´ω`)ノ こんぬづわ11
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48:読書[sage]
2018/06/21(木) 19:52:24.11 ID:j2LLnFeS0
C■~*八木晃介「差別論研究 部落問題の自然史的考察」(批評社 2010年)

☆後半が「個人紙『試行社通信』で跡付ける私の思考回路(1991年〜2009年)。
正直、「重複に次ぐ重複、さらに重複」という感は否めない。強調点は主に二つ。
部落解放同盟の「第三期の解放運動」がこれまでのものとさして変わらないことへの批判。もう一つは、「差別に関する命題」すなわち「日常、部落に生起する問題で部落と部落民にとって不利益な問題は一切差別である」は当時は妥当性があったかもしれないが、現在では通用しない、という点。

23
 かの有名なM・フーコーが、「他者の行為に影響をうみだすべく運用される行為の全体構造」というような言い方で権力を定義したことはよく知られています。

28
 拙著『〈癒し〉としての差別』(批評社 2004年)は、タイトル的にはまことにセンセーショナルなものでしたが、内容的にはさほどでもなく、要するに社会関係における差別がある種の「癒し」効果をもつ行為として消費される倒錯した状況をこそ差別意識の淵源としてとらえるべきではないかと提案したものでした。つまり、ルサンチマン(怨恨感)やカタルシス(鬱屈解放感)の発現行為としても差別は有効利用され、それがいかに主観的で自慰的なものでしかないにしても、それが当の差別行為者自身にとって有意味的であると解釈されれば(つまり、自己肯定感を感得できれば)、多少の後ろめたさがあろうとなかろうと、やはりその倒錯の道をつきすすむ可能性がたかいということを私は強調したかったのです。

58
 アルジェリア出身のユダヤ人作家アルベール・メンミの差別(主義)定義はもっとも頻回に引用されるものですが、そこには次のように規定されていました。「差別主義とは、現実上の、あるいは架空の差異に普遍的に、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、告発者(差別者)が己の特権や攻撃を正当化するために、被害者(被差別者)の犠牲をも顧みず己の利益を目的として行うものである」(『差別の構造-性・人種・身分・階級』合同出版、1971年、226頁)。ここでも差別は告発者(差別者)が己の利益を目的にして「行うもの」、すなわち行動レベルの処遇のパターンとして説明されているわけです。

64
部落解放運動のふるい活動家・西岡智さんはかつて私に「狭山闘争があったればこそ、部落解放運動はなんとか道徳的にもちこたえることができた」といわれたことがありますが、部落解放運動の価値志向的側面をうまく表現されたものと理解することができます。

158
この点は、初期マルクスのいう「我々にとって共産主義とは、招来せられるべき状態でもなければ、現実が指向すべき理想でもない。我々にとってそれは、現状を廃絶しようとする運動である」との論点にも合致します。

176-177
 もしも部落解放運動がなおも人間解放のための運動過程というのならば、せめて権力と金力への接近だけはやめるべきです。夏目漱石によれば、権力とは「自分の個性を無理矢理に押しつける道具」であり、金力とは「個性を拡張するために他人の上に誘惑の道具として使用しうる至極重宝なもの」なのです。そして「権力と金力とは自分の個性を貧乏人より余計に、他人の上に押し被せるとか、または他人をその方向に誘き寄せるとかいう点において、大変便宜な道具」なのです(『私の個人主義』)。そのような権力と金力に魅力をかんじて接近することが、人間解放というたかい理想と何か関係があるというのならば、ぜひその高説を拝聴したいものだとおもいます。


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