´ω`)ノ こんぬづわ11
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323:読書[sage]
2020/06/02(火) 19:23:24.66 ID:1sszb1yq0
C■~ *牛島秀彦「昭和天皇と日本人」(三一書房 1976年)

☆この前作にあたる「非國民的天皇論」を書いたことにより、著者は実質2度も会社を追われるはめに…。

24 「虎の門大逆事件」が起こった後の当局の責任のとり方は、まことにこっけいなくらいのスピードで実地された。コトが、天皇、そして皇室にちらとでも及んだり、及ぼうとすると、超党派的、国民的コンセンサンスで、責任をとったり、とらされたりする事態は、まことに、戦前も、戦中も、そして戦後でもいささかの変化もない。
 時の山本権兵衛内閣は、即日総辞職。そして山口県出身の湯浅倉平警視総監、正力松太郎警視庁警務部長、虎の門所轄の弘田久寿治愛宕警察署長は、懲戒免官。ただ天皇のお膝元の宮内省当局からは、誰一人責任をとった者はいなかった。この傾向と、その伝統は、現在も引継がれている。

30-32
1969年(昭和44年)正月の「宮中参賀」の際、天皇へ向けてパチンコを撃った奥崎謙三。難波と奥崎、両者の決定的な差は、いずれも未遂であるにもかかわらず、難波大助は国をあげての周章狼狽、総懺悔の祈誓式のをやったりしたあげく、結果は死刑ということ。いっぽう奥崎謙三の場合は、パチンコ玉では殺意もなかったという解釈もさることながら、事件が発生したために内閣総辞職はもちろん、誰一人として免官にもならず、神戸市や出身校が祈誓式を行なうようなこともなかった。

32 奥崎謙三
「難波大助氏の事件は、まさに彼がいうとおり先駆者的な行為であり、高く評価してます…。私もいまは、あのときパチンコ玉じゃなく、ピストルで天皇を撃つべきだったと後悔しています。あんな過酷な戦争の洗礼を受けて、まだ大部分の日本人は、天皇迷信の蒙から醒めない。無知と怯懦にのみ支えられ、それを厚顔無恥にも受入れ、ふんぞりかえっている天皇とその一族の精神構造は、断固粉砕せにゃなりません」

34
 ところが、裁判当日、法廷に立った難波大助は、その約束と、大方の予想を裏切って、胸をはって自分の所信を述べ、最後に「日本無産者労働者、日本共産党万歳、ロシア社会主義ソビエト共和国万歳、共産党インタナショナル万歳!」と、とどろきわたるような大声で、絶叫したのである。
 この大助の行為に激怒した司法大臣横田千之助は、ただちに死刑執行命令書に署名をし、刑執行は、判決後わずか二日目に実施という異例を作ったのだった。

84-85 「菊のタブー」
経済学者の平野義太郎は、「天皇制は言葉からして全然だめです。天皇制と書いたのでは発禁を食うにきまっていますから、絶対主義と書いた」(『昭和経済史の証言』=「資本主義論争」)という。
 戦後のマスコミのタブーは「菊(天皇および皇族)、星(アメリカ合衆国)と桜(自衛隊)、鶴(創価学会)」(CMを星、鶴の代わりに入れた人もいる)といわれたが、戦前におけるジャーナリズムのタブーは、第一が天皇、第二が革命、そして第三がセックスであった。
 最近の例をあげれば、横井庄一元伍長が、二十八年ぶりに、帰国した際の「朝日新聞」の『天声人語』をあげることができる。
 その概要は、「グアム島で、元日本兵が見つかったのは、横井さんが最初ではない。昭和三十五年四月に、皆川文三、伊藤正の両氏が十五年ぶりに救出されたケースがある。両氏は帰国した日の記者会見で、記者から"東条英機は戦犯として処刑された"ということを知らされると、"当然でしょうね"との感慨をもらし、"それでは天皇陛下はどうなりましたか"と聞き返した。そこで"ご健在です"と記者が教えてやると、東条が処刑されて天皇が健在であることが解せないと不思議がっていた。横井さんがどういった感慨をもらすだろう」といった内容のものだった。
 ところが、七版以降のオソ版から、この『天声人語』の中の天皇にふれたくだりが、そっくり姿を消したといわれる。

178 天皇訪米(ハワイ)について 井上清(京都大学教授)
「この間あなた(牛島氏)がテレビに出て言ってましたが、天皇は、いわゆる一見してわかるアメリカ人に対しては、進んで握手するんだが、日系人には、まず握手をしませんでしたね。これはまことに奇異というべきで、アメリカ人には、精いっぱい笑顔と、愛想をふりまいて、日系人の前にくると、とたんに無愛想になる。」


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