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新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

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73 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:14:25.81 ID:8ENUCYV1O

武内P「出席されるおつもりですか?」

美波「はい。反対なんですか?」

武内P「いまこの段階では、リスクが大きいかと……」

美波「亜人管理委員会の戸崎さんに話を聞きました。圭はいま危険な状況にいることを。だから、いまじゃないとダメなんです」

武内P「私も同様のことは会議で聞きました。弟さんが無事に保護されるために正しい情報が報道されなければならないこともわかります。私が懸念しているのは、新田さんの登場によってそういった情報が正しく報道されるかどうかという点です」

74 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:15:41.32 ID:8ENUCYV1O

美波は黙ったまま話を聞いていた。美波と対面するかたちでプロデューサーはソファに腰掛けていた。目の前の美波は顔をあげ、プロデューサーと視線を交えている。そこにあるのは綱引きのような緊張関係だった。美波はプロデューサーの協力を求めていたが、無条件になんでも受け入れることはできなかった。自分の意志が最大限に尊重されることが前提で、それが認められないなら別の人間に助けを求める意志があること彼女の眼は語っていた。美波の視線が鋭さと潤みを増すのを見てとりながら、プロデューサーは話を先にすすめた。


武内P「いちど拡散された情報は回収ができないどころか、恣意的な編集によって情報が歪められる恐れがあります。悪意をもってそう意図するわけではなく、ただ単に放送しやすくするためという理由でおこなわれた編集でもそういったことは起こりえるのです。すべてのメディアが内容にも配慮するという保証はありません。映像それ自体に重きを置いた加工がなされても、それは報道する側の自由なんです」

美波「なにもせずにこのまま黙っていることが得策だと言うんですか?」

武内P「戸崎氏がおっしゃったことなら、わが社の広報からでも伝えることは可能です。新田さんは、それでも会見にお出になられるとおっしゃるのですか?」


いっときの沈黙ができた。応接室は時計と空調と観葉植物の葉が壁にこすれる音に満たされた。すこししてふたたび美波が口を開いたとき、その声には切実な感情が滲みでていた。

75 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:16:57.32 ID:8ENUCYV1O

美波「プロデューサーさんのおっしゃることはよくわかったつもりです。わたしの心配をしてくれていることも、いまの状況について冷静な意見をおっしゃてくれたこともわかっています。でも、わたしにとって、問題は圭がどう受け止めるかってことなんです。警察や政府の人たちが圭を追って、一般の人たちも大騒ぎしているとき、安全が保証されるから政府に保護されるべきだとニュースで報道されたとしても、それを信じるでしょうか?」

武内P「新田さんのおっしゃることなら信じてくれる、と?」

美波「……わかりません。でも、もしかしたら信じてくれるかもしれない」


美波は正直に自分の思ってることを言葉にした。そのことを実際の音声で聞いたとき、それほどショックを受けていない自分に気づいた。あいまいな希望だとわかっていても、なにかをしないではいられなかった。美波の言葉を聞いたプロデューサーはうつむいていた。ややあってから、プロデューサーが口を開いた。


武内P「政府に保護された亜人は、たとえ家族といえど面会はできないと聞いています。新田さんは、それでもかまわないのですか?」

美波「そのことも考えてみました。圭が安全な場所にいることが、わたしが最優先にすることなんです」


プロデューサーはまた沈黙した。だが、今度はうつむかなかった。

76 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:18:15.03 ID:8ENUCYV1O

武内P「私は、あなたのプロデューサーとして意見を述べたにすぎません。あなたが私の意見を聞き、そのうえで会見に出ると決断されたのなら、私はあなたを全力でサポートします。それが私の仕事です」


美波は鼻を啜り、とめていた呼吸を再開したかのように息を吐いた。潤みに満ちた声で、ありがとうございます、と礼を述べた美波に、プロデューサーはこう応えた。


武内P「新田さんのプロデューサーですから」


プロデューサーの言葉は、美波の味方でいることを決断したと伝えていた。


武内P「会見で発表する声明ですが、できるだけ改編が難しいような文章を書かせましょう」


なんの前触れもなくドアが開いた。


「あ、いた」

77 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:19:37.02 ID:8ENUCYV1O

応接室に姿を現したのはハンチング帽をかぶった初老の男だった。年齢は今西と同程度だったが、体躯を支えるしっかりとした筋肉がそなわっていて、一七三センチ程度の年齢からしてはかなりの背丈をしていた。帽子の下からは白髪がのぞいていて、半袖のシャツの裾をサスペンダー付きのズボンのなかに入れている。その男はナイフでいれた切れ目のような細い目をしていた。穏やかな表情をしているのに、目の奥がまったくうかがえない。


「あなたが新田美波さん? 永井圭くんのお姉さんの」

武内P「記者の方は立ち入り禁止です。すぐにお引き取りを」

「私は記者ではなく、永井君のことを心配する者です」

78 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:21:34.41 ID:8ENUCYV1O

めずらしく威圧感を発し、おいかえそうとするプロデューサーを帽子の男はやんわりと制した。帽子の男は背をそらし視界を遮っているプロデューサーの身体をよけた。そして美波をみて、言った。


「私は亜人の市民権獲得をめざす団体の一員です。ここへは亜人の権利を守る活動の一環としてきました」

美波「厚労省のかたではないんですか?」

「ええ。亜人保護委員会という名称の民間団体です」

美波「それで、あの……」

「ああ! 申し遅れました」


帽子の男は一歩前に出て言った。応接室にはいってきたときから変わらず、部屋のなかでただひとりだけ、深刻さとは無縁の穏和な表情をうかべていた。


「私は佐藤と申します」


帽子の男はそのように名乗った。

79 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/01/28(土) 23:25:49.12 ID:8ENUCYV1O
今日はここまで。仕事が忙しかったり、書きためが消えたりして(そんなに量はなかったですが)、更新がだいぶ遅れてしまいました。もともと遅筆なので2週間に1回更新できればといいほうだと、どうか大目にみてください。

わりと余談なんですが、ベトナム戦争ではフェニックス作戦という秘密作戦が展開されてたそうで、内容をみるかぎり、佐藤さんは確実にこの作戦に従事してたなあ、と思います。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/01/28(土) 23:43:25.31 ID:bkOHTD770
おつ

原作では妹が一時的に誘拐されてたけどこっちではどうなるか
あとデレマスsideの亜人が気になる
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/05(日) 00:59:21.78 ID:8FkjhZrYo
フェニックス計画はsogでも不良が回されたそうだし、team単位での精鋭で出来た集団故にチームと呼ばれてたのを考えると、司令部直轄の秘密コマンドだろうと思う。 そういうコマンドはあったと聞くし
82 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:46:00.70 ID:nOJuozZtO

3.サービスにするのもいいかもね


完全に黒い物体ならばどんなに鋭敏な視覚でも捕えることができないし、見ることができない、と彼は主張した。

「透明。すべての光線を通過させる物体の状態もしくは性質」

ーージャック・ロンドン「影と光」


佐藤とのみ名乗った帽子の男が差し出した名刺にも、姓である佐藤の文字が明朝体で印刷されているだけで、下の名前はいっさいわからなかった。ほかには亜人保護委員会という団体名と事務局長という役職名あるのみで、玄関の表札をそのまま名刺に移し替えたかのようにシンプルでそっけなかった。

佐藤が名刺を渡すためシャツの胸ポケットから名刺入れを取り出そうと頭をさげたとき、ハンチング帽の庇の先が下を向いた。帽子を真上から見下ろしたかたちになるそのシルエットはどことなく爬虫類の頭部を連想させ、佐藤の顔の上にある穏和さと食い違う印象をあたえた。


武内P「佐藤さん、あなたが記者ではないということはわかりました」


プロデューサーは佐藤から渡された名刺を見て言った。


佐藤「それはよかった」

武内P「ですが、現在我が社は外部の方への応対まで手が回らない状況です。申しわけ有りませんが後日またアポを取ってからお越しいただけますか?」

佐藤「いや、私もそうすべきかと思ったんですがね」


佐藤はソファに腰をおろしていた。その表情はいつのまにか真剣なものに変わっていた。


佐藤「永井君が政府に捕まってしまうまえに、なんとか彼の安全を確保したいのですよ」

83 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:47:59.19 ID:nOJuozZtO

美波「それはいったいどういうことなんですか?」


美波は押し込めていた感情に突き飛ばされたかのように身を乗り出し、佐藤の言葉にたいして過敏に反応した。佐藤が美波をほうをむいた。帽子の影が額にかかり、佐藤の細い眼は光があたっている部分と影とのちょうど境界線にあたるところにあった。


佐藤「政府は亜人を使って違法な人体実験をしてるということです」


と、佐藤は言った。


美波「まさか……そんなこと……」

佐藤「二〇〇五年に映像が流出し問題になった、米軍による敵軍捕虜の亜人に対する人体実験をおぼえておいでですか? 拷問のような非人道的行為です。あの映像流出を機に、ネット上では亜人研究に関する機密情報や内部告発が多く見られるようになりました。それでも各国政府は、政府が管理する亜人について、情報公開をいっさいしていません」

武内P「ちょっと待ってください。そのニュースなら私も知っていますが、あれは軍が独断でおこなったことでしょう? なぜ政府が亜人の人体実験をおこなっているということになるんです?」

佐藤「事実、おこなっているからですよ」


佐藤はプロデューサーの質問を断ち切るような答えを返し、話を続けた。

84 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:50:07.94 ID:nOJuozZtO

佐藤「亜人が死んだ回数を測定する方法をご存知ですか? 亜人に痛みを与え、そのときの脳の反応を見ることでその亜人が何回死んだか予測することができるんです。亜人研究は、亜人であった者に苦痛を与えることが前提になっているのです」

美波「でも、亜人管理委員会の方は亜人狩りの危険から守るためだって……」

佐藤「その言葉に嘘はないでしょう。亜人の研究は大きな利益を生み出しますからね」


プロデューサーも美波も佐藤の話す内容に困惑するしかなかった。プロデューサーは話の内容よりも佐藤の行いについて、佐藤が見計らったかのようにここへやって来て、戸崎の嘘を暴くかのように話すことへの困惑のほうが大きかった。それが事実なのかどうかを判断するほどの材料がこちらにはなく、相手側もそのことを知っている。情報についての階級差がありすぎた。

佐藤の指を組んだ手が膝のあいだに浮いていた。帽子の男の声音はちょうどこの手のような静止状態をあらわしていた。事実とされる言葉の連なりが淡々と宙空に放り出される物体のように提示されると、それらはまるで静物のように動きを止め観察と検討を強いてくる。

佐藤はさらに言葉を重ねた。それは、耳を疑うような内容だった。


佐藤「私たちの願いはささやかなものです。だが重要でもある。それは平和です。普通の人々が享受しているささやかな平和をわれわれは欲しているのです」

85 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:52:05.80 ID:nOJuozZtO

佐藤の顔つきは真剣そのものだった。“われわれ”という主語は、意識的に選択されたものだということがその顔からわかった。だが、その語が意味する範囲は、美波やプロデューサーにとって不確定で、同定しえないものを含んでいた。

“われわれ”。その“われわれ”のなかには、いったいだれが、どれほどの人数が、含まれているのだろうか。これまでの説明から、佐藤は亜人である永井圭を“われわれ”の一員としてむかえいれようとしていることは美波にも推測できた。問題は佐藤の言う“われわれ”のなかで、佐藤自身がどのような位置にいるのかという点だ。美波の目の前にいるこの帽子の男は市民団体の事務局長でしかないのか、あるいは……

もしこの人のいうことが真実で、そして圭とおなじ身体をしているのだとしたら、と美波は思った。この人のほうが圭の味方にふさわしいのかもしれない。ともすれば、わたしよりも。

美波のこころは佐藤のほうに傾きかけていた。軽挙を避けるべきだという考えはあったとしても、佐藤からふたたびはたらきかけがあればひかえめな一歩を踏み出してしまいそうな気持ちになっていた。

86 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:56:31.03 ID:nOJuozZtO

美波「でも、わたしになにができるんでしょうか?」

佐藤「まずは永井君のことを聞かせてください。大丈夫。どんなにささいな行動でも、それが真剣なものなら、かならず変化のきっかけになりますよ」


佐藤の表情はドアが開きこの部屋に入ってきたときのような微笑みにもどっていた。美波はその変化をつぶさに見てとった。それは表情筋のはたらきだけに還元可能な、まるで笑顔の作り方を指導するかのような口角の上げ方だった。


武内P「変化とは?」


プロデューサーが思わず口をはさんだ。理由はわからないが、佐藤のいう変化が美波や彼女の弟が望んでいる類いのものだとは思えなかったからだ。そんなプロデューサーの考えを知ってかしらずか、佐藤の返答はいやにあっさりしていた。


佐藤「亜人にとって住み良い国になるということですよ」


そこでノックの音がした。ドアを開けて部屋にはいってきたのは事務員の千川ちひろだった。蛍光緑の上着がきらきらと光をはね返している。プロデューサーが立ち上がり、彼女に近づいた。ちひろは声をひそめて早口に喋っていた。緊急に伝えることが起きたようだ。

美波もそちらに目を向けていたが、横から聞こえきた息のぬける軽い音に首をまわした。佐藤だった。言いつけのせいでゲームを中断せざるをえないときのような残念そうな表情を一瞬だけ浮かべていた。

87 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 22:57:57.18 ID:nOJuozZtO

佐藤「なにか問題が起きたみたいですね」


ちひろはそこで美波のまえに座っている帽子の男が見知らぬ人物であることに気づいたようだった。すこしだけばつの悪い顔をすると、すぐに表情をもどして言った。


ちひろ「申し訳ありません、慌ただしいところをお見せしてしまって……」

佐藤「いえいえ、アポもなしに来たのはこちらのほうですから」


そう言うと佐藤は腕時計に目を落とし、ソファから立ちあがった。


佐藤「ではそろそろ失礼します」


美波はあっけにとられた。佐藤の表情から波でさらわれたかのように真剣さが消えていた。目当ての品物が店に置いてなかったときにみせる足取りで部屋を横切り、あっという間にドアの前まできた。

かろうじてプロデューサーが去ってゆくのを思いとどまらせようと、佐藤の背中に声をかけようとした。つぎの瞬間、佐藤は首をめぐらし部屋のなかにいる三人を視界におさめながらふたたび口角をあげた。


佐藤「そうそう。政府による亜人虐待の証拠ですが、近いうちにお見せできると思いますよ」


佐藤は帽子のつばを持ち上げると、応接室から去っていった。残された三人はそれぞれ種類のちがう困惑を胸に浮かべていた。そのなかでもとくに美波は、なにかに見捨てられたような気持ちに陥っていた。感情そのものが錨になったみたいに、美波はソファに座ったまま、身動きがとれないでいた。

88 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:00:04.80 ID:nOJuozZtO

プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

89 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:01:27.37 ID:nOJuozZtO

田中「すいません、ちょっとうとうとしてました」

佐藤「いいよ。もう夜も遅いからね」


田中はハンドルに両手を置き、腕を伸ばした。筋肉が伸長し、関節がぽきぽきと音をたてた。そして今度は車の時計を見た。さっき腕時計で確認した時刻から十分程度過ぎたくらいだった。


田中「けっこう早かったすね」

佐藤「残念ながら時間切れでね。思ったりよりはやく気づかれちゃったよ」

田中「それじゃ話は聞けなかったんすか?」

佐藤「うん」


佐藤はこともなげに言った。


田中「佐藤さんなら、ふつうに忍び込むくらいできたんじゃないですか?」

佐藤「それじゃあ、おもしろくないじゃない」


田中はため息をついた。

90 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:02:43.68 ID:nOJuozZtO

田中「まあでも、どうせたいした話は聞けなかったと思いますよ。姉っていっても、長い間離れて暮らしてたらしいですし」

佐藤「え? そうなの?」

田中「知らなかったんすか……」

佐藤「なるほど、それで名字が違ったのか」


佐藤の態度にさすがの田中もすこし呆れた様子だった。


田中「それで次はどうします?」

佐藤「永井君には妹さんもいたよね」

田中「はい」

佐藤「じゃ、日が昇ったら妹さんのところに向かおう。今日のことできっと警備もすこし厳重になってるかもしれなけど、田中君に任せていいかな?」

田中「問題無いです」

佐藤「今日、私がやったようにすればいいから」

91 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:04:50.29 ID:nOJuozZtO

佐藤は首をくいっとかるく動かし、トランクのほうを示した。そこには大型のクーラーボックスが二つあった。バックドアからみて右側の奥に横向きにして並べて置かれている。市販されているものでは最大容量のもので、押し込めることができるのなら人間くらいならはいりそうな箱だった。クーラーボックスの蓋はぴったり閉じられていた。蓋の周りには灰色のダクトテープが何重にも巻かれていて、箱の中身いっぱいに液体が詰まっていたとしてもそれが漏れ出る心配はなさそうだった。


佐藤「操作のコツはもう掴んだかい?」

田中「はい。任せてください」


そう言うと、田中はさっきの佐藤よりも大きく首をめぐらし、クーラーボックスに顔を向けた。


田中「でも、あれどうするんですか?」

佐藤「適当に処分してもいいけど、サービスにするのもいいかもね」


田中はよくわからないといった様子で、佐藤の顔を見やった。


佐藤「いろいろ入用になるだろうし、使える臓器は猫沢さんにあげちゃおう」


佐藤は柔和に微笑みながら言った。 そして、ワンボックスカーが駐車場から出発した。発進するときの揺れで、トランクのクーラーボックスがガタンと音をたてた。だが、佐藤も田中も、クーラーボックスの中にいるものは決して生き返らないことを知っていた。ワンボックスカーは街灯に一瞬だけ照らされた。光が車体のうえをなめらかにすべっていく。だがそれもわずかなあいでのことで、二人の亜人を乗せた車は闇になかに消え、すぐに見えなくなった。

92 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/12(日) 23:09:48.61 ID:nOJuozZtO
章の途中ですが、今日はここまで。

デレマスの曲で佐藤さんにぴったりのやつがあるかなぁと考えた結果、「絶対特権主張しますっ!」が歌詞の内容的にすごい合うと思いました。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/13(月) 11:14:47.08 ID:Fd/hLyVE0
94 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/02/14(火) 21:59:37.04 ID:16nzUkT/O
>>88 の文章が一部抜けてたので訂正


プロダクションからすこし離れたところに位置しているコインパーキングは、病気にかかったみたいな緑色をした街灯に照らされていた。光は、その駐車場に停めてある一台のワンボックスカーの運転席に座っている男の額にもあたっていた。オールバックにした黒髪が艶やかに緑の光線を反射している。男の眼つきは凶暴そのもので、解放されてからずっと眼に映る人間すべてにナイフを一突きしたくてたまらないようだったが、いまは眠気が瞼になっているみたいに眼を閉じかけていた。

男はなんとか瞼を押し上げ、腕時計を見て時刻を確認した。夜の十二時を過ぎていた。男は腕時計に視線を落としたまま腕を上げ、デジタルの標示盤を囲みを目の下に押し当て、眠気を追い出そうとした。できるだけ眠りたくはなかった。眠れば、記憶が夢のもとになって蘇ってくる。男の人生の三分の一ほどを占める十年という時間は、苦痛の記憶だった。男の脳はこれまで何度も潰されたり、切り取られたり、撃ち抜かれたり、破壊されてきたが、それでも苦痛の記憶はひとつも欠落することはなかった。心理学者ウィリアム・ニーダーラントの指摘するところでは、犠牲者は凄まじいエネルギーでわが身が嘗めたことを記憶から締めだそうとするが、たいていの場合それに成功しない。

男は半分ほど飲み干した缶コーヒーに口をつけた。砂糖とミルクもないブラックコーヒーだったが、しばらくすると眠気との戦いには役に立たないことがわかった。


佐藤「おまたせ、田中君」


車のドアが開いた音がした。声のしたほうを向くと、帽子の男が助手席に乗り込んでいた。田中の眼がぱっちりと開いた。

95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/02/17(金) 18:32:34.92 ID:e5tbNLGVo
期待
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/03/02(木) 15:45:32.45 ID:vL93/uH+o
期待
97 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:29:21.45 ID:ULzdASnMO
更新遅くて申し訳有りません。いま頑張って続きを書いてます。

今日はとても驚いたことがあったのでそれだけお伝えします。たまたまYouTubeで見てたこのサイレント映画→(https://youtu.be/BVSFlSxNvLg /D・W・グリフィス『見えざる敵』An Unseen Enemy/1912)に、佐藤がフォージ安全社長の甲斐を殺害した方法そっくりそのままのシーンがありました。壁の穴からリボルバーが出てくるだけでなく、ドロシー・ギッシュの顔に銃口が向くシーンまであるんですよね。

オマージュか、偶然の一致かは分かりませんが。
98 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/04(土) 23:35:04.88 ID:ULzdASnMO
日本語字幕付きの動画があったので貼っておきます。
https://youtu.be/ITk2FkRdbcA
99 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:50:54.52 ID:NJ9NkxEDO
専務のセリフで明後日の会見とありましたが、明日の会見の間違いでした。脳内訂正お願いします。


七月二十四日午後二時三十八分


テレビの液晶画面に美波の姿がふたたび映る。プロジェクトルームには美波をのぞくすべてのメンバーがいて、正午頃に行われた会見の様子を何度も繰り返し流している番組を無言のまま迷ったように見つめている。横長の画面のなかで美波は装飾のない白いブラウスに身を包み、昨夜戸崎から受けた説明を記者たちにむかって淡々と語っていた。この映像の意味はつまり、美波は亜人管理委員会の側についたということだった。

戸崎たちが去った直後にあらわれ、自身を亜人だとほのめかしながら、かれらの欺瞞と亜人管理の実態を暴露しに来た佐藤に心情的に傾きながらも、美波が会見で亜人管理委員会側の論調をなぞったのは、あのとき帽子の男がプロダクションビル内にいたと証明できるものが佐藤を直接目にした三人、美波とプロデューサーと千川ちひろ以外には誰もいなかったからだった。

佐藤が美波たちの前に姿を見せた時刻を前後して、駐車場からビル内への通用口を警備する二名の警官が突如として姿を消していた。その二名の消息は現在も杳として知れないままで、何が起きたのかを記録しているはずの駐車場に設置されていた複数の監視カメラはすべて破壊されていた。
100 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:52:08.03 ID:NJ9NkxEDO

昨日事情聴取にやって来た巡査部長が早朝から、美波たちがプロダクションに着くより先に待機していた。巡査部長は口を苦々しくきつく一文字に結び、顔の筋肉のこわばりが唇に続く筋を頬に作っていた。巡査部長の唇は鮮やかな桜のように血色の良い色をしていたが、こわばりのせいで見えなくなっていた。事件を説明した巡査部長は美波たちに気になる点や怪しい人物を見なかったか質問した。プロデューサーが真っ先に事実を報告した。佐藤が現れたとおぼしき時刻、美波とプロデューサーにむけて語った会話の内容、ちひろが異変を報告しにきた途端に会談の途中にかかわらす切り上げ去っていったこと、これらを簡潔に事実とそうでない部分を峻別しながら質問に答えた。巡査部長はちひろと美波にも同様の質問をした。ちひろはプロデューサーが言ったことに間違いはないと答えた。美波は答えるのにすこし迷っていたが、事実を曲げるようなことは言わなかった。

話を聞いた巡査部長は、帽子の男の正体を亜人狩りを生業とする密猟者の一味ではないかと推測し、プロデューサーらに警戒をより厳重にするよう忠告し去っていった。プロデューサーとちひろも巡査部長の推測、すくなくとも帽子の男は危険人物と見なすべきだという意見に賛成だった。美波も、状況証拠が匂わせる容疑の濃さを認めざるを得なかったし、実際プロデューサーやちひろにほぼ同意していた。しかし、美波にはもうひとつの可能性を検討する必要があった。佐藤が事実を語っていたという可能性。佐藤は亜人で、亜人管理委員会は亜人の虐待を行っていて、世間はそのことに無関心だという可能性のことだ。
101 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:53:11.77 ID:NJ9NkxEDO

この可能性は、佐藤が警官の失踪に関係があるという推測と矛盾しない。むしろ、上記の理由がそのまま動機となり得た。その場合、弟を佐藤に預けるのは安全といえるのだろうか。ある意味では、安全といえるのかもしれない。だがその安全とは、確保するために身分を偽ることや、ことによったら人を殺す必要性がある類いのものだ。社会的弱者が権利を拡大するのに、暴力が主張を訴える手段として選択されるのはどんな社会においても為されてきた。それはテロリズムとは別の文脈で検討されなければならない(しかし、家族がその運動に参加するとなると話は違ってくる)。

極端なこといえば、亜人管理委員会か佐藤のどちらかを選択することは、社会か周縁か、どちら側の味方になるのかを表明することだった。亜人管理委員会を選べば、弟は実験体にされる。佐藤が語ったような生体実験の事実がなかったとしても、亜人は貴重な生物であることにかわりはないから、呼吸や心拍音ですら研究のために計測され記録されるだろう。亜人と発覚した者は、研究対象されることによってはじめて社会の内側に存在することを許される。
102 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:55:24.76 ID:NJ9NkxEDO

佐藤の場合はどうなのだろう? 圭も監視カメラを破壊したり、人間の失踪に関わったりするようになるのだろうか? それとも佐藤はやっぱり亜人の味方で、圭に畳の上に蒲団を敷いた居心地の良い寝床を用意してくれるのだろうか(圭が安心できる部屋の風景のイメージが和風だったのは、おそらく研究施設に和室がないだろうと美波が想像していたからだった)?

いや、でもやっぱり、正直に言ってしまおう。わたしは不安を感じていたのだ。あの人の微笑みは穏やかでやわらかかった。ぎこちないところは少しもなくて、頬が上がると目尻の皺がいっしょになっていままさに線が描かれているかのように曲線が深くなった。でもあの表情は内面の感情から起こされたものではなかった。それはどこまでも顔筋の作用に還元できた。あの人は笑顔を操作していた。佐藤さんの笑顔は、空欄のある数式に正しい答えを書き込むことを思わせた。そうすれば、わたしから圭のことを聞き出せるから。なんでこんなことを考えているのだろう? 考えることと不安を感じることは頭の別々のはたらきで、考えてみると不安という感情には根拠がないとわかってくる。違和感だけでは、佐藤さんがほんとうはどんな人なのか判断できない。そう、わたしは佐藤さんのことが、全然わからない……

美波はこれ以上このわからなさに留まって、自分なりの答えを出すことはできなかった。映像が記録しているとおり、美波は亜人管理委員会の方針に則った。美波が思考を働かせた可能性やわからなさは、どちら側の選択がおわったあとでも消えてなくなったわけではなく依然としてこの世に存在していて、空気のように見えなくてもなんらかのかたちを持ってあらわれてくるのを待っていた。美波だってその可能性やわからなさを放棄したわけではなかったが、会見を見る多くの人間にとってそんなことは関係なく、こちら側にいる人間として発信されたメッセージを、主にかわいそうだねとかるく同情しながら安心して受け取った。

シンデレラプロジェクトのメンバーたちは、安心したとはいえなかった。
103 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:56:45.40 ID:NJ9NkxEDO


李衣菜「美波さん……大丈夫かな?」

みく「そんなの……」


前川みくの言葉はそこまでだった。

プロジェクトルームは明るかった。窓から差し込んでくる陽の光が最も強烈になる時間帯だったし、天井のライトは白く人間の眼にやさしく受容し易い光線を部屋の中のあらゆる場所に届いていたから、部屋に暗いところはいっさいなかった。テレビはつけっぱなしになっていたが、彼女たちはもうテレビに視線を向けていなかった。彼女たちは、床や膝やスカートの模様やそのうえに置かれている手ーーもっと正確にいえば指の第二関節のあたりーーなどにぼんやりと霧消する感覚をともなって眼を向いていた。

失語症患者のリハビリが行われているかのような雰囲気のなかで、緒方智絵里が不意に、自分でもわからない理由で顔を上げた。見えたものといえば、石像のように固まっている自分たちの姿だった。どうしようもなくなり、智絵里も石像に戻っていった。
104 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 21:58:56.87 ID:NJ9NkxEDO

部屋の中には千川ちひろと今西部長もいた。二人は立ったままで彼女を視野に収めるくらいのことはしていたが、それは眼の位置がそうさせているだけのことであってそこに見守るという大人らしい態度は希薄だった。亜人について、大人も子供もほとんどなにもわかっていなかったからだ。わかっていないということを自覚する以前の無関心さは、この部屋いるすべての人間が共有していた。

プロジェクトルーム入り口のドアが開いた。プロデューサーが会見場から帰ってきた。プロデューサーは無言状態が重くのしかかる部屋の様子を見て一瞬止まった。慎重にドアを閉め、部屋の中央、テレビのあるところまで歩いていく。プロデューサーは視線がまず歩いている自分に向けられ、それから後方の無人の空間に流れていくのを感じながら部屋を横切った。断りをいれてからテレビの電源を切り、 部屋のなかを見渡す。アイドルたちは、喉に言葉が詰まっているかのように自分を見ている。部長とちひろは聴く姿勢を整えていた。


みりあ「美波ちゃんは?」


メンバー最年少の赤城みりあが訊いた。


武内P「新田さんは亜人管理委員会の方といっしょに病院に向かいました。妹さんの聴取に同席されるそうです」


プロデューサーは視線をみりあから全体へと戻し、他に質問がないかと数秒のあいだ待ってみた。質問はなかった。彼女たちはプロデューサーの言葉を待っていた。
105 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:00:31.19 ID:NJ9NkxEDO

武内P「今回発生した事態に対して、プロダクションから対応に関する指示がありましたので、皆さんに説明致します。すでに会見で発表された内容と重複する点もありますが、どうか訊いてください。まず新田さんに関してですが、事態が沈静化するまで活動はすべて休止となります。予定されていたライブやイベントはすべてキャンセルとなり、活動再開時期も不明です。これまで発売されたCDや写真集などは今まで通りで、予定されているアインフェリアの楽曲も発売時期は少し遅れますが、こちらも発売中止にはなりません。
続いて皆さんのスケジュールですが、多少の調整はありますが基本的に予定されていた通りに進めていくと考えてください。調整後のスケジュールは可能な限り早く皆さんにお伝えします。不明な点があれば、私か千川さんに質問してください。それとしばらくのあいだ、送迎はすべてプロダクションの人間が行うことになります。アポイントの無い記者との接触を避けるための措置でして、息苦しさはあるかもしれませんがどうかご了承ください。
最後に新田さんの女子寮への入居の件を説明します。現在の状況を鑑みるに彼女のプライバシーを保護するには、このような措置を取るのが最も良いと判断されました。実際に入居されるのは四日後になります。また、現在寮生活をされている方に新田さんについてなにかお願いすることもあるかもしれません。このような状況の只中で皆さんに負担をかけるようなことをお頼みするのは申し訳ないのですが……」

みく「負担とかそんなこと言わないで!」


前川みくが立ち上がり、叫んだ。


みく「美波ちゃんは仲間なんだから、助けるのは当然でしょ!?」

智絵里「でも、なにができるのかな……?」


智絵里がぽつりと声をこぼした。思いがけず心に浮かんだ自問が外に転がり落ちたみたいな言い方だった。
106 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:02:48.61 ID:NJ9NkxEDO

かな子「智絵里ちゃん……?」

智絵里「あっ……ごめんなさい……」


智絵里のほんとうの失言は、この謝罪の言葉の方だった。彼女たちは今回の事態に対する自分たちの位置がこのひと言で明瞭に把握できたからだ。事態の中心は美波ではなくて美波の弟で、亜人であることからその反響が社会全体まで広がっている。亜人の発見とその亜人が新田美波の弟であるという事実は水平の水面にどぱん、どぱんと立て続けに大きな勢いで石を投げ込んだようなもので、続けざまに発生した波紋はたがいに相乗して疲れを知らない波と化し、水面の面積を広げるのかと思えるほどサァーっと進む。

そういった状況において、シンデレラプロジェクトのメンバーたちの位置は微妙なものだった。彼女たちは中心からひとつ隔てられていて、水の下に潜り込むとか、とにかく回避に専念してしまえば波に攫われてることもなさそうだった。未成年の個人や少人数の集団が、社会的な問題に巻き込まれている人物とどうコミットするか、というよりコミットが可能なのか、李衣菜がおずおずと意見を出した。


李衣菜「やっぱりさ、余計なことはしないほうがいいんじゃない?」

みく「美波ちゃんのことが心配じゃないの!?」


みくは驚きながら、李衣菜に声で詰め寄った。


李衣菜「心配に決まってるじゃん!!」


李衣菜は叫んで反論した。


李衣菜「でも、わたし、美波さんになんて言えばいいえのか全然わからない。弟が亜人で、日本中から追われてるんだよ? わたしは亜人のことなんてなにも知らない、美波さんがどんな気持ちでいるのかもわからない」

みく「だからそれは、心配で不安でしかたなくて……」

李衣菜「そんな言葉で気持ちがわかるの?」


李衣菜の問いに、答えることは誰もできなかった。
107 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:04:34.33 ID:NJ9NkxEDO

卯月「美波ちゃんの弟さん、どうなっちゃうでしょう?」


どうすればいいのかわからない気持ちのまま、島村卯月が不安げに言った。


凛「国の研究施設で暮らすっていわれてるけど……」

みりあ「研究?」

莉嘉「研究って、美波ちゃんの弟を? どんなことするの?」


年少メンバーの二人が発した疑問には不気味なものに対するおぼろげな怖いという感情が漂っていた。十年前の田中のときの報道の過熱化のことは全然憶えてない二人だったけれども(それは他のメンバーも同様だったが)、昨日からの騒ぎで二人は死なない生物が死なないことを確かめるための方法を想像することができた。とはいっても、それは言葉の上の意味だけに留まるもので、具体的なあれこれがイメージとして浮かぶまでにはいかなかった。


未央「だ、大丈夫だって! みなみんは政府の人と話をして会見に出るって決めたんだし」

きらり「そうだにぃ、きっと痛いことはしないにぃ」

みりあ「注射も?」

蘭子「注射……!」
108 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:08:47.89 ID:NJ9NkxEDO

こういうことは度々起こる。思考を一定の方向に進めていると、道を外れ溝に落ちるかのように思考は別の事柄に入り込む。でもそれが解決の糸口となったり思考を別の発展的な方向に導くかといえばそうことはなく、落ち込んでしまったことでそこから集中し直して態勢を立て直すと、前後方向に進んでいたときの限られた視界が運動にともなうブレが消えたことで風景を横方向、というか上下左右、眼球の丸みが光を受容できる範囲いっぱいまで視界が広がりそれまで見えていなかったことが見えるようになる。

アナスタシアは停止したままだった。アナスタシアの表情は垂れかかる銀髪に隠れて見えなかった。無言で固まっている姿は、まるで凍らせた水だった。唇も視線も固まったままで、ペットボトルに入れてあった水が凍らせたことによって体積が増えて飲み口から出てこれないように、アナスタシアは外界に内面を放っていなかった。どんな感情や考えが内面に渦巻いているのか外から伺い知ることできなかったし、それとも心の中は氷の張った湖面のようになっていて渦巻くことすら不可能なのかすら確認のしようがなかった。陽射しはどんどん強くなっていくなか、アナスタシアに向かって降り注ぐ光は当たるというより通り過ぎているといった感じで、このまま光を浴び続ければ、氷のように溶けてなくなってしまうように思えたが、アナスタシアは消去されていくのを受け入れているようにも見えた。


武内P「皆さんが混乱される気持ちはよくわかります。私たち三人も、今回の事態に対して十分な理解もないまま、ただ目の前の対応に追われているのが現状です」


プロデューサーは沈黙の中に自分の声を浸透させるように話し始めた。沈黙をうち破るためではなく、沈黙の層を厚くしなにかのきっかけになればと願っているというふうな話し方だった(その「なにか」がなんなのかは彼自身にもわからなかったけれども)。
109 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:12:53.86 ID:NJ9NkxEDO

武内P「現在美城プロダクションでは、事態への対応に部署の内外を問わずにあたっている状況ですが、混乱を収める目処は立っていません。私や千川さんや部長のように個人的感情を伴って行動する者も、そうでない者も終わりの見えない作業に疲労しています。しかし、それは組織に属する者の義務であり、新田さんの力になることが私たちの責任であるのです。
今回のこの事態に対して、皆さんにはいかなる責任も義務もありません。皆さんはまだ未成年で、亜人が世界で初めて発見された十七年前といえば、皆さんはまだ生まれていなかった方がほとんどでしょう。なのに、このようなことに直面せざるをえなくなった。その不安や不条理に戸惑ったままでいるのは大変なことです。私たちもそうなのですから。
私は皆さんに、自分の心を見つめ直してくださいとしか言えません。私たちはあなたたち一人ひとりのあらゆる決断を全力で支持します。あなたたちがしたいと思っていることの中には、現状では困難なこともあるかもしれません。もしそのときは私や千川さんや部長、あるいは他の信頼できる方でも構いません、話してみてください。もしよければ困難なことは、私たちにまるごと託してくれてもかまいません。私はこの混乱の中にあなたたちまでが孤立し、飲み込まれたままなのはつらいのです」


杏「やるよ」


双葉杏が手を挙げていった。


杏「杏は仕事はキライだけど、これは仕事じゃないからね」
110 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:14:21.17 ID:NJ9NkxEDO

智絵里「わ、わたしも……!」


緒方智絵里がおずおずと、しかし他の誰よりもはやく杏に続いた。それがきっかけとなって次々に同意が波のように広がった。李衣菜は躊躇っていた。声や手があがる部屋のなかで、半分開いた手が宙吊りになったみたいに身体の前にあった。


李衣菜「プロデューサー……わたしは……」

武内P「多田さん、あなたのおっしゃったことはまぎれもない事実でした。あなたは勇気を出して避けて通ることのできない事実をおっしゃった。そのおかげで、私は皆さんにちゃんと話すことができたのです」


李衣菜の表情が変わった。内側から押されるように唇が前に出て、鼻が持ち上がり眼が細まった。李衣菜は唇を噛み、震えをおさえてから言った。


李衣菜「わたしも、美波さんの助けになりたい」


プロデューサーはうなずくと、視線を李衣菜からアナスタシアに移した。アナスタシアはまだ最初の姿勢のままでいたが、眼のなかの光の色が変わっていた。
111 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:17:47.24 ID:NJ9NkxEDO

アナスタシアがプロデューサーと話したのは一同が解散した後のことで、彼のデスクがある個室でプロデューサーが面談の時間を設けようとする前にアナスタシアの方から部屋にやってきた


アナスタシア「プロデューサー、捕まった亜人は……ミナミはもう弟と会えないのですか?」


アナスタシアはドアを閉じてすぐ、ドアの側に立ったまま、単刀直入に訊いた。


武内P「……現行の法律では、たとえ親族でも政府が管理する亜人に面会することはできません」


プロデューサーは躊躇いながらも事実を伝えた。アナスタシアは頭を下げ両手を握りしめた。固まった拳が身体の左右に浮いたままアナスタシアは耐えるようにして少しのあいだその場に立ちっぱなしでいたが、プロデューサーが声をかける前にアナスタシアは部屋から出て行った。その動作は勢いがあって決然としていた。プロデューサーはしばらくのあいだ、アナスタシアの質問と動作について考えていた。ドアを開け部屋から出て行くアナスタシアを思い出すと、その動きの記憶には、不安定さの印象が加えられていることに気づいた。ドアを通り抜けるときの運動の軌跡に、黒いざらついた輪郭が不気味な分身のように重なっている。プロデューサーは得体の知れない思いをしながら、もしかしたら自分は、美波以上にアナスタシアを心配しているのかもしれないと思い始めていた。
112 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:21:18.27 ID:NJ9NkxEDO

ーー榎総合病院


慧理子はいらいらしていた。


慧理子「さっきの刑事が帰ったと思ったら、また? 協力者なんて、わたし知らない!」


慧理子は病院のベットの上で身体を起こしていて、すぐに隣には美波が椅子に座って身体ごと慧理子に向けている。美波は妹の表情を心配そうにうかがっていた。そこからすこし離れた位置には下村が座っていて、慧理子の視界の縁側に収まっていた。役人らしい、平静な表情をしている。病室から廊下へとつづく入り口の扉の左右には二名の警官がかなり前から立ったままで、いまも慧理子を見張っていた。


美波「慧理ちゃん、落ち着いて。病院なんだよ?」


美波は妹にやさしく話しかけたが、こうかはないようだった。


下村「私は亜人管理委員会の者で警察ではありません。あくまで亜人の研究・管理が目的で……」

慧理子「わけわかんない!」


慧理子は下村の説明を最後まで聞かなかった。


下村「私はあなたに永井圭の私生活について伺いたいだけなのです」

慧理子「なんでわたしがこんなめんどくさい目に……」


慧理子は言葉尻をちいさくしながらぶつくさつぶやいた。
113 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:22:35.50 ID:NJ9NkxEDO

下村「それは、あなたが永井圭の妹だからです。慧理子さん」


誰に向けられたわけでもない慧理子のつぶやきを下村は聞き取っていた。聴取の理由をはっきりと突きつけられた慧理子はばつが悪そうに押し黙った。美波は唇を結ぶ慧理子にすこし顔を寄せて語りかけた。


美波「すこし話をすればすぐにすむから、ね?」

下村「療養中のところ、申し訳ないとは……」

慧理子「キモイ」


自分をなだめようとする美波や下村へというよりは、兄との記憶に向かって、慧理子ははき捨てるように嫌悪をぶつけた。


慧理子「自分を人間だとカンチガイしてたやつが、家族にいたなんて……キモすぎる」

美波「慧理子!!」


さっき妹にした注意も忘れ、美波は怒鳴った。


美波「自分がなにを言ってるのかわかってるの?」


刺すような厳しい視線が慧理子に向けられた。慧理子は姉の激昂に一瞬びくっと身体を震わせながらも、言い返すことをやめなかった。


慧理子「姉さんだって兄さんのせいで大変な目にあってるじゃない!」

美波「それとこれとは……」

慧理子「ほんとに!? このせいでアイドルを続けられなくなってもほんとにそう思う?」


美波は言葉を続けることができなかったが、慧理子に向ける視線だけは維持していた。自分でもそれはするべきでないとわかっていたが視線を下ろすことができない。慧理子も黙りこみ、シーツの上に置かれる自分の手を見つめている。職務としてここにいる警官たちも当然口を挟めない。病室は気まずい沈黙の場所になっていた。
114 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:23:57.49 ID:NJ9NkxEDO

会見が終わり、下村とともに車で病院へ向かっているあいだ、美波のスマートフォンに義母からの着信がはいった。美波は画面の表示を見ると、すぐに通話ボタンをタッチしスマートフォンを耳にあてた。


律『会見見たわよ。なかなか様になってたわね』


義母の声音はいつも通り平静そのものだった。美波は呆れたような安心したような気持ちで義母に聞いてみた。


美波「圭は来ると思う?」

律『おそらく逃亡を続けるでしょうね』


律はきっぱりと言い切った。


律『騒ぎが収まるまでは身を隠すのが最も安全だと考えるだろうし、私と同様、政府を信用していないから』


信頼しているだけに義母の答えに美波は不安になった(でも、あわてふためくというようなことはなかった)。


美波「信用してないの? お母さんのところにも亜人管理委員会の人が来たんでしょ?」

律『亜人の希少価値と十年前の田中のときの騒ぎから考えたら、私たちに嘘をつく価値は充分過ぎるほどあるわ』


美波は胸がつかれたように悲しくなった。喉に痛みに似た感情が込み上げてくるのを感じなら、美波は義母に尋ねた。


美波「わたしのしたことは間違ってたの?」

律『そんなことはわからないわよ』


と、律は言った。
115 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:25:27.77 ID:NJ9NkxEDO

律『そもそも私が政府が信用ならないと考える理由も、証拠というほど確固したものではないから。あなたは亜人管理委員会の言いなりなったわけじゃなくて、自分で考えて行動したんでしょう?』


美波はすこし迷ってから「うん」、と答えた。


律『だったらいまのままでいなさい。自信を持てとも後悔するなともいえないけど、あなたはいまも圭のためを思って行動してる。それだけはしっかり憶えておきなさい』


美波はひとつ鼻をすすりひと呼吸おいてから、ちいさくささやくようにまた「うん」と言った。病院に向かう車に揺られながら、美波は窓に目をやった。街路樹の葉の光があたっている部分の照り返しと陽射しによってできた影の部分が、明暗をはっきりしながら窓に映っては後方に流れていった。目に映る光景にシャーっという音が重なる。耳にあてたスマートフォンから聞こえてきたその音は、おそらくカーテンレールが引かれる音で、美波は窓の外に視線を向ける義母を思い浮かべながら、「やっぱり、いっぱいいる?」と尋ねた。「ええ」という律の声が電話口から聞こえた。美波はなんとなく義母がうなずきながら「ええ」言ったのだと感じた。


美波「いま慧理ちゃんのところにむかってるんだけど、体調は大丈夫なの?」


美波がこの質問をしたとき、車が見覚えのある道に入った。窓から景色を見ると、はっきりと言語化されない日常化した馴染みの感覚が美波のなかに起こった。


律『今朝病院に電話して聞いたけど、いつもと変わりないそうよ』

美波「圭のこと、なにかいってた?」

律『いいえ』
116 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:28:56.65 ID:NJ9NkxEDO

赤信号になり、車は信号待ちに入った。反対車線では病院前のバス停からバスが出発するところだった。


律『慧理子のこと、頼むわね。今日はそっちに行けそうにないから』

美波「でも……」

律『あれでも、ほんとは兄さんのことを心配してるのよ』


律がそう言ったとき、車は病院に到着した。バス停のベンチには乗り遅れたのか、男がひとり腰を下ろしていた。車を降りるまで美波は義母と電話をしていたが、それ以上たいした話はできなかった。病院のロビーを抜け、エレベーターに乗り、廊下を歩いているあいだ、美波はどうしたら妹の意固地を解きほぐすことができるのだろうと考えていた。いまではこの考えが可能性から不可能性に傾き、美波の心に影を作っていた。美波はうつむき、そのせいで視線は弱まったが、沈黙の重さも増していった。病室の誰もが口をあげられないなか、下村がぽつりと言葉を発した。


下村「……私は、親族が亜人だった人を知っています。私に、その人の苦しみを推し量ることなど到底できません。ですが私は、その人やあなたたちのような人をこれ以上増やしたくはないのです。だから亜人のことをもっと詳しく解明したいのです」


美波は頭を上げ下村を見た。慧理子も頭は動かさなかったが、瞳は下村のほうへ向いていた。下村の言葉にはせつない実感が滲んでいて、言ってることに嘘はないように美波には思えた。


下村「どう生まれるのか、完全に不死なのか、本当に人間でないのか……どんなささいなことでも結構です。なにか人と違ったことなどありませんでしたか?」
117 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:29:56.35 ID:NJ9NkxEDO

慧理子は眼を下村から自分の手に戻した。さっきの感情の昂りの潮がまだ引ききっていないのか、慧理子の手の甲はうすいピンク色をしていた。その手の上をなにかが通り過ぎる感触がして、慧理子は窓の方を見た。レースカーテンが風に持ち上げられ、ふわふわ揺れていた。いちどカーテンは元の位置まで戻ったが、ふたたび風で浮き上がった。窓からの差し込んでくる光量が増え、壁やシーツの白さがより目立つようになった。慧理子の手がまたなでられた。やさしさを示すような感触で、シーツを握る指がすこしゆるむ。 今度は慧理子は両眼で下村を見た。


慧理子「……ほんとにどーでもいいよーな、話ならあるけど……それをいったら帰ってくれる?」

下村「はい」

慧理子「むかし、飼い犬が死んだとき、おかしなことを言ってたのが印象に残ってる……」
118 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:31:47.21 ID:NJ9NkxEDO

それは両親が離婚し、圭と慧理子が美波とはなればなれになって暮らすようになった直後の思い出だった。寂しさをまぎらわすため飼い始めた飼い犬が動かなくなり、そしてすぐに死んでしまった。横たわる子犬を前に泣きじゃくる慧理子に圭はお墓をつくってあげようと言った。シャベルと飼い犬の亡骸が入ったダンボールを抱え、二人は河沿いの土手道を歩いた。夕暮れどきで、自転車をこいで下校する学生たちと何人もすれ違った。しばらくすると野球グラウンドが見えてきた。圭よりすこし年上の小学校高学年か中学生くらいの少年たちが草野球にもなってない気楽なプレーを楽しんでいる。

二人は野球グラウンドがある反対側の河岸まで降りて、川面が反射する光が眼に届くところまでやって来た。そこは雑草もあまり生えていない乾燥した地面があるところだった。圭がシャベルを地面に刺した。ざくざくという土を掘り返す音に混じって、野球少年たちの笑い声があたりに響いた。

飼い犬の墓ができあがっても、慧理子の眼から涙は溢れ続けた。手のひらや手首をつかって涙をぬぐい、眼の周りに引き延ばしてはまたぬぐう。圭はシャベルを手に持ち、慧理子の横に立ったままだった。抽象的な概念について考えてるというふうに黙っていると、圭はふと背後の気配に振り返った。
119 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:33:22.12 ID:NJ9NkxEDO

永井「慧理、にげて……」


兄の声につられ、慧理子も涙をぬぐうのを一旦やめ、振り返った。


永井「幽霊が、来る」


慧理子の眼には兄のちいさな背中が映るのほとんどで、ほかに見えるものといえば、天頂の部分が藍色とのグラデーションになりかけているオレンジ色の夕焼け空と黒い腹を地上に晒しているいくつかの雲ばかりだった。
わけがわからずにいる慧理子をよそに、圭は視線をなにもない空間から自分の左腕へと移した。そして運動の軌跡を目で追うようにふたたび視線を前方の空間に戻すとこう言った。


永井「いや……出てる……?」
120 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:34:45.97 ID:NJ9NkxEDO

話を聞いた下村は咄嗟に身を乗り出し、問い詰めるようにして慧理子に聞いた。


下村「永井圭が黒い幽霊を見たといったんですね!?」

慧理子「は? 黒かは知らないけど」


下村はゆっくりと椅子に腰を戻した。さっき立ち上がった勢いで椅子はがたんと音を立てて動いたが、元の位置からそれほど動いていなかったので、下村は無事に尻を椅子に落ち着けることができた。下村はそれからゆっくりうなだれた。


下村 (口が……スベった……)


美波「あの、下村さん?」


下村 (あとで戸崎さんに怒られるかも……)


下村は自分でも顔が赤くなっているのがわかるくらい恥じ入っていたので、美波の声に反応することはできなかった。うつむいたままの下村に美波は戸惑ったし、慧理子もおとなっぽくないいまの下村にすこし呆れていた。気がぬけた慧理子は現在の状況につきあう気になれなくて、兄とよく遊んでいた時期のことをふたたび思い出していた。


慧理子「あ……まさか、協力者って」


慧理子は突如、兄に協力する人物に思い当たりがあることに気がついた。


慧理子「あの、もしかしたら……」
121 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:35:56.04 ID:NJ9NkxEDO

今度は慧理子が身を乗り出して下村に話しかけた。妹の突発的な行動に美波もつられて下村のほうを見る。顔をあげた下村は返事をするかわりにひとつ咳き込んだあと、身体の内側からのぼってきた血を口いっぱい分吐いた。飛沫がシーツや美波のスカートにかかり、赤い染みをつくった。


慧理子「え?」


下村は激痛に喘ぐ声を口から漏らしながら、頭を下げた。下村の身体を貫いていたのは鳥類の三前趾足に似た三本の大きな爪だった。太めの枝くらいあるその爪は、下村の背中から腹部を貫通していた。下村が苦痛に塗れた呼吸をするたびに爪と傷口の隙間から血液が染み出した。


下村「く、あ゛あ゛あ゛」


下村の身体が突然持ち上がって宙に浮き、天井近くで停止した。蛍光灯の光が近すぎて眼が痛い。下村は、ぶるぶる震える手で苦しみながら三本ある爪のうちの左右にある二本に手をかけた。首を背後、つまり床に向かって回し、自分を襲っているものの正体を見た。


下村「てめえ……!」


下村を持ち上げていたのは、眼も鼻も耳もない人間のような黒い幽霊だった。後頭部まで裂けた口に鋸のようなギザギザした歯が並んでいる。黒い幽霊の口が笑ったように歪んだ。幽霊は腕を振り下ろし、下村を床に投げつけるようにして爪を引き抜いた。落下する下村の身体は床にぶつからず、上半身が慧理子のベットに引っかかった。
122 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:37:23.20 ID:NJ9NkxEDO


慧理子「きゃ、あああ、あ!」


痙攣の回数が増え、光のない黒い瞳孔が拡大する様子を慧理子が見てしまう前に美波は妹にむかって飛びついて腕を回した。腕を交差させて慧理子を胸元できつく抱きしめると、ヘルメットのように背中を丸め、慧理子の視界を覆った。

病室入口の扉の右側にいた警官の身体が縦に割れたかと思うと、次の瞬間には三本の横線を入られていた。同僚の肉体が六つの肉の塊になって床に落ちる音も聞かないうちに、残ったもうひとりの警官はようやく自分に迫ってくる黒い幽霊が見えた。彼はその幽霊が殺戮を引き起こしたと理解する時間もなく壁に磔にされて死んだ。後趾にあたる短い爪が、胸の下と頭頂部に突き刺さっていた。

美波は慧理子の連続した浅い呼吸を胸に感じながら、塊が床に落ちる音を聞いた。音がした瞬間から部屋の中に漂う血の臭いがさらに濃くなり、美波は吐き気を抑えるため頬の内側を血が出ても噛み続けた。過呼吸気味の口の動きにあわせて歯がかちかち鳴り、呼気に恐怖が混じった。美波は勇気を振り絞り顔をあげた。窓にかかるレースカーテンが風に浮き光が差し込んできた。窓から外の景色が見えた。

背後で床に飛び散った液体を踏むぴちゃり、という音がしたとき、美波は本能的に窓へ走った。左腕を慧理子の右肩から太腿の下にまわし、妹を抱き上げとにかくこの部屋から脱出しようとする。

上半身をあげた瞬間、美波の側頭部が打たれた。美波は壁に向かって跳ね飛び、壁に額をぶつけると、身体が壁に沿ってずるずる滑り落ちていった。気絶した美波が床に落ちたとき、美波の頭がかくんと傾いてベットの影に隠れた。
123 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:39:07.64 ID:NJ9NkxEDO


慧理子「姉さん!!」


シーツの上で身を起こした慧理子は、四つん這いの格好で美波まで駆け寄ろうとした。ベットが軋んだ音を立てた。シーツに人間の足のような窪みができるのを見た慧理子は、視界が開け、同時に自分がいる空間の状況をよく見ることになった。白地の壁や床に赤い血が飛び散っている光景と嗅覚を苛む臭いを、慧理子は一気に受け止めることになった。

慧理子は気を失い、頭をベット横のサイドテーブルに落とした。黒い幽霊はしゃがみ込み、傷をつけないように慧理子の頬をかるく撫でた。
124 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:41:11.20 ID:NJ9NkxEDO

IBM『怖がらなくてよかったのに。佐藤さんから永井の家族は殺すなって命令されたからな』


黒い幽霊は床に倒れる美波を一瞥して言った。


IBM『よくやるよ、この姉ちゃん。ここは四階だってのによ』


黒い幽霊を使用した殺戮は思った以上に簡単で圧倒的だった。黒い幽霊の口角が上がり、はっきりと歪んだ笑みが浮んだ。田中は亜人管理委員会の女と警官二人を殺したことに大きく満足していた。国のために奉仕している職種の人間は、それだけで殺す理由を埋め尽くすのに充分だった。

病院前のベンチに座り眼を両手の手のひらで覆いながら、田中はまた笑った。黒い幽霊を操作していたときの興奮はすでに落ち着いていたが、それと同時に反比例で達成感が田中の心を満たし始めた。田中はこの気持ちをより完璧なものにしようと、達成した仕事の結果を見るため幽霊の首を巡らして部屋のなかを見渡した。
125 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:42:00.29 ID:NJ9NkxEDO

田中「……どういうことだあ?」


女がひとり、起き上がっていた。腹部にあいた傷口からは血の代わりに黒い幽霊と同じ色をした粒子が湧き出ていて、粒子が傷口に渦巻き纏わりつくと、損傷箇所が肉と皮膚で覆われ修復されていく。女が頭を上げると、その眼に光が射した。女はベットに立つ黒い幽霊を睨みつけながらこう言った。


下村「あなたは、そこをどくべきだ」
126 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/03/24(金) 22:44:19.21 ID:NJ9NkxEDO
今日はここまで。

ほんとは19日の日曜日に更新するつもりでしたが、更新する分のテキストを全消ししてしまい今日になっちゃいました。
127 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:16:17.97 ID:4YLo7u+WO

IBM『人間ぶってやがった……わけか……』


曲げていた膝を伸ばし、ベットの上に立ち上がった黒い幽霊は復活した下村を見下ろしていた。下村は視線を幽霊から外さないまま腕を後ろに回し、穴の開いたスーツのジャケットの袖から腕を抜いた。右手首から袖からするっと抜けると重みが偏り、スーツはブランコのように弧を描いたが、下村は床に落ちる直前に左手首をくっと振って、足で踏みつけないようにスーツを壁の方に投げた。赤く汚れた腹部があらわになった。


IBM『知ってるか? 亜人は大きな肉片を核に散らばった肉片を集め再生する。だが、遠くに行き過ぎた肉片は回収されず新しく作られる。もしそれが、頭だったら?』


下村の動作を見ていた幽霊は、ゆらゆらしながら身体の向きを調節した。幽霊の身体は窓から射し込む逆光を隠したが、黒さは変わらなかった。
シーツとマットレスを間に挟んで、ベットの上と下に、慧理子と美波の姉妹がどちらも窓のある壁の方を向いて倒れていた。
128 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:17:03.08 ID:4YLo7u+WO


IBM『ゾッとするだろ! おい!!』


黒い幽霊は右腕を脅迫するように素早く振りかぶった。斜め上から下村の首めがけて振り下ろされ、断頭を目論んだ爪の攻撃は、黒い手によって受け止められていた。手は左手で、下村の左肩の隣にあるその手は、下村の身体から放出された黒い物質で構成されていた。その物質は空気の中は水の中とでもいうように大気に染み込んでいったかと思うと、だんだんと人のかたちを形成していった。


IBM『なんだよ……てめえもかよ』


ほぼ直角二等辺三角形的な頭部をした幽霊が、田中の幽霊の腕を掴み相対し頂角を突きつけ睨み合った。正三角形的な牙を持つ田中の幽霊は手首を掴んでいた下村の幽霊の手を振り払い、ベット脇まで跳び退いて距離をとった。足裏についた血がスタンプみたいに床についた。
129 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:18:05.82 ID:4YLo7u+WO


田中 (どおすんだあ、この場合……これ同士の戦い方は教わってねえぞ)


田中は予想外の事態に眼を手のひらで覆ったまま思考を進めた。


田中 (だがコレの精神的な何かは頭にある。現におれの視野はアレの頭部とリンクしてる……となると、攻めるべきは頭か?)


黒い幽霊を発現した下村も、次の行動に出れないでいた。


下村 (クロちゃんをだすのはいつぶりだろうなあ……いや、そんなことより、アレをどうやったら撃退できるの? そもそも撃退自体可能なのか……人の形をしている以上狙うべきは……)


幽霊を持つ者同士が同じ思考の筋道を辿っていると、部屋の位置関係のせいで、下村はベットの上下に分かれて寝ている姉妹に気づいた。ふたりとも気を失っているので動いていなかったが、吹き入ってくる風に髪が震え動いてた。ふたりに気を取られた一瞬の隙に、田中は幽霊の腕を振った。長く鋭い爪が横から飛来し、下村の幽霊の首を素早く切り落とした。


下村「!?」

田中 (は……?)

130 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:19:43.54 ID:4YLo7u+WO

三角形をした頭部は床に落ちなかった。切り離され、重みで後ろに落ちていくその直前で頭部は空中で静止し、首の断面から磁力のような引っ張り合う力が発生しているのか、元の位置まで戻った。


下村 (……っ、なんでもやってるみるしかないか……!)


万全になった幽霊は指をかるく閉めて拳を作った。左手の指は伸ばして身体の前に構え、右拳を胸によせ攻撃に備える。次の瞬間、田中の幽霊が突進してきた。引いていた腕を下村の幽霊の頭部めがけて、三叉の槍のように突き出した。田中の黒い幽霊の腕は長く鞭のようによくしなり、それが威力を生み出していたが、このときばかりは鞭ではなく三つの黒い点にしか見えなかった。まるで三発連続で撃ち放たれた狙撃のようだった。下村の幽霊はその動作に俊敏に対応し、爪の刺突を構えていた左手で捌くと、いなされた勢いで身体が開いた田中の幽霊の前に自分の身体を入れた。田中はすぐさま黒い幽霊に二撃目を命令するが、腰を回すだけで右拳を突き出せる下村の幽霊の方が速かった。ぎゅっと指を締め石のように拳を固める。体重移動は完了していて、回転力の加わった右ストレートが勢いよく打たれた。田中の幽霊の左顔面にまともにぶつかり、パンチの当たった箇所が剥がれたように失われた。


IBM『な……に……!?』
131 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:20:42.80 ID:4YLo7u+WO

リンクしていた視界の半分が消えたが、異変はそれだけではなかった。


田中 (なんだ……? 再生しねーじゃーか……!?)


剥がれた顔面から黒い粒子が溢れては空中に散っていく。


田中 (視野の伝達が、悪く……意識が……散る……粉砕……!?)


田中は離していた左の手のひらを異変を探しているとでもいうように見たあと、ふたたび目にあてた。こうすると、ふつうは黒い幽霊の視野とリンクした光景が見えるのだが、視野の左側は黒い覆いが掛けられたかのように失われたままで、徐々にその範囲を広げていった。田中は追撃に焦燥しながら、残った視野で下村の幽霊をなんとかその範囲の中に収めようとする。すると、田中は下村の幽霊にも異変が起きていることに気がついた。


田中 (!……いや)
132 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:22:31.58 ID:4YLo7u+WO

下村の幽霊の右手の手首から先も同様になくなっていて、そこから物質の崩壊が観察できた。


下村 (相殺……!? なら、打撃が……有効……!?)

IBM『!』

強い踏み込みのあとに、強烈な左フックを繰り出す。頭部から粒子の拡散が止まらない田中の黒い幽霊は、命令の伝達機能が不全になっていたせいで反応が鈍く、拳を避けることができなかった。口を開けなんとか牙を剥いたが、拳が通り抜けるほどの開口は見せず、まともにフックとぶつかる。爆発したかのように粒子が弾け、飛び散って、散り散りになり、黒い幽霊の頭部が粉砕した。
133 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:23:17.19 ID:4YLo7u+WO

田中「あら? 途切れた!」


病院前のベンチに座っていた田中が叫んだ。目の覆いを外し、拳を握ってベンチを殴りつける。田中のいらだちに反応する者は周囲に誰もおらず、蝉が鳴き喚くほかには目の前の道路を二三台、車が通り過ぎていくだけだった。しばらくして、いらだたしさをおさめたあと、田中は下唇を指で引っ張りながら考え込み、さきほどの戦闘について振り返った。


田中 「やはり頭が弱点だったか……考えは間違ってなかったが……切っても意味なし、打撃による粉砕か……」


田中が考え込んでいるあいだ、歩道に植えられている街路樹の緑の葉っぱがそよと吹き抜ける風に、さわさわと涼しげな音をたてながら揺れた。歩道にかかる光と影のモザイク模様も葉っぱの動きにあわせてちらちらしていた。ちらちらした影の動きは風とともに止まり、そのころには田中の気持ちは切り替わっており、歯のあいだから息を洩らすように笑っていた。


田中「勉強になったぜ」
134 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:24:40.63 ID:4YLo7u+WO

病室で、自律を失った田中の幽霊を見下ろしながら、下村が息をついた。


下村「ふぅ……」


幽霊の身体は頭部が失われたことによって、崩壊は加速度的に進行し、もう腰のところまでしか残っていない。下村は消滅していく幽霊から、床に散らばっている警官の断片に目をやった。真っ赤になった床の上で、途切れた血管から血がすべて流れ出した断片は、肉本来のピンクに近い色をさらけ出していた。意外なことにその色は、赤い床の上でかなり目立っていた。


下村 (事後処理に特別班を呼ばなくては……でも戸崎さんがいなかったのは幸い)

下村「それに、あの娘たちも守れた」
135 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:26:01.79 ID:4YLo7u+WO

下村は視線を前方に戻した。ベットの上に窪みが見えた。その窪みの上にいたはずの慧理子はいなかった。


下村「! くっ、そ……!」


下村は爪が手のひらに食い込むほど、強く拳を握り締めた。


下村 (あいつは、オトリ……)

下村「もうひとりいたのか……!」


窓にかかっていたレースカーテンは窓の端のところまで引かれて束になって集まっていた。遮るのものがなくなった陽射しが窓からまともに入り込んできた。そこから見える風景は病院に到着したときと同様何の変哲もなく、遠くに青みがかかった山が見えるくらいの風景からもたらされるものといえば、暑気と蝉の声だけだった。
136 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:26:51.69 ID:4YLo7u+WO

病院のベットの上で目覚めるというのは美波にとって初めての体験で、天井の灯りをまともに見てしまった。眼が光線を受け止めた瞬間、反射的に瞼を閉じると左のこめかみに痛みが走った。かなりの疼痛で声を出すのも躊躇われた。美波はしばらく目を閉じたままにして、痛みが落ち着いてからゆっくり瞼を開けてみたが、眼に見える光景には見覚えがなく、視覚が機能していてもそれが認識に結びつかなかった。眼が覚めた瞬間、自分のいる場所に見覚えがまったくないと人はとてつもなく不安になり、危険とさえ思えてくる。美波もそうだった。視界が焦点を結び像を描く、白くのっぺりした天井とシルバーに光っているポールタイプのカーテンレールと薄いライトグリーンをしたカーテンの上部が見えて、病院の診療室めいてみえたが実際に診療室だった。

眩しくて眼を光から避けようと視線を下げると薄いライトグリーンで視野いっぱいになった。じゅわじゅわと浸透するように居残る痛みを揉みほぐしたかったが手を顔まで持ってくるのが億劫で、美波はしかめた表情を作るときみたいに顔の筋肉を動かしてその代わりにしようとした。
137 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:27:47.10 ID:4YLo7u+WO


下村「あっ、すみません、だれか」


美波の表情の動きに気づいた下村は、首をまわしてカーテンの向こうに呼びかけたが、だれかがやってくる気配はなかった。下村がキョロキョロと医師か看護師を探しているあいだに、美波の意識は記憶と結びつき、爆発的な化学反応を起こしたみたいに横たわっていた身体が跳ね起こした。


美波「えりっ、慧理子は!?」


勢いよくベットから落ちそうになる美波を下村が受け止めた。肩を押さえてなだめながら美波をベットにもどす。


下村「落ち着いてください、妹さんは無事です」

美波「どこですッ?」
138 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:28:31.52 ID:4YLo7u+WO

美波は妹の姿を求めて首を大きく動かした。カーテンの向こうを透視しようとするかのように目を強く細めている。


下村「山梨との県境のあたりで発見されました。救急車で近くの病院に搬送されて、いまは状態も安定しています」

美波「山梨……」


美波はほっとしてベットに倒れこんだ。そこへちょうど看護師がやってきて意識が回復した美波の状態を確認した。とくに問題はなく、額にちょっとした痣があるくらいで、その痛みも徐々に引いていった。


下村「慧理子さんは搬送先の病院で一日経過を観察したあと、こちらに移送されるそうです」

美波「よかった、ほんとに……」


安堵のため息が言葉になったかのようなひとりごとだった。
139 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:29:23.82 ID:4YLo7u+WO

下村「新田さん、お体は大丈夫ですか?」


下村の確認に美波は頷いて答えようとした。ベットの隣に座っているだろう下村に目を向けてみると、下村は黒いスーツと白いシャツという格好ではなく、カジュアルで安っぽい半袖のチェックのシャツを着ていた。


美波「その服……」

下村「これは、その、汚れてしまったので……」


誤魔化そうとして誤魔化しきれてないしどろもどろの答えを聞きたかったわけではもちろんなかった。できれば記憶に頼らず遠回しな問いでほんとうのことを知りたかった。それが美波の無意識だった。


美波「怪我はなかったんですか?」

下村「私がですか?」
140 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:30:21.06 ID:4YLo7u+WO

下村は不思議そうに美波に問い返してきた。その態度が自然なものか装われたものか、美波には判断できなかった。後者だと思うのだが、自信がない。病室で下村に起きたことは鮮明に記憶しているが、その鮮明さ故に間違った記憶ではないのかと不安になってくる。記憶のなかにいる死んだ下村と、いま美波の目の前にすわっている下村はその実在感において、ほとんど遜色がなかった。間違い探しをしているようなものだが、二つの光景は似ても似つかない。ただリアリティにおいて、記憶は現実と同じレベルの強度を持っていた。

診療時間を過ぎた院内は、静かで寂しげだった。ときおり通路に移動する看護師の足音が聞こえるくらいで、患者たちはおとなしく、医療機器は無機質な音を出している。時刻は午後五時半をまわり、病室での出来事から三時間が経過していた。


下村「今回の事件についてですが、亜人管理委員会の調査案件となりました」


気を取り直した下村は美波の状態が落ち着いたと判断したとき、つとめて事務的な口調で言った。
141 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:31:25.58 ID:4YLo7u+WO

下村「事件に関するあらゆる情報に亜人管理法が適用され、マスコミ等第三者に口外することは禁止されます。もし口外すれば刑事罰の対象になる可能性も発生します」

美波「慧理子を誘拐した犯人は亜人だっていうんですか?」

下村「お答えすることはできません」

美波「あの佐藤という人がやったんですか?」


下村が驚いて眼を丸く見開いたのを美波は見逃さなかった。美波は黙ったまま視線を下村にぶつけた。睨み合いというには、下村の視線は同情的過ぎた。しばらくしてから下村は口を開き、静かに言った。


下村「亜人管理法に違反し情報を漏洩した場合、最悪だと懲役刑が科せられます。いいですか、事件のことは決して話さないでください」

美波「それは脅しですか?」

下村「忠告です」
142 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:32:30.30 ID:4YLo7u+WO

美波は身体をベットの上に起こしたまま黙り切っていた。美波は下村の送迎の提案もすげなく断ると、さっきからシーツを強く掴んでいる自分の手に視線を落とした。


下村「では、あなたのプロデューサーに迎えに来るよう連絡します。いいですね?」


美波は返事をしなかった。下村はその場から立ち去り通話可能エリアまで移動してプロデューサーの名刺を取り出したとき、タイミングよく戸崎から着信がはいった。


戸崎『まだ病院にいるのか? 別種についての詳細な報告はどうした?』


戸崎の口調はきつく、美波に時間をかけて対応している下村の仕事に苛立っているようだった。
143 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:33:15.33 ID:4YLo7u+WO

下村「いま、新田さんに今回の件に関して口外しないように忠告したのですが……」

戸崎『それはもうどうでもいい。早く合流しろ』

下村「なにか起きたんですか?」

戸崎『永井圭が捕獲された』


下村は思わず美波のいる部屋の方を見た。


戸崎『警察から受け取りが完了したらすぐに研究所まで移送し、実験を始める。きみも実験の様子を見学しろ』

下村「しかし、彼女をこのままにするのは……」
144 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:34:49.97 ID:4YLo7u+WO

戸崎『私が何を言ったか聞いてなかったのか?』


戸崎の詰問に下村は屈した。


戸崎『早く来い。捕まった亜人がどうなるか、その眼でよく見ておけ』


通話が切れた。空は暗く、あたりは灰色に染まっている。病院内の照明は必要な箇所以外は消えていて、下村がいまいる場所も暗さが増しつつあった。下村は左手に名刺を持ったままでいることを思い出した。スマートフォンのキーパッドを表示し、名刺に書かれている番号を押した。耳にあてたスマートフォンから呼び出し音が鳴り続ける。煙草が無性に吸いたかった。通路を行く看護師が下村を見やった。下村は一瞬、注意されるかと思ったが看護師はすぐに前に向き直り、そのまま通り過ぎていった。
145 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/08(土) 21:35:21.72 ID:4YLo7u+WO
今日はここまで。
146 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/04/11(火) 00:14:45.01 ID:hkrJS7f6o
今回も良かった
147 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/04/13(木) 22:16:47.16 ID:CpHkdxOxO
読むだけで緊張してきた
148 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:33:42.46 ID:5HbT9nK2O
4.待って、行かないで


死の残酷さは、臨終の現実的苦痛をもたらしながら、真の終りをもたらしてくれぬことにある。ーーフランツ・カフカ「八つ折り判ノート」

首の出来る所はただ一ヶ所ほかない
ーーギルバート・キース・チェスタトン「秘密の庭」


永井圭は山梨県で捕獲された。その足取りは誘拐された慧理子の携帯電話から捕捉された。誘拐以降、慧理子の携帯が一度だけ使用されたとき、基地局から通話先のエリアが特定され、そのエリアが永井圭の現在地と推測された。

戸崎はその地域のどこかで永井圭と帽子が接触し行動を共にするだろうと予測していたのだが、警察の捜索が開始される前に永井圭は勝沼分署の前で意識不明で倒れているところを発見拘束され、同日中に都内にある研究所に移送された。戸崎は帽子がなぜ永井圭をこちら側に差し出すような真似をしたのかその意図を掴みかねた。帽子と永井圭が接触したと思われる神社で神主の惨殺死体が発見されたのは、永井が研究所に向けて移送されてから数時間経った後のことだった。

研究所の前には当然ながら大勢の報道陣が詰め寄かけていたが、この集合にはもうひとつの極があって、美城プロダクションの前にも彼らのざわめきと光源が群れを成していた。弟の捕獲について新田美波から何らかのコメントをもらうことが彼らの関心であり目的でもあったのだが、その可能性がほとんどないことにプロダクション前にいる報道陣たちは薄々感づいていた。美波はプロダクション所有の女子寮にいて、この女子寮の所在地は外部の人間には当然ながら明らかにされていない。
149 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:36:35.60 ID:5HbT9nK2O
美波はラウンジでテレビに見入っている。まわりには寮に住んでいる美波より少し年下の女の子たちがいて、ここにいてもいいのかそれとも立ち去るべきなのかわからないといったふうに少し距離を取っていた。いちばん近くにいるみくにしても、美波の視界に入らない位置に腰を下ろしている。

美波の視線はずーっと真っ直ぐ、テレビを貫くように向けられていて、まるで山頂から向こうの山頂の青く霞んだ景色の中にいる動くなにかを探し出そうとするかのように画面を凝視している。あるいは、念じることで遠く離れた場所に何かの力を作用させようとするかのように。

レポーターが永井圭が捕獲された状況を説明している。彼女の背景には研究所の白い外壁がぼんやりと浮かんでいて、スクリーンのように投げかけられた光の中に過る人々や機器や車の影を映している。ざわめきの波がレポーターの左方向ーー画面を見るものには右側ーーからやって来て、彼女のところまで到達したとき、レポーターは首をめぐらし振り返った。警察車輌に先導された黒塗りのワゴン車が群がる記者たちをゆっくりとだが、確実に無視の態度をあらわしながら走行してきた。研究所の警備員にとって、カメラのフラッシュはほんとうに厄介だった。次から次へとまるで失明を狙うかのように瞬く光を頭を下げて避けながら、押し寄せてくる人波を懸命に押し戻す。研究所のゲートが開き車が敷地内に入っていく。レポーターはその様子を説明しながら、あの車に永井圭が乗っているのでしょうか、とわかりきったことを口にする。
150 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:37:20.88 ID:5HbT9nK2O
美波は画面を凝視したまま、自分自身の肉体を締め付けるかのように身体を強張らせた。期待というより願望していた光景とテレビからもたらされる映像はまるで違っていた。リモコンでチャンネルを変えると、別の放送局が別の角度で同じ中継映像を届けている。カメラはゲートのすぐ横から記者の群れを掻き分けて進むワゴン車を見下ろしている。カメラは赤いテールランプを追いかけてパンしたが、その映像はスタジオに返され見れなくなった。美波はまたチャンネルを変えた。まるで機械を演じているかのような動きだ。美波は作動する部分と固定した部分を身体で分割しながら、いまこの夜だけでなくその後何日も同じ動作を反復していた。
151 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:39:40.17 ID:5HbT9nK2O
永井は意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いの感触からそれが包帯であることがわかり、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることがだんだんとわかってきた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井がもがき身を捩るあいだ、自分の喉から出てくる音が声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「トラック事故の現場に残された左腕のDNAと一致」

研究員2「間違いなく亜人だ」

研究員3「よし、始めよう」


仰向けに横たわる永井の上に研究員たちの声が降ってきた。そのうちの一人が永井の左側に回ると、手に持った機器のスイッチを入れた。きいぃぃんという恐怖を掻き立てる高音が痛みを伝えるように響いた。研究員はそれを永井の腕にあてた。皮膚と包帯が同時に裂け、筋肉が千切れた。手に持てるサイズの電動の丸のこだった。血が撒き散らされないように止血を施されていたが、それでも、血管を切断したときは火花のように赤い血が飛んだ。苦痛にもがく永井をまるで存在していないみたいに研究員は腕の切断を続行した。やがて、刃が骨にあたった。研究員は丸のこに体重を掛けて回転する刃を骨に食い込ませた。しばらくそのままの体勢で力を入れ続けていると、すとんと底が抜けたかのような感覚が研究員の手に伝わった。


研究員3「これ、岩崎さんに送っといて。再生前のと見比べるらしい」


152 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:41:23.49 ID:5HbT9nK2O
切断した左腕を渡してから、研究員は丸のこを金切り鋏に持ち替えた。


研究員3「今度は脳の活動を観察しながらだ」


研究員は今度は右側にまわった。右手の包帯を解くと鋏を開き、中指に刃をあて、研究員は脳波モニターに視線を向けた。


研究員3「痛みに対する反応の仕方で、これまでに何回死んだかをおおよそ予測できる」


研究員は鋏を閉じた。ぱちんと刃と刃が噛み合わさる音がして、永井の指が切り落とされる。研究員は慣れた手つきで剪定するかのように永井の指を落としていった。五本の指を落とす鋏の音はリズム良く、軽快とさえいって良いほどだった。切断のあいだ、永井の意識はずっとあった。


研究員3「数回程度しか死んでないな……次は」
153 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:42:34.06 ID:5HbT9nK2O
背後からがりっという硬く耳障りな音がして振り向くと、手術室の中を見通せる見学室とのあいだに設置されたガラスに爪痕のような四本の線があった。このガラスは強化ガラスだった。ガラスの向こうにいる人物は影になっていて、そのうちの一人の腕が上がりスピーカーのスイッチを入れた。『どうした?』という声に研究員は聞き返した。


研究員3「いや……ガラスの傷、最初からありましたっけ?」


『ああ、最初からあったが?』


スピーカーの声はとぼけるような調子だった。


研究員3「そうですか。すみません」


研究員はとくに気にするでもなくふたたび実験に戻った。ガラスの向こうの見学室では亜人管理委員会のメンバー、もっとも高齢の岸博士を中心とする上位の研究員三名、自衛隊のコウマ陸佐、Nisei特機工業の石丸武雄、戸崎と下村も合わせて合計七人が見学室から永井圭の実験の様子を観察している。研究員たちが次々に感嘆の言葉を口にするなか、戸崎は冷ややかに眼を細めながら下村に聞いた。


戸崎「見えるか?」

154 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:43:44.20 ID:5HbT9nK2O
下村の視線の向いている場所は、研究者や自分を計るかのように見つめる戸崎とは別のところだった。実験中の研究員たちの手前、だれもいないはずの空間に下村は眼を集中させている。


下村「……はい」

下村「います」


下村の眼には、黒い幽霊が映っていた。永井の幽霊の形状は下村や田中と違ってプレーンといっていいほど無個性で、頭部の形や手は人間のそれと良く似ていた。


岸「この傷……超音波か何かか?」

研究者1「違う。帽子襲撃現場には足跡のようなものが残されてたんだぞ。それはどう説明する」

コウマ陸佐「はっ、足の生えた幽霊でもいるってのか?」
155 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:45:07.42 ID:5HbT9nK2O
もっと痛みを与えて観察しよう、という研究者の声がして、実際にスピーカーから指示を与えていた。黒い幽霊は何もかもに無関心な様子でぼおっと突っ立ったままで、ぼそぼそと呟きを発している。


戸崎「なぜだ……」


戸崎は滞りなく進む実験の様子に不満があるように言った。


戸崎「なぜ永井圭は、あの研究員達を攻撃しない……ガラスに傷を付けてから、あまり動きが無いように見えるが?」

下村「……もしかしたら自覚してないのかも」


下村はすこし考えこんだあと、戸崎を見上げて答えた。


戸崎「無自覚のほうが本能的に攻撃しそうな気がするが……」
156 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:46:04.42 ID:5HbT9nK2O
下村「いま自覚してないとすると『幼少期からずっと』ということになります。長期間干渉しあわないまま過ごした結果、彼と黒い幽霊のリンクは、極めて不安定なのかもしれません……例えるなら、電波状況の悪いところで通話する感じでしょうか。ですから、いずれは彼らを攻撃する可能性が……」

戸崎「いまは?」

下村「え?」

戸崎「いまはどこで何をしている」

下村「いま、ですか……その……」


戸崎は口を閉ざし、冷たく沈黙したまま下村の答えを待った。下村はやがて遠慮がちに言った。


下村「戸崎さんを、見てます」


一瞬、戸崎の眼が丸くなり驚きを現した。首を少し後ろに引き、ガラスと眼の距離が離れた。
157 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:47:19.12 ID:5HbT9nK2O

戸崎「……見てる……か……」


だがすぐに戸崎の視線は細く鋭いものに戻り、透明なガラスの向こうの戸崎には見えない幽霊に、忌々しいものを見つめるときのような侮蔑と憎しみに染まった眼を突きつけた。


戸崎「偉そうに」


戸崎はぼそりと呪詛の言葉を吐いた。


戸崎「お前らのおかげでどれだけ私の人生設計が崩れたか……わかってるのか……?」


下村は戸崎の言葉を視線を床に落としたまま聞こえないふりをしていた。そうすれば戸崎に見つからないとでもいうように頭を下げてじっとしていたが、儚い希望をあっさり無視して戸崎は下村に声をかけた。


戸崎「よく見ておけ、下村君」


下村の肩がびくっと震えた。
158 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:48:28.22 ID:5HbT9nK2O
戸崎「きみがここでそうしていられるのは、私が秘密裏にかくまっているからにすぎない。しっかり働けよ。さもなくば……きみもああなる」


下村は頭を上げられなかった。じわじわと恐怖によって玉のような汗が滲んできた。実験室の音声がスピーカーから聞こえてくる。実験道具が出す高音と肉が掻き分けられる湿った音、低く響き渡る苦痛の音声が恐ろしいハーモニーを生んでいた。


戸崎「情け容赦無しだ」


戸崎は無感情な眼で永井を見据えながら言った。永井は左腕と右手の指が全て切断され、両脚に釘が打たれて赤い血の筋が包帯に染み込み手術台に落ちていた。顔に巻かれた包帯は涙や鼻水でべたべたになっていたが、永井自身の嗚咽や痙攣はピークを過ぎだんだんと間隔が広くなっていった。永井の腹部が割られている。開腹手術の真っ最中だった。永井の臓器は活動する様子を外部に晒しながら、灯りに照らされて健康的なピンク色に艶やかに光っていた。
159 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:49:31.08 ID:5HbT9nK2O
研究者1「反応がにぶくなってきたな」

研究者2「リセットするか」


見学室の上級研究員がふたたびスピーカーを入れ、指示を出す。


『よし、一度殺して休憩にしよう』


研究員3「はい」

研究員1「ふう……トドメよろしく」

研究員2「お先」

研究員3「お疲れ様です」


残った研究員が先の尖った金属こてを頭の上まで持ち上げる。こての位置は永井の胸部の真上にあった。床や手術台の上に滴り落ちた永井の血はまるで火のように赤く、そこから黒い物質が煙のように立ち上り出していることに研究員は気がつかなかった。
160 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:51:07.07 ID:5HbT9nK2O
下村「あっ」


下村がそれ以上反応を見せるのを戸崎は睨みつけることで抑えた。実験室内の黒い幽霊が永井の感情に感応したのか、研究員の背後へゆっくり近づいていく。研究員は狙いを正確に定めようとこてを持ち上げたまま動かない。黒い幽霊は研究員に近づきながら腕を上げ、手で鉤爪を作るように指を折り曲げた。下村は研究員が引き裂かれると思い、眼をつむった。瞼の裏の暗いスクリーンの中に慧理子の病室での出来事が今このときのようにありありとよみがえる。戸崎の眼は冷徹に前に向けられたままだ。

黒い幽霊が腕を振り抜いた。と同時に幽霊の身体の構成が根本から分解されたのかというように幽霊の節々が瞬時に崩壊し、研究員はそのあおりを食らったが傷ひとつ負うことはなかった。


研究員3「風?」


研究員が室内にも関わらず風が吹き付けてきた現象の原因を求めるように腰をまわして大きく振り返った。しばらくのあいだ部屋の中のあちこちに視線をやったが結局何が原因だったのかはわからない。もしかしたら気のせいだったのでは、と研究員は思い始めたとき、見学室からまたリセットの指示が来た。研究員は気を取り直し、永井の胸部に金属こてを真っ直ぐ突き落とした。
161 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:52:16.95 ID:5HbT9nK2O
永井はふたたび意識を取り戻し眼は光を受容したが、視界は白一色に染まり何も見えなかった。眼に覆いをかけられているせいだった。瞼に触れる覆いが包帯であること、さらに全身に包帯がきつく巻かれていることを今度はあらかじめ知っていた。腕に力を入れてみたが、すこし震えただけで上がらない。全身が手術台の上で固定されていた。永井はもがくのやめこれから到来する苦痛に呼吸を荒くしていると、自分の喉から出てくる音がやはり声でなくなっていることに気がついた。喉はただの風穴になっていて、隙間風のような空気が漏れ出てくる音しか出さない。声帯が切り取られていたせいだった。


研究員1「よーし、後半戦いくぞー」


ふたたび研究員の声が上から降ってきた。


研究員3「上の命令はとにかく痛みを与えろだと」

研究員2「何の実験ですかね」

研究員1「さあな。おれらは従うだけだ」

研究員3「さてと……歯からいくぞ」


永井の喉から洩れる音は声とはいえないほど掠れてくもぐっていたが、それでも苦痛に苛まれている者が発する悲痛な音声であることは誰の耳にもあきらかだった。

実験室の使用を示す赤いランプはそれでもずっと灯り続け、掠れた空気の洩れる音も点灯と同じだけ鳴り続けていた。
162 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:53:38.23 ID:5HbT9nK2O
十日後、雨がしつこく篠突いている中、今日も各報道局のレポーターがレインコートを羽織りカメラに向かって報道している。

この日はアメリカからオグラ・イクヤ博士が来日・視察のために研究所を訪れる日だった。生物物理学者であるオグラは九九年に渡米し、同地で亜人研究トップクラスの地位を得ていた。亜人研究は各国競争状態で、基本的に他国の亜人事情にはノータッチが原則なのだが、日米の一部の研究機関は協力関係を結んでおり、日本で新しい亜人が発見捕獲された場合オグラ博士が視察することになっている。

博士を乗せた車両が研究所のゲートを通り抜けるあいだ、レポーターたちはこれらの情報を説明していた。ゲート周辺は幾つもの光源が寄り集まり、ひとつの大きな光のドームを作っていた。そこでは雨筋が白い糸となり、垂直機織でもしているかのように上から下へと送られ続けている。ゲートのすぐ横には二メートル程の高さの植込みが光を遮る壁となっていて、黒い葉を雨で揺らしながら敷地の内と外を区切るフェンスを光から遠ざけていた。
163 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:54:58.04 ID:5HbT9nK2O
雨滴はフェンスの網目に沿ってしとしとと植込みの向こうに広がる草の上に流れていて、それを目で確認するのは暗闇のせいでかなわない。唯一その様子を見て取ることができるのは敷地内を巡回する警備員がライトでフェンスを照らしたときだけだ。ライトは防水式LEDタイプのマグライトで直線的な黄色の光線を遠くまで延ばして草の上に落ちていた。光線の長さにつられるように、光が当たっている草の影も長く延びている。光線はフェンスの方向を照らしていたが、地面には網目模様の影はうつっていなかった。フェンスは四角く切り取られていて、そのすぐ横に首から顎、そして顔面にかけて深い裂傷を負った警備員が倒れていた。警備員の眼に雨が当たる。その眼は光を失ったまま、雨滴に無反応で瞼が壊れたガレージのように開いたままだった。


佐藤「絶好の反逆日和とはいかないなあ。雨の中じゃ黒い幽霊の操作はしにくくなる」


警備員の死体の横に田中の幽霊が立っていた。警備員の首を切り落とすはずだった黒い幽霊の右腕はすでに消滅していて、幽霊は片腕にもかかわらずなにか他に気になることでもあるかなようにブツブツ独り言を切れ目なく続けている。

佐藤はナイロン生地のボストンバッグを開けると中からこれから起こす出来事に必要なものをを取り出して、田中も佐藤といっしょにそれらの銃器を身につけていった。装備にまだ時間のかかる田中を佐藤はいつものように微笑みながら待っていた。
164 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:57:06.02 ID:5HbT9nK2O
佐藤「田中君は作戦C、オグラ博士の誘拐担当! 私は作戦B、永井君の救出担当だ!」


オートマチックの拳銃を腿のホルスターとコンバットベストに収め、動作確認をしたショットガンを手に持った田中に向かって佐藤は言った。二人はズボンの裾を撫でる草むらから水たまりが光るアスファルトへと歩いていった。佐藤は躊躇いのない歩みで水たまりを平然と踏みしめたので、水跳ねの音が強い雨音の中でも耳に届いた。降りしきる雨はふたりのコンバットベストに染み込み、身体に引き寄せ持った銃器を黒く輝かせた。


佐藤「さて、どうすれば城を落とせるか」


二人が分岐するポイントまで到達したとき、出し抜けに佐藤が口を開いた。田中が視線をやると、佐藤は内部を透視するかのように研究所に視線を固定している。帽子の庇からは雨が粒となって尾を引きながら垂れ落ち、後ろでは吸い取りきれなかった雨粒から首を伝って佐藤のシャツの襟の中へ流れていた。
165 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 20:59:35.23 ID:5HbT9nK2O
佐藤「単純! 敵の想定する火力を上回ればいいんだよ。いま私たちが持てる最大火力で、圧し潰す」


田中は自分達の重装備を見ながら、武器を調達したとき佐藤が言ったことを思い出していた。田中はトランクに積み込まれた銃器の量に、こんなリスクを冒してまでして永井圭を助ける価値があるんすか、と佐藤に尋ねた。永井圭を人間側に差し出したのは、佐藤が仕組んだことだった。人間への憎悪を育み、殺人へのハードルを下げさせたうえで恩を売り仲間にする。少なくとも田中はそのような目論見だと考えていた。佐藤はトランクを閉めながら田中の疑問に、ないよ、とあっさりした調子で答えた。

最優先事項じゃあないんだよ、永井君の救出は。そのように言う佐藤に、田中は、やっぱりこの人はよく分からない、と正直な気持ちを起こした。


佐藤「小細工などいらない」


そう言う佐藤の声はあのときよりいくらか楽しそうだった。それについては田中も同様で、銃器の冷たい感触に密かに興奮していた。二人は別れ、田中はオグラ博士がいる地下の駐車場へ向かって歩いていった。佐藤も自分が担当する侵攻箇所まで歩き始めた。ストラップの付いたM4のグリップが右手で押さえられ、下を向いている。ストラップは左手にも握られていて、掌の中で折りたたまれ握られているそのストラップも火器に付けられたものだった。歩くたびに前後に揺れるその火器は、太い筒の形をした対戦車用の携帯火器だった。
166 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:00:34.64 ID:5HbT9nK2O
研究所内を警備する警備員の数は永井が移送された日から通常の倍に増員されていて、警備室の監視モニターにはいたるところに配置され、警戒を強めている警備員が映っている。永井圭が亜人と発覚してから、研究施設と契約している警備会社は社員に麻酔銃の訓練を受けさせた。

麻酔銃の使用には銃砲所持許可が必要で、麻酔薬として麻薬に指定されているケタミンも使用するので麻薬取扱者の許可も同時に必要になってくる。現在の日本の法律では、麻酔銃を取り扱えるのは獣医師くらいしかいないのだが、亜人管理委員会を擁する厚生労働省はこの違法を黙認していた。

警備室の近くにはガラス張りの喫煙室が設けられていて、そこでは連日の出勤に疲労する四人の警備員が一時のリラックスを求めて煙草を吸っていた。四人の中でいちばん若い警備員は入ったばかりで、いきなりの特別出勤と違法行為にまだ折り合いがつけられないようだった。
167 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:01:43.21 ID:5HbT9nK2O
警備室のモニター画面の一つがパッと明るくなった。研究所の東側の入口に設置されている人感センサーが反応し、ライトが灯ったためだった。そこには一人の男が黄色い色をした光の円の中心に立っていて、なにか筒状の物を肩に担いでいる姿が映っていた。警備室近く東入口の喫煙室でタバコを吸いながらたむろしていた四名の警備員は、雨の中にいる男の姿を正面から見た。男は帽子を被っていた。佐藤だった。

佐藤が肩に担いでいる無骨な筒はAT4と呼ばれるもので、直接の見覚えがなくても警備員たちはそれが携帯式の対戦車火器であることがわかった。発射音による空気の弾性波が津波のように轟き渡り、火器後方から塩水が噴き出すと成形炸薬弾が東入口で爆発した。火と金属片と衝撃波が警備員たちを襲った。黒い煙といっしょに吹き飛ばされたガラスが通路を満たし皮膚に突き刺さる、壁や床を這いまわる火が倒れて這いつくばって苦しんでいる警備員たちの背中や腹と床との隙間に流れ込み、オレンジ色をした火が流された赤い血と混じって強く発光した。火が彼らを苛む、皮膚と筋肉と血管を焼いて焦がす。
168 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:03:20.57 ID:5HbT9nK2O
佐藤は無反動砲を濡れた地面に投げ捨てると、M4アサルトカービンを火の中へ向けてフルオートで撃ち始めた。銃声が警備員たちの絶叫を打ち消した。銃弾は熱せられた空気の中を飛び回った。残っていたガラスを割り、穿った壁に埋まって粉塵を飛ばし、天井のライトを吹き飛ばし、床を削り取って火の中に飛び込み、警備員の身体を貫通し、爆発で穴が空いた壁の向こうの警備室まで到達した。銃弾は様々な物体とぶつかり、物体の素材ごとに異なるあらゆる音が警備室周辺の空間に乱れ鳴っていた。

佐藤は銃弾をばら撒きながら前進した。狙いはつけず、通路の左の壁から右の壁まで線をなぞるようにして銃口を動かした。帽子に当たる水滴が、空から落ちてくるものから天井に備え付けてあるスプリンクラーによって散水されたものに変わった。ガラス片を踏むぎしゃりという音がした。爆風で吹き飛んだ警備員たちに銃弾は容赦無く降り注いいだ。四人の警備員のうち二名はもう事切れていて、身体に空いた穴の数が増えていってもまったく気にしてなかった。水に浸された床にタバコが数本浮いていて、そのすぐ側に皮膚の焦げた死にかけた警備員が蹲って身をよじらせていた。佐藤は歩きながらその男の頭に弾を撃ち込んだ。水と煙と火の中を抜けると、通路の奥で片腕が千切れた警備員が炸薬弾からも銃弾による大数の法則からも奇跡的に生き延びて壁に寄りかかって懸命に息を吸っていたので、佐藤はいちばん若いその男の胸部と頭部に二発一発と銃弾を叩き込んだ。廊下を左に折れて警備室に入っていく。部屋の中は廊下の状況ほど酷くなく、煙と熱が苦しいくらいで、熱気のほうはスプリンクラーが冷まそうとしていた。軽傷の警備員がモニターの向こうに話しかけている。佐藤はその男の頭部に照準を合わせた。銃を持ち上げたときの気配と音でその警備員は自分に狙いをつける佐藤を見ることになった。佐藤は眉間を撃ち抜かれた死体を跨いでモニターに顔を寄せると、画面の向こうにいる戸崎に向かって、やあ、と話しかけた。


佐藤「そこにいるのかな? トザキ君」

169 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:04:33.76 ID:5HbT9nK2O
佐藤はさの音節を濁らせ、冗談でも言うみたいにわざと読みを間違えた。


佐藤「私がなぜここに来たかまだわかるまい。だが、今夜日本の亜人事情は大きく覆る」


佐藤の眼が薄く開いた。降り注ぐ水滴が白い条を何本も描くなか、佐藤の眼が刺すような光を放った。


佐藤「そう宣言させてもらうよ」


モニターが黒くなった。沈黙する画面を苦々しく見つめる戸崎に、コウマ陸佐が詰め寄った。
170 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:05:39.59 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「戸崎、どう対応する! 永井圭は初日以降、別種の力を見せず究明はまったく進んでいなんだぞ!?」

戸崎「警備を大幅に増やしてます」


戸崎の表情は締め付けられたかのように動かなかった。


戸崎「麻酔銃が一発当たりさえすれば……何十人犠牲になろうと、眠らせさえすれば、我々の勝ちです」
171 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:06:26.57 ID:5HbT9nK2O
コウマ陸佐「麻酔の有効性は認めるが、そこまでして殺害を回避したい理由は何だ?」


コウマ陸佐は多少落ち着いて尋ねた。


戸崎「強化ガラスなどで守られているわけではないこの部屋では、我々にまで危険が及ぶ可能性……」


戸崎は陸佐に顔を向けた。うって変わって、その表情は苦渋に滲んでいた。


戸崎「亜人の殺害は『中村慎也事件』……つまり最悪の事態の引き金になりかねないと考えられているからです!」
172 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/04/23(日) 21:07:21.02 ID:5HbT9nK2O
スプリンクラーはまだ水を撒き続けていた。研究所の三階、サンプルの保管室へと繋がる通路の前に、十五名の警備員がピストルタイプの麻酔銃を構えて侵入者を待ち構えていた。警備主任が、順番に撃てよ、過剰投与は結果的に殺害になりかねない、と荒っぽく声をあげる。主任は保管室の前、つまり最も後方にいた。前方にいる警備員たちの手が震えていた。さっきから、ぱん、ぱん、ぱん、と散発的に、ときには連続して発砲音が聞こえてきたからだ。その音はシャッターに阻まれてこもって聞こえたが、明らかに保管室に近づいていた。ごん、という金属を金属で思いっきり叩いたかのような音が響いた。前方の警備員たちの身体がびくっと跳ねて、一人が麻酔銃を手から落としそうになる。銃弾が分厚いシャッターに当たった音だった。それから少しの間、銃撃は止んで、スプリンクラーの散水音しか聞こえなくなった。片膝をついて麻酔銃を構える若い警備員が、必要以上に力を入れて麻酔銃を握り直す。防火シャッターは、一瞬震えたかと思うと、ゆっくりと左右に扉を開けてゆく。そこから見えるのは同僚たちの死体だ。皆、頭か胸を撃ち抜かれ、床に倒れている。床を浸す水は血の赤色を薄めて、警備員たちのいる通路に向けて洗い流そうとしている。シャッターすでに半分以上開いたが、侵入者の姿はまだ見えない。先頭にいる警備員は彼から見て右側のシャッターのすぐの横の床に近いところに、小さな黒い穴がぽつんとあるのに気がついた。その警備員は眉間を撃ち抜かれ、死んだ。


佐藤「いくよー」
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