千早「賽は、投げられた」

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230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:19:33.69 ID:Uj/nf4tu0


春香!

春香、寝てなんていないで早く起きて!

私、ずっとずっと会いたかった!

ちょっと会わなかっただけなのに、まるで何年も経ったみたい!

今なら、あなたの名前を呼んであげられる!

夢の中なんかじゃない!

本当のあなたと、手を取り合うことができる!


「あんな鍵だらけのドアは……もう、無い……」

「ほら、分かる……? 私、今あなたの左手を握ってる……」

「ねぇ、春香!」

「また、二人で色んなことを話しましょう?」

「アイドルになりたいんでしょう? 一緒に、頑張りましょう?」

「ほら、春香」

「春香……」



「……何とか、言って……!」


231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:20:06.50 ID:Uj/nf4tu0

春香は、何も喋らない。

目を閉じて、小さな寝息を立て続けるだけ。


「お前……春香と知り合いだったのか」

「春香、春香!」

「……千早。春香はな」

「どうして……」

「……」


「どうして、目を覚まさないんですか……!」


私がどれだけ名前を呼んでも。

身体をゆすっても。

春香は、目を覚まさなかった。
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:07.30 ID:Uj/nf4tu0

「目を覚まさないんだよ」


春香をゆする私の手を押さえ、プロデューサーは言った。


「丁度、千早が発作を起こして入院した日」

「あの夜から、目を覚まさないんだ」


私の呼びかけに、春香は全く答えない。

穏やかな寝息を乱せば、今すぐにでも起きそうなのに。


「病気……というのも少し違うんだけどな」

「長い間寝ては少し起きて、長い間寝ては少し起きて……」

「これまでも、そんな生活を送ってた」
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:58.15 ID:Uj/nf4tu0

「寝る時間が徐々に長くなってきて、あの夜、とうとう……」

「そんなこと……全然聞いてない……」

「……やっぱり黙ってたのか、春香」


友達に隠し事は良くないな、と。

プロデューサーは寂しそうに笑った。


「前は長くても二、三日で起きてたんだが、医者が言うには、今回はもしかしたら……もう」

「ッなんでそんな!」


プロデューサーのスーツを思いっきり掴む。

どうしてそんなにあっさりと言えるの?

春香が、春香がこんなことになっているのに!


「ご両親も俺も、いつかこうなるかもしれないと言われて、前々から覚悟はしてた」

「春香自身も、な」


「っ……」
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:22:53.74 ID:Uj/nf4tu0

どうして、こんな。

折角会えたのに。

届きそうなどころか、実際に触れられる距離にいるのに。


たった今、私たちは触れ合っているのに。


やっぱり、私と春香の心は、こんなにも遠い。

地球の裏側よりも遠いところに、春香はいる。

あの南京錠のかかったドアの遥か先に、春香はいる。


「どうして」

「……」

「どう……してぇっ……!」


頬が濡れる。

久しぶりの潤い。

乾き切ったと思っていたのに、まだ湧き出る源泉があったなんて。
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:23:34.65 ID:Uj/nf4tu0

「俺には何もできない」


プロデューサーは項垂れながら、スーツを握りしめる私の指を解いた。


「ただただ、春香が起きるまで待ってることしかできない」

「……悪い、千早。今日はこんなつもりじゃなかったんだ」


果実の種を噛んでしまった時のように苦い顔をして、私から目を逸らした。


春香がすぐ目の前にいるのに、私には何もできない。

その現実を突き付けられ、理解した時。

私は悔しくて悔しくて、唇を噛み締めた。
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:24:25.35 ID:Uj/nf4tu0

「……待っていること、しか?」


ふと、プロデューサーの言葉を復誦してみた。

確かに私は無力だ。

私には、春香を目覚めさせることはできない。


なら、何をするべきか?


「……深く考える事なんて、なかったのかもしれない」


こんな時、春香ならどうするか。

こんな時、私はどうしてもらっていたか。


どうしようもない時。

塞ぎこんでいた時。

邪険に突き放した時。


どんな時でも、春香は傍にいて、私のことを信じて、待っていてくれた。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:25:04.27 ID:Uj/nf4tu0

簡単なことだった。

とてもとてもシンプルな結論。


なら、今度は私の番だ。


「プロデューサー。これからも、春香に会いに来ていいでしょうか」

「ん? そりゃ勿論。春香も喜ぶだろうな」


春香はここにはいないのに。

でも、いい。

ここに春香がいないのなら。

春香が、今は遠くに行ってしまっているのなら。


私はここで待ち続けよう。

彼女が、春香が帰ってきて、再び目を開けるその時まで。
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:27:37.33 ID:Uj/nf4tu0



もう私は、すごろくの番に追われていない。

さいころは振らない。

駒を進めるつもりもない。

そんな今の私にとって、停滞し、待ち人に思いを馳せるのは、とてもとても容易なこと。



ずっとずっと。


何日でも。


何週間でも。


何か月でも。


何年でも。



私は待ち続けよう。

他の何も望まない。

ただただ、この場で停滞していよう。

ただただ、春香が目を覚ますことだけを待ち続けよう。


どこへも進むことなく。

どこへも戻ることなく。


彼女がずっと、そうしてくれていたように。

彼女への恩返しに。

そして、私自身のために。


239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:35:58.80 ID:Uj/nf4tu0

その日から私の日課が増えた。


診察を終えた後、病室へ立ち寄る。

春香が一人きりで眠り続ける、白い部屋へ。


どうやら、ご両親は午前中の内に来ているらしい。

私は椅子に腰かけ、春香と二人きりで他愛もない独り言を続ける。


「今日ね、こんな嬉しいことがあったのよ」


「お昼にこんなものを食べたのだけれど、とても美味しくて」


「昨日たまたま観たテレビが面白かったわ」


嘘で塗り固められた独り言。

私が感じられるはずもない感覚を、あたかも事実のように語りかける日々。

きっと春香が聞きたがりそうな話。

過去の記憶を頼りに、一つ一つ創り上げていく。
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:38:06.23 ID:Uj/nf4tu0

毎日毎日、足繁く通う。

二人きりの時間の流れは、とても穏やかに停滞していて。

可愛らしい寝息を立てる春香の横で、私は話し続けた。


一度、病室の前でご両親らしき人達とプロデューサーが話しているのを見た。

その翌日、いつものように春香に話していると、春香のお母さんが来た。

初対面でどうしたらいいか分からない私に微笑むと、持ってきた紅い林檎を八つに切り分ける。

それを差し出し、二人で食べてね、と言うと、着替えを抱えて帰っていった。


「美味しそうな林檎ね、春香」


林檎は一つも減らなかった。
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:14.02 ID:Uj/nf4tu0

そこから始まる、私と春香、二人だけの空間。

まるで録画したビデオを見続けるように、変わらない日々。


私たちは繰り返す。

ただただ、同じ毎日を繰り返す。

コピーのように淡々と、往復する毎日を繰り返す。


日にちの感覚を忘れ。

曜日の感覚を忘れ。

月の感覚を忘れ。

外の空気がなければ、季節さえも忘れそうなほどに。


私と春香、二人だけの世界だった。

誰もいない、二人だけの世界。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:44.70 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

春香とお話をした。


243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:10.15 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香の髪を洗ってあげた。


244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:59.20 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

車椅子の春香と、二人で散歩をした。


245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:41:24.99 ID:Uj/nf4tu0



今日は雨。

春香と一緒に音楽を聴いた。


246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:03.44 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香が好きだという花を持ってきた。


247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:35.82 ID:Uj/nf4tu0



昨日も。


今日も。


明日も。


明後日も。


その次も。


その次も――。


248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:19.78 ID:Uj/nf4tu0


私の生活は春香を中心に動いていた。

いや、春香だけを軸に動いていた。


最近、春香以外の人と話した記憶がない。

携帯電話も、随分前に電池が切れたまま。


それでも私の生活に支障はない。

今の生活を続けることに、問題はない。



ない、はず。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:54.54 ID:Uj/nf4tu0


ないはず、なのだけれど。


私の潜在意識が。

私の深層心理が。


何かの不調を訴える。

何かの違和感を訴える。


それが何なのかは分からない。

認識できない。


余分なものなのか。

足りないものなのか。

はたまた、ただの思い込みなのか。


それでも自分に言い聞かせた。

私は待ち続けなければならないのだ。

それこそが、私の義務なのだから。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:23.22 ID:m2Fax+Wi0

その日も、私は春香の病室へ向かっていた。

病院への道すがら、唐突に声をかけられる。


「……千早お姉ちゃん?」

「っ千早お姉ちゃん! 千早お姉ちゃんだ!」


その声には聞き覚えがあった。

双子の双海さん。

駆け寄ってきたのは、髪が短い妹の方。


「千早お姉ちゃん! 電話もメールも返事がないから、心配してたんだよ!?」

「部屋に行っても、いつも反応がないし……」


そういえば、携帯電話の電池は切れていたんだった。

病院へ向かう足はそのままに、ふと思い出す。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:57.46 ID:m2Fax+Wi0

「亜美ちゃん、ちょっと早いわよ……って、千早ちゃん?」


軽装の三浦さんが駆け寄ってくる。

成程、二人でレッスンにでも行っていたのだろう。


「久しぶりね。全然音沙汰がないから、みんな気が気じゃなかったのよ?」

「ホントだよ! いつでも連絡でもなんでもしろって言ったの、千早お姉ちゃんなのに!」


そういえば、そんなことを言ったような気もする。

でも今は事情が変わった。

もっと優先するべきことが、私の前にはある。


「ちょっと千早お姉ちゃん、なんか言ったらどうなのさ?」


双海さんが私の腕を掴んだ瞬間。


「……亜美ちゃん!」

「うえっ!?」


私は腕を払った。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:28.17 ID:m2Fax+Wi0

「ち、千早、ちゃ……」

「急いでいるんです。失礼します」


私は春香の所へ行かなければならない。

ここで時間を潰している暇はない。

ちょっと勢いよく払い過ぎたかとも思ったが、転んではいないようだ。


「千早、お姉ちゃん……」


か細い声が聞こえた。


「何処に、行っちゃったのさ……」


私が居る場所は、今も昔も変わらない。

春香の傍。



なのに、この揺らぎは何?

背後から聴こえてくる女の子の泣き声が、耳から離れない。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:55.18 ID:m2Fax+Wi0

「春香。遅くなってごめんなさい」


花瓶の水を換えながら謝った。

いつからか、これは私の仕事になっていた。


「そうね。今日はどんな話をしようかしら……」


今日来る途中にね、と言い掛け、口を閉じる。


泣きじゃくる双海さんの姿が見えた。


違う。

違う!


脳裏からその姿を振り払い、改めて春香と向き合った。


「……ごめんなさい。話してあげること、思いつかないの」



小さな揺らぎが水面を震えさせる。

小さな波紋が生まれた。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:27:38.16 ID:m2Fax+Wi0

もう陽が落ちる。

帰らないと。


「また明日ね、春香」


結局何も話すことができず、私は病室を後にする。

病院から出ると、正面に二つの影があった。


「……千早」

「何か用かしら、菊地さん」

「亜美を泣かせたんだってね」

「別に、意地悪などをしたわけではないわ」

「そうなんだろうね」


菊地さんは必死に感情を押し殺しているように見える。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:28:10.40 ID:m2Fax+Wi0

隣に立つ萩原さんは、無表情でこちらを見ている。

拳を握りしめ、菊地さんが一歩ずつ近づいてくる。


「……なんとも思わなかったのか、千早」

「……」

「思わなかったのか」


私は何も答えなかった。

菊地さんの拳に、更に力が籠められる。


怒っているのだろう。

私を殴るつもりなのだろうか。

それもいい。

そうしたいというのなら、私は構わない。


漫然と待っていると、強めの衝撃が私の左頬を襲った。

勢いで、私の顔が右を向く。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:30:37.27 ID:m2Fax+Wi0

「ゆ、雪歩……?」

「……」


前へ向き直った私の目に映るのは、驚きで目を丸くする菊地さん。

そして、平手を放ったままの姿勢で私を睨む、萩原さんの姿だった。

正直、萩原さんが手をあげるとは思わなかった。


「随分嫌われたわね、私」

「……そんな事しか感じなかったの?」


私の襟を掴みながら、萩原さんは叫んだ。


「ねえ千早ちゃん! そんなことしかっ! 感じなかったの!?」

「落ち着いて、雪歩!」


激昂する萩原さん、宥める菊地さん、気圧される私。

菊地さんの言葉に我に返ってから俯くと、萩原さんは背を向けて走っていった。


「ちょっと待ってよ!」


私をちらりと見て何か呟くと、菊地さんは慌てて追いかける。

その場には、私一人だけが残された。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:31:31.79 ID:m2Fax+Wi0

自分の部屋へ戻り、ベッドへ倒れ込む。

痛みが引かない左頬を押さえながら、去り際に菊地さんが言い残した言葉を思い出す。


どうして雪歩が叩いたか、分かる?


分からない。

双海さんを泣かせたから。

私に愛想を尽かしたからではないのか?


「……どうして?」


ならば何故。

何故叩いた側の萩原さんが、あんなに辛そうな顔をしていたのだろう。

何故肩を震わせながら、私を叩いた右手を押さえていたのだろう。


揺らぎが大きくなる。

波紋は、笹舟が浮いていられないくらいになった。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:32:16.45 ID:m2Fax+Wi0

昼前、呼び鈴の音で目が覚めた。

どうやら昨夜はそのまま、ベッドで寝入ってしまったらしい。

夢は、春香と再会した日から見なくなっていた。


無視しても、何度も何度も呼び鈴が鳴る。

どうにも来客が帰る気配はないので、仕方なく身体を起こした。


「ええと、おはようございます?」

「千早はねぼすけだなー」


玄関を開けると、首をかしげる高槻さんと、何やら紙袋を抱えた我那覇さんがいた。


「……何か急な用事かしら」

「別に、急ってほどでもないんですけど」

「渡したいものがあって来たんだ。頬、大丈夫?」


我那覇さんに言われて思い出す。

そう言えば、萩原さんに叩かれたところがまだ少し痛い。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:33:48.85 ID:m2Fax+Wi0

「大丈夫よ」

「痛そうです……これ、貼っておいてくださいね」


高槻さんに渡されたコンビニの袋の中には、冷却シートの箱が入っていた。


「雪歩さんも、ちょっとカッとなっちゃっただけで」

「つい、手が出ちゃったんだよ。怒らないであげて、っていうのも難しいと思うけど……」


恐る恐るといった様子の、二人のフォロー。


「別に、気にしてないわ」

「はぁ、良かったぁ……これ、あげる!」


私の言葉に安心したのかはにかむと、我那覇さんは抱えていた紙袋を差し出してきた。

素直に受け取ると、高槻さんはにこりと笑い、おずおずと袋を指差した。


「中身、気に入ってもらえると嬉しいかなーって」


紙袋は、その大きさにしては軽かった。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:34:40.40 ID:m2Fax+Wi0

その後も何かと私の暮らしぶりを心配してくる二人に、ふつふつと疑問が湧いてきた。


「……一つ、聞いていいかしら」


話題が止まり、二人がやや緊張の面持ちで私の目を見る。


「どうして、私の心配なんてするの?」


問いかけた途端、二人の表情が緩んだ。


「そんなの決まってるさ」

「千早さんは、私達の大切な人ですから」


大切な人?

私が?

どうして?


「あ、千早! 次事務所に来たら、一言くらい亜美に謝っておいてね!」


そう言い残すと、二人はじゃあね、と。

最後に手を振って、階段を下りて行った。
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:35:30.35 ID:m2Fax+Wi0

私には分からなかった。


私は春香が大切だ。

春香は色んなものをくれて、色んなことを教えてくれて、私にとってかけがえのない存在だから。


では、彼女達にとっての私は?

私は彼女達に何かしただろうか?


何故彼女達が私を大切だと思うのか。

私のどこに、輪を去ってもなお気にかけるような、かけがえのないものを見出したのか。

分からない。


紙袋に入っていたのは、二羽の鳥の模様が編まれたマフラー。

一羽は少し潰れ気味で。

上手くいかないことに苛立ち、ツインテールを揺らしながら唸る姿が浮かんだ。



揺らぎがどんどん大きくなっていく。

大きな石を投げ込んだように。
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:36:13.60 ID:m2Fax+Wi0

午後。

病院に行く前に、久しぶりに事務所へと寄る。

うっかりしてたのか、紙袋に編み棒が入っていたので、我那覇さんに返さないと。


「あ……!」


事務所の前に着くと、久しぶりの顔を見た。


「千早さ――」

「こんにちは、星井さん」

「……っ!」


名前を呼ぶと、星井さんの表情が強張った。

バッグに手を入れたまま、唇を噛み締めながら私を睨む。


「……こんにちは。如月、さん」


何か気分を害するようなことを口にしただろうか?

星井さんはビルに背を向け、ずっと私のことを見ていた。
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:38:02.25 ID:m2Fax+Wi0

「美希、そんなところに突っ立ってないで早く……って、千早?」

「こんにちは」


二人して黙り込んでいると、建物の中から秋月さんが姿を現した。

私の姿を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「久しぶりじゃない! 帰ってきてくれたのね!」

「ごめんなさい、秋月さん。今日は我那覇さんの忘れ物を持ってきただけで」

「あ……そう、なんだ。ごめんごめん、早とちりしちゃって。わざわざありがとね」


秋月さんは一瞬だけ寂しそうにして、すぐにいつもの明るい顔に戻る。

編み棒を紙袋ごと手渡すと、秋月さんは星井さんの方へ向き直った。


「ほら、美希! 久しぶりに会ったのに、何よその顔は」

「う……」


居心地が悪そうに、星井さんの視線が泳ぐ。


「まったく……あれ? 美希、バッグから見えてるそれって……」

「っ! こ、これは……その……」
264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:40:21.99 ID:m2Fax+Wi0

言われて見てみると、星井さんの手元に何か包みがある。

バッグに入れた手は、それを取り出そうか迷っていたようだ。


「千早に渡すんでしょ?」

「そ、それは、そう、だけど……」

「まどろっこしいわねぇ、あなたらしくもない。照れてないでサッと渡せばいいのよ」


そう言うと秋月さんは私に手招きをして、星井さんの手を取ろうとした。

その時。


「……これは、千早さんにあげるモノなの!」

「み、美希!?」


星井さんはバッグを抱き込み、大きく後ずさった。


「如月さんにあげるものなんて、何もない!」


そう叫ぶと、星井さんは背中を向けて事務所へと走り出した。


「あ、ちょっと、美希!」


私と秋月さんは、呆然と星井さんの後姿を見ていた。

星井さんが階段を駆け上がる音は、とても乾いていた。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:41:15.03 ID:m2Fax+Wi0

如月さん。

そう言われた時、どこかがとても痛んだ。

階段を登る足音が、空っぽな私の頭の中で反響する。


かんかんかん。

かんかんかんかん。


私から逃げるように去っていく音は、響くたびに私を軋ませた。

何らかの理由で至る所にひびが入った私の身体。

軋むごとに、ボロボロと劣化した欠片が剥がれ落ちる。


星井さんの足音だけではない。

秋月さんの瞳。

私を見つけた時の輝いた瞳と、直後に一瞬だけ見せた暗い瞳。

輝いた瞳の中にいたのは、私ではなかった。

暗い瞳の中にいたのは、私だった。



揺らぎは最早、揺らぎというには大きすぎた。

うねりが、幾重にも重なって広がっていく。
266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:42:45.11 ID:m2Fax+Wi0

秋月さんに紙袋を託して別れを告げ、病院へ向かう。

事務所から少し歩いてから、私を追いかける足音に気付いた。


「何か用でしょうか」

「用、というほどのことでもないのですが」


後をつけていたのは、四条さんと、双海さんの姉の方。


「双海真美が、千早のことが心配だと言うもので」

「だってさ、遠目に見てもめっちゃ悩んでるのバレバレなんだもん」


まただ。

私のことが心配だと言う。

私なんかの心配をするより、やるべきことは沢山あるはず。


「私の心配なんてしても時間の無駄よ。もっと他のことに時間を使って」

「やっぱり、そういうこと言うんだね」


やっぱり?

双海さんは、私が考えていることを分かった上で?
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:43:50.71 ID:m2Fax+Wi0

「ねぇ、千早お姉ちゃん。心配することって悪いことかな? 真美達、迷惑じゃない?」


心配することそれ自体は、別に悪いことではないだろう。


「迷惑ではないわ」

「……良かったぁ」


双海さんは肩の荷が下りたように、安堵の笑みを浮かべた。

四条さんも目を細め、喜ぶ双海さんの頭を撫でた。


「皆も悩んでいたのですよ。自分達の心配が、千早の迷惑になっているのではないか、と」

「やよいっち達に、何で自分の心配するんだーとか聞いたらしいじゃん」


迷惑などではない。

ただ単に不思議だっただけだ。

誰も彼も、何を考えているのか分からない。


不透明感が捻じれ合って渦を作る。

考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく気分だった。
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:44:41.82 ID:m2Fax+Wi0

再び思考の渦に呑み込まれそうになっていた時、双海さんが私の手を取った。


「ねね、千早お姉ちゃんって今仕事してないから、ニート状態っしょ?」

「ふ、双海真美! そのような言い方は……」

「事実ですから構いません。それがどうかしたかしら」

「じゃ、今度遊園地に遊びに行こうよ!」


前なら行っても良かった。

でも今は毎日、春香に会いに行かなければならない。


「ゆーびきーりげーんまーん」


断ろうと思っていたら、いつの間にか私の小指に双海さんの小指が絡められていた。


「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ! お姫ちんが証人ね!」

「ふふっ、確かに見届けました」

「いや、あの……」


私の言葉を待たず、双海さんは笑いながら逃げてしまった。

四条さんも、私を見てにっこりと笑ってから追いかけていった。
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:16.21 ID:m2Fax+Wi0

私は底なし沼に足を取られ、無様にもがいている。

考えても考えても、納得のいく答えが見つからない。


指切りをした小指が、じんじんと熱くなる。

強い既視感を感じながら、私は二人の後姿を見送った。


前にも、同じように指切りをした気がする。

あの時は、どんな約束だっただろうか。

誰と交わした約束だったか。

それを考えるたび、小指がずきりと痛む。



そこにいるのは、誰?



うねりはますます激しくなる。

何本ものうねりが濁流となり、私の心を巻き込んでいく。
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:55.48 ID:m2Fax+Wi0

病室に着いても、私の心は波立ったままだった。


「ねぇ、春香……」


返事はない。


「私、何か間違っているのかしら」


春香の手のひらは、夢の中と同じように暖かい。

でもその目は開かず、私の質問には答えてくれない。


「ねぇ、春香……」


返事がないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。


「みんながね、私のことを気にかけてくれるの」

「迷惑をかけても」

「距離を置いても」

「千早、千早ちゃん、千早さん、千早お姉ちゃん」

「みんながね、私の名前を呼ぶの」
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:46:29.40 ID:m2Fax+Wi0

私の中は、空っぽになったものだと思っていた。

私の心は、あの事務所から離れたものだと思っていた。

思おうとしていた。


「でも、ずっと頭の中で反響しているの」


双海さんが泣きじゃくる声が。

萩原さんに叩かれた痛みが。

星井さんの刺すような視線が。


「お願い、春香……教えて……」


もう、誰にも迷惑をかけたくない。

誰も不幸に巻き込みたくない。


「私、どうしたらいいの……?」


何度私が問いかけても。

春香は答えてくれなかった。
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:13:45.46 ID:UnTjGLwD0

いつの間にか、面会時間の終わりが来た。

病院から出なければならない。


「浮かない顔してるわね」


建物を出た途端、真横から向けられる声。

少し驚いて顔を向けると、水瀬さんが壁に身体を預けて佇んでいた。


「放っておいて」

「どうして?」

「私なんかに構っても、時間の無駄よ」


あれだけ環境に恵まれて、あれだけチャンスに恵まれて。

それを、全てを壊してきた私。

これ以上関わっても、私は不幸しか生まない。


「そんなにボロボロなのに、いっちょ前に私達に気を遣ってるつもり?」


水瀬さんは、そんな私の心を見透かしたように鼻で笑う。

それからすぐに、目付きを鋭くして詰め寄ってきた。
273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:17:27.58 ID:UnTjGLwD0

「余計なお世話よ、ばーか」


水瀬さんの猛禽類のように鋭い眼光が、私を射抜く。

――かと思うと、すぐにため息をつきながら目を背けた。


「もしかして、アンタのために心配してるとでも思ってる?」

「だとしたら悪いけど、勘違いしてるわよ。私達は自己中集団なの、アンタが思っている以上にね」

「アンタのためじゃない。私達は“自分のため”にアンタの心配をしてるの」


そう私に告げる水瀬さんは、年齢以上に大人びて見えた。


「自分の、ために?」

「ええ。千早に何かあったら私達が困るから」

「そういう意味ならもう手遅れじゃないかしら。散々仕出かした後よ」

「まだそんなこと言ってるの? ホントに察しが悪いわね」


呆れ顔の水瀬さんが、再びため息をついた。

言いたいことがよく分からない。

けれどこれが分かれば、みんなが私に執着する理由も分かるはず。
274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:23:10.14 ID:UnTjGLwD0

「仕事なんて二番目なの、私達にとってはね」

「水瀬さんらしくない言葉ね。家族を見返してやるってあんなに言ってたのに」

「全くよね。丸くなったものだわ、この伊織ちゃんも」


でも、仕事が二番目なら一番目は何?

私の失態に巻き込まれたことへの対応よりも、優先すべき大切なこと?

そこに、みんなが私を気に掛ける理由があるのだ。

私にはそれが分からない。

ここで仕事を優先しなければ、みんなの夢は遠ざかっていくばかりだというのに。


「みんな、トップアイドルになるためにあの事務所に入ったはず。それを差し置いて優先することなんてあるのかしら」

「じゃあ千早、逆に聞くわ。アンタはどうしてアイドルになろうと思ったの?」

「それは……」

「私はアンタも知ってる通り、家族を見返す為よ」


水瀬さんは胸を反らせながら宣言した。


「トップアイドルになってどいつもこいつも見返して、悦に浸ってやるためにアイドルになろうと思ったのよ!」


水瀬さんはそう。

では、私は――?
275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:31:38.57 ID:UnTjGLwD0

「別にアンタは答えなくていいわよ、わざわざ聞く気もないし」


こめかみに力が入り始めたところで、水瀬さんはあっけらかんと言い放った。


「でも、“アイドルになる”こと自体は目的でもゴールでもない。アイドルになって、“欲しい何か”があったんでしょう?」

「高揚感でも、人々の笑顔でも、自己顕示でも、復讐でも、新しい自分でも」

「アイドルは、それらを得るために選択した手段、ってだけのはずよ」


私は何故あの事務所に入ったのだろうか。

春香に後押しされたことは覚えてる。

でも私はアイドルになって、一体何を得ようとしていた?


「勿論、今だってトップアイドルは諦めてないわ。到達すべき具体目標よ」

「けれど私は、家族を見返すことよりも人気の上でふんぞり返るよりも、“もっと大切なもの”を見つけた。見つけてしまった」

「だから私には……ううん、私達には、その大切なものこそが仕事よりも優先すべき第一なのよ」


そう私に言った水瀬さんは、何かが吹っ切れたように誇らしげだった。
276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:35:26.47 ID:UnTjGLwD0

「自分にとって大切なもののためだけに、アンタを心配する。ね? 私達、すっごい自己中でしょ」

「自分勝手な考えだし、良いわよ、私達の心配を面倒に、鬱陶しく思っても。そのせいで私達を嫌いになっても」

「姿を暗ましたいなら水瀬財閥が手伝ってあげるわ。地球の裏側で新しい人生をやり直すくらい余裕よ?」


「でも」


一拍おいて、水瀬さんは再び猛禽類のような鋭い目つきになった。

これ以上譲歩はしないという、決意の瞳。


「私達のためを思って、とか、迷惑をかける、とか」

「そんな頼んでもない下らない理由で私達の想いを、願いを否定することは許さない」

「絶対に、許さない」

「否定するならせめて、アンタ自身のためでありなさい」


言葉はとても静か。

身振りもなく、ただ静かに言われただけ。

なのに水瀬さんの言葉は鋭く研ぎ澄まされたナイフのようで。


「……はぁ、仕事したわけでもないのになんか疲れたわ」


そう言うとまるで何事もなかったかのように、いつもの表情に戻った。
277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:36:28.18 ID:UnTjGLwD0

「い、伊織ちゃん……ちょっと言い過ぎじゃないかしら……?」

「別にいいのよ、小鳥。ネジが何本か飛んじゃってるみたいだから、これくらいガツンと言ってやらないと」


塀の陰から、恐る恐る音無さんが姿を現した。

どうやら水瀬さんと一緒に来て、今の始終を見守っていたらしい。


「ほら、現場行くからさっさと車を出してよね」

「うぅ……あたしは運転手じゃないんですけどお……」

「新堂が忙しいから仕方ないじゃないの。満足してあげてるんだから感謝しなさいよ」


涙目の音無さんが、近くに停めてあった車に乗り込む。

私が退院する時に乗せてもらった、小さな軽自動車。


「あ、そうそう、千早!」


助手席に乗り込もうとした水瀬さんが、私の方を見て叫んだ。


「アンタも、もう少し自己中になりなさいよ。人に気を遣ってばかりでも、人生つまらないでしょ?」


水瀬さんが乗ると、音無さんの車はすぐに走り去っていった。

言い残された最後の一言のせいで、頬の痛みが増していった。
278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:42:18.99 ID:UnTjGLwD0

『もっと大切なもの』。

水瀬さんはそう言った。

みんなにとって、アイドル活動よりも、そこから得ようとしていたものよりも、何よりも大切なもの。


そういえば、みんなが私を気にかけていたけれど。

誰一人としてアイドル活動については口にしなかった。

私を心配する言葉を発した時、みんなは何を思っていたのだろう。

それこそが、今の私から欠落しているモノ?


私は何のためにアイドルになった?

どうして、あんなにがむしゃらに歌い続けてきた?


「……あ、忘れ物……」


ふと、春香の病室にハンカチを忘れてきたことを思い出した。

少し取りに戻るくらいなら、きっと大丈夫だろう。
279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:43:13.05 ID:UnTjGLwD0

受付で忘れ物をしたことを話し、病室へ向かう。

角を曲がって春香の病室が見えた時、扉が開いていることに気付いた。


「……誰か来ているのかしら」


765プロの関係者じゃないといいけれど。

今、あまり会いたい気分ではない。

静かに中の様子を窺うと、そこにいたのはプロデューサーだった。


「千早か?」

「っ……はい」


私の気配を察して、すぐにプロデューサーは振り向いた。

こんな時ばかり勘がいい。


「そんな嫌そうな顔するなよ。お説教とかするつもりはないよ」

「……見てたんですか?」

「たまたまな。個人的に春香を見舞いに来たんだ」
280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:44:50.05 ID:UnTjGLwD0

「ハンカチ、取りに来たんだろう。しっかり者でも忘れ物をするんだな」

「はい、ありがとうございます」


置きっぱなしになっていたハンカチを手渡される。

お礼の言葉は何とか絞り出したものの、プロデューサーの顔を見る気になれない。

早く病室を出よう。

今何か声をかけられても、返す言葉は否定も肯定も思いつかない。

私は今、自分自身を見失っている。


「こいつさ、昔からアイドルになりたいって言ってたんだ」


帰ろうとした時、プロデューサーが春香の額を撫でながら言った。


「いつだったかなぁ。急に言い出したんだよ」

「小さい頃から明るかったけど、あんなに目を輝かせてるのは初めて見たな」


思い出すように話すプロデューサーの目は、優しかった。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:47:36.15 ID:UnTjGLwD0

「毎日毎日、自分なりに試行錯誤してた。ボイトレしたり、振り付けを真似したり」

「でもこんな体質だからな。アイドルを目指すのは愚か、レッスンを受けることすら叶わなかった」

「オーディションのチラシや新人アイドルの番組を見ながら、悔しそうにしてることも多かった」

「そんな春香に感化されたのかな。進路思いつかなかったから、じゃあ芸能業界でも行ってみようかな、って」

「あわよくば、こいつの夢を手伝ってやれたらな、って思ってさ」

「……誰かが助けてやらなきゃ、夢を持つことすら許されなかったんだよ」


私が知っている春香は、いつも笑っていた。

オーディションの様子を話すとワクワクしながら聞き耳を立てて。

収録の様子を話すと続きを急かされて。


けれど、それは本音だったのだろうか。

本当は私の話を聞きながら、内心穏やかではなかったのではないだろうか。

私が気まずくない様に、傷つかない様に、自分の心を押し殺していたのではないだろうか。
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:17.76 ID:UnTjGLwD0


いつも明るい春香。

私は彼女のことを、どれだけ知っているのだろう?

毎日のように私の横で笑っていた春香。

アイドルをする私を見ながら、何を思っていたのだろう?


私はいつも、彼女から与えられてばかりだった。

事あるごとに励まされて。

事あるごとに慰められて。

事あるごとに私の背を押してくれた。

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:47.33 ID:UnTjGLwD0


私は彼女に何を与えた?

何も与えていない。

彼女が恋い焦がれ、手を伸ばすことすら許されなかったものを享受し、食い潰してきた。

ただひたすらに、春香に甘え続けてきただけだった。


きっと、春香をたくさんたくさん傷付けてきた。

だったらせめて、怒って欲しい。

罵って欲しい。

軽蔑して欲しい。

『如月千早が悪い』と、一言そう言って欲しい。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:49:25.60 ID:UnTjGLwD0

でも、春香は目を開けてさえくれない。

何を思っていたのかをおくびにも出さず、ひたすら眠り続けている。


怖い。


たまらなく怖い。

私、本当は春香に嫌われていたのではないかしら。

本当は、春香は私の顔なんて見たくもないのではないかしら。

私が勝手に待ち焦がれているだけで、私が勝手に縋りついているだけで――。


「これ、預かってたんだ」


急に声をかけられ、ビクッと肩が上がる。


「春香の母さんがな、お前に渡してくれってさ」


そう言ってプロデューサーが懐から取り出したのは、二冊のノート。

一冊はかなり長い間使っていたようで、表紙が色褪せ始めている。

もう一冊は見たところ、比較的新しい。
285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:50:28.54 ID:UnTjGLwD0

「春香のノートだ。中身は見てないからよく分からんが」

「どうして……私に?」

「知らないよ。春香の母さんが、お前に、って言ったんだから」


古い方のノートは、随分前に流行った女の子向けのキャラクターのシールが貼られている。

粗雑に扱えば破れてしまいそうで、鞄にしまうことさえ躊躇われた。


「まぁ見てやってくれよ。わざわざご指名があったくらいだ。ファンレターでも書かれてるんじゃないか?」


そう言ってから、ハッとプロデューサーは腕時計に目をやった。


「やばっ! もうすぐ打ち合わせの時間じゃないか! すまん千早、また今度な!」

「お疲れ様、です」


私の言葉を最後まで聞かず、プロデューサーは慌てて病室を出て行った。

その直後、廊下から看護師の怒り声が聞こえた。


「……どうして、私に……?」


ノートを慎重に抱え、春香を一瞥してから病室を後にした。
286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 17:18:33.68 ID:XhF9INNGO
続き書くのか書かないのか 書くつもりなら過去分はさっさと投下した方がいいのでは
287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 20:17:52.14 ID:IWgYdlX+0
>>286
やる気がないんだろ。察してやれ
>>1が何も言わない時点でもう…ね
288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 20:47:06.02 ID:UnTjGLwDo
>>286
生活環境の都合で一度に長時間の連続投稿ができないので、区切りのいいところで分けています
また、結果的にそのままにしている部分が殆どなのですが、再投稿に辺り全文で修正をするか否か推敲していて進みが遅いのもあります
投稿が遅くなってしまい、申し訳ありません
289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:12:22.49 ID:UnTjGLwD0

帰路につきながら、右手に抱えたノートに目をやる。

表紙の下の方には『あまみ はるか』と拙い字が書かれている。

恐らく、私と出会うよりもずっとずっと前に書かれた名前。


それはきっと、私がまだ、幸せだった頃。


「何が書かれてるのかしら」


ページを開けばすぐに分かる。

でも、それはとても崇高なもののように思えて。

とてもじゃないけれど、歩きながら片手間に読んでいいものではないように思えて。


「……確かそこの公園、ベンチがあったはずよね」


早く、読まなければいけない気がした。
290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:15:03.78 ID:UnTjGLwD0

夕暮れを過ぎ、誰もいない公園。

僅かに残った陽に照らされる遊具たち。

楽しい時間が終わりを告げて、誰もいない空虚な遊び場。

そこへ私は足を踏み入れ、ベンチへゆっくり腰掛ける。


鞄を脇へ置き、まずは古い方のノートを開く。

そこには、幼い春香が書き記した、可愛らしい言葉があった。


『わたしのにっき』


それは、私が知らない頃から春香が書き記した、日々の記録だった。

ぱらぱらとページをめくる。

毎日書いているわけではないらしい。

もし毎日書いていたら、ノートは何冊にも及んでいたことだろう。
291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:06.94 ID:UnTjGLwD0

日記は一つ一つは短いものの、春香らしさが伝わってくる。


『きょうは、ケイちゃんのおうちであそびました』

『テストで90てんもとれました』

『おかあさんがおべんとうにハンバーグをいれてくれました』


たどたどしくも楽しげな笑顔が浮かぶような記録達。

読んでいる内に、会ったこともない幼少の春香とお話をしているような気分になってくる。

笑いながら私に日々のわくわくを報告してくれる春香は、とても可愛らしかった。


『学芸会でまほう使いの役になりました』

『運動会でかけっこに出たけど、ころんでしまいました』

『お父さんの湯のみを割ってしまい、ちょっとおこられました』


あら春香、漢字が使えるようになったのね。

日常の記録であると同時に、微笑ましい成長の記録でもあるらしい。

私が知らない春香を見守る日々は、穏やかで心安らぐものだった。
292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:38.24 ID:UnTjGLwD0

そんな気分でページをめくっていると。

ある時を境に、様相に変化が出始めていた。


『遊園地に行ったけど、途中で眠くなってしまいました。もうちょっと遊びたかったです』


小学4年生の記録。

それは、春香の人生が大きく狂った瞬間だった。
293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:18:25.89 ID:UnTjGLwD0

日記の最初の方にあった、ある言葉。

小学2年生の時の日記に、将来の夢が書かれていた。


『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


アイドルを目指して、音楽の授業や体育を頑張っていること。

テレビに出ていたトップアイドルがとてもかっこ良かったこと。

近所のお兄さんに、アイドルを育てるスクールの存在を教えてもらったこと。

そこに入るために、頑張ろうと意気込んだこと。


日常の報告の合間に挟まる春香の想いは、年相応に夢想的で。

そして、年相応に夢に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた。
294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:19:37.55 ID:UnTjGLwD0

そのエネルギーが、遊園地の事件を境に弱まっていく。


『最近、すぐに眠くなってしまいます』

『学校に行けない日が増えてきました』

『体力が減ってきて、激しい運動が辛いです』


春香らしい、楽しげな報告もなくなったわけではない。

それらに挟むことで目立たない様にしてある、けれど滲み出てしまう、悩みと不安。


医者にかかっても、詳しい原因が分からない。

ただ一つ確実だったのは、春香を蝕む何かが、じわりじわりとその力を強めていること。

それは小学生の身にも理解できる事であり。

小さな女の子の夢を挫くには、十分すぎるものだった。
295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:22:14.44 ID:UnTjGLwD0

諦める、とは一言も書かれていない。

しかし、その心は明白だった。


その日以降、春香は“夢”について書かなくなった。


家族や友達と過ごす、楽しい時間。

眠る時間が増え、退屈な時間。


『この頃、一人ぼっちな気分になることが増えました』


幸せと不安が入り乱れた日々が少女にもたらす負担。

それは、少しずつ少しずつ、その心身を蝕んでいく。

天性の才能には恵まれず、努力を重ねることも許されない。

それどころか、思うように生きることすらもままならない。

そんな彼女にとって“夢”は、まさしく“夢”でしかなかった。
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:23:38.04 ID:UnTjGLwD0

「っ……」


小さい春香にとって、どれだけ辛かったことだろう。

思うだけで、胸が締め付けられる。


そう思いながらページをめくると、やけに筆圧の強い、力のこもった字を見つけた。


『合唱コンクールに出ることになりました! 本番に向けて頑張ります!』


「あ……」


それは、中学生の頃の記述。

そして、私にとっても思い出深いあの頃。


『音を外しちゃいました……練習しないと』

『ケイちゃんがお見舞いがてら、自主練に付き合ってくれました』

『久しぶりに学校で合唱! 上手くなったって褒められました。良かったぁ……』


相変わらず、病は春香を苦しめる。

それでも、久しぶりに大好きな歌に取り組む春香の日々は、活き活きとしていた。
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:24:50.09 ID:UnTjGLwD0

そしてとうとう、あの日が訪れた。


合唱コンクール当日の日記。


友達と出たコンクールの感想。

一生懸命頑張ってきた、自分への評価。

やり遂げたことへの達成感、不満。


そうしたことは、何一つ書かれていなかった。


書かれていたことは、ただ、一言。


『私、やっぱりアイドルになりたいです』


その日が、一つの分岐点だった。

春香が、自分の生きる道を決意した日。

前に進み続けることを、決意した日。
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:25:55.39 ID:UnTjGLwD0

春香は前へ進み続けた。

病と闘いつつ、努力を重ねる日々。


『少しでも体力をつけるため、ウォーキングを始めました』

『なかなか音がとれません。音痴、治らないかなぁ……』

『お兄さんがプロデューサーを目指すそうです。なれたら、私を手伝ってくれるって!』


また、活気に溢れた春香が帰ってきた。

時折辛くなったり、落ち込んだりすることもあるけれど。

春香は全力で、前に進んでいた。


けれども少し、生き急いでいるようにも見えた。
299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:26:24.75 ID:UnTjGLwD0

『あの子の名前を、お兄さんが教えてくれました』


その日記の部分だけ、大きな字で書かれていた。

わざわざかぎかっこを付けて、太字で強調するように記されていた。


『如月千早』


赤い下線を引き。

オレンジ色のマーカーでなぞり。

ハートマークや矢印で周囲を囲み。

ようやく見つけた宝物を自慢するかのように。


私の名前。


春香にとって、如月千早という名前は、とても大きな意味を持っているようだった。
300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:14.05 ID:UnTjGLwD0

それからしばらく読み進め、時が高校へと移り、しばらくした頃。


「……そう、この頃、だったのね」


書かれた文字を、人差し指でなぞる。

とても懐かしい。

まるで、長く会っていない友人に久しぶりに再会した時のような、そんな気分。


『昨日の夢に、千早ちゃんが出てきました』


その日もまた、大きな分岐点。

私が、春香と初めて出会った日。

今となっては懐かしい、始まりの日。
301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:54.73 ID:UnTjGLwD0

夢の中で、如月千早と仲良くなれたこと。

765プロには楽しい人達が沢山いること。

近所のお兄さんが如月千早のプロデューサーだと知ったこと。


浮足立った姿が目に浮かぶような日記達。

厳しい現実と懸命に闘いつつも、突然現れた夢の世界に、春香は浸っていた。


その頃から私達の露出も増え始め、春香もそれを自分のことのように喜んでいた。


『みんなが活躍していると、私も勇気が湧いてきます』

『私もみんなみたいになりたいなぁ』


ずきんと、胸に痛みが走った。
302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:30:12.39 ID:UnTjGLwD0

少しずつ結果を出していく私達。

それを喜ぶ日記が書かれる一方で、読み進める私の中で、小さな違和感が生まれた。


あまりにも、私達のことばかりが書かれている。

春香自身の話がどんどん減っている。


読み進めてしばらくの内は、大して気に留めていなかった。

自分で言うのも何だけれど、春香は私達にとっても惹かれていたから。

だから、自然と多く書いてしまっていたのだと思っていた。


しかし、それは違った。

明らかにおかしかった。


春香を蝕む力は、再び彼女を呑み込もうとしていた。
303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:03.58 ID:UnTjGLwD0

あるページに、少し震え気味で、心もとない文字があった。


『私、もう無理だそうです』


一緒に書かれていたのは、担当医からの辛い宣告。


『私は遠くない内に身体を動かせなくなり、二度と目を覚まさなくなるそうです』


何とか耐えて、霞のような夢を追い続けていた春香。

その身体に、とうとう限界が来ようとしていた。
304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:31.90 ID:UnTjGLwD0



『どうして』

『私、頑張ったのに』

『何も悪いことしてないのに』

『色んなこと我慢して、必死に』

『なんで』

『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:15.83 ID:UnTjGLwD0

捲ったページはくしゃくしゃになっていた。

何度も何度も書きなぐり、その度に消しゴムで消し。

感情に任せて紙を握りしめ。

そして、沢山の雫が文字を滲ませ、渇いた跡。


家族に聞こえないように、必死に嗚咽を堪えて震える姿が。

心の中で泣き叫びながら、恐怖と絶望から逃れようとする、壊れそうな姿が見えた。


「っ……」


そのページを見ながら、私は唇の端を強く噛み締める。

少し苦い、鉄の味がする。
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:43.39 ID:UnTjGLwD0

私は、何もできなかった。

春香は、こんなに苦しんでいた。


私はただ一方的に、春香の慈愛を受け続けた。

ただ一方的に、春香の優しさに甘えていた。


その裏で、春香はずっと泣いていた。

その辛さを、誰にも吐露することなく。

その辛さを、私に気付かれまいとして。


「ごめんなさい、ごめんな、さい……」


一滴、ページに新たな染みが増えた。


私は、本当に駄目な人でした。
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:33:42.13 ID:UnTjGLwD0

春香の告白は、そこでおしまい。

読み返す気力など欠片もなく、私は日記を閉じた。


「こんなに……こんなに、夢に溢れていたのに」


表紙に書かれた、幼い春香の元気な文字が、一層私の胸を締め付ける。

締め付けられた私の心臓が悲鳴を上げる。


「はる、かぁっ……!」


様々な感情を押し殺して吐き出した名前は、でも、決して彼女へは届かない。


彼女はもう、私の前にいないのだから。
308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:34:31.51 ID:UnTjGLwD0

日記を抱え、ベンチにへたり込む。


私には、春香だけが支えだった。

春香がいたからこそ、私は頑張ってこれた。


でも、その春香はもういない。


私は、苦しんでいた春香へ、のしかかるように生きてきた。

私は、きっと、彼女の世界で最も罪深い人間だ。


私は春香に、歌う喜びを説いた。

私は春香に、アイドルの楽しさを語った。

私は春香に、夢を追いかける素晴らしさを教えた。



それは、なんて残酷なことだったのだろう。
309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:35:10.93 ID:UnTjGLwD0

「私……なんて、こと……最低……」


自らを貶す言葉すら満足に吐き出せない。

うつむいていた顔を上げると、いつの間にか闇が訪れていた。

曇天の下、星の光は届かない。


「はるか……わたし、は……」


わたしは、わたしは。


鞄と二冊のノートを左手に抱え、右手を空へと伸ばす。

見えない星の光を掴もうとして。

雲の向こうに、彼女がいるような気がして。
310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:36:30.05 ID:UnTjGLwD0

「春香。私、酷いことしたわよね」


電球が切れかかり、ちかちかと点滅する街灯の光。


「でも、どうして?」


辛かったはず。

私を見つめながら、歯痒かったはず。


「どうしてあなたは、ずっと私の傍にいたの?」


点滅しながらも、街灯の光は途絶えない。


「どうして、私なんかの……」


昨日、双海さんが泣いた時。

あの時と同じような揺らぎが、また生まれた。
311 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:37:15.01 ID:UnTjGLwD0

揺らぎは波紋となり、やがてそれは大きな波となる。


どうして?

ねえ、どうして?

答えて。

答えて!


立ち上がって一歩進むごとに、頭の中が掻き混ぜられる。

コーヒーカップを全力で回し続けた時のように。

脳が溶けて、シェイクになっているように。


分からない!

分からない、分からない、分からない!


春香!

あなたは、私に一体、何を見出していたの!?
312 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:03.73 ID:UnTjGLwD0

暗闇と点滅の中、私はおぼつかない足取りで当て所もなく歩き続ける。

不安、怒り、悲しみ、疑念、諦観。

様々な負の感情が入り交ざり、澱んだマーブル模様が出来上がる。


「私……私……!」


パンクしそうな頭を抱え、私はもう何も考えたくなかった。
313 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:31.46 ID:UnTjGLwD0

ふと、街灯が照らす塀の角。

人影が見えた。


「……誰?」


こちらをじっと見つめている。


その輪郭には見覚えがあって。

その髪型には見覚えがあって。


「……!」


その子はじっと、私の方を見つめていた。
314 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:39:36.67 ID:UnTjGLwD0

「春香!」


私は影へ向かって叫ぶ。


「春香、来てくれたのね!」


見つけた私の声が、意図せず高く跳ね上がる。


ああ、やっと戻ってきてくれた。

ああ、私のところへ帰ってきてくれた!


私は喜び勇んで、影へ向かって声をかける。


「どうしたのよ、春香。そんな隅っこに隠れて」


けれど、影は何も言わず、じっと私の方を見つめている。


「ねえ、春香……どうしたの……?」


影はただ佇み、焦点の合わない視線を私へ向ける。
315 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:40:14.89 ID:UnTjGLwD0


怖い。


彼女に対して、初めてそう思った。


「ちょっと……は、春香……?」


ぼんやりとした視線は、私を見ているようで、別の何かを見ているようで。


「は、はる……」


私を見透かすように。

瞳の中へ呑みこむように。


「……ぃ」


そして、私は気付いた。

それは、私が最も恐れていた。


「いやあああぁぁああ!」


それは、軽蔑の色。
316 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:42:27.50 ID:UnTjGLwD0

「いや……」


気付けば。


「やめて……」


民家の窓から。

電信柱の陰から。

通り過ぎる車の中から。


いたるところから、春香は私を見ていた。


「お願い、春香……」


春香は皆一様に、侮蔑の眼差しを私に向けていた。


「そんな目で、私を見ないで……」


私の世界で唯一の光だった、春香。


そんな彼女にまで見捨てられたら。


私は。

私は。
317 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:43:34.82 ID:UnTjGLwD0

「っはぁっはぁっ!」


怯えながら夜道を走っているうちに、いつかのように動悸が激しくなる。


「許して、許して、春香……!」


散々偉そうなことを考えて、言っておいて。

結局私は、何よりも春香に見捨てられることを恐れていた。


「ぁ……!」


けれど、春香は許してくれない。


自動販売機の明かりの中に、見慣れた姿があった。


「ひっ――!」


その焦点が合わない瞳は、私を呑みこもうと追いかけていた。
318 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:45:10.01 ID:UnTjGLwD0

私は情けない声を上げ、影を背にして走り出した。

直視したくなかった可能性から目を背けるために。


癇癪を起した子どものように声を上げた。

耳から入ってくる何かをかき消すために。


「あぁぁぁああ! いや! いやああぁぁああ!!」


人目もはばからず、時間も場所も気にかけず。


しかし、どれだけ走っても、春香は私を放してくれなかった。
319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:46:39.49 ID:UnTjGLwD0

どれだけ走ったのだろう。

もう叫ぶ気力もない。

疲れた体の支えを求めるように、橋の欄干へ体重を預ける。

橋の上から見下ろした川の水面。


「春香……そこにもいるの……?」


水面にぼんやりと映る月明かりの傍に、見慣れたシルエットが見える。


「ぁ……はるか……」


水面に映る橋からは、私の代わりに春香がこちらを覗きこんでいた。
320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:05.42 ID:UnTjGLwD0


ああ。


これはもう、春香が私を呼んでいるのかもしれない。


このまま、春香のところへ行こうかしら。


それも、いいのかもしれない。

321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:40.95 ID:UnTjGLwD0

ねぇ、春香。

私がそちら側へ行ったら、許してくれるかしら?

私がそちら側へ行ったら、また笑ってくれるかしら?


歌って歌って、幸せだった頃のように。

二人で寄り添っていた頃のように。


「春香、私」


欄干から身を乗り出して、私は春香へと手を伸ばした。
322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:15.34 ID:UnTjGLwD0


ぽたり。


そんな私の頬を、水玉が打つ。

頬を伝った雫が、口に届く。


ぽたぽた。


小さな粒が、私の後頭部を打つ。

降り注ぐ雫は、瞬く間に数を増していった。


「あ……」


水面には、いくつもの波紋が広がった。

そこにいたのは、春香ではなく、私だった。
323 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:42.82 ID:UnTjGLwD0

雨音が大きくなる。

雨粒が私に叩きつけられる。


「っ! は、春香の!」


日記が濡れてしまう。

我に返って、慌てて足元の鞄を抱き上げる。

幸い、鞄は防水性があったようで、中まで染み込んではいない。


「良かった……」


呟いた言葉とは裏腹に、私の心は空模様のようだった。

抱きしめた鞄は、雨に濡れて冷たい。
324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:50:53.65 ID:UnTjGLwD0

雨は容赦なく降り続ける。

この時間になると、車も人も通らない。

私は自宅のある方へ歩き続ける。

胸に、鞄を抱きながら。


もう視界に、春香は映らない。


足元の水たまりの中も、

曲がり角のミラーの中も、

そこにいるのは、私だけ。


大切な人さえをも逃げ口にしようとした、醜い私だけ。
325 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:21.59 ID:UnTjGLwD0

春香が、あんな顔をするはずがない。


あの子は、とっても優しい子。

人を怨むくらいなら、怨んでしまう自分を責めるような子。


なのに、私は。


自分が楽になりたいから、醜い役割を春香に押し付けた。


いいえ、分かっていた。

私は昔から、そういう人間だった。

今更なこと。


そう。

私は、春香に何かを望まれるような、そんな人間じゃない。
326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:48.41 ID:UnTjGLwD0




ねぇ、春香。


あなたはどうして、私の隣にいたの?



327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 22:51:18.39 ID:iWQQ9rSr0
>>288
そうでしたか 煽ってすみません 最後まで楽しみにしてるので頑張って下さい
328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 23:53:51.44 ID:y6HQBtCo0
一度エタってる時点で信用できない。>>1の時点で注意書きしとけよって話
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 07:36:37.84 ID:uovg4fie0
ここに投下されるSSでエタらなかった長編がどれだけあるのやら。いちいち目くじら立ててたら身体が持たんよ
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