千早「賽は、投げられた」

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230 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:19:33.69 ID:Uj/nf4tu0


春香!

春香、寝てなんていないで早く起きて!

私、ずっとずっと会いたかった!

ちょっと会わなかっただけなのに、まるで何年も経ったみたい!

今なら、あなたの名前を呼んであげられる!

夢の中なんかじゃない!

本当のあなたと、手を取り合うことができる!


「あんな鍵だらけのドアは……もう、無い……」

「ほら、分かる……? 私、今あなたの左手を握ってる……」

「ねぇ、春香!」

「また、二人で色んなことを話しましょう?」

「アイドルになりたいんでしょう? 一緒に、頑張りましょう?」

「ほら、春香」

「春香……」



「……何とか、言って……!」


231 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:20:06.50 ID:Uj/nf4tu0

春香は、何も喋らない。

目を閉じて、小さな寝息を立て続けるだけ。


「お前……春香と知り合いだったのか」

「春香、春香!」

「……千早。春香はな」

「どうして……」

「……」


「どうして、目を覚まさないんですか……!」


私がどれだけ名前を呼んでも。

身体をゆすっても。

春香は、目を覚まさなかった。
232 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:07.30 ID:Uj/nf4tu0

「目を覚まさないんだよ」


春香をゆする私の手を押さえ、プロデューサーは言った。


「丁度、千早が発作を起こして入院した日」

「あの夜から、目を覚まさないんだ」


私の呼びかけに、春香は全く答えない。

穏やかな寝息を乱せば、今すぐにでも起きそうなのに。


「病気……というのも少し違うんだけどな」

「長い間寝ては少し起きて、長い間寝ては少し起きて……」

「これまでも、そんな生活を送ってた」
233 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:21:58.15 ID:Uj/nf4tu0

「寝る時間が徐々に長くなってきて、あの夜、とうとう……」

「そんなこと……全然聞いてない……」

「……やっぱり黙ってたのか、春香」


友達に隠し事は良くないな、と。

プロデューサーは寂しそうに笑った。


「前は長くても二、三日で起きてたんだが、医者が言うには、今回はもしかしたら……もう」

「ッなんでそんな!」


プロデューサーのスーツを思いっきり掴む。

どうしてそんなにあっさりと言えるの?

春香が、春香がこんなことになっているのに!


「ご両親も俺も、いつかこうなるかもしれないと言われて、前々から覚悟はしてた」

「春香自身も、な」


「っ……」
234 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:22:53.74 ID:Uj/nf4tu0

どうして、こんな。

折角会えたのに。

届きそうなどころか、実際に触れられる距離にいるのに。


たった今、私たちは触れ合っているのに。


やっぱり、私と春香の心は、こんなにも遠い。

地球の裏側よりも遠いところに、春香はいる。

あの南京錠のかかったドアの遥か先に、春香はいる。


「どうして」

「……」

「どう……してぇっ……!」


頬が濡れる。

久しぶりの潤い。

乾き切ったと思っていたのに、まだ湧き出る源泉があったなんて。
235 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:23:34.65 ID:Uj/nf4tu0

「俺には何もできない」


プロデューサーは項垂れながら、スーツを握りしめる私の指を解いた。


「ただただ、春香が起きるまで待ってることしかできない」

「……悪い、千早。今日はこんなつもりじゃなかったんだ」


果実の種を噛んでしまった時のように苦い顔をして、私から目を逸らした。


春香がすぐ目の前にいるのに、私には何もできない。

その現実を突き付けられ、理解した時。

私は悔しくて悔しくて、唇を噛み締めた。
236 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:24:25.35 ID:Uj/nf4tu0

「……待っていること、しか?」


ふと、プロデューサーの言葉を復誦してみた。

確かに私は無力だ。

私には、春香を目覚めさせることはできない。


なら、何をするべきか?


「……深く考える事なんて、なかったのかもしれない」


こんな時、春香ならどうするか。

こんな時、私はどうしてもらっていたか。


どうしようもない時。

塞ぎこんでいた時。

邪険に突き放した時。


どんな時でも、春香は傍にいて、私のことを信じて、待っていてくれた。
237 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:25:04.27 ID:Uj/nf4tu0

簡単なことだった。

とてもとてもシンプルな結論。


なら、今度は私の番だ。


「プロデューサー。これからも、春香に会いに来ていいでしょうか」

「ん? そりゃ勿論。春香も喜ぶだろうな」


春香はここにはいないのに。

でも、いい。

ここに春香がいないのなら。

春香が、今は遠くに行ってしまっているのなら。


私はここで待ち続けよう。

彼女が、春香が帰ってきて、再び目を開けるその時まで。
238 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 10:27:37.33 ID:Uj/nf4tu0



もう私は、すごろくの番に追われていない。

さいころは振らない。

駒を進めるつもりもない。

そんな今の私にとって、停滞し、待ち人に思いを馳せるのは、とてもとても容易なこと。



ずっとずっと。


何日でも。


何週間でも。


何か月でも。


何年でも。



私は待ち続けよう。

他の何も望まない。

ただただ、この場で停滞していよう。

ただただ、春香が目を覚ますことだけを待ち続けよう。


どこへも進むことなく。

どこへも戻ることなく。


彼女がずっと、そうしてくれていたように。

彼女への恩返しに。

そして、私自身のために。


239 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:35:58.80 ID:Uj/nf4tu0

その日から私の日課が増えた。


診察を終えた後、病室へ立ち寄る。

春香が一人きりで眠り続ける、白い部屋へ。


どうやら、ご両親は午前中の内に来ているらしい。

私は椅子に腰かけ、春香と二人きりで他愛もない独り言を続ける。


「今日ね、こんな嬉しいことがあったのよ」


「お昼にこんなものを食べたのだけれど、とても美味しくて」


「昨日たまたま観たテレビが面白かったわ」


嘘で塗り固められた独り言。

私が感じられるはずもない感覚を、あたかも事実のように語りかける日々。

きっと春香が聞きたがりそうな話。

過去の記憶を頼りに、一つ一つ創り上げていく。
240 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:38:06.23 ID:Uj/nf4tu0

毎日毎日、足繁く通う。

二人きりの時間の流れは、とても穏やかに停滞していて。

可愛らしい寝息を立てる春香の横で、私は話し続けた。


一度、病室の前でご両親らしき人達とプロデューサーが話しているのを見た。

その翌日、いつものように春香に話していると、春香のお母さんが来た。

初対面でどうしたらいいか分からない私に微笑むと、持ってきた紅い林檎を八つに切り分ける。

それを差し出し、二人で食べてね、と言うと、着替えを抱えて帰っていった。


「美味しそうな林檎ね、春香」


林檎は一つも減らなかった。
241 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:14.02 ID:Uj/nf4tu0

そこから始まる、私と春香、二人だけの空間。

まるで録画したビデオを見続けるように、変わらない日々。


私たちは繰り返す。

ただただ、同じ毎日を繰り返す。

コピーのように淡々と、往復する毎日を繰り返す。


日にちの感覚を忘れ。

曜日の感覚を忘れ。

月の感覚を忘れ。

外の空気がなければ、季節さえも忘れそうなほどに。


私と春香、二人だけの世界だった。

誰もいない、二人だけの世界。
242 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:39:44.70 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

春香とお話をした。


243 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:10.15 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香の髪を洗ってあげた。


244 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:40:59.20 ID:Uj/nf4tu0



今日は晴れ。

車椅子の春香と、二人で散歩をした。


245 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:41:24.99 ID:Uj/nf4tu0



今日は雨。

春香と一緒に音楽を聴いた。


246 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:03.44 ID:Uj/nf4tu0



今日は曇り。

春香が好きだという花を持ってきた。


247 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:42:35.82 ID:Uj/nf4tu0



昨日も。


今日も。


明日も。


明後日も。


その次も。


その次も――。


248 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:19.78 ID:Uj/nf4tu0


私の生活は春香を中心に動いていた。

いや、春香だけを軸に動いていた。


最近、春香以外の人と話した記憶がない。

携帯電話も、随分前に電池が切れたまま。


それでも私の生活に支障はない。

今の生活を続けることに、問題はない。



ない、はず。

249 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/04(水) 22:43:54.54 ID:Uj/nf4tu0


ないはず、なのだけれど。


私の潜在意識が。

私の深層心理が。


何かの不調を訴える。

何かの違和感を訴える。


それが何なのかは分からない。

認識できない。


余分なものなのか。

足りないものなのか。

はたまた、ただの思い込みなのか。


それでも自分に言い聞かせた。

私は待ち続けなければならないのだ。

それこそが、私の義務なのだから。

250 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:23.22 ID:m2Fax+Wi0

その日も、私は春香の病室へ向かっていた。

病院への道すがら、唐突に声をかけられる。


「……千早お姉ちゃん?」

「っ千早お姉ちゃん! 千早お姉ちゃんだ!」


その声には聞き覚えがあった。

双子の双海さん。

駆け寄ってきたのは、髪が短い妹の方。


「千早お姉ちゃん! 電話もメールも返事がないから、心配してたんだよ!?」

「部屋に行っても、いつも反応がないし……」


そういえば、携帯電話の電池は切れていたんだった。

病院へ向かう足はそのままに、ふと思い出す。
251 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:25:57.46 ID:m2Fax+Wi0

「亜美ちゃん、ちょっと早いわよ……って、千早ちゃん?」


軽装の三浦さんが駆け寄ってくる。

成程、二人でレッスンにでも行っていたのだろう。


「久しぶりね。全然音沙汰がないから、みんな気が気じゃなかったのよ?」

「ホントだよ! いつでも連絡でもなんでもしろって言ったの、千早お姉ちゃんなのに!」


そういえば、そんなことを言ったような気もする。

でも今は事情が変わった。

もっと優先するべきことが、私の前にはある。


「ちょっと千早お姉ちゃん、なんか言ったらどうなのさ?」


双海さんが私の腕を掴んだ瞬間。


「……亜美ちゃん!」

「うえっ!?」


私は腕を払った。
252 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:28.17 ID:m2Fax+Wi0

「ち、千早、ちゃ……」

「急いでいるんです。失礼します」


私は春香の所へ行かなければならない。

ここで時間を潰している暇はない。

ちょっと勢いよく払い過ぎたかとも思ったが、転んではいないようだ。


「千早、お姉ちゃん……」


か細い声が聞こえた。


「何処に、行っちゃったのさ……」


私が居る場所は、今も昔も変わらない。

春香の傍。



なのに、この揺らぎは何?

背後から聴こえてくる女の子の泣き声が、耳から離れない。
253 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:26:55.18 ID:m2Fax+Wi0

「春香。遅くなってごめんなさい」


花瓶の水を換えながら謝った。

いつからか、これは私の仕事になっていた。


「そうね。今日はどんな話をしようかしら……」


今日来る途中にね、と言い掛け、口を閉じる。


泣きじゃくる双海さんの姿が見えた。


違う。

違う!


脳裏からその姿を振り払い、改めて春香と向き合った。


「……ごめんなさい。話してあげること、思いつかないの」



小さな揺らぎが水面を震えさせる。

小さな波紋が生まれた。
254 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:27:38.16 ID:m2Fax+Wi0

もう陽が落ちる。

帰らないと。


「また明日ね、春香」


結局何も話すことができず、私は病室を後にする。

病院から出ると、正面に二つの影があった。


「……千早」

「何か用かしら、菊地さん」

「亜美を泣かせたんだってね」

「別に、意地悪などをしたわけではないわ」

「そうなんだろうね」


菊地さんは必死に感情を押し殺しているように見える。
255 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:28:10.40 ID:m2Fax+Wi0

隣に立つ萩原さんは、無表情でこちらを見ている。

拳を握りしめ、菊地さんが一歩ずつ近づいてくる。


「……なんとも思わなかったのか、千早」

「……」

「思わなかったのか」


私は何も答えなかった。

菊地さんの拳に、更に力が籠められる。


怒っているのだろう。

私を殴るつもりなのだろうか。

それもいい。

そうしたいというのなら、私は構わない。


漫然と待っていると、強めの衝撃が私の左頬を襲った。

勢いで、私の顔が右を向く。
256 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:30:37.27 ID:m2Fax+Wi0

「ゆ、雪歩……?」

「……」


前へ向き直った私の目に映るのは、驚きで目を丸くする菊地さん。

そして、平手を放ったままの姿勢で私を睨む、萩原さんの姿だった。

正直、萩原さんが手をあげるとは思わなかった。


「随分嫌われたわね、私」

「……そんな事しか感じなかったの?」


私の襟を掴みながら、萩原さんは叫んだ。


「ねえ千早ちゃん! そんなことしかっ! 感じなかったの!?」

「落ち着いて、雪歩!」


激昂する萩原さん、宥める菊地さん、気圧される私。

菊地さんの言葉に我に返ってから俯くと、萩原さんは背を向けて走っていった。


「ちょっと待ってよ!」


私をちらりと見て何か呟くと、菊地さんは慌てて追いかける。

その場には、私一人だけが残された。
257 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:31:31.79 ID:m2Fax+Wi0

自分の部屋へ戻り、ベッドへ倒れ込む。

痛みが引かない左頬を押さえながら、去り際に菊地さんが言い残した言葉を思い出す。


どうして雪歩が叩いたか、分かる?


分からない。

双海さんを泣かせたから。

私に愛想を尽かしたからではないのか?


「……どうして?」


ならば何故。

何故叩いた側の萩原さんが、あんなに辛そうな顔をしていたのだろう。

何故肩を震わせながら、私を叩いた右手を押さえていたのだろう。


揺らぎが大きくなる。

波紋は、笹舟が浮いていられないくらいになった。
258 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:32:16.45 ID:m2Fax+Wi0

昼前、呼び鈴の音で目が覚めた。

どうやら昨夜はそのまま、ベッドで寝入ってしまったらしい。

夢は、春香と再会した日から見なくなっていた。


無視しても、何度も何度も呼び鈴が鳴る。

どうにも来客が帰る気配はないので、仕方なく身体を起こした。


「ええと、おはようございます?」

「千早はねぼすけだなー」


玄関を開けると、首をかしげる高槻さんと、何やら紙袋を抱えた我那覇さんがいた。


「……何か急な用事かしら」

「別に、急ってほどでもないんですけど」

「渡したいものがあって来たんだ。頬、大丈夫?」


我那覇さんに言われて思い出す。

そう言えば、萩原さんに叩かれたところがまだ少し痛い。
259 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:33:48.85 ID:m2Fax+Wi0

「大丈夫よ」

「痛そうです……これ、貼っておいてくださいね」


高槻さんに渡されたコンビニの袋の中には、冷却シートの箱が入っていた。


「雪歩さんも、ちょっとカッとなっちゃっただけで」

「つい、手が出ちゃったんだよ。怒らないであげて、っていうのも難しいと思うけど……」


恐る恐るといった様子の、二人のフォロー。


「別に、気にしてないわ」

「はぁ、良かったぁ……これ、あげる!」


私の言葉に安心したのかはにかむと、我那覇さんは抱えていた紙袋を差し出してきた。

素直に受け取ると、高槻さんはにこりと笑い、おずおずと袋を指差した。


「中身、気に入ってもらえると嬉しいかなーって」


紙袋は、その大きさにしては軽かった。
260 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:34:40.40 ID:m2Fax+Wi0

その後も何かと私の暮らしぶりを心配してくる二人に、ふつふつと疑問が湧いてきた。


「……一つ、聞いていいかしら」


話題が止まり、二人がやや緊張の面持ちで私の目を見る。


「どうして、私の心配なんてするの?」


問いかけた途端、二人の表情が緩んだ。


「そんなの決まってるさ」

「千早さんは、私達の大切な人ですから」


大切な人?

私が?

どうして?


「あ、千早! 次事務所に来たら、一言くらい亜美に謝っておいてね!」


そう言い残すと、二人はじゃあね、と。

最後に手を振って、階段を下りて行った。
261 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:35:30.35 ID:m2Fax+Wi0

私には分からなかった。


私は春香が大切だ。

春香は色んなものをくれて、色んなことを教えてくれて、私にとってかけがえのない存在だから。


では、彼女達にとっての私は?

私は彼女達に何かしただろうか?


何故彼女達が私を大切だと思うのか。

私のどこに、輪を去ってもなお気にかけるような、かけがえのないものを見出したのか。

分からない。


紙袋に入っていたのは、二羽の鳥の模様が編まれたマフラー。

一羽は少し潰れ気味で。

上手くいかないことに苛立ち、ツインテールを揺らしながら唸る姿が浮かんだ。



揺らぎがどんどん大きくなっていく。

大きな石を投げ込んだように。
262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:36:13.60 ID:m2Fax+Wi0

午後。

病院に行く前に、久しぶりに事務所へと寄る。

うっかりしてたのか、紙袋に編み棒が入っていたので、我那覇さんに返さないと。


「あ……!」


事務所の前に着くと、久しぶりの顔を見た。


「千早さ――」

「こんにちは、星井さん」

「……っ!」


名前を呼ぶと、星井さんの表情が強張った。

バッグに手を入れたまま、唇を噛み締めながら私を睨む。


「……こんにちは。如月、さん」


何か気分を害するようなことを口にしただろうか?

星井さんはビルに背を向け、ずっと私のことを見ていた。
263 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:38:02.25 ID:m2Fax+Wi0

「美希、そんなところに突っ立ってないで早く……って、千早?」

「こんにちは」


二人して黙り込んでいると、建物の中から秋月さんが姿を現した。

私の姿を見て、嬉しそうに駆け寄ってくる。


「久しぶりじゃない! 帰ってきてくれたのね!」

「ごめんなさい、秋月さん。今日は我那覇さんの忘れ物を持ってきただけで」

「あ……そう、なんだ。ごめんごめん、早とちりしちゃって。わざわざありがとね」


秋月さんは一瞬だけ寂しそうにして、すぐにいつもの明るい顔に戻る。

編み棒を紙袋ごと手渡すと、秋月さんは星井さんの方へ向き直った。


「ほら、美希! 久しぶりに会ったのに、何よその顔は」

「う……」


居心地が悪そうに、星井さんの視線が泳ぐ。


「まったく……あれ? 美希、バッグから見えてるそれって……」

「っ! こ、これは……その……」
264 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:40:21.99 ID:m2Fax+Wi0

言われて見てみると、星井さんの手元に何か包みがある。

バッグに入れた手は、それを取り出そうか迷っていたようだ。


「千早に渡すんでしょ?」

「そ、それは、そう、だけど……」

「まどろっこしいわねぇ、あなたらしくもない。照れてないでサッと渡せばいいのよ」


そう言うと秋月さんは私に手招きをして、星井さんの手を取ろうとした。

その時。


「……これは、千早さんにあげるモノなの!」

「み、美希!?」


星井さんはバッグを抱き込み、大きく後ずさった。


「如月さんにあげるものなんて、何もない!」


そう叫ぶと、星井さんは背中を向けて事務所へと走り出した。


「あ、ちょっと、美希!」


私と秋月さんは、呆然と星井さんの後姿を見ていた。

星井さんが階段を駆け上がる音は、とても乾いていた。
265 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:41:15.03 ID:m2Fax+Wi0

如月さん。

そう言われた時、どこかがとても痛んだ。

階段を登る足音が、空っぽな私の頭の中で反響する。


かんかんかん。

かんかんかんかん。


私から逃げるように去っていく音は、響くたびに私を軋ませた。

何らかの理由で至る所にひびが入った私の身体。

軋むごとに、ボロボロと劣化した欠片が剥がれ落ちる。


星井さんの足音だけではない。

秋月さんの瞳。

私を見つけた時の輝いた瞳と、直後に一瞬だけ見せた暗い瞳。

輝いた瞳の中にいたのは、私ではなかった。

暗い瞳の中にいたのは、私だった。



揺らぎは最早、揺らぎというには大きすぎた。

うねりが、幾重にも重なって広がっていく。
266 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:42:45.11 ID:m2Fax+Wi0

秋月さんに紙袋を託して別れを告げ、病院へ向かう。

事務所から少し歩いてから、私を追いかける足音に気付いた。


「何か用でしょうか」

「用、というほどのことでもないのですが」


後をつけていたのは、四条さんと、双海さんの姉の方。


「双海真美が、千早のことが心配だと言うもので」

「だってさ、遠目に見てもめっちゃ悩んでるのバレバレなんだもん」


まただ。

私のことが心配だと言う。

私なんかの心配をするより、やるべきことは沢山あるはず。


「私の心配なんてしても時間の無駄よ。もっと他のことに時間を使って」

「やっぱり、そういうこと言うんだね」


やっぱり?

双海さんは、私が考えていることを分かった上で?
267 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:43:50.71 ID:m2Fax+Wi0

「ねぇ、千早お姉ちゃん。心配することって悪いことかな? 真美達、迷惑じゃない?」


心配することそれ自体は、別に悪いことではないだろう。


「迷惑ではないわ」

「……良かったぁ」


双海さんは肩の荷が下りたように、安堵の笑みを浮かべた。

四条さんも目を細め、喜ぶ双海さんの頭を撫でた。


「皆も悩んでいたのですよ。自分達の心配が、千早の迷惑になっているのではないか、と」

「やよいっち達に、何で自分の心配するんだーとか聞いたらしいじゃん」


迷惑などではない。

ただ単に不思議だっただけだ。

誰も彼も、何を考えているのか分からない。


不透明感が捻じれ合って渦を作る。

考えれば考えるほど、泥沼に嵌っていく気分だった。
268 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:44:41.82 ID:m2Fax+Wi0

再び思考の渦に呑み込まれそうになっていた時、双海さんが私の手を取った。


「ねね、千早お姉ちゃんって今仕事してないから、ニート状態っしょ?」

「ふ、双海真美! そのような言い方は……」

「事実ですから構いません。それがどうかしたかしら」

「じゃ、今度遊園地に遊びに行こうよ!」


前なら行っても良かった。

でも今は毎日、春香に会いに行かなければならない。


「ゆーびきーりげーんまーん」


断ろうと思っていたら、いつの間にか私の小指に双海さんの小指が絡められていた。


「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーますっ! お姫ちんが証人ね!」

「ふふっ、確かに見届けました」

「いや、あの……」


私の言葉を待たず、双海さんは笑いながら逃げてしまった。

四条さんも、私を見てにっこりと笑ってから追いかけていった。
269 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:16.21 ID:m2Fax+Wi0

私は底なし沼に足を取られ、無様にもがいている。

考えても考えても、納得のいく答えが見つからない。


指切りをした小指が、じんじんと熱くなる。

強い既視感を感じながら、私は二人の後姿を見送った。


前にも、同じように指切りをした気がする。

あの時は、どんな約束だっただろうか。

誰と交わした約束だったか。

それを考えるたび、小指がずきりと痛む。



そこにいるのは、誰?



うねりはますます激しくなる。

何本ものうねりが濁流となり、私の心を巻き込んでいく。
270 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:45:55.48 ID:m2Fax+Wi0

病室に着いても、私の心は波立ったままだった。


「ねぇ、春香……」


返事はない。


「私、何か間違っているのかしら」


春香の手のひらは、夢の中と同じように暖かい。

でもその目は開かず、私の質問には答えてくれない。


「ねぇ、春香……」


返事がないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。


「みんながね、私のことを気にかけてくれるの」

「迷惑をかけても」

「距離を置いても」

「千早、千早ちゃん、千早さん、千早お姉ちゃん」

「みんながね、私の名前を呼ぶの」
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/06(金) 11:46:29.40 ID:m2Fax+Wi0

私の中は、空っぽになったものだと思っていた。

私の心は、あの事務所から離れたものだと思っていた。

思おうとしていた。


「でも、ずっと頭の中で反響しているの」


双海さんが泣きじゃくる声が。

萩原さんに叩かれた痛みが。

星井さんの刺すような視線が。


「お願い、春香……教えて……」


もう、誰にも迷惑をかけたくない。

誰も不幸に巻き込みたくない。


「私、どうしたらいいの……?」


何度私が問いかけても。

春香は答えてくれなかった。
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:13:45.46 ID:UnTjGLwD0

いつの間にか、面会時間の終わりが来た。

病院から出なければならない。


「浮かない顔してるわね」


建物を出た途端、真横から向けられる声。

少し驚いて顔を向けると、水瀬さんが壁に身体を預けて佇んでいた。


「放っておいて」

「どうして?」

「私なんかに構っても、時間の無駄よ」


あれだけ環境に恵まれて、あれだけチャンスに恵まれて。

それを、全てを壊してきた私。

これ以上関わっても、私は不幸しか生まない。


「そんなにボロボロなのに、いっちょ前に私達に気を遣ってるつもり?」


水瀬さんは、そんな私の心を見透かしたように鼻で笑う。

それからすぐに、目付きを鋭くして詰め寄ってきた。
273 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:17:27.58 ID:UnTjGLwD0

「余計なお世話よ、ばーか」


水瀬さんの猛禽類のように鋭い眼光が、私を射抜く。

――かと思うと、すぐにため息をつきながら目を背けた。


「もしかして、アンタのために心配してるとでも思ってる?」

「だとしたら悪いけど、勘違いしてるわよ。私達は自己中集団なの、アンタが思っている以上にね」

「アンタのためじゃない。私達は“自分のため”にアンタの心配をしてるの」


そう私に告げる水瀬さんは、年齢以上に大人びて見えた。


「自分の、ために?」

「ええ。千早に何かあったら私達が困るから」

「そういう意味ならもう手遅れじゃないかしら。散々仕出かした後よ」

「まだそんなこと言ってるの? ホントに察しが悪いわね」


呆れ顔の水瀬さんが、再びため息をついた。

言いたいことがよく分からない。

けれどこれが分かれば、みんなが私に執着する理由も分かるはず。
274 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:23:10.14 ID:UnTjGLwD0

「仕事なんて二番目なの、私達にとってはね」

「水瀬さんらしくない言葉ね。家族を見返してやるってあんなに言ってたのに」

「全くよね。丸くなったものだわ、この伊織ちゃんも」


でも、仕事が二番目なら一番目は何?

私の失態に巻き込まれたことへの対応よりも、優先すべき大切なこと?

そこに、みんなが私を気に掛ける理由があるのだ。

私にはそれが分からない。

ここで仕事を優先しなければ、みんなの夢は遠ざかっていくばかりだというのに。


「みんな、トップアイドルになるためにあの事務所に入ったはず。それを差し置いて優先することなんてあるのかしら」

「じゃあ千早、逆に聞くわ。アンタはどうしてアイドルになろうと思ったの?」

「それは……」

「私はアンタも知ってる通り、家族を見返す為よ」


水瀬さんは胸を反らせながら宣言した。


「トップアイドルになってどいつもこいつも見返して、悦に浸ってやるためにアイドルになろうと思ったのよ!」


水瀬さんはそう。

では、私は――?
275 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:31:38.57 ID:UnTjGLwD0

「別にアンタは答えなくていいわよ、わざわざ聞く気もないし」


こめかみに力が入り始めたところで、水瀬さんはあっけらかんと言い放った。


「でも、“アイドルになる”こと自体は目的でもゴールでもない。アイドルになって、“欲しい何か”があったんでしょう?」

「高揚感でも、人々の笑顔でも、自己顕示でも、復讐でも、新しい自分でも」

「アイドルは、それらを得るために選択した手段、ってだけのはずよ」


私は何故あの事務所に入ったのだろうか。

春香に後押しされたことは覚えてる。

でも私はアイドルになって、一体何を得ようとしていた?


「勿論、今だってトップアイドルは諦めてないわ。到達すべき具体目標よ」

「けれど私は、家族を見返すことよりも人気の上でふんぞり返るよりも、“もっと大切なもの”を見つけた。見つけてしまった」

「だから私には……ううん、私達には、その大切なものこそが仕事よりも優先すべき第一なのよ」


そう私に言った水瀬さんは、何かが吹っ切れたように誇らしげだった。
276 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:35:26.47 ID:UnTjGLwD0

「自分にとって大切なもののためだけに、アンタを心配する。ね? 私達、すっごい自己中でしょ」

「自分勝手な考えだし、良いわよ、私達の心配を面倒に、鬱陶しく思っても。そのせいで私達を嫌いになっても」

「姿を暗ましたいなら水瀬財閥が手伝ってあげるわ。地球の裏側で新しい人生をやり直すくらい余裕よ?」


「でも」


一拍おいて、水瀬さんは再び猛禽類のような鋭い目つきになった。

これ以上譲歩はしないという、決意の瞳。


「私達のためを思って、とか、迷惑をかける、とか」

「そんな頼んでもない下らない理由で私達の想いを、願いを否定することは許さない」

「絶対に、許さない」

「否定するならせめて、アンタ自身のためでありなさい」


言葉はとても静か。

身振りもなく、ただ静かに言われただけ。

なのに水瀬さんの言葉は鋭く研ぎ澄まされたナイフのようで。


「……はぁ、仕事したわけでもないのになんか疲れたわ」


そう言うとまるで何事もなかったかのように、いつもの表情に戻った。
277 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:36:28.18 ID:UnTjGLwD0

「い、伊織ちゃん……ちょっと言い過ぎじゃないかしら……?」

「別にいいのよ、小鳥。ネジが何本か飛んじゃってるみたいだから、これくらいガツンと言ってやらないと」


塀の陰から、恐る恐る音無さんが姿を現した。

どうやら水瀬さんと一緒に来て、今の始終を見守っていたらしい。


「ほら、現場行くからさっさと車を出してよね」

「うぅ……あたしは運転手じゃないんですけどお……」

「新堂が忙しいから仕方ないじゃないの。満足してあげてるんだから感謝しなさいよ」


涙目の音無さんが、近くに停めてあった車に乗り込む。

私が退院する時に乗せてもらった、小さな軽自動車。


「あ、そうそう、千早!」


助手席に乗り込もうとした水瀬さんが、私の方を見て叫んだ。


「アンタも、もう少し自己中になりなさいよ。人に気を遣ってばかりでも、人生つまらないでしょ?」


水瀬さんが乗ると、音無さんの車はすぐに走り去っていった。

言い残された最後の一言のせいで、頬の痛みが増していった。
278 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:42:18.99 ID:UnTjGLwD0

『もっと大切なもの』。

水瀬さんはそう言った。

みんなにとって、アイドル活動よりも、そこから得ようとしていたものよりも、何よりも大切なもの。


そういえば、みんなが私を気にかけていたけれど。

誰一人としてアイドル活動については口にしなかった。

私を心配する言葉を発した時、みんなは何を思っていたのだろう。

それこそが、今の私から欠落しているモノ?


私は何のためにアイドルになった?

どうして、あんなにがむしゃらに歌い続けてきた?


「……あ、忘れ物……」


ふと、春香の病室にハンカチを忘れてきたことを思い出した。

少し取りに戻るくらいなら、きっと大丈夫だろう。
279 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:43:13.05 ID:UnTjGLwD0

受付で忘れ物をしたことを話し、病室へ向かう。

角を曲がって春香の病室が見えた時、扉が開いていることに気付いた。


「……誰か来ているのかしら」


765プロの関係者じゃないといいけれど。

今、あまり会いたい気分ではない。

静かに中の様子を窺うと、そこにいたのはプロデューサーだった。


「千早か?」

「っ……はい」


私の気配を察して、すぐにプロデューサーは振り向いた。

こんな時ばかり勘がいい。


「そんな嫌そうな顔するなよ。お説教とかするつもりはないよ」

「……見てたんですか?」

「たまたまな。個人的に春香を見舞いに来たんだ」
280 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:44:50.05 ID:UnTjGLwD0

「ハンカチ、取りに来たんだろう。しっかり者でも忘れ物をするんだな」

「はい、ありがとうございます」


置きっぱなしになっていたハンカチを手渡される。

お礼の言葉は何とか絞り出したものの、プロデューサーの顔を見る気になれない。

早く病室を出よう。

今何か声をかけられても、返す言葉は否定も肯定も思いつかない。

私は今、自分自身を見失っている。


「こいつさ、昔からアイドルになりたいって言ってたんだ」


帰ろうとした時、プロデューサーが春香の額を撫でながら言った。


「いつだったかなぁ。急に言い出したんだよ」

「小さい頃から明るかったけど、あんなに目を輝かせてるのは初めて見たな」


思い出すように話すプロデューサーの目は、優しかった。
281 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:47:36.15 ID:UnTjGLwD0

「毎日毎日、自分なりに試行錯誤してた。ボイトレしたり、振り付けを真似したり」

「でもこんな体質だからな。アイドルを目指すのは愚か、レッスンを受けることすら叶わなかった」

「オーディションのチラシや新人アイドルの番組を見ながら、悔しそうにしてることも多かった」

「そんな春香に感化されたのかな。進路思いつかなかったから、じゃあ芸能業界でも行ってみようかな、って」

「あわよくば、こいつの夢を手伝ってやれたらな、って思ってさ」

「……誰かが助けてやらなきゃ、夢を持つことすら許されなかったんだよ」


私が知っている春香は、いつも笑っていた。

オーディションの様子を話すとワクワクしながら聞き耳を立てて。

収録の様子を話すと続きを急かされて。


けれど、それは本音だったのだろうか。

本当は私の話を聞きながら、内心穏やかではなかったのではないだろうか。

私が気まずくない様に、傷つかない様に、自分の心を押し殺していたのではないだろうか。
282 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:17.76 ID:UnTjGLwD0


いつも明るい春香。

私は彼女のことを、どれだけ知っているのだろう?

毎日のように私の横で笑っていた春香。

アイドルをする私を見ながら、何を思っていたのだろう?


私はいつも、彼女から与えられてばかりだった。

事あるごとに励まされて。

事あるごとに慰められて。

事あるごとに私の背を押してくれた。

283 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:48:47.33 ID:UnTjGLwD0


私は彼女に何を与えた?

何も与えていない。

彼女が恋い焦がれ、手を伸ばすことすら許されなかったものを享受し、食い潰してきた。

ただひたすらに、春香に甘え続けてきただけだった。


きっと、春香をたくさんたくさん傷付けてきた。

だったらせめて、怒って欲しい。

罵って欲しい。

軽蔑して欲しい。

『如月千早が悪い』と、一言そう言って欲しい。

284 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:49:25.60 ID:UnTjGLwD0

でも、春香は目を開けてさえくれない。

何を思っていたのかをおくびにも出さず、ひたすら眠り続けている。


怖い。


たまらなく怖い。

私、本当は春香に嫌われていたのではないかしら。

本当は、春香は私の顔なんて見たくもないのではないかしら。

私が勝手に待ち焦がれているだけで、私が勝手に縋りついているだけで――。


「これ、預かってたんだ」


急に声をかけられ、ビクッと肩が上がる。


「春香の母さんがな、お前に渡してくれってさ」


そう言ってプロデューサーが懐から取り出したのは、二冊のノート。

一冊はかなり長い間使っていたようで、表紙が色褪せ始めている。

もう一冊は見たところ、比較的新しい。
285 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 03:50:28.54 ID:UnTjGLwD0

「春香のノートだ。中身は見てないからよく分からんが」

「どうして……私に?」

「知らないよ。春香の母さんが、お前に、って言ったんだから」


古い方のノートは、随分前に流行った女の子向けのキャラクターのシールが貼られている。

粗雑に扱えば破れてしまいそうで、鞄にしまうことさえ躊躇われた。


「まぁ見てやってくれよ。わざわざご指名があったくらいだ。ファンレターでも書かれてるんじゃないか?」


そう言ってから、ハッとプロデューサーは腕時計に目をやった。


「やばっ! もうすぐ打ち合わせの時間じゃないか! すまん千早、また今度な!」

「お疲れ様、です」


私の言葉を最後まで聞かず、プロデューサーは慌てて病室を出て行った。

その直後、廊下から看護師の怒り声が聞こえた。


「……どうして、私に……?」


ノートを慎重に抱え、春香を一瞥してから病室を後にした。
286 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 17:18:33.68 ID:XhF9INNGO
続き書くのか書かないのか 書くつもりなら過去分はさっさと投下した方がいいのでは
287 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 20:17:52.14 ID:IWgYdlX+0
>>286
やる気がないんだろ。察してやれ
>>1が何も言わない時点でもう…ね
288 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 20:47:06.02 ID:UnTjGLwDo
>>286
生活環境の都合で一度に長時間の連続投稿ができないので、区切りのいいところで分けています
また、結果的にそのままにしている部分が殆どなのですが、再投稿に辺り全文で修正をするか否か推敲していて進みが遅いのもあります
投稿が遅くなってしまい、申し訳ありません
289 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:12:22.49 ID:UnTjGLwD0

帰路につきながら、右手に抱えたノートに目をやる。

表紙の下の方には『あまみ はるか』と拙い字が書かれている。

恐らく、私と出会うよりもずっとずっと前に書かれた名前。


それはきっと、私がまだ、幸せだった頃。


「何が書かれてるのかしら」


ページを開けばすぐに分かる。

でも、それはとても崇高なもののように思えて。

とてもじゃないけれど、歩きながら片手間に読んでいいものではないように思えて。


「……確かそこの公園、ベンチがあったはずよね」


早く、読まなければいけない気がした。
290 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:15:03.78 ID:UnTjGLwD0

夕暮れを過ぎ、誰もいない公園。

僅かに残った陽に照らされる遊具たち。

楽しい時間が終わりを告げて、誰もいない空虚な遊び場。

そこへ私は足を踏み入れ、ベンチへゆっくり腰掛ける。


鞄を脇へ置き、まずは古い方のノートを開く。

そこには、幼い春香が書き記した、可愛らしい言葉があった。


『わたしのにっき』


それは、私が知らない頃から春香が書き記した、日々の記録だった。

ぱらぱらとページをめくる。

毎日書いているわけではないらしい。

もし毎日書いていたら、ノートは何冊にも及んでいたことだろう。
291 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:06.94 ID:UnTjGLwD0

日記は一つ一つは短いものの、春香らしさが伝わってくる。


『きょうは、ケイちゃんのおうちであそびました』

『テストで90てんもとれました』

『おかあさんがおべんとうにハンバーグをいれてくれました』


たどたどしくも楽しげな笑顔が浮かぶような記録達。

読んでいる内に、会ったこともない幼少の春香とお話をしているような気分になってくる。

笑いながら私に日々のわくわくを報告してくれる春香は、とても可愛らしかった。


『学芸会でまほう使いの役になりました』

『運動会でかけっこに出たけど、ころんでしまいました』

『お父さんの湯のみを割ってしまい、ちょっとおこられました』


あら春香、漢字が使えるようになったのね。

日常の記録であると同時に、微笑ましい成長の記録でもあるらしい。

私が知らない春香を見守る日々は、穏やかで心安らぐものだった。
292 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:16:38.24 ID:UnTjGLwD0

そんな気分でページをめくっていると。

ある時を境に、様相に変化が出始めていた。


『遊園地に行ったけど、途中で眠くなってしまいました。もうちょっと遊びたかったです』


小学4年生の記録。

それは、春香の人生が大きく狂った瞬間だった。
293 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:18:25.89 ID:UnTjGLwD0

日記の最初の方にあった、ある言葉。

小学2年生の時の日記に、将来の夢が書かれていた。


『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


アイドルを目指して、音楽の授業や体育を頑張っていること。

テレビに出ていたトップアイドルがとてもかっこ良かったこと。

近所のお兄さんに、アイドルを育てるスクールの存在を教えてもらったこと。

そこに入るために、頑張ろうと意気込んだこと。


日常の報告の合間に挟まる春香の想いは、年相応に夢想的で。

そして、年相応に夢に溢れ、エネルギーに満ち満ちていた。
294 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:19:37.55 ID:UnTjGLwD0

そのエネルギーが、遊園地の事件を境に弱まっていく。


『最近、すぐに眠くなってしまいます』

『学校に行けない日が増えてきました』

『体力が減ってきて、激しい運動が辛いです』


春香らしい、楽しげな報告もなくなったわけではない。

それらに挟むことで目立たない様にしてある、けれど滲み出てしまう、悩みと不安。


医者にかかっても、詳しい原因が分からない。

ただ一つ確実だったのは、春香を蝕む何かが、じわりじわりとその力を強めていること。

それは小学生の身にも理解できる事であり。

小さな女の子の夢を挫くには、十分すぎるものだった。
295 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:22:14.44 ID:UnTjGLwD0

諦める、とは一言も書かれていない。

しかし、その心は明白だった。


その日以降、春香は“夢”について書かなくなった。


家族や友達と過ごす、楽しい時間。

眠る時間が増え、退屈な時間。


『この頃、一人ぼっちな気分になることが増えました』


幸せと不安が入り乱れた日々が少女にもたらす負担。

それは、少しずつ少しずつ、その心身を蝕んでいく。

天性の才能には恵まれず、努力を重ねることも許されない。

それどころか、思うように生きることすらもままならない。

そんな彼女にとって“夢”は、まさしく“夢”でしかなかった。
296 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:23:38.04 ID:UnTjGLwD0

「っ……」


小さい春香にとって、どれだけ辛かったことだろう。

思うだけで、胸が締め付けられる。


そう思いながらページをめくると、やけに筆圧の強い、力のこもった字を見つけた。


『合唱コンクールに出ることになりました! 本番に向けて頑張ります!』


「あ……」


それは、中学生の頃の記述。

そして、私にとっても思い出深いあの頃。


『音を外しちゃいました……練習しないと』

『ケイちゃんがお見舞いがてら、自主練に付き合ってくれました』

『久しぶりに学校で合唱! 上手くなったって褒められました。良かったぁ……』


相変わらず、病は春香を苦しめる。

それでも、久しぶりに大好きな歌に取り組む春香の日々は、活き活きとしていた。
297 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:24:50.09 ID:UnTjGLwD0

そしてとうとう、あの日が訪れた。


合唱コンクール当日の日記。


友達と出たコンクールの感想。

一生懸命頑張ってきた、自分への評価。

やり遂げたことへの達成感、不満。


そうしたことは、何一つ書かれていなかった。


書かれていたことは、ただ、一言。


『私、やっぱりアイドルになりたいです』


その日が、一つの分岐点だった。

春香が、自分の生きる道を決意した日。

前に進み続けることを、決意した日。
298 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:25:55.39 ID:UnTjGLwD0

春香は前へ進み続けた。

病と闘いつつ、努力を重ねる日々。


『少しでも体力をつけるため、ウォーキングを始めました』

『なかなか音がとれません。音痴、治らないかなぁ……』

『お兄さんがプロデューサーを目指すそうです。なれたら、私を手伝ってくれるって!』


また、活気に溢れた春香が帰ってきた。

時折辛くなったり、落ち込んだりすることもあるけれど。

春香は全力で、前に進んでいた。


けれども少し、生き急いでいるようにも見えた。
299 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:26:24.75 ID:UnTjGLwD0

『あの子の名前を、お兄さんが教えてくれました』


その日記の部分だけ、大きな字で書かれていた。

わざわざかぎかっこを付けて、太字で強調するように記されていた。


『如月千早』


赤い下線を引き。

オレンジ色のマーカーでなぞり。

ハートマークや矢印で周囲を囲み。

ようやく見つけた宝物を自慢するかのように。


私の名前。


春香にとって、如月千早という名前は、とても大きな意味を持っているようだった。
300 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:14.05 ID:UnTjGLwD0

それからしばらく読み進め、時が高校へと移り、しばらくした頃。


「……そう、この頃、だったのね」


書かれた文字を、人差し指でなぞる。

とても懐かしい。

まるで、長く会っていない友人に久しぶりに再会した時のような、そんな気分。


『昨日の夢に、千早ちゃんが出てきました』


その日もまた、大きな分岐点。

私が、春香と初めて出会った日。

今となっては懐かしい、始まりの日。
301 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:27:54.73 ID:UnTjGLwD0

夢の中で、如月千早と仲良くなれたこと。

765プロには楽しい人達が沢山いること。

近所のお兄さんが如月千早のプロデューサーだと知ったこと。


浮足立った姿が目に浮かぶような日記達。

厳しい現実と懸命に闘いつつも、突然現れた夢の世界に、春香は浸っていた。


その頃から私達の露出も増え始め、春香もそれを自分のことのように喜んでいた。


『みんなが活躍していると、私も勇気が湧いてきます』

『私もみんなみたいになりたいなぁ』


ずきんと、胸に痛みが走った。
302 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:30:12.39 ID:UnTjGLwD0

少しずつ結果を出していく私達。

それを喜ぶ日記が書かれる一方で、読み進める私の中で、小さな違和感が生まれた。


あまりにも、私達のことばかりが書かれている。

春香自身の話がどんどん減っている。


読み進めてしばらくの内は、大して気に留めていなかった。

自分で言うのも何だけれど、春香は私達にとっても惹かれていたから。

だから、自然と多く書いてしまっていたのだと思っていた。


しかし、それは違った。

明らかにおかしかった。


春香を蝕む力は、再び彼女を呑み込もうとしていた。
303 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:03.58 ID:UnTjGLwD0

あるページに、少し震え気味で、心もとない文字があった。


『私、もう無理だそうです』


一緒に書かれていたのは、担当医からの辛い宣告。


『私は遠くない内に身体を動かせなくなり、二度と目を覚まさなくなるそうです』


何とか耐えて、霞のような夢を追い続けていた春香。

その身体に、とうとう限界が来ようとしていた。
304 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:31:31.90 ID:UnTjGLwD0



『どうして』

『私、頑張ったのに』

『何も悪いことしてないのに』

『色んなこと我慢して、必死に』

『なんで』

『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


305 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:15.83 ID:UnTjGLwD0

捲ったページはくしゃくしゃになっていた。

何度も何度も書きなぐり、その度に消しゴムで消し。

感情に任せて紙を握りしめ。

そして、沢山の雫が文字を滲ませ、渇いた跡。


家族に聞こえないように、必死に嗚咽を堪えて震える姿が。

心の中で泣き叫びながら、恐怖と絶望から逃れようとする、壊れそうな姿が見えた。


「っ……」


そのページを見ながら、私は唇の端を強く噛み締める。

少し苦い、鉄の味がする。
306 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:32:43.39 ID:UnTjGLwD0

私は、何もできなかった。

春香は、こんなに苦しんでいた。


私はただ一方的に、春香の慈愛を受け続けた。

ただ一方的に、春香の優しさに甘えていた。


その裏で、春香はずっと泣いていた。

その辛さを、誰にも吐露することなく。

その辛さを、私に気付かれまいとして。


「ごめんなさい、ごめんな、さい……」


一滴、ページに新たな染みが増えた。


私は、本当に駄目な人でした。
307 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:33:42.13 ID:UnTjGLwD0

春香の告白は、そこでおしまい。

読み返す気力など欠片もなく、私は日記を閉じた。


「こんなに……こんなに、夢に溢れていたのに」


表紙に書かれた、幼い春香の元気な文字が、一層私の胸を締め付ける。

締め付けられた私の心臓が悲鳴を上げる。


「はる、かぁっ……!」


様々な感情を押し殺して吐き出した名前は、でも、決して彼女へは届かない。


彼女はもう、私の前にいないのだから。
308 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:34:31.51 ID:UnTjGLwD0

日記を抱え、ベンチにへたり込む。


私には、春香だけが支えだった。

春香がいたからこそ、私は頑張ってこれた。


でも、その春香はもういない。


私は、苦しんでいた春香へ、のしかかるように生きてきた。

私は、きっと、彼女の世界で最も罪深い人間だ。


私は春香に、歌う喜びを説いた。

私は春香に、アイドルの楽しさを語った。

私は春香に、夢を追いかける素晴らしさを教えた。



それは、なんて残酷なことだったのだろう。
309 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:35:10.93 ID:UnTjGLwD0

「私……なんて、こと……最低……」


自らを貶す言葉すら満足に吐き出せない。

うつむいていた顔を上げると、いつの間にか闇が訪れていた。

曇天の下、星の光は届かない。


「はるか……わたし、は……」


わたしは、わたしは。


鞄と二冊のノートを左手に抱え、右手を空へと伸ばす。

見えない星の光を掴もうとして。

雲の向こうに、彼女がいるような気がして。
310 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:36:30.05 ID:UnTjGLwD0

「春香。私、酷いことしたわよね」


電球が切れかかり、ちかちかと点滅する街灯の光。


「でも、どうして?」


辛かったはず。

私を見つめながら、歯痒かったはず。


「どうしてあなたは、ずっと私の傍にいたの?」


点滅しながらも、街灯の光は途絶えない。


「どうして、私なんかの……」


昨日、双海さんが泣いた時。

あの時と同じような揺らぎが、また生まれた。
311 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:37:15.01 ID:UnTjGLwD0

揺らぎは波紋となり、やがてそれは大きな波となる。


どうして?

ねえ、どうして?

答えて。

答えて!


立ち上がって一歩進むごとに、頭の中が掻き混ぜられる。

コーヒーカップを全力で回し続けた時のように。

脳が溶けて、シェイクになっているように。


分からない!

分からない、分からない、分からない!


春香!

あなたは、私に一体、何を見出していたの!?
312 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:03.73 ID:UnTjGLwD0

暗闇と点滅の中、私はおぼつかない足取りで当て所もなく歩き続ける。

不安、怒り、悲しみ、疑念、諦観。

様々な負の感情が入り交ざり、澱んだマーブル模様が出来上がる。


「私……私……!」


パンクしそうな頭を抱え、私はもう何も考えたくなかった。
313 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:38:31.46 ID:UnTjGLwD0

ふと、街灯が照らす塀の角。

人影が見えた。


「……誰?」


こちらをじっと見つめている。


その輪郭には見覚えがあって。

その髪型には見覚えがあって。


「……!」


その子はじっと、私の方を見つめていた。
314 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:39:36.67 ID:UnTjGLwD0

「春香!」


私は影へ向かって叫ぶ。


「春香、来てくれたのね!」


見つけた私の声が、意図せず高く跳ね上がる。


ああ、やっと戻ってきてくれた。

ああ、私のところへ帰ってきてくれた!


私は喜び勇んで、影へ向かって声をかける。


「どうしたのよ、春香。そんな隅っこに隠れて」


けれど、影は何も言わず、じっと私の方を見つめている。


「ねえ、春香……どうしたの……?」


影はただ佇み、焦点の合わない視線を私へ向ける。
315 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:40:14.89 ID:UnTjGLwD0


怖い。


彼女に対して、初めてそう思った。


「ちょっと……は、春香……?」


ぼんやりとした視線は、私を見ているようで、別の何かを見ているようで。


「は、はる……」


私を見透かすように。

瞳の中へ呑みこむように。


「……ぃ」


そして、私は気付いた。

それは、私が最も恐れていた。


「いやあああぁぁああ!」


それは、軽蔑の色。
316 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:42:27.50 ID:UnTjGLwD0

「いや……」


気付けば。


「やめて……」


民家の窓から。

電信柱の陰から。

通り過ぎる車の中から。


いたるところから、春香は私を見ていた。


「お願い、春香……」


春香は皆一様に、侮蔑の眼差しを私に向けていた。


「そんな目で、私を見ないで……」


私の世界で唯一の光だった、春香。


そんな彼女にまで見捨てられたら。


私は。

私は。
317 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:43:34.82 ID:UnTjGLwD0

「っはぁっはぁっ!」


怯えながら夜道を走っているうちに、いつかのように動悸が激しくなる。


「許して、許して、春香……!」


散々偉そうなことを考えて、言っておいて。

結局私は、何よりも春香に見捨てられることを恐れていた。


「ぁ……!」


けれど、春香は許してくれない。


自動販売機の明かりの中に、見慣れた姿があった。


「ひっ――!」


その焦点が合わない瞳は、私を呑みこもうと追いかけていた。
318 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:45:10.01 ID:UnTjGLwD0

私は情けない声を上げ、影を背にして走り出した。

直視したくなかった可能性から目を背けるために。


癇癪を起した子どものように声を上げた。

耳から入ってくる何かをかき消すために。


「あぁぁぁああ! いや! いやああぁぁああ!!」


人目もはばからず、時間も場所も気にかけず。


しかし、どれだけ走っても、春香は私を放してくれなかった。
319 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:46:39.49 ID:UnTjGLwD0

どれだけ走ったのだろう。

もう叫ぶ気力もない。

疲れた体の支えを求めるように、橋の欄干へ体重を預ける。

橋の上から見下ろした川の水面。


「春香……そこにもいるの……?」


水面にぼんやりと映る月明かりの傍に、見慣れたシルエットが見える。


「ぁ……はるか……」


水面に映る橋からは、私の代わりに春香がこちらを覗きこんでいた。
320 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:05.42 ID:UnTjGLwD0


ああ。


これはもう、春香が私を呼んでいるのかもしれない。


このまま、春香のところへ行こうかしら。


それも、いいのかもしれない。

321 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:47:40.95 ID:UnTjGLwD0

ねぇ、春香。

私がそちら側へ行ったら、許してくれるかしら?

私がそちら側へ行ったら、また笑ってくれるかしら?


歌って歌って、幸せだった頃のように。

二人で寄り添っていた頃のように。


「春香、私」


欄干から身を乗り出して、私は春香へと手を伸ばした。
322 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:15.34 ID:UnTjGLwD0


ぽたり。


そんな私の頬を、水玉が打つ。

頬を伝った雫が、口に届く。


ぽたぽた。


小さな粒が、私の後頭部を打つ。

降り注ぐ雫は、瞬く間に数を増していった。


「あ……」


水面には、いくつもの波紋が広がった。

そこにいたのは、春香ではなく、私だった。
323 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:49:42.82 ID:UnTjGLwD0

雨音が大きくなる。

雨粒が私に叩きつけられる。


「っ! は、春香の!」


日記が濡れてしまう。

我に返って、慌てて足元の鞄を抱き上げる。

幸い、鞄は防水性があったようで、中まで染み込んではいない。


「良かった……」


呟いた言葉とは裏腹に、私の心は空模様のようだった。

抱きしめた鞄は、雨に濡れて冷たい。
324 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:50:53.65 ID:UnTjGLwD0

雨は容赦なく降り続ける。

この時間になると、車も人も通らない。

私は自宅のある方へ歩き続ける。

胸に、鞄を抱きながら。


もう視界に、春香は映らない。


足元の水たまりの中も、

曲がり角のミラーの中も、

そこにいるのは、私だけ。


大切な人さえをも逃げ口にしようとした、醜い私だけ。
325 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:21.59 ID:UnTjGLwD0

春香が、あんな顔をするはずがない。


あの子は、とっても優しい子。

人を怨むくらいなら、怨んでしまう自分を責めるような子。


なのに、私は。


自分が楽になりたいから、醜い役割を春香に押し付けた。


いいえ、分かっていた。

私は昔から、そういう人間だった。

今更なこと。


そう。

私は、春香に何かを望まれるような、そんな人間じゃない。
326 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/08(日) 21:51:48.41 ID:UnTjGLwD0




ねぇ、春香。


あなたはどうして、私の隣にいたの?



327 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 22:51:18.39 ID:iWQQ9rSr0
>>288
そうでしたか 煽ってすみません 最後まで楽しみにしてるので頑張って下さい
328 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/08(日) 23:53:51.44 ID:y6HQBtCo0
一度エタってる時点で信用できない。>>1の時点で注意書きしとけよって話
329 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 07:36:37.84 ID:uovg4fie0
ここに投下されるSSでエタらなかった長編がどれだけあるのやら。いちいち目くじら立ててたら身体が持たんよ
330 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 20:27:49.45 ID:eceN+6mBO
遅くなりがちってことくらいはあってもよかったのでは無いでしょうか?
一度落とした内容なら尚更
331 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/09(月) 21:26:59.90 ID:JrEUEl3No
いまさら噛み付くほどでもないでしょ
332 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:43:35.73 ID:Zo4S+Uss0
>>330
遅く感じられる方には申し訳ないです。
SS速報全体で見れば特に遅くもないため、初見の方も多いだろうということもあり言及しておりませんでした。
また、投稿者レスをしていなかったのは、(以前の投稿の時もそうだったのですが)物語を邪魔しないよう投稿者レスはしたくないという理由もありました。
シリアスな作品だと投稿者のコメントで興醒めしてしまう方もいらっしゃるので……。
結果として説明足らずでやきもきさせてしまい、重ね重ねすみません。
333 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:11.08 ID:Zo4S+Uss0

雨粒でない雫が頬を伝った時。

突然、雨が止んだ。


「傘を忘れたのかね?」


声を掛けられて見上げると、傘を差した社長がいた。


「如月君が、雨に打たれながら歩いている姿が見えてね」


そう言うと、私の反応も待たずに、傘の柄を差し出してきた。


「風邪を引くといけない。使いなさい」

「……結構です」


私は社長の視線から逃げるように、速足気味に傘から出た。
334 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:45:39.35 ID:Zo4S+Uss0

「如月君」

「放っておいてください」


誰とも話したくなかった。

きっと、居たとしても、春香とも。


「今日――天海さ――母さ――事――所――」


何かを言っている社長を背に、私は走った。


「――記は――二冊とも――」


雨音が、水を蹴る音が、私の鼓動が。

社長の声を掻き消していく。

水たまりを踏むたびに、私は鞄を守るように身を縮こまらせた。
335 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:30.70 ID:Zo4S+Uss0


私は走る。

自分の小さな国へ逃げ込むために。


逃げる?

私はもう、自分のことなんてどうでも良かったのではなかったかしら?


そうだ。

私は変わっていない。

弟を亡くしたあの頃から。

336 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:47:57.36 ID:Zo4S+Uss0




本当は泣き虫で、一人ぼっちで。


弱い弱い、私のまま。



337 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:48:32.82 ID:Zo4S+Uss0

「っはぁっはぁっはぁっ……」


逃げ込んだ場所は、明かりのない、暗い部屋。

まるで私を写しとったかのように。


「イヤ……」


重い身体を引き摺り、雨水を滴らせながら。

部屋の奥を目指しながら、呻くように声を上げる。


「もう、イヤ……」


鞄をベッドの横へ放り出す。

糸が切れた人形のように、私は崩れ落ちた。


「もう……もう……!」


何も、いいことなんてなかった。

このすごろくは、私を苦しめるだけだった。
338 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:02.62 ID:Zo4S+Uss0



もう、いいわよね?

私、頑張ったでしょう?


もう、駒を止めても。

もう、休んでも。


いいわよね。


ねぇ、春香?


339 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:28.62 ID:Zo4S+Uss0





――。




340 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:49:54.75 ID:Zo4S+Uss0





『お願い、千早ちゃん』


『前に進むことを、やめないで』




341 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:50:37.00 ID:Zo4S+Uss0

……はるか?


春香の声が、聞こえた気がした。

ずっとずっと、聞きたかった。

優しい優しい、あの子の声。


「どこ……はるか、どこ……?」


重い身体に鞭を打つ。

何かに縋るように、声が聞こえた方を見る。


水に濡れた鞄が一つ、部屋の隅に転がっていた。
342 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:51:51.61 ID:Zo4S+Uss0

恐る恐る、鞄を手に取る。


重い。


鞄だけの重さではない。

中に入っている、二つの重さ。


雨音の中で、微かに聞こえた社長の言葉。


『日記は、二冊とも読んだのかね?』


鞄を開けると、表紙の焼けた古い日記とは別に。


もう、一冊。
343 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:52:36.48 ID:Zo4S+Uss0


『Dream』


そう、優しい文字が書かれた表紙。

夢。

私がいつか、どこかに置き忘れてしまったもの。


ノートは全く濡れていなかった。

思っていた以上に、鞄の防水性能が良かったのか。

それとも、何かが守ってくれたのか。


まだ読んでいない、二冊目の日記。

表紙をめくろうとする。


が、指が動かない。
344 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:27.82 ID:Zo4S+Uss0

「読まなくちゃ……でも、私……」


凍てついたように、指は動かない。

雨に濡れ、冷えて縮こまった私の心は、あと一歩を踏み出すことができない。


いつか七色に彩られていた心のキャンバス。

今はまるで、埃を含んだ雨水のようにくすんでいて。

幼いあの日、掌から幸せが零れ落ちたあの日。

部屋の隅で泣きもせずに座り込んでいた、あの日のように。
345 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:53:58.56 ID:Zo4S+Uss0

その時、ぴくり、と指が動いた。


私が動かしたわけではない。

自身の意思に反して、勝手に動いた。

誰かが、そっと優しく、私の手を取るように。


「……どうしてかしら」


誘われるように、表紙の文字をなぞった。


「暖かい……」


押し付けた指の腹が、じんわりと熱を帯びる。
346 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:28.32 ID:Zo4S+Uss0

夢と書かれた、真新しい表紙。

それを書いたのが春香だと思うだけで、胸が熱くなり、痛くなる。

灰色の澱みに沈みきった私には、眩しすぎる明るさ。


私はこの日記を読まなければいけない。

社長に言われたから?

プロデューサーに渡されたから?

春香のお母さんが、きっとそれを望んでいるから?


いえ、違う。

きっとそれを望んでいるのは、他でもない――


「春香……あなた、なのよね」
347 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 21:54:54.77 ID:Zo4S+Uss0

そう思うと、不思議と指が動いた。

一体なぜなのかは、自分でも分からない。


春香に会いたいからか。

どんなに小さな光でも、縋りたかったからか。

最早、自分にできることは、何一つなかったからか。


渦巻く脳の荒波には、色々な想いがごちゃ混ぜになっている。

それらが求める、共通の、一つの答え。


「……読ませてもらうわね、春香」


目の前にある彼女の記録を、確かめること。
348 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:00:33.43 ID:Zo4S+Uss0

宝物の輝きが窓の外へ漏れないように。

誰かから隠すように、こっそりと表紙をめくる。


めくった瞬間目に入ってきたのは、元気良く跳ねるような文字だった。


『今日は、アイドル事務所へ面接に行ってきました!』


春香の日記では、有り得ない言葉。


『トップアイドルになって、みんなに笑顔を届けられる人になります!』


それは、彼女がいつか胸に刻みたかった、強い決意で。


そう。

これは、自分の日々を綴った記録ではない。

彼女が想い描いた、そうありたかった自分。

目指すことさえ許されなかった、彼女の在りたかった姿。


私が開いた日記は、天海春香が描いた夢、そのものだった。
349 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:02.89 ID:Zo4S+Uss0

彼女は、自らの運命を知っていた。

叶わぬ夢、いずれ訪れる虚無の恐怖。

それでも彼女は叫んだ。


『なんで、神様』

『目指すことさえ許してくれないんですか』


彼女は終わりが近づいても、恐怖を叫ばなかった。

彼女が嘆いたのは、日々の終わりでも、自らの病でもない。


自らの力で、夢を目指せないこと。


この日記は、そんな彼女の、夢。
350 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:01:31.99 ID:Zo4S+Uss0

ページをめくるたびに、彼女の奮闘記が現れる。

どこかの世界であったかもしれない、夢の日々。


『事務所のみんなに挨拶をしました』

『社長も事務員さんも、プロデューサーさんも、候補生のみんなも、みんなみんな優しいです』

『ちょっと周りに振り回され気味だけど、頑張ってやってます』


少し既視感を覚える出来事たち。

新しい世界に心躍る彼女の心が、ほんわりと伝わってくる。
351 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:02:36.50 ID:Zo4S+Uss0

レッスンに取り組む春香。

営業へ赴く春香。

仲間たちと笑い合う春香。

小さなステージに立つ春香。


一行一行が、私の胸をきゅっと締めつける。

辛いから、じゃない。

彼女が綴る出来事の一つ一つが、理解できるから。

自分の身に起こったことのように、理解できるから。

そこから生まれる喜怒哀楽を、理解できるから。

それらが素晴らしい日々なのだと、理解できるから。




理解できる、から?
352 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:05.20 ID:Zo4S+Uss0


『律子さんが昔貰ったファンレターを見ました』


『あずささんとコーヒーを飲みました』


『オーディション前に、亜美と一緒に走りました』


『響ちゃんのお兄さんを追いかけてみました』


『雪歩と喧嘩しちゃったけど、仲直りしました』

353 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:03:31.10 ID:Zo4S+Uss0

「痛っ……」


ずきん、と、頭の奥が響いた。

何かをこじ開けるような痛み。

無理矢理詰め込んだクローゼットの扉が、圧力で軋むような。
354 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:20.67 ID:Zo4S+Uss0

一行ずつ、声に出して読む。


「美希が遅刻して、みんなで謝りました」

寝坊した本人は、素知らぬ顔であくびをしてて。


「真と二人で、深夜番組のレギュラーを貰いました」

方向性を間違った真の爆弾発言を、必死に修正して。


「番組の収録で、四条さんと旅行に行きました」

露天風呂で格の違いをまざまざと見せつけられて。


「やよいとその家族と、遊園地で遊びました」

連れ込まれたお化け屋敷で悲鳴を上げちゃって。


「真美とのラジオ番組の人気が出てきました」

時折真美の言葉の意味が分からずに聞き返すと笑われて。


「出演したCMは、伊織の実家のものでした」

当の伊織本人は、かたくなに出演を拒んで。
355 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:04:56.10 ID:Zo4S+Uss0

「……どうして、私は知っているの?」


これらは彼女の夢。

叶わなかった、実在するはずのない彼女の夢。

そのはず。


でも、分かる。

日記の出来事があった時、みんなはどんな様子だったのか。

その時、彼女はどんな気持ちだったのか。


『作曲家の方が、歌手として私を指名してくれました』

『重圧に押しつぶされそうだけど、頑張らないと!』


まるで自身がそこにいるかのように分かる。

理解、できる。
356 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:05:59.49 ID:Zo4S+Uss0

「私の、歌を、みんなが……」


読み上げる声が震える。

目頭が熱い。

何かが込み上げてくる。

眼前が滲んで、日記の文字が読めない。


私はそのまま、日記を閉じた。


「どう、して……」


しばしの静寂の後。

代わりに、問いかけの言葉が口から漏れる。

その問いに意味はない。

私はもう、その答えに気付いていたから。
357 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:09:18.28 ID:Zo4S+Uss0

「ぅあぁ……ぁ、あぐぅうぅ……!」


堪えようとする。

けれど、嗚咽は喉の奥に留まっていてはくれない。


ぼろぼろと落ちる涙。

口から漏れる泣き声。


私はもう、我慢することができなかった。


「はる、か」


濡れそぼった情けない顔を、手のひらで覆う。


「私が、そうだったのね」


その日記に記されていたのは、かつて私が春香に語った出来事たち。

彼女が目を輝かせながら、食い入るように聞いていた日々。


『わた、しの、おもい……ぜんぶぜんぶ、うそになっちゃう……!』


病床に臥せる彼女の、たった一つの、大切な想い。
358 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:10:52.17 ID:Zo4S+Uss0




「私が過ごしていた、あの日々こそが」


「あの幸せな、日々こそが――!」



春香が。


あなたが、ずっと追い求めていた、夢だったのね。



359 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:11:27.54 ID:Zo4S+Uss0


ばきり。


頭の中で、閂が折れる音がした。


「私は、ずっと、ずっと」


扉が開く。


そこから差し込み、仄暗い部屋を満たす、強い光。

360 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:16.81 ID:Zo4S+Uss0



黄、


緑、


黄緑、


橙、


紫、


浅葱、


桃、


黒、


白、


臙脂。


361 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:12:42.72 ID:Zo4S+Uss0


部屋を彩る、極彩色の輝き。


私がずっと見ていた、夢の輝き。


鮮やかな色たちが飛び跳ねる。


マーブル模様を作りながら、青い光へ入り混じっていく。

362 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:08.37 ID:Zo4S+Uss0


辛いことが、たくさんあった。

何度も心が折れた。

何度も何度も、化膿した傷を抉られた。


それでも。

それでも、顔を上げてきた。

前を向いてきた。

前を、向かせてくれた。

363 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:13:48.56 ID:Zo4S+Uss0



馬鹿みたい。

辛さなんて瑣末なことだった。

程度は違えど、誰にでも辛いことはある。

そんな時でも、私には傍に支えてくれる人がいた。


大切なのは、とてもとてもシンプルなこと。



「私はずっと、誰よりも、幸せ、だった」



世界一の大間抜けが、たった一つ気付かなかったこと。


364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:23.21 ID:Zo4S+Uss0

幸せを無下に食い潰していた私を、春香はどう思っていただろうか。


嫉んでいただろうか。

怨んでいただろうか。


違う。


『だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ』


私が幸せを食い潰していても尚、傍にいてくれた。

私を支えようとしてくれた。
365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:14:50.66 ID:Zo4S+Uss0

幸せに恋い焦がれ。

追いかけて。

手を伸ばして。


でも、それ以上に。


「ずっと私のことを、見てくれてた」


夢の日記の、最後の空白ページ。


「ずっと私のことを、想っていてくれた」


そこには書きかけの、シャープペンシルの筆跡。


「ずっと、私の幸せを、願ってくれていた」


きっともう力が入らなかったのであろう、震えるような『千早ちゃんと』の文字。


「大切な大切な、友達……!」



青い雫が、床に当たって弾けた。
366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:15:26.60 ID:Zo4S+Uss0

いいえ。春香だけじゃない。


「律子も、伊織も」

「亜美も、真美も、あずささんも」

「真も、萩原さんも、高槻さんも」

「美希も、我那覇さんも、四条さんも」


社長、音無さん。


プロデューサー。


「私は、たくさんの人に幸せを、もらってっ……」


雫が止まらない。

体中の私を絞り出すように、ぽたり、ぽたりと床を打つ。


「あ、うあ、ぅぅぅぅっ……」


声を抑えるので精いっぱいだった。
367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:16:20.94 ID:Zo4S+Uss0

その時。

ぴんぽん、と。

呼び鈴が鳴った。


「如月君」


さっき聞いたばかりなのに、とてもとても懐かしい声。


「いるんだろう?」


今返事をしたら、情けない声しか出ない。

小さく縮こまり、きゅっと唇を噛み締める。


「皆、心配しているよ」


優しく、荒れ果てた心を宥めるような声。
368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:17:05.42 ID:Zo4S+Uss0

「先ほどのキミの様子を話したら、ひどく気にしてね」


みんななら、きっととても心を痛めている。

とても優しい人たちだから。

でも、私はその優しさに気付かなかった。

みんなを沢山傷つけた。

そんな私が、今更――。


「予定も入っていたというのに、皆そっちのけだよ」

「かく言う私も、人のことは言えないのだがね?」
369 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:10.72 ID:Zo4S+Uss0

その言葉を聞いた途端。

まるで自分の足とは思えない勢いで、弾くように床を蹴った。


急いで玄関のドアを開けると、社長がにこやかな表情で立っていた。


「やっと出てきてくれたね」


間近で声を聞いて、また涙が溢れてきた。


「社長、わた、私……わたしっ……!」

「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


階段の方を向くように、肩をゆっくり押された。

温かな体温を肩に感じながら、私は階段を駆け降りた。
370 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:19:44.32 ID:Zo4S+Uss0

足がふわりと浮くように軽い。

私じゃない、誰かの力が身体を動かす。

行きたい、走りたい、早く降りたい。

私がそう思うたびに、何かが私を引っ張る。

誰かが、私の手を引く。


誰もいないそこに、誰が居るの?

私の隣に今、誰が居るの?


分かってる。

ずっとずっと、隣に居てくれたのよね。
371 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:20:22.52 ID:Zo4S+Uss0

階段を駆け下りてマンションを飛び出す。


「っはぁっはぁっはぁっ……」


足を止める。

いつの間にか、雨は止んでいた。


街頭がいくつもの影を照らす。

大小様々な、色とりどりの影たち。


「……こんな時間に、何、してるのよ……」


目にするなり、こんな悪態をつく自分が嫌になる。


でも、そんな強がりでも口にしてないと。

そのまま、崩れ落ちてしまいそうだったから。
372 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:22:15.75 ID:Zo4S+Uss0

その中で、ひと際強く光を映す金髪。

マンションから飛び出した私を見つけ、その長髪が揺れた。


「……千早、さん?」


恐る恐る、様子を窺うような声。

何かに怯え、震えながらも、返事を欲しがる子どものような声。

久しぶりに聞いた気がする声が、たまらなく愛おしくなった。


「み、き」


震えていた黄緑の光が、ぴくりと跳ねる。

そして、すぐさま私の方へ駆けだした。
373 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:23:06.81 ID:Zo4S+Uss0

「千早さぁん!」

「きゃっ……!?」


顔を涙でびしゃびしゃに濡らしながら、美希が飛びついてきた。


「千早さんだよね、如月さんじゃないよね?!」

「っ……馬鹿ね、美希。如月さんでも、合ってるわよ……」

「違う、違うよ! 千早さん! 千早さんなの!!」


大粒の涙をぼろぼろと零す美希。

子どものように泣きじゃくる彼女を、強く抱きしめる。

暖かい。

この子は、なんて暖かいのだろう。
374 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:24:09.06 ID:Zo4S+Uss0

「お姉ちゃあん!!」

「ちはっ……ひぐ、千早お姉ちゃあん!!」


美希の後を追ってきた二人が、私の両腕にそれぞれ抱きつく。

いつか、深く深く傷つけてしまった黄の光。

もう絶対に、この腕は払わない。


「亜美、真美」

「千早お姉ちゃん、行かないで! もうどこにも行かないでよぉ!」

「行かないわ、どこにも、決して」

「遊園地、遊びに行くんだかんね! 指きり、したんだからぁ!」

「もう……行くのだか行かないのだか、分からなくなってきちゃうわよ……」


ああ。

そうだったのね。

今更気付くなんて、本当に馬鹿みたい。

私がアイドルを続けていた、一番の理由。
375 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:25:20.93 ID:Zo4S+Uss0

顔を上げれば、闇夜に鮮やかな色模様が浮かび上がる。


「千早、びしょ濡れだけど大丈夫か!?」

浅葱。


「何かタオルか何か……あっ、確か鞄にあったはず!」

黒。


「ええっと、真ちゃん! 一緒に、さっき渡した魔法瓶貸して!」

白。


「そのままじゃ風邪ひいちゃいます! 着替えはお部屋にありますよね?」

橙。


「一応着替えは持ってきたわ。上着だけでも羽織らせてあげましょう」

緑。


「こんなになるまで……無理をしないで、もう少し私たちを頼って、ね?」

紫。


「皆、千早のことを心配していたのですよ。今宵だけでなく、ずっとずっと」

臙脂。


「本当よ。なんでもかんでも抱え込んで……この大馬鹿!!」

桃。
376 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:30:08.86 ID:Zo4S+Uss0

私が、ずっとアイドルを続けていたのは。


「音無さん、社長はどちらに?」

「千早ちゃんが来たからそろそろ……あっ、社長!」

「うぉっほん! いやあ、我が事務所のアイドル達が勢揃いすると壮観だね」


歌いたいから。


「はい、千早ちゃん。ちょっと熱いけど」

「ありがとう、萩原さん……熱っ」

「だから雪歩が熱いって言ったのに。ただでさえ身体が冷えてるんだからさ」


それだけでは、なかった。


「折角の女の子の髪が台無しよ?」

「すみません、あずささん」

「ミキに貸して! 綺麗にしてあげるの!」

「ミキミキ、まだ手が震えてんじゃん」


私は心のどこかで気付いていた。
377 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:31:37.03 ID:Zo4S+Uss0

“もっと欲しい大切なもの”。

仕事より優先する第一のこと。


この暖かい場所に居たい。

この幸せに包まれていたい。

やっと見つけた居場所を手放したくない。


この場所だから、歌いたい。

この場所で、歌い続けたい。


そんな、簡単な理由だった。
378 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:04.37 ID:Zo4S+Uss0

目をつぶると。

たくさんの声が聞こえてくる。


なんだかまるで、幻のようで。

部屋に飛び込んだ時、そのまま微睡んでいたのではないかしら。

そのまま、夢でも見ているのではないかしら。


ふわふわと浮いているような感覚。

そんな私を、声が呼ぶ。
379 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:32:30.54 ID:Zo4S+Uss0



ねぇ、千早ちゃん。


起きて?


380 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:15.91 ID:Zo4S+Uss0

「あ……」


目を開けると。

みんなが、そこにいた。


「……ち、千早っ!? ど、どうしたんだ!?」

「え?」


プロデューサーが、おろおろとした様子で尋ねる。

けれど私は、そんな質問をされる覚えがない。


「何か辛いのか?」

「え、どうして……」
381 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:33:46.83 ID:Zo4S+Uss0

ぽたり。


「あ」


雫が落ちた。

それは確かに、私の目から零れた。


「あ、れ……」


止まらない。

落ちた雫が、手の甲に当たる。


「おかしい、です」

「何がだ?」

「止まらない、んです。涙」


別に悲しいわけじゃないのに。

痛いわけでもないのに。
382 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:16.56 ID:Zo4S+Uss0

それに、暖かい。

水なのに。


「あ……駄目、私……」


堪えなきゃ。

両手で顔を覆う。

今気が緩んだら、もう。


「いいんだよ」


そう思ってた私を、プロデューサーが制した。


「我慢しなくていい。もういっぱいいっぱい、我慢してきただろう?」


顔を隠す私の手が、下ろされた。
383 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:34:43.39 ID:Zo4S+Uss0

「おかえり」


そしたら、待ち構えていたように。

みんな、そんな風に、笑顔で言われたら。


「っ……!」


私、言えないじゃない。

一言しか、言えない。


いいんだよ、それで。


いいのかしら、それで。


みんな、その言葉を待ってるよ。
384 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:09.74 ID:Zo4S+Uss0



だから、私は。

とびっきりの情けない泣き顔で。


「ただ、いまぁっ……!」


涙で顔をぐしゃぐしゃにして、答えた。


385 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:35:48.09 ID:Zo4S+Uss0

もうそこから先は、何も喋れなかった。

小さな子供みたいに、声を上げた。


私、ずっと孤独だった。

ずっと一人じゃないと駄目なんだって。

これからずっと、一人なんだって思ってたの。


「うあ、あ、あぁぁあ、うっく、ぁぐ、ひぐ、うぅぅぅ」


でも、みんなが。

みんなが、いていいんだよって。

わたし、ここにいていいって。


みんなが代わる代わる、抱きしめて涙をふいてくれる。

でもふいてもふいても、すぐに溢れるの。
386 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:36:14.85 ID:Zo4S+Uss0


「千早ちゃん」


そんな私の頭を、あの子の声が優しく撫でてくれる。


「我慢しないで、いっぱい泣いていいんだよ」


泣きじゃくる私は、声を上げることもできない。

上げてもその声は、きっと、あの子には届かない。


「泣いてる間は、本当の自分と向き合えるから」


そっと触れる声は、悲しいくらい冷たくて。


「誰よりも素敵な、千早ちゃんと」


私を見つめるその声は、寂しそうに潤んでいて。

387 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/09(月) 22:37:03.68 ID:Zo4S+Uss0


春香。

私は、やっと居場所に気づけた。

でもここには、あなたも必要なの。

ねえ、春香。

春香!


あの日から私の前に立ちふさがる、分厚い扉。

いくら叩いても、もう彼女の声は聞こえなかった。


私は四角いさいころを、ぎゅっと握りしめた。

388 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:28:19.72 ID:pFf/ISIR0

その時。

何かがそっと、私の肩に被せられた。


「ん……」


その拍子に、分厚い扉ははたりと消えて。

私の前にあったのは、柔らかな感触だった。


「あれ、ここは……」

「っと、起こしちゃったか」

「プロデューサー……?」


鼻腔をくすぐる、薬品の匂い。

気づくと私は、春香が眠るベッドに突っ伏していた。
389 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:29:39.19 ID:pFf/ISIR0

「あれ……私、なんで春香の病室で……」

「あの後みんなでお見舞いに来て、寝ちゃったんだよ」


あの後とは、マンションの前でのことだろう。

錯綜する記憶をこねくり回す。

朧気ながら、泣きながら春香のことを話したのを思い出した。


「きっと疲れてたんだろう。仕方ないさ」


プロデューサーは苦笑した。

寝ぼけた頭を叩く。

埃が舞い上がるように、意識が乱れてくらくらした。
390 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:30:44.78 ID:pFf/ISIR0

「今、何時ですか?」

「ちょうど日付が変わるくらいだな」


日付を跨いだら魔法が解けて、春香が起きたりしないだろうか。

そんな逃避的な思いを巡らせる。

けれどそばで寝息をたてる春香は、いつものままで。

死んだように、穏やかなままで。


「病院に泊まってくか? 帰るなら送っていくよ」

「大丈夫です。一人で帰れますから」

「時間が時間だ。大切なアイドルを一人で帰せるか」


大切な、アイドル。

私を許してくれるその言葉が、嬉しくて、嬉しくて。

そして春香の隣では、少し苦しくて。
391 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:31:17.59 ID:pFf/ISIR0

夜風が冷たい帰り道。


「ずっと聞きたかったんだが」

「何を、ですか」

「夢の中での春香は、どんな様子だった?」

「春香の、様子……」


白い息を吐きながら、プロデューサーが訊ねてきた。

目を閉じて、春香との日々を思い出す。


「あの子はいつも、笑っていました」


いつも明るくて、朗らかだった。

冷えて縮こまった私を照らすように。
392 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:36:21.37 ID:pFf/ISIR0

「でも、最後に話した時」


思い出す。

ドアの向こうから聞こえた、涙声を。


「春香は泣いていました」


最後の最後で思わず溢れてしまったのだろう。

彼女のもう一つの、本当の気持ち。


「静かな寝顔だけれど、きっとまだ、あの子は泣いています」


みんなに抱き締められた時に聞こえた、か細い声。

春香は私に、勇気をくれた。

でも私はまだ、春香に何もあげていない。
393 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:37:47.89 ID:pFf/ISIR0

「千早はくれたよ、沢山のものを」


プロデューサーの声が、夜道に小さく響いた。

私の自己否定を、否定する声。


「本当なら、春香がああなるのはもっともっと早いはずだった」


プロデューサーは立ち止まり、僅かに振り返った。


「千早と出会った頃から、あの子は前にも増して明るくなったよ」

「でも……結局、何もできてないじゃないですか……!」


春香は今、眠りについている。

それが、全てじゃないですか。
394 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:38:14.47 ID:pFf/ISIR0

「お前の悪い癖だ」

「いたっ」


こつん、とプロデューサーのゲンコツが落ちた。


「そうやって、また引きこもるつもりか」

「……すみません」

「そんなマイナス思考じゃあ、この先のアイドル生活が思いやられるな」


見上げると、プロデューサーは笑っていた。

そこに、陰は僅かもなかった。
395 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:38:48.34 ID:pFf/ISIR0

「悔いてどうにかなるなら、それでもいいんだけどな」


ゲンコツが落ちたところを軽く押さえる。

まだ少し、痛い気がする。


「残念なことに、俺達はやり直せない」


『これから何を為すのか』。

それしか選ぶことはできないと、プロデューサーは呟いた。
396 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:39:48.53 ID:pFf/ISIR0

それなら私は、春香に何をしてあげられるのだろう。

どうすれば春香は、また笑ってくれるのだろう。


春香は死んだように眠っている。

でも、死んでいるわけではない。

また、笑って欲しい。

また、私の隣で。


「分からないんです」


春香に笑ってもらうために。


「私には一体、何ができるのでしょうか」


強いプロデューサーなら、きっと。

何か答えをくれる気がして。
397 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:42:23.21 ID:pFf/ISIR0

「俺達にできることなんて何もないよ、千早」


けれどプロデューサーからの返事は、非情なものだった。


「できる、なんて確信を持って言えるのは、余裕と力のある人間だけだ」


当たり前のことを言うように、その声に躊躇いはなかった。


「俺達は医者でも超能力者でもないし、春香の目を覚ます確かな術なんて持ち合わせていない」

「もし自分が何か"できる"と思ってるなら、それは思い上がりだと、俺は思う」


その言葉は、私に向けられたものなのだろうか。

それとも、プロデューサーの脳裏を過ぎるのは。


「……随分、酷いことを言うんですね」

「あはは、意味を取り違えないでくれよ」


取り違える?
398 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:46:45.27 ID:pFf/ISIR0

「できることなんて何もない、だから俺達は"する"しかない」

「"する"?」


思わず聞き返す。


「その結果が実を結ぶなんて保証は誰もしてくれない」

「でも、もしかしたら、もしかしたら小さくとも何かに繋がるかもしれない」

「そんなあやふやな何かを信じて、良かれと思って進むしかないんだ」


「1+1の計算は、"できる"」

「スポーツ大会での応援は、"する"」

「それなら、哀しむ誰かに笑ってほしくて、励ますのは?」

「大好きな人に喜んでほしくて、プレゼントを贈るのは?」


指折り数えながら、プロデューサーの言葉を心の中で復誦する。

少しずつ、プロデューサーの言葉が染み込んでくる。


「それが、"する"ですか?」


少なくとも、俺はそう思うよ。

プロデューサーはそう言って、小さく笑った。
399 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:47:38.20 ID:pFf/ISIR0

少し間が開いたのち。


「だから、プロデューサーになってしばらくした時、決めたんだ」


そう、呟いた。


「春香の病は、俺にはどうにもできない」

「ならせめて、あの子が元気になれた時に、良かれと思うことをしようと」

「なんとなくで始めた道を、本気で進もうと思った」


プロデューサーは、ずっと、ずっと。

その遠い未来を信じて、歩んできた。

あやふやな何かを、今も信じている。


あの子の姿を目の当たりにして。

辛く、哀しくても。

身と心を削りながら、それでもあやふやな何かを信じている。


やっぱりとても、強い人。


そう、思った。
400 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:48:23.90 ID:pFf/ISIR0

私も、強くなれるだろうか。

私も、強くあれるだろうか。


私も、強くありたい。


「プロデューサー」

「ん?」


だから、宣言をしよう。


「私も考えてみようと思います」

「自分がこれから、"する"ことを」


まずは、意志を。

あやふやな何かに繋がる、最初の一歩を。
401 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:48:57.75 ID:pFf/ISIR0

「今の千早、いい顔してるぞ」

「そうですか?」

「自然な笑顔、久しぶりに見た気がするよ」


丁度アパートの前に着いた時、そんなことを言われた。


タクシーを探しに大通りへ向かう姿を見送りながら。

頬に手をやると、僅かに力が入っていた。
402 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:51:36.70 ID:pFf/ISIR0

ひとりぼっちの部屋で。

ベッドに身体を投げ出し、天井の明かりを見つめる。


"自分がすること"。


それは一体何?


"自分がしてあげたいこと"


それは一体何?


目の前に春香が居れば、次々と湧いてくるかもしれない。

笑わせるとか。

お話をするとか。

身だしなみを整えてあげるとか。

美味しいものを食べさせてあげるとか。
403 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:52:04.66 ID:pFf/ISIR0

「でも、そうじゃないの」


今、私がどうしたいのか。

今、私は何を考えているのか。


色々なものに、人に、助けられ。

色々なものを、受け入れて。


そんな今の私だから、すること。

そんな今の私だから、したいこと。


結果が実を結ぶなんて保証はない。

それでも。

私が心の底から、純粋にしたいこと。
404 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/12(木) 01:52:35.62 ID:pFf/ISIR0

あの時突き放してしまった、愚かな私が。

恥知らずだろうとも、あの子に伝えたいこと。

心に秘めた、一つの気持ち。


この気持ちが、春香に届きますように。


そのために、私はするの。

何かを、絶対に。
405 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/17(火) 15:44:46.28 ID:NTO24P15o
エタった?
406 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:18:25.69 ID:90dRlIqZ0

それから日々、悩むことが日課になった。


「千早、コーヒー飲むか?」


事務所の給湯室から漂う、香ばしい香り。


「ありがとうございます、プロデューサー」

「あまり根を詰めすぎるなよ」

「いいんです。何かしていないと、私も落ち着かなくて」

「……プロデューサー殿、千早に何か吹き込んだんですか?」

「こ、怖い顔するなよ」

「大丈夫よ、律子。別に嫌な悩みとかではないから」


ならいいけど、と。

煮え切らない声が、尖らせた口から小さく聞こえた。
407 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:19:26.01 ID:90dRlIqZ0

悩んではいる。

やきもきするし、時々いらいらもする。


けれど、嫌ではなかった。

悩むことが心地良い。

悩む度に前へ進む気がする。


そしてその悩みの答えは、そう遠くはない気がする。

きっと私は、もう知っている。

あとは私が、それに気付くだけなのでしょう。
408 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:19:53.59 ID:90dRlIqZ0

そして私は、夢の中で。

部屋で一人、すごろく盤を眺める。

セロテープで張り合わせたシート。

その向こうには、一枚の姿見。

そこに映るは、私の姿。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝わるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

言葉に合わせて、小さく動かす。
409 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:21:03.37 ID:90dRlIqZ0

いつか扉に巻き付いた鎖。

固く掴んで放さない南京錠。

それらは、もう無い。


けれど、扉の向こうからは誰も来ない。

こちらからも、開けられない。


「如月千早」


鏡よ鏡、鏡さん。


「この気持ちは、どうしたら春香に伝えられるかしら」


鏡に映った私が、口をぱくぱく。

口を、ぱくぱく。
410 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:22:46.01 ID:90dRlIqZ0

「っ!」


慌てて起きる。

目を覚ます。

時刻は深夜二時。


「……っはぁ、っはぁ……」


少し、息が荒い。

その動悸は、恐怖からではなく。


「ああ、そうね……」


冴えた頭が、私に答えを指し示す。

私が、すること。

考えてみれば、そんなことは最初から一つしかなかった。
411 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:25:18.58 ID:90dRlIqZ0

「プロデューサー、お願いしたいことが」

「お願いとは珍しいな」


翌日、事務所へ赴き開口一番。

事務所の視線が、私に集まる。


「で、なんだ?」

「春――」

「待て、悪い、電話だ」


私の想いを遮るように、小さな鳴動。

プロデューサーの携帯電話。


「はい、765プロの……ああ、これは……お世話になっております……」


会話から聞こえたのは、覚えのある名前。
412 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:33:33.73 ID:90dRlIqZ0

「千早さん、ちょっとムッとしてるの」

「そんなことないわ」

「ううん、してるしてる。でもそういう顔してくれるの、嬉しいな」

「じゃあ美希に話しかけられたら、いつもこういう顔しようかしら」

「ヤなの。千早さんのいじわる」


二人で小さく笑う。

この小さな幸せも、春香が居たから。

だから私は、伝えるために――。


「話し中に悪いな、千早」

「いえ、お仕事ですか」

「ああ。で、いきなりで悪いが」


プロデューサーも、小さく笑う。


「ムッとしてる機嫌直して、ついてきてくれないか」
413 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:34:21.72 ID:90dRlIqZ0

連れて行かれたのは、とあるスタジオ。

馴染みのある、小さな小さな収録スタジオ。


「お待たせしました」


プロデューサーがドアを開ける。

御足労頂き申し訳ない、と、その人は言った。

電話の主は、よく知る作曲家。

かつて歌った、幸福の象徴の歌。

それを、生み出した人。
414 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:34:50.09 ID:90dRlIqZ0

眩暈がした。


私の存在は、この人の"子"を貶めた。

私が関わらなければ、あの歌は今も世に愛されていたはずだった。

けれど今、あの歌が表に出ることは殆どない。

あれだけの歌が。

私が、殺してしまって――。
415 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:36:06.53 ID:90dRlIqZ0

「千早」


プロデューサーの声が、私の頭を止めた。


そうだ。

今の私には、過去を悔いる暇も資格もない。

全ては既に結果となってしまっている。

あれこれ考えたところで、何も好転はしない。


私はただ、作曲家の方が私を呼んだ理由を聞くだけ。

聞いて、謝罪でも何でも、誠意を尽くすだけ。


心を落ち着けて、改めて向き合った。

その時だった。
416 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:36:54.05 ID:90dRlIqZ0



"ずっと待っていた"。



今、なんて?

思わず、自分の耳を疑った。


聞き違いか何かだろうか。

隣に立つ、プロデューサーの顔を見る。

プロデューサーは笑って、前へ向き直るよう促した。

目の前に立つ人は、尚も言葉を続ける。


"如月千早のための歌を、贈るために"。


優しい笑顔で右手が差し出された。

一枚の、白いCD-ROM。
417 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:37:35.51 ID:90dRlIqZ0

震える手で、恐る恐る受けとる。

プロデューサーが音響機材の電源を入れる。


「聴かせていただくか?」


機材のランプが灯る。

私はおぼつかない手つきで、ディスクを入れるためのボタンを押す。

白いディスクをはめながら、遥か遠くのように思えるあの日を思い出す。

そういえばあの日、この人は確かに言った。

私のために、歌を書きたいと。
418 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:38:30.77 ID:90dRlIqZ0

「ずっと、気にかけてくださっていたんだ」


震える私の手を、プロデューサーの手が支える。

助けを借りて、ディスクは機材に呑み込まれた。

カラカラとディスクが回る音がする。

機材の左右に並ぶ、大きなモニタースピーカーへ顔を向ける。


「千早が立ち直ったら、どうしても渡したいものがある、って」


プロデューサーが、再生ボタンを押した。
419 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:41:17.75 ID:90dRlIqZ0


初めに聴こえたのは、ピアノの旋律だった。


優しく、私を抱きとめるような音が聴こえた。

暖かい音が、耳から全身へと伝わっていく。


「ダメです。この曲は」


私は、反射的にそう答えていた。


「ダメって、お前……」


プロデューサーが不意をつかれたような顔をする。

作曲家の方は表情を変えず、私をまっすぐ見つめる。


「この子は、ダメです」


こんなに優しくて、こんなに暖かくて。


「この子は、私のところなんかに来ては、ダメなんです」


こんなに、愛おしい子は。
420 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:43:20.16 ID:90dRlIqZ0

けれど、その人は迷わず答えた。

如月千早のところでなければダメだ、と。

その子は、如月千早に会うために生まれてきたのだ、と。


その時スピーカーから、産声を上げるように弦楽器が響いた。

私は、何も言えなかった。


「千早、歌えるな」

「……」

「歌って、くれるな?」

「……はい」


私はずっと俯いたままで。

顔を見られないよう、小さく頷くことしかできなかった。
421 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:44:00.37 ID:90dRlIqZ0

次の瞬間。

パチリ、と。

私の中で、ピースがはまる音がした。

機材の電源を落とすプロデューサーに、後ろから声をかけた。


「プロデューサー、さっき事務所で話そうとしたことですけれど」

「なんだ?」

「私、したいことが見つかったんです」


パソコンから取り出したCD-ROMを胸元に抱える。

大切に持ちながら、電話に遮られた話をする。


「へえ、何をしたいんだ」

「伝えたいんです、春香に」


さっき聴いた旋律を思い出す。

一度聴いただけなのに、脳裏から離れないメロディ。

それを思い浮かべるたびに、春香との日々を思い出す。

そして、彼女が最後に願ったことを。
422 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:44:26.69 ID:90dRlIqZ0

伝えたいんです。

私の気持ちを。


「だから、歌おうと思います」


きっと、今日の出会いは。

この子との出会いは、このために。


「そのために、お二人にお願いがあるんです」

「お願い?」

「この子の詞を、私に書かせていただけませんか」


二人は互いに、意外そうに顔を見合わせた。
423 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:45:10.39 ID:90dRlIqZ0

「私は、詞をうまく書けるわけではありません」


これまで筆をとったことは殆どない。

こんな素晴らしい歌に、そんな拙い詞を付けていいかも分からない。


けれど、これが一番の方法だと思ったから。

私の気持ちを届ける方法。

私の想いを、私の言葉で、私の歌で、全ての人に。

それが、春香が望んでいたことに、最も近づけると思った。

それが、春香との指切りに、最も近づけると思った。


「ご納得頂けるまで、何度でも書き直します」

「少しでも良くするために、どんな努力も惜しみません」

「だから……だから、お願いします!」
424 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:46:06.94 ID:90dRlIqZ0

「いやあ、千早は話が早くて助かるよ」

「え……?」


私の肩を、プロデューサーの手がぽんぽんと叩く。

下げていた頭を起こすと、目の前の二人はにこにこと笑っていた。


「実はもう一つ、ご依頼があってね」

「詞を、千早に書いてほしいそうだ」


プロデューサーの言葉に、初老近い作曲家の方は、少し皺を浮かべて笑った。

如月千早のための歌なのだから、如月千早の想いを込めてほしいと。


「奇しくも、お互いに同じことを考えていた、ってわけだ」

「いいんでしょうか、私で」

「たった今この口で、自分にやらせてくださいって言ったじゃないか」

「あぐ、あう」

「今更ノーは許されないぞ、千早」


プロデューサーが意地悪そうな笑みを浮かべて、私の両頬をぐっと押す。

不安を口にしようにも、まともに発音できなかった。
425 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:47:04.57 ID:90dRlIqZ0

プロデューサーの車で事務所へ戻る途中。

運転をしながら、プロデューサーが口を開いた。


「ああ、そうそう。千早の復帰ライブをやることが決まった」

「えっ!?」

「そのライブが、表立っての復帰後初仕事だ。気合入れろよ」

「あの、先ほどの歌は」

「そのライブでお披露目だ」

「……あまりにも、急では」

「千早が戻ってきてくれたのがみんな嬉しくて、ついつい張り切っちゃってね」


やや否定的な言葉とは裏腹に。

自分の心が、熱を帯びていくのが分かった。
426 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 16:47:34.07 ID:90dRlIqZ0

パズルのピースが、一つ一つはまっていく。


散々遠回りしてしまったけれど。

沢山の人に迷惑をかけてしまったけれど。


もう、迷わない。

私は、前へ進もう。


沢山の想いと共に。

私の想いと共に。


あの子が夢見た光景を。

あの子が願った光景を。


夢で終わらせないために。

私が、"する"ために。
427 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:27:18.09 ID:90dRlIqZ0

誰もが寝静まった頃。

私は一人、閉ざされた部屋にいた。


足元には、くしゃくしゃになった紙の山。

書いては捨て、書いては捨て。


「……自分の気持ちを表現するのが、こんなに難しいとは思わなかった」


自分以外誰もいない部屋でひとりごちた。

くすくすくす。

当然よね。

これまで私は、誰かに伝えるなんてこと、していなかったのだから。
428 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:29:32.86 ID:90dRlIqZ0

どれだけ書き続けていただろう。

投げ捨てた紙屑が何かに当たり、ころん、と音がした。


「あら、何の音かしら……」


筆を置き、我に返る。

すっかり固まってしまった身体を伸ばし、目線を上げる。

いつか固く閉ざした、重々しい扉。

その横に、人が通れるかどうかくらいの小窓があることに気付いた。


痺れる身体に鞭を打ち、立ち上がる。

小窓の中からは、何やら賑やかな喧騒が聴こえた。
429 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:30:10.33 ID:90dRlIqZ0

「ねーねー、千早お姉ちゃん。何書いてんの?」

「真美にも見せてよ!」

「ふ、二人とも肩に乗らないで……新曲の歌詞よ」

「えっ!? 千早お姉ちゃん新曲出すの!」

「あ、亜美、耳元でそんな大きな声……」

「ほんと!? みっせてみせてー!」

「ま、まだ全然できていないから」


やんちゃな二人に振り回されていると。

ふと、のしかかっていた二人の重さがなくなった。


「こーら、二人とも! 千早の邪魔しない!」

「ぎゃー! りっちゃん!」

「ごむたいなー!」


眉間に皺を寄せた律子が、二人を私から引き剥がした。
430 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:30:56.93 ID:90dRlIqZ0

「大丈夫よ、律子」

「そう? でも双子はさておき、手元は何やら行き詰ってるみたいじゃない」

「いざ歌詞を書くとなると……言葉ってなかなか出てこないものね」

「商用作詞なら兎も角、本当の想いを歌にするのは難しいわよね」


二人の襟をつかんだまま、律子は笑う。

掴まれた二人も、文句を言いつつ笑う。


「思ったことそのままずばーっと歌詞にしちゃえばいいじゃん!」

「亜美、それが出来たら千早も悩まないわよ」

「じゃあ真美も手伝う! 千早お姉ちゃんはどんな歌にしたいの?」

「どんな歌に……そうね」


私が歌詞に込めたいのは。
431 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:31:46.22 ID:90dRlIqZ0

「春香に教えてもらったこと……春香に伝えたいこと」

「千早お姉ちゃんってば、ほんとにはるるん好き好き人間ですなー」

「まぁた真美は人に勝手にあだ名付けて……」

「いいじゃん、りっちゃんはイチイチお小言さんすぎるっしょ」

「ふふふ、いいんじゃないかしら。あの子なら喜ぶわ」


はるるんなんて、あの子らしい可愛いあだ名。

誇らしげな真美を尻目に。

律子はため息をついてから、私を見た。


「なら、天海さんに会いに行ったらどう?」

「春香に?」


思いもよらぬ提案が、耳に飛び込んできた。
432 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:32:19.50 ID:90dRlIqZ0

「ここ最近、それに集中してて病院行ってないでしょ」

「言われてみると……」

「天海さんと会ってゆっくりすれば、少しずつ考えもまとまるかもしれないし」


確かに最近、あまり病院に行っていない。


「千早は一回悩むと、外に目がいかなるところがあるわよね」


私もだけど、と呟く声が聞こえる。


律子に言われて気付いた。

たまに会いには行っているけれど。

最後に春香とゆっくり向き合ったのはいつだっただろうか。

ノートを受け取った時?

みんなと涙を流した時?
433 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:32:56.40 ID:90dRlIqZ0

「亜美も行く!」

「真美も真美も!」

「何言ってるの、二人とも邪魔しないの!」

「えーっ!?」

「なんでー!?」

「あんた達、今までの話の流れ分かってた!?」

「ごめんなさい、二人とも。行ってくるわ」


ぽんぽんと二人の頭を撫でる。

二人とも口をへの字にしつつも、渋々納得したようだった。


「今度は亜美達も行くかんねー!」

「抜け駆けは許さないっしょ!」

「はいはい。その時は一緒に行きましょう」


もう、可愛い頬を膨らませて。

何気ない幸せを背にして、事務所を出た。
434 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:33:26.65 ID:90dRlIqZ0

春香の病室に入ると、思わぬ先客がいた。


「あら、千早ちゃん」

「あずささん、どうしてここに?」


小さな寝息をたてている春香の横で。

丸椅子に腰かけたあずささんが、にこにこと振り向いた。


「時々お見舞いに来てるのよ」

「お知り合いだったんですか?」

「うーん、お話ししたことはないけれど」


あずささんは頬に手をやり、考え込むように首を傾けた。
435 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:34:55.19 ID:90dRlIqZ0

「春香ちゃんは、私たちのことをよく知っているんでしょう?」

「はい」


私が事務所で感じたこと。

みんなと共有した感情や経験。

それらを全て聞いてきた春香は、もう一人の私と言ってもいい。


「それに、仲良くしたいと思って……くれていたのかしら?」

「……はい」


事務所のことを聞くたびに。

春香は自分もその輪の中に入りたいと思っていたのだろう。

夢のノートにもそんな日々を書き連ねて。


「みんなの話をするたびに、目を輝かせていました」


誰かが体調を崩せば心配して。

誰かが前に進めば両手をあげて喜んで。

まるで、自分自身の友達のことのように。
436 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:46:44.92 ID:90dRlIqZ0

「なら、今度は私たちがお話を聞いてあげないとね」

「きっと、春香ちゃんも話したいことが沢山あるんじゃないかしら」


あずささんは春香を見て微笑んだ。


「私たちのことをよく知っていて」

「こんなに辛い中で、私たちと仲良くしたいと思ってくれて」


あずささんが優しく春香の頬を撫でる。

慈しむように、優しく優しく。

春香を見つめるあずささんの目は、僅かに潤んでいた。


「私たちも春香ちゃんと、お友達になりたいの」

「というより、どうしてか他人には思えないのよ」

「ずっとずっと……一緒にいたみたいで」


あずささんがそう呟いた時。

病室の扉を、誰かがノックした。
437 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:47:16.70 ID:90dRlIqZ0

「入っても大丈夫ですか?」


確認してから恐る恐る入ってきたのは、萩原さんだった。

急須と湯呑が載ったお盆を持って。


「あ、千早ちゃんも来てたんだ」

「萩原さんも一緒だったのね」

「だって、あずささん一人だと……」

「あ、あら?」

「……ふふふ、なぁんて。私も春香ちゃんに会いたくて」


そう言って、三人で小さく笑った。
438 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:47:52.37 ID:90dRlIqZ0

「二人のお邪魔しちゃ悪いよね」

「そんな、気を遣わなくても」

「いいのよ。私たちも結構ゆっくりしちゃったから」

「このお茶、二人で飲んでね。それと……」


そう言って、萩原さんは鞄から小さな箱を出した。


「貰い物だけど、和三盆。すっごくお茶に合うから」

「ありがとう、萩原さん」

「春香ちゃんって、甘いもの好きかな?」

「好きだと思うわ、お菓子作りが趣味ですし」

「わあ……。だったら今度、和菓子も作ってくれないかな」


あれこれと妄想を膨らませる萩原さん。

ええ、きっと美味しい和菓子を作ってくれるわ。

自分のお菓子を萩原さんに食べてもらいたい、と言っていたから。
439 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:48:18.69 ID:90dRlIqZ0

「それじゃあ、私たちは行くね」

「千早ちゃん、また事務所でね」

「はい。あずささん、萩原さん、また」

「うん、またね。ってあずささん、入り口はこっちですぅ!」

「あ、あらあら〜?」


慌ててあずささんの服を引っ張る萩原さん。

ふふふ、どこであっても賑やかな事務所。

こんな中に春香まで増えたら。

それはそれは、きっと大変なことになるでしょうね。


「それじゃあ、萩原さんのお茶とお菓子をもらいましょうか」


春香に声をかけると、すぅすぅと返事があった。

全く、春香ったら寝坊助なんだから。
440 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:56:36.64 ID:90dRlIqZ0

あずささん達が開けたのだろうか。

窓から風が吹き込み、私たちの顔を撫でる。


「髪、乱れちゃったわね」


春香の前髪をかき分けながら、小さく笑う。


「私、今、詞を書いているのよ」

「なかなか自分の気持ちを言葉にできなくて」

「難しいのね、歌にするって」


お茶を一口啜る。

ほんのりと柔らかく。

茶葉の甘味が、口内に沁みた。
441 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:57:06.51 ID:90dRlIqZ0

「いっぱい、いっぱいあるのに」


湯呑みを持つ手に力が入る。


「あなたに伝えたいこと」

「あるのに、分からなくて」

「なんて歌ったら、この想いが伝えられるのか」


ペンを握りしめて。

紙を握りしめて。

それでも、あなたに伝えるコトバは出て来ない。

溢れかえりそうな想いも、その形を成さない。


「私、一人じゃ何もできないのね」

「あなたが一緒にいた時は、何でもできる気がしたのに」


あなたが、隣にいただけで。
442 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:57:32.19 ID:90dRlIqZ0

「高校で一人ぼっちになった時」

「夢の中で会った時」


初めてあなたに出逢った時のことを思い出す。


「あれからもう、随分経ったような気がする」

「あの頃は、あなたの名前すら知らなかった」


あなたはいつも、千早ちゃん、千早ちゃん、って。

楽しそうに私にくっついてきて。


「そしてあなたは、たくさんのものをくれた」


私に足りなかったもの。

私が欲しかったもの。

心のどこかで、私が望んでいたもの。
443 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:58:09.77 ID:90dRlIqZ0

「でも、皮肉ね」

「そんなあなたから沢山の言葉をもらったのに」

「いくら春香の名前を呼んでも、私の声は届かない」


こうして、手を握れるほど傍でも。

私の声は、彼女に届かない。


「届かないんじゃない」

「届けられない」

「あなたの名前を呼んでも」

「その後に伝えたい言葉が出て来ない」


どうして。

伝えたい気持ち、こんなにあるのに。

感情は波濤のように溢れかえっているのに。

それをコトバにしようとすると、泡沫のように消えてしまう。


想いとコトバが一致せず。

私の中で、奇妙な違和感がせめぎ合う。
444 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:58:36.36 ID:90dRlIqZ0

ピタリと、思考が止まる。


「痛っ……」


ピリッと、小指に刺激が走った。

見ると、小さく赤い筋。

湯呑みを置いて手を引っ込めた時、傍の紙で切ってしまったらしい。


「いたた……絆創膏、持ってたかしら」


鞄の中を探る。

絆創膏を探しながら、私はあることを思い出していた。


「そう言えば、指切り、したわね」


真美と。

そして、あの子と。
445 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:59:02.05 ID:90dRlIqZ0

「あの子……?」


見つけた絆創膏を貼りながら。

自分で、自分の言葉に疑問を抱いた。

あの子とは、誰のこと?


「誰って、春香でしょう」


今、目の前で眠っているこの子?

本当に?


「ええ、本当よ、何を言っているの?」


天海春香なんて子、ずっと知らなかったのに?


「そんなことないわ、私はずっと――」
446 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 19:59:49.24 ID:90dRlIqZ0

――違う。

そこまで考えて、はたと気づいた。


「私は今、誰に向けて詞を書いているの?」


天海春香という少女に向けて?

今、目の前で眠っているこの少女に向けて?


「違う」


私が想いを伝えたいのは。

目の前で眠る、この子だけじゃない。


あの日、泣きながら扉の向こうへ去ってしまったあの子。

ずっとずっと、私の名前を呼んでいてくれた。

名前も知らない、セミショートの髪の女の子。


「そうよ」

「私が想いを伝えたいのは、あなただった」
447 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/17(火) 20:00:24.50 ID:90dRlIqZ0

あの日、天海春香と言う名前を知って。

私は、その名前に囚われてしまっていたのかもしれない。


天海春香に、伝えなきゃ。


そう思いながら私は、病室で眠るこの子としか向き合っていなかった。

けれど、私の想いの奔流が向かう先は、今ここにはいない、あの子で。


私が、何よりも伝えたかった想いは。

あの日の指切りの先で。

あの日の涙を拭ってあげることで。


「そうだった、こんなに簡単なことだったのね」

「……大間抜けで、ごめんなさい」

「もう少し、待っててね」


私は椅子から立ち上がり、窓の外に目をやった。

夕日が、いつにもなく眩しく見えた。
448 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:00:09.30 ID:H5ZWumHa0

病院を後にして自宅へ帰る途中、真と美希に会った。


「やあ、千早。病院帰り?」

「ええ、お見舞いと悩み相談に」

「千早さん、悩み事があるの? ミキ、千早さんのためならいつでも力になるよ」

「ありがとう。大丈夫よ、歌詞を考えるのに行き詰ってただけだから」


不安げな美希が顔を覗き込んでくる。

こんな表情にさせてしまうことを申し訳なく思いつつも。

心配されることを少しだけ、嬉しく思う自分もいる。

安堵に綻ぶ彼女の表情は、その髪の色のようにきらめいていた。
449 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:00:47.53 ID:H5ZWumHa0

「二人は事務所からの帰りかしら」

「ううん、服だったりなんだったり、美希に色々教えてもらってたんだよ」

「真君とデートしてたの!」

「なるほど。お邪魔だったみたいね」


慌てて否定する真に、しな垂れかかる美希。

当たり前のような光景で笑えることが。

とてもとても、暖かくて。


「で、悩みは晴れたのかい?」

「お陰様で。今から帰って、考えをまとめるところよ」

「千早さんが頑張ってると、ミキ、なんだか嬉しいな」


三人での他愛ない会話。

自然に込み上げてくる笑い声。

しばらく忘れていた"生きている実感"が、心の中で優しく跳ねる。
450 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:02:10.64 ID:H5ZWumHa0

「千早さん、春香はまだ寝てるの?」


去り際、不意に美希が春香の名前を口にした。


「ええ。今日も会ってきたけれど……」

「むー……さすがのミキも、ここまでお寝坊さんじゃないよ」

「美希のはただの怠けじゃないか」

「違うの。個性って言ってほしいな」


そういって胸を張ってから、美希は口を尖らせた。


「千早さんも春香に、早く起きてって言っておいて。一緒に服買いに行かなきゃだから!」

「服を?」

「ここ数年、あまり買ってないんだって。若いコはおしゃれしなきゃなの!」

「プロデューサーが言っていたのかしら」

「天海さんのお母さんが教えてくれたんだよ。そしたら美希、張り切っちゃってさ」


聞くと、他のみんなも時々、春香のお母さんと会うことがあるらしい。

春香の存在が少しずつ、私たちの輪の中で当たり前になっていく。
451 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:03:44.26 ID:H5ZWumHa0

「っとと、あまり引き止めちゃうと折角まとまってきた考えが飛んじゃうかもね」

「それはダメなの! 千早さん、また事務所でね!」

「またね、二人とも」


手を振り、二人の後姿を見送る。

並んで仲良く歩いて行く姿に、いつかの自分とあの子を重ねる。


あの子がどんなに辛くても。

何を抱えていたとしても。

何を隠していたとしても。


あの時、二人で手を取り合って笑っていたのは。

隣り合って、背中を合わせて温もりを感じていたのは。

その時のココロは、決して嘘なんかではなくて。


あの子が願っていたこと、夢見たことは。

決して虚像などではなくて。


私が書くべきは、その肯定なのだ。
452 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:05:33.50 ID:H5ZWumHa0

書いては、捨て。

書いては、捨て。

相変わらず紙屑の山々が峰を成す。

しかし、昨日までとは決定的な違いがった。


「書きたいことは、決まった」


伝えたいメッセージの芯ははっきりした。

あとはそれを適切な言葉で表現するだけ。


「その、だけ、が難しいのよね」


昨日まではそもそも何について書くかで悩んでいた。

今度は、どの言葉を使うべきかで悩んでいる。


それはさながら、パズルのようで。

昨日までは白一色だったピースに、絵柄が浮き上がる。
453 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:06:26.95 ID:H5ZWumHa0

嬉しかったこと。

怒ったこと。

哀しかったこと。

楽しかったこと。


一つ一つ、思い出のピースを繋げていく。


家族との思い出。

独りの思い出。

春香との思い出。

事務所のみんなとの思い出。


言葉を掛け合わせて。

コトバを通い合わせて。

あの時、私が彼女に伝えるべきだったメッセージたち。

そして、自分に誓う、自分に捧げる、メッセージたち。
454 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/04/25(水) 18:07:48.64 ID:H5ZWumHa0

あの日閉ざした扉に、もう錠前はかかっていなかった。

けれども、この扉はまだ、私の部屋から出て行くだけ。

色彩豊かな世界へ、私一人が飛び出していくだけ。

この扉を開けても、あの子の部屋へは繋がらない。


私はまだ扉を開けない。

否定ではない。

退廃でもない。

諦観でも、悲観でもない。


ただ、"その時"を待っている。


私が開けるべき、その時を待っている。


この扉があの子の部屋へと続く、その時を。
455 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/04/25(水) 20:43:50.32 ID:a1sjFRziO
待ってた応援してます
456 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:47:32.38 ID:ok1qr9s30

「何をうだうだ悩んでるのよ」


事務所で、ルーズリーフに文字を書き殴っていた背後から。

やきもきしたような高い声が背中を押してきた。


「うじうじしてるからいつまで経っても進まないのよ」


振り向けば案の定、じれったいと言わんばかりの表情の伊織。

その後ろには、やれやれ、といった面持ちの我那覇さん。


「まずはバーッと書いちゃってから悩みなさいよ。全然進んでないじゃない」

「伊織、千早には千早のペースがあるんだからさ」


そう言いながら、我那覇さんは伊織の肩越しに私の目を見て、にやりと笑った。

その顔を見て、彼女の意図を察する。
457 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:48:33.79 ID:ok1qr9s30

「さすが我那覇さん、いいこと言うわ」

「伊織は自分勝手だからなー」

「いつの間にか人を悪者みたいにしてるんじゃないわよ!」


口を尖らせてぽかぽかと叩く伊織。

口先だけ痛い痛いと、楽しそうに笑う我那覇さん。


それを見ながら、私は紙に向かっているふりをして。

私はいつの間にか、こんな人になっていたんだと。

視界の端で、窓に映る自分を見て。

こんな風に笑うようになっていたんだと。

改めて、気が付いた。
458 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:49:26.34 ID:ok1qr9s30

「そこ、こういう言い回しもいいんじゃない?」


我那覇さんが私のペンを手に取って、紙の端にすらすらと記す。

書かれたフレーズを、頭の中で反芻する。

あれほど思い悩んでいた空間に、空気が漏れる隙間もないほどぴったりと収まった。


「へぇ……やるわね、響」

「へっへーん、こう見えて自分、本とか結構読んでるからな!」

「我那覇さん……こう見えて、とか自分で言うことなのかしら」

「人からどう見られてるのか、自覚はあるみたいね」

「……あれ? 今度は自分がいじられてるのか!?」


先ほどとは立場が変わって、伊織がお腹を抱えて笑う。

釣られて私も、声を出して笑う。
459 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:50:14.84 ID:ok1qr9s30

自分の歌として、春香へのメッセージとして。

自分の力だけで書き切らなければならないと、少なからず考えている自分がいた。


「そんなことないわよ」


伊織の返事。

思わず考えが口から漏れていたらしい。

慌てて口を塞ぐと、今度は私が二人に笑われる番だった。


「いいじゃない、本当に伝えたい、大切なことさえはっきりしてれば」

「最後の最後に、千早が本当にいいと思える言葉が連なれば、それでいいと思うぞ」


まだまだ頭が固い、と小突かれる。

これでもだいぶ柔らかくなったつもりなのだけれど。

でも、背負い込みやすい悪い癖が、また出ていたのかもしれない。

自分一人で抱え込む日々は、もう終わったのに。
460 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:52:03.07 ID:ok1qr9s30

伊織と二人で、これまで書いた詞を読んでいると。


「千早を手伝いたいってだけじゃなくてさ」

「自分が春香にできることって、これくらいしかないから」


我那覇さんがぽつりと呟いた。

その表情は、微笑みと、憂いと、切なさと。

色んな感情が混ざった、不思議なものだった。


「千早が春香に伝えたいこと、ちょっと分かる気がするんだ」

「でしゃばるなって言われるかもしれないけど」

「自分もさ、それでいいんだよ、って、言ってあげたくて」


表情の中に切なさが増す。

少し顔を俯けて、我那覇さんの肩が微かに震えた。
461 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/05(土) 04:53:09.94 ID:ok1qr9s30

静かに我那覇さんを抱き締める。

その身体は肩と同じように、小刻みに震えていた。


「辛くても、怖くても、精一杯頑張ろうとして」

「そんな春香の想いが、間違ってるわけないって」


そうよね、本当に、本当に。

そんな私の思いも、我那覇さんに伝わって。

私を抱き返す我那覇さんの腕に、力が入って。


「当たり前じゃない、そんなこと」


文字に起こせば、いつも通りのぶっきら棒な言葉。

でもその声色は、泣く子をあやす、優しい音色。


「絶対に、間違いなんかじゃない」

「間違いにさせちゃ、いけないでしょう」


自身の胸にも染みこませるように。

伊織は、小さく小さく囁いた。
462 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/12(土) 20:53:55.64 ID:UwCpiQvo0

私は書き連ねる。

春香に伝える言葉を。

私は筆を走らせる。

自分への誓いを記すために。


悩みながら、戸惑いながら。

それでも、自分がしたいことを。


使命ではなく。

義務ではなく。

作業ではなく。

仕事ではなく。


私が、したいから。

私が、するから。
463 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/12(土) 20:58:38.63 ID:UwCpiQvo0

消しゴムで消す。

シャープペンシルで書く。

ふと逡巡して手が止まる。

書いたばかりの字をぐしゃぐしゃと書き潰す。


幼子が初めて歩こうとするみたいに。

誰に命じられたわけでもないのに。

転んで、泣きながら、それでも歩こうとする。

立ち上がろうとする。

私の筆は、まさにそれだった。


言葉が現れる度、様々な思い出が過ぎる。

その度に、笑みが零れる。

涙が零れる。


日記を書く春香も。

こんな気持ちになることが、あったのかしら。
464 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/12(土) 21:08:12.80 ID:UwCpiQvo0

「千早さん、コーヒー飲みますか?」

「ありがとう」


高槻さんに差し出されたマグカップ。

私の手には、少し熱い。


「だいぶ書き上がってきたようですね」


おっかなびっくりコーヒーを受け取ると。

隣からは、四条さんの声。


「ほんとだ! いっぱい書いてあります!」

「ええ、あと少し」

「楽しみですね、完成が」


私が書いたフレーズを、高槻さんの指が楽しそうになぞる。
465 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/12(土) 21:16:39.30 ID:UwCpiQvo0

少しの気恥ずかしさと、僅かな誇らしさ。


「今迷われている部分、このような言葉ではどうでしょうか」

「そうですね、確かにしっくり来ます」


四条さんの言葉を受けて、一言書き加える。

我那覇さんにアドバイスを受けてからは、みんなからも時々助言をもらう。


単に参考になるというだけでなく。

私は一人じゃない。

私一人の身勝手な想いじゃない。

そう、みんなが肯定してくれている気がして。

春香のことも、肯定してくれている気がして。


みんなが傍で笑ってくれる度に。

私の胸は、ぽかぽかと暖かくなるのだ。

これはきっと、高槻さんがくれたコーヒーのためだけじゃなかった。
466 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:13:43.05 ID:D6l+5lRj0

「ライブのお客さん、一体何人くらい来るかしら」


会場のキャパシティは三千人ほどと聞いている。

千人か、百人か、十人か、一人か。

それが何人であろうとも。

その日、そこにいてくれる人は、ずっとずっと私を待っていてくれた人。

こんな私のことを、心に留め続けていてくれた人。


「きっといっぱい、いーーっぱい来ます!」

「みんなみんな、千早さんのことを待ってたんですから!」


高槻さんが両手を広げてぴょんぴょんと跳ねる。

いっぱい来てくれるかしら。


一人でも多く来てほしい。

私のことを考えてくれていた人に、一人でも多く謝りたい。

そして春香だけでなく、一人でも多くの人に伝えたい。

私の、決意を。
467 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:14:09.22 ID:D6l+5lRj0

「さて、私は雑誌を読むことにいたしましょう」


くすりと笑って、四条さんが手元の本に目を落とす。

その意図を察して、高槻さんがあわあわと慌てながら言い繕う。


「あっ、えっと、その、あの、お掃除! お掃除するんでした!」


話している間、私の手が止まっていたことに気付いて。

そんなこと、気にしなくてもいいのに。


「ふふふ、ありがとう」


聞こえないかもしれない音量で、小さく呟く。

ちらりと視線をやると、二人とも小さく笑っていた。


コーヒーを一気に飲み干す。

カフェインが、頭の中の霧をまたたく間に散らしていった。
468 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:14:40.08 ID:D6l+5lRj0


書く。

消す。

書く。

消す。

書く。

書く。

消す。

書く。

書く。

書く。

消す。

書く。

書く。

書く。

書く。

書く……。

469 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:18:12.45 ID:D6l+5lRj0


筆を走らせる手から、徐々に迷いがなくなっていく。

積み重ねてきた時間が、形のない想いに追いついていく。


「結局、最初から私にはこれだけだったのかもしれないわね」


そして私は、筆を置いて。

想いを書き終えた紙を片手に、私は扉の前に立つ。

扉に画びょうで貼り付けられた、すごろくの紙。


「もう少し、もう少しだけ待っていてね」


紙を右手で撫でながら。

その奥の扉の、更に奥に手を伸ばしながら。


「今、届けに行くから」


右の拳を握り締める。

中に、硬く四角い感触。

その拳の中には、ひとつのさいころが握られていた。
470 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:20:53.69 ID:D6l+5lRj0

「歌詞、書けたんだって?」


レッスン場に向かう前、事務所に立ち寄るとやや不安そうな面持ちのプロデューサーがいた。


「ご心配をおかけしてすみません、ですがお陰様で、納得のいくものが書けました」

「それはよかった、けど……本番、大丈夫だよな?」


プロデューサーがカレンダーに目をやる。

ライブの日までは、もうあまり長くはない。


「大丈夫、だと思います」

「お、思います?」

「今からレッスン場で、初めて通しで歌うんです」


私の答えに、プロデューサーの表情がみるみる暗くなる。
471 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/05/31(木) 01:21:07.20 ID:TBD3uf/3O
蘭 子「混 沌 電 波 第170幕!(ち ゃ お ラ ジ第170回)」
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1527503737/
472 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/05/31(木) 01:26:04.60 ID:D6l+5lRj0

「ほ、本当に大丈夫なんだよな? 場合によっては――」

「大丈夫です」


言葉を阻まれ、プロデューサーの身体が固まる。


「プロデューサー」


改めて声をかけると、再びプロデューサーの身体が時間を刻みだした。


「今から少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「今からか……うん、二時間くらいなら」

「でしたら一緒にレッスン場へ。聴いていただくのが、一番早いと思いますから」


少し怖い、でも大丈夫、いやしかしやはり少し怖い、でもでも。

プロデューサーの表情が、そんな様子でころころと変わる。


「分かった、じゃあ、行こうか」


プロデューサーは最後に小さく、よし、と覚悟を決めるように呟いた。
473 :sage :2018/06/01(金) 22:25:00.43 ID:S9YwWX1m0
面白い
474 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/06(水) 23:53:49.85 ID:t5R96Tej0

レッスン場には二人きり。

人が少ないレッスン場は、音が響く。

自分の声出しが小さなこだまのように聞こえる。


「この光景、久しぶりだな」

「プロデューサーに来ていただくのは本当に久しぶりですね」


レッスン場に、プロデューサーと二人。

以前、何度も見てきた光景。


また、この当たり前だった光景を目にできることが。

諦めていた奇跡の景色にも見えて。
475 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/06(水) 23:57:55.73 ID:t5R96Tej0

「声もだいぶ戻ったみたいだな」

「八割方、といったところでしょうか」

「やっぱり千早はすごいな、この短期間で」

「トレーナーさんのお陰です」


力量はかつてに及ばずとも。

今の私の声は、これまでの人生で最も伸び伸びとしている。

あー、あー、と声を出すだけで。

ココロが確かに満たされていくのが分かる。


プロデューサーの表情にも、先ほどの暗さはない。

幾度となく見てきた、いつもより少し険しい、仕事の顔。


「それじゃあ、準備はいいか?」


プロデューサーはしゃがみ、足元のプレイヤーに手を伸ばす。


「はい、いつでもどうぞ」


カチッと、ボタンが押される音が聞こえた。
476 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:11:02.81 ID:2wO2LAJL0

ピアノの旋律が聴こえる。

つい先日届いたばかりだという、本番用の音源。

以前聴いたテスト音源ではない。


視覚を断ち鋭敏になった聴覚に、音が響く。

生の音が。

生きた音が。

指先から二の腕を伝って肩へ。

足先から脛、太股を伝ってお腹へ。

腰から背筋を伝って、首筋から頭のてっぺんへ。

ピアノの弦が弾けるたびに、つつぅっと音が登っていく。


目を開くと、正面にプロデューサーがいた。

目と目が合う。

私は、微笑んで。


静かに、口を開いた。
477 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:23:18.65 ID:2wO2LAJL0


歌を口ずさみながら。


私は、短くも長いこれまでの十数年を。


一人、旅していた。

478 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:28:46.25 ID:2wO2LAJL0

距離にして十数年。

時間にすればあっという間の数分。

小さな旅を終え、目を瞑って息をつく。


「プロデューサー、いかがでしたか」


返事はない。

薄らと目を開けると。

柔らかく微笑みながら、一筋の涙を流すプロデューサーがいた。

余韻を噛み締めるように間を置いてから。


「何だか、懐かしいな」


隠そうともせず、目元をハンカチで拭う。


「聴きながらね、いつかの合唱コンクールを思い出したよ」

「懐かしいお話ですね」

「ああ、あの時もこんな風に泣いてしまったんだった」

「それは初めて聞きました、そうだったんですか?」

「男の口からは、あんまり泣いた話はできないもんだよ」


そう言って笑ってから。


「でも、あの時よりずっとずっと、優しい歌だった」


私の頭をくしゃくしゃと撫でた。
479 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:31:20.62 ID:2wO2LAJL0

「心配は杞憂だったな」

「でしたら、何よりです」

「とはいえ、まだ改善の余地はあるな、まず……」

「あ、ちょっと待ってください」


仕事の頭に切り替わったプロデューサーを制して。

私は、出口に歩み寄る。


「どうしたんだ?」

「いえ」


ドアを開ける。

と、ばたばたと何かが次々に倒れ込んできた。


「子猫が迷い込んでいたようなので」


我ながら意地の悪い笑みを浮かべつつ足元を見ると。

あっ、という表情で固まっている子猫が、何匹か転がっていた。
480 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:35:14.89 ID:2wO2LAJL0

「おやおや、これはこれは」


プロデューサーも笑みを浮かべて歩み寄る。


「ドアの向こうから、何やらガタゴトと音が聞こえたもので」


そう言って二人で笑っていると。

足元から不満げな鳴き声が聞こえてきた。


「うがー! だって千早、水くさいぞ!」

「千早さんが一生懸命書いた歌、ミキ達だって聴きたかったの!」

「亜美達にナイショで、兄ちゃんだけずっこいよ!」

「私は別にズルいなんて思ってませんけど、ちゃんと把握しておく義務がありますから!」


我那覇さんに美希、亜美に律子。

四人が、ひっくり返ったまま文句をたれていた。
481 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 00:55:38.04 ID:2wO2LAJL0

「ちょっと面白い四人組だな」

「律子まで一緒になって……」

「わ、悪い!? 私だって気になるものは気になるんだから!」

「それに四人だけじゃなかったの」

「さっきまでみんないたんだぞ」

「でもスタコラサッサーって逃げちったんだよ」


矢継ぎ早にあれやこれやと弁明されて。

流石の私も、思わず声を出して笑ってしまった。


ああ、ここだ。

ここが、私の居場所だ。


笑いながら出てきた涙。

拭いたくない涙というものもあるんだと。

この事務所が、みんなが。

初めて教えてくれたんです。
482 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 02:28:03.49 ID:2wO2LAJL0


想いを形にして。

ココロを歌に変えて。


準備は整った。

あとは、その日を迎えるだけだ。

483 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 02:40:17.72 ID:2wO2LAJL0

復帰ライブが決まった当初。

世間の反応はそれぞれだった。

音楽誌、スポーツ紙、ゴシップ誌。

ニュース、バラエティ、ワイドショー。

幾度かそれなりに取り上げられたものの、思ったほど加熱はしなかった。


世間の労わりのお陰か。

業界でややタブー視されていたせいか。

私達が静かで冷静で、面白味がなかったせいか。

最初こそ一時話題になったものの。

それ以後、準備期間に事務所からの続報がないと、報道は沈静化していった。


それに、今回はファンクラブ限定のライブということもある。

野次馬もし辛かったのかもしれない。
484 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:02:34.30 ID:2wO2LAJL0

しかしライブ本番が近づいてくると、世間も再び、俄かに色めき立ってきた。

増える話題は勿論、いいものばかりではない。


「でも、思った以上に落ち着いているものね」


事務所でカレンダーをなぞりながら、一人ごちる。


自分でも意外なほど。

かつて他人の一言一行で取り乱していたのが嘘のよう。

自分の中に柱となる信念があるだけで、こうも変わるものだったか。

過去の自分はそれほどまでに、足場もおぼつかない不安定の中だったか。


そう思っていた時、事務所のドアが開く。


「ごめんね千早ちゃん、待たせちゃったかしら」

「いえ、お忙しいところすみません、音無さん」


そう言って音無さんの手にある、イラスト入りのビニール袋に目をやる。

照れ笑いを浮かべながら、音無さんは袋を慌てて背中に隠した。
485 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:13:04.18 ID:2wO2LAJL0

「招待席のチケット、でしたっけ?」

「一枚いただけませんか、自分で渡しに行きたくて」

「ええ、大丈夫よ。元々プロデューサーさんに持っていってもらうつもりだったから」


事務机の引き出しを探り、音無さんはチケットの束を取り出す。

輪ゴムで束ねられた中から一枚を抜き取り、封筒に入れてくれた。


「はい、どうぞ」

「ありがとうございます。あと……もう一つ、お願いしていいでしょうか」

「何かしら?」

「私の両親にも、招待券を送っていただけませんか」


私の申し出に、音無さんの目が丸くなる。

そしてにっこりと笑って、何度も頷いた。
486 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:15:56.85 ID:2wO2LAJL0

「分かったわ、お姉さんに任せて!」

「お手数をおかけします、これが住所です」

「はい、確かに承りました」


封筒を受け取り、代わりに住所を書いたメモを手渡す。

音無さんは二つの住所を何度も何度も確認しながら。


「間違いが絶対にないように、直接ご両親にお持ちするわね!」

「あの、そんなに気合を入れていただかなくても……」

「不肖、音無小鳥! 765プロ事務員の名にかけて、絶対にやり遂げますからね!」


ふんふんと鼻息荒く、音無さんはスケジュールをチェックし始めた。

そんなやり取りにも、思わず笑みが込み上げる。


頼ることがこんなにも喜ばれるのも、初めての経験で。

年相応にもっと大人を頼ろうかな、と。

改めて思った。
487 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:27:44.54 ID:2wO2LAJL0

事務所を後にして、目的の場所へ向かう。

西日になりかけた光が顔を刺す。


学校帰りの子ども達が、わいわいはしゃぎながら走り抜ける。

楽しそうな声を聞きながら。

もしかしたら、私とあの子もこんな日を送っていたのかもしれないと。

有り得ない過去に想いを馳せる。


けれど。


有り得なかったから、あの子はそこにいて。


有り得なかったから、私はここにいて。


有り得なかったから、あの子は眠っていて。


有り得なかったから、私は、歌うのだ。


人生に"たられば"は、ある。

でもそれは想像の、もしもの世界だけで。

この世界には、どこにもない。


この世界には、歩んできた、確定した過去と。

何も見えない、何も決まっていない未来しか、ないのだから。
488 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:35:12.79 ID:2wO2LAJL0

白いリノリウムの廊下を歩き。

私は、いつものようにあの子の部屋へ行く。


「春香」


歩み寄り、そっと頬を撫でる。

春香の寝顔は、ただただ感情なく穏やかで。


「これ、受け取ってもらえるかしら」


枕元に、一通の封筒。

いつかのあなたへの答えを。

あの日答えられなかった答えを、持ってきました。


「どうか聴きに来てね」


それだけを済ませ、私は踵を返す。


「あなたの願いへの返事を」


私の声に応える者はいない。

けれど私は迷いなく、春香の部屋のドアを閉めた。
489 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:41:08.48 ID:2wO2LAJL0



歩んできた、確定した過去も。

何も見えない、何も決まっていない未来も。

いつだって私は、何一つ選択なんてしなかった。


見えない、決まっていない未来を選択することなんて出来ない。

私はただ、未来へ向かって歩むことしかできない。


何度も思った。

さいころを振らなければ、と。


なら、振らなければ良かったの?

振らなければ、私の未来は輝いていたの?


振らなければ春香は、元気に歌っていたの?

振らなければ私は、家族で仲良く手を取り合っていたの?


これまでの私達の過去は。

私達のすごろくの、選択の失敗の結果だったのですか?


490 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:51:15.99 ID:2wO2LAJL0

「じゃあ楽しかったことは、嬉しかったことは」

「私が素晴らしい未来を、一つ一つ着実に選び取った結果だというの?」


馬鹿馬鹿しい。

何て愚かな考えなのだろう。


「私はそんな上等な人間じゃない」

「人間はそんな上等な命じゃない」


そんなことができるのなら、最初からずっと、そうしているでしょうに。


私も、誰も、選択なんてしてこなかった。

ただひたすらに、歩んできただけなのだ。

雨ニモマケズ。

風ニモマケズ。

ただひたすらに、愚直に、命を歩んできただけなのだ。


選択なんてものは、最初からなかったのだ。
491 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/07(木) 03:53:30.03 ID:2wO2LAJL0



いや、一度だけ。


たった一度だけ、誰もが選択しているのかもしれない。


たった一度だけ――。


492 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:08:04.92 ID:lsNzXGhZ0

久しぶりにのんびりと。

時間をかけて、家へ向かった。

次第に陽は落ちていって。

いつしか辺りは暗くなっていた。


「あ」


そんな空に、星の瞬き。

夜空の星など、もう随分見ていなかった気がする。


「綺麗……」


暗くなるにつれて。

ぽつり、ぽつり、と。

星は、少しずつ増えていく。
493 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:11:10.58 ID:lsNzXGhZ0

その光まで。

少し背伸びをすれば、手が届きそうで。


「ん、しょ」


なんてことは子どもの夢見だとは分かっているのだけれど。

それでも、つい、背伸びをしてしまう。

背筋を伸ばし、腕を伸ばす。

天に煌めく光は、私に優しく囁きかける。

その声が、少しくすぐったい。


「あの星を、胸元に引き寄せて」


手の平に集めた、光る願いが。


「前へ前へと、進みましょう」


行く先を照らす光と、なりますように。
494 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:16:00.41 ID:lsNzXGhZ0


扉には幾重にも南京錠。

空には幾千、幾万の輝き。

透明な部屋に、夜が来る。

その夜を眩しい輝きが照らし出す。


「流れ星」


きらり、と。

願い事を唱える間もなく燃え尽きる。

それが。

一つ。

二つ。

次々に線を描いて、流星群が降り注ぐ。


「おいで、ここまで」


一筋の光が飛び込んでくる。

私は手を伸ばして。

それを、手の平でそっと包んだ。

495 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:22:43.78 ID:lsNzXGhZ0


暖かい。

光が眩しい。

目を細めて、それでも手の平を覗き込む。


小さな鍵が、一つあった。


その鍵を、扉を固く閉ざす南京錠に差し入れる。

それを、ゆっくりと回すと。


かちゃり。


「開い、た」


南京錠が足元へと落ちて。

同時に鎖が、じゃらじゃらと音を立てて姿を消す。


鎖と鍵が、一つなくなった。

496 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:28:46.85 ID:lsNzXGhZ0


「まだ足りないの」

「もう少し、私に光を」


また、一つの流星が流れ落ちる。

私はそれを落としてしまわない様に。

壊してしまわない様に。

優しく、両手で受け止めた。

受け止めた手には、一つの鍵。

光り輝くその鍵を、再び差し込むと。


かちゃり。


これまで閉ざし続けてきた頑強さはなんだったのかと思うほど。

二つ目の南京錠も、事も無く落ちた。

497 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:32:59.43 ID:lsNzXGhZ0


「私が、弱かったから」


かちゃり。


「私に、勇気がなかったから」


かちゃり。


「私が、大馬鹿だったから」


かちゃり。


「鍵なんて」


もう、南京錠はない。


「最初は、かかっていなかったのにね」


目の前の扉は、ただの、普通の扉だった。

498 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/06/21(木) 23:33:44.30 ID:lsNzXGhZ0


北天で星が螺旋を描く。

いつかプラネタリウムで見た、天球の動き。

天を仰ぎ見る私の内は、これまでになく晴れやかだった。


「もう、遮るものは何もない」

「あとは、私が前へ踏み出すだけ」


いつしか、扉もなくなっていた。

眼前にあるのは、大きな大きな硝子張りの窓。

窓の向こうに、広い広い世界が見える。


そして、その世界の最奥に。

地平線に消えゆきそうな、ずっと遠くに。


とてもとても懐かしい。

一人で寂しく泣いている。


後姿が見えた。

499 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/07/21(土) 02:05:43.09 ID:2Qt8X/fd0
早よ
500 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/07/23(月) 11:31:20.33 ID:tsfln00MO
待ってるぞ
501 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:30:15.32 ID:4SieE7ha0


こんこん、と。

窓をノックする。


「春香」


こんこん、と。

ノックをするが、返事はない。


「そうよね、こんなに遠くじゃ届かない」


窓に手の平を当てる。

ひんやりと冷たい、最後の壁。


「あそこまで行かなきゃ」


それが、私と、彼女との。

502 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:30:41.23 ID:4SieE7ha0


右の拳を握る。

手の中には、硬い感触。

角々とした握り心地が、私の心を奮い立たせる。

私の心を沸き立たせる。


かつては恐れの象徴であった。

でも今は、意識すればするほど。


すること。

向き合うこと。

進む道筋。

進む行き先。


私の"意志"が、燦然と輝く。

503 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:31:07.54 ID:4SieE7ha0



私は、歩くんだ。


そして、あなたも。


504 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:32:23.67 ID:4SieE7ha0

「千早、もうすぐ着くぞ」

「……ぁ」


静かに体を揺すられる。

うっすらと目を開く。

どうやら社用車の中のようだった。


「ぐっすりだったな、疲れが残ってるのか?」

「いえ、車の揺れが心地良かっただけです」
505 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:32:54.44 ID:4SieE7ha0

ライブ当日。

会場に向かう車内は、本番前とは思えないほど穏やかだった。

隣に座るプロデューサーは、スケジュール表を片手に笑った。


「変な緊張もないみたいだな、いいコンディションだ」

「プロデューサー殿の方が緊張してるんじゃないですか?」

「そ、そんなこたあない、うん、ないとも、うん」

「……ふふっ」


運転席から律子の茶化し声が聞こえる。

空調が効いた車内で、プロデューサーは半笑いで冷や汗を拭った。

思わず、笑いが込み上げる。
506 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:33:26.05 ID:4SieE7ha0

窓の外に、会場となるライブハウスの壁。

駐車場へ向かい、外周を回るのが、とても懐かしい。


「もうすぐ歌うんですね」

「そうさ、この箱の中を、千早で満たしてくれよ」


みんな、この日を待ってたんだから。

そんな期待をぶつけられても。

プレッシャーは感じなかった。

あるのはただただ、郷愁のような淡い想い。


「……プロデューサーの仕事って、担当アイドルを脅すことなんですか?」


律子がバックミラー越しに睨む。


「ち、違う違う、そんなつもりじゃなくて、す、すまん千早!」

「ふふふ、分かってますよ」


窓ガラスに映る自分の表情は、驚くくらい柔らかだった。
507 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:35:02.74 ID:4SieE7ha0

駐車場から入ると。

出迎えてくれたのは、会場内に並ぶ祝花。


こぢんまりとした楽屋。

ステージ裏に並ぶ音響機器と、乱雑に転がる養生テープ。

リハーサルに向け、スポットライトの点検をするスタッフ達。


観客の入場前だが、雑然とした人の気配で満ちる会場。

まさに舞台裏といった空間の何もかもが懐かしい。


また、戻ってきたんですね。


「……いえ、まだ戻ってはいない」

「ファンの前で、ステージに立って」

「マイクに向かって声を出す、その瞬間が−−」


その時を想うだけで、胸が熱くなる。
508 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:35:30.03 ID:4SieE7ha0

先に会場に向かうため、事務所を出るとき。

みんなはシンプルな一言で送り出してくれた。


やっちゃえ、と。


頑張れではなく。

負けるなでもなく。

ただ、一言。

私に全て任せると。

私なら何も心配ないと。

ただ、やりたいようにやれと。

みんな、笑って送り出してくれた。
509 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:36:42.17 ID:4SieE7ha0

観客エリアの中央に立ち、ステージをぼんやりと眺める。


活動休止前、ライブに慣れてからは。

いつも目まぐるしいスケジュールの中、時間ばかり気にしていて。

こんな気分でリハーサルを待つことはなかった。


初めてステージに立ったとき。

あのとき以来かもしれない。

シンデレラが舞踏会に足を踏み入れるときのような。

夢見る少女が、憧れに触れる感情。

そんな初な香りが、夢見心地の私を包んだ。
510 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2018/08/20(月) 03:37:27.71 ID:4SieE7ha0

と、スタッフから声をかけられる。

マイクテストをお願いします、と。


ふと我に返り、今までの自分が少し気恥ずかしくて。

誰かに恥ずかしいところを見られていやしないかと。

ついついプロデューサーの姿を探すと目が合って。

そんな心の内を察せられていたのか、プロデューサーは笑う。


「は、はい、今行きます!」


恥ずかしさを隠すように、私は大きく返事をした。
511 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/08/21(火) 16:34:56.39 ID:y59RPcZy0
待ってた
512 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2018/10/20(土) 14:20:25.84 ID:Gcr228rHO
待ってるぞ
513 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/10/20(土) 22:40:55.32 ID:UIIxJveLo
掲示板が復活したので近々再開します。
恐れ入りますがもうしばらくお待ちください。
514 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/20(木) 18:09:37.54 ID:L4hLLrc2o
書き進めてはいるのですが年末作業も立て込んでいてもう少しかかってしまいます。
すみません。
515 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/12/27(木) 15:10:48.18 ID:o19Kp0nd0
ゆっくり待ってるから、自分のペースで書いてくれ
516 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/02/21(木) 19:34:32.24 ID:qkoYkexaO
今月中に投稿できそうです。
取り急ぎご連絡まで。
517 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:28:29.16 ID:aItq5mi3O

リハーサルはまだ、どこか夢現で。


声は出る。

身体も動く。

大勢のスタッフの安堵の視線も感じる。


でも、これはただのリハーサルでしかない。

普段の練習と変わらない。


あと二時間もして、視界にファンが立ち並んで。

そのとき初めて。

私は私でいられるのか。


それが、分かるのでしょう。
518 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:29:10.67 ID:aItq5mi3O

マイクテストも、リハーサルも済んで。

準備はつつがなく進んでいく。

会場の外からは、人々のざわめきの気配を感じる。

入場が始まったようだ。

あとはただ、始まりを待つだけだった。


「お、みんなも着いたみたいだな」


スマートフォンを覗きながら、プロデューサーが言った。

言われずとも、暖かい気配を感じていた。
519 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:29:47.16 ID:aItq5mi3O

『ねえ千早、私たち、本当にいなくていいの?』


昨日、律子に心配そうに声をかけられた。

大丈夫です、きっと私は、大丈夫ですから。


『不安そうな言い方とその表情、全く噛み合ってないじゃない』


律子が笑いながら言った。

横の窓をちらりと見ると、朗らかに笑う、長髪の横顔が映っていた。
520 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:30:26.18 ID:aItq5mi3O

『そんなドヤ顔ができれば心配いらないぞ!』


……そんなに、ドヤ顔かしら。


『ねね、ひびきん、ちょっと笑ってみて』

『え、亜美、どうして?』

『いいからいいから』

『こうか?』

『ひびきん、それをドヤ顔って言うんだよ』

『ど、どういう意味さあ!』


吹き出すのをこらえきれなかった。

どうも最近、笑いの沸点が低くなった気がする。
521 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:31:12.66 ID:aItq5mi3O

私は、大丈夫だから。

みんなはどうか、待っていてほしいの。


『分かったわ、任せて頂戴ね、千早ちゃん』

『ボクたちは表にいるから、千早は歌にバッチリ集中して!』


あずささんと真に続いて、みんなも口々に心強い言葉をくれた。


そんな、みんなの言葉があったから。

あとは、自身の不安と過去と戦うだけ。

打ち勝って、いつものように、歌うだけだから。
522 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:34:40.39 ID:aItq5mi3O

開演五分前です。

そんなスタッフの声が聞こえ、我に返った。


「千早、ぼーっとしてたけど大丈夫か?」

「すみません、ちょっと昨日のことを思い出していて」

「戦意昂揚の小鳥踊りか?」

「その前です」


まだ明るいステージ下からは、ファンのざわざわ声が聞こえる。

心地良い。

そう感じているのを自覚したとき。

ああ、もう私は、大丈夫だ。

そう思い、再び笑みがこぼれた。
523 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:35:20.75 ID:aItq5mi3O

そして、照明が落ちた。

目を閉じる。


身体に張り付く衣装が心地良い。


外から響くファンの歓声が心地良い。


肩をポンと叩くプロデューサーの手が心地良い。


床から伝ってくる会場独特の振動が心地良い。


さあ、行こう。


私は真っ暗なステージの中央へと、歩を進めた。
524 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:36:46.90 ID:aItq5mi3O

ヘッドセットから声が聞こえる。

数秒したら、開幕の狼煙が上がるのだ。


過去の私よ、さようなら。


舞台の中央でもう一度、私は静かに、目を閉じて。


五。

四。

三。

――。

息を吸って。
525 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:37:48.84 ID:aItq5mi3O


照明が会場を照らすのと。


私が声を張り上げるのは同時で。


そしてすぐ。


ファンの歓声が、私の世界いっぱいに響き渡った。

526 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:38:20.35 ID:aItq5mi3O


――――――――――

――――――――

――――――

――――

527 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:38:57.95 ID:aItq5mi3O





――。




528 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:39:57.48 ID:aItq5mi3O


ここは、どこだろう。


どこか、柔らかくて、暖かいところの上で――。


気持ちがふわふわしていて。

自分が誰なのか、何をしていたのか。


何も思い出せないや。
529 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:40:52.36 ID:aItq5mi3O

ぼんやりと思い出せるのは。

私が小さかった頃の。

ずうーっと昔の、ちいさな思い出。

私の前を歩く、男の子を追いかけている風景。


その子は、近所に住んでいる男の子。

私よりいくつか年上で。

いっつも私は、その後ろをついて歩いていたっけ。


その背中を追いかけていれば、何も不安はなくて。

どこへでも連れて行ってくれるって。

きっと、いつまでも連れて行ってくれるんだって。

ずっとずっと、そう思っていたんでした。
530 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:41:46.29 ID:aItq5mi3O

その男の子は、いろんなことを教えてくれました。


楽しい遊び。

びっくりすること。

ちょっと怖いお話。


新しいこと一つ知るたびに、私は一つ大きくなって。

たくさんの可能性を感じて。

お嫁さんとか、パン屋さんとか、お菓子屋さんとか。

私は将来、ああなるんだ、こうなるんだって。

ずっとずっと、夢見ていました。
531 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:42:22.66 ID:aItq5mi3O

男の子をお兄ちゃんと呼ぶようになって。

そんなある日、お兄ちゃんに呼ばれて。


『公園に、おもしろい人がいるよ』


って。

お兄ちゃんについて走っていくと。

公園から小さな歌声が聴こえてきました。
532 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:43:05.99 ID:aItq5mi3O

公園の片隅に、その人はいました。

顔見知りの子どもたち数人と、そのお母さんたち。

みんなに囲まれて、一人のお姉さんが、笑顔で歌っていました。


子どもたちの手を取って、踊ったり、静かに聴かせたり。

それを眺めるお母さんたちも笑顔で。

その歌声と姿に、みんなが幸せそうでした。


あとから来た私を見ると。

お姉さんは優しく声をかけて、手を伸ばしてくれて。

私もそこへ、笑顔いっぱいで走っていきました。
533 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:43:52.95 ID:aItq5mi3O

あとから、そのお姉さんはとっても有名な人だと知りました。

しばらくして、急に引退してしまったけれど。

そのニュースでも、お姉さんは幸せそうで。

引退を惜しむ人たちも、まあ仕方ないか、って笑顔で。


私、こんな人になりたいんだって。

初めて、確信的な想いを持ちました。


私、みんなを幸せにするアイドルになりたいって。

このとき、初めて思ったんです。
534 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/04/10(水) 16:44:25.94 ID:aItq5mi3O


そうだ、思い出しました。


私は、天海春香。


アイドルを夢見る、一人の女の子でした。

535 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/04/10(水) 16:47:12.31 ID:aItq5mi3O
2月中と言ったのにこんなに遅くなってしまい、申し訳ありません。
諸事情で通院中のため、一度タイミングを逃してしまうと期間が空いてしまい……。
時間はかかってしまいますが最後まできちんと書きますので、大変恐縮ではありますが、お時間の許す限りどうかお付き合いください。
536 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2019/04/10(水) 17:50:29.12 ID:3xtwfmPrO
お待ちしておりました。完走を楽しみにしています
537 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/02(日) 06:34:39.14 ID:No0ZXdNwo
すみません、実生活で最悪のことがあり、精神的に継続が困難な状態です。
完結させるつもりなので落とさないようにはしますが、しばらくは更新できそうにありません。
申し訳ありません。
538 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:36:41.15 ID:oJPKOcJt0

私は、アイドルになりたいと思いました。

だからそのために、精一杯頑張りました。


小学校での音楽や体育の授業。

家でのダンス練習。


一つ一つ積み重ねて行けば。

きっとあのお姉さんみたいになれるって。

それはきっと、間違っていなくて。


ゆっくりだし、才能があるわけでもないし。

あまりにも普通の速度だったかもしれないけれど。

努力は、私を少しずつ前へ進めてくれました。
539 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:37:58.33 ID:oJPKOcJt0

学校では本当に頑張りました。

アイドルは歌えるだけではいけません。

歌って、踊って、お話しして、みんなを幸せにして。

そのためにはきっと、頭も良くならないといけません。


勉強を頑張りました。

友達と楽しくおしゃべりしました。


音楽や体育の授業は特に頑張りました。

一番ではなかったけれど、先生にも誉められました。

……体育はもうちょっと、頑張らないとだめだったかな?
540 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:38:53.16 ID:oJPKOcJt0


『大きくなったらアイドルになって、たくさんの人をしあわせにしてあげたいです』


私が初めて確信した、将来の夢。

その実現に向けて、小さい子なりに、一生懸命でした。

お父さんもお母さんも、私の夢を聞いて、応援してくれました。

春香ならきっと、優しいアイドルになれるよ、って。


お兄さんも手伝ってくれました。

スパルタだー!とか言いながら。

どこで聞いたか分からない特訓もしました。

テレビに出ていたトップアイドルを見て、すごいなあと言ったら。

翌日には、アイドルを目指す学校があることを調べてきてくれました。
541 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:39:40.09 ID:oJPKOcJt0

きっと私は、アイドルになれる。

ううん、なってみせる。

そのために努力するんだ。

もしかしたら……もしかしたら、力及ばないかもしれないけれど。

それでも、私にできるのは努力だけだから。

なるための努力なら、私にもできるから。
542 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:40:17.86 ID:oJPKOcJt0





その想いを打ち砕いたのは、遊園地での出来事でした。




543 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:40:43.21 ID:oJPKOcJt0

本当に突然のこと。

私は突然、急激な睡魔に襲われ、倒れるように眠ってしまいました。

最初は遊び疲れたのかな、と思ったけれど。

それ以降、時々眠ってしまうことが増え、病院に通うようになりました。


色々なことを言われました。

ナルコレプシーとか、それらしい病気ではないかとも言われました。

けれども、結論は、『分からない』。

私の睡魔の原因については、お医者さんも分からないようでした。
544 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:41:35.55 ID:oJPKOcJt0

それでも私は努力を続けました。


アイドルになるため。

みんなを幸せにするため。

あの日見たお姉さんのようになるため。


歌いました。

踊りました。

話しました。
545 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:42:23.95 ID:oJPKOcJt0


けれど、身体は努力を許してくれませんでした。


睡魔に襲われる頻度が増え。

思うように運動もできなくなり。

日に日に体力が減っていく。

小学生でも分かりました。


ああ、私、今、夢からどんどん遠ざかっている。


私、夢からどんどん、見放されている。


546 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:43:04.07 ID:oJPKOcJt0

必死でした。

必死にしがみつこうとしました。

けれども、病状はどんどん悪化していきます。


小学校に通える日数が減りました。

丸一日寝たきりの日もありました。

起きていても、家の中ですら動くのがままならない日が増えました。
547 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:43:36.50 ID:oJPKOcJt0

あれだけ輝いていた夢が。

お姉さんの姿が。

どんどん重責になって。

どんどん自分を追いつめて。


何もできなくなっていく自分が。

無力な自分が。

本当に本当に、怖くて、悲しくて、たまりませんでした。
548 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:44:07.70 ID:oJPKOcJt0

アイドル、諦めるしかないのかな。

そんな想いを、ずっと抱え続けていました。

中学生になっても、病状は徐々に進行していて。

私は半ば、自分に見切りを付けようとしていました。
549 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:45:00.43 ID:oJPKOcJt0


そんなときでした。

合唱コンクールに出ることになったのは。

550 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:45:47.61 ID:oJPKOcJt0

友達のケイちゃんが、一緒に出よう、と後押ししてくれました。

お父さんもお母さんも。

お兄さんも。

みんなが、出来うる限り、全ての手助けをしてくれました。


病院とお話ししてくれました。

学校の先生も、協力してくれました。

本当にたくさんの人が、私のために尽くしてくれて。


せめて、これだけでも。

このコンクールだけでも。

全力で、私の全てを使い切ってでも、歌おうと思いました。
551 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:46:22.67 ID:oJPKOcJt0

本番まで、辛いこともたくさんありました。

やりたいときに練習できなかったり。

みんなの足を引っ張ってしまったり。

本番当日になって、眠ってしまうんじゃないかって。

そんな恐怖もありました。


けれど、その日々はこれまでとは違っていて。

私は、ひたむきに努力しました。


少しだけ。

少しだけだけど。

小学生の頃、あの公園で、夢を見つけたとき。

あの頃の私に、戻ったようでした。
552 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:48:27.79 ID:oJPKOcJt0

たくさんの助力があって。

私はコンクール本番に出ることができました。

課題曲と、自由曲。

その両方を、私はそのときの全力で、歌いきることが出来ました。

ありがとう、ありがとう。

歌い終えたとき。

みんなに涙ながらにそう言ったのを覚えています。


でも、それ以上に……。

553 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:50:02.02 ID:oJPKOcJt0

あれは私たちの出番よりも前。

前半の、何校目だったかな。

正直、他の学校のことは全く意識していませんでした。

私たちはコンクールで賞を取る、と息巻いていたわけではなく。


中学校での思い出。

病気の友達への励まし。


そんな感じでの参加でしたから。
554 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:50:44.85 ID:oJPKOcJt0

でもその学校の生徒が並んだとき。

一人だけ、目に付く女の子がいたんです。


青みがかった長髪の女の子。


みんながステージ上で笑顔を浮かべる中。

端っこで独りだけ、どこか物悲しそうな女の子。

左端に座っていた私の真正面。

その子の姿を見た途端、目が離せなくなりました。
555 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:51:19.72 ID:oJPKOcJt0



そして、歌が始まって。


彼女一人の声が、私の耳に響きわたりました。


556 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:51:54.52 ID:oJPKOcJt0

なぜか分からないけれど。

その学校の歌が終わったあと。

私の顔は、涙でぐしゃぐしゃで。


あの子の歌がとても綺麗だったから?

歌うあの子が、とても悲しそうだったから?

たぶん、両方だったと思います。
557 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:52:57.77 ID:oJPKOcJt0

私が目指す形とは違うけれど。

人の心に届く歌を歌いたかったから。


とても悲しそうなあの子を。

笑顔にしてあげたいと思ったから。


そのとき、私はケイちゃんや先生に心配されながら。

ぐしゃぐしゃに泣きながら。

もう一度、思ったんです。

小さい頃、公園で思ったこと。
558 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 01:53:27.64 ID:oJPKOcJt0





私、やっぱりアイドルになりたいです。




559 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/06/07(金) 03:13:55.09 ID:2+9wG5g20
乙 応援してるぞ
560 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:21:04.30 ID:oJPKOcJt0

私は決めました。

病に負けないで、努力すると。

前へ、進み続けようと。


ウォーキングをしたり。

動画を見ながらボイストレーニングをしたり。


お兄さんは、高校を卒業したらプロデューサーを目指すと言いました。

芸能事務所の、プロデューサー。

きっと、私の夢を応援するために。


私は、諦めない。

改めて、そう誓いました。
561 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:21:49.03 ID:oJPKOcJt0

前に進まなきゃ。

何かをしなきゃ。

努力をしなきゃ。

その想いだけが、私を突き動かしていました。


そんな時でした。

お兄さんが、あの女の子の名前を教えてくれたのは。
562 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:22:44.21 ID:oJPKOcJt0



"如月千早"。


それが、あの女の子の名前。


563 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:23:17.15 ID:oJPKOcJt0

それまで漠然と抱いていた、あの女の子への想い。

名前を知って、私は。

もっともっと、あの子に近づきたいと思いました。


あの子みたいに歌が上手くなりたい。

あの子を笑顔にさせてあげたい。
564 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:23:55.78 ID:oJPKOcJt0

如月千早。

あの子も今、同じ空の下にいる。

今もあの子は、あの悲しそうな顔をしてるのかな。

今もあの子は、あの悲しそうな声で歌っているのかな。


ううん、そんなの、勿体ないよ。

あの子ならきっと、私ができないことも――。
565 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:24:31.21 ID:oJPKOcJt0


そして中学を卒業して。

私は、微睡む夢の中で、彼女と出会いました。

如月、千早ちゃんと。

566 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:25:02.56 ID:oJPKOcJt0

全てを失くした子。

未来を見出せない子。

今、とても辛い思いをしている子。

形は違っても、私とそっくりでした。


でも、一つだけ違うこと。

千早ちゃんは、目指すことが出来る子でした。
567 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:25:45.06 ID:oJPKOcJt0

全てを投げ捨てようとした千早ちゃんに。

私は夢の中で、思わず声をかけていました。


「それは勿体ないよ」


いつかの私も、こんな風に見えていたのかな。

そっと千早ちゃんの右手を握ると。

微かに強ばるのが分かりました。


「もうちょっと頑張ってみよう?」

「無理よ。もう、さいころを振る気力もないわ」
568 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:26:18.34 ID:oJPKOcJt0

ああ、私と同じだ。

頑張って頑張って、それでも見放されて。

全てを諦めてしまった、中学校に入った頃の私だ。


「一歩一歩、進んでいけばいいよ」

「私が、引っ張ってあげるよ」


そう声をかけて手を握ると、彼女は一瞬ためらって。

でも、私の声が届いたのかな。

おずおずと、握り返してくれました。
569 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:26:48.39 ID:oJPKOcJt0

千早ちゃんは、私だ。


「どうして、私に声をかけたの」


自分を見ているようで、辛さが分かってしまったから。


「私、助けなんてお願いしたかしら」


されてないよ。


「なら、どうして」


だって、さ。

あなたはきっと、もう一人の私だから。

頑張って報われるかもしれない、理想の私だから。
570 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:27:28.88 ID:oJPKOcJt0

引っ張ってあげるよ。

だから、その代わりね。

絶対に、前に進むことをやめないで。


私は、頑張ってきた。

けどね、どこかで私は無理なんだって。

どこかでね、分かり始めてたんだ。
571 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:27:56.50 ID:oJPKOcJt0

だから、千早ちゃんにはね。


「はいっ、ゆーびきーりげーんまーん!」

「え?」

「うーそつーいたーらはーりせーんぼーんのぉーますっ!」

「あ」

「はいっ、ゆーびきった!」


進んで欲しいんだ。

だって、千早ちゃんの瞳の奥にね。

"前に進みたい"って、願いが見えてしまったから。
572 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/07(金) 05:29:29.50 ID:oJPKOcJt0

どこへ進むか、分からなくてもいい。

いつも必ず正解を選ぶ必要なんてない。


一つ一つの出会いにしっかり目を向けて。

そこから見える光を追いかけていこうよ。


そんな千早ちゃんの、後押しをするために。

きっと、そのために。


私は、千早ちゃんと、出会ったんだよ。
573 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:31:28.24 ID:9+Zy6u7A0


それからは、本当に幸せな日々だった。


千早ちゃんが一歩一歩、前へ進んで。

事務所で、いろんな光と出会って。

その光に導かれて、私が夢見た道を進んでいく。


私と同じ存在である、千早ちゃんが。
574 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:32:15.29 ID:9+Zy6u7A0

私は私で頑張ったんだ。

眠ってしまう日はどんどん増えていく。


それでも、私は諦めなかった。

千早ちゃんが、手を握ってくれるから。

千早ちゃんが、前へ進もうとしてくれるから。


千早ちゃんが、私の想いは間違ってないって。

前へ進もうとしながら、証明してくれていたから。
575 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:32:51.50 ID:9+Zy6u7A0

千早ちゃんは、事務所の人たちのことを教えてくれた。


プロデューサーさんになったお兄さん。

社長。

小鳥さん。

美希。

あずささん。

伊織。

やよい。

真。

雪歩。

律子さん。

亜美。

真美。

四条さん。

響ちゃん。


カラフルな光で千早ちゃんを導いてくれる人たち。

そして同時にその人たちは、私にとっても光だった。
576 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:33:36.27 ID:9+Zy6u7A0

騒がしくも満たされた日々。

千早ちゃんは日に日に笑顔が増していった。

レッスンを受けて、歌って踊って、少しずつお仕事も来て。


千早ちゃんは前に進んでる。

だから、私も前に進まないと。


動ける時間は日に日に減っていく。

体力は衰えて、ダンスなんて出来ない。

お腹から声も出せない。
577 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:34:27.33 ID:9+Zy6u7A0

それでも、それでも。

私は、前に進みたいんです。

千早ちゃんがそうしてくれているように。

私だけ、歩みを止めるわけにはいかないんです。


怖いとか。

諦めとか。


いろんな言葉が過ぎりました。

でも、私は、それでも進もうとしました。
578 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:35:21.91 ID:9+Zy6u7A0

千早ちゃん。

いっこ、ごめんなさいがあるんだ。


千早ちゃんのデビュー曲。

すごく綺麗だし、大好きなんだけど、ちょびっと嫌い。

前に進もうとする前の。

合唱コンクールの時の千早ちゃんを思い出してしまうから。


でも、本当に嬉しかったんだよ。

千早ちゃんが、認められて。

私の想いが、叶ったみたいで。
579 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:36:19.96 ID:9+Zy6u7A0


けれどあの日、千早ちゃんの心は砕かれてしまった。

心ない、たった数枚の紙切れで。


砕けた心を必死に押し固めながら進もうとする姿は。

見ていて、本当に辛かった。


ごめんね。


何もしてあげられなくて、ごめんね。


辛かったよね。

苦しかったよね。

私なんかよりも、ずっと、ずっと――。
580 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:37:06.83 ID:9+Zy6u7A0

その頃、私もお医者さんから言われました。

厳しいことを言うようですが、このまま悪化の一途を辿るだろう、と。


つまりそれは。

私の時間がなくなるということ。

私という存在が、消えてしまうということ、でした。
581 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:37:56.52 ID:9+Zy6u7A0


分かっていました。

いつかこんな日が来ることは。


でも、神様。

もしもいるなら、言わせてください。


どうして。

私、頑張ったのに。

何も悪いことしてないのに。

色んなこと我慢して、必死に。


なんで。

なんで、神様。



目指すことさえ許してくれないんですか。

582 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:40:24.08 ID:9+Zy6u7A0


涙を堪えきれませんでした。

でも、私が嘆くことに意味はないから。


ならば、せめて。

せめて、私にできる最後のこと。

せめて、最後に。

千早ちゃんには。

千早ちゃんには、前を向いて欲しい。


だって……だって!


千早ちゃんは……千早ちゃんは、私の――。


583 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:42:04.43 ID:9+Zy6u7A0


けれど、千早ちゃんは心を閉ざしてしまった。

私は夢の中で、壁の向こうへ追いやられて。

千早ちゃんは、小さな部屋に閉じこもってしまった。


「待って! 待ってよぉ!」


涙が溢れる。


「行かないで、行かないでよ!」


がちゃりと、鍵がかけられる。


「開けて! 開けてよぉ! 千早ちゃん、千早ちゃん!!」


何度体当たりをしても、弱り切った私ではびくともしない。


「開けてよ! 千早ちゃん! お願い、お願いだから!」


壁の向こうから、千早ちゃんの弱々しい声が聞こえた。


「もう、私は疲れたのよ……もう、何もしたくない……」

「イヤだぁ……そんなの、イヤだよぉ!」


私は、叫びました。
584 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:42:45.28 ID:9+Zy6u7A0


千早ちゃん。

千早ちゃんは私なんだよ。

千早ちゃんは、前へ進むことが出来る私なんだよ。


私が思い描いてきた夢。

私が、小さい頃から願っていた姿。

諦めかけた私を、救ってくれた人。


千早ちゃん。

あなたは、そんなすごい人なんだよ。

585 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:43:35.29 ID:9+Zy6u7A0


千早ちゃん。

千早ちゃんは私なんだよ。

千早ちゃんは、前へ進むことが出来る私なんだよ。

私が思い描いてきた夢。

私が、小さい頃から願っていた姿。

諦めかけた私を、救ってくれた人。

千早ちゃん。

あなたは、そんなすごい人なんだよ。

586 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:44:23.37 ID:9+Zy6u7A0
すみません、>>585はミスです。
無視してください。
587 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:45:13.83 ID:9+Zy6u7A0





「嫌だよぉ!!!」




588 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:45:46.35 ID:9+Zy6u7A0


千早ちゃんはね。


「……だって、千早ちゃん……指切り、したもん……」


私の全てなんだよ。

千早ちゃんが前に進むことはね。


「絶対に、前に進むことをやめないで……ってぇ……」


私が生きた証なんだよ。

589 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:47:41.32 ID:9+Zy6u7A0


私の夢。

私の想い。


押しつけがましくてごめんね。

傲慢でごめんね。


それでも、どうか。

どうか、私の全てを。

肯定して欲しいんだ。

千早ちゃん。

他でもない、あなたに。

590 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:48:21.71 ID:9+Zy6u7A0


「今度新曲を出す時は、明るい歌を歌ってほしいな」


体が震える。

やっぱり、怖いよ。

消えてしまうことがじゃない。


千早ちゃんと、一緒にいられなくなることが。

立ち直るところを、見届けられないのが。

それが、たまらなく怖いんだよ。
591 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:48:54.09 ID:9+Zy6u7A0


「だって……友達が寂しそうに歌ってるのなんて、見たくないよ」

「とも、だち……?」

「うん。大切な大切な、友達」


そうだよ、千早ちゃん。

私は、そう思ってるよ。


笑顔が素敵な千早ちゃん。

意外とすぐ拗ねる千早ちゃん。

ムキになる千早ちゃん。

笑い上戸な千早ちゃん。


全部全部、大好き。

大好きな、千早ちゃん。

592 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:50:21.52 ID:9+Zy6u7A0


でも、こんなお話ももう限界。


「千早ちゃん。さっき頼んだこと……できれば、お願いね」


そして、神様。


「ばいばい、千早ちゃん」


もし、神様がいるのなら。

願わくば、どうか、千早ちゃんを――。

593 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 21:51:10.18 ID:9+Zy6u7A0





そして私の世界は、独りになった。




594 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:01:41.25 ID:9+Zy6u7A0


すぐ近くに、泉があった。

覗くと、千早ちゃんの姿。


「千早ちゃん!」


名前を呼んだ。

でも、返事はない。


「千早ちゃん……」


その姿は、別れ際の時のまま。

傷つき、感情を失くした、悲しい姿だった。

595 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:04:50.10 ID:9+Zy6u7A0


私は見ていることしかできない。


みんなの辛そうな表情。

周りを突き放す千早ちゃん。

私に話しかける千早ちゃん。


私は見ていることしかできない。

千早ちゃんが自分自身に追いつめられ、苦しむ姿。


千早ちゃん、私はここにいるよ。

千早ちゃん、私はそばにいるよ。


距離はとても離れているかもしれないけれど。

私はいつも、あなたの隣にいるんだよ。


そんな心の叫びも、今の千早ちゃんには届かない。

596 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:07:15.55 ID:9+Zy6u7A0


独りぼっちの世界。

他に誰もいない。

何もない。

ただ、私が在るだけ。


きっとあの病院のベッドで眠り続けている限り。

私は、このままなのかな。

寂しいなぁ。

寂しいよ、千早ちゃん。

597 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:12:59.06 ID:9+Zy6u7A0

私は独りぼっち。

千早ちゃんと離れて、初めての独りぼっち。


前は家族がいた。

友達がいた。

お兄さんがいた。


いつも隣には、千早ちゃんがいた。


その千早ちゃんが、隣にいない。

ずっとずっと、このまま独りなのかな。


これが私の、いるべき場所。

運命、だったのかな。
598 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:14:02.21 ID:9+Zy6u7A0


――どれくらい時間が経っただろう。

独りきりで、座り込んで。

泉の中の千早ちゃんを見つめて。


ふと、どこからか、光が見えた。

カラフルな、千早ちゃんを導いてきた光。

それらが私の前で、手招きをしてる。


「今更どうしたのかな……」


光は見える。

見えるというか、感じる。

泉の中から。


「こっち……?」


ふらふらと、誘われるように泉に手を差し入れる。

暖かい光が、私を引っ張ってくれた。

599 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:44:54.90 ID:9+Zy6u7A0

すぐ隣に、千早ちゃんがいた。

雨に濡れそぼって、ノートを抱えて。


「千早ちゃん!」


私は必死に呼んだ。

けれども、その声は届かない。


代わりに見えるのは、怯えの瞳。


何度声をかけても。

何度その肩に触れようとしても。

千早ちゃんは、怯えた声をあげて逃げてゆく。


待って!

待ってよ千早ちゃん!


私はここにいるよ!

千早ちゃん!
600 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:45:27.76 ID:9+Zy6u7A0


千早ちゃんは、雨と涙に濡れて。


私は逃げ込む千早ちゃんと共に、部屋へと入った。

無機質な、でもところどころにみんなの思い出が詰まった。

千早ちゃんの、大切な部屋。

千早ちゃんが最後に逃げ込める、大切な部屋。


そんな玄関先で。

びしょ濡れの千早ちゃんが、座り込んでいた。

私のノートを、握りしめて。


私も、その隣に座りこんだ。

微かに伝わる体温が、暖かい。

神様がお願いを聞いてくれたのかな。
601 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:46:07.52 ID:9+Zy6u7A0

千早ちゃん、そのノート、読んでくれないかな。

私の想いを込めた、その夢のノートを。


千早ちゃんの指は動かない。

ノートを開こうとしているのに、何かに怯えているようで。


大丈夫だよ、千早ちゃん。


透き通った私の手が、千早ちゃんの手と重なる。

ゆっくりと、ノートのページをめくる。


暖かい。


千早ちゃん、あなたはこんなにも、暖かい人なんだよ。
602 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:46:43.78 ID:9+Zy6u7A0


一枚、一枚とページをめくる。

読み上げる千早ちゃんの声が、徐々に震えていく。


最後のページ。

私が、書ききることが出来なかった、白いページ。

そこにある、微かな跡を見て。

千早ちゃんの嗚咽が漏れた。


そうなんだよ、千早ちゃん。

本当はね。

本当に、私が思い描いた夢は、ね――。

603 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:48:05.92 ID:9+Zy6u7A0


読み終えた千早ちゃんは、泣きじゃくっていた。


そっか。

やっと私の想い、届いたんだね。

なんだかなあ……私、口下手だから。

もっと早く伝えてあげられたら、良かったのかな。

そしたら、こんなに苦しむこともなかったのかな。


ごめんね、千早ちゃん。

604 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:49:40.91 ID:9+Zy6u7A0

部屋の外に、光が見えた。

私を引っ張ってくれた、たくさんの、導きの光。


ほら、千早ちゃん。

みんなが待ってるよ。


私の身体と、千早ちゃんの身体が重なる。

あなたが独りで歩けないなら、私が手伝ってあげるよ。

さあ、立ち上がって。
605 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:50:10.22 ID:9+Zy6u7A0


行こう、千早ちゃん。


「うん、何も言わなくていい。さ、行ってあげなさい」


社長の言葉を背に。

行こう、千早ちゃん。

みんなのところへ。

606 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:54:43.87 ID:9+Zy6u7A0


二人の力で、マンションの階段を駆け下りる。

もうここまでくれば、大丈夫だよね。


ありがとう、神様。

私の最後の願いを聞いてくれて。


みんなに駆け寄って。

囲まれて、涙が溢れる千早ちゃんは。

きっともう、私がいなくても大丈夫で。

あの日、私が夢見た千早ちゃんの姿でもあって。

607 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:55:28.64 ID:9+Zy6u7A0


みんなから代わる代わる声をかけられてるのに。

えへへ、千早ちゃん、まともに返事できてないじゃない。

そんな時はね、千早ちゃん。

一言でいいんだよ。


最後の最後に。

意地っ張りで恥ずかしがり屋な千早ちゃんに。

一言だけ。



ねえ、千早ちゃん。


みんな、その言葉を待ってるよ。


608 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:56:05.98 ID:9+Zy6u7A0


「ただ、いまぁっ……!」


頑張ったね。

よく言えたね。

よく、言ってくれたね。


涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら言う千早ちゃんを見て。

もう大丈夫だね。

また、立ち上がれるよね。


千早ちゃん。

千早ちゃんには、みんながいるよ。


だからね。

ゆーびーきーりげーんまーん……。

約束、だからね――。

609 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2019/06/08(土) 22:56:47.13 ID:9+Zy6u7A0





そして私は。


暗闇へ溶けていく。




610 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/07/17(水) 23:52:11.89 ID:DmRi+1R2o
すみません、まだ続きをかける状況にありません。
お待ちいただけますと幸いです。
611 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/09/20(金) 05:20:27.12 ID:kH4hQ1Vwo
近々投下しますので、しばらくお待ちください。
612 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/11/27(水) 10:06:58.26 ID:lNzQ8jTRO
すみません、仕事が立て込んで投下できていませんでした
今しばらくお待ちください
613 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/11/29(金) 22:32:43.91 ID:rKyy5NZUO
待ってる。
614 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:41:43.51 ID:HC/e3twa0


私の世界が暗闇に染まりきる直前。


どこからか、歌声が聞こえた。


気が、しました。

615 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:42:30.10 ID:HC/e3twa0


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616 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:43:15.16 ID:HC/e3twa0

スポットライトに照らされて。

私が声を張り上げようとした瞬間。

白昼夢をみた。


そこは、いつもの夢の部屋で。

何もなく殺風景だけれど、光で満ちた私の部屋。


そして、ガラス張りの壁の向こうには。

煙か墨が淀んでいくように。

徐々に徐々に、暗く染まっていくもう一つの部屋。
617 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:43:47.62 ID:HC/e3twa0

私は拳を握りしめた。

この向こうで、あの子は一人きりで。

それはまるで、いつかの私で。


ああ。

あのときは、あの子が私を救い出してくれたんだった。

手を引っ張って、私をどん底からすくい上げてくれたんだった。


もう一度、私は拳を握りしめる。

拳の中には、六面体のキューブ。

固い。

これならば、きっと。
618 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:44:13.99 ID:HC/e3twa0

私は握りしめた右手を、大きく振りかぶる。

そして、全ての力を右手に込めて。


キューブを。

さいころを。


ガラスの壁へと投げつけた。
619 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:44:46.74 ID:HC/e3twa0


がちん。


微かに濁った音がして、さいころが跳ね返ってくる。

器用にそれを拾って壁を見ると。

当たったところに小さなひびが入っていた。

620 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:45:18.10 ID:HC/e3twa0


もう一度、振りかぶる。

投げる。


ばしっ、と。


先ほどよりも大きな音が響く。

壁のひび割れは、さらに大きくなった。

621 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:45:59.19 ID:HC/e3twa0

きっと、次が最後。


ねえ、春香。

あなたは今、そこで泣いているのよね。

私が泣いていたとき。

あなたは私を抱きしめてくれたわよね。


ねえ、春香。

あなたは今、そこから出てきたいのよね。

最後、涙を堪えながら私に笑ってくれたとき。

その瞳の奥に、見えたから。


ねえ、春香。

春香。


今、行くから。
622 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:46:33.30 ID:HC/e3twa0


私は、全ての力を振り絞って。

全力だったさっきよりも、さらに全力で。

623 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:46:59.58 ID:HC/e3twa0


さいころが、壁に当たる。

物音一つ立てず、壁に当たる。

624 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:48:04.81 ID:HC/e3twa0


静かに、水が壁面を伝うように。

細いひびが、波紋のように広がって。

625 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:48:32.46 ID:HC/e3twa0


ガラスの壁は砕けて、崩れ落ちた。

626 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:49:35.45 ID:HC/e3twa0


そうだ。

もう嫌な過去を振り返らない。

そして、目の前にあるものから、目を逸らさない。


私たちが見つめるべきは、これからだから。

627 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:50:04.20 ID:HC/e3twa0

私の部屋の光が。

淀んだもう一つの部屋へと流れ込んでいく。

暗闇が照らされ。

みるみる内に明るくなっていく。

その先で、あの子は、体育座りをしていて。

小さく、しゃくりあげる声が聞こえて。
628 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:50:31.75 ID:HC/e3twa0

投げつけたさいころが宙を舞う。

出る目は果たして、なんだろうか。


関係ない。


さあ、行きましょう、春香。

進みましょう。
629 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:50:57.80 ID:HC/e3twa0





賽は、投げられた。




630 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:52:29.30 ID:HC/e3twa0

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631 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:53:19.34 ID:HC/e3twa0

私は叫んだ。

喉の奥から、腹の底から。

これまでため込んできた、積年の想いを。

喜怒哀楽を。

吐き出すように。

叩きつけるように。

時に優しく、諭すように。
632 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:54:13.58 ID:HC/e3twa0

ああ、そうだった。

歌うことって、こんなにも心地良いものだったんだ。


これまで私を縛り付けていた鎖。

それらが全て引き千切られた今。

私には何の制約もなかった。


ただただ眼前には、自由。

歌という名の、大海原。
633 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:54:40.07 ID:HC/e3twa0

私は叫んだ。

全ての人に届くように。

空気を振動が伝い、耳から、全身から。

魂の奥底へと、届くように。


サイリウムが揺れる。

この揺れは、一体誰が生み出しているのだろう?

空気の振動?

違う、私だ。

他でもない私だ。

私が叫んだ魂が、他の魂を揺らしているのだ。
634 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:55:06.56 ID:HC/e3twa0

私は叫んだ。

一曲、また一曲と歌い上げる。

不安も恐怖も、微塵もなく。

まるでこれまでの鬱憤を晴らすかのように。

まるでこれまでの空白などなかったかのように。


声だけじゃない。

身体も勝手に、踊り動く。

私の魂を見せつけんとばかりに。
635 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:55:38.54 ID:HC/e3twa0

私は叫んだ。

マイクもいらないかもしれない。

この叫びはきっと、人間が作った機械など関係なく。

どこまでもどこまでも、響きわたる。


曲と曲の間の転換時さえも。

私の鼓動は、僅かたりとも弱まらない。

最高潮をキープして。

どくん、どくんと脈打って。

全身を血が駆けめぐる。
636 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:56:19.44 ID:HC/e3twa0

私は叫んだ。

会場も熱気を増していく。

届け、届けと想いが爆ぜる。

私の想いが。

観客の想いが。

会場を満たし、爆ぜる。


中でも私の想いはとびっきりで。

会場を越えて、どこまでも届けと。


あそこまで。

あの子の元まで。

あの部屋の暗闇を吹き飛ばすまで。

泣いているあの子が気付くまで。
637 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:57:09.16 ID:HC/e3twa0

息が上がる。

気付けばもう、次が最後の歌だった。


「皆さん、ここまで、本当にありがとうございました」

「今日だけではありません」

「あのとき、私の心が壊れてしまって」

「それでもなお、ここまで私のことを、待って、見守って」

「改めて、本当にありがとうございました」


全ての人へ向けた言葉。

プロデューサーはじめ事務所の仲間たち。

この日をずっと待っていてくれたファンの人々。


そして、私を救ってくれた――。
638 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:57:48.54 ID:HC/e3twa0

「次で、最後の歌です」

「この新曲は、ある大切な親友に捧げる歌です」

「どんな時もそばにいてくれて」

「どんな時も背中を押してくれて」

「どんな時も、私の心を救ってくれた」

「そんな、大切な、大切な人です」

「今はまだ、病室で眠り続けているけれど」

「きっと、この歌は届きます」

「そう、信じています」


「どうか、聴いてください」
639 : ◆on5CJtpVEE [saga]:2020/08/13(木) 00:58:14.19 ID:HC/e3twa0

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640 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2020/08/13(木) 07:05:57.11 ID:7lwtGD1n0
お待ちしてました
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