千早「賽は、投げられた」

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289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:12:22.49 ID:UnTjGLwD0

帰路につきながら、右手に抱えたノートに目をやる。

表紙の下の方には『あまみ はるか』と拙い字が書かれている。

恐らく、私と出会うよりもずっとずっと前に書かれた名前。


それはきっと、私がまだ、幸せだった頃。


「何が書かれてるのかしら」


ページを開けばすぐに分かる。

でも、それはとても崇高なもののように思えて。

とてもじゃないけれど、歩きながら片手間に読んでいいものではないように思えて。


「……確かそこの公園、ベンチがあったはずよね」


早く、読まなければいけない気がした。
290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:15:03.78 ID:UnTjGLwD0

夕暮れを過ぎ、誰もいない公園。

僅かに残った陽に照らされる遊具たち。

楽しい時間が終わりを告げて、誰もいない空虚な遊び場。

そこへ私は足を踏み入れ、ベンチへゆっくり腰掛ける。


鞄を脇へ置き、まずは古い方のノートを開く。

そこには、幼い春香が書き記した、可愛らしい言葉があった。


『わたしのにっき』


それは、私が知らない頃から春香が書き記した、日々の記録だった。

ぱらぱらとページをめくる。

毎日書いているわけではないらしい。

もし毎日書いていたら、ノートは何冊にも及んでいたことだろう。
291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:06.94 ID:UnTjGLwD0

日記は一つ一つは短いものの、春香らしさが伝わってくる。


『きょうは、ケイちゃんのおうちであそびました』

『テストで90てんもとれました』

『おかあさんがおべんとうにハンバーグをいれてくれました』


たどたどしくも楽しげな笑顔が浮かぶような記録達。

読んでいる内に、会ったこともない幼少の春香とお話をしているような気分になってくる。

笑いながら私に日々のわくわくを報告してくれる春香は、とても可愛らしかった。


『学芸会でまほう使いの役になりました』

『運動会でかけっこに出たけど、ころんでしまいました』

『お父さんの湯のみを割ってしまい、ちょっとおこられました』


あら春香、漢字が使えるようになったのね。

日常の記録であると同時に、微笑ましい成長の記録でもあるらしい。

私が知らない春香を見守る日々は、穏やかで心安らぐものだった。
292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:38.24 ID:UnTjGLwD0

そんな気分でページをめくっていると。

ある時を境に、様相に変化が出始めていた。


『遊園地に行ったけど、途中で眠くなってしまいました。もうちょっと遊びたかったです』


小学4年生の記録。

それは、春香の人生が大きく狂った瞬間だった。
293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:18:25.89 ID:UnTjGLwD0

日記の最初の方にあった、ある言葉。

小学2年生の時の日記に、将来の夢が書かれていた。


『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


アイドルを目指して、音楽の授業や体育を頑張っていること。

テレビに出ていたトップアイドルがとてもかっこ良かったこと。

近所のお兄さんに、アイドルを育てるスクールの存在を教えてもらったこと。

そこに入るために、頑張ろうと意気込んだこと。


日常の報告の合間に挟まる春香の想いは、年相応に夢想的で。

そして、年相応に夢に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた。
294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:19:37.55 ID:UnTjGLwD0

そのエネルギーが、遊園地の事件を境に弱まっていく。


『最近、すぐに眠くなってしまいます』

『学校に行けない日が増えてきました』

『体力が減ってきて、激しい運動が辛いです』


春香らしい、楽しげな報告もなくなったわけではない。

それらに挟むことで目立たない様にしてある、けれど滲み出てしまう、悩みと不安。


医者にかかっても、詳しい原因が分からない。

ただ一つ確実だったのは、春香を蝕む何かが、じわりじわりとその力を強めていること。

それは小学生の身にも理解できる事であり。

小さな女の子の夢を挫くには、十分すぎるものだった。
295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:22:14.44 ID:UnTjGLwD0

諦める、とは一言も書かれていない。

しかし、その心は明白だった。


その日以降、春香は“夢”について書かなくなった。


家族や友達と過ごす、楽しい時間。

眠る時間が増え、退屈な時間。


『この頃、一人ぼっちな気分になることが増えました』


幸せと不安が入り乱れた日々が少女にもたらす負担。

それは、少しずつ少しずつ、その心身を蝕んでいく。

天性の才能には恵まれず、努力を重ねることも許されない。

それどころか、思うように生きることすらもままならない。

そんな彼女にとって“夢”は、まさしく“夢”でしかなかった。
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:23:38.04 ID:UnTjGLwD0

「っ……」


小さい春香にとって、どれだけ辛かったことだろう。

思うだけで、胸が締め付けられる。


そう思いながらページをめくると、やけに筆圧の強い、力のこもった字を見つけた。


『合唱コンクールに出ることになりました! 本番に向けて頑張ります!』


「あ……」


それは、中学生の頃の記述。

そして、私にとっても思い出深いあの頃。


『音を外しちゃいました……練習しないと』

『ケイちゃんがお見舞いがてら、自主練に付き合ってくれました』

『久しぶりに学校で合唱! 上手くなったって褒められました。良かったぁ……』


相変わらず、病は春香を苦しめる。

それでも、久しぶりに大好きな歌に取り組む春香の日々は、活き活きとしていた。
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:24:50.09 ID:UnTjGLwD0

そしてとうとう、あの日が訪れた。


合唱コンクール当日の日記。


友達と出たコンクールの感想。

一生懸命頑張ってきた、自分への評価。

やり遂げたことへの達成感、不満。


そうしたことは、何一つ書かれていなかった。


書かれていたことは、ただ、一言。


『私、やっぱりアイドルになりたいです』


その日が、一つの分岐点だった。

春香が、自分の生きる道を決意した日。

前に進み続けることを、決意した日。
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:25:55.39 ID:UnTjGLwD0

春香は前へ進み続けた。

病と闘いつつ、努力を重ねる日々。


『少しでも体力をつけるため、ウォーキングを始めました』

『なかなか音がとれません。音痴、治らないかなぁ……』

『お兄さんがプロデューサーを目指すそうです。なれたら、私を手伝ってくれるって!』


また、活気に溢れた春香が帰ってきた。

時折辛くなったり、落ち込んだりすることもあるけれど。

春香は全力で、前に進んでいた。


けれども少し、生き急いでいるようにも見えた。
299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:26:24.75 ID:UnTjGLwD0

『あの子の名前を、お兄さんが教えてくれました』


その日記の部分だけ、大きな字で書かれていた。

わざわざかぎかっこを付けて、太字で強調するように記されていた。


『如月千早』


赤い下線を引き。

オレンジ色のマーカーでなぞり。

ハートマークや矢印で周囲を囲み。

ようやく見つけた宝物を自慢するかのように。


私の名前。


春香にとって、如月千早という名前は、とても大きな意味を持っているようだった。
300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:14.05 ID:UnTjGLwD0

それからしばらく読み進め、時が高校へと移り、しばらくした頃。


「……そう、この頃、だったのね」


書かれた文字を、人差し指でなぞる。

とても懐かしい。

まるで、長く会っていない友人に久しぶりに再会した時のような、そんな気分。


『昨日の夢に、千早ちゃんが出てきました』


その日もまた、大きな分岐点。

私が、春香と初めて出会った日。

今となっては懐かしい、始まりの日。
301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:54.73 ID:UnTjGLwD0

夢の中で、如月千早と仲良くなれたこと。

765プロには楽しい人達が沢山いること。

近所のお兄さんが如月千早のプロデューサーだと知ったこと。


浮足立った姿が目に浮かぶような日記達。

厳しい現実と懸命に闘いつつも、突然現れた夢の世界に、春香は浸っていた。


その頃から私達の露出も増え始め、春香もそれを自分のことのように喜んでいた。


『みんなが活躍していると、私も勇気が湧いてきます』

『私もみんなみたいになりたいなぁ』


ずきんと、胸に痛みが走った。
302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:30:12.39 ID:UnTjGLwD0

少しずつ結果を出していく私達。

それを喜ぶ日記が書かれる一方で、読み進める私の中で、小さな違和感が生まれた。


あまりにも、私達のことばかりが書かれている。

春香自身の話がどんどん減っている。


読み進めてしばらくの内は、大して気に留めていなかった。

自分で言うのも何だけれど、春香は私達にとっても惹かれていたから。

だから、自然と多く書いてしまっていたのだと思っていた。


しかし、それは違った。

明らかにおかしかった。


春香を蝕む力は、再び彼女を呑み込もうとしていた。
303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:03.58 ID:UnTjGLwD0

あるページに、少し震え気味で、心もとない文字があった。


『私、もう無理だそうです』


一緒に書かれていたのは、担当医からの辛い宣告。


『私は遠くない内に身体を動かせなくなり、二度と目を覚まさなくなるそうです』


何とか耐えて、霞のような夢を追い続けていた春香。

その身体に、とうとう限界が来ようとしていた。
304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:31.90 ID:UnTjGLwD0



『どうして』

『私、頑張ったのに』

『何も悪いことしてないのに』

『色んなこと我慢して、必死に』

『なんで』

『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:15.83 ID:UnTjGLwD0

捲ったページはくしゃくしゃになっていた。

何度も何度も書きなぐり、その度に消しゴムで消し。

感情に任せて紙を握りしめ。

そして、沢山の雫が文字を滲ませ、渇いた跡。


家族に聞こえないように、必死に嗚咽を堪えて震える姿が。

心の中で泣き叫びながら、恐怖と絶望から逃れようとする、壊れそうな姿が見えた。


「っ……」


そのページを見ながら、私は唇の端を強く噛み締める。

少し苦い、鉄の味がする。
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:43.39 ID:UnTjGLwD0

私は、何もできなかった。

春香は、こんなに苦しんでいた。


私はただ一方的に、春香の慈愛を受け続けた。

ただ一方的に、春香の優しさに甘えていた。


その裏で、春香はずっと泣いていた。

その辛さを、誰にも吐露することなく。

その辛さを、私に気付かれまいとして。


「ごめんなさい、ごめんな、さい……」


一滴、ページに新たな染みが増えた。


私は、本当に駄目な人でした。
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:33:42.13 ID:UnTjGLwD0

春香の告白は、そこでおしまい。

読み返す気力など欠片もなく、私は日記を閉じた。


「こんなに……こんなに、夢に溢れていたのに」


表紙に書かれた、幼い春香の元気な文字が、一層私の胸を締め付ける。

締め付けられた私の心臓が悲鳴を上げる。


「はる、かぁっ……!」


様々な感情を押し殺して吐き出した名前は、でも、決して彼女へは届かない。


彼女はもう、私の前にいないのだから。
308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:34:31.51 ID:UnTjGLwD0

日記を抱え、ベンチにへたり込む。


私には、春香だけが支えだった。

春香がいたからこそ、私は頑張ってこれた。


でも、その春香はもういない。


私は、苦しんでいた春香へ、のしかかるように生きてきた。

私は、きっと、彼女の世界で最も罪深い人間だ。


私は春香に、歌う喜びを説いた。

私は春香に、アイドルの楽しさを語った。

私は春香に、夢を追いかける素晴らしさを教えた。



それは、なんて残酷なことだったのだろう。
309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:35:10.93 ID:UnTjGLwD0

「私……なんて、こと……最低……」


自らを貶す言葉すら満足に吐き出せない。

うつむいていた顔を上げると、いつの間にか闇が訪れていた。

曇天の下、星の光は届かない。


「はるか……わたし、は……」


わたしは、わたしは。


鞄と二冊のノートを左手に抱え、右手を空へと伸ばす。

見えない星の光を掴もうとして。

雲の向こうに、彼女がいるような気がして。
310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:36:30.05 ID:UnTjGLwD0

「春香。私、酷いことしたわよね」


電球が切れかかり、ちかちかと点滅する街灯の光。


「でも、どうして?」


辛かったはず。

私を見つめながら、歯痒かったはず。


「どうしてあなたは、ずっと私の傍にいたの?」


点滅しながらも、街灯の光は途絶えない。


「どうして、私なんかの……」


昨日、双海さんが泣いた時。

あの時と同じような揺らぎが、また生まれた。
311 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:37:15.01 ID:UnTjGLwD0

揺らぎは波紋となり、やがてそれは大きな波となる。


どうして?

ねえ、どうして?

答えて。

答えて!


立ち上がって一歩進むごとに、頭の中が掻き混ぜられる。

コーヒーカップを全力で回し続けた時のように。

脳が溶けて、シェイクになっているように。


分からない!

分からない、分からない、分からない!


春香!

あなたは、私に一体、何を見出していたの!?
312 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:03.73 ID:UnTjGLwD0

暗闇と点滅の中、私はおぼつかない足取りで当て所もなく歩き続ける。

不安、怒り、悲しみ、疑念、諦観。

様々な負の感情が入り交ざり、澱んだマーブル模様が出来上がる。


「私……私……!」


パンクしそうな頭を抱え、私はもう何も考えたくなかった。
313 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:31.46 ID:UnTjGLwD0

ふと、街灯が照らす塀の角。

人影が見えた。


「……誰?」


こちらをじっと見つめている。


その輪郭には見覚えがあって。

その髪型には見覚えがあって。


「……!」


その子はじっと、私の方を見つめていた。
314 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:39:36.67 ID:UnTjGLwD0

「春香!」


私は影へ向かって叫ぶ。


「春香、来てくれたのね!」


見つけた私の声が、意図せず高く跳ね上がる。


ああ、やっと戻ってきてくれた。

ああ、私のところへ帰ってきてくれた!


私は喜び勇んで、影へ向かって声をかける。


「どうしたのよ、春香。そんな隅っこに隠れて」


けれど、影は何も言わず、じっと私の方を見つめている。


「ねえ、春香……どうしたの……?」


影はただ佇み、焦点の合わない視線を私へ向ける。
315 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:40:14.89 ID:UnTjGLwD0


怖い。


彼女に対して、初めてそう思った。


「ちょっと……は、春香……?」


ぼんやりとした視線は、私を見ているようで、別の何かを見ているようで。


「は、はる……」


私を見透かすように。

瞳の中へ呑みこむように。


「……ぃ」


そして、私は気付いた。

それは、私が最も恐れていた。


「いやあああぁぁああ!」


それは、軽蔑の色。
316 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:42:27.50 ID:UnTjGLwD0

「いや……」


気付けば。


「やめて……」


民家の窓から。

電信柱の陰から。

通り過ぎる車の中から。


いたるところから、春香は私を見ていた。


「お願い、春香……」


春香は皆一様に、侮蔑の眼差しを私に向けていた。


「そんな目で、私を見ないで……」


私の世界で唯一の光だった、春香。


そんな彼女にまで見捨てられたら。


私は。

私は。
317 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:43:34.82 ID:UnTjGLwD0

「っはぁっはぁっ!」


怯えながら夜道を走っているうちに、いつかのように動悸が激しくなる。


「許して、許して、春香……!」


散々偉そうなことを考えて、言っておいて。

結局私は、何よりも春香に見捨てられることを恐れていた。


「ぁ……!」


けれど、春香は許してくれない。


自動販売機の明かりの中に、見慣れた姿があった。


「ひっ――!」


その焦点が合わない瞳は、私を呑みこもうと追いかけていた。
318 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:45:10.01 ID:UnTjGLwD0

私は情けない声を上げ、影を背にして走り出した。

直視したくなかった可能性から目を背けるために。


癇癪を起した子どものように声を上げた。

耳から入ってくる何かをかき消すために。


「あぁぁぁああ! いや! いやああぁぁああ!!」


人目もはばからず、時間も場所も気にかけず。


しかし、どれだけ走っても、春香は私を放してくれなかった。
319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:46:39.49 ID:UnTjGLwD0

どれだけ走ったのだろう。

もう叫ぶ気力もない。

疲れた体の支えを求めるように、橋の欄干へ体重を預ける。

橋の上から見下ろした川の水面。


「春香……そこにもいるの……?」


水面にぼんやりと映る月明かりの傍に、見慣れたシルエットが見える。


「ぁ……はるか……」


水面に映る橋からは、私の代わりに春香がこちらを覗きこんでいた。
320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:05.42 ID:UnTjGLwD0


ああ。


これはもう、春香が私を呼んでいるのかもしれない。


このまま、春香のところへ行こうかしら。


それも、いいのかもしれない。

321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:40.95 ID:UnTjGLwD0

ねぇ、春香。

私がそちら側へ行ったら、許してくれるかしら?

私がそちら側へ行ったら、また笑ってくれるかしら?


歌って歌って、幸せだった頃のように。

二人で寄り添っていた頃のように。


「春香、私」


欄干から身を乗り出して、私は春香へと手を伸ばした。
322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:15.34 ID:UnTjGLwD0


ぽたり。


そんな私の頬を、水玉が打つ。

頬を伝った雫が、口に届く。


ぽたぽた。


小さな粒が、私の後頭部を打つ。

降り注ぐ雫は、瞬く間に数を増していった。


「あ……」


水面には、いくつもの波紋が広がった。

そこにいたのは、春香ではなく、私だった。
323 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:42.82 ID:UnTjGLwD0

雨音が大きくなる。

雨粒が私に叩きつけられる。


「っ! は、春香の!」


日記が濡れてしまう。

我に返って、慌てて足元の鞄を抱き上げる。

幸い、鞄は防水性があったようで、中まで染み込んではいない。


「良かった……」


呟いた言葉とは裏腹に、私の心は空模様のようだった。

抱きしめた鞄は、雨に濡れて冷たい。
324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:50:53.65 ID:UnTjGLwD0

雨は容赦なく降り続ける。

この時間になると、車も人も通らない。

私は自宅のある方へ歩き続ける。

胸に、鞄を抱きながら。


もう視界に、春香は映らない。


足元の水たまりの中も、

曲がり角のミラーの中も、

そこにいるのは、私だけ。


大切な人さえをも逃げ口にしようとした、醜い私だけ。
325 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:21.59 ID:UnTjGLwD0

春香が、あんな顔をするはずがない。


あの子は、とっても優しい子。

人を怨むくらいなら、怨んでしまう自分を責めるような子。


なのに、私は。


自分が楽になりたいから、醜い役割を春香に押し付けた。


いいえ、分かっていた。

私は昔から、そういう人間だった。

今更なこと。


そう。

私は、春香に何かを望まれるような、そんな人間じゃない。
326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:48.41 ID:UnTjGLwD0




ねぇ、春香。


あなたはどうして、私の隣にいたの?



327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 22:51:18.39 ID:iWQQ9rSr0
>>288
そうでしたか 煽ってすみません 最後まで楽しみにしてるので頑張って下さい
328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 23:53:51.44 ID:y6HQBtCo0
一度エタってる時点で信用できない。>>1の時点で注意書きしとけよって話
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 07:36:37.84 ID:uovg4fie0
ここに投下されるSSでエタらなかった長編がどれだけあるのやら。いちいち目くじら立ててたら身体が持たんよ
330 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 20:27:49.45 ID:eceN+6mBO
遅くなりがちってことくらいはあってもよかったのでは無いでしょうか?
一度落とした内容なら尚更
331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 21:26:59.90 ID:JrEUEl3No
いまさら噛み付くほどでもないでしょ
332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:43:35.73 ID:Zo4S+Uss0
>>330
遅く感じられる方には申し訳ないです。
SS速報全体で見れば特に遅くもないため、初見の方も多いだろうということもあり言及しておりませんでした。
また、投稿者レスをしていなかったのは、(以前の投稿の時もそうだったのですが)物語を邪魔しないよう投稿者レスはしたくないという理由もありました。
シリアスな作品だと投稿者のコメントで興醒めしてしまう方もいらっしゃるので……。
結果として説明足らずでやきもきさせてしまい、重ね重ねすみません。
333 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:11.08 ID:Zo4S+Uss0

雨粒でない雫が頬を伝った時。

突然、雨が止んだ。


「傘を忘れたのかね?」


声を掛けられて見上げると、傘を差した社長がいた。


「如月君が、雨に打たれながら歩いている姿が見えてね」


そう言うと、私の反応も待たずに、傘の柄を差し出してきた。


「風邪を引くといけない。使いなさい」

「……結構です」


私は社長の視線から逃げるように、速足気味に傘から出た。
334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:39.35 ID:Zo4S+Uss0

「如月君」

「放っておいてください」


誰とも話したくなかった。

きっと、居たとしても、春香とも。


「今日――天海さ――母さ――事――所――」


何かを言っている社長を背に、私は走った。


「――記は――二冊とも――」


雨音が、水を蹴る音が、私の鼓動が。

社長の声を掻き消していく。

水たまりを踏むたびに、私は鞄を守るように身を縮こまらせた。
335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:30.70 ID:Zo4S+Uss0


私は走る。

自分の小さな国へ逃げ込むために。


逃げる?

私はもう、自分のことなんてどうでも良かったのではなかったかしら?


そうだ。

私は変わっていない。

弟を亡くしたあの頃から。

336 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:57.36 ID:Zo4S+Uss0




本当は泣き虫で、一人ぼっちで。


弱い弱い、私のまま。



337 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:48:32.82 ID:Zo4S+Uss0

「っはぁっはぁっはぁっ……」


逃げ込んだ場所は、明かりのない、暗い部屋。

まるで私を写しとったかのように。


「イヤ……」


重い身体を引き摺り、雨水を滴らせながら。

部屋の奥を目指しながら、呻くように声を上げる。


「もう、イヤ……」


鞄をベッドの横へ放り出す。

糸が切れた人形のように、私は崩れ落ちた。


「もう……もう……!」


何も、いいことなんてなかった。

このすごろくは、私を苦しめるだけだった。
338 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:02.62 ID:Zo4S+Uss0



もう、いいわよね?

私、頑張ったでしょう?


もう、駒を止めても。

もう、休んでも。


いいわよね。


ねぇ、春香?


339 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:28.62 ID:Zo4S+Uss0





――。




340 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:54.75 ID:Zo4S+Uss0





『お願い、千早ちゃん』


『前に進むことを、やめないで』




341 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:50:37.00 ID:Zo4S+Uss0

……はるか?


春香の声が、聞こえた気がした。

ずっとずっと、聞きたかった。

優しい優しい、あの子の声。


「どこ……はるか、どこ……?」


重い身体に鞭を打つ。

何かに縋るように、声が聞こえた方を見る。


水に濡れた鞄が一つ、部屋の隅に転がっていた。
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:51:51.61 ID:Zo4S+Uss0

恐る恐る、鞄を手に取る。


重い。


鞄だけの重さではない。

中に入っている、二つの重さ。


雨音の中で、微かに聞こえた社長の言葉。


『日記は、二冊とも読んだのかね?』


鞄を開けると、表紙の焼けた古い日記とは別に。


もう、一冊。
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:52:36.48 ID:Zo4S+Uss0


『Dream』


そう、優しい文字が書かれた表紙。

夢。

私がいつか、どこかに置き忘れてしまったもの。


ノートは全く濡れていなかった。

思っていた以上に、鞄の防水性能が良かったのか。

それとも、何かが守ってくれたのか。


まだ読んでいない、二冊目の日記。

表紙をめくろうとする。


が、指が動かない。
344 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:27.82 ID:Zo4S+Uss0

「読まなくちゃ……でも、私……」


凍てついたように、指は動かない。

雨に濡れ、冷えて縮こまった私の心は、あと一歩を踏み出すことができない。


いつか七色に彩られていた心のキャンバス。

今はまるで、埃を含んだ雨水のようにくすんでいて。

幼いあの日、掌から幸せが零れ落ちたあの日。

部屋の隅で泣きもせずに座り込んでいた、あの日のように。
345 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:58.56 ID:Zo4S+Uss0

その時、ぴくり、と指が動いた。


私が動かしたわけではない。

自身の意思に反して、勝手に動いた。

誰かが、そっと優しく、私の手を取るように。


「……どうしてかしら」


誘われるように、表紙の文字をなぞった。


「暖かい……」


押し付けた指の腹が、じんわりと熱を帯びる。
346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:28.32 ID:Zo4S+Uss0

夢と書かれた、真新しい表紙。

それを書いたのが春香だと思うだけで、胸が熱くなり、痛くなる。

灰色の澱みに沈みきった私には、眩しすぎる明るさ。


私はこの日記を読まなければいけない。

社長に言われたから?

プロデューサーに渡されたから?

春香のお母さんが、きっとそれを望んでいるから?


いえ、違う。

きっとそれを望んでいるのは、他でもない――


「春香……あなた、なのよね」
347 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:54.77 ID:Zo4S+Uss0

そう思うと、不思議と指が動いた。

一体なぜなのかは、自分でも分からない。


春香に会いたいからか。

どんなに小さな光でも、縋りたかったからか。

最早、自分にできることは、何一つなかったからか。


渦巻く脳の荒波には、色々な想いがごちゃ混ぜになっている。

それらが求める、共通の、一つの答え。


「……読ませてもらうわね、春香」


目の前にある彼女の記録を、確かめること。
348 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:00:33.43 ID:Zo4S+Uss0

宝物の輝きが窓の外へ漏れないように。

誰かから隠すように、こっそりと表紙をめくる。


めくった瞬間目に入ってきたのは、元気良く跳ねるような文字だった。


『今日は、アイドル事務所へ面接に行ってきました!』


春香の日記では、有り得ない言葉。


『トップアイドルになって、みんなに笑顔を届けられる人になります!』


それは、彼女がいつか胸に刻みたかった、強い決意で。


そう。

これは、自分の日々を綴った記録ではない。

彼女が想い描いた、そうありたかった自分。

目指すことさえ許されなかった、彼女の在りたかった姿。


私が開いた日記は、天海春香が描いた夢、そのものだった。
349 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:02.89 ID:Zo4S+Uss0

彼女は、自らの運命を知っていた。

叶わぬ夢、いずれ訪れる虚無の恐怖。

それでも彼女は叫んだ。


『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


彼女は終わりが近づいても、恐怖を叫ばなかった。

彼女が嘆いたのは、日々の終わりでも、自らの病でもない。


自らの力で、夢を目指せないこと。


この日記は、そんな彼女の、夢。
350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:31.99 ID:Zo4S+Uss0

ページをめくるたびに、彼女の奮闘記が現れる。

どこかの世界であったかもしれない、夢の日々。


『事務所のみんなに挨拶をしました』

『社長も事務員さんも、プロデューサーさんも、候補生のみんなも、みんなみんな優しいです』

『ちょっと周りに振り回され気味だけど、頑張ってやってます』


少し既視感を覚える出来事たち。

新しい世界に心躍る彼女の心が、ほんわりと伝わってくる。
351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:02:36.50 ID:Zo4S+Uss0

レッスンに取り組む春香。

営業へ赴く春香。

仲間たちと笑い合う春香。

小さなステージに立つ春香。


一行一行が、私の胸をきゅっと締めつける。

辛いから、じゃない。

彼女が綴る出来事の一つ一つが、理解できるから。

自分の身に起こったことのように、理解できるから。

そこから生まれる喜怒哀楽を、理解できるから。

それらが素晴らしい日々なのだと、理解できるから。




理解できる、から?
352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:05.20 ID:Zo4S+Uss0


『律子さんが昔貰ったファンレターを見ました』


『あずささんとコーヒーを飲みました』


『オーディション前に、亜美と一緒に走りました』


『響ちゃんのお兄さんを追いかけてみました』


『雪歩と喧嘩しちゃったけど、仲直りしました』

353 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:31.10 ID:Zo4S+Uss0

「痛っ……」


ずきん、と、頭の奥が響いた。

何かをこじ開けるような痛み。

無理矢理詰め込んだクローゼットの扉が、圧力で軋むような。
354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:20.67 ID:Zo4S+Uss0

一行ずつ、声に出して読む。


「美希が遅刻して、みんなで謝りました」

寝坊した本人は、素知らぬ顔であくびをしてて。


「真と二人で、深夜番組のレギュラーを貰いました」

方向性を間違った真の爆弾発言を、必死に修正して。


「番組の収録で、四条さんと旅行に行きました」

露天風呂で格の違いをまざまざと見せつけられて。


「やよいとその家族と、遊園地で遊びました」

連れ込まれたお化け屋敷で悲鳴を上げちゃって。


「真美とのラジオ番組の人気が出てきました」

時折真美の言葉の意味が分からずに聞き返すと笑われて。


「出演したCMは、伊織の実家のものでした」

当の伊織本人は、かたくなに出演を拒んで。
355 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:56.10 ID:Zo4S+Uss0

「……どうして、私は知っているの?」


これらは彼女の夢。

叶わなかった、実在するはずのない彼女の夢。

そのはず。


でも、分かる。

日記の出来事があった時、みんなはどんな様子だったのか。

その時、彼女はどんな気持ちだったのか。


『作曲家の方が、歌手として私を指名してくれました』

『重圧に押しつぶされそうだけど、頑張らないと!』


まるで自身がそこにいるかのように分かる。

理解、できる。
356 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:05:59.49 ID:Zo4S+Uss0

「私の、歌を、みんなが……」


読み上げる声が震える。

目頭が熱い。

何かが込み上げてくる。

眼前が滲んで、日記の文字が読めない。


私はそのまま、日記を閉じた。


「どう、して……」


しばしの静寂の後。

代わりに、問いかけの言葉が口から漏れる。

その問いに意味はない。

私はもう、その答えに気付いていたから。
357 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:09:18.28 ID:Zo4S+Uss0

「ぅあぁ……ぁ、あぐぅうぅ……!」


堪えようとする。

けれど、嗚咽は喉の奥に留まっていてはくれない。


ぼろぼろと落ちる涙。

口から漏れる泣き声。


私はもう、我慢することができなかった。


「はる、か」


濡れそぼった情けない顔を、手のひらで覆う。


「私が、そうだったのね」


その日記に記されていたのは、かつて私が春香に語った出来事たち。

彼女が目を輝かせながら、食い入るように聞いていた日々。


『わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!』


病床に臥せる彼女の、たった一つの、大切な想い。
358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:10:52.17 ID:Zo4S+Uss0




「私が過ごしていた、あの日々こそが」


「あの幸せな、日々こそが――!」



春香が。


あなたが、ずっと追い求めていた、夢だったのね。



359 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:11:27.54 ID:Zo4S+Uss0


ばきり。


頭の中で、閂が折れる音がした。


「私は、ずっと、ずっと」


扉が開く。


そこから差し込み、仄暗い部屋を満たす、強い光。

360 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:16.81 ID:Zo4S+Uss0



黄、


緑、


黄緑、


橙、


紫、


浅葱、


桃、


黒、


白、


臙脂。


361 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:42.72 ID:Zo4S+Uss0


部屋を彩る、極彩色の輝き。


私がずっと見ていた、夢の輝き。


鮮やかな色たちが飛び跳ねる。


マーブル模様を作りながら、青い光へ入り混じっていく。

362 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:08.37 ID:Zo4S+Uss0


辛いことが、たくさんあった。

何度も心が折れた。

何度も何度も、化膿した傷を抉られた。


それでも。

それでも、顔を上げてきた。

前を向いてきた。

前を、向かせてくれた。

363 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:48.56 ID:Zo4S+Uss0



馬鹿みたい。

辛さなんて瑣末なことだった。

程度は違えど、誰にでも辛いことはある。

そんな時でも、私には傍に支えてくれる人がいた。


大切なのは、とてもとてもシンプルなこと。



「私はずっと、誰よりも、幸せ、だった」



世界一の大間抜けが、たった一つ気付かなかったこと。


364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:23.21 ID:Zo4S+Uss0

幸せを無下に食い潰していた私を、春香はどう思っていただろうか。


嫉んでいただろうか。

怨んでいただろうか。


違う。


『だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ』


私が幸せを食い潰していても尚、傍にいてくれた。

私を支えようとしてくれた。
365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:50.66 ID:Zo4S+Uss0

幸せに恋い焦がれ。

追いかけて。

手を伸ばして。


でも、それ以上に。


「ずっと私のことを、見てくれてた」


夢の日記の、最後の空白ページ。


「ずっと私のことを、想っていてくれた」


そこには書きかけの、シャープペンシルの筆跡。


「ずっと、私の幸せを、願ってくれていた」


きっともう力が入らなかったのであろう、震えるような『千早ちゃんと』の文字。


「大切な大切な、友達……!」



青い雫が、床に当たって弾けた。
366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:15:26.60 ID:Zo4S+Uss0

いいえ。春香だけじゃない。


「律子も、伊織も」

「亜美も、真美も、あずささんも」

「真も、萩原さんも、高槻さんも」

「美希も、我那覇さんも、四条さんも」


社長、音無さん。


プロデューサー。


「私は、たくさんの人に幸せを、もらってっ……」


雫が止まらない。

体中の私を絞り出すように、ぽたり、ぽたりと床を打つ。


「あ、うあ、ぅぅぅぅっ……」


声を抑えるので精いっぱいだった。
367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:16:20.94 ID:Zo4S+Uss0

その時。

ぴんぽん、と。

呼び鈴が鳴った。


「如月君」


さっき聞いたばかりなのに、とてもとても懐かしい声。


「いるんだろう?」


今返事をしたら、情けない声しか出ない。

小さく縮こまり、きゅっと唇を噛み締める。


「皆、心配しているよ」


優しく、荒れ果てた心を宥めるような声。
368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:17:05.42 ID:Zo4S+Uss0

「先ほどのキミの様子を話したら、ひどく気にしてね」


みんななら、きっととても心を痛めている。

とても優しい人たちだから。

でも、私はその優しさに気付かなかった。

みんなを沢山傷つけた。

そんな私が、今更――。


「予定も入っていたというのに、皆そっちのけだよ」

「かく言う私も、人のことは言えないのだがね?」
369 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:10.72 ID:Zo4S+Uss0

その言葉を聞いた途端。

まるで自分の足とは思えない勢いで、弾くように床を蹴った。


急いで玄関のドアを開けると、社長がにこやかな表情で立っていた。


「やっと出てきてくれたね」


間近で声を聞いて、また涙が溢れてきた。


「社長、わた、私……わたしっ……!」

「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


階段の方を向くように、肩をゆっくり押された。

温かな体温を肩に感じながら、私は階段を駆け降りた。
370 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:44.32 ID:Zo4S+Uss0

足がふわりと浮くように軽い。

私じゃない、誰かの力が身体を動かす。

行きたい、走りたい、早く降りたい。

私がそう思うたびに、何かが私を引っ張る。

誰かが、私の手を引く。


誰もいないそこに、誰が居るの?

私の隣に今、誰が居るの?


分かってる。

ずっとずっと、隣に居てくれたのよね。
371 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:20:22.52 ID:Zo4S+Uss0

階段を駆け下りてマンションを飛び出す。


「っはぁっはぁっはぁっ……」


足を止める。

いつの間にか、雨は止んでいた。


街頭がいくつもの影を照らす。

大小様々な、色とりどりの影たち。


「……こんな時間に、何、してるのよ……」


目にするなり、こんな悪態をつく自分が嫌になる。


でも、そんな強がりでも口にしてないと。

そのまま、崩れ落ちてしまいそうだったから。
372 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:22:15.75 ID:Zo4S+Uss0

その中で、ひと際強く光を映す金髪。

マンションから飛び出した私を見つけ、その長髪が揺れた。


「……千早、さん?」


恐る恐る、様子を窺うような声。

何かに怯え、震えながらも、返事を欲しがる子どものような声。

久しぶりに聞いた気がする声が、たまらなく愛おしくなった。


「み、き」


震えていた黄緑の光が、ぴくりと跳ねる。

そして、すぐさま私の方へ駆けだした。
373 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:23:06.81 ID:Zo4S+Uss0

「千早さぁん!」

「きゃっ……!?」


顔を涙でびしゃびしゃに濡らしながら、美希が飛びついてきた。


「千早さんだよね、如月さんじゃないよね?!」

「っ……馬鹿ね、美希。如月さんでも、合ってるわよ……」

「違う、違うよ! 千早さん! 千早さんなの!!」


大粒の涙をぼろぼろと零す美希。

子どものように泣きじゃくる彼女を、強く抱きしめる。

暖かい。

この子は、なんて暖かいのだろう。
374 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:24:09.06 ID:Zo4S+Uss0

「お姉ちゃあん!!」

「ちはっ……ひぐ、千早お姉ちゃあん!!」


美希の後を追ってきた二人が、私の両腕にそれぞれ抱きつく。

いつか、深く深く傷つけてしまった黄の光。

もう絶対に、この腕は払わない。


「亜美、真美」

「千早お姉ちゃん、行かないで! もうどこにも行かないでよぉ!」

「行かないわ、どこにも、決して」

「遊園地、遊びに行くんだかんね! 指きり、したんだからぁ!」

「もう……行くのだか行かないのだか、分からなくなってきちゃうわよ……」


ああ。

そうだったのね。

今更気付くなんて、本当に馬鹿みたい。

私がアイドルを続けていた、一番の理由。
375 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:25:20.93 ID:Zo4S+Uss0

顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。


「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」

浅葱。


「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」

黒。


「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」

白。


「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」

橙。


「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」

緑。


「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」

紫。


「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」

臙脂。


「本当よ。なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」

桃。
376 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:30:08.86 ID:Zo4S+Uss0

私が、ずっとアイドルを続けていたのは。


「音無さん、社長はどちらに?」

「千早ちゃんが来たからそろそろ……あっ、社長!」

「うぉっほん! いやあ、我が事務所のアイドル達が勢揃いすると壮観だね」


歌いたいから。


「はい、千早ちゃん。ちょっと熱いけど」

「ありがとう、萩原さん……熱っ」

「だから雪歩が熱いって言ったのに。ただでさえ身体が冷えてるんだからさ」


それだけでは、なかった。


「折角の女の子の髪が台無しよ?」

「すみません、あずささん」

「ミキに貸して! 綺麗にしてあげるの!」

「ミキミキ、まだ手が震えてんじゃん」


私は心のどこかで気付いていた。
377 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:31:37.03 ID:Zo4S+Uss0

“もっと欲しい大切なもの”。

仕事より優先する第一のこと。


この暖かい場所に居たい。

この幸せに包まれていたい。

やっと見つけた居場所を手放したくない。


この場所だから、歌いたい。

この場所で、歌い続けたい。


そんな、簡単な理由だった。
378 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:04.37 ID:Zo4S+Uss0

目をつぶると。

たくさんの声が聞こえてくる。


なんだかまるで、幻のようで。

部屋に飛び込んだ時、そのまま微睡んでいたのではないかしら。

そのまま、夢でも見ているのではないかしら。


ふわふわと浮いているような感覚。

そんな私を、声が呼ぶ。
379 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:30.54 ID:Zo4S+Uss0



ねぇ、千早ちゃん。


起きて?


380 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:15.91 ID:Zo4S+Uss0

「あ……」


目を開けると。

みんなが、そこにいた。


「……ち、千早っ!? ど、どうしたんだ!?」

「え?」


プロデューサーが、おろおろとした様子で尋ねる。

けれど私は、そんな質問をされる覚えがない。


「何か辛いのか?」

「え、どうして……」
381 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:46.83 ID:Zo4S+Uss0

ぽたり。


「あ」


雫が落ちた。

それは確かに、私の目から零れた。


「あ、れ……」


止まらない。

落ちた雫が、手の甲に当たる。


「おかしい、です」

「何がだ?」

「止まらない、んです。涙」


別に悲しいわけじゃないのに。

痛いわけでもないのに。
382 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:16.56 ID:Zo4S+Uss0

それに、暖かい。

水なのに。


「あ……駄目、私……」


堪えなきゃ。

両手で顔を覆う。

今気が緩んだら、もう。


「いいんだよ」


そう思ってた私を、プロデューサーが制した。


「我慢しなくていい。もういっぱいいっぱい、我慢してきただろう?」


顔を隠す私の手が、下ろされた。
383 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:43.39 ID:Zo4S+Uss0

「おかえり」


そしたら、待ち構えていたように。

みんな、そんな風に、笑顔で言われたら。


「っ……!」


私、言えないじゃない。

一言しか、言えない。


いいんだよ、それで。


いいのかしら、それで。


みんな、その言葉を待ってるよ。
384 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:09.74 ID:Zo4S+Uss0



だから、私は。

とびっきりの情けない泣き顔で。


「ただ、いまぁっ……!」


涙で顔をぐしゃぐしゃにして、答えた。


385 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:48.09 ID:Zo4S+Uss0

もうそこから先は、何も喋れなかった。

小さな子供みたいに、声を上げた。


私、ずっと孤独だった。

ずっと一人じゃないと駄目なんだって。

これからずっと、一人なんだって思ってたの。


「うあ、あ、あぁぁあ、うっく、ぁぐ、ひぐ、うぅぅぅ」


でも、みんなが。

みんなが、いていいんだよって。

わたし、ここにいていいって。


みんなが代わる代わる、抱きしめて涙をふいてくれる。

でもふいてもふいても、すぐに溢れるの。
386 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:36:14.85 ID:Zo4S+Uss0


「千早ちゃん」


そんな私の頭を、あの子の声が優しく撫でてくれる。


「我慢しないで、いっぱい泣いていいんだよ」


泣きじゃくる私は、声を上げることもできない。

上げてもその声は、きっと、あの子には届かない。


「泣いてる間は、本当の自分と向き合えるから」


そっと触れる声は、悲しいくらい冷たくて。


「誰よりも素敵な、千早ちゃんと」


私を見つめるその声は、寂しそうに潤んでいて。

387 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:37:03.68 ID:Zo4S+Uss0


春香。

私は、やっと居場所に気づけた。

でもここには、あなたも必要なの。

ねえ、春香。

春香!


あの日から私の前に立ちふさがる、分厚い扉。

いくら叩いても、もう彼女の声は聞こえなかった。


私は四角いさいころを、ぎゅっと握りしめた。

388 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:28:19.72 ID:pFf/ISIR0

その時。

何かがそっと、私の肩に被せられた。


「ん……」


その拍子に、分厚い扉ははたりと消えて。

私の前にあったのは、柔らかな感触だった。


「あれ、ここは……」

「っと、起こしちゃったか」

「プロデューサー……?」


鼻腔をくすぐる、薬品の匂い。

気づくと私は、春香が眠るベッドに突っ伏していた。
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