俺「アンチョビが画面から出てきた」

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93 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:14:36.80 ID:TQ5drJ1c0
「で、君らは何しに来たわけ?」

「なんかツイッターで変なこと言ってるからおちょくりにきた」

「俺もまぁ気になって真相を確かめに来た感じだよね」

 ……正直、家にあげはしたが、今はこいつらの相手をしている余裕はない。
 冷やかしに現れただけだというのなら尚更である。

「彼女はアンチョビ本人です。はい、帰って」

「いやそれじゃ説明になっとらんでしょ」

「こっちは忙しいの。くだらん話ならまた今度聞いてやるから。ほら帰って」

 そう言って追い返そうとするものの、二人はふて腐れた顔で「帰らん」「冷たくない?」とかなんとかぼやくばかりだ。
94 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:16:48.98 ID:TQ5drJ1c0
 しばらく愚にも付かないやり取りを繰り返していると、アンチョビが割って入った。

「まぁまぁ。せっかく来てくれたんじゃないか。少し落ち着け戸庭」

「天使か」「天使」

 ……いやいや。

「こいつらがいると計画も進まないよ」

「とはいえなあ、ここまで来てくれたのを追い返すのも申し訳ないだろう」

「こいつらは良いの。どうせ暇してんだから、追い返したら追い返したでどっかで酒飲んでるだけだよ」

「しかしなあ――」

「ちょっと待った!」

 今度は俺の友人が割って入る。
95 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:18:12.13 ID:TQ5drJ1c0
「言い争いは良くない。良くないですよ」

「元々お前らのせいだけどね」

「どうせ争うなら、麻雀で勝負をつけましょう」

 …………?

「あのさ、人の話聞いてた? 麻雀すんのに時間かかるでしょ? その時間も惜しいの。ねえ、わかる?」

「あ、負けるのが怖いのね。ごめんごめん、悪かった」

「は? ……あ、いやいや」

「おぉおお良いじゃないか! 楽しそうだ! やろうやろう!」

 ――俺が言いよどんだ隙に、アンチョビが乗ってしまった。

「アンチョビさん、麻雀のルールわかるの?」

「なんとなくわかるぞ!」

 わかってないやつだな、これ。

「……まぁ良いや、じゃあやりますか。俺だけ反論し続けるのもなんだし」

 俺が言うと、友人二人は「「うぇーーい!」」と歓声を上げた。
96 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:19:59.49 ID:TQ5drJ1c0
「えー、じゃあ、こっちの横に長い方が、花澤。そんで、縦に長い方が、長田ね」

「花澤です」「長田です」

「アンチョビだ! よろしくな!」

 花澤と長田の二人が、右手を差し出したアンチョビと順に握手をする。

 結局、麻雀は、南入することすらなく、アンチョビが長田から親倍満を食らい飛ばされて終わった。

 勝者となった長田は「じゃあもうちょっといさせて」と宣言。
 仕方なく俺はそれを認め、友人らは、今日一日、我が家へ居座ることとなったのだ。
97 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:21:58.32 ID:TQ5drJ1c0
「まぁ、それならどうせだし、二人とも手伝ってくれる?」

「はあ? 何を?」

「わかるでしょう。アンチョビの宣伝さ」

 昨日のアンチョビのツイートは、最終的にRT数が五桁にも及んだ。
 幸先は良い。大事なのは、間髪入れずにアピールし続けることだ。

 なので今日も今日とて新たに動画を撮るのだが、ただ昨日と同じようにやるというのはあまり宜しくない。

「二人とも、昨日のアンチョビの動画観た?」

「観たから来たっつったでしょ」「そりゃ観たよ」

「おぉー、どうだった?」

 嬉しそうにアンチョビが問う。

「あー、なんか、すげえなって思いました」

 語彙力。

「声も姿も本物によく似てるし、まぁクオリティ高いよね。よくここまでやれるなあと思いますよ。あ、もちろん良い意味で」

 口ぶりから、やはりアンチョビが本物だと信じているわけではないのだとわかる。
98 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:23:27.81 ID:TQ5drJ1c0
「こっちは『よく似てる』って感想を変えたいんだよ。どうしたら本物だと信じる?」

「何やられても信じないと思うけどね。無理でしょ。次元の壁ってあるじゃん?」

「だから、俺は、それでも信じてるんだよ」

「じゃあ戸庭の時と同じことをやれば良いのでは?」

 ……なるほど。
 俺がアンチョビを信じたのは、彼女と延々語り続けたからだ。
 質問を交えながら、彼女の言葉に耳を傾け、仕草や表情を眺めることで、画面の向こうの彼女と同一人物だと知れた。

 それと、同じことを、やる。
99 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:25:42.87 ID:TQ5drJ1c0
「アンチョビさんアンチョビさん、ちょっとしばらくこいつらと喋ってみてくれる?」

「し、指示がざっくりすぎないか?」

「じゃあアンツィオ高校の紹介してよ。P40とか、ジェラートの話とか」

「おー、それなら任せろ!」

「花澤と長田は、適宜、適当な質問をアンチョビさんにして」

「指示がざっくりすぎん?」

 そうして、アンチョビと、花澤と長田の二人が会話する様子を隣で眺める。

 ジェスチャーを交えて活き活きと話すアンチョビは、太陽のようで、やはりというべきか、当然なのだが、まさにアンチョビそのものだ。
 先程は「無理」と断じていた花澤も、すでに心を掴まれているのがわかる。
100 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:27:56.89 ID:TQ5drJ1c0
 三言二言では駄目なのだ。
 アンチョビの存在を信じさせるためには、時間をかける必要がある。
 昨日の動画は1分足らず。短すぎた。

 しかし反対に、あまりに長すぎるのも良くはない。
 見ず知らずの他人が作った30分超えの動画なんて、そもそも、観る前からお断りである。

 ちょうど良い時間は、大体5分くらいかと思う。
 5分の動画も、積もれば数時間だ。

 コンテンツとしては、視聴者からの質問に答える形式が良いだろう。
 昨日、アンチョビがツイッターのリプライに答えていたのを、動画の中でやる感じだ。

 あとは、新しく興味を持ってくれた人のために、過去の動画を漁りやすくするのも重要だろう。

「よし。ユーチューバー始めるか」

 俺が言うと、三人は揃って首を傾げた。
101 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:31:01.04 ID:TQ5drJ1c0
 さて、ユーチューバーとはいえ、実際やることといえば、普通に動画を撮ってちょこっと手を入れてユーチューブにアップロードするだけの話である。
 編集のない方が自然なアンチョビ感を演出できるだろうし(アンチョビ感とは)、そもそも、凝った動画編集など出来る面子は俺たちの中にいない。

 とはいえ、5分ともなればそれなりに台本は必要だし、アンチョビへの質問も用意しなければならない。
 アンチョビに頼み、ツイッターにて「次の動画を撮るから、みんな、私への質問をくれないか!」と募ったところ、50以上の質問がばーんと集まった。

 俺が質問を選別し、それへの返答をアンチョビが考えつつ、台本の構成に組み込む。

 花澤と長田の二人は特に出来ることもないので、裏でずっとガルパンの劇場版を観賞しつつ酒を飲んでいた。
 アンチョビがスクリーンへ登場する度に「あっアンチョビさんだ!」と声をあげるのが実に騒々しい。

 アンチョビは、アニメでの自分の姿を目にするのに慣れないのか、彼らの声を耳にしてスクリーンへ目を向けると、苦しいんだか恥ずかしいんだかよくわからない複雑な表情を浮かべていた。
102 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/16(月) 22:34:15.05 ID:TQ5drJ1c0
 動画の撮影は、花澤と長田がいびきをかき始めた頃に行った。
 二人は邪魔なので、俺の寝室へ運搬。
 前回同様、壁を背にして質問を答えるアンチョビを撮影した。

「本当に任せていいのか?」

「二人いても仕方ないしね。朝までには終わらせとくから」

 アンチョビが自身の寝室へ向かったのを見送って、俺はPCと向かい合う。
 出来上がった動画に、文字入れをする作業だ。

 基本的には撮影した動画そのままだが、最低限、質問内容は文字にして画面端にでも配置した方がわかりやすいだろうとアンチョビと打ち合わせた。

 コーヒーカップ片手に黙々と作業を続けていると、深夜4時頃に編集が終わった。
103 : ◆JeBzCbkT3k [sage saga]:2018/07/16(月) 22:35:31.71 ID:TQ5drJ1c0
今日は、ここまでにします。
明日か明後日にまた再開します。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/16(月) 22:47:04.28 ID:a8DPH2nDO

かぐや姫は月に帰れたけど、アンチョビはどうなるのやら…
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/17(火) 09:26:19.86 ID:M5hHhOon0
そろそろアンチョビもこの世界の現実を知る頃みたいだな
自分をネタにしたエロ同人がどれほど蔓延してるかを知って絶望してほしい
106 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 21:56:21.73 ID:MeNYOwih0
再開します。
107 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 21:58:40.62 ID:MeNYOwih0
 2017年11月26日。日曜日。

 セットしておいた目覚まし時計が午前9時ちょうどに鳴り響く。
 じりりんと五月蠅いベルを鷲掴み音を止めると、床に寝転がってぼうっとスマホをいじる花澤と長田の姿が目についた。

「おう」「おはよう」

 声の調子から推測するに、どうやら随分前から起きていたらしい。

「君らは何故にここでごろごろしてんの? 朝飯くらい食べたらどう?」

「コンビニ飯を買いに行こうとしたんだけど、アンチョビさんが作ってくれるらしくて」

「つうか二日酔いでしんどくてかなわん」

 俺も他人のことを言えないが、こいつらも相当な駄目人間だ。
108 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:00:34.33 ID:MeNYOwih0
 すんと匂うと、確かにキッチンの方からは何とも心地よい香りが漂ってくる。
 のそり立ち上がり、でくの坊二人の上をまたいでリビングへ向かうと、ちょうどアンチョビが両手に皿を乗せ運んでくるところだった。

「戸庭っ! 朝飯を作ったぞ!」

「やったー」

 俺は寝室へ戻り、「朝飯出来たらしいから早く来いカス共」と中へ声をかける。
 4人がリビングへ揃うと、いただきます。
 朝食を食べながら、昨日調整した動画を観ることとなった。

「アンチョビさん、こんな感じだけどどう?」

「すごいな戸庭! 完璧だ!」

 アンチョビチェックは問題なしらしく一安心だ。
109 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:02:07.08 ID:MeNYOwih0
 本日の動画公開タイミングは、20時に決めた。
 休日は、平日と違い通勤退勤ラッシュもない。
 どちらかといえば、遊び疲れて夕食も食べ終わった夜の時間帯が良いだろうと踏んだのだ。

「夜かー。そこまで待つのもなんだし、帰るわ」「また来るよ」

「もう来んな」

 花澤と長田は、結局、大して役に立つこともなく帰っていった。
 わかっていたことではあるが、今後あいつらを頼るのはやめようと思う。

「さ、アンチョビさん、夜までの間、新しく動画を撮ろうか」

「戸庭、編集作業、けっこうかかったんだろう? 今日は休みにしないか?」

「平気平気。気にせずやりましょう」

「私は、戸庭が無理をしすぎないか心配なんだがなあ……」

 ぼやくアンチョビだったが、動画の撮影は承諾してくれる。
110 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:05:08.68 ID:MeNYOwih0
 さて、それじゃあ新しい質問は届いていないかとツイッターを開きリプライ欄を確認すると、その中に気になるものを見つけた。
 アンチョビではなく、俺のアカウントへのリプライだ。

『DM送りましたので、拝見いただけませんか?』

 送り主は、俺とリアルの面識のないフォロワーで、アカウント名はキミドリといった。
 同人活動やちょっとしたガルパン仲間の集まりを仕切っているらしく、ガルパン界隈ではそこそこ名が知れている人だ。

 DMを開き、アンチョビにも聞かせるよう、文面を読み上げる。

「動画を拝見しました。とてもクオリティが高く、本当にアンチョビが存在しているかのように思えました」
「つきましては、直接会ってお話をうかがいたいのですが、お時間いただけますか?」
「邪な目的だと思われるのも何ですので、とにーさんにメッセージお送りしています。お許しくださいませ」
「ちなみに私、本日ならフリーですのでどこへでも駆けつけます(笑)」

 『とにー』というのは俺のアカウント名だ。
 礼儀正しいし名は通った人だし、そこそこ信用のおける内容でもある。
111 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:07:13.04 ID:MeNYOwih0
「アンチョビさん、この人と会ってみる? たぶん俺よりもガルパンに詳しいから、まぁ少なくとも花澤たちよりも頼りになると思うよ」

「うん、断る理由もないしな! 出来ることは全部やるぞ! 私が一人で行ってくるから、戸庭は家で待ってると良い!」

「いやいや俺も行くに決まってるでしょ」

 アンチョビ一人で男と会わせるのはさすがに危険だ。
 なにより、俺には前回の失敗がある。同じ轍は踏まない。

「それじゃ、アンチョビさん、DM返しておくよ」

「おー、任せた!」

 今日のところは、動画の撮影はなしだ。
 本日分は出来上がっているのだから、明日の分は明日撮れば良いだけの話。
 優先すべき事項があるなら、急ぐ必要はない。

 俺がDMを返すとキミドリ氏からはすぐに返事があった。

『おお、ありがとうございます。楽しみです』

 相談した結果、待ち合わせは13時に新宿となった。

 先程、朝食を食べたばかりなので、昼食はそこそこに済ませると、俺はアンチョビと共に家を出た。
112 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:10:08.28 ID:MeNYOwih0
 キミドリ氏とは、新宿の喫茶店で2時間ほど話をして別れた。

 花澤や長田より幾分か信用の度合いは高かったようだが、しかし、彼らと同様、初めはキミドリ氏も半信半疑の様子だった。

「うはははは。あの動画を観たらどうしても真偽を確かめたくなりますよねえ」
「というのも、声があまりにも元の声優さんに似すぎていますから」
「しかもこれまでに公開された音声にはない内容を話していたので、口パクで録音を流しているわけはありません」
「はて、だとしたらこれはどういうわけか、という具合です」
「まぁしかし、リアルで対面すると、顔もアンチョビによく似てらっしゃる」

 キミドリ氏には、これまで同様、アンチョビと数十分、質疑応答をしてもらった。
 そしてやはり、これまで同様、彼もアンチョビの存在を認めるに至った。しめたものである。

「にわかには信じがたいことですが、これは真実としか考えられませんね」

 キミドリ氏は、別れ際に「私に協力できることがあれば何なりと仰ってください」と言ってくれた。
 おそらくはお言葉に甘える日もすぐに来よう。
113 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:13:20.92 ID:MeNYOwih0
 新宿には俺の会社もある。
 今日も休日出勤しているであろう同僚らと万が一にも顔を合わせたくない。

 俺とアンチョビは、キミドリ氏と別れると、すぐに電車へ飛び乗って新宿を去った。

 山手線で新宿から池袋へ、10分足らずで到着する。

 JRの改札を抜けたところでふと思いつき、人通りから離れると、「ちょっとそこ立って」とアンチョビを壁際へ立たせる。
 俺がスマホを向けたところでアンチョビは察して「はぁっ!」とポージング。
 それを俺はぱしゃりと撮影した。

「どうするんだ?」

「ツイッターに投稿する」

 キミドリ氏との会話でよくわかった。
 対面なら、アンチョビは信用してもらえる。味方は増やせるのだ。
 そして味方は多いに限る。
114 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:16:36.09 ID:MeNYOwih0
 先ほど撮影したアンチョビの画像を彼女のスマホへ転送する。
 そしてアンチョビに画像を添付したツイートをしてもらった。

『池袋にいるぞ! 近くにいる人、私に会いに来てくれ!』

 今日のアンチョビは、服装こそアンツィオの制服ではないが、馴染みのリボンを身につけ眼鏡も外している。

 整った顔立ちも相まってか、横で歩いていると、すれ違う人々が彼女の方を振り返るのによく気付く。
 アンチョビのフォロワーなら、人混みの中からでも彼女を見つけられるだろう。

 想定通り、池袋駅構内からサンシャイン60通りへ向かうまでの道のりで、3組のフォロワーに話しかけられた。

 最初の2組はアンチョビと握手を交わしただけで去って行ってしまったが、最後の女性二人組はアンチョビと意気投合し、通りのカフェへ入りわいわいと女子トークに花を咲かせた。
 俺は手持ち無沙汰だったので横で話を聞いているだけだったが、アンチョビはこちらの世界で人気のある恋愛小説や恋愛漫画など教えてもらいご満悦の様子だった。
115 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:19:13.56 ID:MeNYOwih0
 自宅へ戻ったのは20時ギリギリとなった。

 慌てて事前に開設しておいたユーチューブのチャンネルで動画を公開し、URLをツイッターで紹介する。

 再生数は、昨日のツイートのRT数の10倍以上にもなった。
 キミドリ氏が熱心にアンチョビの動画を宣伝してくれたのだ。
 彼が一つの広告塔として立ってくれたことによって、アンチョビの知名度が飛躍的に上がったのだと思う。

 アンチョビは大喜びで寄せられたリプライ一つ一つへ丁寧に返信をかえした。

 やり取りは夜がどっぷり更けるまで続けられ、俺とアンチョビが眠ったのは、夜中の3時頃となった。

 ちなみに俺は、23時頃に職場の上司から「明日は出社できるのか」とメッセージが届いていたので、「先日お伝えした通り、医者から出社するなと言われています」と返しておいた。
116 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:21:24.40 ID:MeNYOwih0
 2017年11月27日。月曜日。

 出社しなくて良いのか、というアンチョビの問いは適当に誤魔化し、今日は昨日できなかった動画の撮影を延々続けることにした。

 撮影本数は、3本。
 少しずつ慣れてきたせいか、編集にかかる時間も短くなってきた。
 これなら仕事を再開しても編集は続けられるだろう(たぶん)。

 ユーチューブで動画を公開し、そのことをツイッターで報告すると、再生数は昨日の動画のさらに3倍となった。
 すでに並のユーチューバーでは相手にならない数字である。

 理由は明白だ。今度はアンチョビの声優を務める方が、「なにこれ! すごく似てるぅ〜♡」と、アンチョビのツイートをRTしてくれたのだ。

 その件は、各まとめブログでも取り上げられ、アンチョビは、一躍、界隈の有名人となった。

 アンチョビは一瞬だけ不安そうな表情で「こ、ここまでになるとは」と呟いたが、すぐに生来のテンションを取り戻し、「わーっはっはっはーっ!」と高笑いをあげた。
117 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:24:17.30 ID:MeNYOwih0
 2017年11月28日。火曜日。

 仮病がアンチョビにばれた。

 アンチョビは初めどちゃくそに怒ったが、何か思うところがあったのか、ふいに表情を変えると「たまには休みもないとなあ」と呟いた。

「仕方ない! 今日のところは勘弁してやるが、明日からは絶対仕事に行くように! 職場の人達にも迷惑がかかるからな!」

 迷惑ならすでに怖いくらいかけてます、なんて言えやしない。

 ともかく、今日も仮病は続行。
 さて、引き続き動画を撮影しようかというところで、アンチョビが「駄目だ駄目だー!」と声をあげた。
118 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:25:45.02 ID:MeNYOwih0
「今日は休み! 休みったら休みだ! 動画の撮影も編集も私一人でできる! 戸庭はゲームでもして遊んでると良いぞ!」

「アンチョビさん、動画の編集したことないじゃん」

「ふふん、私を誰だと思ってるんだ!?」

「安斎千代美さんですよね」

 アンチョビの反応は想像通りのもので、俺はそれを嬉しく思いつつ立ち上がる。

「じゃあ、せっかくだから池袋行ってくる。今日、ドラマCDの入荷日だから」

「ドラマCD?」

「アンチョビさんの細腕繁盛記とか入ってんだよ? すごくない? 超楽しみ」

「な、なんだそれは!」

 あっはっはと笑いながら家を出て、俺は池袋へ。
 とらのあなで目当てのものを購入して家へ戻る。

 しかし案の定、アンチョビは動画の編集に悪戦苦闘しているところだった。
119 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:27:46.45 ID:MeNYOwih0
「む、むぅ〜。も、もうちょっとで終わるはずなんだが」

「いや見た感じ1ミリも進んでないし。俺がやりますよ」

 半ば無理矢理にPCの前を奪うと、まずは撮影した動画をチェックする。
 画面の中のアンチョビは「冬季無限軌道杯というのがあってなあ」とか「2年の時に初めて会ったんだ」とか、質問の一つ一つに身振り手振りをつけて答えている。なんの問題もない。

 編集は1時間ほどで終わった。

 2本目を撮ろうかと言ってみたのだが、アンチョビに「撮り溜めがあるんだから、今日はこれで終わりだ!」と返されてしまった。
 確かに今日撮影した分の公開は2日後である。

 明日から仕事だ。アンチョビの言う通り、体を休めるのも良いだろうと、俺はドラマCDを聴いたり溜まっていたアニメを観たり、映画を観たりして時間を潰した。
 やがて夜になってアルコールを入れると、時の流れは一層早まった。
120 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:30:32.09 ID:MeNYOwih0
 2017年11月29日。水曜日。

 通勤電車のなか、終始、俺は憂鬱だった。
 俺の不在によりどれだけスケジュールに遅れが出ているのかという不安と、今日からまた地獄が始まるのかという暗澹。
 新宿に着いた辺りでようやく覚悟が決まったというのに、オフィスに入ってその覚悟も霧散した。

「最新のスケジュール表ってこれ?」「先週から更新してねえわ」
「テスト仕様書進んでる?」「手付かずです」
「ここの機能って出来てる?」「そもそも誰が作るんですか?」

 結論から言うと、俺がいなかった分の作業は、何も進んでいなかった。
 リリースまで残り2週間ほどだというのにこれはもう駄目なのではないかと思われる。
 しかし、それとなく顧客側に調整を依頼しても「リリース予定日は変更しません」と返されてしまった。

 やるしかねえ、と、とりあえず状況把握やスケジュールの切り直しを進めていたら1日が終わる。

 アンチョビに「今日は帰れそうにないので動画の投稿よろしく。夕飯も一人でどうぞ」とメッセージを送る。
 俺は深夜2時頃まで仕事をし、会社近くのカプセルホテルに泊まった。
121 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:36:39.95 ID:MeNYOwih0
 2017年11月30日。木曜日。

 新宿に泊まると出勤が楽で良いなあ、あっはっは。
 というわけで、昨日投稿されたアンチョビの動画や、ツイッターのリプライおよびメーラーを確認。すぐに出社となった。

 再び朝から深夜まで飯を食う暇もなくぶっ続けで働き続け、なんとかコンビニ弁当を腹へ入れることが出来たのは深夜23時である。
 アンチョビからの「大丈夫か? 今日は帰ってくるよな?」というメッセージにも返信出来ていない始末だ。

 同僚らの視線は痛いが、さすがに2日に一度は家へ帰っておくべきだろう。
 俺は「これから帰る」とアンチョビへメッセージを送り、会社を出た。

「戸庭っ! 風呂か! それとも先にご飯食べるか!」

「あーすみません。ご飯食べちゃった」

「じゃあ風呂だな! ゆっくり入ってこい! エスプレッソ煎れておくからな!」

 アンチョビは本当に騒々しい。
 かたかたとキーボードを叩く音しかほとんど聞こえてこないオフィスとは正反対である。
122 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:38:14.96 ID:MeNYOwih0
 しばらく湯船につかって風呂を出る。

 アンチョビの煎れたエスプレッソを飲みながらメーラーを確認していると、あるメールの差出人に目を疑った。
 宛先は、アンチョビのアカウントのプロフ欄に載せているアドレスだ。

「アンチョビさん、アンチョビさん。きた、きた」

「うーん? 何がだー?」

『初めまして。ユーチューブの動画を拝見しまして、内容について確認したくメール差し上げました』
『単刀直入に申し上げますが、動画内の「冬季無限軌道杯」という単語はどちらで耳にしたものでしょうか』

 それは、ガルパン制作会社代表からのメールだった。
123 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:42:17.96 ID:MeNYOwih0
 2017年12月1日。金曜日。

「このメール送ってくるってことは、たぶん『冬季無限軌道杯』って単語が最終章のネタバレになってるんだろうな」

「ネタバレ? なんのだ?」

「そりゃもちろん、今の時期だったらガルパン最終章でしょう」

 というかその事実によって俺もネタバレをくらっている。
 そうですか、最終章では冬季無限軌道杯ってのをやるんですね。

 これまでの例に漏れず、先方はどうやらアンチョビの存在をかけらも信じていない様子だ。
 文面から怒りが伝わってくる。
 情報を漏らされているのだから当然だろう。

「とりあえずホントのことを書いて送るしかないよなあ。メールじゃ絶対に信用されないだろうけど。いやしかし、向こうの怒りを逆撫でするだけだしなあ」
124 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:44:04.07 ID:MeNYOwih0
 ……あ、そうだ。

「アンチョビさん、冬季無限軌道杯について、他に知ってることある?」

「もちろんあるぞ。アンツィオも出場したからな。……まぁウチは今回も悲願の2回戦突破は果たせなかったのだが」

「じゃあ、それを書こう。アンチョビさんよろしく」

「おう! 任せておけ!」

 俺はアンチョビの書いた内容を確認(ネタバレのオンパレードだ。辛い)、こちらは本物のアンチョビであることや、情報漏洩の意図はなかったことを付け足すと、送信ボタンを押した。

 返信は1時間足らずで帰ってきた。
 深夜1時だというのにどういうことなのかと思ったが、よくよく考えてみれば最終章の公開まで残り1週間だ。向こうも修羅場なのだろう。
125 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:46:15.04 ID:MeNYOwih0
『正直に申し上げて、貴女が作品内のアンチョビと同一人物であるという話は信用していません』
『しかし、記載いただいた情報がこちらの承知している情報と概ね一致していることも事実です』
『なにか事情があるのではないかと推察いたします』
『つきましては、一度、直接お話をうかがいたいのですが、ご都合いかがでしょうか(とはいえこちらの予定を鑑みると、12月10日以降とさせていただきたく)。』

「よっしゃあーーっ!」

「おぉぉおおおおおおっ! やったな、戸庭っ!」

「とりあえず返信、返信しよう!」

「うんっ!」

『はい、もちろんです。日にちは指定いただいて結構です』
『実は、動画を公開していたのも制作の方に私の話を聞いていただきたいからでした。お会いするのが楽しみです!』

「こんな感じでどうだ!」

「いやー、完璧じゃないですか。送信しよう送信」

 アンチョビが送信ボタンを押す。
 返信は5分後にあった。
126 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:49:17.69 ID:MeNYOwih0
『では、一旦、12月10日とさせていただけますか。予定が変わったらまたご連絡します』
『それと、アンチョビというキャラクターを使うことには目を瞑りますが、未公開の情報を漏らすのは今後やめていただくようお願いします』

『了解です。それでは12月10日によろしくお願いします!』

 送信ボタンを押したアンチョビがにっと笑う。

「結果が出たな。戸庭のおかげだ。ありがとう」

「いやいや、俺はほとんど何もしてないよ」

「そんなことはないだろー? 動画の編集とかしてくれたじゃないかー?」

 アンチョビがぐいぐいと肘でつくので、「やめてやめて」と距離を取りつつ、俺は声色を変えて言葉を続けた。
127 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:51:13.82 ID:MeNYOwih0
「とはいえ、これで質問に答える動画は終わりかな」

「ん? ユーチューバーをやめるのか?」

「いやぁせっかくここまできたんだし、それもどうだろう。制作陣以外からの情報も欲しいしね。しばらく普通のユーチューバーみたいにゲーム実況とかしてみようか」

「ゲーム……あんまりやったことないんだがなあ」

「下手も下手なりに観てて楽しいもんだよ。ファンならより一層ね。まぁとりあえずいつもみたいにツイッターで募集してみましょう。アンチョビにやってほしいこと」

「うん、そうだな! そうしよう!」

「あぁでも、募集をかけるのは朝にやった方が良いね。こんな時間だし、ツイッター眺めてる人も少ないでしょう」

 深夜1時半。夜更かしをしている連中も、徐々に床へつき始める時間だ。
128 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:52:45.12 ID:MeNYOwih0
「む、確かにな。戸庭も眠った方が良い。明日も仕事だろう?」

「俺のことは気にしないで良いよ」

 アンチョビに「そうはいかないぞ」と背中を押され、俺は寝室へ誘導される。

 まぁアンチョビがそう言うならと俺は眠りにつき、目覚めたのは午前7時だ。
 5時間以上寝られたのなら上出来じゃないでしょうか。

 アンチョビへ声をかけ、俺は家を出た。

 出社したらデスクへかじりついてひたすら作業だ。
 やっていることは毎日まるで違うのに、作業量が膨大すぎて逆に単調に思えてくるというのは感覚が狂っているのだろうか。

 今日は昼食が食べられたので及第点。
 終電で家に帰り、アンチョビと一緒に夕食(もはや夜食だが)を食べて布団へもぐった。
129 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:55:10.16 ID:MeNYOwih0
 2017年12月8日。金曜日。

 働きづめである。
 いつからかと言えば少なくとも1週間以上休みがなく、どうやら最後の休みは例の5連休らしかった。
 10連勤か、なるほどなあ。

 リリースは、12月14日だ。残り1週間を切っている。
 そもそもまだ出来ていない機能すらある状態なので、どう計算をしても間に合う見込みはない。
 不完全なままリリースして問題の少ない機能はどこかという議論がすでに始まっている。
 超上流工程の皆さん、頑張ってください。

 家に帰るとアンチョビが優しく迎えてくれるのがせめてもの救いだが、帰宅できるのも2日に一度だ。
 正直もう精神が焼け付きそうだが、我慢も残り1週間と考えると何とかなるような気もする。
130 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:57:00.13 ID:MeNYOwih0
 仕事が忙しい(忙しいという概念で済まされるのか)なか、動画の投稿も続けていた。
 初めはゲーム実況が良いかとアンチョビと話したのだが、動画編集の難易度が高く、漫画や小説の紹介に切り替えた。

 昼のうちにアンチョビが動画を撮影しておき、2日に一度、俺が家に帰った時に2日分まとめて編集を行った。

 アンチョビには「なあ、本当に大丈夫なのか!?」と何度も何度も声をかけられ、その度に俺は「大丈夫大丈夫」と答えた。

 一度「私に出来ることなら何でもするぞ!」とも言われたのだが、マジで何でもしそうな雰囲気だったので怖くて適当にはぐらかした。
131 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 22:58:37.21 ID:MeNYOwih0
 今日は、12月8日。つまり明日は12月9日だ。
 移動中も飯を食っている間も仕事とアンチョビ(の動画)のことを考えていたのであまり意識していなかったのだが、今日はガルパン最終章第1話公開前日である。
 そういえば2日前だったか、舞台挨拶回のチケットが二人分当選していたのを思い出した。

「戸庭、明日は映画に行けそうか?」

「がんばります」

「無理はするな?」

「でもまぁ、ファンなので」

 心配そうに問うアンチョビへ返す。

 これだけ働いているのだ。
 映画を観るくらいの褒美はあっても良いだろう?
132 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:00:29.16 ID:MeNYOwih0
 2017年12月9日。土曜日。

 飯を食うと嘘をつき会社を出て、俺は山手線で池袋へと向かった。

 映画館のホールではすでにチケットを手にしたアンチョビが待っていて、俺を見つけると笑顔で手を振った。

 ユーチューブでの彼女の活躍を知る者も少なくないのだろう、アンチョビの姿に「え、あれ本物?」だとか「アンチョビじゃんっ!」といった声が上がる。
 狭い映画館で目立つのもなんなので、「あ、たぶん人違いだと思いますよ?」と言葉を残し、二人でそそくさと座席の方へと向かった。

「いやー、来れて良かったな、戸庭っ!」

「たのしみですねー」
133 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:02:20.93 ID:MeNYOwih0
 電車がギリギリだったので走ってきたのと、あまり体調が芳しくないのとで、コンディションは最悪である。
 万全な状態で臨めないのは残念だが、映画と舞台挨拶を観られるのは素直に楽しみだった。

 やがて、舞台挨拶と、映画の上映が始まった。

 壮大なオープニングに魅了され、ゴリアテが登場すると体調が悪いのも忘れスクリーンへ夢中になった。
 無限軌道杯の存在は知っていても、大洗の事情など詳細までは聞いていない。展開にも興奮できた。桃ちゃん可哀想。

 上映が終わる。

 余韻に浸りたかったが、時間がそれを許さず、俺はアンチョビと別れ会社へと戻った。

 会社へ着く頃には頭痛と体のだるさが戻っていた。とはいえ休んでいる場合ではない。
 粛々と手を動かし続け、深夜2時頃にカプセルホテルへと入った。
134 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:04:51.33 ID:MeNYOwih0
 2017年12月10日。日曜日。

 約束の時刻は13時ジャスト。
 アンチョビと共に荻窪にあるガルパン制作会社へ向かうこととなっていた。

 朝から体調は最悪だった。
 昨日も最悪だったがそれ以上な気もした。
 同僚も一人高熱でダウンしている。
 限界が近い。

 戯れに熱を測ってみたが、何故か熱はない。
 それじゃあまだ闘えるよねと俺はディスプレイへ向かった。

 昨日同様、昼飯を食べる振りをして会社を出た。
 新宿から荻窪までは電車で10分ほどだ。近くて助かる。

「顔色が悪いぞ?」

「大丈夫大丈夫」

 アンチョビとは荻窪駅で待ち合わせ、一緒に会社まで歩いた。
 平和な荻窪の町並みと弾む彼女の声は仕事を忘れさせる。
135 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:06:19.90 ID:MeNYOwih0
「あぁ、どうも。すぐにわかりましたよ」

 案内された部屋には会社の代表が待っていた。
 Blu-rayのコメンタリーで耳にした声だ。

「こちらがアンチョビさんかっこかりで、あなたが戸庭さん?」

「あ、はい。戸庭です。とはいえ、私はただの付き添いなので、お気になさらず。基本的にはアンチョビさんが話しますので」

「ちなみに失礼ですが、戸庭さんはどういう関係で?」

「簡潔に言ってしまうとアンチョビさんと一緒に住んでるんですけど、経緯の説明が必要かと思いますので、はい、じゃあ、アンチョビさんお願いします」

「おう! そうだな、まずは私が戸庭の家で寝ていたところから――」

 アンチョビは威勢良く語り出す。

 代表は興味深そうな顔でアンチョビの話に耳を傾けている。
 わざわざ呼んでくれたせいもあってか、ツッコミを入れる様子はない。
136 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:08:11.96 ID:MeNYOwih0
 やがてアンチョビが語り終えると、目の前の彼女の存在が信じられないのだろう、彼は頭を抱えて呟いた。

「これでも立ち上げの頃からガルパンには関わってるから、裏側は全部知ってるんだけどね」

「おーっ! それは助かる! ガルパンってどうやって生まれたんだっ!?」

 アンチョビの声に、彼は顔を上げる。

「監督と飲んでたら、突然企画を持ちかけられてね。監督初のオリジナル作品だし、まぁ基本的な設定は監督だよ。軍事考証や話の筋書きはまた別の人間が関わってたりもするけど。て、この辺りは調べてるよね」

「それじゃあ……私の設定は?」

 少し緊張した様子でアンチョビが問うと、

「監督がざっくり決めて、あとはキャラクターデザイン原案と脚本が詰めた感じかな」

「じゃ、じゃあ」

「悪いけど」

 代表がアンチョビの言葉を遮る。
137 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:09:49.23 ID:MeNYOwih0
「……悪いけど、別世界からやってきたガルパンのキャラクターから着想を得たわけでもないし、画面の中からキャラクターが表れるなんて話聞いた覚えもない。期待には応えられないね」

 アンチョビが息を詰まらせる。
 目を僅かに大きくし、返す言葉が見つからないようだ。

 ……せっかく来たんだ。これで終わりにはできない。
 見かねて、俺がフォローに入る。

「あの、企画を持ってきたのは監督なんですよね。だったら、監督にも話を聞いてみたいんですけど……どうでしょう」

 そうやって俺が問うと、

「監督は忙しいですからね。会ってくれるかどうかわからないですよ。ま、馬鹿馬鹿しいとは思いますが僕も信用してしまいましたし、一応聞いてはみますけど」

 そこまで言って、彼は「あぁ……でも監督なら喜んで会うって言いそうだな」と呟いた。

 あまり芳しくない結果だが、次には繋げられた。悪くない。
 俺は彼に礼を言うと、アンチョビと共に会社を出て、新宿へと戻った。
138 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:13:29.90 ID:MeNYOwih0
 2017年12月14日。木曜日。

 リリース日だ。
 当然のようにシステムには未完成の機能が残っているが、そんなものは後から対応してどうにかすれば良いのだふはは。

 代表とのメールでのやり取りの結果、監督との対面は明日の夜に決まった。
 だから今日のリリースはなんとか乗り切らなければならない。

 家には火曜から帰っていない。
 アンチョビは心配そうにメッセージを飛ばしてくるが、毎度のことながら適当にはぐらかしている。

「ここの文言、仕様が前のままですけど!」「文言は気にすんなっつっただろ!」
「バグあと何件だよ」「数える時間ももったいないわ50件は残ってるだろ」
「これやばくないですか? ホントにリリースするんですか?」「するつってんでしょうが」
「馬鹿なの」「ああぁあ終わる気しねええ」

 現場では怒号が飛び交っている。リリースは14時から。
 サイトの緊急メンテを挟み、終了は15時の予定だ。

 怒鳴るのは損だ。時間を無駄にしている。
 淡々と目の前のタスクをこなし、少しでもマシな状態でのリリースを心がけろ。
139 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:15:33.19 ID:MeNYOwih0
 禅僧のような精神で黙々と取り組んでいると、14時を前にしてリーダーが「一旦チケット投げるのやめろ!」と叫んだ。
 スタッフ全員の視線を集めると、リーダーは「おらおらいくぜえ!」と本番環境へのデータのアップロードを行う。

 そうして目標としていたリリースは終わったわけだが、まだ出来ていない機能すらある状態だ。
 作業をストップするわけにはいかない。

 やはり作業は深夜まで及び、そこでようやく「みんな疲れてるだろうから今日はもう解散だ!」とリーダーが言った。
 いやお前すでに23時だよ?
 
 ふらふらの状態で家へ帰るとアンチョビに「死にそうだぞ戸庭! 風呂かご飯か!」と迎えられた。
 俺はその両方を終えると、アンチョビへ「寝る」と伝え、寝室でベッドに倒れ込んだ。
140 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:18:10.62 ID:MeNYOwih0
 2017年12月15日。金曜日。
 だと思う。おそらく。

 目覚めると、体が動かなかった。

 目覚まし時計やスマホに手を伸ばすことすら叶わないので日時も確認できない。

 かすかにキッチンの方から香ばしい香りが漂って、それでアンチョビがそこにいることがわかった。

「アンチョビさん」

 喉から漏れた声は驚くほど小さかった。
 そこでようやく「あれ? これまずいのでは?」と勘付いた。

 体が動かないのは、尋常でないだるさと痛みが全身を襲っているからだった。
 意識は朦朧とするし、これは死ぬのではないかと思わされた。
141 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:20:04.38 ID:MeNYOwih0
 ひゅうひゅうと微かな呼吸が寝室に薄く響いた。
 何とか気力を振り絞ると指先がぴくりと動く。
 とはいえ起き上がるほどの筋力はないらしく、ベッドの上でもがくのみだ。

「ううう」

 覚悟を決めて体を転がす。
 すると、ベッドから落ちた俺の体は床と接触して鈍い音をたてた。

 やがて寝室の扉をノックする音と「戸庭?」と俺を呼ぶアンチョビの声が聞こえる。

 そこで俺が再び「アンチョビさん」と声をあげると、「入るぞ」と扉の隙間からアンチョビの綺麗な髪が見えた。

「戸庭っ!」

 アンチョビが叫ぶのが聞こえるが、俺にはどうにも遠い世界の出来事に思えた。
 ずぶずぶと暗く寂しい世界が俺の傍にあって、俺はその境界に立っていた。
142 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:21:21.13 ID:MeNYOwih0
「戸庭! 救急車! 呼ぶからな!」

 そう言うアンチョビに、俺はおかしいと思い「会社に行く」と返した。
 そういえば今日は監督とも会うのだ。
 病院へ行っているような場合ではない。

 視線を僅かに上げると、そこにいるアンチョビが瞳を震わせていて、今にも泣いてしまいそうに見えた。
 俺はアンチョビが泣かないよう頑張っているのに意味がわからないと思った。

 しかし、じきに脳みそが揺れて、視界が揺れて、ものを考えられるような状況でもなくなった。

 気を失う直前、俺は額に柔らかな感触を覚えた。
143 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:30:16.14 ID:MeNYOwih0
 初めに見えたのは白い天井だった。

 次に「戸庭っ」と声を上げるアンチョビの顔が見えて、首を動かすと室内にベッドが並んでいるのがわかった。
 どうやらここは病院の一室らしかった。

「いま先生を呼んでくるからなっ!」

 勢いよく病室を出て行くアンチョビに、俺は「元気だなあ」と素朴な感想を抱いた。

 やがてやってきた白衣を着たおっさんに問いかけられるまま答える。
 その課程で俺は、どうして自分がここに寝そべっているのかを知れた。

「わかるでしょ。過労ですよ。死にたいの?」

 そうやって顔をしかめる医者を、俺は心外に感じた。

「死ぬつもりはなかったんですけど……」

「冷静な判断が出来ないとそうなるよね」

 呆れた様子で医者が吐き捨てる。
 俺は僅かに憤りを覚えたが、脇で申し訳なさそうに佇むアンチョビを見て、感情がおさまった。
144 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:32:01.66 ID:MeNYOwih0
 なるほど、俺は、過労で倒れた。

 アンチョビはそれを、どうやら自分のせいだと感じているらしかった。
 彼女らしいと思った。
 しかしそれは決して事実ではない。

 医者が去って俺が「アンチョビさんは関係ないですよ」と言うと、彼女は「ごめん」と呟いた。

「なんで謝るの。関係ないって言ってるじゃん」

「関係はある。一緒に暮らしているんだ。『大丈夫』と言う戸庭を、私は信用してしまった。止めることができなかったんだ」

 言葉を紡ぐごとに彼女の瞳が潤んでいくので、俺は見ていられなくなって顔を背けた。

 医者には『最低でも五日は入院して休養すること』と告げられた。
 その間は仕事もアンチョビの助けになることもできない。
145 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:34:14.63 ID:MeNYOwih0
「今日、監督と会うの何時からだっけ」

「――18時だ。自分も行くなんて言うなよ?」

 先手を打たれてしまった。

「でもアンチョビさん、一人じゃ厳しいんじゃない?」

「大丈夫だ! どうとでもなる!」

 ……俺の「大丈夫」って言葉を信用したのを悔やんでるくせに、自分では言っちゃうんだよなあ。

「前回、俺のフォロー必要だったよね」

「う……っ! で、でも今回は大丈夫だ!」

「一人では行かせらんないよ。駄目。俺も行く。だってほら、こんなにも元気」

 そうやって右腕を上げてみせると、ついにアンチョビは水滴を頬に垂らした。えええ。

「私のせいで、戸庭が体を壊すとか、いやなんだ」
146 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:35:53.67 ID:MeNYOwih0
 ずがーん、と脳みそに隕石が落ちる。
 そういうのずるくないですか。
 体が硬直し、俺に染み付いたヘタレ根性では、何も言えなくなる。

「戸庭。私は、一人で行ってくる」

 しかし、嫌だ嫌だという話なら、俺にだって嫌なことはある。

「で、でも」

 声が震えるのにも構わず、言葉を続ける。

「俺は、俺のせいで、アンチョビさんが、向こうの世界に帰れなくなるのが、いやです」

 俺が言うと、アンチョビは瞼を強く閉じて天井を見上げる。
 そして少し間を置いて「んう〜〜〜〜」と唸った。
147 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:37:33.28 ID:MeNYOwih0
「よおし!」

 アンチョビが自らの膝を叩く。

「じゃあこうしよう、監督と会うのを延期する」

「え、忙しい人ですよ。そんな簡単に予定ずらしてくれるかな」

「前にも言っただろう。やってみなきゃ、わからない」

 にいっとアンチョビが笑う。
 俺はその言葉を否定することはできなかった。

「それじゃ、一度家に帰るぞ。着替えとか日用品を持ってこなきゃだからな。他に何か持ってきてほしいものはあるか?」

「タブレット端末さえあれば良いよ。あ、着替えってもしかして俺の寝室入る? だったら新品でも良いんだけどなあ」

 寝室には脱ぎ散らかした衣類や同人誌が転がっている。
 あまりアンチョビの目に触れさせたくない。

「今朝も入ったぞ」

 アンチョビは僅かに顔を赤らめてぶっきらぼうに言った。
 あぁ、そういえばそうだった。今更な話か。
148 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:39:08.64 ID:MeNYOwih0
「また後でな」と言葉を残し、アンチョビが去る。

 俺はアンチョビがいなければどうなっていたのだろう、とふいに思う。
 ifの話を考えても仕方がないが、まぁ運が悪ければ、横たわるベッドは病室のそれではなかっただろう。

 そういえばアンチョビへお礼を言うのもまだだったと気づき、戻ってきたら彼女にありったけの感謝を伝えようと思った。

 枕元にはスマホが置かれていた。
 画面をタップすると、何件も着信が残っている。
 ははあん、上司からである。
149 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/17(火) 23:41:17.35 ID:MeNYOwih0
 こちらから折り返し発信してやると、すぐに応答があった。

「戸庭あっ! 出社はどうしたお前! 寝坊か!」

「倒れたんで入院することになりました。しばらく会社行けそうにないです」

 俺が言うと「なんだと!」と向こうで上司が叫んでいるのがわかる。
 ぐだぐだ根掘り葉掘り訊かれそうでしんどかったので、俺は「詳しくはメールします」と言葉を残して通話を切った。

 やがてアンチョビが病室へ戻って、俺に告げた。

「監督と会うのは来週の金曜になったぞ!」

 俺はアンチョビが「もうやめてくれえ!」と叫ぶまで、彼女へ感謝の念を伝え続けた。

 アンチョビが家へ帰り、夕方になって熱がぶり返してくる。

 俺は病室のベッドでぶるぶると震えながら眠りについた。
150 : ◆JeBzCbkT3k [sage saga]:2018/07/17(火) 23:42:45.54 ID:MeNYOwih0
眠いのでここまでにします。
続きはまた明日書くと思います。
151 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 00:26:53.98 ID:iJSEyaf/0
おつつb
152 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 09:03:17.39 ID:TOsJ+ARCO
夢小説にしては読みやすい。他に書いてるやつある?
153 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 09:09:53.81 ID:kkfx2H6m0
このままだと俺(戸庭)があの世の世界にいってしまいそうな……
154 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/18(水) 12:41:11.46 ID:C/iQJitM0
一貫して主人公が色欲方向での男を感じさせないのが良いんだが、成人の読み物としてはちと不自然かな
155 : ◆JeBzCbkT3k [sage saga]:2018/07/18(水) 22:06:47.66 ID:/cdPx5HI0
>>152
156 : ◆JeBzCbkT3k [sage saga]:2018/07/18(水) 22:08:07.63 ID:/cdPx5HI0
間違えてShift+Enterしちゃった。

>>152
ガルパンでなくて恐縮ですが、この辺りです。
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1475588389/
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1481111726/
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1500552019/
157 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:08:51.98 ID:/cdPx5HI0
はい。再開します。
158 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:11:49.35 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月16日。土曜日。

 タブレットでVtuberの動画を眺めているとアンチョビが「おはよーうっ!」と現れた。
 右手にみかんとりんごの入った籠を提げている。

「戸庭、元気か?」

「ぼちぼちかな。まだ熱はあるけどね。アンチョビさんは元気そうでなにより」

「うんうん、しっかり休んでばっちり治せよ」

「そのつもりだよ。あぁそれより、ユーチューブ見てて思い出したんだけど、アンチョビさんの動画編集しなきゃだよね。悪いんだけど家からノートPC持ってきてくれる?」
159 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:13:12.98 ID:/cdPx5HI0
「……しっかり休んでばっちり治す気は本当にあるのか?」

 疑わしげに見るアンチョビに俺は言葉をかえす。

「病院って暇なんだよね。1日1時間作業してた方が気が紛れる。アンチョビさんはデスクトップPCの方使ってよ」

 りんごを食べながら5分ほど交渉したところで、アンチョビは「じゃあ明日だ。明日からな」と折れた。

 アンチョビが帰り、なるべく眠った方が治りも早くなるだろうと俺は目を瞑った。

 仮眠のつもりが、目覚めると真夜中。
 俺は暗闇の院内を恐る恐る歩き用を足すと、再び病室へ戻り布団にくるまった。
160 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:15:01.63 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月17日。日曜日。

 アンチョビの持ってきてくれたノートPCで動画の編集をしていると、花澤と長田がやってきた。

「転職案件やね」「これに懲りて無茶はやめよう」

「そうだなー、考えてみよっかな」

 初めこそ殊勝な言葉を吐く二人だったが、すぐに花澤によってボードゲームが持ち出された。
 コヨーテを1時間。
 熱中して遊んでいたら体温が38度を超えて看護師に怒られた。

 アンチョビへ電話でそのことを話すと、彼女にも「安静にしてなきゃ駄目って言っただろ!」と怒られた。
161 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:17:25.40 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月21日。木曜日。

 ようやくの退院である。

 最後の診察で医者には「次また過労で入院したら治療費倍額請求するぞ」と言われた。
 俺は「二度と来るか」と短く返した。

 受付ではアンチョビが待っており、一緒に病院を出てバスに乗った。
 バスを降りると、件のうどん屋で昼食をとった。

「会社にはいつから行くんだ?」

「来週から。明日までは入院してることになってるからね」

「――ちょっと待て。頭の中で審議する」

 数分間、アンチョビは「うーん」と考え込み、

「うん、OKだ」

「重畳です」
162 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:18:36.71 ID:/cdPx5HI0
 うどんを平らげ、食後のお冷やを飲んでいると、アンチョビが「そういえば」と思い出したように口にする。

「今日の分の動画はもう撮ってあるからな。編集頼むぞ。私、午後はいないからな」

「どこか行くの?」

「うん、バイトを始めたんだ」

 誇らしげにアンチョビは言うが、俺は驚くばかりだ。

「……いやいや、しなくて良いって。前にも言った通り、俺の給料で十分でしょう。働いてる暇があるんなら、その時間を使って元の世界へ帰る方法を探した方が良い」

「そうは言うがな。四六時中考え込んでばっかりいるわけじゃないだろ。時間は空いてるんだ。というか、そもそももう面接も通って働き始めてるしな!」
163 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:20:00.07 ID:/cdPx5HI0
「ええ、どこの店?」

「食べに来るか? 隣駅のイタリア料理店だ!」

 ――まったく、すごい行動力だなあ。

 まぁ、俺にアンチョビの行動を止める権利はない。
 俺が渡せる金に限りがあるのも確かだし、アンチョビに欲しいものがあるのなら自分の稼いだ金で買うのも良いだろう。

 ……けれど、この、一抹の寂しさは何だ。
 その根源を突き止めるのは、骨が折れそうだった。

 午後になり、久しぶりの我が家を満喫して、俺は戯れに二度目のガルパン最終章を観に出かけた。

 家へ戻るとアンチョビが夕食を作り終えていて、俺はそれを食べて眠った。
 体の疲れはなく、気持ちよく寝られた。
164 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:23:06.52 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月22日。金曜日。

 監督と約束した場所は、荻窪の小さな食事処だった。
 時間は夕食時の午後19時。
 それまで俺とアンチョビは、延々と家でガルパンを1話からぶっ通しで観賞した。

 荻窪に到着し、飲み屋街を歩く。
 ぽつぽつと灯る店の明かりと、酔いはじめのおっさん達の笑い声が、なんともいえない高揚を抱かせる。

「戸庭。店につくまで我慢だぞ」

 心中を見透かされたのか、アンチョビがそう忠告する。
 俺は「監督と会うのに酒飲んだりなんかしないよ」と返し、いささか歩調を早めた。

 店に辿り着き、中へ入ると、カウンターに立つおばちゃんに「いらっしゃい」と声をかけられる。

「あの、待ち合わせをしてるんですけど」

「あぁ、はいはい。もういらっしゃってますよ。2階に上がって正面の部屋ね」
165 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:24:35.56 ID:/cdPx5HI0
 おばちゃんに、店内の左手に位置する階段を案内され、「ありがとうございます」とアンチョビと二人でそれを上がる。

 正面のふすまをノックして中へ入ると、40代くらいの男女が下座に座って談笑をしていた。
 両方の顔に見覚えがある。
 女性の方は脚本、そして男性の方がガルパンの監督だ。

「あぁ、きましたか。どうもはじめまして」

「はい、はじめまして。戸庭です。あ、で、こっちが――」

「アンチョビだ! よろしくお願いします!」

 アンチョビが元気よく挨拶すると、俺は彼女と二人、監督と脚本の正面へ座った。
 あちらが下座に座っているので、こちらは仕方なく上座だ。
166 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:25:56.94 ID:/cdPx5HI0
 監督はアンチョビの顔を眺め、興味深げに、

「あぁ実際に観ると動画よりもホンモノ感が増しますね。当たり前なんですけど」

「失礼ですよ」

 脚本が苦笑して監督を注意する。
 そしてこちらを向き直り、「はじめまして、ガールズ&パンツァーで脚本を担当しています――」と名乗った。

「存じてます。会えて光栄です。ファンです。よろしくお願いします」

 俺にとってゴッドと呼ぶべき二人が目の前にいるのだ。
 緊張して言葉選びが下手くそになるのも許して欲しい。
167 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:27:30.48 ID:/cdPx5HI0
「嬉しいですね。ありがとうございます。何飲みます?」

 監督からアルコールのメニューを差し出される。

 ちらりとアンチョビへ目線を送ると、彼女は口角を上げた。
 飲んでいいぞ、ということらしい。

「……じゃあビールをいただきます」

「私はオレンジジュースをもらえると助かるな」

「あぁそうでした。アンチョビはまだ18歳でしたね」

 監督はそう言うと、ふすまを開き、階下へ「すみませーん」と声を放った。

 やがてビールとオレンジジュースが届き乾杯。
 枝豆と豆腐でちびちびやり出したところで、監督が「さて」と話を切り出した。
168 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:29:17.02 ID:/cdPx5HI0
「事情は聞いています。我々に訊きたいことがあると」
「私個人としても強い興味があったので、お願いして今日の場を設けてもらった形になります」
「じゃあ、まずはアンチョビさんの置かれている状況を詳しく教えていただけますか」
「あぁいえ、一部聞いてはいるんですが、なにぶん伝聞なので、実際に耳にしないとわからない部分もありますから」

 監督に促され、アンチョビは「ああ!」と前回同様、これまでの経緯を語り出す。

 アンチョビが十数分かけて語り終えると、今度は、

「じゃあ、次に、あちらの世界のことを教えてもらえますか」

 とさらに促した。

 アンチョビは再び語り始める。
 最終章2話以降のネタバレが大いに含まれており、俺は小さくないショックを受けたが、黙って耳を傾けた。えらい。

 アンチョビが「以上!」と話を締めると、監督は少し間を置き、口を開いた。
169 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:30:56.38 ID:/cdPx5HI0
「ガルパンのアニメの大筋は、基本的にはこの二人の頭の中から出てきています」
「ちなみにアンチョビというキャラクターに関しても、最初のアイデアは私ですが、肉付けをしていったのは――」

「私ですね」

 監督の言葉を、脚本が引き継ぐ。

「いまお話いただいた、あちらの世界でのアンチョビさんの近況ですが、作中では最終章以降のお話ですね」

「こんなことをうかがうのも何なんですけど、やっぱり今後の展開とまったく同じだったりするんでしょうか」

 俺が問うと、彼女は答えた。

「それはわかりませんね」

「……わからない、ですか?」

「どういうことだ?」

「というのも、アンツィオ高校の無限軌道杯での試合内容や、各生徒のエピソードなど語っていただきましたが、これらはきわめて細部の内容だと思うんです」

「私たち、まだそこまで考えてませんからね」

 そこまで、考えてない。
170 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:32:22.88 ID:/cdPx5HI0
 俺が愕然としていると、脚本が「少し訂正しておくと」と口を挟む。

「考えていないというのは語弊があって、もちろん大筋は決めてあるんです」
「しかし、細部の設定は今後詰めていく部分も多々ありますし、進行のなかで変更が入ることもあるでしょう」

「ですから、結論から言えば、こちらとしては何が正解かをお答えするのも難しい状況ですね」

「せっかく来ていただいたのに申し訳ありません。ちなみに一つ申し上げておくと、大筋は確かに我々の想定している展開と一致しています。ですから――」

 彼女はアンチョビへと目を向ける。

「貴女がアンチョビ本人だというのは、間違いないでしょう」

 アンチョビが喉を鳴らす。
 脚本はそんな彼女を見て「私が言うのもおかしな話かもしれませんけどね」と付け足した。
171 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:34:51.12 ID:/cdPx5HI0
「まぁ来ていただいたんですし、誠意としてこちらもお話しましょうかね?」

「そうですね。貴女がたを信用してお話します。絶対に、他言無用でお願いしますよ」

 監督の言葉に、脚本が続ける。

 そうして二人は語り出した。
 二人の脳内で描かれているガルパンの世界、その全てを。

 ――たっぷり1時間はかけただろうか、やがて話が最終章の結末に及んだ時、俺は思わず涙ぐんでしまった。

「長くなりましたが、このくらいですね。考えているのは」

「ええ。変更の可能性はありますけど、この程度です」
「……ですから、アンチョビさんの語った細部は、現状、この世界では誰の手によっても生み出されていません。貴女の中にしかないものです」

「……じゃあ、私は、一体」

 声を震わすアンチョビに、脚本が返す。

「わかりません。けれど、一人の確固たる人物ではあります」
172 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:36:43.70 ID:/cdPx5HI0
 ぐびぐびとビールジョッキを飲み干して監督が繋げる。

「まぁなんといいますか、私たちからはこれ以上情報は出せませんからね。アプローチを変えてみるのはどうでしょうか」

「アプローチ、ですか」

 俺が問うと監督は答える。

「はい、そうです。ここにいるアンチョビという人間はどうやって生み出されたものなのか。それを想像してみましょう」

「どうやって生み出された……例えば、画面の中から出てきた、とかですか?」

「そうです。しかしそれは否定できますね。画面の中では、まだ無限軌道杯は終わっていません」

「じゃあガルパンの世界というのがあって、そこからこちらの世界へやってきたというのはどうだ!?」

「私たちが創り上げた世界観と同じくするガルパンの世界というのが、仮にあるのだとしたら、もの凄い偶然ですね。まぁ並行世界という概念上あり得るのかもしれませんが」
173 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:39:00.32 ID:/cdPx5HI0
「少し口を挟みますが、戸庭さんが劇場版鑑賞後に彼女は現れたということでしたよね?」

「あぁはい、そうです」

「では、貴方が想像もしくは望んだことによって彼女がこの世界に具現化されたのだという可能性はありませんか?」

「……それは前にも考えましたが、アンチョビは俺の知らないアンツィオの話を知っていたので、ないかと思います」

「それは否定材料にはなりません」

 俺が言うと、監督がそうきっぱりとこたえた。

「戸庭さんの頭の中から生まれた存在だとしても、戸庭さんそのものではないわけですから」
「けれど我々しか知らない情報も持っていたことを考えると、私たちから影響を受けている可能性は高いと思います」

「……え、まさか本当に」

「はい。一番信憑性が高いのは、このパターンかと思います」

「信憑性という意味だと、アンチョビというキャラクターがこの世界にいるということ自体、あまり信憑性はないですけどね」
174 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:41:26.93 ID:/cdPx5HI0
「それでつまり、私が何が言いたいのかといいますと、このパターンだった場合、お二人の目的自体がちぐはぐなんじゃないかということです」

 目的というのは、つまり……。

「私が、元の世界に帰ることか」

「そうです。厳しい言い方になりますが、このパターンだった場合、帰るべき元の世界というのがそもそも存在しません」

「わ、私は――」

 アンチョビが今にも泣きそうなほどに声を震わす。

 あぁ、これ以上続けるのは駄目だ。

 慌てて俺は、アンチョビの口を塞ぐべく監督へ話しかけた。
175 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:43:15.97 ID:/cdPx5HI0
「あ、あの、ひとまず、結論を急ぐのはやめておきませんか。あくまで可能性の一つというだけで、これで決まったわけじゃないですよね?」

「あぁ、その通りです。可能性の話です。ごめんなさい」

 監督が言うと、脚本がアンチョビの方を向く。

「これだけは言っておくべきだと思うので、言いますね」

 そう前置きして、

「例えば、もし仮にですよ。貴女がこの世界への定住を選択するなら、おそらく私たちはそのお手伝いができると思います」

「はい。そうですね。いつでも頼っていただいて構いません。今更ですが、連絡先です。どうぞ」

 監督の差し出した名刺を俺が受け取る。
 アンチョビはまだ放心しているようで、監督が名刺を差し出されたことにも気付いていない様子だ。
 続けて脚本の差し出したそれも、「どうも」と俺が受け取る。

 しばし場に沈黙が訪れ、それを打ち払うかのように、脚本がぱんっと手を叩いた。
176 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:45:22.23 ID:/cdPx5HI0
「はいっ。じゃあひとまず今日はこれで終わり。あとはご飯を食べながらお話しましょう」

「そうですね、そうしましょう。ちなみにアンチョビさんは何か食べたいものはありますか? イタリアンでなくて申し訳ないですが」

 二人が言うと、アンチョビは、はっと気付いたように目を開いた。

「うん、私はなんでも良いぞ。みんなの食べたいものを優先してくれ!」

「あ、じゃあ、俺、だし巻き卵が良いです」

「良いですね。ここのだし巻きは絶品です」

 監督が言って、階下からおばちゃんを呼び、注文をする。

 ひとしきり雑談をして、2時間ほど経って解散をする頃にはアンチョビのテンションは元に戻っていた。

 けれどきっと、夜更けにまた彼女は塞ぎ込むのだと思う。
 俺はそのことを忘れないよう胸に刻み込む。
177 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:47:26.49 ID:/cdPx5HI0
「それでは。今日は貴重なお話をありがとうございました。また会いましょう」

「うん、こちらこそ、ありがとう!」

 店を出て、監督とアンチョビが別れの挨拶をする。
 飲み屋街の向こうへ歩いて行く監督と脚本の二人を見送り、俺はアンチョビと共に駅へと向かった。

「戸庭」

「なに?」

 小さく呟くアンチョビへ目を向けると、彼女は前を向いたまま言葉を続けた。

「これからも、よろしくな」

 何を当たり前のことを、と思ったが、とりあえず俺は「こちらこそよろしく」と答えて彼女の隣を歩いた。
178 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:49:19.49 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月23日。土曜日。

 動画の編集をしていて、あぁそういえば、と気付く。

「今日からガルパン博じゃん。どうしよ、いつ行こうかな……」

 前売り券は日付指定で、確か前売り券の段階で売り切れとなっている日もあったはずだ。
 すでに時遅しという可能性もある。

「アンチョビさん、今日って時間ある? ガルパン博――」

「これからバイトだ! 行ってくる!」

 アンチョビはリビングを飛び出し外へ駆けていく。

 ……とりあえず今日のところはやめておくか。
 冬コミのサークルチェックでもしてよう。
179 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:51:21.33 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月24日。日曜日。

「戸庭! メリークリスマス! 今日は空いてるよな!」

「なんですかそれは挑発ですか」

「挑発? 何でだ?」

「いやこっちの話。空いてるよ」

「よおし! じゃあ行こう!」

 とアンチョビが取り出しましたるは、なんとガルパン博の前売り券である。
 指定された日付は、12月24日、今日だ。

「お、おぉおおおおっ? か、買ってあったの?」

「おう! 日頃のお礼だ! ちゃんとバイト代を前借りして自分のお金で買ったぞ!」

「すごい、マジ感謝だわ。ありがとうございます……」

「ふふーん、まぁ世話になってるんだし、このくらいはするさ!」
180 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:52:55.88 ID:/cdPx5HI0
 というわけで、アンチョビと二人、池袋サンシャインシティへ。
 カップルでわいわいと賑わうショッピングモールを抜け、会場へ辿り着くとすでに長蛇の列が出来ていた。

「おー、すごい人だな」

「あ、でも思ってたよりも少ないな。前売り券制だからかな」

 会場内へ入り、二人揃ってヘッドホンを被る。
 ヘッドホンからは西住姉妹による音声ガイドが流れてきて、アンチョビはそれを耳にして郷愁を覚えているのか、柔らかい表情を浮かべていた。

 展示を見終わりグッズを購入すると、二人で謎解きに挑んだ。
 サンシャインシティを2時間ほど歩き回ったところで、解答へと辿り着く。
 謎のほとんどはアンチョビが解いた。さすがアンチョビである。
181 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:54:44.84 ID:/cdPx5HI0
 そういえばガルパン博のチケットをプレゼントされておいて、俺の方はクリスマスプレゼントを何も用意していないのに気付き、サンシャインシティでアンチョビへ帽子を買った。
 もっとコートやら何やら高いものを買おうかとも言ったのだが、いやいやそこまでしてもらうのは悪いと返されたのだ。

 夕飯は池袋のイタリアン料理店で食べた。
 アンチョビの働く店に行こうとも誘ったのだが、またも「今日は駄目だ!」と断られた。

 東上線に乗って自宅へと戻ると、アンチョビがケーキと赤ワインをどこからともなく取り出した。

 赤ワインは追加のクリスマスプレゼントだそうで、「すぐ飲みたい」と俺が言うと、アンチョビは「つまみがいるだろ」と肉を焼いてくれた。
 必然、俺はすぐさま酔っ払った。

「いやーあはは、すごいなあ最高だなあ」

「おー、それは良かった。うんうん、用意した甲斐があった!」

「マジ感謝しかねえ。幸せしかねえぜあはは」
182 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:56:22.25 ID:/cdPx5HI0
「……あー、そういえば、戸庭。普段は適当にはぐらかしそうだし、今だから聞くんだけどな、私って、いつまでここにいて良いんだ」

「え? いつまでいても良いよ」

「お、ぉお。そ、それは……ま、まぁ私も――」

「あー、でもまぁぐだぐだしちゃってアンチョビさんが元の世界に帰れなくなってもあれだし、気は引き締めないとなあ」

「……そういう話では、ないんだがなあ」

「え、なに? どういう話」

「いや、いい。また今度、昼間に話そう。さあ、今日はぱーっと飲めっ! ちょっと遅くなったけど退院祝いだ!」

 アンチョビにつがれた赤ワインを、わっはっはと飲む。
 いつの間にか寝落ちしていたのでいつベッドへ倒れ込んだのか定かではないが、おそらく深夜0時は回っていたと思う。

 目覚めたのは翌日だった。
183 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 22:58:19.54 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月25日。月曜日。

 酔いが残る体で、久々の出社だ。
 オフィスに着くと、俺を目にした上司がすぐに口を開く。

「あぁ戸庭。久しぶりだな。まったく、休んでた分は働いて取り戻してもらうからな」

 はっはっは。世辞でも良いから労いの言葉が欲しいぜ。

 俺は心が折れた。

 終業後、上司を会議室へ呼び出して宣言する。

「辞めます」

「あん? 何を?」

「いや、会社ですけど」

 そう言った上司は、ぽりぽりと側頭部を掻いた。
 特に驚いた様子はない。多少は予想をしていたのだろう。
 ふー、とため息をつき、「いつやめるの?」と短く言った。
184 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:00:12.95 ID:/cdPx5HI0
「なるはやですかねー。2月末くらいですか」

「とりあえず社長に言っとくが、それなら別に構わんだろうと思うよ。プロジェクトの途切れめだしな。まぁ俺個人としては心底残念だよ」

 淡々と言う上司に「はぁまぁそうですね」と返し、俺は会社を出た。
 帰りの電車の中では心がうきうきしてたまらなかった。

 とはいえ、自宅の最寄り駅に着いて、アンチョビへ報告することを思うと、段々と気が重くなってくる。
 転職活動も何もしてないのに、俺は果たして大丈夫なのだろうかという不安にも襲われる。

 鬱々とした気分を抱きながら、しかし早く言っておかなければとアンチョビの顔を目にして、俺は口を開く。

「アンチョビさん。上司に仕事やめるって言っちゃった」

「おーっ! 良かったじゃないか! よおし、退職祝いだ!」

 天使かよー。

 俺はアンチョビの用意してくれた夕飯を肴に、昨日の残りの赤ワインをがぶがぶと飲み干した。
185 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:02:46.80 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月29日。金曜日。

 前日に仕事を納め、冬休み初日。そして冬コミも初日だ。

 普段なら俺もコミケには初日から参加しているのだが、今回はアンチョビもいることだし自重することにした。
 代わりにガルパンジャンルのある二日目に全力を費やすのだ。
 アンチョビも俺も、色んなフォロワーと会う約束をたててもいる。

 アンチョビは朝からバイトへ出かけていった。
 俺も暇だったので昼飯ついでに彼女の働くイタリアン料理店へ顔を出す。
 アンチョビは、活き活きと働いていた。

「おーっ! 戸庭きたのか! よおし、何でも注文しろ? 今日はタダで良いぞっ」

「いや悪いよ。払うよ。お金あるし」

「なに気にするな。私の給料から天引きにしてもらうだけだっ」
186 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:04:09.70 ID:/cdPx5HI0
 あまりにも眩しい笑顔でそう言うので、俺はお言葉に甘えてパスタとドリンクのセットを注文した。
 出来上がった料理は大層美味で、家で食べるアンチョビのそれに味がよく似ていた。

 午後になると花澤と長田がやってきて、一緒にゲームをして遊んだ。

 アンチョビがバイトから戻ると、前回のリベンジだと彼女が意気込み再び麻雀が開始されたのだが、やはり今回も長田の勝利に終わった。
 長田は「じゃあ明後日、俺の戦利品買うの手伝って」と地獄のような命令を下した。

 花澤と長田は、いつも通り、酒に酔っ払って俺の寝室でいびきをたて始めた。

 明日のことを考え、俺とアンチョビも早々に眠りに就いた。
187 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:06:30.73 ID:/cdPx5HI0
 2017年12月30日。土曜日。

 キミドリ氏の好意で通行証を譲ってもらい、俺とアンチョビはサークル入場でビッグサイトへと入った。
 長田と花澤は起こしても起きなかったので家に置いてきた。

「おぉおお、なんだか気分が高揚するな。これがコミケか」

「始まるとこんなもんじゃ済まないよ」

 アンチョビと話をしながら、東館へと向かう。

 なんだか、こうしてアンチョビと一緒に歩くのも慣れてきてしまっているなあ。
 最初は緊張してどぎまぎすることもあったけど、今ではこれが自然になっている。

 俺にとっては喜ばしいことだろうけど、それはきっと、本当に俺にとってでしかないだろう。

 どうして慣れてしまっているのか。
 アンチョビが目的を果たせていないからだ。
 元の世界へ帰れていないからだ。

 彼女の目的を無視して俺だけ喜んでいるというのは、人としてどうなのか。
188 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:09:09.74 ID:/cdPx5HI0
「……アンチョビさん」

「なんだ?」

「そろそろ話しておきたいんだけど、次の策、どうする?」

「策? なんのだ?」

「監督と話したじゃん。残念ながら元の世界へ帰る方法はわからず仕舞いだったけど、情報は増えたわけだし」

「……あぁ、その話か」

 アンチョビは心なしか目蓋を落とし、言葉を続ける。

「そうだな、次の策というか、話したいのは――」

 そこまでアンチョビが言ったところで、館内に入った俺たちの耳に「おぉお〜〜、お久しぶりです〜〜」と声が届いた。
 顔を向けると、キミドリ氏がサークルスペースで右手を振っている。
189 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:11:08.40 ID:/cdPx5HI0
「あぁ、キミドリさん、本当にありがとうございます」

「いえいえ、このくらいはお安いご用ですよ。そちらは? その後いかがですか?」

「ぼちぼちですかね。まぁその話はおいおい」

「はははそうですな。では一旦、予定を決めちまいましょう。いやあ、今日はよろしくお願いします」

「いえいえ、こちらこそ」「よろしくな!」

 サークルチケットを譲ってもらった代わりに、俺たちはキミドリ氏のサークルで売り子の手伝いをすることになっている。 
 アンチョビの売り子は、人呼びにはもってこいだろう。
 売り子も一日中やるわけでなく手伝い程度、空いた時間はコミケを好きに回って良いとのことだ。ありがたい申し出である。
190 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:12:34.92 ID:/cdPx5HI0
「着替えてきたぞ! どうだ!」

「とても可愛いと思います」

「いやはや、やっぱり似合ってますねえ。……失敬、当たり前ではありますが」

 せっかくなのだから、アンチョビもアンツィオの制服に身を包んでもらった。
 ガルパン島に佇む彼女の姿は、とてもおさまりが良い。

 やがて拍手と共に会場。
 俺はキミドリ氏とアンチョビに一時別れを告げ、ガルパン島で同人誌を買い漁る。

 1時間ほどであらかたの戦利品を手にし、キミドリ氏のサークルへ戻ると、アンチョビが忙しそうに本(健全本だ)を買いに来た一般参加者の相手をしていた。
 挨拶、本の受け渡し、金銭の受け取り、雑談、握手。
 それらをてきぱきとこなしながらも、まったく笑顔を絶やさない辺りアンチョビはさすがだ。
191 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:15:05.29 ID:/cdPx5HI0
「それでは私は挨拶回りに行ってきますよ。後はよろしく頼みますっ」

 と去っていったキミドリ氏と入れ替わりに俺がサークルスペース内へ入る。
 アンチョビの隣に並んで、同人誌をさばいていった。

 キミドリ氏は新刊を強気に300部刷ったとのことだったが、みるみる数が減っていき、キミドリ氏が戻る頃には残り段ボール一箱分となっていた。

「いやあ助かりました! あとは私一人で十分です。今日はお二人ともお疲れ様でした!」

 キミドリ氏に挨拶し、午前中に比べ歩きやすくなった場内をアンチョビと回る。
 アンチョビに向けられる視線の数は、池袋でのそれの比ではなかった。
192 : ◆JeBzCbkT3k [saga]:2018/07/18(水) 23:16:17.59 ID:/cdPx5HI0
 ひとしきり歩くとコスプレ広場へ向かった。
 アンチョビの服装はコスプレにあたるのかどうかわからないが、まぁ細かく気にする者もいなかろう。

 コスプレ広場にて、アンチョビが「はあっ」とポーズをとると、周りでぱしゃぱしゃとシャッター音が鳴った。

 すでに界隈で彼女の存在を知らぬ者はいないくらいになっている。
 そもそもの人気もあいまって、アンチョビを取り巻く人混みはもの凄いことになった。
 スタッフが現れるまでその混雑は続いた。

 場が解散した後もコスプレ広場にいると、アンチョビへ挨拶に来る人間がひっきりなしに続いた。
 ツイッターのフォロワーだ。
 驚いたのはアンチョビが彼らのアカウント名を全て記憶していたことで、これも彼女の隊長たる所以の一つなのかと思う。
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