いた。

90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:46:25.19 ID:YWfCY9A20



 その文字だけは見間違えるはずがなかった。

 始業前の定時制の教室。西の彼方に沈みゆく太陽の濃い色をした光が弱く射し込む教室の机の上。自分が書いたメッセージの左隣に並ぶ、ぴょんと跳ねるような文字。


 ――さーや? これ書いてるのって……さーや、だよね……?


 それはいつも色んな歌詞を書いてくれて、そして、ひとりで抱え込んでいた昔の私を引っ張ってくれた、香澄の文字だ。

 およそひと月振りに見る親友からのメッセージは、沙綾の胸を詰まらせるのに十分すぎる力を持っていた。にわかに視界が滲みそうになって、沙綾は一度キュッと目を強く閉じてから開く。そしてその文字に目を通す。


 ――やっぱり有咲の言う通りになってたんだ! 大丈夫? 元気にしてる? 怪我とかしてない? こっちは大丈夫だよ、みんないつも通りで……ううん、いつも通りじゃ、ないんだった。


 教師が教室に入ってくる。もどかしい気持ちを抑えながら、号令に従って立ち上がり、頭を下げる。それからスクワットの回数を競っているみたいに慌ただしい動きで椅子に座って、続きを読んでいく。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:46:54.73 ID:YWfCY9A20


 ――あのね、今、さーやが……さーやじゃない方のさーやがね、すごく落ち込んでて……いつも俯いてて、すごく難しい顔してて、「大丈夫?」って聞いても、辛そうな顔で「大丈夫」って言ってて……全然大丈夫じゃないのに、何も話してくれないの。

 でも、私も、有咲も、りみりんも、おたえも、どうしたらいいのか分からなくて……さーやみたいに接すればいいのかなって思うけど、でもさーやはさーやで、さーやはさーやじゃないから、それも違うって思って……放っておけないけど、どうすれば元気になってくれるか分からなくって……

 ごめんね。さーやも大変なのに、余計心配させるようなこと書いちゃった。

 さーやは無事……だよね? 色々やってるって書いてあるし、元気だよね? もしそれどころじゃなかったら本当にごめん。

 どうしたらいいのかな。何をしたらさーやは元気になるのかな。さーやが大変な時に聞くのは間違ってるって思うけど、どうしたらいいと思う……?

92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:48:00.84 ID:YWfCY9A20

 メッセージを最後まで読み終わって、沙綾は小さく息を吐き出した。そして胸中にふたつの思いが浮かぶ。

 ああ、やっぱりもうひとりの私は悩んでいたんだ。その悩みも、きっと私が思った通りのものなんだろう……というのがひとつ。

 やっぱり香澄は優しいな。私のことも、もうひとりの私のことも気にしてくれてる……というのがもうひとつ。

 それから香澄のメッセージをじっと見つめて、沙綾は思案に耽る。

 香澄の口振り(というより、筆振り?)からして、どうにももうひとりの私はメッセージのことをみんなに伝えていなかったようだ。それはどうしてなのか、と考えれば、その答えはこの前だしたものとぴったり重なる。明暗と寒暖の板挟みになってしまって、ポピパのみんなにメッセージのやり取りを伝えることすら出来なくなったんだろう。

 やっぱり同じなんだ、と沙綾は小さく呟く。

 入れ替わってしまった沙綾も、自分と同じ山吹沙綾。何でもかんでもひとりで抱える癖があって、自分の素直な気持ちを出せなくって、身動きが出来なくなってしまう面倒な性格をしているんだ。

 だとするなら……

(きっと、元気が出るきっかけも、勇気を出すきっかけも、私と同じなんだ)

 その結論に至った沙綾は、なおも考える。自分ならどうだろうか。もしもこちらの世界の沙綾から、あちらの世界の沙綾になってしまったら……何を気にして、どうしてもらえば嬉しくて、どうやったら勇気を出せるのか。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:48:43.36 ID:YWfCY9A20

「…………」

 大切な家族やかけがえのない友達の顔が脳裏をめぐる。けれど、その中でも特に強い光を放つ人たちがいた。それは香澄であり、たえであり、りみであり、有咲であった。

 ……そうだ。私の世界は、ポピパのみんなを中心にして回っている。もちろんチスパのみんなも大切な友達だし、モカや巴みたいな商店街の幼馴染たちも大切な存在だ。だけど、ポピパのみんなはその中でも特別だ。

 それならきっと、沙綾も同じ。大切な家族や友達の中でも、カスミちゃんたちが特別な存在であるはずだ。だから、香澄の声は届かなくても、カスミちゃんの声ならきっと届く。

 そして、私たちの中心には常に歌があった。バンドを通じて、音楽を通して、より深く分かりあって、たまにケンカもして、笑い合った。

「よし」

 沙綾は強く頷いて、ペンを手に取る。

 やるべきことは決まった。あとは……カスミちゃんたち次第だ。

 そう思って、香澄への返事を書き始めた。

94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:49:33.72 ID:YWfCY9A20


 休み時間が待ち遠しいのは久しぶりのことだった。

 抑揚の小さい数学教師の声をかき消すようなチャイムの音が聞こえて、授業を終わらせる号令を終えると、スマートフォンを持って沙綾は廊下に飛び出す。

 夜の帳が降りて、薄暗い蛍光灯の明かりに照らされる廊下は寒々としている。等間隔の明かりが点々と続く廊下の先には果てがないように思えて、ひとりぼっちな自分が浮き彫りにされているような気がした。途方のない寂しさを感じてしまう。

 だからこそ、沙綾は沙綾を放っておけない。

「……手が空いてればいいんだけど」

 電話帳からカスミの名前を呼び出してタップする。耳にスマートフォンを押し当てると、無機質な呼び出し音が響く。

 沙綾のスマートフォンを使って、こちらのPoppin'Partyに自分から連絡をするのは、アリサに電話をして以来だった。出てくれるかな、と少し不安になりながら、応答を待つ。

『も、もしもしっ』

 呼び出し音が三つ鳴り終わったところで、少し慌てたような声が聞こえた。それに少しほっとしながら口を開く。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:50:10.46 ID:YWfCY9A20

「ごめんね、忙しかった?」

『う、ううん、平気だよ。今、有咲ちゃんの蔵にみんなといて、ちょっとお話してたから……』

 電話越しのくぐもったカスミの声。その後ろから、何やらリミとアリサがいつもの言い合いをしているような騒がしい声が微かに聞こえる。言葉を断片的に拾うと、『獅子メタル殿とシュシュ殿はパンがある。しかしベンケー殿には何もない』とか『あんたの餌付けなんかしないわよ!』とか、それからタエの控えめな『あ、自分、きゅうり持ってきましょうか?』だとか。

「賑やかだね」

『うん。さっきまでは真面目な話、してたんだけど……』

「そっか」

 きっともうひとりの私のことだな、と思いながら、沙綾は扉の窓から教室を覗き込み、壁にかけられた時計を窺う。休み時間はあと五分ほどだった。みんなの賑やかな声をもう少し聞いていたい衝動に駆られるけれど、そんな暇はなさそうだ。

「あのね、単刀直入に話すけどさ」

『うん』

「香澄……カスミちゃんのことじゃなくて、私の世界の方の香澄から、メッセージが届いてたんだ」

『え、本当っ?』

「うん。香澄の字は見間違えるわけないから、絶対本物」

『そ、それで……どんなことが?』

 カスミの声に、沙綾は親友から届けられたメッセージをかいつまんで話す。サアヤがひとりで悩んでしまっていること、それをどうにかしたいと思っているけどどうにも出来ないこと、その悩みの内容が私には分かるということ。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:51:08.81 ID:YWfCY9A20

『そっか……沙綾ちゃん……』

 沙綾の話を聞き終えて、カスミは消え入りそうな呟きをポツリと落とす。きっと電話越しの顔には憂愁の影が差していることだろう。

『わたしたちに出来ることって、何かないかな』

 それから今度は強く芯の通った声がして、沙綾は温かい気持ちになる。ああ、やっぱり香澄はどこでも香澄だ。

「あるよ。カスミちゃんに……ポピパのみんなにしか出来ないこと」

 その気持ちのまま、静かな声を返す。電話の向こうでカスミは固唾を飲んでいるような雰囲気が伝わってきた。だから、沙綾は続けて言葉をかける。

「歌を……もう一度、歌を贈ってあげてほしいんだ。カスミちゃんたちのまっすぐな気持ちを、歌詞にして、言葉にして贈ってほしい」

 かたく閉ざされた最後のとびらを解き放つもの。それは音楽という魔法の鍵だ。

 例え時空を超えた世界に迷い込んだって、離れ離れになったって、それだけで大きな勇気を貰えるし、元気になれる。

『歌を……』

「私もね、香澄にそうやって勇気を貰ったんだ。だからもうひとりの私だって、カスミちゃんからの言葉で、音楽で、何でも出来るってくらいの元気を貰えるはずなんだ」

『そっか……そっか!』

 曇天から射し込む一条の光を見つけたように、カスミの声が弾む。

『分かった! わたし、頑張る! 沙綾ちゃんに元気を届けられるように!』

「うん」

 その元気いっぱいな声を聞いて、沙綾も少し元気を分けてもらえたような気がした。

 それからニ、三言、他愛のない言葉を交わし合ってから、沙綾は通話を切る。ふっと息を吐き出して、廊下の窓から夜空を見上げる。

 黒い空にはまだまだ雲の影が多いけれど、その隙間からは半分の月が顔を覗かせていた。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:52:14.47 ID:YWfCY9A20

 7


 サアヤにひとまずの問題解決の糸口を貰った香澄は、ずっと沙綾のための歌の歌詞を考え続けていた。

 どうすれば沙綾ちゃんにわたしたちの気持ちが伝わるのかな。どうすれば元気を出してもらえるのかな。

 有咲の蔵でみんなと話しながら考え続け、家に帰ってからも自分のベッドの上で夜中までうんうん考え続け、寝不足な目をこすりながら都営荒川線の路面電車に揺られつつもずっと考え続け、Poppin'Partyのみんなと一緒に通学路を歩みながらも唸り声をあげて考え続けていたけど、なかなかその答えにはたどり着けそうにない。

「うぅ〜ん……」

「……転ぶわよ、かすみん」

 俯きがちで、眉間に深刻な皺が刻み込まれた香澄を見兼ねて、とうとう有咲が声をかける。あまりにも深く考え込んでいたからみんななんとなく触れていなかったけど、このままだと何もないところでつまづくんじゃないかと心配で気が気じゃなかった。

「え?」

「いや、『え?』じゃなくて、そのまま歩いてると転ぶわよ」

「あ、う、うん……ごめんね?」

「かすみんセンパイ、昨日からずっと考えてるんすか、新曲のこと?」

「うん……でも、どんなことを書けばいいのか思い浮かばなくて」

 ため息と肩を落とす。サアヤちゃんにせっかくアドバイスを貰ったのに、早く沙綾ちゃんを助けてあげたいのに……という気持ちだけが空回っている。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:52:47.33 ID:YWfCY9A20

「師匠は考え過ぎなんだ。うちのようにしていれば、ビビっと、そのうち空から降りてくる」

「あんたが受信してるのは変な電波だけでしょ。かすみんにそんな電波はいらないわ。ボケナスはりみだけで十分よ」

「失敬な、うちはボケナスではない。……あっ!」

「なによ? 何かいいアイデアでも――」

「ナスの天ぷらが食べたくなった!」

「――浮かんだわけないわよね。はぁ……」

 ムッとして、それから口を開けてナスの天ぷらに想いを馳せるりみ。それを見て大仰なため息を吐き出す有咲。

「あの、かすみんセンパイ。自分が言うのもなんですけど、あんまり悩みこまないでくださいっす」

「うん……ありがとう、たえちゃん」

 そんな漫才を横目に、たえは香澄を気遣いながら、学校を目指して歩いていく。

99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:53:52.43 ID:YWfCY9A20


 りみとたえが今生の別れの寸劇をして、有咲がもはや無反応でそれをスルーして、それを傍目に相変わらずうんうん唸りながら自分の席へ腰かけた朝のひと時。

 ホームルームで気の抜けた先生の挨拶を聞いて、一時間目の英語の授業を受けたひと時。

 次の体育の時間で、バドミントンのラケットを手にぶら下げたまま、りみからのサーブをおでこで受け止めたひと時。

 その全部のひと時で、香澄は沙綾に届けるべき言葉を考え続けていた。

 だけどそうしていると、悩みすぎちゃダメだ、でも考えなきゃ何も浮かばないし、けど考えすぎると悩んじゃうし……なんていう風に、だんだんと思考が本筋から離れていってしまう。

 本当にどうしたらいいんだろ……と、三時間目の授業も上の空でいたら、現国の先生に注意された。「もう恋のスタンプカードは終わったぞ」と言われ、教室中から笑いが起きる。頬がかぁっと熱くなった。

 ――サイテーで、サイテーで、サイテーすぎる! と、いつかに浮かんだ思考が頭にもたげて、でも今は机の上には何も書かれていなくて、香澄は深いため息を吐き出した。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:54:33.09 ID:YWfCY9A20

「何よ、恋のスタンプカードって?」

 三時間目が終わると、隣の席の有咲が香澄の傍らに立って、相変わらずか細く揺れる声をかける。返事に困って、曖昧な照れ笑いを浮かべた。

「それはだな、ベンケー殿」その有咲の背後からにゅっとりみが顔を出す。「春の頃、師匠が一ヵ月も先の授業内容をヨチしていたことがあったのだ。ケハイのカンゼンなシャダンといいミライヨチといい、やはり師匠はすごいと改めて思ったぞ」

「あー……なんとなく分かった」

「ベンケー殿はヒキコモリであったが故に、四月の師匠をてんで知らないんだな。ひとりでピコピコをやってる間にあった、師匠の目覚ましい活躍を……」

「ピコピコってあんた、お母さんか」

 いつものように始まった漫才。香澄がそれに頓珍漢なツッコミを入れて有咲がため息を吐き出して……なんていうのがいつもの流れだけれど、今日の香澄はそれどころじゃなかった。有咲とりみから視線を外し、机の上を眺めながら、ずっと歌詞を考え続けていた。

 分かった! わたし、頑張る! 沙綾ちゃんに元気を届けられるように! ……なんて昨日サアヤに威勢よく言ったけれど、どうすればいいのかという答えはまだまだ出そうにない。声にならない唸り声ならここ半年分は口から出て行ったけど。
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage saga]:2019/05/25(土) 11:55:18.68 ID:YWfCY9A20

「……かすみん」

「…………」

「かすみん」

「…………」

「……かすみんっ」

「は、はい!?」

 と、そんな悩める香澄の耳元で、有咲は声を張り上げる。それは学校の外で話す時の声よりちょっと小さいものだったけれど、クラベン系女子の有咲にとってはお腹の底から吐き出した大声だった。

「え、えっと、どうしたの、有咲ちゃん?」

「どうしたの、はこっちのセリフ……ああいや、いいや。りみ、ちょっとおたえ連れてきて」

「ギョイ」

 有咲に言われ、風のようにシュタタタと駆けだして教室を出て行くりみ。それを見送ってから、

「えい」

 と、有咲は気合の一声とともに、香澄の眉間に人指し指を突き立てた。思った以上に柔らかい感触がした。香澄は香澄でびっくりして「わきゃっ」とちょっと変な声を上げてしまった。
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