魔女「ふふ。妻の鑑だろう?」

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346 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:16:47.80 ID:9DwdlqBj0



戦士「でああっ!!!」


最初の1体を迎撃する。
飛び上がった魔狼の下に飛び込み、すれ違いざまに首を飛ばした。
林を見やると、視認できるだけで15体ほどの魔狼が見える。
疾駆するその速度は駿馬と変わらぬものだ。
囲まれる危険はあるが、ここで迎撃する他ない。

突進してくる次の1体をやり過ごし、横脇から逆風に切り上げる。
しかし3体目までは防げなかった。
突進をまともに受け、膨大な質量を感じた瞬間、
10メートルほど離れた岩壁まで吹き飛ばされた。


戦士「ぐ、はっ……」


斧槍を離さなかった事は奇跡に近い。
一斉に飛びかかる肚か、
魔狼たちは一定の距離を保ち吠えかけてくる。
頭から痛みを振り払い、斧槍を構え、

―――頭上を、狙った。

岩壁の背後から狙っていた1体の頭部を串刺しにする。
そのまま力を込め、魔狼たちの前に躯と化した1体を投げ捨てた。


戦士「…魔狼の狩りは、得物を追い詰め背後から狙うんだったな」


魔狼たちは多少怯んだ様子を見せたが、
より一層速度を増し、一斉に突進してきた。
その一体を逆袈裟に切り伏せ、前方に身を投げ出す。
更に斧槍を横薙ぎに払い、5体目を仕留めた。


戦士「あと10体くらいか!!
   たまには魔物を斬っとかねぇと、
   勘が鈍っちまうなぁ!!!」


その時、更に鼓を打ち鳴らすような足音を耳にする。
闘志は少しも揺るがぬものの、少しの諦観がじくりと心を刺し、
背後に迫る敵意がひとつの事実を悟らせた。

群れがこれだけではなかった事を。

振り返るその目に、新たに飛び出してくる魔狼の群れが見えた。



347 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:18:01.00 ID:9DwdlqBj0



魔法の王国領の小さな村で宿を取る。
村は慌ただしくも、人の数は少なかった。
それも無理の無い話だ。
ここは中央王国に程近い小さな村で、戦争になれば戦禍を被るに違いなく、
更に20キロほど離れた場所に魔法の王国の砦がある。

埃っぽく、著名な出身者も居なければ、
特別なものを産出するわけでもない、存在する意義を見出だせない村だ。
宿は1件だけ。村唯一の酒場も兼ねているようだが、
自分以外に客の姿は見られなかった。


賢者「みんな、どこへ避難するのかしら?」

店主「避難先なんぞないよ。
   皆できるだけ北に行こうって肚だ。
   しかしまぁ、いつの間にか商人どもがやってきて、
   軍票欲しさにひと稼ぎしようとしとる。
   うちもそうだが」

賢者「…勝敗は見えてるものね。
   現金なものだわ」

店主「ま、学院が痛い目に遭うなら俺らとしちゃ願ってもない話だ。
   …と、失礼。
   あんたもしかして魔法使いか?」

賢者「うふふ、だったらどうするの?」

店主「………いや、
   どうしようかねぇ」


店主は体裁の悪そうな顔をして、それきり奥に引っ込んでしまった。
…学院の魔法使いたちの傲岸な振る舞いは魔法の王国中に知られている。
血税で成り立っておきながら市井を見下す精神性。
導士たちは国民を虫程度にしか考えておらず、
あろうことか催眠を掛け同意書を作成させ、民を対象に実験を行う者まで居る。
政府はその振る舞いを見てすらもいない。
なぜなら、政府もまた、魔法使いのみを人として扱っているからだ。

しかしそれでも民草は皆魔法使いに憧れる。
国土の肥沃さに恵まれぬこの地に豊かさをもたらしているのは魔法技術の恩恵に他ならない。
荒れ野に近いが故に雨が降らず水資源に乏しく、夜は寒く昼は暑い。
土は石だらけでろくな作物が育たない。
北部は極寒地帯に近く、とても人の住める環境ではない。

ならば魔法使いの選民思想が根付くのも自然と言えるだろう。



348 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:19:30.42 ID:9DwdlqBj0



少年「お姉さん、魔法使いなの?」


いつの間にそこに居たのか、
端正な顔立ちをした、黄金色の髪の少年がカウンターの隣に座っていた。


賢者「……………」


知覚魔法を使っていないとはいえ、
これだけ接近されて気付かないとは。

賢者は少年を見て、不可思議な違和感を覚える。
この少年には気配が無いのだ。
確かに少年の姿をその双眸で捕らえては居るはずだが、
まるで本来そこには居ない者のような、
例え頬を撫でられても気付かないような。

存在を目にしているのに、瞳に映っていないかのような。


賢者「…そうね。
   魔法使いかもしれないわね」


しばらく警戒心を強めていた賢者だったが、
無邪気に微笑む少年に少しだけ毒気を抜かれ、
賢者はつい、答えを返してしまった。


少年「ふうん。やっぱり魔法使いだね。
   それも、かなり高位の術士だね」

賢者「それで?君も、そうなの?」


賢者がそう尋ね返した事に、少年は幾許かの疑念を抱いたようで、
少しばかり頭を捻った後、答えた。


少年「僕は…そうだね、魔法使いなんだけど、
   ちょっと違うのかも」

賢者「魔法が使えるのなら、魔法使いよ。
   自慢できる事だと思うわ」

少年「いや、本来魔法使いだった、が正しいのかなぁ」

賢者「だった?今は使えないの?」

少年「使えるよ。
   でも、魔法が使える事だけが魔法使いの条件じゃないでしょ?」


349 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:20:23.47 ID:9DwdlqBj0



魔法使いの定義。
それは、魔法行使が可能である事。
魔力を用い、なんらかの事象を起こせる事。

なら、魔法が使えるのなら、魔法使いであるはずだ。


賢者「…どういう事かしら」

少年「だからさー、それは演繹だよね。
   魔法が使えるなら魔法使い、じゃ進歩なくない?
   魔法使いという存在について、お姉さん、考えた事ある?」

賢者「…ないわね。
   私は、覚えた魔法を、自分なりに使っているだけ。
   そういう話は、学院の導士たちの仕事よ」


少年は一度大きく笑顔を浮かべ、
目を輝かせた。


少年「なら、お姉さんは間違いなく魔法使いだね。
   良かった」

賢者「じゃ、君の考える魔法使いって?」

少年「概念として?…いや、資質の話かな。
   なんにせよ、きっと他のみんなは、魔法が使える人ってだけだよ。
   魔法使いとは違うと思うな」

賢者「そう。ありがと」


興味なさげに、賢者はグラスを空にする。
少年の正体はわからないがきっとどこかの導士なのだろう。
接近に気付かなかったのは、気配遮断のスクロールでも身につけているのだろう。
見ない顔だが、当然ながらこの国に魔法使いは珍しくもない。



350 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:21:23.23 ID:9DwdlqBj0



少年「でもさ。
   この国の魔法使い達、あ、これは役割としての表現だね。
   魔法使いたちは、みんな選民思想が激しいね。
   分離政策なんてとってないのに」

賢者「そうね。でも、この国を育てたのは魔法よ。
   あなたも、この国で魔法を習ったんでしょう」

少年「習った?まさか。
   逆はまだしもね」


と言い切って、まるで心外という顔をする。
やはり少年には存在感がない。
身振りから巻き起こる気流を感じない。
声は聞こえるのに鼓膜を震わせない。
足音を響かせるのに、振動を感じない。
それは、まるで幻のように。


少年「なら、お姉さん。
   あなたは魔法使いだけど、
   そうでない素質も持ってるね」

賢者「………どういう事なのか、わからないわ」

少年「魔法使いはなぜ魔法を習うの?
   世の中を豊かにするため?
   人々の助けとなるため?
   それとも、ただ便利だから?
   お姉さんは3つめだね。
   でも、みんなそうではないよね」


大仰な身振りで少年は続ける。
賢者は何故か言葉を発せられない自分に気付いた。
少年の言葉に僅かな毒と、思想の胎動を感じたからだろう。


少年「みんな次の段階に進みたいからだよね。
   世の中なんて関係ないし、人々の事なんて見向きもしない。
   勿体ぶって利便性にも目を向けない。
   ただ、魔法の行く末を見たいんだ。
   この世に魔法しか無いと思ってる。
   でも頭打ちだ。
   新しい理念が欲しいんだ。
   それらは魔法では生み出せないものなのに、魔法は再現する事しか出来ないのに、
   未だ見ぬものを魔法で生み出そうとしている」



351 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:22:34.01 ID:9DwdlqBj0



賢者「愚かだと言いたいのね」


似た話を、どこかで聞いた。
魔法とは引き返す事だと。
結果を知らなければ魔法は使えないのだと。


少年「愚かだよ。
   でも、魔法使いが愚かでは立ち行かないでしょ?
   だからみんなほんとは魔法使いじゃないんだ。
   僕に言わせればね」

賢者「うふふ。評論家気取りかしら。
   随分と能弁なのね」


少年は少しだけ笑みを浮かべ、
忘れ去られ、苔むし、澱み、腐りきった沼のような瞳を僅かに歪め、
その双眸に初めて賢者の姿を捕らえる。
拭い去れぬ違和感と未知への恐怖に、
賢者は思わず身を竦ませる事もできずただ身動ぎを止めた。
少年の声はまるで脳へ直接響くかのようで、
反芻する言霊は脳髄をごりごりと軋ませる。
少年から目を離せない。
耳を塞ぐ事もできない。

大きな手で顔を掴まれているみたい。
空気の震えを感じさせない声は、ともすれば、
自らの心の声なのかと錯覚してしまうようだった。


少年「だから思うんだ。
   ただの魔法が使える人なら、意思さえあればいいんじゃないかってね」

賢者「…………意思…」

少年「肉体なんてめんどくさいもの、必要ないんじゃない?
   あ、でも、アストラル体はやわっこいから、
   まぁほらあれだよ。
   要は身体がどんなのでも別に大した問題じゃないんじゃないかって」

賢者「………………ぁ、」

少年「魔法は随分と進歩したね。
   かつて精霊と対話する力は森に棲むエルフたちだけのものだった。
   神聖魔法と銘打たれた神職者たちの秘伝も、魔法の範疇である事が証明されて、
   教会は力を失った。
   でも、それらはみな元々あったものだ。
   …ここらで、生物として次のステージに進んでみるべきじゃない?
   違うかな?」



352 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:24:01.42 ID:9DwdlqBj0



少年「…あれ?」

賢者「……………」

少年「意外と可愛いね。
   もう喋れないか」


瞳の色を失い呆ける賢者の額に、そっと光る指先を触れさせる。
人のものとは違う、強力な催眠。
魔力の糸を心の奥底まで伸ばす瞬間はこの少年にとって嗜好するものに値する。
どれだけ肉体を蹂躙しようと、これに勝る征服感は味わえないから。


少年「さて。
   ちょっと小細工させてもらうね。
   君は、逃げ足が速いから…」


細い糸を滑らせ、
ひとつひとつ心の壁を紐解いていく。
読心とは異なる、這うような精神汚染。


少年「やっぱりロックされてるけど。
   このくらいなら」


引き金をひとつひとつ下ろすように糸を滑らせる。
他者の心象風景は自らの心とは異なるものだ。
それを一度映像化した上で自らの心に投影する。
この少年はピッキングのようなイメージを好んだ。
心に咲く小さな悪の華。その小さな遊び心で、
他者の人生を大きく狂わせる趣向こそ、
この少年の本質なのだろう。


少年「…でーきた。
   おじゃましまーす」


開いた心の壁の先。
鍵は既に用をなさず、扉は開け放たれている。
僅かな達成感と旅立ちを前にするような高揚感に少年の心は踊った。

しかし、
鍵開けに没頭していた事が災いしてか、
少年には気付くことはできなかった。
賢者は間諜であり、情報は守られねばならない。
持つ情報の機密性には国家レベルのものすらもある。

その可用性を守るものは、決して鍵のみではない。
乙女の寝所には、番人が居るのだ。



353 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:24:57.19 ID:9DwdlqBj0



少年「―――っつ―――!!!」


前兆も、脈略も、意思すらも感じぬ一振り。
はじめから引き絞られていた弓を思わせる、ナイフの切っ先が少年を襲う。
しかし危機を察知し、そして反応するまで、それはまさに刹那の瞬間だった。
その少年の回避速度たるや、およそ人間ではありえない速度だ。
結果としてナイフの切っ先は少年の頬を掠めるに留まった。

賢者が自らの持つ情報を守るために行っている事は2つだ。
ひとつは、昏迷時以上の深度の意識レベルでは思考を停止させ、読心を防ぐ精神操作魔法。
そしてもうひとつが、精神への外部アクセスを引き金として、敵を自動的に迎撃する自己暗示だ。

しかし、その結果はどうであったのか。
この攻撃は、この少年にとって確実に、意識の外からの攻撃であるはずだった。
しかし少年はその危機を即座に察知し、反応し、かわしてみせたのだ。


少年「…へー。
   なかなか気の利いたセキュリティじゃん」


ナイフを構える賢者の瞳に光が戻る。
少年が持ち合わせる魔眼の力が解けたのか、
賢者の魔法抵抗力がその魔力に勝ったのか、
あるいはそのどちらもが理由なのか。


賢者「………いったい、何?」


意識を取り戻した賢者の第一声、
その謎めいた言葉は心の混乱に必死に耐え、溢れ出た疑問だった。
魔法使いである彼女は、自らの意識を容易く奪った魔法の正体が、
この黄金色の髪の少年が持つ魔眼の力である事には既に気付いていた。
しかし呪文の詠唱をせず、ただ視線のみで魔力を叩き込む魔眼では、
せいぜい1カウント相当の効果しか持たぬはずだ。
高位魔法使いである賢者にそれと気付かせず意識を奪う程の魔眼など、
果たして世に存在するのか。



354 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:26:27.84 ID:9DwdlqBj0



存在感のない肉体の持つ身体能力。
埒外の魔力を湛える魔の双眸。
十を過ぎたばかりであろう年齢にそぐわぬ魔法の練度。

その意味するところとは。


賢者「少なくとも、人間ではないわね」

少年「解答は具体的にお願いしまーす」


嘲るような口調で少年は応え、
渦巻く混沌を掬い取った瞳をぐにゃりと歪めた。
底抜けに愉しむようなその表情はまるで人形遊びをする子供だ。
だが、少年から滲み出る隠しようもない邪悪さは、
同時に倒錯的な嗜虐心も感じさせる。


賢者「(冗談じゃないわ。
    これじゃ、遊び終わる頃には、)」

少年「大体僕が人間じゃない事くらい、
   誰だってわかるでしょ」

賢者「(人形はバラバラにされてるじゃない…!)」


彼女は未知の敵と戦った経験に欠ける。
賢者の間諜としての本質は卓越した情報収集能力にあり、
どんな難敵に対してもひとつの「勝ちの一手」を用意する事で対抗してきた。

故に今、能力や種族すらも想像だにする事のできない難敵を前に、
彼女には打倒できる自信がなかった。
こちらの武装はナイフ一本、徒手錬成による魔法行使。
敵の能力はわからないが、ひとまずは、


賢者「(敵の攻撃を待って、対抗…)」

少年「手段を、考えようって肚だね。
   消極的だけどいい手だ」


心をぴたりと言い当てられ、
隠せぬ動揺が顔に滲む。



355 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:27:52.21 ID:9DwdlqBj0



少年「汚れ仕事のいいところだね。
   彼我の実力差を感じ取り、それを受け入れる事ができる」

賢者「……………」


容易く心を覗かれた事もそうだが、
先程の魔眼による催眠効果の事もある。
つまり対話は不利益だ、と賢者は考える。
ではこの状況は旨くない。
ナイフを逆手に持ち替え、身体に魔力を通わせる。


少年「悪くないフィジカルエンチャントだ。
   やっぱり君は時世にそぐわない実践的な魔法使いだよ。
   でもごめんね、凄く凄くもったいないんだけど…」

賢者「はぁぁぁっ!!」


帯剣していない事が悔やまれるが、
単純な魔法であれば徒手であれど行使が可能だ。
賢者の好む、猫科をモデルとした肉体強化は、
静止状態から即座に最大速度での踏み込みを可能とする。
渾身の速度で半身に胸元へとナイフを構え、
少年の心臓へと切っ先を突き立てたが、


少年「ま、殺すのは僕じゃないんだけど」


その言葉だけを残し、少年の姿は掻き消えていた。


賢者「…転、」

少年「転移じゃないよーん」


声は背後から響く。
魔法を駆使した賢者の知覚力は例え音の速度で動こうと視認を可能とする。
ではその姿がはじめから幻であった事以外に考えられず、
少年は元よりそこに居たかのように、賢者の背後、バーカウンターに腰掛けていた。



356 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:29:12.74 ID:9DwdlqBj0



少年「なんて顔してるのさ」

賢者「………バカげてるわ」


少年は賢者のグラスをひと舐めし、続ける。


少年「君の知覚はおかしくないよ。
   でも僕を知覚するには少し足りない。
   意識の外に目を向けてみる事だね」

賢者「…ご高説ありがと」

少年「ま、ひとつだけ教えてあげる。
   臨戦態勢の君に魔眼は効かないし、
   そもそも僕は幻なんかじゃなかったよ。
   これ以上は自分で考えてね」

賢者「……………」

少年「ま、目的は果たしたし。
   ごめんね、バイバイ」


その言葉を響かせながら、
少年の身体は再び霧散した。
それは姿を消す事とは異なる。
滲む視界を思わせる、
僅かに残像の残るような、
焦点が徐々に合わなくなるような、

…奥深い霧の向こうへと沈むような。


賢者「…ああ、なるほど」


そして彼女は、少年の正体を悟った。


賢者「仕事、増やしてほしくないんだけどな…」


その正体が賢者の想像の通りだとすれば、
交戦が不利である事も頷ける。

少年は目的は果たしたと言った。
目的とは恐らく賢者自身であるはずだ。



357 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:31:59.83 ID:9DwdlqBj0



心を覗かれかけた事からして、
目的は彼女の持つ情報と考える事が自然だ。
だが精神侵入は未然に防がれたはず。
その意味するところは、


賢者「…いったい、『何をされた』のかしらね」


目的とは、賢者の少しだけ開いた心に、
「なにか」を遺していく事だ。

陽はやがて沈み、
影は昏く長く、やがて夜の帳を下ろす。
外は蝙蝠がぎゃあぎゃあと鳴き、
窓から差す夕陽が室内の湿気を洗い流した。

それで、残された気配は完全に消える。

目的はわからないが、
それは人に仇なすものとしか考えられない。
年数にもよるが、一介の魔法使いの敵う相手ではないだろう。
一刻も早く都へと向かう必要がある。

賢者は自己に誇りを持たない。
故に、自らが敵わぬ事など大した問題にはなり得ない。
どんな難敵だろうと、打倒できる手段は必ずあるのだ。

旅支度を整え、宿を跡にする。
町は先ほどまでの喧騒が嘘のように静まり返っていた。


賢者「髄から骨、肉から皮へ。
   流れ還る力の渦は我が四肢をそうならしめよ」


肉体強化の呪文を唱える。
イメージするはかつて見た、エルフの手により育てられたという駿馬。


賢者「人の身のいましめを脱し、我が身は草原を駆ける。
   風のように。
   音のように。
   朝が来ずとも、陽が沈まぬとも。
   …我が疾走は、決して止めぬ」


一陣の風に乗り、賢者は魔法の都へと駆け出した。



358 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:34:12.98 ID:9DwdlqBj0



どれだけの戦闘があったのか。

岩場は夥しい魔物の血で黒く染まり、
累々と魔狼の屍が横たわる。
そして倒れ伏し小さく唸る最後の一頭に穂先を突き立てた男もまた、
深く傷つき、吐く息は硬く、眼や鼻からすら流血し、
長物の支えが無ければ地を踏む事すら難しいといわんばかりに、
斧槍に身体を預けていた。

血を失いすぎたのか、
戦士は朦朧と、すぐ側まで迫る自らの死に思いを馳せる。

旅の目的とはなんだったのか。
足取りを追う度に、彼女の短い生涯が、
無学な田舎者の範疇に収まらぬものと知るのみだ。

鉱山都市での彼女の行い、
中央王国で見た研究の実情。
そのどちらもが彼女だとすれば、

幸せに過ごした3ヶ月間すら、今や虚像と思えてしまう。

彼女が止めたかったという戦争は避けられぬものとなり、
敵の姿も未だ見えず、
魔神の足取りもわからない。
勇者を止めるもできず、
魔物を狩るために磨いたはずの腕すら力が及ばない。

状況に流され続け、こうして命を落とすのなら、
この旅に意味などなかったのだろうか。


戦士「………………死ねば、会える、か」


どうしてだか、
これでは死後彼女に会えると思えないが、
既に手に力は入らないし、
膝ももう伸ばしていられない。

ずるずると柄から崩れ落ち、
あるはずの地がないかのように、意識の底へと落ちていく。
なにもかもが希薄に感じられる中、
ただ孤独感だけが昏く大きく心に陰を落とした。


「ああ。それが死というものだよ」


どこからか響く声。
これは彼女も味わったものだと思えば、少しだけ、
その孤独感も受け入れられた。

復讐は身を滅ぼすとどこかで聞いた事があるが、
その意味が少しだけわかった気がした。



359 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:35:23.59 ID:9DwdlqBj0



寄せては返す波間に揺蕩う意識。
四肢に感覚は無く、波の鼓に綯い交ぜにされた自己は混濁とした意識をより希薄にする。
揺られ、流れ、そして岸辺へと押し戻される。
海の先には死者の国。
どれだけの時間が経ったのか、そもそもここに時間などは意味をなさぬのか、
まぁ、とにかく、暇だ。

さて、状況を整理しよう。

あの日、故郷で。


「あの数の魔狼を、一人で。
 確かに、大した腕だ」


俺は魔物の群れを相手に、街中を駆け回っていた。
その時彼女の使い魔を介した念信があり、
彼女は民の避難を手伝っていると聞いた。

そこで、念信が途切れた。

次に会った時、彼女は傷を負っていた。
念信が途切れた時、俺には彼女の身になにか起こったとしか思えなかったが、
腹に受けた傷はひとつのみ。
恐らく魔物の爪によるものだ。
だが、念信が途切れる時の声色には少しの焦りも感じられなかった。

つまり、念信は彼女により、切られたのだ。

それがなにを意味するかはわからないが、
重要な事は念信が途切れた間、何が起こったかだ。
彼女の魔法の腕前を考えれば、あの程度の魔物に容易く屈する事など考えられない。
デーモンがそこに居たという事も考えれば辻褄は合うが、


『既に手負いの状態で眼前に現れてくれるとは!!!!』


彼女の傷はデーモンによるものではない。
彼女が言った、第三者の意図。
彼女の傷がその第三者によるものだとすれば、

あの場には、街の者、攻め寄せたデーモンと魔物たち、
そのどちらにも属さない、何者かが居た事になる。



360 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:37:03.75 ID:9DwdlqBj0



「傷は多いが、深いものは無い。
 目覚める頃には治癒しているだろう」


魔研の一件はどうだろう。
地下の彼女の研究室。
それは彼女が魔研に居た事を示す。

彼女は3年前、鉱山都市を去ったという。
居たとすればその後3年間の間のどこかだろう。
向かいには、勇者の語る処での「本物」が居たという牢獄。
勇者は魔研を実家だと言った。
雷魔法が魔研での研究の産物だとすれば、
牢獄には雷魔法の使い手が?
しかし、「本物」が雷魔法の使い手だとして、
容易く幽閉できるような存在なのだろうか。

そもそも、あの赤黒い球体だ。
魔法使いの血が勇者の言うようなものだとすれば、
魔法使いの血液は火にくべれば燃えあがる事になる。
魔力の正体がそのようなものだとして、
そんな単純な事を、魔法学院が見逃しているはずがない。
恐らくなにか特殊な処理が必要なのだろうが、
なんにせよあの爆発は大きな驚異だ。
中央王国軍は現在勇者により掌握されている。
加えてあのような新兵器が投入されれば、趨勢は決まったも同然だろう。

そしてそれらの研究に魔女が手を貸していたとすれば。

謎は未だ残る。
賢者の知覚を封じたものの正体。
賢者は、宣戦布告の口実になると理解した上で、なぜ魔研を襲撃したのか。

そして、勇者と盗賊が言った、「彼」とは。

…まぁ、考えるだけ無駄なのだろう。
俺は、もう。


「…いい加減、起きろ。
 いつまで寝ている気だ」



361 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:37:45.93 ID:9DwdlqBj0



戦士「…へ?」

老人「生きておる。
   傷跡すらあるまいて」

戦士「………はぁ」


寝かされていたのは、
東方風の、妙にオリエンタルな内装の部屋だった。
ちりん、ちりんと下げられた鈴が揺れ、
魔力灯の柔らかな光が強く感じられる。
それは他に光が差さない事の証左だ。
つまり、今は夜であるか、それとも、


戦士「洞窟なのか?ここは」


土壁から覗く岩を見るに、後者なのだろう。


老人「無礼な男だ。
   君を助けたのは誰だと思うておる」


憮然とした面持ちの老人は、如何にも隠者が好みそうな、
黒いローブを流し着て、木椅子に腰掛けている。
助かった理由はわからないが、礼を言っておくべきだろう。


戦士「ああ、すまない。
   助けてもらったようだ。ありがとう」

老人「…まぁ、いいだろう」


釈然とはしないが、助けられた事は事実だ。
老人は少し顎をしゃくり、
口を開く。



362 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:38:26.12 ID:9DwdlqBj0



老人「君は、あの子の縁者かね」

戦士「…あの子?」

老人「魔女と呼ばれておるはずだ。
   名前には疎くてな」

戦士「………夫だ」

老人「やはりそうか。
   ミスリルの斧槍には見覚えがあった」


少しため息をつき、
棚から、水晶球を取り出す。
はっきりと見覚えのある、彼女の水晶球だ。


老人「竜の巣穴へようこそ。
   私は、…そうだな、番人とでも思っておきなさい」

戦士「…あいつを、知っているのか?」


老人は目を伏せ、


老人「私は、あの子の魔法の師にあたる」


水晶を木机に置き、そう呟いた。



363 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/23(月) 01:40:10.54 ID:9DwdlqBj0

今日はここまでです。
数々の応援レスありがとうございます。
励みになります。

なかなか時間が取れず申し訳ありません。
頑張って進めます。
読んでくださる方が居る限り頑張ります。
見捨てないで…お願い…。
364 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/23(月) 01:48:17.75 ID:yEQdqG6to
お疲れ様です!
365 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/23(月) 04:30:09.22 ID:BTywW08Do
見捨てるわけがないじゃん。
お疲れさま!
366 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/23(月) 05:11:28.44 ID:PHskQaSgO
367 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/23(月) 07:19:15.94 ID:E9DD0P8AO
乙!
次も楽しみに待ってる!
368 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/24(火) 07:19:58.21 ID:wcbX7P67o
賢者がなにされたかわからんが無事でいて欲しい
369 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:49:28.49 ID:Mm2oT6db0


一昨日のおまけです。
筆休めに書きました。
完全な番外編です。
良ければ読んでやってください。


370 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:54:12.56 ID:Mm2oT6db0



出自にとりわけ意味はなく、

なんの事はない町で産まれた。


時計職人の厳格な父と、美しく優しい母、気の強い妹の4人家族だった。
厳格な父は仕事ぶりもまた、その性に相応しく厳格なものであり、
父の作る時計は、大陸で最も正確に時を報せると言われる鐘の音と、
如何なる時も寸分の狂いなく時刻を示した。
父は毎日のように時計を作り続けた。
春夏秋冬、雨の日も、風の日も。
幼心に、父は誇れるものだった。

厳格な父の作品は厳格に時を刻み続ける。
その仕事は一日たりとも休まれる事はない。
命芽吹く春も、茹だるような暑い夏も。
葉が黄金色に色づき虫たちの音色が響く秋も、
身体の芯まで凍りつくような冬も。
父はまるでそれしかないようにひたすらに時を刻み続ける。
ただ、正確に時を刻む事こそが父の人生であるというように。

魔法技術の発展に伴い、
もはや世の中が機械仕掛の時計を必要としなくなっても、
父は時計を作り続けた。
発注など来ないというのに、
もはや高価な壁掛け時計など誰も必要としないというのに、
正確な時計の動きを再現するだけの金属板の方がずっと小型で便利だというのに、
父は何も言わず時計を作り続けた。

そしてやがて、
14に差し掛かる頃、やっと彼は、
父には本当に"それ"しかないのだと気付いた。

父は時間に魅せられていた。
何十年という間、正確な時に生き、正確に時を刻もうとし続けた父は、
もはや他にすべき事を見出だせなくなっていたのだと。
時計は父の自我の結晶であり、
自分とは流れる時の異なる、自らの妻や子供にすら、
興味を失ってしまっているのだと。



371 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:55:49.10 ID:Mm2oT6db0



生活が困窮し、、
母が働きに出るようになっても、
父は時計を作り続ける。
彼は、そんな父を見捨てられない母を見捨てられず、
妹を食わせる必要もあり、
彼もまた働きに出るようになった。
作れど作れど発注は来ない。
家は時計が溢れかえり、
こち、こち、と寸分の狂いなく時を刻み続ける。
ある日彼はもう何年も父の声を聞いていない事に気付いた。

妹がいつの間にか家族を見捨て家を出たのは、その頃だった。

嵩む時計の製作費。
彼は何度も父を捨て家を出ようと訴えたが、母の耳には届かず、
少しでも多い収入を求めた母は、仕出し女として従軍する事を決め、
帰宅は数ヶ月に一度となった。

家には彼と時計を作る父、そして、山のような時計のみが残された。
2人を囲む時計たちは全て同じリズムで時を刻む。

こち、こち、こち、と。

振り返ってこっちを見ろ、
時計を作るのをやめろ。
それができないのなら、母を解放してくれ。

詰る彼の言葉も、父に流れる正確な時間を止める事はできない。
怒り狂った彼が時計を破壊し、父の向かう机に叩きつけると、
父は少し目を歪め、製作途中の時計を脇へ追いやり、
何事もなかったかのように破壊された時計を修理し始めた。


その時。

背骨が熱された鉄芯に感じられるほどの激しい怒りが心を満たし、

彼は、ならばその正確な時を止めようと思い至った。



ふた月後、母が帰宅した。
久しく見る母はどこか窶れて見え、"父さんはどこへ?"と問いかけてきた。
彼は、"出て行った"、とだけ伝えた。
"そう"それだけ言葉を発すると、母は倒れ、その日から床に伏した。
従軍中、兵士に強姦され、その傷が元で感染症を引き起こしたと知ったのは、
母が亡くなった後だった。



372 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:57:09.27 ID:Mm2oT6db0



そして父も母も妹も、時計すらも、彼の前から消えた。
なにも失くした彼は引きずられるようにふらふらと、
無音の家を跡にした。

今日からは、無音の時を刻もう。
それだけを思い、あてのない旅に出る。

あれはどこだっただろう。
名もない街の市場で、腹を空かした彼は、店先に積まれた林檎をふと目にし、
虚ろに林檎を見つめるうち、心に疑念が渦巻くのを感じた。

自分は何が悪かったのだろう。
なぜこのような人生になったのだろう。
店先で無邪気に遊ぶ子供、
それを笑いながら見守る母。
我が家はどうなっているのか。
溢れかえる時計を全て捨ててみれば、我が家にはなにも残らなかった。
時を刻む事を止めた我が家はただ朽ちるだけだというのか。
だというのに、我が家がそうだというのに、なぜこの家は、
硝子一枚割れていないのだ。

店先を通り掛かる時、
なんの澱みもなく指が動いた。

まるで、何年も前から、生業としていたかのように。

少しも傷まぬ心と、口に広がる、爽やかな甘味と酸味。
自分は何も悪くない。全て親が悪いのだ。
そのひとつの小さな窃盗が、
全てを失くした彼の心を、黒く染め上げたのだった。



373 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:57:46.11 ID:Mm2oT6db0




それから僅か数年後。
彼は千の指となった。




374 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 02:59:04.58 ID:Mm2oT6db0



彼に開けられぬ錠前はなかった。
例えどれだけ難解な錠前であろうと、
罠が仕掛けられていようと、
どのような魔法技術が使われていようと。
彼はたちどころに仕掛けを見破り、
音もなく侵入する事ができた。

難解な曲を弾きこなすピアニストのように動く指。
彼はいつしか千の指を持つ男と呼ばれ、
彼の名声を高めていった。
はじめは、王国のスラム街で。
やがて鍵開けの腕を買われ冒険者たちに協力するようになり、
貴族たちから宝物庫の錠前について意見を求められる事さえあった。

だが、その生来の指先の感覚が、
憎き父から受け継いだものである事は確かだった。

彼が働いた盗みは、城が建つほどの金額に上る。
だが彼はその金を貯めこむばかりで、使おうともしなかった。
唾棄すべき父と愛する母、姿を消した妹への、
無念、遺憾、未達、隠忍の思いをぶつけられるだけのものが、
そもそも小物である彼には、それしかなかっただけの事。
優しかった顔立ちには苦悩が刻まれ、
黒かった髪は白髪となり、
酒の飲み過ぎで土気色の肌には表情を出す事もなくなった。

だがギルド長となった彼にも守るべき立場と部下ができた。
ならば必要に迫られ殺しをする事もある。
望まぬつとめを果たす事も、
立場と部下を守るためには必要なのだ。

その迷いを封じ込め、
彼は5年間盗賊ギルド長を務めた。
迷いを晴らせぬまま、わだかまりも消えぬまま、
本来は容易いはずの罠解除で、彼は右足に重症を負った。

走れず足音も殺せない盗賊など価値はなくなったようなもの。
囲っていた堅気の女の家に転がり込んで、1年が過ぎた。
その女にも愛想を尽かされたのか、
ある日酒を飲んで帰ると女は消えていた。



375 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:01:00.77 ID:Mm2oT6db0



居場所を失くした彼はまた放浪の旅に出る事にした。
旅を続ければ顔馴染みもできる。
まだ心の闇を晴らせていない、そう考えた彼は仲間と共に奴隷商となった。

奴隷商は気分が良かった。
未来ある子供の人生を、ただ腹を肥やすためだけの不条理で台無しにできる。
虫を爪弾くようなものだ。
それが人に変わったところで、なんの違いもない。

自分のような無学でなんの展望もない男の食事のために、
未来ある子供が泣きわめき、絶望し、瞳から光が喪われる。
殺しは好かない、殺されないだけマシと思え。
そう心で語りかけ、彼は奴隷たちに背を向ける。

奴隷たちにとって身体を暴かれる事はただ命を落とすより辛い事なのだが、
絶望しきった彼には、それが理解できなかった。

奴隷商を続けたのは9年ほど。
だがそれも、どれだけ傷めつけられようと瞳から光を喪わない、
亜麻色の髪をした少女と出逢い、
すっぽりと闇が抜け落ち、彼はまた心を失くしてしまった。

一体なにをすれば楽になれるのか。
自分にはなにができるのか。
すべき事を見つけられない彼はもはや死を待つばかり。
だがふと、死ぬ前に誰かと話したくなり、
親しい友人も居ない彼は、娼館に出向く事にした。

あてがわれた女は、ひどく蒼白く頬のこけた、気だるそうな年増の女だった。
股ぐらの芯が痛むのかふらふらとおぼつかない足取りで、
それが梅毒特有の症状だという事もわかった。

…しかし、妙に親近感の湧く顔立ちをしていた。



376 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:01:55.54 ID:Mm2oT6db0



お兄さん、どこかでお会いした事が?

…いいや。だが、お前の顔は、なんだか見ていると落ち着くよ。

そうですか。…ま、時間もないですし。
そろそろ始めましょ。

その前に、少し話をしよう。
…無理にまぐわらなくてもいい。

はぁ?なに言ってんの?冷やかしなら帰んなさいな。

い、いや。冷やかしじゃない。
ただ、話がしたいだけなんだ。
それだけで金がもらえるんだ。悪い話じゃないだろ?

…あたしだってね。
こんな事したくてしてるわけじゃないよ!!
でもね、あたしにはこれしかないの!!
話したいなら酒場に行きな!
馬鹿にしてんじゃないわよ!!!

ま、待ってくれ!頼む!!!



377 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:02:47.22 ID:Mm2oT6db0



部屋を出ようとする手を強く引いた時、
身体の痛みからか娼婦はバランスを崩し、
椅子の角で頭を強く打ち、それきり動かなくなった。

ただ話がしたかっただけ。
それが、娼婦として生きる彼女の決意を踏みにじった事にも、
彼は気付けなかった。

騒ぎを聞きつけ部屋に踏み込んでくる男たち。
ただ呆然とするまま拘束され、
彼は衛兵に引き渡された。



378 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:03:34.08 ID:Mm2oT6db0



青年「娼館で殺し?」

兵士「ええ、そうです。
   本来ではこっちには回ってこない話なんですが」

青年「うーん。
   世の中も平和で、
   仕事もないし、まあいいよ。
   で、犯人はどこに?」

兵士「身柄は確保済みです。
   なんかずっとうなだれてますけど。
   ああ、身許なんですけどね、
   先代の盗賊ギルド長なんですよ」

青年「…ええ、大物だね」

兵士「だから話が回ってきたんです。
   軍警察としては動かないといけないでしょう、お坊ちゃま」

青年「うるさいな。
   年下の癖に」

兵士「で、ですね。
   これがまたややこしいんですよ。
   資料纏めておいたんで読んでおいてください」

青年「相変わらず有能だなぁ」



379 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:04:46.71 ID:Mm2oT6db0



盗賊「……………」


仮牢で一人うなだれる。
一体何日経ったのか。
なぜこうなったのか。
どこで間違えたのか。

ただそれだけを考え続けた。

従軍する母を止めるべきだったのか。
父はどう訴えれば時計作りをやめたのか。
妹の家出になぜ気付けなかったのか。

盗賊となったのは間違いだったのか。
奴隷を狩り続けてなんになったのか。

自分の人生は、不幸と憂さ晴らしの連続でしかなかった。


青年「食事、摂らなければ。
   そのまま餓死するつもりですか?」


部屋に入ってきた若い男。
よく鍛えられた身体と、血色のいい顔。
そして少しの汚れも無い白い軍服姿に目が眩む。


青年「面倒くさい前置きは省きます。
   なぜ殺したんです」

盗賊「………殺す、つもりは」

青年「まぁそうですね。
   状況としても、わざわざ椅子に頭を打ち付けるなんて。
   殴った方が早いです」

盗賊「……………」



380 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:05:59.68 ID:Mm2oT6db0



青年「まぁ、いいです。
   問題はあなたの経歴です。
   はじめは、盗賊として。
   その次に、奴隷商として。
   罪に問われなかった理由は色々あるでしょうが、
   捕まってしまった以上極刑は免れませんよ」

盗賊「……別に…構わない」

青年「極刑は自殺の場ではありませんから。
   死んだ娼婦についてどこまでお知りですか?」


盗賊は朦朧と、娼婦の顔を思い返す。
こんな時まで腹が減るとは、
人の身体とは不便なものだ。

青白く、痩せこけ、気だるそうな女。
見覚えはないが、ただ、
彼女の顔は、とても落ち着いた事は確かだ。


青年「では教えて差し上げます。
   彼女が娼婦となったのは、3年ほど前です。
   彼女は未婚の母でしてね。
   一人娘を奴隷狩りでさらわれてしまい、
   なんとか見つけ出したものの、買い取った者が随分と悪どくて、
   通報すれば娘は殺す、1億で娘は返してやる、と持ちかけたそうです」

盗賊「………奴隷、狩り」

青年「元はと言えばあなたのせいですね。
   裏は取れています」

盗賊「…そうか。
   ますます死ぬべきだな、俺は」



381 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:06:55.96 ID:Mm2oT6db0



青年「で、娘の父親ですが、
   10年前、彼女には内縁の夫がいました」

盗賊「………」

青年「その男がひどい男でね、
   職を失くし、毎日飲んだくれていたそうで。
   妊娠に気付いた彼女は子供のために、
   男の元を去ったとか。
   それなりに愛してはいたが、生まれてくる子を守りたかったと、
   周囲に漏らしていたそうですよ」

盗賊「………待て」

青年「なんです?」

盗賊「そんな馬鹿な話が、」

青年「話を続けますよ」

盗賊「待て!!!
   女の名は!!!!」

青年「今から言いますって。
   話、聞いてくださいよ」

盗賊「………」

青年「話を続けますね。
   彼女の名ですが、名前が一度変わっています。
   うちの有能な部下が3日かけて調べてくれたんですよ。
   感謝してくださいね」



382 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:07:41.02 ID:Mm2oT6db0



盗賊「…名前が、変わった?」

青年「ええ。
   彼女は、中央王国のはずれの街にある、時計職人の娘として産まれました。
   家出して名前変えたみたいです」


そんな、


青年「彼女の名前は、女って名前みたいですけど」


ばかな、話が。


青年「名を、変える前。
   彼女は、あなたの実の妹ですね」


生き別れた妹。
気の強い、誇り高い娘だった。

生き別れた兄と妹が、
お互いがそれと気付かずに夫婦になり。

娘を設け、また別れ、
知らぬまに誘拐犯とその被害者となり、

またそれと気付かぬまま、
殺人事件の加害者と被害者になっている。


盗賊「そんな、馬鹿な話があるかあああ!!!!!」



383 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:08:52.18 ID:Mm2oT6db0



しゅ、という音がした。
舌を噛み切ろうとした歯は、
それよりも速く口にねじ込まれた手ぬぐいを、
ぎりぎりと噛みしめていた。


青年「死んじゃだめです」

盗賊「ぐう、ううううううあああああ!!!!!!」

青年「娘さんはどうするんです」

盗賊「……!?!?」

青年「娘さんに会いたくはないですか?」


その時、なんの抵抗もなく。
心にするりと、ひとつの感情が滑りこんだ。

――――会いたい、と。

しかし会っても、償う事も、支えてやる事もできない。
自分では、娘にどうしてやる事もできない。


青年「ああ、…すみません。
   口を放してください」

盗賊「…ぅ……ぁ……………。
   その、…子は」

青年「会いたいですか?」

盗賊「……会えなくても。
   会えなくてもいい!!!
   会わせる顔なんて、…とても……!!!」

青年「……………」

盗賊「ひと目でいい!!!!
   ひと目でいい、見させてくれ!!!
   頼む!!!」



384 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:09:38.32 ID:Mm2oT6db0



青年「…その子は、今この王城に居ます。
   少し事情がありましてね」

盗賊「え―――――」

青年「最近の話ですが。
   …そこで、あなたをリクルートします。
   あなたの情報を抹消し、新しい戸籍をあげてもいいです。
   手続き上の問題なので、誰にも文句は言われません。
   あなたはむしろ生かしておき手元に置いた方が、
   各方面の貴族を黙らせるのに便利ですからね」

盗賊「…なぜ、そんな事をする」

青年「なに、簡単な事ですよ」



青年「あなたには、その子の世話係になってもらいますから」





385 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:10:16.22 ID:Mm2oT6db0



少女「………おじさん、誰?」


そして、その少女と引き合わされた。
顔立ちなどは、幼い頃の妹にまるで生き写しだ。

ただ、氷のような白銀の髪を除いては。


盗賊「…髪は、元々その色ですか?」

少女「さいしょは黒かったけど、
   …気付いたら、こうなっちゃった」

盗賊「そうですか。
   ―――私と、同じですね」


この子に父とは名乗れない。
自分に、その資格はないが、

この子の傍を終の棲家とする事を、その時決めた。



386 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:10:57.20 ID:Mm2oT6db0


***



見習「なにぼーっとしてんですか」

憲兵「………ああ。
   少し、昔の話を思い出していた」

見習「へー。
   あんたいくつだっけ?」

憲兵「今年で28だが」

見習「まじ、てっきり30過ぎかと。
   昔の話ってなんです?」

憲兵「………秘密だ。
   おい、目的地まではどのくらいだ?」

兵士「あと3時間ほどです。
   お急ぎを」

見習「おい、待て、待てって!!!」




387 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/11/25(水) 03:13:46.50 ID:Mm2oT6db0


おまけ終わりです。
本編にはあんまし関係ないです。
>>1の脳内エピでしたが気に入ったので文にしました。
1時間くらいで書いたのでおかしいところあるかもです……許し…て……。

本編はもう少しお待ちください…。
応援レスありがとうございます。
毎度毎度、励みになります。
本当にありがとうございます。


388 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 03:17:55.90 ID:AKMHCDdjO
乙!
389 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 05:04:29.94 ID:q8lCSf6Co
乙です
390 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 07:56:20.95 ID:XIyKwSsYO
おつんつん
391 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 08:00:04.32 ID:IJGty0ClO
まじか……まじか
救われないな
392 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 08:03:11.58 ID:IJGty0ClO
盗賊を殺した時の勇者をみると、やはり勇者の抱える闇は深いのだな
393 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 11:55:03.00 ID:yAZpeL/pO
いくらなんでも救いがなさすぎませんかね
394 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/25(水) 12:39:51.40 ID:wTbgOioxO
投下乙でした
外伝も面白かった!
こうした本編の補完エピソードもまた読んでみたい
本編の更新も楽しみにしてるよー
395 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/28(土) 00:23:07.62 ID:h0FeeBtUO
う…
勇者としては、重いよな
盗賊的には詰め込みすぎな感じ
396 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/11/28(土) 09:17:56.82 ID:Ii08Q0q9O
よくまとまってると思うが…
397 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/10(木) 20:01:37.41 ID:b5gE61kto
まーだかなー
398 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/20(日) 20:05:28.74 ID:iceIP3nLo
はよー
399 : ◆DTYk0ojAZ4Op [sage]:2015/12/29(火) 07:57:06.85 ID:ZfJH5/ip0
遅くなり本当に申し訳ありません。
本日夜更新予定です。

殺される…仕事に殺される…。
400 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/29(火) 08:14:45.20 ID:pB8OjXG4o
期待機
401 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/29(火) 08:17:02.68 ID:gTxPW636O
待つ
402 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:36:29.45 ID:+mjVyJCo0


***


―――そう。…出ていくのね。

ふふ。君にも、色々迷惑をかけてしまった。
これも仕方ないんだ。
これ以上ここにいても良い事もないし、
頃合いなんだろうね。

―――結局。
   あなたの産み出したものは、
   なにひとつあなたの手には残らなかったわね。

手柄も名声も必要ない。
私にとってそんなもの、必要なら、いくらでも手に入るものだった。
私に必要なものは、ここの教育機関と、研究設備だった。
なにも母校を軽んじるつもりはないが、
ここで学ぶべきことはもうない。
ふふふ、しかし追放とは。
まだ利用価値があると思われているとは…ふふふ。

―――学院はそう思っていても、
   国はどう思うかしらね?

…そう、か。
君は。

―――さっき指令が来たの。
   あなたの身柄の確保。
   …断りたかったけど、私の権限では無理ね。

ふふ…。
これも仕方ない、…か。
私では、君から逃げ切る事は不可能に近い…ね。

―――諦めるの?



403 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:37:00.08 ID:+mjVyJCo0



…諦めない。
諦めたく、ない。

―――………。

諦めて、たまるか!!!
私はまだ、なにも…!!

―――そう。
   …あなたらしいわね。

まだ、なにもできてない!
私は変えてみせる!!
辛い思いも!
悲しい現実も!!

―――………。

私は!!
この世の不条理を、全て無くしてみせる!!!



404 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:37:34.21 ID:+mjVyJCo0




―――じゃ、さっさと行って。

…え?

―――追手は私がなんとかする。
   あなたほどの魔法使いなら、
   取り逃がしたところで誰も疑いやしないわ。

…ありがとう。
君には、世話をかけっぱなしだ。

―――うまく逃げるのよ。
   …落ち着いたら、連絡を寄越しなさい。
   どこへ行くのか、知らないけど。

そうだね。
まずは、鉱山都市にでも行ってみる事にするよ。
手の付けた仕事がまだ残っているし、
現状も気になるところだ。

―――そう。
   …あまり目立ったことはしちゃ駄目よ?
   何度も助けられるものじゃないわ。

ああ、そうする。
あまり迷惑はかけられないからね。
…本当に、ありがとう。

―――いつか見せてほしいわ。
   あなたが、いつかきっと実現する、
   不条理のない、幸せな世界を―――



405 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:38:19.56 ID:+mjVyJCo0



柔らかな朝日が頬を射し、
朝靄のような眠りを静かに晴らした。
窓が少しだけ霜づく、冬の訪れを報せる寒い朝。
この季節の日の出は遅い。
どうやら少し眠りすぎたようだ。

賢者が魔法の都へと着いたのは、
魔法の王国南部の小さな村を飛び出した、実にその数時間後だ。
学院所有のものを借り上げた小さな屋敷が、彼女の住処。
使用人もおらず、生活といえば寝室と浴室のみ。
それなりに設えられた調度品は全て埃をかぶり、
彼女は内心、この小さな屋敷でも広すぎるとすら思っていた。


賢者「…昨日の疲れ、
   …抜けないな。
   あれだけ走れば当然か」


鈍る頭を振り払い、小さな化粧台に腰かける。
机に投げやられた旅支度から携行食を取出し、
珈琲の一杯でも煎れれば良かったかなどと考えながら噛り付いた。
エルフから教わった焼き菓子はとても栄養価が高く味もいいが、
なにせ喉が渇く。
しかし長い間家を空けていた事が災いし、水の備蓄がない。


賢者「寒いけど、仕方ないか」


水を汲みに表の井戸へと向かう。
屋敷は閑静な一角に建てられていて、
朝霧に霞む街並みに人気はなかった。

呪文を唱え、水を喚ぶ。
簡単な念動力だが、こういう時は便利なものだ。
手桶を肩ほどに浮かべ屋敷へ戻ろうとして、


―――あー、あー。
   これ、通じてんのか?


どこか間の抜けたような声を心に聞いた。



406 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:39:12.06 ID:+mjVyJCo0



賢者「…戦士?」

―――おお、ちゃんと通じるんだな。


念話は屋敷の壁にはりつくトカゲから聞こえる。
誰の使い魔かはわからないが、
ちょっとした結界を施してある賢者の自宅に侵入できるという事は、
かなり高位の術師のものだろう。


賢者「誰の使い魔なの?」

―――あー。
   …そいつは…。
   すまん、言えない。

賢者「あっそ。
   別にいーけど」

―――ごめんって。
   ああ、あいつの研究室、見つけたよ。
   …お前にも、今度教える。
   誰の使い魔か、そしたらわかると思う。

賢者「ほんと?良かったわ。
   今日謁見したら、しばらく行動の自由をもらうつもりだから、
   そしたら合流しましょ」

―――いいのか?
   開戦、秒読みだぞ。

賢者「だからよ。
   戦場は私の分野じゃないし、あの子の足取りを追う事は、
   この戦争の背景にも繋がるわ。
   大体、捨てる命なら俺のために使えって、あんた言ったでしょ」

―――いや、それは、言葉のあやでだな。

賢者「公私混同は良くないけど、
   利害が一致してれば別でしょ。
   …連絡を待つのは趣味じゃないけど」



407 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:40:05.53 ID:+mjVyJCo0



―――ああ、わかった。
   そのトカゲ、しばらくその屋敷に棲みつくみたいだから、
   念信したら出てくるらしい。
   俺の持ってる通信水晶と交信できるそうだ。

賢者「…凄いわね。
   それ、かなりの高位技術よ。一体何者なの?」

―――まぁそれは、後のお楽しみって事にしといてくれ。
   俺はこれから、また中央王国に向かうよ。
   やることができたんだ。

賢者「りょーかい。
   また連絡するわね。
   …っと、そうだ」

―――どうした?

賢者「あんた、精霊の力、うまく使えないって言ってたでしょ」

―――…ああ。

賢者「たまに精霊が目の前に現れない?
   ちょっと、悲しそうな顔で」

―――あー。一度だけある。
   緑色で、羽の生えた小人だった。

賢者「それ、名前をつけて欲しがってるのよ。
   契約がまだ済んでないから、
   精霊がどうしていいかわかんなくなっちゃってるのね」

―――名前って。
   …そうなのか。
   ありがとう、考えてみるよ。

賢者「いい名前つけてあげてね。
   それだけ力を貸してくれてるってことは、
   あなた好かれてるのよ。
   …それで?あの子の研究室で、知りたかったことは知れたの?」


少しの沈黙が流れ、


―――ああ、わかったよ。
   いろいろとな。


その沈黙を噛み潰したような言葉を言い残し、念信は途切れた。



408 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:41:01.64 ID:+mjVyJCo0



「起きましたか。
 詳しく説明している暇はありません。
 あなたに、頼みがあるのです」


その時目覚める前の最後の記憶は、向う脛に重い一撃を貰ってよろめき、
後頭部をしこたま殴られたところだった。
目が覚めれば右足には添え木が当てられ、
額には手拭いが置かれ、
顔を覗き込む初老の男。

己を打倒した男に介抱されるほど、屈辱的なことはない。


「執行部は、勇者殿に襲撃された。
 そうですね?」


なんでこいつが知ってんだ、とその時は思った。


「すみません、記憶を読ませて頂きました。
 私の扱える唯一の魔法です。
 …頼みを、聞いて頂きたい」

「私はこれから魔研に向かいます。
 勇者殿を止めるためです。これは私にしかできないつとめです。
 あなたは王城へと向かってください。
 そして、なんとかしてある男へと接触し、この惨状と、魔研で起こった事を伝えるのです。
 憲兵という、信用の置ける男です。
 それがきっと、魔法の王国のためにもなります」

「疑うのなら心を読んで頂いても構いません。
 できない?…なるほど。では、信じてくださいと言う他ありません。
 私とその憲兵という男は、あなたたちよりも、この世の中に詳しい。
 …少しだけ。少しだけですが、ほんの少しの真実を知っている」



409 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:42:12.99 ID:+mjVyJCo0



別に、その、寂しそうな背中をした初老の男に、
哀愁も憐憫も感じたわけじゃないが、
その少しの真実とやらは気になった。
そもそもこんなロートルに負けているようじゃ、
燃え落ちる研究所に戻ったところで、姉の助けになるとは思えないし、
この初老の男の頼みを引き受ける事が情報を引き出す鍵となる、と思っただけ。

それからの行動は早かった。
折れた骨を簡単な治癒スクロールで固め、
騎士の亡骸から鎧を剥ぎ、
落ち延びた騎士を装い王城へと侵入した。

しかし、いざ憲兵という男とやらの所在を突き止めてみれば、
なにやら部屋が騒がしい。
やはり頼みを聞くべきではなかった。
いつか耳にした事がある。
中央王国の妾腹の王子が、王宮で要職に就いている、と。

確か側室である母親は王にその美貌を見初められただけの、
元はといえば旅芸人一座の踊り子だ。
中央王国王家の血筋はみな太陽のように眩いばかりの金髪だが、
その王子は光を吸い込んでしまうような黒髪だと聞く。

厄介な事に、正統なる王太子もそれはそれでなかなかの人物ではあるものの、
中央王国王家の血筋は妾腹の弟の方が色濃く受け継いだようで、
力を持ちすぎぬよう王宮で子飼いにしているらしい。
なまじ本人も先見の明があるのか均整の取れた人格をしているのか、
それほど野心など抱えていない事は確かなのだが、
いつなんどきでも兄王子を先に立てるその振る舞いは放っておいても人望を集めてしまうらしく、
目下王宮の悩みの種だそうだ。

まぁ、そんなヤツ嫌うとしたらその本人に余程問題があるのみだろう、と誰しもそう思うものだが、
どうやらこの第二師団長という男はそういった余程問題のある手合なのだろう。


大将「せいぜい足掻くがいい。第二王子殿」


まぁ、仕方ない。
毒食わば皿まで。
厄ネタをひっかぶせてきたロートルへの恨み言を心に溢れさせながら、
道が開いた瞬間に閃光魔法を唱えた。



410 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:42:51.61 ID:+mjVyJCo0



閃光魔法ひとつで切り抜けられたのは奇跡に近い。
城から離れ、城下町の路地裏で肺の奥まで息を引き込んだ。


憲兵「助かった…が。
   君は一体、誰だ?」


男は訝しげに見つめてくる。
よく見なくても端正な面持ちだ。
通俗な親しみやすさの中に、隠しきれぬ毛並みの良さも見て取れる、
清濁併せ持つ危うげな完璧さを秘めている。
見習には、それがどこか気に食わなかった。

盗賊から言付かった内容を話す。
憲兵は見習の拙い話しぶりに深く耳を傾け、頷き、


憲兵「…そうか、それで。
   すまないな、敵方にも関わらず、危ない橋を渡らせてしまった」


だなんて、仮想敵国のスパイへの気遣いなんてものを吐くから質が悪い。


見習「いいや、俺は別に構わないんだ。
   じゃあ俺はもう…」

部下「そういう訳にも参りません。
   あなたは知りすぎている。
   我々と行動を共にして頂きます」


突然の声に路地裏の出口を見れば、
立襟の外套を身にまとった旅装束の女性が立っている。
中肉中背、特に印象に残らぬ顔。
つまり普通程度には見れる顔だが、
とりわけ目を引かれるものはない、そういった顔。



411 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:43:35.40 ID:+mjVyJCo0



憲兵「お前も無事だったか」

部下「ええ。
   お助けしては私まで捕らえられる事は明白でしたから。
   あなたがご自身の力で難を逃れられる事に懸けました」

憲兵「その判断は悪くはないが、
   見捨てられたと言っても間違いではないな」

部下「そうなればいずれお助けにあがる所存でした」

憲兵「まぁいい。
   しかしなにも、お前まで逃げんでもいいだろう。
   追われているのは俺一人なんだ」

部下「もはや兵ではありません。
   私はあなたの部下です。
   そもそも、あなたの持つ唯一の私兵を、
   身動きが取りやすいように強引に登用したに過ぎぬではありませんか」

憲兵「…っ、しかしだな…」

部下「あなたに仕える事は私の使命です。
   それともなにか?
   王城に戻り、あなたを追う任に身を委ねろと?
   あなたは自らに一生を捧げると誓う部下に、
   主人に弓を引けと命ずるのですか?」

憲兵「…わかった!もういい!!!」

部下「わかってくださったのならよいのです。
   さて、目下の行動指針ですが」


なにやら話がついたようだが、
彼らはひとつ忘れている。



412 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:44:22.42 ID:+mjVyJCo0



見習「話がついたようで良かったよ。
   じゃ、俺は―――」

部下「お待ちください」

見習「………へいへい」


マジで貧乏くじだ、と盗賊は思う。
確かに死ぬよりはマシなんだろうが、
助けたっていうのに、この仕打はないんじゃないだろうか。


憲兵「ああ、すまない。
   俺も彼女には同意見なんだ。
   君には、しばらく我々と行動を共にしてもらいたい」

見習「そりゃねーっすよ。
   俺には、今日の事を国に報告する義務が…」

憲兵「助けてもらった事は確かだが、
   看過できん事もある。
   我々は二人だ、味方は少ない。
   協力者が手に入るチャンスは逃したくないんだ」

見習「今がチャンスなのか?
   言っとくが俺は使えねーぞ、お断りだ」

憲兵「…どうしても承諾してもらえないのか?
   強制は、できるだけしたくないんだ」

見習「…へっ、あんたがどんだけ強いか知らねぇが、
   逃げ足には自信があるんだ。
   なんなら騒ぎを起こしたっていい。
   あんたらには困るだろ?」

憲兵「そうか。なら仕方ない」



413 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:45:00.16 ID:+mjVyJCo0




憲兵は無造作に手を掲げ、
…なにやら呟き始めた。


見習「…は?」


掲げられた手に小さな光が灯る。
それは確かに、魔法の王国の者である彼らには慣れ親しんだ力で、
中央王国の者たちには、忌むべき力であるはずだ。


見習「魔力、だって?」


憲兵の慣れた手つきには、少しの澱みもない。
驚嘆と、その仕草があまりに恭謙であるがゆえ、
見習は身体の自由を奪われた事に気付けないでいた。


憲兵「…かつて賢き者ども、
   ここに座せり。
   彼の者はいましめの鎖を整え、
   彼の者は敵を抑え、
   彼の者は鎖をつなぎとめる。
   ―――いましめは今、我が手に」

見習「お、おい、やめろ!!!」

憲兵「―――いと小さき者を捕らえ、
   我が言霊を届けよ」


光が消える。
それが魔法の発動が完了した証である事を、
なまじ魔法を齧っている事で、理解できてしまった。



414 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:46:09.65 ID:+mjVyJCo0



見習「はっ、―――はっ、」

憲兵「すまない。
   だが、条件は、『我々の旅に協力する事』それだけだ。
   時がきたら、解除する。約束しよう」

見習「てめぇ、なにもんだ!
   強制魔法は遺失魔法だぞ!!
   なんでてめぇが扱えるんだ!!」


ふと、憲兵の後ろの女と目が合うが、
部下だという女も目を丸くしていて、目が合った事に気付くと、
ぶんぶんと横に頭を振った。
どうやらあの女にとっても思い掛けない事実だったようだ。


憲兵「…部下、目下の行動指針を」

部下「………あ、
   …はい。
   ひとまず身分を偽り、国内に潜伏する事ですが、
   これはなんとでもなるでしょう。
   国内の情勢には詳しいですからね。
   つまりどこに潜伏するかですが、
   第二師団長の手が及びにくく、
   第六師団の影響力の強い場所が望ましい。
   そうですね?」

憲兵「仕事のできるヤツだなぁ」

見習「………ちぇ」

部下「条件を満たす街はいくつかあります。
   加えて、自由にできる空き家が一件。
   なので目的地はそこにしましょう」

憲兵「そこはどこだ?」

部下「盗賊が手の者を使って管理していた家ですよ。
   入れ替わり立ち替わり住人が変わっていますから誰も気に留めません。
   場所は、時計塔の街です」


415 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:47:49.38 ID:+mjVyJCo0



と、いうわけで、見習は今時計塔の街に居る。
盗賊という男が管理していたという空き家に身を潜め、
1週間が過ぎようとしていた。


見習「………しっかし、まぁ」


見れば見るほどなにもない家である。
ドーマータイプの角地という事は、
元は中流家庭が暮らしていた家だろう。
しかし竈も食堂も居間も、全て奥まった一角にある。
窓際には更に作業台のような机が据え付けられていて、
この家の家主はよほど生活スペースが狭かったのだと推測できる。
窓明かりを取り込むためか、
作業台の窓のみガラスが嵌めこまれている。


見習「ま、姉ちゃんもこんなもんだけど」


仕事ばっかしてるから自宅に求めるものが少なくなるんだ。
家は自らの帰りを待つものであるはずだ。
人も招かず、家庭も持たず、する事と言えば寝るか湯浴みするか、そのどちらかだけ。
姉も20の女性なんだから、良い嫁ぎ先のひとつでもあればいいのだが、
まぁ恐らく暗殺者と結婚したがる男など、それはきっと余程の物好きか、
似たような外法の者しか居ないのだろう。


見習「あ、いけね」


珈琲でも煎れようと湯を沸かしていた事を失念していた。
ここは火龍山脈南部に近く、地下水の豊富な街だ。
水資源は街を豊かにする。
長閑な地方の街を気取っていられる事も、巨大な山脈の恵みに守られているからこそだろう。
時計塔の街というだけあり、時計作りはこの街の伝統工芸だ。
魔法仕掛けの時計が幅を効かせるようになってからは時計職人たちは姿を消したと聞いたが、
彼らは時計職人から、金属板に印を刻む彫金師へと姿を変え、
未だ時計を作り続けているという。
それは執念か、それとも妄執か。
時とは人を惹きつける。
取り戻せない過去。
それは行きて帰らざる日々。
秒針がひとつ揺れる度、人々はまた何かを失くし生み出していく。
哲学者は時間の浪費にもなにかを見出すのだろうか?
未来を浪費し過去になにかを見出す事が彼らの人生だとすれば、
それは死んでいると同じ事だ。
差し引き、ゼロじゃないか。



416 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:49:41.55 ID:+mjVyJCo0



ぱたん、と音がして女が帰ってきた。
憲兵と部下がこの街で何をしているかは知らないが、
見習の命ぜられた事はといえば、


憲兵「君はここで待機だ。
   必要な時、力を貸してもらいたい」


なにせ逆らうと身体に激痛が走るのだ。
あの男、涼しい顔をして、魔法の練度はといえばかなりのものだった。
少なくとも未熟な自分に抵抗できるものではない。
彼がいつどこでこんな魔法を身につけたのか、知る由もないが、
強制魔法は既に失われた秘法だ。
かつて教会の司祭たちが悪魔調伏のため用いたとされるが、それも伝説のようなもんで、
実際神教の教えなんて全部眉唾だ。
まぁ信者はそれなりに居るし、中央王国ではまだそれなりに力を持っているんだが―――


見習「なにしてんの?」

部下「…挨拶を待ってんのよ。
   人が帰ったんだから挨拶くらいしろ、ばか」


このねーちゃんもなかなかの狐っぷりだ。
しかし言ってる内容は変わんないってんだから驚き。


見習「ああ、ごめん。お帰り」

部下「ったく、主人の手前、私もああ言ったけど。
   お坊ちゃまもなんであんたなんか連れてくんのかしら。
   あんな芸当できるなら、喋るな、で良かったのに」

見習「あー、あんた頭いいけど、魔法に関して不勉強だね」

部下「…なんですって?」


あと、ついでだが、
この人は怒ると、姉ちゃん以上に怖い。


見習「あー、ごめんって、えーとな。
   仮にも魔法の王国だから。
   これ、エンチャントの一種だから、魔法がかかってればばれるわけよ」

部下「…そっか。私にも隠してたくらいだしね」

見習「そー。
   既に追われる身なのに、これ以上興味持たれたくないでしょ」



417 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:50:51.15 ID:+mjVyJCo0




部下「なら、いっそ殺してしまえば良かったのよ。
   だいたい何?魔法使いったって、ぴかぴか光らせるくらいしか芸がないじゃない!!」

見習「ひでぇ言われようだなぁ。
   閃光閃熱魔法は使い手が少なくて貴重なんだぞ」

部下「習おうとする人が誰も居ないからでしょ」

見習「ごもっともです」

部下「足手まといにしかならないんなら、いっそ私が…」

見習「あんたの主人はそんな人なの?」

部下「………ぅ」

見習「はぁ。
   俺はあんたの主人を助けた。
   敵方であるにも関わらず、割と重要な情報の糸口を掴まされてね」

部下「そうね」

見習「割と悩んだと思うよ。
   情報を漏らすわけにはいかない、クーデターが成功し王城には帰れない。
   しかし、助けられた恩がある。
   …冷静になって考えてみたらさ、この処遇は彼なりの最大限の譲歩なんだ。
   軟禁は退屈だし、正直魔法の王国にも帰りたいけど、
   ま、ここはある程度安全らしいし、
   最悪の状況ってわけでもないしな」

部下「……驚いた。
   あなた、意外に冷静だし、物事も見れる子なのね」

見習「これでも一応執行部だから。
   潜入と情報収集だけは上手いんだ、俺」

部下「ま、使いでがある事はいい事だわ。
   ならいずれ働いてもらう事になりそうね」

見習「…俺、なんかまずった?」

部下「爪を隠す脳はなかったようね、あはは」



418 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:51:51.17 ID:+mjVyJCo0



夕刻を告げる鐘の音が鳴り響き、
また、扉の音がした。


部下「お帰りなさいませ」

憲兵「ああ。
   人員はわかったか?」

部下「ええ。
   割とサボっている様子で、練度はそれほど高くありません」

憲兵「よし、では明日にでも行動に移そう。
   見習、君にも働いてもらう事になりそうだ」

見習「いーけどさ、なにすんです?」

憲兵「依頼を出す」

見習「はい?なんの?」

憲兵「地取り捜査。
   第六師団は各地の冒険者ギルドと結びついている。
   行動は分隊単位が基本だが…、
   まぁ、多少面倒だが、5分もあれば終わるだろう」

見習「………あんた、意外と」

憲兵「兎にも角にも、まずは手がかりだ。
   第六師団狩りだよ」



419 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:54:09.61 ID:+mjVyJCo0




ローブを用意し、湯浴みを済ませた。
この国ではこれこそが正装だ。
今の時期ならまだいいが、いかに大陸北部とはいえ、
夏が無いわけではない。
王城で魔法は禁じられているため、夏の謁見ともなれば、
それはまさに地獄だ。

ま、謁見の間は、魔法で空調が効いてはいるけど。

髪を結わえている時、
ふと、化粧台の隅に追いやられていた、小瓶が目に留まった。
確か、いつかどこかの商人からガメた月下香のオイルだった気がする。


賢者「…なんだって、こんなもの………」


随分高価なものだと聞くが、
持ち帰ったまま長い間忘れていた。
優れた防腐処理が為されているようで、
少なくとも劣化などはないようだ。

なんとなく、小瓶を開けてみると、
ふわりと部屋中に、なんともいえない甘い香りが広がった。
思考を軽く麻痺させるほどの、粘膜が痺れるほどの甘い香り。
異国的でいながら、どこか庭先に覚えのあるような、
例えるなら、自らに罪はなく人を狂わせる儚げな美女のような香りだ。


賢者「…っぷ。つっよ…」


…ま、少しならいっか。
首にちょっとだけ擦り込んでローブを羽織る。


賢者「あ。
   ………いい香り」


これなら、密かな自分だけの楽しみといえる。
…チュベローズって、どんな花だっけ?

ま、いっか。いい香りだし。



420 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:54:52.27 ID:+mjVyJCo0



賢者「私よ。報告に戻ったわ。火急」


正規の軍籍を持たない賢者が謁見するには、
一度学院長を通す必要がある。
暗部である執行部には、表立った謁見許可など降りない。
よって、彼女が王に謁見する時は、王城内の小さな館が常だったが、


学院長「ああ、聞いておる。
    謁見の間に来いとの事だ」


今日に限っては、広間らしい。


どう考えてもおかしいが、
考えても仕方ない。
加えて例え王城内であろうと、何が起ころうと逃げ切る自信が、
彼女にはあった。
それだけの実力を彼女は備えてしまっていた。

もし行動が露見しているとすれば、
その時は、彼の存在だけは、どうしても隠し通さねばならない。
そして彼女は、まだ名前をつけてはいないが、
心に湧いたその感情を、はっきりと感じ取っていた。



421 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:55:46.15 ID:+mjVyJCo0




「―――お会いになられる。入るがいい」


そして彼女は、


自らの死地へと、足を踏み入れてしまった。




422 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:56:37.23 ID:+mjVyJCo0



賢者「…長くかかり申し訳ございません。
   中央王国王立魔法技術研究所においての戦闘についてからご報告致します」

魔法王「……………良かろう。
    申すが良い」


王の姿は、大きな天蓋に遮られ、目にする事はできない。
魔法を使えば目にしようと思えばできるが、罰せられる、といった方が正しい。
まぁ、彼女は王の姿など何度も城内の館で見ているのだが、
謁見の間の作法とはこういうものなのだろう。


賢者「我々執行部隊は指令の通り、盗賊という男の身柄を確保しようとしましたが、
   念信が傍受されたため、男の向かった魔研において行動に移そうとしました。
   しかしそこで、荒れ野に居るはずの勇者と、そしてその手勢の者と戦闘になったのです。
   勇者とその手勢は異変を察知し魔研へと向かう中央王国軍近衛師団第一中隊をも襲い、
   これを殲滅。
   魔研襲撃は全て執行部の責となりました」


謁見の間がざわつく。
当然だろう。
我が国は、罠にかかり宣戦布告を"させられた"のだから。


近衛「貴様、それでおめおめと逃げ帰ってきたのか!!」

賢者「情報が完全に漏れていたのです。
   …部隊に内通者が居た可能性は否定でき兼ねますが、
   現に部隊は勇者の手により全滅しています。
   内通者が居るのなら、生き延びているものと」

近衛「…そんな馬鹿な…!!」

魔法王「良い。
    …続きを申せ」

賢者「念信に留めず国に戻った事には理由があります。
   最早開戦は避けられない。
   しばしの行動の自由を頂きたいのです。
   ひと月の間に、状況の打開を約束致します。
   ですから、どうか―――」



423 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:57:13.20 ID:+mjVyJCo0



魔法王「……………」


王は黙して語らぬ。
もうひと押し、必要なのかもしれない。


賢者「我が王よ。
   私には―――」


だが。

彼女は、王が黙する意味を、

読み違えていたのだ。


魔法王「賢者よ」


王の真意は、開戦の理由などには無い事に、

彼女は気付けなかった。


魔法王「―――魔女なる女の行方は、どうした?」



424 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 01:58:47.75 ID:+mjVyJCo0



賢者「―――は」


見誤った。
賢者は、王の関心が戦の是非にあると考えていた。


魔法王「確かに奴は手強かろう。
    あれほどの魔法使い、
    もう我が国に現れる事はないだろう。
    して、鉱山都市の魔力炉はどうなった?
    魔法の都は盲目とでも思ったか?」

賢者「いえ。…決して、そのような事は。
   魔女の行方は、中央王国も追っています。
   彼女絡みの任務では、勇者と会う機会も多く…」

魔法王「語らずとも良い。
    …あの魔法使いが死んでいる事など、
    儂はとうに知る処だ」

賢者「―――え?」

魔法王「そして最早戦争など。
    中央王国など恐るるに足らぬ力を、我らは手にしたのだ。
    他ならぬ魔女の編み出した秘術よ」

賢者「我が王。
   …あなたは」

魔法王「解析には時間がかかったが。
    我らは遂に。
    遂に、手に入れたのだ!!」

賢者「あなたは一体、何をしたのですっ!!!!」




425 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 02:00:06.93 ID:+mjVyJCo0



突如、謁見の間の天井が崩落し、
大柄な人型の魔族が、謁見の間へと降り立った。

黒い肌に浮かぶ頑健な筋肉。

虹彩の無い、ただ朱いだけの眼球。

額からは大きな山羊を思わせるねじれた角が生え、

竜のような翼を持つ。

そして何より、禍々しい漆黒の鎧を纏い、

攻撃的な意匠の大剣を持つ、その姿。


魔法王「これが、我らの力!
    人の及ばぬ魔神の力を、我らは従えたのだ!」

賢者「貴様は―――ッッ!」


デーモン種と呼ばれる魔物は大剣をその手に構え、
戦闘への愉悦をその口の端に浮かべる。
ここは、死地だ。
一人で打倒できる相手ではない。

―――だが。


賢者「己の統治すべき国に、魔を引き入れたのか!!!」


不可能でも、賢者は、敵をここで討伐する。
祖国を守るため。
彼を守るため。

…親友の仇を、取るために。



426 : ◆DTYk0ojAZ4Op [saga]:2015/12/30(水) 02:01:38.83 ID:+mjVyJCo0

今日の分終わりです。
毎度少なくてすみません。

数々の応援レスありがとうございます。
励みになります。

年越しの暇潰しに読んでいただければ幸いです。
それでは皆様良いお年を…。
427 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/30(水) 03:28:11.54 ID:Ftzt8Bq3o
乙です
428 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/12/30(水) 04:28:56.81 ID:8RUdonV40

ってここで引くのかーい
割と皆普通に死ぬからドキドキするぜ……
429 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/30(水) 07:43:56.43 ID:1QEFl+sAO
乙!
430 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/30(水) 10:09:05.15 ID:pIKOSTinO
乙!
431 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/12/30(水) 18:46:42.59 ID:zkeHW139o

死ぬならハガレンのヒューズみたいにあっさり
生きるなら最後まで生きる
どっちだろ賢者
432 :以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします [sage]:2016/01/01(金) 03:42:49.43 ID:w4h5SowP0
いいなぁ・・・この謎が謎を呼ぶ感じ
SSひとつにこれだけ設定練れるのか
433 :以下、2015年にかわりまして2016年がお送りします :2016/01/11(月) 17:59:43.27 ID:UEQILW0J0
C
434 : ◆DTYk0ojAZ4Op [sage]:2016/02/01(月) 11:35:54.19 ID:SE7Z8H7SO
ご無沙汰しております。
昨日一昨日に更新しようと思ったのですが、
この1週間体調を崩してしまい…、
申し訳ありません。
すっかり忘れ去られてしまったかもしれませんが、
もうしばらくお待ち頂けると幸いです。

皆様冬は確かに旬ですが、
牡蠣にはお気をつけください。
地獄でした。
435 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/01(月) 11:42:29.70 ID:f1DsJ2Sco
待ってるよ
436 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/01(月) 11:55:41.77 ID:jVSWKbbOo
生牡蠣うまいとはいうけど、やっぱり加熱した方が色々と安全なんだぜ…
っ「いのちだいじに」
437 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/01(月) 14:44:18.11 ID:MGCCgswqo
良かった
待ってるからしっかり治してくれ
438 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/01(月) 23:16:12.54 ID:fOKxuYgiO
待ってるよ
439 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/29(月) 13:32:06.66 ID:2TLEkKBDO
いつまでも待ちます
440 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/02/29(月) 17:56:05.57 ID:YL0bYuXg0
マジでエタらないでくれよ。期待してるぞ。
441 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/03/11(金) 14:04:42.44 ID:KbuATfMZO
待つ
442 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/03/26(土) 08:25:25.93 ID:N07nozPiO
まだかい?
443 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/03/26(土) 11:43:21.96 ID:FWK7p0LNo
もうすぐ2ヶ月だな
444 : ◆DTYk0ojAZ4Op [sage]:2016/03/26(土) 14:20:32.14 ID:/2JnibbIO
明日更新します…。
445 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2016/03/26(土) 14:25:58.57 ID:Fx4Cvsr90
投下予告やったぜ来なかったら今後旬の食べ物にあたり続ける呪いをかけてやる
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