橘ありす「二人ぼっちのアリス」

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1 : ◆xJHI1D1Uro [saga sage]:2017/11/09(木) 12:01:51.38 ID:/E20kLoAo
 名前、それは燃える生命。

 ひとりぼっちでいた頃、私はアリスという自分の名前が嫌いだった。
 だいたい、私は典型的な日本女で、しょっちゅうからかわれた。

 私は目立たないよう目立たないよう、おっかなびっくり日々を過ごしていて、
気がつけば重荷を背負うような猫背が癖になっていた。

 ひとつの救いは、私の名前をからかうのはもっぱら教師や大人ばかりで、
同世代の人間はごく普通に接してくれたことだった。

 子供のうちは、いいけどね……――なんて言う人も、過去にはいた。

SSWiki : http://ss.vip2ch.com/jmp/1510196511
2 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:03:12.79 ID:/E20kLoAo
 アリスという名前が、いまは好きだ。
 三十の坂を越えようかというところ。
 歳を重ねていくごとに、名前が自分自身に馴染んでいくような気持ちがしている。

 私は現在、小学校の教員として働いていて、
生徒たちはみんな親しげに「アリス先生」とか「アリスちゃん」とか、そう私を呼ぶ。

 大学を卒業してすぐ勤め始め、なんだかんだと長いこと勤めてきたわけだが、
私はこの仕事を選んでよかったと思う。

 印象深い生徒がたくさんいた。
 その中でも特に印象深いひとりについて、書こうと思う。
3 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:04:19.54 ID:/E20kLoAo
 橘ありす――。

 いまや押しも押されぬ人気アイドルとして、様々な業界から引っ張りだこという話だ。
 けれど、あの頃の彼女の夢は、歌手になることだった。
 芸能界で活躍しているとはいえ、必ずしも思い描いていたままの夢を叶えたわけではないのだと思う。

 はてさて、夢という言葉が、いったいどれだけの人を迷わせただろう。
 ありすの姿をどこかで目にするたび、私は、彼女にもう一度会えたら何を話そうかと考える。
 もし会えたら、またあの頃のように、夢を打ち明けてくれないだろうかと。
4 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:05:14.73 ID:/E20kLoAo
「アリス」と名前を呼ばれるたび、私は、あの少女を思い出さずにいられない。

 ありす、同じ空の下のアリス。二人ぼっちのアリス。

 ずっと迷っていてほしい。迷って、傷ついて、それでも夢を忘れないでいてほしい。
 そして願わくば、彼女の夢が尽きることのないように。
5 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:11:23.01 ID:/E20kLoAo
 ――――

 雨――、夏休み明けの一週間は雨が続き、暑い夏をゆっくりと冷やしていた。
 この雨に残暑の残り香がさらわれたら、きっと秋になるだろう。

 帰りの会を終えて職員室へ戻り、それからすこし経った頃、
女の子たちがぞろぞろと私の机を訪ねてきた。

「あのぅ、アリスせんせえ」

 彼女たちはいつも遅くまで残っている組だったので、
こうして訪ねてくるのが珍しいこととも思えず、
私は「はて、なにかしら」とノンキに構えたまま、
話を聞くまで彼女たちのただならぬ表情に気がつけなかった。
6 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:14:52.23 ID:/E20kLoAo
 喧嘩らしい。いまは口論に留まっているが、一触即発の事態だという。
 私は焦った。どうも、長い休みのあとで、すっかり平和ボケしてしまったようだ。

「それで、誰が喧嘩を?」

「橘さんが……」

 その名前を聞いて、私はいささか驚いた。
 橘――橘ありすは、とても喧嘩なんてするようには見えない。
 同年代の生徒よりも大人びている一方、普段はちょっと極端なくらいおとなしい子だった。

 慌てて教室へ向かうと、たしかにピリピリとした雰囲気が漂っていた。
 窓際の席のあたりに橘ありすと、彼女に向かい合って立つ男子は泣いていた。
 そして、それを遠巻きに見つめる居残りの生徒たち。
7 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:20:01.27 ID:/E20kLoAo
 どうやら、すでに一触即発の状態は脱してしまったらしい。
 推察するに、ありすが男子を言い負かした、ということだろう。

 二人の衣服に乱れはなく、机がぶっ倒れていたり、なにかがひっくり返ったりしているわけでもない。
 とりあえず、掴み合いに発展しなかっただけよかった――私はホッとため息をついた。
 同性同士ならまだしも、ここはデリケートな部分なのだ。

「とにかく」と、私は口を開いた。「喧嘩した二人だけ、来なさい」
8 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:21:59.72 ID:/E20kLoAo
「喧嘩じゃありませんよ、先生」と、ありすは言った。

 それはあまりにきっぱりとした言い方で、私はついつい面食らってしまった。

「ちげーよ! こいつが泣かせたんだよ!」

 生徒たちが口々にわめいた。
 声変わり前とは言え、大人顔負けの理屈と汚さの混じるそれは、まさしく怒声だ。

「静かに!」

 私が大きな声で言うと、水を打ったようになる。

「とにかく、二人だけ、来なさい」

 私はそれだけ繰り返して、他の生徒を帰らせた。
 全員が昇降口を出たかを見届けたあと、私は二人を適当な席に座らせ、そのあいだに私も座った。
 そうこうしているうちに、泣いていた彼も落ち着いてくれたようだ。
9 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:23:24.95 ID:/E20kLoAo
「それで、なにがあって喧嘩したの?」

「喧嘩じゃありません」

 ありすはまたピシャリと言った。

「とにかく、先生が行くまでのあいだに、なにがあったか話してくれるかな」

 私はできるだけ柔らかく話すよう努めた。

「二人を叱るとか、お説教とかしたいわけじゃなくってね、二人の話が聞きたいの」

 だが、ありすはツンと口をつぐんでしまった。
 代わりに、喧嘩相手の男子が一部始終を説明してくれた。
10 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:25:05.45 ID:/E20kLoAo
 ことの発端は橘ありすの持っているタブレット端末だった。
 放課後、タブレットを操作するありすを、彼が咎めた。
 規則上、タブレットは学校に持ってきてはいけないものだ。
 そうして、口論に発展したそうだ。

「ありすちゃんは、どう。いまの事実に間違いはない?」

「橘です」と、ありすは短く言った。

「え?」

「ありすと呼ばないでください。いやなんです」
11 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:25:58.67 ID:/E20kLoAo
「え、ああ、……ごめんね。それで、橘さんは?」

「話に嘘はありません。だけど、先につっかかってきたのは向こうです」

 ありすの言い方に、私は思わず苦笑してしまった。
 その話しぶりだけでも、彼女が大人顔負けの理論家であることがよくわかる。

「せんせぇ、オレ、もういいかなぁ?」

 さて、粗方話し終えるとさっぱりしたようで、相手の男子はさっさと帰りたがっていた。
 後の裁定は私にお任せといった感じで、ありすに対し暴言を吐いたことについても、私が促すとあっさり謝るくらいだった。
12 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:28:26.65 ID:/E20kLoAo
「きちんと話してくれてありがとう。先生も一生懸命、このことを考えるからね」

 そう言って、私は彼を先に帰してやったが、ありすはそれに不満を募らせている様子だった。

「決着がまだついてません」

 決着、と私はありすの言葉を繰り返した。

「でも、先生、今日のことは勝ち負けじゃないって思うから」

 結局、喧嘩そのものは口論の範疇で済んでいて、残る問題はタブレット持ち込みの是非だけなのだ。
 私は本腰を入れるような気持ちで、椅子を引っ張って、深く座った。
13 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:29:34.87 ID:/E20kLoAo
「私が悪いんですか? 私が悪者だから、あの子を先に帰らせて、じっくりお説教っていうことなんですか?」

「ううん、そういうことじゃなくて、いろいろ聞きたいのね、先生。
 ……橘さんは、いつからタブレットを持ってきていたの?」

「夏休み明けからです。誕生日に……両親の、プレゼントなんです」

「そっか、プレゼントかぁ。大切なものなんだね」

 ありすはぷいっとそっぽを向いた。

「別に、休み時間とか授業中に使ったりは、してません。
 迎えにきてもらったりとかするときに、……ただの連絡手段です。
 スマホを持ってきている子だっているじゃないですか、それと同じです」
14 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:30:50.47 ID:/E20kLoAo
 私はそれを聞いて困った。
 確かに、連絡手段としてのスマホ、携帯電話は黙認に近い形で見逃されている。
 小学生とはいえ、いまどき珍しくない。が、タブレット端末となると、ちょっと微妙なラインだろうか。

 なにしろ、大きい。畢竟、目立ってしまうから、今日のように(良く言えば)正義感のある子を刺激してしまう。
 しかし、良い悪いで片付く話ではないのだと、私は思う。
 ありすのようにけじめをつけて使うことができる生徒がいれば、
 他方、際限なくのめり込んでしまう生徒もいる。

 できない生徒に合わせてルールを作らざるを得ないのが、とどのつまり学校というものであり、押し広げれば社会なのだ。
15 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/11/09(木) 12:32:47.80 ID:gx0aw+sAo
それスマホでも同じこといえますよね?
16 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:43:20.29 ID:/E20kLoAo
「今日は、すこし遅くなるからって連絡をしたんです。ただそれだけですよ」

「うん。ありすちゃんの使い方に悪いところはないって、先生も思う」

「そうですよね」と、ありすはホッとしたようだった。

「だけど、その……先生が心配なのは、ありすちゃんが使っているタブレットって高価なものでしょう?
 トラブルになったら、って考えると、どうかな? ありすちゃんも心配じゃない?」

「トラブルですか?」

「そう。たとえば、誰かがたまたまぶつかって壊れたりとかね」

「でも、親に買ってもらったもので、……いまさらスマホのほうがよかったなんて言えないし、
 これ以外に連絡手段もないんです」

 ありすはちょっと俯きがちに答えた。
17 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:52:38.08 ID:/E20kLoAo
「あっ、持ってきちゃダメって、先生言ってるわけじゃないんだ」

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

「提案があるんだけど、……橘さんが朝、登校してくるじゃない?
 そうしたら、私が鍵のついた引き出しに、タブレットを預かるの。
 で、帰りの会が終わったら返す、っていうのはどう?
 これなら安心だし、ルールも守ってるって堂々言えるでしょう」

「まあ、……でも、私、特別扱いっていやなんです」

「特別扱いじゃないわよ。
 むしろ、橘さんを含めて、みんながフツーに学校生活を送るためのルールのひとつだと思うな」

「そうですかね。ルール、……ルールなら、まあ」

「それじゃ、決まりね」と、私もようやく胸をなでおろした。
18 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:56:00.73 ID:/E20kLoAo
「わかりました。それじゃあ、あの、そろそろ、いいですか?」

「うん、今日は遅くまでごめんね、さようなら」

「はい。さようなら」

 ありすはぺこりと礼をすると、教室を出て行った。
 その後ろ姿に、私は「ずいぶん真面目な子なんだな」と思った。
19 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 12:58:03.39 ID:/E20kLoAo
 いま、私が受け持っているクラスは6年生。
 12歳――意外に大人びた部分と、まだまだ子供らしい部分とが入り混じる難しい年齢。
 けれど、みんないい子ばかりだ。「アリス先生」と私を慕ってくれている。

 思い返せば、ありすとまともに話をしたのは今日が初めてかもしれない。
 彼女は教師である私と意図的に距離を置いているようなところがあり、必要以上の言葉を交わしたことはなかった。
 それに、問題を起こすわけでもなく、学習面や生活面にも問題はなく――、
 しいて挙げるならば、友達を作らないことくらいだが、好き嫌い以前に、単に気の合う人間がいないことが理由のようだ。
 休み時間にはひとり席で本を読んだりしている。

「あれだけ大人びてれば、そうなっちゃうのかな」

 私はため息をついた。
 自分が12歳の頃は、どんな風だったか……――アリスという名前が、ぐるぐると頭の中を巡った。
20 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:02:45.80 ID:/E20kLoAo
 ――――

 あれから、毎朝、ありすは約束通り私にタブレットを預け、放課後に受け取って帰る。
 お願いします、ありがとうございました、といちいち丁寧な子である。
 しつけが行き届いているのだろう。
 それはつまり、家族に愛されて育ったということに違いない。

 ある日の放課後。
 ありすはタブレットを受け取ったあと、珍しく、すぐに帰らなかった。

「どうしたの?」と、私は訊いた。

「あのう、先生。すこしのあいだ、ここに居てもいいですか」
21 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:05:01.77 ID:/E20kLoAo
「ええ、構わないわよ。どうぞ、座って」

 私はパイプ椅子を取って、デスクの傍に置いた。

「あ、……すみません」

「雨ばっかりで気が滅入るねぇ。今日はお迎え?」

「母が来てくれるそうなんですけど、仕事で遅くなるらしくて。
 教室でタブレット使って、またなにか言われるのいやだし」

 ありすの母親とは面談で会ったことがある。
 綺麗な人で、目元がよく似ていた。
 共働きの家庭で、娘と触れ合う時間が取れないことを気に病んでいる、愛情深いお母さんだった。
22 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:06:14.18 ID:/E20kLoAo
「あの、先生。……先生の名前、アリスっていうんですよね」

 ありすはもじもじとしながら言った。私はフフフと笑って、

「そうだよ。ありす……橘さんとおんなじ名前ね。
 だから私、橘さんの担任になるって聞いたとき、結構楽しみだったんだ」

「私、……ありすって自分の名前、あんまり好きじゃないんです」

 ありすはちょっと目をそらして、苦笑混じりに言った。

「そっか、好きじゃないんだ」

「先生は好きですか? 自分の名前が」

「いまは、そうかな」

 私が答えると、ありすはちょっと身を乗り出した。
23 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:08:39.54 ID:/E20kLoAo
「昔はそうじゃなかったんですか? からかわれたり、しましたか?」

「うん。からかわれることもあったし、もっと別の、フツーの名前がよかったって思った」

「私も、そう思います」

「橘さんはからかわれるの?」

「いまは、あんまりですけど。
 その、……いまはそもそも関わらないようにしているので」

「ああ、休み時間とか本を読んでるもんね」

「先生はアリスって名前が嫌じゃなくなったのは、どうしてですか?」

「それはね」と、私は照れくさくてちょっと笑った。

「なんですか?」

「好きな人ができたからよ」

 ありすはちょっとあてが外れたような顔をした。
24 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:10:04.15 ID:/E20kLoAo
「でもね、やっぱり昔はアリスって名前、嫌だったなぁ」

 高校のときの英語教師は、私をチャンピオンと呼んだ。
 それが嫌で嫌で仕方がなくて、なるべく目立たないよう目立たないよう、できることなら透明人間になりたいとさえ思っていた。
 それを変えたのは、同じクラスの男の子だった。

「好きな男の子が居てね。高校生のとき。
 その人は特別だったけど、アリスって呼ばれるたび、名字で呼ぶよう訂正したりね。
 大好きだったのに、ツンケンしちゃってたな」

「――さん、って……?」と、ありすは私の現在の名字を言った。

「そんな感じ。でも、ある日、アリス、お前が好きだ、ってね、……キスされちゃった。
 そのときから自分の名前がなんとなく好きになったのよ」
25 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:11:16.14 ID:/E20kLoAo
「そうなんですか」と、ありすはちょっと顔を赤らめた。「それで、その人は……?」

 まんざら興味がないわけではないらしい。私はフフンと鼻を鳴らした。

「いまの旦那さん」

「それは、……素敵ですね」

「私もそう思う」

「でも、やっぱり私はこの名前が好きになれそうもないです」

「名前の由来は訊いたことある?」と、私は言った。

「えっ?」

「ありすって、名前の由来」

「先生は?」

「フォークグループ」私は笑ってしまう。「流行ってたらしいのよ」

 ありすはいまいちピンと来ていない様子だった。
26 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:14:17.70 ID:/E20kLoAo
「あなたは? 名前の由来」

「ええ。恥ずかしいんですけど、母に聞いたら……」

 ――と、そのとき、ありすのタブレットが、短く振動した。
 彼女は操作をして、腰を上げた。

「迎え、来てくれたみたいです。今日はありがとうございました」

「あ、よかった。気をつけて帰ってね、濡れないように」

「ええ。失礼します」

 ありすはペコリとお辞儀をして、

「そう、名前の由来はですね」と、ちょっとはにかんだ。
27 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:15:59.42 ID:/E20kLoAo
「ただ、かわいいからって。それだけですよ」

 そのときの彼女の表情に、私は思わず言葉を詰まらせてしまった。
 私が12歳の頃、きっと同じ顔をしていたから。

「また、明日――」

 ありすが職員室を出て行ったあと、私はその姿を追うように窓の外を見つめた。
 藍色に淀む空から落ちた雨は、アスファルトを青く青く覆った。
 水たまりの上を小さな影が通ると、街灯の光が細い糸のようになって波紋を広げた。

 秋の雨は穏やかに長く降る。しばらくのあいだ、なかなか晴天が見られなかった。
28 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:18:23.89 ID:/E20kLoAo
 ――――

 秋口、ありすと放課後を一緒に過ごすことが多くなった。

「母は心配症なんです」と、ありすはよく話した。

「私だって、もうそこまで子供じゃありませんから、ひとりで帰ってもいいんですけど、
 ……でも、家へ帰ってもどうせひとりで退屈ですから、
 学校で迎えを待ってるあいだに宿題をするくらいがちょうどいいっていうか」

 ありすは早口に言ったあと、必ず、ちょっと不安そうな顔をする。

「私、いつも居残って、迷惑じゃないですか?」
29 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:20:02.69 ID:/E20kLoAo
「ううん、そんなことないよ。先生も、橘さんとお話できて、嬉しいもの」

「そうですか」と、ありすはやっと表情を和らげる。

 放課後、私たちはいろいろな話をした。
 彼女の好きな小説や、私の昔話。
 以前話したきり、ありすという名前については話題に出さなかった。

「あの、……ところで、先生は、音楽は好きですか」

 ある日、ありすはふっとそんなことを言った。

「うん、好きだよ。橘さんは?」

「私も、好きです。だから、先生、ピアノ弾けて羨ましいです」

「習ってみるのも楽しいんじゃない? きっとすぐ弾けるようになるよ」

「ずいぶん前、母に勧められたんですけど、断っちゃって」

 ありすはちょっと目を伏せて、それからためらいがちに言葉を続けた。

「あの、私、将来、歌手になりたいんです」
30 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:20:42.29 ID:/E20kLoAo
「歌手に……」

 引っ込み思案な子だとばかり思っていたせいか、すこし意外な気がした。
 けれど、こうして接すると、もともとは活発な性格の子なのかもしれない。

 それから、ありすはいつもよりずっと饒舌に話してくれた。
 音楽への憧れや、自らの夢について。毎日、歌の練習までしているらしい。

「私、歌には力があるって、そう思うんです」

 熱に浮かされたような話しぶりに、私も夢中になって彼女の話を聞いた。
 ありすがその胸にこんな情熱を秘めているとは、思いもかけないことだった。
31 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:21:20.65 ID:/E20kLoAo
「このあいだ、母に話したんです」

「歌手になりたいっていう夢を?」

「はい。オーディションを受けたいって」

「オーディション! すごいわね」

 そう言ってから、私はありすの浮かない表情に気がついた。

「もしかして、反対されちゃった?」

「いえ、むしろ応援してくれて」

「いいお母さんね」

「そうでしょうか?」と、ありすは自嘲的に言った。

「どうしてそう思うの?」
32 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:22:30.06 ID:/E20kLoAo
「だって、反対するじゃないですか、フツウ。
 歌手なんて厳しい道で、……それに、調べてみたら私の年齢じゃ、条件に合わないところも多くて」

「ああ、12歳だと受けられないところもあるのね」

「そうなんです。歌手にこだわらなければ、他にもあるんですけど、別に、……私、タレントになりたいワケじゃないので」

「そうなんだ」と、私は言った。

「でも、私、どうしても受けてみたいところがあって。
 私の、尊敬しているアーティストが所属しているところなんです。
 だから、ダメ元でいいから受けてみたいって話したんです。
 年齢は届いてないんですけど、……そうしたら、母は簡単にオーケーしてくれて。
 でも、変ですよね。思うようにやってみなさいって」

「変かな、……私はいいお母さんだと思うけど」
33 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:23:32.45 ID:/E20kLoAo
「反対するのがフツウじゃないですか。
 夢みたいなことだって、条件だって満たしてないのに。
 母は……ちょっと親バカなんです。話を聞いてすぐ申し込んじゃうし、問い合わせまでしちゃって」

 そんな風に、ありすはポツポツと愚痴をこぼした。
 私には、子供の夢に一生懸命な良い母親と思えるのだが。

「来週、そのオーディションがあるんです。
 ……困りますよね、ホントに。困るんです、私……」

 同じような問答を行ったり来たりしているうちに、私はようやく合点がいった。

 要するに、ありすは不安なのだ。
 トントン拍子で決まってしまったオーディションに、緊張しているのだった。
34 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:24:39.04 ID:/E20kLoAo
「橘さん」と、私は彼女の言葉を遮った。

「オーディションが急に決まって、しんどいよね」

「いえ、……あの、私が言い出したことなので」

「それでも、やっぱりプレッシャーあると思うんだ。自分が気づかないところでも」

「その、……たしかに、緊張はすこししてるんです」

「橘さんの立場からすると、やっぱりお母さんはちょっとせっかちだよね。
 ……でも、橘さんの夢を叶えてあげたいって、応援したいって思ってるんだよ」

 私がそう言うと、ありすはちょっと顔を赤くした。

「そうですよね、……私、頑張りますから」

 私はその言葉を聞いて、ホッと胸をなでおろした。
35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:25:55.46 ID:/E20kLoAo
「先生ってすごいですね」

 そう言って、ありすは頬を掻いた。

「どうしてそう思ったの?」

「私、先生には素直にお話できるんです。だから、すごいと思って」

「ううん、特別なことじゃないよ」

「そうでしょうか。私の母とか、他の人は自分が話してばっかりで、私の話なんか全然聞いてくれないんです」

 そうだろうか、と私は思った。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:26:41.66 ID:/E20kLoAo
 きっと違う。ありすは誤解している。
 たぶん、ありすの母が、ありすをすこしだけ誤解しているように。
 けれど、それを知らせることは私の仕事でないような気がして、言葉を飲み込んだ。
 教師というのは、こういうとき損な役だ――、と思った。

 言わなきゃ、言わなきゃとわかっていることを、それでも黙っていなければならない。

「気をつけて帰ってね」

 私が手を振ると、ありすは恥ずかしそうに手を振り返した。
 雨の音は廊下の暗闇に散ると、風に舞う砂のように響いて行った。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:28:12.26 ID:/E20kLoAo
 ――――

 週明け、秋雨は乾いた。
 窓にはピンと張った布のように凪いだ空――、どこまでも透き通って、宇宙まで青い色を届けそうだった。
 雲が細く連なって、風の形を描いているのを見ると、気持ちもなんだか清々しい。

 けれど、空模様と裏腹に、ありすの表情は朝から沈んでいた。
 訊くと、やはり先週末のオーディションは、芳しくない結果に終わったらしい。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:29:35.30 ID:/E20kLoAo
「不合格でした」

 私があんまり残念そうな顔をしていたせいかもしれない。
 ありすは大人びた笑いを浮かべて、延々とオーディションの話を続けた。

「でも、……いい経験にはなりましたよ。
 これから次に向けて、努力あるのみです、次は。
 ……まるで、眼中にないって感じでしたけど。
 でも、ダメで、もともとって、思って受けたオーディションですから」

 興味を持ってくれる人もいたようだが、一次選考の時点で弾かれた。
 実力の差ははっきりしていて、中でも二人、図抜けて上手な女の子に注目が集まっていたそうだ。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:30:52.53 ID:/E20kLoAo
「母も、ずいぶん残念がってましたけど、……だけど、甘いんですよ。
 そうは思いませんか?」

「どうかな、先生は……」

「先生は、……なんです?」

 私は思わず口をつぐんだ。言わなきゃ、言わなきゃ、とわかっているのに。
 ありすは怪訝そうな顔で言葉を待っていた。
 けれど、それで話は終わってしまった。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:32:17.87 ID:/E20kLoAo
「私、ひとりぼっちなんです」

 オーディション以来、それはありすの口癖になった。

「先生だけですね、私の味方は……」

「味方」

 彼女自身がそう感じているのだから、私が否定しても仕方ないとは思うけれど、やはり寂しい気がした。
 オーディションに不合格だからといって、音楽に嫌われたわけではないのだが。

 私は笑みを浮かべると、ありすの背中をポンと叩いた。

「それなら、二人ぼっちってことかな」

「二人ぼっちですか」

 ありすはなんだか困ったように笑い返した。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:32:51.84 ID:/E20kLoAo
「アリスとありすで、二人ぼっち。ひとりじゃないから、寂しくない。ね?」

「――――」

 ありすが言いかけたらしい言葉は、はらりとほどけて宙に舞い、口元へ幼いはにかみだけを残した。
 本当はもっと、教師として、ありすに伝えるべきことがあった。
 きっと、たくさんあった。

「あーあ。私が12歳だった頃に、ありすが居てくれたらなぁ」

 私が本心から言うと、ありすはクスクスと笑った。

「その頃はまだ、母のお腹の中にも居なかったでしょうね」

「私も、歳取っちゃったなぁ」
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:35:10.19 ID:/E20kLoAo
「ふふっ。……ああ、すみません、時間なのでそろそろ行きます」

 そう言って、ありすは腰を上げた。
 すっかり長話が習慣になってしまった。

「さよなら」と、言いかけて、私は慌てて彼女を呼び止めた。

「あっ、橘さん、言いそびれてたゴメン! ちょっといいかな?」

「え、はい、なんでしょうか?」

「あのね、卒業式の合唱のことなんだけど……」

 私は幾つか楽譜のコピーを取り出して、机に並べた。

「あの、曲はもう決まってるんですよね?」

「決まってるんだけどね、ひとつ頼みたいことがあるのよ」

「なんですか?」と、ありすは首を傾げた。「私、ピアノはできませんよ」
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:36:18.95 ID:/E20kLoAo
「あのね、パートリーダー、やってくれないかしら」

「パートリーダー」と、オウム返しにして、ありすは怪訝そうな顔をした。

「みんなのまとめ役と言えばいいのかなぁ。パートでわかれて練習することもあるでしょ?
 そういうとき、私、手一杯になっちゃうから」

「そ、そんな大それたこと……私……」

 ありすは頭を振った。

「できたらで、いいんだけど。それに、……橘さんがあいだに入ってくれると先生も助かるなぁ、って」

 私がそう言うと、ありすは俯いてじっと黙りこんだ。
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:37:15.27 ID:/E20kLoAo
「あの、いますぐ決めなくていいんだけど……」

 私が楽譜を片づけようとすると、その手を遮って――ありすは顔を上げた。

「や、やります!」

「本当? ありがとう!」

「せ、先生に少しでも恩返しできるなら……」

「ありすは律儀ねぇ」

 私が名前を呼んでも、ありすはもう、なにも言い返さなかった。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:37:42.04 ID:/E20kLoAo
 それから、翌日。
 音楽の授業で、いよいよ合唱の練習が始まろうというとき、ありすはちょっと不安そうな顔をして、私を呼び止めた。

「私で大丈夫なんでしょうか」

 無理もない。いままで、クラスメイトとは意図的に関わりを避けていたのだから。
 私はポンとありすの肩を叩き、そして笑いかけた。

「大丈夫。みんな、ありすのことが好きなのよ」

「なんですか、それ」と、ありすは苦笑した。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga sage]:2017/11/09(木) 13:38:34.99 ID:/E20kLoAo
 実際、彼女の心配は杞憂に終わった。
 パートごとの練習中、ピアノの陰からこっそり覗くと、なんてことはない。
 しゃちほこばった感じはしたけれど、きちんとクラスメイトをまとめていた。
 頭のいい子なのだな、と改めて思う。

 ありすの長かった小学校生活も残すところあとわずか、いまのまま終えてしまうのはあまりにもったいない。
 最後に、みんなと関わる機会を作ってあげたかった。

 わざとらしいかなと、自分のおせっかいを気恥ずかしくも思った。
 けれども――、善良なおせっかい焼きでなければ、とても教師など務まらないのだ。
 言い訳がましいだろうか。
47 : ◆xJHI1D1Uro [saga sage]:2017/11/09(木) 13:55:36.01 ID:/E20kLoAo
小休止を挟んで、後半戦は明日までに投下しますーン。
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