サターニャ「サタニキア百科事典」

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106 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:11:13.51 ID:6an8YmUi0



「それでも、過ぎたるは猶及ばざるが如しっていう言葉の通り、ほどほどで終わらせないといけない。

そのときに感じるのは、諦めだと思うのよ」


「達成感じゃないの?」


「もちろん、それもあるとは思うけど……。

誰も、ここで終わりなんて言ってくれない。ゴールテープを持っていてくれない。

だから、小春日和のお日様のような、朗らかでちょっと冷たい諦めの中で、自らハサミを入れるのよ。きっとね」


「へぇ……」


107 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:12:18.82 ID:6an8YmUi0




ヴィネットを見ると、彼女は編んでいるときにいつもするように、微笑する直前の、

血の通った無表情とでもいうような顔をしていた。

ヴィネットは大口を開けて笑うことはしないが、話しているときは結構表情が豊かだ。

特に、ガヴリールと一緒にいるときは、眉を吊り上げて怒ったり、

花が咲くようにぱっと笑ってみせたり、ころころと変わる。

だから、作業に没頭する彼女を見ていると、例えるなら図書館の閉架の暗がりに潜む妙な色気というか、

あるいは平日の正午に通学路を通ったときの奇妙な非現実感に対する高揚というか、

そういうのに近いものを感じて、なんとなくどきどきしてしまうのだ。

それは、背徳感だけではなく、彼女自身の魅力だとも思える。


108 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:12:44.94 ID:6an8YmUi0



ヴィネットは、完成には諦めが必要だと言った。

諦め、それは大悪魔の対極に位置する。

偉大な悪魔はいつだって野心を自らの内に育てる。

不屈の精神と充足感、それらを美徳とするべきである。

しかし、このとき私は、それとは別のことを思い浮かべていた。



109 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:14:02.00 ID:6an8YmUi0




私のおばあ様は活動的な女性ではあったけれど、若い頃から胸の病気を患っていた。

まだ弟の生まれていないころ、共働きの両親は、学校から帰った私の世話をおばあ様にしてもらうことが多かった。

おばあ様は色々な遊びを知っていた。

おかげで私は誰よりもお手玉を長く続けることができたし、あやとりでたくさんの技を披露できた。

何かできるようになると決まって、「サターニャはきっと将来は大悪魔になるわね」と褒めてくれた。

私が折り紙で花を作れば、それがまるでルビーで出来ているみたいに、いつまでも大事に取っておいてくれた。

一つ教わるごとに、次に何を教えてもらうかを、二人で話し合った。


110 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:14:29.10 ID:6an8YmUi0



その日は、写実的な絵の描き方を教えてもらう予定だった。

私は学校から帰ると、珍しくお店が閉まっていることに気付いた。

両親が病気になったのかもしれないと思った私は、慌てて両親の部屋へと向かった。

ドアを開けるとお母様が机に突っ伏しているのが見えた。

何事かと私は駆け寄ると、私に気付いたお母様はきつく抱きしめてくれた。

おばあ様が亡くなった、そのことを実感したのは、おばあ様の葬儀の次の日に、

下校した後に出迎えてくれる人がいないことに気付いた時だった。

その日のために買っていたスケッチブックは、まだ白紙のままでとってある。


111 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:15:03.27 ID:6an8YmUi0




――あなたにとって、火って何?

えっ、火について……?

そうね……火は全てを奪っていくわ。

例えば、ある人が死んで、火葬されたとしましょう。

骨だけになった彼の重さがどのくらいか、想像できるかしら?

割合にして約5%。60キログラムの成人男性であれば、骨の無機成分の重さは僅か3キログラム程度。

彼の眉間に刻まれた皺も、右手の中指にできた立派なペンだこも、全て大気に拡散してしまうの。

骨から生前を推測することの難しさは、よく知っているはずよ。

そうでなければ、ティラノサウルスが立ち方を二転三転することもないはず、そうでしょ?



112 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:16:05.42 ID:6an8YmUi0




残された骨は、もはやただの石灰質でしかないの。

生き物は浅はかで、ありもしない希望を信じてしまう。

肉と皮が残されていれば、何かの拍子に目を覚ますのではないかと錯覚する。

人を劇場に例えるならば、役者の去った舞台でなお、幕が上がることを期待してしまう。

世界中にゾンビの伝承が残っているのはそのためよ。

だから、その演目が終わったならば、観客は劇場を焼き払わねばならないの。

人気のない廃屋は、災厄を招き入れてしまうから。

文章だってそうでしょう?

ピリオドは自然に打たれるものではなく、誰かが打たねばならないのよ……。




……あれ、私は誰に話しかけている?


113 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:16:35.04 ID:6an8YmUi0




「ああ、赤い毛糸が無くなっちゃったわ。どうしよう」


そういう時はぎりぎりまで進めたらだめよ。かえって面倒なことになるから。

私はそう言おうと思ったが、気づいたら机に突っ伏していて、金縛りにあったように体が動かなかった。


「そうだ、サターニャの髪と色が似てるし、ちょっと使ってもいいかしら?」


いいわけないでしょう? ヴィネットは一体何を言っているのかしら。


「じゃあ、ちょっと使わせてもらうわね」


髪を引っ張られる感覚。

ヴィネットがぐいぐいと引っ張るごとに、私はするするとほどけていった。

全身をヘビがはい回るような感覚の後に、体がどんどん軽くなっていく。


114 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:05.24 ID:6an8YmUi0




「あらあら、ほとんど骨だけになっちゃった。明日になったら、毛糸を買ってきて編んであげるからね」


冗談じゃない! 今すぐ私を返しなさいよ!

私は反論するために起き上がろうとしたが、それはできなかったし、声も出なかった。

なにせ、筋肉がほどけてしまったのだから。

糸を奪われた操り人形は、指一本たりとも動くことは無いのだ。


「あら、ちょっと糸を引っ張りすぎたみたいね。余っちゃったわ。

そうだ、火をつけてみたらどうかしら。糸に沿って走る閃光はねずみ花火みたいにきっときれいよ」


とんでもない! そんなことをしたら、骨に引火して、私が浄化されてしまう!



115 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:32.90 ID:6an8YmUi0




「サターニャ、そろそろ起きて」


うるさいわね。それができたら苦労しないわよ!

どうせもう動けないのだ。せめて静かに休ませてほしい。


「もう夜よ、サターニャ」


夜なら寝かせなさいよ。なんで起きる必要が……。


「サターニャってば!」


肩に手を載せられる感覚。

やめてくれ、そんなことをされては、崩れてしまう!


116 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:17:58.54 ID:6an8YmUi0



私は体をビクッと震わせて、ばねが仕込まれていたみたいに頭を跳ね上げた。


「サ、サターニャ……大丈夫? ひどい汗よ」

「ヴィネット……」


私は目の前にあった自分の手を確認する。

前髪が額に貼り付いて気持ちが悪い。

汗ばんだ手は蛍光灯の光を反射して、ぬらぬらとてかっていた。

どくどくと音を立てる心臓を、深めの呼吸で落ち着ける。

宿題をしているうちに寝てしまったらしい。

ヴィネットが心配そうに私を見つめていた。


「ちょっと、変な夢を見ちゃって。無理な体勢で寝るもんじゃないわね」

「シャワーでも浴びていく?」

「結構よ。もう遅いし、そろそろ帰るわ」

「そう……。今日は早く寝るのよ」

「ええ、そうする。気遣い感謝するわ」


117 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:18:29.60 ID:6an8YmUi0



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私は家に帰るとすぐにシャワーを浴びることにした。

水は色々なものを飲み込んで落ち着かせる。

タバコの匂いを消すには、頭から水をかぶり着替えるのが一番いいのだという。

髪をよく泡立てて、少し強めの水圧で洗い流す。


118 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:19:04.58 ID:6an8YmUi0




ヴィネットにはああ言ったが、私が何も失っていないというのは本当だろうか?

世の中では未だ無から何かが生まれるという現象は報告が無い。

化学や物理の授業でも繰り返し習うが、「なんとか保存則」は何者にも侵されざる聖域だ。

エネルギーにしろ質量にしろ、全体に変化はない。

やけに物々しい言い方だが、要するに、結果には原因があるという因果律の話だ。

元の毛糸玉と編みあがったマフラーは一見して等価ではないが、マフラーは自動で編みあがるものではない。

マフラーを編むヴィネット、彼女のエネルギーとなる食事、費やした時間、諸々込みで総和は一定だと思う。

つまり、系、すなわち想定する全体をどこで区切るか、

という話になるが――私という系で考えるからおかしなことを考えてしまうのであり――

四人を一つの系とみなせば、諸般のつり合いは取れている、ということになる。


119 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:19:31.43 ID:6an8YmUi0




だが、四人の関係を保とうというのは、結局のところ、

暗闇に灯る蝋燭を消すまいと必死になっているということなのだろうか。

その明るさに眼を慣らしてしまえば、周囲の言い知れぬ不安は暗闇に塗りつぶされる。

寄るべのない自己に他者を巻き込むことで正当化し、その挙句、停滞……。



120 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:20:02.70 ID:6an8YmUi0




しかし、それでも私は……。

小学生の頃の通知表には、性格についての項目があった。

創意工夫ができる、責任感がある、自然愛護の精神にあふれる、思いやりがある、などなど。

私はその欄を見るたびにうんざりした。

例えば、数学が数や論理を扱う技術の習熟度、体育が肉体を扱う能力の習熟度の評価だとすれば、

その項目は、他人を扱う腕前の優劣をつけるためなのか?

自分以外は、設定した系の外側は、全て道具に過ぎないとでもいうのだろうか。

危険物取扱免許のように、為政者は人間取り扱いの資格保持者だとでも言いたいのか……。


121 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:20:33.19 ID:6an8YmUi0





くそっ……。

何なのよ、損とか得とか、どうだっていいじゃないの、そんなの。

そもそも、私は数学が嫌いなのよ。

何でもかんでも数字で、明快な記号で表して、論理という、まばゆい炎で照らして、わかった気になって……。

見えているものは、いつだって何かを隠しているものよ。

立ったまま足の裏を見ることができる人間が、どこにいるっていうのよ……。




泡がすっかりなくなっているのに、湯をかぶり続けていたことに気付く。

うんざりした気持ちでシャワーを止め、リンスをしてから浴室を出る。


122 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:03.63 ID:6an8YmUi0




いけない、いけない。

冷静にならなければ。

最近、こういう時には、コーヒーを一杯飲むことにしている。

ガヴリールを冷やかしに喫茶店に通っているうちに、私はいつのまにかコーヒーの味が好きになっていた。

カフェインは一般に興奮作用があると言われるが、

ヘビの毒が薬としても使われるように、少量のカフェインは気分を落ち着かせる。

本来は植物が自己防衛のために毒として溜め込んだものらしいが、わざわざ好んで飲むなんて、

人間も変わった習性を身に着けたものだ。

カフェインには鎮痛作用もあり、頭痛薬にも含まれているのだという。

まあ、マスターの受け売りだけど。

砂糖は入れずにミルクだけを入れたコーヒーは、口当たりが優しく、後味がすっきりしているので好きだ。

本当はミルクも入れない方がコーヒー自体の味が味わえるのだろうけど、少し酸っぱくて、それはまだ少し大人の味。

123 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:30.52 ID:6an8YmUi0




ドライヤーで念入りに髪を乾かして、コーヒーを飲んでいると、気分も少しよくなってきた。

あんまり考えすぎるのもよくない。

私はまず手を動かすタイプなのである……あれ、手が出るタイプ、だったっけ?

まあ、どちらでもいい。

安楽椅子に座って真相をズバリと言い当てる天才型の探偵もいれば、現場百篇を掲げて足で追い詰める刑事もいる。

私は多分、後者なのだと思う。

とにかく、できることをしよう。

ヴィネットがマフラーの本番に入ったので、仕上げ方の練習をしておこう。

目の止め方もフリンジも、そんなに難しくはないので大丈夫だとは思うが、念のためだ。



124 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:21:58.52 ID:6an8YmUi0



編み物の道具を入れているカゴを棚から机に持ってくる。

そして、いつも使っている棒針が見当たらないことに気付いた。

昨日はちょうど手袋を編み終えたので、棒針は毛糸玉に刺しておいたと思うのだが……。

買い置きの毛糸にも刺さっていないかとチェックしたが、見つからなかった。

ヴィネットの家に持って行ってなかったはずだが、

一応スクールバッグの中も探してみるも、やはり入っていなかった。

持ち出すことはないから、必ず部屋の中にあるはずだ。

もう一組、予備の針もあったが、小さくて扱いづらいので、できればいつもの針の方がいい。

何かの拍子に、どこかの隙間に入り込んでしまったのだろうか。

まあ、見つからなければ、明日新しく買いに行けばいいし、それに、差し迫った用事でもない。

今日は編みぐるみの練習をするか、疲れたし寝てしまえばいい。


125 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:22:26.27 ID:6an8YmUi0



しかし、羽音がすれど姿の見えない虫ほど気になるものは無いわけで、どうにも他の事に手を付けかねる。

……そうだ、掃除をしよう。

最近は忙しくてちゃんとしていなかったし、掃除するとなれば、普段意識しない場所にも気が向くことだろう。

せっかくシャワーを浴びたことも忘れて、私は組み立て式のフローリングワイパーを取り出し始めたのだった。

126 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:22:58.16 ID:6an8YmUi0



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結果から言うと、その掃除は無駄だった。

いつしか見つけることができなければ眠ることさえできないと思い込み、

棚を動かしてみても、冷蔵庫の下を探ってみても、針は出てこなかった。

そんな心境で掃除をしたところで部屋がきれいになるわけもなく、むしろ雑然とした印象を増していた。

それでもなお私は探し続けた。

小学校のときに友人から借りたはずの本が見つからなかったときも、確かこんな気持ちだったと思う。

心臓は血を一生懸命頭に送り、頭は血の返却を拒否しているようで、

頭が破裂してしまうのではないかと思えるくらい、私は他のことを考えられなくなっていた。


127 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:23:26.55 ID:6an8YmUi0




何度目になるか、髪をかきむしるときに、ふと手首に付けたミサンガが目に入った。

思えば、これがきっかけだった。

あのとき、ガヴリールにクマを差し出さなければ、今こうしていることもなかったのか……。

ミサンガを反対の手でいじってみる。

汗をかいていたらしく、少し湿っていた。

クマを離そうとしなかったガヴリールを思い出す。

128 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:24:29.38 ID:6an8YmUi0




頭の奥がスッと冷えていくように感じた。

私が今騒いでも何にもならない。

明日、新しく買いなおすことにして、今日はもう寝よう。

自嘲気味に短くため息をつき、ふと気まぐれに棒針編みの本を開いてみることにする。

本棚から、その大きくて薄めの本を取り出すと、何か棒状のものが足元に転がった。

それは、一時間も探し続けていた針だった。

どうやら教本に挟まっていたらしい。

そういえば、借りていた本を無くしてしまったことを謝るために泣きながら電話して聞かされたのは、

その前日にすでに返していたことを私が忘れていたということだったっけ……。

こういうのを確か、灯台下暗しというのだったと思うが、なんとも情けない気分になるものだ。

しばらく呆然と床を見つめ、自分への失望と安堵の入り混じった気持ちで針を拾った。

それから、いつもの針で糸を編んでいると、少し落ち着いてこれからのことを考えることができた。

気が付けば、時計は二時を回っていた。


129 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:24:55.54 ID:6an8YmUi0




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day 5:
おもいで【思い出】

(1) 深く心に残っていて、何かにつけて(なつかしく)思い出される事柄。

(2) 財産。

(3) 枷。


「大事なものではあるけど……。――は、まあ、それでも、――にすぎないわ」


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130 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:25:25.54 ID:6an8YmUi0



バレンタインが約一週間後に近付いてきたある日の昼休み、私は机に突っ伏していた。

四時間目の授業の途中からどうにも睡魔に抗えなくなり、堂々と寝てしまった。

授業終了のチャイムで目を覚ましたが、腕が痺れてしまっていて、しばらくそのままじっとしていた。

後でヴィネットにノートを見せてもらわないと……そんなことを考えながら、私はバッグからおにぎりを取り出す。

その時、誰かに背中を小突かれた感覚があり、振り返るとガヴリールとヴィネットがいた。。


「なんかお前、最近、静かだな。ぷっ、ほっぺに袖のあとがついてるぞ」

「うるさいわね、何か用?」


反射的に頬を撫でる。確かに少しあとになっているようだった。


131 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:25:56.72 ID:6an8YmUi0




最近は魔界通販を見ることが少なくなり、ガヴリールに勝負を挑むことも減った。

編み物のことや、最近増えてきたテストのこともあって、精神的にも時間的にもあまり余裕がない。


「魔界の胡散臭い番組でも見て、夜更かししてるんでしょ」

「そんなんじゃないわよ」

「寝ないと脳みそが干からびちゃうぞ」

「だから、そうじゃないって! 大体、私が眠いのは……!」


誰のせいだと思っているのよ――そう言おうとして、慌てて口をつぐむ。

ここでヴィネットに、あるいはガヴリールにばらしてしまったら、これまでの苦労が水の泡だ。


「……そうよ、魔王様のトークイベントがあったの」


おそらくガヴリールは心配してくれたのだろうが、私はいたたまれない気持ちになった。


132 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:26:24.28 ID:6an8YmUi0



「こら、ガヴ。サターニャは疲れてるんだから。ねぇサターニャ、一緒に食堂に行かない?」


薄氷の上に立つような状況に、私は疲れてしまっていた。

私は秘密を抱えることが苦手だ。

人の口には戸が立てられない。

がま口の財布と言うように、開閉するから口なのだ。

バレンタインなんて、早く過ぎ去ってほしい……。


「悪いけど、今日は一人で食べるわ」


私はそう言って、なるべく二人を見ないようにして席を立つ。


133 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:26:53.46 ID:6an8YmUi0



「おい、せっかく私が誘ってやったのに――」

「もう、放っておいて!」


ガヴリールが差し伸べてきた手を、私は空いている手で平手打ちしてしまった。

思ったよりも大きな、パチッという破裂するような音が響き、教室は一瞬だけ静まり返る。


「いたっ……」

「……ごめんなさい」


私は逃げるように教室を飛び出し、目的地も決めずに、廊下を適当に走った。

誰の視線にもさらされない場所へ行きたかった。

一人になれるなら、どこでもよかった。

そして、お手洗いから出てきた銀髪の女生徒――ラフィエルとぶつかった。


134 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:27:21.14 ID:6an8YmUi0



廊下で出くわした後、私の顔を見て何かを察したのか、

彼女は人気のない屋上へと続く階段で一緒に昼食をとってくれた。

私がおにぎりを食べ終える間、彼女は何も言わずに付き合ってくれた。

クラスに帰るときに、ラフィエルから放課後に遊びたいという申し出があった。

ガヴリールたちとは少し顔を合わせにくかったし、良い口実ができると思って私はそれを承諾した。


135 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:27:47.26 ID:6an8YmUi0


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「……とまぁ、こんなところね」

「私の知らないうちに、色々あったんですねぇ」

「そうね」


私とラフィエルは今、エンジェル珈琲という喫茶店に来ている。

ガヴリールのバイト先であり、私は冷やかしに通っているが、

今日は彼女のシフトが入っていないため、マスターが一人で接客をしている。

私はいつも通りに注文し、ラフィエルに、ガヴリールとヴィネットについて今日までの出来事を話していた。


136 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:28:15.06 ID:6an8YmUi0


「それにしても、サターニャさんと学校の外でこうして会うのも、久しぶりな気がしますね」

「言われてみるとそうね。あんたは気が付いたら近くにいるから、あんまり気に留めていなかったわ」

「ガヴちゃんもヴィーネさんもお忙しそうでしたしね。ちょっと寂しかったんですよ?」

「あんたにも心というものがあったのね……鬼の目にも涙ってやつかしら」

「天使学校次席を指してひどい言い草ですね」

「胸に手を当てて思い起こしてみなさいな」


137 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:28:54.19 ID:6an8YmUi0





「いいですよ。……ああ、サターニャさんのトナカイ姿、かわいかったですね」

「自省しなさいって意味だったんだけど。知らなかったとはいえ、私が使い魔の恰好をするなんて、屈辱だわ。忘れなさい」

「とんでもない。ばっちりと、デジタルで永久保管されてますよ。ほら、ここに」


ラフィエルはそう言って携帯を取り出した。

ロック画面は私が着ぐるみを着ている写真だ。

ラフィエルはこういうのはデフォルトのままだろうと思っていたが、

意外と子供っぽいところもあるんだな……。

でも、それを私の写真にするのは恥ずかしいからやめてほしい。


「こんなの、ガヴリールが見たらなんて言うのやら」

「ああ、ガヴちゃんにもこの写真あげましたよ。あと、ヴィーネさんにも」

「なんでよ!」

「さあ、なんででしょうね」

「お待たせしました。こちらブレンドになります」


マスターが湯気を立てるカップを二つ机に載せた。

私はクリームを入れて、ラフィエルはそのまま口をつける。


138 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:29:31.88 ID:6an8YmUi0



「それにしても、ガヴちゃんもひどいですね。サターニャさんが言い返せないのを知っていて、そんなことを言うなんて」

「いやいや、単に心配してくれただけだと思うわ。ガヴリールは口は悪いけど、意地は悪くない」

「そうですね。でも、秘密を抱えるというのは大変ですよね」

「昔の人もお腹が膨れるようだって言っていたしね……それは否定しないわ」


実際、ガヴリールやヴィネットと話すときには、

うっかり口を滑らせないように、最近はいつも緊張していたように思う。

こうしてラフィエルと気兼ねなく話をしていると、時間が一月ほど前に巻き戻ったみたいだった。


「サターニャさんは裏表がありませんから、隠し事をしていると自分が許せなくなるんですね」

「そんなことないわよ。悪魔は契約を守るものよ」

「誠実さも悪魔らしさなんですね。立派な心掛けです」

「ただ……」


139 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:30:14.15 ID:6an8YmUi0



「なんというか、あんたが言っていたことを思い出したというか……」

「私のことですか?」


「確かに、私もガヴリールにそんなことを言われたときにイラっとしたのよ。

でもそれは、いつものことだって流せる程度のこと。

そうじゃなくてね、何が癇に障ったのかを考えて、がっかりしたのよ」


「どういうことか、教えてもらえますか?」


140 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:30:46.89 ID:6an8YmUi0



「つまり、私がガヴリールに教えてあげているのに、

馬鹿にするようなことを言われたと思ってしまったということ。

飼い犬に手を噛まれたように感じてしまったのよ。

私はそんな立場にないのにね」


「なるほど、自らの傲慢さが嫌になったということですか」

「まあ、そんなところよ」


「そんなに気に病むことはありませんよ。

例えば料理を差し出すとして、満腹の相手に押し付けるのと、

三日も食べてない相手に渡すのでは、意味合いが違います。

確か、ガヴちゃんやヴィーネさんから頼まれたんですよね?」


「そうはいってもねぇ」


141 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:31:14.69 ID:6an8YmUi0




「そうですね……今から、サターニャさんの大悪魔にかける意志を測りたいと思います」


ラフィエルは先程までの励ますような調子から打って変わって、やけにマジメぶった態度でそう宣言した。


「はぁ? 何よそれ」

「いいですか? 私の質問に真剣に答えてくださいね」


答え方で生死が分かれるとでも言わんばかりだ。

ラフィエルがこういう言い方をするときは、決まってトラップが張られている。

気を付けていても毎回引っかかってしまうので、

いつか鼻を明かしてやりたいのだが、なかなかうまくいかない。


142 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:31:42.94 ID:6an8YmUi0



「まあ、いいわ。受けて立とうじゃない」

私がそう答えると、ラフィエルは、悪者を仕立て上げることを善しとするかとか、

自分の目的のために他者を犠牲にすることができるかとか、

そういうちょっと面倒な質問をいくつかしてきた。


「ガヴちゃんのことを考えると夜も眠れませんか」

「全く気にしてないわけじゃないけど……眠れないっていうほどでもないかな」

「体がだるく、疲れやすいですか?」

「うーん、ちょっとあるかも」

「今まで楽しめていた趣味や人付き合いが億劫になってきていますか?」

「そんなことないわ」

「これまで簡単にできていた判断や決断ができなくなっていますか?」

「別に変わりないし……ねえ、これって何か別のことを探ろうとしてない?」


143 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:32:10.63 ID:6an8YmUi0



「以上の診断結果を総合するとですね」

「今、診断って言った! 私は病気じゃない!」

「ガヴリマノリカル・サタプトノークの一種ですね」

「え、ガヴ……サタ? なんて?」

「サターニャさんのは、心因性自己完結硬化症、子供が無理すると棘が生えて自分に刺さるっていう病気です」

「はぁ、棘? 角ならあるけど」

「それもまた一つのガヴサタ……大丈夫、いずれカサブタになりますよ」

「カサ……え、何?」


144 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:32:40.11 ID:6an8YmUi0



「サターニャさんはどうして大悪魔になりたいんですか?」

「それは、人類の天敵として――」

「あ、そういう大仰なのはいいです」

「なによ、ノリが悪いわね……」

「きっかけは何だったんですか?」

「そうねぇ。多分、私は大悪魔だって啖呵を切ったのは、弟がいじめられていた時だと思う」

「弟さんのため、ですか」


「遊ぶにも鬼ごっこより絵本を選ぶようなやつだったからね。

お父様もお母様も弟が生まれてからは弟ばかり気にかけていたから、ちょっと嫉妬してたわ」


「サターニャさんとは違うタイプなんですね」

「そうかもしれないわね」

145 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:33:15.36 ID:6an8YmUi0



「ある日弟を近くの公園に連れて行ったときに、弟と砂場で山を作ってたのよ。

私は途中で飽きちゃって、虫を探しに行ったりして、でも弟は黙々と山を大きくしていた。

気付いたら近所のやんちゃな子たちが弟のそばにいて、山を蹴ったりしてたのよ。

それで私はカッとなって、その子たちに持っていた虫を投げつけたりして、追い払ったわ」


「最初の悪魔的行為が虫を投げつける……ふふっ」

「自分から聞いておいて、笑うんじゃないわよ」

「いえ、笑ってませんよ。あまりに微笑ましかったもので」


「そのときに確か、うちの弟に手を出したいなら、大悪魔の私を倒してからにしなさいって言ったのよ。

そうしたら弟が、私がすごい悪魔だって信じちゃって、。

期待を裏切らない様に演じていたら、いつのまにかそれが自然になってたの」


146 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:33:55.86 ID:6an8YmUi0



「なるほど、サターニャさんは、社会的に大悪魔になりたいわけではなく、誰かにとっての大悪魔になりたいわけですね」

「勝手に分析するんじゃない」

「サターニャさんは、もうすでに私にとっての大悪魔様ですよ。お笑い部門で」

「そんな部門にランクインしたって、嬉しくともなんともない!」

147 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:34:45.54 ID:6an8YmUi0




「その考え方は、結構危ういと思いますよ」

「何が言いたいの?」

「サターニャさん自身にとっての大悪魔を目指す方が賢明かと」

「それくらい、わかってるわよ」

「本当に、そうですか?」

「はぁ?」


ラフィエルが真剣な表情で私の眼を見据えた。

知識に裏打ちされた揺るぎのない自信を湛えた彼女の金色の瞳は、森の賢者たるフクロウを彷彿とさせる。

夜の森においてフクロウに敵う動物は皆無で、コウモリさえもその鋭い爪で捕らえてしまうのだという。

私は彼女にひとたび見つめられると、捕食者に背を見せまいとする小動物のごとく、

見返すことで精いっぱいになってしまうのだ。

あるいは、その満月を思わせる美しさに、単に見とれているだけなのかもしれないが……。

148 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:35:14.38 ID:6an8YmUi0



「怪しげな通販を利用するのも、ごみの分別をわざと間違えるのも、手っ取り早く結果を示すためですよね?」

「別に、そうじゃないけど。悪魔的行為を悪魔がする、それだけよ」


「悪魔的行為という言い方にも表れていますね。

サターニャさんが重きを置くのは「悪魔的」ではなく「行為」なんじゃないでしょうか。

その横暴な振る舞いとは裏腹に、心の奥底では、いつも誰かに頭を撫でてほしがっている。

そういう焼畑農業的な方法では、いつか行き詰ってしまいますし、

何より結果の良し悪しで自らを測るのは万能ではありませんよ?」


「うるさいわね……そんなことくらい、わかってるわよ。

このサタニキア様に説教でもしているつもり?」


「ほら、またそうやって大仰な言葉を使うじゃないですか。

自意識過剰な言葉遣いは臆病さを隠すためですよね?

本当は不安でたまらないんじゃないですか?」


149 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:36:16.89 ID:6an8YmUi0



「……言いたいことはそれだけ?」


私が努めて平静にそう言ってラフィエルを見つめると、彼女はビクッと体を震わせ、一瞬だけ目を泳がせた。

何かを言い淀むそぶりを見せた後、彼女はふっと表情をやわらげ、軽く頭を下げた。


「すみません、言いすぎました」


「なによ、急にそんなにしおらしくなられたら、調子が狂うわ。

一応自覚はしてる。でも、なかなか思うようにはならないものなのよ」


「ですが、心配なんです。サターニャさんがいつか、ぽっきりと折れてしまうようなことが起こるんじゃないかって。

自らに火を放ってしまうんじゃないかって」


自分を燃やすなんて、そんな恐ろしいこと、きっと私にはできない。

臆病者はきっと、その臆病さゆえに被害者として自らを正当化するため、加害者を仕立て上げる。

自らを調理したがる鶏なんていない。

その甲高い鳴き声は飼い主を糾弾するためにあるのだ。

150 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:36:42.71 ID:6an8YmUi0



「はは……。天使に心配されるなんて、私も落ちたものね……いや、悪魔だからもともと堕ちてはいるか」


「カッとなっても、やけを起こさないでくださいね。

そういう時は、鼻をつまんで息を止めてみてください。

きっと冷静になれますから」


「余計な心配は無用よ。この私の辞書に失敗なんて言葉はないもの」

「あー、ほらまたそうやってフラグを立てるじゃないですか」

「フラグ……って、何よ」

「フラグメントグレネードの略ですよ。起爆剤という意味で……」


ラフィエルは先程とは一変して、慇懃といえるほどにこやかにフラグなるものの説明を始めていた。

こういうときの彼女の言うことはあてにならない。

結局、心配するそぶりをみせたのも、からかうためなのだろうか……。


151 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:37:18.00 ID:6an8YmUi0



「あー、もう!」


わざと大きな音が鳴るように、私は握りこぶしで机を叩いた。

カップがカタリと音を立て、水面にさざ波が立つ。

それは威嚇したかったのかもしれないし、拳を痛めることで自分を罰したかったのかもしれなかった。


「どうせ、私程度の悪魔なんて、すぐにでも祓ってしまえるって、見下してるんでしょう!」


言おうとも思っていなかったその言葉は、驚くほど自然に怒鳴り声として喉からあふれてきた。

それはまさに、噴出と呼べるような感覚だった。

152 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:37:45.05 ID:6an8YmUi0



いや……本当に、少しも言おうと思っていなかったと断言できるだろうか。

夏休みの宿題を終わらせにヴィネットの家に行った時から、つまり、ラフィエルに悪魔祓いの教科書を見せられた時から、

私は拭いようのない違和感を感じていたのではなかったか。

お前なんていつでも殺せる、という意思表示の意味……それを、ずっと図りかねていたように思う。

そのとき感じた生々しい熱を、冗談という言葉で冷ませずにいた。


153 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:38:13.29 ID:6an8YmUi0



「サターニャさん、それ、本気で言ってますか?」


ラフィエルと目を合わせることができず、机の木目をじっと見ていた私には、その時のラフィエルの表情はわからない。

そのときの彼女の声音は、怒りであらぶっているわけでも、悲しみに震えているわけでもなく、

比較的冷静で……色で例えるなら、無色透明というのが近かったように思う。

ただ、そのセリフは割れたガラスのように鋭く、私の耳にいつまでも刺さったまま抜けなかった。

――すぐに謝らなければ!

私はそうも思ったが、口をついたのは、それとは真逆の言葉だった。


「くどくどと、わかったようなことを上から言ってるんじゃないわよ

前に、私に恩人になりたいのかって言ったわよね。その言葉、そっくりそのまま返すわ」


「サターニャさんの気持ちは、よくわかりました」


154 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:38:42.46 ID:6an8YmUi0



二人の間に重たい沈黙の霧が立ち込める。

次に何を言うべきか……馬鹿な私には、全く見当がつかなかった。

濃霧の中で迷子になった私は、ただ座って霧が晴れるのを待つしかなかった。


「……そうです、それでいいんです。今日は、もうお開きにしましょうか」


ラフィエルが伝票をとり、隣に置いていたバッグを肩にかける。


「私はもう少し残るわ。コーヒーが残ってるの」

「そうですか。ではまた、学校で。さようなら」

「ええ、気を付けて帰りなさい」


ドアに付いたベルの音でラフィエルが去ったのを確認して、ようやく顔を上げる。

そこは二人掛けのシートが夕日で照らされるばかりで、まるで最初からだれもいなかったようだった。

一人で飲む冷めたコーヒーは、酸味ばかりが強くて、あまりおいしくなかった。

155 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:39:25.57 ID:6an8YmUi0



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day 6:
できそこない【出来損ない】

(1) 出来上がりが大変悪く、いっそ作らない方がましと思われるもの。

(2) xxxxxx(ペンで黒く塗りつぶされている)


「私は……」

「サターニャさんは、天然かもしれませんが、――なんかじゃありませんよ」

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156 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:40:01.58 ID:6an8YmUi0



明後日にバレンタインを控えたある日、私はガヴリールの家に来ていた。

ヴィネットは昨日の時点でマフラーを完成させていたので、

後はガヴリールが編みぐるみを仕上げれば、私もめでたくお役御免となる。

私がガヴリールに対して怒ってしまったことは、彼女は無かったことにしたいのか、

その次の日に私から謝ってみても、何のことかわからないふりをしてはぐらかされた。

それ以降、私たちは普段と変わりなく過ごしていると思う。

……私は、少しだけ引け目を感じてしまっているかもしれないけれど。

ラフィエルとは、廊下ですれ違えば挨拶ぐらいはするが、まだきちんと話せていない。

もし来年度もクラスが違ってしまえば、そのまま疎遠になってしまうのだろうか……。

色々と考えないといけないことはできてしまったが、とりあえずは目先の予定だ。


157 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:40:38.95 ID:6an8YmUi0



「ありゃ、キャンドルから黒い煙が出てる」

ガヴリールは慣れた手つきでキャンドルに火をつけた。

いつもはほとんど煙は出ないが、今日は確かに黒々とした細い煙が蒸気に混ざっていて、少し焦げ臭い。

火災事故を思わせるその煙は、凶報を知らせる狼煙のようだった。

何故だか目が離せず、じっと見ていると、その煙は私の中に入り込んできて、内側を煤だらけにされている気がしてくる。

その場の空気に飲まれやすいのは、私の中が空洞だからかもしれない……。

ピンセットを取って来たガヴリールが、ロウソクの芯をつまんで火を消す。


「昨日までは、何ともなかったんだけど」

「長く使っていると、芯が焦げてしまってこうなるのよ。ハサミで切って、短くするといいわよ」

「そうなんだ。まだ熱いし、後でしとく。今日はこっちを使おう」


ガヴリールは別のキャンドルを棚から持ってきて火をともす。

日曜日の朝に顔を洗った時のように頭がすっきりとしてくる、

嗅ぎなれた爽やかな香りが部屋に広がった。


158 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:41:19.58 ID:6an8YmUi0


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──────────────
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「なかなか上手にできたじゃない!」

「このくらい、私の手にかかれば容易い。でも、もっと褒めてもいいぞ」


「最初にコースターを作るのに何時間もかけていたくせに、よく言うわね。

でもまあ、このサタニキア様が太鼓判を押すわ。誇りなさい、ガヴリール!」


「そりゃどうも」


私は、つい先程作り終わったガヴリールの編みぐるみを手に載せていた。

ガヴリールが作ったのは、小さなアヒルを抱えたクマ。

クマは全体的にふんわりと編まれて、柔らかい印象だ。

頭部はきれいな饅頭の形をしていて、手足は左右とも、ほとんど同じ大きさでバランスが取れている。

アヒルは細めの糸できつめに編まれていて、胴体の複雑な曲面がなめらかに表現されている。

ベストな状態で仕上げるために、三日に分けて少しずつ進めてきた甲斐があって、これまでにない丁寧な作りになっていた。


159 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:41:46.69 ID:6an8YmUi0



「これならきっとヴィネットも喜んでくれるわね!」

「そうだといいけど」


ガヴリールは台所で紅茶の準備をしている。

今日で完成しそうだったので、祝杯を挙げるべく、彼女の家に来る前にコンビニでケーキを買っておいたのだ。


「それより、明日なんだけどさ……あちっ!」


彼女の悲鳴に続いて、中身の詰まった金属が落下する鈍い音。

ガヴリールの方を見ると、彼女の足元にやかんが落下していた。

私は思わず編みぐるみから手をはなし、彼女の元へと急ぐ。

160 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:42:12.14 ID:6an8YmUi0



やかんからこぼれた熱湯が水たまりを作り、それを回避しようとしたガヴリールが体勢を崩す。

私は倒れかかって来た彼女を両腕で抱きとめた。

腕の中にすっぽりと納まる小柄な彼女は驚くほど軽く、ちゃんと食事を摂っているのか心配になる。


「あ、ありがと……」

「別に。早く片付けましょう」


ガヴリールに自分で立ってもらって、空になったやかんを拾い上げる。

すると、どこからか妙な匂いが漂ってきた。

今日、一度嗅いだ覚えのある、無性に不安になるこの匂いは一体……。


161 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:42:45.45 ID:6an8YmUi0




「あっ、焦げてる! あちちっ」


一歩踏み出そうとしたガヴリールは水たまりを踏み、慌てて足を引っ込める。

部屋の中では編みぐるみから黒い煙が上がっていた。

ガヴリールの作品が、燃えてしまっている!

私は急いでコートを掴み、編みぐるみにかぶせた。

なんとか消火できたものの、クマは全身にひどいやけどを負ってしまっていた。

どうやら、私がうっかり手をはなしたときにアロマキャンドルの上に落ち、

その炎が引火してしまったらしい。

なんてことだ……。


162 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:43:11.60 ID:6an8YmUi0



「ご、ごめんなさい、ガヴリール……私が、ちゃんと机に置けば」

「いや、サターニャがすぐ来てくれなかったら転んでたし、仕方ないでしょ」

「でも、明後日に間に合わない……」

「まだ時間があるし、もう一回作ればいい。二回目だし、きっとすぐだよ」

「そ、そうよね」

「あっ!」

「こ、今度は何?」

「いや……そういえば、これ作るのに、この色の毛糸を使い切ってしまったんだった」

「それは、ちょっとまずいわね」

近くにある手芸店は、確か明日が定休日だったはずだ。

もう遅い時間だし、さすがに開いていないだろうか。

いや、一応行ってみるべきだろう。

163 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:43:39.69 ID:6an8YmUi0




「任せなさい、ガヴリール。今から買ってきてあげるわ」

「いや、別にいいよ。もう遅いし……おい、待てって!」


私はガヴリールの言葉も聞かず、焦げ臭いコートを羽織って寒空の下へと飛び出した。

手芸店までは歩いて十分ほどだ。

私は白い息を吐きながら懸命に走った。

何度か信号無視をしてまで急いだが、店内には灯りがともっておらず、やはり閉店時間をすぎてしまっていた。

私の家には、あの毛糸玉のストックは無いし、万事休すか……そう諦めかけた私は、あることを思い出した。

確か、同じ色の毛糸をヴィネットが買っていたはずだ。

もしかしたら、彼女に頼めば分けてもらえるかもしれない。

私はヴィネットに電話をかけ、これから家に行くので会ってほしいと伝えた。


164 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:44:07.46 ID:6an8YmUi0



数分の後に、ヴィネットは紙袋を持って戻って来た。

中身を確認すると、暗くてあんまり自信はないが、おそらくガヴリールが使っていたのと同じ色の毛糸が入っていた。


「これでよかった?」

「恩に着るわ、ヴィネット。このお返しは、いつか必ず」


私はそれだけ言い残すと、ヴィネットの返事も聞かずにアパートの階段を駆け下りたのだった。

165 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:44:42.39 ID:6an8YmUi0



「戻ったわよ、ガヴリール!」

「うん、おかえり。気にしなくてもいいから」

「何を言っているの? 私は不可能なんて概念は持ち合わせていないんだから! これを見なさい!」


私はヴィネットからもらった紙袋を差し出す。


「なにこれ? 服をほどいて毛糸を取り出せってこと?」

「違うわよ! 紙袋はそうだけど、中身は毛糸玉よ。とある筋からの提供!」

「ふーん。なるほど、確かに」


ガヴリールは紙袋から毛糸を取り出し、手に持ってしげしげと眺めた。



166 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:45:12.02 ID:6an8YmUi0


「良かったわね。これでなんとか作れる」

「いや、これじゃだめだ」

「えっ……」


私は言葉を失った。

蛍光灯の下で見ても、色は問題ないはずだが……。


「太さが違う。いつものより太いから、私の持っている別の色の毛糸となじまない」


ガヴリールの淡々とした声に、私はガツンと頭を殴られたようだった。

そうだ……色のことばかりに気を取られていて、すっかり忘れていた。

これでは、ガヴリールがプレゼントを完成させることができない……。

しかし、私にはもう何の解決策も思いつかなかった。

本当に、なんということをしでかしてしまったのか!

167 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:45:40.52 ID:6an8YmUi0



「ご、ごめ……ごめんなさい!」


私は彼女の顔を見ることができず、くるりと玄関へと引き換えし、力任せにドアを開けて外へと駆け出した。


「おい待て、サターニャ!」


後ろからガヴリールの声が聞こえたが、私は振り返ることができなかった。

なんだか最近、逃げてばかりだ。

いつから私はこんなに弱虫になってしまったのだろうか……。


168 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:46:07.97 ID:6an8YmUi0




何かに追われているわけでも、何かを待たせているわけでもないのに、私は走らずにはいられなかった。

ガヴリールの家から離れれば嫌な気持ちが弱まるとでも思ったのかもしれないが、

私の気持ちは一歩踏み出すごとに水を吸っていくようで、重くのしかかってくるばかりだった。

玄関のドアを、やっと一人は入れる程度だけ開けて、すり抜けるように家の中へ入る。

靴を脱ぐ気力も湧かず、私はその場にへたりこんでしまった。

今日のことは、全くの予想外だった。

それはまるで、水を入れたバケツの持ち手が、持ち上がった瞬間に壊れたかのような、完全に意識の外からの不意打ちだった。

何が業火で焼かれるだ……。


169 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:46:34.80 ID:6an8YmUi0



何が大悪魔だ。

私は、ちんけな放火魔にすぎなかった。

今回は、焼けたのが編みぐるみで、まだよかったのかもしれない……いや、全然よくはないが。

それでも、ガヴリール自身へ危害が及ばなかったのは不幸中の幸いだ。

しかし、それは今回についてであり、次回はどうなってしまうのだ……。

私は結局、アホの子なのだ。

きっと、他人と違う言語の中で生きていて、そのせいで不和が起こる。

おそらく、本質的に同じような出来事が、これからもあるに違いない。

そのときに火傷するのは、ガヴリールが、ヴィネットか、それともラフィエル、いや、もっと大きな……?

ガヴリールの家でやらせてもらったゲームのゲームオーバー画面が、ぎゅっと閉じた瞼の裏に映される。

火に包まれた街、焼け落ちていく家屋……。


170 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:47:02.13 ID:6an8YmUi0



私はこぼれそうになる涙を必死にこらえていた。

経験上、こういうときには一度泣いてしまえば楽になる。

しかし、私はそれを許したくなかった。

涙をはじめとする体液は、海水とよく似た成分なのだという。

だとすれば、肌は陸と海の境界なのかもしれない。

生命は一生のうちに進化を再現し、海から生まれて陸に上がる。

赤ん坊が事あるごとに涙を流すのは、母の胎内が懐かしいからだろう。

だが、私は赤ん坊ではない。

理性という炎を感情という海に呑まれるわけにはいかない。


171 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:47:30.78 ID:6an8YmUi0



私は悪魔なんかじゃないのかもしれない。

あえて名前を付けるなら、きっとそれは災厄。

災禍の住む家屋は焼却すべきではなかったのか。

今回の件は、ぎりぎりのところでの通知、最後通牒なのかもしれない。

崖から落ちたくないならどうするか?

山に登らなければいいではないか……。

焼け落ちる舞台というのも、悪魔的かもしれない。

せめて最期くらい、悪魔として振る舞うのも悪くない。

そう考えると頭が少しすっきりしてきた。

それはおそらく、乱雑な頭の中が整頓されたのではなく、諸々を捨て去ったが故の空虚さだったのだと思う。


172 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:47:59.19 ID:6an8YmUi0



気を取り直して洗面所で手を洗い、居間へと入ってコートを脱ぐ。

ポケットに入れたままにしていた携帯電話の電源を切ると、

下界での他者とのつながりも一緒に切断してしまったように思える。

机の上には、一冊のノートが出しっぱなしになっていた。


173 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:48:25.21 ID:6an8YmUi0




ラフィエルに言われてから、私は日記をつけている。

気分が乗らないときは一行だけだったり、書かなかったりすることもあるが、

ガヴリールやヴィネットの家に行った日には、どんなに夜遅くになっても筆はすらすらと進んだ。

昨日で一冊を使い切りそうになり、今日新しいノートを買ってこようかとも思っていた。

しかし、それももうおしまいだ。

もう今更、こんなものを持っていたところで仕方がない。

手始めに、私の過去から処分することにしよう。

私は読み終えた雑誌を捨てるためにまとめるときのように、ごく日常的な手つきでノートを掴み、台所へと向かった。

なんのことはない、ただ、ガスコンロにノートをかざし、点火ツマミを回すだけのことだ。

味付けにも火加減にも気を使う必要もないし、面倒な洗い物も出ない。

何百回と回したのと、何ら変わることのない動作で、緊張することも無い。

174 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:48:59.24 ID:6an8YmUi0



それなのに、ノートをバーナーの数センチ上で静止させたまま、私は荒い息遣いで立ち尽くしていた。

呼吸という現象は穏やかな燃焼なのだという……体内でくすぶっていてどうするのだ、

燃やすべき対象は、手の中にある!

私はガスコンロのツマミに手をかける。

暖房をつけていないため、プラスチックのツマミは冷たく無表情で、私の決意を削ぐようだった。

こんなに固いツマミだっただろうか……私が少し力を入れても、それは決して回ろうとしなかった。

静止摩擦係数は、一般に動摩擦係数より大きい。

何事も思い切りは大事だ。

海に入るときだって、水が冷たいのは最初だけで、

だんだん海中の中にいる方が暖かくなり、浜に上がりたくなくなるものだ。

いつまでも二の足を踏んで足の裏を焦がしているよりも、さっさと潜ってしまう方がいい。

後で思い返せば、きっとなんでもないことに違いない。

そう、世の中、成長することなんてない。

全ては取るに足らないのだ……。


175 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:49:25.65 ID:6an8YmUi0



私はぐっと両目に力を込めて瞑り、その勢いのままツマミを時計回りに回した。

カチッという乾いた音がする。

それを聞いて私は、昔、弟と見たアニメの中で、悪役が自爆スイッチを押すときの音がこんな音だったな、などと、

全く場違いなことを思い出していた。

ふわっと熱風が手の甲に吹き付ける。

ああ、もう引き返せないのだな……。

そう思った次の瞬間、ノートを持っていた手の人差し指にナイフで刺すような痛みが走り、続いて強烈な熱が襲ってきた

176 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:49:51.57 ID:6an8YmUi0




「あつっ!」


私は反射的に手を引っ込め、そのはずみでノートは床に落下した。

指を見ると肌が熟れすぎたトマトのような色になっていたので、私は慌てて蛇口をひねり、流水で指を冷やした。

どうやら、変に力が入って加熱箇所がずれてしまったらしい。

数分間流れる水を見てぼんやりしていると、自分の行動が矛盾していることに気付き、白けた気持ちで水を止めた。


177 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:50:19.49 ID:6an8YmUi0




疲労が目に見えて堆積するものだとしたら、

私の頭上には吹雪の中を数時間さまよったときのようにずっしりと降り積もっていたことだろう。

手も足も鉛でできているみたいに思える。

思えば今日は走りっぱなしだった。

いや、もう少し前からかもしれない。

なんだか、もう、疲れた……。


178 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:50:53.64 ID:6an8YmUi0




シャワーを浴びるのも面倒で、そのまま布団を敷いて寝てしまおうと思い、ロフトへと向かおうとした。

そのとき、落ちた拍子に開いたままになっていたノートをなんとなく拾い上げ、

ボールペンで走り書きされた文章が目に入った。


――ガヴリールの家でラーメンを食べた。塩っ辛くて苦手だったが、こういうのも悪くない。


その記述を見た私は、見なかったことにすることも、破り捨てることもできなかった。

ただ、目を逸らすことができなかった。

それは、湯を張った浴槽の栓を抜き、蛇口をひねって湯を足すような心境だった。

笑うことも、泣くこともできず――誰にあてたわけでもないその文字列をただただ目で追っていた。

力を籠めず、淡々とページをめくり、文章を点検し、最後まで来たらまた初めから。

空になった缶が大きな音を立てて転がるように、空洞になった私の中でそれはよく響いた。

まるで機械か何かになってしまったかのように、私は床に座って壁にもたれかかりながら繰り返していた。

やがて、ページを繰る手も緩慢になり、いつしか私は眠ってしまっていた。


179 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:51:39.96 ID:6an8YmUi0






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                          jしイ
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day 7:
いんか【引火】

(1) 他の火や熱によって燃え出すこと。

(2) (記述なし)



「私が、――させてしまった……」

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180 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:52:38.12 ID:6an8YmUi0



「おい、サターニャ、起きろ」


肩を持って揺さぶられる感覚で急に目が覚めてきた。

ガヴリールの声がする。

私は一体どこで寝ていたのだろうか。

ゆっくりと目を開くと、彼女の必至な形相が目の前にあった。

しかし、それ以上に異質だったのが、彼女が何も身に着けていなかったことだった。

局部を隠す聖なる光とやらのせいで非常に眩しい。

これは、間違いなく夢だな……。

夢の中で目を覚ますとは、私は懐疑論にでも目覚めたのだろうか。

私がサタニキアという悪魔だったのも、蝶の見ている夢だったのかもしれない。

まあ、割といい夢だったかな……。


181 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:53:04.75 ID:6an8YmUi0




私は再び瞼を閉じようとする。


「おい、寝るな! この二度寝姫!」

「うるさいわね……疲れ身の術よ」

「意味不明だよ!」

「それはこっちのセリフよ。人様の家で全裸になるなんて、天使の礼儀ってのは変わってるわね」

「そんなわけあるか!」

「風呂場はそこのドアから出て左……」

「おい、寝ぼけるな。現在進行形で非常事態なんだよ!」

「はぁ……何があったのよ」

182 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:53:42.57 ID:6an8YmUi0




座ったまま寝てしまったせいか、あちこちが痛む体を伸ばしながら、彼女の話を聞く。

なんでも、天使は神足通という技で瞬間移動できるそうだが、一緒に飛ばす対象のコントロールが難しいそうだ。

彼女は携帯に連絡を入れてもインターホンを鳴らしても私の応答がないので、神足通を使って家に入ろうとしたらしい。

ガヴリールが不法侵入をするという発想に至ったのは、一体誰の影響なのやら……。


「それで、着衣一式を玄関先に置き忘れたっていうこと?」

「そう。お前だって、家の真ん前に高校生の制服が置かれていたら変に思われるでしょ。早く取ってきてくれ」

「はいはい」


玄関のドアを開けると、確かにガヴリールがいつも着ているパーカーとシャツが見えた。

手荷物は一緒にワープできたらしいが、なかなか難儀な技だ。

183 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:54:11.38 ID:6an8YmUi0




急いで衣服を回収し、彼女に届ける。


「いやぁ、助かったよ」

「それで、何の用? 今更私を責めても、毛糸は出てこないわよ」

「はぁ? なんでお前を責めないといけないんだよ。面倒くさい」

「だってそれは……あんたの編みぐるみ、焦がしちゃったし」

「あれは事故でしょ。大体、お前が助けてくれなかったら私がケガしてたかもしれないし、むしろ感謝してるよ」

「それは、そうかもしれないけど」


ガヴリールは、ゲームの最中に悪態をつくことはあっても、他人に怒るということを滅多にしない。

それは、成長を認めないという彼女の信念によるものなのかもしれないし、

そうすることが自分の得にはならないとわかっているからかもしれない。

いつもなら彼女に意地悪なことを言われると癇に障るが、

今ばかりは遠慮なしに責めてほしかった。

彼女にとって私は、そうする価値もないということなのだろうか。


184 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:54:37.24 ID:6an8YmUi0




「なら、いいじゃん」

「良くない! だって、あんたの一か月の努力が無駄に……!」

「無駄になるの?」

「だから、明日はバレンタインでしょ! もう間に合わないじゃない!」

「何が間に合わないって?」


ガヴリールは不敵な笑みを浮かべながら、バッグから透明なプラスチックの箱を取り出し、私の目の前に掲げた。


185 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:55:09.72 ID:6an8YmUi0




CDケースと思われるその箱の中には、編みぐるみのパーツが入っている。

その編みぐるみとは、まさしく私が昨日焦がしてしまったクマだった。

しかし、その頭部にはあるはずの穴が見当たらなかった。

おとといから取って来たのか、あるいは自然に治癒したかのように、そのパーツは完全だった。


「一体何がどうなって……」

「お前風に言うと、とある筋から譲ってもらったんだよ」


ガヴリールは箱をそっとテーブルに載せる。



186 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:55:37.80 ID:6an8YmUi0



「そもそも、よく考えれば、別の色の毛糸でもよかったしね」


良かった、ガヴリールのがんばりは無駄にならなかった。

そして、彼女はわざわざそれを私に言いに来たのか……。

私は急に腰の力が抜け、その場にへたりこんでしまった。



「同じ色がいいなら今日隣町まで買いに行けばよかったから、

別段大騒ぎするようなことでもなかったんだよ」


「そう……」

「お前も馬鹿だよな。何を勘違いしたんだか、急に走って帰っちゃうんだから」

187 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:56:06.44 ID:6an8YmUi0



昨日必死に築いた防波堤に、摂氏36℃の海から波が打ち寄せるのを感じる。

私はもう抵抗する気もなかったし、その必要もなかった。

ただ、救われた感覚が私を満たした。


本当に、よかった……。


「サターニャ、お前さ……」

188 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:56:35.88 ID:6an8YmUi0




「ひどい顔だぞ、なんだよそれ」


私の視界はひどく歪んでしまっていたが、そのとき、ガヴリールは多分呆れたような笑みを浮かべていたのだと思う。

思わず下を向くと、こぼれた涙が人差し指のやけどの跡を濡らした。


「泣きながら笑うなんて、器用な奴。よかったな、私しかいなくて。ラフィがいたら、写真撮られてたぞ」

「う、うるさい……」


私がしゃくりあげるのをこらえて、ようやく発した一言は、やっぱり憎まれ口だった。


189 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:57:04.04 ID:6an8YmUi0



「ま、お前には世話になったし、少しはサービスしてやろう」


私の前で仁王立ちしていた彼女は私の背後に回り込み、コアラの子供のように後ろから私を抱きしめてくれた。


「ちょっと汗くさいぞ。お前、制服で寝てたし、昨日風呂に入ってないでしょ」

「ご、ごめんなさい……嫌だったら、いいから」

「別にいいよ。私も髪が痛まないように洗わないときとかあるし、嫌じゃない」


耳の近くで彼女のハスキーな声がして、ちょっとぞくぞくする。

ガヴリールにお腹を優しくさすられていると、しわくちゃになった心にアイロンをかけられているようだった。


190 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:57:43.83 ID:6an8YmUi0




そうだ、アイロンだ……。

覆いかぶさっている彼女の体温もあって、私は夢を見るように、昔のことを思い出していた。

私が手を使って何かを作ることに興味を持ったのは、おばあ様のアイロンがけがきっかけだったように思う。

おばあ様の使っていたアイロンは、底の形こそお母様の使う電気アイロンと同じく雫のような形をしていたけれど、

内側に火をつけた炭を入れて、その熱を利用していた。

煙突のついたその形はまさしく船のようで、蒸気をあげながら皺を伸ばす様子は、

立ち込める霧の中での航海みたいに、行く手を遮る荒波を調停しているようだった。

一切の迷いのない、流れるようなその手つきが見ていて気持ちがよく、

赤く燃える黒炭を宿したアイロンは生き物のようにも思えて、

顔に当たる湿った熱気も、残される凪いだ水面も大好きだった。

もしかすると、元々私は、何かが出来上がることよりも、何かを作ること、それ自体が好きだったのかもしれない。

ガヴリールやヴィーネが編み物をする姿を見て感じていた安心感は、彼女らにおばあ様を重ねていたから、なのだと思う。


191 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:58:10.58 ID:6an8YmUi0



私の目が二つしかなくてよかった。

もしもっとたくさんあったなら、きっと私はあふれ出る涙で干からびてしまっていた。

私の耳が二つあってよかった。

一つだったなら、その声がどこから聞こえてくるのかわからなかっただろう。

私が私でよかった。

だって、そうでなくては……今、ここで、彼女の温かさを感じることはできなかった。

192 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:58:50.11 ID:6an8YmUi0


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私が落ち着くまで、彼女は静かに付き合ってくれた。

もう大丈夫だと私が言うと、彼女はパッと立ち上がり、いつもの鷹揚な口調で命令するのだった。


「じゃあ、いつもみたいに私の座椅子になってくれ」

「座椅子って……もう少し別の言い方はないのかしら」


私がそう言うと、私のお腹が、ぐぅと不満を申し立てた。

思えば昨日の夜から何も食べていなかった。


「まずは朝食にするか」

「そうさせてもらえると助かるわ」


193 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 01:59:56.64 ID:6an8YmUi0



六枚切りの食パンを二枚食べた後、歯を磨いて顔を洗い、服を着替えた。

一限目はとうに始まっていたが、今日くらいはサボってもいいだろう。

テーブルと少し離れて私が座り、私にもたれかかるようにしてテーブルとの間にガヴリールが座る。

彼女と編み物をするときはよくこんな風にしていた。

これではかえって気が散るのではないかと思っていたが、先程逆の立場になってみて、

案外悪くないかもしれないと認識を改めた。


「お前さあ、こんなちょっとした失敗で、絶交されるかもとか考えてただろ」

「それは……ちょっとだけね。一ミリくらい」


「一ミリって、小学生かよ。そうやって、一つの失敗で全部が崩壊するみたいに拡大解釈するとか、

現実を正しく見れなくなる症状をレンズの歪みっていうんだよ。気を付けろ」


「へぇ、そうなの。不良品の望遠鏡みたいね」

「まあ、遠くなんて見据えずに近場だけ見て生きていくのも悪くはないけどね……。どっちも見えるに越したことはない」


194 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:00:26.33 ID:6an8YmUi0




「人は、所詮は動物だ。天使も、悪魔も」

「当り前じゃない」

「不安っていうのは、姿が見えないから不安なんだって」

「そう」

「壁に背中を付けていると、視界だけを気にすればいいから、安心できて、落ち着くらしい」

「ふーん。それがどうかした?」

「別に、ただ思い出しただけ」

195 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:01:17.11 ID:6an8YmUi0



「そういえば、サターニャ、100%善である魂がどうなるか知ってる?」

「さぁ、確か死滅するとかいう話じゃなかったっけ」

「通説はそう。でも、それって都市伝説みたいなもので、見たことのあるやつなんていないんだよ」

「じゃあ、本当はどうなるの?」

「そもそも、そんな魂はありえない。体脂肪率100%の人間は、もはや人間でないのと同じ」

「死亡率は100%なのにねぇ」


「死の対義語は生じゃないからね。例の猫も毒ガスで死ぬ運命だし。

要するに……完璧なんて、完璧にありえないっていう、ごくありふれた結論だよ」


196 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:01:48.44 ID:6an8YmUi0



ガヴリールのクマは二時間ほどで完成した。

昨日のものとは違って頭が少しいびつだったりもしたが、それはそれで愛嬌がある。

形が崩れないように気を使いながら、彼女はそれをもとの箱に丁寧にしまった。


197 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:02:15.48 ID:6an8YmUi0



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その後、私たちは少し早めの昼ご飯を食べることにした。

冷蔵庫には何も作り置きをしていなかったはずなので、コンビニに買い出しに行くことになった。

ガヴリールによると、平日の昼間に学生が警官に見つかると補導対象となり、停学などの重い罰が下るのだという。

私は彼女に服を貸し、大学生のふりをすることにした。


「でかい」

「身長が違うからね、仕方ないわよ。コートで誤魔化しなさい」

「なんか悪魔的な匂いがする」

「ちょっと、匂いを嗅ぐのはやめて……悪魔的って、どういう意味よ!」


198 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:02:42.13 ID:6an8YmUi0




コンビニに向かう道でも店内にも警官らしき人物は見当たらなかったが、

彼女によると立ち読みしているおじさんが私服警官なのだという。

一見して漫画雑誌に夢中になっているようだが、それも罠なのだろうか。

それにしても、警察も随分暇なのね……平和で結構。

私はなるべく自然に、今日は休講なんてラッキーね、なんてわざわざ聞こえるように話しながら、

おじさんの視界に入らないように買い物を済ませた。


「怪しまれなくてよかったわね」

「何が?」

「あの私服警官よ。私の変装スキルもなかなかのものね」

「あれはただの暇なおじさんだろ」

「はぁ?」

「というか、万が一警察に見つかっても悪くて注意されるくらいで、停学なんてならん」


私は手に持っていた買い物袋を黙ってガヴリールにぶつけた。



199 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:03:11.91 ID:6an8YmUi0



──────────────────────
──────────────
──────


「今からチョコを作ります」


昼食を食べ終えるなり、ガヴリールはそう宣言した。


「何ヴィネットみたいなことを言っているのよ。午後からだけでも学校に行った方がいいんじゃないの?」

「いいから作るぞ。せっかく買ってきた生クリームとチョコが無駄になる」

「いや、あんた持ってないでしょ」

「あるぞ、ほれ」


彼女が冷蔵庫のドアを開けると、昨日までは無かったはずのレジ袋が放り込まれていた。

200 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:03:42.07 ID:6an8YmUi0



「いつの間に入れたのよ」

「お前が寝ている間に勝手に入れた。それより、ちゃちゃっと作ってしまうぞ」

「私はいいわよ。というか、自分の家で作りなさいよ」


「この私が教えてやるって言ってるんだ。観念して従え。

それに、仲直りするきっかけがほしい相手に、心当たりがあるんじゃないの?」


「それは……」

201 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:04:10.84 ID:6an8YmUi0




言われてみると、ラフィエルと仲直りするいい機会かもしれない。

私の言ったことを撤回する気はないが、相手も大きく間違ったことは言ってはいない……言い方はきつかったけど。

ラフィエルは少し意地悪なところもあるけれど、多分、下界では一番私のことを理解してくれている。

この前彼女が神経を逆なでするようなことを言ったのも、

おそらく私を心配したからであり、私の本心を引き出すためだったのだと思う。

私は素直じゃないから、普通の聞き方ではだめだと思ったのだろう。

彼女は頭のいい、実力派の女優なのだ……だからこそ、その素顔も気になるというものだが。

このまま友人を失うのは、やっぱり惜しい。


202 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:04:38.13 ID:6an8YmUi0




「わかった。どうしても教えたいっていうんだったら、聞いてあげないこともないわ」

「おい、口の利き方には気を付けろ。……まあいい。それじゃあ、指示通りにやってくれ」

「任せなさい!」


生チョコの作り方は意外と簡単で、調理実習の時の方が大変だった気がする。

板チョコを包丁で刻んで、加熱した生クリームで溶かし、型に流し込んで冷凍庫で凍らせる。

湯煎さえしないので、本当に初心者向けだった。

ガヴリールに早くしろとせっつかれながら、私は時間をかけて丁寧に工程をこなした。


203 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:07:39.24 ID:6an8YmUi0



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──────


チョコが固まるのを待つ間、私たちはすることもなく、テレビの前でぼんやりしていた。


「チョコの作り方なんて、よく知ってたわね。調べたの?」

「ヴィーネに聞いた」

「ああ、なるほどね」

「なんか妙な顔してた」

「そりゃ、あんたがだれか男の人にあげるって思ったんじゃないの?」

「そうか……」

「後でちゃんと説明しておきなさいよ」

「うん、まあなんとかなるでしょ」

204 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:08:07.85 ID:6an8YmUi0


「ラフィエルは喜んでくれるかしら」

「物をもらって嫌な顔をするやつじゃないでしょ。カエルチョコとかは別かもしれないけど」

「でも結局、高校が終わったら離れ離れなのよね……」

「定めだからね、諦めろ」

「でも、悪魔が天使と仲良くしても意味ないぞって言われてるみたいで、なんだか悲しいわね」

205 : ◆n0ZM40SC3M [sage saga]:2017/05/08(月) 02:08:46.69 ID:6an8YmUi0



「……逆に聞くけど、意味のある事って何だ」

「えっ? それは……幸福なこと、とか?」


「例えば、ある評判のいい外科医いたとする。

沢山の人々を救った実績もあって、もちろん自分の腕に誇りを持っていた。

やりがいのある仕事を持ってるのは、幸せなことだ」


「それは、きっとそうね」


「ある日、そいつが事故で両腕を切断することになった場合、そいつの意味は無くなったことと同じか?」

「さぁ……また、別の仕事を探せばいいじゃない」

「そう。意味とか価値なんてものは、主観的、任意なんだよ。自分で選んでいい」

「ああ、いやいや、私が意味ないって思ってるわけじゃないわよ?」

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