22: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:30:43.67 ID:5kzXp0UHO
病院から出ると、青黒い分厚い雲が太陽を完全に隠してしまっていた。集合した雲はひとつの生き物のようで、上空を吹き荒ぶ強風に運ばれる様子は、まるで空を蛇行する蛇のようだった。風の唸りは、鈍く光る蛇の運動によって引き起こされているかのようで、その振動が地上に降り注ぐと病院の窓を一つ残らず揺さぶった。ガタガタっとうるさい音が病院全体から響いている。明日の天気が不安になるような空模様だった。
埼玉の家に戻ってくると、玄関にスニーカーが爪先を揃えて扉の方に向け、置かれていた。美波がリビングへ行くと、まだマフラーを巻いたままの圭が、IHヒーターの上にヤカンを置き、コーヒーを淹れるために加熱をしているところだった。厚めのカーディガンの分だけ着膨れした学生服の袖から、寒さで青白くなった手のひらを出し、ヤカンからの放熱を受け止め、手のひらを温めている。
23: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:31:59.28 ID:5kzXp0UHO
ブラックのまま手渡されたコーヒーの味にいよいよ舌がうんざりしてきた美波はソファから立ち上がり、キッチンに砂糖とミルクを探しに行った。弟が座っているキッチンの椅子の背に、すでに首から解いたマフラーがかけられている。弟のカップのコーヒーは黒い液体のままだった。ぬるくなって湯気もたたない黒いコーヒーとは対照的に、圭の手のひらはカップの温度が移ったのか、しっとりとしたピンク色に染まっている。
単語カードを繰る音と、コーヒーをかき混ぜるスプーンがカップに当たるカチャカチャ音が交互に、そして十回に一回くらいの割合で同時に鳴った。カップの中身が乳白色で中和されきった。美波がカップから弟に視線をやると、手元の単語カードは残すところあと数枚というところだった。
24: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:33:25.26 ID:5kzXp0UHO
圭の二度目の返答を聞いた美波は、唐突に理解した。弟は、わたしの求めるものを求めていない。
圭はコーヒーを飲み終わると、カップを手に持ったままの美波の横に立ち、空になったカップを水で濯いだ。流しで水を切り、食器乾燥機に洗ったコーヒーカップを置くと、椅子にかけてあったマフラーと床のバッグを手に持ち、二階の部屋へと消えていった。
25: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:34:39.52 ID:5kzXp0UHO
圭は姉のことを嫌っているわけでも、非難しているわけでもない。美波が圭と結び直したいと願っている関係性に、単に関心がないだけだった。弟は、家族の枠組は守られているのだから、なにも不満に思うことはない、とでも考えているようだった。呼びかけられれば、応える。それだけ。子どものころの思い出の品物がふたたび目の前に帰ってきたとして、それをなつかしむことはあっても、それをふたたび子どものころのように使うことはあるのだろうか。その品物が存在することだけに満足して、またどこか押入れにでもしまい、現在の生活に戻るのが、大方の人間のすることだろう。
弟は、現在の生活に過去の面影がなくても平気なのだ。
26: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:36:05.15 ID:5kzXp0UHO
そんなふうに読めるのは、あまりにも個人的な事情に引きつけて詩を読んだせいだ。しばらくしてから美波はそのように思い直し、止まっていた手を動かして詩の続きを読んだ。また美波の手が止まった。ブレイクの詩によって動揺の次にもたらされたのは、恐怖だった。詩の後半で、先の言葉を側で聞いていた司祭が少年を引っ立て、両親の懇願もむなしく、涙に咽ぶ少年を火刑に処してしまう。
《そして少年を聖なる場所で焼き殺した、/そこは多くの者がこれまで焼き殺された場所。/両親が泣き叫んでもむだであった。/こんなことがアルビヨンの岸辺で今でも行われているのか。》
27: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:37:11.72 ID:5kzXp0UHO
ーー七月二十三日・美城プロダクション・CPルーム
美波はソファに身を沈めて、深く息を吸い、気持ちを切り替えようとする。
28: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:38:23.12 ID:5kzXp0UHO
記憶野と想像野にどっちつかずのまま架け橋のように横たわる火刑のイメージ。それはやがてもうひとつ変化を遂げた。黒く焦げた肉体が千切れて一部となり、その一部がまた千切れ、粒子の段階まで分解される。周囲に漂いはじめた粒子は、風もないのに運動を見せはじめ、洪水のように押し寄せてきては視界いっぱい黒に染め上げる。ここ一ヶ月、美波が夢を見るときはこのようなノンレム睡眠と見分けがつかない、深海のような暗黒の光景ばかりが夢に出てきた。なにも見えないのに、これは夢だとわかるのは奇妙だな、と美波は朝起きるたびに思った。
夢を見た日にアナスタシアと会うことになると、夢と彼女の対照に美波はそのたびごとに驚いた。透き通った結晶体のような容姿をしたこの少女はけっこう子どもっぽいところがあり、昨夜電話で話したときも美波とおしゃべりできるからという単純明快な理由を隠すこともなく、声を弾ませていた。リビングのテーブルに置きっ放しにしていたスマートフォンをさきに夕食を済ませ自分の部屋に戻ろうとする圭が持ち上げ、美波に手渡した。画面にははじめて見る番号が表示されていた。通話ボタンをタッチし、スマートフォンを耳にあてる。スピーカーから聞こえてきたのは親しい馴染みの声だった。
29: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:39:41.55 ID:5kzXp0UHO
アナスタシア「ミナミ……?」
美波「ううん、なんでもない。新しいスマホはどう?」
30: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:41:13.07 ID:5kzXp0UHO
アナスタシア「ミナミ、気持ち……落ちつきました?」
まるで美波の様子が見えているかのようにアナスタシアは言った。
31: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:42:17.63 ID:5kzXp0UHO
電話を終え、美波は夢についてひとり考え込んだ。精神分析に頼らなくても原因は、弟を中心にした家族の現在にあるのは明らかだった。もはや、過去は取り戻せないのだということを認めるべきなのだろう。弟ほど極端でなくても、わたし自身、過去の出来事から優秀であろうとし、それを実践してきたのだから。わたしたち家族は、すでに離散してしまったのだ。その過去を都合良く忘れ、むかしの家族を理想化し、その再現を試みることほどむなしい行いもないだろう。
過去は牢屋のように堅固としているかと思えば、煙みたいにかたちがなくなったりもする。資料が残っているような歴史的な過去の出来事についてならまだいい。それならやりようはある。だが記憶だけが頼りの、個人的な思い出の場合はそうはいかない。思い出はひどく気まぐれで、子どもが裏切ったときみたいに手酷い痛手を与えることもしばしばだ。
32: ◆8zklXZsAwY[saga]
2017/01/03(火) 00:43:32.60 ID:5kzXp0UHO
徒労をおぼえた美波が、逃避的に考えを別のことにむけたときーー自分自身のすこしさきの未来、七月二十七日。美波の二十歳の誕生日のことーー部屋のなかに三人の少女が入ってきた。レッスン終わりのニュージェネレーションズだった。
凛「お疲れさま。美波もレッスン終わり?」
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