白雪千夜「アリババと四十人の盗賊?」
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208:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:32:08.64 ID:tRJaplXx0
「念には念を入れていたのです。朝一番、誰にも見られぬように連れ出し、目隠しをし、口止めをした。家に送り返した時には、後を付けられないよう暫く見張った。年老いた靴屋からアリババの家が割れる心配のないように。

 ところがこのお調子者のババ・ムスタファは、変装した盗賊が街へやって来ると、死体を縫った仕事について喋ってしまいます。それをやった家までは目隠しをしていたので教えられないと断るも、もう一度目隠しをすることで、なんと、歩いた道を再現してしまうのです。しかも三回同じことを、全て正確に。もはや必然的に、ムスタファ老によって、盗賊たちはアリババを襲う足掛かりを得た。

 もちろんモルジアナにとっても、誰にとっても予想出来ない事でしょう。一方はゴマ≠フ一言をすっかり忘れてしまう物語で、他方は目隠しをされて一度、せいぜい一往復歩いただけの道を、完全に記憶してしまうなどというのは。
以下略 AAS



209:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:32:52.92 ID:tRJaplXx0
「先程、カシムが悪徳によって魔法の言葉を奪われた、としました。ヴァルシー写本のアリババが信仰で言葉を取り戻した事に照らして、これは美徳によって見えざるものの肯定を、悪徳によって否定を受ける物語なのだ、と。ムスタファ老にも同じことが行われたのではないでしょうか。

 ムスタファ老は少なくとも、並外れた記憶力の持ち主として物語に登場したわけではありません。ですから、元々それを持っていたわけではなく、悪徳を持った者へ下る裁きの為に、経路≠ノついてのみ盤石の記憶を与えられた、と考えることも可能です。それが彼の奇跡のような記憶力の正体だったと。

 カシムが嫉妬の為に、盗賊たちが誇りの為に、総じて傷付けられた名誉への固執という悪徳の為に滅んだように、この筋書きにおいて、悪因が悪果をもたらすならば、悪果は悪因がもたらすものと前提するならば、そしてこの物語の悪因≠ニは悪徳を抱くこと≠セとするならば、ムスタファ老が盗賊を導くという悪果は、アリババやモルジアナの側で、誰かが悪徳を抱いたという悪因が導いたものだといえるでしょう。そしてアリババは一貫して美徳の象徴であり、彼が考えを変えるような場面はこの物語にはありません。
以下略 AAS



210:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:33:20.41 ID:tRJaplXx0
「それと明示する描写はないところからの、こういう仮説形成になりましたが、モルジアナは復讐心を抱いたのですよ。だから本来、滅ぶ側の存在だったのです。

 ですが、最後には打ち勝った。

 モルジアナはどこかで美徳、未来志向を手に入れたのだといえる筈です。悪徳を、過去の名誉を、復讐を振り切って、未来の為に戦ったのだと。その為に見えざるものの恵みを、筋書きの肯定を享受したのだと。なにぶん結局、彼女は滅ばずに済んだ。魔法の言葉を奪われることも、盗賊たちの策謀を破れず倒されるということもなかったのですから。
以下略 AAS



211:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:33:48.76 ID:tRJaplXx0
「前に、邦画を見ました。アイドルの仕事の幅を見ようという事で、男性アイドルではありましたが、その主演の映画。で、国会議員の葬儀を行うシーンがありました。けっこう豪華な式場で、参列者も大勢なのですが、中には大袈裟に、一定の節や旋律のようなものを付けながら、嘆き悲しんで葬儀を、…… まあ、盛り上げる、ような。そういう役割をこなす人々が居たのです。記憶に残りました、偉い人だと葬儀はああいうものになるのか、と。泣き女、というやつですね。

 『アリババ』にも、これが登場します。カシムの葬儀です。モルジアナもカシムの妻も、悲痛な声を上げ、髪をかきむしる。それから、別の女たちも駆けつけ、遺族と共に泣き叫び、悲しみの声であたりを満たす。そういう《しきたりなのです》。平凡社のものでは、同じシーンに注釈が付けられています。駆けつけたという女性たちについて、彼女らが《ナーイハート、泣き女》である、と。《ナーイハ》が泣き女を意味し、《ナーイハート》は複数形になります。

 ですが、この泣き女≠ノは謎がある」
以下略 AAS



212:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:34:42.22 ID:tRJaplXx0
「イスラム教では、不幸に際し、その故人の為に泣き叫んで悲しむことを戒めています。
 人は神の定めた運命による死を迎えると、墓穴の中で終末の審判を待つ。死は来世への通過点なのです。そしてこの定命∞来世≠ニいうのが、ムスリムの信ずべき六つの条項、六信≠フ要素なのですね。

 死は神に与えられるものであり、また、完全なる終わりではない。だから、感情のままに涙を流すことをまでは戒められませんが、泣き叫び、髪を掻き毟ったりするやり方で強く悲しみを表現することは、神の定命=A来世≠ヨの不信仰だ、という事になるのです。

以下略 AAS



213:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:35:08.75 ID:tRJaplXx0
「しかし、イスラムの教えに反する内容だからといって、このシーンがガランの誤解や完全な創作によって生まれたものだとはいえません。

 十世紀のムスリム、アル・ハマザーニーによるマカーマート≠ナはイラク、十一世紀のアル・ハリーリーのものではペルシャ、十九世紀の紀行文、ジェラール・ド・ネルヴァルの『東方紀行』によればエジプトと、イスラム圏各地の風俗を窺える記述に、泣き女を雇って悲しみを表す人々が登場するのです。立場や地域差もあるのでしょうが、実際、ムスリムの人々も不幸には泣き叫ぶものなのです。

 この背反には、きっと意味がある。
以下略 AAS



214:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:35:44.72 ID:tRJaplXx0
「グリーフワーク≠ナす。死別という悲嘆に打ちのめされ、受け止め、向き合い、立ち直っていく、そのプロセス。

 悲しみに頬を打ち、大勢で声を上げることを、人々は本能的にさえ必要とした。そうやって、愛する者の死を明らかなものとして認め、受け入れることが必要だった。

 預言者ムハンマドのように強ければ、静かに涙を流し、あるいは長い間引きこもるというやり方で悲しみと向き合うことも出来たのでしょう。しかし、そうでない人々は、やはり嘆かずにいられなかった。泣き女に悲しみの誘いを受けることが、故人との別れを実感することや、やがて立ち直っていくことに大きな効果をもたらしたのです。
以下略 AAS



215:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:36:16.14 ID:tRJaplXx0
「泣き叫んだのは《しきたりなのです》とありました。だから一読、モルジアナは悲しんだわけではないのか、との印象を受けました。あくまでアリババに頼まれた仕事、盗賊の追跡を振り切る作戦として、カシムの葬儀を取りなし、しきたりの為に泣いて見せたのか、と。

 ですが、やはりモルジアナは、心から泣き叫んだのではないでしょうか。内に抱えた悲嘆の発露として、主人との離別を受容するプロセスとして。

 深い悲しみに際し、しっかりと感情を表した。泣いて、喚いて、髪を掻き毟って、それでようやく、別れを乗り越える為に、踏み出すことが出来た。……時を、動かした」
以下略 AAS



216:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:36:44.69 ID:tRJaplXx0
「そして、今度はアリババを守ることに全てを捧げると誓った。未来へ向き直ったのです。彼女は悲しみを受け入れた。悲しみに抗うことを辞めたのです。そうやって美徳を手に入れた。主人を守れなかった自責、過去の名誉への拘りを乗り越えた。

 だから、モルジアナは盗賊たちに打ち勝ったのです。彼女は悲嘆を受け入れ、しっかり向き合った。だから、本当の名誉を手に入れた。

 この物語のハッピーエンドは、そういう仕掛けだったのです」
以下略 AAS



217:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:37:17.61 ID:tRJaplXx0
「冗長だったようですが、それが私の考えです。
 この物語では、過去の名誉という感情に拘ることは重い罪となる悪徳だった。カシムも盗賊も、その呪いに抗えなかった。
 モルジアナさえ囚われた。だけど、彼女は生き残った。きちんと泣いて、振り切ったから。
 
 だから、――
以下略 AAS



218:名無しNIPPER[sage saga]
2020/12/02(水) 02:37:43.49 ID:tRJaplXx0
  
 だからモルジアナは、幸せだったと思います。幸せになっていいんです。
 
 だってこれは、きっと、自分が幸せになることを許す為の物語なんだから」
 


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