千早「賽は、投げられた」

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331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 21:26:59.90 ID:JrEUEl3No
いまさら噛み付くほどでもないでしょ
332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:43:35.73 ID:Zo4S+Uss0
>>330
遅く感じられる方には申し訳ないです。
SS速報全体で見れば特に遅くもないため、初見の方も多いだろうということもあり言及しておりませんでした。
また、投稿者レスをしていなかったのは、(以前の投稿の時もそうだったのですが)物語を邪魔しないよう投稿者レスはしたくないという理由もありました。
シリアスな作品だと投稿者のコメントで興醒めしてしまう方もいらっしゃるので……。
結果として説明足らずでやきもきさせてしまい、重ね重ねすみません。
333 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:11.08 ID:Zo4S+Uss0

雨粒でない雫が頬を伝った時。

突然、雨が止んだ。


「傘を忘れたのかね?」


声を掛けられて見上げると、傘を差した社長がいた。


「如月君が、雨に打たれながら歩いている姿が見えてね」


そう言うと、私の反応も待たずに、傘の柄を差し出してきた。


「風邪を引くといけない。使いなさい」

「……結構です」


私は社長の視線から逃げるように、速足気味に傘から出た。
334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:39.35 ID:Zo4S+Uss0

「如月君」

「放っておいてください」


誰とも話したくなかった。

きっと、居たとしても、春香とも。


「今日――天海さ――母さ――事――所――」


何かを言っている社長を背に、私は走った。


「――記は――二冊とも――」


雨音が、水を蹴る音が、私の鼓動が。

社長の声を掻き消していく。

水たまりを踏むたびに、私は鞄を守るように身を縮こまらせた。
335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:30.70 ID:Zo4S+Uss0


私は走る。

自分の小さな国へ逃げ込むために。


逃げる?

私はもう、自分のことなんてどうでも良かったのではなかったかしら?


そうだ。

私は変わっていない。

弟を亡くしたあの頃から。

336 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:57.36 ID:Zo4S+Uss0




本当は泣き虫で、一人ぼっちで。


弱い弱い、私のまま。



337 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:48:32.82 ID:Zo4S+Uss0

「っはぁっはぁっはぁっ……」


逃げ込んだ場所は、明かりのない、暗い部屋。

まるで私を写しとったかのように。


「イヤ……」


重い身体を引き摺り、雨水を滴らせながら。

部屋の奥を目指しながら、呻くように声を上げる。


「もう、イヤ……」


鞄をベッドの横へ放り出す。

糸が切れた人形のように、私は崩れ落ちた。


「もう……もう……!」


何も、いいことなんてなかった。

このすごろくは、私を苦しめるだけだった。
338 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:02.62 ID:Zo4S+Uss0



もう、いいわよね?

私、頑張ったでしょう?


もう、駒を止めても。

もう、休んでも。


いいわよね。


ねぇ、春香?


339 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:28.62 ID:Zo4S+Uss0





――。




340 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:54.75 ID:Zo4S+Uss0





『お願い、千早ちゃん』


『前に進むことを、やめないで』




341 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:50:37.00 ID:Zo4S+Uss0

……はるか?


春香の声が、聞こえた気がした。

ずっとずっと、聞きたかった。

優しい優しい、あの子の声。


「どこ……はるか、どこ……?」


重い身体に鞭を打つ。

何かに縋るように、声が聞こえた方を見る。


水に濡れた鞄が一つ、部屋の隅に転がっていた。
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:51:51.61 ID:Zo4S+Uss0

恐る恐る、鞄を手に取る。


重い。


鞄だけの重さではない。

中に入っている、二つの重さ。


雨音の中で、微かに聞こえた社長の言葉。


『日記は、二冊とも読んだのかね?』


鞄を開けると、表紙の焼けた古い日記とは別に。


もう、一冊。
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:52:36.48 ID:Zo4S+Uss0


『Dream』


そう、優しい文字が書かれた表紙。

夢。

私がいつか、どこかに置き忘れてしまったもの。


ノートは全く濡れていなかった。

思っていた以上に、鞄の防水性能が良かったのか。

それとも、何かが守ってくれたのか。


まだ読んでいない、二冊目の日記。

表紙をめくろうとする。


が、指が動かない。
344 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:27.82 ID:Zo4S+Uss0

「読まなくちゃ……でも、私……」


凍てついたように、指は動かない。

雨に濡れ、冷えて縮こまった私の心は、あと一歩を踏み出すことができない。


いつか七色に彩られていた心のキャンバス。

今はまるで、埃を含んだ雨水のようにくすんでいて。

幼いあの日、掌から幸せが零れ落ちたあの日。

部屋の隅で泣きもせずに座り込んでいた、あの日のように。
345 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:58.56 ID:Zo4S+Uss0

その時、ぴくり、と指が動いた。


私が動かしたわけではない。

自身の意思に反して、勝手に動いた。

誰かが、そっと優しく、私の手を取るように。


「……どうしてかしら」


誘われるように、表紙の文字をなぞった。


「暖かい……」


押し付けた指の腹が、じんわりと熱を帯びる。
346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:28.32 ID:Zo4S+Uss0

夢と書かれた、真新しい表紙。

それを書いたのが春香だと思うだけで、胸が熱くなり、痛くなる。

灰色の澱みに沈みきった私には、眩しすぎる明るさ。


私はこの日記を読まなければいけない。

社長に言われたから?

プロデューサーに渡されたから?

春香のお母さんが、きっとそれを望んでいるから?


いえ、違う。

きっとそれを望んでいるのは、他でもない――


「春香……あなた、なのよね」
347 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:54.77 ID:Zo4S+Uss0

そう思うと、不思議と指が動いた。

一体なぜなのかは、自分でも分からない。


春香に会いたいからか。

どんなに小さな光でも、縋りたかったからか。

最早、自分にできることは、何一つなかったからか。


渦巻く脳の荒波には、色々な想いがごちゃ混ぜになっている。

それらが求める、共通の、一つの答え。


「……読ませてもらうわね、春香」


目の前にある彼女の記録を、確かめること。
348 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:00:33.43 ID:Zo4S+Uss0

宝物の輝きが窓の外へ漏れないように。

誰かから隠すように、こっそりと表紙をめくる。


めくった瞬間目に入ってきたのは、元気良く跳ねるような文字だった。


『今日は、アイドル事務所へ面接に行ってきました!』


春香の日記では、有り得ない言葉。


『トップアイドルになって、みんなに笑顔を届けられる人になります!』


それは、彼女がいつか胸に刻みたかった、強い決意で。


そう。

これは、自分の日々を綴った記録ではない。

彼女が想い描いた、そうありたかった自分。

目指すことさえ許されなかった、彼女の在りたかった姿。


私が開いた日記は、天海春香が描いた夢、そのものだった。
349 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:02.89 ID:Zo4S+Uss0

彼女は、自らの運命を知っていた。

叶わぬ夢、いずれ訪れる虚無の恐怖。

それでも彼女は叫んだ。


『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


彼女は終わりが近づいても、恐怖を叫ばなかった。

彼女が嘆いたのは、日々の終わりでも、自らの病でもない。


自らの力で、夢を目指せないこと。


この日記は、そんな彼女の、夢。
350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:31.99 ID:Zo4S+Uss0

ページをめくるたびに、彼女の奮闘記が現れる。

どこかの世界であったかもしれない、夢の日々。


『事務所のみんなに挨拶をしました』

『社長も事務員さんも、プロデューサーさんも、候補生のみんなも、みんなみんな優しいです』

『ちょっと周りに振り回され気味だけど、頑張ってやってます』


少し既視感を覚える出来事たち。

新しい世界に心躍る彼女の心が、ほんわりと伝わってくる。
351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:02:36.50 ID:Zo4S+Uss0

レッスンに取り組む春香。

営業へ赴く春香。

仲間たちと笑い合う春香。

小さなステージに立つ春香。


一行一行が、私の胸をきゅっと締めつける。

辛いから、じゃない。

彼女が綴る出来事の一つ一つが、理解できるから。

自分の身に起こったことのように、理解できるから。

そこから生まれる喜怒哀楽を、理解できるから。

それらが素晴らしい日々なのだと、理解できるから。




理解できる、から?
352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:05.20 ID:Zo4S+Uss0


『律子さんが昔貰ったファンレターを見ました』


『あずささんとコーヒーを飲みました』


『オーディション前に、亜美と一緒に走りました』


『響ちゃんのお兄さんを追いかけてみました』


『雪歩と喧嘩しちゃったけど、仲直りしました』

353 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:31.10 ID:Zo4S+Uss0

「痛っ……」


ずきん、と、頭の奥が響いた。

何かをこじ開けるような痛み。

無理矢理詰め込んだクローゼットの扉が、圧力で軋むような。
354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:20.67 ID:Zo4S+Uss0

一行ずつ、声に出して読む。


「美希が遅刻して、みんなで謝りました」

寝坊した本人は、素知らぬ顔であくびをしてて。


「真と二人で、深夜番組のレギュラーを貰いました」

方向性を間違った真の爆弾発言を、必死に修正して。


「番組の収録で、四条さんと旅行に行きました」

露天風呂で格の違いをまざまざと見せつけられて。


「やよいとその家族と、遊園地で遊びました」

連れ込まれたお化け屋敷で悲鳴を上げちゃって。


「真美とのラジオ番組の人気が出てきました」

時折真美の言葉の意味が分からずに聞き返すと笑われて。


「出演したCMは、伊織の実家のものでした」

当の伊織本人は、かたくなに出演を拒んで。
355 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:56.10 ID:Zo4S+Uss0

「……どうして、私は知っているの?」


これらは彼女の夢。

叶わなかった、実在するはずのない彼女の夢。

そのはず。


でも、分かる。

日記の出来事があった時、みんなはどんな様子だったのか。

その時、彼女はどんな気持ちだったのか。


『作曲家の方が、歌手として私を指名してくれました』

『重圧に押しつぶされそうだけど、頑張らないと!』


まるで自身がそこにいるかのように分かる。

理解、できる。
356 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:05:59.49 ID:Zo4S+Uss0

「私の、歌を、みんなが……」


読み上げる声が震える。

目頭が熱い。

何かが込み上げてくる。

眼前が滲んで、日記の文字が読めない。


私はそのまま、日記を閉じた。


「どう、して……」


しばしの静寂の後。

代わりに、問いかけの言葉が口から漏れる。

その問いに意味はない。

私はもう、その答えに気付いていたから。
357 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:09:18.28 ID:Zo4S+Uss0

「ぅあぁ……ぁ、あぐぅうぅ……!」


堪えようとする。

けれど、嗚咽は喉の奥に留まっていてはくれない。


ぼろぼろと落ちる涙。

口から漏れる泣き声。


私はもう、我慢することができなかった。


「はる、か」


濡れそぼった情けない顔を、手のひらで覆う。


「私が、そうだったのね」


その日記に記されていたのは、かつて私が春香に語った出来事たち。

彼女が目を輝かせながら、食い入るように聞いていた日々。


『わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!』


病床に臥せる彼女の、たった一つの、大切な想い。
358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:10:52.17 ID:Zo4S+Uss0




「私が過ごしていた、あの日々こそが」


「あの幸せな、日々こそが――!」



春香が。


あなたが、ずっと追い求めていた、夢だったのね。



359 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:11:27.54 ID:Zo4S+Uss0


ばきり。


頭の中で、閂が折れる音がした。


「私は、ずっと、ずっと」


扉が開く。


そこから差し込み、仄暗い部屋を満たす、強い光。

360 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:16.81 ID:Zo4S+Uss0



黄、


緑、


黄緑、


橙、


紫、


浅葱、


桃、


黒、


白、


臙脂。


361 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:42.72 ID:Zo4S+Uss0


部屋を彩る、極彩色の輝き。


私がずっと見ていた、夢の輝き。


鮮やかな色たちが飛び跳ねる。


マーブル模様を作りながら、青い光へ入り混じっていく。

362 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:08.37 ID:Zo4S+Uss0


辛いことが、たくさんあった。

何度も心が折れた。

何度も何度も、化膿した傷を抉られた。


それでも。

それでも、顔を上げてきた。

前を向いてきた。

前を、向かせてくれた。

363 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:48.56 ID:Zo4S+Uss0



馬鹿みたい。

辛さなんて瑣末なことだった。

程度は違えど、誰にでも辛いことはある。

そんな時でも、私には傍に支えてくれる人がいた。


大切なのは、とてもとてもシンプルなこと。



「私はずっと、誰よりも、幸せ、だった」



世界一の大間抜けが、たった一つ気付かなかったこと。


364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:23.21 ID:Zo4S+Uss0

幸せを無下に食い潰していた私を、春香はどう思っていただろうか。


嫉んでいただろうか。

怨んでいただろうか。


違う。


『だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ』


私が幸せを食い潰していても尚、傍にいてくれた。

私を支えようとしてくれた。
365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:50.66 ID:Zo4S+Uss0

幸せに恋い焦がれ。

追いかけて。

手を伸ばして。


でも、それ以上に。


「ずっと私のことを、見てくれてた」


夢の日記の、最後の空白ページ。


「ずっと私のことを、想っていてくれた」


そこには書きかけの、シャープペンシルの筆跡。


「ずっと、私の幸せを、願ってくれていた」


きっともう力が入らなかったのであろう、震えるような『千早ちゃんと』の文字。


「大切な大切な、友達……!」



青い雫が、床に当たって弾けた。
366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:15:26.60 ID:Zo4S+Uss0

いいえ。春香だけじゃない。


「律子も、伊織も」

「亜美も、真美も、あずささんも」

「真も、萩原さんも、高槻さんも」

「美希も、我那覇さんも、四条さんも」


社長、音無さん。


プロデューサー。


「私は、たくさんの人に幸せを、もらってっ……」


雫が止まらない。

体中の私を絞り出すように、ぽたり、ぽたりと床を打つ。


「あ、うあ、ぅぅぅぅっ……」


声を抑えるので精いっぱいだった。
367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:16:20.94 ID:Zo4S+Uss0

その時。

ぴんぽん、と。

呼び鈴が鳴った。


「如月君」


さっき聞いたばかりなのに、とてもとても懐かしい声。


「いるんだろう?」


今返事をしたら、情けない声しか出ない。

小さく縮こまり、きゅっと唇を噛み締める。


「皆、心配しているよ」


優しく、荒れ果てた心を宥めるような声。
368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:17:05.42 ID:Zo4S+Uss0

「先ほどのキミの様子を話したら、ひどく気にしてね」


みんななら、きっととても心を痛めている。

とても優しい人たちだから。

でも、私はその優しさに気付かなかった。

みんなを沢山傷つけた。

そんな私が、今更――。


「予定も入っていたというのに、皆そっちのけだよ」

「かく言う私も、人のことは言えないのだがね?」
369 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:10.72 ID:Zo4S+Uss0

その言葉を聞いた途端。

まるで自分の足とは思えない勢いで、弾くように床を蹴った。


急いで玄関のドアを開けると、社長がにこやかな表情で立っていた。


「やっと出てきてくれたね」


間近で声を聞いて、また涙が溢れてきた。


「社長、わた、私……わたしっ……!」

「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


階段の方を向くように、肩をゆっくり押された。

温かな体温を肩に感じながら、私は階段を駆け降りた。
370 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:44.32 ID:Zo4S+Uss0

足がふわりと浮くように軽い。

私じゃない、誰かの力が身体を動かす。

行きたい、走りたい、早く降りたい。

私がそう思うたびに、何かが私を引っ張る。

誰かが、私の手を引く。


誰もいないそこに、誰が居るの?

私の隣に今、誰が居るの?


分かってる。

ずっとずっと、隣に居てくれたのよね。
371 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:20:22.52 ID:Zo4S+Uss0

階段を駆け下りてマンションを飛び出す。


「っはぁっはぁっはぁっ……」


足を止める。

いつの間にか、雨は止んでいた。


街頭がいくつもの影を照らす。

大小様々な、色とりどりの影たち。


「……こんな時間に、何、してるのよ……」


目にするなり、こんな悪態をつく自分が嫌になる。


でも、そんな強がりでも口にしてないと。

そのまま、崩れ落ちてしまいそうだったから。
372 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:22:15.75 ID:Zo4S+Uss0

その中で、ひと際強く光を映す金髪。

マンションから飛び出した私を見つけ、その長髪が揺れた。


「……千早、さん?」


恐る恐る、様子を窺うような声。

何かに怯え、震えながらも、返事を欲しがる子どものような声。

久しぶりに聞いた気がする声が、たまらなく愛おしくなった。


「み、き」


震えていた黄緑の光が、ぴくりと跳ねる。

そして、すぐさま私の方へ駆けだした。
373 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:23:06.81 ID:Zo4S+Uss0

「千早さぁん!」

「きゃっ……!?」


顔を涙でびしゃびしゃに濡らしながら、美希が飛びついてきた。


「千早さんだよね、如月さんじゃないよね?!」

「っ……馬鹿ね、美希。如月さんでも、合ってるわよ……」

「違う、違うよ! 千早さん! 千早さんなの!!」


大粒の涙をぼろぼろと零す美希。

子どものように泣きじゃくる彼女を、強く抱きしめる。

暖かい。

この子は、なんて暖かいのだろう。
374 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:24:09.06 ID:Zo4S+Uss0

「お姉ちゃあん!!」

「ちはっ……ひぐ、千早お姉ちゃあん!!」


美希の後を追ってきた二人が、私の両腕にそれぞれ抱きつく。

いつか、深く深く傷つけてしまった黄の光。

もう絶対に、この腕は払わない。


「亜美、真美」

「千早お姉ちゃん、行かないで! もうどこにも行かないでよぉ!」

「行かないわ、どこにも、決して」

「遊園地、遊びに行くんだかんね! 指きり、したんだからぁ!」

「もう……行くのだか行かないのだか、分からなくなってきちゃうわよ……」


ああ。

そうだったのね。

今更気付くなんて、本当に馬鹿みたい。

私がアイドルを続けていた、一番の理由。
375 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:25:20.93 ID:Zo4S+Uss0

顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。


「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」

浅葱。


「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」

黒。


「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」

白。


「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」

橙。


「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」

緑。


「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」

紫。


「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」

臙脂。


「本当よ。なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」

桃。
376 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:30:08.86 ID:Zo4S+Uss0

私が、ずっとアイドルを続けていたのは。


「音無さん、社長はどちらに?」

「千早ちゃんが来たからそろそろ……あっ、社長!」

「うぉっほん! いやあ、我が事務所のアイドル達が勢揃いすると壮観だね」


歌いたいから。


「はい、千早ちゃん。ちょっと熱いけど」

「ありがとう、萩原さん……熱っ」

「だから雪歩が熱いって言ったのに。ただでさえ身体が冷えてるんだからさ」


それだけでは、なかった。


「折角の女の子の髪が台無しよ?」

「すみません、あずささん」

「ミキに貸して! 綺麗にしてあげるの!」

「ミキミキ、まだ手が震えてんじゃん」


私は心のどこかで気付いていた。
377 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:31:37.03 ID:Zo4S+Uss0

“もっと欲しい大切なもの”。

仕事より優先する第一のこと。


この暖かい場所に居たい。

この幸せに包まれていたい。

やっと見つけた居場所を手放したくない。


この場所だから、歌いたい。

この場所で、歌い続けたい。


そんな、簡単な理由だった。
378 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:04.37 ID:Zo4S+Uss0

目をつぶると。

たくさんの声が聞こえてくる。


なんだかまるで、幻のようで。

部屋に飛び込んだ時、そのまま微睡んでいたのではないかしら。

そのまま、夢でも見ているのではないかしら。


ふわふわと浮いているような感覚。

そんな私を、声が呼ぶ。
379 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:30.54 ID:Zo4S+Uss0



ねぇ、千早ちゃん。


起きて?


380 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:15.91 ID:Zo4S+Uss0

「あ……」


目を開けると。

みんなが、そこにいた。


「……ち、千早っ!? ど、どうしたんだ!?」

「え?」


プロデューサーが、おろおろとした様子で尋ねる。

けれど私は、そんな質問をされる覚えがない。


「何か辛いのか?」

「え、どうして……」
381 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:46.83 ID:Zo4S+Uss0

ぽたり。


「あ」


雫が落ちた。

それは確かに、私の目から零れた。


「あ、れ……」


止まらない。

落ちた雫が、手の甲に当たる。


「おかしい、です」

「何がだ?」

「止まらない、んです。涙」


別に悲しいわけじゃないのに。

痛いわけでもないのに。
382 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:16.56 ID:Zo4S+Uss0

それに、暖かい。

水なのに。


「あ……駄目、私……」


堪えなきゃ。

両手で顔を覆う。

今気が緩んだら、もう。


「いいんだよ」


そう思ってた私を、プロデューサーが制した。


「我慢しなくていい。もういっぱいいっぱい、我慢してきただろう?」


顔を隠す私の手が、下ろされた。
383 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:43.39 ID:Zo4S+Uss0

「おかえり」


そしたら、待ち構えていたように。

みんな、そんな風に、笑顔で言われたら。


「っ……!」


私、言えないじゃない。

一言しか、言えない。


いいんだよ、それで。


いいのかしら、それで。


みんな、その言葉を待ってるよ。
384 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:09.74 ID:Zo4S+Uss0



だから、私は。

とびっきりの情けない泣き顔で。


「ただ、いまぁっ……!」


涙で顔をぐしゃぐしゃにして、答えた。


385 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:48.09 ID:Zo4S+Uss0

もうそこから先は、何も喋れなかった。

小さな子供みたいに、声を上げた。


私、ずっと孤独だった。

ずっと一人じゃないと駄目なんだって。

これからずっと、一人なんだって思ってたの。


「うあ、あ、あぁぁあ、うっく、ぁぐ、ひぐ、うぅぅぅ」


でも、みんなが。

みんなが、いていいんだよって。

わたし、ここにいていいって。


みんなが代わる代わる、抱きしめて涙をふいてくれる。

でもふいてもふいても、すぐに溢れるの。
386 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:36:14.85 ID:Zo4S+Uss0


「千早ちゃん」


そんな私の頭を、あの子の声が優しく撫でてくれる。


「我慢しないで、いっぱい泣いていいんだよ」


泣きじゃくる私は、声を上げることもできない。

上げてもその声は、きっと、あの子には届かない。


「泣いてる間は、本当の自分と向き合えるから」


そっと触れる声は、悲しいくらい冷たくて。


「誰よりも素敵な、千早ちゃんと」


私を見つめるその声は、寂しそうに潤んでいて。

387 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:37:03.68 ID:Zo4S+Uss0


春香。

私は、やっと居場所に気づけた。

でもここには、あなたも必要なの。

ねえ、春香。

春香!


あの日から私の前に立ちふさがる、分厚い扉。

いくら叩いても、もう彼女の声は聞こえなかった。


私は四角いさいころを、ぎゅっと握りしめた。

388 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:28:19.72 ID:pFf/ISIR0

その時。

何かがそっと、私の肩に被せられた。


「ん……」


その拍子に、分厚い扉ははたりと消えて。

私の前にあったのは、柔らかな感触だった。


「あれ、ここは……」

「っと、起こしちゃったか」

「プロデューサー……?」


鼻腔をくすぐる、薬品の匂い。

気づくと私は、春香が眠るベッドに突っ伏していた。
389 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:29:39.19 ID:pFf/ISIR0

「あれ……私、なんで春香の病室で……」

「あの後みんなでお見舞いに来て、寝ちゃったんだよ」


あの後とは、マンションの前でのことだろう。

錯綜する記憶をこねくり回す。

朧気ながら、泣きながら春香のことを話したのを思い出した。


「きっと疲れてたんだろう。仕方ないさ」


プロデューサーは苦笑した。

寝ぼけた頭を叩く。

埃が舞い上がるように、意識が乱れてくらくらした。
390 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:30:44.78 ID:pFf/ISIR0

「今、何時ですか?」

「ちょうど日付が変わるくらいだな」


日付を跨いだら魔法が解けて、春香が起きたりしないだろうか。

そんな逃避的な思いを巡らせる。

けれどそばで寝息をたてる春香は、いつものままで。

死んだように、穏やかなままで。


「病院に泊まってくか? 帰るなら送っていくよ」

「大丈夫です。一人で帰れますから」

「時間が時間だ。大切なアイドルを一人で帰せるか」


大切な、アイドル。

私を許してくれるその言葉が、嬉しくて、嬉しくて。

そして春香の隣では、少し苦しくて。
391 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:31:17.59 ID:pFf/ISIR0

夜風が冷たい帰り道。


「ずっと聞きたかったんだが」

「何を、ですか」

「夢の中での春香は、どんな様子だった?」

「春香の、様子……」


白い息を吐きながら、プロデューサーが訊ねてきた。

目を閉じて、春香との日々を思い出す。


「あの子はいつも、笑っていました」


いつも明るくて、朗らかだった。

冷えて縮こまった私を照らすように。
392 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:36:21.37 ID:pFf/ISIR0

「でも、最後に話した時」


思い出す。

ドアの向こうから聞こえた、涙声を。


「春香は泣いていました」


最後の最後で思わず溢れてしまったのだろう。

彼女のもう一つの、本当の気持ち。


「静かな寝顔だけれど、きっとまだ、あの子は泣いています」


みんなに抱き締められた時に聞こえた、か細い声。

春香は私に、勇気をくれた。

でも私はまだ、春香に何もあげていない。
393 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:37:47.89 ID:pFf/ISIR0

「千早はくれたよ、沢山のものを」


プロデューサーの声が、夜道に小さく響いた。

私の自己否定を、否定する声。


「本当なら、春香がああなるのはもっともっと早いはずだった」


プロデューサーは立ち止まり、僅かに振り返った。


「千早と出会った頃から、あの子は前にも増して明るくなったよ」

「でも……結局、何もできてないじゃないですか……!」


春香は今、眠りについている。

それが、全てじゃないですか。
394 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:38:14.47 ID:pFf/ISIR0

「お前の悪い癖だ」

「いたっ」


こつん、とプロデューサーのゲンコツが落ちた。


「そうやって、また引きこもるつもりか」

「……すみません」

「そんなマイナス思考じゃあ、この先のアイドル生活が思いやられるな」


見上げると、プロデューサーは笑っていた。

そこに、陰は僅かもなかった。
395 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:38:48.34 ID:pFf/ISIR0

「悔いてどうにかなるなら、それでもいいんだけどな」


ゲンコツが落ちたところを軽く押さえる。

まだ少し、痛い気がする。


「残念なことに、俺達はやり直せない」


『これから何を為すのか』。

それしか選ぶことはできないと、プロデューサーは呟いた。
396 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:39:48.53 ID:pFf/ISIR0

それなら私は、春香に何をしてあげられるのだろう。

どうすれば春香は、また笑ってくれるのだろう。


春香は死んだように眠っている。

でも、死んでいるわけではない。

また、笑って欲しい。

また、私の隣で。


「分からないんです」


春香に笑ってもらうために。


「私には一体、何ができるのでしょうか」


強いプロデューサーなら、きっと。

何か答えをくれる気がして。
397 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:42:23.21 ID:pFf/ISIR0

「俺達にできることなんて何もないよ、千早」


けれどプロデューサーからの返事は、非情なものだった。


「できる、なんて確信を持って言えるのは、余裕と力のある人間だけだ」


当たり前のことを言うように、その声に躊躇いはなかった。


「俺達は医者でも超能力者でもないし、春香の目を覚ます確かな術なんて持ち合わせていない」

「もし自分が何か"できる"と思ってるなら、それは思い上がりだと、俺は思う」


その言葉は、私に向けられたものなのだろうか。

それとも、プロデューサーの脳裏を過ぎるのは。


「……随分、酷いことを言うんですね」

「あはは、意味を取り違えないでくれよ」


取り違える?
398 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:46:45.27 ID:pFf/ISIR0

「できることなんて何もない、だから俺達は"する"しかない」

「"する"?」


思わず聞き返す。


「その結果が実を結ぶなんて保証は誰もしてくれない」

「でも、もしかしたら、もしかしたら小さくとも何かに繋がるかもしれない」

「そんなあやふやな何かを信じて、良かれと思って進むしかないんだ」


「1+1の計算は、"できる"」

「スポーツ大会での応援は、"する"」

「それなら、哀しむ誰かに笑ってほしくて、励ますのは?」

「大好きな人に喜んでほしくて、プレゼントを贈るのは?」


指折り数えながら、プロデューサーの言葉を心の中で復誦する。

少しずつ、プロデューサーの言葉が染み込んでくる。


「それが、"する"ですか?」


少なくとも、俺はそう思うよ。

プロデューサーはそう言って、小さく笑った。
399 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:47:38.20 ID:pFf/ISIR0

少し間が開いたのち。


「だから、プロデューサーになってしばらくした時、決めたんだ」


そう、呟いた。


「春香の病は、俺にはどうにもできない」

「ならせめて、あの子が元気になれた時に、良かれと思うことをしようと」

「なんとなくで始めた道を、本気で進もうと思った」


プロデューサーは、ずっと、ずっと。

その遠い未来を信じて、歩んできた。

あやふやな何かを、今も信じている。


あの子の姿を目の当たりにして。

辛く、哀しくても。

身と心を削りながら、それでもあやふやな何かを信じている。


やっぱりとても、強い人。


そう、思った。
400 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:48:23.90 ID:pFf/ISIR0

私も、強くなれるだろうか。

私も、強くあれるだろうか。


私も、強くありたい。


「プロデューサー」

「ん?」


だから、宣言をしよう。


「私も考えてみようと思います」

「自分がこれから、"する"ことを」


まずは、意志を。

あやふやな何かに繋がる、最初の一歩を。
401 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:48:57.75 ID:pFf/ISIR0

「今の千早、いい顔してるぞ」

「そうですか?」

「自然な笑顔、久しぶりに見た気がするよ」


丁度アパートの前に着いた時、そんなことを言われた。


タクシーを探しに大通りへ向かう姿を見送りながら。

頬に手をやると、僅かに力が入っていた。
402 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:51:36.70 ID:pFf/ISIR0

ひとりぼっちの部屋で。

ベッドに身体を投げ出し、天井の明かりを見つめる。


"自分がすること"。


それは一体何?


"自分がしてあげたいこと"


それは一体何?


目の前に春香が居れば、次々と湧いてくるかもしれない。

笑わせるとか。

お話をするとか。

身だしなみを整えてあげるとか。

美味しいものを食べさせてあげるとか。
403 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:52:04.66 ID:pFf/ISIR0

「でも、そうじゃないの」


今、私がどうしたいのか。

今、私は何を考えているのか。


色々なものに、人に、助けられ。

色々なものを、受け入れて。


そんな今の私だから、すること。

そんな今の私だから、したいこと。


結果が実を結ぶなんて保証はない。

それでも。

私が心の底から、純粋にしたいこと。
404 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:52:35.62 ID:pFf/ISIR0

あの時突き放してしまった、愚かな私が。

恥知らずだろうとも、あの子に伝えたいこと。

心に秘めた、一つの気持ち。


この気持ちが、春香に届きますように。


そのために、私はするの。

何かを、絶対に。
405 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/17(火) 15:44:46.28 ID:NTO24P15o
エタった?
406 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:18:25.69 ID:90dRlIqZ0

それから日々、悩むことが日課になった。


「千早、コーヒー飲むか?」


事務所の給湯室から漂う、香ばしい香り。


「ありがとうございます、プロデューサー」

「あまり根を詰めすぎるなよ」

「いいんです。何かしていないと、私も落ち着かなくて」

「……プロデューサー殿、千早に何か吹き込んだんですか?」

「こ、怖い顔するなよ」

「大丈夫よ、律子。別に嫌な悩みとかではないから」


ならいいけど、と。

煮え切らない声が、尖らせた口から小さく聞こえた。
407 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:19:26.01 ID:90dRlIqZ0

悩んではいる。

やきもきするし、時々いらいらもする。


けれど、嫌ではなかった。

悩むことが心地良い。

悩む度に前へ進む気がする。


そしてその悩みの答えは、そう遠くはない気がする。

きっと私は、もう知っている。

あとは私が、それに気付くだけなのでしょう。
408 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:19:53.59 ID:90dRlIqZ0

そして私は、夢の中で。

部屋で一人、すごろく盤を眺める。

セロテープで張り合わせたシート。

その向こうには、一枚の姿見。

そこに映るは、私の姿。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝わるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

言葉に合わせて、小さく動かす。
409 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:21:03.37 ID:90dRlIqZ0

いつか扉に巻き付いた鎖。

固く掴んで放さない南京錠。

それらは、もう無い。


けれど、扉の向こうからは誰も来ない。

こちらからも、開けられない。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝えられるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

口を、ぱくぱく。
410 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:22:46.01 ID:90dRlIqZ0

「っ!」


慌てて起きる。

目を覚ます。

時刻は深夜二時。


「……っはぁ、っはぁ……」


少し、息が荒い。

その動悸は、恐怖からではなく。


「ああ、そうね……」


冴えた頭が、私に答えを指し示す。

私が、すること。

考えてみれば、そんなことは最初から一つしかなかった。
411 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:25:18.58 ID:90dRlIqZ0

「プロデューサー、お願いしたいことが」

「お願いとは珍しいな」


翌日、事務所へ赴き開口一番。

事務所の視線が、私に集まる。


「で、なんだ?」

「春――」

「待て、悪い、電話だ」


私の想いを遮るように、小さな鳴動。

プロデューサーの携帯電話。


「はい、765プロの……ああ、これは……お世話になっております……」


会話から聞こえたのは、覚えのある名前。
412 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:33:33.73 ID:90dRlIqZ0

「千早さん、ちょっとムッとしてるの」

「そんなことないわ」

「ううん、してるしてる。でもそういう顔してくれるの、嬉しいな」

「じゃあ美希に話しかけられたら、いつもこういう顔しようかしら」

「ヤなの。千早さんのいじわる」


二人で小さく笑う。

この小さな幸せも、春香が居たから。

だから私は、伝えるために――。


「話し中に悪いな、千早」

「いえ、お仕事ですか」

「ああ。で、いきなりで悪いが」


プロデューサーも、小さく笑う。


「ムッとしてる機嫌直して、ついてきてくれないか」
413 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:34:21.72 ID:90dRlIqZ0

連れて行かれたのは、とあるスタジオ。

馴染みのある、小さな小さな収録スタジオ。


「お待たせしました」


プロデューサーがドアを開ける。

御足労頂き申し訳ない、と、その人は言った。

電話の主は、よく知る作曲家。

かつて歌った、幸福の象徴の歌。

それを、生み出した人。
414 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:34:50.09 ID:90dRlIqZ0

眩暈がした。


私の存在は、この人の"子"を貶めた。

私が関わらなければ、あの歌は今も世に愛されていたはずだった。

けれど今、あの歌が表に出ることは殆どない。

あれだけの歌が。

私が、殺してしまって――。
415 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:36:06.53 ID:90dRlIqZ0

「千早」


プロデューサーの声が、私の頭を止めた。


そうだ。

今の私には、過去を悔いる暇も資格もない。

全ては既に結果となってしまっている。

あれこれ考えたところで、何も好転はしない。


私はただ、作曲家の方が私を呼んだ理由を聞くだけ。

聞いて、謝罪でも何でも、誠意を尽くすだけ。


心を落ち着けて、改めて向き合った。

その時だった。
416 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:36:54.05 ID:90dRlIqZ0



"ずっと待っていた"。



今、なんて?

思わず、自分の耳を疑った。


聞き違いか何かだろうか。

隣に立つ、プロデューサーの顔を見る。

プロデューサーは笑って、前へ向き直るよう促した。

目の前に立つ人は、尚も言葉を続ける。


"如月千早のための歌を、贈るために"。


優しい笑顔で右手が差し出された。

一枚の、白いCD-ROM。
417 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:37:35.51 ID:90dRlIqZ0

震える手で、恐る恐る受けとる。

プロデューサーが音響機材の電源を入れる。


「聴かせていただくか?」


機材のランプが灯る。

私はおぼつかない手つきで、ディスクを入れるためのボタンを押す。

白いディスクをはめながら、遥か遠くのように思えるあの日を思い出す。

そういえばあの日、この人は確かに言った。

私のために、歌を書きたいと。
418 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:38:30.77 ID:90dRlIqZ0

「ずっと、気にかけてくださっていたんだ」


震える私の手を、プロデューサーの手が支える。

助けを借りて、ディスクは機材に呑み込まれた。

カラカラとディスクが回る音がする。

機材の左右に並ぶ、大きなモニタースピーカーへ顔を向ける。


「千早が立ち直ったら、どうしても渡したいものがある、って」


プロデューサーが、再生ボタンを押した。
419 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:41:17.75 ID:90dRlIqZ0


初めに聴こえたのは、ピアノの旋律だった。


優しく、私を抱きとめるような音が聴こえた。

暖かい音が、耳から全身へと伝わっていく。


「ダメです。この曲は」


私は、反射的にそう答えていた。


「ダメって、お前……」


プロデューサーが不意をつかれたような顔をする。

作曲家の方は表情を変えず、私をまっすぐ見つめる。


「この子は、ダメです」


こんなに優しくて、こんなに暖かくて。


「この子は、私のところなんかに来ては、ダメなんです」


こんなに、愛おしい子は。
420 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:43:20.16 ID:90dRlIqZ0

けれど、その人は迷わず答えた。

如月千早のところでなければダメだ、と。

その子は、如月千早に会うために生まれてきたのだ、と。


その時スピーカーから、産声を上げるように弦楽器が響いた。

私は、何も言えなかった。


「千早、歌えるな」

「……」

「歌って、くれるな?」

「……はい」


私はずっと俯いたままで。

顔を見られないよう、小さく頷くことしかできなかった。
421 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:44:00.37 ID:90dRlIqZ0

次の瞬間。

パチリ、と。

私の中で、ピースがはまる音がした。

機材の電源を落とすプロデューサーに、後ろから声をかけた。


「プロデューサー、さっき事務所で話そうとしたことですけれど」

「なんだ?」

「私、したいことが見つかったんです」


パソコンから取り出したCD-ROMを胸元に抱える。

大切に持ちながら、電話に遮られた話をする。


「へえ、何をしたいんだ」

「伝えたいんです、春香に」


さっき聴いた旋律を思い出す。

一度聴いただけなのに、脳裏から離れないメロディ。

それを思い浮かべるたびに、春香との日々を思い出す。

そして、彼女が最後に願ったことを。
422 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:44:26.69 ID:90dRlIqZ0

伝えたいんです。

私の気持ちを。


「だから、歌おうと思います」


きっと、今日の出会いは。

この子との出会いは、このために。


「そのために、お二人にお願いがあるんです」

「お願い?」

「この子の詞を、私に書かせていただけませんか」


二人は互いに、意外そうに顔を見合わせた。
423 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:45:10.39 ID:90dRlIqZ0

「私は、詞をうまく書けるわけではありません」


これまで筆をとったことは殆どない。

こんな素晴らしい歌に、そんな拙い詞を付けていいかも分からない。


けれど、これが一番の方法だと思ったから。

私の気持ちを届ける方法。

私の想いを、私の言葉で、私の歌で、全ての人に。

それが、春香が望んでいたことに、最も近づけると思った。

それが、春香との指切りに、最も近づけると思った。


「ご納得頂けるまで、何度でも書き直します」

「少しでも良くするために、どんな努力も惜しみません」

「だから……だから、お願いします!」
424 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:46:06.94 ID:90dRlIqZ0

「いやあ、千早は話が早くて助かるよ」

「え……?」


私の肩を、プロデューサーの手がぽんぽんと叩く。

下げていた頭を起こすと、目の前の二人はにこにこと笑っていた。


「実はもう一つ、ご依頼があってね」

「詞を、千早に書いてほしいそうだ」


プロデューサーの言葉に、初老近い作曲家の方は、少し皺を浮かべて笑った。

如月千早のための歌なのだから、如月千早の想いを込めてほしいと。


「奇しくも、お互いに同じことを考えていた、ってわけだ」

「いいんでしょうか、私で」

「たった今この口で、自分にやらせてくださいって言ったじゃないか」

「あぐ、あう」

「今更ノーは許されないぞ、千早」


プロデューサーが意地悪そうな笑みを浮かべて、私の両頬をぐっと押す。

不安を口にしようにも、まともに発音できなかった。
425 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:47:04.57 ID:90dRlIqZ0

プロデューサーの車で事務所へ戻る途中。

運転をしながら、プロデューサーが口を開いた。


「ああ、そうそう。千早の復帰ライブをやることが決まった」

「えっ!?」

「そのライブが、表立っての復帰後初仕事だ。気合入れろよ」

「あの、先ほどの歌は」

「そのライブでお披露目だ」

「……あまりにも、急では」

「千早が戻ってきてくれたのがみんな嬉しくて、ついつい張り切っちゃってね」


やや否定的な言葉とは裏腹に。

自分の心が、熱を帯びていくのが分かった。
426 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:47:34.07 ID:90dRlIqZ0

パズルのピースが、一つ一つはまっていく。


散々遠回りしてしまったけれど。

沢山の人に迷惑をかけてしまったけれど。


もう、迷わない。

私は、前へ進もう。


沢山の想いと共に。

私の想いと共に。


あの子が夢見た光景を。

あの子が願った光景を。


夢で終わらせないために。

私が、"する"ために。
427 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:27:18.09 ID:90dRlIqZ0

誰もが寝静まった頃。

私は一人、閉ざされた部屋にいた。


足元には、くしゃくしゃになった紙の山。

書いては捨て、書いては捨て。


「……自分の気持ちを表現するのが、こんなに難しいとは思わなかった」


自分以外誰もいない部屋でひとりごちた。

くすくすくす。

当然よね。

これまで私は、誰かに伝えるなんてこと、していなかったのだから。
428 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:29:32.86 ID:90dRlIqZ0

どれだけ書き続けていただろう。

投げ捨てた紙屑が何かに当たり、ころん、と音がした。


「あら、何の音かしら……」


筆を置き、我に返る。

すっかり固まってしまった身体を伸ばし、目線を上げる。

いつか固く閉ざした、重々しい扉。

その横に、人が通れるかどうかくらいの小窓があることに気付いた。


痺れる身体に鞭を打ち、立ち上がる。

小窓の中からは、何やら賑やかな喧騒が聴こえた。
429 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:30:10.33 ID:90dRlIqZ0

「ねーねー、千早お姉ちゃん。何書いてんの?」

「真美にも見せてよ!」

「ふ、二人とも肩に乗らないで……新曲の歌詞よ」

「えっ!? 千早お姉ちゃん新曲出すの!」

「あ、亜美、耳元でそんな大きな声……」

「ほんと!? みっせてみせてー!」

「ま、まだ全然できていないから」


やんちゃな二人に振り回されていると。

ふと、のしかかっていた二人の重さがなくなった。


「こーら、二人とも! 千早の邪魔しない!」

「ぎゃー! りっちゃん!」

「ごむたいなー!」


眉間に皺を寄せた律子が、二人を私から引き剥がした。
430 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:30:56.93 ID:90dRlIqZ0

「大丈夫よ、律子」

「そう? でも双子はさておき、手元は何やら行き詰ってるみたいじゃない」

「いざ歌詞を書くとなると……言葉ってなかなか出てこないものね」

「商用作詞なら兎も角、本当の想いを歌にするのは難しいわよね」


二人の襟をつかんだまま、律子は笑う。

掴まれた二人も、文句を言いつつ笑う。


「思ったことそのままずばーっと歌詞にしちゃえばいいじゃん!」

「亜美、それが出来たら千早も悩まないわよ」

「じゃあ真美も手伝う! 千早お姉ちゃんはどんな歌にしたいの?」

「どんな歌に……そうね」


私が歌詞に込めたいのは。
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