このスレッドは950レスを超えています。そろそろ次スレを建てないと書き込みができなくなりますよ。

新田美波「わたしの弟が、亜人……?」

Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

248 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:01:46.64 ID:7K73HWKCO

小梅「プロデューサーさん……」


ふたたび赤信号で停止したとき、後部席の小梅が身を乗り出し、ぼそぼそとしたしゃべりを聞き逃さないようプロデューサーの耳元に口を近づけた。


武内P「どうかしましたか?」

小梅「あのね……おしっこしたい」


小梅はいつもとおなじ調子で訴えた。


武内P「……お手洗いですか」

小梅「うん……おしっこ」


プロデューサーはひとりで気まずい思いをしながら首に手をあてた。小梅はまだ身を乗り出したままだ。


武内P「えっと……そうですね、コンビニでも探しましょう」

小梅「あっちに、あたらしくできたところが……あるよ」
249 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:03:24.26 ID:7K73HWKCO

小梅が祝田通りのほうを指差した。プロデューサーは小梅の指の先にある建物に目を向けた。地上二十六階建てのビルがあった。中央合同庁舎第五号館。厚生労働省はこの庁舎に入居していた。


小梅「コ、コンビニに行くだけだから……大丈夫、だよね?」


小梅がいたずらっ子の表情を浮かべていった。プロデューサーは小梅を見つめたまま答えられないでいると、ダメ押しするかのように小梅は言葉を重ねた。


小梅「はやくしないと、漏れちゃうよ?」


かるくじんわりと、胸のすく思いがプロデューサーの内側にひろがった。痛快な反則技、というわけではもちろんない。年齢に見合った他愛のない言い繕いといった発想だが、その他愛のなさがプロデューサーの気持ちを楽にしてくれた。深刻な状況のただなかにいることを自覚しながら、深刻さに押しつぶされないよう工夫する。嘘やごまかしが心を守るために必要になるときもある。
250 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:04:23.89 ID:7K73HWKCO

武内P「白坂さん……ありがとうございます」


小梅の眼がすこしまるくなった。すこしの沈黙のあと、小梅は口を開いた。


小梅「なんだか……ヘンな意味に、聴こえるね?」


プロデューサーがあわてて、そういう意味で言ったのではないと弁明していると、小梅は正面のフロントガラスを指差していった。


小梅「信号、青になったよ?」


送迎車を祝田通りにすすめると、小梅の言っていた通り真新しいコンビニがあった。駐車場に車を停め、首をめぐらし、通りを見渡す。厚労省前はまだ静かだった。そういえば、集会の開始時刻を確認していなかった。もしかしたら、もう終わってしまったのか? スマートフォンを取り出し、ネットニュースを確認してみる。プロデューサーの心持ちは緊張に染まっている。


ーー
ーー
ーー

251 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:06:38.64 ID:7K73HWKCO

誰もいないモニタールームは暗闇に包まれている。戸崎は機器が並ぶ空間へと続く階段に無言のまま腰をおろし、細く引き締まった眼をモニターに向けている。正面の巨大モニターには亜人擁護思想者の個人情報がリアルタイムで更新されていて、この二日間でその数は飛躍的に増えている。


下村「今日ですね」


下村が階段を降りてきて、戸崎に声をかける。が、戸崎は振り向きもしない。下村はしかたなく視線をモニターに向ける。システムがあらたな亜人擁護思想者を発見し加算していく。


下村「どうするつもりですか、戸崎さん。省前は、大変なことになります……」


たまらず下村は不安げに戸崎に尋ねる。それでも戸崎は反応を示さない。


下村「わたしは、どうなるんでしょうか……?」


ついに下村はもっとも不安に思っていることを口にした。戸崎は首だけ動かし下村に眼を向ける。


戸崎「どうって、なにも変わらんよ」
252 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:08:37.30 ID:7K73HWKCO

省前に人々は集まらなかった。いるのは興味本位で携帯を片手に動画を撮ろうとする数人。閑散とした様子を見て、手に持っていた携帯はもう閉まっている。取材に来たテレビクルーも手持ち無沙汰だ。


戸崎「あんなことで人間は動かない。それに、ウェブ上には亜人の実験動画のフェイクなど山ほどある」


戸崎はすでに解明済みの数式を解説するかのように淡々と説明をつづける。だが、つぎの言葉にはかすかに怒気がこもっている。


戸崎「なにが『大きく覆る』だ。逃げた奴ら全員を見つけ出してやる。そして必ず、隠蔽する」


ーー
ーー
ーー


プロデューサーはようやく認める気になった。ここにはだれもいないし、だれも来なかった。


小梅「プロデューサー、さん……」

武内P「……帰りましょう」
253 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:11:42.70 ID:7K73HWKCO

小梅は口を開きかけたが、なにも言わないまま車に乗り込んだ。通りの向こうでは頭にタオルを巻いた男が電話している。その男はなにかにぶつかったようによろめいた。男はうしろを確認したがなにもいない。男からすこし離れた位置に半袖パーカーの少年がいてフードをかぶっている。彼は男が前に向き直ったあとも首をめぐらしてなにかを目線で追うようにしていた。

窓から通りの様子を見ていた小梅は、フードの少年は自分の乗っている車を眼で追ったのかと思った。そのときだった。いつもそばにいる「あの子」がなにかに反応を示している。


小梅「どうしたの……?」

武内P「なにか?」

小梅「あの子が……」


小梅はあとの言葉を口にしなかった。


小梅 (怯えてる……?)


小梅はふたたび厚労省前に視線を向けたが、なにかがいるようには見えなかった。プロデューサーの運転する車はコンビニをあとにし、祝田通りを抜け、プロダクションに向けて走っていく。送迎車の頭上を空を舞う鳥達が入れ替わるように通過していく。

ちょうどそのとき、ビル群の隙間を行く鳥達に猛烈な空気の乱れが襲いかかる。均整のとれた群れのかたちは頭上から吹きつけてくる風に崩され、集団はばらばらになる。すこしして群れは元どおりになるが、いきなり吹いてきた強い風がなぜ起こったのか、鳥達が理解することはなかった。
254 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:13:34.81 ID:7K73HWKCO

なぜなら、黒い幽霊は亜人にしか見えないからだ。

この黒い幽霊は手の代わりに翼を持っていて、翼を広げたときの全長は五メートルにもなる。頭部は首の断面がそのままになったかのようで、先にいくにしたがって太くなっている。

翼を持った幽霊が道路を曲がり厚労省前に飛んでゆく。ビルの窓ガラスに反射した光が翼の幽霊に飛びかかってくる。視界が真っ白に染まり、翼の幽霊はいちど翼をおおきく羽ばたかせ光から逃れる。すると、目の前を黒い粒子が舞い散っているようすを目にする。その光景はまるで大量の雪がしんしんと降っているようだったが、粒子は空からではなく地上から狼煙のように立ち昇っている。

見下ろすと、二十体近くもの黒い幽霊たちが厚労省前に集まっている。翼を持った幽霊は、この光景に興奮と緊張が混じり合った思いで地上に降り立つ。
255 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:14:45.57 ID:7K73HWKCO

田中の幽霊が厚労省の正面に立ち、ぞくぞくと集会にやってくる黒い幽霊たちを待ち受けている。田中は佐藤の言葉を思い出す。


佐藤 (田中君、この作戦は人間を集めるためのものじゃない。亜人を集めるためのものだ)

佐藤 (まずあの動画。人間はフェイクと混同してしまうが、亜人なら本物だと見抜く。ポイントは『身体の再生の仕方』。ニセ物とは出来が違う。一般には亜人がどう再生するかなんて知られてないからね)

佐藤 (ダメ押しが永井君ときみが逃げる様子を放送させたこと。『捕まっても逃げられた』。この実例は亜人に安心感を与え、名乗り出やすくする。そして、逃がした私は信頼される)

佐藤 (さあ、ようやくスタートポイントだ。国を変えるぞ)
256 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:16:27.84 ID:7K73HWKCO

田中の幽霊の周囲に集会参加者の幽霊たちが集まってくる。田中はかれらに話しかける。


IBM(田中)『よく来てくれた。これから本当の集合場所を教える』


二、三の黒い幽霊が田中の幽霊に話しかけ、亜人の権利獲得について積極的な姿勢をみせる。田中は去っていく幽霊が通行人にぶつからないよう気をつけながらよけるところを目撃する。田中はその光景にいらだちをおぼえる。

やつらはおれたちのことが見えていない。

田中は思う。だったら、見えるようにしてやる。おれたちは、おれたちの存在をどんな手段を使ってでも主張する。

そして必ず、と田中は考える。おれたちは権利を勝ち取る。


ーー
ーー
ーー

257 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:18:33.09 ID:7K73HWKCO

食卓にあがったカレーライスは、いままで家で食べてきたものよりルーの色が濃かった。半分くらいは黒色といった感じのカレーは見た目の通り味も濃く、口に入れた瞬間、芳香な匂いがひろがる。具材のひき肉をごはんといっしょに口の中でかき混ぜると、ほんとうにおいしい。


山中「作りすぎちゃったねえ。こりゃ、夕飯もカレーだね」


カレーにぱくつく永井の隣で、山中のおばあちゃんがいった。髪は白く、腕も細い。サラダを添えるためのちいさめの皿にカレーをよそい、これまたちいさめのスプーンでひかえめに昼食を食べている。


永井「おいしいから大丈夫だよ」


言葉のとおり、永井は夕飯のカレーもあっという間にたいらげる。
258 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:20:02.91 ID:7K73HWKCO

昼食のあと、皿洗いや雑事をすませ、ふたりは居間でテレビを見て過ごした。BSのチャンネルではむかしのアメリカ映画(『男性の好きなスポーツ』というタイトルだった)が放送されていて、なんとなしに眺めていたが、スクーターを運転する男が突如出現してきたクマとぶつかると、なぜかクマが人間と入れ替わりスクーターを運転するというシーンを見て、永井はおもわず吹き出した。

映画がおわったあと、チャンネルを地上波にかえる。この時間帯はたいていワイドショーしかやってない。話題は厚生労働省前での集会。集会に参加する人間はまったくいなかった。永井は厚労省前の空いた空間を見ながら、亜人は集まっているのだろうな、と思う。黒い幽霊をつかえば、カメラに映る心配もない。佐藤は亜人の仲間を集め、研究所襲撃より大規模な事件を起こすだろう。おそらく、より多くの人間が死ぬことになるだろう。
259 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:21:30.49 ID:7K73HWKCO

永井はあくびをする。冷たい麦茶を一口のんで、手のひらで畳の感触を確かめる。永井は平和だなあ、とほっと一息つく。佐藤が何をしようが、何人殺そうがそんなことはどうでもよく、可能な限りこのセーブゾーンに長く留まりたいと思う。

研究所から脱出するため河に飛び込んだあの日から丸一日かけて、永井はいまいる山村のちかくまで流されてきた。山中のおばあちゃんと出会ったのは偶然であり、幸運な出来事だった。なぜならおばあちゃんは、永井の正体を知ったうえで自宅に招き食事と寝床を提供してくれたからだ。永井はおばあちゃんの善意と提供してくれるものに感謝の気持ちをおぼえた。このふたつはとても大事だ。

しかし、と永井は考える。佐藤が事を起こすとなると、現在逃亡中の亜人として、僕の名前も関連して報道されるだろう。そうなった場合の対策も用意しておく必要がある……
260 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:22:47.38 ID:7K73HWKCO

永井「あ」


永井は不意に研究所で遭遇した星十字の幽霊の正体に気がつく。テレビでは厚労省前の集会に関連して、新田美波についてコメンテーターやゲストがてきとうに持論や予想を展開している。画面にはシンデレラプロジェクトの一員としてライブしているときの映像が映っている。永井の眼は美波ではなく、その横で歌っているーーライブの音声は聞こえないーー別の少女を注視している。研究所で耳にした星十字の幽霊が発した声は、子音に強い訛りがあった。


永井「おばあちゃん、お願いがあるんだけど」
261 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:25:12.45 ID:7K73HWKCO

翌日、山中のおばあちゃんは永井に頼まれたものを買ってくる。小腹をすかせた永井はちょうど煎餅を齧っているところだった。永井は煎餅を口の中に入れたまま、それーースマートフォンーーを操作して動画サイトで目的の動画を検索する。検索欄に名前を入力し、検索結果からインタビュー動画を探し再生する。十秒ほどで動画をとめ、キーパッドに死の前日ーー七月二十二日ーーに偶然見て記憶していた番号を打ちこむ。

呼び出し音を黙って聞いていると、聞き覚えのあるすこし訛った声が答える。


『もしもし』

永井「研究所できみの幽霊を見た」


永井は出し抜けに発言する。相手は沈黙を返す。発言に対する疑問の声も、電話をかけてきたのがだれかも尋ねず、ただ黙っている。永井はそのその沈黙に手応えを感じる。


永井「僕が指定する場所まで来てほしい。きみの助けが必要なんだ」


ーー
ーー
ーー

262 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [saga]:2017/06/10(土) 22:25:55.51 ID:pzaYUQq+0
黒服のおじちゃん達の死は悲しかったな…
263 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:27:25.15 ID:7K73HWKCO

レッスンを終えたアナスタシアは膝に両手をあて、下を向いて息を整えようと努力する。床に汗が滴るにまかせておくと、そのうち呼吸が落ち着いてくるが、それともに身体を動かしていたあいだは感じないでいられた苛立ちと自己嫌悪が復活してきてしまう。


無力感も。


美波はいまも外へ出られない。プロダクション側が現在の状況を鑑みて、美波がメディアに出ないようにしていることもあるが、なにより美波自身から気力が失われてしまっている。亜人管理委員会の嘘と、それを見抜けなかったことはおろか加担してしまった自分自身への絶望。そして亜人虐待の映像。これらが美波の心を挫き、抜け殻のようにしてしまったのだ。

アナスタシアも例の映像を見た。興味本位からではなく、もっと個人的な理由から。田中が眉間を撃ち抜かれる冒頭の映像から頭が理解を拒んだ。次のプレス機による圧殺の映像に変わった瞬間、アナスタシアは手に持っていたスマートフォンを投げ捨てた。まるで実際に拷問に使われ、いまだ血のついている道具を手に持ってしまったかのように。さいわい、床に落ちた瞬間に映像は停止した。それから一時間してから、やっとアナスタシアは床に落ちた携帯をひろうことができた。その日は悪夢を見ることになった。
264 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:29:16.20 ID:7K73HWKCO

さらに悪いことが続く。厚生労働省前の亜人虐待への抗議集会への参加者は、ほぼゼロだったと判明した。世間は亜人に関心がないのだろうか? いや、関心はある。だが、行動を起こすつもりがないだけだ。国内に三人しかいない亜人のために行動を起こす者はいなかった。それは永井圭の亜人発覚後の周囲の様子から、うすうすわかっていたことだった。

美波はいま、義理の母親から相談を受けた精神科医の診療と、医師が処方した精神安定剤によって、すこしは持ち直しているようだ。しかし、このことを知ったらどうなるだろう? また、絶望が彼女を襲うのではないか? 今度こそ、救いの可能性は潰えてしまったと思うのではないか? そうなってしまったら、美波は一体どうなってしまうのだろう?
265 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:30:44.08 ID:7K73HWKCO

この事実を美波に伝えることは、アナスタシアには許されていない。アナスタシアだけでなく、シンデレラプロジェクトの他のメンバーにも、プロデューサーにも現時点での通達は許可されなかった。当然のことだろうとは思う。いまこの段階で、美波にさらなるストレスを与えることは、どう考えても精神状態を悪化させる効果しかない。

しかし、いつまでも秘密にしておけるわけではない。治療のため、テレビやラジオや携帯を禁止して情報から遮断したとしても、いずれ美波はこのことを知るだろう。そのとき、わたしはどうすればいいのだろうか? 秘密にしていたことを謝罪するのか? それとも、虐待について抗議の声をあげなかったことを? プロダクションの意向に従い、ラブライカとしてではなくプロジェクトクローネとしてレッスンを受けていることを?

美波が活動を休止している現在、自分ががんばることでラブライカの存在を存続させるつもりだった。いまではそれが、自分可愛さの言い訳めいたものに思える……。
266 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:31:54.23 ID:7K73HWKCO

奏「ひどい汗よ」


顔を上げると、プロジェクトクローネのリーダー、速水奏がタオルとミネラルウォーターをアナスタシアに差しでいている。アナスタシアはお礼を言おうとするが、酷く乾いた喉が言葉を詰まらせる。結局頷くだけして、タオルとペットボトルを受け取る。タオルには熱中対策用のスプレーがかけられ、よく冷えている。ミネラルウォーターも同様だ。アナスタシアは顔の汗を拭ってから、ごくごくと水を飲みひと息つくと、ようやく奏にお礼の言葉を言えるようになる。


アナスタシア「スパシーバ、カナデ……ありがとうございます」


日本語でお礼の言葉を重ねたのは失敗だった、とアナスタシアは言った直後に思う。過剰な感じがして、何でもないふうを装えなかった。声の出し方も同じようにうまくいってない。おそらく笑顔も。奏はアナスタシアが言葉を発した瞬間、チクっとした痛みが走ったかのように表情を歪めた。次の瞬間には表情は元通りに戻ったが、奏の心にもわたしと同様の感情が浮かんでいるのだと、アナスタシアにはわかってしまう。
267 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:34:00.73 ID:7K73HWKCO

奏「午後からもレッスンを続けるの?」

アナスタシア「もうすぐ、お仕事ですから」


奏は黙ってアナスタシアを見つめる。すこしして奏は「わかった」とだけ言う。


奏「トレーナーさんに午後からもレッスンルームが使えるように伝えてくるわ」


奏が部屋から出ていくと、アナスタシアの眼に、壁の鏡に一人で写っている自分の姿が写る。ぽつんと部屋の中心に、孤独に佇んでいるだけの自分。現実の問題に背を向け、逃避しようとしたが、結局行き止まりにぶつかり茫然としているように見える。一人でいることは嫌だったはずなのに、いまでは一人でいることに逃げこんでいる。
268 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:35:28.40 ID:7K73HWKCO

奏はそんなアナスタシアを心配している。だが、無理に止めさせようとすることなく、練習に付き添い監視役をつとめることもない。何度か様子を見に来て、休憩だけはとらせるようにするだけだ。アナスタシアは奏の行動に感謝より心苦しさを覚える。

奏だけではない。シンデレラプロジェクトのメンバーにも、プロジェクトクローネのメンバーにも、それ以外のアイドルたちにも、プロデューサーやちひろや今西部長らにも、そして父親と母親や家族たちにも、いまの自分の振る舞いが心配を与えていることに、アナスタシアは罪悪感を覚えている。

だが、ほかにどうすればいいのかわからない。なにもしないでいると、無力感が蘇ってくるのだ。掴み損ねた手のことが蘇ってくる。いまはただ、その手のことを考える時間を減らそうとすることに必死になるしかない。
269 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:38:16.34 ID:7K73HWKCO

アナスタシアのスマートフォンに着信がはいる。マナーモードにしているため小刻みに振動する携帯をバッグから取り出し手に持つと、着信を知らせる画面は相手が非通知だと表示している。アナスタシアは通話に出る。


アナスタシア「もしもし」

永井『研究所できみの黒い幽霊を見た』


アナスタシアの呼吸が驚愕のためにとまる。これはなにかの間違いなのか? この声はほんとうに聞こえているものなのか? そうだとしても、この声はほんとうに彼の声なのか?


永井『僕が指定する場所まで来てほしい。きみの助けが必要なんだ』


アナスタシアの内面に渦巻く疑問に答えるというよりは、気もにとめてないといった感じで声は話を続ける。

アナスタシアは理解する。この声は永井圭の声だと。そして、わたしのことを知っているということを。


永井圭は、わたしを亜人だと知っている。
270 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/06/10(土) 22:43:02.05 ID:7K73HWKCO
今日はここまで。

幽霊つながりということで、小梅ちゃんに「おしっこしたいbot」こと黒い幽霊のセリフを言わせてみましたが、書いてるあいだめっちゃ恥ずかしかったです。

>>262
黒服たちが感傷的でないだけに余計につらいですよね。生き残った真鍋がこれからどういった行動にでるのか、期待と心配が入り混じってます。
271 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2017/06/10(土) 22:48:56.06 ID:LPhvcyiE0
おつー

おいしいから大丈夫は草
272 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2017/07/02(日) 17:06:42.56 ID:XRIUMAM70
つづきま〜だ時間かかりそうですかねぇ〜?
273 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/04(火) 22:03:34.05 ID:71zPWDoOO
お待たせしてしまって申し訳ありません。筆が止まっているわけではないのですが、書かなければならない要素が多く時間がかかってしまいました。なんとか目処がついてきたので、早ければ今週中、遅くとも来週には更新できると思います。

と、こんな報告だけではなんとも味気ないので、予告代わりに次回更新する内容をちょこっと紹介します。永井とアナスタシアの会話です。


−−
−−
−−


永井「どうしてわざわざ研究所に?」


永井の口調は、込み入った事件の真相を論理的に解き明かした探偵が、唯一分からなかった事件の動機、犯人の心理の部分への疑問を口にするかのような口調だった。


永井「きみ自身にもリスクはあったはずだ。亜人だとバレたら大変なことになってた」

アナスタシア「ほっとくわけにはいきません」


アナスタシアも永井を真っ直ぐ見据えて言った。いまから自分が口にするのは重要なことだと、アナスタシアは確信していた。


アナスタシア「あなたは、ミナミの大切なムラートゥシィーブラート……弟、なんですから」

永井「そう」


永井は枝の影を一瞥してから、アナスタシアに視線を戻した。目の前の亜人を見据えながら、永井は言った。


永井「僕には理解できないね」

アナスタシア「え……?」


アナスタシアには永井の言ったことこそ理解できなかった。もしかしたら、不用意にロシア語を使ったせいかもしれないと思い、改めて説明を試みようとした。


−−
−−
−−


では、また次回更新まで。がんばります。
274 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:24:59.86 ID:8mPTevMeO

275 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:25:35.97 ID:8mPTevMeO

九三年にオープンするはずだったホテルサンヘイリの有様は、二十年近く放置されていたにしては、立派に聳え立っているといってよかった。建物は周囲を鬱蒼とした森に囲まれた場所にあり、真上から降り注ぐ陽射しと森から沸き起こってくる蝉の鳴き声を一身に浴びている。もともとはこの森を切り開き、ゴルフ場やリゾート施設を建設する予定だったが、バブル崩壊を期に開発計画は頓挫。いまでは伸び放題の雑草とスプレーの落書きがこの夢の跡を飾っている。
この廃墟のまえに七人の男たちがいる。かれらはみな亜人で、二日前に厚生労働省に集い、ここに再集合していた。

かれらは大半は二十代半ばから後半と思えた。ストライプの半袖シャツとハーフのジーンズ、サンダルという格好の男と、カーディガンを肘までまくり、長髪を後ろで束ねている男は付き合いがあるらしく、緊張感なく他愛もないことをくっちゃべっている。他の者たちは互いに視線を合わせようとせず、黙りこくっている。眼鏡をかけた坊主頭の者、ショルダーバッグを肩からかけている者、曲がった右足の杖をついたジャージの者などがいた。いちばん若いのは、髪を茶色に染めた十代後半の少年。髪を短く刈り上げた体格の良い男性がおそらくもっとも年齢が上で、腕時計をみて時間を確認している。

276 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:27:01.46 ID:8mPTevMeO

突然、背後で手を叩く音がした。


IBM(佐藤)『コレで全員かな』


音がした方向を全員が見た。佐藤の黒い幽霊が手を合わせたままの格好でいる。全員が幽霊の姿を視認していることを確認すると、佐藤の幽霊は言葉を続けた。


IBM(佐藤)『上がってきてくれ』


案内に従って、一同は建物に入り、階段をのぼった。建物の中にはいくつか空き缶やゴミがちらばっていたがか、外観の様子から予想していたより荒れ果ててはいない。

階段を先に上る少年にむかって、体格の良い男が声をかける。


秋山「ガキの来るところじゃない」

中野「え、おれ?」


中野は振り返って、男の顔を見た。その表情には警戒と不審が浮かんでいる。


秋山「なにがあるかわかんねーぞ」


と、秋山は警告する。

277 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:28:09.69 ID:8mPTevMeO

秋山「だいいち、あの男……うさん臭い」


秋山はまるで窓から外の様子を伺うように首を動かし、ホテル内部の構造を検分する。佐藤の幽霊に案内され移動してきたルートを思い浮かべ、その構造や設計を頭の中で組み立てている。


秋山「佐藤の分身が案内した部屋……建物の構造上、外へ出にくい箇所に位置している」


中野は感心した様子を見せ、感嘆の息をはく。


中野「おじさん、何者?」

秋山「ただの消防士だ」


一同は目的の階に辿り着いた。佐藤が待ち受けていた部屋は広く、おそらくレストランかなにかが入居すると予定だったのだろう。工事は途中で中止になったのか、部屋は何の塗装もされないまま、剥き出しのコンクリート柱や放置された部材や作業道具が目立ち、壁や床に埋め込まれるはずのケーブルがそのままの状態でぶら下がっている。

278 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:29:14.62 ID:8mPTevMeO

佐藤「絶景だね」


佐藤が集まった亜人たちを見渡して言った。


佐藤「初めてだろう、君たち? これだけの亜人が集まるという光景は」

亜人1「佐藤さん、ぼくはまだ仲間というわけじゃない」


眼鏡をかけた亜人が、首をもみほぐすように手を首筋に置きながら指摘した。


亜人1「あなたがどう亜人の権利を訴えていくのか、そのプランを説明していただきたい」

亜人2「そう、それ知りたい」


ショルダーバッグの男が同調する。


佐藤「プランなんてたいそうなものはないよ」


佐藤はあわてることなく、おだやかに言葉を続ける。


佐藤「ただ、できるかぎりのことを、精一杯やるんた」


佐藤はゆっくりと首を動かしながら、一人ひとりの顔を見渡した。かれらは口を結び、佐藤が次になにを言うかを待っている。佐藤がふたたび口を開く。

279 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:30:23.99 ID:8mPTevMeO

佐藤「そう、大量虐殺する」


予想だにしていなかった佐藤の提案に、再集合した一同はそろって息を飲み、沈黙した。佐藤の声音はさっきまでの落ち着きを保ったままで、その選択がさも当然のことであるかのように話を続ける。


佐藤「あの放送で猶予は与えた。隠蔽する政府、無関心な国民。私はもう容赦する気がない。自分達が巻き込まれれば、もう無関心ではいられないはずだ。そして、我々の力を認めさせる」


佐藤の言葉に愕然とし、いまだ自分の耳に疑いを持つ者もいれば、昏い興奮を隠しきれない者もいる。


高橋「はは……集まったっつても、この人数だぜ?」

ゲン「算段はついてんのかよ?」


後者の反応を示す二人が佐藤に問いかける。それに対し、佐藤は口角を上げ、にんまりとした笑みを作って答える。


佐藤「やるよ? 私は」

秋山「馬鹿か!? そんなことすべきじゃない!」


秋山は佐藤の計画に強硬に反対した。佐藤は態度を変えなかった。平然と、「もちろん、全員から賛同を得ようなんて思ってないよ」と嘯く。


佐藤「反対派は君と、君と……君は?」


佐藤は手を縦に振りながら、秋山と眼鏡の亜人とショルダーバッグの亜人を反対派へと選り分けていく。次に佐藤は視線を右に動かし、顔を伏せている中野を見つけると声をかけた。声をかけられた瞬間、中野の肩がびくっと震えた。


佐藤「君はどうする?」

280 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:31:40.28 ID:8mPTevMeO

佐藤に問いかけられた中野は、怯えたように唾を飲み込んで額から汗を滲ませていた。まさかテロへの参加を呼びかけられるとは夢にも思っていなかったからだ。


中野「反対です」


おそるおそるといった調子で、中野はなんとか反対の意志を伝える。


佐藤「あー……そうか。残念だなあ……」


そう言う佐藤の表情はほんとうに残念そうだ。


佐藤「反対派は帰ってもらってかまわないよ」


その言葉に促され、眼鏡とショルダーバッグの男が出口に向かう。眼鏡の男は秋山に「行きましょう」と声をかけるが、秋山は佐藤を睨みつけたままでいる。


秋山「佐藤……ふざけたことはさせないぞ。必ずやめさせる」


中野が二人のあとをついていく。秋山は去ろうとする気配を見せず、中野は緊張感が漂う視線の交錯につられたのか、ふと佐藤のほうを見た。

佐藤の背後の壁の右側の床の近くに、八〇センチ四方くらいの換気口があった。換気口にはルーバーが取り付けられていた。ルーバーの羽板は薄いアルミでできていて、真ん中あたりにある羽板のあいだから、筒のようなものが中野たちのいる方に伸びている。


中野「あ」

281 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:33:25.83 ID:8mPTevMeO

空気が噴出するような音がしたのと、中野が秋山の膝裏を蹴ったのはほぼ同じタイミングでのことだった。秋山の膝がくの字に折れ、体勢が崩れる。次の瞬間、中野と秋山のあいだを麻酔ダートが飛んでいった。麻酔ダートは眼鏡をした亜人の背中に突き刺さり、中野は倒れたその男に駆け寄って「平気か!?」と大声をかける。

ガンガン、と換気口のルーバーを何度も蹴りつける音がする。秋山が音のするほうを見ると、ルーバーの固定部が外れ、内側から蹴り飛ばされた。換気口の中には田中が潜んでいた。ガス式のダートライフルをぴったりと身体に引き寄せてスペースをつくり、コルトM1911を握った右手を秋山たちに向けて突き出している。


秋山「逃げろ逃げろ逃げろ!!」


秋山は叫びながら、覆いかぶさるようにして中野の身体を持ち上げ、ドアに走る。直後に四連射。最初の弾がショルダーバッグの男に命中する。二、三発目は壁に穴を開け、四発目はドアの向こうに倒れこんだ秋山と中野の上を飛び去っていった。

秋山は身体を起こす暇も惜しんで、足でドアを閉めてから、ドアの横にあったロッカーを倒しバリケード代わりにする。


中野「置いてくのか!?」

秋山「ああ!」


起き上がった秋山がロッカーをドアにぴったりとくっつけるように持ち上げながら叫ぶ。


秋山「ココで捕まったら誰が奴らを止めるんだ!」

282 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:34:59.47 ID:8mPTevMeO

部屋の中では、銃撃の瞬間に壁に飛びすさった高橋とゲンが息を喘がせている。動揺しているが、同時に興奮しているのか二人とも口の端が上向いている。

田中は逃げた二人を追おうとするが、ノブがガチャガチャいうだけでドアは開かない。


田中「あら? 開かねー……」


田中は振り返って佐藤に尋ねる。


田中「どうします? 佐藤さん」

佐藤「君は本当に射撃が上手くならないなあ。当たったよ」


佐藤のシャツの腹部が血に染まっている。佐藤は腕を開いて、銃撃を受けたところを田中に晒しながら「死んじゃうよー」と嘯いた。田中が佐藤に謝罪する。佐藤はあまり気に留めない様子でショルダーバッグの男に視線を向けて言う。


佐藤「でも、彼の命中箇所はグッドだね」


銃弾は男の左側の上腹部に命中していた。高橋らと違い、彼の呼吸は弱々しく行動不能であることは一目瞭然だった。彼は銃創を手で押さえていたが、そこは射入口の側で、傷口の大きい射出口の方から出血が絶え間なく続いている。床には小便を漏らしたときみたいな血だまりがあり、Tシャツの裾やジーンズの尻を赤く染めている。


佐藤「脾臓が破裂したんじゃないかな。死ぬ度胸のない奴なら、死ぬまで動けない」

田中「こいつらは?」

佐藤「ドラム缶に入れて地下に置いとく」

283 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:36:18.76 ID:8mPTevMeO

ロッカーの位置を調節し終えた秋山と中野が、ドア越しに佐藤の声を聞いた。


秋山「聞いただろ。監禁されるだけだ。行くぞ!」


秋山は中野のパーカーの袖を引っ張り、出口を求めて廊下を走って行く。


佐藤「よし、君たちのやる気を見せてもらおう!」


佐藤は部屋に残った高橋とゲンに向かって言う。佐藤の両手にはスピアガンがあり、ワイヤー付きの銛の先端が鋭い光を放っている。


佐藤「逃げた奴を追う。君たち二人は田中君の補佐だ」


高橋とゲンが投げ渡されたスピアガンを受け取る。


佐藤「それでターゲットの動きを封じる」


亜人狩りにふさわしい道具を手にした高橋が、短く口笛を吹いた。


佐藤「そして、もう一人……」


佐藤が杖をついた男を見る。杖の男は佐藤に注目を向けられても、平然とした態度をとっている。さっきの銃撃にもさしたる動揺はみせなかった。


奥山「僕は走れないよ。生まれつき右足の筋肉が弱い。復活してもこの足はこのままだった」

佐藤「どう貢献できる」


奥山はゆっくりと視線を動かす。


奥山「……それ」


奥山は田中が肩にのせているダートライフルの銃身を指差して、言う。


奥山「そのダートライフル、銃身が若干曲がってる。少し左を狙ったほうがいい。あと、CO2ボンベの締めが緩いよ」


奥山の指摘に従って田中がCO2ボンベを捻ると、ボンベはキュッと音を立て固定された。


奥山「機械なら田中さんより詳しいみたいだけど」

佐藤「いいね」


佐藤は笑みを浮かべ、そしてマンハントの開始を宣言する。


佐藤「さあ、CO-OPプレイスタートだ」

284 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:37:49.61 ID:8mPTevMeO

秋山と中野は必死に走り続けている。建設途中で放棄されたホテルには表記がなく、どこもかしこも区別がつかずまるで迷路のようだ。二人は外縁にあたるであろう方向に走りまくった。脚を激しく回転させるのと同じように、曲がり角があれば首を左右に動かし脱出のための経路を探る。


秋山「窓があるぞ!」


秋山がついに窓を見つけた。大きな採光窓で、高さも横幅も、成人男性が二人並んでも余裕で通り抜けられるくらいはある。窓から差し込んでくる太陽光が床を四角く照らしている。近寄ってみると、窓には鍵が付いておりはめ殺しになっていない。


中野「外へ出たらどうする!?」


窓ガラスを押しながら、中野が叫ぶ。


秋山「おまえは家へ帰れ、普通の生活をしてろ」


秋山はロックを解除するため鍵に両手をかけているが、年月の経過が窓の鍵を酷く錆びつかせているのか、なかなかロックが外れない。秋山はいちど力を緩め、鍵を握りなおし体重を一気にかける。窓が開き、秋山は中野に向かって言う。


秋山「ガキの仕事じゃない」

285 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:38:54.07 ID:8mPTevMeO

湿気混じりのムワッとした暑気が入り込んでくる。二人は纏わりつこうとする暑気を突き抜けるように、窓から身を乗り出して下を覗き込んだ。地上八階の高さ。亜人といえども思わず躊躇する。


中野「コッ……ココから降りるのかよ!」

秋山「亜人だろ」

中野「高所恐怖症なんだけど……」

秋山「さっさと飛び降りろ! 置いてくぞ!」


秋山は喝を入れるように叫びかけるが、中野は怖がって涙目になり、動けないでいる。


秋山「いいか、奴らは死ぬこともなく誰にもバレずに、電車を脱線させ、旅客機を落とせる。そうなればもっととんでもないことに……」


秋山はどれほど事態が切迫しているか、中野に説明しようとする。


秋山「おれには家族が、娘がいる。どうしても奴を止めたい」

中野「押してくれ……!」

秋山「子供を突き落とせるかッ!」
286 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:42:08.56 ID:8mPTevMeO

秋山がそう叫んだ直後、二本の銛が秋山の身体を貫いた。ワイヤーが巻き取られると、秋山は後ろへ引っ張られて廊下の床へ倒れ落ちる。銛そのものも、秋山が引っ張れていくと、滑るように身体から引き抜かれそうになったが、先端にある返しが肉に引っかかり食い込んで、銛が抜けてしまうのを防いでいる。


中野「おじさん!」


中野が秋山の手を握り、これ以上後ろへ引っ張られていかないように二人は手に力を込める。


高橋「ワイヤーがかかったぞ」

ゲン「田中さん! 今だ!」


田中がダートライフルの引き金を引く。真っ直ぐ飛翔する麻酔ダートは中野のすぐ横を通り過ぎ、?を切り裂いた。


高橋「本当にヘタだな」

田中「だまれ」


言いながら田中は次の麻酔ダートを装填する。秋山はその様子を見ていた。


中野「抜けねーのか!? それ」


焦る中野に秋山は声を低めて言う。


秋山「おまえしかにいない」


中野にはわけがわからない。


中野「ハハハ、は!?」

287 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:43:45.19 ID:8mPTevMeO

あまりにも突然のことに、中野は笑いの発作が起こったかのように息を吐いた。そのあいだにも握った手を懸命に引っ張り続けているが、秋山の身体を窓の外へ運ぶことができない。手の感覚が消えて、腕が震えを見せはじめている。


秋山「おまえがどうにかしろ! もう、おまえにしか止められない!」


秋山の握力も限界に近づいている。激痛と出血のため、普段からの訓練によって築き上げてきた立派な肉体からでも力は失われつつある。このままでは共倒れになる。それだけは絶対にできない。


秋山「絶対にやり遂げろ、行け、行け!」


中野の呼吸が、数瞬止まる。永遠にも等しい刹那が過ぎ去り、中野は息を吸い、秋山に答える。


中野「わ、わかった」


中野は意を決して手を離す。身体を反転させ、窓の外へと向かう。


田中「少し左……」


ライフルのスコープを覗き込みながら、田中は奥山の助言を思い出す。アドバイスに従って銃身の僅かに左にずらす。立ち上がったことで、標的は狙いやすくなっている。田中は引き金を引いた。麻酔ダートは背を向ける中野めがけて真っ直ぐ飛んでいく。無防備な背中に麻酔ダートが突き刺さる数瞬前、黒い手が麻酔ダートを受け止め、握り潰した。


秋山「おまえの相手はおれだぁ……」


苦悶が混じった声で、秋山は田中に応戦を告げる。黒い手がもう一つ形成される。


秋山「馬鹿野郎!」

288 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:44:52.97 ID:8mPTevMeO

頭部から三角錐のような五つの角が、上に向かって伸びている黒い幽霊が両拳を身体の前で構え、脇を締め腰を落とし、ファイティングポーズをとる。秋山はワイヤーを腕に巻きつけながら、門番のように窓の前に背中を預け陣取った。


IBM(田中)『お゛お゛お゛』


田中もまた黒い幽霊を発現させる。四足獣のように身体を低くしながら、長い爪を床に突き刺し、ぞっとするような速さで黒い幽霊は秋山と中野へ接近する。秋山の黒い幽霊が拳を固くし、腕を引く。中野は縁に立ち、地上を見下ろす。


中野「マジかよ」


黒い幽霊同士が衝突するまさにその瞬間、中野は窓から跳んだ。飛び降りるとき、中野はなぜか眼を閉じなかった。下から吹いてくる空気の流動、落下の感覚と景色の流転に、中野は眼を閉じておけば、と瞬時に後悔する。だがそれも一瞬の感情として終わる。死の暗闇、感じることのできない暗闇がやって来て、次の瞬間には地上にいた。中野は盲滅法に全力で走り出す。森の中に入り、五分ものあいだ足を止めず、全力疾走を続ける。体力が底をつきると、苦しげに激しく呼吸をしながら、汗まみれの顔を後ろへ向ける。秋山がいるはずの建物は、森の木々に遮られ、上階の部分しか見えなくなっている。


田中「逃げ足の速い野郎だな」


田中は中野を見失っていた。窓から首を出しても見えるのは森ばかりで、動くものは空にいる鳥くらいしかいない。


秋山「田中……」


秋山の声はいまにも息絶えそうな調子がにじんでいた。身体には斜めに深い裂傷が走り、秋山自身は床に広がる血の中に身体を横たえている。

289 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:45:43.62 ID:8mPTevMeO

秋山「こんなことで……亜人の権利を認めさせられると……思うのか……」

田中「必ず勝ち取る」

秋山「操られるな……」


呼気になりかけているような声だったが、秋山は田中の返答にすぐに応えた。


秋山「佐藤はたぶん、そんなこと、考えちゃあいない」


田中は鼻腔が閉じるのを感じる。


秋山「政府が、亜人の特別な力を隠す理由……パニックを避けたいんだと思う……だが、テロのようなことをしてこの力が公になってみろ、それこそとんでもないぞ……」

秋山「全国民同意の、亜人狩りが始まる」

秋山「そうなったらおれたちは……本当にお終いだ」


−−
−−
−−

290 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:49:58.87 ID:8mPTevMeO

曽我部「これは先日省前で撮られたテレビカメラの映像です」


細い面長の顔をした若い厚労省職員が言う。眼鏡をかけたこの男は曽我部といって、戸崎の大学の後輩だった。曽我部はパソコンを操作して映像を再生する。液晶ディスプレイに映っているのは、先日の亜人虐待の抗議活動を撮影した映像で、テレビ局から直接借りたものだ。念のため、省前にいた人間の顔を調べ、その個人情報を擁護思想者リストに加えるための優先度の低い作業の途中、曽我部は映像に妙な細部を見つけ、戸崎に報告した。



曽我部「この男、なにかがぶつかったように不自然によろめく……」


曽我部は携帯電話で話している頭にタオルを巻いた男に戸崎の注意を促す。曽我部の言った通り、男の身体が突然バランスを崩し、あやうく倒れそうになる。映像には他にフードをかぶった男が映っているだけだ。


戸崎「いたのか、目に見えないやつらが」


戸崎は目線をディスプレイから外さずに言った。

291 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:51:54.20 ID:8mPTevMeO

曽我部「数まではわかりませんが」

戸崎「ズームしてくれ」

曽我部「これ以上見ても……」

戸崎「違う。奥の奴だ」


戸崎はフードの男を指差す。フードの男は前方の男がよろめいたとき、頭を左に向けている。


戸崎「何かを……目で追うような動作」


曽我部が映像をコマ送りにする。左を向いていたフードの男がぎこちない動作で正面を向く。


戸崎「横切るIBMが見えてる」


映像が拡大され、フードの男の顔がはっきりと見て取れる。男の顔立ちは、まだ少年といっていい年頃。


戸崎「亜人だ」


中野攻。


戸崎「ここでなにがあったのか、この男が手がかりだ」


−−
−−
−−

292 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:58:21.35 ID:8mPTevMeO

一夜明け、中野は自宅のあるマンションへと帰ってきた。建物内に入ると、ようやく緊張感が薄れるのを感じる。築二十年以上のそうとう古いマンションで、見た目も味気なく郷愁もなにもあったものではないが、長く住んでると、こうした場所でも心は馴染んでしまうのだ。


主婦「おはよー」

中野「あ、おはようございます」


七階でエレベーターから下りると、顔馴染みの主婦と顔を合わす。四十代半ばの眼鏡をかけた女性で、顔を合わせば世間話をする仲だ(中野にとって、たいていの住人がそうだった)。


主婦「あらやだー、血出てるわよ」


主婦は中野の血に染まったパーカーを見て言う。あまり焦った様子はない。


中野「ハハハ、コレ?」

主婦「救急車呼ぶ?」

中野「いや、大丈夫だから」


と、そこで中野は主婦が手に持っているゴミ袋に気づく。


中野「あ、ゴミ出し……」


中野は何事もなかったかのようにいつも通りの態度で、ゴミ袋を指差しながら言う。


中野「おれどうせすぐ出かけるから、ここに置いといてくれれば持ってくぜ?」

主婦「痛そっ。救急車呼んだほうがいいわっ」

293 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 12:59:35.38 ID:8mPTevMeO

世間話を終えて主婦と別れ、中野は自分の部屋に向かう。疲労のためか中野はだらだらとした足取りで歩いていた。他の住人にまたしたも血まみれのパーカーが目撃されるかもしれなかったが、疲れを癒すために自分の部屋まで慌てて走る気にはなれない。中野はポケットに手を入れたまま、七階の通路を進み、部屋の前まで来た。


中野「お」


ノブを持つと、力を入れるまえにドアが開いた。


中野「カギ開けっ放しだったか」



中野はドアを閉めて、靴を脱ごうとしてふと顔をあげる。部屋の中に四人の男達がいた。いずれも黒いスーツを着ており、土足のまま部屋を物色している。


中野「あれ?」

黒服1「中野君、だね? ここに住んでる」

294 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:00:51.87 ID:8mPTevMeO

黒服の一人が中野のほうを向きながら、懐に手を入れる。中野は怒鳴ったり、怯えたり、あるいは繕ったりすることはしなかった。ほとんど本能的に部屋から飛び出し、通路を駆け抜け、逃走する。黒服たちもすぐに追走する。彼らは言葉を交わすこともなく、自然に二組に分かれ、一方は中野の追走、もう一方は階下へ向かい反対側へとまわる。

下村はマンションの前に停めた車の中で、黒服たちが待機している仲間に放つ大声を聞いた。


下村「あのスーツの人たちは?」


下村は助手席の戸崎に質問する。


戸崎「彼らは厚労省の職員じゃない。ある男が雇っていた連中だ。それを私が再び招集した。さまざな仕事をしてくれる。少々荒っぽいこともな」

295 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:01:42.61 ID:8mPTevMeO

中野「あ!」


通路を疾走している中野の正面、通路の曲がり角から先回りしていた黒服が現れ、麻酔銃を中野めがけて撃つ。中野は咄嗟に手すりを掴み、滑り込むように体勢を低くする。靴の裏が通路を滑り、中野はあやうく仰向けになって倒れてしまいそうになる。中野にむかって発射された麻酔ダートが追手のひとりに刺さる。


中野「また飛び降りかよ!」


中野はすぐに身体を起こし、手すりに足を乗せる。しかし、頭を下に向けて飛び降りようとした寸前、中野は動きを中断する。


黒服2「見えた」

真鍋「落ちたら確保する」


二名の黒服が中野が落下するであろう植込みに待機している。


中野「プロだな!」


対応の速さに焦燥する暇もなく、中野の体勢が崩れる。さっき曲がり角から姿を現した眼鏡をかけた大男が中野の右脚をがっちりと掴み、動きを拘束している。中野は足を抜こうと暴れるが、ビクともしない。大男は禿頭で右耳の上部が欠けており、額に二筋の古傷が残っていた。中野の必死の抵抗にもかかわらず、その大男の表情は閉じ切った古傷のように動かない。

296 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:03:19.26 ID:8mPTevMeO

黒服1「押さえておけ! 近距離で撃ち込む!」


中野を追ってきた黒服が、麻酔銃を引き抜きながら叫ぶ。


中野「やばい……やばいやばい!」


焦燥が襲い始める。中野はまるでコマのように無意識的に首を振りまわす。


中野「あ」


中野はあるものに目を止める。首の回転のせいで視界はブレまくっていたが、中野にはそれがなんなのかはっきりと分かる。中野は自由に動かせる左脚と左手を、すぐ側にある雨樋が設置されている柱に打ちつけ、最大の力をこめて思いっきり押し出そうとする。


平沢「力くらべする気か?」


黒服の力がさらに強まる。中野の身体はわずかに震える程度で、身体の位置はすこしも変わらない。中野の右手は水を掻くように振り回っている。


中野「離せ、死ぬぞ」


中野の警告に黒服は訝しむ。その直後、ついに追いついた追手の黒服が通路から身を乗り出し、「離すな!」と叫びながら麻酔銃を撃つ。麻酔ダートが中野の右の二の腕に突き刺さる。意識が消え、力を失った中野の身体が四肢をだらりとしながら落ちていく。脱力した身体の重さは、数字以上の負荷を腕にかける。つんのめるのを防ぐため、黒服の大男は全身の筋肉を締め付けようとする。そのとき、眼鏡の大男は中野の警告の意味を理解する。

297 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:05:37.79 ID:8mPTevMeO

マンションのすぐ近くに電柱があった。電柱に張り渡された電線は、手すりのすぐ下を通っている。なぜと思う間もなく、黒服は瞬時に手を離した。 落下する中野が電線に引っかかる。当然、細い電線では落下する人体を受け止められない。電線を固定しているアンカーが耐え切れず、弾けとぶ。


真鍋「おいおい」


下で待ち受けていた二名の黒服が見たのは、頭から落ちてくる中野と苦しみに狂ってのたうちまわる蛇のような電線が自分たちに降りかかってくる様子だった。断線したところから漏れる電流はまるで蛇の舌のようだ。張力から解放された電線は鞭のようで、当たればその部分の肉が引き裂かれることは必至だ。

黒服たちは、頭をかばいながら植込みから飛び退ると、同時に中野が木の中に落ちる。二〇センチ程の枝が脇腹に突き刺さり、黄色いパーカーを赤く染めた。


中野「くッ……そぉ……!」


中野は痛みのあまり目を閉じた。だがすぐに、涙が滲む瞳を開けると上体を起こす。


中野「まだまだ」


そう呟いてから、中野は植込みからマンション前の道路にむかって走り出す。黒服の一人が追いかけようとするが、もう一人の黒服が「よせ、感電するぞ!」と叫びながらスーツの背中を掴んでとめる。中野が道路に出る。


戸崎「はねろ」


中野が逃走する様子をフロントガラス越しに見ていた戸崎が運転席の下村に命じた。

298 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:06:52.84 ID:8mPTevMeO

下村「え」


突然の命令に、下村はハンドルも持たずに聞き返すことしかできない。


戸崎「じゃあ替われ」


部下が指示を遂行できないと判断すると、戸崎は冷たい横目を向けながら言った。逃げる中野の耳にエンジンの音が聞こえる。その音の急激な接近と音量の増加に、中野の脳は危険を察知する。危険の正体を確認するため、中野は反射的に後ろを振り向く。それが自動車だと理解する前に、中野の身体がバンパーに追突する。一回転しながら、ボンネットに乗り上げた中野の身体は、戸崎がブレーキを踏み込むと前方に吹っ飛ばされ、地面に落ちて全身がひどく打ち付けられる。
戸崎は顔色ひとつ変えず車から下り、麻酔銃を構える。中野がふらつきながら立ち上がる。額から割れた果物のように血を流し、さらに出血が酷くなった右脇腹を押さえ、戸崎を睨む。下村は痛めつけられた亜人を見ながら、悲痛さを感じている。

この睨み合いに突如して救急車が乱入してくる。


中野「は?」

戸崎「!」

299 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:07:57.84 ID:8mPTevMeO

戸崎は麻酔銃を隠した。中野は突然現れた救急車に呆然としながら、ストレッチャーを出す救急隊員にされるがままになっている。


救急隊員1「出血しているとの通報があったが、こんなに重傷とは……」


ストレッチャーに仰向けに寝かせられた中野は、救急車に乗せられる直前、救いの主が誰なのか知る。さっき中野と会話をかわした主婦が子機を片手に電話をしている。彼女は下の様子を見下ろしながら、電話口の向こうに状況を伝えようと身振りも加えて、より大きな声を出していた。


中野「ククク……ハハハ……」

救急隊員1「笑ってるぞ」

救急隊員2「頭を強く打ったのかも」



救急車のバックドアが閉められたあとも、戸崎には中野の笑い声がかすかに聞こえていた。マンションにいた黒服たちが戸崎のところに駆け寄る。


戸崎「あのケガじゃあしばらくは入院になる。どこへ運ばれるか調べろ」


戸崎は黒服たちに指示を出すと、車に乗り込み、バタンとドアを閉めた。


−−
−−
−−

300 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:09:43.22 ID:8mPTevMeO

救急救命室に運び込まれた多発外傷の患者の心臓が停止する。


看護師「バイタルなし」


バイタルサインモニタが表示する心電図はフラットラインを示し、医師たちは蘇生処置を施すが、心電図は反応をしないまま、患者の生命活動の停止を無感情に告げている。


医師「クソ……出血が多すぎた」


可能な処置はすべて施した。だが、命は帰ってこなかった。太く濃い色の口髭を生やしている医師が患者の顔を見た。眼を閉じている彼は十七、八歳くらいの少年だった。患者を亡くしたときに起こる感情に慣れというものはない。経験を積んでうまくなるのは、感情と表情を切り離す術だけだ。


医師「おれにもこの子くらいのせがれがいてな……」

301 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:12:16.57 ID:8mPTevMeO

医師は亡くなったばかりの少年が横たわるベッドに背を向けて言う。話を聞く看護師も医師と同様の感情を持っている。看護師は、指示を出す立場と指示を遂行する立場では、前者のほうが自責に悩むのだろうと考えている。看護師は医師に向き合う位置にいたので、ベッドとその横にあるモニターの様子が目に入っていた。彼女は生物と機械が同時に再活動するのを目撃する。心電図が驚いたように飛び跳ね、死んでいたはずの少年がベッドから飛び起きる。


中野「くそっ!」


生き返った中野の意識ははっきりしていて、自らの現状をこのうえなく理解していた。


中野「政府にバレてないのがおれの強みだってのに」

医師「生きてるぞ」


手術用マスクを外していた医師は、中野とは対照的に呆然とした態度のまま、目の前の事態に理解が追いついていない。
中野が現状に対するこれから対応に決めかねていると、自分の身体から発生する黒い粒子に気づく。


中野「じゅわじゅわ……」


中野は昨晩の帰路の途中、電車の窓から見えた光景を思い出す。海辺を通過するとき、遠くの山の麓から黒い狼煙が昇っていた。月の光も星の明かりもないのに、その黒い筋が空に上がる様子がはっきりと見えていた。


中野「あんな遠くでも夜でも見えた。普通の物質じゃない」


中野はもう一度自分の右手から放出する黒い粒子に試験を向ける。


中野「これと同じ物質」


そして、中野はとある結論に達する。


中野「あの方向に、亜人が?」


302 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:13:09.45 ID:8mPTevMeO

その直後、ベッドまで駆けつけた医師が中野のすぐ側で叫ぶ。


医師「続行だ! 必ず救うぞ」

看護師「先生、たぶん亜人……」

中野「うるせーな!」


看護師と中野が同時に言う。看護師の口調は戸惑いがちにぼそっとしたものだったが、中野は医師にも負けない大声を出して面倒を終わらせようとする。


中野「裏口は!?」


医師から教えられた裏口から病院を出た中野は、運良くタクシーをつかまえると駅へと走らせる。黒い狼煙があがっていた地域に見当をつけ、切符を買うと電車に乗り込む。


中野 (アレは佐藤達じゃない。方向が違った)


電車に揺られながら、中野はそのように考える。佐藤達以外の亜人。しかしそれが中野にとって味方となるのか、敵となるのか。このときの中野に、それを考える余裕はなかった。

−−
−−
−−

303 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:14:44.61 ID:8mPTevMeO

アナスタシアが五歳のころ、不幸な出きごとがふたつもあった。ひとつは、アナスタシア自身が死んでしまったことである。このこと自体はたしかに不幸なできごとだったが、しかし結果を振り返れば、それほど悲しみにくれる必要のないできことでもあった。アナスタシアは奇しくもその名前の通り(この名前の原義はギリシャ語で復活を意味する)、復活した。アナスタシアは亜人だったのだ。

さて、アナスタシアが死に至るきっかけは、ナラードナヤ山の写真であった。ナラードナヤ山はチュメル州にあるウラル山脈の最高峰で、その名は「人民の山」を意味する。珪岩と変形した粘板岩からなっており、いくつかの氷河をいただいている標高一八九四メートルの山だ。山嶺にある谷にはカラマツやカバノキの疎林があり、斜面は高地性のツンドラに覆われている。
アナスタシアが見ていたナラードナヤ山の写真は春の訪れを感じさせるもので、これは向こう側の山から撮影されたものだった。空にはコーヒーに溶かしたミルクのような薄い雲が広がり、穏やかな青色が黒く見える山肌と対照的に映る。山にはまだ雪が残っている。山肌を縦に走る雪の線が何本もあり、遠くから見ると滝みたいだ。この写真は父親の友人のアルパインクライマーが撮影したもので、彼は医師でありスポーツ医学にも詳しいアナスタシアの父親に登山前にはかならず相談と検診を頼んでいた。こんど、彼はコーカサス山脈の最高峰、標高五六四二メートルを誇るエルブルス山への登頂に挑戦するらしい。
304 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:16:02.62 ID:8mPTevMeO

この登山者の友人は、よく山頂から見える光景のことをアナスタシアに話して聞かせてくれた。高いところでは空気が薄い。空気の色も薄くなり、痛みをもたらす寒さに瞬く眼をがんばって見開くと、いままで踏破してきた黒い岩肌や遠くにみえる山肌を覆う雪の色がまるで変わって見える。空の色の濃さ、膨らむ雲のかたち、太陽から降ってくる光は線であり、また拡散する粒子でもある。時刻の移り変わりとともに、それが絶えず変動し一遍たりとも同じ光景は出現しない。すべてが澄み渡って、地上の光景とはまるでちがって見える、と父親の友人は言う。


「途方も無い光景が目の前に現れ、死んでも構わないという感覚が自然に生まれていくる。というより、生きることと死ぬことの構造的な差異が消失し、両者が互いに近づいているとでも言うべきか」


彼は、宇宙に向かってのびる指先の上にいることを許されている、というふうにも語った。そして、彼は夜の星についても話しはじめる。星々の輝きと同じくらい詳細に、夜空の暗黒の美しさについても語る。


「ナースチャ、きみが見てきた夜空の星よりも一億倍は美しいぞ。星たちは空にいるんじゃなく、宇宙に浮かんでいるのだと、はっきりと思い知らされる。星を見上げてる自分も宇宙と浮かんでいるのだと思い出すんだ」

「ママはアーニャってよぶんだよ」


幼いアナスタシアは話に夢中になりなからも、しっかり訂正することを忘れない。それからアーニャは一億倍という数字について想像してみる。


「ストーよりおおきいの?」

305 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:17:22.07 ID:8mPTevMeO

アーニャは最近百まで数えられるようになった。お米の粒を使って数えたのだった。次の目標はティースィチャ、千粒まで数えること。


「とんでもなく大きいな」


と、言うのは父親。


「ストーの百万倍だよ、アーニャ」


友人が自分の言うことをちゃんときいてくれたのがうれしくて、アーニャはこの友人のことがますます好きになる。


「アーニャもつれてって」


この言葉には父親も友人も困ったように笑う。でも、本気で困っているわけではない。彼らの笑顔は微笑ましい。一方、アーニャはお願いしたのに笑われたからすこし不満げだ。そこで父親は今度キャンプに行って天体観測をすることを約束する。

306 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:18:39.31 ID:8mPTevMeO

アーニャの気分は良くなったが、それでも地上とはちがう風景の話は忘れられない。次の日も、父親の友人が置いていった山頂からの写真を眺めては、この風景を自分の眼で確かめてみたいと思っている。アーニャはカーペットの上に手足をのばした姿勢で寝転がっていて、あごをくっつけながら焦点をあわせるでもなしにぼんやりと写真に目を向けている。半分眠っているようにもみえるが、突然バッと起き出し、写真を床に置くとカーペットに手のひらをのせ、砂場の砂を寄せ集めるように、黒地に白の線が入ったカーペットの生地を寄せ上げた。きちんと山のかたちになるまで指をぴんとのばしたまま手を動かす。やっと、納得できるかたちになったが、手を離すとカーペットはすぐにへたりこんでしまう。もういちどやり直し、カーペットを山にする。アーニャは手で押さえたままお尻を上げ、それからゆっくりひざを伸ばす。手と足をカーペットにくっつけている姿はまるで猫がのびをしているよう。アーニャはすり足しながら手と足を入れ替える。すこしすべってしまったが、カーペットはまだ十分山のかたちを保っている。両手が自由になったアーニャは角の尖った木製のコーヒーテーブルを掴んで、それを重しにしようとふんばる。上等な楢の木でできたテーブルは五歳のアーニャにはとても重たい。指はピンク色になってるし、足元のカーペットはぐしゃぐしゃの有様。アーニャは疲れて腕の力を抜く。そのとき、押さえつけられていたカーペットの生地が、つるつるした床の上を、砂浜に押し寄せる波のようにすべった。カーペットにのかっていたアーニャは、カーペットの動きとは反対の方向につんのめり、頭はテーブルにむかう。

307 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:21:45.51 ID:8mPTevMeO

ごん、というものが落ちる音を聞いたアーニャの父親が居間にもどると、位置のずれたカーペットがまず目に入った。次に縁のところが赤くてらてらしているコーヒーテーブルが見え、これも位置がずれている。近づいて、家族三人が腰かけられるソファの陰をのぞいてみると、そこにはおでこから血を流したアーニャが倒れている。カーペットには血が染み込み、黒地の部分は不吉に湿り、白線の部分はいやな赤みになっている。アーニャはぴくりともしない。

アーニャの父親は医者ではあったが、選手達の体調管理やトレーニング法の考案などが仕事のスポーツ医だったから、業務で人の死に接したことはない。彼は喉が閉まり、息ができない思いをしながら、アーニャの額の傷をタオルで押さえようとひざまずく。娘のまぶたは開いていて、青い瞳はいつものようにとてもきれいだったが、光はなかった。脈も測ってみる。指はなにも感じなかった。

父親は娘をソファに寝かせてやった。一分ほどは無感覚の時間がつづき、それから涙が溢れ出てきたが、まだ声は出ない。顎や頬が震えていて、口を開けると歯が舌を噛んだ。喉の奥からちいさく空気が鳴った。慟哭がはじまりそうだった。

308 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:23:25.20 ID:8mPTevMeO

そのとき、アーニャの眼がぱっちり開いた。ぼおっとなっていたのは一瞬で、みるみる顔はゆがんでそしてアーニャは大声で泣き始めた。額を打ったことを覚えていたし、それが最期の記憶だったから、怖かったし、痛みもあると思い込んでいたのだ。とてもおおきな声で泣いたから、アーニャは息継ぎをしなければならなくなった。そこでアーニャは自分を見下ろす父親に気がつく。父親は眼を開けたまま微動だにせず、石像みたいに固まったまま。ぜんぜん心配してくれないから、アーニャはまた泣き始める。こんどは大声は出さず、ぐじぐしと洟を啜るような泣き方。

ようやく父親がアーニャの介抱を再開する。娘を慰めながらおでこの傷を確認してみると、裂傷も頭蓋骨の凹みもきれいになくなっている。何事も起きなかったようにつやつやしたまるいおでこだったが、その皮膚の上や銀色の髪の毛には血がこびりついたままで、それはカーペットや床も同様。

と、そこへアーニャの母親と祖父と祖母が帰ってくる。三人は病院帰り。アーニャの祖父の虫に刺されでもしたのか、瞼が赤く腫れ痒みもあるので病院に行っていたのだ。他の二人は付き添いというか、祖父が診察を受けいているあいだの買い物目的で同行していた。

祖父はふたりに待ち時間のあいだに隣だった赤い顔の男が彼に語った内容を披露していた。

309 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:24:35.42 ID:8mPTevMeO

「偉大なロシア人というものは、頭を斧で割られて死ぬものだそうだ。たとえばトロツキー、それと『罪と罰』の老婆」

「あの老婆は俗物じゃない」


そう反論したのはアーニャの祖母だ。


「ドストエフスキーが生み出した人物だから、俗物でも偉大なんだとさ」

「その人、アル中患者でしょう?」

「そりゃ病院だもの。アル中はいるさ」


アーニャの母親は日本人だが、流暢なロシア語で会話に加わる。


「ラモン・メルカデルはピッケルでトロツキーを殴ったんじゃなかった?」

「そりゃ、まあ……」


母親は買物袋の中身を冷蔵庫へ移し替え、祖母は電熱式のサモワールで紅茶を淹れ始める。祖父はティーカップを準備するとやることがなくなり、女性陣から台所を追い出される。しかたなく上着を脱ぎながら居間の方へ移動すると、息子が孫を抱きかかえてひざまづいているのに気づいて怪訝に思う。
310 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:26:04.88 ID:8mPTevMeO

「どうしたんだ、ふたりして抱きあって?」


と、祖父はたずねる。そのとき、彼はカーペットの血の跡を見つける。視線は息子と孫に移動し、ベソをかいているアーニャの髪の毛の赤いところに眼をみはる。


「亜人だ」

「なに?」


と、祖父は訊き返す。慌てふためいて問い詰めるということをするには、まだ眼に映る現状への理解が足りず、祖父は呆けたみたいに口を開けたまま。アーニャのすすり泣きの声に、祖母と母親も居間にやってきて心配そう。父親は三人の顔へ視線を移しながら、また同じことを答える。


「アナスタシアは亜人だ」


部屋のなかにいる全員がその声を聞き、それは涙と鼻水で顔がぐずぐずになっているアーニャも例外ではなかったのだが、このたった五歳の女の子だけが、父親が言ったことの意味がわからない。ただ、とても怖くて痛い思いをしたという、そのことだけがはっきりと記憶に残っていた。

アナスタシアが亜人だと発覚したのはこういう事情だった。折同じくして、日本でも国内二例目の亜人発見が話題になっていたので、かれらはアナスタシアの秘密を死んでも守り抜こうも心に誓った。
311 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:27:32.68 ID:8mPTevMeO

さて、話をふたつめの不幸なできこどに移すが、これはひとつめの出来ごとから半年後の話で、事件といってもいいかもしれない。なぜなら、アナスタシアの祖父の友人である、質屋を営むペシコフという男が、真夜中に後頭部を斧でしたたかに打ちのめされ、砕けた頭蓋骨を歩道に散りばめるはめになったからである。モスクワ郊外の人通りまばらな、雪と泥だらけの小道は、ペシコフの頭があったところがすこしのあいだ、ねっとりとした赤色に染まっていたが、一時間もしないうちに雪に埋もれて見えなくなった。

この事件はさらに悲劇的なところがあった。ペシコフは寒さが厳しくなってくると、古くなった茶色い外套をいつも身につけ身をちぢこませることを習慣としており、これはぬくぬくとした部屋の中でも行われていたのだが、彼の愛用する、というよりキツネやウサギの毛が寒い季節に冬毛に生え変わるように、ペシコフが灰色の空から冷たい突風が吹き荒ぶこの季節につねに彼の肌を覆っていたその外套は、彼の身体からすっかりなくなっていて、あわれなペシコフの亡骸には肌着しか残されておらず、狩りで仕留められ、皮を剥がれた獲物を連想させる有様となって冷たく凍った路面の上に横たわっていたのだった。

312 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:29:36.40 ID:8mPTevMeO

さてこの事件の犯人はついぞ発見されえぬままであったが、地域ではちょっとした騒ぎになった。それは残酷極まる殺人というだけでなく、すこし妙なところもある事件だったからだ。ペシコフが殺された現場はかれの質屋の真ん前だったのだが、質屋の鍵は壊されておらず、中にだれも侵入した形跡もなかったのだ。どうやら犯人はペシコフを待ち構えていて、斧で後ろから殴ったあと、辱しめるためか寒さのためか、とにかく外套を剥ぎ取っていったようだ。

とある三文雑誌はこの事件を『罪と罰』と『外套』の不出来な合体と書きたてたが、さすがにこの表現は顰蹙を買った。だいたい、『罪と罰』で斧殺人の被害に遭う老婆は高利貸しだったろう、との指摘も寄せられることにもなった。雑誌側は指摘に対し、もちろん承知していて相違はあえてであり、不出来という語句にその意を込めた、とコメントした。当然、この言い訳はさらなる怒りを呼んだわけだが、しかし、被害者の友人たちは怒りよりも哀しみが勝っていた。ペシコフはこんな馬鹿げた記事の主役になるには、善人過ぎたのだ。

アナスタシアの祖父も怒りより哀しみを感じる側の人間で、その立場のほかの人間と同じく、ペシコフの死を告げられてからの数日間はへべれけに酔っ払っていた。自分の書斎で飲めばいいものを、居間や台所で祖父はグラスを傾けるものだから、酩酊状態の祖父の姿は幼いアーニャにも目撃されることになった。しかし、酔っ払う理由のある酔っ払いは比較的恵まれた存在だろう。理由が多すぎてなんで呑むのかわからないまま酔っ払うしかない人間もいて、それはロシア人の大半がそうなのだ。

313 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:32:00.63 ID:8mPTevMeO

さてここで話は(またしても)変わって、彼のあだ名である「半分ロシア人」について説明する。このあだ名は平均的なロシア人が摂取する酒量の半分で酔っ払ってしまう体質から来ているものなのだが、ペシコフの葬式から帰ってきた祖父は、どうやらズブロッカとコリアンダー・ウォトカとジグリ・ビールさらにポート・ワインのせいで、半分どころか二倍のロシア人になっていた。モスクワ発ペトゥシキ行きの列車にでも乗り込むんじゃないか、と見る者をそう思わせざるをえないありさまだった。

アーニャは祖父の「半分ロシア人」というあだ名が好きで、祖父の方も孫娘の前では喜んで「半分ロシア人」らしく振る舞うようになった(もちろん、素面のまま)。まずはグラスを用意する。グラスを持ち上げ、酒をあおるふりをして美味そうに唇を手の甲で拭う。テーブルにグラスを戻したところでアーニャの質問。「酔っ払うってどういうこと?」。祖父はテーブルの上のグラスを指差して答える。「ここにグラスが二つあるだろう。このグラスが四つに見えだしたら酔っ払ってるってことだ」。「グラス一つしかないよ」。グラスの数を祖父に教えるとき、アーニャはくすくす笑っている。

314 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:33:05.54 ID:8mPTevMeO

いまの祖父はきっとグラスの数が数えられないだろう。グラスは分裂に分裂を重ね、計上できる段階はとっくに過ぎ去り、おそらく万華鏡を覗き込んだときのように乱反射の小宇宙を形成している。アーニャは心配して祖父に近寄ってみる。祖父はがっくりと項垂れ、魅入られてしまったかのようにグラスを見下ろしていた。アーニャはなんだか見てはいけないものを見ているような気分になった。

と、突然アーニャの身体が宙に浮いた。父親がアーニャを抱き上げて、ベットまで連れていく。アーニャは台所から連れ出されるまで祖父から視線を外さなかった。ベットの上にはきれいに折りたたまれたパジャマがあって、父親がパジャマのボタンを外すあいだにアーニャはひとりで服を脱ぐ。パジャマに袖を通し、上のボタンからとめる。手こずってると下からボタンをとめていた父親がアーニャを手伝う。ベットにはいったアーニャは枕に頭を預けながら、自分を見守っている父親に尋ねてみる。


「死ぬってどういうこと?」

「パパもよくわからないんだ」


父親はそう言いながらアーニャの頭を撫でた。父親はアーニャが眠りにおちるまでずっと髪をすくようにやさしく手を動かしていた。やがて、アーニャはうとうとしだし、瞼が重くなってきた。そして、目を閉じて、いよいよ眠ろうとする瞬間、父親がボソッとつぶやく声が耳に入った。


「おまえは決して死なないよ」


−−
−−
−−

315 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:35:41.96 ID:8mPTevMeO

アナスタシアは暑気にあてられ眼を覚ました。寝起きに一呼吸すると、蒸し暑い空気が鼻から肺に吸い込まれる。タオルで顔を拭き、もう一度深呼吸してから周りを見渡す。後ろに広がる森は深い影を作っていて、奥に行けば行くほど樹間は狭くなり影の濃さが増して不気味な感じがするが、その分涼しそうでもある。視線を眼の前に戻すと、太陽の照り返しで緑色に輝く草の葉がそよ風に揺れている。さらに視線を上げると、地面は途中で途切れ、そこから崖になっていて、十二メートル程下方から川の流れる音が上ってきている。崖の向こう側の景色は、いまアナスタシアがいる場所を鏡で写したみたいにそっくりで、最盛期の蝉の声が前後の森からアナスタシアに降り注ぐ。川がせせらぐ音と蝉の声に混じって、ピーヒョロロロという鳶の鳴き声が聞こえてくる。アナスタシアは鳴き声に顔を上げてみるが、頭上にある小楢の木の枝は存分に葉を繁らせ、空を飛行する鳥の姿は見えなかった。暑さに参ってしまいそうな気がするので、木の陰から出て行くのは躊躇われた。後ろ髪を結んで露出させたうなじにタオルを当て汗を拭くと、タオルがじっとりと汗を含んだ。

アナスタシアがスマートフォンを取り出して時間を確認すると、時刻は午後三時を目前にしていて、約束した時間から二時間以上過ぎていた。永井圭はまだ現れない。
316 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:36:53.10 ID:8mPTevMeO

永井圭から連絡がきたのは二日前。オフの日を利用して千葉県までやって来た。距離からすればそれほどでもないが、交通機関がほとんどない地域で、早朝に出発したにも関わらず、永井が指定した地点に到着したのは、待ち合わせ時刻の正午直前だった。山中での合流は、迷ってしまうのではないかと不安だったが、永井は合流地点への道順を交通機関の利用も含めて詳細にメールしてきて、山中の移動は方位磁石の距離測定のアプリを使いながら永井が置いていった目印をたどることでほとんど問題なくすんだ。合流地点には、まるでベンチのように二本の丸太が草の上に転がっていた。

アナスタシアは到着した直後黒い粒子で狼煙をあげ、永井に到着を知らせた。これも永井の指示で、アナスタシアは黒い粒子にこんな使い方があるとは考えもせず感心していたのだが、永井からの返答はなく、現在も待ちぼうけている状態だ。さっきも黒い粒子で何度目かになる到着のメッセージを送っているのだが、空にもケータイにも一向に連絡はない。
317 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:39:15.33 ID:8mPTevMeO

もしかして、潜伏していることがバレたのでは?

待ち合わせの時刻から一時間が過ぎたところでアナスタシアは不安になってきた。美波の弟が一向に姿も見せない状況に時間が経つごとに焦燥感が増していく。探すにしてもここがどこだが、このあたりに人が住んでいるのかすらわからない。スマートフォンは圏外で地図の検索もできない。

結局、アナスタシアは待つしかない。寮の門限のことを考えると、もうあまり待つ時間はないが、それでも、とにかく待つことにした。アナスタシアは崖下の川の流れる音を聞きながら、ふと、降りて行って川の近くで涼みながら待ってみようかな、と考えた。ここからそんなに離れるわけではないし、黒い粒子の狼煙をあげればどこにいるかはすぐにわかるだろうし、それに持ってきたスポーツドリンクはからっぽで喉がカラカラなのだ。

アナスタシアはしばらく流水に思いを馳せていたが、やがて膝を抱えて眼を閉じると、唾をゴクッと飲み込んで我慢することにした。もうすこしだけここで待ってみよう。美波の弟なら理由もなく約束を破ることはないはず。きっとすぐにやって来るだろう、たぶん。

318 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:40:29.12 ID:8mPTevMeO

アナスタシアの予想は正しかった。アナスタシアが眼を覚ましてから十分くらい過ぎた頃、草を踏む音が静かに鳴っているのに気づき顔を上げると、永井が崖にそって歩いている姿が目に入った。コンビニに買い物に行くかのような足取りで、大きめのワンショルダーバックを肩にかけている。アナスタシアは慌ててタオルで汗を拭き取ろうとしたが、永井は思ったより早くアナスタシアの元までやって来た。


永井「待たせて悪かったね」


アナスタシアは立ち上がろうとしたが、その前に永井が丸太に腰を下ろしたので、アナスタシアも浮きかけた腰を下ろした。研究所で見たとき、短く刈られていた永井の髪の毛は元の長さに戻っていた。


永井「おばあちゃんに急に用事を頼まれてね。こんなに暑いのに草取りすることになっちゃって」


永井はショルダーバッグの中を探りながら遅れた理由を説明した。二時間以上遅れたわりには、その口ぶりに申し訳なさはあまり感じられず、せいぜい十分くらい遅れたような態度だった。アナスタシアが返事をする前に永井はバックから水筒を取り出し、アナスタシアに差し出した。


永井「麦茶でよかったら」

319 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:41:34.44 ID:8mPTevMeO

水筒の蓋をコップにして注いだ麦茶はかすかな波を作り、葉の隙間から差し込んでくる光線を跳ね返して揺れている。煎った大麦からできた液体は新鮮な色をしていて、その上透き通っている。アナスタシアは麦茶を一口で半分ほど飲みこんだ。冷たさが喉を通る感覚が気持ち良く、残りもすぐに飲んでしまった。蓋を空にしたあとにゆっくり息をつくと、喉に残っていた冷気が口まで戻ってくる。アナスタシアは永井にお礼を言った。


アナスタシア「スパシーバ……ありがとうございます」

永井「ごはんは食べた?」

アナスタシア「アー……お昼ならもう……」


食べました、と言いかけたところで、アナスタシアのお腹がちいさく鳴り、空腹であることを無遠慮に告げた。永井は、はずかしそうにうつむくアナスタシアにさしたる反応も見せず、バックからプラスチック製の保存容器を取り出しアナスタシアに渡した。


永井「お昼の残りで悪いけど」


容器の蓋を開けると、中にはサランラップに包まれたおにぎりが三個入っていて、底に小型の保冷剤が敷いてある。おにぎりのかたちはどれも不恰好で、ごつごつしていた。

320 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:42:35.35 ID:8mPTevMeO

永井「かたちが悪くてごめんね」

アナスタシア「あなたが、作ったんですか?」

永井「握っただけだけどね。村の人たちで草刈りするからって、みんなのお昼を作るのを手伝わされたんだ」

アナスタシア「だ、大丈夫、なんですか? テレビでたくさん……」

永井「案外気づかれないもんだよ。ちょっと田舎に来ただけで誰も僕の顔を知らないんだ。それに、十七、八なんてみんな特徴ない顔してるし」


そう言うと、永井はペットボトルのお茶を一口飲んだ。ペットボトルから口を離すと、永井はアナスタシアのぴったりくっつけた膝の上に置いたままの容器に視線を移して、言った。


永井「冷たいからおいしくないかも」


お腹が鳴ったすぐあとにパクつくのはなんだかはしたない気がして、アナスタシアはおにぎりに手をつけるのを躊躇っていたのだが、永井のひと言によって一口食べることに決めた。口に入れた白米は、たしかに永井の言う通り冷えていたが、お米は固すぎず柔らかすぎず、芯までしっかりとした食感があり噛むのが楽しい。具材はきのこの煮付け。だし汁と醤油とみりんの風味が噛むごとに染み出し、ご飯とのあいだに染み渡る。きのこそのものの味もとんでもなく美味しい。


アナスタシア「オーチニ フクースナ……!」

永井「そう。よかった」

321 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:44:15.01 ID:8mPTevMeO

アナスタシアが視線をおにぎりから目の前の永井に向けると、永井はアナスタシアがおいしそうにおにぎりを食べる様子を見て、安心したように薄い微笑みを作っていた。アナスタシアはその微笑みを見て驚いた。

アナスタシアは直接的にはじめて見る美波の弟がどんな顔、表情をしているのか、じっくりとよく見てみたい気持ちだったのだが、自分の顔がさんざん報道され、政府や警察はおろか一般の人びとにも追いかけられ、追い立てられている状況にあっては、そうした態度をとるのは失礼だろうと思い、永井が腰を下ろしたときにひかえめに一瞥したあとは、視線を二人のあいだの地面に向けていた。

目や鼻、眉の形といった形質的な類似はそういった理由から、しっかりと見て取れなかった。ただ、口角の角度や頬の持ち上げ方といった形式的な部分は、姉である美波の笑い方にそっくりだった。アナスタシアの驚きは、微笑みのかたちが類似していたことだけに留まらない。表面上は似ているはずの微笑みがもたらす効果は、真逆といっていいほど異なっていた。美波のそれと違い、永井圭の笑みは技術的な点が目について、なんだか落ち着かない気持ちになる。アナスタシアはそんな気持ちにを振り払うように二個目のおにぎりを食べ始めた。小枝を拾い、地面に刺す永井の表情から笑顔はもうなくなっていた。

結局、アナスタシアはおにぎり三個をすべてたいらげた。
322 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:45:17.68 ID:8mPTevMeO

アナスタシア「ごちそうさま、でした」


アナスタシアは手を合わせながら言った。


永井「口にあったようでよかったよ」

アナスタシア「中身は、キノコ、でしたね? なんていうキノコですか?」

永井「なんだっけな。このあたりでよく採れるんだけど」

アナスタシア「おばあちゃん、と言ってました。その人が、採ってきたのですか?」

永井「まあね。この近くの村に流れ着いたときに出会ったんだ。それからお世話になってる」

アナスタシア「ハラショー。それは、とってもいいこと、ですね」


アナスタシアはさっきたいらげたおにぎりの味を思い出し、いままで食べたこともないくらい美味しいきのこの名前をぜひ知りたいと思った。


アナスタシア「ンー……ショウコに訊けば、わかるかな」


アナスタシアがぼそっとつぶやくと、その声を聞いていた永井が疑問の表情を浮かべたので、アナスタシアは簡単に説明をする。


アナスタシア「アイドルです。同じ寮に住んでて、キノコにとっても詳しくて……」

永井「姉さんはいまそこに?」

323 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:47:08.43 ID:8mPTevMeO

永井は、その人物の個人的なことまで知るつもりはないとでもいうように、アナスタシアの言葉を遮った。


アナスタシア「アー……はい」

永井「様子はどう?」

アナスタシア「心配、しています。あなたのこと……」

永井「そう」


永井は視線を斜め下の地面に落とすと、黙りこくってしまった。


アナスタシア「あの……」


しばらくして、アナスタシアは永井に声をかけた。永井は声に反応は示したが、顔は地面に向けたままだ。


アナスタシア「今日のこと、ミナミには話しても……」

永井「駄目だ」


なおも顔を上げないまま、永井はアナスタシアの提案を最後まで聞かないうちにきっぱりと否定した。その否定の明瞭さに、アナスタシアはどぎまぎしてしまう。永井が顔を上げてアナスタシアを正面から見据える。その眼から、冷たいと言えるほどの意志が見て取れる。

324 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:49:05.46 ID:8mPTevMeO

永井「亜人管理委員会は現在逃亡中の僕の行方を最優先に捜索しているだろう。僕の家族や知人は確実に監視されているし、電話の傍受や盗聴だって行なわれているかもしれない」

アナスタシア「でも、ミナミはほんとうに、とても心配して……」

永井「相手は国だ」


永井はまたしてもきっぱりと言ってのけた。アナスタシアが沈黙していると、永井は淡々と言葉を続けた。


永井「僕の消息に関することがわずかでも洩れたら、政府はふたたび関係者を聴取する。母さんはともかく、姉や入院中の妹を煩わせたくない。ああ、それに下手すればきみも追及されるだろうしね」


言い終わると、永井はまたペットボトルのお茶を口に含んだ。斜めから降り注ぐ太陽の光が小楢の影の位置をずらし、永井が座っているところは明るくなっていた。地面に挿した木の枝は真っ直ぐな影を作っていて、枝と影による二本の線は時計の長身と短針のようだった。永井の位置から影をみると、どれだけ時間が経過したわかるようになっている。

アナスタシアはこれ以上自分がなにかを提案するより、永井が自分をここに呼んだ理由を説明するのを待ったほうがいいと思った。永井のほうが事態を冷静に判断しているし、それに頭も良い。

アナスタシアは永井が話し始めるのを待った。永井は膝の上に肘を置いて、手を脚のあいだに力を抜いた状態で垂らしながら垂直に立っている枝を見つめるばかりでいっこうに口を開こうとしなかった。アナスタシアはちらっと腕時計を見た。永井が来てから三十分が過ぎていた。そろそろここを出発しないと、寮の門限に間に合わないかもしれない。



アナスタシア「あの……電話は言ってました、わたしの助けが必要、って」

永井「そのまえにひとつ聞きたいことがある」

325 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:50:33.48 ID:8mPTevMeO

永井は顔を上げて、ふたたびアナスタシアを見据えながら言った。


永井「どうしてわざわざ研究所に?」


永井の口調は、込み入った事件の真相を論理的に解き明かした探偵が、唯一分からなかった事件の動機、犯人の心理の部分への疑問を口にするかのような口調だった。


永井「きみ自身にもリスクはあったはずだ。亜人だとバレたら大変なことになってた」

アナスタシア「ほっとくわけにはいきません」


アナスタシアも永井を真っ直ぐ見据えて言った。いまから自分が口にするのは重要なことだと、アナスタシアは確信していた。


アナスタシア「あなたは、ミナミの大切なムラートゥシィーブラート……弟、なんですから」

永井「そう」


永井は枝の影を一瞥してから、アナスタシアに視線を戻した。目の前の亜人を見据えながら、永井は言った。


永井「僕には理解できないね」

アナスタシア「え……?」


アナスタシアには永井の言ったことこそ理解できなかった。もしかしたら、不用意にロシア語を使ったせいかもしれないと思いあたり、改めて説明を試みようとした。そのとき、激しいめまいがアナスタシアを襲った。

326 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:51:34.30 ID:8mPTevMeO

永井「けっこう旨かっただろ?」


草の上に倒れるアナスタシアに向かって、永井は座ったまま、すこしも身動ぎせず説明してやった。


永井「そのキノコはイボテングタケっていってね、このあたりの針葉樹林帯にコンスタントに自生してる。イボテン酸というアミノ酸が、旨味のもとであると同時に毒成分でもあるんだ。中毒症状は二〇分から二時間で発症。腹痛、嘔吐、幻覚、痙攣、精神錯乱。意識不明に陥ることもある。きみが不死身でも、無力化する方法はあるんだよ」


永井の説明口調は、まるで妹に諭すかのようで、これは毒キノコだから、決して食べないように、と注意しているようだった。


アナスタシア「な……なん、で……どう、して……」

永井「国内四例目の亜人が、知名度のある現役のアイドル。三例目の亜人発見のすぐ後にその事実が発覚すれば、マスコミはいま以上に騒ぎ出す。そうなれば、現在僕を捜索している警察や政府の追手も、きみの捕獲に人員を割かざるをえない」


永井の声音は先ほどと少しも変わらず、やはり妹に説明するような口調だった。その声を聞いたアナスタシアの青い瞳が、毒によるものとは別の種類の揺れを見せはじめたのとは対照的に、立ち上がり、アナスタシアを見下ろす永井の瞳は、黒曜石のように小さく固まり、いっさい揺れることはなかった。アナスタシアは永井の眼を見た。その眼は、いままで見上げてきたどんな夜の空よりも、暗い色をしていた。


永井「アナスタシアさん、きみは最良のスケープゴートだ」

327 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:54:35.18 ID:8mPTevMeO

アナスタシアは反射的に黒い幽霊を発現していた。それはどことも知れないところから、だれともわからない人物が自分の顔面めがけて硬いボールを投げつけてきたとき、咄嗟に眼や鼻を腕を交差させて守るという動作に似て、反射的であっただけに正確さに欠けていた。発現したきり沈黙し立ちぼうけているアナスタシアの幽霊に、永井が発現した黒い幽霊が襲いかかり、その頭部を砕いた。


永井「その状態じゃあ、幽霊はまともに操作できないみたいだな」


制御を失ったアナスタシアの幽霊が地面に倒れる。崩壊していく星十字の幽霊の側に、右腕をなくした永井の黒い幽霊は膝をついている。黒い幽霊は頭を右に向けると、浅い呼吸を何度も繰り返しているアナスタシアを見つける。その黒い顔に、アナスタシアは恐怖を見る。


永井「待て! 殺すな」


黒い幽霊は首を巡らし、永井に向いた。黒い幽霊は一瞬無言だったが、すぐにアナスタシアに向き直り、永井の命令を無視して爪を開きながら残った左腕を振り上げた。永井は舌打ちし、幽霊とアナスタシアから目線を外し、次の無力化の手段を取り出そうとバッグを探った。

328 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:56:38.05 ID:8mPTevMeO

永井が水がせせらぐ切り立った崖の反対側、光を遮る緑の森に背を向けたとき、木々の間に生い繁る瑞々しい青草を踏む音が聞こえてきた。その草を踏む者は森のなかから飛び出してきたかと思うと、アナスタシアの身体に鋭い爪を突き刺そうとする黒い幽霊めがけて跳躍し、その背中に両足で蹴りを食らわせた。


中野「逃げろっ!」


バランスを崩した幽霊は、押しだされたようにアナスタシアを跨ぎ超えた。幽霊が背中をおこし振り向くと、ドロップキックを食らわせた張本人は草の上に倒れていて、肘を地面について身体を起こそうとしている。幽霊はすぐさま左手を開き、腕を振った。アナスタシアの目の上を、黒い線が横切る。中野は肘をついた体勢のまま、黒い幽霊に左手に貫かれてしまった。

身体を貫通し地面に刺さった血に濡れた黒い手が、陽光を受け緑に輝いている木々の枝と手を繋ごうとするかのように上に向けられる。中野の身体が宙に浮く。猛暑日にも関わらずやけに涼しい風が吹いてきて、まるで暑さを運び去ろうというように静かに吹く風に乗って、腹部の傷口、というか穴から溢れた血がまるで風に落ちた葉っぱのようにアナスタシアの目の前の草の上まで運ばれた。青く瑞々しい草の葉にひとつ、赤いアクセントが加わる。黒い幽霊は腕をハンマーのように振り下ろし、中野の身体を地面に叩きつけようとする。黒い幽霊の肩があがるその瞬間、二人してそれで死んだと思われていた中野が、息を吹き返したかのように黒い幽霊の頭部を両手で押さえ込むと、勢い額を幽霊の顔にぶつけた。

頭突きを喰らった黒い幽霊は思いっきり仰け反り、数歩後退すると、崖から足を踏み外した。


IBM(永井)『あ』


その一言を残し、黒い幽霊は崖から落ちていった。永井は目の前で起きた想定外の事態に困惑を隠せなかった。


永井「ええ……なんだ、このひ……」
329 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:57:43.47 ID:8mPTevMeO

言葉を切った瞬間、永井は死んでいる中野に向かって駆け出した。突然現れたこの男は、黒い幽霊が視認できていた。腹部に開いた傷口から黒い粒子の放出が始まっている。永井は足を上げ、中野の顎めがけてサッカーボールよろしく蹴りを放つ。

つま先が顎を打つ直前、中野の復活が完了した。中野は反射的に両手で顎を庇い、永井の右足を掴んで引き倒そうとする。だが、蹴りの威力を受け止めきれず、両手を弾かれながら中野は肩を回しながら後ろへ倒れた。永井のほうも足を掴まれたせいで、まるで氷で滑ったみたいに背中から地面に落ちた。中野は体勢を立て直そうと、後ろについた手に力を込めた。


アナスタシア「ふにゃっ!」


中野の右手はアナスタシアのほっぺたを潰していた。中野は手を退け、腕を掴みアナスタシアを立たせようとする。


中野「早く逃げろって!」

アナスタシア「う、うしろ!」

330 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 13:59:25.17 ID:8mPTevMeO

警告に振り向くと、ブレをはらんだ軌道が右斜め下から顎を狙って打ち上げられてくるのを中野の眼が捉えた。中野は後ろに身体を傾け、線を回避する。 永井は一メートル程の長さの木の棒を右手で握っていた。振り切った棒を両手で掴み、今度は中野の左側頭部めがけてふたたび攻撃しようと前に出る。


永井 (第二案「脳しんとう」。頭を揺さぶり、軽度なら数秒、重度なら数時間意識喪失させられる)


中野は永井の追撃への対応に全思考を使う。そして、殺さず無力化する方法を思いつき、振りかぶる永井に向かって突進する。


中野「どうやるんだっけな、アレ!」


中野は永井が木の棒を振り切るまえに距離を詰めると、左腕を永井の首にかけ行動を制しながら、自分は永井の背中へとまわる。首に巻きつけた左腕を右手で掴むと、力を込め、永井の首を締め付ける。


中野「中学のとき流行ったっ……!」

永井 (失神ゲームか)

331 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:01:10.99 ID:8mPTevMeO

永井は両手を棒の両端に移動させると、膝を打ち上げ横に倒した棒を半分に叩き折った。痛々しくさされだった折れ目を、首に巻きついている中野の腕に深々と突き刺す。中野に痛みが走った瞬間、首への圧迫が弛む。永井は拘束から完全に解放されるため、腕に突き刺さったままの木の棒を捻って傷口を苛み、さらなる痛みを与える。

中野は痛みに耐え切った。激痛にもかかわらず、解きかけた腕をさっき以上の力を込めて永井の首を拘束し、身体を後ろに倒しながら、首にかかる圧力をさらなるものにしようとする。

永井の気道が狭まり、呼吸がつまる。次の瞬間、永井は頭を後ろへ仰け反らせ、顎を上げて喉を晒した。中野の腕から引き抜いた棒を太陽の光を感じる自分の喉に刺し込む。躊躇のない自家加害は、永井の頸動脈をあっさりと破った。


中野「いっ!?」


アナスタシアは永井がまた中野の腕に棒を突き刺したのかと思った。永井の膝が落ち地面についたところで、アナスタシアは間違いに気づいた。だらんと垂れた両手には木の棒が握られたままで、喉の傷口からは血液が栓を抜いたシャンパンみたいに噴き出した。

僅かなあいだ三人は動けないでいた。アナスタシアは毒で、中野は驚愕で、永井は死亡しためだった。

332 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:03:44.94 ID:8mPTevMeO

この静止状態を打ち破ったのは、やはり永井だった。復活が完了した永井は、今度は中野の両腿に折れ目の尖端を突き刺し、大腿筋の深部まで捩込んだ。


中野「痛ってえ!!」


後ろへ転んだ中野が苦痛にもがいたのは僅かなあいだだった。木の棒を捨てた永井は、さっきバッグから取り出した結束バンドを地面から拾い、ナイロンでできた輪を中野の首に通してテール部を思いっきり引っ張った。


永井 (第三案「窒息」)


バンドは気道を閉塞させたが、永井の目的はそれではなく頸動脈だった。


永井 (もちろん殺すためじゃない。頸動脈洞に刺激を加えると、舌咽神経と迷走神経が反射を起こし、徐脈となって血圧が低下する。脳幹へ運ばれる血液は少なくなり、脳幹での酸素量は減少。結果、意識喪失に至る)


永井は結束バンドのテール部を右手で掴んで引っ張っていて、左手で中野の顔面を地面に押さえつけていた。それに加え、中野が起き上がれないように右膝を胸部に押し付けている。中野は手足をバタバタと、まるで溺れた人間が必死になって水面に上がろうとするように悶えさせていたが、永井が左右の頸動脈をバランスよく圧迫するためバンドを右にぐいっと引くと、その激しい運動は痙攣へと変化していった。


永井 (そして、窒息死には段階がある。数十秒、ほぼ無症状。三十秒〜一分、急性呼吸困難。一分〜三分、痙攣、意識消失、昏睡。死亡するまで四〜五分。海水では八〜十二分程。それ以上のことも。そう、ポイントは死ぬまでに時間がかかるいう所だ)

333 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:05:09.79 ID:8mPTevMeO

ついに中野の意識が消えさった。手足の痙攣が去り、呼吸音すらない完全な沈黙に入った。無呼吸期の段階では、心室細動さえ起こっている。中野の顔面はチアノーゼで青紫色になっていたが、結束バンドが絞めついている部分では毛細血管が破れてピンク色になっていた。

永井は中野の胸から膝をどけ、立ち上がって振り向いた。アナスタシアの姿が消えていた。


永井「まだ動けたか」


永井は舌打ちをしつつ、崖下を覗き込んだ。飛び降りてリセットしたのなら、血痕が残っているはずだがその形跡はなかった。永井は崖から引き返しアナスタシアが伏せっていた場所まで行った。地面を確認すると、小楢の木まで這った跡が残されていた。木から森までの数メートルのあいだには足跡があって、安定しない歩幅がアナスタシアの状態を物語っていた。いまのところ血痕も見当たらない。


永井 (リセットはされてない。死に慣れてはないようだ)

永井「けど、ウカウカしてらんない」


追いかける前に、無力化した中野を簡単に処理することにした。首の結束バンドはそのままで、手足にもバンドを巻いて動きを制限したあと、森の中へ運ぶ。さいわい、森に入ってすぐ落ち葉が溜まった窪地を見つけ、そこに中野を落とすと、その身体が見えないよう落ち葉と土をかけてで隠した。

永井はさっきのところまで戻ると、ワンショルダーバッグを肩にかけてから、永井は急いで森の中へ入っていった。死に慣れていないとはいえ、現在の追い詰められた状況では、先ほどの永井のように自家加害に及ぶかもしれない。永井は飛び越えるようにしてアナスタシアの足跡を辿りつつ、その場合の対処法を瞬時に組み立てた。


−−
−−
−−

334 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:06:28.82 ID:8mPTevMeO

アナスタシアの眼に映る森の木々は次々と分身を生み出していた。ひとつ、またひとつと木々は半分透けた影のような分身を増やし、樹間を埋めてアナスタシアの行く先を塞ごうとしているようだった。まるで森そのものが幽霊になったみたいで、薄暗い程度だった森の中は、幹の色や葉の裏側や伸び切った草の葉まで黒く見える。半透明の木々の分身と本物の樹木の区別もまるでつかない。焦点を合わせる機能が眼から失われてしまったのだ。アナスタシアは眼がおかしくなったのか、それとも頭のほうがおかしくなってしまったのか分からないでいた。頭の中で永井の声が前後の文脈もなく渦巻いていた。声は幻覚と組み合わさって森の幽霊たちが囁いているようだった。


「そのキノコは最良のスケープゴートだイボテングタケけっこうって口にあったようで中毒症状は旨かっただろアナスタシアさん亜人だとバレたら国内四例目知名度殺すなよかったよ僕にはきみの捕獲理解いってできないねこのあたりの自生していると同時に針葉樹林帯に警察や政府の追っ手コンスタントに不死身でも殺すなアイドルイボテン酸研究所にという事実がわざわざ発覚その状態じゃあ幽霊はアミノ酸が毒成分旨味のもとでおいしくない殺すなまともに操作できない二〇分から二時間で無力化草刈りに発症腹痛嘔吐幻覚痙攣精神錯乱意識不明に陥ることもあ」
335 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:07:45.77 ID:8mPTevMeO

アナスタシアの足が滑った。転んだ先にある木の幹は本物で、アナスタシアは勢いよく固い樹皮に額をぶつけてしまった。ぶつけた箇所の皮膚が擦りむけたが、痛みを感じることが気付けとなり、アナスタシアに現状に対する判断力がすこし戻った。増え続ける幻覚も声も相変わらず続いていたが、それを終わらせる方法をアナスタシアは知っていた。

地面にコマのようなものが回っていた。手を触れたら指が欠けてしまうかもされないような速度だったが、アナスタシアは深呼吸して息を止めると、コマに手を伸ばした。アナスタシアが掴んだのは、長さ三十センチ程の折れた枝で、黒く変色した樹皮の先から鋭く尖った部分が飛び出している。アナスタシアは両手で枝を掴みながら、先ほどの永井の行動を思い出す。眼を閉じて枝の先端を首にあてると、皮膚を針で押したような痛みになりかけている感触が伝わる。アナスタシアは肩を上下させるおおきな呼吸を二、三度行うと、痙攣する腕を引き、首めがけて枝を突き刺す。

336 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:09:01.87 ID:8mPTevMeO

痛みを感じて眼を開くと、枝の先端はわずかに血に染まっていて、首の傷からは血が一筋滴り落ちていっただけだった。アナスタシアは愕然とした。こんなにちいさな痛みのために、わたしは死ぬことを止めてしまったのか?

アナスタシアは、森に逃げるのではなく崖から飛び降りるべきだったと後悔した。同時にだれかに嘲笑れているという不安感も起こる。永井かと思ったがそれだけではなく、アナスタシアを押し潰そうとするように増え続ける木の分身や、蝉の鳴き声や、日を遮る葉が生み出す薄暗がりや、木の枝に着いた血が、なす術のないアナスタシアを嘲笑していた。

アナスタシアはふたたび木の幹に頭を打ち付け、これは幻覚だ、ほんとうじゃないんだ、と必死に自分に言い聞かせた。だが、もう一度自分で死ぬことはできそうになかった。死を拒否する身体の反応を抑えつけるための意志の力を引き出すには、いまのアナスタシアにはほとんど不可能だった。毒のせいもあるが、ほとんどの人間がそうであるように、アナスタシアは死にたくなんてなかったからだ。

アナスタシアは生命の危機を感じていた。このままでは確実に殺されてしまう。生き返って目覚めたら、解剖台の上にいるかもしれない。田中の生体実験の映像が急に思い出される。銃で頭を撃ち抜かれることがいちばん幸運な死に方だなんて、そんなことは思いもしなかった。
337 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:10:51.17 ID:8mPTevMeO

窮地から抜け出すために、アナスタシアは死ぬしかない。自分で死ぬか、永井に殺されるかの二択。前者が一回限りの死に対して、後者は無数に繰り返される死の始まりに過ぎない。

アナスタシアは黒い幽霊を発現する。黒い幽霊はさっきと同様立ったまま沈黙している。アナスタシアは喘ぎながら、苦しみに耐え頭を上げる。込み上げてくる嘔気を必死で抑えつつ、アナスタシアは自分を見下ろしている幽霊に命令の言葉を告げる。


アナスタシア「こ、殺し……」


首の後ろに衝撃を受け、アナスタシアの命令は途中で途切れる。頭が揺さぶれる感覚のあとに痛みがもたらされ、アナスタシアは木の根元にふたたび倒れた。幹に掴まってなんとか上半身だけ起こすとゴム紐が外れ、結んでいた髪の毛が首の後ろを撫でた。アナスタシアの後髪が血を吸った。

正面の斜面から永井が滑り降りてくる。スニーカーの裏が草や落ちた葉っぱを擦り、黒っぽい土が靴裏の溝を埋める。永井は斜面を降りながら黒い幽霊を発現し、自身も幽霊の後からアナスタシアに走って接近する。

永井がアナスタシアを発見したのは、ちょうどアナスタシアが黒い粒子を放出しているところだった。永井は咄嗟に手の平にぴったり収まる石を拾い上げると、手足を地面につけながら星十字の幽霊を見上げるアナスタシアめがけて斜面の上からから投石した。回転しながら放物線を描く石は、アナスタシアの後頭部にまるで正確に弾道計算がされた砲弾のようにぶつかった。これほど見事に命中するとは、永井にも思いもよらないことだった。
338 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:11:53.39 ID:8mPTevMeO

アナスタシアは幹の寄りかかりながら、襲いかかってくる黒い幽霊を見る。死んで復活するのを待っていたら、そのあいだに永井の幽霊がふたたびアナスタシアの幽霊を無力化するだろう。黒い幽霊の使用は二回目で、この日はすでに使用限度をむかえていた。後頭部から垂れた血が背中へ流れるのを感じながら、アナスタシアは覚悟を決めた。ここで殺されるわけにはいかない。彼の思惑通り、わたしが亜人だと世間に知られ、捕まってしまったら、悲しむ人たちが大勢いる。家族や仲間。そして美波。美波の心はもう限界だ。もうこれ以上、悲しさに耐えることはできない。だから、彼と戦う。戦って、そしていまならまだ、逃げることもできるはず。


アナスタシア「たたかって!」


渾身の叫びを放ったアナスタシアの身体が幹からずり落ちふたたび地面に手をつくことになったが、頭をさげることはなかった。命令を受けた星十字の幽霊が姿勢を低くし、引き絞られた矢が指から解放され張飛するかのように前方に飛び出した。永井はすでに足を止めている。永井の幽霊が星十字型の頭部めがけて右腕を振り下ろす。アナスタシアの幽霊は一際強く踏み込みさらに姿勢を低くすると、地上の獲物を捕獲する猛禽のような鋭い突進を見せた。攻撃をかいくぐり、右腕を伸ばしラリアットの要領で永井の幽霊の両脚にカウンターを加える。両方の膝がまるごと消失した永井の幽霊が前方におおきく倒れる。アナスタシアの幽霊は右腕の付け根から粒子を散らしながら身体を浮上させ、まっすぐ永井に向かってより強い突進してを見せる。

永井が三体目の黒い幽霊を発現させる。
339 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:14:08.26 ID:8mPTevMeO

三体目に対処する暇もなく、またしても星十字の頭部が砕かれる。


IBM(永井)『ざまーみろ』


三体目の幽霊がそうつぶやくのを、アナスタシアは混乱と絶望の入り混じった気持ちで聞いた。彼は、永井圭は、わたしよりもおおく幽霊を使えるの? どうして? なんで、二体同時に動かせるの?

アナスタシアも黒い幽霊を二体同時に発現することが可能だったが、命令通りに動くのは一体だけで、あとの一体はまともに動くことすらできなかった。

混乱はすぐに恐怖に変わった。膝を失くした黒い幽霊が、非人間的な動きと速さでアナスタシアに近寄ってきていた。逃げようとしても身体は麻痺して、気力を失ったアナスタシアは倒れた身体を起こすこともできなくなっていた。黒い幽霊は容赦が無かった。幽霊の手がアナスタシアの右脹脛を掴むと、尖った爪が筋肉を貫通した。


アナスタシア「うあ゛っ……あ、あ゛あ゛あ゛ああ!」


黒い幽霊は絶叫するアナスタシアを気にすることなく、そのまま脛骨も握り潰した。膝下から二十センチあたりのところで、アナスタシアの脚が外側に折れた。


IBM(永井)『なんで……他人を、気遣え……るんですか?』


黒い幽霊はその言葉を残して消失した。幽霊が消えても、アナスタシアは地面に伏せたまま。戦うことも、逃げることも不可能だった。助けを呼ぶことも、命乞いも不可能だった。泣き声まじりの呼吸が弱々しく続くだけだった。

340 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:15:10.21 ID:8mPTevMeO

永井はさっき投げつけた石を拾いアナスタシアに近づくと、その側頭部を小動物を打ち殺すかのように殴った。腕を振るフォームは、肩を温めるためにおこなうキャッチボールのときみたいにいい感じに力が抜けていた。

永井は意識を失ったアナスタシアの脚の傷に止血と応急処置を施した。それが終わると、中野と同様に拘束をしてから、ワンショルダーバッグから折りたたんだ青いビニールシートを取り出し、広げたシートの上にアナスタシアを運び、その身体を出来るだけ隙間がないよう包んだ。左右の端を捻りダクトテープで留めると、近くに隠していたガスボンベ用の運搬台車にアナスタシアを載せ台車から落ちないよう固定すると、後ろ手で台車を引っ張った。


永井「重いなあ……」


意識喪失した四十三キロの人体を運びながら森を進む。永井にとって、これがこの日でいちばん苦労の多い作業になった。


−−
−−
−−

341 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:16:52.69 ID:8mPTevMeO

アナスタシアが復活したときまずしたことは、襲ってくる痛みに耐えるため、瞼をぎゅっと締めつけるように閉じ、歯をくいしばることだった。だが痛みは一瞬で去っていった。アナスタシアが感じたのは錯覚で、折れた骨も裂けた筋肉も死から復活した際すべて完治していた。


永井「復活したか」


声がしたほうを向くと、永井が木を背にして地面に座っている。永井は中野から回収した携帯電話を操作していて、その個人情報を調べていた。永井のすぐ横に三脚が立ててあり、撮影用のスマートフォンが設置されている。永井はスマートフォンをタッチし撮影を中止すると、映像を確認しながら言った。


永井「足の傷は悪かったね。僕の幽霊は命令なしに勝手に暴走するから」


アナスタシアは何を言っていいのかわからなかったが、言いたいことがあったにしても口のまわりをダクトテープで巻かれていたため、声を出すことができなかった。アナスタシアは拘束された両脚をまっすぐ伸ばした状態で、古井戸の縁にもたれかけさせられている。井戸縁は石を積み上げてできた円形のものだった。両方の手首も結束バンドで固定され動かせない。さらに、胴体に圧迫感を感じ視線を下ろすとロープが巻かれていて、アナスタシアに巻きついているのと反対側のロープの端は、永井が背にしている木の幹に括り付けられていた。

342 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:17:54.56 ID:8mPTevMeO

永井「もう幽霊は出さないの?」


撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。


永井「その井戸だけど」


永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。


永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」


説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死に?いたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。
343 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:53:35.04 ID:uktM1pJmO

永井「心配しなくても、しかるべきタイミングで外に出してやるよ」


永井はアナスタシアを引き摺りながら言った。


永井「追いかける獲物がいないと、警察も政府も困るだろうからな」


アナスタシアが何かを言おうと口の代わりに目をおおきく開けた。彼女の目が捉えたのは、地面にぽっかりと空いた暗闇だけだった。アナスタシアは一瞬、大きくなった永井の眼に見られているのかと思った。次の瞬間、井戸の内壁にアナスタシアの額がぶつかった。下を向いて落とされたアナスタシアの身体がこの衝突で左方向に回って、肩から落下していった。

どすん、という落下音がした。永井は真っ暗な井戸を覗き込んだまま一分ほど待機してみた。なにも起きなかった。永井は木の幹から井戸まで伸びているロープを土で隠してから、三脚を片付け、アナスタシアと中野から回収した携帯電話の電源を切った。アナスタシアのスマートフォンは解放時に返すつもりだった。亜人管理委員会や警察に追われてパニックになったら、助けを求めて不用意に携帯電話を使用するかもしれない。

永井は森の中を移動しながら、こんどは中野を運ぶ作業か、と思った。中野の体重はアナスタシアより重い。永井はすこし憂鬱になり、ため息を吐いた。


永井「明日は筋肉痛かなあ……」


−−
−−
−−

344 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:54:43.13 ID:uktM1pJmO

同日、ある映像がウェブ上にアップロードされた。カメラは低いビルの屋上に固定されていて、背景にあるのは何の変哲もない街中の風景。マンションや撮影位置と同様の低いビルが見える。音声には鳥の囀りや自動車の走行音が混じっている。画面中央にパイプ椅子に腰かけた人物がいる。その人物はハンチング帽を被っている。その人物は右手をあげ、映像を見ている者に挨拶する。


やあ、また会ったね。亜人の佐藤だ。

今日話すのは楽しい話じゃない。切迫。我々は追い詰められたのだ。だから、こう決断せざるをえなかった。

我々は武力によって、住み良い国作りをスタートする。

第一ウェーブは、水曜。

まだ参戦を迷っている亜人もいるだろう。君達のためにも我々はその日、圧倒的なATP(戦闘力)を披露しよう。

無関係と思っている人間達、いよいよ始まるぞ。

345 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 14:56:31.59 ID:uktM1pJmO







衝戟に備えろ。
346 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 15:02:27.19 ID:uktM1pJmO
今日はここまで。アーニャの父親の友人が山頂の風景を語るときのセリフは、樫村晴香という哲学者が風景を言葉で描写したときの語りを借用しました。ちょっと長いけど、素晴らしい描写なので飲用してみます。


石灰岩地帯に広がるガリグと呼ばれる低木林に一日いると、太陽の高度と雲の動きに従って、植物と空気が刻々と色を変えていくのが観察できます。そして、太陽が地平線に近づく頃、奇妙な光景に出くわすのです。ほとんど水平の光を受けて、草地の上に無数の銀色の線が出現し、揺れ動き、それを追う視線は、暗くなりかけた草地と明るい光の間を激しく往復させられ、視界全体が、滲むようなハレーションに浸される。ハリュシネーションのような……。これは草地に大量に蜘蛛が棲んでいて、ちぎれた巣が風に乗って舞い上がり、水平の光だけを反射して現れる。それを見ていると、何というか途方もない快楽で、捕らわれたよくに釘付けになってしまいます。死んでもいい、というような感覚。正確にいうと、生きていることと、死んでいることの差異が構造的に変動し、両者が近づいてくるような感じです。−−樫村晴香「自閉症・言語・存在」(保坂和志『言葉の外へ』所収)

このような風景描写、一生に一度でいいから書いてみたいです。
さて、次回はパッション溢れる佐藤さん。
347 : ◆8zklXZsAwY [saga]:2017/07/08(土) 22:10:49.10 ID:uUFpPC78O
>>342 訂正


永井「もう幽霊は出さないの?」


撮影した映像を確認し終えた永井がアナスタシアに尋ねた。永井の疑問を受けても、アナスタシアは目覚めてからと同様浅い短い呼吸を繰り返すばかりで、何もできない。細かく震えてもいる。永井はその反応を見て、黒い幽霊の使用回数には個人差があるみたいだな、と思った。これ以上有益な情報は引き出せそうにないし、中野のこともあるので、早めに処理することにした。


永井「その井戸だけど」


永井は身体をアナスタシアのほうに向ける、背後にある井戸を指差しながら言った。


永井「その穴の中には空気がない。地中のバクテリアが酸素を奪い、たかだか六メートル程度の穴の中を無酸素状態にするんだ。人は酸素のないところへ急に入ると、瞬間的に意識を失う。亜人ならエンドレスだ」


説明し終わると、永井はアナスタシアに近づいてフードを掴み、井戸縁に沿ってアナスタシアを引き摺った。井戸縁にはまるごと欠けたところがあり、そこまでアナスタシアを移動させるつもりだった。アナスタシアはくもぐった呻き声をあげながら、手足をバタバタさせ必死にもがいたが、永井は力を入れ一気に引っ張った。
1014.51 KB Speed:0.3   VIP Service SS速報VIP 更新 専用ブラウザ 検索 全部 前100 次100 最新50 続きを読む
名前: E-mail(省略可)

256ビットSSL暗号化送信っぽいです 最大6000バイト 最大85行
画像アップロードに対応中!(http://fsmから始まるひらめアップローダからの画像URLがサムネイルで表示されるようになります)


スポンサードリンク


Check このエントリーをはてなブックマークに追加 Tweet

荒巻@中の人 ★ VIP(Powered By VIP Service) read.cgi ver 2013/10/12 prev 2011/01/08 (Base By http://www.toshinari.net/ @Thanks!)
respop.js ver 01.0.4.0 2010/02/10 (by fla@Thanks!)