このスレッドは950レスを超えています。そろそろ次スレを建てないと書き込みができなくなりますよ。

新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

719 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:17:38.18 ID:jiMS7eDVO

 そう言って、佐藤は頭ひとつ投げてよこした。ごろごろ転がってきた。完全な球じゃないから、ときどきぽんと跳ねたりした。眼の前にやってきたそれは長い亜麻色の髪をなびかせ、ぴたりと止まると、その顔を見せた。


 美波の顔をしていた。


 自分がいまいる建物が崩壊しつつある、足場がぐらつき、コンクリートが崩れる轟音と窓ガラスが割れる音、そして吹きすさぶ狂暴な風の音が耳を襲った。

 それらの音が自分の喉から絞り出された絶叫だと気づいたとき、佐藤は首のない死体を引き摺ってビルの屋上から飛び降りようとしていた。

 死体は夏用の学生服を身にまとっていて、首の断面から黒い粒子が湧き出していた。


 新しく出来た永井圭の顔が、首だけになった美波を見た。
720 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:19:28.54 ID:jiMS7eDVO

 アナスタシアは眼を覚ました、汗びっしょり、三十秒してようやく眼が自分の部屋の天井を認める、あまりの悪夢に泣きたくなる、息を吐く、ベッドから這い出ようとする、パジャマがべっとりしている、冷たい感触に嫌な予感をおぼえる、掛け布団をめくる、人型の染み、地図にはなってない、安堵ともに気が抜ける、落ちるようにベッドから出る、しゃがみこみベッドの縁に頭を預ける、が二度と眠れそうな気がしない。

 頭を沈み込ませていると、頸椎に押され皮膚が伸びてゆく感じがした。アナスタシアは額にマットレスの反発を感じつつ、頭のことを考えた。額から後頭部にかけての丸み、そこから首の付け根までを頭のかたちとして意識する。首の後ろの皮膚を張り出している首の骨、ここを絶たれると亜人も死ぬ。正確には断頭され、その頭部を回収範囲外に置かれたまま復活すると新たに頭部が作られる。そのとき、断頭された方の頭部、生まれたときから存続してきた意識は死をむかえる。

 断頭のことを聞かされたとき、アナスタシアは「断頭=死」という永井が認識している等式をイメージとして感じ取ることができなかった。運転席で話を聞いてる中野も同様で、「全然わからない」と全然わかってなさそうな表情で言った。
721 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:20:45.91 ID:jiMS7eDVO

 永井は宗教的な意味での魂とかスワンプマンの思考実験などといった方向から説明するのを一瞬であきらめ、中野とアナスタシアのスマートフォンを頭に見立てて説明することにした。


永井「これをもともとのおまえらの頭部だと思え」


 永井は右手に中野のスマートフォンを掲げながら話はじめた。おまえらと言いつつ、永井は中野にもアナスタシアにも視線をあわせず正面を向いたままだった。


永井「断頭時、この頭部が回収範囲の外に出たとする。新しい頭部がつくられ、まったく同じ記憶・心もつくられるが、離れた頭部から意識が抜け出して新しい頭部に移るわけじゃない。新しい人格は生きているが、離れた頭部の人格は永眠している。つまりこっちがこうなると」


 そこまでしゃべったところで、永井は車の窓から中野のスマホを投げ捨てた。


中野「え? 投げた?」

永井「これが新しくできる」


 今度は空いた手でアナスタシアのスマホを掲げる。
722 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:22:04.22 ID:jiMS7eDVO

中野「おれのケータイ投げたの?」

永井「そうだけど」


 「なんで投げたんだよ」と叫びつつ中野は運転席から外に飛び出した。アナスタシアが前部座席で繰り広げられている滑稽なやり取りに呆気にとられていると、スマートフォンがひゅるひゅると縦に回転しながら眼の前にやってきた。


永井「機能的には同じだが、存在的にはまったく別。そのスマートフォンと同じだ。機種変更する前のものと同じデータを保存し、同じ機能を果たすけど、構成している物質はまったく別。スワンプマンが定義的に歴史性を持たないのと同じ」


 アナスタシアは投げ返された自分のスマートフォンを見つめた。蚊を叩くようにパチンと手を合わせて受け止めたそれは、一月ほどまえに買い換えたばかりの新しいスマートフォンで、永井の説明を反芻しながら眺めてみると、どこか見慣れない、いつも使っているものにかたちは似ているけど違和感を放つ物体のように思えてきた。

 もし切り離されたら、切り離されたことに気づいているのは自分だけになる。亜人にとって断頭は、物理的な切断にとどまらず、時間的な切断でもあり──誕生したときから記憶を保存し、細胞を入れ換えながらおおきくなって感情を育んできた器官が経験した年月の切断──、わたしは死んでいるのに、周囲の人間はそのことに気づかない。友だちも家族も気づかない。わたしの死を知っているのは、わたしだけ。それは、あまりにも絶対的な孤独だと、アナスタシアには思えた。
723 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:23:33.66 ID:jiMS7eDVO

中野「おい、ケータイ見つかんねえぞ」


 中野が助手席の側に寄ってきて、永井に話しかけてきた。


永井「あるだろ、そこらへんに」

中野「おまえも探せよ」

永井「めんどくさい……」


 永井は自分のしたことなどすっかり忘れたかのように気だるげにぼやいたが、シートの背もたれに背中を深く預けた姿勢でポケットからスマートフォンを取り出すと、アスファルトの上だかどこかに転がっているはずの中野のスマホに電話を掛けてみた。

 着信音が鳴り響いたが、位置まではわからない。画面が光っているはずなのたが、射すようなブルーライトの眩しさも眼に写らなかった。結局、三人は車から降り(アナスタシアがなんとか永井を降ろさせた。そのときの永井は渋々としていた)着信音に耳をすませるとその音はこもって聴こえ、音がするところに近づくと側溝を覆うぶ厚いコンクリートふたの隙間から光が洩れ出していることにきづいた。

 中野はさっそくふたを持ち上げにかかった。ふたの重量はかなりのものだったが、持ち上げられないこともない。だが、ふたの持ち手、つまり隙間は片手の指が四本入るか入らないかくらいしかあいておらず、渾身の力を込めてもふたを側溝からどかせられるほどはあがらなかった。
724 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:26:02.27 ID:jiMS7eDVO

中野「手伝ってくれ、永井」

永井「指が擦りむける」

アナスタシア「アーニャがやります」


 アナスタシアは憮然としながら前に進んだ。言い訳するにしてももっとましな説得力のある言い方をしてほしいものだというふうに態度で示しているかのようだった。

 その白くて細い指を隙間に入れるまえに、中野が「ちょっと待って」とアナスタシアを制した。ふっ、と気を抜くように息を吐き、わずかに力を抜いてから右腕に──指、手首、上腕にかけて──一気に力を込める。ふたがふたたび、さっきよりも少し持ち上がり、中野がアナスタシアに「いま!」と指示を飛ばす。

 アナスタシアが指を突っ込み、身体ごと持ち上げる。ふたがくっと上がり、止まる。少しだけしか上がらなかったが、中野が左手の指を入れ込むだけの隙間はできた。

 指からふっと重さが消える。ふたは一瞬、垂直になって静止したかと思うと、銃で撃たれた者のように後ろに倒れた。コンクリートのふたがアスファルトにぶつかったときの衝撃はすさまじく、それこそ銃声のような音を響かせた。事実、アナスタシアはその音のあまりの大きさにたじろいでしまった。
725 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:27:22.78 ID:jiMS7eDVO

 中野は膝まづいて側溝にぽっかり空いた暗闇に眼を凝らした。眼が形を判別すると、手を伸ばし闇のなかを探る。指がスマートフォンに触れる。

 側溝から取り出し、おそるおそる起動させる。パッと画面が明るくなる。傷ひとつない。中野とアナスタシアは安心と感嘆が入り交じった声をあげる。


「おおー」


 その様子を見ていた永井がこぼす。


永井「幽霊使えばよかったのに」


 ふたりして「あ」と、感心と間抜けさが混じった声を出したところでアナスタシアは顔をあげた。時計を見ると、ベッドから這い出したときより二十分ほど時間が経っていた。

 どこからが思い起こした記憶でどこまでが夢なのか、アナスタシアには判然としなかった(“断頭”のことを聞いたのはたしか、スマートフォンを窓の外から投げたかどうかはわからない、永井だったらやりかねないだけに余計にわからない)。
726 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:28:56.61 ID:jiMS7eDVO

 九月になり、すこしずつ日の出の時刻は遅れ始め、カーテンを開けてみてもまだどこか薄暗い。アナスタシアはぼおっと窓の外を眺めていると、だんだんと風景に光の量が増えていく様子が眼に映った。

 外を見ながら、アナスタシアは友だちはもうすぐ学校に行くのだろうと考えた。でも、わたしは別の場所に行く。

 友だちが死んだと告げられた日、担任にカウンセリングを勧められたアナスタシアはそれを受け、結果としてすこしのあいだ休学を許された。仕事についても同様。また精神衛生上、日中の外出が推奨され、そのためアナスタシアは言い訳やごまかしなしで毎日フォージ安全まで足を運んでいる。

 両親や仲間や友だち、プロデューサーにカウンセラーや担任が考えているのとはことなり、アナスタシアの気持ちは消沈していない。そのことでどこかしらズルをしているような後ろめたい思いはあるが、それもわずかなもの、心の大半を闘志が占めていた。

 アナスタシアは外出の準備を整える。人混みに紛れ、電車に揺られる。目的地付近の駅で降り、十分ほど歩く。到着。

 フォージ安全ビル。

 日付は九月八日、時刻は午前八時十二分。

 アナスタシアは待つ。佐藤が来るまで。


ーー
ーー
ーー
727 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:31:40.47 ID:jiMS7eDVO

「来いよ。佐藤」


 永井は佐藤に宣戦した。ミニガン・ターレットが獰猛に吼え、ヘリポートが剥がれ散り、ビルの上部が喰い千切られる。永井の身体もばらばらに吹き飛ばされる。だがその直前に走馬灯、またも時間の分割、痙攣、細かな震動の刹那の合間に存在する停止、そこに佐藤の“表情”が見えた。

 その“表情”は見たことがないものだったが、聞いたことはあった。……ベトナム、一九七六年の“プレイボール”……

 ソファに横になったまま、永井はなかば寝ぼけたまま、しかしまばたきせずにあたりを眼だけで慎重に見回した。カフカは『審判』の草稿から抹消した箇所でこう言っている。(作者は不要な箇所を抹消するわけではない)。
728 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:33:09.73 ID:jiMS7eDVO


 だれか私にこう言った者がありますよ──それがだれだったかはもうおもいだせまんけれどね──、朝目がさめて、少なくとも大体のところで、すべてのものが動かされずに、ゆうべ置いてあったとおりの同じ場所に置いてあるのを見つけるのは、なんといってもすばらしいことだ、とね。なぜといって、睡眠中と夢のなかでは、人は少なくとも見かけたところ、起きているときとはまったく違う状態にいたわけですからね。まったくその男が言ったとおりなんですが、目をあけると同時にその目ですべてのものを、いわばゆうべ置きはなしにしておいたのとおなじ場所にとらえるというためには、無限の沈着さがいることですし、沈着さというよりは、むしろ機敏さのいることなんです。ですから目のさめる瞬間というのも、一日のうちでいちばん危険な瞬間なのだ、自分のいた場所からどこかへ連れ去られて行ったりはしないで、その危険な瞬間が克服されてしまえば、人は一日じゅう自信を持っていられる、というわけなんです。


 すべてのものは永井が夢を見るまえに置いてあってところからほんのすこしも動かずそのままの位置にあった。よく見ると、平沢と真鍋のまえにあるテーブルの上にふたりが点検中の拳銃その他の装備品のほかに、拳銃を差し込んだままのショルダーホルスターが置いてありそれは中野が付けていたものだったが、いまでは肩掛けの部分が混乱して自暴自棄になった蛇のようにこんがらがって放置してある。中野は年嵩の黒服と並んでガラス窓のところに立ち、景色を見下ろしながらくっちゃべっている。

 永井はそのような変化ともいえない部屋の様子の変化を見てとると、ごろんと背中を向け、半分だけ眼を閉じた。のこりの半分は眠気に落ちてくるにまかせた。

 九月八日はこのように過ぎ去った。

 それから、五日が過ぎた。


ーー
ーー
ーー
729 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:34:30.51 ID:jiMS7eDVO

 ──九月十三日


 デスクの上にある社用のノートパソコンが警報を報せた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室で火災警報……」


 火災の検知と同時にガス噴射装置が作動し、二酸化炭素ガスがサーバー室の消化を開始した。火災の規模は小さく、火はすぐに消しとめられた。

 戸崎はパソコンを見ながら、思案した。待機を始めてから初めての異変。


平沢「被害が出るほどの規模じゃないな。誤作動ということもあるらしいしな」


 デスクに近づいてきた平沢がパソコン画面を覗きこみながら言った。

 微妙な異変だった。異変の規模こそ小さいが場所が場所だけに違和感がある。確かめないわけにはいかない。しかし大きく介入すれば、秘密裏にしていた自分達の存在が露見しかねない。どの程度の措置をこうずるか。一同は戸崎の判断を待った。


永井「みなさん、配置についてください」


 突然の指示に全員がソファに視線を向けた。永井が肘で上体を起こした格好をしている。顎が肘掛けの上にのせている。永井はのっそりと身を捩らせ、顔をあげると、静かに確信を込めた一言を口にした。


永井「来るぞ」


ーー
ーー
ーー
730 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:35:48.83 ID:jiMS7eDVO

 火災警報装置の作動から一時間ほどが経過した。

 フォージ安全ビル正面の道路に一台のバンがあった。二時間前にエンジンが切られ、停車したきりで誰も乗り込まず降りてこずの状態だったバンのドアが突然開いた。

 男が三人、バンから降りる。三人組は縦に並び、ずんずんとビルに向かって突き進んでいく。

 ビルの正面で警備にあたっていた警官がその様子に眼をとめる。あきらかにほかの歩行者とは異なる。歩調、速さ、視線の強さ、どれをとっても不審を抱く。

 三人組は手に何かを持っていた。先頭の男は右手に棒状のものを握っている。列から二番目の男の顔が判別できるまでの距離になった。警官は男たちが手に持っている物体が何なのかわかる。同時に先頭の男の正体に気づく。
731 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:37:50.81 ID:jiMS7eDVO

警官「あ!」
 

 警官は肩の無線に手を伸ばした。

 田中は警官の手が動くと同時にショットガンの銃床を肩にあて、狙いをつけ、引き金を絞った。

 警官の口と右手が吹っ飛んだ。

 銃声に怯え逃げ惑う人びと。悲鳴が沸き起こり、しだいに遠ざかっていく。

 田中たちはフォージ安全ビルへと突き進む。

 ビルの前ががらんとした空白地帯になる。人の賑わうオフィス街にぽっかりと無人の空間ができる。警官の欠けた喉からひゅーひゅーと濁った呼吸音が漏れ出す。警官の眼は青い空と白い雲、天を衝く高層ビルを捉えている。やがて見えている景色がだんだんと暗くなり、耳に聴こえるざわめきは遠くなった。警官自身がたてる音もちいさくなってゆく。


 奇妙なほどしんとした静けさが漂うその空間には、口のない死体だけが残されていた。

ーー
ーー
ーー
732 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/04(日) 21:52:46.71 ID:jiMS7eDVO
今日はここまで。

前回の更新の時に来週には更新しますといっていたのに、遅くなってしまい申し訳ないです。

>>706
ありがとうございます。

ノベライズみたいだな…とは書いてる本人も思っています。追加した亜人がアーニャ一人なので、フォージ安全の後半まで展開を変えられなかったのは悩んでいたので、コメントはとてもうれしかったです。

細部のつけたしはこれも楽しいんですが、読んでてどうかと……とくに永井と中野とアーニャが無意味な感じの時間を過ごすのは十代だし、こんな感じに適当に過ごしてほしいと思って書いたんですが、本編にまったく関係ないですしね。

ハロウィンネタのおまけ短編はこんどこそ今週中に更新できるかと思います。
733 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/04(日) 23:05:44.74 ID:epLBYzTr0
おつー
前の永井Pなコメディ短編も面白かったからハロウィン期待してる
734 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:07:28.41 ID:vr0r0Ve5O
予告したいたハロウィンネタのおまけを投下します。

本編との時系列や整合性はかなり適当
735 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:08:19.11 ID:vr0r0Ve5O

「トリック・オア・トリート」


 部屋に入ってきた四人が声を揃えて言った。

 休憩中の永井がドアの方に眼を向ける。アナスタシア、ありす、奏、文香の四人がハロウィンの仮装をしてやってきていた。


永井「ああ、そうだった」

アナスタシア「お菓子をくれなきゃ、イタズラしますよ?」

ありす「え、ほんとにするんですか?」

文香「わたしは、その、あまり勇気が……」

奏「……白状すると、わたしも」

永井「ちゃんとあるから」


 永井は立ち上がり、用意していたお菓子を四人に手渡した。

 そのお菓子をまじまじと見つめながらアナスタシアが言った。
736 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:09:59.37 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「これ、お菓子、ですか?」

永井「お菓子だろ」

ありす「おせんべいに、おかきとあられ」

文香「たしかにお菓子ですが……」

奏「米菓ね」

永井「安かったから」

アナスタシア「あまいのがいいです」


 ハロウィンなのに雰囲気をまったく考慮しない永井にアナスタシアは不満たらたら。永井はめんどうそうに顔をしかめて、デスクに戻ると床に置いてあった段ボールを持って戻ってきた。

 段ボールを床に置き、中から橙色をしたまるいものを取り出すと、永井はふたつずつ配った。

737 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:11:58.63 ID:vr0r0Ve5O

永井「山中のおばあちゃんが送ってくれた柿。熟しててあまいよ」

アナスタシア「ハロウィン……」

永井「色は似てるだろ」

文香「おおきいですね、この柿」

ありす「入れ物にはいらないです」

永井「ならここで食べてく? 皮むくよ」

奏「あら、いいの?」

永井「手間じゃないから」


 四人がソファに腰を下ろして待っていると、食べやすいおおきさにカットされた柿の鮮やかな橙色が白い皿に載せられてやってきた。柿にはプラスチックのつまようじが刺さっていて、まろやかな感じのライトグリーンが柿の実とは対比的で眼に映えた。


永井「お茶も淹れてくる」


 そこで永井はふと気づいたことを口にする。


永井「姉さんはいっしょじゃないの?」


 四人とも美波と親しい関係なのに、姉は不在だった。


アナスタシア「ミナミは……アー」

奏「肌を出して弟にお菓子を貰いいくのとか無理だし、イタズラとかもっと無理って」

永井「肌を出さなきゃいいんじゃ?」
738 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:13:41.10 ID:vr0r0Ve5O

 永井がお茶を持って戻ってくる。


ありす「ありがとうございます……あの、永井さんもごいっしょにどうですか?」

奏「そうね、ひさびさに映画と本の話をしたいしね。ねえ、文香」

文香「ええ、永井さんはどちらにもお詳しいので……ちなみに、これがなんの仮装かお分かりですか?」

永井「黒猫ですね。どこの国の小説ですか?」

文香「ロシア文学を意識してます」

永井「ロシアで黒猫だと、ベゲモートですか? 『巨匠とマルガリータ』の」

文香「流石です……!」


 文香は眼を輝かせた。密かなコンセプトに気づいたのは永井が最初だった。


奏「今年はみんなロシアを意識した仮装をしてるのよ」

アナスタシア「ナヤーブリ……十月は、ロシアで大切な月、ですから」

永井「なら、去年やれよ」


 ムッとするアナスタシア。ピリピリするまえにありすが話題を変える。
739 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:14:30.12 ID:vr0r0Ve5O

ありす「あの、永井さん、わたしの仮装はどうですか?」

永井「それはハリネズミ?」

ありす「はい、そうです」

永井「じゃあ、『霧の中のハリネズミ』だね。ヨージックだったっけ?」

ありす「正解です。えへへ」

永井「映画は速水さんが勧めたの?」

ありす「はい。いっしょに観ました」

奏「ちょっとまえにBlu-rayが出たから、それでね」

永井「なるほど」


 永井はアナスタシアに視線をやった。白いドレス、頭に花冠。柿を食べる手を止め、得意気な表情。マイナーな選択で勝ちを狙ってる。


アナスタシア「アーニャのは、むずかしいですよ?」

永井「『妖婆 死棺の呪い』」


 あっさり答える。永井はふてくされるアナスタシアから文香に視線を変える。
740 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:16:27.46 ID:vr0r0Ve5O

永井「原作はゴーゴリでしたっけ?」

文香「はい。永井さんはゴーゴリはお読みに?」

永井「主要な作品は。最近、後藤明生の小説を読んだので、読み直したいと思ってるんです」

文香「『挟み撃ち』は『外套』が下敷きになってますからね。芥川龍之介や宇野浩二もゴーゴリの影響下にいますし。というより、明治の作家はほとんど影響下にあると思います」

永井「坪内逍遙が『小説神髄』で〈小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ。〉と書いて近代小説には写実的リアリズムが重要だと主張してますが、これもゴーゴリの作風の一部分と到底する主張ですよね」

奏「ねえ、ふたりとも、わたしたちを置いてけぼりにして楽しい?」


 会話が深まりそうなところを奏が軌道修正する。文香は熱中ぎみになったのをはずかしがりつつ、ありすに詫び、ありすはふたりの対話の深まりに感心するばかり、アナスタシアはさっきから柿を食べていて、また食べ始めた。


永井「スーツ……なんだろ、レーニン?」


 こんどは奏の仮装を当てる番。永井はあてずっぽうに答えた。ロシア映画でレーニンといえば、それはもうやっぱりほとんどヒーロー扱いされていたから(セルゲイ・エイゼンシュテイン『十月』の象徴としてのレーニン、ミハイル・ロンム『十月のレーニン』『1918年のレーニン』の普遍性をもった小市民としてのレーニン)、二割くらいの確率で当たるかなと思っていた。
741 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:17:18.33 ID:vr0r0Ve5O

奏「残念」

永井「だよね。髪の毛そのままだし」

奏「おでこ見ないで」


 奏は前髪の分け目からのぞく額を手で隠した。


永井「映画の登場人物?」


 永井が訊いた。


奏「まあ、そうね」

永井「で、ロシア?」

奏「……言うほどロシアは関係ないかも」


 奏の歯切れがだんだんと悪くなってきた。


永井「さすがにわからないな。答えは?」

奏「……ジョン・ウィック」
742 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:21:06.77 ID:vr0r0Ve5O

永井「アメリカ映画だけど」

奏「ほら、劇中ではバーバ・ヤーガって呼ばれてるじゃない」

文香「スラヴ民話に登場する妖婆ですね」

ありす「でも、アメリカ映画なんですよね?」

永井「敵対するのがロシア系の組織だから」

ありす「はあ」


 あまり納得してない様子のありす。アナスタシアはお茶をふーふーしている。まだけっこう熱い。


奏「やっぱりレーニンのほうがよかったかしら?」

永井「『十月』だしね。かつらとかなかったの?」

奏「自分から話を向けてなんだけど、本気で勧めようとするのはやめて」
743 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:23:15.46 ID:vr0r0Ve5O

 話題はまた映画について。

 『MEG ザ・モンスター』の撮影監督がトム・スターンで驚いたという話題から、ハリウッド大作映画の撮影監督ははんぱない一流カメラマンがクレジットされることがあるから油断できないという話題に。

 『アントマン&ワスプ』のダンテ・スピノッティ、『マイティ・ソー バトルロイヤル』のハビエル・アギーレサロベといった名前は否応なしに人を興奮させる(かれらの名前は、クリント・イーストウッド、マイケル・マン、ヴィクトル・エリセといった名前を連想させる)。

 『ジョン・ウイック:チャプター2』はサイレント時代のコメディ映画のオマージュがあるという話。冒頭、ビルの壁面に映写された『キートンの探偵学入門』と銃口に囲まれたポスターイメージはハロルド・ロイド主演の『都会育ちの西部者』の話。チャーリー・チャップリン+バスター・キートン+ハロルド・ロイド=ジャッキー・チェン。最近のトム・クルーズもこの流れ。


永井「懸賞金がかけられたところで、僕のときは一億円って言われたなって思った。ラストとか僕がトラックに轢かれたあとの感じそのままだった」

奏「永井君、たまにリアクションしづらいこと言うわよね」

ありす「リアクションしづらいとか、そういうレベルじゃないと思いますが」

永井「実際に体験してるとやっばりね。『ザ・プレデター』(なにげにハロウィン映画)で麻酔銃がいっぱい出てくるんだけど、麻酔ダートを人の眼に撃つ描写には驚いたな。あんな死に方は僕もしたことない」

文香「あの、怖くはならないのですか?」

永井「映画は映画ですし」

奏「前にも言ってたわね、それ」
744 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:24:34.69 ID:vr0r0Ve5O

 小梅がホラー映画に出演することが決まったときの話。永井が通りかかり、ちょくちょく映画の話をしていた奏が呼び止める。どんな映画と永井が訊くと、小梅はスマートフォンでティーザー予告を見せた。手術台に拘束された男が電動ノコギリで腕を切断される。永井がひとこと。


永井「これ、されたなあ」


 言葉を失うふたり。スマートフォンを返しつつ、永井がさらにひとこと。
 

永井「公開されたら観に行くよ」

奏・小梅「「観に行くの!?」」


 奏が小梅のあんなにおおきな声を聞いたのははじめてだった。

 そんなこんなで話題は永井との印象深いエピソードへと移行した。

 奏がもうひとつエピソードを披露する。永井の好きな映画のタイトルがあからさまに狙いすぎという話。永井が挙げた三つの映画のタイトル──クレール・ドゥニ『死んだってへっちゃらさ』、ヴィターリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』、ジム・ジャームッシュ『デッドマン』──。

 文香の場合はもちろん本が介在した。
745 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:26:01.42 ID:vr0r0Ve5O

 文香の忘れものを永井が届けにきたときの話。忘れものはもちろん本で、いまでは絶版、文香は内心あわてふためていた。

 そんなとき、永井が本を携えてやってきた。


永井「これって鷺沢さんのですか?」


 そう言って見せたのは、ウィリアム・ギャディスの『カーペンターズ・ゴシック』だった。

 ウィリアム・ギャディスはアメリカ合衆国・ニューヨーク出身の小説家。寡作ながら非常に評価が高く、“JR”と“A Frolic of His Own”によって全米図書賞を二度受賞した。作風はポストモダンと称されることが多いが、モダニズム的な色合いも強く、デビュー当時はジェイムズ・ジョイスに似ていると評されることも。トマス・ピンチョンやドン・デリーロなどと並んで、作品はいずれも大部。特に『JR』以後の作品では、ト書きのない脚本のような書き方が顕著で、「誰がしゃべっているのか」、「この人物はどういう人物か」、「今しゃべっている人たちはしゃべりながら何をしているのか」などといった情報は、読者が発話内容から推測しながら読み進めなければならない。また、登場人物の発話も、言いかけて途中でやめたり、言い直したり、他人の話の最中にさえぎったりなどして、非文法的な不完全文が多いが、それによってリアルなせりふとなると同時に、そこにプロット上の仕掛けが施されていたりする。 ──Wikipediaより引用

 「自由にテーマを展開するピンチョンをジャズに、緻密に語りを組み立てるギャディスをクラシック音楽にたとえる比喩がわかりやすいだろう。」とはアメリカ文学者であり、ギャディスの長編『カーペンターズ・ゴシック』と短編『シチルク対タタマウント村他裁判 ヴァージニア州南地区合衆国地方裁判所一〇五−八七号』の訳者である木原善彦のギャディス評。
746 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:28:35.13 ID:vr0r0Ve5O


 文香は本を見るなり、喜び、そして喜びのあまり永井に本の紹介しそうになるが、思いとどまる。

 ウィリアム・ギャディスは訳書が『カーペンターズ・ゴシック』のみ。日本ではまったくもってマイナーな存在で、文香の通う大学の図書館にも置いてなかったほど。

 そのような作家について熱っぽく語るほど相手を引かせることはない。文香にもそれくらいのことはわかる。まして、このときは永井と話したことは数える程度。しかも仕事で。

 というふうに文香が気持ちを落ち着かせて、そうだお礼を言わなければと思い出したとき、永井がふとした調子で質問した。


永井「ウィリアム・ギャディスの小説って鷺沢さんのところにまだありますか? 洋書でもいいんですけど」

文香「ギャ、ギャギャ、ギャディスをご存じで!?」


 驚き、いきなり距離を詰める。永井はひょいと横に避ける。文香がよろめく。壁に手をついて転ぶのを防ぐ。無人空間への壁ドン。


永井「大丈夫ですか?」


 永井が後ろから声をかける。ちいさく「はい……」と応えた文香の顔が真っ赤になったことは言うまでもない。
747 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:29:41.05 ID:vr0r0Ve5O

奏「受け止めてあげたらよかったのに」


 話を聞いた奏がひとこと。さすがにあきれ口調。


永井「いきなりだったから」

文香「あのときは、ほんとうに……」


 お礼か謝罪か、どちらを口にすればいいのか、文香が言いよどむ。声をかけられ、永井は温度のない眼で文香をみやった。


ありす「わたしのときは良いアドバイスをもらえましたよ」


 微妙な空気が漂う前にありすがエピソードを披露する。

 ラジオのコーナーで、趣味や得意分野のジャンルが異なるふたりが相手のジャンルについて想像であるあるネタを披露し、当たった数が多い方が勝利するというのがあり、ありすは文香に本にまつわるあるあるネタを投げ掛けなければならかった。

 十個の投げ掛け。七つまではなんとか考えついたが、のこりの三つが難しかった。

 収録前日、うんうん悩んでもやっばり思い付かない。と、そこに永井がやってくる。

 永井は姉である美波はもちろん、尊敬する文香や奏やアナスタシアとよく話している。とくに文香とは読書に関する話題だけでなく、ネット上に公開されている論文をダウンロードする方法や、文献管理ソフトの使い方についても話していて、それがのちに文香がありすにタブレット端末の使用について質問するきっかけにもなった。

 そういった経緯もあり、ありすは永井といちどちゃんと話してみたいと思っていた。

 チャンスはいまだと思い、ありすは永井に話しかけた。
748 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:31:25.62 ID:vr0r0Ve5O

永井「読書に限らなくてもいいんじゃないかな」


 ありすから相談された永井が答えた。


ありす「どういうことですか?」

永井「行為そのものの体験量は鷺沢さんが圧倒してるから、それ以外、たとえば本屋でどう過ごすかとか、目当ての本以外に手にとってしまったこととか」


 そう言うと永井は思いつくままに紙にあるあるネタを書き付けた。


本屋の会計で一万円を越えなかったらあんまりお金を使わなかったとほっとする。

いっぱい買ったときは買ったときで手提げの紙袋が用意されるから、ちょっとうれしい。

親族か友人から本でなく本棚を買えと言われた。

というか、大学生なんだからパソコンくらい買えとも言われた(レポートや論文書くときどうするの?)


 最後のは違うかな、とつぶやくと永井は四つ目の文章に横線を引いて、ありすにメモを見せた。

 三つ目の文章のちょっとしたユーモアにありすはふふっと声を洩らした。

 永井のスマートフォンに着信がはいった。永井は全部そのまま使ってもいいよ、口元を手で隠しているありすに言い残しその場を離れた。
749 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:34:53.15 ID:vr0r0Ve5O

 その夜、ありすはうーんと悩んだ。自分でいくつかあるあるネタを考えてみたが、永井の三つよりピンとくるものがない。永井は使っていいよと言っていたが、七つのあるあるネタと並べてみると自分で考えたわけではないから違和感があるし、なんだかズルい気もする。

 もうすぐ就寝時間、ありすは美波を経由してSNSで永井に相談したみた。

  自分が考えたあるあるネタとその評価、正直に自分が感じている逡巡を吐露した。

 メッセージを送って二十分、永井からの返信。



 メッセージ確認しました。

 橘さんはどちらの文章を使っても自分らしさを出せないことに悩んでいるんですね。

 僕の文章で自分らしさを出せないのは当然ですが、橘さんがあとから考えた文章も前に考えた文章と比べると、自分で決めた水準に達していないからこれも自分らしさを出せていない。そのように感じているのがメッセージから伝わりました。

 結論からいえば、どちらを使ってもコーナーは成立すると思います。

 このコーナーの主旨は互いに知識が乏しいと思われる領域に対して、アイドルとしての個性を出しながら接していくかという点にあると思います。ゆえに必ずしも投げ掛けるあるあるネタの精度が高くなくても相手のリアクションやそれに対するこちらの受け答えによっては、僕が考えた文章を使うよりも良い反応を呼び起こすことが可能でしょう。

 ただ失礼だけどこの方法は、橘さんにはちょっと不向きかなと思います。橘さんのアイドルという仕事に対する姿勢には真摯さを感じます。力量を見定めながら事前にプランを設定し、それを実行していく。プロフェッショナルな態度です。

 その分、アドリブに弱いところもあります。自分で納得のいかない文章を使うとなればハプニングが起きたときの動揺はより大きくなるでしょう。

 もちろん、それでコーナーがおもしろくなるのであれば、と橘さんが考えるのであればその選択もオーケーでしょう。ただ、やはり僕としては橘さんが納得できる方法をとってもらいたいと思います。
750 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:36:12.26 ID:vr0r0Ve5O

 さて、僕の文章を使った場合に生まれる齟齬についてですか、これを解決する方法はふたつあると考えています。

 ひとつは僕の文章をもとに橘さんが自分の納得のいく文章を作り上げること。これは齟齬をなくすという方向性なのでわかりやすいと思います。

 もうひとつはあえて齟齬を前に押し出してみること。この前に押し出すという行為に橘さんの個性を出してみてはどうでしょうか。

 これは裏を返せば自分で考えた文章ではないと認めることになります。そのことで苦言を呈されるかもしれません。

 何度も言いますが、僕の書いた文章をそのまま使ってもらってもまったく問題ありません(同じく僕の名前を出す必要もありません)。

 僕たちの仕事はアイドルの方々にまっとうに全力をもって仕事に取り組んでもらい、輝ける手伝いをすることです。

 橘さんを悩ませている自身の納得とコーナーの成立というのは、理想と現実の擦り合わせそのものです。その擦り合わせに納得できる結果がうまれること願っています。 

 それでは、おやすみなさい。

 僕ももう寝ます。お返事は明日にでも。

 
P.S.
 明日の本番は午後三時からでしたね?

 本番の一時間前までにメッセージを送ってもらえば返信可能です。また相談したいことがあればぜひ。
751 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:40:56.96 ID:vr0r0Ve5O

 永井からの返信を読み、ありすはどうするべきか決めた。

 ありすはその日の朝に永井にお礼のメッセージを送り、本番ですることを告げた。

 永井から返ってきた了解と応援のメッセージは短かったが、ありすはうれしかった。

 番組は滞りなく進み、いよいよあるあるネタのコーナー。七回目の投げ掛けを終える。ありすの番が回ってくる。ありすは紙を取り出し、言う。


ありす「すいません、あるあるネタを言う前にすこしだけ」


 スタッフには事前に相談してあったが、進行によっては時間がないことも考えられた。タイムキーパーが使用可能な時間をディレクターに告げる。ちょっと急がないと。


ありす「じつは十問すべて考えることができず、ここからは他の人が考えた質問を言うことになります。自分で納得できるものができなかったことは残念ですが、わたしの力不足だとその点は納得できました。それで、勝手かもしれませんが、いまから言う三問に関しては勝敗には考慮しないでほしいんです」

文香「わたしはありすちゃんの言ったことを尊重したいと思います。リスナーの方々はどうですか?」


 SNSにリアルタイムの反応。ありすの態度を誉めるものばかり。

 ありすが紙に書かれた永井の文章を読み上げる。

 文香は一つめでハッとして顔をあげ、二つめで「なぜそれを」と眼を見開き、三つめで椅子から転げ落ちた。

 まさかのリアクションにコーナーが始まって以来もっとも反響のある回になった。
752 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:42:48.70 ID:vr0r0Ve5O

永井「そんな『新婚さんいらっしゃい!』の
桂三枝みたいなリアクションをしたんですか?」


 永井が文香に訊いた。


文香「できれば、そのことには触れないでくだい……」


 文香は両手で顔を覆い隠しながら、答えたので最後の方はほんとにちいさな声になった。


奏「そのたとえ、よく思いついわね」

永井「山中のおばあちゃんの家にいたときいっしょに見てたから」

ありす「永井さん、放送はどうでしたか?」


 ありすの問いかけに、永井が応える。


永井「ごめん、仕事で聞けなかった」

ありす「そうですか、残念です」


 口で言うより残念そうなありす。肩がしょぼんとしている。


永井「タイムフリーで聴くよ。それからちゃんと感想を送るから」

アナスタシア「ケイのそーゆーところ、ダメ、ですね」


 辛辣なこと言うアナスタシア。手前に置いてあるお皿はからっぽ、せんべいとあられもぜんぶ食べてた。
753 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:43:49.28 ID:vr0r0Ve5O

永井「あげたやつ、ぜんぶ食べたのかよ?」

アナスタシア「みんなのお話、アーニャ、ぜんぜんわからなかったです」

永井「どおりで食べてばっかだと思った」


 永井の一言がふてくされていたアナスタシアをムッとさせる。


アナスタシア「ケイ、あまいお菓子が食べたいです」

永井「チッ」

奏 (舌打ちした)

文香 (舌打ちしましたね……)

ありす「いまの永井さん……?」

永井「貰ってくればいいんだろ」


 永井はめんどうそうに立ち上がった。部屋の片隅には職員用のハロウィン仮装コーナーが設置されていた。

 永井はそこに近づくと、ジャケットを脱いでネクタイを外すと、シャツの袖をまくった。それからサスペンダーを付け、ハンチングを被った。

 見覚えのある格好。いやな予感をおぼえつつ、アナスタシアが尋ねる。
754 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:46:02.95 ID:vr0r0Ve5O

アナスタシア「アー……ケイ、それはだれの、仮装ですか?」

永井「佐藤、亜人の」


 佐藤と聞いたとたん、その場にいる全員が動揺しだした。


ありす「それは大丈夫なんですか?」

奏「セ、センシティブ過ぎない?」

文香「あ、亜人は怪物ではないですし」

永井「佐藤は頭のイカれた殺人鬼だから」

アナスタシア「みんな、ボイテスィ……!……アー、怖がる……怖がりすぎます!」

永井「遺族あわなきゃ大丈夫」

ありす「遺族って!」

奏「ほんとにその格好でいくつもり!?」

アナスタシア「もー!」
755 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:48:56.16 ID:vr0r0Ve5O

 アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞希と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞希「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞希らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」
756 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2018/11/07(水) 23:51:54.03 ID:vr0r0Ve5O
以上でおまけはおわり。

もともと別のおまけとして考えてたエピソードをぶちこんだのでかなり長くなりました。後半はここ数日で仕上げたので、荒いところがあるかも。

キャラ崩壊してたらすみません。
757 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/08(木) 19:35:00.27 ID:VKhOhfJ2O
おまけ面白かった!
更新楽しみに待ってます
758 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/09(金) 21:53:20.17 ID:2WNvoBqb0
13巻もこっちも早く続き読みたいわ
759 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2018/11/11(日) 22:49:44.91 ID:pig7ZHXY0
乙です
ジョン・ウィックのポスターの話は初めて知った
映画は映画って割り切る永井にヴェスナ・ヴロヴィッチみを感じる…
760 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/06(日) 13:19:59.53 ID:/l2+ircxO
まさかのウィリアム・ギャディス『JR』の刊行におののきながら、発売日までそのおののきを持続させつつ、940ページの書物に8640円(税込)を支払い、1.2kgのその異様な重量感に興奮を覚えつつページをめくっていたら、年末年始が終わってました。


というわけでガチで更新忘れたので生存報告だけ……いやでもマジで衝撃的な時間だったんですよ。デレマスで例えるなら文香が人目もはばからずガッツポーズするくらい衝撃的。

続きはなんとか今月中に。少なくともアーニャ参戦のところまでは書きたい。


>>755
川島さんの名前が誤字っていたので訂正。ついでにオチを足しました。


アナスタシアは勢いよく立ち上がり、永井を追っかけていった。

 見ると、さっそく永井は川島瑞樹と宵乙女のメンバーらに囲まれ、話をしていた。


瑞樹「永井君、それってなんの仮装?」

永井「サト……」

アナスタシア「ウタケル!」


 アナスタシアが割ってはいった。おかげで空気は微妙な感じにならずにすんだ。瑞希たちはアナスタシアにもお菓子をあげた。

 瑞樹らを見送ったあと、袋の中のお菓子をみながら永井が言った。


永井「たくさん貰った」

アナスタシア「たべる気、しないです……」


事の顛末を聞いた奏がハンチング帽をかぶってお菓子を配る永井を見て、ぼそっとつぶやいた。


奏「どちらかというと、綾野剛よね」

761 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:46:00.22 ID:ymR8HEsBO

火災警報によって永井が眼を覚ます四時間前、杖をついた男がゆっくりと歩きながら検問ゲートまでやってきた。

 暦の数字はすでに秋の季節に入り込んでいたが、気候はそのことをまったく気にせず引き続き夏の暑さをそのままにしていた。

 出社する社員たちは空調が放つ冷気が頬を撫でる感触にひと心地つきながら、杖の男を抜き去っていった。男は小太りでその体型の原因はもっぱら運動不足のせいなのだが、筋肉の少ない右脚をみるにそれを理由に責めることはできない。男はネクタイをし、ワイシャツの上から作業用のジャケットを着ていたが汗ひとつかいていなかった。抜き去り際に障害のある脚をちらと見やる社員の視線を気にもとめず、透徹すぎて何も見ていないと思える眼で検問ゲートの先を見つめていた。

 検問に到達すると男は杖とリュックを警備員に預け、社員証を提示した。IDが照合され、男は金属探知機へとむかう。探知機が反応し、警備員がハンディ型の探知機を手に持って検査の続きを行った。胸ポケットに反応があり、ポケットの中身を取り出してみると、オイルライターとタバコが出てきた。


「所定のスペースで吸えよ」


 検査物を返却された男は杖でこつこつと床を鳴らしながらエントランスをまっすぐ進んでいたときと同じゆっくりとした速度でエレベーターへと向かった。エレベーターに乗り込み、セキュリティ・サーバー室のある十四階のボタンを押す。

 階数標示の数字が増していくのを見つめながら、奥山真澄は肩を壁に預けて、エレベーターの上昇に身を任せた。


ーー
ーー
ーー
762 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:47:42.66 ID:ymR8HEsBO


奥山「この配線じゃノイズで速度が二十パーセント落ちるよ」


 蓋が開けられたサーバーの内側を見ながら奥山が言った。

 不備を一目で見抜いた奥山の知識に現場の上司と同僚がかるく感嘆する。奥山は仕事に就いて早々、動作に違和感をおぼえ、サーバーの配線を確認すると言い出した。奥山は仕事を行うにあたって、システムをベストなコンディションにしておきたかったのだ。


フォージ安全社員1「青島さんもたまにはいい人材引っぱってくるじゃん」

フォージ安全社員2「それ言っちゃかわいそう」


 背後から不意につぶやかれた内通者の名前を聞き流しながら、奥山は腕時計を見た。デジタル式の文字盤が午前十一時十五分と標示していた。


奥山「ちょっとどいて」


 奥山は杖を片手に立ち上がり、あたりを見回した。シュレッダーを見つけると奥山は床に座りこみ、シュレッダーのゴミ箱の蓋を開けた。中には裁断された紙の束が山になってつまっついた。奥山は胸ポケットからライターを取り出すと下カバーを外し、それから底にあるオイルの栓をゆるめた。


フォージ安全社員1「なにしてんだ奥山?」


 床に座る奥山に上司が不思議そうに話しかけた。


フォージ安全社員1「一服なら一緒に行こうぜ」

奥山「いや、吸う人じゃないから」
763 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:49:11.09 ID:ymR8HEsBO

 奥山はライターを点けた。ゴミ箱の紙束にはオイルが振りかけられていて、油が染み込んだところの黒っぽく変色していた。インクが滲み、文字が溶けてゆく。奥山がライターを手放す。落ちていく際、ライターはくるりと下を向き、回転にあわせて火が揺らめいた。そのせいで火が消えてしまうのではないかと錯覚するほど赤っぽいオレンジ色の光熱がか細く揺らめいたが、ライターが紙束に落ちたとたん火は炎となって燃え上がり、あらかじめ仰け反ってゴミ箱から離れていた奥山の顔に熱気をぶつけた。


フォージ安全社員1「な、何してる!?」


 黒い煙が吹き上がり、プラスチックの溶ける臭いがサーバー室に充満する。火災警報が響き渡り、CO2ガスの放出までの三十秒のカウントダウンを開始する。部屋の中の社員たちは恐怖に急き立てられて出口のガラス扉へと殺到した。

 いちばん先頭の社員がガラス扉を押し開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。急かす声と罵る声とガラスを叩く音が雑多に混じって響く。扉は壁のようにびくともしない。片手で押す、両手で押す、肩でぶつかる、二人がかりで扉をこじ開けようとする。扉は壁のようにびくともしない。大声が悲鳴に変わる。


IBM(奥山)『コ……ラ、コレ?……PEF……』


 奥山のIBMがガラス扉に背中を押し当てて四肢を踏ん張っていた。ガラス一枚隔てた背後から悲鳴が飛び交い、乱れるのとは対照的に、意味のない舌足らずな言葉を奥山のIBMはつぶやいた。IBMは背中でガラス扉の振動と命乞いの叫びを受け止めながら、日向ぼっこをしているかのように動かなかった。セキュリティ・サーバー室はいまやガス室のような様相を呈している。
764 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:50:16.84 ID:ymR8HEsBO

『3』

『2』

『1』


 あまりのも機械的なカウントダウンの音声。



「おぉーい!!」

「待て待て待て!!」

「早く開けろよ!!」


 ガス室の内側にいる人間の複数の声。恐慌にかられた人々の叫び。奥山はコツコツと杖で床を叩きながらガラス扉の反対側にある大型モニターの前にある椅子に歩いていった。椅子に腰かけ背凭れに身体を預けると瞼を閉じた。視界が暗くなると奥山の意識から大勢の悲鳴が遠ざかり、機械音声の冷酷な響きだけが選別されたように奥山の耳に届いた。


『CO2ガスを放出します』

765 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:51:35.58 ID:ymR8HEsBO

 天井のガス式スプリンクラーから消火用のガスが部屋中に放出される。ガスが身体に振りかかるのを感じた奥山は静かに深呼吸をした。ガラス扉前の社員たちの一部はとっさに息を止めた。無呼吸でいるのは長く続かず、激しく咳き込む音がいくつもした。室内の二酸化炭素濃度が致死量に達すると、そういった音もなくなり、どさどさという成人男性の体重が床にぶつかる音がガスの放出音にまぎれてかすかに鳴ったが、その音を耳にする者はひとりもいなかった。

 ガスの放出がおわり、室内の二酸化炭素濃度を通常に戻すため空調が働き始める。

 奥山の眼が覚めたとき、ゴォッーという空調の作動音はまだおおきく響いていた。


奥山「さて」


 奥山は理性的な眼で出口の前に積み重なっている死体を見やってから、椅子をくるりと回転させ大型モニターを見上げた。


奥山「んー……フォージ安全のハッキングかぁー……」


 システムを再起動するとモニターが点り、警備システムにログインできるように操作する。


奥山「テンション高いなあ」


 キーボードを叩きながら、奥山はいつもと変わらない平静な調子でつぶやいた。


ーー
ーー
ーー
766 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:55:38.55 ID:ymR8HEsBO

 ビル前に停められたバンのなかで田中は奥山からの報告を待っていた。荷台に座り込んだ田中はスマートフォンを左手に持ち、連絡がくるのを待ちわび焦れたように画面を凝視していた。連絡がまだきてないとわかりポケットにしまってからもスマートフォンを握りしめたままだった。右手は荷台に置かれたショットガンのグリップに置かれ、すこしだけ力をいれて押さえつけている。荷台に張られた車内カーペットの上にショットガンを置いたとき、固さと重さを持った音がかすかに、合成繊維では吸収できなかった分だけ田中の耳に届き、その音のため田中の右手は銃を押さえつけていた。

 田中がふたたびスマートフォンをポケットから取り出し、画面を見つめていると高橋が眼前で小瓶を振った。


高橋「ホレホレ、おまえもやっとけって」


 小瓶のなかの白い粉がさらさらと左右に揺れた。考えるまでもなくヤクだ。


田中「集中しろ」

高橋「こそだろ」


 高橋は小瓶を引っ込め、頭を壁に預けながら田中を見やると、気負っているくせに何もわかっていないとでも言いたげに唇の右端を持ち上げた。


高橋「どちらかというとアッパー系ドラッグだ。すべてが鮮明になる。銃の狙いもハンパなくなるぜ」


 そこまで言うと高橋の微笑が大きくなり、明確に田中を小馬鹿にしたものに変わった。


高橋「おまえ、ド下手なんだからよお」

田中「だまれ」


 田中がぴしゃりと言い返した。

767 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:56:55.98 ID:ymR8HEsBO


田中「あれから射撃はさんざん練習したんだ」


 指に力がはいり、置かれていただけだった右手が銃を握りしめた。それから十数分後、スマートフォンに通知がはいった。ハッキング成功の報せ。


田中「始めるぞ! 甲斐敬一と李奈緒美を暗殺する!」


 田中の号令に高橋とゲンはいよいよかと高揚感をあらわに笑い声をたてた。ふたりは鼻からドラッグを吸い、高揚感を増幅させる。

 バンのバックドアから外へ出た三人は縦に連なってオフィス街を突っ切ってゆく。


高橋「やべえ、やべえ」

田中「佐藤さん抜きなんだ。ナメてっと死ぬぞ」


 通行者たちは険しい表情をした田中にひるみ、道を開けた。すこしはなれたところで脱いだジャケットを手に持ったサラリーマンがスマートフォンを取り出し、田中たちを撮影し出した。

 銃器を手に持った三人の様子 ──田中─ショットガン(ウィンチェスター M1897)、高橋─自動小銃(USSR AKM)、ゲン─自動拳銃(US M1911A1)── から剣呑な雰囲気を感じとっていたが、その雰囲気の範疇に自分は含まれていないとでもいうようなふうだった。

 ビル前で警備にあたっている制服警官と田中の眼が合う。警官は驚き眼を見開いて慌てて無線機に手を伸ばすが、田中が即座に射殺する。
 

768 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 21:58:30.91 ID:ymR8HEsBO


田中「行くぞ!」


 銃声を合図に田中たちがフォージ安全ビルへと突撃する。根拠のない安全圏はたちまち消え去り、通行者たちは蜘蛛の子を散らしたように逃げ出していった。


高橋「くらえ!」


 エントランスに足を踏み入れたとたん、高橋が壁際にいる社員たちにむかって引き金を引いた。白い壁面に血が飛び黒い弾痕が穿たれる。


田中「無駄弾つかうな!」


 走りながら無関係な人間をたのしく撃ちまくる高橋を田中は検問ゲート周辺の警備員を銃撃しながら叱責した。それを受けて高橋は射線を壁から検問ゲートへ移し、警備員を牽制した。最後尾のゲンもゲート左側をむかって拳銃を連射し、警備員たちをその場に押さえ込んだ。


「防犯シャッターおろせ!」


 銃声に負けじと喉奥から放たれた叫び声に突き動かされひとりの警備員が金属探知機の先にあるロビーから業務フロアへと続く通路の壁の赤いボタンに飛びついた。握った拳の底をつかって殴りつけるというふうに警備員はボタンを叩いた。
769 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:00:06.82 ID:ymR8HEsBO

シャッターは下りなかった。警備システムはすでに奥山が掌握していて、すべてを操ることができた。

 ボタンを押した警備員の頭蓋骨が散弾で吹っ飛ばされた。衝撃によって警備員は顔面から壁にぶつかり鼻骨が折れたが、彼はもう痛みを感じることはなかった。糸の切れた操人形のように警備員の膝がくにゃりと折れ、床に倒れた。

 田中たちは検問ゲートを突き抜け、通路へ進入する。そのさい高橋とゲンがそれぞれ左右の側面を銃撃しながら警備員をさらに牽制した。金属探知機を越えると、ゲンはわれがちに逃げ出そうと出口に殺到している社員たちのほうを振り返った。そのようすは増えすぎた個体数を調整するためみずから入水するレミングの迷信を思わせる有り様だった。騒ぎを聞きつけ駆けつけてきた警察官はパニック状態の群衆に行く手を遮られて一向にビルのなかにに入れないでいる。ゲンは視界の中心に警官をおさめつつも狙いはつけず、何発か群衆にむかって発砲した。銃弾は警官にはあたらず、周囲の人間の背中や首に命中した。


田中「奥山!」


 ゲンが銃撃しながら通路まで後退してきたとき、田中がインカム越しにタイミングを告げた。直後、田中の声に反応したかのようにシャッターが下がり、エントランスと通路を遮断した。


田中「ロビーを突破。十五階、社長室に向かうぞ」
770 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:01:26.41 ID:ymR8HEsBO

『エレベーターは使わないでよ。物理的に塞がれたら詰むから』


 インカムから奥山が注意をした。

 奥山は警備システムにアクセスしビルの見取り図を引っ張り出し、事前に入手した青写真と記憶の中で整合した。そして所見を述べる。


『見る限り設備やらなんやらは前情報通りだね。変わってるところはない。作戦通り行けるよ。北階段を使って』


 指示を出したところで奥山は監視カメラの映像から警備員二名がセキュリティ・サーバー室に近づいていることに気づいた。


『警備員がこっちに来る。しばらくオフるよ』


 田中たちが北階段の五階と六階のあいだの踊り場まで上ったとき、奥山から復帰の報告が入った。


『戻ったよ』

田中「おう」


 田中は腰だめにショットガンを構えていて、そのすぐ眼の前の階段には警備員の死体がうつ伏せの状態で転がっていた。
771 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:02:33.88 ID:ymR8HEsBO

高橋「ここまできてさすまたかよ」


 高橋が死体の横に落ちているさすまたを見て言った。


『日本の警備員はスタンガンはおろか催涙スプレーすら使用が認められないからね』

ゲン「引くわー」

高橋「ブッ飛んでな」


 高橋とゲンは死体となった警備員に皮肉な憐憫混じりの視線を投げかけると同時に嘲笑っていた。自分たちが殺した人間に対するふとした同情が可笑しくて仕方ないといった笑みがふたりの唇に浮かんでいた。


『だけどそろそろ気をつけたほうがいいよ』


 奥山の忠告が割ってはいった。


『この会社、ブラックだから』


 奥山はセキュリティ・サーバー室の確認にやって来た警備員(彼らは感電死させられた)の無線から流れる指示を直接インターカムから伝えた。麻酔銃使用の指示が田中らがいる五階より上に配置されている全警備員に通達されていた。
772 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:03:33.84 ID:ymR8HEsBO

高橋「法律違反だろ」

ゲン「だれかクビになったして」

高橋「逮捕だな。いや、どうせおれらが殺すからそれはなしか」


 二人はまたも嘲笑の声をあげた。


田中「マジメにやれ」


 つぎに銃撃戦が起こったのは十階と十一階のあいだの踊り場で、田中は腰を落とし階段に座るような体勢で階上から降りてきた警備員にショットガンを放った。それとほぼ同じタイミングで階段の正面に立つ高橋が十一階フロアからドアを開けて入ってきた警備員二名を射殺する。

 田中がショットガンの排莢を行う。上階から大勢の人間の足音。田中は銃口をあげる。そのとき、視界の横切る黒い影が田中の眼に映る。


田中「は!? バカ!!」


 高橋のIBMが警備員の集団に突っ込んでゆく。巨腕を振り上げ、先頭の警備員の顎にアッパーカットを喰らわせる。警備員の頸がゴムのように伸びる。後頭部が背後の壁にぶつかり、スカッシュのボールみたいに跳ね返ってくる。黒い幽霊は集団の中心で腰を落とすと肘を曲げ、つぎの瞬間、勢いづけて跳ねあがり、両腕をぶんと振り回した。頬骨と頸骨が破壊され、攻撃を食らった箇所がやわらかくゆがんだ。


「え!?」


 最後尾に位置し、ひとりだけ離れたところにいた警備員のすぐ眼前に黒い手が迫っていたが、警備員にとって黒い幽霊の手は透明で、彼は何事が起こったのかを理解する暇もなく─同僚の死すら理解できず─その手に押し潰されて死んだ。
773 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:04:52.65 ID:ymR8HEsBO

高橋「イアー」


 高橋が階段を駆けあがり、黒い幽霊と拳を突き合わせた。黒い幽霊の口角も心持ち上向いている。


田中「高橋!」


 田中が高橋を怒鳴りつけた。


高橋「あ?」

田中「黒い幽霊はシューティングゲームの“BOMB”だ。回数制限がある。本当にヤバいときまでとっとけ」

高橋「いいじゃねえか。あと一回も出せる」

 
 田中はいったん落ち着き、真面目くさった口調で諭そうとしたが、高橋からしたらそれが滑稽な落差を生んでいた。田中の言っていることは佐藤の受け売りであることは明白だった。だが佐藤とちがって田中はいわばゲームの攻略法をしごく真面目に口にしてしまっていた。高橋はヘラヘラとした態度で黒い幽霊と肩を組んで笑っていた。幽霊のほうも高橋と同調しているのかケタケタと歯を剥いていた。


田中「おま……」

『田中さん』


 田中がさらにどやそうとしたとき、冷静な響きをもった奥山の声がインカムから聞こえた。

774 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:07:02.30 ID:ymR8HEsBO

『上の階、固められてる。シールドと麻酔銃で』


 しごく冷静な声を保ったまま、奥山が状況を説明する。


『あと、その階の廊下側からもう一団そっちに向かってる。挟み撃ちにする気だね』

高橋「いよいよ本番か」

田中「どちらかとは戦うことになるな。どっちがいい?」

『下から上に攻めるのは不利だよ』


 奥山が冷静に意見を続けた。


『いまいる北階段を出て廊下側の一団を倒す。そしたら今度はまだ手薄な南階段で上を目指して』


 弾倉交換を手早く済ませたあと、三人は銃口を床に下げ、ドアの前で立ち止まった。田中がちらと高橋に振り返ると、高橋はワンショルダーバッグから粘着力の強いグレーのダクトテープを取り出し田中に手渡した。銃を持つ右手をテープでぐるぐる巻きにすると、田中は高橋にテープを返した。同様のことを高橋とゲンが済ませたことを確認すると、田中はドアノブを握り、力を込めた。


田中「いいか? 隊列を崩すなよ」


 田中は閉じられたドアを見つめたまま、その向こう側の光景を予想しながら言った。


田中「佐藤さんはこれをひとりでやったらしいが、おれらにそんなテクはねえ。練習通りやるぞ!」

775 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:08:00.60 ID:ymR8HEsBO

 言い終わった田中が慎重に、ゆっくりとドアノブを捻る。このとき、廊下で陣取っている警備員のうちの一人がドアノブが動いたと感じたが、田中は二秒間握ったままの姿勢でいたため、その警備員は気のせいかと思い始めた。突然、叩きつけるようにドアが開け放たれた。田中はオフィスに飛び込むと同時にショットガンを持ち上げ、すぐさま引き金を引いた。散弾がシールドを割り、割れた強化プラスチックと散弾が警備員の肩をえぐった。オフィスの隅の方に固まっていた社員たちが悲鳴をあげた。

 田中は腰をおとしデスクの陰に隠れられるように重心を左に傾けた。田中に続いて突入してきた高橋がAKMを乱射する。銃弾が麻酔銃を撃とうとシールドから身体を出していた何人かに貫通した。弾が当たらなかった警備員は高橋が田中の後を追ってデスクに身を隠す前に麻酔銃を撃った。麻酔ダートが左肩の下あたりに突き刺さり、高橋の身体から意識が消え、すぐ後ろのゲンを巻き込んで仰向けに倒れた。


田中「ゲン!」


 ゲンはすぐさま拳銃の先を高橋に押し付け引き金を引いた。銃弾は右耳のあたりから斜めに発射され、左眼球を巻き込んでこめかみから射出された。血と脳漿が飛び散って床を汚した。高橋は仰向けの姿勢のまますぐに上体を起こしふたたびフルオートで撃ち始めた。高橋に麻酔ダートが刺さってからほんの数秒しか経過していなかったので、麻酔銃を持った警備員たちはシールドに隠れる暇もなくまた何人かが射殺された。


「もう一度だ!」


 すぐ隣の仲間が撃たれて死んでいくなか、この一団を指揮しているとおぼしき警備員が麻酔ダートを装填し直し、ふたたび高橋に狙いをつけた。照準をあわせ、引き金を引こうとする。
776 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:09:47.22 ID:ymR8HEsBO

 田中は引き金を引きその男の顔面を吹き飛ばした。


田中「はやくこっちに来い!」


 デスクの陰に移動しようとしている数名を撃ちまくりながら田中が叫んだ。ゲンが高橋のバッグを引っ張り、尻を床につけたまま乱射している高橋を引きずっていった。今度は田中に麻酔ダートが刺さった。ゲンは指示されるまえに田中のこめかみを撃った。倒れる際にオフィスチェアに田中の後頭部がぶつけた。からからと車輪が転がりオフィスチェアはコピー機にぶつかって止まった。同時に田中の復活が完了し、高橋の射線と交差するかたちで廊下側の集団に引き金を引いた。

 銃撃戦がしばらく続けられたが、気づけば、オフィスの床が死体で埋まっていた。

 少人数とはいえ武装した亜人の部隊に対抗する武器が一発ずつしか装填できない麻酔銃では警備員が全滅するのも当然だった。

 息を喘がせながら田中はオフィスの様子を見渡した。興奮の波が退いていく感じ。呼吸を整えるためにその場に立ち尽くしていると、銃声が一発だけ響いた。ゲンがびくびくと痙攣している瀕死の警備員の後頭部に銃弾を叩き込んでいた。ゲンはこれまでの戦闘でやってきたように背後から引き金を引き、動くものをなくしていった。


高橋「田中」


 田中が無感動な表情でゲンの行いを見つめていると、高橋がほくそ笑みを浮かべながら話しかけてきた。


高橋「おれら、いま、無敵だぜ」


 田中もつられてほくそ笑んだ。


田中「いくぞ!」


 銃を握り直し、三人はオフィスから廊下へと出てそのまま南階段へと進んでいった。
777 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:11:31.15 ID:ymR8HEsBO

 田中たちが去った直後のオフィスは霞が漂っている森の中のように静まりかえっていたが、──実際に白煙が漂っていたが、それは銃の硝煙で不快な煙たさを持っていた──やがて、徐々に動き出すものがあった。デスクの下や壁際に身を縮こまらせていた社員たちがおそるおそる顔をだし、周囲の状況を確認しはじめた。かれらは積み重なる死体に怯え、ひとりが北階段のほうへ一目散に走り出すと、ほかの者たちも悪霊にとり憑かれた豚の群れが湖に飛び込んでいくかのようにあとに続いて逃げ出した。

 オフィスにはなにも言わない死体たけが残された。しかしそのように見えたのはほんの五秒ほどのことで、床に仰向けに倒れていた警備員の死体のひとつがふっと右腕をあげ、被っている帽子のつばに触れた。

 帽子の持ち上がり、顔が見えた。

 永井圭がひっそりと生き返っていた。

 永井は顔をあげ、南階段、田中たちが去っていった方を見やった。


永井「痛って。撃たれちゃったよ」


 上体を起こし、血痕がべっとり付いている右手を見て永井は言った。自動小銃で撃たれたせいで右手は手首からずたずたになり、失血死するまでのあいだひどく痛んだのだった。

 永井がとっくに消えてしまった痛覚を気にしたのは理由があった。そっとを気にすることでできれば起こってほしくないことが目の前で展開されてしまったことを意識したくなかったからだった。


永井「というか……ウソだろぉ……」


 実際に言葉を発することで踏ん切りをつけると永井は立ち上がり、オフィスから北階段へと出ていった。
778 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:13:07.19 ID:ymR8HEsBO

 十階へと降りる途中で中野と出くわした。中野は手摺に右手を軽く置いた姿勢で背中を向けていた。背後から聞こえてきた足音に慌てている気配を感じられず、ついさっきオフィスから逃げたしてきた社員たちの避難誘導をしたばかりの中野はその足音が永井のものだろうと振り返るまえから察していた。


中野「なにしてたんだよ、永井?」

永井「この眼で確かめたいことがあった」


 永井はすれ違いざま、中野に顔を向けて言った。


永井「やっぱり、佐藤さんがいない」

中野「戦いたがりじゃなかったのかよ」

永井「ああ。あの人が後方支援なんてありえない。(永井はドアを開けて十階廊下へと進んだ)つまり、本当にこの戦いに参加してないんだ」

中野「あの手下たちを捕まえるだけでもダメージなんじゃねーの?」

永井「次なんかないんだ。ここで全滅させないと」


 十階にはまだまばらに人がいた。家族へ電話する者や互いに無事を確認しあう者、避難か待機か言い争っている者の横を通り過ぎながら、永井はなぜ佐藤が今回の暗殺に参加しなかったのか考えた。


中野「なあ、おれまで着替える必要あったか?」


 中野がふとした調子で尋ねた。


永井「ガキがうろついてたら目立つだろ。バレちゃだめなんだ、とくに奴には」

779 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:14:58.28 ID:ymR8HEsBO

 そう言うと、永井は中野に振り返り、天井に備え付けてある監視カメラを指差した。指差した手は胸のまえに掲げて、監視カメラからの視点では背中に隠れてみえないようにしていた。

 永井は身体の向きをもとに戻し、歩きながら根拠を説明した。


永井「敵はまず絶対にセキュリティ・サーバー室を取りにくる。ここを陥とさず進攻するのは不可能だからだ。すこしでも異変が起こればサーバー室は陥ちたと考えて動くべきだ」

中野「じゃあこんなところで油売ってていいのか?」

永井「中野、要撃はとっくに始まってるぞ」


 真剣な言葉を発した直後、永井の表情はあっという間にゆるんであきれ顔に変わった。


永井「ていうか、作戦要項にかいてあったろ。そんなんでよく従ってられるな」

中野「おれはバカだからなあ」

永井「あ?」


 そんなことはとっくに知ってる、だからなんなんだ。そういったいらだちを浮かべながら永井はちらと顔だけ中野に振り返った。


中野「ただ、これが佐藤を倒すベストなんだろ? 」


 中野は永井の態度を気にせず(気づいていなかったのかもしれないが)、単純な確信をとくべつ感情も交えず口にした。


中野「おまえが言うんだから」


 永井はなにも言わず前に向き直った。機械室のすぐ前まで来ていた。
780 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:15:48.46 ID:ymR8HEsBO

永井「ここからは仕事柄おまえのほうがくわしい」


 ドアノブに手をかけ、ドアを半開きにしながら永井は振り返り、中野の顔に眼をあわせ、言った。


永井「頼んだぞ」


 機械室のなかに入る。つけっぱなしの空調設備の作動音が耳を聾さんばかりにがなりたっている。壁から天井にかけて無数のダクトが繁生した蔦のように張り巡らされていたが、床はきれいなもので定期的に清掃が行われていることがうかがえた。通路がわかりやすいように黄色いラインの内側がグリーンに塗られていた。

 中野は機械室を見渡して言った。


中野「だれもいねえな」

永井「銃声とかで仕事どころじゃなかったんだ」


 空調制御盤を見つけると、中野は蓋を開けて器機の操作スイッチがどのようになっているか眼で確認していった。中野の作業を待つあいだに永井は戸崎に無線で連絡を入れた。


永井「聞こえますか、戸崎さん。最大の標的が来てないようです」

『そうか。なにか案はあるのか?』

永井「はい。佐藤を引きずり出す。現行の作戦は続行。このまま田中たちは捕獲します。が……」

781 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:17:18.64 ID:ymR8HEsBO

 戸崎はイヤホンを指で押さえながら永井の作戦を聞いた。歩く速度はゆるめずセキュリティ・サーバー室への通路を下村とともに歩いている。こっこっこっこっ、と足音が壁に反響する。合わせ鏡で無数に増幅された像のように、迷宮的に反響が連鎖していく。

 無線連絡を終えた永井は中野に振り向くと、まだ制御盤の操作を続けていた。永井がスマートフォン取り出しメールを打とうとしたとき、中野が声をかけてきた。


中野「永井、始められるぜ」

永井「わかった」


 永井は喫煙スペースから持ってきた脚部がパイプ製のスツール運びながらもう片方の手でスマートフォンを操作した。大型送風機のまえにスツールを置き、腰を下ろすとテキストを確認しメールを送信した。


中野「誰にメール?」


 背後に立った中野が訊いた。


永井「アナスタシア」

中野「え、アーニャちゃん、ここにいんの?」

永井「本人が言ったんだよ、佐藤と戦うって」


 永井は中野がぐだぐた反対するまえに先回りして言った。それでも中野は納得しきらず、戦闘という行為においてはただの女の子でしかないアナスタシアがこの要撃作戦に参加するのは、本人の意思がどうだという問題とはまた別だと思った。


永井「詳しく聞いてないけど、佐藤のテロで知り合いが死んだそうだ」
 

 中野の懸念を察した永井はだめ押しするように言った。中野の性格を考えれば、こう言っておけば、一〇〇パーセントの納得は得られずとも承知はするだろうと知っていたからだった。事実、中野は押し黙った。アナスタシアのそれは、中野が佐藤と戦う動機と重なるところがあったから。

 永井は中野の無言の承諾を感じながら、ふと、中野とアナスタシアの動機についてわずかな時間、十数秒ほど、思考の何パーセントかを傾けた。
782 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:18:33.79 ID:ymR8HEsBO

 中野は大量殺戮への反対というごく常識的で倫理的な動機をみずから口した。アナスタシアのそれについては完全に推察したものだったが、三人で行動していた際に車内で尋ねてきたときの不安そうな声の調子と ──アーニャはどうすればいいですか?──、九月に電話をかけてきたときの決然とした宣言 ──アーニャも佐藤とたたかう── との比較、それに加えそのあいだに佐藤の旅客機テロがあったことを考えると、友人の死あたりが変遷の理由だということは簡単に推察できた。

 永井は、中野みたいな直線的なバカでもないのにそんな理由で十分に戦えるのだろうかと疑問に思ったが、戦闘といってもIBMの使用にするに限るのだから、と考え直した。

 送風機のファンが回り始めた。中野は羽の回転を眼で追いながら、永井にふと尋ねた。


中野「そういや結局、UWFは使わないのか」

永井「IBMだろ」


 中野のとぼけた発言を永井はすぐさま訂正した。


永井「使うもなにも、おまえ、出せるようになんなかっただろ」

中野「だよなあ……おまえも操れないままだしな」


 中野の指摘が正鵠を得ていてばつが悪くなったのか、永井は何も応えず、無言で通した。


永井「まぁ、すこしは使うけどね」


 ファンの回転がいよいよ速くなりはじめる。

 中野は制御盤のところまで戻ると、回転速度を上限めいいっぱいになるまで操作する。

 永井は高速回転するファンを見据え、スツールに座ったまま、要撃開始の狼煙をあげた。


ーー
ーー
ーー
783 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:20:22.80 ID:ymR8HEsBO

李奈緒美は一人掛け用のソファに緊張と恐怖に身体を強張らせながらそれでも辛抱強く、慎ましい態度で浅く腰を下ろしていた。フォージ安全社長甲斐敬一は李の背後の壁際に何食わぬ顔をして立っている。黒服たちは囲うのようにして二人を警護していた。応接用のソファとその間にテーブルがあり、四人はそれぞれソファ背後の端から少し離れたところで待機している。

社長室の入口はガラスで仕切られた向こう側にあり、立体的に張り巡らされた一枚ガラスが社長室を二分している。先程まで西側に面した窓から日が差し込んできて、この仕切りガラスに反射していたので黒服たちは警護のポジションを変更していた。

銃声が聞こえてきた。はじめに単発の破裂音が微かに響き渡り、直後に連続的な銃撃の音が続いた。


甲斐「近づいてきたな」


音のする方向に顔を向けながら甲斐が言った。甲斐はふっと背中を向けると南側の壁に近づいていった。


真鍋「あまり動かないでくれ」


甲斐の動きに気づいた真鍋が言った。その言葉に耳を傾ける者は甲斐も含めてだれもいなかった。銃声は徐々に近づいてきていて、黒服たちは応戦の準備をしようとしていたところだった。

甲斐は壁から張り出した柱に右の掌をぴったりとくっつけた。
784 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:21:54.78 ID:ymR8HEsBO

手の触れたところがガコンとへこみ、甲斐の眼の前の壁が自動ドアのようにちょうどドアの横幅の分だけ開いた。

平沢が眼を見開いた。同時に真鍋が叫ぶ。


真鍋「セーフルーム!?」


ほかの二人の黒服、李も突如として現れた空間に驚愕し、動きを止めてしまった。その間隙の時間を利用し、甲斐はセーフルームに難なく滑り込んだ。甲斐の動きにわずかに遅れて真鍋が飛びつく勢いで走り出したが、すでに扉は閉まり出していた。


甲斐「あとは頼んだよ」


扉が閉まり切る直前、見捨てられたことを理解した悲痛な面持ちの李に向かって、甲斐はたったそれだけ言い残し、扉の向こうに消えた。

真鍋が李に向かって詰問した。


真鍋「あんた知ってたのか!?」

李「いえ!」


李は正気に返ってあわてて否定した。


真鍋「クソ野朗……ターゲットがいねえとダメだろーが」

李「大丈夫です」


正面のガラスに強いるように見ながら李は震えた声で言った。閉じられた透明の扉の開閉部は一枚ガラスから独立していて、その切れ目の線がいやに眼についた。李はさらに言葉を続けたが、それは恨めしげに壁を睨みつける真鍋やほかの黒服たちにというより、自分に向かって言い聞かせているふうだった。


李「わたしは……逃げませんから」


ーー
ーー
ーー
785 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:23:37.41 ID:ymR8HEsBO

十五階の業務フロアへと続くドアの前で田中たちは上階と下階からの挟み撃ちに警戒しつつ、奥山がドアのロックの解除するのを待っていた。


田中「奥山、まだ開かないのか?」


田中は銃床を肩にあて床に膝をついた姿勢で下階を見張っていたが、いい加減にしびれを感じ始めていた。


『十五階のセキュリティシステムは特別厳重で、熱源に体重感知、社長本人の認証がなきゃ猫すら入れない』


奥山がインカム越しに説明した。


高橋「もう五万分は待ってるぜ」

ゲン「ハハ、サバ言うな」

『あのねえ……きみらがたのしくドンパチしてた間も、僕はこのセキュリティと格闘してたの』


奥山の口ぶりは自分の仕事のほうが撃ち合いよりもはるかに複雑で神経の使う仕事だと言いたげなものだった。


『優秀なエンジニアでもあと五時間はかかるよ』

田中「おい、そんなに待てないぞ!」
786 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:25:13.41 ID:ymR8HEsBO

田中が文句を言った直後、背後からガコンという音がした。三人が階段へ向けていた視線をドアへ戻すと、固く閉ざされていたドアが半開きになっていた。


『ほら、とっと入って』


田中がハッと軽く笑う。高橋とゲンを見やって言った。


田中「ゲン、高橋」


呼びかけられた二人はニヤつていた。クライマックスを楽しみにしているとでもいうような表情。


田中「終わらせるぞ」


三人が社長室への通路を進んでいく様子を監視カメラで眺めらながら奥山は十五階のセキュリティをすべて掌握するためハッキングを続けていた。

奥山の視界には三台のデスクトップモニターが収まっていて、右のモニターが田中たちの様子を、中央のモニターがコードを、左のモニターが自分のいるセキュリティ・サーバー室への通路をそれぞれ映していた。

奥山が熱源感知システムのコードを書き換えていると、左モニターの映像に影が横切るのが見た気がした。


奥山「ん?」

『どうした?』

奥山「いま、なにか……」


声を洩らしていたため、田中が尋ねてきた。


奥山「気のせいか」

『あと二十メートル』
787 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:26:26.51 ID:ymR8HEsBO

奥山「こっちもあと少しで十五階全体のセキュリティを掌握できるよ」


気を取り直した奥山がハッキングの進捗状況を田中に伝える。

田中は奥山からの通信を聞きつつクリアリングしながら通路を進行していく。観葉植物の裏を素早く確認し、視線を前に戻す。奥山からの通信に意識を向ける。


『そしたら熱源で敵の配置を……し……』

田中「奥山?」


突如、無線にノイズが走り、すぐに通信が不可能になった。


奥山「田中さん?」


奥山の無線も同様で、田中との通信を再開しようとしてもノイズばかりがインカムから聞こえてくるだけだった。

田中は足を止めて奥山からの通信が再開するのを待っていた。


高橋「どうするよ」


田中は視線を上げた。社長室のドアが見える。距離は十メートルもない。


田中「……もう眼の前だ。続行するぞ」
788 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:27:12.37 ID:ymR8HEsBO

奥山「何か、変だぞ」


一方の奥山は違和感に手を止め、思考をフル回転させていた。偶然とは思えないタイミングで無線が通じなくなった。しかし、妨害だとしたらいったいだれが? フォージ安全側の人間である可能性はきわめて低い。セキュリティ・サーバー室は掌握してあるし、妨害が可能なら被害が大きくなる前に行っているはず。第三者の介入? だが、外部にセキュリティ業務が委託された痕跡はなかったはず……

いきなり、警報が鳴り響いた。


奥山「火災警報……十階……」


奥山は囮のエサに誘い込まれた鼠のように警報を表示しているモニターに見入った。十階の通路にある監視カメラが火元の映像を映し出した。

永井圭が火のついた紙束を松明のように掲げて、帽子を脱いで監視カメラを見上げていた。


奥山「永井……圭……? 何してる、こんなところで……」


奥山がカメラ越しに永井と視線を合わせていたのは一瞬だった。奥山は左手を素早くあげ、耳のイヤホンを指で押さえて叫ぶ。


奥山「田中さん、中止して!」


インカムから返ってきたのはノイズだけだった。


奥山「ったく!」


床を足で蹴って固定電話へと飛びつく。勢いづいたオフィスチェアをデスクを抑えてとめ、受話器を持ち上げ番号を押す。

789 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:28:42.14 ID:ymR8HEsBO

奥山「佐藤さん!」


留守番電話センターにつながったが、無視して叫ぶ。


奥山「なぜか永井圭がいる! こっちの見えないところでなにか……」


奥山は違和感の正体に気づいた。耳に受話器を当てたまま、左のモニターを見る。セキュリティ・サーバー室への通路には何も映っていない。奥山はキーボードのキーを押し、映像を巻き戻した。受話器を持ったまま、映像を巻き戻しを続けていると、廊下を横切っていくものが見えた。奥山は映像を一時停止して顔をモニターに寄せると、瞬きも忘れモニターを睨んだ。

床から一メートルほどの高さにピストルのような形をしたものが浮かんでいた。


奥山「麻酔銃が、飛んでる……?」


その瞬間、奥山はすべてを悟った。


奥山「ああ、全部ワナだ」


下村のIBMが奥山のすぐ背後で麻酔銃を構えていた。引金が引かれ、麻酔ダートが発射される。麻酔ダートは奥山の首の後ろに刺さり、一瞬で奥山の意識を奪った。

IBMによって室内の安全が確認されると、下村と戸崎がセキュリティ・サーバー室に足を踏み入れた。


戸崎「セキュリティ・サーバー室を奪還した」


戸崎はキーボードをタッチし、換気システムを作動させた。

平沢が戸崎からの無線連絡を耳にする、そのときドアが開いた。
790 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:29:53.72 ID:ymR8HEsBO

李は震えあがっていた。田中が社長室に侵入してきたのを見たとき、李はとっさに立ち上がったが、それ以上は動かなかった。喉は閉塞し、呼吸するのもつらい。眼はずっと見開かれている。田中が強化ガラスのドアの前で立ち止まる。田中と李の眼があった。


田中「久しぶりだな」


怯えきっている李を睨みつけながら田中が吐き捨てるように言った。

高橋がガラス越しにターゲットを撃った。巨大な一枚ガラスにヒビが入る。


田中「防弾ガラスだよ! ドアの鍵を壊せ!」


田中はドア下部のデッドボルトを狙ってショットガンを撃った。頑丈な作りのため、散弾を一発撃ち込んだだけではビクともしない。


平沢「今だ」


平沢が無線でタイミングを告げた。黒服たちは李から離れ、それぞれソファや壁から張り出した柱に身を隠していた。彼らの任務は対象の護衛ではなく、あくまで佐藤ら亜人テログループの捕獲だった。黒服たちは麻酔銃を構え、銃声にまったく反応を見せないまま、田中らが侵入してくるのをじっと待っている。

三発目でデッドボルトが吹き飛んだ。強化ガラスのドアが開き、銃口を上げることも忘れ、まっさきに田中が中に飛び込む。

ショットガンを持ち上げ、左手で銃身を支える。銃口が真っ直ぐ、李に向けられる。

791 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:36:07.96 ID:ymR8HEsBO

李「あのときは……ごめんなさい」


顔の横に挙げた両手と唇を震わせながら李が言った。瞳から涙が溢れ落ちた。

田中の動きが止まった。心は激しく動揺していた。

李はゆっくりと手を下げ、瞼を閉じた。唇は噛み締められ、手は胸のところでぎゅっと握られている。

田中は大きく動揺したまま、李を見た。撃ち殺される恐怖に打ちひしがれながら、額に脂汗を滲ませ涙を哀れに幾筋も流しながら、逃げることだけはきっぱりと拒否して、李奈緒美はそこに立っていた。

田中の動揺がさらに大きくなった。眼の前の女は復讐されるに当然の人間のはずだった。なのにその顔はなんだ。なんでそんな顔をする。なんでおれみたいに助けを求める顔をして、それなのに逃げ出しもせず命乞いもしないんだ? そこで田中は気づいた。暗殺のとき、相手の顔を正面から見たのはこれが初めてだということに。田中はみずからの殺意が砂の城のようにたよりなく、たやすく波にさらわれ消え去っていくのを感じた。

背後から黒い波が押し寄せてきた。


田中「なんで……亜人の粒子が?」


驚く高橋とゲンにつられ、振り返った田中は換気口から流れ出てくる黒い粒子をいまだ動揺から立ち直られない態度のまま見やった。


田中「いや、それに……あんなすぐ消えちまうもん、こんな大量に……」


粒子の波はいまや濁流と化していた。換気口からの送風にのせられて黒い粒子が部屋を飲み込み始める。すぐ眼の前まで黒い濁流が迫ってきた。そのとき、田中の頭の中で佐藤からの伝聞の情報が線を結び、答えとなって閃いた。

792 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:37:14.94 ID:ymR8HEsBO

田中「永井か」


亜人にしか見えないIBM粒子が田中たちを飲み込んだ。並外れた量のIBM粒子を放出した永井は、何食わぬ顔で巨大送風機の前に座ったままだった。永井は無意識に視線をあげ、ふと閉じていた口を開け、つぶやいた。


永井「あとは任せましたよ、平沢さん」


黒い粒子に埋め尽くされた社長室は亜人にとっても奇妙な空間と化していた。ブラックアウトする視界、だが音もなく匂いもない、暑さや冷たさもなく、ただごうごうと音を立てる送風によって粒子が眼の前で流動していく。


高橋「なんも見えねえぞ!」


パニックになった高橋が銃を乱射する。銃弾は防弾ガラスをひび割っただけだった。悲鳴をあげる李を取り残して、平沢たちは平常通りの滑らかな動きで接近していく。

高橋のAKMが弾切れを起こす。舌打ちしつつマガジンをリリースしたあと、バックに手を伸ばし換えのマガジンを探す。


ゲン「ウッ!」


ゲンの呻き声のあと、床に倒れる音がした。


高橋「ゲン! どうした! ゲン」

田中「落ち着け、高橋!」
793 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:38:09.31 ID:ymR8HEsBO


平沢が麻酔銃に換えのダートを装填しているあいだ、背後の若い黒服が高橋に狙いをつけた。


高橋「ゲン、どこだ!」


言葉を切った瞬間に麻酔ダートが撃ち込まれた。ごうごうと響く送風音で田中は高橋が倒れたことに気づかない。


田中「こんなことになってるのはこの部屋だけだ! なんとか出口へ……」


田中のすぐ眼の前に麻酔銃の銃口があった。

平沢が引金を引く。

麻酔ダートが首に突き刺さる。

田中は意識を失い、床に倒れる。

黒服たちは麻酔銃を構えながら、意識を失った田中以下三名の亜人を見下ろす。

そして、平沢が無線で告げる。


『クリア』


イヤホンを指で押さえながら、永井はその声をしっかりと聞き取った。


ーー
ーー
ーー
794 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:39:05.48 ID:ymR8HEsBO

「クリア」という声がコイル型イヤホンから聞こえたとき、アナスタシアにはその言葉が何を意味するのかすぐにはわからなかった。少ししてビルに侵入してきた田中たちがやっつけられたのだと思い当たった。

アナスタシアが正解に思い当たったのと同時にスマートフォンがブルブルと振動した。洋式トイレの蓋の上に置いていたのでびっくりするような大きな音が婦人用トイレに鳴り響いた。アナスタシアはビクッと肩を震わせ、そのときの動作によって人感センサーが働き、トイレの照明がパッと光った。

メールは永井から送られてきたものだった。本日四通目のメールの文面には、田中以下三名の無力化を確認、佐藤はいまだ確認できず、引き続き待機、との指示が書かれていた。

アナスタシアは洋式トイレの蓋の上にスマートフォンを置き、無線機の横に並べた。トイレットペーパーを敷いた場所に尻を置き直し、ふたたび仕切り壁に背中を預ける。両膝を合わせて抱え込むようにして手を組むと、そこに左頬を置いて無線機とスマートフォンを眺めた。

ウィッグの前髪が垂れ落ちてきた。視界に入り込んできた黒髪を直そうとしたとき、照明が自動で消え、暗闇が戻ってきた。アナスタシアはくすぐったさにむず痒い思いをしたが、身を隠していることを考えるとまた明かりを点けることはためらわれた。結局、ウィッグの毛はそのままにしておいた。
795 : ◆8zklXZsAwY [seko]:2019/01/26(土) 22:40:09.19 ID:ymR8HEsBO

アナスタシアはいま黒のウィッグと茶色のカラーコンタクトを付け、ウィッグの色と同じ黒のパンツスーツに身を包んでいる。その姿は百六十五センチという高身長も相まって、キャリアウーマンのように見えるが、足元はレディースの革靴ではなく多少の使用感がある白いスニーカーだった。

火災警報によってセキュリティ・サーバー室の占拠を悟った永井は一通目のメールを送信し、アナスタシアにビル内に入るよう指示した。そのときのアナスタシアは自転車便のメッセンジャーに扮した格好をしていた。変装の精度がどのようなものか判然とせず、アナスタシアはこれまでの人生のなかで最も速く心臓をドキドキさせながらビルへと向かった。十五歳の子どもが隠し事をしたまま、たくさんの大人がいる場所に忍び込むというのだから、当たり前ともいえる反応だった。

アナスタシアの激しい緊張と不安をよそに、検問は難なく通過できた。

アナスタシアの存在はその身元こそ明かされていなかったものの、フォージ安全ビルでの要撃作戦に参加するにあたって、永井は戸崎に協力者がいることを言及していた。 ──同時にそれは戸崎への牽制として機能した。永井は佐藤拘束の報酬として偽の身分と捕獲対象からの除外を要求し、万が一果たされなかった場合、戸崎の婚約者は協力者のIBMによって殺害されることになると脅迫していた。もちろん、アナスタシアはこのことを知らない。── 戸崎は永井の脅迫を受け止めつつ、作戦の成功率を少しでも上げるため、協力者がビル内に入り込めるよう手筈を整えた。

アナスタシアはメールに従って八階まで上がると、その階にいた女性社員から配達物を受け取った。それから九階に上がり、照明が消えていることを確認すると、すばやくトイレの中に入り一番奥の個室へ向かった。鏡の前を通り過ぎる際、アナスタシアは自分の姿を一瞬だけ認めた。その一瞬で、黒髪に茶色の眼をした、若いというより少女にしか見えないメッセンジャーは明らかに場違いだと思い知らされた。
796 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:41:08.68 ID:ymR8HEsBO

個室の戸を閉め、肩にかけた大きめのメッセンジャーバックから小さく折り畳んだジャケットとスラックスを取り出して、着替える。パンツスーツとメッセンジャーの格好を比べ、とりあえずいまの姿の方が多少はましだと結論づける。アナスタシアは配達物の封を開け、中身を確認する。無線機と使用法と周波数が書かれたメモがあった。アナスタシアはメモに従って無線機の電源をオンにした。

コイル型イヤホンを左耳に入れた途端、野太い焦燥が色濃く混じった叫びが耳を貫いた。一階の検問ゲートを武装した亜人三人が突破し、ビルに侵入したと言うのだ。

無線を聞いたアナスタシアの全身が緊張で強張る。

そのとき、身体の麻痺を解くための如くジャケットの内ポケットに入れたスマートフォンが振動した。永井から見計らったように二通目のメールが届いた。指示があるまで待機との厳命。三通目のメールは、アナスタシアの聴覚が微かではあるが遠くで鳴る銃声を、アナスタシアのいる階で轟いたものだとわかるくらいの音量で捉えたときだった。内容は二通目と同様で、命令があるまで絶対に動くなと強い口調が聞こえてくるような書き方がされてあった。
797 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:42:31.52 ID:ymR8HEsBO

この戦いにおいて、自分への期待が高くない ─それどころか、ほとんどない! ── ことはわかっていた。というのも、永井はリスクも手順も最小限の作戦を打ち立てていて、アナスタシアの役目といえば、せいぜい不測の事態が起きた場合にIBMで支援を行うことくらいだったからだ。活躍どころか、働きすらないかもしれないのだ。参戦を通告してから作戦の詳細を知らされるまでのあいだ、アナスタシアには不安と緊張の感情が心の中心に宙吊りになって存在していた。他者の安全、自分の正体の露見、十分な働きができるかどうか……ネガティブな未来が浮かぶたびに、美波やプロダクションのの仲間や学校の友だち(死んでしまった友たちも含めて)のことをイメージとして思い浮かべて戦いの意志を強固にし直していった。だから、永井から役目はほとんどないだろうと知らされたとき、戸惑い、もっと言えば後ろめたさすらおぼえた。密閉された空間に敵を誘い込み、IBM粒子を利用して視界を奪う。永井の作戦が効果的であるのは納得できたし、被害が出る可能性も最小限まで抑えられている点は安堵したほどだった。 でも、とアナスタシアは疑義を浮かべた。亜人であるわたしが、隠れているだけでいいの? 銃を撃ったりはできないとしても、盾になることはできるかもしれないのに……(この時点ではアナスタシアは警備員のことまでは想定していなかった。永井が意図的にその事実を隠したのは、アナスタシアが佐藤と戦う理由はナイーブなものだと予想していたからだった。かすかな銃声が耳に届いたとき、アナスタシアの意識に警備員の存在がはじめて浮上し、その欠落にいままで気づいていなかった自分に愕然とした。すぐに腰を上げたが、銃声はすでにはるか遠くに遠ざかっていた……研究所で見た凍結されていない生々しい滑り気を持った虐殺のイメージが蘇ってきた……「クリア」という声がイヤホンから聞こえ、アナスタシアは現実に戻ってきた)。
798 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:43:22.94 ID:ymR8HEsBO

永井はこの考えを、少年漫画の読みすぎだ、と黒い粒子の狼煙による返答で一蹴したが、銃弾の前に生の肉体を晒してたたかうといういざというときの心構えが完全に退けられることはなかった。この心構えは警備員の死に気づいてから具体的な細部を持ったイメージへと変わったが、いまでは空想の域にまで入り込んでいた。肉体に穿たれた孔と流れ出す血は勇者の赤いバッヂとなり勇敢さをたたえる、こうした空想は輪郭があいまいで現実的な苦痛から遠く隔たっていることをアナスタシアは自覚せざるをえなかった。空想は退けられた。だが、後ろめたさは残していた。永井に言わせれば後ろめたさを抱くこと自体見当はずれの感傷に過ぎないのだが、アナスタシアはそうとは思わない。死なないからこそ、死を他人事にしてはいけないのだと、アナスタシアは考えていた。

そしていま、暗闇の中に浮かび上がった四通目のメールを見つめながら、アナスタシアは命令通りに待機の時間の只中にいた。センサーが反応しないように最小限動きだけでスマートフォンや無線機を操作しながら、ただひたすら、佐藤が現れるまで待つ。後ろめたさを錘にしながら。


ーー
ーー
ーー
799 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:46:06.03 ID:ymR8HEsBO

コーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぐと黒い液体がにわかに泡立った。淹れたてで熱々のコーヒーから湯気があがり、カップの内側を水滴で濡らした。ほんのちいさな一ミリくらいの泡がはじけ、コーヒーの水面が完全に静まり黒い円形として停止すると、佐藤はソーサーにのせたカップを持ち上げ、キッチンから休憩室に戻っていった。

アジトの休憩室は雑然としていた。整理整頓はおざなりで、歩くスペースは確保してあったが、パンの袋やコピー用紙などが隅のほうに放置されたままになっていた。

休憩室を通り過ぎ、ゲーム機のある部屋に戻ろうとしていた佐藤は長机の上に置かれた携帯電話に留守番メッセージが新着していることに気がついた。佐藤はさして考えもせず携帯電話を手にとると、メッセージを再生した。


『佐藤さん!』


奥山の声。焦燥で大声になっている。


『なぜか永井圭がいる!』


メッセージはそのあともすこし残っていたが、佐藤はそれを聞かず携帯電話とカップを机に置いた。カップを置いたとき、中身が跳ね溢れそうになった。コーヒーの波間はやがて落ち着き、そして黒い液体が揺らされることはもう二度となかった。


ーー
ーー
ーー
800 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/01/26(土) 22:47:02.77 ID:ymR8HEsBO
今日はここまで。

なかなか思うように進まない…
801 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/01/27(日) 15:21:29.42 ID:lGUhnR6s0

アーニャ関連には期待している
802 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2019/03/03(日) 02:09:25.72 ID:Zvp9ZrOr0
漫画と変わらないところは飛ばしても良いんじゃないか?
803 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:13:43.74 ID:6D6vTS+OO
亜人捕獲の報せを受けフォージ安全ビルに赴いた刑事はビル前に集結し騒ぎ立てているマスコミの姿を見て、既視感とともにうんざりした気分を味わった。

永井圭が亜人だと発覚したときの美城プロダクションの前もこのような光景だった。報道陣がわらわらとつめかけ、現場整理にあたっていたこの刑事は身体を押しつけられてはフラッシュを焚かれ罵声を浴びせられ、こちらもマスコミを押し返し罵声を浴びせ返した。プロダクションに侵入しようとした記者をひとりとっ捕まえたがそのせいで左小指の爪が割れたし、あとからそいつに訴えられた(とうぜん、特別な説得をもって訴えはすぐに撤回してもらった)。

パトカーから降りてフォージ安全へと歩いてるいくうちに、この刑事は自分が抱えているうんざりした気持ちはマスコミのせいではなく、この会社自体にあるのだと認めざるを得なくなった。社長の甲斐はもともと警察批判で有名で、ここ最近は業績を上げるためか──実際上がっているらしい──舌鋒をさらに鋭くしている。しかも、亜人のテロには警察力より民間セキュリティのほうが有効だということを今日証明してしまったのだ。

彼はフォージ安全の社員にどんな対応されるのかと考えると気が重くなった。最近見たドラマの大企業の幹部のように下請け会社の社員にとる尊大で居丈高な態度でもとるのだろうか……。
804 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:15:05.89 ID:6D6vTS+OO
undefined
805 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:16:15.33 ID:6D6vTS+OO

正面入口で刑事を待ち受けていたのは三十代前半の男性社員だった。警備員二人を従え、刑事にむかって慇懃に挨拶すると一階エントランスへと招き入れた。そんなことはないとは思っていたが、男性社員にこちらを見下すような態度は感じられなかった。刑事は独り合点かつフィクショナルな思い込みに心持ちをすこし悪くした。

入り口を通り、エントランスに足を踏み入れる。眼に飛び込んできたのは、さながら災害が起きた直後の病院のような光景だった。エントランスに負傷者が集められ、床に座るか仰向けに寝かされ、傷口を抑えながら痛みに耐え、あるいは呻き声を洩らしている。タオルやハンカチ、包帯、シャツ、ジャケット、ネクタイ、社員証などが赤く染まり、付き添いの者が傷口を抑えている場合もある。救急隊員が駆け寄って、慎重に傷口を覆う手を剥がしながら処置を行っていく。同じ動作を行なっている私服姿の者もいて、きびきびとした的確な動作や救急隊員に指示している姿から見てボランティアでかけつけてきた医師なのだろう。かれらの奮闘を示す張り上げた声と苦痛に歪んだ声がエントランスを満たしている。
806 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:17:02.02 ID:6D6vTS+OO

刑事という職業をしていても、生存者が多数いる現場に立ち会うことはほとんど経験したことがなかった。複数の死傷者が出た通り魔事件を担当したことはあったが、現場に到着したときには負傷者は既に病院に搬送されていて、死亡したスズキという若い女性も同様だった。だから、このような光景はテレビ画面越しに見るのが常だと記憶していた。そこではヨーロッパがテロが起きたときの夜の光景が警察車両の青い光が警官が羽織る蛍光色のジャンパーと埃まみれか血だらけの怪我人たちを記号的に記憶されている。国名は置き換え可能であり、ジャンパーの色も回転灯の色もべつの色彩に置き換え可能な記号にすぎない。黒尽くめの特殊部隊の様相など、匿名性がきわまって置き換えても置き換えても区別がつかない。眼球に映る現在と記憶のなかの映像とのちがいはひと言でいえばリアリティの有無であるが、それは視野が三次元的な立体感を獲得しているか否かが問題なのではなく、眼の前で生起している/しつつあるできごとの総体が認識の受容範囲の限界を越えようとしてるのが問題で、できごとのリアリティはたやすく人間を自失や失語の状態に持ち込む。置き換えることなどとうてい不可能なことなのだと思い知らされる。とはいえ、テロ自体はもう収束しているのだから、あまりおおきく動揺するのも……
807 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:18:15.23 ID:6D6vTS+OO

刑事を出迎えた社員はつかつかと淀みなく負傷者のあいだを歩いて行った。歩みがあまりにスムーズなので、あらかじめ彼が歩くところには誰も座らせたり寝かさないようにと指示がされているみたいだった。その様子を見た刑事は先ほどとは別種の居心地の悪さを感じた。

防犯シャッターのところまでやってきた。そこにシートを被せられた遺体が何体も並べられていた。何度も見てきた光景だが、これほどの数を一度に視野に収めるのは初めてだった。


「防犯シャッターはまだ開かないのか?」


刑事はシートのふくらみから眼をはずし、遺体が並べられているのとは反対側の床に視線をやりながら言った。


「ウイルス攻撃の影響とのことです。順次復旧するはずです」


刑事に応えた社員のしゃべり方は平坦そのものだった。感情めいたものをいっさい見せず刑事に正対しその顔を見つめている。
808 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:19:04.22 ID:6D6vTS+OO


「亜人はしっかり拘束できてるのか?」

「もちろんです」


さきほどと変わらない平坦な声でフォージ安全の社員は言い切った。


「現在ビル内の仮眠室にて麻酔医の資格を持った研究員のもと、厳重に隔離しています。シャッターが開き護送車が到着し次第受け渡しできます」

「けが人の搬送が優先だ。中の社員の帰宅にはどれくらいかかる?」

「かかりません」


淀みない返答をうけた刑事の表情が面食らったように固まった。音声として聴き取れた言葉の意味がある汲み取れなかったのだ。


「被害のあった区画以外は通常営業を続けます。それが社長の方針なので」


面食らったままの刑事にむかって、フォージ安全の社員はことなげもなくそう告げた。


ーー
ーー
ーー


809 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:00.99 ID:6D6vTS+OO

機械室に人が戻ってきて、かれらはのびをしてからめいめい作業を再開し始めた。さまざまな種類の機械ががなり立てる騒音は耳栓がほしくなるくらいうるさく、機械や張り巡らされているダクト類の表面を微振動させるほどだった。天井のすぐ近くのダクトにもかすかな振動は伝わっていて、そこに寝転がって身を隠している永井と中野の後頭部や背中に鬱陶しい感覚を送っている。


中野「平沢さんたち、みんな無事だってよ。よかったな」


中野が左に顔を向け、上を見上げたままの永井に言った。ダクトに積もり積もった埃はエアホースから噴射された空気できれいに吹き払われていたので中野は遠慮なくおおきく挙動した。


永井「いいから、そういうの」


永井は顔を向けずとも中野の無遠慮さを感じ取っていて、ちいさく顔をしかめながらうんざりした口調で応えた。


中野「いやほんとすげえって。みんなの安全も考えて」

永井「犠牲者は出ると思ってたよ」

中野「余裕だったじゃん」

永井「佐藤がいなかったからな」


気の緩んだ中野を引き締めるかのように永井は口を開き、きっぱりした口調で言う。


永井「本番はこれからだ」

810 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:20:49.88 ID:6D6vTS+OO

さきほど戸崎と会話したとき、永井は佐藤が今回の暗殺に不参加だった理由をたった一言で簡潔に述べた。うすうす予感していた嫌な可能性が実現してしまったときに出す、口ごもりと運命に対する呆れ果てた感情を交えた声音で永井は「あの人、飽きてる」と戸崎に言った。
佐藤はその本名をサミュエル・T・オーウェンといい、イングランド系の父親と中国系の母親とのあいだ生まれたアメリカ人であることがすでに戸崎たちには判明している。一九六九年、サンディエゴの新兵訓練場でサミュエル・T・オーウェンに出会った元海兵隊員カーター氏が語るところによると、ポーカーフェイスとの呼び名を持っていたサミュエルは徴兵された若者たちのなかでも際立って若く見えたとそうだ。

「アジア系の顔つきというのも理由だが、それ以前に彼は年齢を偽って入隊していた」とカーター氏は言った。つづけて彼は「身長一七三程度の小柄な男がココでやっていけるのか?」とサミュエルに対して最初に抱いた印象を戸崎に語った。

「犯罪者の片鱗などは?」という戸崎の問いかけにカーター氏は「なかった」と即答し、戸崎がさらに質問を続ける前に「というより、かれは二週間で群を去った」と思い出にも満たない当時の短いできごとを回想した。本格的な戦闘訓練が始まった頃、担当教官が一言、ポーカーフェイスは重病のため使い物にならなくなったと告げた。
811 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:21:44.64 ID:6D6vTS+OO

カーター氏の次の回想はベトナム戦争終結後、米軍の完全撤退が完了してから一年が過ぎた、一九七六年のことだ。シアトルの自宅にいた彼に軍から一本の電話がかかってきた。アメリカ兵パイロット一名がいまだベトナム国内に捕虜として囚われているとの情報を入手した米軍は、とある理由からカーター氏をサミュエルが所属していた特殊部隊「チーム」に同行させ、ベトナムの奥地まで送り込んだ。そこは、戦争終結後も戦いはまだ続くと信じていた、ベトコンのなかでもとくに狂信的な集団百人ほどが潜伏している地域だった。危険極まりない地域だったが、そこへ侵入してゆく「チーム」の隠密行動は芸術的だった。身体の輪郭を暗闇に溶け込ませるすべを持ち、葉っぱひとつ揺らさずにジャングルを潜り抜けるすべを持ち、月明かりに立つ歩哨を音も無く暗闇に引きずり込み永遠に寝かせるすべを持っていた。「チーム」の技能をまの当たりにし、また自らも同様の行動(みずから技能をはるかに越えた行動をとれたのは、「チーム」の、とりわけサミュエルのおかげといってよかった。)をとったカーター氏は、得も言われぬ興奮と感動が胸に満ちていた。厳重な警備を瞬く間に抜け、サミュエルら「チーム」三名とカーター氏は捕虜を救出。カーター氏は捕虜となっていた弟を抱きしめると、弟もまたか細くなってしまった腕で兄を抱きしめた。これには「チーム」のメンバー二人も微笑みを浮かべた。あとはピックアップポイントまで後退すればそれで任務はおわる。

カーター氏は尊敬のまなざしを向けながら、サミュエルに脱出をうながした。カーター氏はにわかに興奮していた。またあの素晴らしい「チーム」の技能を眼にできる、その動きに加わり、弟とともに故郷に帰れる。
812 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:22:42.43 ID:6D6vTS+OO

サミュエルが、拳銃を抜き取り、銃口を地面に向けた。カーター氏は突然の行動にぽかんとし、「チーム」の二人も意味不明な行動に戸惑っている。二人はサミュエルの指が引き金にかかっているのを気にしていた。「チーム」のふたりと違って、カーター氏はサミュエルの表情を見ていた、いつものポーカーフェイスが、別の表情に変わるのをはじめて目撃した。


「プレイボール」


サミュエルは笑顔を浮かべて、引き金を引いた。

一発の銃弾が、百人の敵を呼びよせた。おびただしい数の敵との戦闘。まるでジャングルを形成する植物と熱帯の気候と闇が敵意を剥き出しにしてきたかのよう。戦闘中、サミュエルは笑みを絶やすことはなかった。茂みから飛び出してきたベトコンに銃剣で腹部を刺されても、お礼のように笑いながら水平に寝かしたナイフを心臓に送り返す。手榴弾がジープの荷台に転がり、炸裂しサミュエルの右脚を吹き飛ばす、「チーム」のひとりの顔面が半分になり、もうひとりの方は腹から多量の出血。カーター氏は耳鳴りに苦しみ、現実が遠のいていく感覚に襲われる。

認識が戻り、現実感を取り戻したとき、カーター氏は自分が自軍のヘリに乗っていることに気づいた。しばらくは茫然としていた。浮遊感をおぼえてからだいぶ経って安堵を覚え、カーター氏は弟の無事を確認しようと顔をあげた。サミュエルがいた。

もうその顔に“表情”はなく、その無表情は右脚が失われたことを惜しむというより、右脚が失われた状況が失われたことを惜しんでいるように見えた。

帰国後、サミュエル・T・オーウェンは軍法会議にかけられ不名誉除隊となる。
813 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:24:08.79 ID:6D6vTS+OO

本来ならそこで悪夢は終わるはずだった。あるいは、カーター氏の個人的な悪夢としてときおり思い出される程度のものとなるはずだった。

「だが、神は彼に……第二の戦場を与えてしまったのだ」カーター氏は消え去るような声でつぶやいた。

「亜人」と、戸崎が語り継いだ。

「もうその戦いに終わりなどない」


そう言ってカーター氏は述懐を終了した。

カーター氏の述懐は永井が抱いていたある予感を再確認させる類の話だった。つまり佐藤はたのしいから殺しをしているという予感、つまりたのしくなければ殺しをしない、そしていま佐藤はたのしくなくなってきている。

佐藤のきわめてシンプルな個人的感情へ対応しなければならないなんて。永井はみずからの合理性を放棄したくなった。
814 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:25:13.04 ID:6D6vTS+OO

中野「佐藤にはどんな作戦でいくんだ?」


中野がまた首を横にむけ訊いた。


永井「さっきと同じ作戦でいく。だからまだこの部屋にいるんだよ」

中野「大丈夫なのか? おんなじで」

永井「注射器は百五十年かたちが変わらない。それがベストだからだ」


さも当たり前のように永井は言う。


永井「だいいち佐藤は僕らの介入は知ってても作戦の中身までは知らない。だが問題もひとつ。敵の戦力を削ってくれる警備員が田中との戦いで減ってしまったこと。だから一階のシャッターを開き、実況見分に来た大勢の人間を招き入れる」


永井の口調は淡々としていて、すくなくとも永井にとって問題はたいしたことはないと言いたげだった。


永井「こうやって警察官を警備員の代用品にするんだ」

中野「どういう意味だよ」

永井「言ってるだろ。他人の安全なんか気にしないって」


永井はこのとき、はじめて視線を中野にむけた。中野は身体を起こして永井の顔を見下ろすかたちをとりながら、疑問を口にした。


中野「注射器がどうのって……どういうこと?」
815 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:26:43.84 ID:6D6vTS+OO

一階ではシャッターが開けられ、永井の作戦通りに多くの警察官がビル内に入ってきた。

戸崎はセキュリティ・サーバー室から田中の侵攻ルートを説明して、警官を各階に配置していった。

救急隊員が怪我人を見、手当が済んだ者から一階へと運んでいく。警官のほうは聞き取りをおこない、田中たちの足取りを確認する作業に没頭していた。

無線からは業務的な報告が聞こえてくるだけで、佐藤が現れる気配はまだなかった。

中野は無線の雑音と警官の口ごもりや言い直しが混じる報告を耳で受け止めながら、また永井に質問した。


中野「永井、さっき敵はまずセキュリティ・サーバー室を狙うって言ってたよな。佐藤一人じゃ侵入すらできねえんじゃねーの?」

永井「こちらでシャッターを開けっぱなしにしておく。不審がられたっていい。罠だと知っててテーマパークに飛び込んでくるんだから」


ふと永井が言葉を切った。


永井「正直、佐藤がどんな作戦で来るのかまったくわからない」


声の調子が低くなり、それとともに永井の表情が懸念に眉をよせるのを中野は見た。


永井「だが物理的に入口はひとつ、絶対、田中達とおなじ順路を辿るほかないんだ。それだけわかってれば十分! やつは怪物でもなんでもない、死なないだけのただの人間だ!」


永井は腕組みしている手に力を入れていた。指にかかる握力のせいか、声も少し荒っぽい。言い終わったあと、力を抜き、拳になっている手をゆるめる。そして、自分自身に言い聞かせるようにちいさくつぶやいた。


永井「だれがビビるかよ」
816 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:27:34.74 ID:6D6vTS+OO

アナスタシアは無線越しに永井の声を聞いていた。永井の口から無意識のうちに溢れ出た不安の感情はアナスタシアをむしろ納得の気持ちにさせた。それは永井のつぶやきがアナスタシアの内面の心情と一致するからだったが、それ以上に責任感と重圧の間隙から感情が垣間見えるという心理的葛藤のあり方に姉と弟とのつながりを見出したからだった。

アナスタシアはいまになってようやく、ここにいる明確な動機を掴んだ気がした。


アナスタシア「だれが、ビビるかよ」


アナスタシアは永井と同じ言葉をゆっくり口にした。恐怖を否定するためでなく、恐怖と戦う覚悟をするために。


ーー
ーー
ーー

817 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:28:26.96 ID:6D6vTS+OO

黒服たちはめいめい装備を点検し、ソファやキャビネットを応接室の入り口付近に縦に配置し身を隠す壁代わりにした。

準備が終わり、静かな待機の時間がまた戻ってきた。

真鍋はふと思いつめた表情を浮かべ、隣の平沢に話しかけた。


真鍋「平沢さん、今のうち返しておくよ」


真鍋は拳銃を取り出し、平沢に渡したい。


真鍋「あんたから貰った銃だ」


ベレッタM92F。真鍋が言った通り、平沢が譲渡したもので、平沢がその手でこの拳銃を持ってからかなりの時間が過ぎていた。

平沢はベレッタの銃口を床に下げ、真鍋を見つめた。

真鍋が口を開いた。

818 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2019/03/24(日) 23:29:16.34 ID:6D6vTS+OO

真鍋「今回の仕事が終わったら、この稼業から足を洗おうと思ってる」

黒服2「やめてどうする、真鍋」


年嵩の黒服が茶化すように話しに入ってきた。


真鍋「伊豆にいい物件があってな、そこでのんびりするよ」

黒服2「隠居ってやつか」

真鍋「こっちが死なねえように敵を殺す。それだけをやってきたってえのに、死なねえやつなんてのに出てこられちゃあよぁ……」


真鍋は口調には倦んだものが感じられた。十数年続けてきた仕事でときおり去来しては振り払ってきた考えに追いつかれて観念したかのように真鍋はつぶやいた。


真鍋「潮時だろ」

黒服2「おれは好きでやってんだ」


年嵩の黒服は真鍋の諦観を受けても即座に自分の意志を口にした。
1014.51 KB Speed:0.3   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)