一ノ瀬志希「ママの気持ちになるですよ」

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1 : ◆GO.FUkF2N6 [sage]:2018/12/03(月) 17:40:31.55 ID:HUwosoqio

ゆっくり投稿していきます。

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2 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:44:41.36 ID:HUwosoqi0

ショウノウ臭、ジャコウ臭、花香、ハッカ臭、エーテル臭、刺激臭、腐敗臭。

アームアって先生は「におい」ってたった3文字を、これだけ分類してたりする。

辞書をパラパラめくってみると、「匂い」と書けば好ましい香りのことを指し、「臭い」と書けば好ましくない香りのことを指す、なんて書かれてたり。
化粧品会社が加齢臭なんて新しい「におい」を発見してみたり。
どうやら人類が誕生してから付き合い続けている「におい」ってやつには、なかなかに奥が深いものらしい。
もしかしたら、あたしが大人になったときにはストレス臭、なんてのもあったりするのかも。

そんな取り留めのないことを思いついたのは、あたしの体を揺するものからにおいがしたからだ。


「起きなさい、志希」


このにおいのことは、もちろん知っている。
きれいで、優しくて、こわいときもあるけど、あたたかい。
どんな偉大な学者にだって分類できっこない、あたしの、居場所のにおいだ。

瞼を開けると、ママの優しい顔があたしを見つめていた。
そして……むむ。なにやらおいしそーな香りがする。
ハスハス。これは──。

「カレーライス」
 
正解、とママはおかしそうに笑う。

「さっき出来上がったばっかりよ。まったく、食い意地はっちゃって」

「カレーのにおいで起きたわけじゃないよ」

はいはい、とママは軽くあたしの頭を撫でたあと、カレーが置かれているテーブルの椅子に座った。
ほんとに違うのになー。
そんなことを考えながらあたしも椅子に座ろうとすると、テーブルの上にお皿がふたつしか置かれていないことに気づいた。

3 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:48:39.50 ID:HUwosoqi0
「パパは今日も帰ってこないの?」

 ママは困ったような表情をする。

「最近忙しいみたいだから、しばらくは難しそうね」

 さみしい、と悲しいにおいを発するママに、だいじょうぶだよと首を振って椅子に座る。

 パパがお家にいたのはもう1か月以上前のこと。
 今頃はたぶん、研究室でパンをかじりながら実験の結果でもまとめているんだろう。
 化学に非凡な才を持っているパパは、皺も目立たない年齢で大学の教授なんてやってて、毎日試験管や学生のレポートとにらめっこしている。
 そして。あたしもそんなパパの血を引き継いでいるみたい。

 ギフテッド。

 周りの子がヒーローごっこやかわいいお人形に夢中だったころ、あたしのおもちゃは化学式がびっしりと詰まった専門書だった。
 酸と塩基が交わって、塩と水にメルヘンチェンジするように。
 既知から未知が生まれるその在り方に、あたしの心は強く引き付けられたのだ。

「志希はすごいね」

 暇つぶしに解いた院試の答案用紙を見せると、ママは大げさに喜んであたしの頭を撫でてくれた。

 ママはあたしやダッドのように化学に精通しているわけでも、IQが180以上ある天才でもない。
 ぶらぼー、と騒がれるようなギフテッドなんてなにひとつ持たない、どこにでもいる普通の女の人だった。
 あたしが書いている化学反応式の構造なんて、きっと半分も理解できていなかったと思う。

 それでも、ママはにこにこと笑ってあたしの話を聞いてくれて。
 そんなママのおひざで眠るのが、あたしの日常だった。
4 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:50:19.70 ID:HUwosoqi0
「ママ! あたしも大人になったら、ママみたいなおかあさんになれるかな?」

 ごはんを食べ終わったあと、ママのお膝に飛び乗ってそんなことを聞いてみた。
 そうね、と顎に手を当て目を斜め上に向けながら、しばらく考え込んだあと、

「わからないわ」
 
 やっぱり柔らかい笑顔でそう言った。

「賢い子だからパパみたいな学者さんになってるかもしれないし、こんなにかわいいんだもの。売れっ子のアイドルになって、モテモテになってるのかも!」

 いつものようにあたしの頭を撫でたあと、

「あなたには無限の可能性がある。どんなことだってきっとできる。だからね志希」

 ぎゅっとあたしの体を抱きしめて、囁くように言った。

「自分の好きなこと、やりたいこと、自由に楽しく生きなさい。そんなあなたを理解してくれる人はきっといるはずだから、ね」
5 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:57:11.87 ID:HUwosoqi0
 ✉
──おい、シキ
 なにかにゃ? あたし、まだ寝てたいんだけど。

──おい、起きろしき。
 まぁ、いいか。おやすみ。

「おい! 起きろってば、志希!」

 がくがくと体を揺さぶられる。
 にゃはは。
 どうしたのキミ、そんな呆れてるにおいなんか出しちゃって。
 それに……うん? なにやら知らないにおいが、彼の隣からひとつ。

 ハスハス。ふんふん。
 甘い香り。たぶん女の子、それも若い。もちろん人間のね、いちおー補足。
 でも、なにかに邪魔されてはっきりとその正体がつかめない。

 なんだろなんだろ。すごく気になる。
 好奇心が眠気を上回った。
 しょうがない、起きよっか。

6 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:58:30.29 ID:HUwosoqi0
 瞼を開けてみると、見慣れた呆れ顔がそこにあった。

「おはよ〜プロデューサー。はぶあないすでー」

「いま会ったばかりだろうが! ったく、レッスンさぼんなよ。怒られるのは俺なんだぞ」

「にゃはは。だいじょーぶだいじょーぶ。トレーナーちゃんもいい加減慣れてきてるっぽいしねー」

 ため息とともに呆れのにおいが濃くなった。
 彼とのやりとりは退屈しのぎにちょうどいい。でも、今のあたしの興味は彼の隣にポツンと立っている小さな生き物にある。
 視線を向けると、小さな体がビクッと跳ねた。

「その子はどーしたの? 誘拐でもしてきた?」

 人聞き悪いこと言うな! というツッコミを無視して対象物の観察をはじめる。

 
 ふむふむ。やっぱり見たことのない人間の女の子だ。
 身長は目測125から130センチ。推定5〜6歳。性別メス。パッツンと切られた前髪。ゆらゆらと揺れる大きな瞳。
 そして。

「ねえキミ、その格好暑くない?」

 気温40度を超したと騒ぎになってる今年の夏に、なぜか着ぐるみを着ている。
 かわいいうさぎの着ぐるみだ。
 はっきりとにおいがわからなかったのは、これのせいだったんだねー。
 見てるだけのどがカラカラになってくるけど、熱中症とか大丈夫かにゃ。

 ゴホンとわざとらしい咳払いが、あたしの思考を引き戻した。
7 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 17:59:41.56 ID:HUwosoqi0
「志希。お前に頼みたいことがある」

 なになにー、そんな真面目な顔しちゃって。
 志希ちゃん、いやーな予感がするんだけど。

「しばらくの間、この子の世話をしてもらいたい」

「……」

 ……。
 ふむ?

「なんだって?」

「いや、この子の面倒を見てほしんだけど」

「誰が?」

「志希が」

「レッスンの指導ってことかにゃ? 知ってると思うけど、あたしは教えるのとか苦手だよー」

8 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 18:01:44.76 ID:HUwosoqi0
 あたしは振り付けとか覚えても、すぐにてきとーにアレンジする。
 だって飽きちゃうから。
 大枠の構造を理解してしまったら、あとはそのときの気分の赴くままに身を任せてしまう。

 化学は理論を大切にするものじゃないのかって?
 
 そこのキミ! 奇跡の薬って言われているペニシリンだって、フレミングせんせーの不注意から産まれた偶然の産物だよ。
 実験なんてとりあえずやってみて、うまくいけばバンザイぐらいでオッケー。
 アイドルだっておんなじ。なんとなーくやっていけば、なんとなーく結果はついてくるものなのだ。
 なんて話をしてみたら、誰もがキミみたいにできるわけじゃないんだよこの天才娘め、ってアンニュイな息をつかれたけど。

「そうじゃない。いや、できればそれも頼みたいけどな」

 ポンポンとその子の頭を撫でて続ける。

「この子の母親が長期の出張に行くことになったらしくてな。アイドルになることを条件にそのあいだ預かると社長が約束したんだと」

 ふむふむ、もしかするとつまり。

「よーするにキミはその子のママが帰ってくるまで、一緒に暮らせって言ってるわけ?」

「そういうこと」

 いやいや、神妙そうな顔で頷いているとこ悪いけど、納得したわけじゃないよ。
9 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 18:03:12.71 ID:HUwosoqi0
「寮に入れれば?」

「空き部屋がないらしい」

「じゃあ、プロデューサーが──」

「さっき志希が言っただろ。誘拐だの騒がれたらめんどくさいことになる」

「他の子は? 響子ちゃんなんていいママになると思うけど」

「いま夏休みだろ。学校が休みで長期のロケを入れやすいから、みんな忙しくてな。志希はたまたま外泊ありのロケが入ってなかったからこうして頼んでるんだ」

 なるほど。とりあえず筋は通ってるように思える。
 あくまで表面上は。

「あたしの性格、知ってるでしょ。志希ちゃん、飽きたら失踪しちゃうかも〜」

 脅してるわけじゃない。
 レッスンだろうとお仕事だろうと、おもしろいにおいが鼻をかすめれば、そっちへ吸い込まれてしまう。
 猫のように気まぐれに生きていく、それが志希ちゃんなのだ。

 あたしの視線を受け止めていたプロデューサーが口を開きかけたとき、


「おねーさんは、仁奈と一緒にいるはいやでごぜーますか?」

 かぼそい声がそれを遮った。
10 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 18:04:40.85 ID:HUwosoqi0
「いやならいやと言ってくだせー。仁奈、迷惑だけはかけたくねーですから」

 不安そうに揺れる大きな瞳にあたしの姿が映っている。
 つんと鼻を刺激するものがあった。
 あたしの、苦手なにおいだ。

「別にいやじゃないよー。でもほんとにいいの? あたしの部屋、物が散らかってるし、料理とかロクにつくらないよ」

「大丈夫でごぜーます。仁奈、お掃除は得意ですし、コンビニ弁当にも慣れてるですよ!」

 いや、そんな得意げに胸を張られても。
 子どものうちからそんなのばっか食べてたらこわーい病気になっちゃうよ。あたしが言えたことじゃないけどさ。
 それはともかく、イロイロおもしろそうな子だし、退屈しのぎにはなるかもねー。

 それなら、まず聞かないといけないことがある。

11 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 18:05:37.17 ID:HUwosoqi0
「ねぇ、お名前教えてくれるかな」

 名前は識別するのに重要な記号だ。
 
 試験管にもモルモットにも、記録するうえでラベルを貼ったり名前をつけたりする。
 もちろん、この子を実験動物と同列に扱うつもりはないけどね。
 同じ家に暮らすわけだから、名前は知っておくに限るっていうだけ。

 自分を『にな』と呼んでいたその子は、ぐっと顎を引いて、緊張したように口元をもにょもにょしながら言った。


「仁奈……。市原仁奈でごぜーます」

「あたしは一ノ瀬志希だよー。よろしくねー、仁奈ちゃん」

 かくして。わたくし一ノ瀬志希と市原仁奈ちゃんの愉快な同棲生活が幕を開けたのでした。
 後半へ続く〜、なんちゃって。
12 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/03(月) 18:07:27.78 ID:HUwosoqi0

今日はここまで。
季節外れにも程があるお話ですが、もしよろしければお付き合いください。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/03(月) 20:07:23.16 ID:TlMj05eEO
乙期待
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/04(火) 12:49:13.42 ID:hrBGd07d0
しきにゃんて小さい子の面倒見よさそうだなーと妄想してたら両スレを発見
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/04(火) 14:24:01.32 ID:3oNFHR9uo
絶対エッチな意味だと思って開いたらいい意味で裏切られたですよ
16 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/04(火) 18:55:35.44 ID:KkkdUbN10
 ✉
 むかしむかし、そんなにむかしじゃないあるところに。
 ひとりの女の子とその子のママが住んでいました。
 ふたりはたいへん仲良しで、よく一緒にお昼寝をしたりしながら楽しく暮らしていました。

 ところがある日、ママは信号無視をした車にひかれてしまい病院に運ばれることに。
 女の子はお仕事をしているパパに来てもらうため、なんどもなんども電話をかけました。

 ぷるぷる。
 ぷるぷるぷる。
 ぷるぷるぷるぷる、がちゃ。

 何十回もかけなおしてようやくつながったその電話は、

「スマン! 研究が大詰めなんだ。今度遊んでやるから、またな!」

 要件も聞いてくれず、ぷつんと切られてしまいました。

 数日後、女の子のママは天国に旅立ちました。
 パパは、結局1度も来てくれませんでした。
17 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/04(火) 18:58:00.35 ID:KkkdUbN10
 女の子は日本の岩手県というところにある、ママのお父さんがお母さんが住む実家に引き取られました。
 おじいさんたちは、にこにこと笑って女の子に言います。

「かわいいんだからこれを着なさい」
「ママは志希の歳のころにはもっとしっかりしていたぞ」
「賢いんだからもっと勉強して偉い人になりなさい」
「お父さんみたいな人でなしになったらだめだぞ」

 ここでは女の子は、ギフテッドという単純な記号と、かわいいお人形さんでしかありませんでした。
 
 ガッコーでも彼女の言ってることを理解してくれる人なんていません。
 期待、嫉妬、畏怖、劣情。
 彼女の周りはいつしかそんなにおいばかりになって、だんだんと退屈するようになっていきました。

 そんなある日、授業をさぼってぶらぶらお散歩をしていると、ふてぶてしい顔をしたノラ猫がじっとこちらを見ていることに気づきました。
 その猫としばらくにらめっこをしていましたが、猫は飽きたように「にゃあ」と鳴いてあくびをすると、そのまま体を丸めて眠ってしまいました。

「……にゃはは」

 女の子もこんな風にあくびをしながら、お昼寝をしたくなりました。

 だから、アメリカに飛ぶことに決めました。パパが教授を勤めている、アメリカの大学に。
 彼や、女の子と同じギフテッドが集まる場所なら、退屈しなくてすむだろうと思ったからです。
18 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 18:59:42.61 ID:KkkdUbN10
 そんなこんなで大学に入学して、パパと同じ研究室に所属できるようになってから、彼の研究を手伝うようになりました。

 大学での生活はいままでと違って刺激的でした。
 日本にいたときと違って、女の子の言ってることを理解してくれるクラスメイトもいましたし、暇つぶしに遊べる知識のおもちゃもたくさん転がっていました。
 それに、ずっと離れ離れだったパパと研究室で寝泊まりできたりもして。
 はじめは充実していたのです。

 だけど。


「……もう私に話しかけないで」

「むむ。それはなんで? 理由を教えてくれないと──」

「うるさい!」

 パパの研究室のゼミ生だったその子は、女の子を睨んで言いました。


「あんたみたいなバケモノに、あたしの気持ちなんてわかるわけないでしょ!」

 
 結局、なにも変わりませんでした。

 未知はだんだん既知になって、どんどん退屈するようになっていって。
 女の子がなにかをやるたびに、次第に周りから人がいなくなるようになって。
 いつしか彼女の日常は、おなじみのにおいで充満するようになったのです。

19 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:02:52.98 ID:KkkdUbN10
 女の子はこれからどうすべきか、パパに相談してみることに決めました。

「ねぇ、パパ」

「志希見ろ! 実験が成功したぞ!!」

「あっ、おめでと〜。それとさ、ちょっと話したいことがあるんだけど」

「こうしちゃいられん! 早く論文にまとめなくては!! 志希、どうせ暇なんだろ。早く準備を──」

 彼は女の子のほうなんて見もせずに、興奮したようにキーボードを叩きながら命令しだしたのです。

 その姿を見て、女の子は──。



 飽きた。
 にゃはは。
 それからの女の子、あたしのいきさつはこんな感じ。

 大学を辞めて、日本に帰ってJKになって、いいにおいにつられてアイドルやることになって。
 そんで、フレちゃんや飛鳥ちゃんたちと遊ぶようになって。
 そしてなんと、小さな女の子と同棲することになりましたとさ!

 ちゃんちゃん。
 はい、このおはなしはおしまい。
20 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:14:26.04 ID:KkkdUbN10
 ✉
「お子さんとの生活はうまくいってるのかしら?」

 隣から声をかけられ、そちらに首を傾ける。
 話しかけてきたのは、やや濃い化粧をしていること以外、目立った特徴のない女性だ。
 ただ、ある一点。そこだけが彼女の存在感を引き立たせている。

「ねぇ、志希」

 筋の通った高い鼻の下で主張している、耳元まで裂けた口。

 そう、目の前にいる人物はあの都市伝説でお馴染みの、口裂け女なのであった!


「……人の顏を見てニヤニヤするの、やめてくれないかしら」

「にゃはは。ごめんごめん」

 綺麗です、と言おうか迷ったけどやめておこう。
 口裂け女、じゃなくて速水奏ちゃんの視線が冷たくなってきたしねー。

『世にも奇妙な妖怪に変装した一ノ瀬志希と速水奏。ふたりの妖怪はなにも知らないカリスマギャルこと城ケ崎美嘉に襲い掛かる! 果たして彼女のリアクション、もとい運命はいかに!』なんて手垢がつきまくったB級バラエティの収録が終わった化粧室。
 いまはメイクさんが奏ちゃんのメイクを落とす準備をしているのを待っているところ。
 美嘉ちゃんのリアクションはどうだったのかって?
 それはテレビを見てのお楽しみだよ。
21 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:17:09.30 ID:KkkdUbN10
「それで、仁奈ちゃんとはどう? 今日でちょうど1週間なんでしょう」

 さっき奏ちゃんが言ってたお子さんっていうのは、もちろん仁奈ちゃんのこと。
 同棲するって話をしたときに「シキちゃん、ママになるんだね! がんばって!」というフレちゃんからの心強い応援をされて以降、みんなおもしろがって、あたしをママ扱いしてくるようになった。
 あたし、まだピチピチのJKなんだけどねー。

「そうだよ、記念日ー。お風呂もいっしょに入ってるくらい仲良しだよ。だって親子だから〜」

「そのかわいいお子さんはいま、なにをしてるのかしら」

「ビジュアルのレッスン中じゃないかなー。ほら、あれでちょっとだけ顔見せするらしいから」

 8月31日におこなわれる事務所の定例ライブ。
 
 そのライブに仁奈ちゃんは出演する。
 出演といっても歌うわけでも踊るわけでもない、ちらっと顔見せして5分ぐらいトークをするだけ。
 身も蓋もない言い方をすれば、この場を利用してお客さんに顔と名前を知ってもらおうってこと。

22 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:20:13.12 ID:KkkdUbN10
 準備を終えたメイクさんが近づいてくる。

「お待たせしました。速水さん、メイク落としますね」

「ええ、よろしくお願いします」

 ようやく奏ちゃんが元の姿に転生できるらしい。
 さようなら、口裂け女さん。キミのことは忘れないよ。

 でもプロのメイクってすごいよねー、ぱっと見で奏ちゃんってわからないもん。
 プロたるもの、いついかなるときもプロとしての全力のパフォーマンスを提供しなければいけない。
 なんて格好つけてたプロデューサーに、ちひろさんが満面の笑みで資料の山を押し付けたときはお腹を抱えて笑ったっけ。

 笑えないのは仁奈ちゃんのほう。
 あの子は笑うのが苦手みたい。巧拙の問題じゃなくて、単純に笑うことに慣れていないんだと思う。
 アイドルは笑顔もパフォーマンスのひとつ。
 だから、ビジュアルレッスンを重点的にしているみたいだけどなかなか苦労しているようだ。
23 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:24:18.29 ID:KkkdUbN10
 奏ちゃんがメイクを落としてる間に、おさらいでもしよっか。

 
 市原仁奈ちゃん。
 
 低い身長だから5、6歳ぐらいかなと思ってたけど、実際は今年9歳になった小学3年生。
 パパは世界を股にかけるカメラマンで、ママはデザイナーのお仕事をしてるんだって。おもしろー。
 あっ、おもしろいってのはもちろん仁奈ちゃんもいっしょ。

 カメ、パンダ、ペンギン、エトセトラエトセトラ。
 
 彼女はキグルミが大好きで、家にいるときも外を出歩くときも、いっつもなにかしらのキグルミを着ている。
 はじめて会ったときに着てたうさぎちゃんは、特にお気に入りのひとつらしい。

 そんな仁奈ちゃんと同棲生活をはじめて1週間。

 人がひとり増えるだけで生活って劇的に変わるもので。
 散らかしっぱなしだった服や本は邪魔にならないよう片付けるようになったし、仁奈ちゃんの睡眠時間を考えると夜中まで実験することもできなくなった。

 特に1日3食きちんと食べる習慣は、あたしの生活リズムを大きく変えた。

 仁奈ちゃんは気にしなくていいですよーって言ってたけど、さすがにコンビニ弁当を食べさせる気にはなれず、料理をつくるようになった。
 つくってると言っても、ネットにころがっている初心者用の簡単な料理ぐらいだけど。
 それでも、テキトーなご飯で済ませてきた身からすれば、献立を考えるだけでめんどくさい。
 
 飽きずに毎日あんなことをやってるんだから主婦ってすごいよねー。
 宝物を発見したトレジャーハンターみたいな目で「おいしい」って言ってくれてるからいいけどさ。

 それからそれから──。
24 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/04(火) 19:27:18.61 ID:KkkdUbN10
「志希。ぼーとしてるとこ悪いけれど、そろそろ帰らないかしら?」

 見上げると、口裂け女から元の美貌に生まれ変わった奏ちゃんの呆れた顔があった。
 あたしが記憶の海を潜っている間に、化粧落としは終わったみたいだ。

「仁奈ちゃんのことでも考えてたのかしら?」

「にゃはは。そうとも言えるしそうじゃなかったかも。志希ちゃん、忘れちゃいましたー」

 じーとあたしの顔を見つめたあと。
 余計なお世話なのはわかっているけれど、とらしくない前置きをして言った。

「ペットとか預かると情が移ってしまうって話を聞いたことあるわ。ママが帰ってきて別れるときに、落ち込まないようにね」

 
 落ち込む? あたしが?
 にゃはは。しょんぼりしてるあたしの姿なんてまったく想像つかないけど、そうなったらそれはそれでおもしろそうだ。

「とにかく出ましょうか。1週間記念日ってことなら早く帰ってあげたら?」

 ドアのほうへ歩き出したうしろ姿に、あたしも続く。

 
 記念日かー。
 誕生日だろうが祝日だろうが、あたしにとって365日はどれも等価値だけど、世間というものはどうやら特別な日をつくりたがる性格があるらしい。
 このまえ事務所もアニバーサリーやってたしね。
 仁奈ちゃんもそういうのを大切にするタイプなんだろーか。

「……」

 ふむ。
 なんかお腹すいてきちゃった。今日の晩御飯はハンバーグにでもしてみよーかな。
 ハンバーグなら、子どもも好きだろうし。
 ほんとうになんとなーく。志希ちゃんは、いつだって気まぐれなのだ。
25 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/04(火) 19:31:36.67 ID:KkkdUbN10
本日はここまで。
以降、亀更新になるかもしれません……

あと、誤字ではありませんが表記ゆれがあったため修正します。

>>6
気温40度を超したと騒ぎになってる今年の夏に、なぜか着ぐるみを着ている。
かわいいうさぎの着ぐるみだ。

着ぐるみ→キグルミ

26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/06(木) 12:10:57.86 ID:r0CA9Mqz0
乙乙
しきにゃんの"興味"の理由かわいい
27 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/09(日) 18:28:12.23 ID:WNr0Gect0
 ✉
 さてさて。

 ペットボトルに少量のお湯と線香の煙を入れてから蓋をする。
 そして、ペットボトルをぎゅっと力いっぱい握りしめてから手を離す。
 すると、なんということでしょう。ペットボトルの中に雲ができるのです。

「おおー、すげー!」

 ぱちぱちぱち、と仁奈ちゃんの拍手が部屋に響く。

 夏休みも中旬にさしかかり、仁奈ちゃんもレッスンが忙しくなってきた。
 夏休みの自由研究をやる時間がとれないと悩んでいたので、ちょっとだけお手伝いすることにしたのだ。

「あとはペットボトルをつぶす力の入れ加減で雲の濃さが違うとか、そういうことをまとめればなんとかなるんじゃないかなー」

「ありがとーごぜーます! 志希おねーさんはまるでせんせーみてーですね!」

 どーもどーも。
 こんな実験でいいなら、いつでも付き合ってあげるよ。化学ともご無沙汰だったからいい気分転換になったし。

 さて、10時を過ぎたし良い子は寝る時間だ。
 いっしょに歯を磨いてから、電気を消して、そのままベッドにダイブ。
 あっ、そうそう。うちには客用の布団なんてないから一緒のベッドで仲良く寝てるよ。
 役得役得、ハスハス。

 仁奈ちゃんのサラサラした髪からは、あたしと同じにおいがする。
 使ってるシャンプーが同じなんだからとーぜんだけど。
 でも。

 
 澄んでいて、あったかくて、そして少しだけ寂しさがブレンドされたにおい。

 
 市原仁奈ちゃんのにおいは、シャンプーの香りに隠れながらも、たしかにここにある。
28 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/09(日) 18:33:19.83 ID:WNr0Gect0
「きょう、トレーナーさんにいい笑顔ですって褒めてもらったでごぜーますよ」

「そっかー。がんばってるねー」

「はい! だって、ママが観に来やがるでごぜーますから!」

 
 ママがライブを観に来る。
 
 プロデューサーからその話を聞いて以降、トレーナーちゃんが舌を巻くほど絶賛上達中らしい。
 この子にとって、ママって存在はそれだけ大切ということなんだろうか。

「そーいえば、志希おねーさんのパパやママは来やがらねーですか?」

「仁奈ちゃんと一緒だよー。ふたりとも遠いところにいるからねー。来るのは難しいんじゃないかな」

 パパが近くにいたとしても研究研究と呪文を唱えて来ないだろうけど。あの人はそーいう人だし。
 
 ママは、どうだろーか。
 もし生きてたら……なんて考えてもどーしようもないけど。

「ねぇ仁奈ちゃんのママって、どんな人なの?」

「ママはがんばりやさんでごぜーます。夜おそくまでお仕事がんばってて。いっしょにいられる時間がすくねーのはさみしーですけど。でも、いっしょにいるときはいっぱい頭を撫でてくれるんだー!」
29 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/09(日) 18:38:24.30 ID:WNr0Gect0
「仁奈ちゃんはほんとにママのことが好きなんだねー」

「もちろんでごぜーます! あっ、でも怒るとちょっとこえーですけど」

「へぇ、仁奈ちゃんでも怒られることってあるんだ」

「志希おねーさんは怒られたことねーでやがりますか?」

 怒られたこと、かー。

 家の壁に数式の落書きをしたときとか、食べ物にからしをたっぷり混ぜてみたときとか。
 うん、あるある、鼻にしみついて離れないぐらい、たくさん。
 あたしが悪さをするたびに、こわーいにおいを発しながら雷を落とされてたっけ。


 その中でも一度だけ、いつものにおいと比べ物にならない、すっごくこわいにおいがしたときがあった。

 いつものようにブラブラお散歩してたその日。
 いつの間にか見たことのない場所にいて、帰り道がわからなくなった。
 あっちだこっちだ迷いながら歩き回って、ようやく家までたどり着いたときにはすっかり空が暗くなっていた。

 家の玄関を開けると、靴を履こうとしているママがそこにいた。
 くしゃりと顔を歪ませたママに痛いくらい抱きしめられて、すっごく怒られた。
 ご近所さんに聞こえるくらい、大声で。

 いまでもよくわかんない。
 別に悪いことしたわけでもないのに、ママはなんであんなに怒ってたんだろーか。
 オトナってフシギだねー。
30 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/09(日) 18:41:06.89 ID:WNr0Gect0
「ねー仁奈ちゃん」

「……すぅすぅ」

 寝ちゃったかー。
 あっ、もう11時まわってるじゃん。
 それじゃ、あたしも寝ようかな。


──いっしょにいるときは頭を撫でてくれるんだー


「……」

 そっと、仁奈ちゃんを起こさないように手を伸ばす。
 小さな頭は掌にすっぽり収まった。
 そのまま掌を動かしてみると、「んにゅ」と小さく声をあげて幸せそうに微笑んだ。

「おやすみ、仁奈ちゃん」

31 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/09(日) 18:43:32.06 ID:WNr0Gect0
短いですが今回はここまで。
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/09(日) 23:22:45.54 ID:PQiy4IIIo
おつ
33 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 13:34:57.90 ID:kZJKvpHt0
 ✉
 仁奈ちゃんと暮らしはじめてだいたい3週間。

 今日はレッスンも外出もしないで一日中家で過ごすことにした。
 あっ、ズル休みじゃないよー。ちゃんと許可はとってるよ。
 オフってやつだよー、うらやましいかにゃ。

「がおー!」

 隣からかわいらしい声が聞こえてくる。
 テレビ画面に映っている百獣の王の雄姿に、仁奈ちゃんの心は鷲掴みされたみたいだ。

「いいねー、あんなに自由に走り回れて」

「志希おねーさんもライオンの気持ちになるですよ!」

「にゃはは。なるですよー」

 
 キラキラしている横顔を眺めながら、あたしの頭脳は分析をはじめる。

 キグルミを着ていたら、パパやママがかわいがってくれた。
 仁奈ちゃんがキグルミや動物を好きになったのは、それがきっかけだと仁奈ちゃんが教えてくれた。
 それはきっと日常の1ピースにすぎない出来事だったんだろうけど、この子にとっては大事な思い出に違いなくて。
 キグルミを着て動物の気持ちになりきってその思い出にしがみつくことで、寂しい気持ちをごまかそうとしているのかもしれない。

 なんて、心理学者ごっこをしてる間に番組は終わったみたい。
 さっきまで興奮していた仁奈ちゃんは眠たそうに瞼をこすっている。

「お昼寝しよっか」

 仁奈ちゃんはコクリと頷くとそのままベッドに体を預けて、すぅすぅと寝息をたてはじめた。

34 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 13:37:18.35 ID:kZJKvpHt0
 ライブまで1週間をきった。
 仁奈ちゃんのレッスンもだいたい仕上がり、本番に向けて打ち合わせをしている最中。
 慣れないことの連続で仁奈ちゃんはだいぶ疲れているように思う。

 今日も本人は「ママのためにがんばるですよ」とレッスンをしようとしたけれど、あたしがやめさせた。
 休むこともトレーニングって言うし、たまにはこうしてのんびりするのもいいんじゃないかにゃ。

 くあっと欠伸が出た。
 あたしまで眠くなってきた。
 寝よっか、やることないし。
 ネタ切れ気味の夕飯のメニューも夢の中で考えることにしよう。

 仁奈ちゃんを起こさないように、そっとベッドに潜り込む。


「……ママ」

 幸せそうに寝言を呟く仁奈ちゃん。
 ママと一緒にいる夢でも見てるのかな。
 だいじょうぶ、もうすぐ現実で会えるよ、ママに喜んでもらえるようにライブがんばろうね。

 そんなあたしの意識も、やさしい香りに誘われてまどろみに落ちた。
35 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 13:39:40.33 ID:kZJKvpHt0
 ✉
 SHIKI'Sクッキングのお時間です。
 
 まずはにんじん、玉ねぎなどをばっさばっさと切っていきます。
 そして、肉といっしょに炒めましょう。
 さらにさらに、水を加えて沸騰させてあーだこーだしたあとにオリーブオイル、じゃなかった、ルーを入れます。
 そして魔法をかければ……はい、カレーライスの出来上がり。

 お玉にすくって軽く味見をする。
 甘くてとろみのある感触が口の中に広がっていく。
 うん、はじめてつくるにしては悪くないんじゃないかな。
 ピリッと刺激的なほうが好みだけど、たまにはこういう甘いのも悪くない。

「仁奈ちゃん。ごはんできたよー」

 明日はいよいよライブ当日。仁奈ちゃんの初仕事の日だ。
 と、いうわけで子どもが好きそうなカレーをつくってみた。

 それじゃ、おててをあわせて──。

「「いただきまーす」」

 仁奈ちゃんはスプーンにカレーを乗せて、パクパクと口に運んでいく。
 どうやらお口に合ったみたいだ。よかったよかった。
 あたしも仁奈ちゃんに倣って、口に放り投げていく。
36 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/15(土) 13:41:55.52 ID:kZJKvpHt0
「……」

「……」

 この時間はいつもレッスンのこととか好きなアニメの話とかでにぎやかなのに、いま聞こえるのはスプーンが皿とあたる音だけだった。

「緊張してる?」

「だいじょうぶでごぜーます」

「もしかして、カレーおいしくなかった?」

「すげーおいしいでごぜーますよ」

「……」

「……」

 会話が続かない。
 緊張してるっていうよりは、落ち込んでいるようにも見える。
 むむ。いったいどうしたんだろーか。

 何の気なしに言っただけだった。

「明日、ママに喜んでもらえるといいね」

 ガチャンと音がした。
 仁奈ちゃんの足元で、カレーのルーがついた銀色の物体が鈍く光っている。
37 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/15(土) 13:43:53.23 ID:kZJKvpHt0
「……」

「仁奈ちゃん?」

「ママは……お仕事で来れなくなったですよ。プロデューサーがママからそう言われたって」

 仁奈ちゃんは落としたスプーンを拾って、えへへと笑った。
食器棚から新しいスプーンを取り出して、落としたものと交換してあげる。

「ママは……とっても忙しいでごぜーます。だから、しかたねーですよ」

「しかたないって……」

 仁奈ちゃん、ママが来てくれるってずっと楽しみにしてて。あれだけレッスンがんばってきたのに。

「そうだ、電話してみようよ」

「仁奈はだいじょうぶでごぜーますよ。心配しねーでくだせー」

「それともあたしが電話しようか?」

 いちおー保護者代役として、プロデューサーから仁奈ちゃんのママの連絡先は聞いている。
 もしかしたらまだ仕事中かもしれないけど、それならそれで仕方ない。
 これも仁奈ちゃんのためだ。
38 : ◆GO.FUkF2N6 [sage saga]:2018/12/15(土) 13:46:24.49 ID:kZJKvpHt0
「……」

「だいじょうぶだって。約束を破ったのはママのほうなんだから、仁奈ちゃんはなにも心配しなくていいんだよー」

「……てくだせー」

「ええと、ママの電話番号は──」


「やめてくだせー!!」

 ぴしゃりと空気が固まった。
 仁奈ちゃんはくしゃりと顔を歪ませて、言った。



「志希おねーさんに、仁奈の気持ちなんてわからねーでごぜーますよ!!」


 持っていたスマホが滑り落ちて床に落ちる。
 壊れていたとしてもおかしくないぐらいの、鈍い音がした。


 ──あんたみたいなバケモノに、あたしの気持ちなんてわかるわけないでしょ!


「……ごめん、なさい」

 仁奈ちゃんは体を震わせながら俯いている。
 怒っているんだろうか、泣いているんだろうか。
 どんな顔をしているのか、あたしにはわからなかった。

 ……。
 それからのことはあまり覚えてない。
 ただひとつ、「おやすみなさい」を言いそびれた、それだけが確かな事実だった。

39 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 17:21:07.99 ID:kZJKvpHt0
 ✉
 廊下からバタバタと走る音が聞こえる。
 ライブを成功させるため、スタッフが奔走している音だ。
 そして、それに負けないくらい、控室もドッタンバッタン大騒ぎ。

 右を見れば、自分のステージが終わって暇つぶしに談笑していたり。
 左を見れば、出番が来るまで台本を繰り返し音読していたり。
 下を見れば、走り回っている元気な子もいたり。

「仁奈ちゃんとなにかあったの?」

 こうやって、あたしに話しかけてくる物好きもいる。
 顔を上げると、へそ丸出しの大胆なドレスに身を包んだ奏ちゃんの姿があった。
 一歩間違えれば下品になりかねない衣装も、この子が着ているとすごく様になる。

「人の家庭の事情に首を突っ込む趣味はないわ。でも……」

 控室には3個ほどモニターが設置されていて、そこには様々な映像が流れている。
 ひとつには、ファンから声援を送られステージで踊っているアイドルたち。
 ひとつには、裏方で慌ただしく動いているプロデューサーやスタッフ。

 そして、奏ちゃんが見つめている先。
 舞台袖で出番を待つアイドルの姿が映されるモニターには、小さな体をさらに縮ませてぽつんと椅子に腰かけている、龍の着ぐるみの衣装を着た女の子の姿が映っている。

「かわいい新人があんなに震えているのは気の毒だもの」

「べつにー。来る予定だった仁奈ちゃんのママが来れなくなったから、来てもらうように電話しようとしたら怒られちゃった。それだけー」

 そういえば「おはよう」も「行ってきます」も言わなかったな、なんてことをいまさら思い出す。
40 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 17:23:25.81 ID:kZJKvpHt0
「仁奈ちゃん、ママが来てくれるって喜んでて、そのためにレッスンがんばってたんだよ。だったら、呼べばいいと思わない?
なのになんで嫌がったの? なんで? わかんない。ねぇ奏ちゃん。あたし、どうするのが正解だったと思う?」

「知らないわ」

 まさかの即答。
 いやいや、もうちょっと考えてくれてもいいんじゃないかにゃ。

「だってあたし、あの子のことぜんぜん知らないもの。あたしが知ってるのは、パパやママが大好きな頑張り屋の女の子ってことだけ。ママに迷惑をかけたくなかったから、なんて勝手な推測はできるけれど。神様でもないのに、偉そうに人の感情を知った風にして語りたくないでしょ」

 モニターから大きな歓声が聞こえてきた。
 さっきまで踊っていた子たちが出番を終えて、ファンに手を振りながらステージから消えていく。
 仁奈ちゃんの出番は次の次だ。

「仁奈ちゃんに直接聞きにいけばいいじゃない。出番までまだ時間があるでしょ。ちゃんと話せば仁奈ちゃんの気持ちがわかるんじゃないかしら」

 
 ──志希おねーさんに、仁奈の気持ちなんてわからねーでごぜーますよ!!


「……」

「志希?」


「にゃはは。飽きちゃった。志希ちゃんママやるのやめまーす」

 もともと律儀に付き合う義理なんてない。
 プロデューサーに押し付けられて、おもしろそうだから一緒に暮らしてみただけ。
 そもそもあたしはママってキャラじゃないし。
 夕飯つくるのもめんどくさくなってきたし、ここらが潮時じゃないかにゃ。

「そうだ、奏ちゃんがあの子のママになってみない? オトナっぽいし、なんだかすっごくお似合いだと思うなー」

「……志希」

「なんか散歩行きたくなっちゃった。志希ちゃん、いまから失踪するから、あとは──」

41 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 17:25:12.19 ID:kZJKvpHt0

「シキちゃん、クイズしよー」

 部屋から出ようと椅子から立ち上がった直後、後ろから熱いハグが飛んできた。
 振り向くと、見慣れたキレイな金髪、宮本フレデリカの姿がそこにあった。

「フレちゃん?」

「じゃあ問題です。ババン。フレちゃん、先週ママとデートしました。さて、お昼はなにを食べたでしょうか?」

 むむ。
 さすがフレちゃん、いきなり意味がわからない。
 少しだけ考えて言った。

「サンドイッチ」

「ぶっぶー。フレちゃん人形没収でーす。アタシね、ほんとはサンドイッチ食べたかったの。でもママはオムレツが食べたいって言いだして。それで喧嘩しちゃったんだ。そしたらね、いつの間にかふたりでスパゲッティ食べることになってたの!」

「む、むむ?」

「そこのお店のスパゲッティすっごくおいしくてあっという間に仲直りしちゃった。でも喧嘩してなかったら食べられなかったんだよねー。棚からわらび餅だよ!」

「……」

「モヤモヤしたままお散歩しても楽しくないよー。シキちゃんがほんとにイヤになったならアタシがママになってもいいからさ、
 喧嘩してみたらいいんじゃないかなー。すっきりして公園でお昼寝するほうが、きっと気持ちいいよー」

 抱き着いていた体の感触が離れたかと思えば、やさしく背中を押されて、あたしの体はその勢いのまま廊下に吸い込まれた。

42 : ◆GO.FUkF2N6 [saga]:2018/12/15(土) 17:27:44.85 ID:kZJKvpHt0
 ……。
 あたしにできることなんて今更なにもない。
 あたしの顏なんて、仁奈ちゃんは見たくもないかもしれない。
 それなのに、あたしはなんで走ってるんだろうか。
 疑問の解は出ない。だけど、あたしの体は勝手にステージに近づいていく。

 途中で見知った顔に呼び止められたけど、いまは無視。
 ごめんねプロデューサー、お説教ならあとで聞くからさ。今は見逃してよ。

「はぁ……はぁ……」

 舞台袖に着くと、奥のほうに小さな人影を見つけた。
 ぎょっとしてあたしを見つめるスタッフをかわしながら、その後ろ姿目指してラストスパート。
 あと10歩。
 5歩。


 くらりと眩暈が襲ってきて足がもつれる。
 倒れるすんでで手をつく。
 むむ、さすがに昨日眠れなかったのはまずかったかな。
 でも、いまここで寝るわけにはいかない。

「し、志希おねーさん?」

 顔をあげると、目を丸くして仁奈ちゃんが固まっていた。
 
 あれ、あたし、なにをするために来たんだっけ。
 だめだ、頭がまわらない。


「市原さん、スタンバイお願いします!」

 スタッフから指示が飛んできた。
 もう、考えてる時間はない。

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