21:名無しNIPPER[sage saga]
2017/07/01(土) 22:19:18.10 ID:WMIgWMbh0
*
頭に浮かぶ楽譜は終わりを迎え、私は指を止めた。
ごく簡単な曲目の演奏。
それなりの経験を積んだピアノ奏者ならば誰だってできるような易しいものだったけれど、それでもプロデューサーは心からの拍手を鳴らした。
「お見事でした。相変わらずのお手前ですね」
「ふふっ……ありがと。……そろそろ時間よね?」
「ええ、そうですね。行きましょう」
少しばかり心配性の彼は、開いた手帳と左腕に巻いた腕時計を見比べる。まだ余裕はあるはずだが、このあとは仕事の予定が入っていた。
立ち上がり、カバーを下ろして私が使う前の状態にピアノを戻す。
「……私の右手になってください」
少し離れた位置に立つ彼の横顔を見つめながら、聞こえないように細く小さく呟いた。
声は私の想定通りに完全には届かなかったようで、怪訝な表情をしたプロデューサーの顔がこちらを向いた。
「……何か言いましたか?」
「ううん、何も」
想い人にそう告げたのは、シューマンだったか、バッハだったか。過度なピアノの練習で右手が麻痺し、動かなくなってしまった音楽史に残る偉人。
もう大切なピアノが弾けない。心に空いてしまった穴を、貴女に埋めてほしい。そんな思いを恋する相手に打ち明けた。
素敵な言葉だ。本心から思う。
……だけど、私からはそうは伝えられない。
何も失いたくない。貴方を何かの代わりになんてしたくない。
ずっと、その頼もしい手を私の手に添えていてほしい。
だから、私が言うならばこう。
陳腐だし、ちっとも詩的じゃあないけれど。
『私の隣で、いつまでも一緒に』。
私一人の、たった二本の腕じゃ奏でられない音楽も人生も。
貴方と二人、四つの手があれば、きっと。
「……ご静聴ありがとうございました。なんて、ね」
*Fine(フィーネ)
【おしまい。】
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