210:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:33:20.41 ID:tRJaplXx0
「それと明示する描写はないところからの、こういう仮説形成になりましたが、モルジアナは復讐心を抱いたのですよ。だから本来、滅ぶ側の存在だったのです。
ですが、最後には打ち勝った。
モルジアナはどこかで美徳、未来志向を手に入れたのだといえる筈です。悪徳を、過去の名誉を、復讐を振り切って、未来の為に戦ったのだと。その為に見えざるものの恵みを、筋書きの肯定を享受したのだと。なにぶん結局、彼女は滅ばずに済んだ。魔法の言葉を奪われることも、盗賊たちの策謀を破れず倒されるということもなかったのですから。
211:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:33:48.76 ID:tRJaplXx0
「前に、邦画を見ました。アイドルの仕事の幅を見ようという事で、男性アイドルではありましたが、その主演の映画。で、国会議員の葬儀を行うシーンがありました。けっこう豪華な式場で、参列者も大勢なのですが、中には大袈裟に、一定の節や旋律のようなものを付けながら、嘆き悲しんで葬儀を、…… まあ、盛り上げる、ような。そういう役割をこなす人々が居たのです。記憶に残りました、偉い人だと葬儀はああいうものになるのか、と。泣き女、というやつですね。
『アリババ』にも、これが登場します。カシムの葬儀です。モルジアナもカシムの妻も、悲痛な声を上げ、髪をかきむしる。それから、別の女たちも駆けつけ、遺族と共に泣き叫び、悲しみの声であたりを満たす。そういう《しきたりなのです》。平凡社のものでは、同じシーンに注釈が付けられています。駆けつけたという女性たちについて、彼女らが《ナーイハート、泣き女》である、と。《ナーイハ》が泣き女を意味し、《ナーイハート》は複数形になります。
ですが、この泣き女≠ノは謎がある」
212:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:34:42.22 ID:tRJaplXx0
「イスラム教では、不幸に際し、その故人の為に泣き叫んで悲しむことを戒めています。
人は神の定めた運命による死を迎えると、墓穴の中で終末の審判を待つ。死は来世への通過点なのです。そしてこの定命∞来世≠ニいうのが、ムスリムの信ずべき六つの条項、六信≠フ要素なのですね。
死は神に与えられるものであり、また、完全なる終わりではない。だから、感情のままに涙を流すことをまでは戒められませんが、泣き叫び、髪を掻き毟ったりするやり方で強く悲しみを表現することは、神の定命=A来世≠ヨの不信仰だ、という事になるのです。
213:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:35:08.75 ID:tRJaplXx0
「しかし、イスラムの教えに反する内容だからといって、このシーンがガランの誤解や完全な創作によって生まれたものだとはいえません。
十世紀のムスリム、アル・ハマザーニーによるマカーマート≠ナはイラク、十一世紀のアル・ハリーリーのものではペルシャ、十九世紀の紀行文、ジェラール・ド・ネルヴァルの『東方紀行』によればエジプトと、イスラム圏各地の風俗を窺える記述に、泣き女を雇って悲しみを表す人々が登場するのです。立場や地域差もあるのでしょうが、実際、ムスリムの人々も不幸には泣き叫ぶものなのです。
この背反には、きっと意味がある。
214:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:35:44.72 ID:tRJaplXx0
「グリーフワーク≠ナす。死別という悲嘆に打ちのめされ、受け止め、向き合い、立ち直っていく、そのプロセス。
悲しみに頬を打ち、大勢で声を上げることを、人々は本能的にさえ必要とした。そうやって、愛する者の死を明らかなものとして認め、受け入れることが必要だった。
預言者ムハンマドのように強ければ、静かに涙を流し、あるいは長い間引きこもるというやり方で悲しみと向き合うことも出来たのでしょう。しかし、そうでない人々は、やはり嘆かずにいられなかった。泣き女に悲しみの誘いを受けることが、故人との別れを実感することや、やがて立ち直っていくことに大きな効果をもたらしたのです。
215:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:36:16.14 ID:tRJaplXx0
「泣き叫んだのは《しきたりなのです》とありました。だから一読、モルジアナは悲しんだわけではないのか、との印象を受けました。あくまでアリババに頼まれた仕事、盗賊の追跡を振り切る作戦として、カシムの葬儀を取りなし、しきたりの為に泣いて見せたのか、と。
ですが、やはりモルジアナは、心から泣き叫んだのではないでしょうか。内に抱えた悲嘆の発露として、主人との離別を受容するプロセスとして。
深い悲しみに際し、しっかりと感情を表した。泣いて、喚いて、髪を掻き毟って、それでようやく、別れを乗り越える為に、踏み出すことが出来た。……時を、動かした」
216:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:36:44.69 ID:tRJaplXx0
「そして、今度はアリババを守ることに全てを捧げると誓った。未来へ向き直ったのです。彼女は悲しみを受け入れた。悲しみに抗うことを辞めたのです。そうやって美徳を手に入れた。主人を守れなかった自責、過去の名誉への拘りを乗り越えた。
だから、モルジアナは盗賊たちに打ち勝ったのです。彼女は悲嘆を受け入れ、しっかり向き合った。だから、本当の名誉を手に入れた。
この物語のハッピーエンドは、そういう仕掛けだったのです」
217:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:37:17.61 ID:tRJaplXx0
「冗長だったようですが、それが私の考えです。
この物語では、過去の名誉という感情に拘ることは重い罪となる悪徳だった。カシムも盗賊も、その呪いに抗えなかった。
モルジアナさえ囚われた。だけど、彼女は生き残った。きちんと泣いて、振り切ったから。
だから、――
218:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:37:43.49 ID:tRJaplXx0
だからモルジアナは、幸せだったと思います。幸せになっていいんです。
だってこれは、きっと、自分が幸せになることを許す為の物語なんだから」
219:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:38:12.35 ID:tRJaplXx0
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
220:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:40:11.95 ID:tRJaplXx0
文香は安心したように目を細め、深く頷いた。耳に掛かった髪が滑り、落ちる。まるで絹だ。
彼女はゆっくりと、囁く準備のように首を突き出し、しかし千夜の耳には程遠い空に、夢見心地の言葉を紡ぐ。
「私は…… 自分で言うのも、ですけれど…… はい、読書家、だと。
ですが、どれだけの書を読み耽っても、今、千夜さんが仰ったような結論には、辿り着けなかったと思います。それは、千夜さんが見つけた、千夜さんだからこそ辿り着けた答え、だと。……とても愉しく、愛おしい物語でした。
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