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【艦これ】提督「風病」 2【SS】
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253 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/20(金) 02:10:47.30 ID:6vWW5cBN0
投下終了です。
長らくお待たせしてしまい、すいませんでした。
254 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/03/20(金) 17:26:50.61 ID:vxJORoKmO
よかった、本当に、よかった
乙
255 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2020/03/21(土) 16:28:39.37 ID:2gxZJf8e0
待ってました!
256 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/03/21(土) 19:17:19.91 ID:AYTzpoquO
一年半も経ってたのか…
ともあれ待ってました、これからも楽しみにしています
257 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:42:15.24 ID:LO56XlXm0
工廠の火災は、陽炎が予想したように艤装の爆発が招いたものだった。迅速な消火活動の結果、全壊は免れたものの、被害はけっして小さくはなかった。工廠は半壊。艤装の大半は、消失してしまった。
敵襲でなかったことは幸いだったが、だからといってお咎めなしとはいくはずがない。事故の責任は当然のように追及された。提督会議本部に招集された俺は、横須賀副議長から厳しい訓戒を受け、減給処分と工廠の修繕が完了するまでの間の謹慎を言い渡された。これ程に軽い処分で済んだのは、提督という貴重な人材を長期間遊ばせておく暇がないことと、舞鶴中将の口添えがあったからだろう。
工事の終了は、一週間後の予定であった。鎮守府設備の修理は、通常妖精が行う。一瞬で艤装を作り出すほどの彼らの能力を持ってすれば、大規模な修理もその程度で済んでしまう。呆気ないものだ。
だが、その呆気なさは、今の俺には有り難くない。たったの一週間。たったの一週間だ。それくらいで、心の整理が付くものだろうか。
雷と、向き合えるようになるのだろうか。
頭には、あの夜の光景がこべりついている。俺の上に馬乗りになって、涎を蜜のように吸う卑しい女の汚らわしい光景が。月明かりに狂った、一匹の性に支配された獣が。
ずっと、俺を苛んでいくる。
あれから二日がたった。それでも、消えようとはしない。
舞鶴「……柊中佐。ずいぶん、顔色が悪いじゃないか」
本部からの帰り道。門を出てすぐのところにある葉桜の並木道を、舞鶴中将と歩いていた。達磨のような体型の舞鶴中将は、太い眉を潜めて俺の顔を覗き込んでいる。
提督「……そうでしょうか?」
舞鶴「どう見てもそうだ。萎びた玉葱のような顔をしているぞ」
その例えはよく分からないが、よっぽど酷いのだろう。
舞鶴「責任を感じとるのはわかるが、そこまで窶れることもなかろうに。たったの一週間、我慢すればよいだけであろうが」
提督「まあ……」
舞鶴「たく、小心なところは治っておらんのぉ。指揮能力は優秀だというのに、勿体ない。そこさえ治ればなあ」
258 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:43:24.65 ID:LO56XlXm0
舞鶴中将は、溜息をついた。立派に蓄えた髭が心なしか残念そうに下がって見える。
訂正する気も言い訳する気も起きず、すいませんと頭を下げる。分かってもらえるわけもない。俺の今の苦しみを。
舞鶴「過ぎたことは過ぎたこと! くよくよしていても男が下がるだけだぞ柊中佐! 過去はどんなに後悔しても戻ってこんから、後ろを振り向く暇があったら前を向かんか前を!」
提督「あだっ!」
背中をぶっ叩かれて思わず悲鳴を上げた。柔道五段の平手打ちは並の痛さではない。背中には刺すような痛みが波を起こしていた。
彼とやり取りしているときは、大抵叩かれるので慣れてはいたが、痛いものは痛い。無言の抗議を目線に込めると、舞鶴中将は豪快に笑った。散歩中の貴婦人が、二度見するほどの声量だった。
舞鶴「その粋だ! わしを睨む元気があるならもう大丈夫だな!」
提督「……気合いを入れてもらって、ありがとうございます」
舞鶴「む、なんだ? 声が小さいな。もう一発いっておくか?」
提督「わあ、勘弁してください! 気合いを入れていただいて、ありがとうございますっ!」
これ以上、あんな岩みたいな手で殴られてたまるか。
舞鶴「よしよし、それでこそ帝国海軍軍人だ。……いいか、柊。お前は部下たちの鏡だ。お前が痩せた大根のような顔をしておったら、部下たちも不安に思う。そうしたら、艦隊の指揮にも必ず響いてくるぞ?」
提督「……」
舞鶴「儂らには、泣くことも不安に暮れることも許されん。指揮官たるもの毅然としておくことが寛容だ。一番最初に教えたことのはずだ。初心を忘れるな」
提督「はい、先生」
あなたの教えは、痛いほど分かっている。だが、俺という人間の弱さが、その教えを忠実に守ることを許さない。許さないのだ。
俺は、あらゆるものが怖い。艦娘制度という歪みをもたらす悍しいものに関わる全てが。
259 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:45:04.83 ID:LO56XlXm0
あの夜の光景も、その一つだ。
薫風が、木々をそよそよと通り過ぎる。いつの間にか川辺の近くにまで来ていた。ハハコグサが揺れる川辺は、温かな陽射しを受けて宝石のようにキラキラと輝いている。犬と戯れる童たちがいた。憎たらしいほどに楽しそうだった。
内地の長閑すぎる光景は、俺の目には毒だ。あまりにも、ギャップがありすぎる。
舞鶴「……墓参りには、行くのか?」
舞鶴中将は、唐突にそう尋ねてきた。
誰の墓参りか。俺の父と母、そして静流の墓参りだ。
提督「はい。帝都を離れる前に済ませようと思っています」
舞鶴「そうか、そうだな。帝都はいつ離れる予定だ?」
提督「今日の夕刻までには、鎮守府に戻ろうかと思っています」
舞鶴「……ふむ、性急だな。そんなすぐに戻ったところで、どうせすることはないだろうに」
提督「いえ、溜まっている報告書や書類があるので、せっかくの機会に片付けてしまおうかと思っていました。謹慎中でも提出する準備くらいはできますし」
舞鶴「生真面目なやつめ」
舞鶴提督は顔をしかめて言った。だが、すぐに顔を引き締めた。
260 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:45:58.81 ID:LO56XlXm0
改まって、どうした?
舞鶴「その予定、変更できんか?」
提督「なぜです?」
舞鶴「閣下が、お前に会いたがっている」
提督「閣下が?」
俺は目を見開いた。閣下とは、今は隠居されてしまった呉元提督のことだ。お会いするたびにいつも気にかけてもらっていたが、最近はまったく会うこともなくなってしまっていた。
閣下は、引退されてからというもの誰にも会いたがらなかったからだ。俺も何度か挨拶に伺おうとしていたが、目の前の達磨中将に止められていた。
それが、今になって、なぜ? しかも、俺などに。
舞鶴「閣下は、お前に話したいことがあるのだそうだ。詳細は私も分からんが、とにかく、急ぎでないならすぐに会いにいってくれ」
提督「それは良いのですが……。なぜ、私に?」
舞鶴「詳細は知らんと言ったろう。閣下は、昔からお前を気に入っていたからな。ただ単に会いたいだけなのかもしれん」
提督「はあ」
舞鶴「いいから、行ってこい。閣下の呼び出しなんだぞ?」
よくは分からないが、舞鶴中将の言うとおりだ。閣下の呼び出しを無碍にはできない。
俺は、舞鶴中将に頭を下げて閣下のところへと向かった。
261 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:47:05.44 ID:LO56XlXm0
undefined
262 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:47:46.21 ID:LO56XlXm0
閣下の屋敷は、帝都の一等地に建っている。立派な庭園がついた巨大な日本屋敷だ。見るものを圧倒する威風堂々とした出で立ちは、どこか閣下を思わせるものである。
威容と形容すべき門の前で、俺は喉を鳴らした。
何回来ても緊張する。無理もないだろう。相手は艦娘制度の始まりから艦隊を率いて深海棲艦と戦ってきた生ける伝説、軍神そのものだ。艦娘と一緒に内火艇で出撃して指揮を振るった、なんていう冗談みたいな言い伝えをもつ男なのだ。
軍人としての格そのものが違う。引退したとはいえ、それはなんら色褪せない。
俺は、手汗を拭いて呼び鈴を鳴らした。
乾いた金属音とともに声がした。女性の声だ。澄んだ綺麗な声だった。
提督「失礼致します。御主人様に、柊結弦が挨拶に参りましたとお伝えください」
「ああ、柊中佐かあ」
女性の声が、嬉しそうに弾んだ。門が開くと、現れたのは美麗な熟年の淑女であった。紫の髪に、紫の瞳。どこかで見た顔だった。
「久しぶりだね。私のこと、わかるかい?」
提督「……隼鷹さん?」
まさか、この年老いた女性が? 自分でいいながら信じられない気持ちだったが、彼女以外に思い当たる節がない。
彼女は、白い歯を見せた。
隼鷹「正解! よく分かったね?」
提督「……やはり、そうでしたか」
隼鷹「ははは、びっくりしたでしょ? 解体されて艦娘じゃなくなったからさ、魔法が溶けちゃったんだよ」
魔法。その言葉で得心がいった。艦娘は艦娘になった時点で成長が止まってしまうのだが、解体された瞬間に人間に戻るためか、その反動で止まっていた時間分一気に歳を取るのだ。この現象を、一部では「玉手箱を開ける」などと揶揄するが、隼鷹さんほど歳を取る艦娘はまず存在しない。
263 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:48:47.08 ID:LO56XlXm0
なぜなら、ほとんどの艦娘が歳を重ねる前に戦死して転生するからだ。それほどに艦娘の死亡率は高いのだが、隼鷹さんはその中でも例外中の例外、三十年前の開戦初期から生き残っている艦娘である。かなりのレアケースで、そんな強運に恵まれた艦娘は、後は雪風と大和くらいしかいない。
だからこそ、彼女はこうして歳を取ったわけだが、理屈は分かってもさすがに驚きを禁じ得ない。
俺が何とも言えない表情をしていたせいか、隼鷹さんは優しく、それでいて少し寂しそうに笑った。
隼鷹「まあ、そんな顔するなよな。私もお婆ちゃんになっちゃって戸惑ってるけどさ、それはそれで幸せなことなんだからさ」
提督「……そうですね」
たしかに、そのとおりなのだろう。無惨に死んでは転生し無惨に死んでは転生を繰り返す他の艦娘たちに比べると、はるかに幸せなことなのかもしれない。
俺が頷いて笑ってみせると、隼鷹さんも満足そうに微笑んだ。
隼鷹「じゃ、とりあえず上がれよ。提督……じゃなかった、豪三郎さんがお前のことを首を長くして待っていたんだからな。はやく会いにいってやれ」
提督「はい。お邪魔します」
門を抜けて飛び石を渡ると、これでもかと広い玄関についた。靴を脱いで上がり、隼鷹さんに案内されて廊下を歩く。日本家屋らしい木の温もりに包まれた家だ。ヒノキのいい香りがした。
長い廊下を歩いて辿り着いたのは、中庭だった。
庭石に一人の老人が座っている。和服を着た、痩せた老人だ。暖かな陽の光を浴びながら、穏やかな表情で手に持った一葉の写真を見つめていた。小鳥が鳴き、鹿威しが静かに響く。まるで、洋画を見ているような幻想的な光景。
264 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:49:48.43 ID:LO56XlXm0
その美しさに、一瞬、目を奪われた。そこにいるのは間違いなく呉元提督……閣下その人であった。
提督「……閣下」
俺が声をかけると、閣下はゆっくりと顔をこちらに向けた。
俺は、息を飲んだ。こちらに顔を向けて初めて気付かされた。その、やつれ切った表情に。
呉「結弦くん。久しいな」
提督「……お久しぶりです。お邪魔しております」
呉「ああ、今日はゆっくりしていくといい。……すまないな。ちょっと陽を浴びたくて庭に出ていたんだ。客間に移ろうか」
閣下は微笑みながら言うと、杖をもってゆっくりと立ち上がった。そこに、大艦隊を指揮していた頃の気迫はない。
隼鷹さんが慌てて駆け寄り、介抱する。以前なら強気で突っぱねていたはずのそれを、すんなりと受けていた。
酷く、胸を締め付けられた。
提督「はい、わかりました」
表情に出さないようにするのが精一杯だった。彼が人と会いたがらなかった理由が、分かってしまった。
閣下は、俺のそばにやってくると心底嬉しそうに笑ってくれた。骨の浮いた手で、俺の身体を触る。
呉「事故があったと聴いていたが、どうやら怪我はしていないようだな」
提督「ええ、なんとか……」
265 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:50:56.95 ID:LO56XlXm0
さすが、引退してはいても耳が速い。
提督「いらぬご心配をおかけして大変申し訳ありません」
呉「まったく、話を聞いたときは肝を冷やしたぞ。まあ、何はともあれ無事でよかったが」
閣下はそう言って、俺の手元に視線を落とした。
呉「ん? その手に持っているのは、まさか……」
提督「ええ。松島屋の豆大福です。少々忙しかったのでこのようなものしか手土産にできず申し訳ないのですが」
呉「いや、素晴らしいものじゃないか。私は松島屋の豆大福に目がないのだ。良いものをありがとう。……隼鷹」
隼鷹「分かってる。茶だろ? 用意してくるよ」
隼鷹さんは片目を閉じて、茶の用意に台所へ向かった。俺たちはその間に、すぐそばの客間に移動する。
俺は閣下の真向かいに腰を落とした。つい習性で正座をすると、呉提督がさっそく豆大福の箱を開けながら言ってくれた。
呉「楽にしてくれ。お前は客だからな」
提督「はい、わかりました」
胡座で座り直す。
呉「さて、今日は大変なところをいきなり呼びつけて悪かったな」
提督「いえいえ。閣下のお呼び出しならば、たとえ槍が降ろうとすぐに駆けつけますよ」
呉「大袈裟な物言いをするな。そう言ってもらえると嬉しくはあるが」
カラカラと、閣下は笑う。
266 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:52:01.05 ID:LO56XlXm0
提督「……それで、本日はどのようなご用件で?」
呉「色々ある。まず、結弦くんの近況が聞きたい。最近はどうだ? 海域攻略は進んでおるか?」
提督「ええ、一応、バシー島沖の攻略も順調に進んでおります。このままのペースで行ければですが、今月中には攻略も完了するかと」
呉「ほう、そうか。では、次はいよいよ『魔の海域』だな。あそこはそこそこに大変なところだから、心してかかれよ」
提督「はい。覚悟して参ろうと思っています」
呉「良い良い、その粋だ。お前なら心配せんでも大丈夫だろう」
提督「……」
この人は、こんなにも優しい人だったろうか? 俺の知っている閣下のイメージは、もっと峻厳で、もっと苛烈なものだ。直属の部下にも刃のように容赦なく切り込み、厳しく接するイメージがある。
それは、俺に対しても例外ではなかったはずだ。やはり、引退されたことや息子さんが亡くなられたことが、彼の心境に変化をもたらしているのだろうか?
閣下のやつれきった顔に、答えがあるのだろう。彼の苦悩は、俺ごときに押し測れるものではないはずだ。
閣下が豆大福に手を付け出した。そのタイミングで、隼鷹さんがお茶を運んできてくれた。
提督「ありがとうございます」
隼鷹「いいってことよ。それより、今日はゆっくりしていってくれよな。久しぶりの来客で私も嬉しいんだ」
隼鷹さんは、本心から言ってくれているのだろう。お茶を差し出す手は労りに満ちていた。
呉「かっかっ、本当は酒を出したいところなんだがなあ。秘蔵の三十年ものの響があるんだ」
隼鷹「駄目だぜ、豪三郎さん。酒は医者に止められているだろ?」
呉「むっ、貴様に酒を止められると調子が狂うな」
隼鷹「どういう意味だよ?」
呉「自分の行いを振り返らんか。蛙は口から飲まれるということだ」
267 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:53:00.40 ID:LO56XlXm0
ぐうの音も出ないのだろう、隼鷹さんが押し黙った。俺が思わず噴き出してしまうと、赤らめた頬を膨らませながら「……最近は止めてるし」と呟いた。
隼鷹「……じゃ、じゃあ、私はもう行くからな! なんかあったら呼んでくれよ?」
隼鷹さんが恥ずかしそうに去っていく。閣下はその後ろ姿に静かな瞳を向けていた。
呉「あれは、いい女だろう?」
提督「……そうですね」
呉「私が辞任するときに、付いて行くといって聞かなくてな。戦力の低下に繋がって後任に迷惑がかかるから止めろと言っても、まったく応じなかった。『お前一人には抱え込ませない』と言って。……頑固な女だよ」
まるで数十年来の連れ合いを自慢するように、彼の口調には深い慈愛が感じられた。これが、開戦から背中を預け合ってきたもの同士の絆というものなのだろうか。
こんな美しいものが、あったのだな。艦娘は、道具のように扱われてばかりだと思っていた。そうした艦娘ばかりが、うちには沢山いるから。いいように扱われ、捨てられ、玩具同然に弄ばれ……壊れてしまった子たちばかりが。
俺も、みんなと、こんな風になりたいものだ。果たして、なれるのだろうか。こんな絆を、作れるのだろうか?
呉「……結弦くん」
提督「はい」
呉「お前の鎮守府は、難しいだろう?」
即答はできなかった。思わず口をつぐんでしまう。そして、この反応が、何よりも雄弁に事実を語っていた。
閣下は、隼鷹さんに向けていた目を俺にも向けてきた。すべてを見透かすような瞳だった。
268 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:53:56.05 ID:LO56XlXm0
呉「すまないな。お前があの改装鎮守府の提督になったのは、すべて私の力不足だ。東の捨て艦を止められなかったのも、療養所の改装という馬鹿げた計画も……私は止めることができなかった。もし、その頃の私にもう少し力があったなら、君をあのまま輝かしい道に進ませることができたはずなのに」
提督「……閣下」
呉「責任を感じていたのだ、ずっと。本当にすまなかった」
閣下はそう言って、頭を下げた。目頭が熱くなるのを禁じ得なかったが、舌唇を噛んで我慢する。
彼は、分かってくれている。俺が背負った業の深さを。苦しみを。
なんて慈悲深い人なのだろうか。仏を見ているような気分だ。
提督「閣下、頭を上げてください。……俺があの鎮守府を任されたのは仕方のないことです。閣下のせいではありません」
そうだ、すべての原因は東提督という悪魔にある。あの事件の前から、捨て艦を無くそうと尽力していた閣下を責めることなどできるはずがない。
鹿威しがなった。静謐さを揺らす、優しい響き。
提督「私は……この半年間、さまざまな悍しいものを目にしてきました。正直、海軍のあり方、艦娘制度のあり方に疑問を抱いたことも事実です。しかし、あの鎮守府に就任してよかったと思うこともあるのです」
予備役とはいえ、海軍大将だった人物に批判をぶつけるなど、ずいぶん大それた行いだ。だが、閣下は諌めることなく黙ってくれていた。眼で、続きを促してくる。
提督「……それは」
俺は唾を飲み込んで、言った。
提督「それは、彼女たちの笑顔を取り戻したことです」
269 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:55:00.79 ID:LO56XlXm0
浜風や陽炎、三隈、榛名、羽黒、青葉、その他の苦しみぬいて流れ着いた艦娘たち。一人ひとりの顔を思い浮かべる。彼女たちは、涙ばかりを流していただろうか? 否、南西鎮守府での日々の中で、少しずつ少しずつ笑顔を取り戻していったはずだ。
その笑顔は、大いに意味のあるものだ。行き場を失った彼女たちの、最後の寄る辺となっている事実。それはあるいは俺だけの自己満足なのかもしれない。だが、ささやかでも彼女たちの救いになったことは、どんな勲章よりも嬉しい俺だけの成果なのだ。
誰が何を言おうと、俺は、大きな財産を手にしている。手にしているのだ。
提督「……私は、それだけで意味のあることだと思っています。だから、どうか気にしないでください。私は、その役目を果たすことにはなんの躊躇もありはしないのですから」
いつもは誤魔化してばかりの俺も、今回ばかりは嘘をつかなかった。これは、紛れもない俺の本心。
呉「……言うようになったな」
言葉とは裏腹に、閣下の目は優しかった。
呉「あの洟垂れが、ずいぶんとまあ……。今日はやはり酒を用意するべきだったな」
提督「隼鷹さんが飛んできますよ」
呉「それもそうだな」
呉提督は白い歯を見せた。茶を一口含むと、今度は一点変わって目を細める。
呉「しかし、結弦くんよ。必ずしも、すべての艦娘がお前の期待に答えてくれるわけではない。……その意味は分かるな?」
270 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:55:43.03 ID:LO56XlXm0
俺は顔をしかめそうになるのを堪えて、頷いた。
呉「そのとき、お前がどういう選択をするのか。あの鎮守府で、お前に問われる真価はそこにある。すべての艦娘が平穏無事に笑って過ごしていけるわけがないことは、心しておけよ。そんな極楽は、お前たちの世界には存在せん」
いちいち、もっとだ。俺がずっと目をそらし続けてきた問題を、彼は目の前に持ってきて問答をした。間違いなく、俺の逃げ腰な短所をわかった上で。
呉「壊れるなよ、結弦くん。私は、お前なら乗り越えられると信じたい」
提督「なぜ、そこまで……そこまで、私のことを?」
呉「若者の力は侮れんということだ。私はな、ひたむきな若者が好きなんだよ」
閣下は大口を開けて、笑ってくれた。
271 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:56:31.14 ID:LO56XlXm0
湿っぽい話が続いたからか、その後閣下は取り留めのない雑談に切り替えて、クールダウンを測ってくれた。海軍内部の人間だけにわかる身内ネタから始まり、閣下が好きな相撲の話や落語の話、そして、内火艇で出撃し指揮を取ったという話が本当であることなど……閣下は元々話好きだったようで、話題は尽きなかった。
時計の針が大分進んで、陽射しが冷たくなってきた頃。閣下は急に皺の刻まれた顔を引き締めた。
呉「……さて、話は変わるが、お前にはもう一つ大事な話があるんだ」
急激な変化に、思わず姿勢を正した。閣下の顔は、海軍大将の頃のものに戻っていた。
提督「なんでしょう?」
呉「お前たち末端にはまだ伏せられていた話についてだ。この話は、提督会議の議員たちしか知らない」
それはつまり、超極秘事項ということである。
唐突にそんな話題になったことに、俺は戸惑いを隠せなかったが、閣下の反応を見る限りでは、本日の本命はどうやらこれのようだ。
俺は喉を鳴らして、閣下の言葉を待った。
呉「私がまだ呉鎮守府で指揮をしていた頃の話だ。東鎮守府の事件が発覚する直前……十一月初頭の夜のことだ。呉鎮守府第一艦隊は、サーモン海の定期攻略を終わらせて帰途の途中であった。その帰り、呉鎮守府近海付近で事件が起きた」
272 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:57:31.66 ID:LO56XlXm0
提督「事件」
呉「ある、正体不明の深海棲艦に出くわしたのだ」
閣下の言葉は淡々としていたが、どこか苦々しい重さが混じっていく。
呉「敵は一隻。見たこともない艦影で、艦種はまったく類推することができなかった。我が隊の旗艦武蔵は、慎重に慎重を重ねて敵を観察し、攻撃を行うべきかどうか報告を入れてきた。私は了承したよ。燃料にも弾薬にも余力があったからな。しかも、敵は一隻だった。いかなる艦種であっても、たやすく撃滅できるであろうと、慢心もあった」
提督「……」
呉「結論から言うと、我々は大損害を被った。そのたった一隻の敵艦に、駆逐艦一隻が轟沈、旗艦武蔵を含めた三隻が大破に追いやられた」
提督「――な」
絶句した。呉鎮守府の第一艦隊といえば、海軍最強の艦隊だ。それが、たった一隻の深海棲艦にそれほどにしてやられるなど……。到底信じられない話だ。
だが、閣下はそんなことを冗談で言う人ではない。
呉「あれは、とんでもない化物だった。駆逐艦のような見た目のくせに、武蔵に匹敵する威力を持った主砲と、正規空母並の艦載機保有数を誇っていた。しかもそれだけではない。雷装巡洋艦を思わせるほどの魚雷まで搭載していたよ。砲撃、雷撃、航空戦……まるで、すべての深海棲艦を合成した生物
のようであった。そんなものを、化物以外のなんと形容すればいいか。……私たちの艦隊は、そいつにいいようにしてやられた。最終的に刺し違える覚悟で、武蔵が撃沈させることに成功したが、一歩間違えれば私たちは全滅していたであろう」
息を飲んだ俺を一瞥し、閣下は息を吐いた。
273 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:58:48.17 ID:LO56XlXm0
呉「……信じられない話だろう?」
提督「はい」
呉「だが、事実だ。あいつは、ニタニタ笑いながら我が艦隊を相手にしていたそうだ。思い出したくもない、悪夢のような夜だったよ。私たちは、そいつのことを戦艦レ級とカテゴライズした」
提督「……戦艦レ級」
そんな化物が現実に存在するという事実に、寒気を覚える。しかも、呉鎮守府がその艦隊と出くわした場所は、海域の最深部などではない。ただの帰り道だ。しかも、鎮守府近海のすぐ近く。
それは、これまでに考えられてきた深海棲艦の常識とは明らかに違う。
提督「……縄張り行動をとっていない」
俺の呟きに、閣下は肯定の言葉を述べた。
呉「そうだ。あれは、あんな場所に現れていいような敵ではないし、群れずにたった一隻で行動していた点でも普通とは違う。これまでの下らん理屈のどれにも当てはまらない。……まあ、だからこそ、提督会議以下には伏せられたわけだがな。いらん混乱を避けるためという弱腰な理由で」
その口調には強い皮肉が籠もっていた。だが、もっともだ。そんな危険な存在についての情報を周知徹底しないなど、本当にどうかしている。もし、呉鎮守府ほどの実力を持たない鎮守府が、不運にもそいつと出くわしたらどうなるか……考えるまでもない。
呉「あれの存在が示す恐るべき事実は、そこだけじゃない。……深海棲艦がさらなる進化を遂げたという事実。それが、もっとも恐ろしい」
提督「そう、ですね。いわゆる、姫クラスとも違うようです」
呉「やつらは、縄張り行動に縛られるからな。だが、レ級はそうじゃない」
俺の脇から冷たい汗が流れ落ちていく。風の音、水の流れ、鳥の声。あらゆる情報が重たく、入ってくる。
閣下が何を言おうとしているか、俺には分かってしまった。
呉「……あれが、私の出くわした一隻だけだったならいい。突然変異種で、百年に一体生まれるような個体ならいいだろう。だが、そうは思えない。もしあれが、次から次へと生まれてくるようなら……」
閣下は、言葉を切って続けた。
274 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 20:59:46.63 ID:LO56XlXm0
呉「我々は戦争に負けるぞ、結弦くん」
鋭利な刃で突き刺されたかのように、俺の心にその言葉が食い込んでくる。南鎮守府の空襲でも感じた嫌な予感が、ジワジワと重油のように湧き出してきた。
まさか、あの事件の犯人も――。
証拠のない推論にしかならないが、そう考えてしまっても違和感はおきない。空恐ろしさを感じたが、答えが出しようはないので、一旦保留する。
提督「……私は、どうすれば良いのでしょう? この目の前に現れた危機に対して、どう対処すればよいのでしょうか?」
呉「備えろ」
俺の質問に、閣下は即答した。
呉「正直、いまのお前にできることは少ない。だから、いまは戦力を整えて備えるんだ。来たるべき日に向けてな。そして、海域攻略に勤しめ。実力のないものの意見に耳を傾けるような海軍ではない。しっかり実力をつけ、お前の影響力を高め、やがて……やがて革命を起こせ。お前と、舞鶴でな」
俺は大きく目を見開いた。
いま、この人は俺にクーデターを起こすよう示唆したのだ。そこに、予備役となった男の本音が現れていた。
俺にこの話をした理由も、きっとここにある。海軍には、閣下を擁していた「呉派」と横須賀大将が統べる「横須賀派」に分かれて派閥争いをしていた。前者は深海棲艦の殲滅と早期終戦を目指す「積極決戦派」とも呼ばれ、後者は国防の優先と鎖国体制の完成を目指す「鎖国派」とも呼ばれている。両者は互いに主義主張を対立させ歪み合ってきたが、「呉派」だった東提督が起こした捨て艦事件や、閣下の引退が重なり、呉派の求心力は低下。今の海軍は、横須賀派にほとんど牛耳られているのが現状だった。
その現状を打開しろ、ということだ。彼ら「鎖国派」は自身の信仰する優生思想と、自分たちの利益にしか興味がない。この戦線の膠着状態によって、うまい汁が吸えている彼らがいつまでも椅子に座っていたら、戦争は終わらない。戦争を終わらせるため、敗戦を防ぐため……そのための、クーデター。
275 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:00:47.97 ID:LO56XlXm0
呉「だが、焦るなよ。お前たちには今、味方になる勢力が少ない。今行動を起こしたところで、国民の支持も得られないだろう。あまり時間もかけてはいられないが、時期焦燥に走っては足元を掬われる。横須賀も、佐世保の小僧も存外手強い。やつらを相手するには、十分な準備がいる」
提督「……」
呉「迷っているのか?」
提督「……いえ、そういうわけではありません。ただ、私にその役目が務まるかどうか、正直自信がありません」
呉「弱気になるな。お前ならできるさ。……ただ、こんな負担を背負わせてしまうのも、また私のせいだ。すまないな」
提督「いいえ。海軍を変えなければいけないとは、私もずっと思っていたことです。……跡を引き継いだ私たちが、やらねばならないことだとは思いますので」
内心、かなりのプレッシャーは感じていた。閣下は評価してくれているみたいだが、どうしてそんな風に思ってもらえるのかも分からないし、俺は自分をそこまで過大に評価してはいない。酒に頼り切らねばやっていけぬ、軟弱な人間だと思っている。
どうして、俺なのか。そう思ってしまうところはある。だが、俺や舞鶴提督がやらねばならないことも分かってはいる。
提督「……閣下が、いてくれれば」
つい喉元からその言葉が零れ出た。はっとして、閣下の方を見ると、困ったような笑顔を浮かべていた。
呉「……お前たちには、酷なことをさせてしまっているな」
提督「すいません、つい……」
呉「いいんだ。いい。私の引退が、海軍に大きな歪みをもたらしたのは事実だからな。だが、私はあそこで辞めなければならなかった。辞めなければ、私は桐生家の人間として、いや……人としての道を反することになっていた」
閣下の顔には、寂寥感が影になって浮かんだ。閣下は床の間に目を向けている。そこには、彼の奥方と息子さんの写真があった。
276 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:01:41.27 ID:LO56XlXm0
何があったのか、俺は知っている。彼が息子さんにいかなる処断を降したかも。その責任をとって、海軍を退いたことも。
言葉に尽くせぬほどの後悔が、黒い瞳に陽炎となって映っている。さっき、中庭でも写真を眺めていた。その写真は彼の懐に仕舞われているが、きっとその写真にも息子さんが映っているに違いない。
ずっと、いつ何時でも……彼は自分を責め続けているのだ。
呉「人は、ときに自分の選択を後悔する」
その言葉には、苔むした岩のような重みがあった。
呉「もっといい選択肢があったのではないか、とな。それは避けられないことだ。さっきも選択の話をしたが、これから君にはたくさんの選ばなければならない状況が訪れるだろう。後悔することも、きっとたくさんな。そのとき君がどうするのか、私は見届けたかったが……まあ、それはいい。ただ、例えその選択肢が後悔するものだったとしても、選んでしまった以上、その事実は変えられない。その後の行動、考えが重要なんだ」
提督「……はい」
首肯しながら気づいていた。彼は俺に言いながら、自分にも言い聞かせているのだと。呪い囚われた自分に対して。
そして俺に、自分のできなかったことを託している。
呉「結弦くん、いや柊結弦中佐。お前はきっと、大いに成長できる。……海軍の、この国の未来を託したぞ」
277 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:02:41.96 ID:LO56XlXm0
提督「今日は、お世話になりました」
俺は玄関で、呉提督と隼鷹さんに頭を下げた。時刻はもう八時を回ろうとしていたためか、外はすっかり暗く、鈴虫の声が風流に響いていた。
呉「ああ、楽しかったぞ。また内地によったときは家に遊びにくるといい」
隼鷹「中佐ならいつでも歓迎するぜ」
二人の笑顔に、俺の心に優しい温かさが灯った。帰る家がある人は、きっとこんな気持ちになるのだろうな。
俺は感謝の言葉をもう一度述べる。すると、呉提督が俺のそばにやってきて抱きしめてくれた。
提督「……閣下?」
閣下は、何度か背中を叩いた。あまりにも弱々しい力だった。
呉「元気でな……。未来ある若者よ」
提督「……」
俺の頬に、微かな湿り気を感じた。驚いたが、何も言わず抱き止める。隼鷹さんが、目頭を抑えているのが見えた。
数十秒、そうしていただろうか。閣下は、名残惜しそうに俺を離すと、今度は突き飛ばしてこう言った。
呉「いけ。今日はもう遅い。振り返らずに帰れよ」
提督「……はい」
呉「……じゃあな」
俺は、踵を返して玄関を出た。彼の言葉どおり振り返らずに門を抜ける。
そこで、追ってきた隼鷹さんに声をかけられた。
隼鷹「待てくれ中佐」
提督「……忘れものでもありましたか?」
隼鷹「違うよ。せっかくだし、送ろうと思ってな」
278 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:03:37.14 ID:LO56XlXm0
俺は戸惑いに眉をひそめた。有り難い話ではあるが、時刻が時刻だ。女性に夜道を歩かせるわけにはいかない。
提督「有り難い話ですが……」
隼鷹「いいから。送らせてくれ中佐」
強い言葉で遮られた。
彼女の瞳には有無を言わせぬ光が宿っている。何か話があるようだ。
提督「わかりました。よろしくお願い致します」
隼鷹「すまねえな。無理言って」
提督「……いえ」
俺たちは、外灯に照らされた夜道を歩き出した。
星の見える夜だった。帝都は鎮守府に比べると明かりが多いからか、それほど星は見えないが、綺麗な夜空には違いなかった。
しばらくは沈黙したままで、足音しかしない。川辺に辿り着いた頃だろうか。水の流れが耳に響いてくるころに、隼鷹さんが口を開いた。
隼鷹「今日はありがとうな。豪三郎さん、久しぶりに嬉しそうな顔をしていたよ」
提督「そう言っていただけて、光栄です」
隼鷹「ほんと……安心した。ずっと塞ぎ込んでたからなあ」
提督「……」
隼鷹さんは、上を見上げていた。空を見ているわけではないのは、舌唇を噛んで何かを我慢している様子で分かった。俺は何も言わない。彼女が口を開くのを、ゆっくりと待った。
やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
279 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:04:38.90 ID:LO56XlXm0
隼鷹「癌なんだ」
提督「え?」
隼鷹「末期の肺癌なんだよ、豪三郎さん。医者からももって後三ヶ月って言われている」
そんな告白をされるとは思ってもいなかったので、閉口せざるを得なかった。
癌だと? あの、閣下が?
閣下の痩せた姿が想起される。まさか、あの姿は単に心労でああなったわけではなくて――。
隼鷹「鎮守府にいた頃に、癌が見つかったんだ。その頃からもう手遅れでな。医者からも療養を勧められたんだけどさ。ほら、あの性格だろ? 死ぬまで軍人であることに拘って、無理をおしてずっと指揮をしていたんだ。まあ、あいつらしいよな。私もできたら、あいつが死ぬまで指揮を取れればいいなって思っていたんだ」
でも、提督は引退した。隼鷹さんは、苦しげな声でそう言った。
隼鷹「仕方のないことだとは思う。あんなことがあったんだ。だから、辞めるしかなかったこともわかる。けどな、無念だろ。あまりにも、無念だ。あいつがどんな思いで、三十年も艦娘を率いて戦ってきたか全部知っているからさ。私、悔しくて悔しくて……! 最後の最後まで、あいつには海にいて欲しかったのに!」
堪えきれなかったのだろう。隼鷹さんの目から大粒の涙がボロボロと零れ出た。かける言葉なんて見つかりようがない。俺も、あまりのショックと動揺で頭が真っ白だった。
閣下……。どうして?
そういう弱みを人に見せる人ではないことは分かっている。でも、これはあまりにも悲壮にすぎるのではないか。
俺を抱き止めたときの、あの湿り気は……そういうことだったのだ。そして、今日見せた優しさも、かけてくれた言葉も。自身の終着点を見据えたものだった。
ふと、俺の目からも一筋、こぼれた。閣下がこれまで俺にくれたもの、すべてが頭の中で流れていく。そのたびに、目からこぼれるものは増えていった。
280 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:05:54.50 ID:LO56XlXm0
提督「……閣下」
閣下は、何も言わなかった。
何も言わず、俺に思いだけを託した。正直、少々荷が重いと思っていたが、閣下の思いの深さをこうして再確認した今、考えを改めないといけない。
時間が残されていない彼と違って、俺にはまだたくさんの時間がある。少しでも海軍を、艦娘たちの暮らしをよりよくするためにかけられる時間が。
隼鷹「……柊中佐。私からも、頼む。あいつは国民の、そして何よりも艦娘たちのためにこの戦争を終わらせようと、すべてをかけた。……無理はいえないけどさ、どうかその意思を継いで欲しい」
提督「……」
隼鷹「……頼む」
俺は、隼鷹さんの華奢な肩を掴んだ。彼女は涙に濡れた顔を上げ、まっすぐに俺を見据えている。老いてしまったとはいえ、その顔は一切の曇りなく美しいものであった。
本当に、素晴らしい女性だと思う。
提督「わかりました」
俺の言葉は、自分でも驚くほどに強かった。
提督「俺が、この戦争を終わらせます」
閣下の意思を継いで。
提督「約束します、俺が必ず」
281 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/23(月) 21:08:11.39 ID:LO56XlXm0
投下終了です。
今回は珍しく光しかない話でした。あと、この作品を始めたのが5年近く前なので、現在の艦これ二期とズレがある部分もあるとは思いますが、どうかご了承ください。
282 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/03/29(日) 12:38:48.42 ID:d5FDQrfG0
すいません。
訂正です。南西鎮守府はすでに、沖ノ島海域の攻略に乗り出してました。しかも、それ以前に沖ノ島海域の前は東部オリョール海でした。
大変申し訳ありませんでした。
283 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/03/31(火) 06:41:11.23 ID:ZPqUUG26O
おつおつ
284 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2020/04/10(金) 18:47:15.93 ID:Ygu59TXRO
good
285 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:47:39.43 ID:tGxqIDnD0
小型飛行艇の窓からは、海と空しか見えなかった。細い雲が鰯のように泳いでいる。
のどかで、美しい景色だった。内地を往復するたびに目にする景色とはいえ、その美しさは色褪せることがない。
だが、今はその美しさが目に毒だった。
俺は視線を少しだけ東に移した。朝日が目に刺さるり、思わず目を伏せる。狭まった視界の先に、群れとなった艦載機の影をとらえた。
横須賀所属の軽空母の直掩隊だ。機体はすべて零戦五二型で、勇まし気に編隊を組んではいるが、ところどころ列が乱れたり機体がふらついたりしているせいで、格好がついていない。玩具の兵隊たちが威張っている姿にも似ている。
苦笑を浮かべずにはいられない。こんな頼りないものが、たった十機護衛しているだけなのだから。
……俺は本当に提督なのだろうか?
溜息をついて、硬い背もたれにもたれかかった。鋼鉄の天井は、空の輝きを嘲笑うように冷たかった。
俺が鎮守府への帰路についたのは、閣下とお会いした日の明朝だった。
南西鎮守府へは横須賀港から飛行機に乗って帰るのが通例となっている。その空域の制空権は完全に海軍の手中にあったし、近海に空母出現の報告例はほとんどない。雑魚とはいえ深海棲艦が出現する海路より、交通手段として安全なのだ。
286 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:53:29.35 ID:tGxqIDnD0
だが、それにしてもこの扱いは酷いものだった。他の鎮守府の提督たちならば、横須賀を代表する一航戦や正規空母たちの護衛が何十機も付けられる。俺の鎮守府よりも近く、階級もさほど変わらないはずの峠鎮守府や西鎮守府だって、きちんと正規空母の庇護におかれるのだ。それが、俺は軽空母の護衛がわずかばかり付くだけ。しかも、今年着任したばかりの新米である。
南西鎮守府の長になってからというもの、ずっとこうだった。あらゆるところで冷遇され、差別を受けてきた。
頭に来ないわけがない。横須賀提督のいけ好かない顔に唾でも吐き捨ててやりたい気分だ。しかも奴は、戦艦レ級の存在を知っている。それなのにも関わらず、こんな対応をしているわけだ。俺は死んでも構わないということか。
これだけ差別されるのは、俺が呉派に属しているからだ。自分の政敵を徹底して貶めようとする愚考から生まれてきたものだ。だが、それだけが理由ではない。上層部が、俺の鎮守府を軽視していることにも理由がある。
つまりそれは、俺の仲間を遠回しに蔑視しているということでもある。
……どこまでもコケにしやがって。
俺だけが馬鹿にされるのならまだいい。まだいいが、彼女たちへの侮辱だけはどうしても許せなかった。
しかし、どうすることもできなかった。今の俺には文句を言うだけの力がないからだ。この侮辱を頑として跳ね返すだけの権力がない。渋柿を渋柿と分かっていて食うことしかできなかった。
悲しいことに、それが現実なのだ。閣下の言うとおりである。俺が無力だから、今の現状がある。
苛立ちと無力感。空を濁って見せていた鬱屈の正体はこれだ。
俺は懐から酒瓶を取り出した。例のごとくブラックニッカ。ラベルの「髭の王様」の目が、なんだか冷たげに見えた。
287 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:54:25.85 ID:tGxqIDnD0
――また儂に頼るのか?
そう言われているような気がする。
悪いか? 飲まなきゃやっていけないんだ。
――どうして?
俺は自嘲的に笑う。
もう心が折れそうだからだ。閣下の意思を引き継いだ気になって、隼鷹さんともあんな約束を交わしたのに。英雄気取りで調子にのってしまったわけだが、現実をつきつけられて萎えてしまったわけである。
あの力強い宣言はどこにいった? これじゃあ、公約を一切守らない無能政治家とまるっきり一緒じゃないか。
髭の王様がニヒルに笑った気がした。
――風刺にでもされるといい。ドン・キホーテのようにな。
その冗談はやめてくれ。
俺はキャップを回して口をつけた。
無力な俺に、いったい何ができるというのだろうか。提督会議を風車とするなら、俺はまるっきりロバに乗ったドン・キホーテだ。風車に突撃して倒そうとしていたわけだ。
喉を焼きながら、思う。
閣下たちが俺に託したのは、他に誰もいないからだ。消去法で残ったのが、俺だけだったという話で……。そうじゃなければ、俺に託そうなんて思わない。俺が閣下の立場なら迷わず他の人間に声をかける。
酒瓶を口から離したとき、狙いすましたように飛行機が揺れた。乱気流にぶつかったためだろう。瓶から溢れた雫が、俺のズボンに降りかかった。
288 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:56:32.59 ID:tGxqIDnD0
「すいません、中佐」
パイロットが前を向いたまま、謝ってきた。
提督「いい、気にするな」
ハンカチを取り出してズボンに押し当てる。拭いながら、はっとした。
陽炎からもらったハンカチだった。先日はこれで涙と鼻水を拭ったわけだが、今はウイスキーという弱気の証を吸い取ってくれている。
陽炎の笑顔が、ちらついた。
提督「……」
もちろん、全部は消えない。スボンには染みができてしまった。だが、湿り気は幾分かマシになっている。
提督「……わかっているよ」
そう、わかっている。俺と舞鶴の先生以外に、艦娘たちの笑顔を本気で守ろうとしているものは誰もいない。
だから、俺がやらないといけないのは、わかっている。
腹の中に住んでいる弱気の虫が、また顔を出しただけだ。
ブラックニッカを見つめる。「髭の王様」は何も言わなかった。
しっかりするんだ。
俺にはまだ、時間があるんだ。無念を抱えたまま朽ちていくことしか許されない閣下の想いを、忘れるんじゃない。
こんな貧弱な精神のままでいいはずがないんだ。彼女たちの笑顔を守るんだろう? ならば、俺がしっかりしないといけない。先生も言った。俺たち指揮官に泣き言は許されないと。
289 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:57:41.07 ID:tGxqIDnD0
俺は、空を睨んだ。揺れる艦載機を睨んだ。その先にある権力の横暴を睨んだ。
許してはいけない。この屈辱を。
提督「……」
それに、俺にはまず何よりも第一に向き合わなければならない問題がある。
雷の問題だ。
彼女とどう向き合えばいいか、まだ答えは出ていない。そもそも、正解など出しようがないだろう。経験の浅い俺にはそれだけの引き出しがないのだ。
だが、俺は選択しなければならない。
たとえ、間違っていたとしても逃げてはいけない。閣下は言った。人は、選択を誤るときがあると。そのときにどう考え、その後悔と向かい合うかが大切なのだと。人生は選択の連続であり、後悔の連続である。その荒波の中で、俺たち人間は生きている。
俺は、すでに雷の選択で多くの過ちを犯してしまった。共依存を許し、周りに不満を抱えさせ、彼女の暴走を見てみぬふりしてしまっていたのだ。あの夜のことは、その選択の過ちが招いたことにすぎない。そう、彼女だけに原因があるわけではない。俺の罪でもある。
だから、俺にはこの過ちに対して向かい合う義務がある。どんなに怖くても、どんなに許せなくても、彼女を蔑ろにしていいわけがない。
戦わなければならない。俺は、俺自身と。
それに――。
俺は、ハンカチに目を落とした。そこには優しい染みがあった。ムラサキケマンのような形の染みが。
陽炎と、浜風の顔が浮かぶ。陽炎は、俺の夢を笑わず真剣に手伝ってくれる。浜風は、俺を求めながら俺も雷も助けようとしてくれる。
俺には、仲間がいる。
もう、独りじゃないんだ。
290 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:58:49.56 ID:tGxqIDnD0
鎮守府についたのは〇八三○だった。
小さな飛行場に降り立った小型飛行艇は、俺を降ろすと颯爽と帰って行った。不器用な艦載機群を伴って帰る姿は、まるでヒナを連れまわる母鴨のようである。どっちがどっちを守っているのかまるっきり分からない。
俺は息を大きく吸い込んだ。六月になろうとしていたが、朝の空気はまだほんのりと寒い。暗く佇む修理中の工廠が視界に入ってきた。弱虫が、顔をのぞかせた。
目を閉じて、思いっきり頬を叩いた。弾けた痛みがじんわりと引いていく中、目を開く。
工廠の暗さは影を潜めていた。
提督「……よし」
歩き出した。アスファルトはいつもより重く硬い。だが、足はしっかり前へと進んでくれた。
心臓の鼓動が、走るように速くなる。冷たい脇汗も流れていく。しかし、俺に躊躇はなかった。恐怖に抗い、義務を実行する意志があった。
飛行場を出ると、艦娘寮に差し掛かる。二つの寮に挟まれるように道があり、その側には休憩できるベンチや広場などもある。そこで談笑していた艦娘たちが、俺を見つけた途端立ち上がって手を振ってくれた。
敬礼じゃないのが、嬉しかった。安堵もあった。ここにいる者たちからは邪気を感じられない。何か面倒ごとがあったわけではなさそうだ。
雷が面倒ごとを起こしてやいないか、かなり心配だったのだ。彼女は俺から離れると発狂することがある。だからこそ秘書にして側に置いたし、外出するときは必ず連れていっていたが、さすがに今回ばかりは向き合うことができず、置いてきてしまった。
雷には悪いことをしたとは思うが、彼女のしたことを考えれば、詮無いことだ。
291 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 19:59:45.19 ID:tGxqIDnD0
俺は、艦娘寮を過ぎ、鎮守府本館の入口へとついた。そこには、陽炎と浜風がいた。なんだか落ち着かない様子でそわそわしているように見える。連絡は入れていたから、待っていてくれたのだろう。
二人は俺を見つけると、嬉しそうに笑ってくれた。おかえりなさい。その言葉が、優しく耳に溶ける。
提督「ただいま」
俺は、ほっと息をついた。
浜風「お勤めご苦労さまでした。……どうでしたか?」
提督「一週間の謹慎だ。工廠が直るまで大人しくしておけだとさ」
陽炎と浜風は顔を見合わせる。陽炎が、わかりやすいくらい安心したように表情を緩めた。
陽炎「よかったあ……。懲戒免職にでもなるんじゃないかって心配したわよ」
浜風「ほら、私の言ったとおりでしたでしょう。絶対、謹慎くらいで済むと思っていました」
浜風は余裕そうに言った。
陽炎「……ほんと、あんたの言ったとおりだったわ。なんで分かったのよ。預言者かなんかなの? たまに怖くなるんだけど」
浜風「まあ、簡単な推理です。上が考えそうなことくらい、すぐに分かりますので」
鼻を鳴らして微笑を浮かべる。言葉を曖昧に濁している辺りが、なんとも彼女らしい。その推理の行き着いた先に触れたら、陽炎を傷つけることになると分かっているからだ。
この鎮守府を、代わりにやりたいなんて奴は一人もいない。だからこそ、上の連中は俺に押し付けたのだから。
浜風「でも、よかったじゃないですか。たったの一週間で済んで」
提督「……ああ。一ヶ月とか言われたら目も当てられなかったよ」
浜風「そのくらいでよかったんですけどね」
浜風がぼそっとこぼした言葉に、俺は固まった。浜風は「ああ」と呟いてすぐに訂正した。
292 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:00:48.89 ID:tGxqIDnD0
浜風「失言でした。提督の謹慎が長引けば長引くほど、遠征をサボタージュできると思ってしまいました」
提督「……あんまり、そういうことを言うのは関心せんぞ。俺は仮にも上司なんだから」
浜風「そうですね。失礼しました」
浜風は頭を下げる。
俺は冷や汗をかいていた。浜風の言葉はさらっと出てきたものだが、だからこそ毒を感じられるもののように思えた。……いや、いくらなんでも、考えすぎか。彼女は雷のことを救おうとしているのだから。
陽炎「あんたでもそういうこと思うのね」
陽炎の言葉は呑気だった。浜風が肩をすくめてみせる。
浜風「私も人間ですので。休めるときは休みたいと思うのですよ。ね、提督も分かるでしょう?」
提督「あ、ああ。……でも、俺としては出撃できなくなるのは困るがな」
浜風「真面目ですね、本当に」
喉を鳴らして笑う浜風は、不思議なくらい色気があった。
提督「……ところで、二人ともいいかな?」
改まった言い方をしてしまう。二人の視線を受けて、唾を飲みこんだ。
まだ逡巡と恐怖は、死んでいない。奥に潜んでこちらを伺っている。
提督「雷のことなんだが。あいつは、いまどこにいる?」
陽炎「雷ちゃん? 執務室で、事務作業しているわよ」
提督「……そうか」
安心と怒り、恐れ、複雑な感情が渦を巻く。場所を聞くことで、その存在が輪郭を持って感じられた。
あいつは、普通にしている。暴れていない。それを確かめられたことはいいことだ。だが、あんなことをしておいて普通に仕事ができる神経も疑いたくなる。理不尽な感情だとは分かっているが、感じずにはいられない。
293 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:01:56.67 ID:tGxqIDnD0
陽炎「……司令?」
陽炎が、怪訝そうに眉を傾けた。
陽炎「どうかしたの? なんか辛そうに見えるんだけど」
提督「……いや、すまない。なんでもないんだ。ただ、ちょっとあいつのことが気になってな。それだけなんだ。それだけ」
浜風「それだけじゃないでしょう」
強い断言だった。感情がこもっているわけでもないのにはっきりと響き、俺は思わず押し黙った。
浜風は、ゆるりと目を細めた。最近、気づいた。問い詰めるときの彼女の癖だと。
浜風「提督、なにか悩んでいることがあるんでしょう? それも雷さんのことで」
提督「……」
浜風「しかも、この前のこととは別のことで悩んでいる。依存が強くなってきて、眠れないこととは別のことで。……いや、正鵠を射てはいませんね。繋がってはいるけれど、もっと酷くなったことで悩んでいる。そう言った方が正しいですかね」
図星も図星だった。まるで見てきたかのように、浜風は、俺の悩みを見透かしている。
彼女の目が、鷹のような鋭さを帯びた。
浜風「……提督は、それをどうにかしたいと思っている。けど、自分では答えが出せなくて悩んでいる。そんなところですかね。それを、私達に相談しようかどうか悩んでもいた。でも、寸前のところで、言葉が出なかったのでしょう?」
陽炎「……本当なの、司令?」
俺は口を開いて閉じ、そして意を決したように口を開いた。
提督「……ああ。当たりだ。参ったね」
浜風「……」
浜風は、溜息をついた。
294 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:02:51.44 ID:tGxqIDnD0
浜風「提督。私、言ったと思うんです。ここにいるみんなを守ることに協力すると。提督もそのうちの一人です、と。提督が苦しんでいるなら、その苦しみを一緒に解消したいと。言いましたよね?」
提督「もちろん、忘れてはいないよ」
浜風「では、隠し事はなしです。戸惑う理由もないはずですね?」
提督「……そうだな。君の言うとおりだ」
俺は頷いて、息を吐いた。彼女には本当に敵わない。
提督「話すよ、ちゃんと。すまない、俺の覚悟が足りなかったんだ」
浜風「謝らなくていいですよ。提督らしいと思います」
陽炎「……たしかにね。臆病者だもん提督」
陽炎がからかうように言った。抗議しようとしたが、やめた。陽炎の瞳は、慈愛に満ちた色をしていたからだ。夢に一歩近づいたような、嬉しさを隠せない表情だった。
陽炎「……そっか。そんなことを言ってたんだ」
その顔は、ずるいな。
俺は二人から目を逸らして頭をかいた。やはり、思い違いではない。俺は独りではないのだ。
提督「……じゃあ、聞いてくれるか?」
二人が頷いたのを見て、俺は話始めた。
あの夜に雷とトラブルがあったこと。そして、それをどう解消すればいいか分からないこと。今からどういう風に向き合っていくべきか。
俺が悩んでいたことは出来る限り話した。
295 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:04:17.76 ID:tGxqIDnD0
だが、当然、言えないこともあった。強姦されそうになったことだけはどうしても言えなかった。ちゃんと話すと言っておきながら、話さないのは欺瞞かもしれないが、いくらなんでも話せることにも限度はある。
いくらこの二人でも、雷が俺に対してしようとしたことを知ったら、さすがに嫌悪感をあらわにするだろう。とくに陽炎は怒り狂うはずだ。彼女は、そういう尊厳を踏みにじるような行為に、誰よりも強い反発を抱いている。この二人に嫌われてしまったら、雷は本格的に居場所を失ってしまう。
雷のためにも言えない。だから、少しだけ内容を変えて伝えることにした。キスを求められ、断ったら喧嘩になったということにしたのだ。
浜風「……なるほど。それで、喧嘩になったわけですね」
俺は頷いた。心苦しかったが、信じてもらうしかない。
浜風は、俺を見詰めていた。サファイアのような瞳が、俺を捉えて離さない。金属探知機に探られるような居心地の悪さを覚えながら、俺は見つめ返した。
視線がぶつかる。
何十秒かして、浜風が目を逸らした。
浜風「……提督は本当、呆れるくらい優しいですね」
苦々しい言葉だった。浜風は、スカートの端を強く握りしめる。何かに耐えているかのように、強く。
その様子を見ていた陽炎が、気まずそうに頬をかいて、困ったように眉根を下げていた。
296 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:05:35.68 ID:tGxqIDnD0
陽炎「あー……。なんか繋がったわ。一昨日のあれってそういうことなの?」
提督「ああ」
陽炎「……なるほどね。そういう状況も踏まえて考えるとさ。『そのこと』だけじゃなくて、これまで積もりに積もってきたものが一緒に爆発したのかな、って感じがするんだけど、どう?」
それは、あながち間違いとも言えない。あれは、これまでの選択ミスの積み重ねが起こしたことなのだから。そこに連動する負の感情は、当然無視できない要素だろう。
陽炎「……限界がきちゃったわけね。雷ちゃんを置いていったのも、そういうことだったのか。どおりで、ちょっとおかしいと思ったのよ。提督が、これまで雷ちゃんを放ったらかしにしたことなんてなかったからさ」
提督「あいつには悪いことをしたかなとは思う。でも、どうしても許せなかったんだ。あまりにも……あまりにも一方的だったからな」
語気がどうしても強くなる。言葉に出すと、どうしたって封じ込めていた荒い感情は表に出てきてしまう。
あれは、一方的なんてものじゃない。
あれは、破壊だからだ。
陽炎「……司令、ごめんなさい」
バツが悪そうに、陽炎は謝ってきた。
提督「なぜ謝る?」
陽炎「いや、だって……司令があんなに取り乱すまで悩んでいたのに、私、何もしてこなかったじゃない? あの子が司令だけにしか心を開かなかったのは確かなんだけど、だからといって放置していい理由にはならないし……。任せきりになっていたなと思ってさ」
提督「……」
陽炎「だから、ごめん。仲間なのにさ、責任を押し付けるようなことをして」
陽炎の言葉は、とても嬉しかった。素直で、優しい彼女の美点が、破壊的な気分を引き波のように静めてくれる。
297 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:06:49.39 ID:tGxqIDnD0
undefined
298 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:07:42.17 ID:tGxqIDnD0
提督「……ありがとう。その言葉だけでも十分嬉しいよ。俺も自分一人で抱え込んで誰にも頼ろうとしなかったからな。あいつがあんな風になったのは、俺の責任が大きいんだ。もっとはやく、お前たちに頼ればよかったな」
陽炎「……そうかもね。私達も、ちゃんと声かければよかった。自分のことしか見えてなかったわね」
提督「だから……その……今からでも頼らせてくれ」
陽炎「ん。わかった」
陽炎は、ニンマリと笑ってくれた。太陽のように温かい笑みだった。陽炎がみんなから慕われる理由が、とてもよくわかる。
提督「それで……俺はどうすればいいかな? 一人で考えていたんだが、どうしても答えが出なくて。君たちの意見を聞きたい」
陽炎「そうね……。本来なら、提督の元から離すのが一番いいんだけど、そういうわけにはいかないだろうから。たぶん、また暴れちゃうだろうし」
提督「だろうな」
否応なく思い出す。雷の自傷癖が止まらなくなるところを。制圧に入ったことがある陽炎も、その現場を当然見ているから、思い出しているようだ。顔が少しだけ青くなっている。
提督「……ただ、最悪の場合は専門家に引き渡すことも視野に入れていこうとは思っている。かなり強引だが、拘束した上で、監視をつけてな。でも、今はそうすることができない状況だから」
陽炎「どういうこと?」
提督「憲兵との出撃特約があるからだよ」
陽炎が、「ああ」と嫌悪に満ちた呟きをこぼした。
陽炎「だから、うちの隊に入れたんだもんね。……ほんと、困ったわね。どうするのが一番いいかな。専門家を交えつつ話すというのは……もうやったんだっけ?」
提督「とっくの昔に。駄目だった。俺以外にはまったく心を開かないから。一言も喋らなかったよ」
陽炎「そうかー……。一筋縄じゃいかないわね」
提督「そうなんだよな。だから困っている」
俺たちは二人して肩を落とした。こうして話してみると、改めて状況の深刻さが見えてくる。正直、詰んでいるように思えるくらいだ。
299 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:08:43.47 ID:tGxqIDnD0
だから、どうしたって見える選択肢は現状維持になってしまう。あの夜の出来事をなかったことにして、これまでどおりに接するという消極策。正直、被害者と加害者の図式がはっきり刻まれた今、これまでどおりに振る舞うことができるとは思えない。
俺は、ロボットじゃないんだ。どうしたって、あの光景はまとわりついてくる。おそらく、長い時間をかけても、消えはしないだろう。自分の心を納得させて飲下すには、あまりにも劇薬すぎた。
陽炎「……一応、私とは普通に会話してくれるから、ちょっとアプローチはしてみるわ。正直、仲良くなれる自信はないんだけど、少しでも提督の負担を減らすにはこうするしかないと思う」
提督「助かるよ」
陽炎「榛名さんとかにも改めて事情を話して……。いや、彼女は無理か」
提督「榛名に限らず、東から来た連中はやめた方がいい。雷に対してかなりの負い目があるから」
陽炎「……そうよね」
陽炎は、悲しげに目を伏せた。雷の事情をよく知っているからだ。
陽炎「とりあえず、やるだけやってみる。私の頭じゃこのくらいしか策が出てこないわ。ごめんけど」
提督「いや、いいんだ。考えてくれただけでもすごく嬉しい」
陽炎「……浜風はなんかないの? こういうの、あんたの専売特許みたいなもんでしょ?」
陽炎が、今まで沈黙を保っていた浜風に水を向ける。浜風は、ゆっくりと頭をこちらに向けた。はらりと舞う銀髪から、隠れていた瞳が覗いた。
乾いた目だった。冬の森林のごとく、空虚で寒々しい。
300 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:10:06.61 ID:tGxqIDnD0
浜風「対策もなにも……」
浜風は口の端を歪めて、衝撃的なことを口にした。
浜風「もう手は打ってますよ」
俺たちは、完全に固まった。唖然、とはまさにこのことだろう。世界から音という音が消えていた。
先に我に返ったのは陽炎だった。
陽炎「ちょ、ちょっと。どういうことなのそれ?」
浜風「手は打ったといっても、別に大したことはしていませんよ。私が、個人的に雷さんとお話しただけです」
陽炎「は? う、嘘でしょ? いったいいつ?」
浜風「先日の昼です。私の方から執務室に出向いて話しました」
浜風は何でもないことのように言うが、寒気すら感じた。あの雷と、二人で話をしただと? とてもじゃないが応じるとは思えないし、あまりにも危険ではないか。
雷は、人のことを菌扱いし、俺の手を燃やそうとしたやつだ。しかも、その菌とは他ならぬ浜風のことを言っていたのだ。そんなやつが、まともに浜風の話を聞くとはどうしても考えにくい。
俺の視線を受けて、言いたいことを察したのだろう。浜風は苦笑を浮かべた。
浜風「まあ、最初は話なんてする気はないって態度でしたけどね。花瓶も投げられました。ですが、懇切丁寧に、粘り強く話しているうちに、こちらの話を聞くようになりましたよ。ちゃんとね」
301 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:10:57.15 ID:tGxqIDnD0
提督「いったい、どんな話を……」
浜風「このまま提督を困らせ続けたら、提督と居られなくなりますよ、と説明しました。提督が夜眠れていないことや、憲兵に目をつけられている現状なども踏まえて話をして、どれだけ提督が困っているのか分かっていただきました。提督は、かなりご立腹だと。このままでは、あなたを解体しかねないと」
陽炎「そ、それって脅しじゃない! 何考えてんのよ!」
陽炎が詰め寄らんばかりに声を上げる。まったくもって同意だ。いったい何を考えているんだ、浜風は。そんなことをしたら雷が何をしでかすか分かったものではない。
浜風「夢を見ているのですよ、彼女」
浜風は淡々とこぼした。
浜風「ここは軍隊ですよ? その無機質さをまったくもって理解していない。提督は、私達の上官であり、生殺与奪に関与できるほどの権力を有する方。本来なら気軽に話もできないほどの存在です。友人でもなければ、『家族』でもない。だから、現実をわかってもらっただけです。四面楚歌に陥っている現状をね。それを理解していないから、あんな風に付け上がってしまうのですよ」
酷く冷たい。浜風の言葉からは、一切の甘えや感傷は消えていた。どこまでも無味乾燥としている。
俺たちは、閉口するしかなかった。
浜風「舐められてはいけませんよ、提督。それは優しさではなく、ただの甘えです。依存傾向の強い方は、他者との心理的な距離が曖昧になりやすいので、とくに一線を引いておくことが大切なんですよ。舐められてしまうと、どこまでも際限なく付け上がりますから」
提督「……」
浜風「初動でそれに失敗してしまったのでしょう? だから、こうなってしまった。これまでの策が一切成功しなかったのも、あなたが舐められて甘く見られてしまっていたから、上手くいかなかったんですよ。『司令官は、何をやっても私を見捨てない。怒らせても、いやいやすれば私を見てくれる』そんな風に子供じみた考えを抱いていたのでしょうね、彼女のことだから」
浜風は鼻で笑った。
302 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:12:03.88 ID:tGxqIDnD0
浜風「私も甘く見すぎていました。提督の意思を尊重して、消極的なやり方にこれまで異議を挟みはしませんでした。ですが、もうそういう状況じゃない。……思い知ったでしょう? 今までのやり方じゃ上手くいかないということを。だったら、やり方を変えないといけません。脅しだろうがなんだろうが、甘えを捨てて厳格な態度を示すべきなんです。今からでも一線を引いて、距離を分からせるしかないんですよ」
提督「……君の言うとおりだとは思うよ。しかし、それをしたら雷が暴走してしまうかもしれないだろう? それは考慮していなかったのか?」
少しだけ責めるような言い方になってしまった。浜風の言っていることは間違ってはいない。間違ってはいないが、勝手に動かれた身としては、あまり気分は良くない。
それに、不安もあった。その話を聞いた雷がどういう反応を示したのか、まったく読めないから。
浜風「その点は大丈夫ですよ。そんなパフォーマンスを許すほど、私は甘くありませんから。長い長い釘を刺しておきました」
事実、何も問題は起こっていないでしょう?
浜風は、目を細めてそう言った。
陽炎「そうかもしんないけど……。でも、いくらなんでも強引すぎるんじゃない? 司令にも何も相談することなく、勝手にやったんでしょ? ちょっとどうかと思うわよ」
浜風「なんとでも言ってください」
突き放すような言い方だった。
303 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:13:03.60 ID:tGxqIDnD0
浜風「どうせ、遅かれ早かれこうしなきゃいけなかったんですから。それを、私が私の意思で早めただけ。どう思われようが知りませんよ」
陽炎「……あんたねえ。その言い方はないでしょ。提督が、これまで雷ちゃんのためにどれだけ心を砕いてきたと思ってんのよ? そこを考えなさいよ」
浜風「その結果がこれでしょう? 提督一人に任せきりにしてしまったから、にっちもさっちもいかなくなってしまった。本当の意味で、提督の心が砕けてしまっていたら笑い話にもなりませんよ」
陽炎はぐっと、言葉を呑み込んだ。浜風の言調はまさに鋭利な刃そのものだった。陽炎の痛いところを見事についている。
冷たい眼差しの奥が、炉のように燃えていることに気づいた。珍しく感情的になっているようだ。
ふいに、日が陰った。太陽が雲に隠れたのだろう。微風が肌を触り、空気が冷えていることを否応もなく感じさせる。
浜風は入口から離れた。俺に近づいて、手に視線を動かし、俺を見上げた。
浜風「感情論など、なんの役にも立ちませんよ。だから私が動いたんですから。……提督なら、わかってくれると信じていますよ」
提督「……浜風」
浜風「では、私は戻ります。やれることはやりましたし、提督を見ることができて安心しましたから。後はよろしくお願いしますね」
浜風は、去っていった。微笑のような苦笑のような曖昧な表情を浮かべて。
陽炎「ちょ、ちょっと」
声を投げかけようとした陽炎を、手で静止する。首を横に振ると、陽炎は諦めたらしい。大きく息を吐いていた。
304 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:13:44.14 ID:tGxqIDnD0
陽炎「……いいの、司令?」
提督「ああ、いいんだ」
本当に、気の回る子だなと感心する。
浜風は、不甲斐ない俺に代わって汚れ役を引き受けてくれたのだ。たしかにやり方は強引で褒められたものではないが、その点は無視してはいけない。
俺は、浜風の背中から鎮守府本館へと目を移した。本館の二階の窓が、不気味なほどカーテンで閉ざされている。
賽は、すでに投げられているのだ。俺の思わぬ形で。その事実は、いかに意図せぬ選択とはいえ、もう変えようがない。
提督「……やるしか、ないよな」
305 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/12(日) 20:14:21.33 ID:tGxqIDnD0
投下終了です
306 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/12(日) 20:36:59.39 ID:hrJig2KPO
乙です
307 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:34:54.75 ID:Kyye75DL0
執務室の扉の前で、俺は立ち尽くしていた。
ドアノブがカタカタと音を立てている。俺の手が震えているせいだ。白い手袋の中は汗で湿っていた。極度の緊張が自律神経を昂ぶらせ、交感神経を活発にしているからだろう。指先だけではなく体の芯にいたるまで活性化しているかのようだ。鼓動が、内側から全身を叩いて、鼓膜の外へと突き抜けていく。
落ち着け。自分に言い聞かせる。落ち着くんだ。落ち着いて対応すれば大丈夫なんだから。
陽炎「……大丈夫なの?」
俺の様子を見かねたのか、陽炎が心配そうに声をかけてくる。
陽炎「やっぱり、私も付いていった方がいいんじゃない? 本当に外で待機していていいの?」
提督「……大丈夫だ」
陽炎「そうは見えないけど」
提督「……大丈夫だよ。君は、待っていてくれ」
俺は陽炎に笑いかける。口元の緩み方が硬かったのは自分でも分かったので、良い表情は作れていないだろう。
陽炎の眉は、ハの字に曲がったまま戻らなかった。だが、俺の意を組んでくれたのか、肩を強く叩いてくれた。骨が軋むほどの威力だった。
悲鳴を堪える。
陽炎「なら、しっかりしなさい。後はいくしかないんだから」
提督「そ、そうだけどな。……もう少し手加減してくれよ」
308 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:36:18.51 ID:Kyye75DL0
陽炎「これでも蚊を叩くくらいの力でやったわよ」
提督「……基準がゴリラすぎる」
陽炎「は?」
提督「いやなんでもないです」
思わず敬語になってしまう。どうして俺の周りにはこんな筋肉バカみたいなやつばかりいるんだ。
俺の反応に、陽炎が噴き出した。突然だったから目を白黒させてしまう。
陽炎「いや、ごめん。司令情けないなーって思ってさ」
提督「悪かったな」
憮然とした態度で言ってしまう。
陽炎「ごめんごめん。気は悪くしないでね。なんというかさ……司令らしくていいなあって思って。こういうヘタレなところも、司令の魅力だから」
提督「ヘタレなところが魅力ってどういうことだよ。むしろ欠点じゃないか」
陽炎「欠点があるくらいが面白いのよ、人間は」
陽炎は白い歯を見せて、そう言った。からかうような態度と言葉には、彼女らしい温かさが街路の朝顔みたいに顔をのぞかせている。
陽炎「司令の欠点は、美徳でもあると思っているの、私。それだけ私達のことを……雷ちゃんのことを真剣に考えてくれているからこそ、思い悩むし、立ち止まってしまうんだと思うから。そんな司令官はあんただけよ」
提督「……そうかな」
309 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:37:31.35 ID:Kyye75DL0
陽炎「そうよ。雷ちゃんには悪いけど、他の司令官ならあの子のことなんてあっさり解体しているわよ」
それは否定できない。いや、まず間違いなく面倒になってさっさと解体してしまうだろう。そして、ゴミのように捨ててしまう。
陽炎は、咳払いした。
陽炎「まあ、ともかく。自信ないかもしれないけど、私は司令のことを信じているのよ。司令なら大丈夫だって」
提督「……」
俺は頭をかきながら、目を伏せた。少しだけ、不覚にも耳元が熱くなるのを感じていた。
陽炎「だから、心配すんな。なんかあったって、この陽炎様が助けに入ってやるんだから、大船に乗った気で行けばいいの」
提督「そうだな。陽炎が守ってくれるなら百人力だ」
陽炎「そうそう。それに、浜風の言葉もあるでしょ?」
陽炎は言葉を切って、窓の方に目をやる。視線は浜風が消えていった方角に向けられていた。葉桜がそよそよと緑の生命力を振りまき、靡いている。
陽炎「……たしかに、あいつがやったことは身勝手で余計なことかもしれないけど、大丈夫よ。あいつがああ言ったのも、自信があってのことだろうしね。そういうときのあいつの言葉は絶対に間違いないから」
提督「言い切るんだな」
陽炎「同期で親友よ? 当たり前でしょ」
陽炎の言葉は強かった。深く結びついた信頼が確信となって現れているのを感じる。
たしかに、浜風の言葉なら間違いないだろう。これは、彼女の人間性だけではなく、能力に裏打ちされた信用でもある。それがなければ、いくら俺でも厳重に注意しただろう。汚れ役を買って出てくれたとはいえ、だ。
陽炎「さっき言ったことと被るけど、私はあの娘も司令のことも信じている。だからあんたも、私達のことを信じなさい」
提督「分かった。……行ってくるよ」
陽炎「ん」
310 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:38:21.83 ID:Kyye75DL0
陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。
俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。
陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。
俺は、扉を開けた。
むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。
提督「……」
なんだ、これは。
背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。
理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。
棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。
時計が、不気味に音を刻んだ。
311 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:39:35.60 ID:Kyye75DL0
陽炎は満足そうに頷くと、扉の横に背中を預けた。中に居るであろう雷に対する配慮だった。
俺は、深呼吸をして再度ドアノブを握った。手はまだ微かに震えていたが、交感神経が落ち着いてきたのか、さっきみたいに鉄が擦れ合う音はしない。
陽炎の目を見る。彼女は、何も言わず頷いた。
俺は、扉を開けた。
むわっ、と生暖かい風が吐き出され、顔を撫でていった。思わず目を閉じる。ホコリとインク、そして微かな酸味を帯びた汗の香りが、鼻腔に浸透し、かすかな不快感の呼び水となった。目を開ける。唖然とした。俺の目の前には、山脈のような資料の群れがあった。一つじゃない。幾重にも幾層にも幾数にも、白い巨峰が積み上げられている。マホガニーの机が、どこにあるのか一瞬わからなくなるほどに。
提督「……」
なんだ、これは。
背後で、扉が軋んだ音を立てて閉まる。外界から完全に隔絶され、異様な世界だけが浮き上がり、俺は孤独と強い不安の中に取り残された。
理解不能。予想だにしていない光景。俺は、間違えて資料室にでも入ってしまったのだろうか。
棚に目を移す。海域攻略を証明する賞状と、先生から頂いたマッカラン十八年が飾られている。俺には上等すぎるそのウイスキーは、ホコリの浮いた空気の中で、わずかな琥珀色の輝きを淡く主張している。部屋の薄暗さに、この瞬間になって思い至る。カーテンから漏れる光だけが、ここを照らしている。
時計が、不気味に音を刻んだ。
312 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:41:28.80 ID:Kyye75DL0
間違いない。ここは、執務室だ。
困惑に突き動かされるように、俺は辺りを見渡した。雷の姿が見えない。俺の机にも、秘書艦娘用の机にもその姿がない。いや、白い塊の群れに隠されて見えなくなっているというのが正確だろう。
提督「……雷?」
妙に胸がざわつくのを感じながら、俺は秘書艦の名前を呼んだ。返事はなかった。再度、今度は少しだけ大きな声を出してみたが、それでも返事はない。
部屋の形を思い出しながら、俺は慎重に近づいた。資料の山の一つが、つま先に当たってしまい音を立てて崩れる。心臓が飛び出る思いをしながら、それでも近づくと、ようやく雷の姿が見えた。
俺は、息を呑んだ。
一心不乱に、取り憑かれたように、雷は資料にかじりついていた。何かをブツブツつぶやきながら、ひたすらペンを走らせている。目元に大きな隈をつくり、見開かれた目は、虹彩に至るまでヘドロのように濁りきっていた。破れてしまうんじゃないかと思えるほど、充血しきった結膜が痛々しい。
おそらく、ろくに寝ていないのだろう。それどころか、この部屋から出ることなく作業し続けているに違いない。普段は手入れを怠らない茶色い髪の毛が、使い古したモップのようにちりぢりになっている。風呂にも入っていないのか。
雷「……なきゃ」
雷の呟きが、ペンの音に混じって聞こえてくる。
雷「もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと頑張らなきゃ、もっと、もっと、もっともっともっと」
提督「……」
313 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:42:29.08 ID:Kyye75DL0
雷「もっとやらないと、もっとやらないと。やらないと要らない子になっちゃう。いやだ、いやだ、もっとやらないと。もっとしないと。もっと頑張らないと。いやだいやだいやだ」
後退ってしまった。ムカデが這い回るような戦慄が脳神経を駆け上がる。雷に気を取られすぎたせいで、俺は後ろを確認するのを忘れていた。資料の山に足を取られ、よろめいてしまった。尻もちを付くようなことはなかったが、短い悲鳴を上げてしまう。さすがに雷の鈍った知覚にも触れたようで、餌を狙う魚類のような瞳が、こちらに向けられた。
黒い瞳に、飲み込まれそうだった。そこに映った俺の姿は、命を狙われる小動物のように怯えきっている。
時計の音は、心臓の鼓動に掻き消された。
雷「……あ、司令官。おかえりなさい」
彼女は、相好を崩して俺の帰還を歓迎した。が、その笑顔からは、花弁の禿げあがった桜のように可憐さの欠片もない。
闇の底に咲いた悪の華だ。誰もが目を背けるような空虚さが、彼女を笑わせている。
雷「ごめんなさい。仕事に集中していて……。司令官が帰ってきたことに気づけなかったわ。遠くに行っていたから疲れたでしょう? コーヒーいれるわね」
雷はそう言って立ち上がると、コーヒーカップを取りに向かった。足取りは覚束ない。資料の山など眼中にないと言わんばかりに跳ね除け、跳ね除け。その動きによって空気が撹拌され、酸味を含んだ汗の臭いがつんと鼻まで届いた。彼女は、棚の扉を開ける。
雷「待っていてね。すぐ淹れるから。司令官は座っておいて」
提督「……」
声が出てこなかった。ただただ、汗が首筋を流れ落ちるばかりだった。俺は突っ立ったまま、危うい手付きでカップを取り出し、豆を用意する雷を見つめることしかできない。
314 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:43:27.21 ID:Kyye75DL0
どうすれば……何が起これば、こんな風になるんだ。理解が追いつかない。浜風はいったい何を言ったんだ。どんな言葉をかければ、こんな……こんな……。
そのとき、俺は最悪なものを見つけてしまった。それだけは見たくはなかった。雷の机の上に置いてある物体。俺は悲鳴を上げそうになって、口を抑えた。
注射器だ。注射器と、やってはいけないもの。無造作に置かれた箱にはこう書いてある。
――ヒロポン。
提督「……お前」
雷「な、なに? どうかしたの司令官」
雷は、俺の顔を見て怯えたように身体を震わせた。
雷「……あ。も、もしかして、コーヒーじゃなくて紅茶だった? いつもコーヒーだったから……ごめんなさい」
提督「馬鹿野郎!! そんなことを言っている場合か!」
雷「ひっ」
提督「いったいどこでこんなものを手に入れた! 俺の鎮守府では厳重に禁止しているはずだぞ!」
そうだ。こんなもの。こんなものは、俺の鎮守府には一切置いてはいない。置いていてはいけないものだ。軍内部で暗喩的に「ダメコン」とも呼ばれているこれは、艦娘や兵士を無理やり働かせるために使われることがある、非人道的な代物だ。これのせいで廃人になってしまった艦娘を、俺は何人も目にしている。
だからこそ、禁止にしていた。蟻の一匹も入れないくらいの厳重さで取り締まっていたのだから、これがあるわけがないんだ。
あまりの悍ましさに、身体の震えが止まらない。
315 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:44:54.11 ID:Kyye75DL0
雷「あ、あああ、あ、あの。その、その」
雷は目をキョドキョドと回しながら動揺している。言葉が言葉になっていない。だが、俺は止まることができなかった。すべてが、消し飛んでいた。これまでの不安や苦悩など、どうでも良くなっていた。ただ怒りだけがあった。俺は紙の束を蹴り飛ばし、箱を掴み取ると、雷に詰め寄った。
提督「どこで手に入れたと聞いているだろうが! 答えろっ!」
雷「あ。そ、その元気の出るお薬のこと? わ、わかんない。私の机の上に置いてあったから、使っていいのかと思って」
提督「いいわけないだろう! うちでは絶対に取り扱わないと再三訓示していたはずだぞ!」
雷はパニックに陥っていたのだろう。頭が真っ白になっているのか、目線が俺を捉えようとしない。まるでピンポン玉のように、さっきよりも速く目が動く。
雷「……そうだっけ? いやそうだっけじゃないごめんなさい。あの、勘違いしてて。本当に机の上にあったから使っていいのかと思っちゃったの。前の鎮守府ではよく司令官さんが『嫌なことを忘れられるよ』って打ってくれていたし。実際忘れられたし。悪いものじゃないからいいのかなって。大丈夫なのかなって」
提督「そんなやつの言うことなんか信じるなっ! それはただの毒物だ! 人間を破壊する悪魔のような薬だ! 何度も教えただろう!」
雷「ひぃっ。怒鳴らないで怒鳴らないで。こ、これがあれば元気が沢山出るし、いつもより頑張れると思っただけなのよ!」
雷はへたりこんだ。手にしていたカップが転がり、インスタントコーヒーの粉末が床を汚した。芳しい香りが漂うが、空気は少しも清涼としない。頭を抱える雷が、髪をかき乱し出した。
雷「頑張らないと頑張らないと、司令官が許してくれないと思って。いらない子だって思われるのが怖かったの! だ、だから、お薬で元気出してやらないとって。そのくらいしないと駄目だと思ったの」
提督「……」
316 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:45:45.57 ID:Kyye75DL0
雷「怒らないで、ねえ……。わ、私頑張ったんだよ? 今月分の定期報告の書類も一日で全部片付けたの。後は司令官の裁可を貰うだけの状態にしておいたわ。遠征の資料も、出撃の申請書も、工廠の開発報告だって! 過去に遡って全部まとめておいたわ! 司令官が会議のときに困らないようにしようと思って。ま、まだ他にもたくさん……。もちろん、終わってないやつもまだ一杯あるんだけど、調子が上がってきたの。きっと今日中に終わらせ」
提督「もういい」
自分の意思とは関係なく、言葉がこぼれた。頭の中にある何が音を立てて切れていた。雷がビクリと震えたが、そんなこともどうでもよくなっていた。
俺の口は、緩んでいた。どうしてそうなってしまうのかはわからない。いま、自分の感情は小波のように静まったものになっていた。怒りの先を通り越した感覚が、俺を一時的に静謐な躁状態にしている。身体が、異様に軽かった。ああ、こういう感覚なのか。
限界とは、こういうことか。
提督「もう、いい。もういいんだ。頑張ったな、雷」
雷「……司令官?」
恐る恐る声をかけてくる雷にも、笑顔を向けられた気がした。ああ、なんて軽いんだろうか。これまで感じていた重荷がすべて無くなった気分だ。
提督「は、ははは。そうだなあ。こんだけやったんだもんな。すごい、すごいよ。ああ、すごいと思う」
ドアノブが擦れる音がした。俺は、「くるな!」と叫んでいた。心配した陽炎が中の様子を伺おうとしたのだ。今の現状を彼女に見られるのが嫌だった。こんな、情けない現状を。ドアノブは、止まった。
317 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:46:44.44 ID:Kyye75DL0
俺は椅子を引いていた。いつも俺が座っている椅子だ。慣れているはずなのに、いつもよりもずっと硬い。尾てい骨に感じる鈍い痛みがゆっくりと蓄積されていくのを感じながら、俺は億劫な気持ちで天井を見上げた。
隅を侵食するように黒い染みが広がっていた。もともと病院だったこの鎮守府には、随所にこうした歪な名残が見られる。
壊れたものを、無理やり使おうとするからだ。だから、こんなことになるんだ。
雷が、しゃっくりをあげながら泣き始めた。大きな目から溢れる涙を拾おうと拾おうとするかのように、手で拭っている。俺の気持ちは水面に浮かんだ氷のように冷めていた。泣き声がうるさいとすら思えた。ショッピングモールで、玩具を買ってもらえずに泣き叫ぶ子供を見たときのような気持ちだった。
慟哭が、天井まで響いていた。
提督「……なんでだろうな」
本当に、なんでだろう。俺はただ、みんなと穏やかに生きたいだけなのに。あまりにも落ちた闇が深すぎて、頭がどうにかなりそうだった。
俺は、この闇からみんなを拾い上げようとしていたはずだ。でも、できる気がしない。閣下や浜風たちと話して持ち直しかけていた決意が、ガタガタと崩れていく気がする。
318 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:47:36.53 ID:Kyye75DL0
いくらなんでもこれは酷すぎる。だって、だってだ――薬はこの鎮守府には「ない」はずなんだ。俺が赴任してから内部にあったものは一掃したし、外から着任した艦娘たちの持ち物検査だって徹底してやった。だから、あるはずがない。あるはずがないんだ。でも、現実はここに存在している。じゃあ、なんである?
決まっている。誰かが、なんらかの方法で持ち込んだからだ。
雷の話を信じたわけじゃないが、彼女の持ち物である可能性は極めて低い。それは、遺憾ながら隣で見てきた俺だからわかる。こいつはそんなに器用じゃない。今こうして、俺にあっさり見つかったことからも分かる。
だから、誰かが彼女に渡した可能性が高い。
引き笑いしか出てこなかった。雷が泣き叫ぶ中で、そんな表情を浮かべるだけしかできない俺も、きっとどこかが可笑しくなりかけている。
これは現実か。それとも悪夢なのか。
地滑りに飲み込まれたように、この現実からは逃れることはできない。
頭の中に、ある歌の詩が浮かんでくる。
なあ、静流。
俺は、どうすればいいんだろうな?
319 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/15(水) 15:48:55.17 ID:Kyye75DL0
投下終了です。
すいません、ミスで二回投下してしまった部分があります。以後気をつけます
320 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/17(金) 14:47:47.21 ID:xeUKbFEQO
乙ん
321 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/18(土) 11:26:07.07 ID:KlJluISsO
乙です
復活待ってました。応援してます
322 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:20:02.02 ID:nx3ZtZEk0
陽炎「……まさか、こんなことになるなんて」
陽炎が眉間を押さえながら、そう言った。苦しげな吐息混じりの声はけっして大きいものではないが、静寂に包まれた療養室の中では重たく響いた。
俺は椅子に座り、項垂れているだけだった。首筋に倦怠感が重くのしかかっている。視線の先には雷の腕がある。点滴を打たれた腕には血の気がなく、いつもの健康的な輝きがない。ただ、白い。死人のように白い。そのせいか、リストカットの跡がかえって生々しく見えて、グロテスクな死体の彫像が横たわっているようでもあった。
でも、目を逸らそうとも思えない。嫌悪と吐き気と無力感に蹴られ続けた俺には、現実から逃れる気力すらもなかった。いや、かえって現実にしがみつくことで正気を保とうとしているのかもしれない。綱渡りの綱が見えなくなったまま立ち往生している状態だった。
雷はあの後、薬の効果が切れたのか、糸が切れたように倒れてしまった。蓄積された疲労が、溢れ出したストレスと不安とともに一気に押し寄せたのだろう。荒い息を吐きながら、身体中に汗を浮かべて苦しんでいた。なのに、その姿を無気力に眺めることしかできなかった。いつの間にか部屋に入ってきていた陽炎に叩かれ、「しっかりしなさい!」と声をかけられ、ようやく我に返ることができた有様で。雷をここまで運んでくれたのは、陽炎と彼女が呼び出した浜風だった。
あれから、一時間くらいが経つ。空はいつの間にか雲で覆われていた。薄暗い部屋に、薄ら寒い風が流れてくる。水っ気があったから雨が降り始めたのかもしれない。向かいに立っていた浜風が、窓を閉めた。
323 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:20:56.90 ID:nx3ZtZEk0
サッシが窓枠を叩き、外界の音が消えた。強調された沈黙を厭うものは誰もいない。俺も、浜風も、陽炎も、三者三様にこの重たい空気を享受している。点滴筒を滴る生理水の音が、ポツポツと時を刻んでいた。
何回、そのリフレインを聴いただろうか。浜風が口火を切った。
浜風「……私のせいですね」
答える気力はなかった。
浜風「私が言い過ぎたせいで、雷さんを追い詰めてしまいました。……すいません」
陽炎「……そうね」
陽炎が代わりに答えてくれた。
陽炎「明らかに、やり過ぎたわね。勝手に行動したのも本来のあんたらしくないし。正直言うけど、ちょっと前のあんたに戻ったみたいだったわよ。……そこは反省した方がいいと思う」
浜風「はい。そうですね」
陽炎「でも、仕方ない部分もあるわ。……こんなものを隠し持っていたなんて、誰にも読めるわけないんだから」
陽炎の憎々し気な物言いは、彼女の手の中にあるものに向けられているのだろう。あの薬の箱は、陽炎が持っていた。
陽炎「……どうして、こんなものが。司令が徹底して取り締まっていたはずなのに」
324 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:21:59.18 ID:nx3ZtZEk0
浜風「おそらくですが、彼女が隠し持っていたものではないと思います。そんなに器用な性格ではありませんし」
陽炎「じゃあ、誰かがこの子に渡したってこと?」
浜風「その可能性が高いでしょう。誰が渡したのかはわかりませんが」
陽炎「……信じられない」
陽炎が絶句していた。無理もない。俺も同じ気持ちだからだ。こんなものを不正な手段で手に入れ、雷に渡した輩がいることなんて信じられないし、信じたくはない。
だが、現実はこうだ。人間を狂わせる悪魔の薬はここにあり、その誘惑に身を委ねたやつがここで眠っている。
提督「……浜風の言うとおりだ」
喋るのも億劫だったが、口を開いた。
視線をゆっくりと上げていく。眉を下げた浜風の後ろに、窓がある。俺の顔が映っていた。酷い顔だ。目が死んでいる。正直、何もかも放り出して酒に溺れてしまいたい。浴びるほど飲んで、ゆらゆらと街の中を彷徨い、そのまま夜の街頭のごとく消えてしまいたい。いっそ、いっそ俺も……親父やお袋のように……。
俺は頭を振るった。馬鹿な考えを浮かべてはいけない。俺には、そんなやり方で楽になる資格はないのだ。弟を殺したカインのように、生き地獄を彷徨い歩いていかなければならない。たとえ、頭のどこかがおかしくなりかけていたとしても。
浜風の青い瞳は、湖面のように静かだった。陽炎も何も言わずに俺の言葉を待っていた。喉元にわだかまる言葉の澱を、息を吐きながらゆっくり解す。
325 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:23:05.00 ID:nx3ZtZEk0
提督「……受け入れるしかない。誰かが、こんなくだらないものに手を染めて、雷を巻き込んだんだ。この子の弱みに漬け込んでな」
拳を握りしめる。力は入らない。しかし、気怠さの中にも、怒りの火は燻っている。消えていない。消してはいけない。
俺は、許せない。
提督「……浜風。俺はもう、君を責めはしない。いずれは、やらなければならなかったことではあった。そこから目を逸らしていたのは俺だからな。俺に、責任がある」
浜風「……」
提督「今回の件もそうだ。薬を排除した気になって、完全に油断していた。俺がもっとちゃんとしていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」
血の味を、味蕾が拾っていく。唇を噛んでいた。億劫さを噛み殺し、怒りを増幅させ、交感神経を無理やり叩き起こす。それは自分の顔面を殴って気合いを入れるのとなんら変わらぬ、自傷行為。自分を責め、自分を傷つけ、自分を追い立てる。そうすることで、自分を無理やり奮い立たせようとする愚かな行い。馬鹿者の発想。意味もないプライド。壊れかけ、折れかけた人間の取るに足らぬ意地。拳が、軋んだ。中手骨が内側から折れんばかりにしなる。鋭い痛みが俺を加速させる。億劫さは落葉のごとく死に絶え、荒い感情が若竹のごとく生長していく。
俺は、ベッドの鉄柵を殴っていた。
陽炎「……司令」
提督「絶対に、許さない。これは許されない裏切りだ! 浜風、陽炎! 俺は、あんなものを汚い手段で入手した輩を、このままのさばらせておく気はない。見つけ出し、必ず処断する。そして、追放してやる」
二人は、何も言わなかった。圧倒されて言葉が出てこないのだろう。俺は構わず、雷に目を向けて続けた。
326 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:24:12.33 ID:nx3ZtZEk0
提督「こいつもこいつだ。あれだけ再三注意したのに薬の誘惑にあっさり負けやがって……。なぜ、一言も俺に相談しに来なかった、馬鹿野郎め」
俺には散々、隠し事をしないように言っておきながら。こいつは俺をあっさりと裏切った。強姦未遂でも、この件でも。これで、二回目だ。もう我慢の限界を超えていた。
目頭が、だんだん熱くなってきた。ポロポロと、意志とは関係なく思いが溢れていく。雫が、雷の手を濡らした。彼女は、それでもまったく動かなかった。
提督「馬鹿野郎、馬鹿野郎が。どんな思いで俺がお前を受け入れたと思っているんだ……。こんな、こんな酷い裏切りをされたいがために、受け入れたんじゃないんだよ。少しでも、笑って、笑ってくれればいいなって思っただけなのに……。だからこそ何度も向き合おうとしたのに。こんな……こんなの……酷すぎるだろう」
わけがわからない。俺は、どうしてこんなにも、惨めで苦しいんだ。どうしてこんなにも、上手くいかないんだ。雷を救えず、裏切られ、あまつさえ他の艦娘からも欺かれた。上から理不尽な目に合おうが、後ろ指をさされようが、今までやっていくことができたのは、彼女たちが笑ってくれていたからのはずなのに。
その笑顔の裏に、悪意の影があることを思い知らされた。閣下に得意気に語った、自分の中で唯一の成果だと思っていたことですら、足蹴にされた。踏みにじられた。泣きっ面に蜂、なんてかわいいものではない。塩酸を浴びせかけられたような気分だ。
最悪の、気分だ。
止まらなくて、とうとう嗚咽が漏れ始めた。過呼吸を起こしそうになるくらい、苦しくて、辛い。暗闇の中に閉じ込められたみたいに、ひどく寂しい。
その時だった。ふわり、と温かなものに頭が包まれた。毛布のごとく柔らかく、軽やかな感触。布越しに感じる肌の弾むような感触が、俺の横顔に吸い付いた。
327 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:25:09.15 ID:nx3ZtZEk0
浜風「提督」
浜風の甘い吐息が、俺の生え際を撫でた。愛おしげに愛おしげに、彼女は俺を捕まえて、額をゆっくりと頭の上に乗せてくれた。
浜風「……提督」
優しい声が、耳を触る。衣擦れの音が、そっと俺の心に染み入る。浜風の手が、俺を撫でる。優しくやさしく。温かくあたたかく。聖母のごとく。苦しむ俺を包み込む。
揺り篭のように。俺の苦しさを鎮めるために、小刻みに頭をゆすり。俺の涙がいかに服を濡らそうとも、彼女は俺を慰めることをやめなかった。
浜風は、囁いた。
浜風「……あんまりですよね。こんなにも、頑張っているのに」
提督「……」
浜風「提督はみんなを救おうとしているのに。そんな提督にむかってこんな仕打ち……。許せない」
淡々とした声には、まるで邪気はない。ただ、最後の言葉だけが冷たく響いた気がした。ほんの細やかな火がゆらぐような差異。だが、その冷たさは、氷というより雪解け水で。優しい冷たさだった。
陽炎「私も、許せないわ。こんな人の神経を逆なでするような行為、人のやることじゃない」
陽炎の強い言葉に、浜風が「ええ」と同意した。
浜風「……提督。私は、雷さんを専門家の元に預けて療養させるべきだと思います。提督自身がもう本当に限界ですし、彼女自身も治療を受けないと危うい状況です。それに、薬を渡した人物が特定できていない以上、また雷さんに危害が及ぶ可能性が高い」
提督「……ああ」
弱々しく返事をすると、彼女は間をおいて続けた。
328 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:26:22.96 ID:nx3ZtZEk0
undefined
329 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:26:59.25 ID:nx3ZtZEk0
浜風「しかし提督が言っていたように、彼女には憲兵の特約という縛りがあります。しかも、まだほとんど出撃の実績を残せていない。これではいくら事情を説明して説得しようにも、先方は一切応じないでしょう。書類上の数字にしか興味はありませんからね。酷ですが、説得できる実績を残せるようになるまでは、彼女には出撃を強いなければなりません」
提督「……わかって、いるよ。そうしないと、雷が殺されてしまう」
浜風「その決断の苦しさは、察するにあまりあるものです。ですが、ここはどうか踏ん張ってください。私達もできる限りサポートしていきます」
陽炎「……できることは、なんでもやる。私達は司令の味方よ。だから信じて欲しい。いまは、誰も信じられないかもしれないけど……」
提督「……いや」
俺は目を閉じて、言った。
提督「お前たち二人は、信じられる。陽炎も、浜風も、どちらも。お前たちは、同じ志をもった仲間だ。俺の気持ちを踏みにじるような行為をするわけがない」
それに、状況から見ても二人が犯人だとは考えられない。陽炎のいた岬鎮守府でも「ダメコン」は使われていたが、彼女に使用の形跡はないし、むしろ彼女も「ダメコン」の被害にあった艦娘たちを見てきているから、あれに対しては深い憎しみを抱いている。浜風の場合は、ここに来た経緯が経緯だ。あんなものを持ち込む隙も暇もなかったはずだ。
だから、確信をもって言える。彼女たちは絶対に白だと。
提督「……そうだろ? お前たちは、違う」
陽炎「ええ。もちろんよ。私も、浜風も、絶対にそんな外道なことはしないわ」
浜風「……一蓮托生。そういうべき関係ですから」
二人は、そう言って笑ってくれた。この二人がいなければ、俺は本当にどうなっていたかわからない。そう思うくらい、二人の存在は大きくなっていた。俺は笑えなかったが、それでも限界だった心の中にも一縷の望みがあることに気付かされた。
330 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:27:55.11 ID:nx3ZtZEk0
俺は、雷の顔に目をやった。熱に浮かされ、不規則な呼吸をこぼす雷は、苦しげで哀れでもあった。
彼女のことは、許せない。許せるわけがない。だが、こうして苦しむ彼女を見ていると、彼女も被害者であることを思い起こされる。家族も何もかも失い、薬漬けにされた被害者……。
提督「……浜風」
はい、と浜風は返事をした。
提督「……ありがとう。もう、大丈夫だ。だから」
離してくれ。そう言おうとしたが、俺の口は浜風の手で塞がれてしまった。目を見開く。浜風の顔が目の前にあった。
浜風「嫌です」
提督「え?」
浜風「嫌です、提督。私は離したくありません」
提督「な、なぜ?」
いきなりどうしたんだ。俺が訝しんでいると、浜風は真剣な顔で言った。
浜風「このまま離したら、提督が壊れてしまいそうな気がして……。だから、嫌です。離しません」
提督「……」
どうしたものか。俺が陽炎の方に目を遣ると、陽炎は微苦笑を浮かべて肩をすくめた。そのまま諦めて受け入れろとでも言われているように思えた。
俺は、浜風の腕に手を置いた。目が合う。瞳が揺らいでいる。彼女の頬にほんの少しだけ朱が灯った。
331 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:29:28.21 ID:nx3ZtZEk0
提督「……心配、かけたよな」
浜風「ええ。私のせいでもありますが……それでも、見ていられませんでした」
提督「……すまない」
浜風の吐息が、顔にかかる。それほどに俺たちの距離は近かった。桜色の唇。湖のような瞳。そして、ベールのように顔にかかった銀の髪。象徴主義の画家が題材に選びそうなほど、神秘的で美しい。
浜風は、ただただ俺を心配していた。俺の心が磨り減り限界に近づいているように見えたから、たとえ責られることになろうとも行動に移した。結果はどうであれ……彼女の心意気は素直に嬉しい。そして、今も。今もこうして抱き止めてくれている。俺に寄り添って、崩れ落ちてしまわないように。
壊れそうで、不安だから。消えてしまいそうで、辛かったから。だから、俺を抱きしめてくれた。
浜風「今の提督は、かつての私です」
それは、死の病に侵され、同じく壊れそうだったかつての彼女。生きる希望をすべて奪われ、苦しんだかの時の彼女。
重ね合わせるとたしかに、俺たちは相似する。
だからだろう。その言葉が、心に波紋を立てる。
俺の奥底に、沁み入るように。
浜風「……だから、離しません。離したくなんてありません。命令されてもです。いいですね?」
提督「……好きにしろ」
浜風「ありがとうございます」
浜風の微笑みは、天使だった。彼女はふたたび俺の頭を胸に収める。彼女の柔らかさが、耳とこめかみからダイレクトに伝わってきた。
あたたかい。こんなにも。
332 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:30:19.11 ID:nx3ZtZEk0
彼女は、温かい。
浜風「……提督」
俺は答えない。彼女の言葉に続きがあることを、知っていたから。
浜風「……犯人は、私達が探してみせます。私と、陽炎姉さんで」
提督「頼んで、いいかな?」
もちろん。浜風も、遅れて陽炎も。当然のようにそう答えた。
提督「……犯人は、かなりの知能犯だ」
浜風「分かっています。きっと抜き打ちで検査をしたところでボロは出しません。かえって警戒されるだけでしょう。それならば、秘密裏に探った方がいい」
陽炎「……探偵か。面白くなってきたじゃない。私がホームズで、あんたがワトソンね」
浜風「逆でしょう。能力的に考えても」
陽炎「やかましい」
二人の冗談に、思わず笑ってしまった。この二人は本当にいいコンビだと思う。
この二人ならば、大丈夫だ。
提督「それじゃあ、頼んだぞ。犯人は絶対に許しはしない。必ず捕まえる。俺たちの手で、必ず」
333 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:31:36.10 ID:nx3ZtZEk0
その一週間後。
工廠の修理が完了し、謹慎が解かれた直後のことだ。
再開された遠征任務の最中。陽炎旗艦の第一駆逐隊が想定外の敵襲を受け――。
駆逐艦「雷」が戦死した。
334 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/20(月) 13:32:17.59 ID:nx3ZtZEk0
投下終了です。
335 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/20(月) 14:14:40.08 ID:WMQpku1RO
oh...
乙つつ
336 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/20(月) 17:04:56.62 ID:TDJZwVhhO
乙
337 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/21(火) 02:39:56.34 ID:Y1/VcCKW0
pixivの方が更新されてたお陰で気づいたけど、復帰されてたんですね! ちょっときつい展開ですが、これからも続き楽しみにしています。
338 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:52:12.43 ID:JZieM/ba0
?
あいつだけは許さないわ。
あいつが、あの女狐が、司令官を誑かしたから。
だから、私達『家族』の関係がおかしくなったんだ。
六月に入って、司令官の謹慎が解かれてからのことだ。私は、以前から機会をうかがっていた「消毒」の実行を決意した。一刻もはやく消してしまわないと、司令官が、私のもとからどんどん離れていってしまう。毒されて、おかしくなってしまう。あの女がいる限り、私達の日常はけっして戻らない。
司令官には、以前の優しさがなくなっていた。私が元気の出るお薬を使って以来、ずっと態度がよそよそしかった。昔の司令官なら、あのくらいであんなに怒りはしなかった。頑張ったことを、もっと素直に褒めてくれたはずなのに。たとえ、怒ったとしてもすぐに許してくれたはずなのに。ずっと。ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと、私は避けられていた。私が目を覚ましてから、六日間と十四時間三十七分も、ほとんど口を聞いてもらえなかった。そんなの、異常事態だ。だって、私たちは片時も離れてはいけない関係なのよ。それが、こんなにも距離があったらダメじゃない。このままじゃ、家族じゃなくなってしまう。
339 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:53:17.60 ID:JZieM/ba0
そんなの嫌だった。怖い。不安でおかしくなっちゃう。響の首が語りかけてくるの。このままじゃ、司令官を失っちゃうよ、って。嫌よ。嫌、嫌。司令官がいなくなっちゃったら、私は生きていけないんだから。
手首を切ろうとしたわ。いつも、不安なときはそうすれば、落ち着くから。前の司令官さんが、私のために教えてくれたメンタルケアの方法。それをやろうとしたんだけど、それさえもできなかった。
あの女狐の言葉が、くさびになっていたから。
あいつは、解体用の申請書類を私に見せびらかして、司令官が私のことで腹を立てていると言ってきた。戯言だと、もちろん思った。司令官が、そんな風に思うはずないもの。でも、あいつが持っていたあの書類は、司令官以外には用意ができないものだ。しかも、そこには司令官のサインまであった。それをあいつが持っているという事実……。それが、私の心をかき乱した。
あの女は、私の反応なんて見えていないみたいに、目を細めた。
――提督は、私にこれを預けてくださいました。何かあったら、それを憲兵団に送るよう命令してきたのです。……これでも分かりませんか? 提督は、あなたのことを解体したがっているのですよ。貴方のこれまでの立場を弁えない越権行為の数々に、お怒りになっているのです。
――もし今度、夜寝室に潜り込んだり、リストカットをしたり、その他、提督の私生活や安全を脅かすような行為があった場合、私は迷わずこれを送りますから。そうなったら、貴女はお終いですよ? 立場を弁えて一層励んでいかないと、提督はけっして許さないわ。少しは考えることね。
あの女はそう言って、最後に嘲笑った。そのときの気色悪い人形みたいな笑みが、忘れられない。悔しくてくやしくて、内臓が千切れそうなくらいに。
でも、それ以上に怖かった。あの女が言ったことは信じたくない。信じたくはないけど……。それなら、どうして司令官は私を置いて行っちゃったんだろう。今まで一度も置いていかれたことなんてなかったのに。
340 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:54:05.10 ID:JZieM/ba0
要らないからなんじゃないか?
私のことが、要らなくなったからなんじゃないか?
そうじゃないと、置いて行かれるわけがない。
吐き気がした。身体が、ガタガタ震えた。あの女は、そんな私に虫けらでも見るような目を向けてきた。でも、何も言えなかった。私が動けるようになったのは、あの女がいなくなってからだった。
私は、お手洗いに駆け込んで思いっきり吐いた。胃の中のものを出し切って、胃液すら出なくなるくらい吐いた。呼吸が苦しくなり、喉が焼けるように痛くて辛かった。そして、それ以上に惨めで孤独だった。私は膝を抱えて涙を流した。
どのくらい、そうしていたかは覚えていない。頭がぼうっとしていたから。自分でも分からないうちに、執務室に戻った。仕事をしないと、って思ったんだ。働かないと落ち着かなかった。捨てられる。その思いが、頭を支配して離れなかったから、どうにか仕事で消し飛ばしたかったんだ。
そんなときだった。
あの薬と注射器が、机の上に置いてあった。
見た瞬間、全身の毛が逆立ったわ。私は、その味を骨身に染付くくらい知っていたから。心臓が早鐘を打って、まるで爆弾みたいになった。涎が、ボタボタと服を汚したけど、どうでも良かった。薬を開けて注射器に入れていた。
元気が出るやつだ! これを打てば、嫌なことを忘れられる! 誰が置いたのかはわからないけど、そんなこといい。早く打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい打ちたい――。
341 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:54:53.04 ID:JZieM/ba0
罪悪感はなかった。興奮で砕け散っていた。前の司令官が、「『家族』の代わりに」と言って打ってくれたやつ。「家族」が居なくなりそうだったから、使わないと。使わないと、私が死んじゃう。
それに。この薬で元気を出して、お仕事を頑張ればきっと褒めてくれる。前みたいに頭をよしよししてくれる。そうしたら、私たちはきっとまた「家族」に戻れるはず。ううん、戻れる。そう、思った。
これしかなかったのよ。縋るしかなかった。だから、腕に注射器を刺した――。
そうしたら、あんな結果になっちゃった。どうして? どうしてなの? 頑張ったのに。頑張って、あれだけやったのに。おかしいわ。こんなこと、あり得ない。司令官が、あんなに怒るなんて考えられない。
私は、気づいた。
あの女……。そうだ、あの女だ。
あの女が、余計なことを吹き込んだに違いない。前みたいに色目を使って、司令官を誑かしたんだ。司令官が、私を解体しようなんて考え始めたのも、きっとそうだ。あの女が書類を書かせた。
――すぐに消さないと。
この世から、菌一つ残さず、完全に消毒してしまわないと。
司令官は病気なのよ。あの女の菌に毒されて、心が病んじゃったんだ。菌さえ消せば、きっと、きっと元に戻ってくれる。
342 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:55:42.32 ID:JZieM/ba0
だから、決意したんだ。あの女を消すことを。
出撃が再開された翌日。私が所属する第一駆逐隊は、執務室に集められた。司令官が、隈の増えた目で訓示を読み上げ、私たちに作戦内容と命令を告げた。鼠輸送任務。この鎮守府で初めての遠征任務だが、難度の低い任務だから、なんとも思わなかった。そんなことどうでも良かった。ただ、私は消毒のことしか考えていなかった。
いかにバレずに消してしまうか。間違いなく、チャンスは戦闘中しかない。鼠輸送任務で通るルートは、ほとんどの確率で会敵する。そのとき、信管をイジった魚雷を後ろから撃ってやろう。幸い、あの女の提案で、私たちは順番的に四番艦と五番艦になっている。つまり、あの女の丁度真後ろに私が来るようになっているんだ。皮肉な話だわ。あの女は、自分の提案のせいで死ぬことになるんだから。
笑っちゃうわ。策士気取りが、策に溺れる。ざまあみろって気分だ。
私は、司令官の方を見た。司令官はすぐに目を逸らしてしまった。ちょっと傷ついたけど、大丈夫。今はとても晴れやかな気分だから。
待っててね、司令官。
あなたを解放してあげるから。
343 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:56:32.67 ID:JZieM/ba0
○九二○。
私たち第一駆逐隊は、南西諸島海域近くの島で資源の回収を行っていた。回収は妖精さんが行う。妖精さんたちは物質を縮小化する能力を持っている。その力によって、油や鋼材などを小さくし、ドラム缶に詰めて運ぶんだ。その作業は時間がかかるため、私たちは作業が終わるまでの間、島影に隠れつつ警戒していた。
海は、鳥さんの鳴き声が木霊するほどに静かだった。空にはクジラのような雲がたくさん泳いでいて、こんな呑気な日はないというくらい呑気で、私は地団駄を踏みたいような気分だった。
時津風「順調だね〜」
時津風ちゃんが、のほほんとした声で言った。
時津風「このままなら、敵と会わずに帰れるかもね。今日はラッキーデイかなあ?」
深雪「油断すんなよ。来ないと思っていると、突然現れるからな」
344 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:57:44.29 ID:JZieM/ba0
深雪ちゃんが真面目な顔で時津風ちゃんを諭した。
時津風「ジンクスってやつだね〜。でも、今日は来ないような気がするなあ」
陽炎「……あんたの勘、当たった試しがないのよね」
陽炎ちゃんの茶化しに、時津風ちゃんが頬を膨らませた。
時津風「酷い言い草だなー。わたしだって、たまには当たるんだからね。この前、間宮のアイス券当たったんだぞ〜」
深雪「それで運を使い果たしたんじゃないか?」
時津風「いやいやないでしょ〜。今回も当たるって」
陽炎「そうだと良いけど」
陽炎ちゃんは肩をすくめる。三人は警戒を怠らないようにしつつ、その後も雑談を交わした。私は零れそうになった舌打ちを抑え、あの女に目を遣る。
あの女は、無表情に空を眺めていた。何やら考え事をしているのか、ぼうっとしているようだ。これから殺されるのに、何も知らないからっていい気なものね。さっさと、その人形みたいな面をこの世から消してやりたい。はやく敵が来ないかな。
私が歯ぎしりしていると、あの女の目が一瞬ギョロリとこちらを向いた。
思わず、固まる。あの女の目線は、すでに空の方へと戻っていた。なんなの……一体。本当に気色悪いわね。
345 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:58:29.42 ID:JZieM/ba0
陽炎「……どうしたの、浜風?」
陽炎ちゃんが、あの女に気を遣って尋ねた。
浜風「いえ。雲の動きが速いので、くもりそうだなと思っただけです。雨が降らなければ良いのですが」
陽炎「予報では降らないはずなんだけど、たしかに、この感じじゃちょっと分からないわね」
陽炎ちゃんは手をかざす。「まだ晴れてるだろ」っていう深雪ちゃんのツッコミは無視して、空を見て呟いた。
陽炎「……なんもなければいいけど」
妖精さんたちの回収が終わったのは、それから五分ほど経った後だった。陽炎ちゃんが司令官に回収終了の無線を入れて、私たちは帰路についた。
十分、十五分……安全な時間が続く。私は焦り始めていた。敵がなかなか現れてくれない。これでは、あの女を消毒できないじゃない。
雲が、厚くなっていた。空が灰色に陰り出した。日の光が塞がれて、海上の風が鋭く吹き抜けていく。装甲を弾いて霧散する潮水は、きっと肌に刺さるくらい冷たくなっているのだろう。はやく終わらせたい。はやく、終わらせて、帰りたい。司令官に、よしよしされたい。抱っこされたい。キスされたい。あのときの続きをしたい。
私が、妄想に浸っていると、陽炎ちゃんが無線で『妙ね』とこぼした。
陽炎『……いくら何でも、静かすぎる』
346 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 01:59:17.91 ID:JZieM/ba0
時津風『そうかな〜。いつもこんな感じじゃない?』
陽炎ちゃんは時津風ちゃんの言葉を黙殺して、空に首を巡らせた。彼女の背後から、何やらただ事じゃない気配を感じる。他のみんなも感じたのか、静かに上を見た。
なにも、見えない。
だが、陽炎ちゃんは違うようだ。
陽炎『そんな……馬鹿な……』
陽炎ちゃんの義手が、カタカタと揺れる。誰かが、何かを彼女に問いかけようとした刹那。
対空電探が唸り、陽炎ちゃんが叫んだ。
陽炎『散開しろ!!』
ほとんど条件反射だった。私たちは陽炎ちゃんの言うとおり動いた。その隙間に飛び込むように、雲を突き破って艦載機が降下してきた。
爆撃機。敵空母の――。
認識したときには爆音がなっていた。水柱が噴火のごとく盛り上がり、大量の水を弾き飛ばした。嵐にも劣らない水が、私の顔を叩く。見えない。なにもかも霞んだ。
陽炎『敵襲っ!』
347 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:00:13.66 ID:JZieM/ba0
劈く声が、鼓膜に刺さった。
陽炎『各位、之の字行動を取れ! 回避に専念しろっ!』
指示がした。視界が晴れる。艦載機が一機二機十機二十機と雲霞のごとく雲から現れた。数え切れない。
考えるまでもなく身体が動いた。疑問が浮かばない。考えれば死ぬ。本能が叫んでいた。死にたくない。ならば動けと。艦載機が、目の前を掠め、爆弾を落した。破裂。水を頭から被る。スパークが起こった。破片が針のごとく装甲を裂いた。肺が、キュッと締付けられる。無呼吸状態。息が乱れた。艦載機が上から迫った。面舵。爆弾が、わっと火を拭いて空を焦がす。
なんで、なんでなんでなんで。その言葉しか出てこない。
曳光弾が上空に弾き出された。陽炎ちゃんたちが反撃している。私も倣った。でも、全く当たらない。敵機の発動機が嘲笑うように唸る。雷のごとく音が弾け弾け弾けた。
陽炎『しれぇぇぇ!! 空襲よ! 至急応援を頂戴!!』
馬鹿な――。司令官は、きっとそう叫んだと思う。でも、思考する暇なんてない。航空隊はそんな容赦をしてくれない。吐き出される爆弾の質量が、私たちの五感をすべて押し潰した。殺される。純粋な恐怖。スズメバチの大群に囲まれた幼児。武器は玩具みたいな機関銃だけ。
348 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:01:14.01 ID:JZieM/ba0
躱しながら撃つ。錐揉みして墜ちたのはたった一機。それ以外が、私たちをけたぐった。倍以上の機銃掃射のシャワー。敵戦闘機が通るたびに降りかかってくる。避けようがない。削れる装甲が、チェーンソーを当てた丸太のようで、悪寒が駆けていった。
雷「ああああああああああああ、きゃあああああああああああっ!!」
悲鳴、涙、悲鳴。私たちは、嬲られるだけの人形に等しかった。
何度、爆発の明滅が目を焦がしただろうか。敵機が弾薬を使い果たして去っていったときには、私はボロボロにされていた。
陽炎『――全員無事!?』
浜風『なんとか』
あの女が答え、それに続くように深雪ちゃんが『小破だけど、大丈夫だ』と応じた。私も報告した。中破だった。装甲がスパークを起こしていたけど、艤装にほとんどダメージはなく、まだ動けるのが幸いだ。
だが、時津風ちゃんは絶望的な報告をした。
時津風『っ――。ごめん……やられた。大破だよ。……爆弾くらって、足を、撃ち抜かれた』
陽炎ちゃんが「そんな……」と呻いた。だが、すぐに己を取り戻して時津風ちゃんのところに駆ける。私たちも続いた。
時津風ちゃんを見た瞬間、全員が言葉を失った。右の太ももに大きな穴が空いている。そこから、赤黒い肉が見え、ゴボゴボと黒い塊のような血を吐き出していた。あの女が、包帯とスカーフを取って止血に入った。
349 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:02:09.39 ID:JZieM/ba0
時津風「……っ、あっぐ。……浜風、いいよ。私のことなんか、置いて、いきなよ」
陽炎「馬鹿なことを言うな! そんなことできるわけないでしょ!」
時津風「置いて行きなって! あの数の艦載機だ。きっと正規空母クラスの空母機動部隊がいる。それも、二隻以上の……! 次の攻撃もすぐに来るよ! 今の私は、ただの足手まといだ! みんな殺られてしまう!」
時津風ちゃんは脂汗を顔中に貼り付けながら叫んだ。苦しげに息を吐いて、苦悶に顔を歪めながらも、毅然とした態度だった。
あの女の手を、時津風ちゃんは叩いた。
時津風「いいから、早くいけ! 私が殿を努めて食い止めるから」
陽炎「ふざけたこと言うな! 今のあんたに何ができんのよ!」
深雪「そうだぜ……。まともに動けねえお前がいたって、数分も持ちはしない」
深雪ちゃんの言葉に、時津風ちゃんは微笑で返した。
時津風「数分は、稼げるでしょ? ……だから」
提督『時津風』
司令官の声に、全員が押し黙った。静かだけど、峻厳とした迫力のある声調。
提督『却下だ。絶対に生きて帰れ』
350 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:03:06.41 ID:JZieM/ba0
時津風「でも……!」
提督『二度は言わない。殿など許すものか。それに、陽炎ならともかく、いまの貴様程度では数分も持ちはしない。そのくらい分かっているだろう?』
時津風ちゃんは言葉を失って、悔しそうに顔をしかめた。
提督『貴様、ヒーローにでもなるつもりだったか? 俺の鎮守府にヒーローは要らないんだ。感傷に浸っている暇があるなら、立て。生きることを諦めるな!』
司令官の恫喝に、時津風ちゃんの目から涙が零れ落ちた。本当は一杯いっぱいなのだろう。ぐずりながら、目をぬぐって、彼女は言った。
時津風「……立てないよ。足が動かないんだもん」
提督『陽炎、担げ』
陽炎「了解!」
時津風「えっ? ちょ――きゃっ!」
陽炎ちゃんは司令官に言われたとおり、軽々と時津風ちゃんを担ぎ上げた。まるで、人体の重さを否定するかのようであり、私たちはその事実にも唖然とさせられた。
陽炎「行くわよ。もう時間がない」
351 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:04:30.92 ID:JZieM/ba0
「……」
陽炎「ボサッとすんな! 死にたくないなら全員死ぬ気で付いて来い! いいかっ!」
私たちは、全員「了解!」と返事していた。陽炎ちゃんがさっさと踵を返して走り出す。速い。とんでもない速度だった。私たちは遅れないよう慌てて付いていった。
深雪『たくっ、化け物かよ! 人一人担いでて、何であたしたちより速えんだ!』
浜風『しかも先ほどの空襲で無傷ですからね……。これが、「覚醒」した艦娘の本来の力ですか……』
深雪ちゃんとあの女が通信で話していた。そこに、割って入るように司令官の声が刺さった。
提督『第一駆逐隊に通達。現在、基地航空隊がそちらに向かっている。到着は二十分後を予定している』
陽炎『二十分……。かなり速いわね』
提督『最近、不穏な情報を入手してね。念の為に用意していたんだ』
陽炎『不穏な情報?』
提督『いま説明している暇はない。それより、二十分持ちそうか?』
陽炎『持たせるしかないでしょ。応急措置は済ませたけど、時津風の失血も不安だから、なるべくケツを叩いてやって』
提督『当然だ。各員、聞いたな? これから二十分、なんとしても持ちこたえろ。絶対に全員で生きて帰ってこい! いいな!』
352 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:05:18.14 ID:JZieM/ba0
『了解!』
全員が、声を合わせて言った。
その数分後だった。敵の第二次攻撃隊が到着した。数は、先ほどよりも少ないようだったが、それでも傷ついた駆逐隊を嬲るには十分すぎるほどの数だった。
状況は、最悪だった。けれど、希望は捨てていなかった。司令官や陽炎ちゃんたちの言葉が、私の視野を広げてくれていた。さっきよりも身体が軽かった。アドレナリンが出ていることもあったが、この土壇場で勘が戻ってきたためかもしれない。自分でもびっくりするくらい、冷静で集中できていた。ゾーンに入ったのかもしれない。すべての動きが、ゆっくりに見える。
それに、敵の攻撃隊は合理的に判断したのか、時津風ちゃんを抱える陽炎ちゃんに攻撃を集中していた。だから、こちらが少しだけ手すきになっていた。先ほどと比べたら雲泥の差と言ってもいい。
私は、司令官の声を、言葉を思い出す。
――生きて帰ってこい。
ああ、司令官。司令官。司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官司令官しれいかん――。私の大切な家族。『家族』が、戻ってこいと言ってくれた。このまま頑張って生きて帰れば、私のことを許してくれるかもしれない。吊橋効果というやつなのかな? この危機を乗り越えれば、私たちの絆はさらに深まる気がする。雨降って地固まるってやつよ。
353 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:06:20.51 ID:JZieM/ba0
そう、それと――。私は、忘れていない。
あいつを、「消毒」しなきゃ。
今なら、雷撃機も飛んでいる。魚雷を放ったところで、絶対にバレはしない。こっそりと確実に、間合いに近づいた瞬間、あいつに撃ち込んでやる。
爆発を取舵で躱しながら、あいつの方を見る。まだ遠い。あいつは、冷静に爆撃機と雷撃機の動きを読みながら舵を取り、機銃を放っていた。寒気がするほど冷淡だ。本当に機械なんじゃないかと思えるくらい、動きが精密だった。まるで、この状況に慣れているようにも見える。
が、どうでもいい。あいつを、殺せればいいんだから。
私は、魚雷を準備した。魚雷発射管を稼働させ、海面に向ける。そのまま徐々に徐々に距離を詰める。
間合いまで、あと一歩というところで――目が合った。
息を、呑んでしまった。あいつの瞳が、まるで深海棲艦のように真っ赤に輝いていたからだ。狂気が、詰まっていた。
まるで、私の狙いなどすべて分かっていたかのように、あいつは、目をゆるりと細めた。
354 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:07:02.22 ID:JZieM/ba0
雲が、蠢いた。そう見えた。見えてしまった。それくらい、敵航空隊の数が一斉に増えた。
敵の増援が、現れた。
深雪『クソがぁっ!!』
深雪ちゃんの絶望が響いた。第一次攻撃時よりも、遥かに多い数になった。しかも、それだけじゃない。真反対の方向からも敵機がやってきた。赤く輝く、艦載機。エリートクラスの空母機動部隊の航空隊が。
瞬きほどの刹那。音が消え、殺意が消え、狂気が消え――すべてが私に殺到した。
悪魔たちが、笑った。
陽炎『雷ちゃん!』
陽炎ちゃんの悲鳴。ゆっくり迫る艦載機の大群。
逃げなきゃ。逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ。
私は、主機を必死に働かせようとした。壊れそうなくらいに音を上げていた主機が、その瞬間、止まった。
355 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:08:04.04 ID:JZieM/ba0
雷「――え」
このタイミング、で。
故障? いや、違う。そんなわけがない。こんなタイミングで故障なんてあり得ない。あり得るわけが、ない。
ああ――。
私の記憶が、弾ける。迫りくる敵機を前にして思い出していたのは、本物の悪魔の顔と声。東鎮守府の司令官の微笑みと、歌。
あいつは、電や暁や響の艤装をわざと故障させ、無惨に殺害した。暁を殺したときの歌は、今でも忘れない。
――「さよなら」だけが、人生だ。
私は、腰を抜かした。爆弾がいくつも、いくつも放たれた。ゆっくりとゆっくりと空気を引き裂きながら、私へと落ちてくる。
最後に見たのは、あの女の顔だった。
あいつは、これまでに見たことがないくらい、満足そうな笑みを浮かべ、口を動かした。
さよなら、と。
356 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/04/24(金) 02:10:47.43 ID:JZieM/ba0
投下終了です。
霹靂はあと2回ほどで終わります。
また、視点変更のために使っていた四角の記号が読み取れなかったようで、?マークになっていますが、ご了承ください。スマホを変えた影響かもしれません。
357 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/24(金) 08:37:56.14 ID:sqWyBLdfO
乙です
358 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/24(金) 15:44:25.74 ID:XzM4HO6BO
乙です!
359 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/04/24(金) 20:42:31.19 ID:892Y4wO2O
冒頭のシーンが近付いてるんだなあ
乙
360 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/03(日) 22:42:15.59 ID:YlCQLcpB0
おっつ
作者帰ってきてくれて嬉しい
361 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:47:31.12 ID:6/FAGLbz0
□
選択した結果はいつも無惨だった。
陽炎が泣いている。涙。滴り落ちる先には腕――雷の腕。差し出された雷の遺体。唯一のこった雷の残骸。
彼女は死んだ。
敵の増援が、彼女を容赦なく切り裂いた。降りかかった爆弾の嵐は避けようなどなかったのだろう。一瞬だったそうだ。助ける暇などなかったに違いない。爆発が天を貫き、空を焼いた。バラバラになった雷は、血液さえも蒸発して消えた。腕だけを残して消えた。呆気ないほどの死。理不尽なほどの人生の否定。
俺は、ただ見詰めていた。残骸を。雷だったものを。見詰めるしかなかった。視界は色褪せていた。灰色だった。鮮やかな色素はすべて死に絶えたかのようだ。空が曇っていたせいではない。それだけではない。現実味のない光景が、俺から色彩を奪っていた。
何も言えない俺に語りかけるものはいない。負傷して運ばれた時津風以外の三人は、ただ陰鬱な表情で虚空を見ていた。陽炎だけが泣いている。浜風と深雪は意気消沈としている。
雨は降っていない。暗い。絶望。無味無臭の世界。死がすべてを奪い去っていた。
362 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:49:35.90 ID:6/FAGLbz0
雨は、降っていない。
だのに、なぜだろう。なぜ、こんなにも雨の音が聞こえるのか。生きているのは耳だけなのか。いや、違う。幻聴だ。わかっている。雨の音を浮かべていないとすぐに気が狂いそうになる。ああ、俺は曖昧になっていた。自分が立っていることさえもわからなくなるほどに。港。ここは港。陽炎たちの帰りを待っていた。全員が無事で帰ってくると信じて待っていた。
無線で、陽炎から雷の死を聞いても信じてはいなかった。信じられるわけがなかった。戦死者を一度も出していないのが数少ない取り柄なのだ。死ぬはずがない。死んだはずがない。陽炎の見間違い。大破と轟沈を間違えて報告しただけ。間違いは、誰にでもあることだ。だから、帰ってきたら笑って許してやろう。
そう思って、待っていたんだ。
だけど、帰ってきたのは絶望だった。死に至る病が死を運んだ。腕を象徴に添えて。残虐なおこない。これ以上の残酷さが、この世のどこにあるのだろうか。
俺は信じられなかった。
陽炎「……報告します」
聞きたくない。
陽炎が続けた。
陽炎「〇九三七、南西諸島海域での鼠輸送作戦の帰投中、第一駆逐隊は敵航空隊より二度の攻撃を受けました。被害は、大破一、中破二、そして轟沈が一名」
363 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:51:14.21 ID:6/FAGLbz0
違う。間違うな。
轟沈なんて出ていないんだ。お前の持っているそれは、雷なんかじゃない。違うんだ。間違っている。訂正しろ。
そう叫びたい。でも出来ない。出来ないんだ。分かっている。この手が誰のものかなんて間違いようがない。爛れて黒く変色したとはいえ、間違うことはないんだ。俺は、近くで見てきたのだから。ここにいる誰よりも近くで。
提督「……報告ご苦労」
冷たい声が零れ出た。
提督「もう、下がってくれて構わない。……俺が預かろう」
雷の腕を、とは言えなかった。陽炎が充血した瞳をこちらに向けて、無表情に頷いた。感情を殺そうとしていることが痛いほどに伝わってくる。だが、それに気遣う余裕なんてあるはずがない。
腕は、異様なほどに軽かった。軽すぎた。人間の一部とは思えないくらい肉感が薄い。死の軽さを、冷たい現実を、否応なしに教えられる。
ああ、久しぶりにこの腕に抱く。
無機質な死を。
提督「……下がれ」
いつまでも下がろうとしない陽炎たちに言った。彼女たちは動かない。動けない。分かっている。分かっているんだ。彼女たちの気持ちは、苦しいほどにわかるんだ。
だが、俺は抑えきれなかった。
364 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:51:53.58 ID:6/FAGLbz0
提督「下がれぇ!」
陽炎たちは今度こそ何も言わずに立ち去った。港には俺と雷だったものだけが残った。腕は、何も言わない。肉が溶け、骨が剥き出しになった指先をこちらに向けているだけだ。
雨は降っていない。
降ってはくれない。
365 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:53:17.64 ID:6/FAGLbz0
葬式が終わってから、一週間が経った。
世界は陰鬱と翳ったまま、足を引きずるように時間が過ぎた。とてつもなく長い日々だった。だのに、なにがあったのか、ほとんどが曖昧模糊としていた。
身寄りのない艦娘の骨は、無縁墓地に埋葬されるのが慣例だった。雷には、血のつながった本物の「家族」はいない。彼女は孤児院出身だった。帰る場所がない。帰ることができない。
だから、墓石の下に眠っている。
南西鎮守府の小高い丘。見下ろせば鎮守府と海が見える開けた場所に、墓地はあった。ここは、療養所時代からある墓場だ。治療中に亡くなってしまった艦娘たちが、大きな墓石の下で一つになって眠っている。その横に列席する小さな墓石。真新しくて、光沢のある御影石。駆逐艦「雷」と刻まれた文字。
俺は、見下ろしていた。片手に菊の花を持って。
生暖かい風が、俺を撫でていた。辺りは仄暗い。空を覆う灰色の雲のせいだ。幾層にも重なって、太陽の光を阻んでいる。
雨は降っていない。音は聞こえない。
花を置いた。しゃがみこんで、そのままじっと下を見た。蟻の大群が、キリギリスの死体を食いちぎって運んでいる。切り離された前足が、冷酷に放置されていた。雷の墓の前は劇場になっていた。演目は生の無慈悲さ。踏みにじって邪魔をする気力は、俺にはなかった。
億劫だった。何もかも、捨ててしまいたくなっていた。もう、どうなってもいいから。そんな気分が、俺の心を侵食し、傷口に沁み入るように痛みを発していた。神経が狂ったように痺れ、指先を震わせている。自律神経が壊れかけていた。どうにかなりそうだった。
366 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:54:14.15 ID:6/FAGLbz0
ようやく、気づいたんだ。雷がいなくなって、ようやく。俺が、本当は雷をどう思っていたのか――。
雷がはじめてこの鎮守府に来たとき。彼女は、ひどく怯えていた。目をいつも動かして、何かに備えるようにいつも身体を抱えて丸まっていた。俺は、それを見て掻き毟りたくなるほどに心が乱れた。どうにかしてあげたいと、思ったんだ。家族を惨殺され、精神を隅まで破壊された彼女を救いたいと。俺には……家族をすべて失った俺には、彼女の気持ちが痛いほどに分かったんだ。
――俺のことを家族だと思ってくれていい。
そう言ったとき、彼女は嬉しそうに笑ってくれた。はじめて笑ってくれたんだ。心底、安心したように。それから彼女はみるみるうちに元気になっていった。元気になった彼女を見るのが嬉しくて、甘えてくる彼女を、つい甘やかしてしまった。その関係をズブズブと続けた結果が、共依存。いつの間にか、自分でも気づかないうちに、俺たちは鎖で繋がれていたのだ。
その関係を、鬱陶しく思うことはあった。たくさん、あったよ。彼女の身勝手さに振り回されて、疲れたこともイライラしたこともあった。許せないことだって、あった。
でも、それだけだったか?
それだけではなかったはずだ。
俺は、彼女が作ってくれた唐揚げが好きだった。彼女が淹れてくれるコーヒーの芳しい香りに、何度も解された。子供扱いしたらむくれる彼女をかわいいと思った。頭を撫でたら顔を真っ赤にして笑う彼女を愛おしいと感じたこともあった。彼女との何気ない会話が、ときに俺を癒やしてくれた。辛く苦しいときに、彼女に励まされたこともあった。彼女はときに悪魔で、ときに天使だった。
367 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:55:10.13 ID:6/FAGLbz0
ああ。そうなんだ。もう、彼女の笑顔を見ることも、作ってくれた唐揚げを食べることも、一緒にコーヒーを飲むこともできないんだ。
両膝を強く掴んだ。服が、千切れんばかりに歪む。
ぽつり、と水滴がうなじを叩いた。
彼女との日常は、失われたのだ。もう永遠に帰ってこない。当たり前にあったそれが、どれだけ尊かったことなのか、彼女を失ってはじめて……はじめて……気づいたんだ。
俺はいつも遅すぎる。
提督「雷……」
視界が、歪んでいく。うなじに触れる水滴は、一つだけではなくなった。二つ三つ、頭にも落ちてくる。
彼女を追い出そうとした。彼女の一方的な行為に耐えきれなくなって逃げようとした。向き合おうとしながらも、目をそらし見ないようにしていた。なあ、俺は、なんて身勝手なんだろうな? 言い出したのは俺なのに、「家族」であることを後から否定して、その関係を清算できないかと考えてしまっていたんだ。
なあ、雷。
雷。
俺たちは……。
雨が、降り出した。俺の涙をさらうように、濡れた髪から雫が流れていく。
368 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:55:58.47 ID:6/FAGLbz0
ときに嘆き、ときに喧嘩し、ときに対立し、ときに感情を図れず、ときに一方的になり、ときに踏みにじってしまう。それでもだ。それでも、俺たちは一時でも笑い、助け合ってきたこともあった。暖かい時間を共有し、励まし合える関係だった。
その関係が、「家族」でなくてなんだというのだ。
俺は、地面を叩いた。拳で殴り、手のひらで打ち、地面を指で削り取るように掴んだ。
激しい慟哭を上げた。雷の名前を、何度も、何度も、空に向かって叫びながら、取り乱した。雨が、激しく降っていた。そんなことどうでもよかった。濡れようが、このまま潰されて溶けてしまおうが、どうなってもよかった。雨が目に落ちてきても、瞬きさえもしないで泣き喚いた。稲妻のような嘆きを、叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ叩きつけ、喉が壊れるくらいに叩きつけた。
雷。
俺たちは、「家族」だった。「家族」だったんだよ。
ごめんよ。俺はお前を家族として受け入れようとしなかった。受け入れるべきだったんだ。清濁併せ飲む覚悟が足りなかったんだ。俺の意志の弱さが、お前を狂わせたのかもしれない。
選択した結果はいつも無惨だった。
本当は、彼女のように「家族」を求めていたのに。失ったものの影を、追っていたのに。必死に見ないようにしてきた結果が、これだった。すべてを失った後では、もう何もかも遅すぎる。声をかけてやることさえも出来やしない。
369 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:57:36.23 ID:6/FAGLbz0
軍帽が、地面に落ちた。泥水と雨を吸って汚れていく。手袋ももはや茶色に濁りきっていた。
降りしきる雨が、嘲笑う。
家族を失い続ける俺を、嘲笑う。
なあ、静流。兄ちゃんは、また守れなかったよ。
お前を死なせて、親父も母さんも自殺に追い込んで、手の届くところにいた雷すらも救えなかった。
兄ちゃんは愚かだ。
無能。かつて、親父が俺をそう詰った。そのとおりだ。閣下の期待なんて的外れなんだ。俺は、ドン・キホーテ。風車に突撃をして失笑をかう程度の存在。裸の大将。過大な夢を見る馬鹿。現実を理解していないクズ虫。
酒瓶が手にあった。飲もうとしていた。無意識だった。飲まねばやっていけないと身体が叫んでいた。酒の味を、アルコールに麻痺する感覚を欲していた。馬鹿だ。馬鹿だ。俺は、馬鹿だ。こんなところに来ても、酒を手放せない。
叫びながら、瓶を叩きつけた。瓶は、音を立てて砕けた。「髭の王様」が死んだ。
370 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/04(月) 23:58:21.06 ID:6/FAGLbz0
胸を焼いたのは激しい自己嫌悪。アルコールで誤魔化そうとした痴愚。胃の内容物が、感情の澱をともない、せり上がってくる。逆側からも焼かれる。まるで地獄の業火だ。己の罪を己の内側から糾弾されている。
耐えられず吐いた。雷の墓石を汚さないようにするのが精一杯だった。キリギリスに胃液がかかった。俺は死を愚弄した。止まらなかった。鼻に逆流して、鼻からも垂れ流すほどに出した。そのほとんどが胃液と朝飲んだ酒だった。食は喉を通らなかった。酒だけを浴びるほどに飲んでいた。ここ数日、ずっと。
涙が止まらない。雨は、誤魔化さない。消してくれない。俺の惨めさを。俺という人間のくだらなさを。なにも。
膝を抱えていた。子供のように丸まりながら。
提督「……ごめんなさい。お父さん、お母さん」
謝るな。
提督「静流を見殺しにしてしまいました。何もできませんでした」
謝るんじゃない。二人はもういない。
提督「僕が、悪かったです。僕が。僕が……。僕がもう少し頑張っていれば、きっと間に合っていました。僕が、無能だから。無能だからあんなことに。ごめんなさい。許してください」
やめろ。やめてくれ。
もう、振り返らないと決めただろう。
371 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/05(火) 00:00:32.94 ID:OJCCSoxP0
でも、止まってはくれない。シナプスが弾けた。記憶が闇の底から溢れ出す。静流の黒い髪、笑顔、静流だけを見詰める両親、粗末に置かれた犬のような食事、寂しさ、静流の死、両親の罵倒、二つの宙吊りになった人影――お父さんとお母さん、赤黒く腫れ上がった顔、床に垂れ流された汚物。
独り、取り残された、俺。
提督「……見捨て、ないで」
身体の震えが止まらない。
雨音は、俺を罰する神の声だった。冷たく濡れたシャツが俺の全身を縛り付ける。
この世界に存在することさえも嫌だった。死にたい。できることなら、いますぐ心臓が止まって欲しい。
いや、正確じゃない。ただ逃げたいのだ。消えたいのだ。罪を失くして生まれ変わりたいのだ。子宮に戻り人生をやり直したいほどの恥。子宮回帰願望という、無能の証明。負け犬が抱く思考そのものだった。
嘲笑いが溢れるのを抑えきれない。俺は壊れていた。思考に整合性を感じない。涙が出るほど、ゲロを吐いてしまうほど苦しいのに、嗤いを止めることができない。なんで、笑うのか?
もう、それすらも曖昧だった。
372 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/05(火) 00:01:17.36 ID:OJCCSoxP0
投下終了です。
373 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/05(火) 01:35:44.69 ID:1bCDihOwO
乙です!
こっから浜風と陽炎がどう動くか楽しみ
374 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/05(火) 05:40:40.24 ID:zJe4yvIt0
乙
陽炎がこのss唯一の癒しだわ
375 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:47:22.90 ID:3NEEFWr10
□
提督は、悲しんだ。
自分に取り憑いていた寄生虫の死を。子供のように膝を抱えて、掠れた笑い声を上げながら。私が差し出した傘にも、苛む雨が止まっていることにさえも気づくことなく。
提督の姿は、精神病院に囚われた子供たちを想起させる。私が艦娘になる前に入れられていた白いところ。色々な子供たちがいた。壁に語りかけて返事をもらう子、頭を打ち続けて自分の存在をアピールする子、糞尿を垂れ流しながら走り回る子、膝を抱えて自分の世界に閉じこもる子。記憶の中にいた誰かの姿と提督の姿が重なっている。
ああ、可哀想に。
あんな寄生虫のせいで。こんなにも苦しむなんて。
傘が揺れる。提督を責めてやりたいと悪魔が風を差し向けたようだ。私は力を込めて傘を抑え付けた。
良心の呵責はない。
私は間違ったことは何もしていない。あいつは提督から血と精神を吸うだけに飽き足らず、高潔な優しい想いさえも踏みにじり汚そうとしたのだから。思い出すと、いまでも腸が千切れそうになる。あの夜、私が見た光景。あれは紛れもなく破戒だった。
376 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:48:11.69 ID:3NEEFWr10
許せるはずがない。私の大切な人を、温もりをくれた人を、愛を教えてくれた人を、あんな目にあわせた。陵辱。この熟語は、死ぬほど嫌いだ。万死に値する罪だ。たとえ未遂だったとしても、提督に触った指をすべてへし折って舌を切り落としても足りないくらい、やつがやったことは許せなかった。
墓に入った今でも――。いや、だからこそ。骨となって戻ってきただけじゃ飽き足らず、いまもこうして提督を苛んでいるのだから、本当に質が悪い寄生虫だ。細菌よりもしつこい。死してなお提督を苦しめている。
でも、仕方がないことだとはわかっている。殺害とは、死とはこういうものだ。どんなチンケな存在であれ、人間として存在を定義された者の死である以上、人の心には深いシコリが遺ってしまう。南鎮守府で嫌というほど見てきた光景だ。誰かの死が、誰かを苦しめる毒として蓄積していく。やがて死に慣れていくが、そんなものは表面上の麻痺でしかない。心が壊れないように蓋をしているだけの状態だ。奥底では、ずっと沈殿し続けて、やがて新たな死を呼ぶ病となる。
まるで――風病のごとく。
死の破壊力を、私は知り尽くしていた。だからこそ、あの寄生虫を殺さないことに拘っていた。私を殺そうとしたところを、証拠を掴んだ上で糾弾し、追放してやるつもりだった。回りくどいほどにあいつを挑発し続けたのも、出撃に追い込まれたあいつを私の後ろに置くよう誘導したのも、すべてそのためだった。あんなことをあいつがしなければ、私があいつを殺すことなんてなかったのだ。
だけど、私はあの女を殺した。躊躇なんてなかった。私の怪物のごとき憎しみが、理性を変容させた。殺害行為のデメリットよりも奴を消し去るメリットの方が大きいと判断させるほどに。
377 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:49:19.04 ID:3NEEFWr10
出撃再開までの一週間は、地獄だった。ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと我慢していた。殺したかった。八つ裂きにしたかった。だから、その感情を慰めるためにも、殺すまでのあいだ提督に指一本触れさせないためにも、釘を刺してやったのだ。偽装した書類を用意するのに一日かけたが、大したことはない。印鑑を掘るのも、提督の筆跡パターンを分析し一ミクロンのズレもない偽装文章を書くことも、なんということもなかった。
それを突きつけてやったときの、あいつの顔は滑稽だった。普段から考えるということを放棄しているためだろう。馬鹿は、すんなり信じた。さすがに薬まで使うのは想定外だったけど、釘は深々と刺さってくれた。多少の慰みにはなった。
が、満足するには程遠いものだった。殺さねば溜飲は下がらなかった。待ち望んだ一週間がきたとき、私は笑いを噛み殺すのに必死だったほどだ。出撃前に発艦させた艦載機が、見事に仕事を成し遂げたのをみた瞬間は、脳が溶けそうなくらいに喜びが広がった。泣き叫ぶ陽炎姉さんたちの中で、私だけが悪魔に魂を売り渡していた。
あははは。あははははははっ。
ああ、可笑しい。悪魔に魂を売り渡した? いまさら、なにを世迷言を言うのか。そんなもの、人間でなくなったときに、とっくに売り渡している。
だから、悪魔的な打算も浮かぶ。
私は、あの寄生虫の死でさえも利用する。吐き気を催すほどに憎いやつだが、せいぜい糧になってもらおうと思う。
378 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:50:25.01 ID:3NEEFWr10
提督を、私無しでは生きられないようにする。私だけを見るようにし、私といるときだけ幸福を感じるようになってもらう。それが、最良な手段だ。これ以上、あの寄生虫みたいな存在が寄り付かないように。提督が汚されないように。
いま、あの女の死が、提督に深い影をさしている。前述したように死とは病だ。提督は深く傷つき、打ちひしがれている。あの女の死はなかなか消えないだろう。だが、かならず消してみせる。抹消はまだ終わってはいない。
お前は二度死ぬんだ。
私は、墓石に蔑視と嘲笑を向ける。だが、そんなものは一瞬だ。すぐに眼差しは愛しの人を捉える。抱きしめたい衝動にかられたが、今は肉体と肉体の接触がかえって提督を苦しめるだけだと分かっていた。だから、私は彼に慰めをかけることはしない。別の角度から布石を打つことにした。
怒りを煽る、という布石を。
浜風「提督」
彼は呼びかけには答えない。聞こえていないかのように笑い続ける。
だが、構わない。雨に打ち消されないよう声を張り上げる。
浜風「提督、聞いてください。あなたに報告しなければならないことがあります。出撃再開のあの日、私たちが第二次攻撃を受けたあのときのことです」
379 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:51:35.64 ID:3NEEFWr10
提督の笑いが止まった。
私の嗤いがこみ上げてきた。
雨が、激しく私を責めた。服が濡れて肌に張り付いたが気にもならなかった。圧倒的な愉悦の前では、すべてが些事と化す。
浜風「あのとき、雷さんの艤装が故障を起こしました」
提督が、ねじ切れるような勢いで首を巡らせた。仄暗い三白眼がこちらを射抜いていた。私は神妙な顔を装って見詰める。雨など消えている。私と、彼の意識の前では、消え失せる。
私は、続けた。
浜風「あれは、誰かが意図的に故障させた可能性があります」
提督「……」
浜風「提督、辛いかもしれませんが、聞いてください。雷さんを間接的に殺したものがいるのです」
提督「……う、そだ」
嘘ではない。殺したものはあなたの目の前にいる。そして、艤装を破壊したものは、私ではない。
だから、私が語ることは事実を捻じ曲げた真実だ。
浜風「残念ですが、真実です。雷さんの艤装が故障を起こしたところは、私も陽炎姉さんも見ていました。一瞬でしたが、間違いありません」
提督「……あ、あ。うそ、だ。うそだうそだうそだ」
380 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:52:40.06 ID:3NEEFWr10
提督が、頭を抱える。泥に汚れた手を振り回し、髪が汚染されることも厭わず、子供のようにイヤイヤをしている。
なんて、可愛いんだろう。私は歯を噛んで、堪える。下半身が、落ち着かない。こんな感覚、提督の温もりを知ったあのとき以来だ。ああ、これが本当の支配者のカタルシス。提督を所有したいという究極の欲求が、私を突き動かす。
提督の頬を、叩いた。乾いた音がなった。一瞬生まれた空白。唖然とする提督。
私は、この隙を見逃しはしない。
浜風「しっかりしなさい! 柊結弦! 雷さんの死を無駄にする気なの!」
提督「……」
私の目からボロボロと、意味がない水が流れ出る。この程度の三文芝居、何度もやってきた。目を見開く提督。驚いている。驚いてくれている。
浜風「あなたの苦しみは、想像を絶するものでしょう。これまで、あなたが犠牲を出さないように最善を尽くしてきたことはみんな分かっている。だからこそ、折れそうになっていることも……」
提督「……」
浜風「でも、ここで折れたらすべてが無駄になるわ! 雷さんだって、こんなあなたの姿なんて望んでいないはずよ! ……私たちのことを守ってくれるんじゃないの? 私たちを幸せにしたいんじゃないの? 私や陽炎姉さんと約束したことを忘れたの……?」
声のトーンを落とす。提督が俯いて、目を震わせていた。動揺が、走り抜けている。彼の中で記憶と思いが膨張しようとしている。今まで、何人もこうして操ってきた。だから、わかる。手に取るようにわかる。提督の心が、提督の感情が、提督のすべてが。
王になったような全能感が、私を軽くした。
381 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:53:53.51 ID:3NEEFWr10
ああ、提督。提督。ていとく。
私は、あなたのすべてが欲しい。
傘を放り投げた。肉体の接触は、いまこの瞬間なら絶大な効果を発揮する。状況は目まぐるしく動く。私は、それに逆らわず提督を胸に抱いた。
浜風「……あなたには、私がいるわ」
提督「……はま、かぜ」
浜風「忘れないで。あなたが今後どんな苦しみに苛まれようとも、私は、私だけはあなたのことを絶対に見捨てない。雷さんを殺した犯人も、薬物を持ち込んだ馬鹿野郎も、私がかならず見つけるわ。あなたの夢も、あなたの望みも、かならず私が叶えてみせる。支えてみせる」
だから。
だから、私だけをミテ?
浜風「何度でも約束する。かならず……」
提督が、私の背中に腕を回した。彼の頭が腕の中に。温かい。今までにないくらい、温かい。私はうっとりと法悦に浸る。
ふと、水溜りが目に入る。波紋を作り続ける水面。浮き上がったキリギリスの死骸。そこに微かに映る影。
嘲笑する義姉の影。あいつは、なにも言わなかった。ただただ満足そうに私を見下ろしていた。私も、笑みを返してやった。やつは、居なくなった。
構いはしない。なんとでも笑え。
382 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:55:06.02 ID:3NEEFWr10
私は、決めたんだ。彼を手に入れるためなら地獄の鬼どもとだって喜んで契約してやる。あの鎮守府にいる子達がどうなったって、構いはしない。
邪魔するものは、すべて、排除してやる。
そう、邪魔するものはすべて――。
提督のすすり泣く声。私は子守唄を聞く気分で耳を傾けながら、空に視線を移した。
寄生虫を殺したあの瞬間。
私は、信じがたいものを目にしていた。
エリートクラスの赤い艦載機。あれは、私のものではない。それがなぜか、私のまったく意図しない方角から狙ったようなタイミングで現れた。そして、寄生虫の艤装が故障。あれも私の仕業ではない。あんな手の込んだ細工は一切していない。
あの一瞬で、だ。あの一瞬で、私が意図しないことが二度も起きたのだ。偶然にしてはあまりにも出来すぎている。
私の殺害を察知した何者かがいる。そいつが、私に余計な手を貸してきた。ひどく遠回しで、悪趣味なやり方で。
誰だ?
いったい、誰がそんなことをしたんだ。
383 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:56:40.26 ID:3NEEFWr10
意図はわかっている。私に対する挑発だ。艦載機を見せびらかして、艤装を故障させることで、私に暗喩的なメッセージを送ってきた。
一つは、私の計画を察知していることを知らせる目的。もう一つは、「私の『正体』を知っているぞ」という示威行為。そして、最後は……。
浜風「……ふふ」
――最後は、探してみろという挑戦状。
私は、提督の頭を強く抱きしめた。雨は、降り止む気配を一向に見せない。ドス黒い雲が、不気味なほどに蠢く様は、巨大な芋虫の群れのように悍しかった。
面白くなってきたじゃない。
どんな目的があるのかは知らないけどね。
私と提督の邪魔をするなら、消してやるわ。
この寄生虫と、同じように。
384 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/15(金) 00:58:04.72 ID:3NEEFWr10
投下終了しました。
次回からは五章に入ります。まだ半分くらいですが、これからも気長によろしくお願いします。
385 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/15(金) 06:08:12.88 ID:d0YfsH2cO
登場人物、全員悪(ry
乙です
386 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/15(金) 08:47:48.24 ID:2qh7lJHno
乙
387 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/15(金) 09:40:34.38 ID:L4sG2wmt0
乙
最後まで見届けるぜ
388 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/15(金) 12:13:56.57 ID:bBpwlS2AO
乙です
プロローグに繋がるのはまだまだ先のようですね
389 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/05/18(月) 13:43:52.19 ID:BVDruGkU0
すいません。
6月21日の砲雷撃戦で出す予定(おそらくコロナで延期になりますが)の小説を執筆するために、風病の更新を一旦止めます。ご了承いただけますと幸いです。
曙の小説もヤンデレものです。ちょっと風変わりな小説ですが、よろしければイベントに出た際にでもお手にとってもらえると嬉しいです。
ちょっとした宣伝になりますが、よろしくお願いします。
390 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/05/20(水) 01:52:26.17 ID:d8YE0qIT0
乙
また再開するのを大人しく待つ
391 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:13:58.92 ID:zyk0IZBD0
クヌギの幹に張りついた命の殻が、割れた背中をこちらに見せながら、生まれ変わりを主張している。
空蝉は、命の欠片。置き去りにした蝉どもは、懸命に生の躍動を訴えている。天まで昇るような激しさで。入道雲さえ揺さぶるように。
寄生虫の死から一ヶ月半が経った。立秋を迎え、鎮守府に沈んでいた原油のような重たい気配は、少しずつ溶けてなくなってきている。私達にとって死とは日常の範疇を出るものではない。慣れることはないが、切り替える術というものを、みんな大なり小なり身につけているのだ。戦場で正気を保つための処世術を構築できないものから、はやく死んでいく。
蝉のようにね。
空蝉の下で、翼のもげた蝉がもがき苦しんでいた。生誕の残骸と、朽ち果てようとする生が置き去りにされている。酷い光景だ。戦場でよくある光景でもある。その酷薄さを、私は冷徹に見限り、足を進めた。
暑いのかどうかすらわからない。きっと暑いのだろう。激しい運動でもしないかぎり汗をほとんどかかないから、身体はセンサーの役割を果たさない。かげろうによって、地面がぼかされているところから察するしかなかった。
392 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:15:54.41 ID:zyk0IZBD0
五章「王」
393 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:16:31.71 ID:zyk0IZBD0
クヌギの幹に張りついた命の殻が、割れた背中をこちらに見せながら、生まれ変わりを主張している。
空蝉は、命の欠片。置き去りにした蝉どもは、懸命に生の躍動を訴えている。天まで昇るような激しさで。入道雲さえ揺さぶるように。
寄生虫の死から一ヶ月半が経った。立秋を迎え、鎮守府に沈んでいた原油のような重たい気配は、少しずつ溶けてなくなってきている。私達にとって死とは日常の範疇を出るものではない。慣れることはないが、切り替える術というものを、みんな大なり小なり身につけているのだ。戦場で正気を保つための処世術を構築できないものから、はやく死んでいく。
蝉のようにね。
空蝉の下で、翼のもげた蝉がもがき苦しんでいた。生誕の残骸と、朽ち果てようとする生が置き去りにされている。酷い光景だ。戦場でよくある光景でもある。その酷薄さを、私は冷徹に見限り、足を進めた。
暑いのかどうかすらわからない。きっと暑いのだろう。激しい運動でもしないかぎり汗をほとんどかかないから、身体はセンサーの役割を果たさない。かげろうによって、地面がぼかされているところから察するしかなかった。
394 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:17:28.76 ID:zyk0IZBD0
一応、肩にかけていた水筒を掴み、口をつけた。熱中症対策は万全にしておかなければ、熱感覚がない私は気づかないうちにやられてしまう。提督の温もりを知ったからといって、呪いが解けたわけではないのだ。常に隣にいることを、ゆめゆめ忘れてはいけない。
鎮守府本館の側を抜け、港を通り、艦娘寮へと向かう。私の探している人はそこにいる。魔の海域を攻略し、モーレイ海も突破して迎えた、束の間の休息を楽しんでいることだろう。きっと、みんなと将棋でもしているはずだ。
艦娘寮の広場に、人集りができていた。
その中心に、提督の影が見える。どうやら鈴谷さんと指しているようだ。緑の後ろ髪がエメラルドみたいに光っていた。
提督「王手」
提督が、にやりと口を歪めた。鈴谷さんが悩ましげに唸っている。状況を見る限り提督の優勢なのだろう。
鈴谷頑張りなよー、と周囲に煽られて、鈴谷さんが頭を抱えた。
提督「積みだなあ。どう足掻いても逃げられないぞ」
鈴谷「待って待って、ちょい待って。まだなんか手があるかもしれないじゃん!」
395 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:18:28.89 ID:zyk0IZBD0
熊野「たとえ持ち駒を置いたとしても無理ですわよ。銀をここに置かれたら……ほら、上に逃げるしかないでしょう? そこに提督が龍を指したら完全に積みですわ」
三隈……いや熊野さんの解説が添えられる。盤面は私の位置からでは見えない。しかし、完膚なきまでに鈴谷さんは敗北したようだ。項垂れている。みんなの笑い声と口笛。
鈴谷「にゃああ、悔しい。また負けちった」
提督「ははは、鈴谷もまだまだだなあ。もっと勉強して出直してきたまえ」
提督が扇子で扇ぎながら得意気に言った。鈴谷さんはさらに奇声を上げる。
鈴谷「今度こそ自信あったのにぃ。熊野と超練習したんだよ?」
提督「まあたしかに、初めのときよりは強くなったと思うぞ? まさか美濃囲いで来るとは思わなかったしな」
熊野「型は覚えても、まだ活かしきれていませんわね。さらに勉強あるのみですわ」
私は人垣に割って入ると、提督に声をかけた。
浜風「提督。お楽しみのところ申し訳ありません」
提督「おお、浜風か。どうかしたのか?」
396 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:19:23.82 ID:zyk0IZBD0
提督は白い歯を見せてくれた。肌はやや小麦色に焼けていて、いつもの病的な肌の白さを覆い隠している。健康的で、海の男らしい爽やかさがあったが、それが上辺だけのものであることは、わかりきっていた。私だけでなく、ここにいる全員が。
私は、微笑み返して告げる。
浜風「指示されていたキス島攻略の編成案なのですが、いくつか纏めましたので改めて相談したいです。お時間の都合は大丈夫でしょうか?」
提督「もう出来たのか。相変わらず仕事が早いな。時間は大丈夫だから、気にしないでいい。さっそく聞かせてもらおう」
浜風「陽炎姉さんとも相談したいので、よければ演習場に行きませんか?」
提督「陽炎は演習場にいるのか?」
浜風「ええ。新しい艤装を試しているようです。防空戦の練習も兼ねているようなので、瑞鳳さんとも一緒にいるみたいです」
提督「なるほど。では、そちらに向かおうか」
提督は駒を盤面に整理すると、立ち上がった。鈴谷さんたちに別れを告げて、歩き出す。足取りは驚くほどに軽い。軽く見える。
私も、提督についていこうとした。
397 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:20:09.06 ID:zyk0IZBD0
鈴谷「ねえ、浜ちゃん」
私は振り返る。
鈴谷さんは、いかにも不安そうに眉を下げていた。彼女はいつしか、私のことを「浜ちゃん」と渾名で呼ぶようになっていた。馴れ馴れしいとは思わない。一ヶ月半の時間の変化を実感するだけだった。
浜風「なんでしょう?」
提督の方に視線を投げる。彼は私が立ち止まったことに気付かず、海を見ながら歩いていた。
はやく、済ませて欲しい。提督といられる時間が減ってしまうではないか。
しかし、内心の抗議は黙殺する。鈴谷さんの様子には、苦しげすら感じられたから。よく見ると鈴谷さんだけではない。全員が呼応するように、煮えきらない表情を浮かべていた。眼差しをそっと提督へ向けるものもいる。
鈴谷「提督さ……。変わっちゃったよね」
鈴谷さんは言葉にしたことを後悔するように目を伏せた。太陽が雲で遮られ、影が落ちる。光で虚飾した欺瞞が鮮やかさを失っていく。
彼女の言いたいことは間違いではない。提督はたしかに変わってしまったように見える。寄生虫を失って以来、昔よりもずっと臆病になったし、ずっと明るくなった。まるで、闇を振払おうと必死で懐中電灯を振り回すような健気さで、自分を偽り始めた。そこには深い傷があり、恐怖があった。大切なものをこれ以上掌からこぼれ落としたくないと、無言のうちに叫んでいる。
398 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:21:13.23 ID:zyk0IZBD0
それは、これまでにない馴れなれしさになって現れているのだ。みんな、当然だが違和感を覚える。提督がおかしくなってしまったんじゃないか、と勘繰ってしまう。
提督のことを慕わないものはいない。だからこそ、心配している。寄生虫……雷さんの死が、彼に計りしれないダメージを与えてしまったのではないかと懸念に駆られるのだ。
鈴谷「あ、その……さ。別に提督のことを悪く言っているわけじゃないんだよ? ただ、最近の提督、なんか違うなあって思うだけで」
私が黙してしまったことを気にしてか、鈴谷さんは取り繕うように言葉を並べる。健康的な太ももが微かに動き、将棋盤を揺らした。
転がる王を、誰も気にしない。
浜風「わかってますよ」
私は口を開いた。
浜風「でも、心配する必要はないと思います。提督は、たしかに明るく振る舞おうとしてはいますが、本質的には何も変わりませんから。みんなが知っている、思慮深い提督のままですよ」
鈴谷「そう思いたいんだけどね。あの様子を見ていたら心配するなって方が無理だと思う」
熊野「私も、そう思いますわ」
399 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:22:24.66 ID:zyk0IZBD0
鈴谷さんの言葉に、おそるおそる熊野さんが同意した。他のみんなも同じ意見なのだろう。何も言わなかったが、表情は一様に陰っていた。
本当に心配する必要はないのだけれど。
提督には私がいるのだから。あなた達が心配するまでもなく、提督の傷は私が少しずつ着実に癒やしている。取るに足らない有象無象どもが、提督の思いに踏み入ろうとするなんて、おこがましいにもほどがあるわ。
嘲笑したくなる気持ちを抑え、私は口を回す。
浜風「皆さんの心配は、当然のことだと思います。ですが、提督は皆さんが思っているよりずっと強い人です。たしかな信念をもった武人です。だから、大丈夫……。彼は、かならず立ち直ってくれますよ。それは秘書である私が保証します」
私は、言葉を区切って全員をゆっくりと見渡し、最後に鈴谷さんを見た。
浜風「それとも――」
目を細める。
浜風「私の言葉は、信用できませんか?」
静かに、しかしはっきりと力強く。ほんの微細な怒りをアクセントに込めた。全員が息を潜め、私の言葉に飲み込まれる。まるで重力に引きずられたかのように。ざわつくことさえなく。
私はしばらく間をおいて、微笑みを作った。鈴谷さんを静かに見続ける。彼女は落ち着かない様子で、髪を触っていた。
400 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:23:05.72 ID:zyk0IZBD0
浜風「私は、皆さんが好きです」
全員の視線が、こちらを向いた。
浜風「とてもお優しいですから。私が自分を見失っているときも、皆さんはけっして私を見捨てませんでした。本当に、嬉しかったんですよ。だから、皆さんが辛そうにしているのを見るのは、耐えられません」
不意打ちを食らった鈴谷さんは、目を白黒させていた。構わない。畳み掛ける。
浜風「私は皆さんに笑っていて欲しい。もし、私の言葉が信じてもらえないなら、私の努力が足りないということです。そんな自分が許せなくて、さっきはつい語気が荒くなりました」
拳を握り、胸の前に置く。その一点が、遠近法の消失点のように作用して、全員の注目を集めた。軽く胸を叩きながら、語調にメリハリをつけていく。
浜風「皆さんが、笑っていられる鎮守府を作る。それが、私の夢なんです。提督と同じ夢です。いいですか。私は、皆さんの笑顔を大切にしたいんです。それが、私を救ってくれた皆さんに対する最良の恩返し。そう信じています。ですので!」
拳に感じた。
全員の心を、掴んだ感触を。
401 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:23:50.99 ID:zyk0IZBD0
浜風「……ですので、皆さんの不安は、かならず取り除いてみせます。私が、全力で提督をサポートします。そうすれば必ずや、あなた達の優しい憂慮は、杞憂に変わるでしょう。私には、その力があります。ノウハウがあります。皆さんの期待に、絶対に応えてみせますよ」
鈴谷「……やっぱすごいね、浜ちゃんは」
鈴谷が、ほうっと息を吐いてそう言った。それを合図に、全員の緊張が解れていく。名著を読み終わったときのような酩酊感を、全員が感じている。確信だ。私には、人の心を読む力がある。
浜風「そんなことはないです。私はただ、皆さんに報いたいだけですから」
熊野「その志は、とても気高いものだと思いますわ」
熊野さんの言葉に、周りも追従している。私を称える声が続く。私は嬉しそうなフリをしながら、提督の方に目を走らせる。
提督は、立ち止まって海を見ていた。表情はよく見えないが、明るさは鳴りを潜めていた。
ああ、提督を待たせてしまっている。退屈させてしまっている。有象無象の相手をしている暇は、とっくになかったんだ。
浜風「……それでは、私はもう行きますね」
鈴谷「提督のこと、よろしくね。私たちもできることはなるべく手伝うからさ。なんでも言って?」
浜風「はい。そのときは、よろしくお願いします」
そんなときは、永遠に来ないけどね。
誰も信用なんてできないのだ。
私は、去り際に転がる王の駒をみた。盤上から落ち、地面に倒れ付す王は、ルールの外に追いやられて、その存在意義を見失っている。あるいは、狭い枠から出られたことを喜んでいるのか。
沈黙の王は、けっして語らない。
402 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:24:40.77 ID:zyk0IZBD0
時津風「あ、浜風と司令じゃ〜ん」
私達が演習場に着くと、時津風がいた。ボラードに腰掛けて、見学をしているようだった。
時津風「二人とも視察? 休みなのに仕事熱心だねえ」
提督「俺に休みはないさ。栄光なる帝国海軍のカレンダーには、土曜日と日曜日は載っていないんだ」
提督は肩をすくめて皮肉を口にする。時津風はほんの一瞬眉をひそめたが、すぐに顔を戻して「そうだねえ」と同意した。
提督「それで、陽炎はもう新しい艤装を試したのか?」
時津風「うん。これがすごくてさ〜。あんなの普通の駆逐艦が使ったら、身体がおかしくなっちゃうと思うよ」
浜風「戦艦の装備を改装したものですからね」
私は海の方に目をやった。水平線に無数の点が浮かんでいた。ブイや的、深海棲艦を模した型。いくつかは壊れ、ひしゃげている。その中央に佇む人影が、陽炎姉さんだった。やや下を向いているが、表情までは伺いしれない。ただ、この距離からでも、陽炎姉さんの背中に張り付く無骨な鉄の塊は、一際目立っていた。
試製三十五・六センチ単装砲。規格外にもほどがある特注品だ。通常の駆逐艦では、まず使いこなせない装備である。時津風の言うとおり、仮に使うことができたとしても、けっして無事では済まないだろう。三半規管をやられ、身体中の筋肉や骨が軋み壊れてしまうに違いない。陽炎姉さん、「覚醒」した艦娘にのみ許される禁術のようなものだ。
403 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:25:36.85 ID:zyk0IZBD0
「覚醒」とは、艦娘が特異点へ到達したことを指す。それはいわゆる改や改二などの「改装」とは、定義を異にするものだ。「改装」によって艦娘はたしかに進化を果たし強くなるが、あくまで「艦娘という枠内」での変質でしかない。「覚醒」は、枠外を超えていく。つまり、「艦娘ではない別の何か」に変異することを意味する。
では、通常の艦娘とは何が決定的に違うのか。それは、艤装適性と妖精との同調率だ。艦娘の艤装適性は、文字通り艤装との相性である。例外もあるが、艦種に相応しい装備以外は使えないのが通例だ。無理に装備すれば、キックバックという現象によって脳が深刻なダメージを受ける。しかし、この定石は覚醒した艦娘には当てはまらない。自分の身体能力、艤装の耐久力の許される範囲で、あらゆる装備を使いこなすことができるようになるのだ。
また、最大の違いが同調率である。艦娘は妖精たちと感覚を共有しなければ、艤装を使うことができない。その値が優れていればいるほど、優秀な艦娘であることを意味するのだが、どんなに練度を上げた艦娘であっても、せいぜい感覚の半分を共有できればいい方だ。私でも三十六パーセントが最大値である。陽炎姉さんの数値は二百二十パーセント……百パーセントを有に超える。それはつまり、妖精を支配する力をもつということでもあるのだ。
提督たちと、同等……いやそれ以上の力だ。さすがに、鎮守府中の妖精を支配できる提督たちの権能と比べたら範囲は狭いが、こと自分の艤装に住まう妖精への影響力は提督たちを上回っている。
提督の支配からさえも外れた存在。艦娘が行き着く究極の姿。この領域に踏み込んだものは、艦娘制度が始まってから三十年で数えるほどもいない。
そのうちの一人が、陽炎姉さんだ。右腕は、その領域に至る過程で無くしてしまったもの。ある地獄が、彼女を変えたのだ。
404 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:26:30.42 ID:zyk0IZBD0
陽炎姉さんは空を見上げた。艦載機が、空を引裂きながら彼女の元へと向かっていく。瑞鳳さんの演習用艦爆隊である。
提督「始まったな」
提督が緊張した声で言った。
艦爆が高らかに舞う。急降下。完全なる不意打ち。だが、陽炎姉さんは動じない。必要最小限の動きで取舵を切る。爆音。紫色の水柱が膨れ上がった。陽炎姉さんは機銃を唸らせた。弾き出される曳光弾。吸い込まれるように艦爆機を捉える。錐揉みして落ちていく。それとすれ違うように、陽炎姉さんは前に出る。戦闘機の返礼は彼女に当たらない。それさえ、見切ってかわした。撃ち落とす。二機の戦闘機が死んだ。その最中、彼女は最大の武器を展開していく。
背中から伸びる単装砲が、牙を向いた。
陽炎「おあああっ!」
鋭い裂帛とともに、凄まじい黒煙が上がる。烈風が、空気を破壊しながら私たちを叩いた。息が吸えなくなり、肺が呼吸を取り戻した瞬間には、一つの的が粉砕しているのが見えた。
それを知覚した瞬間には、元の場所から陽炎姉さんの姿は消えていた。驚異的な速度で動き続け、艦載機を次々と叩き落としている。
必死だった。あまりにもひたむきだった。後悔を払い落とそうと、蟠りをぶつけようと、恐怖とトラウマを打ち消そうと。
時津風「……相変わらず、すごいな」
時津風の声には感嘆だけではなく、寂寞が込められている。苦しさがある。叫びのような舞をみせる陽炎姉さんに対して、負い目を感じているのだろう。
それは、提督も同じだった。不自然な明るさは落ちていた。暗く淀んだ三白眼を、陽炎姉さんに向けながら後ろ髪に引かれる思いに耐えている。
405 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:27:18.05 ID:zyk0IZBD0
提督「浜風」
提督は私に顔を寄せ、小さな声を出した。耳朶が溶けてしまいそうだった。思わず足が震える。歓喜の声が出ないようにするのが大変だった。
浜風「なんでしょう?」
提督「まだ見つからないのか?」
何が、とは言わなくてもわかる。寄生虫に薬を与え、寄生虫の艤装を停止させ、やつを殺した犯人。提督は何も知らない。私の刷り込みを、信じ続けてくれている。そして、犯人が見つかることを切望している。
薬と艤装の故障、そしてあの赤い艦載機。同一人物の仕業で間違いない。私たちを嘲笑うかのような快楽主義者にも似た手口が、共通しているからだ。明確な根拠に乏しくても、それだけはわかる。
だが、一ヶ月半が経っても犯人は見つからない。寄生虫の戦死以降、一切の目立つ行動を見せないからだ。証拠や痕跡もまったくといっていいほど見つからない。これでは、いくら私でも探しようがなかった。
はやく見つけたい。私もそう思う。しかし、相手は油断ならない存在だ。私の計画を察知したほどの知能の持ち主であり、赤い艦載機を出せるほどの戦力をもつ怪物だ。下手に動けば、私が食われてしまう可能性もなくはない。慎重にいかねばならない。
これまでの雑魚共とは、明らかに違う。
浜風「すいません、まだです。おそらく警戒されているのでしょう。なかなか尻尾を出しませんね」
質問に答えると、提督は落胆するように肩を落とした。心が痛んだ。提督の期待に答えられないことがこんなにも辛いなんて。
406 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:29:07.26 ID:zyk0IZBD0
提督「……そうか」
浜風「なるべく早く特定します。お辛いでしょうが、もうしばらく堪えていただけますか?」
提督「ああ。すまないな、急かすようなことを言ってしまって」
浜風「いえ、お気持ちはわかりますので」
それから、提督は口を閉ざした。沈黙が寂しかったが、私も何も言わない。
爆発音が、虚しく響いた。
浜風「……」
しかし、だ。
犯人の手がかりがまったくないかというと、そうでもない。実はある程度、容疑者の絞り込みは進んでいる。
あるカテゴリーに属する者たちが、候補者だ。
それは、最大級のトラウマを抱えるものたち。
東鎮守府に所属していた艦娘たちだ。
なぜ、彼女たちが怪しいのか?
理由は、過去の事件を知っていれば自ずとはっきりする。私は、南鎮守府にいたときに「捨て艦事件」の報告書を盗み見たことがあった。なので、あの事件の内容は大体頭に入っている。あの事件の発端、第六駆逐隊の相次ぐ事故死。その内容は、すべて「艤装の故障」によるものだ。そう、つまり、寄生虫が死んだときと同じ現象が起きていたということだ。
407 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:29:59.26 ID:zyk0IZBD0
そんな偶然、あり得るはずがない。だから、ほぼ間違いなく犯人は東鎮守府にいた者たちの誰かだ。
これは、黒幕のヒントとは考えにくい。挑発の手段であっても、ヒントを与える意図まではないということだ。事件は未だにトップシークレット扱いだ。この鎮守府の中でさえ、事件の詳細を知っているものは限られている。カウンセラーや提督など一部の人間以外には、ほんの一握りの情報しか開示されていない。大体何があったのかは知っていても、詳細までは誰も知らないのだ。だから、私がここまで情報を握っているとは黒幕も考えないだろう。私が当事者たちから聞き出したことを考慮した可能性もあるが、その線は薄いと見た方がいい。なぜなら、あの事件についてはみんな口を固く閉ざしているからだ。
黒幕は、殺しに無秩序な美学を持っている。寄生虫の事故を、同じような手段で演出したのも、それが理由だと考えると納得がいく。
吐き気を催すほどの邪悪だ。もはや黒幕は、人の精神を持ち合わせてはいないだろう。紛う事なき、精神病質者だ。気が狂っているとしか言いようがない。
そして、私はこれとまったく同じ感想を抱いたことがある。はじめて、「捨て艦事件」の資料に目を通したときに。この事件の首謀者に対して、そう思った。
苦虫をかみ潰すという比喩は、こういうときに使うのだろう。苦いとはどういうことか知らないけど、言葉の意味するところくらいは理解できる。
408 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:30:48.11 ID:zyk0IZBD0
考えたくはない、可能性だ。
だが、あの提督の死亡は明確に確認されたわけではない。牢獄の中で爆死したそうだが、死体は一切見つかっていないのだ。それに、厳重な体制の敷かれた留置場に爆薬を持ち込めるはずはないから、ずっと引っかかっていた。しかし、一つだけ方法がある。たった一つだけ……。
何事にも例外は存在する。私というイレギュラーが存在し、赤い艦載機というさらなるイレギュラーを見てしまった以上、可能性として考慮しておかねばならない。
――少なくとも、この鎮守府に、私と同じ存在がもう一体いることは間違いないのだから。
陽炎「あああっ!」
陽炎姉さんの叫び。砲撃と風。艦載機の唸りと響き。私は、彼女の舞を見ながら深い溜息をついた。
409 :
◆WvruwVSMos
[sage saga]:2020/06/05(金) 00:34:10.69 ID:zyk0IZBD0
投下終了しました。
すいません。章台を上げ忘れていました。
今回から五章です。ようやく本番に入ってきた感じです。よろしくお願いします
410 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/05(金) 08:56:44.08 ID:9UwGATFx0
乙
おっしゃー、新章じゃあ
411 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/07(日) 07:27:13.07 ID:VFWzWtfz0
順当にいけば、東出身のサイコパスはアイツしかいねぇ、、、
雷ちゃん退場は読者も寂しい
412 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/14(日) 00:26:59.14 ID:mpz5nmGt0
さぁ、こっからどうなるか
413 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/29(月) 05:02:53.12 ID:rIPoceQh0
まってる
414 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/06/29(月) 22:48:48.52 ID:FwfDZN50O
いくらでもまったる
415 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2020/07/04(土) 19:46:17.15 ID:/802lPrEO
楽しみにしてます
416 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/07(火) 19:14:03.94 ID:6y9+ZfAF0
作者どうか無理はせずやってくれ。リアルが大変なのは理解しとる。
417 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/07/23(木) 14:52:22.33 ID:wOmuIj/W0
良いものを書くための溜めの期間なんや
まったるでー
418 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/08/12(水) 15:54:27.29 ID:upkCLPDO0
がんばれ
419 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/08/15(土) 07:10:34.33 ID:ApsKN9kf0
重い話書くって自分の精神も削れるからなー。書きたいときに書けばいいと思うのー。
420 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2020/08/17(月) 03:55:18.94 ID:bK2qJIcX0
作者「コロナ」
421 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/09/05(土) 15:37:17.91 ID:5XpX/icU0
続き、、、待ってるゾ、、、
422 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/10/07(水) 20:03:45.93 ID:3mkGJLf90
いつまーでも、まーってるぅー
423 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/11/17(火) 18:05:15.21 ID:bmDcJ5BR0
作者、フツーに心配なんだが、もし気力あったら生存報告たのむ、、、続きは好きな時に書いたらええ、、
424 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2020/12/20(日) 11:56:35.71 ID:RhCsz5ZqO
支援
425 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2020/12/21(月) 22:22:17.14 ID:wi5VITEc0
支部で読んだ
続き期待してる
426 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/01/06(水) 01:06:01.45 ID:9NfFptep0
作者、コロナで逝った説
427 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/01/23(土) 02:23:47.59 ID:ay2vKzyE0
まだ戻ってくると信じてます
428 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/02/12(金) 17:11:15.70 ID:kGyRhf4r0
作者、やっぱりコロナでイッた説
429 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/04/17(土) 00:55:39.03 ID:GBuLCITl0
俺は信じて待ってるゾ、再び戻ってきてくれることを
430 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2021/07/22(木) 13:41:13.38 ID:qDpa4piLO
ダメみたいね…
未完になるのは悲しいなぁ
431 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
:2021/12/20(月) 00:06:54.68 ID:gzooSF6WO
a
432 :
以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします
[sage]:2022/03/02(水) 23:50:30.17 ID:YVLfzzKtO
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