20:名無しのパー速民[sage]
2020/05/21(木) 09:43:47.29 ID:d0q3ddcfo
ヘップバーンは誰もが知っている最も才能に恵まれた俳優で、50年代を代表する存在です。彼女の伝記を読んだことない人はそれ以上のことを知らないでしょう。
戦時中、彼女の両親は中立国ならば侵略の心配がないと思いオランダへ移住しました。しかし思ったとおりにはなりませんでした。
ナチスが食糧の供給を断つと、ティーンだったヘップバーンは深刻な栄養失調に陥りました。
ヘップバーンはナチスに怯える市民の前でバレエを披露しました。このような違法パフォーマンスは「黒い夕べ」と呼ばれていて、ナチスに睨まれた困窮している音楽家がお金を稼ぐ術でした。「黒い夕べ」の名の由来は、ドイツ側に気づかれないように窓を黒く覆ったことから来ています。
彼女は得たお金をオランダ人の抵抗運動へ寄付しました。このような寄付はオランダ国内のユダヤ人を匿うために使われました。
「私が今まで巡りあった最良の観客は、演技が終わっても物音一つ立てませんでした」
聴衆はナチスに感づかれるのを恐れるあまり拍手の一つもできなかったことを指して、ヘップバーンはこのように表現しました。
栄養失調でお腹を空かせた十代のヘップバーンは踊りを続けました。
1944年の空襲中にも十代とは思えない勇気ある行動をとります。15歳のヘップバーンは田園地方で撃墜された連合国軍のアメリカ人やイギリス人パイロットへ、メッセージと食料を運ぶ役割を引き受けていました。彼女が英語を流暢に喋れる数少ない住民の一人だったからです。
しかしある時、ヘップバーンはオランダ・ナチスの警官が彼女のいる辺りに近づいてきたのに気づきました。
ヘップバーンは落ち着き払って周囲に咲いている花を摘み始めました。警官は身分証明書の提示を求めたのち、彼女を解放しました。同じ年頃の普通の少女だったらどうしていいか戸惑ってしまうことでしょう。
その他に彼女は、ナチスが発行を禁じたレジスタンスの機関紙『Oranjekrant』の配達に関わっていました。
「私は機関紙を靴下の中に隠して、その上から木靴を履いて自転車で配りました」
彼女の勇敢さは、英国人兵士を彼女の家に匿ったことからも見て取れます。ヘップバーンの息子のルカ・ドッティによると、
「どんなにスリリングな体験だったか、母は私に話してくれました。リスキーな行為でしたが、制服に身を包んだ赤の他人の彼は救世主です。騎士であり英雄でした」
これら全ての行為が十代の少女だったオードリー・ヘップバーンによって行われたことに、あらためて驚かされます。彼女は誰かを守るために自分の生命を危険にさらすという、聞いた人が怖気づくような秘密の一面を持っていました。しかしこれもまた、彼女の人格形成に寄与したことは間違いありません。
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