29: ◆U.8lOt6xMsuG[sage]
2018/10/19(金) 01:25:43.88 ID:TYKVB7XU0
比奈のマンション前まで来る。流石に涙は引っ込んでいた。代わりに恥ずかしさとか、いたたまれなさが僕らの間にあった
僕の、プロデューサーとしての最後の仕事は、比奈を無事家まで送り届けること。それまで、涙を流したくなかったのにな
「……」
「……」
互いに無言のまま、階段を一段ずつ上っていく。いつか比奈が「ダイエットのためにエレベーターじゃなくて階段を使うようにした」と言ってから、僕たちは階段を主に使うようになった。たまにエレベーターも使うけど
309号室に着く。僕の仕事もそろそろ終わる
「それじゃ、また」
「はい、また」
比奈が鍵を開け、扉の中に消えていく。これで完全に(先輩の言葉に従うのなら)、荒木比奈はアイドルじゃなくなって、僕も彼女のプロデューサーじゃなくなった。
終わった瞬間。それを一瞥してから、僕は来た道を帰ろうとして振り返る
そのとき。
閉まったばかりの扉が開き、その間から比奈が顔を出した。そのまま通路に出てくる。来るも服も、さっきまでと一緒だ
「……どうしたの?」
「あっ、いやぁ〜そのぉ……もうこれで、アタシはアイドルじゃなくなっちゃったじゃないでスか」
もじもじしながら、比奈が言葉を紡ぐ。頬が赤いのは、寒さのせいか、それとも。
「だから……その……Pさんに」
「待った」
「へ?」
「……そこから先は、僕に言わせて欲しい」
「っ……!」
彼女が何を言おうとしているのか、何を意味しているのか、大体分かった。……間違ってたら、恥ずかしいけれど。けど、いつかは言おうと思っていた事柄だから、今ここで言わせてもらおう
頬を染めた彼女の前に立ち、見つめる
荒木比奈は王道が好きだ。この五年間で、僕はそういう風に彼女の事を捉えていた。ベタで、良くあるようで、みんなが好きなものが、彼女は大好きなんだ
だから、花束も指輪もないこの状況だと、王道のそれから外れてしまう。だから、せめて王道らしく、男の僕からこの言葉をかけたかった
「荒木比奈さん」
彼女の手を取り、名前を呼ぶ。
今、君に渡せる指輪は持っていない。だから、今度一緒に買いに行こう。君が好きなものを一緒に選ぼう。
今、君に似合う花束も持っていない。だから、君にぴったりな花言葉を調べて、本数をそろえて、今度渡すよ
今、君に伝えられるものは、言葉しかないから。心を込めて言う。どうか、聞き逃さないで欲しい
「僕と――――――――」
誓いの言葉は、案外スルッと、僕の中から出てきた。
彼女は、少しの涙と、満面の笑顔と、二文字の言葉で応えてくれた
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