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風俗嬢と僕

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35 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/22(水) 23:55:02.61 ID:If/Uzyb/O
「フラれたんだよ」

「えっ」

予想もしてなかった言葉に、つい声をあげてしまった。ヒロさんの彼女は、確かプロだったときからの付き合いだと聞く。

もう数年は付き合っているし、再就職をしてからしばらく経ち、そろそろ結婚かなと思っていたのに。

「っていうのに加えて、代表もだよ」

「代表……?」

脈絡のないその言葉に、僕は首をかしげた。彼女……代表? 代表って何だ?

「この間、アジア予選の代表が発表されただろ」

あ、サッカー日本代表のことか。でも一体、それがどうしたって言うんだろうか。

「シンヤが選ばれてるんだよ」

吐き出すように口にした名前は、今回初めて代表に招集された選手の名前だった。一部リーグで中盤の選手ながらもゴールを重ね、アシストランキングだけじゃなくて得点ランキングでも上位に名を連ねている。

待望の招集に日本中のサッカーファンは彼のプレーを楽しみにしていると専ら評判なんだけど、ヒロさんは不機嫌そうだ。
36 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/23(木) 21:17:39.95 ID:0nQbU257O
「それが……」

僕の言葉を遮るように、ヒロさんは言葉を重ねた。

「あいつ、チームメイトだったんだよ」

ああ、そういえば。

言われてみると、確か彼は去年までニ部のチームでプレーをしていたはずだ。そして、そこでの活躍が認められて一部のチームに今季から移籍したと、雑誌の特集記事を読んだ記憶がある。

しかし、元チームメイトだったのなら、彼の代表選出は喜ばしいことなんじゃないんだろうか。

そんな謎は残るけど、僕からヒロさんにそれを尋ねるのは何だか躊躇われてしまった。

「俺がクビになった理由、カズに話したかな?」

投げられた言葉は、またも脈絡の無いように思えたものだった。僕は黙って首を横に振ると、ヒロさんは言葉を紡ぎ始めた。
37 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/23(木) 21:18:21.86 ID:0nQbU257O
俺と同期で高卒新人だったのが、シンヤだったんだ。

もちろん俺たちはすぐに仲良くなった。友達だし、チームメイトだし、仲間だった。

入団初年度はお互いにロクに出番がなくて、二人で自主練をしたり、愚痴りあったり。

お互いに活躍するとそれを励みに練習に打ち込んで、仲間だけど負けたくないなって思ってた。

二年目になって、俺たちのチームの主力選手の先輩が抜けたんだ。一部のチームに引っこ抜かれて、チームとしてはピンチだけど俺達としてはチャンスだなって。ポジションも同じだったから、これを機にレギュラーになってやるって野心を持ってね。

その年の開幕前のキャンプで、紅白戦をしたんだ。レギュラーチームに入ったのは、シンヤじゃなくて俺だった。

プレースタイル的に俺の方が先輩に近いものがあったっていう幸運もあったのかな。でも、そこで良いプレーをしたら開幕スタメンも夢じゃないって思って、俺は気合を入れてその試合に臨んだんだ。

自分で言うのも何だけど、前半はかなり良いプレーが出来てさ。あのプレーなら、先輩がいてもレギュラーを争えたんじゃないかってくらい。チームとしても良いペースで点を奪って、紅白戦だけど圧勝って感じ。

ただ、後半。あれが起きたのは後半だったんだ。
38 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/23(木) 21:19:10.97 ID:0nQbU257O
後半が始まってからも、レギュラーチームの優勢は変わらなかった。

俺たちはボールを支配して、相手チームも防戦一方って感じでさ。

そんな雰囲気の時に、俺とシンヤがマッチアップしたんだ。ボールを持ってるのはもちろん俺で、ディフェンスがあいつ。

勝ってるし調子も良いからって天狗になりかけてた俺は、シンヤ相手に股抜きをしたんだ。

足の間をボールが通って、俺も脇を通り抜けて。やったと思った直後に、倒れたてたんだ。

後ろからシンヤにスライディングをされて、それがモロに右足に入ってたんだ。

出たくなんかないのに担架でピッチの外に追い出されて、そのまま病院に行ったら全治半年だ、って。

試合に出られない間にあいつはチーム内でレギュラーになって、俺はそのまま出番をなくしてしまった。

初めてそんな大怪我をしたからかな。それ以来、後ろからの接触プレーが怖くて、どうしても抜いた相手を気にし過ぎてしまうんだ。

県リーグレベルならそれでも通用するけど、プロの世界ではそれじゃダメでさ。

その年ともう一年は面倒を見てもらえたけど、結局それが遠因で、二年前にクビになったんだ。

シンヤともあれ以来気まずくて、退団してからは連絡を取ってない。
39 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/23(木) 21:21:30.79 ID:0nQbU257O
「あいつのせいじゃないってことは、分かってる」

ヒロさんは、絞り出すように漏らした。

「あんな状況で股抜きなんかされたら誰だってイラつくし、接触プレーを怖がってしまうのは俺の心が弱いからなんだ」

「じゃあ……」

「でも」

逆接の言葉で感じたのは、強い感情だった。理屈を超えた感情だ。

「もしあそこで怪我してなければ、今ごろ代表にいたのは俺かもしれない。そう思うと、どうしてもスッキリした気持ちで応援も出来ないんだ」

俺って嫌な奴だよな、とヒロさんは自嘲気味に呟いた。

「そんなことないです」とも、「それはシンヤが悪いですよ」とも、僕は言えなかった。

ヒロさんの「あれさえなければ」という気持ちも分かるし、とはいえ怪我のリスクはサッカー選手である以上、当然背負っているものだ。自慢できるものではないが、僕だって骨折や捻挫の経験はある。

消化しようとしてもしきれないモヤモヤを、ヒロさんも感じているんだろうか。

「悪いな、こんな空気にしてしまって。ちょっと愚痴をさ、聞いてもらいたかったんだ。お前くらいしか話せないからさ。ミユにこんな話を聞かれると心配されるし」

その言葉を最後に、ヒロさんは空元気なのか笑えてない笑顔で僕に「肉食え、肉! 体作って、今週の試合も勝つぞ!」と言った。

その言葉にも僕は返事が出来なくて、ただ頷いてトングで肉をつつくだけだった。
40 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/23(木) 23:49:08.88 ID:0nQbU257O
あの焼肉から一週間。

アジア予選が始まり、シンヤも代表デビュー戦でゴールを決める活躍をした。その試合後は、うちのチームでもシンヤの名前がよく出てきた。

彼の名前を耳にするたびに、ヒロさんは複雑そうな表情で相槌を打っているし、僕も何だか晴れやかな気分とはいかなかった。代表が勝ったら、普段は嬉しいのにね。

大学も練習も無い休日は久しぶりで、家に引きこもるか悩んだけど、ちょっと出掛けてみることにした。どうせ一人で家にいても落ち着かないしね。

七分丈のお気に入りのサーマルカットソーに、ちょっとダメージの入ったジーパン、スニーカー。夏が近づくとサンダルを履く人も多いけど、中学生の時の部活の顧問に「サンダルなんか履いて怪我してサッカーできなくなったらどうするんだ! 靴を履け!」と言われて以来、卒業した今もその教えをずっと守っている。

ファッション、流行りの服が好きってことじゃないけど、お気に入りの服を着るだけで少し楽しい気分になる。

浮かれない気持ちも少しはマシになって、僕は行くあてもなく町をうろつく。
41 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/24(金) 22:43:57.96 ID:XLQX7YOSO
信号待ちで顔をあげてみると、大型スクリーンにシンヤが映し出された。以前の代表戦の得点シーンが流れた後に、『絶対に負けられない』というお決まりのテロップが流れている。

それを眺めながら、あの日のヒロさんの話を思い出すと少し憂鬱な気持ちになった。

誰が悪い、どちらが悪いとかではなくて、お互いが本気だったから起きてしまったことだとは思う。

とは言え、それはあくまで僕の感覚での話だ。正直、プロとか代表とか話のスケールが大きすぎて、何だか違う世界の話のようにも感じてしまう。

違う世界……?

その言葉に、何だか引っ掛かりを覚えた。

そういえば、僕のモヤモヤを解消してくれたのも異世界のような場所で、彼女に話したことがきっかけだった。

また行ってみようかな。

そんな軽い気持ちで、僕の足はあのビルへと向かった。
42 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/24(金) 22:58:05.02 ID:XLQX7YOSO
まだ早い時間ということもあってか、僕はすんなりと店内に誘導してもらえた。

以前と同じブースに座っていると、場内アナウンスが耳に入った直後に彼女の姿が見えた。

「あっ、カズヤ! こんにちはー、また来てくれたんだ?」

靴を脱ぎながら彼女は僕に挨拶をした。

忘れない、との言葉通りなのかスタッフが何か伝えたのか分からないけど、彼女はとりあえず僕の名前は分かってくれているらしい。

「あっ、名前覚えてるんだ」

「そりゃ覚えてるよー! あんな話をここで聞いたの初めてだもん! おまけに抜いてあげられなかったしさー」

少し口を尖らせて、拗ねたような口調でそうぼやいた。

「で、今日は? 今日こそスッキリしに来たの?」

彼女はそう言いながら僕の左頬に右手を添える。相変わらず吸い込まれるような瞳に見つめられ、自分でも胸の鼓動が高鳴るのが分かってしまう。
43 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/25(土) 10:09:15.00 ID:nWoaILSKO
うんいいね
44 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/26(日) 11:30:12.18 ID:1QZheVPjO
「えっと……」

完全に話しを聞いてもらいに来てたけど、よくよく考えるとここはそういう場所で、僕の行動はひどくお門違いなものの気がする。

「ん? 違うの?」

「ちょっとお話をしに……」

「またー?」

「やっぱり迷惑?」

「いや全然! でも、私で良いの?」

私で良いの、というよりは。

「お姉さんだから良いのかも。知らない人だから話しやすいこととか、あるじゃん?」

その説明に納得したのか、うんうん頷きながら「よし、ドンと来い!」なんて言って胸を叩いた。ノリ良いな。

「あっ、でもね」

そう言ったかと思うと、彼女は僕の唇に人差し指を当てた。

「お姉さん、じゃなくて、ゆう、だから。お分かり?」

ね? と、笑いながら彼女は念を押してきて、僕は顔を赤くして頷く。
45 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/26(日) 12:04:31.50 ID:1QZheVPjO
しかし、いざ話すとなるとなかなかどうして、説明が難しいんだよね。前みたいに自分のことだったら包み隠さず全部話せるけど、ヒロさんもシンヤも預かり知らぬところでプライベートを曝されるのは嫌だろう。

「ちょっと説明が難しいんだけど……憧れてる先輩がいてさ。最近、落ち込んでるみたいで」

「うんうん、何で?」

ここの説明が一番難しいんだけど。

言葉を選びながら、慎重に話を進める。

「同じタイミングで入社した人が一人いるらしいんだ。でも、最初は自分の方が優秀だったのに、不幸な事故で出世できなくて、もう一人が出世したらしくて。祝ってあげたいのに、事故さえなければ……って思ってしまうんだって」

プロサッカー選手だって社会人なんだから、入社という言葉で誤魔化してみたり、怪我を不幸な事故と言ってみたり。ニュアンスが変わって伝わらないか心配だけど、これ以上の説明は今の僕にはできなかった。

「そうなんだー、へぇ……」

「それで落ち込んでるし、彼女にもフラレたらしくて、二重に落ち込んでるらしいんだよね」

「何だ、カズヤの仲間じゃん」

そんなツッコミを入れて、ゆう……ちゃん、はニヤけ顔になった。

「でも、人の心配ができるくらいならカズヤはもう大丈夫そうだね。カズヤはその先輩に元気になってもらいたいの?」

「うーん……元気になってもらいたい……なのかな……?」

改めて問われると、その返事には少し戸惑ってしまう。いつも通りのヒロさんになってほしいとは思うんだけど、ヒロさんだって人間なんだから、苦しさを捨ててほしいなんてことを僕が願うのも過ぎたことだ。

僕はいったい、どうしたいんだろう。どうなってほしいんだろう。

「やっぱりさ、カズヤの憧れてる先輩もさ、落ち込んでるってことはそれだけ悔しくて、好きでやってることなんでしょ? それなら、その悔しさは大事にしないといけないんじゃないかな」

前回と同様に、ユーロビートな音楽が騒がしくなる部屋のなかで、ゆうちゃんは言う。

「悔しかったり悩んだりするのは、それだけ好きだからなんだよ。好きじゃないことで辛いなら、逃げてしまえばいいもん。でも、それから逃げられなくて辛いなら、それは受け止めて消化するしかないんじゃないかな」

言いきると、「ごめんね、偉そうに」なんて申し訳なさそうに付け足した。
46 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/26(日) 12:42:32.77 ID:1QZheVPjO
「なるほど……」

「だから、カズヤは特別何かするとかじゃなくて、その先輩が悔しさを消化しきれてるかどうかを気にしてあげればいいんじゃないかな。それこそ、辛そうなら話を聞いてあげるとか。言葉にすると楽になること、あるでしょ?」

それは確かに、正しく以前ここで体験したことだ。

「でもさ、その先輩もカズヤのこと信頼してるんだろうね。そんなこと話してくれるなんてさ」

羨ましいな、と彼女は言った。何が羨ましいのかは分からないけど、とても寂しそうな声色で。

「何の先輩なの? カズヤはまだ学生だったよね? その人は働いてるみたいだけど」

まあ、これくらいは話しても問題ないよね。働きながらサッカーをしてる人なんていくらでもいるし。

「今、大学じゃなくて社会人のチームでサッカーしてるんだ。そのチームの先輩」

「あっ、サッカーやってるんだ! 言われてみればやってそうだよねー!」

「そう?」

「うん、胸板しっかりしてるし、足もちょっと太いし、見た目チャラいし」
47 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/26(日) 17:13:19.21 ID:1QZheVPjO
「チャラいって……」

関係あるの? と苦笑すると、彼女は大真面目な顔でこう返した。

「サッカー部への偏見ですっ!」

何だそりゃ。 つい吹き出して笑ってしまったよ。そんなイメージがあるのか……チャラくないんだけどなぁ。

「社会人のチームかぁ……試合とかもあるの?」

「もちろん。県のリーグ戦にも登録してるし、天皇杯っていうトーナメントも予選に出るし、結構本気なチームかな」

「サッカーしてるカズヤ、ちょっと見てみたいかも」

「はいはい」

「もー、何でそんな冷たい反応なの?」

リップサービスを流してしまうと、そんな苦情を入れられた。真に受けるのも何か、ねぇ。

「えー、本当だよ? 試合の予定とか教えてよー」
48 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/26(日) 22:17:46.12 ID:7WVhPv/8O
「えーっと……来週末に、天皇杯の予選があるけど……」

会場は、このお店からもそう遠くない場所にあるサッカー場だったはずだ。芝のピッチに、小さいながらもスタンドもついているところだ。今は、そこで試合をするのが待ち遠しい。

「へぇー、近いんだね。何時から?」

「14時キックオフだったかな? たぶん」

「なるほどなるほど……って、店外デートは禁止なんだけどねっ」

「デートなの?」

そんなふざけたやり取りに、やっぱりリップサービスじゃないかと少し残念がってしまう自分もいた。

「私、サッカーの試合って生で見たことないんだよね。テレビニュースで日本代表のハイライトは見たりするけど。誰だっけ、今注目されてるの。えーっと……」

「シンヤ?」

名前を隠していたとはいえ、さっきまで話していた彼がこんな風に名前が出てくるとは思っていなかった。

「そうそう! 最近よく見るなぁって思って!」

サッカーにあまり興味が無い人にまで知るようになるくらい、代表の影響力っていうのは強いらしい。

「ま、僕はあんなに高いレベルで試合できないからね。先輩とかはやっぱり上手いんだけど」

「じゃあ、その先輩を見に行っちゃおうかなぁ……嘘だけど」

そんな下らないやり取りをしているうちに、その日の僕らの時間は終わった。
49 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/27(月) 12:48:00.71 ID:HkBMGgPDO
風俗で働こうと思ったきっかけは、楽に稼げそうだったから。

高校を卒業した私は、勉強が嫌で進学もせず、だからと言って正社員として就職もせず、ダラダラと生きていた。

でも、そんなことをいっても私だって年頃の女なんだから、苦しい思いをして働きたくもないけど、遊ぶお金は欲しかったんだよね。それで選んだ道が風俗だった。ピンサロならホテルに行ったりはしないから本番とかの心配はないし、色々と相手をしないといけないキャバクラとは違い、ヌいてあげたらそれで終わりだから面倒なこともなさそうだし。

最初はおじさんのそれを扱うのに戸惑いもしたけど、馴れてしまえば若いイケメンも脂ぎったおじさんも同じものだと割り切れるようになった。

とはいえ、風俗だって人気商売なんだから流行り廃りがあるわけで、いつまでもこんなことをしているわけにもいかないよね、とは思い始めていた。成人式が終わったあたりからかな。やっぱり、20歳を越えた儀式って、日本人の感覚としては大きいみたい。

そんな風に転職を考えていた春に、変なお客さんが来た。

歳も私と同じ男の子で、風俗に来たっていうのに脱ぎすらしないで、寂しそうな目をしたまま失恋話を始めてきた。

話すだけ話すと、彼は憑き物が落ちたみたいにすっきりした表情で退店していった。

普通に恋愛をするとあんな風に落ち込んだり悩んだりするんだ、って思うと、今度は私が少し寂しくなってしまった。私の恋愛は、普通ではないと自分で思っているから。
50 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/28(火) 00:32:33.92 ID:WZY5QuKYO
よくある話かもしれないけど、私はホストにハマっていた。

私のお客さんはおじさんが多いしたまには若い男と話してみたい、と軽い気持ちで踏み入れたのは深い沼だった。

そこで私の対応をしてくれた男を応援したい、ナンバーワンにしてあげたいと思い、私は彼に貢ぎに貢いだ。

ブランドのスーツや財布、現金だって渡したし求められたらセックスだってした。

それでも、これだけは分かっている。

私は彼の彼女にはなれない。

彼が好きなのは私じゃなくてお金や体であって、それがあるなら私じゃなくても良いんだっていうのは、私が一番知っている。

彼は私以外の女も平気で抱くし、貢がれたものも気に入ったなら使う。要するに、私は彼にとって彼女どころか、何番目の女ですらないんだ。私の前で、他の女の匂いを隠そうとしない。

それで他の女に負けたくないと貢ぐ私って、本当にバカだよね。でも、止められないの。
51 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/28(火) 18:48:39.81 ID:emITPULkO
とても面白い
期待
52 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 10:38:39.07 ID:fD2ZDnXLO
彼女はおろか、貢いでいるからセフレにすらなりきれてない私は、ドロドロの底無し沼にハマって抜け出せないでいた。

ピンサロで働いているのと同じで、このままじゃダメだって分かっているのに止めることもできない。

きっと、私はこのままじゃ幸せにも不幸にもなれないんだろうな。たぶん彼に女ができても私たちの関係はなくなりはしないだろうし、逆にずっと女ができなくても私は彼女にはなれない。

私も似たような接客業だから分かるけど、お客さんと付き合うのってめんどくさいみたいだしね。

お客さんでいるときは相手の気を引こうと貢いだり健気にいたりするけど、立場が恋人になってしまうと、人間は欲深くなってしまうらしい。

表向きはお客さんと店外で会うのが禁止されてるうちの店でも、お客さんと付き合ってる子は今までに何人かいた。でも、彼女たちは全員、付き合ってしばらくすると「あんな人とは思わなかった」って口にするようになるんだ。

今までは男が女の子に合わせてお店に来たり、プレゼントを貢いだりしてたのに、恋人みたいに対等な関係になってしまうとそれが変わってしまうからなのかな。

そういうのを見てきた私はお客さんと付き合うとか店外で会うとかってめんどくさいと思ってたのに、自分が客として貢ぐ側になってしまうと、貢いでいく方の気持ちも何となく分かるようになってしまった。

対価を払い続けている限り、よっぽどのことがない限り彼は私を拒まない。そして、彼が納得するだけの対価を払えてる今は、彼の優しさを得ることができる。

ビジネスライクなwin-winの関係で、私たちは結ばれている。その優しさを失うのが怖くて、私は彼に貢ぐのをやめられない。そして貢ぐのをやめられないからこそ、私は今の仕事を離れることができない。
53 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 11:08:28.86 ID:fD2ZDnXLO
何度か、彼から離れようとしてみたこともあった。

合コンに行ってみたり、友達に紹介してもらったり。高校の同級生がモデルをしていたから、彼女に誘われた合コンでは芸能人やスポーツ選手、お笑い芸人みたいな華やかな世界の人にも会えた。

そこで何人かに気に入られてお持ち帰りはされても、恋人同士にはなれなかった。

華やかな世界に住む彼らに対して、私が怖じ気づいてしまったんだよね。だって私、ホストに貢ぐ風俗嬢だよ? 他の人がそれをどう思うのか分からないけど、私の感覚だとどう考えても私じゃ彼らには釣り合わないと思うんだよね。

それに、彼らもたぶん本気じゃないし。一晩遊ぶ相手として、私はちょうどいい女なんだと思う。連絡先も交換しないことだってあったし。

そういう華やかな世界じゃない人に対しても引け目は感じてしまって、恋人なんて作ることもできないままに彼から離れることができずにいた。

ホストに貢ぐという歪んだ形の恋愛に溺れた私にとっては、カズヤのように彼女にフラレて落ち込む普通の恋愛が、何だか眩しかったんだ。
54 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 13:22:18.72 ID:fD2ZDnXLO
「エリ、俺もう行くから」

私の本名を呼んで、アキラ……ホストの源氏名なんだけど、彼は私の部屋から出ていった。私はベッドの上で上半身だけ起こして「いってらっしゃい」と声を投げ掛けた。

昨日の夜、終電を逃したから泊めてくれと連絡された私はそれを受け入れた。彼がうちに来ると、いつも同じベッドで体を重ね、朝になるとさっさと帰ってしまう。

最初はそれに冷たいなぁなんて拗ねていたけど、それにももう慣れてしまった。辛いことへの適応力はわりとすぐに身につくようにでかなているらしい。

寝ぼけ眼のままにベッドから出て、テレビをつけてみると、スポーツニュースが流れ始めた。私とちょっとしか変わらないような歳のサッカー選手が、日本代表の試合で活躍したらしい。得点シーンを流しながら、「彼の活躍が、今後の日本代表には必要不可欠です」なんてコメントも聞こえてきたり。

必要不可欠、か。

私はきっと、誰からも必要になんてされてない。定職にもつかずフラフラしている私のことを家族は呆れて見てるし、アキラだって私のことは都合の良い女だとしか思ってないはずだし、お客さんだって私より上手い女の子、可愛い女の子がいたらそっちに流れてしまう。

私がいなくなったところで、何の問題もなく世界は回る。

そんな私と対照的に、日本代表という大きな舞台で、多くの人に求められている彼を見るのは何だか辛かった。

テレビを消して、出掛ける支度を始める。良い天気だし、ショッピングに行こうかな。

シャワーを浴びて身嗜みを整えて、お気に入りの服を着て。それだけでちょっと幸せな気分になった私は、欲しい夏服を思い浮かべながら町へ飛び出した。
55 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 17:02:45.70 ID:fD2ZDnXLO
何着かの服が入ったショッピングバッグを手に、私は散歩をしている。

あんな仕事をしているとどうしても不健康な生活リズムになりがちだから、休日に散歩をするのは嫌いじゃないんだ。ダイエットにもなるしね。

町を抜けて、ちょっと落ち着いた河原に出てきた。そのまま堤防沿いを歩いてみると、心地よい風が吹いてきた。

長袖を着ると少し暑いくらいだったし、もう夏は近いのかもしれない。

季節の変わり目に感じがちな、ノスタルジックな感傷に浸っていると、河川敷でサッカーをしている人たちが目に入ってきた。

へぇ、こんなところで練習してる人たちもいるんだ。

その方向に目を向けたまま歩いていると、彼らは大人で、私と同じような歳の人であったり、もしくはおじさんのような人であったりということに気づいた。みんな、気持ち良さそうな笑顔でボールを追いかけたり、声を出したりしている。
56 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/29(水) 20:15:39.39 ID:fD2ZDnXLO
彼らはどうしてボールを蹴るんだろう。追いかけるんだろう。

好きだからやってることなんだろうけど、運動音痴な私からしてみたら、これからドンドン暑くなっていくというのにあんなに汗をかきながら走っていくのは苦行にしか見えない。スポーツ好きな人って、マゾなのかな。

それに、失礼なことを言ってしまえば、彼らがプロの選手や日本代表の選手になるのはきっと無理だと思う。

スポーツ選手って名門の高校、大学で鍛えられてプロになるイメージなんだけど、こんな河川敷でボールを蹴っている彼らは、環境的にも年齢的にもそういうところまでは辿り着けないんじゃないかということは、素人の私でも分かる。

それでも彼らは楽しそうに、自分達がサッカーをすることに対して何の疑問も持たずに走り回っている。

その純粋さがどこから来るのかも分からない私は、もしかしたら人として大切な感情の何かが欠けているのかもしれない。

堤防を歩きながら夕焼け空の下、私は自分自身への寂しさも感じながら家路に向かった。
57 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 21:09:43.85 ID:fD2ZDnXLO
いつも通り仕事をしていると、私の指名が入った。

長く働いているからなのか分からないけど、一応うちの店で一番人気な私を予約せずに指名してすぐに入れるのは珍しいことだ。どんなお客さんだろう、初めての人かな。

そんなことを考えながらブースへ向かうと、いつかの変なお客さん、カズヤがいた。

私が覚えていることを彼は意外そうにしていたけど、カズヤみたいな人って珍しいからそうそう忘れるはずがないよね。

以前は本来の仕事ができなかったから今日こそは、と思っていたのに彼は今度も脱ぎすらしなかった。相談内容は、自分のことではなくなってたけど。

カズヤの話を聞いていると、彼はどうやらその先輩に信頼されている……というか、頼られているのかなって感じ始めた。

人間って汚い部分を絶対に持ってると思うんだけど、それを他の人に見せるのってかなり難しいことだから。他の人も自分と同じで人に見せたくないところがあると分かっていても、自分からそれを見せるのはかなりの勇気と、相手への信頼が必要だから。

きっとその先輩にとって、カズヤは必要な存在なんだろう。そう思うと、つい羨ましいという言葉が漏れてしまった。

カズヤの話を聞き進めると、彼はサッカーをしているらしい。それも、大学の部活やサークルではなくて、この間見かけたような大人のチームで。

同世代とやった方が感覚の近い友達も増えて楽しいと思うのに、何でわざわざとは思ったけど、そんなことを私なんかがお客さん相手に指摘するのも気が引けて、黙っておくことにした。

天皇杯が何かはよく分からなかったけど、試合もある、ちょっと本格的にやっているチームなんだってことだけは何となく私にも分かった。

河川敷を散歩しているときに感じた寂しさの原因が、カズヤのサッカーしている姿を見てみたら少しは分かるのかな。私と同い年だし。もう、全く知らない人ってわけではないと思うし。

冗談半分興味半分で試合の予定を聞いてみたら、私の休日と被っていた。

とは言え、店の中でそういうことをこれ以上話してしまうと、スタッフやほ他の女の子に目をつけられてしまう。

私はそこで話を打ち止めるように冗談だと彼に告げ、彼もそれが分かっていたかのように反応をしていた。

そりゃ、二回しか会ったことのない風俗嬢がプライベートのサッカーを見たいなんてことを本気にするのは、よっぽど女気の無い男くらいだろう。カズヤにはこの間まで彼女がいたらしいし、そんな人は本気にしないってことも分かっていた。
58 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/04/29(水) 23:34:58.23 ID:fD2ZDnXLO
その後はカズヤのサッカー話を聞いていた。小学生の時に始めたんだけど、初めは練習が辛くてクラブに入ったことを後悔してたとか、でも同じ学年で最初に試合に出してもらえるようになって、楽しくなってきたとか。

歳が近いからなのか、それとも話が面白いからなのか。カズヤと話していると時間が流れるのが速くて、あっという間に終了の時間が訪れた。

「あ、時間だ……」

私がそう呟くと、彼は申し訳なさそうにこう言った。

「何かごめんね、いつも話してばかりで……」

「ううん、私は話せて楽しいし、全然。むしろ、ありがとうね、来てくれて」

その返事に、少し安堵の表情を浮かべて彼は一息ついた。そんなに気にしなくて良いのに。

イケずに終わるとそれについて文句を言われることはたまにあるけど、カズヤみたいに謝ってくる人なんて、他にはいない。

ただ、安くはないお金を払って来ているはずなのに、これで良いのかなとは思ってしまう。私以外にもそういうことを話せる人を作った方が良いんじゃないかな……っていうのは、聞かれてしまったらスタッフに怒られちゃうから黙っておくけど。

「じゃ、行こっか」

立ち上がった彼の手を恋人繋ぎにして、私たちは歩き始めた。
59 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/29(水) 23:50:39.37 ID:fD2ZDnXLO
特別なことはしなくて良い、辛そうなら話を聞けば良い。

そんなアドバイスをもらった後の練習で会ったヒロさんは、少し機嫌が良くなっているように見えた。到着してスパイクに履き替えているときは鼻歌なんか歌ってたし、心なしか笑顔も漏れているみたいだった。

練習時間より少し早く着いたヒロさんと僕は、雑談をしながらアップとしてグラウンドの外周を走っている。

「カズ、相変わらず調子良いよな。次の試合、ゴール狙っていけよ」

「いやー、いつも狙ってるんですけど、結果がですね……」

伴わないんだよなぁ。シュートを打っても、良いコースにそれが向かっても、なぜかキーパーのファインプレーに阻まれたり、ポストに当たって外に弾かれたりしてしまう。

「それより、何かヒロさんご機嫌じゃないですか? 何か良いことでもあったんすか?」

その問いかけに、ヒロさんは嬉しそうに返してくれた。

「この間の合コンで仲良くなった子がさ、今度の試合を見に来てくれるってさっきメールが届いてたんだ。だから、勝っていいとこ見せないとな」

うわっ、もう次を見つけてるんだ。さすがヒロさん。

長い付き合いの彼女と別れて1ヶ月経つか経たないかというくらいなのに、もう新しい彼女を作ろうというのにはさすがに驚いた。試合中の攻守だけでなく、恋愛でも切替は早いらしい。

「確かにそれは、絶対勝たないとっすね。やってやりましょうよ、良いパスお願いしますよ。っていうか、ヒロさんもゴール狙って下さいよ」

そんな軽口を返すと、「当然だろ、俺が決めるのはもう前提なの」と笑い飛ばされ、僕もその笑顔に安心しながら笑い返した。

うん、シンヤの件は分からないけど、二つあった苦しみのうち片方が解決するなら、ヒロさんも少しは気が楽になるかもしれない。

これは、次の試合は是が非でも勝って良いところを見させてあげないといけないな。

そんな不純かもしれない動機で、僕は試合へのモチベーションを高めていった。
60 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/30(木) 23:44:49.36 ID:3KZPDPMh0
ヒロさんの機嫌が回復しつつあるのを見たからなのか、僕も今日の練習では気分よくプレーができた。

イメージ通りのボールコントロールであったり、シュートであったり。不調気味だった得点感覚も戻りつつあって、練習の最後に開かれたミニゲームでは何ゴールか決めることができた。

最後に、選手兼任監督のヤマさんが来週末の試合までの予定を僕たちに説明して解散となった。天皇杯予選ということで、県リーグの僕たちより上のカテゴリーのチームとの試合も行われる。もちろんそれだけ厳しい試合も増えるけど、強い相手と試合をするのは嫌いじゃない。

負けたいって訳じゃないんだけどね。何だろう、強い相手に勝つことが楽しいのかな。勝つから楽しいっていうのも、何かちょっと違う気がするけど。

初戦の相手は同じ県リーグ一部のチームということなので、そこで勝たないと上のカテゴリーのチームとは試合ができない。

ヒロさんのためにも、自分の楽しみのためにも、絶対に負けられない。

そう思うと気合いが入ってくるのと、やっぱり試合は楽しみだからって、自然と笑いが漏れてくる。

「カズくん、気持ち悪いよ」

そんな僕を見ていたのか、ミユが近づいてきてボソッと呟いた。

「良いじゃん。楽しみなんだよ、試合」

「好きだねぇ、本当に」

ベンチに腰かけてスパイクの紐を緩めていると、彼女も僕の隣に座ってきた。

「今、汗くさいから近寄らない方が良いよ」

「みんな汗くさいからどこにいても一緒だよ。それならカズくんが一番マシだから」

そんなことを彼女がいうものだから、耳ざとくそれを聞きつけたヤマさんが「おいおい若者たち! 練習場でいちゃついてんじゃない! カズ、お前はグラウンド10周だ!」なんてふざけて言い始めた。それを聞いたチームメイトもみんな笑ってるし、ヒロさんも「カズが弟か……いや、妹をお前にはやらんぞ!」なんて言っている。

「いやいやいや……」

何なんですか皆さんそのテンションは。

「えっ、カズくん、私じゃ嫌だ?」

いや、そんなことを言ってる訳じゃないし。いやでも良いって言ってるわけでもないし……って、何を考えてるんだ僕は。
61 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/04/30(木) 23:45:15.59 ID:3KZPDPMh0
ヒロさんの機嫌が回復しつつあるのを見たからなのか、僕も今日の練習では気分よくプレーができた。

イメージ通りのボールコントロールであったり、シュートであったり。不調気味だった得点感覚も戻りつつあって、練習の最後に開かれたミニゲームでは何ゴールか決めることができた。

最後に、選手兼任監督のヤマさんが来週末の試合までの予定を僕たちに説明して解散となった。天皇杯予選ということで、県リーグの僕たちより上のカテゴリーのチームとの試合も行われる。もちろんそれだけ厳しい試合も増えるけど、強い相手と試合をするのは嫌いじゃない。

負けたいって訳じゃないんだけどね。何だろう、強い相手に勝つことが楽しいのかな。勝つから楽しいっていうのも、何かちょっと違う気がするけど。

初戦の相手は同じ県リーグ一部のチームということなので、そこで勝たないと上のカテゴリーのチームとは試合ができない。

ヒロさんのためにも、自分の楽しみのためにも、絶対に負けられない。

そう思うと気合いが入ってくるのと、やっぱり試合は楽しみだからって、自然と笑いが漏れてくる。

「カズくん、気持ち悪いよ」

そんな僕を見ていたのか、ミユが近づいてきてボソッと呟いた。

「良いじゃん。楽しみなんだよ、試合」

「好きだねぇ、本当に」

ベンチに腰かけてスパイクの紐を緩めていると、彼女も僕の隣に座ってきた。

「今、汗くさいから近寄らない方が良いよ」

「みんな汗くさいからどこにいても一緒だよ。それならカズくんが一番マシだから」

そんなことを彼女がいうものだから、耳ざとくそれを聞きつけたヤマさんが「おいおい若者たち! 練習場でいちゃついてんじゃない! カズ、お前はグラウンド10周だ!」なんてふざけて言い始めた。それを聞いたチームメイトもみんな笑ってるし、ヒロさんも「カズが弟か……いや、妹をお前にはやらんぞ!」なんて言っている。

「いやいやいや……」

何なんですか皆さんそのテンションは。

「えっ、カズくん、私じゃ嫌だ?」

いや、そんなことを言ってる訳じゃないし。いやでも良いって言ってるわけでもないし……って、何を考えてるんだ僕は。
62 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/01(金) 23:27:17.69 ID:JF+rjrB5O
「ほら、トレパン脱ぐから後ろ向いて」

そんな下手な誤魔化しが僕には精一杯だった。ミユからは「つまんないなぁ」、外野からは「カズー、意気地ねぇなぁ! 空気読めよー」なんてクレームが聞こえてくるけど、それを適当に流して僕は下を着替えた。

他の人たちも着替え終わって、車所持組は各自車で帰宅。僕も普段は帰りはヒロさんに車で送ってもらってるんだけど、今日はヒロさんが噂の女性と会う予定があるらしく、急いで帰ってシャワーを浴びるということで、自分で帰ることになった。

ヒロさんの妹であるミユも一緒に普段は三人で帰ってるんだけど、今日はヒロさんだけ車で僕とミユは歩いて駅まで向かうことになっている。ミユなんか、一緒の家に帰るんだから車に乗れば良いのに。

ヒロさんは車に向かう前に「さっきはあんなこと言ったけど、お前が義弟になるのは全然オッケーだから!」なんてニヤニヤしながら言ってきた。まだそのネタを引っ張りますか。

とはいえ、ミユもどうしてわざわざ僕と一緒に帰るんだろう。他のチームメイトにもやや冷やかされながら二人で帰り始めると、ミユが口を開いた。

「カズくんさぁ、明日早い? 今晩、時間ある?」
63 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/03(日) 23:18:10.37 ID:MU06EB6TO
「大丈夫だけど……」

どうしたんだろう、珍しいな。

今までにもミユとご飯に行ったこととか、うちに遊びに来たことはあるんだけど、そういう時はいつもヒロさんも一緒だった。二人でそういうことになるのは何だか新鮮で、変に緊張してしまう。

「ごめんね、急に。ちょっと話したいことがあるの。ご飯行こ?」

そう言って彼女は俯き調子で歩く速度を速めた。何となく、暗い空気だ。

いつもバカみたいなやり取りをしているからかな、こんな雰囲気は何だか気まずい。僕、何か悪いことしたかな。

グラウンドから駅に向かう道中にある、落ち着いた雰囲気のレストランに僕たちは入った。

店内で一番奥の席に案内され、適当にオーダーをすると彼女は口を開いた。

「あのね、カズくん。私ね、浮気されたの」

「はっ?」

つい口から変な声が漏れちゃったよ。何を言いだすんだ、こいつは。

「浮気って……誰に?」

「彼氏に……っていうか、他にある?」

「ミユに彼氏いるとか知らなかったし……」

「言ってなかったしねぇ」

言ってなかったしねぇ、じゃないよ。急にそんな話をされても僕はどんな反応をすればいいのか分からない。
64 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/03(日) 23:18:45.11 ID:MU06EB6TO
私の彼氏って大学の先輩なんだけどね、カズくんと同い年で一歳上なの。

ユウヤっていうんだけど、結構かっこよくて人気だったのね。でも、浮気されたからって言うわけじゃないけど、女癖も悪いって有名で。

そんな彼氏だってヒロ兄とか親にバレたら色々めんどくさいから、秘密にしてたんだけどね。

付き合うようになったきっかけは、私が受けてる授業を彼も一緒に受けてたっていうことだったんだ。彼、朝が弱いらしくてさ。一限の必修授業の単位を二年生の時に取れなくて、三年生になった今取ってるらしいのね。

それで、少人数の授業だから仲良くなって、一緒にご飯食べたり遊んだりしてたら告白されたのね。

さすがに知り合って日も浅いし、女癖悪いらしいって友達に教えてもらってたからさ、私もちょっとどうかなって思ったの。でも、かっこいい先輩の彼氏がいるっていう状況に憧れてたのかな、オッケーしちゃったのね。クズだよね、私って。

最初は彼も優しかったの。デートに連れて行ってくれたり、プレゼントをくれたりさ。

でもね、だんだんそれが減ってきて、こう……言いづらいんだけど、ヤルだけやって帰るみたいなことも増えてきて。

なんだかなぁって思ってたら、この間ホテルから女の人と出てくるところを見ちゃったのね。
65 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/04(月) 19:13:13.36 ID:CPgb7eDgO
そこまで話したところで、オーダーしていた料理をウェイトレスが運んできた。

ミユはオムライス、僕はハンバーグのセット。両方にかけられているデミグラスソースの香りが広がって、ついお腹が鳴りそうになる。

「わー、美味しそ」

彼女はそう呟くと、「食べていい?」と確認しながらも既にスプーンを手にしていた。そして、確認なんかしなくて良いと返すより先に既に頬張っている。

僕も両手を合わせて小さく「いただきます」と呟いた。

「礼儀正しいね」

「いや、普通のことだから」

ていうかさ、みんなやってなさすぎるんだよね、いただきますって。ご馳走さまもだけどさ。

別に感謝の気持ちがー、とまでは考えてないけど、子供の頃からそれはクセになっていて、しないと食べる時に落ち着かないんだよね。

箸で割って口に入れてみると、肉汁とデミグラスソースの味が広がってついつい頬が落ちてしまう。

ミユも無心でオムライスを口に運んでいて、どうやら話は一旦置いておくつもりらしい。

さっきまであんな話をしていたのに、無言になっても気まずい沈黙と感じないのはきっと料理が美味しいからなんだろうな。

サッカーのトップ選手のプレーを見てる時と同じかもしれない。素晴らしいものは、僕たちを嫌な気持ちから遠ざけてくれる。

二人して黙々と食べていると、あっという間にお皿は空っぽになった。
66 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/05(火) 21:22:01.38 ID:dSGKVj0qO
「で、ミユはどうしたいの?」

食事で中断されてしまった話に戻ろうと、僕は口を開いた。

「どうしたいって?」

「いや、その彼氏と今後……」

別れたい、とか。言及したい、とか。

「んー、特に何も」

「何も?」

そんなので良いの?

「だって女癖悪いって有名だったから私が注意したところで変わらないだろうしさ。嫌われたくないし」

「じゃあ何で僕にその話を……」

何か意見でも求められるのかと思ってたのに、そういうわけではないのかな。

「誰かに聞いてほしかったの。彼氏がいるってことは幸せだから秘密にできても、愚痴って話してどうにかなることじゃなくても、聞いてもらいたいじゃない?」

なるほど。最近似たようなことを言われた気がするし、僕は割と聞き手としては優秀なのかもしれない。

「惚れた弱味なのかな、浮気とかしないでほしいんだけど、それを言って別れるよりは辛くても彼と繋がっていたいの」

そう言って、ミユは笑った。どこかで見覚えがある、寂しそうな笑顔だった。
67 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/05(火) 23:39:44.73 ID:dSGKVj0qO
レストランを出ると、彼女は「私もカズくんと二人でご飯に行ったって秘密を彼に作ったから、これでおあいこだね」と小さく呟いた。

秘密のなかにも大小はあると思うんだけど、ミユが納得するならそれはそれで良いのかな。

「彼のこと、初めて話したんだよね。大学の友達にも、まだ付き合ってるって報告はしてないし」

「それはそれは光栄です」

「うん、誇りにして良いよ」

そんな軽口を話せるようになったから、ミユも少しは気が紛れたのかな。根本的な解決はできてないけど、嫌な気持ちが少しでも減ったなら僕も付き合った甲斐があるというものだ。

「そういえば、この間はヒロ兄とも二人でご飯に行ってたよね。何の話してたの?」

「えーっと……」

困った。彼女に心配をかけないためにヒロさんは僕と二人だけの状況を作ったのに、そんな聞かれ方をされるとは。

「いいよ、隠さなくて。知ってるから」

「えっ」

「彼女にフラレたって愚痴でしょ?」

あ、そっちか。

「今朝ね、ヒロ兄に教えてもらったの。あれでも繊細だからね。すぐに新しくいい人に会えて良かった。試合を見に来てくれるってウキウキだったし、来週末は絶対に勝ってよね」

「もちろん!」

そう返すと、彼女は笑った。つられて僕も笑った。

試合に勝つ。そんなシンプルなことが、僕たちにしてみると何より大事なことなんだ。
68 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/06(水) 20:11:29.66 ID:Op7vl9QiO
良い天気だ。

前日の雨のと好天の日差しで、これこそ日本の夏みたいな蒸し暑さ。芝の上って、こういう日はめちゃくちゃ暑い。感覚としてはサウナみたいにムシムシする。

ウォーミングアップを終えた僕たちは、ヤマさんの指示を受ける。今日は都合で不参加のメンバーもいないから、ベストメンバーで試合に挑める。

僕は右のサイドバックでスタメンだった。うちのチームのフォーメーションは基本的に4-4-2、ディフェンダー四人に、中盤がダイヤモンド型になってる四人、そしてフォワードが二人という、少し古いタイプのシステムを採用している。ちなみに、ヒロさんは中盤の前、いわゆるトップ下というポジションでスタメン。

「今、もう来てるんですか?」

「バカ、そんなこと今聞くな」

ピッチに入場する前、ヒロさんに彼女候補の話をふるとそんな風にあしらわれた。そりゃそうだよな、今は試合に集中しないと。

審判による装飾品やスパイクのチェックが終わると、僕たちはピッチに向かって歩みを進める。

さぁ、熱い時間を始めよう。
69 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/07(木) 00:02:19.44 ID:hfTZ1OBmO
良い天気に、芝のピッチ。少ないながらもスタンドには観客もいて、僕としては申し分ない環境だ。

白線を跨いでピッチに入った瞬間、熱が一層強くなったのと同時に、僕の中の何かのスイッチが入った。

たまにあるんだよね、負ける気がしないって日。サッカーは個人スポーツじゃないから僕一人がどんなに良いプレーをしても勝てない日はあるし、その逆もある。それでも、今日は何だかいけそうな気がする。

キックオフの笛が鳴るのが待ち遠しくて、円陣を終えた後も小走りでポジションについた。

チラッとヒロさんを見ると、試合に集中した顔になっていた。うん、女の人が来てるからって気負ってもいなければ緊張してもいなさそうだな。これなら良いプレーが期待できそうだし、僕も負けていられない。

両チームがポジションに着いたのを確認すると、審判が笛を強く吹き、相手チームのキックオフで試合が始まった。
70 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/07(木) 21:35:54.59 ID:pWVZmzcTo
お、良さげなSS発見
71 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/08(金) 08:14:15.02 ID:pzgCqT16O
序盤にゲームを支配したのは僕たちだった。元々リーグ戦の順位もうちの方が高いし、実力通りって言えば実力通りなのかな。

守備機会はあまりなかったけど、僕もタイミングを見てオーバーラップを仕掛けてクロスをあげたりして。

その中でもヒロさんの出来は出色していて、フォワードにスルーパスを通しまくり、シュートも放ってポストに当てたり。

……とか言ってるけど、まだゴールが入っていないんだけどね。

前半30分が近づいてくると、僕たちとしてもそろそろ得点が欲しくなる。焦るような時間じゃないけど、これだけ支配していて点が取れないのはもどかしい。

右サイドバックという名前で、ほぼ右ウイングフォワードのポジションについてる僕は中央にいるヒロさんからパスを受けた。

「カズー! ゆっくり!」

相手は既に守備のブロックを固めていて、焦って攻めてもそれを壊すことは難しい。そして、それを壊せるドリブラーは僕じゃない。

攻め急ぎたい気持ちをグッと堪えて、僕は受けたパスを一度ヒロさんに預けて、パスを蹴った足でそのまま前線に走り出す。
72 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/08(金) 18:20:35.87 ID:+LnlzEWaO
対面していた相手ディフェンダーは、ヒロさんにプレッシャーをかけずそのまま僕を追いかけてくる。

しかし、ヒロさんに付いていたディフェンダーも、僕を警戒して右サイドへのパスコースを消そうとプレッシャーをかけていった。それをヒロさんは見逃さない。

右の僕から出たパスをそのまま流してトラップして相手をいなすと、左フォワードにスルーパス。

ピッチを裂くように蹴られたボールの先に走り込んだフォワードは、ボールを丁寧にコントロールする。オフサイドはない。

そのままキーパーしか残ってないゴールに向かってドリブルをして、キーパーの位置を確認して流し込むようにシュートを放った。

見事にキーパーの逆をついたボールはそのままゴールに吸い込まれ……ポストに当たって跳ね返った。

そのボールを慌てて追いかけた相手ディフェンダーがクリアした。

こんなチャンスを作ってもまだ決められないのか……ヤバイな。

時間が経つにつれて焦りが増して、その焦りは解消されることなく前半終了の笛が響いた。
73 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/08(金) 23:38:48.94 ID:+LnlzEWaO
「崩せてるんだけどなぁ」

ベンチに引き上げると、ドリンクを飲みながらヤマさんが困ったように呟いた。そう、決定機は作れているのに得点が入らないから問題なんだよね。

惜しいシュートが何本も続くのは、外から見ると押してるように見えて、やってる側からすると実にフラストレーションが溜まるものだ。事実、僕も攻め急ぎたい気持ちを堪えてプレーしている。

全く攻撃の形が作れていなくて決められないのはチームとして解決できても、最後の決定力は個人の能力で、練習することでしか向上させられない。

つまり、この試合においては下手な鉄砲数打ちゃ当たるというか、『とにかくシュートを入るまで打ち続ける』ということが最善策なのである。

それしかないよなぁ、という雰囲気が蔓延してきたときに、ヒロさんが話し始めた。

「カズのポジションを上げましょうよ。右のフォワードに入れて、もっとゴール前に顔を出させましょう。こいつは最近調子良いし、ゴール前に置いたら何かしてくれそうな気がするんですよね」

「えっ、僕、フォワードなんか遊びでしかしたことないんですけど……」

オーバーラップしたり、ゴール前に顔を出すのは好きだけど、あくまでそれは試合中の流れでの話だ。戦術として、ディフェンダーではなくて中盤の右に入ることはあっても、フォワードまでいったことはない。

ヤマさんもどうしたものかと思案した顔で僕とヒロさんを交互に見ている。

負けたら終わりのトーナメントで、ぶっつけ本番のフォワードをやる度胸なんかネガティブな僕にはない。これで僕が決定機を外したらと思うと、試合中とはとは違う汗をかいてしまいそうだ。

「カズ、お前……いけるか?」

とはいえ、試合には出たくても出られないメンバーもいる。お気楽な学生の僕とは違って、仕事をしているチームメイトは、貴重な休日を使ってこの会場に来ていて、試合に出られなくても声を出したり応援をしてくれたりしている。

ここでできませんなんて言うことも、僕にはできない。

「自信は無いんですけど……とりあえずやってみます……」

いけます! とは返事は出来ずとも、肯定のニュアンスで僕は返答した。

そんな僕を見て、ヤマさんも何となく不安だったんだろうけどヒロさんの提案を受け入れることにした。

ただし、条件が一つ。後半15分までに得点が動かなければ、僕は交代して本職がフォワードの選手を投入するというものだ。

つまり、僕に与えられたフォワードとしての残り時間は15分。
74 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/08(金) 23:48:04.68 ID:+LnlzEWaO
ハーフタイムを終え、ピッチに向かっているとヒロさんに声をかけられた。

「良いか、俺がボールを持ったらお前はとにかく前に行け、相手ディフェンダーの裏を狙え」

「でも僕、タイミングとか分かんないっすよ。オフサイド抜ける練習とかしてないし……」

だって僕、基本的にディフェンダーだったし。

「良いから。お前のところに俺が絶対届けてやるから。カズはただ、前を向け。走り出せ 」

ヒロさんのあまりに自信ありげな口調に、つい僕は「了解っす」と返事をしてしまった。

パスを受けられたところで、僕が決められるかどうかは僕次第なんだけどね。とりあえずヒロさんの指示通りに動いて、そこからはなるようにするしかない。

キックオフの時、こんなハーフウェーライン付近のポジションにいるのは新鮮だけど、何だか違和感がある。

審判が笛を響かせ、僕の15分の戦いが始まった。
75 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/09(土) 00:23:24.81 ID:RoRRzmAtO
相手チームのキックオフのボールが中盤の選手に下げられた瞬間、僕はそれを追いかけてチェイシングをする。

相手チームはボールをポゼッションしようとするんだけど、前線から僕ともう一人のフォワードのプレッシャーを受けて慌ててロングボールで逃げる。

僕の代わりに右サイドバックに入った選手がそのボールを拾い、パスを回し始めると、前半と同じように後半も支配権を握ったのはうちだった。

ゴール前まではいけても、そこから決めきれない。

僕もシュートは打ててるんだけど、キーパーに阻まれたり、ゴールから逸れてしまったり。それに、フォワードとしての守備なんて慣れてないから、どこまでプレッシャーをかけに行けばいいかも分からず、とにかく走り続けていた。15分も経つ前に、限界が訪れそうなくらいガムシャラに走る。

正確な試合時間を刻むデジタル時計なんかこの小さな競技場にはなくて、申し訳程度にスタンドに設置されているアナログ時計を見てみると、残り時間は2分ほど。僕と交代予定のフォワードもアップを終えて、ユニホーム姿になる準備をしていた。

15分で、僕はまだ何もできていない。いくらシュートを打とうが、プレッシャーをかけ続けようが、ゴールを決められない限りは与えられた役目は果たせていない。

走り続けて体は限界に近いんだけど、根性とか意地とかそういうものなのかな。何か分からないんだけど、それでもとにかく走る。

いよいよ交代が近づいて、第四の審判が交代予定の選手のスパイクや装具品チェックをしているのが目に入った。

くそっ、まだだ。まだ僕は何もできていない。このまま交代することなんて、僕にはできない。

苦し紛れに相手チームが蹴ったボールはうちのキーパーまで届いて、そこから恐らく僕にとってのラストプレーが始まった。
76 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/09(土) 01:20:22.05 ID:RoRRzmAtO
キーパーはそれをディフェンダーに預け、更に中盤の底の選手、いわゆるボランチへと運ばれる。

相手チームもしっかりと守備陣形を作っていて、雑な攻撃では壊せそうにない。中盤で横パスを回して揺さぶってみても、相手チームの選手はしっかりと陣形を整えたままスライドして修正してくる。

そんなとき、すっとヒロさんが少し下がり気味のポジションを取った。相手のマークが少し薄くなったのを察知したボランチは、そのままヒロさんにボールを預ける。これが僕のスイッチだ。

ヒロさんが前を向いてボールを触った瞬間、僕は一気呵成に走り出した。

「来い!」

ボールを要求する声よりも早く、ヒロさんからのロングパスは蹴り出されていた。

少し低めの弾道で、弾丸のようなそのパスは玉足が速い。

全力で走る僕の少し上を、そのボールは通過していく。中央からやや右サイドへの角度があるパスは、そのままタッチラインへ向かって転がっていく。

相手チームのディフェンダーは追いかけるのを止めている。間に合わないと思っている。

僕だって、普段ならここまで必死に追いかけたりはしないかもしれない。それでもこれは、僕にとってのラストプレーだ。ここでプレーが止まると、僕は交代してしまう。

最後の燃料を使い果たすかのように、僕は足を運ぶ。前へ進む。

勢いが死に、ゆっくり進むボールがタッチラインを越えそうになった瞬間、僕はスライディングでボールが外に出るのを食い止める。

副審の旗を確認する余裕なんかない。ただ、この際どいプレーに主審の笛が鳴らないということは、まだボールは生きている。プレーができる!

立ち上がってドリブルを開始すると、相手ディフェンダーが慌てて戻ってくるのが目に入った。でも、もう遅い。

ヒロさんからのパスを追いかけるのをやめていた相手と僕には、かなりの距離がある。

右サイドからゴールへ向かうと、ペナルティエリアに入ったところでキーパーが飛び出してくる。ただでさえ角度がない場所なのに、更にコースが狭まる。

あ、無理だ。

直感的にそう感じた。前半もこういう場面でシュートを打ち、枠を外したり止められたりというシーンがあった。

時間的にもこれが最後のプレーで、これを外すと今日の僕の試合は終わってしまう。

コースを丁寧に狙ってシュートを打つ決心をしたところで、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。

僕にパスを出した人のその声はペナルティアークのあたりから聞こえてきて、顔をあげて確認すると、そのまま彼に優しくパスを出した。

僕のシュートコースを消しに来ていたキーパーはそのパスに反応できるわけもなくて、パスを受けたヒロさんはそのパスをインサイドで丁寧に流し込む。

何も邪魔をする者がいなくなったゴールにそのボールは転がっていき、そして小さな白い波が起きた。
77 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/09(土) 01:29:46.88 ID:RoRRzmAtO
ヒロさんはゴールを決めるとそのままに僕に駆け寄ってくる。

「やったな! カズ!」

頭をめちゃくちゃに撫でられながら、僕もヒロさんの背中を叩く。

「ナイパス、ナイッシューっす!」

二人で歓喜を爆発させていると、遅れてきたチームメイトも混ざってきて小さな輪ができた。

みんな、「やったな!」「よく走った!」と僕を叩きながら言ってくれる。

その輪が一段落したところで、主審が僕たちに早くプレーを再会するよう笛を鳴らして促した。

「君、交代だから」

主審にそう言われたので確認すると、交代選手が立っていた。そっか、交代か。

得点が決まるまではいられたとはいえ、最後までプレーしたかったな。

そんな残念さもあるけど、慣れないポジションでのプレーに疲れていたのも事実で、交代選手とハイタッチをしながら僕は白線の外に出ていった。ピッチに一礼も忘れずに。

ベンチにいたチームメイトからも声をかけられて、ミユからも「大活躍じゃん」と言われた。

自分のゴールって結果を出せなかった後悔、最後までプレーできない悔しさなんかはあるけれど、とりあえず今はチームの応援だ。
78 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/09(土) 01:42:37.33 ID:RoRRzmAtO
失点した相手チームはその後、攻勢に出てきた。危ないシーンも何度かあったけど、逆に前がかりになってきた分守備が甘くなっていた。

僕の代わりに入ったフォワードの選手がキーパーとの一対一を制して二点目を決め、そのまま試合終了を告げるホイッスルが響いた。

どうにか勝利はできたけど、課題の多い試合だったよな。

ベンチを空けて、スパイクからトレーニングシューズに履き替えると、僕はヒロさんと一緒に競技場の外でクールダウンのジョギングを始めた。

「ナイッシューです」

一点目のシーンを振り返ってそう話しかけると、ヒロさんは僕の背中をバシッと叩いた。何か今日、叩かれすぎじゃない?

「何言ってるんだよ、あんなのお前がパスに追いついた時点でお前のゴールだよ。よく追いついたよ」

そんな風に誉められると、何だかむず痒い。嬉しいような、止めてほしいような。

「お前に届けるとかいいながら、お前が届かせてくれたしな」

キョトンとした顔でヒロさんを見返すと、「後半開始前に言っただろ、お前にパスを届けるって」と、恥ずかしそうに言った。

「いやいや、あの厳しいパスだから相手も追いかけなかったわけですし……」

「でももっと楽に、ていうかお前に決めさせられるようなパスを出したかったんだよなー、くそっ」

「そんな良いパスもらっても、僕が決められるかは……本職じゃないですし?」

「何だよー、待ってますって言えよー! またお前が前でプレーするなら、その時待ってろよ」

そう言うと、ヒロさんは照れ隠しか少し走るペースを上げた。それが何だかおかしくて、少しニヤけながら僕もついていく。

「ヒロくん!」

後ろから、どこか聞き覚えのある声でヒロさんを呼ぶ声がした。

「あっ、サキちゃん」

サキちゃん……?

まさかと思って振り返った先には、はっきりと覚えてる顔。

二ヶ月ほど前、僕に対して「今は誰とも付き合う気はない」と話した元彼女が、そこには立っていた。
79 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/09(土) 01:45:33.85 ID:RoRRzmAtO
遅くなりましたが、面白そう、良いね等のコメントをありがとうございます。
安価つけてレスをするとコメントクレクレになりそうで言いづらかったのですが、本当に嬉しいです。

SSで地の文は敬遠されがちだと思いますが、読んでくださる方がいることをモチベーションに更新しております。

ありがとうございます。
80 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/09(土) 02:46:45.51 ID:PJwKwXgXo
81 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/09(土) 15:55:48.29 ID:qDw1F1EkO
いいところで止めるねぇ
82 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/10(日) 14:15:43.89 ID:YYxq2gZJO
「あっ……」

驚きと共に漏れた呟きに、ヒロさんが「どうした?」と問いかけてくる。

「……初めまして」

少しためて、彼女から聞こえてきた言葉はそれだった。

初めまして、か。

「どーも、初めまして」

その言葉を返すのが精一杯で、「ヒロさん、お邪魔そうだから先に失礼しますね」と薄ら笑いを残して、返事も待たずに僕は走り出した。

後ろから呼び止めるヒロさんの声が聞こえたけど、それも無視して僕は逃げる。

ヒロさんたちが見えなくなるくらい走って止まると、そこはスタンドに繋がる階段だった。僕たちの試合が今日の最終試合だったからか、歩く人は誰もいない。

階段を数段上って、僕は膝を抱えて座り込んだ。

なんだよ、くそっ。

言葉にならない感情は、子供じみた文句に変換される。

そりゃ、ヒロさんはいい人だよ。僕だって憧れて、ああいう風になりたいなって思う。

でも、サキは「誰とも」と言った。誰とも付き合いたくない。その言葉は、僕に向かった言葉であっても僕に対してだけではないと思っていた。

違うのかよ、僕が嫌になっただけじゃないか。

それならそうと言ってくれたら、ヒロさんの恋路を素直に応援できたのかもしれない。でも、現実は違う。

モヤモヤではなくて、ドロドロした汚い感情が僕に浮かんでくる。ハッキリ言うなら、憎悪が近いかもしれない。

あんな女が幸せになるなんて許せない。そして、あんな女に惹かれるヒロさんもヒロさんだよ。

そんな、自分のことを棚にあげたガキくさい心。
83 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/10(日) 15:58:43.28 ID:fuLRL7zYO
その汚い心を認めたくない自分と、どうしても恨んでしまう自分。

二つの感情のぶつかりは目から雫を、口からは息を押し出した。

まだ好きとか、うまくいきそうなのがショックとか、そんなのじゃない。

ヒロさんには幸せになってほしいし、文句をつけたい訳じゃない。フラれたことだって仕方ないしと思うし、新しい恋を見つけるのだってサキの自由だ。

でもこんなのって、こんなのってあるかよ。

膝を抱えて頭を埋め、僕は嗚咽をし続ける。
84 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/10(日) 16:48:56.65 ID:fuLRL7zYO
ハイブランドのシルバーのアクセサリーをプレゼントにアキラのお店へ行くと、彼は上機嫌で対応してくれた。

本当に分かりやすい。男ってバカだね、それで貢ぐ私はもっとバカなんだけど。

「今日、行く?」

「どこに?」なんて聞くことはない。プレゼントを渡した日は、彼はホテルで私を抱く。ほとんどお決まりなことなんだけど、形だけの確認はされるんだよね。

黙って頷いた私の頭を撫でながら、彼は嬉しそうにアクセサリーの入った紙袋を眺めている。

私よりアクセサリーが好きなんだよね、知ってる。

私じゃなくて貢いでくれる女が好きなんだよね、分かってる。

このままじゃ幸せになれないことも、自分が間違ってることも。

やめたいのにやめられないの。辛いよ。

それでも私は今日も彼に抱かれる。ベッドの上で彼を感じて、一瞬の充足感に身を委ねる。
85 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/10(日) 17:32:54.29 ID:fuLRL7zYO
ホテルから出ると、彼はプレゼントの礼を言ってタクシーに乗り込んだ。

自分のものでもないネックレスひとつにバカみたいなお金を出して、偽物の幸せを買う私をいつまで続けるんだろう。

「幸せになりたいなぁ」

つい呟いたのは、心の声。

さっきまで満足してたからなのかな、急に寂しい気持ちになった。その満足すら本当に満足できてるのかは分からないけど。

家に帰っても一人で辛くなるだけだし、どうしよう。

特に目的もないけど、家に帰りたくないから散歩。たまに捕まる水商売のキャッチをあしらって、町の外に向かっていく。

30分くらい歩いたところで、スポーツ公園が見えてきた。そういえば、カズヤたちはここで試合をするって言ってたかな。

公園って名前だから、小さな学校のグラウンドみたいなところを想像してたけど、スタンドがあったり陸上のトラックに囲まれてたり、何だか思ったより本格的だ。

こんなところでサッカーをするのって、どんな気持ちなんだろう。見に来る人たちは、どんな人なんだろう。

街灯の光でしか見えない芝のグラウンドは、何だか神秘的な雰囲気すらある。明るい時だと、どう見えるんだろう。

あまりに縁遠い世界で想像もつかないけど、少し興味が出てきた。

私はその日を待ちながら、お仕事に励んだ。
86 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/11(月) 06:58:13.44 ID:KtpNbnkYO
天気は快晴。昨日の雨が嘘みたいにカラッと晴れた空の下、私はスポーツ公園へ向かっている。

14時からって話だったから、ちょうどそれくらいに到着するようにお昼を食べて家を出たんだけど、この時間は日差しがキツくて日焼けしそう。

敷地に入ると夜とは全然違う空気を感じた。何て言うんだろう、変な例えかもしれないけどお祭りみたい。

競技場に近づくにつれ、その熱みたいなものはどんどん強く感じられるようになって。

スタンドに繋がる階段を登ろうとしたとき、中から強い笛の音が鳴り響いた。試合が始まったのかな。

少し小走りに階段を登ると、壮大な景色が広がった。
87 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/11(月) 11:36:35.46 ID:/YULDTEAO
期待
88 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/11(月) 19:55:14.81 ID:2YkhHGh7O
実際にスタンドから見てみると、サッカーのコートってすごく広い。綺麗な緑色が太陽に照らされて、普段は暗いところで働く私には何だか眩しすぎる。

「すご……」

思わず呟いてしまうほど、私はそこに吸い込まれていた。

しばらくボーッと眺めていたけど、立ったままでいるのも何だか変な気がして、少し陰になってるベンチに座ることにした。ちょっとお尻が痛いし、贅沢かもしれないけど背もたれがほしいな。

文句も程々に、試合に意識を戻した。遠目だからどれが誰かはパッと見分からないけど、みんな一生懸命なのはすぐに分かる。声を出して、走り回って、たまにはこけちゃったり。

何が楽しくて、彼らはあんなに汗をかいているんだろう。

10分ほど見たところで、やっとカズヤが分かった。スタンドに近い方で、たぶん攻撃よりは守備をする人なのかな? それにしては、ずいぶん相手陣地に近い気もするけど。

素人も素人な私は、ゴールが入る以外にどんなことがあるのかはあまり分かっていない。ボールが外に出たら手で投げて、反則があったらフリーキック。オフサイドは、名前だけ聞いたことがある。

そんな私でもカズヤのチームが何となく良い感じなのは分かる。ボールをいつも持ってるし、相手チームはシュートを打つことすらまだできていない。

それでもまだカズヤたちもゴールを決められていないのは、何だか不思議。やっぱり気持ちとしてはカズヤを応援してるからかな、惜しいシーンが続くと私もイライラしてしまう。
89 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/11(月) 20:44:21.42 ID:2YkhHGh7O
イライラは続くんだけど、何となく気づいたのはカズヤと10番の選手が上手いってことだ。

かなり押してる中でも、その二人は相手チームに全くボールを奪われない。余裕って感じ。

10番の選手からパスをもらったカズヤは、そのボールを止めるとすぐに返した。

あんなすぐに返しちゃうパスに、何か意味はあるんだろうか。

カズヤはパスを返してすぐに走り出したけど、彼にパスは出ずに逆側の選手にボールが向かった。

パスももらえないのに、何であんなに走るだろう。カズヤのあの走りは、骨折り損のくたびれ儲けのように私には見えた。

そんな私の気持ちを知るはずもなく、彼はまだ走る、走る。つい目を惹かれてしまう真剣さと純粋さで、彼は走る。
90 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/11(月) 22:24:59.78 ID:2YkhHGh7O
笛が二回鳴って、選手たちは一度グラウンドから出ていった。サッカーが前半と後半に分かれているっていうのは何となく知ってるから、これがその間の時間なのかな。

何が何か分からなかったり、考え込んでしまったり、カズヤの姿に惹き付けられたり。

サッカー自体がよく分かってない私にも、前半はあっという間に終わってしまった。手汗をかいてるのには、自分で驚いてしまった。

スタンドの階段を降りたところに、自販機があった気がする。何か飲みたいな。

日陰から出ると、蒸し暑さが一層強くなる。こんな天気のなか、あんなに走れる源は何なんだろう。本当に同じ人間なのかな。

階段を降りて自販機に向かうと、女の子がじっと私を見てきた。誰だろう、知り合いではないけど、何だか品定めするような目付きだ。

違和感を感じながら会釈をすると、彼女も一応礼を返して去っていった。謎だけど、気にしても仕方がない。

あっ、もしかして私が美人過ぎて見ちゃったとか?

心でボケても誰もつっこんでくれるはずもなく、私は炭酸ジュースを片手にスタンドへ戻った。
91 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/12(火) 00:06:02.04 ID:oKgodsWeO
前半はあっという間に終わったのに、後半が始まるまでの時間はやたらと長く感じた。

冷たかった缶ジュースがぬるくなった頃、選手が出てきた。カズヤは10番の選手と何かを相談しているみたい。

その相談も終えて、選手が広がったときに気がついた。カズヤ、ポジションが変わってる? 今までは守りのポジションにいたはずなのに、今度は10番の選手より前にいる。

後半開始の笛がなると、カズヤは全力でボールを追いかけ始めた。一生懸命に、ガムシャラに。それはグラウンドから離れたスタンドで見ても、はっきりと感じ取れた。

前半より早いペースでダッシュを繰り返して、遠いところにパスされてもまだ追いかける。

走っているのはカズヤのはずなのに、なぜか私が息苦しくなってくる。鼓動が早くなる。
92 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/12(火) 02:52:14.77 ID:UyGFAwWT0
風俗で自分語りとかあるある過ぎwww
続きをお願いします。
93 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 16:21:07.73 ID:AI8oOv0mO
そんなところまで追いかけても、どうせパスされるじゃない。何で追いかけるの?

それが素人の私だから持つ感想なのか、他の人もそう思ってるのか分からない。でも、明らかに無駄に見える走りを彼は止めない、諦めない。

まだ後半が始まったばかりなのに、焦っているのかな。前半とは何か違って見える。

そんな彼の姿を眺めていると、カズヤのチームの10番がボールを持った。カズヤは走りはじめて、大きな声でボールを呼び込む。

でも、出てきたパスは厳しいもので。外に向かって流れていくボールを追うペースを、相手選手も緩めてるのに、カズヤは全力で追いかけている。

何で。何で走るの。ボール出ちゃうよ。またその後に頑張れば良いじゃない。無駄だよ。

そんなことを思っているのに、口から漏れてきた呟きは真逆のもの。

「……がんばれ」
94 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 16:55:56.67 ID:AI8oOv0mO
ボールはそのまま白線に向かっていく。勢いは落ちているけど、それでも着実に。

ああ、もう出ちゃう。やっぱり、無駄なんだよ。

そう思った私に、新しい絵が目に入った。パスを出した10番が、相手ゴールの方に向かって全力で走り出したんだ。

相手チームの選手も申し訳程度に走っているんだけど、二人ほど全力ではなくて。たぶんボールが出ると思ってるのかな。

みんなが無理だと思ってるところで走る二人は何だか滑稽。滑稽なのに、笑えない。

追いかけるカズヤとボールの距離は少しずつ、少しずつ縮まっている。まさか。追い付くの?

いよいよボールがラインを越えようという時に、カズヤはボールに滑り込んだ。縮まっていた距離はゼロになって、ボールはグラウンドの中に止まる。

スタンドにいる、多くはない観客から今日一番の歓声が上がった。間に合ったの? ボールが出る前に、カズヤは追い付いたの?

ろくにルールも知らない私はキョトンとするだけなんだけど、グラウンドの彼はもう立ち上がってドリブルをしている。あんな勢いでスライディングしたのに、痛くないのかな。

相手チームの選手も慌てて戻っているけど、カズヤには全然追い付けそうにない。

外からゴールに向かってドリブルしていくカズヤの顔は、何だか楽しそう。あんなに走り回って、ボロボロになって、さっきもスライディングをして。楽ではないことのはずなのに、彼は今、笑っている。
95 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 20:02:34.43 ID:AI8oOv0mO
ゴール前に一人だけ残っていたキーパーが、慌ててカズヤに向かって近づいていく。今までもこういうシーンが何度もあって、その度に外してしまっていた。

どうするんだろう。また外してしまったら、さっきの頑張りも意味がなくなっちゃうのに。

カズヤがドリブルのスピードを落とした時、彼の名前を呼ぶ10番が後ろから走ってきていた。このために、他の誰よりも早く走り始めてたんだ……!

丁寧なで優しいパスをカズヤからもらった10番のシュートを妨げる人はもういない。カズヤが追いかけていた時みたいに転がったボールは、ゴールの線をしっかり越えてネットを揺らした。

カズヤと10番は二人で喜びを爆発させている。遅れて、後ろから走ってきたチームメイトもそこに加わる。

プロの試合でもなければ、彼らはこれでお金を稼いでるわけでもない。ゴールが入っただけ。ただそれだけ。

ゴールを決めたからお給料が増えるわけでもなければ、有名になるわけでもプロになれるわけでもない。

それでも彼らは輪になって喜んでいる。これこそが最大の喜びだというように、顔をクシャクシャにしているのがここからでも分かる。喜びすぎて、審判に笛を鳴らされるほどだ。

彼らがここまで喜べる理由が、私には分からない。その一方で、そんな風に考えてるくせに、胸には何か熱いものが残っているのも事実で。

言葉にできない何かが、私を焚き付けてくる。今までに感じたことがない気持ちだけど、嫌じゃない。

これが何か分かれば、カズヤたちの気持ちも分かるのかな。

理由の分からない胸の高鳴りを感じていると、カズヤがベンチに向かってきて、代わりに一人の選手が入っていった。交代しちゃったのかな、残念。でも、点が入るまで出てて良かったなぁ。
96 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 20:22:00.78 ID:AI8oOv0mO
私がいなくなっても世界は回るように、カズヤが交代しても試合は続く。

胸が高鳴ったまま試合観戦を続けていると、相手チームも反撃をし始めた。

あっ、危ない! シュートがカズヤたちのチームに向かうと、それだけで何だか不安な気持ちになるし、逆に攻めてると「いけー!」って思っちゃう、不思議。

そのまま攻めたり攻められたりの時間が続くと、久しぶりに10番の選手がボールを持った。カズヤが交代した後もずっと存在感を放っていたけど、今度はどんなプレーをするんだろう。

前を向いてボールを持った彼は、右足でボールを叩いた。点と点が線で結ばれるように、カズヤと交代した選手の走る先にボールが送られた。

すっごい、綺麗!

さっきのカズヤみたいにキーパーと一対一。でも、あの時とは違ってゴール正面からだからかな、その選手が放ったシュートは難なくキーパーの脇を抜けて、ネットが再び揺らされた。

一点目同様に輪が出来て、相手選手もうなだれてる。

観客の「やっぱりオオタは上手いよ」「パスで勝負あったな」なんて話し声が聞こえてきて、10番の選手がオオタさんだと私は知った。サッカーの分からない私でも綺麗と思うようなパスを出すくらいだから、あの人ってすごい人なんだとは思っていたけど、名前も知られてる程なんだ。

そのまま試合が進んでいって、もうすぐ終わりかな、なんて思ったときに、隣に女の人が座ってきた。
97 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 20:54:57.19 ID:AI8oOv0mO
うわー、すっごい美人だ。

ウェーブを少しかけて、ふわふわの茶髪が背中まで伸びてる。目鼻立ちはくっきりしてるし、着てるシャツワンピも安くは無さそうな生地感。肌の色は白くて、胸元には女の子に人気なブランドのネックレスが飾られている。

さっき私を見ていた子の時は冗談で考えてたけど、こんな美人がいたら、つい見つめてしまう。

誰かの彼女とかなのかな。それか、親戚? うーん。

座ってからはずっと携帯をいじっていた彼女を見ながらそんなことを考える私を不審がったのか、こちらに不思議そうな視線を向けられた。慌てて会釈をして試合に視線を戻したんだけど、すぐに試合が終わってしまった。

他の観客たちは帰り支度を始めて、徐々に席を立っている。隣に来た女の人も、座って早々だというのに立ち上がった。終了間近に到着して、試合も見ずに携帯をいじって、それでもう帰るんだ、何をしに来たんだろう。まぁ、私も人のこと言えないくらい何をしに来たか分からないんだけど。

元々少なかった観客はどんどん減っていき、私は最後の一人になるまで座ったままだった。

何て言うか、圧倒され過ぎて、見てただけなのに私はちょっと疲れていた。全然走ってもないし、日陰に座ってただけなのにね。何でだろう。

選手たちもグラウンドから出ていって、空っぽになったスタンドから空っぽになったグラウンドを眺める。

綺麗な緑は、夕焼け空に照らされている。何か、青春っぽい景色だ。

一息吐くと、私は階段を降りていって小さなスタンドの最前列に立って柵に手をかける。

こんなに近くにあるのに、柵の向こう側は遠い異世界みたいだ。私なんかは、入りたくても入れない世界。

そう思うと何だか無性に悲しくて、泣いちゃいそうになる。柵を握る手にも力がこもる。

その世界に行きたいなんて思ったことはなかった。今だって、何であんなことしてるんだろうなんて考えてた。

それでも彼らはなぜか輝いていて、理由も分からないけど憧れすら持ちそうになる。

寂しさを隠すように頭を小さく振って、グラウンドに背を向けて帰り始めた。

スタンドを出て階段を降りようとすると、折り曲げられて小さくなった背中が目に入った。何だか見覚えのある後ろ姿だ。
98 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 21:08:50.85 ID:AI8oOv0mO
階段を降りるにつれ、その見覚えは確信に変わる。カズヤだ。

ユニホーム姿からジャージ姿になってるから階段の上からじゃ分からなかったけど、彼は今、なぜか分からないけどこんなところで膝を抱えている。

背中が小刻みに震えて、鼻をすする音も聞こえる。

どうしたんだろう。試合には勝ったし、活躍もしたはずなのに、何で彼は泣いているんだろう。

状況が状況なせいで何が何かも分からないまま、私は少しずつ階段を降り、彼に近づいていく。

声、かけない方がいいかな。お店のルール的にも良くはないし……っていうのは、ここに来た時点で言い訳にしかならないんだけど。こんなところに来て泣いてるってことは、カズヤも人目につきたくなかったのかもしれないし。

でも。彼の隣に並んだとき、私はそのまま黙って階段に座った。お気に入りのデニムが汚れることなんて気にもせず。

無視なんて、私にはできなかった。

理由なんて分からない。でも、そういうことって誰もが経験あるんじゃないかな。優しくしたいとか、泣いてる理由が知りたいとかじゃなくて、ただ単に放っておけなかったんだ。言ってしまえば、私のわがまま。

励ましたいから、元気になってほしいからカズヤの隣に座ったんじゃなくて、ここで私が黙って通りすぎちゃうと家に帰った私がモヤモヤしそうだから。

隣に座った私に気づいているのかいないのか、彼はまだ顔をあげようとはしない。
99 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 21:19:39.26 ID:AI8oOv0mO
かける言葉も見つからない私は、彼の背中に右手を伸ばした。

寂しそうに揺れる背中を、そっと撫でる。今までもお店でカズヤの体に触れたことはあったけど、その時とは違うように感じるのは気のせいなのかな。

急に触れられて驚いたのか、カズヤは小さく頭を動かしてこちらを向いた。目は充血していて、頬は普段より痩けて見えた。

「えっ……」

驚きの呟きを漏らす彼に、私は労いの言葉を投げ掛けた。

「試合、お疲れさま。かっこよかったよ。勝って良かったね」

「いやいや……えっ……な、何で?」

泣き顔のまま、カズヤは疑問を投げ掛けてきた。まぁ、それはそうなんだけどさ。ちょっと意地悪をしてみよう。

「何が何でなのー?」

「いや、何でいるの……っていうか……」

「見に来るって言ったでしょ? 信じてなかったのー?」

「いやいやいやいや……」

やけに「いや」って言葉を使うなぁ、口癖なのかな。そんなどうでもいい感想は置いておくとして、私は彼の背中を撫でながら言葉を続けた。
100 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 22:01:45.35 ID:AI8oOv0mO
「凄いね、上から見ててもカズヤってうまいんだなって思ったよ」

「いや、俺なんか全然……」

「謙遜しないでいいから。私、正直サッカーのことなんて全然分からないまま来たけど、カズヤのプレーが何ていうか……一番だった」

上手いっていう言葉が入るのか、凄いって言葉が入るのかは分からない。ただ、カズヤの姿が私の胸を揺さぶったのは事実で。

「あんなに走り回って辛そうなのに、楽しそうだなって。目が離せなかったの」

黙って私の言葉を聞く彼は、少し照れ臭そうに頭を掻いた。

「あ、ありがとう」

「だから本当に、かっこよかったよ」

「いやいや……最後だって結局、ゴール決められなかったし」

「でもその前のパスに追いついたところとかさ。間に合わないと思ってたのに、スタンドも凄い盛り上がってたよ」

それはそれは、と他人事のように彼は呟いた。

「もうー! 本当だよ! カズヤはもっと自分のしたことの凄さに気づきなよー!」

「いや、だって僕、仕事できてないし。点取るためにポジション変わったのにさ……」

「でもさ、カズヤがあそこで走って追い付いて、点が入ったでしょ? 勝ったんだし、その悔しさはまた次に解消すれば良いじゃない。それに……」

そこまで言った後、何と続ければ良いか分からず言葉に詰まってしまった。

感動した? 違うよね。うーん、何て言葉を言うのが正解なんだろう。

「それに?」

言葉の続きを求められて、私の口から出てきたのはこれだった。

「また見に来たいな、って思ったよ」
101 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/13(水) 23:11:27.15 ID:AI8oOv0mO
「お、うちのチームのサポーターになっちゃう?」

「サポーター?」

キョトンとした表情で問い返した私に、カズヤは説明をしてくれた。

「ファンっていうか応援団っていうか……ほら、日本代表の試合だったら『VAMOS ニッポン』って歌ってたりするじゃん?」

「えー! 無理だよ無理!」

あんな少人数しかいないスタンドで、テレビで見るような応援なんて絶対無理。恥ずかしいし、そもそもサッカー自体がまだ、ろくに分かってないし。

……まだ?

「それは冗談にしても、よかったらまた見に来てよ。見てくれる人がいるって、やっぱり嬉しいしさ。うちのチームくらいだと、基本的に家族とか関係者しか見に来ないから」

そうなんだ。やっぱり、さっきスタンドにいた人たちはみんな知り合いなのかな? 楽しげに話してた人もいたし、オオタさんって名前を知っていたのもその関係だろうか。

あの美人さんは誰かの恋人なのかな。それこそ、オオタさんとかお似合いっぽいけど。
102 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/14(木) 01:45:37.25 ID:EfonRk7u0
おつ
103 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/14(木) 20:03:03.20 ID:Xp2d966KO
「何かね、知らない人たちが『オオタさんが上手い』って話してたんだけど、あの人が前にカズヤが話してた先輩?」

「オオタさん……ああ、ヒロさん。そうだよ、あの人、上手いでしょ?」

へぇ、ヒロさんって言うんだ。

彼の名前を口にするとき、カズヤは何だか複雑そうな顔をした。この間は慕っていて心配で仕方ないって感じだったのに、どうしたんだろう。

「うん、サッカーを知らない私でも、あの人は別格だなって思った。でもね、カズヤも同じくらい上手いなって思ったよ、本当だよ」

「あー、うん。ありがとう」

「そういうとこー! もっと喜んでよ!」

本当に、もうちょっと自分に優しくしてあげなよ。同じくらいって言ったけど、上手さじゃなくて心に残ったのはオオタさんじゃなくて、カズヤのプレーなのに。
104 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/14(木) 20:51:02.42 ID:I1/rw8o2O
日もそろそろ陰ってきて、夏が近いとはいえ少し涼しくなってきた。

「じゃあ、そろそろ帰ろうかな」

いつまでもダラダラ話しててもカズヤに迷惑かけるしね。

立ち上がって、汚れたお尻の辺りを手で払った。まあ、話して楽しかったし多少の汚れや傷みは仕方ないかな。

そのまま歩いて行こうとする私を、彼は不思議そうな声色で呼び止めた。

「……聞かないの?」
105 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/14(木) 22:32:22.62 ID:I1/rw8o2O
背を丸めて泣き始めて、どれくらい時間が経っただろう。

きっと今、僕はどうしようもなくみっともない姿なんだと思う。やりようのない悲しさを堪えられずに泣いてしまう、小学生みたいな僕。

情けないと分かってはいるんだけど、泣くという行為以外にこの辛さを消化する方法を僕は知らなかった。

サキは僕の試合を見に来たことはなかった。サッカーをしていることは知っていても、試合を見に来ることなんて話にあがりもしなかった。

だからこそ、今日こんな事態になったんだろうけど。チーム名も知らなければ、チームメイトの話もしてなかったから。

僕のサッカーなんて、彼女に見せられるようなものじゃないと思っていたんだよ。プロでもないし、サッカーを頑張ったからと彼女と釣り合う男になれるとは思えなかったんだ。

それよりは勉強をして、元彼に負けないように良い企業に就職してっていうのが大事なことだと思っていたから。その結果倒れちゃって、開き直って今に至るんだけど。

そんな勘違いのツケが、こんなところでも出るなんて想像もしなかった。

予想外のショックにただ震えていた背中に、暖かいそれが触れた。
106 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/14(木) 22:59:12.24 ID:I1/rw8o2O
背中で動く手は、優しさに触れているような気がして。

顔を上げると、これまた予想外の顔がそこにはあった。

彼女はさも当然のように試合の感想を話してきて、僕の頭はそれを正確に処理できない。

何で? えっ、何でいるの?

そんな僕の疑問を笑い飛ばすかのように、彼女は信じてなかったのなんて聞き返してきて。いや、あれを信じる人はそうそういないと思うんだ。

彼女はその後も泣いてたことには何一つ触れず、背中をさすりながら試合について話してくれた。

ヒロさんの名前が出てきたときには、驚きとさっきのことを思い出してしまった。そっか、やっぱりゆうちゃんから見ても、ヒロさんは上手いんだ。そりゃそうだよね、腐っても元プロだし。僕とはレベルが違う。

申し訳程度に足された僕への評価を聞き流すと、怒られてしまった。いや、ヒロさんと比べて僕が下手くそなことは、自分が一番理解している。

しばらく話すと、彼女は満足げに立ち上がった。

あれっ、それで良いの?

何だろう、ほら、あの状況で背中を撫でて、でも理由は聞かないなんて、そんなことがあるだろうか。

構って! 聞いて! ってことではないんだけどさ、でも何か違和感がある……っていうのは、結局誰かに聞いてほしい言い訳なのかもしれないけど。

立ち去ろうとする彼女に、つい僕から声をかけてしまった。
107 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/15(金) 00:22:00.93 ID:CcsBlhiIO
「えっ」

何を? と、彼女は問いかけてきた。

「いや、何て言うか、ほら……」

泣いてた理由を、なんて自分で言い出すのは恥ずかしくて。

「何、話してくれるの?」

そう言うと、彼女は再び僕の隣に座った。察しが良くて助かるよ。

そういえば、こんなに明るいところで彼女を見るのは初めてかもしれない。何だか不思議な感じだ。

「こんなところで、ただの客の話を聞いてもらって良いのか分からないけど……」

「良い試合を見せてもらったから、そのお礼に聞いてあげるよ。でも、お店には内緒にしてね」

そんな前置きをしつつ、僕は事の顛末を話し始める。嘘みたいな、それでも本当の話だ。
108 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/15(金) 06:08:35.01 ID:xA2gdP1bO
面白い
エタらないことを願う
109 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/15(金) 18:58:26.59 ID:CcsBlhiIO
「へぇ……へぇぇ……じゃあ、オオタさんとカズヤの元彼女が今、良い感じなんだ……」

言葉にされると、何だか変な感じがする。でも、その通りだよね。僕は黙って頷き、それを返事にした。

丁寧に言葉を選んで、僕は絡まってしまった心の紐をほどこうとする。

「何て言うか……ヒロさんには幸せになってほしいし、ミユが他に好きな人を作るのは分かるよ。恋愛って、理由を説明できないものじゃん。でも……」

でも。

その言葉で、僕の心はキツく縛られている。

理由じゃないんだよ。ヒロさんのことは今も尊敬してる。サキのことは本当に今は吹っ切れている。それでも、納得はできないんだ。
110 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 12:06:00.30 ID:IqIZqJmFO
>>109

「〜〜。サキが他に好きな人を作るのは分かるよ。恋愛って、理由を説明できないものじゃん。でも……」

に訂正です。
111 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 12:35:06.98 ID:IqIZqJmFO
「でも、辛いんだ?」

続きを言えずにいると、彼女が言い足してくれた。

「苦しいよね、辛いよね。大丈夫?」

再び僕の背中に触れたそれは、さっきよりも僕の心に直接呼び掛けているようにも思える。感覚的なものなんだけど、すごく居心地が良くて。

「カズヤはね、難しく考えすぎなの。どうにかしようとしすぎなの」

その言葉に僕は首をかしげた。そんな僕を見て、彼女は再び口を開く。

「辛い時は辛い。悲しい時は悲しい。それで良いんじゃないかな。今聞いた話だって、カズヤが何かを頑張ったからって解消される辛さじゃないでしょ?」

「うん……うん」

僕がヒロさんよりサッカーが上手くなったら、今の気持ちがなくなるわけではない。サキに付き合おうと言われても、僕は断るだろうし、辛さがなくなるわけでもない。

確かに、彼女の言う通りではある。

「辛いなら辛いで、カズヤがその気持ちを消化しないといけないの。それにはさ、もちろん何かを頑張って消化できるものもあれば、時間が経つのを待つしかなかったり、何かの事件とかきっかけが必要だったりさ。ケースバイケースなんだろうけど」

ゆうちゃんの言葉に相槌をうちながら、僕の心の底にあった黒い感情が少しずつ薄れていくのを感じる。

何だろう、この感覚。

有名なカウンセラーのありがたい講義でもなければ、特別なことを言われてる訳でもないと思う。

それでも、この言葉が僕には必要だったんだと自分で分かる。

「でもね、カズヤは全部を頑張ることで解消しようとしてると思うの。それじゃ辛いよ、疲れるよ、抱えきれないよ。だからさ、私なんかに言われたくないかもしれないけど、少し肩の力を抜いていこうよ」

ねっ、と彼女は微笑んだ。

夕焼け空の下で、太陽みたいに。
112 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 12:45:20.77 ID:IqIZqJmFO
「私は全然頑張れなくて、時間とかきっかけとかを待っちゃうから。恋愛だって、誰かと別れたら次に好きな人ができるまでは引きずっちゃうし。だから、カズヤみたいに頑張れる人ってすごいなって思うの」

背中を撫でていた手を止め、軽く叩きながら「こーの、頑張り屋さんめー」なんてふざけて言ってくるんだから、ちょっと笑っちゃったよ。

辛い気持ちがゼロになったわけじゃないのに、笑えてるんだから、僕はどれだけ彼女に救われたんだろうか。

「だからさ、私もカズヤみたいにちょっとずつ頑張れるようになるから、カズヤは私みたいにゆっくりできるように意識してみよ?」

「……うん、そうしてみる」

「よくできましたー、良い子だねぇ」なんて言いながら今度は僕の頭を撫でてくるんだから、ゆうちゃんには敵わないなって思う。

113 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 12:55:26.95 ID:IqIZqJmFO
「一応、今は僕の方が歳上なんだけど?」

同級生の世代とはいえ誕生日を迎えたし。

……あっ、そういえばゆうちゃん、6月が誕生月って言ってたかな。何日なんだろう。

「良いの、何かカズヤ可愛いし。見た目チャラいのに純粋だし。良い子良い子」

その後に、「あっ、うちの店に来るような子は良い子じゃないかな?」なんてニヤけながら言ってくるから、反応に戸惑っちゃったよ。

「まぁ、冗談は置いとくとして。辛かったら、頑張らなくても良い時だってあるんだよ。辛いときに何もしないのって焦ったりしちゃうかもしれないけどさ」

「うーん……そうなれるように頑張る……」

「ほらまた頑張るって言ったーだめー」

「それは言葉のアヤじゃん」

僕は笑った。彼女も笑った。何だろう、何なんだろう、この感じ。
114 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 13:10:19.00 ID:IqIZqJmFO
「あっ、カズくん、ここにいた! 探したー! 全く連絡つかないんだから……」

声が聞こえて、顔をあげると僕のバッグを持ったミユがそこにはいた。

「あ、ああ……ごめん」

「ごめんじゃないよー! もうみんな帰っちゃったし、ヒロ兄は女の人と出掛けちゃったし、カズくんの荷物を置いとけないから私が探せって言われるし!」

「分かったから……」

すごい剣幕で捲し立てられて、申し訳なさと恥ずかしさが混在している。ダウン中に逃げちゃったから、携帯も財布もバッグの中に入れたままだったもんね……そういえば。

「あー、じゃあ、私はそろそろ帰るね?」

少し気まずそうに言って、ゆうちゃんは階段を降り始めた。

えーっと、えっと。

「ありがとう!」

何か言わなきゃと思って口から出てきたのはそれだった。試合を見に来てくれて、話を聞いてくれて、ありがとう。

「こちらこそっ」

気持ちいい笑顔と共にその返事を残し、彼女は階段下のミユにも会釈をして帰っていった。

何だか、ミユがゆうちゃんの顔を一生懸命見ているものだからどうしたんだろうとは思ったけど。

「あの人、カズくんの彼女?」

バッグを受け取りに階段を降りると、そんなことを言われたからつい吹き出しそうになったよ。まさか、まさか。

「へぇー……そっか」

何だか意味ありげに呟くミユを見ていると、「何でもない」と言い足した。何も聞いてないけど。

その後、僕は階段下の自販機でミユにジュースを奢らされるハメになり、散々説教を受けながら帰路についた。

濃すぎる一日。辛かったのに、何だろう、嫌じゃない日だった気がする。
115 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 18:31:13.72 ID:IqIZqJmFO
プレゼントを片手に、僕は町を歩いている。

あの試合から数日が経った。まだ完全にモヤモヤが無くなったわけじゃないけど、それでも沈んだ気持ちだけということもない。少しずつ、それは薄くなってきている。

時間が解決してくれることもあるんだ、って実感してる最中だ。たぶんこのまま、いつか自然に無くなってるんだと思う。

ゆうちゃんに感謝して、誕生日が今月だって前に話してたし、何かプレゼントをしようと思った。

アクセサリーは重いよね、でも何が好きなんだろう……そういう話ってあんまりできてなかったからなぁ……。

そんなことを考えながら買ったものが、右手に持っている紙袋の中に入っている。

ゆうちゃんの働くお店に一度行ったんだけど、彼女は二時間ほど待たないと空かないらしいと言われ、予約だけして暇を潰しに出てきたところだ。

「予約が埋まってる」という言葉を聞いてチクリと胸が痛んだのは、たぶん気のせい。

どうやって暇を潰すか考えて、とりあえず本屋に入った。

サッカーバカだと自分でも思うけど、本屋に来るといつも最初にサッカー雑誌をチェックしに来てしまう。小説とか漫画とかも好きなんだけどね、小さい頃からの癖だから仕方ない。

スポーツ雑誌のコーナーに着いて、何か面白そうな記事がないかチェックをしていると、シンヤが大きく写った表紙が目に入った。
116 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 18:42:56.02 ID:IqIZqJmFO
その雑誌を手に取ってインタビュー人気は目を通す。主な内容は、代表選手としての意気込みと、海外移籍の噂についてだった。

ヒロさんは凄い人とチームメイトだったんだな。

そんなことを改めて感じながら、僕はそれを棚に戻した。

僕とほとんど歳が変わらないのに、国を代表する選手としてインタビューを受け、サッカーをすることでお金を稼いで生活をしているシンヤ。

遠い遠い存在で、追いかけても追いかけても届かない存在の気がする。

何で僕はサッカーをするんだろう。

好きだから、っていうのはもちろんそうなんだけどさ。好きだから、ってだけで終わらせられるのかな。分からないや。

考えすぎるのは僕のよくない癖だと自覚している。そこで考えるのをやめて、他のコーナーへ移動を始めた。

もうしばらく、何を見て暇を潰そう。
117 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 23:31:15.89 ID:vvfl/4PnO
結局本屋で暇を潰し、いつもの薄暗い部屋のブース内でゆうちゃんを待った。

少しなれちゃったのかな、異世界感も薄れてしまった気がする。

「あー! 来てくれたんだ、ありがとー!」

いつも通り、ニコニコしながら彼女は近づいてきた。僕も座ったまま会釈で返事をする。

「ね、今日はどうしたの? またお話? それとも?」

ニヤニヤしながら僕の正面に座る彼女を見ると、胸が高鳴った。

何か緊張しちゃうよね。でも、初めて来たときに感じる緊張とは違うものの気がするけど。

「何しに来たと思う?」

そう言った僕を見て、彼女は首をかしげた。

「えー、気持ちよくなりに? とうとう?」

少し僕との距離を詰めて、彼女は「いやらしいー」なんて笑った。

何て言うか、ここに来てる時点でいやらしいのは否定できないよね。でも、残念ながら違うんだよね。

「えーと……」

脇に置いたままの紙袋を手にすると、そのまま彼女に差し出した。
118 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/16(土) 23:56:59.12 ID:vvfl/4PnO
「6月が誕生日だって前に言ってたから……これっ!」

言い訳みたいに理由を言わないと、それを渡すことすら恥ずかしかった。

僕ごときにプレゼントを渡されても困るかもしれないし、何か場違いなことをしてしまった気がしなくもない。でも、渡したかったんだから仕方ないよね。

「えっ、私に?」

頷いて返事をすると、彼女はおそるおそる手を伸ばした。

「ありがとう……めちゃくちゃ嬉しい……!」

あれ、何か予想と反応が違う。「マジでー? やった、ありがとね!」みたいなノリで来るかなって思ったのに。

「誕生日、覚えててくれてたの?」

「いや、日は知らないんだけどさ。初めて来たときに6月が誕生月だって言ってたから」

「よく覚えてるねぇ……」

うーん、やっぱり、僕なんかがそれを覚えてて祝うって、何かちょっと気持ち悪かったかな……? 引かせてしまった?

「あの、迷惑だったら捨ててね」

「そんな迷惑なものなの?」

意地悪そうに笑って問われて、それには首を横に振った。全力で。

「冗談だよ、本当に嬉しい! ありがとう! もしかして、これをくれるために今日来てくれたの?」
119 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/18(月) 00:16:30.23 ID:ofcUqsyCO
「いや、まぁ……そうだけど……」

気持ち悪いよなぁ、僕。

「今年初めて祝ってもらっちゃった……! やったね」

そう言って、彼女は紙袋を胸元に抱えた。何て言うか、演技だとしても慶んでもらえたら嬉しいよね。

「ちなみに、何日が誕生日なの?」

今後のために……と言いそうになったけど、こんな本名すら知らない、不安定な関係の一年後なんてあるのかどうか分からないから黙っておくことにした。

「えっ、今日だよ、今日。だから、偶然かもしれないけど本当に嬉しいんだよね」
120 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/19(火) 22:20:44.31 ID:AJdDD0WLO
カズヤの話を聞いた私は、素直に驚いた。

偶然ってあるんだなぁ。

カズヤの元彼女が、オオタさんの新彼女候補。そしてカズヤはオオタさんに憧れてる。それは心中穏やかじゃなくて当然だよ。

辛そうな彼を何とかしてあげたくて、私が伝えた言葉が適切だったのかは分からないけど、少しは元気になってくれたみたいで安心した。

本当に、彼は頑張り屋だと思う。

サッカーの試合を見ていても感じたし、聞いた話もだし、お店で聞いたときもそう。自分でどうにかしようとして、その重さに負けてしまいそうになっても、それでも自分でやり遂げようとしてる。

それが正解なのか私には分からないけど、でもそんな彼が私にはとても眩しく見えるのも事実で。

アキラとの関係性も、これ以上前に進むことはないって知ってるのに、止めるという決断すらできない私とは大違いだ。泥沼から抜け出そうとはしないくせに、「辛い」「止めたい」って心で思うだけで、本当にどうしようもない。
121 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/19(火) 22:38:43.85 ID:ZmN5ao2DO
待ってたわん(はぁと)
122 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/19(火) 23:31:10.57 ID:AJdDD0WLO
カズヤの話には、正直驚いた。

偶然ってあるんだ。世間って狭いなぁ。

カズヤの元彼女が、オオタさんの彼女候補。そして、カズヤはオオタさんのことを尊敬している。

それは確かに気まずいよね、ショックだよね。分かるよ、辛いよね。

抱えきれない辛さを自分で処理するのって、その辛さをもっと強くすると思うの。少なくとも、私にとっては。

辛いことをどうにかするのって頑張らないといけないし、その頑張るってことが私はできないんだよね。

「このままじゃダメ」「辛い」「苦しい」とは言うくせに、アキラという泥沼から抜け出そうとしない私。時間が解決してくれるものでもないって、きっかけが必要だって自分で分かってるのにね。

カズヤに言葉をかけながら、それとは逆のことを私は自分に言い聞かせていた。

変わらなきゃ。私も、頑張れるようにならなきゃ。
123 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/19(火) 23:33:01.51 ID:AJdDD0WLO
うわっ、何か更新できてなかったみたいで
>>122を書き足してしまいました……

見なかったことにしてください……すみません!
124 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/19(火) 23:47:46.90 ID:ZmN5ao2DO
ダイジョブキニスンナ
更新楽しみに待ってるよ。
125 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/19(火) 23:58:19.28 ID:AJdDD0WLO
カズヤに言葉をかけながら、自分に言い聞かせていた。

変わらなきゃ。私も、頑張れるようになりたい。

そんな決心染みた感情を持ったところで、私の行動は変えられないんだけどね。結局、アキラに誘われたら私は彼と寝るだろう。誘われなければ寂しくなって、勝手に凹んでしまうだろう。

私っていう人間の弱さが、自分でもよく分かるの。

変わりたいという気持ちだけで変われるなら、今ごろ私は聖人君子になれているはずだしね。気持ちだけで変わるのは難しいよ。

そんな風にモヤモヤして数日が過ぎ、私は誕生日を迎えた。
126 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/20(水) 00:06:28.83 ID:Rc3Ke32FO
高校を卒業して最初の年は、高校の友達がお祝いしてくれた。

でも、去年は誰からも祝ってもらえなかった。大学や専門に通ってもいなければ、職場の女の子とも特に親しいわけではない。独り暮らしを始めていたから家族も連絡がなくて、寂しい誕生日だったなぁ。

ホストにハマったのには、二十歳になってお酒も飲めるようになったし、その寂しさを埋めたいって気持ちもあったのかもしれない。まあ、それがどうしたって話なんだけど。

寂しさを埋めるためにホストに通い、抜け出せなくて辛くなるなんて思ってもいなかった。

アキラも私の誕生日なんて興味を持っていないだろうし、どうせ私は今年も誰にも祝われないまま一人で歳を重ねるんだ。

別にいいんだけどさ、でもやっぱりちょっと寂しい。

どうせ誰にも祝われないなら、明日は出勤前に買い物に行こう、自分で自分にプレゼントを買ってあげよう。 アキラのお店に行くかは、仕事が終わって決めよう。

そう決心すると、私は何か欲しいものを探してファッション雑誌のページを開いた。
127 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/20(水) 00:17:10.16 ID:Rc3Ke32FO
かなり奮発して、お高いブランドのアクセサリーを自分にプレゼントした私はご機嫌だった。

たぶん、私みたいな歳の女が持つには分不相応なブランドなんだろうけどね。いつもアキラにばかり高価なブランド品を貢いでいて、自分には安いものばかりだったから、たまには良いよね。

ウキウキした気持ちで出勤すると、今日は予約が一杯入ってた。普段はあんまり忙しくない方が嬉しいんだけど、今日は頑張ろうって気持ちになれる。指名料も稼げるしね、アクセサリーの分を稼いで、また自分にプレゼントしてあげよう。

裸になっては服を着て、裸になっては服を着てを繰り返す。まあ、誕生日だからってお仕事まで特別になる訳じゃないからね。いつも通り。

そんな感じで慌ただしく働いていると、この間の試合からそう日も経っていないのにカズヤが待っていた。
128 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/20(水) 00:26:16.73 ID:Rc3Ke32FO
どうしたんだろう、また悩み事? まだあの日のショックを引きずっているんだろうか。

たぶん彼は、私にそういう行為をしてほしくてこのお店に来ているわけではない。

それは何となく分かっているんだけど、それじゃあ悩み事の相談なのかなって考えると、そんなに次から次へと悩んでるのかな、なんて考えちゃったりもする。

何となくしないとは分かっていても、行為をするかどうかだけは一応は確認しないといけない。冗談めいて彼に声をかけてみると、彼は紙袋を差し出して来た。

「えっ、私に?」

いや、確認しなくても私にだって分かってるんだけどさ。何でカズヤは私の誕生日を知ってるんだろう。

私の疑問に対する返事を耳にすると納得したけど、よく覚えてるなぁと感心したりもする。

カズヤが4月生まれっていうのは、お客さんの歳を覚えるためだと思って私は意識してたけど、まさか私のそれを覚えてくれているとは思っていなかった。覚えているどころか、プレゼントまで用意してくれてるとは想像したこともなかった。
129 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/20(水) 00:38:21.43 ID:Rc3Ke32FO
誰にも祝われないと思っていた矢先、予想外の人に祝ってもらえた私は嬉しさのあまりにオーバー気味に喜んじゃった。不自然なくらい。だって、それだけ嬉しかったの。

私の誕生日が今日であることをカズヤに伝えたら、「じゃあ、良い日に来たね、僕」と笑っていた。本当にそうだよ。

それにしても、このプレゼントは一体なんだろう。何だか気になるんだけど、本人の前で開けるのは失礼だよね、たぶん。

プレゼントを確認するタイミングを失ったまま、話は進んでいく。先日のショックも少しは和らいだのか、その話は出てこなくてちょっと安心したよね。

「……あっ、それ」

私は彼の胸元を指差した。そこに飾られていたのはネックレスで、それはさっき私が買ったブランドと同じものだった。

「そのブランド、好きなの?」
130 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/20(水) 00:47:50.23 ID:Rc3Ke32FO
「えっ?」

カズヤは急に話を変えた私についてこれなかったみたいで、何のことか分かってないみたいだ。彼の首にかけられているそれをツンツンと指先でつつきながら、私は彼に示して見せた。

「これ、ネックレス。可愛いなぁ、って」

「ああ、これ? うん、お気に入り」

「良いよねー。私も、さっき自分へのプレゼントにそこのアクセサリーを買ったんだ」

今思い出しても、嬉しくてちょっとにやけそうなくらいだ。

「えー、いいなー。僕はあれだよ、去年二十歳になったときに、ずっと使える良いものを買おうと思ってバイト代を貯めて買っただけだから。だから、気合い入れたい時に付ける勝負アクセサリー……みたいな?」

「じゃあ、今日は気合い入ってるの?」

「たぶん?」

何それーって突っ込むと、彼も何だか恥ずかしそうに笑った。

そっか、やっぱり私たちくらいの歳だと、そんなに簡単に買えるものじゃないんだよね。

私にしてみれば高価とはいえ、何だかんだこのお店で働いてアキラに貢がなければ普通に手が届くくらいの額でも、カズヤにとってはお金を貯めて買うものだし。

私がこのお店で働いて得たものは、お金と狂った金銭感覚なのかもしれない。
131 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/20(水) 01:01:16.12 ID:Rc3Ke32FO
そこから、カズヤの好きなファッションの話とか、逆に私のお気に入りのブランドの話なんかをしていると終了時間になった。

「本当に……ありがとね!」

彼を出口まで送ったあと、紙袋を抱えて私は彼にお礼を告げた。

カズヤは「大したものじゃないから」なんて言うから、私は軽く叩いちゃったよ。大したものだろうがそうでなかろうが、私にとっては大事な大事なプレゼントだ。

早く仕事が終わらないかなぁ、紙袋の中には何が入ってるんだろう。

カズヤが来る前以上に浮かれて、私はお仕事を終えた。すぐにでも中を確認したい気持ちでいっぱいだったんだけど、何となくお店でそれを開けるのは勿体ない気がした私は一度家に帰ることにした。

ちょっと大きな紙袋。でも、中身はそんなに重たくない。

家に帰りつくや否や、私はテーブルの上に置いた紙袋を閉じているシールを剥がした。

「……うわぁ……」

中に入っていたのは、ストローハット。俗にいう麦わら帽子だった。お洒落な雰囲気なのをチョイスしてるのはさすがだけど、何でカズヤはこれを選んだんだろう。

それを被って姿見で確認すると、ちょっと良い感じ。今日買ったアクセサリーにも合うかもしれない。

いつまでも部屋の中で被ったままでいるのも変な気がして、名残惜しさを感じつつもそれを紙袋に入れようとする。袋を開き、帽子を手に持ったところで、私は底に残っていた封筒の存在に気がついた。

表面には『ゆうちゃんへ』という文字。裏面のシールを丁寧に剥ぎ、中身を確認する。
132 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします [sage]:2015/05/20(水) 01:09:47.22 ID:Rc3Ke32FO
僕なんかに手紙を渡されても困ると思うから、あれだったら捨ててください。

この間は本当にありがとう。お世話になりました。何て言うか、ゆうちゃんに話を聞いてもらえて本当に楽になりました……っていうのは、初めて来たときからいつもなんだけど。

6月に誕生日だって言ってたから、何かお礼にプレゼントと思って、これにしました。「また見に来たい」って言ってくれたのが本当なら、これから暑い日が続くし、熱中症対策にも?被ってもらえたら嬉しいです。
安物だし、趣味じゃなかったら捨てて。ごめん。

気持ち悪いこと書くけど、ゆうちゃんに会えて本当に良かったです。変な気持ち悪い客だって思ってるかもしれないけど、でも、僕は本当に色々と救われました。

良い一年にしてね。本当に、おめでとう!
133 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/20(水) 01:18:13.01 ID:Rc3Ke32FO
「……律儀だなぁ」

手紙を読みながら、つい苦笑いしてそんなに感想が漏れた。

そんなに遠慮気味に言わなくても、カズヤのことを気持ち悪いお客さんだと思ったこともなければ迷惑だなんてとんでもない。ただ、変な人とは最初に思ったけどね。

何て言うか、カズヤは一生懸命なんだと思う。手紙もそうだし、プレゼントだってそう。私の「また見に来たい」って言葉を覚えてこのハットを探してくれたんだろうし、かといって押し付けじゃなくて手紙でそういう風に説明してくれたり、メッセージをくれたり。初々しいっていうよりは、一生懸命。

ただ高価なアクセサリーをアキラに貢いで喜ばせようとする私とは大違いだ。金額じゃないもんね、プレゼントって。

カズヤは私の好きなブランドも知らなければ、手紙にも書いてたみたいに、私が自分で買ったブランドのアクセサリーみたいに高価なものでもないんだとは思う。

それでも、カズヤからのプレゼントは私の胸を揺さぶる。それはきっと、言葉にするなら感動というもの。
134 :以下、名無しにかわりましてSS速報VIPがお送りします :2015/05/20(水) 01:27:49.38 ID:Rc3Ke32FO
人の暖かさに、久しぶりに触れた気がする。

アキラと体を重ねているときにも感じたことのない暖かさ。私自身、もう長い間忘れていた気がする。

帽子を片付けるのが何だか急にもったいなくなって、それをカラーボックスの上に飾ることにした。

うん、可愛い。

それを見てニヤけていると、私はあることを思い出す。

そういえば、アキラのお店に行かずに帰っちゃった。でも、何だか幸せだから今日は良いや。カズヤに祝ってもらえたし。

飾ったハットを眺めてにやけながら、私は自分で買ったアクセサリーも確認して幸福に浸っていた。
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